浮世絵に描かれた有馬の湯女 -江戸時代の温泉ブランド戦略 樽井由紀(健康と温泉フォーラム) Keyword: 浮世絵、有馬湯女、温泉 【問題・目的・背景】 せの駿河のと呼立る中に」「又めぐり来る幕に、大坂 のと呼ばれて行ぬ」と国名を呼ばれて入浴に赴いたこ とが記される。浴客をわざわざ出身国別にグループ分 けするという、一見面倒なやり方は、日本国中から湯 治客が訪れる、有馬温泉のブランドを誇示するもので あろう。 狭い共同浴場を多数の浴客が利用するため、入浴の 時間区分が定められていた。まず「留湯のかずはゆな のまにまに」と歌われるように、「留湯」、すなわち 浴場を貸し切りにする采配は、古くから湯女の仕事に なっていた。このほか「幕湯は大名金持の為に引、狭 嫌(せばきら)ひ入込は其次々の湯入なり」(孟遠『荷 葉之紀行』)とされ、いずれも湯女が浴客と時間の管 理を取り仕切った。坊ごとに時間を区切る「幕湯」、 グループ客の貸し切りである「せばきらい」、早朝に 誰もが入れる「入込」は、料金に大きな違いがあった。 こうした湯女たちは副業として、担当する宿の滞在 客の宴席に侍り、 歌や踊りを披露することも多かった。 「みな歯そめ、帯前に結て姥めかせる」 (三宅嘯山『有 馬紀行たたひ越』1779)とあるように、未成年の小湯 女も、お歯黒をつけ、帯を前に結ぶ人妻風の装いで接 客したが、「棒もていかれる人とは思ひも出ず」(『有 馬私雨』1672)、昼間の仕事ぶりとは打って変わった 様子が、かえって滞在客の興味を引いたようである。 江戸時代には絵図や浮世絵に温泉地の様子が描かれ、宣 伝に用いられた。当時から最も有名な温泉地であった有馬 温泉でも、絵図や案内冊子とともに、湯女を描いた浮世絵 が売り出されている。その過程で、「有馬といえば湯女」 というイメージが形成され、宣伝された点が、他の温泉地 と大きく異なっている。本発表では、地域ブランド化の観 点から、有馬の湯女を描いた岡本昌房と画登軒春芝の浮世 絵をとりあげ、有馬温泉の特色を考えてみたい。 【研究方法・研究内容】 有馬の湯女についての資料と研究には、小澤清躬 (1938)『有馬温泉史話』 、風早恂編(1988)『有馬温泉史料 下』を元に、黒川道祐『有馬地誌集』 (1664) 、平子政長・ 生白堂行風増補『有馬私雨』 (1672) 、生白堂行風『新板 有馬名所鑑』 (1683) 、秋里籬島『摂津名所図会』(1798) 等の地誌の記述や各種の紀行文があげられる。これらの 材料を元に、温泉で働く湯女の仕事と、湯女に付与され たイメージの両面から、有馬湯女が一種の地域ブランド となる過程を分析する。 【研究・調査・分析結果】 1 湯女の浴場管理 有馬温泉は、その知名度と人気にもかかわらず、共 同浴場が狭い一の湯と二の湯に限られていたため、入 浴には時間の制限と順番が厳しく守られた。『有馬私 雨』(1672)では「大湯女二十人小湯女二十人湯口に立 ちかはり、 夜昼となく入浴の下知をなし次第をわかつ」 「遅くあがる者あれば大湯女小湯女手毎に棒をもて湯 口の戸をたたき、 あがれあがれとののしれば」 とある。 17世紀から18世紀にかけての有馬の地誌類には、共同 浴場を描いた挿絵に、長い棒を持った湯女が描かれて いる(図1、2)。また浮世絵美人画の先蹤となった西 川祐信『百人女郎品定』(1723)(図3)にも、棒を持っ た小湯女が登場する点が注目される。 湯女は客に入湯の時間を知らせる時には、大声で浴 客を呼び集め、浴場に連れて行ったわけだが、客を呼 び集める際に各坊で浴客の国名を呼び、入浴の順番を 決めていた。