五穀神社 久留米大学留学生別科 A クラス 213BD12 劉宇 1. はじめに 日本の著名な文化観光地といえば、各地にある神社だ。日本に来たら、神社がたくさ ん見られる。では、神社はどんなところだろうか。実は、神社は人々が神様にお願いす るところである。私は、日本に来てから、ずっと久留米に住んでいる。初めて来たとき、 日本のことに好奇心をもった。そして、旅行に行った。京都に行ったこともある。京都 には日本の昔の文化をよく表している。最近、私は今住んでいるところの近くにある、 五穀神社という神社に行った。京都の天龍寺や久留米の高良大社と比べると、五穀神社 はあまり大きくないが、久留米市にとって、重要な意味がある。だから、五穀神社のこ とを調査してみたいと思い、このテーマを選んだ。 2. 概要 「久留米ものしり事典」によると、以下のことが分かる。久留米の五穀神社は 1749 年に建てられた。久留米藩主の有馬頼徸が五穀豊穣を願って、インドの農耕の神様を祀 った。久留米藩の住民も寄付をした。1806 年に、住民からの寄付で石造太鼓橋ができ た。一番繁栄していたとき、神殿、神宮寺円通寺、阿弥陀堂、地蔵堂、観音堂などがあ った。二月と九月にお祭りがある。 櫛原天満宮のサイトによると、田中久重は子どものころ、五穀神社で遊んでいた。田 中久重は五穀神社で「カラクリ人形」を見て、強い興味をもった。その後、五穀神社の お祭りで田中久重はカラクリ人形を見せた。東芝の創業者、田中久重は久留米の出身で、 「からくり儀右衛門」と呼ばれていた。JR 久留米駅前にあるからくり太鼓時計は儀右 衛門が製作した「太鼓時計」を題材にしている。自分で創意工夫して「からくり」に力 を注いだ。「五穀神社がなければ「今の日本を代表する電機メーカー 東芝」はなかっ たかも知れません」と言われている。 五穀神社には、どんな神様を祀っているのだろうか。櫛原天満宮のサイトによると、 最初はインドの農耕の神様だった。農耕神婆珊婆演底主夜神という。いま五穀神社に祀 っているのは豊宇気比売神(とようけひめのかみ)と稲次因幡正誠公(いなつぐいなば まさざねこう)だ。豊宇気比売神は日本の総氏神さまとされる伊勢の神宮(外宮)のご 分霊とされ、五穀豊穣、商売繁昌をはじめ、私たちの生活全般をお守り下さる神さまだ。 1728 年 8 月、生葉、竹野、山本の三郡の農民は、久留米藩の重税に耐えられず、減税 運動の一揆を起こした。総勢 5,700 余名が武器を持って善導寺に集まり、御井町まで押 し寄せた。家老の稲次因幡正誠は、一揆を起こした首謀者とひとりで会いに行き、「農 民の要求に応じる、以前の税は1割1歩減税、首謀者の処刑はしない」という約束をし て農民の苦しみを救った。農民は喜んでいたが、家老仲間の不満、藩の殿様の怒りが収 まらず、1734 年、御原郡津古村(小郡市)の庄屋である斉田氏宅に幽閉させられた。 三千石の家老職を失い、1736 年に、34 歳で亡くなった。罪人になったため、城下町に 帰ることができず、小郡市の霊鷲寺(りょうじゅうじ)に葬られた。そして、彼の死後 12 年目、1749 年、稲次因幡正誠公の人徳をなつかしく思い慕う農民が、五穀神社ご創 建にあたり、農業の神様として祀った。これは五穀神社に祀られている神様の歴史であ る。五穀神社の主な祭典は以下の 7 つである。1 月 1 日は歳旦祭だ。2 月 15 日にはおか ゆ炊き祭がある。3 月 15 日はおかゆ祭で、4 月 25 日は天満宮春祭という祭りだ。そし て、7 月 21 日は夏祭で、10 月 15 日には例祭がある。最後に、11 月 18 日には秋葉祭と いう祭りがある。 五穀神社の中と周辺はどんな様子だろうか。五穀神社の隣に、中央公園と百年公園が ある。そして、周りに幼稚園と小学校がある。環境は非常に良好だ。西鉄久留米駅から も近くて、五穀神社のバス停があるので、交通はとても便利だ。神社の前に来ると、鳥 居が見える。中に入ると、 「五穀神社と『からくり儀右衛門』」という石碑がある。ここ に大きな石灯籠がある。周りは全て緑である。もっと進むと、石橋(写真1)がある。 この石橋は 1749 年、久留米藩 7 代有馬頼徸によって創建された五穀神社の池にかけら れた石造反橋である。石橋を渡ったら、いろいろな人物の像が目に入る。これは久留米 にとって、大切な人物の像だ。 「井上伝女」という女性の像と「田中久重翁」の像があ る。二人の像を過ぎると、社殿(写真2)が見えて来る。石段を上ると、右手には手水 所がある。その後ろは五穀神社の社殿だ。風景はとてもいいと思う。 写真1 石橋(2015 年1月 19 日撮影) 写真2 社殿(2015 年 1 月 19 日撮影) 3. インタビューの結果 2015 年 1 月 19 日に櫛原天満宮でインタビューを実施した。インタビューに答えてく れたのは、神社の神職の方だ。 1)Q:最初、五穀神社にはインドの神様を祀っていましたが、明治時代の時、現在の豊 宇気比売神に変わりました。それはどうしてですか。 A:明治時代の神仏分離で現在の豊宇気比売神を祀るようになった。 2)Q:五穀神社を建てたきっかけは何ですか。 A:昔、久留米の農民は五穀豊穣を望んで、五穀神社を建てた。 3)Q:今まで補修したことがありますか。 A:修理はときどきやるけど、お金がないから、そのままおいている。 4) Q:五穀神社と櫛原天満宮はどんな関係がありますか。 A:櫛原天満宮は五穀神社の上の神社として、五穀神社を管理して、本社と支社の ような関係になっている。 5) Q:五穀神社にはいろいろな人物の像がありますが、それはどうしてですか。 A:あれは五穀神社が久留米市に境内の一部を貸しているので、久留米市が久留米 の偉人の像を建てたからだ。 4. まとめ 日本では、神社はどの町にも、あちこちの地方にある。しかし、神社はそれぞれ特別 なところを持っている。例えば、護国神社は国家を守ることを祈る神社である。久留米 の五穀神社は、五穀豊穣になるために、お祈りするところだ。だから、神社の歴史的背 景によって、神社の意味が違う。日本の神社は、日本の文化を表している。日本の文化 に興味がある人にとって、神社はいいところだと思う。もし、豊かな生活を送りたいと 願うなら、五穀神社はいいところだ。しかし、少し残念なこともある。それは、五穀神 社の管理機関はお金がなくて、長い時間補修していない。もし、政府が資金面で五穀神 社を支えて、もっときれいな神社を作ったら、観光客が多くなると思う。 参考文献 櫛原天満宮・五穀神社ウェブサイト 「五穀神社」 http://kushihara.net/modules/shoukai/index.php?content_id=2 (2015 年 1 月 19 日参照)
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