社長に 48回 第 『より高品質な清酒を、多くの人に』 八海醸造株式会社(南魚沼市) 代表取締役社長 南 雲 二 郎 氏 会社プロフィール 創 業 大正11(1922)年 資 本 金 1,000万円 従業員数 (夏季)83人、(冬季)105人 事業内容 清酒製造業 清酒「八海山」 本社・蔵 南魚沼市長森1051番地 東京営業所 東京都中央区築地4-5-9 築地安田第二ビル3F 大阪営業所 大阪市中央区久太郎町3-5-17 リバティ御堂筋本町6F ㈱八海山 「八海山」酒類卸、八海山泉ビール醸造 沿革 大正11年 八海醸造株式会社として創業 代表取締役 南雲浩一 昭和35年 南雲和雄 社長就任 昭和36年 1号蔵(浩和蔵)建設 昭和39年 2号蔵(西蔵)建設 昭和50年 3号蔵建設 平成 2年 吟醸蔵新設 平成 9年 南雲二郎 社長就任 平成10年 地ビールの製造販売開始 ビール苑開設 兄も上に3人いたのですが、長兄は医者になり、 平成12年 (2000年) 製販分離し、販売部門を㈱八海山に移行 ミレニアム限定チタンボトル発売 他の兄2人も継ぐ意志がなかったようです。父が 平成14年 新吟醸蔵増設 酒蔵を継ぐため、学校を出て地元に戻ってきたの 平成16年 第二浩和蔵完成(レギュラー酒専用酒蔵) 平成22年 瓶詰工場クリーンルーム導入 は、まだ20代だったとのことです。ところが、 平成23年 魚沼の里(第二浩和蔵周辺)に、 菓子処「さとや」オープン 平成25年 魚沼の里に雪室・醗酵蔵ほかオープン 平成26年 本社蔵(東蔵・学校蔵)を改装 魚沼の里に社員食堂建設し一般開放 その後を継いだ父は6人兄弟姉妹の末っ子で、 入って数年で先代が亡くなってしまい、そのた め、相当若くして二代目社長となりました。 当時は、酒蔵としてはまだ小さかったのです が、父を支えてその後の会社を作った、実質的な 御社のこれまでの歴史についてお聞かせくださ 創業メンバーが揃っていました。皆似たような年 い。 齢で、社長である父が営業、専務の富所さんが経 創業は大正11年、社長も私で三代目です。地元 理と営業、丸山さんが瓶詰、杜氏である高浜さん には、創業者の祖父を知っている方がまだご存命 が醸造、そして母が接待係でした。 です。地主だった祖父は村のために病院を建てる 高浜さんが一番遅く昭和33年に杜氏として招か などしており、酒蔵を創ったのも、自分が酒好き れ、私はその翌年に生まれたので、この5人は全 だったことに加えて、事業を興して地域の活性化 員家族のようでした。役割分担も明確になってお を考えたのではないでしょうか。 り、父は酒蔵としてどういう品質の酒を造るかと ホクギンMonthly 2015.9 社長に (同150万本)の先を見つけ出し見学に行って来 ました。※1石=180リットル=一升瓶で100本 その蔵元には、うちの蔵が二つあるようなもの でした。しかし、一番驚いたのは、醸造ではなく 瓶詰工場の中でした。今ではどこの蔵元でも普通 ですが、そこには、当時の一流メーカーの大変高 ▲本社社屋 価な自動化設備が整っていたのです。 これをきっかけに、設備投資を重ねて供給量を いう方針を出したら、杜氏の高浜さんに酒造りの 増やし、全国の酒の市場に向けて必死に営業を続 一切を任せていました。 けました。平成9年には、私が三代目の社長に就 任し、平成13年頃までには3万石台(同300万本) その後、社長が三代目となられるのですね。 に到達しています。 父は「良い酒を造らなければ小さな蔵は生き残 しかし私は、平成15年頃には嗜好品として一定 れない」と方針も明確でした。また、どちらかと のシェアを取ったと判断し、営業の方針を一部変 言えば職人肌ではなく営業畑の人でした。 更しました。これから他の地域の酒に人気が出る 私は学校を出て故郷に帰り、25歳で入社すると こともありうると覚悟して売っていくことにした 父と同様に最初から営業を担当しました。 のです。営業の人数も増やしました。八海山が良 一時、新潟の酒が売れすぎて本数が足りないと い酒であることを周知し、納得・認知してもらえ いう時期があり、八海山もそうでした。 ることが重要です。