資料紹介 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 ―神奈川大学日本常民文化研究所所蔵『茲山魚譜』の解題を中心に― Duplicate Copies of Korean Fish Geneologies Transcripted over the Korea National Border Annotated Bibliography of “茲山魚譜[Hyonsan-Opo]” archived in Institute for the Study of Japanese Folk Culture, Kanagawa University 中野 泰 NAKANO Yasushi 1.はじめに 紀から 19 世紀の朝鮮半島で活躍した実学者で ここで紹介する『茲山魚譜』は、博物誌、小 あ る。若 銓 は、丁 若 鐘(1760-1801)、丁 若 鏞 説、テレビ等で良く取り上げられ、韓国におい (1762-1836)の兄にあたる。若鐘はカトリック ては大変良く知られた魚譜である。 「魚譜」と 伝道会長をつとめたことで、若鏞は実学を集大 題した書籍は一般にポピュラーではない。しか 成したことで著名である(例えば、『牧民心書』 も、朝鮮半島の魚譜であるとすればなおさらで 『経世遺表』等の著書がある) 。 ある。ゆえに、日本の博物誌や漁業史において 若銓は、実学者李瀷の学問へ私淑し、その門 もこの書に言及した形跡はなく、この書を知る 人である権哲身のもとで学び、正祖の時代に、 人は大変に限られていると思われる。しかし、 典籍や兵曹佐郞をつとめ、王命によって『嶺南 渋沢敬三は、 『茲山魚譜』の写本を所蔵してい 人物考』を編纂した。純祖の時代にカトリック た。魚名研究者としてはあり得ることである への禁圧が厳しくなると、若鐘は命を落とし、 が、集大成した『魚名の研究』には『茲山魚譜』 若銓・若鏞は信奉したかどで配流された(1801 の名は出てこない。そして、また近年、 『茲山魚 年の辛酉邪獄) 。若鏞は慶尚南道長鬐へ、若銓 譜』に関連する書籍が日本へ翻訳されてもいる は全羅道の薪智島に流された。翌年、若銓はさ [李 2002] 。日本にとって、朝鮮半島の魚譜は らに遠い牛耳島へ流される。1808 年には自ら いったいどのような存在なのであろうか? 黒山島へ移り(若鏞は全羅道の康津へ)、復性斎 本解題は、 『茲山魚譜』(神奈川大学日本常民 を建てて著述を行い、『茲山魚譜』(1814 年)を 文化研究所所蔵の写本)の紹介を行い、渋沢敬 ま と め た(「先 仲 氏 墓 誌 銘」[丁 1969:第 15 三所蔵の写本入手経緯を明らかにすることを通 巻:38-42]) 。 じて、朝鮮半島の魚の知識が日本へ伝播したこ 若銓には他に『論語難』『東易』の著述があ とが持つ意義についてまとめた小文である。 ったが、『松政私議』、『茲山魚譜』の二著のみ 尚、その影印全頁を本稿の後に資料として掲載 現在に伝わる。『松政私議』(1804)は、伐採さ する。 れ尽くし、荒廃した山林の現状を捉えながら、 従来の松の木伐採禁止政策を批判し、代替政策 (1) 『茲山魚譜』 を提言した書である。若銓は、伐採禁止に関わ 【著 者】 『茲 山 魚 譜』の 著 者 丁 若 銓(1758- る権限を管轄していた官吏(水営=水軍節度使 1816)は、全羅南道で、父丁載遠(1730-1792) の軍営)による百 姓 の収奪の酷さ(全羅南道の と、海南尹氏の間の次男として生まれた。字を 海岸地域で顕著であった)を明らかにし、その 天全、号を巽庵、または研経斎と号し、18 世 官吏の権限の縮小と、積極的植樹策を提示して ペク ソン ― 195 ― す。グチは、全羅道沿岸を回遊する地域特産の 表 1 『茲山魚譜』構成・内容 巻 区別 1 鱗 20 72 無鱗 19 43 甲殻(介)の類 12 66 類とし、後者を種として整理すると、巻一にお 海蟲 1 4 海禽 1 5 い て は、20 類、72 種 の 魚 類 が 整 理 さ れ て い 海獣 1 1 海草 1 35 55 226 2 3 合計 類 種 魚である。石首魚の項目には、細項目で大鮸、 鮸魚、 水魚と 3 種に分けられている。前者を る。鯊魚、すなわち、サメの類は、18 の種類 が記載されている。中には、漢字表記で分かり づらい点もある。例えば、強項魚とは、俗名道 尾魚と表記されている。道尾魚を韓国語ではト 典拠:[丁(明) 2002:10-11] ミオと読むことができ、鯛であることが分か いる。実学者としての相貌が端的に示されてい る。「巻二 無鱗・介」においては、無鱗で 19 る書である。合理的な思考を有する学者として 類・43 種、介で 12 類・66 種が記されている。 の性格は、現存していない『論語難』『東易』 無鱗の記述は鱝魚で始まるが、これは、黒山島 などの書に連なるものであろう。これに対して の名産として知られるエイを指し、8 種が記さ 『茲山魚譜』はやや特異な内容の書である。 れている。以後、ウナギ、フグなどと続く。中 【著述の目的】 『茲山魚譜』は嘉慶甲戌の年、 には、人魚など、実在しない魚類も含まれてい 即ち、1814 年に完成している。丁若銓は黒山 る。介の内容は、海亀、蟹、鮑などである。多 島へ 1808 年に来ており、著述に 6 年ほどの年 い種としては、蟹についての 17 種、螺につい 月が費やされた。タイトルの茲山とは、配流さ ての 13 種等である。「巻三 雑」の記述は、海 れた島への畏怖によって、黒山を「茲山」と言 蟲、海禽、海獣、海草の 4 類、45 種で構成さ い換えたものである。この書物は玄の音をとっ れている。内容は、虫、カモメなどの海鳥、オ て、韓国語で「현산어보(=日本語読みで「げ ットセイ(海獣)、ワカメや海苔などの海草で んさんぎょふ」 ) 」と読むとも理解されている。 