情念概念の変遷

情念概念の変遷
デカルト (1596-1650) はその『情念論』 (1649) の中で、「情念とは、精神の知覚または感覚また
は感動であって、特に精神自身に関連づけられ、かつ精気のある運動によって惹き起こされ、維
持され、強められるもの」であると定義している。また、デカルトは『音楽論』 (1618) の中で、「音楽
の目的は、人を楽しませ、我々のうちに様々な情念を喚起すること」と定義している。
こうしたデカルトの情念論は、ルター派の音楽観と合致して、バロック期全般を通じた音楽美学
的な目的を形成することになった。ルター派神学の音楽論では、神の賛美によって人は心の充足
を得ること、情念によってのみ人は徳行を行うこと、よって情念の喚起は神の御心に適うものとされ
音楽を通じた神の賛美ということが肯定された。(ここが禁欲的なゆえに音楽に対して否定的な態
度を取ったカルヴァン派とまったく異なる点である。)初期には神の賛美とその結果としての心の充
足という因果関係が明瞭であったが、時代が下るにつれて神の賛美と祈りの情念というものが混
同され、賛美の念も情念の一形態に過ぎないというように因果関係が瓦解していく。こうして音楽
の目的は情念の喚起という一点に集約されていき、バロック期最大の理論家マッテゾン (16811764) が『完全なる楽長』 (1739) の中で、「音楽の究極目的は、すべての種類の情念を喚起する
ことである」と言い切るまでに到るのである。
このようにバロック期の音楽表現において哲学的、神学的、倫理的なバックボーンを得て中心概
念となって情念は 1 、バロック音楽の目的であり、形成原理となる 2 。そもそもモンテヴェルディ
(1567-1643) が従来のルネサンス音楽と対比させて、『第二技法』と呼んで考案したバロック音楽
の楽曲構造は、ルネサンス音楽に特徴的な対称性、調和性、無限性、均一性といったバランスの
取れた構造を意図的に崩し、それによって、奏者の情念を発露させ、聴き手に情念を喚起し、作
曲者の情念を体現させるという目的によるものであったと言ってよいだろう。もっとも、最初から情
念が肯定的に受容されていたわけではない。pathos には、悪いものを受容する、病気を得る、と
いった語義もあり、ストア派の哲学者達はこれゆえに情念を排斥したのであった。情念概念の肯定
的な発展は、ルター派神学による後押しもさることながら、デカルトらによる人間中心の脱神学化し
た哲学の発展や、啓蒙思想による人間理性の肯定といった時代背景にもよるところが大きい。マッ
テゾンは、美の源泉として「真の美は人間の情念の中にある」とまで言っている。バロック音楽は伝
統的な神中心の音楽観を人間中心の音楽観に転換させ、人間のための人間による音楽の嚆矢
であったと言ってよい。
情念には Affekt なるドイツ語訳と passio なるラテン語があり、英語の passion はラテン語からだが、
元はすべてギリシャの pathos である。Affekt は、セネカが pathos を affectus と訳したことに由来す
る。これは、英語の effect「作用」と同語源だが、情念が「心を動かす」という、目的をもった作用を
持つという能動的な側面を強調した訳語である。ドイツ語では、 Gemüths-Bewegung (心の動き),
Gemüths-Neigung (心の傾き) などとも言う。
他方、passio は passive「受動的な」とも同語源だが、アプレイウスが pathos をこう訳したのである。
1 倫理的には、情念の喚起と徳という問題が結びつけて考えれた。すなわち情念を描写する音楽には、倫理化作用
があるとされたのである。18 世紀の啓蒙時代になると、信仰の力による価値判断は人間理性の興隆の前に色褪せ、
代わりに倫理という社会的格率によって価値判断の拠り所としようという発想が出てきた。マッテゾンも音楽的価値
というものを倫理性に求めるという一面を持っていた。18 世紀、音楽に心身強健作用、精神浄化作用、治癒作用、
善導作用が求められたのは、こうした時代背景による。
2 20 世紀の音楽になると、音楽は目的ではなく、音楽自体が自律的な芸術形態として自己目的化するが、バロック
期には音楽は情念喚起の手段に過ぎないという位置づけが明確だったと考えてよい。
「血液と精気の変化が身体に affect するとき、心のその擾乱を passive に受ける」という発想による。
つまり、情念とは、動物精気の組成が外的要因によって変化するとき、そこに受動的に生じる心の
状態であるという解釈であり、人体を機械論的に見て、その生理学的反応として感情が生じている
という見方である。ちなみに passion には「受難」の意味もあるが、これも「受ける」という意味からで
