博 士 課 程 で 何 を 学 ぶ か

博士課程在学生,博士課程進学を検討している学生の
方々に,博士課程で何を学んでいただきたいかをまとめ
ました。この文書は,野依フォーラム,日本化学会人材
交流小委員会等で議論したものであり,議論した皆様
のご意見を参考にしておりますが,文責は私に帰するも
のです。
委員長
の招待席
博士課程で何を学ぶか
柔軟な実力を身につけ,
変化する社会での活躍を期待する
博士のキャリアパスとしての企業での活躍
スを確立するには,企業が求めている博士
像を明確にすることで,教育のあり方,学
生が何を学ぶかが明らかになり,博士の企
業での活躍に繋がると考える。今までに,
野依フォーラム(http://www.noyori-forum.
org/)で,「企業が求める人財とは」とい
う観点で議論し,その結果を元に,日本化
科学技術創造立国を目指す日本が今後発
学会博士セミナーが企画された(化学と工
展していくには,企業を代表とする社会で
業 2009, 62, 1061, 府川)。さらに引き続い
活躍する優秀な技術系人財を育てることが
て日本化学会人材交流小委員会で議論を行
必須である。
い,年会での博士セミナーを継続している。
大学は科学技術それ自体の創造ととも
またそれとは別に,日本化学工業協会は
に,社会で活躍する人財を育てることが期
経産省が主催した化学ビジョン研究会の提
待されている。特にこの 40 年間に大学で
言を受けて,「化学人材育成プログラム」
の博士課程を増強してきた(図 1)ことは,
を進め(https://www.nikkakyo.org/news8-page)
,
ノーベル賞の獲得に代表される科学技術の
その中でも同様な議論がされている。
創造の面での貢献に繋がったが,社会で活
ここで,2012 年から 3 年間にわたり新
躍する人財を育ててきたかについては疑問
たに野依フォーラムで議論した優秀な人財
が残る。具体的には,ポスドク問題に代表
の要件をまとめると次のようになる。
される博士号を取得した科学技術者が社会
・博士号を持つ
で活躍する機会が得られないといった状況
・科学的な方法論を身に付けている(論文
を生み,その結果博士課程進学率の低下と
いった現象を生み出している。このことは
科学技術創造立国を目指す日本としては憂
慮する事態と言わざるを得ない。
このために,博士が企業で活躍するとい
うキャリアパスを確立し,優秀な技術系人
財を多数輩出していくことが重要となる。
優秀な技術系人財とは
博士が企業で活躍するというキャリアパ
が書ける)
・グローバルな人財(英語力,海外との人
脈)
・広い教養と深い複数の専門知識を持ち,
社会的課題の解決に専門知識を活用でき
る。
・「課題あるいは問題発見とその解決」の
能力が高いことが重要であって,専門技
能,専門知識はその次に位置する。
アカデミア,企業ともに優秀な人材を育
長瀬公一
●
産学交流委員会人材交流小委員会 委員長
図 1 大学院在学者数の推移(科学技術・学術審議会人材委員会(71 回)配布資料)
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化学と工業 │ Vol.68-11 November 2015
表 1 優秀な技術系人財の要件の重要度
アカデミア
企業
備考
△→○
グローバル化の進展により博士号の重要性が
企業でも高まる
博士号
◎
科学的思考法
◎
◎
グローバルな力
◎
○→◎
△→○
◎
課題,問題発見,解決能力
◎
◎
専門技能,知識
◎
○→△
社会的課題の解決に専門知識
を応用できる
グローバル化の進展
アカデミアでも社会的課題の解決が望まれる
世の中の動きが早くなることにより様々な問
題に対応する必要がでてくる
(→は,今後の変化を意味している)
てたい,優秀な人材を採用したいというこ
心とした情報技術の進展,グローバル化に
とは変わらない。ただ,優秀さを具体的な
よって世の中の変化が加速したことにより
内容に噛み砕いてみると表 1 のように重
大きく変化している。
要度に違いが現れてくる。
(3)製品を開発するには,様々な分野の知
従来企業では,博士号の重要度は高くな
識が必要となる。つまり,博士課程で研究
かったが,グローバル化の流れの中で企業
している範囲内の技能,知識では,企業で
研究者においても博士号を取得しているこ
の研究は対応が難しく,むしろ大学での研
との重要性が今後高くなると考える。
究を行うことで得られた「科学的思考法」,
科学的な方法論は,企業で重要とされて
いる PDCA サイクル(Plan,Do,Check,
Act)に繋がりイノベーターの要件にも繋
がる重要な要件と考える。
グローバルな人財の重要性は言うまでも
ないことである。
世界の直面する課題の解決に科学技術が
「課題,問題の発見能力,それを解決する
能力」が必要となる。
ア カ デ ミ ア で も 専 門 技 能 は, 例 え ば
DNA の配列を決定する技能がシークエン
サーで置き換えられたように永続的なもの