ある。海草については 35 種を記載しており、 著者は、序文で目的を、以下のように述べて 本書中で最も多い。 いる。黒山島の魚類は大変豊富であるが、その 以上のように本書には、計 55 の類と、226 名が分かっているものが少なく、博物学者はこ の種の魚介藻類が記載されている(表 1 )。グ れを詳しく見て、海禽や海菜にまで対象を広げ チ、エイ、蟹などと冒頭に大きな分類を配置 (1) を作る必要がある。ただし、本草 し、その下位区分として、種の数を多数記載し 書を参照しても、名前が分からないものがあ ている。グチ、エイなどは、全羅南道地域の産 り、あるいは、昔から名前がなく、考えること 物であり、地域的な魚介類の性格が『茲山魚 自体できなかったものが多かった。そのため、 譜』へ反映されているということができる。 若銓は、新たに名前を創って対応し、後の知識 【記 述 形 式】 『茲 山 魚 譜』の 記 述 は、名 称、 人(「君子」)がこれを更に修正し、豊かにする 形・生態、食(味)、漁獲方法、用途などを順 ことによって「致病利用理財」を良くする専門 に記す体裁を取り、観察、伝聞、文献に基づい 的な人材(数家)へ役立つところがあればこの てなされている。海鮀の例を見てみよう。俗名 上ない、という。 を海八魚という。体の大きさや形容について、 て「譜」 【構成】 『茲山魚譜』は、政治や政策とは異な 頭や尾がなく、僧侶の笠に似ているとし、肩の って、全羅南道の黒山島周辺の魚介類を縷々叙 下の足状のものが数十尺もの無数の長髪を下に 述している。本書は 3 巻で構成されている。 伸ばしたようなものだという。この記述から海 「巻一 鱗」の記述は石首魚から始まり、鯔 八魚とはクラゲであることが分かる。鯛に食べ 魚、鱸魚と続く。各々グチ、ボラ、スズキを指 られる様相のほか、煮たり、刺身で食べたりす ― 196 ― 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 る食べ方、裂いてみた中身の様相等も描いてお て、孝弟を根本に置かねばならないという趣旨 り、とても具体的である。観察に基づく記述が で 返 信 し て い る(「上 仲 氏」[丁 1969:20 巻: 目立つがクラゲを裂いて中身を見たという記述 19-20] ) 。この優れた実学者からの毅然としたコ は、 「昌大曰」というように、昌大という人物 メントが、兄の若銓をして、図を入れない判断 から聞いた話である。序文によれば、島の張徳 をさせる力があったようである。結果として図 順と張昌大について触れながら、若銓がこれら は省かれ、 『茲山魚譜』の特徴が際だった。日 の人物の人となりに信頼を置き、島民からの伝 本で知られる魚譜の多くは、図画が中心であ 聞が有用だと受け止めていたことが窺える。 り、例 え ば、栗 本 丹 洲(1756-1834)が 描 い た 文献としては、 『爾雅翼』 『玉篇』 『江賦』 『博 物志』 『本草綱目』 『異苑』 『唐熙字典』ら中国 『皇和魚譜』は色彩豊かで、精緻な魚の絵画描 写が魅力となっているからである[福島 1978]。 の古典が挙げられており、 『本草綱目』を良く 参照している。考証の際、 「エ案」という表現 ( 2 )研究史 が頻出する。エとは、若鏞の弟子である李エを 『茲山魚譜』を取り上げた研究は、漁業関係 指している。若銓は、普段から弟の若鏞との間 が目立つ。魚類学者鄭文基は、リンネに由来す で書簡を交わしていた。 『茲山魚譜』の草稿を る生物学的な学名ではなく、朝鮮半島固有の名 弟へ送って見て貰う際、若鏞は最も信頼してい 称を記述したものとして、丁若銓の営みを評価 た弟子の李エへ託し、李エが考証を行った結果 している。漁業史研究家朴九秉は、スケトウダ を若鏞が兄の若銓へ返信し、若銓が『茲山魚 ラを除いて重要な魚類が対象とされている点、 譜』へ盛り込んだものと考えられる[李 2002]。 ニシンの回遊状況と資源の豊富さといった、資 記されているのは単に魚介類の生態だけでは 源変動にまで言及している点を特筆している ない。例えば、トビウオの項目では、トビウオ [朴 2001] 。丁明炫は、博物学的検証を行い、 が新暦 6 月 6 日の頃(芒種)、海岸に集まり、 『茲山魚譜』の評価として、①体系的分類の創 産卵をすること、漁夫達が松明を持って照ら 出、②観察の詳細さ、③文献的考証、④創名の し、銛(鉄鐖錐)で捕ること、その産地が紅衣 4 点 を 挙 げ る こ と が で き る と い う[丁(明) 島と可居島(紅衣可佳島)であること、黒山島 2002] 。 でも時々に現れることを記している。当時の漁 今日、『茲山魚譜』に対する関心は広く、博 期、漁獲方法、漁場などについても具体的に記 物学的研究に加え、国語学的研究、科学技術 述されている。歴史資料としての価値が認めら 史、キリスト教史など、丁若銓の人物や思想に れる。緑條帯の項では、この海藻と楮とを混ぜ 注 目 し た 多 方 面 の 研 究 が 進 展 し て い る[김 て紙を製すれば、より良いと述べており、実利 1981、정 1990、서 1992、허 2006] 。そ の 理 (産業)への関心が認められる。序文の「致病 由は二つ考えられる。一つは、人物自体の魅 利用理財」を体現しているくだりと言えよう。 力、もう一つは、人物をとりまく地域文化と歴 『茲山魚譜』には絵が 1 枚も掲載されていな 史の魅力である。 い。その理由は定かではないが、弟の若鏞の影 丁若銓の魅力は、魚介類の生態にとどまらな 響である可能性が指摘されている[李 1988]。 い幅広い叙述がなされていることから窺われ 両者の間で交わされていた手紙で『茲山魚譜』 る。また、若銓は、牛耳島の魚商である文淳得 は「海族図説」と題されている。