商品生産の發展と寄生地主制の成立

庄
商品生産の登展と寄生地主制の成立
問 題 の 所 在
司
吉之助
幕末の幾多の農産物の内には農民の手元で原料を加工又は完成して、多かれ少かれ販売している商品がある。それ等の商品には、日
とがある。㊧更に一地域叉は一村落に城下都市の特灌商人又は農村の商人の手を通じて遠.隔地で生産されて移入される商品もあり、又
村落内部で生産され村落内部で消費される商品と目一定の地域を構成する数ケ村落で生産され、この歎ヶ村落によって消費される商品
それ等の都市又は農村の商人の手を通じて一地域又は一村落から遠隔地に移出される商品もある。このように三つの商品流通の系列が
みられ︵拙稿﹁地方的市場の形成問題﹂本誌第一九巻第一號及び﹁東北における商業資本と其生産支配形態﹂本誌第一五第第二號︶、
更にこれに加えて領主が農民からの貢納物を原料のまま叉は完成して遠隔地へ專費する商品もある︵拙稿﹁封建社倉における工業の生
産形態﹂本誌第二三巻第一號︶。以下、これ等四つの商品流通の系列を通じて、誰がどのようにして商品を生産し叉は販費し、或は商品
を買占め市場を掌握したか、更にそのような商品市場をめぐって、どの階層が﹁産業資本家﹂となったか、叉成長しつつある﹁産業資
本家﹂が流通輕濟にまぎこまれ他の諸階級とどのように封抗し、どうように共同体を解体させていったか等の諸問題について、極めて
素朴なところがら立入ってみることにする。さて商品化される農産物の内にはそのまま商品となる農産物と加工用原料としての農産物
等とのそれぞれ異なるものを含むが、それは次のように匠分できる。
一、食料品 米・大小麦・大豆・蔬菜類
二、特産物 人蔘・煙草・漆蝋・菜種・茶・こんにゃく
1商品生産の襲展と寄生地主制の成立− 一四五
t寄生地主制研究− 一四六
三、衣料生産物 生糸・綿・麻
この場合・米以外は畑作物の商品化である。三つに分けた理由はeの食料品については後にふれるが、⇔.と㊧については、㊧のように
農村内部から成立すべき資本制工場への、原料生産としての展望をもつものと目農村内部では原料叉は加工生産に留っているもの︵一
にし・どのような相異なる形態で市場に関係してゆくのかということになろう。二貢にして述べれば、⇔の特産物は簡単な手工業的原
応明治前期までを対象とする︶と大づかみに二つあるとみたためである。それでは同じ農産物でもどのように爾者は商品化の形態を異
料加工生産にとどまるか目の衣料生産物は原料加工の段階で商品化されるものと完成商品として販売されるものとに分れる。このこと
から商品市場をめぐって二つの動きがみられてくる。ωの特産物は簡輩な手工業的生産物又は原料加工生産物を中心とするもので二つ
に分けられる。すなわちωは領主の貢納的商品で專費化された漆蝋に代表される。図は商業資本が買占める商品で、原料、加工の段階
で商品化され、したがって農村外の完成商品生産へ原料として販費出来るような商品、例えば、さきにあげた人蔘、煙草、茶、こんに
ゃく等の生産物である。このように特産物としてあげた酉品には全部とはいえないが領主と商人が吸着し、前期的支配が行われる。㊧
の衣料生産物は作付←原料収穫←加工←完成商品という工程をもち、たとえ原料加工段階で買占め資本を媒介するとしても農村内部で
の完成商品の生産が可能であった。この二つの相違が問題として考えられる。更にてのような特産物と衣料生産物の販売は領主及び新
・薦特権商人の手を通じて行われ、したがって領主及び新奮特槽商人が農民的商。叩生産の饗展を阻止したが、生産力の護展はこれ等前
期資本の排除に向って闘雫を展開するのである。
更に前に掲げた食料生産物の問題がある。特に米は生産物地代としてその七〇%まで収奪され領主の遠隔地廻米で商品化される。領
内で販売される米は領主の梯下米、農民の自給余剰分としての、叉は窮迫の結果としての販売米、地主徳米等であり、共に遠隔地から
も、地域内叉は村内等からも、商人の手を通じて商品化されているが、注目すべきは地主徳米︵自作地分と小作地分より生ずる︶と特
産物の商品化とを媒介としてえた商業利潤によって﹁産業資本家﹂へと成長する階層が形成されてくる事實である。このことは、﹁資
本﹂形成の端初問題、明治維新前後父は以降にかけての寄生地主が、小作料を土台として醸造又は製糸.織物工場を創出し或は大政商
資本の銀行会社、工場へ債券投資を行う原型として捉えられる。したがって﹁米﹂の問題については領主の無償収奪による廻米からの
現金収入を建前とした市場における、地主、商人の販売槽獲得と資本の蓄積の問題が考えられる。その意味で畑作における特産物の生
産と稲作における米の生産とをにらみ合わせると特産物叉は衣料生産物の商品化は商業利潤を生み出し、叉水田農業の生産力発展にも
とずく米の商品化も商業利潤を生み出し、かかる商業利潤が、小作料と共に、 ﹁産業資本家いを形成したのである。このことからまた
畑作における特産商品又は衣料商品の護達と水田農業の蟄達は同時的に展開しているということができる。そして、畑作経螢と稲作経
管の襲展において右でみた商品市場を中心に農民層の階級分解が行われ、階級闘孚が展開される。
これが以下でのべようとする問題黙である。取扱うところは幕末における會津藩領内︵主として南會津都楢原組と耶麻郡加納村及び
北會津郡勝常村︶を劉象とするものであるが、特に寛政の藩政改革から明治四年ころまでの間について述べる。企聞するところは、明
治元年に起つた世直し農民運動の経済的・社倉的分析であり、更に自由民縷運動へ展望をあたえようとしたが、資料不足でその運びに
至っていない。
第一 商業的農業の発達と商品市場 −領主の規制と商業資本i
ます幕末に齢ける會津藩領内の諸商品がどのように販費されていたかを知らせるのは第1表の輸出入物産表である。明
治八年の調査であるが、米類・蝋・茶・蚕糸・綿・麻・人蔘。茶等の八品目について領内からの輸出と領内への輸入とを
比較してみる。輸出・輸入の差は、輸入が一万八千九百余円多いが、輸出について各品目別にみると米はその二五%に上