良い酒を造ることは蔵として 平成元年、当時30歳頃でしたが、東京の門前仲 は当然で、いかに多くの人に知ってもらうかが、 町の大衆向けの寿司屋に入った時のことです。お 今後の商売の肝なのです。 店で出している八海山に高い値段が付いていたの そのかいあって、昨今、よその地域の地酒 で、名刺を出して店主にその理由を訪ねると、 ブームが起きても出荷量は落ちておらず、ほぼ 入ってくる本数が限られているから、高くて売れ 3万3千石(同330万本)を維持しています。 なくても仕方がないとの説明でした。 その頃、父も「うちの酒が足りないと言われて いい気になっていると、そのうち大変なことにな るぞ」と繰り返し、私達に話していました。 この頃までは、良い酒を造るという「品質責 任」は果たしていましたが、以後は、「供給責 任」にも力を入れ始めたのです。従来は3トン仕 ▲八海山 清酒5種 込みで五千石※(一升瓶で50万本)の酒造りを 行っていましたが、供給責任を果たすため1万石 (同100万本)まで増やす方針としました。 生産量は増やしても、父は酒の品質を維持する ため、一度の仕込み量は従来どおりを譲りません でした。そこで私は同じ仕込み方式で1万石以上 造っている蔵元を全国から探して、1万5千石 ▲第二浩和蔵 ホクギンMonthly 2015.9 社長に 良い酒を造るのに酒米も重要かと思いますが、 その手当は、どうされているのですか。 新潟の「五百万石」と並び有力な、兵庫の酒米 「山田錦」調達のエピソードをお話します。 昭和の終わり頃の話です。山田錦は当時60俵 ▲お菓子・喫茶 さとや ▲雪室外観 ▲社員食堂 内観 ▲日本橋 千年こうじや 入っていましたが不十分な量でした。ある年、山 田錦の産地からアンケートが来て、父は2000俵欲 しいと答えました。すると、産地の方が蔵の様子 を見に来られました。その頃八海山は西日本では 全く知られてなかったのです。こちらからも行こ うと思い、その時は農協関係者の名刺をもらって 帰って来ましたが、その後、田植えと稲刈りの時 期に、毎年行くようになりました。毎回宴会にな 第二浩和蔵周辺に整備した「魚沼の里」には、さとやの他、雪室 や社員食堂もオープンして観光拠点となっている。 東京日本橋には千年こうじやもオープン。 り、すすめられる酒は全部飲みました。そうやっ ているうちに仲良くなり、ある年1500俵出しても ムであることから、東京営業所に海外チームを作 らえることになったのです。その後は長い付き合 り、今は相当力を入れています。 いとなり、今も現地の方たちとは人間関係が大変 先日、シンガポールで富裕層向けのイベントが 良好です。 開催され、そこに行って参りました。私が行く場 ミレニアム限定チタンボトルという商品を出し 合は、海外の問屋や飲食店のオーナーに会うよう たことがあります。99年にとれた酒米で、2000年 にしています。米国、香港、東南アジアの新興国 に仕込んで、21世紀に入って売り出すという商品 の富裕層に、現在はターゲットを絞っています。 です。初めて使う酒米で、初めての仕込み方法 海外からの観光客も視野に入れ、平成23年以 で、初めてのボトルで出したのです。貴重な酒米 降、順次整備してきた「魚沼の里」は、インバウ を調達できたことが、この商品成功の要因の一つ ンドを意識した拠点でもあります。 でした。珍しく父にも誉められました。 また、東南アジアの方には、冬の魚沼の雪にも 親しんでもらいたいと考えています。 これからも、より高品質な清酒を、多くの人に 届けられるよう、専念いたします。 本日はどうもありがとうございました。 ▲ミレニアム限定チタンボトル 最後に、海外向けのご商売など、今後の方針に ついてお聞かせください。 海外向けの出荷量の比率は、現在は3%程度で す。国内市場が限られること、海外で和食がブー ホクギンMonthly 2015.9 八海醸造株式会社 〒949-7112 南魚沼市長森1051番地 TEL 025-775-3121 FAX 025-775-3300 http://www.hakkaisan.co.jp
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