この題からは が、1801 年にエイを買いに出たまま流され、 書籍に絵図を入れることを構想していたことが 沖縄、フィリピン、中国を漂流し、1805 年に 推察されるが、若鏞は、 「海族図説」という書 帰郷した 5 年間の漂流体験の口述を筆記してい 物は大変な奇書であるので、簡単に描ける代物 る[丁 2005(1809)、多和田 1994]。若銓は、 ではなく、学問の主旨に則り、大綱を予め定め 厳格な学問という枠を超えた柔軟な思考と関心 こうぞ ― 197 ― を有する人物であったと考えられる。若銓が、 魚の博物記録を『朝鮮日報』へ連載していた 配流の罪を返上できず生を全うしてしまった点 (1974 年 ~) 。そ の 中 で、こ の 経 緯 を 含 め て、 も、現代人の共感をよんでいるものと思われる。 『茲山魚譜』が紹介された(1974 年 2 月 6 日、4 李泰沅は『茲山魚譜』をとりまく、黒山島の 面「新博物記:5」) 。その記事に知識産業社が注 自然、生活、歴史と書誌的事項を活写し、張昌 目し、知識産業社から影印と韓国語訳をあわせ 大など、 『茲山魚譜』に登場する人物の末裔や て出版することになった。 墓地を跡づけつつ、住民の捉える魚介類の豊か 鄭が渋沢敬三へ献呈した写本については、こ な様相を伝承的性格も含めて描いている[李 れまでその所在が不分明であった。私の調査の 2002] 。李泰沅の試みは、地道な聞き取りやフ 過程で、この写本は、現在、独立行政法人水産 ィールドワークによって、 『茲山魚譜』の魅力 総合研究センター中央水産研究所(以下、中央 を、全羅南道という地域の歴史や文化を背景 水産研究所と表記する)の図書資料館に所蔵さ に、現代的な感性に立って描こうとしたもので れていることが判明した。この写本には、ペン ある。 『茲山魚譜』は、漁業の専門家にとどま 書きの本文に加え、鄭文基による序文が付され らず、その執筆者である若銓や、その背後にあ ている。そこで記述された寄贈の経緯の内容 る歴史や文化といった韓国固有の魅力をもっ は、知識産業社版と若干異なっており、新たな て、多くの読者を今日においても惹き付けてい 知見を得ることができる。この点については、 るのである。 鄭文基の他の文章とあわせて、以下、詳しく見 てゆくことにする。 ( 3 )書誌 本誌で紹介する写本は、上記の写本とは異な 『茲山魚譜』の原本は未だ確認できず、韓国 る。確認したところ、この内容は渋沢敬三が受 に現存するのはいずれも写本である。鄭文基 け取った写本と密接に関係することが分かっ は、写本の所蔵者を探索、訪問し、校訂を重 た( 2 )。具体的には、鄭文基が渋沢の求めに応 ね、 『茲山魚譜』の影印に韓国語訳を付して知 じて作成した写本の底本と考えられることが分 識産業社から出版した(1977 年)。刊行のいき かったのである。 さつは、鄭文基の序文によると以下の通りであ る。1943 年、当時日本銀行副総裁であった渋 沢敬三が、古文献に基づく水産調査研究を進め 2.祭魚洞本と常民研本 ( 1 )祭魚洞本 ていた鄭文基に面談を求め、京城の朝鮮ホテル 渋沢敬三の求めに応じて、鄭文基が筆写・校 で会談した。渋沢は、研究状況と出版計画を尋 訂した写本は、渋沢敬三が所蔵していたもの ね、鄭の成果を出版するよう促した。また、予 を、渋沢の死後、祭魚洞文庫をひきつぎ、中央 算等を全面的に支援すると申し出た。鄭は、 水産研究所図書資料館が所蔵しているものであ 『茲山魚譜』を日本文に翻訳出版することを約 る(『祭魚洞文庫(改訂・増補版)』〈水産庁水産資 束した。鄭は、 『茲山魚譜』の内容の調査・整 料館〉、請求記号 A281-T5)。 理に着手し、 「原本二冊」を新たに作成して、 【筆写者】 筆写者は、全羅南道出身の魚類学者 原本一帙を渋沢敬三に送った[鄭 1977:序]。 鄭 文 基(1898-1995)で あ る。早 稲 田 高 等 学 送った年月日は記されていないが、以後、第二 院、松山高等学校、九州帝国大学を経て、東京 次世界大戦が終局を迎え、消息がとぎれた。戦 帝国大学にて水産学を学んだ。魚類学の研究と 後、東京で再会した際に、鄭は、渋沢が所蔵す ともに水産行政に携わり、かたわら生涯にわた る原本の無事を確認したが、後、渋沢は死去 って、朝鮮半島における水産古文献の蒐集と研 し、出版計画は反古となってしまった。折し 究を行った。主著として、魚や魚名の譜や魚類 も、鄭は「新博物記」と題して自らの研究歴と 図鑑のほか、随筆が知られている[鄭 1934、 ― 198 ― 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 1954、1961、1968、1974、1977] 。 た。鄭文基に渋沢敬三が会ったのは、1943 年 6 【所 蔵 者】 所 蔵 者 は 渋 沢 敬 三(1896-1963)で 月のことである。旅譜によれば、渋沢は、京城 あった。渋沢栄一の孫として東京で出生。東京 の 朝 鮮 ホ テ ル に 6 月 19 日 に 宿 泊 し、小 磯 総 帝国大学経済学部を卒業、横浜正金銀行、第一 督、田中鉄三郎、穂積京電社長、水田直昌の名 銀行、東京貯蓄銀行、渋沢倉庫等の取締役。日 が挙がっている[渋沢 1993:359]。朝鮮総督 本 銀 行 副 総 裁 を 経 て、1944 年 に は 総 裁 に 就 府を初めとする植民地経営の中心人物との面会 任、第二次世界大戦後は大蔵大臣として戦後の の間を縫って鄭文基との対談が実現したのであ 財政処理に当たり、公職を追放された。アチッ ろう。この面談を仲介したのは、「殖産局長穂 クミューゼアムの主宰者として、民俗学、民具 積」であった[鄭 1977]。穂積真六郎(1889- の収集、水産史等の研究を幅広く進め、学際的 1970)である。