ある。
情念にはこのように能動的・受動的な解釈によって二系統の語が対応しているが、この差異は、
同じ心の現象をどのように捉え解釈するかという視点の違いに他ならない。デカルトは情念を元素
的に要素分解し、驚き・愛情・憎悪・喜び・悲しみ・羨望という六種の情念の複合によって、人間の
感情は全て成り立っていると主張した。要素還元の最終形態として、この六種が必要にして十分
であるかという点に関しては異論もあるが、可算的な概念としての情念というものが、その種類と個
数を適当に組み合わせることで、あるひとつの感情が表現されるという考え方は当時としては一般
的なものであった。様々な理由による能動的な情念の喚起、あるいは受動的な情念の喚起(例え
ば身体的な外的刺激による)によって、何種類もの情念が重なり合い、累加的に蓄積されてひと
つの人間の感情となる。このとき、蓄積された情念の高さによってどのような感情となるかは、その
人の元来持つ気質 (temperament) にも拠るとされた。つまり、本来の性向は気質によって決まって
おり(横軸)、そこに累積された情念(縦軸)によって感情が決定されるというイメージである。
ちなみに、temperament には「音律」の意味もあり、これもバロック音楽において非常に重要な概
念のひとつである。
このような要素的・可算的な情念像によって立てば、当然、その個々の要素に対応する音楽表
現が求められることになる。バロック期に様々な音楽書法・舞曲形式・音楽ジャンルが発展したの
は、情念の類型に対応するという目的もあったと考えられる。しかし、例え情念の基本要素を 6 個
にまで落とし込めたとしても、それらの組み合わせは喚起される度合いや重なり方を含めれば無
限にある。また、体液、気質、動物精気といった多様な要素・機能が関連している以上、それらの
連繋の順序や過程も結果としての情念と密接に関連しているはずである。こうして、「情念を論じ
尽くす」という試みが成功することはついに無かったのである。 音楽による情念の表現といっても、音楽(作曲)の段階における情念の描写と、聴き手の心象とし
ての情念喚起は別種の現象である。しかし、聴き手の情念喚起が純粋に受動的な生理作用として
起こる場合には、音楽表現と聴き手の情念喚起とは連続したひとつの現象における因果関係とい
う関係性に収斂するはずである。まさに、人間の精神作用をも体液や精気の作用として機械論的
に見るデカルト的発想が全盛だったこの時代には、情念の発露と情念の受容という両端の現象は、
とりわけ区別しなくても良かったと考えられるのである。こうした機械論的な情念の詳細は、「遅れ
てきたルネサンス人」との異名を取り、アリストテレスの論理学を駆使して古今東西の事物について
著作を書きまくった万能の修道士キルヒャー (1601-1680) が論じている。
マッテゾンは、キルヒャーほどに人体を機械論的には捉えず、様式を技術的・数学的に完全に
体現しても、それによって万人をして一様に想定した情念を喚起せしむるとは考えなかった。やは
り音楽家自身が、楽想と同じ情念を感じることこそ聴き手にも情念を喚起する道だと考えたのであ
る。ただし、ここで情念という概念は、個別には感情の構成要素として酸素や水素といった元素に
も似た客体化可能な対象物であり(不可視ではあるが)、それは類型化された心的作用の要素で
あって、個人的な喜怒哀楽の感情そのものとは違うという点が重要である。つまり、情念概念は客
体化されており、客観的な向き合い方が可能であった。それゆえに、ある情念を音楽の表現目的
とするとき、その情念と音楽家の心的一致を実現するには、作曲家あるいは演奏家の方が情念に
歩み寄り、自分の中にその情念を取り込むという作業が必要であった。この点は、バロック期と古
典期の過渡期にベルリンを中心に盛んだった多感様式の旗手たちが、あくまで主体は音楽家で
あること、すなわち音楽表現上ある情念が必要ならば、音楽家がその情念を自分のものとして感じ
直し、その上で改めて音楽家の感情表明として音楽上に発露すべきであると考えた態度とは異な
るものである。
このような多感様式の方向性は、次の時代に来る個人的な感情をもっと前面に押し出したロマン
派の音楽様式の前駆となっている。しかし、マッテゾンに見られる情念の客体化は、ロマン派へ到
る過渡期の未熟な段階を意味するのではない。バロック期・啓蒙期には人間理性に対する評価の
高まりがあったが、客体化・類型化された形式としての情念を描きつくすには、個人的な感情では
なく、理性的活動による創作によるしかないと考えられたのである。従って、芸術家自身が強い情
念に身を任せて陶酔的な心理状態に陥ってしまっては、客体化された情念を論理的に描出する
ことは不可能である。これは、作曲において楽想の構築と彫琢は理論的に効果を計算して行うべ