井上布門『有馬之日記』(1739)には「い 2 湯女のアイドル化――岡本昌房の「湯女風俗絵」 湯女の浴場管理の仕方は、18世紀の後半ごろに大き く変化したと考えられる。まず、棒で戸口をたたきな がら大声で入浴中の客を追い出すような、乱暴なやり 方は行われなくなった。 また大声で国々の名前をあげ、 客を呼び集めて浴場に引率する方法も変化し、やがて 「二婢共に入浴の旅客に随従して、入湯の時刻をしら せ、浴衣を肩にかけて案内し、衣類を預りなどして侍 女の如くす」(『摂津名所図会』1798)と、共同浴場 の管理者よりも、宿の客に付き添う仕事が中心になっ ていく。また客の祝儀を目当てに、夜間の接客ばかり 行って、早朝の浴客案内がおろそかになったとも言わ れている(「奥の坊文書」1787)。ちょうどこの時期 1 に有馬温泉で売り出されたのが、岡本昌房の浮世絵美 人画「湯女風俗絵」連作である。 岡本昌房は大阪の人(生没年未詳)、北尾雪坑斎辰 宣の門弟で「雪圭斎」を名乗った。天明末から寛政期 (1780年代後半から1790年代)の作品と考えられる 「湯女風俗絵」連作は、現在7作品が知られており、 うち3作品が国内外の美術館に収蔵されている。各作 品に共通して「雪圭斎昌房画讃」 「湯女風俗絵売所 有 馬小山屋源八」と記され、明らかに有馬温泉で土産物 として売られた絵である。上方浮世絵で好まれた細版 合羽摺で色数も少なく、 比較的安価だったと思われる。 描かれるのは、有馬の宿坊に属する湯女が樹木や花 の下にたたずむ姿で、帯を前に結び、島田髷に派手な かんざしを挿しているが、眉を落としていない。有馬 湯女のトレードマークともいえる、肩にかけた浴衣は 描かれていない。これは意図的に省略されたのか、あ るいは制作時期においてまだこのようなサービスが行 われていなかったのか、判断材料がない。 7点の作品は、「御所ノ坊まき」「尼ヶ崎坊ゆり」 「上大坊くり」「兵衛みや」「大黒屋たけ」「水船つ じ」「茅之坊きい」の湯女名をタイトルとして、昌房 の狂歌の「讃」が添えられる。(表1参照)狂歌は共 通して、若々しい魅力とともに頼もしい働き手として 湯女を賞める内容である。岡本昌房の連作浮世絵は、 小湯女を「ひめごぜ」、いわば有馬温泉のアイドルと して強調した作品だと考えられる。 国貞の作品では草履を履いているのだが、有馬の湯女 は浴客の案内の際に必ず下駄を履いていたから、国貞 のミスをことさらに修正している。さらに背景として 桜と紅葉を描き、有馬の名所である有明桜(紅葉でも 有名)を加えている。この点では、花の咲く樹を背景 とする昌房の「湯女図」を踏襲している。 湯女が肩にかけた紺地の浴衣は、竹と鶴が白抜きに 染められている。 湯女の着物には梅の花が見えるから、 めでたい鶴と松竹梅の竹と梅がそろうことになる。で は松はどこに隠されているのであろう。「松になりた や有馬の松に」と有馬節にある「松」が、お客を「待 つ」 にかけられた洒落になっているとも考えられよう。 このような画登軒春芝の作品は、江戸の浮世絵など出 版メディアで形成され、固定化された有馬湯女のいか にも遊女風のイメージを、上方に逆輸入して観光ポス ター化したものといえる。 【考察・今後の展開】 本発表では、有馬温泉で独自の役割を担った湯女の仕 事の変遷を背景として、岡本昌房と画登軒春芝の美人画 を読み解くことを試みた。湯女は、棒を持った働き手か ら、温泉地のアイドル、さらに江戸など大都市で形成さ れた温泉女郎の印象の逆輸入へと変化している。江戸時 代の上方と江戸の違いを越えて、地誌や温泉案内、浮世 絵といった出版物に描かれた有馬湯女のイメージは、有 馬温泉が湯治場から観光名所に変化する過程で生まれた、 新たな地域ブランドとして考えることができる。 