穂積が朝鮮総督府殖産局長をつ 活動(九学会連合を推進)、後継者の育成、資料 とめていたのは 1932 年から 1941 年までであ 館の設立(国立民族学博物館、文部省史料館、水 り、1942 から京城電気株式会社社長をつとめ 産 庁 水 産 資 料 館)等、多 く の 研 究 者 を 育 て た ていた。渋沢は、鄭文基が蒐集している古文献 [渋沢 1937-1939、1959、1937-1939] 。 を「可及的急速ニ公表」するよう慫慂し、公表 【書誌】 現在の写本は青色の表紙で製本されて の方法を話し合った所、この公表計画で第一に いる。この表紙を開くと、もとの表紙が現れ 着手するものとして「茲山魚譜ヲ出版公開スル る。厚紙を用いたもので、表に『茲山魚譜』と コトヲ相約」した。鄭は、以後、精力的に写 題し、その下にやや小さな字で「原文」と記さ 本・校訂の作業を行い、1945 年 1 月 3 日に序 れている。左下には、祭魚洞文庫の蔵書印があ 文を書き上げ、校訂した写本一帙を渋沢敬三に る。右上には水産庁水産資料館図書の印、右下 郵送で送った[鄭 1977:序]。渋沢の受領は同 には請求記号のシールが貼られている。総 138 年、すなわち敗戦の年である 1945 年の前半で 頁、縦 26cm である。 あったことだろう。後、この写本は祭魚洞文庫 鄭 文 基 に よ る 序 文 は、「平 安 北 道水 産 試 験 へ所蔵された。 (3) 場」 と印刷された罫紙(20 字× 10 行)に日 【校訂】 序文によれば、鄭文基は『茲山魚譜』 本語で記されている(14 頁)。平仮名で記した の原本の所在が分からないため、以下の二つの 魚名へ、漢字を追補し、誤った表記はペンで補 写本を参照したという。 「大正五年十月七日羽 訂してある。本文は、 「李王職輯用紙」と印刷 柴雄輔謄写校了ノ福岡県水産試験場長岡村氏所 された罫紙(24 字× 10 行)を用いて、漢文の 蔵ノ謄本ヲ拝借シ、昭和十八年十一月一日更ニ まま記されている(記載は 22 字× 10 行)。序文 謄写校了シタルモノ基トシ」 、 「他方京城帝国大 と分けて、本文には通しで頁代わりに№が記さ 、 「両書 学所蔵ノ本書(謄本)ヲ更ニ謄本トシ」 れ、本文のみで№ 124(頁)となっている。末 ヲ対照校了シテ此ニ本書ヲ脱稿スルニ至リシ」 尾に、 「昭和二十年一月三日 鄭文基印」とあ という。即ち、①羽柴雄輔筆写・岡村氏所蔵本 る。本文も漢字の訂正がなされ、脱字も追補さ を基とし、②京城帝国大学所蔵の筆写本とを対 れており、校訂の跡が窺える。本文の 115 頁で 照・校訂し、校訂本を作成した。つまり、1943 は、付箋を用いて、163 字が追加されている 年 6 月から 1945 年 1 月までの 2 年半の間に、 (海帯の項目)。この罫紙は、本文の罫が朱であ 鄭 は、複 数 の『茲 山 魚 譜』の 写 本 を 探 索、借 るのと異なり、緑色であるが、やはり 24 字詰 用、筆写、校訂し、校訂本を作成したわけであ めである。なお、桃色の張り付け用の付箋が る。しかし、第二次世界大戦の終結、 「六、二 所々の頁上の余部に付されている。 五 動 乱(朝 鮮 戦 争 の こ と ― 中 野 注 ―)」の た め 【筆写・寄贈の経緯】 序文の記述に従うと、鄭 に、出版は不可能になった[鄭 1958:515]。大 文 基 の 古 文 献 の 蒐 集 は 1930 年 か ら 開 始 さ れ 戦の終結前には、 「東京へ爆撃が続いてお互い ― 199 ― の消息が途切れてしまった」からだ[鄭 1977]。 る人類学の発展に寄与した。関心の幅は、歴史 【日本語訳】 1977 年に出版された『茲山魚譜』 学、考古学、民俗学、人類学と広い。『加藤忠 の序文で、鄭文基は、東京で渋沢と再会したこ 広謫居事蹟』(保全堂、1904 年)、『東北人謬見 とを回顧している。 「解放後 6 年」という記述 考評論』(私家版、1932 年)などのほか、民俗 は正確に何年のことだか定かではないが、「時 学においては、『鼠関日記』の著者として知ら 局が落ち着けば、出版する」と話したという記 れている[羽柴 1991、田中 1991:60、2000]。 述から、占領期の間(1946 年、あるいは、1951 【所蔵者】 所蔵者は岡村治人である。この人物の 年)であることは確かだろう。渋沢が「夫人と 経歴は未詳であるが、福岡県水産試験場長(1929- 一緒に喜び迎えてくれながら、書斎で新たな原 1941)を 12 年間つとめ、同試験場において、毎 本『茲山魚譜』を探し出して私に見せながら、 年のように開催された漁村子弟講習会や漁村青年 無事に保管されて良かったと微笑んでいた」こ 講習において「水産一般」や「水産一般及製造」 と、この時、鄭は、 「日本文の翻訳も解放直前 と題した講義を行っている。著述としては、錦鯉 にみな出来ていると報告した」こと、その後、 。水産試験場 についての文章がある[岡村 1937] 渋沢敬三が没し、鄭は『茲山魚譜』を見るたび 長という実務畑の人物が、どのような経緯で、な に「渋沢氏に申し訳ない思いがこみ上げて来 ぜ『茲山魚譜』を所蔵していたのか、十分に明ら る」と振り返っていたこと等から、鄭文基は、 かにすることができなかった。不明点について かなりの責任感と情熱をもって校訂と翻訳作業 は、継続して調べてゆきたい。 を進めていたことが分かる。この日本語訳は、 ( 3 )常民研本『茲山魚譜』の位置 鄭文基が所持しているという[鄭 1958]。 ―底本の検討― ( 2 )常民研本 丁 が 取 り 上 げ た 写 本 に 加 え[丁(明) 【書誌】 神奈川大学日本常民文化研究所で購入 2002] 、私 は、本 解 題 で 紹 介 す る 二 つ の ほ か し、所 蔵 し て い る 写 本 で あ る。和 装 本(縦 に、嶺南大学校所蔵本、高麗大学校所蔵本の計 26.8 cm、横 18.8 mm)で、 「茲山魚譜 全」と記し 4 種があることを新たに確認した。