り、次が生糸の二四%、人蔘二二%、麻類の加工品が一〇%で米が輸出の主位を占める。蝋燭、煙草は輸入よりやや上廻っ
た程度である。輸入品は養.慧業と關係する難種と絹織物の二一%、綿織物や綿糸加工品の七八%と古着が入っている。更
に茶と生蝋が輸入されている。このように輸出。入の諸商品は相似てしかも異った様相を示している。米の大量輸出が領
内市場から満ち出たものとしても、その内容が問題であるが、ともかくそれは輸出の主位である。米類以外の七品目につ
いて概観してみれば蝋燭についてはその原料は流蝋專費制で農民自らが市場へ持ちだすことはなかった、後には漆木栽培
一商品生産の螢展と寄生地主制の成立一 一四七
!寄生地主制研究− 一四八
燭茶
44,219 23.2
繭
木
綿
綿舶繰西古
来 洋
種布 布布綿糸着
66,439 34.9
26.055 13.6
麻麻麻蚊
布糸苧帳
1,187 6.5
人募
1.47510.9
煙草
備考 「若松県全図」明治八年より
されるが、小千谷の縮布織の原料、
商人資本の支配はつよい。麻は輸出
領内で織出しているものの、遠隔地
と加工綿が大多数で、木綿布として
初から近畿地帯から輸入される原綿
木綿は領内自給生産で間に合わ。す幕
から輸出への轄換の様相をみせる。
と山形縣米澤地方からの輸入で輸入
る。意種や絹織物は信夫・伊達地方
養慧経鶯をはじめ漆木栽培と交替す
いた山間地帯や畑作地.帯では新しく
商人や近江商人の支配下におかれて
しかし、古くから生糸を生産し、聖
の衰退で輸入されるようになった。茶は寛政以降栽植され水戸方部へ輸出される程盛んになるが、輸入茶と封抗關係に入
1
る。繭・生糸は幕初盛んであったが、中期以降衰退し、寛政以降桑園が拡充される。
別
別
1,434i o.7
蝶製
3・850i2・2蚕
蚕糸
2.003
4,564 2.3
1 [
0.5
1同ぎざみ
P 1
P 1
1・21き’ざみ1 1’02
,葉煙草
9,。毘14!1
米類 蝋茶
’ 1.0
100
71593
計
1 1
0・7
1,323
9・,546110?。
合
37.182 21・6
募
人
PL6
2’785
!.1
2,165
5.5
10,378
3.85318
ンド綿布
1,019 0.6
麻
!
6.410−3.3
3,375 1.9!
7,577 9.2
42,533『24.8絹
生糸
米
米
円 %
43,582125.4
1’97。11.1
1,0080.5
大豆
5,456「3.2i生
生蝋
茶
豆
大
輸 入
輸 出
種
種
これ等の諸商品は會津領内手塩部に語いても若干みられるが、 ここで取扱う地域は畑作地帯の南會津・河沼.大沼西
本の手で領内又は領外に輸出されるが、水戸・田村・石川周邊の生産と封抗關係にあったといえる。
領は買上げ制から專責制へ移行しようとする程盛大に生産される。葉煙草は古くから生産され、自由生産・販責、地元資
文は江戸・大阪方部へ麻苧原料のまま地元商人の手を通じて出される。人蔘は享保以降普及するが會津颯領は專責制、幕
第1表会津地力鍛出・齢入物産衷
一町
八 等
三反!
九等
小野、桑取火、音金
九々
十等
一−五反.−
布
旨旨
二反
大沢、安張
備考 会津郡第一大区、七小区各村田畑・仮便覧表
郷村市場と人蔘市場の構造
五畝
一町−
七反五畝 九反
五 等
九肉布、田代、湯原、
桜山、中倉、磯上、杉
沢、南倉沢
一四九
岸と山谷の開けたところ
は街道筋を流れる川の沿
上・下二郷の農業生産
る。
道を中心とした地域であ
線、つまり若松←田島街
から田島町に出る會津
り、この二郷は現若松市
る。各郷の下に組があ
・下郷の二郷にまたが
こで、取扱う地域は上郷
に組織されているが、こ
数ケ村をあつめて﹁組﹂
﹁御蔵入﹂とも総されたところである。會津領と同じようズ
部・耶麻の各部の一部と水田地帯の北會津郡一部、 耶麻郡加納村及び喜多方町周邊とである。それではどのようにして商
湯、合
出落
偲小・
田・成
層豊
聾肱
、大、
岩、尾
白辰沼
六反
白岩、芦原、大内、水
抜、日影、萩原、成岡
塩生、張平、小松川、
赤岡、木令
七等
中妻、磯上、志源行、張
平、杉沢
六等
中妻、沢入、根松、寺
山、松川、原村
四等
小出、石井、彌五島、
赤土
品生産が展開していったのであろうか。
田
三 等
四 1寺村、倉谷、安張、原、戸
反五石ζ小池、板倉、塩生、小
枝沢目
一反
二 等
畝松川、寺村、松川、南倉
一 等
反1音金
_i彌五島、沢入、大窪、水
二1門・芦原・大内・水抜・
1桑取火、萩原、成岡原、
1商品生産の登展と寄生地主制の成立1
i水門、沼尾、倉谷、原村
i戸石、小池、豊成、落合
石井
寺際新田、寺村
五畝、
一戸当
文田
等級
桜山、赤岡、木令、檜原
南會津郡と大沼郡西部の一部を含めた各村は幕府支配地で
第2表 村別田畑等級と一戸当り土地所有:反別表
−寄生地主制研究t 一五〇
に行われるが、田は少く畑が多い。しかし第2表にみられるように幕末.明治初年當時の農業技術段階は高い方であった﹃
とみられる。水田は一等から十等までの内五等までが大半を占め、畑は四等から十等までが大部分である。畑は水田より
熱地ではないようである。これを田畑別一戸當りに計算したところによると、田は一等地をもつ村は一反五畝、二等地で
三反、三等地で四反、四等地が六反、五等地七反五畝という水田の狭少さを示し、畑は一等t三等まではなく、四等の六
備考 明治9年「田畑合計寄付帳」
ド
塩生 !.OlOII小檜川i 857
1 :
松川:1・085i沢入i 861
赤岡1.0131 鼈ー原1 830
レ
張平 1.000!水抜… 703
寺村11・065i志源田1 759
水門…1.・231…石井!759
中妻iLO901原i773
原村口・0751…日影i765
成岡!LO491大沢一 602
677
湯原1 930i小野 檜原・ 978i沼尾1 613
豊成 9151磯上・ 694
!