きであるという修辞学から来る技術的要請でもある。こうした作曲態度・演奏態度が、後の 19 世紀
の情緒的・主観的な美学と異なるのであり、この差異を進化史観的に評価して前近代的だと考え
るのは偏向した意見に過ぎない。
要素としての可算的な情念を音楽表現という形で具体的にどう表出するかであるが、音楽的な
要素として挙げられる諸相、すなわちリズム、旋律、和声、音色、アーティキュレーション、テンポ、
ダイナミクス、休符、旋法、調性、テッシトゥーラ、楽節構造、楽曲構造といったものに加えて、座席
配置、拍手、服装、ゼスチャー、会場といった実際の演奏場面に関わるあらゆる要素が情念表現
に関わってくるとされる。
ただし、ここに挙げられた中で、例えばゼスチャーや服装などというのは、直接的な音楽表現と
は無関係な要素に思われる。確かにまったく場違いな服装で奇妙なゼスチャーを伴って演奏され
たら、それだけで興が殺がれてしまうということはあり得るが、逆に言えば、純粋に音楽だけによる
情念表現は、服装やゼスチャーといった非音楽的要素によって容易に台無しにできるほど、か弱
いものであるということでもある。マッテゾンは、このように脆弱性を持つ音楽による情念喚起を確
実に遂行するには、上記のような諸要素を綜合的・協働的に総動員して適切に用いるとともに、音
楽家自身が「完全な哲学者」でなければならないとする。特に、音楽以外の諸分野における学識
という点を非常に重視するのである。
ひとつには、広範な情念を喚起できる人はその人自身が非常に多くの経験を積んでおり、多種
多様な情念を自分の経験として知っていなければならないということがある。そして、経験の豊富さ
というだけならば、浅く広く活動量が単に多いだけの人に利があるように聞こえるが、そうした個々
の経験を有機的に関連させ、演繹し、上層概念へと体系的に上昇していくには、学問としての取り
組みを通さなければならない。そして、そのような上層概念に対応する情念は、下位の情念よりも
より崇高なのである。いかに感受性が豊かでも、個人が感じる素の情念は下位のものである。学問
的知識を総動員してこそ、より上位の情念を描出できるのである。 このようにして、「学問としての音楽」という側面が「芸術としての音楽」と同時に重視された。マッ
テゾンの主著『完全なる楽長』の “完全” という意味は、まさに芸術と学問の両方を極めた音楽家
という理想像の意味である。ただし、音楽を学問と考える伝統はバロック期に始まるものではなく、
アウグスティヌスが 4 世紀には自由七課 (artes liberalis) の中の理系四課(算術、幾何学、天文学
音楽)の中に音楽を含めてその履修を推奨して以来、18 世紀頃まではヨーロッパの大学には学
問としての音楽という伝統があったのである。ただし、かなり早い段階から、音楽は文系三課(文法
弁証法、修辞学)の方へ近づく気配を見せていた。古代における音楽理論とは、比例計算や図形
の相似を基に、天体の運行における調和などとも対照させつつ世界の調和について研究する数
学的分野であった。しかし、そうした数学理論ではなく、より芸術的な表現論の方へ近づこうという
動きはルネサンス期を通じて常に胎動していたのである。バロック期には、数学的な音楽学もまだ
生き残っていたとはいえ、自然を範型にとり、自然模倣を最上位に置いたうえで、理論的知識や
技術は自然模倣のための道具であるという発想に到る。これは音楽の存在意義としては、「芸術と
しての音楽」が「学問としての音楽」から分離した事件だとも考えられる。正確に言えば、学問とし
ての伝統を失ったわけではないが、世界の調和を説明するといった数学的な音楽理論からは離
別し、学問をすべて情念描出のために役立てるべきという在り方の変化であった3。 「学問としての音楽」において、数学的音楽の伝統から離反し、文系科目に接近したバロック期
の音楽にとって、特に重要だとされた分野は詩学と修辞学である。(他には、宗教、諸外国語、倫
理学の知識は必須である。)
詩学と修辞学の重視は、「語りとしての音楽」という立場と軌を一にしている。情念描出を最高目
的と考えた場合、最も手っ取り早い方法は、情念に対応する言葉をしゃべることである。この意味
で、歌唱は常に器楽よりも上位の表現手段と考えられたし、器楽が声楽を真似るべきだとされた。
そして、弁論術や文芸における表現方法の学問である詩学と修辞学の技法と知識が作曲法にも
援用されたのは当然の流れなのである 4。しかし、あくまでロゴスによる弁説を最上位と置く立場か
らは、器楽曲は常に声楽曲の下位に甘んじなければならない。この問題に対し、マッテゾンは、器
楽曲は声楽曲の模倣に留まる必要はなく、なぜならば、個別の楽節を語るように演奏するよりも、