都合、写本 た箋を表紙に張り付け、表題としている。中表 の総計は 12 にのぼり、2 種は日本に所在して 紙には「魚譜 全」と、下方には「岡村治人蔵」 (4) 。 いることが明らかとなった(表 2 ) と墨書されている。裏表紙には「大正五年十月 『茲山魚譜』の写本間の異同について、丁明 七日 羽柴雄輔謄写校了」と記されている。本 炫は、『茲山魚譜』の八つの写本の中から、欠 文(20 字× 10 行)中には、僅かであるが、朱筆 落語・文章や字句の誤謬等を検討し、原本の内 が認められる。誤字、脱字の補筆がある。 容を推定している[丁(明)2002:7-10]。具体 【筆 写 者】 筆 写 者 の 羽 柴 雄 輔(1851-1921) 的には、字句の誤謬について 44 から 153 にも は、飽海郡松山(現山形県酒田市)出生、別名 及ぶ数の誤謬があること、欠落した語・文章に は、久明、良策といい、古香、石狂、千瓢庵猿 ついては 4 ヵ所あること、筆写年が分かるもの 面などと号した。漢学を修め、松山藩校(庄内 は 3 種にとどまること、同系統と判断される写 酒井家の分家)里仁館の教師、後、酒田・鶴岡 本が 3 種(一石本、想白本、釜慶大本。以下、名 の伝習学校を修了、庄内各地の小学校で教師を 称は表 2 の仮称に準じる。 )あることを指摘して つとめ、明治 39 年東京帝国大学史料編纂掛、 いる(5)。そして、写本の成立年代を確認できる その後、慶應義塾図書館に勤務、大正 10 年在 3 種が、古い順に、1946 年(国立本)、1956 年 職のまま東京で没した。松山藩家老松森胤保に (一石本) 、1958 年(釜慶大本)であることを明 博物学を学び、明治 23 年、松森を会長とする らかにした。丁は、これらの脱落や誤字等を校 奥羽人類学会を創設することで地方を拠点とす 訂し、論文の付録として『校訂本』も作成して ― 200 ― 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 いる。丁によれば、欠落している語や文章が最 も少ないのはソウル大学校奎章閣所蔵の写本 (嘉藍本)で、これが最も「原本」に近く、西 江大学校ロヨルラ図書館所蔵のものが、字句等 の誤りが最も少ない写本だという。このような 先行研究の整理に則りながら、今回紹介する 2 種の写本の位置づけを探ってみよう。 表 2 『茲山魚譜』写本の所在・所蔵機関 仮称 1 鄭氏本 所在 所蔵者・機関 韓国 鄭朝汐 2 嘉藍本 韓国 ソウル大学校奎章閣 (ソウル大学校) 3 一石本 韓国 ソウル大学校中央図書館 (ソウル大学校) 4 想白本 韓国 ソウル大学校奎章閣 (ソウル大学校) 【 2 種の写本の特徴】 丁明炫が明らかにした 4 5 国立本 韓国 国立中央図書館 6 西江大本 韓国 西江大学校ロヨルラ図書館 カ所の欠落箇所(表 3 )のうち①(「亦今補」と 7 釜慶大本 韓国 釜慶大学校中央図書館 いう 3 文字の欠落)については、常民研本でも 同様に欠落していることが確認できるが、反対 に祭魚洞本には記載がある。②(「蟹」以下に欠 落する記述内容)については、祭魚洞本と常民 研本ともに欠落なく、記載されている。丁が明 8 湖南本 韓国 陳錤洪 9 高麗大本 韓国 高麗大学校中央図書館漢籍室 10 嶺南大本 韓国 嶺南大学中央図書館古文献室 11 常民研本 (神奈川大学) 12 祭魚洞本 日本 神奈川大学日本常民文化研究所 日本 中央水産研究所図書資料館 らかにした 2 カ所の大きな欠落のうち、一方の ③(「鰒」以下の記述)については、祭魚洞本・ 記載の有無が生じた理由は分からない。校訂の 常民研本ともに欠落なく記載され、他方の④ 過程で参照した底本の一つが、京城帝国大学所 ( 「海帯」の記述)についても、両者に記載が認 蔵の筆写本であったからではないかと推察され められる。常民研本と、祭魚洞本との間で①の るが、根拠は間接的であり、あくまで推測にと 表 3 諸写本における欠落等の箇所の対比 欠落箇所等 位置 正文 ① ② ③ ④ ⑤ 錦鱗鯊 (資料写真 17-1 蟹(資 料 写 真 45 右 頁 2 鰒(資料写真 48 左 海 帯(資 料 写 真 66 左頁 2 行)※ 210 頁 行)※ 217 頁 頁 6 行)※ 217 頁 左頁 4 行)※ 222 頁 内表紙の裏へ 貼り紙された 末尾( 「網捕之」以下) 「以為」以下 219 字 「是也」以下 165 字 但し書きの有無 故謂之螯今俗之称蟹 に「亦今補」が挿入 が挿入 が挿入 1 鄭氏本 有 2 嘉藍本 無 3 一石本 有 「謂」以下は無 無 無 有 4 想白本 有 「謂」以下は無 無 無 有 5 国立本 有 「謂」以下は無 無 無 無 6 西江大本 有 「螯」を「敖」と記載 「以為」以下 219 字 無 が挿入 無 7 釜慶大本 有 「謂」以下は無 8 湖南本 有 「謂」以下は無 9 高麗大本 有 10 嶺南大本 有 11 常民研本 12 祭魚洞本 無 有 「謂」以下は無 無 故謂之螯今俗之称蟹 故謂之螯今俗之称蟹 「謂」以下は無 無 無 「以為」以下 219 字 「是也」以下 165 字 無 が挿入 が挿入 無 無 有 無 無 無 「以為」以下 219 字 「是也」以下 165 字 無 が挿入 が挿入 無 無 有 故謂之螯今俗之称蟹 「是也」以下、 「海帯 之帯字」 (9 ~ 10 行 「以為」以下 219 字 目)の「海 帯」の 2 無 が挿入 字が脱落し、163 字 が挿入 故謂之螯今俗之称蟹 「是也」以下、 「海帯 之帯字」 (9 ~ 10 行 「以為」以下 219 字 目)の「海 帯」の 2 無 が挿入 字が脱落し、163 字 が挿入 典拠:1 ~ 8 までは、[丁(明) 2002]※頁数は『神奈川大学 国際常民文化研究機構年報 5』掲載頁数 ― 201 ― 表 4 諸写本書誌事項等一覧 仮称 原本所蔵者 筆写者 校訂者 筆写・校訂年 備考・出典 知識産業社より影印、および、韓国語訳 版、1977 年。