九涛布 9411戸石 663
田代…981/桜山…5う1
小出1 8801大内: 420
安張一
W1打板松一464
萩原… 81h赤土’ 273
i i
小池i 835i野際1 184
白岩一922i大窪 628
板倉1830i ;
このような農耕駄態については﹃,南
われる。
ので明かでないが、生産力は低いと思
當り生産量は畑のそれに埋没している
八升四合という序列をみる。水田の反
村、以下一位づつ下がって反當り一斗
に、一石台の村が九村、九斗台が六ケ
ると、彌五島が一石一斗三升一合を筆頭
その實撒は不明であるが、第3表によ
反から十等の一町五反まであり、大体一戸富り七反−一町二、三反を上下している程水田に比して廣い土地を耕作して
いる。更に田畑を合計した、反當り生産量、 といっても石高に表現されたもので、
村名i反当り1村名「反当り
彌鴫1,有3,!…寺山嘆3。
いるもののうち年間粟、稗、山野の糧物を以て生活の資としているものが四十,一人で、年間飯米を自給し得交高利貸を行
+株のところあり︶をもつ白岩村の農民生活を安政七年の戸前強弱帳によってみると、漸く生活している者四人、自作して
る程河川と山間に展開する畑作に依存しているところである。年間飯米は自給し得ない。水田で一等地︵一坪稻株百五、六
同
様
﹂
︵明治元年辰願書︶といってい
會津、大沼爾郡中村西の儀、大山一廓の場所、幽谷村に居住、誠に綾部の薄地にて皆畑
第3表 神別田畑計反当生産量
つているものは四戸あるのみである。
白岩村戸前強弱改書上帳
一、鰥寡、孤濁の者にて漸く、露命取績罷在候
て自作粟、稗、山野種物等にて雪中漸く相凌申候︵内馬所有二人︶
一・自作雑穀等山野の種物にて夏迄取績申候︵内馬所有十一人・土蔵所有一人、馬、土藏所有一人︶
一、自作粟、稗の撮物にて出殻迄取績申候︵内馬所有三人︶
一、自作雑穀、山野機物にて年中差支無之候︵内馬、土蔵所有二人︶
一、自作粟、稗等用ひ又は諸差引取績申候︵内馬、土蔵所有二人︶
白岩村百姓代 彦 藏 右 村 名 主 玉
安政七年申二月
彌五島名主立会 長
右村組頭 新 十 郎 たとえ五等以下の劣悪條件の下にであれ、畑作経螢
“一 石
ロ ド
大豆1 110
木11go
小豆i 30
粟 85
ド
t船
葭葉… 80
麻i 170
ド
人蔘i 35
ひ大小菜 盛人
え萎萎種[ 一葉羨渉
1 〆
蝋1 45
繭:2石
1 反
麻布!180
麻 蝋繭
そば1 72
40
き翻 18
一商品生産の獲展と寄生地主制の成立i
種別隊一量
麻繰糸P40・00
1 くり
馬、 80
備考 明治7年
煙草、麻、
一五一
人蔘、葭葉等の特有農産物の生
向候︵明治元年辰願書︶
々の入金を以て御年貢上納並飯米買入代金迄差
葺又は木材等︵木薪切旦雇︶出稼に罷出、右品
國小千谷等相擁ひ︶産業を以て取続き、且つ雪中農隙の内、男は十月下旬より十二月下旬迄、春は正月より八十八夜頃迄關東表へ屋根
畑物煙草、麻始め︵出産の村寺にては、從前開東下妻城下迄問屋を相立置、出荷の分於問屋場責梯︵叉は青苧等の品々江戸表或は越後
にかり立てられ諸商品生産による現金獲得を行っている。すなわち、
右によって農民暦の分化の度合も知り得る.水田は狭少であるが、
郎 郎
二二五十十四
九七
人人人人人人
兵 太
沼 川
諸生産物
1寄生地主制研究− 一五二
産と出稼が現金獲得の、王なものである。彌五島村の場合を掲げてみると︵前頁︶、米、他の雑穀、菜種、藍、人蔘等の特有
農産物、麻と麻織物の加工品や織物、僅少な養麓等を行っている。
このように水田が少く、畑に依存する状態下の農民はどのように階層的に分化していたかというと第4表の彌五島村の
ように、十二石−十五石まで六戸、十一石五戸、十石六戸、九石四戸、八石七戸、七石四戸、六石八戸、五石九戸、四石
六戸、三石以下九戸に分れ、最大持高は十五石で十石i七石が中位を示し、六石以下のものが多い。もっとも持高では現
實耕作高はしり得ないが︵後出︶、ともかく零細な持高である。
6.7200
6.8039
井
平 之 之治
5.4620
5.0748
治
4.3578
4.9830
4.1280
三 三
藏吉太郎か郎
4.0727
宗彌清伊た兵
一−
6.5280
6.4436
5.0511
5.1375
4.7442
m叶!