ではない。また,知識にしても IT 化の進
展によりアクセスが容易になることから,
重要な役割を期待されていることから,ア
知識そのものよりもどのように知識を利用
カデミアにおいても社会的課題の解決,実
するかが重要になると考える。
用化に繋げる研究が重要な使命と考えられ
るようになってきている。
このように優秀な技術系人財の重要度
は,
「専門技能,知識」以外はアカデミア
と企業で収斂してきていると考える。
専門技能・知識の重要度
専門技能・知識が企業で重視されないと
いうと不思議に思われるかもしれない。
このように,社会が大きく変化する中で
も変わらない重要な知識,考え方を身につ
けるとともに,社会の変化に柔軟に対応で
きる力が必要と考える。
化学系企業での博士の現状
一方,化学系企業での現状を見てみる。
化学系の大手企業では,表 2 に示すよう
に技術系採用者の 10%以上が博士である
これは,博士号を取ったばかりの人財が
ことを考えると,企業の博士への期待が高
アカデミアに進むか,企業に進むかという
いことが伺われる。また,化学系の先生方
岐路に立った時点の評価とすれば,次の理
にヒアリングしても博士の就職では苦労し
由から納得いただけると考える。
ないという声も聞こえる。
(1)大学での専門技能・知識が企業でその
このことは,喜ばしいことであるが,化
まま使えることは少ない。これは,アカデ
学系企業において,先に述べたように博士
ミア,企業の目的が異なることからも明ら
に求められている優秀な技術系人財の要件
かである。
が整っているから博士を採用しているとは
(2)企業での研究内容は,IT,AI 等を中
ながせ・きみかず
1978 年 東 京 大 学 理 学 系
大学院修士課程修了。同
年東レ株式会社入社。現
在研究・開発企画部主席
部 員。2008 年 印 刷 学 会
技 術 賞 受 賞。10 年 か ら
日本化学会人材交流小委
員 会 委 員 長。13 年 か ら
科学技術・学術審議会人
材委員会委員。
思えない節がある。実際,各社の研究系の
CHEMISTRY & CHEMICAL INDUSTRY │ Vol.68-11 November 2015
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表 2 技術系新卒採用数のうち課程博士採用数
産業交流部門アンケート結果 化学系 12 社,他 6 社の集計結果。総計には,
総計のみ報告載いた数値を含む(2010 ~ 2012 年度)
である。これは,図 2 に示すように企業
とアカデミアでは研究分野に違いがあるこ
とから推察すると,アカデミアで輩出する
生命系の博士数に比べて,企業が必要とす
る生命系の研究者の数が少ないためである
と考えられる。一方,博士の供給が多い分
野では企業も博士を採用するという傾向
(企業は博士号にこだわらず優秀な人財を
採用する傾向にあるので,博士号取得者が
優秀であるという傾向)を示しているとも
考える(表 2 で化学工学の博士採用率が
低いのは,博士自体が少ないためと考え
る)。
部長クラスの方々に伺っても「もっとこう
最後に
して欲しい」といった声が聞こえてくる。
企業での活躍を将来のキャリアとして考
化学系企業ではアカデミアの研究内容と
えている学生の方々にとって,アカデミア
企業の研究内容の親和性が高く,大学で学
の世界から企業の世界に変わる(就職する)
んだ専門技能,知識がそのまま企業での研
ことは,大きな環境の変化があると思いま
究でも通用する傾向にあると考えられる。
す。皆様には,その環境が変化しても対処
例えば表 2 の薬学での博士の採用率が 20
できる柔軟な実力を大学で身につけていた
%を超えることは,このことを意味し,他
だきたいと考えます。そのことが,これか
の分野に比べて博士の採用率が高いことに
ら大きく変化する社会の中で活躍すること
繋がっていると考える。ただ,企業に入社
にも繋がることと考えます。
して数年もすればテーマの変更,実用化に
伴う周辺技術の開発の必要性が生じ,大学
なお,本報告の詳細,議論した企業の方
で学んだ専門技能・知識にしがみついてい
からの博士への期待等を化学会人材交流小
れば活躍の場は狭まることは言うまでもな
委 員 会 の ホ ー ム ペ ー ジ(h t t p : / / w w w.
いことである。
chemistry.or.jp/activity/industry-university/past.
また,注意しないといけないことは,生
命系の博士の採用率が非常に高いことと,
生命系のポスドク問題とが一見食い違う点
html#doctor)に添付していますので,ご興
味のある方はご参考にして下さい。
Ⓒ 2015 The Chemical Society of Japan
図 2 企業とアカデミアの研究分野の違い(科学技術・学術審議会人材委員会(71 回)配布資料)
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