四 条 寺 町 界 隈

を 歩 け ば ︱︱︱︱
四条寺町といえば「電気屋街」がすぐに思
い浮かぶ。今でこそ家電を扱う店がだんだん
少なくなってきているが、三〇年ほど前はか
なりの盛況であった。
今では想像しにくいが、江戸時代の京絵図
を広げてみると、寺町といわれるだけに、こ
の通りの東側には四条通を挟んで北側も南側
も見事に寺院が並んでいた。京の町屋を思わ
せるように寺院も間口が狭く、奥に深い境内
地がびっしりと肩を並べていたが、その中で
も四条通の南側でひときわ大きな敷地を有し
ていたのが大雲院である。今も寺町通を四条
から南に下がるとすぐに春長寺があり、その
さらに南に浄教寺があるが、この二つの寺院
に挟まれて東側に入る通路があった。今はち
ょうど高島屋からの車の出入り口になってい
るところ辺りであろう。その通路を入ると大
雲院の大きな境内が開けていた。今でいえば
正に高島屋の建物とその南に隣接する駐車場
の一帯がそれに当たる。そこは日本の近世絵
画の巨匠、円山応挙の生涯の夢がいっぱい詰
町通の二筋西「四条麩屋町東入丁」に
五(一七六八)年、三六歳のころは寺
記載されている。それによると、明和
江戸時代に出版された『平安人物誌』
という書物に応挙が住んでいた住所が
はこの辺りを行き来していたのである。
くて、応挙研究に取り組んでいたころ
っぱい詰まった空間なのである。
このように考えると、四条寺町界隈には、
若いころから晩年に至るまでの応挙の夢がい
院方丈をアトリエにしていたと思われる。
とが多かったが、それらはほとんどこの大雲
(ふすまやびょうぶ)などの大作に取り組むこ
て使わせてもらっていたこと。応挙は 障 屏画
との交流が深まり、その方丈をアトリエとし
まっていた場所であり、その空間を実感した
住んでいた。その後、
安永四(一七七五)
玉堂』『円山応挙研究』など。
寺町通
河原
町通
柳馬場通
麩屋町通
〈ささき じょうへい〉京都国立博物館館長。一九四一
年、 兵 庫 県 生 ま れ。 京 都 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 博 士 課
程 単 位 取 得。 文 学 博 士。 京 都 大 学 教 授、 同 大 学 附 属 図
書 館 長、 文 書 館 長 を 経 て、 〇 五 年 か ら 現 職。 〇 七 年 か
ら 国 立 文 化 財 機 構 理 事 長。 京 都 大 学 名 誉 教 授。 専 門 は
日 本 近 世 絵 画 史。 著 書 に『 与 謝 蕪 村 』『 池 大 雅 』『 浦 上
しょう へい
年、四四歳のころは同じ通りの向かい
応挙は寛政七(一七九五)年六三歳で他界
した。四条大宮の悟真寺に葬られたが、現在、
ふ
側「四条麩屋町西入町」に移り、
その後、
悟真寺は太秦に移建されている。
はさらに三筋西の「四条堺町東入町」
に住居を移している。いずれにしても、
応挙が画家として活躍していたころ、
自宅はこの大雲院から数百㍍の距離に
あった。
大雲院と円山応挙の活動にはきわめて深い
つながりがあった。応挙が若いころに常に懐
に入れて持ち歩いていたスケッチ帳(懐帳)
があるが、それには、大雲院が所蔵する中国
画を学習したと思われるメモが残されている。
堺町通
仏光寺通
また、応挙の代表作の一つ大乗寺(応挙寺)
の障壁画群は大雲院の方丈で描かれたことが
記録から明らかとなっている。
こうした事実を連ねていくと、次のような
ことが明らかとなってくる。応挙は若いころ
から大雲院の近隣に住み、そこに出入りして
うずまさ
天明二(一七八二)年、五〇歳ころに
上:四条寺町下が
る辺り。左の山門
は春長寺(©MASUDA)
下左:阪急河原町
駐車場出入り口付
近。江戸時代の大
雲院は突き当たり
の建物辺りにあっ
た
下右:大乗寺の円
山応挙像(田畑功 作)
中国画学習を深めていったこと。また大雲院
綾小路通
河原町
阪急京都線
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高島屋
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春長寺
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浄教寺
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藤井大丸
四条通
● 応挙宅跡碑
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2010 冬 No.463
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龍安寺
三洋化成ニュース
6
佐々木丞平
上:応挙が大雲院で学習した中国画の1つ
(写真左)
とスケッチ帳(懐帳)
右上:円山応挙宅跡碑
右下:宝暦 4(1754)年版の京絵図。絵図の中央辺りに大雲院がある
四条寺町界隈 ─
─円山応挙の夢の跡
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