3.8584
3.9368
3.4103
⋮,團−−﹁日一
1.4845
百次
代や兵
二石−一石
︵四戸︶
八松兵福伊 辰千ひ佐
三 石︵五戸︶
1.8027
6 3 4 2 16 2 4 9
3.0669
藏郎藏松助 藏太く衛
2.6726
一 一 一 ﹃ 11 ﹄ 一 ﹄
5.2861
市春寅文重悦徳丹磯
4.1040
四 石 ︵山ハ一月︶
2.0751
−一一, 司1:
5.7672
助吉吉藏治藏郎作吉
5.3604
石︵九戸︶
3.1642
一 一一一一−]
6.8193
654366
47
44
5553
61
80
7349
57
6.2823
衛守助藏つ吉郎太
6.7181
喜室吉品た己熊寅
5.5675
之
6.7700
六 石︵八戸︶
5.1100
五
石
奥
農民名
持 高
人籔幡
以上は南會津地方に展開されている.零細な畑作中心の諸商品生産の状態を示したのであるが、右の諸商品生産と表裏關
持高表 (明治元年十一月)
12.8。26t8
12.2742 4
1898
6352
5083
!797
10.8270
10.9475
︵六戸︶
十一石︵五戸︶
石︵六戸︶
10.5957
9.5875
9.2984
8.6385
8.9741
8.2144
衛藏吉七助久郎
8.0665
k r 一
石︵七戸︶
半与藤栄彌彌久
一兵 太
8.1863
8 3 4 8
藤兵衛
喜右衛門
栄治郎
備考 明治六年十一月r當辰戸軒書上帳」
7.1748
七石︵四戸︶
7.8536
7.7875
3 6
8 6 9.9219
九石︵四戸︶
8.9130
T6558 76651083
10.2520
11
10.6839
7 9 8 5 6
0359
︸11
13.6755 9
門郎藏衛衛門 太吉吉七吉 治郎藏門助吉
衛
衛市 衛
太 之代
兵兵
左
右彌 右
源彌辰彌宗 吉彌駒利新八
13.2129 6
与星常茂伊利
I5.15438
十五一十コ石
7.4231
吉
平 8.0129
八
9.9173
佐 七
重 大
金 太
10.1734
十
茂左衛門
石 i
農民名
14.2749 6
馬
1、ぺ敷
持高
−商品生産の壷展と寄生地主制の成立− 一五三
は拙稿﹁東北に於ける商業資本と其生産支配形讐﹂本誌第一五巻第二號︶。それはともかく、右の三つに分けた諸商品の内生活日
等に分れる。右の内ト九種は若松等の都市からと、他郷からとのものが多く、自組生産ものは六種あるにすぎない︵詳く
三、自組生産商品、大豆腐、あめくわう、太布、炭、蕨、繭︵六種︶
二、他郷村よりの商品、肴、わらじ、草履、繰綿、太物、蝋、酒、木地︵八種︶
一、若松城下よりの商品、伽羅油、味噌、醤油、水油、繰綿、太物、酒、木材、炭、小間物、筆紙墨︵十一︶
に分れる。
するが、會津藩が天明三年二月に楢原組で調査した[,諸費買物一統値下帳﹂がある。これによると商品の流入系統が三つ
係にある購入商品はどのように流入しているかについて示してみる。さきにみた彌五島村や楢原村は下郷の内楢原組に馬
第4表彌五島村農民
一寄生地主制,研究1 . 一五四
用品以外の加工商品を中心に更に整理すると次のようになる。
一、遠隔地市場からの商品 綿、繰綿
二、地域内市場からの商品 醸造物、繰綿、太物
三、村内市場商品 太布、繭︵麻、煙草、人蔘︶
eの遠隔地市場︵大阪等︶からの商品としてあげた綿・繰綿の場合は、綿は會津地方で若干生産されたが、多くは近畿地
方の綿生産地から大阪市場を.経由して、商人の手によって會津地方に輸入され︵拙稿﹁會津地方商業獲達奥序論﹂本誌第一内巻
第二號︶、このため若松城下には早くから綿仲間が組織される。綿仲間の手によって⇔の郷村地域内及び日の村内市場に
販責される。口の郷村地域内市場というのは若松及び郷村を指すのであるが、8のように綿が遠隔地から入った場合は勲
ケ村の地域又は組︵郷村︶の地域に市場をもち、その商品は地域又は村内で加工生産されて地域内又は村内に販責されてい
るのである。醸造品は郷村内で生産され、村内に販質されるわけである。国の村内市場は一村又はその村の周邊を含んだ
もので、一村とは限らない。そこでは農民が耕作し、原料を商品化し、郷村内叉は遠隔地へ商品として販費するものや、
郷村内市場からの原料を加工して完成商品を製造し販費するものを指すのである。定期市場である六斎市場を想起すれぱ
よいと思う。以上は諸商品が農村に入ってくる系統と市場の形態についてみたが、それでは直接生産者である農民はどの
ようにして右の三つの市場に商品生産者として關係するかについて以下述べることにする。
領主経濟の特徴は領域経済を建前とした乙とはいうまでもない。しかし、年貢の一部又は全部を領内から他領へ猫占的
に販費したことも改めていうまでもない。領域経済を維持するためには諸生産物の他領への輸出禁止を行っている。會津
藩の﹁留物﹂︵拙稿﹁東北地方における商業資本と其の生産支配形態﹂前出︶がそれである。幕末には留物は多少弛んだがしかし
次のように禁止又は制限を行っている。すなわち、禁止品では專費制の蝋・漆木・板・鑛産物、制限品では藩改役所の許
可を要する水油、陶器︵半藩膏︶蝋燭、酒、馬と郷頭・名主蜂、の許可を要する伽羅、麻等である。又男子.女子共の他領
への出入を制限している。この外自由販賞品では麻布、たばこ、米穀、絹糸、綿等である。
会津藩留物種類︵嘉永六年︶
一、販費禁止品 蝋、板類、銅、鉛、鐵、蛸船、眞綿、漆木貴種、枯淡
一、制限品 −・役所切手渡によるもの、水油、畳表、陶器、蝋燭、酒、馬 2、郷頭.名主切手渡によるもの、伽羅、麻荷、萱手、
て自由販費・購買品 麻布、古着、紅花、木破板.大小豆、米、たばこ、辛菜種、綿種、苫日責、むしろ、なべ類、砂糖、綿、魚、
男女共他邦出
鳥、鎗、鐵砲、火縄、鍬、鎌、絹糸、麻糸
このような禁止又は制限による規制を打ち破る農民の生産關係については後述するが、ここでは産業規制と市場構造につ
いて人蔘及び煙草を中心としてみる。
會津藩の人蔘については享保年間藩主が農民に人参種を貸付けて栽植したものが普及し、漆蝋と同様に半ば買上げ制的
恵費仕法によって藩欝としたのであるが︵拙稿[、封建社倉における工業の生産形態﹂本誌第二..、巻第一號︶、幕領南會津、大沼爾
郡の人蔘栽培は會津藩の人蔘普及と同時に農民間に栽培されるに至ったものである。人蔘種の貸付と買上げ制は私領と同
様であるが、後に自由販費となった。しかし買上げ制は牛強制的に行われていた。いま元治元年に調査された人蔘斤数と
代金調べの一部についてその生産村と納入︵買取︶人名を揚げると第5表のようになる。
ゆ
村轍は十三ケ村で納入人名は人蔘買集めをする農村商人の内でもその風なるものである。製品によって等級が附され、
干根の斤数が明かにされている。緒斤数は一入で多きは松川村の宗助千五百八十七斤、沼尾村源次郎の六百五十四斤、少く
て三十五斤等と納入されている。金額も六百爾から八両まであるが、その多寡は斤量の多少によることはいうまでもない。
一商品生産の壷展と寄生地主制の成立一 一五五
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一寄生地主制 研 究 −
二 …一 鶏
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誉印贈 >戯書
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書 諏. 鐸
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ハ ハ タ け ハ い ゆ ゆ ゆ ヘ うの トご トの