全体を情念に沿って統一的に構成した音楽の方が、情念とのより強い連関を持ち得るからだと主
張している。この主張の中には、言葉の模倣を離れ、純粋音楽の形式によって、言葉以上の情念
を喚起できるはずだとする、18 世紀末から起こった音楽形式の自律的発展へと向かう萌芽が見ら
れる。
器楽曲に対するマッテゾンこうした弁護は、18 世紀前半まで根強く残っていた器楽曲軽視の風
潮と、18 世紀から急速に人気を獲得してきた器楽曲というジャンルの発展という相反する世相に
向けてのメッセージであったろう。マッテゾンにおいても、声楽の器楽に対する優位性を反駁する
ところまでは行っていない。しかし、声楽の模倣という基本に従っても、器楽には器楽の様式があり、
声楽とは異なる特徴があり、器楽独自の表現方法を発展させることで、決して声楽に劣らない情
念表出の手段となるという信念の表明と考えてよいだろう。 18 世紀までに繰り返されたきた器楽批
判は、主に器楽の表現目的の無規定性に向けられており、「器楽といえども声楽と同じような情念
描出・情念喚起が目的である。しかし、その最適な手段は異なる」という認識の表明が、勃興する
器楽ジャンルを肯定する理屈として必要だったのであろう。
声楽と器楽との比較という点について付言するならば、言語による情念の表現力というのは、実
際には思っているよりもずっと局限的なものである。喜怒哀楽愛憎といった大まかな感情は言語に
よって言い表せるが、より詳細な心の機微については、いかに千万の言葉を重ねてもそれだけで
は他者に伝わるものではないし、またそのような言葉の壁というのは、思ったよりもずっと低位のレ
ベルで訪れるものなのである。(例えば、テーブルの上にあるリンゴの色を言葉だけで精密に描写
3 本当に学問としての音楽の伝統が失われ、低俗な個人の感情表出をもって芸術とする向きが出てきたのは 19 世
紀のことである。相補的に音楽を支えてきた知性と感性という両輪がバランスを失い、感性だけで芸術を説明しよう
とする野蛮な時代が現出するのである。
4 西洋には言葉による芸術を非言語的芸術より上位に見る長い伝統があった。古代ギリシャ神話では、葦笛を奏す
る牧神パンと竪琴を弾き語る太陽神アポロンが競演し、牧神パンが敗れるという話があるが(その際、唯一パンに
投票したミダス王は音楽を聴く耳を持たないという意味で、非常に非音楽的な泣き声を出すロバを引き合いに、王
様の耳はロバの耳と揶揄されることになる)、この両神は音楽性や演奏技術を競ったのではなく、楽器の優劣を
競ったという点が重要である。この神話は、演奏に際して必然的に口が使えなくなる吹奏楽器に対して、弾き語り
が可能な竪琴によるロゴスの勝利という見方ができる。こうしたロゴス優越思想が逆転されたのは、ロマン派の時代
にシューマンや文学者ホフマンらが、「語りえぬものを表現できるからこそ音楽の方が優れている」と主張し始めた
ときである。シューマンらは、音楽の持つ言語模倣機能は不十分である点を従来通りに認めつつも、その価値解
釈を逆転させたのであった。
しろと言われたら、ごく大雑把な赤とか黄色というレベルでは描写可能だが、より細部の描写とな
ればたちまち不可能になるのである。)これに対し、純粋に音だけによる情念喚起には、非言語的
な領域において大きな可能性があり、言葉では言い表せない情念を容易に喚起できる場合があ
る。こうした面も考慮すれば、言語表現と非言語表現との比較という構図自体が、言語表現を軸足
とする偏った視座によるものだということがわかる。声楽曲と器楽曲の「棲み分け」というのは、至極
妥当な結論であろう。
「学問としての音楽」と並んで、音楽には「芸術としての音楽」という見方があるが、マッテゾンは
実践を非常に重視した。つまり、思弁的な音楽理論を離れ、実際の作曲家・演奏家としての面を
重視し、理論や実践と経験が常に有機的な意味を持つように努めたのである。
マッテゾンの音楽情念論の限界は、神学や数学を離れた音楽の人間化を性急に行い過ぎたた
め、音楽の目的や手段がすべて情念に結び付けられていまい、音楽の持つ神学的・形而上学的
な部分が軽視されすぎた感がある。情念を目的とする音楽とは、畢竟、現世的な快楽を目的とす
るという立場に他ならず、これは音楽の持つ超越的・超自我的・形而上学的な可能性を切捨て、
結局は音楽の可能性を局限してしまったとの批難もある。また、元素的な情念という概念への批判
もある。バロック音楽によって主役が人間となったからこそ、人間の内面を表出するのに情念という
概念を用いる類型的・形式的・機械的な方法は限界をきたし、情念という概念はむしろ魂の真の
自由を拘束する非人間的な類型化であるという態度にまで到る。このようにして、情念論の批判を
通じて、18 世紀中葉の多感様式、それ以降のロマン派が巣立っていくのである。