Ⅳ 湯女イメージの逆輸入——画登軒春芝「有馬湯女」 図 18世紀の後半から、江戸では極彩色の大判浮世絵が 流行する。美人画で有名な歌川国貞(初代)が、五渡 亭国貞を名乗っていた頃の作品「浮世名異女図絵」 (文 政年間 1820-1825?)の中に、「摂津有馬湯女」が 含まれている(図4)。眉を落として高い髷を結い、 笹紅をさして肩に浴衣をかけた女性の全身図に、湯治 場を描いた扇形のこま絵、有馬節の文句が書き込まれ ている。有馬の湯女は、江戸や京都においても早くか ら知られていたが、その扱いは明らかに温泉女郎風で あり、この作品に書かれる有馬節も「ばれ歌」風の一 節である。 大阪の絵師である画登軒春芝「有馬湯女」図は、こ の国貞の作品を文政年間後半(概ね1820年代)に模倣 した作品である(図5)。上方絵の特色である濃厚な 色づかい、はっきりした眼の表現とともに、派手な帯 と襦袢が目立つほか、 履き物が高い下駄になっている。 【引用・参考文献】 小澤清躬(1938)『有馬温泉史話』五典書院 72-93 ページ 小野田一幸(1998)「地誌・紀行文にみる江戸時代の有馬」 『有馬の名宝―蘇生と遊興の文化―』神戸市立博物館 129 ページ 風早恂編(1988)『有馬温泉史料下』名著出版 470 ページ 神戸市立博物館(1998)『有馬の名宝―蘇生と遊興の文化 ―』 古川顕(2014) 『温泉学入門、有馬からのアプローチ』79 -98 ページ 横山重監修;森川昭解説(1975) 『有馬地誌集』古板地 誌編 21 勉誠社 2 図1. 『迎湯有馬名所鑑』1683 (出典:横山・森川:1975、p486) 図4.国貞「摂州有馬湯女」 文政 4(1821)頃 出典:文化デジタルライブラリー「浮世名異女図 会」シリーズ 図2. 『有馬山温泉小鑑』1685 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション) 図5.画登軒春芝「摂州有馬湯女」 図3. 『百人女郎品定』1723 (出典:神戸市立博物館:1998、p68) (出典:国立国会図書館デジタルコレクション) 3 表 1.昌房「湯女風俗絵」 1 2 3 4 5 6 7 御所ノ坊 尼ヶ崎坊 上大坊 兵衛 大黒屋 水船 茅之坊 図 坊名 名前 まき ゆり くり みや たけ つじ きい 岡 本 櫛まきの とり 色まさる すが 恋のたね うへ ひゃう へには 大こくやの は つじうらは 扨 ひめごぜの 手 昌 房 あげ髪の うず たかたちは 姫 大坊の君はくり ちらずしほれぬ しらは たけが (さて)ここち わざは何や か の讃 だかふ 冠(かふ ゆりの はなに 三とせはまてど 花のみや いづ 幾千とせ かわ よし 水船の 君 やの坊 針手も り)下(し)た かん路の あま めてしらしける くのたれか 来 らぬ家と 寿き ならぬれる お きいて 気だて かと見ゆる御所 が崎坊 て手折らん をのぶ りやしほらん よい君 The British 東方書院編『浮 の坊 図 版 東方書院編『浮 萩美術館蔵チコ 有馬温泉史料下 藤懸静也『浮世 The 出典 世絵大成』第3 チンコレクショ p331 絵の研究』雄山 Museum 1938, Museum 1908, 世絵大成』第3 1943 下 0312, 0.3、カラ 0616, 0.156、カ 巻(1931) 第 ー ラー 218 図 巻(1931) 第 ン U02630 閣 5 図、カラー カラー 422 図「雪圭斎 昌房筆 梅花美 人(帝室博物館 蔵) 」 4 British
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