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それでは農民はどのように生産し商品化していたかというと、さきにも述べたように、南會津郡の各村は畑作を主体と
しているが、特に人蔘の作付は次のよう︵一五八頁︶に行っている。
与麟這〉麟 …∋§蚤漂凄亘}〕時無籠淋毒ウ
人蓄当年垢取人別書上帳(元治元年十月)彌琴鳥組田代村
第6表
農 民 名
一!一.≠韻釧
藏吉郎吉
四
源寅太彌
貫匁
13.000
4.000
3.000
10.200
1・lgo1!芦屋
ll二窪劉
375.000
計
干根600斤
2。200i1
衛門助七藏吉衛
兵 兵計
衛之
右代
郎門郎助八衢吉助郎藏門十門門郎治郎七郎藏助門吉衛重藏郎吉
五
衛 衛衛衛 衛、
太之 兵 次 右四源太 三 兵 太
之右 右右五 右
己藤市吉傳惣左喜重斎半喜仙甚吉左政義彌彦義安庄吉彌幸辰叉
原 代岩原平澤
五七
””” ”〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃 〃〃 〃“〃
湯 田 芦 田白 芦張大
原代 1
忠宗千久久辮傳
原 代
馬喰町篠崎三次郎へ費渡分 1
馬喰町築崎三次郎へ費渡分
芦 田
以上當村與右衛門手元へ一纏に製造し 1
以上當村輿八手元へ一纏に製造し
〃〃〃〃 〃
封
〃
〃
〃
〃
00
0000000000 0
サ19602020000050959048分
小 野
芦 原
19.000 〃
1.540 〃
P11356218591244斤
か
ー2
の ロ じ の し し ラ ノ
芦 原
貫匁
70
12.700板倉
P9 O0
126
臣
止
〃
右衛
右衛
左衛
藏門七門藏門藏郎藏藏吉百
小松川
田 代
土根貫釧村名
農 民 名
傳與勇 庄 庄 喜 伊 三 直 光 左 勘
1商品生産の登展と寄生地主制の成立一
村名
13.700,
2.490
12.080、
】0.400−
12.0001
24.710:
26.250i
131.630 1
8.130;1
手根220斤
5.760−
39.640 −
4.680
21.600
2.050,
2.100−
2.476
尋.110
1.200
6.500
8.960
0.260
19.260
15.500
19.720
1
3.900
i
7.700
4.200
4.500
11.180
11.350
9.010
以上當村傳兵衛手元へ一纏製造小塩村
名主白岩儀兵方へ費渡分
田 代
若松馬喰町篠崎三次郎へ費渡分
同
12.007
13.000
ト
15.0001
1!.000!
1
13.5301
干根21斤
1田代
77.0001
彌五右衛門
五十嵐豊之助
36.600i
1
手根58斤6分1
上
合計 土根700貫8舶i
干根1126斤5分 一
右は當村並近村當年堀取人別相改善上
申候
子+月 田代村名主 五十嵐右門
一、同 一醐 同
一、同 二曲 成年堀、取
八
右
衛
や
う吉人門
1寄生地主制研究i
四 郎
一、同 二十歩 同
一、畑 二畝 當申年掴取
一畝成年堀取孫
八
御種人蔘作 付 戸 前 書 上 帳 、 宮 津 白 岩 村
十五歩 酉年堀、取 安
三
安政七年二日
右者當村人華作得戸前書面の通り候
左衛門
玉川右京
一畝十五歩申年期、取 叉 吉
三畝内二畝酉牛堀収、一畝戌年堀取
同局同同畑
ち兵同松五
費
買馴
販
農民 礪嚢民,買取貫教
1籔
村名
1 一 一
4 1 4 : 139.9)0
1 1
ド ロ
3− 149.)00
3!
3 1 3 64.580
ラ
6!6… 185.900
111 干9斤1
214 12L130
212…59・800
112 2尋5・420
1 1 1 2.2GO
! F
l I ! 一 17.900
1…㌧8・460
1 1 1 63.650
1 1 8.580
1」 1 9.000
1!11千1。3斤
20 610160ラ.000
16 4i 61 106.820
人 1 貫
3131695・200
10
1 ! 1 306、600
11
1 一 ! 一 48.400
﹃フ 一
平生川澤合妻川門岩原原代原澤野野島内川野入子
倉 松 五
張塩松南藩中小水白湯楢田芦大小長彌大小市寺舟
農民の内には土根と干根で販
貸するものがあり、村に人参買
取人が居り、前出田代村の場合
は四人存在した。
このようにして生産された人
る。すなわち、販費する農民と
たかというと第7表のようにな
4 2
4 2 3 3 1 2
H10713119
0
蔘はどのようにして販費され
4i41】07.740
13
1 !
37
111 18・900
に各村凌でどの位農民が生産しているかを示すと第6表のようになる。 一ケ村で少くて一戸、多くて田代村の如きは十
白岩村の土根叉は干根斤数は右の文書では萌かでないが、後出のものでは土根六十四貫五百八十匁が生産されている。更
一圃場は三年一五年栽植され、こんにゃくと同様の栽培方法である。白岩村の場合は一畝−−三畝、少くて十五歩である。
、 、 、 、 、
戸、松川村は三十七戸に上り、村全戸が作付している様相をみせている。
第7表 人畜販査人数及買取人数
(文久元年)
人参垢取販費面付書上(文久元年十月)e 下郷村御改め手元控
第8表
轍”
〃
10.000 〃
16・ooo1塘生
17・0001寺山
38.000:木令
9・oool塩生
53、000i田島
20.oool〃
51.oool〃
13.000 ケ
ヶ 〃 〃
]0.500 〃
35.0001松川
30・0001田鳥
八七郎七郎 助七十
忠和彌和源 宗和伊
μ 太 太〃
22.00α ケ
ケ
il二聯曜 ワ
嘉七郎
5.00α 〃
ケ
0.40e塩生
1圓蔵
1二辮艦 〃
3.600 〃
1:918旨
1
彌三郎
1.70cI か
3.ooe 松川
善左衛門
河東繁之助
17.000張平
計
06.820
八助八助
之 之
忠死奥歯
I“
!〃名主
4.50α 〃
〃
〃 〃 〃 〃 〃
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2.600 ’ノ
0.800 松∫11
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〃
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〃
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重 重
貫匁1
塩生村 次右衛門
音 藏
〃
左 助
〃
彌 助
〃
嘉 七
〃
弓田忠八
〃
弓田圓蔵
〃
太 吉
〃
卯左右門
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浅 吉
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久右衛門
武 七
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文 次
助 次
〃 ’ノ
伊 モ
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20.000 寺III
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20.000一松川
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75.oool大津
〃
〃
〃
賜… 村名瞬焔
長
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販 売先
