がん患者の看護の重要ポイント 〜がんの動物で起きる様々な事を知る〜 Cancer patient care for veterinary nurses 〜Understand the basic pathophysiology in veterinary oncology 〜 埼玉動物医療センター 腫瘍科 林宝謙治 講演の目的 1. 腫瘍随伴症候群とは何かを理解する 2. がん患者の治療中に起こるさまざまな事を知る キーポイント 1. がんとがん患者を理解して看護する 2. 腫瘍の知識を身につけて看護する キーワード:腫瘍随伴症候群 腫瘍溶解症候群 発熱性好中球減少症 DIC はじめに 腫瘍随伴症候群(Paraneoplasti syndrome: PNS) という言葉は,動物看護師にとってあまり聞き なれない言葉かもしれない.PNSとはがんが原因でがんの発生部位から離れた場所で起こる体の 構造や機能の変化である.頻度の高いPNSを知っているとがんの存在を早い段階で気づことがで きる.また,PNSの中には緊急性を要するものもあり,即時の病態の把握と治療の開始が求めら れる. がんと診断された患者の治療中には,他の病気にはない様々な副作用が見られる.外科手術 後に身体中に微小な血栓が形成される『DIC』,抗がん治療後にがん細胞が一挙に死滅する事に よる『腫瘍溶解症候群』,抗がん剤の骨髄抑制による『発熱(発熱性好中球減少症)』などの知 識をもって治療に参加する事は極めて重要である. 本講演の内容は動物看護師にとって少し難しい内容かもしれない.しかし,がん患者を理解 するために重要な内容である.発生頻度の高いPNSとがん治療中に起きる患者の変化について, できる限り簡単にわかりやすく解説する予定である. <高カルシウム血症を起こす主な腫瘍> ・ リンパ腫 ・ 肛門嚢腺癌 ・ 多発性骨髄腫 ・ 胸腺腫 ・ 乳腺癌 ・ 上皮小体腫瘍(原発性上皮小体機能亢進症) 犬・猫で高カルシウム血症が起こる原因として,最も一般的なのは癌である.様々な腫瘍 が悪性高カルシウム血症と関与している.リンパ腫は高カルシウム血症の最も一般的な原因 であり,高カルシウム血症を伴うリンパ腫に罹患したイヌにおける解剖学的発症部位として, 最も多いのは前縦隔(25-50%で高カルシウム血症)である.高カルシウム血症を発症する他 の主な腫瘍には,肛門嚢腺癌(25%以上),甲状腺腺癌,多発性骨髄腫,骨腫瘍,胸腺腫,乳 腺癌,上皮小体腫瘍がある.ヒトでは,癌患者の 5〜30%で高カルシウム血症の発症が見ら れる. がんに関連した高カルシウム血症の治療において原疾患(がん)の治療が最も大切な事は, 言うまでもないが,がんの治療が奏功するまでの間の対症治療として様々な治療が行われる. 脱水状態にある患者では,まず生理食塩水の輸液により水和を行う.十分に脱水が改善され た後に利尿薬であるフロセミドの投与を行いカルシウムの吸収を抑制する.ステロイド剤も カルシウムの吸収を阻害する作用がある.しかし,ステロイド剤は,確定診断の妨げになる ばかりか,リンパ腫などでは後に実施される抗がん治療の効果を減弱させる可能性があるた め,確定診断が下される前は使用を極力控えるべきである.その他にカルシトニンやビスホ ホスネート製剤もしばしば使用される. <低血糖を引き起こす代表的な腫瘍> ・ インスリノーマ ・ 肝細胞癌 ・ 胆管腫瘍 ・ 平滑筋腫 ・ 平滑筋肉腫 犬の低血糖の原因で最も多いのがインスリノーマ(膵臓の腫瘍)である.低血糖は,腫瘍 からインスリンもしくはインスリンに似た物質(インスリン様成長ホルモンⅡ:IGF-Ⅱ)が 過剰に分泌されることにより引き起こされる.上記腫瘍以外にも全ての腫瘍で低血糖が起こ る可能性はあるが,報告されている腫瘍としては,リンパ腫,血管肉腫,メラノーマ,多発 性骨髄腫などがある. <貧血> 貧血はがん患者で非常によく見られる腫瘍随伴症候群である.人ではがん患者の 20〜25% で貧血が認められると報告されているが動物の発生率は不明である.貧血の原因は,慢性疾 患による貧血,リンパ腫に関連する免疫介在性溶血性貧血,がん細胞の骨髄転移,がんに起 因する出血など多岐にわたる. <播種性血管内凝固(DIC)> DIC を知らずして,腫瘍の治療を行うことは非常に危険である.DIC とは,字のごとく種 をばらまくように血管の中に血の塊(微小血栓)ができる状態を言う.もちろんがん以外の 疾患でも起きるが,進行したがん患者では高い確率で DIC が起きる.DIC は微小な血栓があ らゆる臓器の血管に閉塞することにより多臓器不全を起こすため,死に直結する病態である. がんのそのものの治療と平行して DIC の治療を行わないと動物は死に至る.血栓が作られる 主な原因は,がんによる炎症,がんから出る組織因子と言われる物質が血を固まりやすくす ると考えられている.また,手術自体の侵襲も DIC の引き金になる事もあるため,侵襲の大 きい手術後は,常に DIC に対する注意が必要である. 本講演では,動物看護師に DIC を理解していただけるように特に時間をかけて丁寧に説明 する予定である. <がん性悪液質> <がんの治療中に動物に起こる様々な事象とその対処法> 『よく食べているのに徐々に痩せてくる』という症状は,がん患者の典型的な一つの症状 である.この状態がまさにがん性悪液質である.