新安郡計画監査室より影印 版、1998 年。 1 鄭氏本 鄭文基 鄭文基 鄭文基 (1898-1995) (1898-1995) (1898-1995) 2 嘉藍本 李秉岐 (1891-1968) 1900 年前後 「梅華屋珍玩 , 龍華 ? 章」印。『일사・가람 文庫 古書著者目録』、ソウル大学校付属 -1940 年 図書館(1966)。 (予想) 3 一石本 李熙昇 李種世 (1896-1989)カ 1956 (1957 カ) 4 想白本 李想伯 (1904-1966) 1950 年代 (予想) 5 国立本 金台俊 (1905-1949) 鄭啓燮 洪在夏 1945- 1946 末尾に「原本所蔵者:京城 金台俊、筆 写者:京城 鄭啓燮、校正者:京城 洪 在夏 写了 丙戌(檀紀四二七九)九月 十日」とあり。 内表紙裏上部に朱のペンで「W8000 3-5-68 hib 通文館」とあり、序文の最 初の頁下に「정을문고」の印あり。 6 西江大本 7 釜慶大本 「想白書屋」印。 金庠基 (1901-1977) 金炳暉 梁在穆 (釜山水産大学 1958 図書課長)カ 洪淳鐸 (未詳) 8 湖南本 陳錤洪 9 高麗大本 尹柱瓚(未詳) ・ 尹定夏 (1887-?) 末尾に「이책은 서울大学校文理科大学教 授金庠基先生所蔵写本을 빌려와서 옮겨 쓴 석임 檀紀四二九一年十一月 金炳暉 写 釜山水産大学図書課長 梁在穆」と あり。 『湖南文化研究』1 号(1963)へ翻刻掲載。 1900 年前後 蔵書印(尹柱瓚、尹定夏、普成専門学校 図書館)に加え、 「尹定夏氏寄贈」とあり。 10 嶺南大本 金庠基 (1901-1977) 11 常民研本 岡村治人 (未詳) 羽柴雄輔 (1851-1921) 1916 本文参照 12 祭魚洞本 渋沢敬三 鄭文基 (1896-1963) (1898-1995) 1945 本文参照 どまる。また、④の説明では、多くの写本で脱 れる「京城帝国大学所蔵の筆写本」は、ソウル 落している文章が両写本とも脱落していないこ 大学校所蔵の一石本、想白本とは異なる写本で とが確認できるが、文字数が 2 文字少ない。欠 はないかと考えられる(6)。 落文字数が 165 字ではなく 163 字である理由も 【筆写年代】 新たに確認された写本のうち、筆 不明だが、2 文字少ない点も祭魚洞本と常民研 写年が分かるものは、1916 年(常民研本)と、 本に共通している。このように、両者の間には 1945 年(祭魚洞本)の 2 種である。既に記した 大きな違いはないため、序文の通り、鄭文基 ように、後者は前者を参照して筆写されてい が、渋沢敬三へ献呈した写本(祭魚洞本)は、 る。前者の筆写年は、筆写年が明白な写本の中 羽柴雄輔筆写・岡村治人所蔵本、すなわち、常 で最も古い国立本(1946 年筆写)よりも 30 年 民研本を中心に筆写したことは明らかだろう。 遡る。ソウル大学校奎章閣所蔵の写本(嘉藍 以上から、常民研本は、3 文字(①)と 2 文 本)の筆写年代について、奎章閣の注記は 20 字(④)が欠落しているに過ぎず、最も原本に 世紀としている(7)。筆写年が不明な写本と比較 近いと評価されているソウル大学校奎章閣所蔵 しても、常民研本は古い時代に位置しているこ の写本(嘉藍本)に近い。常民研本は、欠落の とが分かる(表 4 )。 少ない写本であると言える。但し書きがない点 (⑤)は、一石本、想白本、釜慶大本、嶺南大 3.おわりに 本とは系統を異にするものと考えるべきであろ ( 1 )まとめ う。祭魚洞本を校訂する際に鄭が参照したとさ 本解題では、丁若銓著とされる『茲山魚譜』の ― 202 ― 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写本のうち、常民研本と祭魚洞本との関係を明ら ( 3 )権力と知識 かにし、韓国に伝来している写本との関係におい このような関心から見ると、『茲山魚譜』を て、日本に伝わる写本の性格を解説してきた。 巡って二つの隠れた事実に注目をしたくなる。 常民研本は、筆写年、筆写者や所蔵者が明記 一つ目は、知識産業社版『茲山魚譜』の校訂過 されており、写本の中でも古いものであり、さ 程、二つ目は、渋沢敬三の魚名研究における東 らに、旧祭魚洞所蔵本との間の筆写経緯もつま アジア知識の意味である。 びらかにされている。朝鮮半島で 19 世紀初頭 一つ目の知識産業社版『茲山魚譜』の校訂過 に作成された魚譜がいかにして日本へ伝来した 程が不明な点について、実は、掲載された影印 かについて、具体的に跡づけることが可能であ と、韓国語の翻訳との間にはズレがある。具体 る点で、常民研本の資料的意義は高く、今後の 的には、上述してきた欠落箇所が影印で認めら 調査研究が期待される。 れるにも関わらず、韓国語の翻訳文では欠落内 容が補填されているのである。残念ながら、校 ( 2 )植民地権力 訂過程についての説明はない。上述したよう 鄭 文 基 は、『茲 山 魚 譜』の 存 在 を 松 野 二 平 に、鄭が参照していた写本は他にもあり、具体 (東京帝国大学時代の先輩)から知ったという。 的な校訂の過程で、どのように作業が行われた その後、写本の入手に至るまでには以下の逸話 のか、未だ充分に明らかになってはいない(8)。 がある。一つは、松野から、東京帝国大学の高 従って、以上のズレは、鄭文基の行った校訂 橋教授が旅行で来た際、京城の鐘路の夜市で入 が、原文を再構成することに重きを置いたこと 手して帰った話を聞き、高橋教授へ問い合わせ による帰結と見ることもできるが、この背後に た所、高橋教授の娘婿である長崎水産試験場長 は、『茲山魚譜』の原型を世に著したいという へ譲ったことが分かり、公文で問い合わせて閲 鄭の強い希望があったものと見なければならな 覧に至ったというものである。