””””〃〃〃〃々〃〃厚〃松〃
60.00α 厚
20.0001 〃
販売
買取る農民と
二群に分ける
ことができ、
とえば第7表
の張準村のよ
うに二十人存
在し、その買
取農民は+人
に達し、彼等
は六ケ村にま
たがり、六百
五+貫を買取
っている。買
取農民は田島
役所叉は若松
にある會津藩
納入人に納入
一五九
小
山買農民はた
000000000∩︶0000 飯0
000 000
〃
〃
〃
煤h”彌久毒宗
25.00σ 郎 十吉八重助
60・5001田島
張平村
裙睡o欄耀繍㎜鎌辮鎌鰯卿灘脚
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鐸灘難題熱辮鯉纏鰯繍欝鱒繋翻錨繍計
村名
名 ∼”厚”””””””ケ””〃〃ケ〃々〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃”〃ク
!買取人名
村③松 −−一−一−−1‘ ∼1己“E−“社日“nu”旨駐hヒ。u:目−
難欝欝熟計
売先
販
貫匁
① 1
” 〃 〃 〃〃 〃 〃〃
一商品生産の獲展と寄生地主制の成立1
販売
貫藪
村名1農民名
人翻取販賓面付書上(文久元年+月)ω
貫籔!村名
39。600 松∬1
計
i⑦
1F小松川
2.100」
〃
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1二188房
6.…睡生
伊 重
彌太郎
伊重
和 七
彌太郎
與右衛門
5.000小出
7.000 〃
149.500:
1
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9・8001〃
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1.9001 ’ノ
…
郎 次八
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白 沼田
安右衛門
17・0001
0000000 08
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13
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之九 楠
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蔵
志
助
一計
貫匁
84.000 田島
30.000
〃
3.000
〃
8.000
〃
〃
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白田
計 干根187斤9分 土根48.400
⑥
中 妻
源久熊
佐
計
暮1斤レ
〃
入
〃
〃 〃
干20斤
(手到”
⑨澤
與 平
〃
萬四郎 〃
29斤9分
〃
士・
干
4.oooi 〃
36.000
8.000
7.000
16.000
1.000
和 七
源太郎
七 八屋
(手)!
13.000 〃
9.550 〃
17.000 〃
〃〃ヴ〃ケ〃 〃
〃
清松
和 悪闘
干
14斤5分 〃
貫匁!
15.7001田島
〃
亡 士
刀て 口
4.300 中妻
山島山島”
寺田桑田
〃
門,久四郎
松助郎門助松蔵門郎
忠三郎 〃
(手製)
〃
棚1璽墨
11謝田代
計
徳利亀嘉善久徳重辰
(手製)
干】3斤
〃
丈 助
喜右衛門
太右衛門
轟 撃計
〃
〃
干 1
31斤5分1〃
〃
〃
忠右衛門
清三郎
忠太郎
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榮蔵
⑥水 !!
24・80q手元製
3.400F落合
ト
6.800 〃
4.8001“
貫激
1剛
107.740
貫匁i
8.600 〃
五左衛門
友 次
〃
〃〃〃
蔵次吉吉蔵
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〃〃〃〃
落合
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⑤
平
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干根
松川
120斤
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宗
傳忠宗清傳
306.600
I
宗
6.008
25.000
35.000
45.000
20.000
45.000
21.000
25.000
45.000
買取人名i
助
〃〃
〃〃
〃〃
〃
〃〃〃〃〃〃〃
貫匁
販売 先
販
農民名
村名
1寄生地主制研究!
販売1販売先
〃〃〃〃〃〃〃〃〃
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④
南倉澤
売
農民名
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繕蕪灘計購
村名
綴計 干根297斤9分 土根833.770
山ハ
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〃
〃
〃
〃
8.000
39.000
9.000
15.000
27.6001
15.700
8.300
貫刹郷 師焔
吉四郎
左源治
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〃
〃
〃
〃
〃
15.500 〃
19.700 〃
3.90α 〃
義 七
庄 吉
彌 吉
7.70α ノノ
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千代之助
久 七
久 蔵
2.490、 〃
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9.0101 〃
10.200一 〃
13.70σ 〃
忠兵衛
〃
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10.40e 〃
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計
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3.000 〃
10.800松川
3.500彌五島
61.300
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重字重亦
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計
右
〃
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4.000 〃
八
次八 平虫
27.000沼尾
13.000田代
蔵
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貫匁
10・600、松川1宇平
0.830i 〃 〃
6.000 〃 1 .ケ
2翻刻”
千根 1,135斤01
総計
与
源与 宇一
貫匁
与左衛門
〃
〃
〃
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〃
〃
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浅右衛門