がん患者では,がん細胞によって栄養の吸 収や代謝に異常が起こり,食べた栄養が十分に利用できず,がん細胞に栄養を奪われてしま うのである.がん性悪液質に陥った動物は,活力がなく,治療に対する反応も悪く,生存期 間も短縮することがわかっている. 人では入院がん患者の 40-90%でがん性悪液質の状態があると報告されている.獣医学領 域での発生率は報告されていないが,人同様に高い確率でがん性悪液質の状態に陥っている と考えられる. がん性悪液質を理解し,代謝異常に陥らないようにあるいは,代謝異常を改善させるため に適切な栄養管理を行うことは,生活の質の向上にも治療効果を上げるためにも重要である. 非常に簡潔にがん細胞の栄養の好み表現すると,をがん細胞は,炭水化物が大好き,たん ぱく質は普通,脂質(特にオメガ3脂肪酸)が苦手である.この特徴を考えて栄養管理を行 う.炭水化物は必要最小限でオメガ3を多く含み,たんぱく質は良質なものを適度に与える のが良い.サバやイワシなどのいわゆる青魚にはオメガ3脂肪酸が豊富に含まれている.ま た,これらの栄養を考慮した市販の食事も販売されている. <がんの治療中に動物に起こる様々な事象> 1. 腫瘍溶解(崩壊)症候群 抗がん治療や放射線治療などでがん細胞が短時間に大量に死滅するとがん細胞内の リンやカリウムなどのミネラルが一挙に血液内に入り,急性腎不全や様々な臓器障害を 引き起こす.この病態を腫瘍溶解症候群と言う.この異常は,治療の開始後数時間から 数日の間に発症することが多い.例えばリンパ腫の治療を開始した際に抗がん剤がよく 効いてリンパ節が急速に小さくなっているにもかかわらず,動物の病態が著しく悪化す ることがある.このような時は,真っ先にこの腫瘍溶解症候群を疑う.腫瘍溶解症候群 を予防するには,治療開始直後には頻繁に血液検査や尿検査などを実施し,状態の変化 を把握することと,積極的な輸液療法が重要である. 2. 発熱性好中球減少症 抗がん剤の副作用(骨髄抑制)で好中球減少症は頻繁に見られる.このような動物は 感染症が非常に起きやすい状態にある.発熱性好中球減少症は,字のごとく好中球が減 少した際に感染症が起こり,発熱した状態のことを言う.具体的には,抗がん治療後に 好中球数が 2500μ/l 以下で安静時の体温が 39.2℃以上あるいは 36.0℃以下と定義され る.抗がん治療中は,できる限り家庭で体温を計測していただき,発熱を早期に発見す ることが極めて重要となる.発熱性好中球減少症は,早期に発見できれば適切な抗生物 質の投与や好中球を増加させる薬剤(G-CSF 製剤)などの治療で回復が可能だが,治療 が遅れると死に至る事もある. 3. 出血性膀胱炎 シクロホスファミドには,他の薬剤にない代表的な副作用として出血性膀胱炎がある. 副作用回避の方法として投与後の頻回の排尿や利尿剤の投与が推奨されている.一度こ の症状が発現すると動物によっては数ヶ月間血尿や頻尿の症状に悩まされることにな る.特に治療直後から数日間は,尿の色や排尿の状態に注意する必要がある. 4. 抗がん剤の漏洩 ドキソルビシンは,点滴中に誤って血管外に漏出すると漏出部位が壊死し,悲惨な結 果を招く.投与中は厳密な管理が必要であり,動物の性格によっては鎮静下で投与する 必要がある.万が一血管外に漏出させてしまった場合は,投薬を直ちに中止し留置針引 き抜かずにその留置針周囲から漏れた薬剤を可能な限り吸引する.その後冷湿布を用い て 1 回 10 分 1 時間毎に患部を冷やす.この処置を 24 時間継続する.可能であればドキソ ルビシンの拮抗薬である dexrazoxan を投与する. ビンクリスチンとビンブラスチンも血管外漏出で周辺組織の壊死が起こる.血管外漏 出の際の対処方法がドシソルビシンと全く異なるため注意が必要である.投薬を中止し, 留置針から薬剤を吸引する所までは同じ対処方法だが,その後局所に生理食塩水を注射 し,冷湿布ではなく温湿布を数時間行う事が推奨されている.ドシソルビシンの漏出時 には漏れた薬剤を出来る限り局所にとどめる(拡散させない)のに対し,ビンクリスチ ンの漏出時は局所の吸収を促進する事が重要と考えられている. <動物看護師が抗がん剤に暴露しないために:安全な取り扱い> 抗がん剤は,抗がん作用を持つ一方で発がん性のある薬剤である事を知っておかなければな らない.抗がん剤の不適切な取り扱いは,治療に携わる獣医師,動物看護師,更には動物のご家族 を発がん物質に暴露する結果となる.抗がん剤の暴露を防ぐために以下の方法を徹底する. 1. 注射用抗がん剤,あるいは経口用抗がん剤の調剤時には生物学的安全キャビネットを極 力使用する. 2. 特に安全キャビネットがない施設では経口用抗がん剤の分割,粉砕は絶対に行わない. 3. 閉鎖式薬物混合器具は,抗がん剤の注射薬を扱う際に薬剤の飛散を防止する器具である. 動物病院では未だ使用している施設が少ないのが現状であるが,暴露を防ぐためには極 めて有効である. 4. 抗がん剤を取り扱い際はマスク,手袋,帽子,ガウン,ゴーグルを着用する. 5. 可能であれば抗がん剤は専用の冷蔵庫で保管する. 6. 抗がん剤の投与場所,調剤場所での飲食は厳禁である.
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