もう一つは、蔵 いだろう。この背後にある鄭の考え方は、韓国 書家でもあった鮎貝房之進から課題を与えら 商工部より出版された『韓国魚譜』の序文に見 れ、古文献に記載された方言名から実在の魚を ることができる。「本邦は水陸の条件と民生の 探し当て、魚種を同定できたこと、その成果を 歴史的実蹟として見ると、水産業が重要な位置 報告した結果、 『茲山魚譜』を貸し出して貰う を占めているにも関わらず、水産資源に関する ことができたというものである。 基 本 的 文 献 研 究 を 省 み ず、貧 弱 で あ る」[鄭 『茲山魚譜』の所蔵者が日本人であり、日本 1954:序] 。鄭は、基本的文献知識を整序しな 人を辿って写本を入手しようとつとめていた点 がら、韓国語をもって水産資源の歴史と全体を には、当時の背景が良く表れている。渋沢は、 捉えようとしていた。この裏側には、恐らく、 鄭文基の研究成果を出版するよう促し、予算等 圧倒的な力を有する植民地日本による漁業制度 を全面的に支援すると申し出た。『朝鮮魚名譜』 や水産知識が念頭にあったものであろう。 を通じて鄭文基を知った渋沢の念頭には『日本 二つ目の渋沢における東アジア知識の意味に 魚名集覧』の出版があったのだろう。殖産局長 ついて、渋沢の魚名についての研究書には、 を長年つとめた穂積を介して鄭文基を呼び出す 『茲山魚譜』の名は出てこない。渋沢が鄭から 形で生まれた出会いと約束は、朝鮮総督府とい 『茲山魚譜』の写本を受け取ったのは早くても う機構や人脈を利用したものであり、写本や寄 1945 年の初めであろうから、1942 年~ 1944 年 贈の経緯には、植民地権力の存在がかいま見え にまとめられた『日本魚名集覧』に、その名を るのである。 確認できない点は理解できよう。けれども、 1959 年に補筆改訂した『日本魚名の研究』に も『茲山魚譜』の名を見ることはできない。な ― 203 ― ぜだろうか。魚名研究を進める渋沢の考え方を 写本が、何時、いかに、誰によって、何のため 概観し、その簡潔な特徴を見出してみると、渋 に書き写されたのかという情報がこぼれ落ち 沢は、魚名は人と魚との交渉の結果成立した る。海峡をわたった写本の意義は、写本の作成 「社会的所産」だという問題意識を持って魚名 や所蔵に向けての意志、背景、所蔵後の研究結 の研究を進めていた[渋沢 1942-44、1959]。 果なども含めて丁寧に跡づけていく必要があ 渋沢は、魚名の成立に関係し、本草学者による る。写本の数や分布といった存在の様態も、そ 魚類の取り上げ方を、①医薬学的、②分類学 の背後にある歴史文脈と無縁ではない。特定の 的、③言語学的の三つに整理し、②の記載が形 時代における『茲山魚譜』に対する関心のあり 態学的であり、種の同定が可能であると評価し 方自体も、興味深い歴史的事実だからである。 ながら、③については、古典から脱却できなか った本草学者の漢字魚名は、勝手気儘であり、 「全 然 用 を 為 さ ぬ」と 厳 し く 批 判 す る。そ し て、日本の本草学者に限定し、方言の採取、観 察の正確さ、描写の精緻さを大変高く評価する [渋沢 1944:121-124]。逆に言えば、日本以外 の本草学者に対する渋沢の評価は大変低かった のである。日本以外の本草学的研究を低く捉え る渋沢が、朝鮮半島の実学者によって著された 『茲山魚譜』のどこをどのように評価していた のか。彼が朝鮮半島の実学者、文字知識や民俗 をどのように捉えていたかも含め、今後明らか にされる必要があろう[cf. 山田編 1995]。 西欧で発展した生物学の普遍的な枠組みが、 本草学的な知識に覆い被さり、覇権を広げてい ったのは、20 世紀初頭である。今日の魚類図 鑑が、こうした科学的体系の枠組みによって叙 述されている点は、日本においても韓国におい ても同様だ。しかし、それ以前には、本草学的 な知識の体系が、東アジアの各国に、固有の歴 史と地域文化をもって存在していた。そのよう な内実を有している『茲山魚譜』には朝鮮半島 における近代以前の歴史と文化が埋め込まれて いると言えよう。 この度、祭魚洞本の底本と考えられる写本が 日本常民文化研究所へ所蔵されることになっ た。 『茲山魚譜』が日本へ伝来した経緯につい て、日本側で具体的に検討できる場が一つ用意 されたことは、本草学的な魚類知識について、 国家という枠を越え、東アジアという広がりで 考察する契機を提供していると言える。その 際、 「原本」の復元にのみ視野を限定すると、 *西江大学校ロヨルラ図書館・高麗大学校中央図 書館漢籍室(2010 年 11 月) 、嶺南大学中央図書館 古文献室(2011 年 9 月)における写本の閲覧、複 写においては関係機関の方々に格段の御厚意を頂 いた。記して謝意を表する。 注 ( 1 )朝鮮半島における魚譜の流れは、15 ~ 16 世紀の 『慶 尚 道 地 理 志』 (河 演)や『新 増 東 国 輿 地 勝 覧』 (李荇等)などの地理書、16 ~ 17 世紀の『郷薬集成 方』 (兪 孝 通)や『東 医 宝 鑑』 (許 俊)な ど の 医 薬 書、17 世紀の『訳語類解』(愼以行等)などの一部 においても認められるが、とりわけ、17 ~ 18 世紀 の『芝峰類説』 (李晬光) 、 『山林経済』 (洪萬選)な どの実学書や農学の活況と、18 世紀以降、 『才物譜』 (李晩永)、『物譜』(李嘉煥)などの譜を付した書が 著されていく中で、登場したものとみられる[宮嶋 1977、韓 2009] 。朝鮮半島には、他に『牛海異魚 譜』 (金鑢)が著されている(1803 年) 。