野
〃
ケ
〃
〃
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彌幸辰又仁
12.ooOI田f :
計
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〃
〃
〃
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13。000i 〃
吉四郎
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〃
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貫匁1
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匁⑩⑳o㎝od⑳oα⑩−
田
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245.420
太 計
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〃 〃
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売 先
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し ナ し ひ し ヨ ひ じ じ ずフ の イの
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⑮芦原 仙右衛門 2.060 田f亡
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〃
485.700
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与”与”””””厚”””餅””
羅総籬羅灘轡
〃
16.500
農民名
一売
〃
5.0001
7.0001
村名
松郎蔵平 繭郎
7
18.600
〃重ケ 〃〃〃 三〃〃
丑 吉 平三 圓兵
〃
、売
〃
3.000
販
先
麺焔11
村名
貫匁1
13.Oooi
一薄牧無代”””生碍”
〃
販
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〃
郎郎郎門八門郎萱門蔵衛吉次
〃
平勝金忠藤安己重藤忠藤要太
⑪湯原
販売
貫数
農民名
次次轟聾舗兵郎計
一商品生産の褒展と寄生地主制の成立1
村名
土根 698,850
一寄生地主制研究i 、一六二
するのである。
右は生産から販賓までの系列的な商品の動きを述べたにすぎない。しかし、より立入ってみると次の人蔘市場の構造が
考えられる。
一、村内市場 二、郷村内市場 三、遠隔地市場
の三つの市場問題である。さしあたり、煩をいとわす第8表をみられたい。
コ内市場
が遂に猫立化し、商人となってその余剰部分を獲得するに至ったとみられ、更に村内買取から楢原組の農民からの買取に
で販費している。榮藏及び同村の土地所有や維螢はいまの所明かでないが、榮藏は村内農民と共に生産者として存在した、
杓はその典型を示すのである。落合村の榮藏は二十四貫八百匁の土根を手製︵総斤数不明︶し、又同村の農民が榮藏に干根
いる。しかも生産農民は後に述べるように土根のみの販資でなく、自ら手製で干根として販資するものもありで、⑤落合
ここで村内市場というのは一は村内の農民が生産し、その生産物を村内の農民が買取るもので、勿論買取人も生産して
一、
買取貫敷
村名 瞳齪名陣取
助郎
文八
1.500
計
63.650
新左衛門
2.500
鐵蔵
勘左衛門
4.580
計
8.580
勘右衛門
9.000
市 寺舟
ク ル
野 入子
24.000
竹蔵
19.750
刀
19.900
忠三郎
半三郎
18.900
〃 〃
土118.290
計
干103斤
合
7.200
松左衛門
〃
伊兵衛 干61斤
政兵衛 干42斤
徳治郎 7.520
雑根
1卓160
〃
計
小
3.900
〃
1.900
〃
8.460
計
1.900
〃
15.000
大 内
3.500
彌五島
久兵衛
三 蔵
新之助
喜兵衛
貫
りを行っている。N家は奮家で肝煎
民四戸と大内村外四ケ村からの買取
家の場合である。村内彌五島村の農
の買取りを行うもので、彌五島村N
自らは生産せす、村内及び他村から
もう一つの場合は、村内に居住し
一−!−!10−〇一−、F−O−I−一−一σ一α−−O−−.創﹁一一αOd一一〇−−:0α,,一ασ1 一一一一 .O −σま
− で進んだと考えられる。
第9表N家賃坂高(文久元年)
を勤め明治七年の土地所有は二町七反二畝、山林約三町歩を所有している。人墓生産の経螢拡大の方向でなくして商業古同
莉貸資本として存在し、世直しには右の村内外人募生産者から攻撃されるのである。
二、郷村内市場
一村の餐で村内の農村商人巖写るおゆ、殆んど他村の農村要旨聾する。前掲⑤落合村を除いた+九ケ村
の農民はこれにあてはまる。具体的には第8表で示したように、松川村は全村民の殆んどが人蔘生産に從毒していると推
測されるが、その三十七戸の農民は田島町の和七、小松川村の長吉、寺山村伊重の三人に販費し、又湯原村では十三人の
販費者に毀して六ケ村の六人の商人が入込み買取っている。 しかも、 これ等入込み買取商人の分布は人蔘生産地帯であ
る若松近くの芦の牧村から田島町までの現會津全線の沿道と山間地帯との廣汎な地域にあった。このような販責市場を
一季郷村内事といってよであろう.ところで、ここで活動している農村商人には、さ建述べた農業生産に讐
しているものと、それに從事せす買取を専門に行う農村商人とが存在し、後者の多くは肝煎、郷頭や燭頭等の地位にあ
るものである。生産農民から前貸による又は金鐘差引による買取方法︵甫會津郡伊南地方の廠生産と同様、拙著﹁明治維新の経
済構造﹂︶や質地による土地収奪等を行う典型的商人資本の活動が行われている。これに封して前者の農民層が後者と封抗
關係に入ることは後述するところである。
且、遠隔地市場
以上二つの市場關係をみて來たが、みられる通り農村内部と村外のいすれにせよ人蔘生産は買取人を中心として動いて
おり、しかも買取専門の農村商人が大量に出ている。叉農村内部では土根から干根製造を自力で行う農民も出ている。
それでは、郷村内市場からの販費ゆどのようにして行われたのであろうか。それには三つの系路がある。eは領主及幕
府の買取で、領主の場合は會津藩における土根の年貢的買取による人蔘藩螢である。⇔は幕府の買取製造販費で、土根及
−商品生産の螢展と寄生地主制の成立1 ・ 一六三
一寄生地主制研究i 一六四
び干根を農村商人及び直接生産者から買取る仕組でHと目とも長崎又は箱館を通じて海外市場をもつている。日は農村商
人が直接に遠隔地特に江戸に市場をもつ場合厄ある。右の内目と目について述べてみる。
ωの幕府の買取りは、さきにも述べたように、人蔘種貸付と交換に買取りを行い、農民の利潤を根こそぎ収奪する仕方
であったが、農民の反射にあいついに自由買取制となるのであるが、しかし、人蔘生産が拡大され市場が海外向けになる
と再び猫占的に買取を行うべく活動してくる。それは農村商人からの買取制を耕除して直接生産者を幕府側に引付ける方
法で、下根製造場の設置により土根買上値と干根買上値の相違を明かにし干根製造の手を省くことと直接買上げ.ることと
の二様のねらいをもっている。 ,
南山出産人蔘製法の儀、当年より一手製法取計候に付、干根にて買上に差出度望の者は製法いたし置候條、出張場へ持参、製法諸候
