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 会報 第 326 号・平成27 年 7 月号 相模国領を支配した大久保常春
島口 健次
江戸時代、烏山藩初代藩主大久保常春は、若年寄から老中に進み、相模国愛甲、大住、高座、鎌倉
四郡のうちから一万石を加増され、併せて三万石の大名となった(享保十三年(1728)
)
。この烏
山藩とは下野国(栃木県)である。この烏山藩相模国領は、鎌倉郡内の一部を除けば、そのまま明治
維新まで引継がれ、次第に窮乏する藩財政を支える大きな柱となるのである。江戸幕府常置の最高職
で将軍に直属して幕府全体を統括する要職老中となった大久保常春は延宝三年(1675)大久保忠
高の二男に生まれた。
忠高の祖父忠為は徳川家康十六将の一人、
大久保忠世の弟で、
忠世の長男忠隣は、
荻野山中藩主となる大久保教実の父忠朝の曽祖父にあたる。また忠為の弟忠教がご意見番として知ら
れた大久保彦左衛門であった。
大久保常春が将軍直席の幕府の要職である若年寄を勤めた十五年間は、
七代将軍家継の三年間と八代将軍吉宗の十二年間であった。大久保常春は幕政や儀礼に精通し、その
性格は温厚な人物であったと言われる。吉宗が将軍になると中絶していた鷹狩りが復興する。以降常
春は鷹狩りには吉宗に供奉することを命じられるなど、
信任が厚かった。
常春は享保十三年
(1618)
五十四歳で没したが、老中在任期間は四ヶ月であった。烏山藩厚木陣屋跡は相模大橋の相模川沿いに
ある。昭和五十二年に「史跡烏山藩厚木役所跡」の碑が建立されている。厚木市民は常春のことを余
り知らず、厚木歴史研究会では講演会の中で行っている。 (以上)