この書も、 流配された著者が、慶尚南道の流配地でまとめたも のであり、魚譜の背後にある知識人をとりまく政治 状況との関連が留意される。 ( 2 )この写本は、私が、2013 年に古書店で発見し、神 奈川大学日本常民文化研究所で購入したものである。 ( 3 )鄭文基は平安北道の水産試験場長をつとめた経歴 がある(1939 年~ 1943 年) 。 ( 4 )写本の調査は、全て共同研究「日本列島周辺海域 における水産史に関する総合的研究」における私の 研究テーマ「日本・東アジアにおける「漁業民俗」 の歴史民俗学的研究」のうち、東アジアに関する研 究として行ったものである。 ( 5 )同系統と判断される根拠は、共通する但し書きに よる(表 3 参照) 。但し書きの内容は「謄写者間或以 鉛筆表示疑其字而要再考也」 。なお、この書き込み は、嶺南大本にも認められる。この写本には、鉛筆で 実際に疑問とされる箇所が文中にも示されており、但 し書きのある写本の系統を考える際に、注目される。 ( 6 )高麗大学校の写本は、ソウル大学校奎章閣所蔵の 写本(嘉藍本)よりも欠落が少ないため、丁の見方 ― 204 ― 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 に立てば、現在、写本の中で最も原本に近い写本 成城大学民俗学研究所 は、おそらく、高麗大本だと言うことができる。 福島好和、1978「栗本丹洲と魚譜─ 1 ─丹洲の生涯と ( 7 )「牛海異魚譜」とあわせて写本、末尾へ、著者金 鑢に関する備忘録が原稿用紙を利用して付されてい る。ちなみに、高麗大本は、普成専門学校図書館か ら高麗大学校中央図書館漢籍室に移管された。尹柱 瓚と尹定夏の二者の蔵書印が認められ、後者は、没 年は不詳だが、1887 年生の経済学者・税理・会計士 である。漢城商業会議所の開設(1909)を経て、普 成専門学校の講師(1910)をつとめた。尹柱瓚はそ の父にあたり、中枢院議官(1901)、農商工部主事 (1906)を つ と め た。こ れ ら の 経 歴 等 か ら 判 断 し て、高麗大本の筆写時期も 1900 年前後に遡るもの と推測される。 ( 8 )鄭文基の回顧を読むと、実は、彼が参照した写本 が 4 種であったことが分かる。所蔵者を整理する と、①鮎貝房之進、②李王職図書室、③東京帝国大 学高橋教授の娘婿長崎水産試験場長、④水原道立医 院長である[鄭 1958、1974]。④については、後 の記述で陳錤洪であると推察されるが、他の①~③ の所蔵者が、現在の写本の所在といかに繋がるのか は分かっていない。なお、③の長崎水産試験場長が 岡村治人の肩書き(福岡県水産試験場長)の誤記で ある可能性も捨てきれない。 そ の 研 究」 『人 文 論 究』 、28(3) 、関 西 学 院 大 学、 1-23 頁 宮嶋博史、1977「李朝後期農書の研究―商業的農業の 発展と農奴制的小経営の解体をめぐって」『人文学 報』 、43、63-102 頁 山田慶児編、1995『東アジアの本草と博物学の世界』、 上下、思文閣出版 引用・参考文献 (日本語) 岡村治人、1937「飼育に容易な錦鯉」、井上菊雄編『趣 味の錦鯉』、古志郡養鯉組合聯合会 渋沢敬三、1937-1939『豆州内浦漁民史料』 、アチック ミユーゼアム 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海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写真 16 写真 13-2 朱書拡大 ― 210 ― 写真 18 写真 20 写真 17-2 朱書拡大 写真 17-1 左頁 10 行目朱書 写真 19 ― 211 ― 写真 21 写真 24 写真 23 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写真 22 ― 212 ― 写真 26 写真 25 写真 28 写真 27 ― 213 ― 写真 29 写真 32 写真 31 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写真 30 ― 214 ― 写真 34 写真 33 写真 36 写真 35 ― 215 ― 写真 37 写真 40 写真 39 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写真 38 ― 216 ― 写真 42 写真 41 写真 44 写真 43 ― 217 ― 写真 45 写真 48 写真 47 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写真 46 ― 218 ― 写真 50-2 朱書拡大 写真 50-1 左頁 7 行目朱書 写真 49 写真 52-2 朱書拡大 写真 52-1 右頁 4 行目朱書 写真 51 ― 219 ― 写真 54 写真 55-1 朱書拡大 写真 55-1 左頁 7 行目朱書 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写真 56 写真 53 ― 220 ― 写真 58 写真 60-2 朱書拡大 写真 60-1 左頁 3 行目朱書 写真 57 写真 59 ― 221 ― 写真 61 写真 64 写真 63 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写真 62 ― 222 ― 写真 66 写真 65 写真 68 写真 67 ― 223 ― 写真 69 写真 72 写真 71 海峡を越えた朝鮮半島の魚譜 写真 70 ― 224 ― 写真 74 裏表紙 写真 73
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