様可致候
一、土根不掴取、見切を以て買上候ては疑惑の基に付、掴取の上買上に差出候様、尤中買の者へ売梯候得は、直段宜敷様にては品凡手
工勢致し、紛敷儀も有之、押上小前不益に相成候哉に相聞候間、土根にて売彿候て掴取買上に差出候様、尤疑惑等無之様、正路に取
計候儀に付、自作の分家内手不足等にて持参來り兼候者は、代人を以て買上に差出候様可致候
一、製法御出張場の儀は小塩村、塩生村爾所へ出張いたし候様筈
右の條々戸前無洩可申間者候也
閏五月十三日 御蔵人役所 小出組 彌五島組 松川組 楢原組
このようにして買取人からの納入制を排し直接生産者を引付け箱館を通じて年産一萬斤を輸出するため、樺力を以て迫る
のである。これに射して買取人と農民は反封ずるのである。
二 煙草・麻における商人地主
煙草の生産が全會津領に行われたことは他の機會にふれるが、煙草は山間地で畑作地に栽培された。南會津地方の例で
爾
122
備考 1・一戸に付平均2箇宛の割に生産
2.拝借金三百八十一爾
倉 村
306
爾
箇
72
岩本村
5
30
105
50
成岡村
30
60
250
105
萩原村
15
30
105
55
板倉村
11
22
77
40
計
367
214
789
372
252
月
荷造り販費するが値崩れ、捨賣り等がでるので、組内白岩村に値立場︵市場︶を
直費するのでなくして農村商人︵村役人︶の手を媒介する。農村商人は遠隔地へ
煙草の販責は麻と同様に農村の買占め職人が關東へ直寅する。直接生産者が
地出と質地取りが持続し、質地小作の形成さえも微弱とみられる程である。
ら十石までの農民がほとんどで、持高十六石一人という、零細な経管である。質
のように田が少く畑が多く山林に依存している。第n表で到るように、五石か
金収入は人蔘と同じような比重をもつた。この村は人蔘生産地彌五島村の場合
三百戸が生産している。五ケ村の総販売金は七百八十両にのぼるので煙草の現
商品生産が衰退したともいえる。それはともかく、煙草は普及し倉村の如きは
するという願書に出ているものであるが、捲保も借入するほど、この時期には
は第10表のように楢原組各村の栽培戸敏と販費敏量をみることがでぎる。表は明治二年煙草販費代金を以て借入金を返済
戸籔懸ケ熱望塩憲
村名
!商品生産の焚展と寄生地主制の成立! 一六五
候煮出來、夫々爲一統の値段売越し此先の値段へ相聞、戸前難渋仕候二付、彌五島組白岩村上、下郷値立場に相定置、年寿商人共寄合
南山御蔵入下郷第一の重産煙草の儀、商人共湖東へ罷越、銘肉戸前へ直捌致候所、中には節限り、品々商売仕候者は値段下掛、捨売致
乍恐以口上書付奉申上候
設置し問屋間の取引と市場値を建て﹁南舘商 人 ﹂ と稗した。
第10表 楢原組刻煙草販責数量(明治2年)
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司、燭番を語き、運送、出荷敏量の制限等を行っている。
し商品生産 の 糞 展 と 寄 生 地 主 制 の 成 立 一
一六七
この南舘商人には倉谷村利喜藏、落合村忠太、白岩村彦藏、塩生村弓田圓減等が語り名主役も交っている。仲間には行
は内金等にて蹄國致辮利の仕来にて是迄問屋数八相替候得共、一金成共相滞り候儀無御座候︵舘煙草代滞金訴訟書︶
入札にて値段取極メ五つ肇雍壌寄の場弛て身元相鷹の電髪、問屋霜藍、右へ持込早速捌集相盛鶴屋引請、又
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一寄生地主制研究i 一六八
煙草仲間﹁南舘會合取究帳﹂
天保十一年八月五日
一、南舘造出道中運送方二百俵打、夫才領に限り候
一、才領にて、八百俵迄持参不苦候
締方行司 高橋儀左衛門
年中行司 張平村与平次、白岩村彦右衛門、高野徳右衛門
鯛 番 板倉村松吉、塩生村彌助、白岩村安右衛門、湯原村亀太郎、福米澤治郎介
年々売余り数俵、相滞り仲間一統難渋、仲買も不足、この度国元立會仲間休み方もみえ、新仲間、四、五人も相増し候、地たばこ望の
人も有之−以後俵数望次第御売捌被下度候
このようにして煙草は農村商人の手で關東、江戸等へ販賞された。
次に麻をめぐる市場關係と農村商人の成立並びに農民暦の分化の仕方等については拙著﹁明治維新の経済樽造﹂に語い
て述べておいたのでここでは省略することにしたい。
以上を整理すると次のように.なる。e領主は領内の米以外の諸商品の生産掌握のため諸生産物の領外移出を﹁留物﹂政
策によって禁止又は制限して農民の自由な生産販費を阻止する。そのため禁止又は制限された品目毎に、これが領外移出
を行う場合検断︵商人司︶郷頭又は肝煎等の村役人にその特権をあたえ、諸島交流の實椹を得た者が、領主と共に農民の
諸生産物に吸着する。領外からの移入品は城下都市に語捗る商人仲間株が移入特権を得て郷村市場に看臨する。かくて農
村及び都市の市場はいづれも政治的支配機構と不可分に結びついているもので農村商人と都市商人はその特罹の下に成長
する。口農村における特権商人は右の政治機構と結合しているが諸商品の販責がこれ等特権商人の手を媒介するにせよ、
生産が昂まるにつれて農民暦の中から新商人が生れ、奮特櫃と対抗關係に入り、新商人の地盤は領主と結合した奮特灌を
排除するという新段階に突入するのである。日それには二つの傾向が生れる。m特産物でも簡軍な原料加工たる人蔘、煙
草、麻苧等にみられるような諸商品に吸着する特椹農村商人は、原料を買取りそのまま加工ないし完成商口叩化せす販費す
るといった商品取引の形態で、前貸によって特徴すけられる高利貸資本として活動しそれは﹁金鐘差引﹂によって貸付利
子又は元金分を現物で入手する。一方買占めも行うが、その本質は同じで、人身叉は商口叩を商業高利貸資本として質物祝
するものである。この地方における質地取出、したがって質地小作経管がこれを示し前期資本が農民の自生的商品生産を.
抑塵しそれに吸着している。⑨は同じく商業高利貸的特禮商人でも原料の加工から完成商品化に至るまでの工程を自らの
手で行うもの、例えば麻織物、綿織物、絹織物のような場合は商口㎜は①と同じような取引費買も行われるが、また完成商
品工程をもち、しかも原料を自給又は一部購入して完成商品を生産し、自生的展開の展望をもつものがある。したがっ
て、農民層の分解も質地小作から地主、小作關係へ移行してゆく。小千谷地方や伊南地方の麻生産地がその例を示してい
る。四寄生地主の成立の視角からこれをみれば、商品生産物が市場に豊富に出る段階で特権的にこれを掌握し、小農民の
自生的焚展を阻止する黙が注目される︵拙著前掲︶。的かくて人蔘、麻、煙草のような原料加工商品生産地帯では完成品を.
販費する地帯とは異なり前期的商業高利貸資本の支配が持続され、農民層の分解も上昇農民についてみれば、質地取出に
よる経醤の拡大と長期質券勢働の使用として現われ、質地小作關係の成立も微弱であって、地主小作關係にみられるよう
な農民の土地保有からの分離も行われない。諸織物商品地帯でも右の様相をなお残すが、そこでは上昇する農民の猫立自
螢化の傾向が現われ、その自生的焚展が胎動している。それは地主、小作關係が成立し、諸階級關係を鮮明となった結果
である。しかしここでとりあげた地方のように繭、生糸、織物、麻織物といった社會的分業の未磯展の段階では、信連地
方のように社倉的分業が成立し、地主、小作關係又は猫立的商品生産者暦が戴立したところとは階級關係が異った様相を.
みせている。
−商品生産の褒展と寄生地主制の成立一 一六九
一寄生地主 制 研 究 一
第二
水田農業の発達と﹁産業資本﹂の形成
−地主と﹁資本﹂關係について一
一 水田農業の稜達歌態
一七〇
現在の耶麻郡加納村は奮村十数ケ村に跨っているが、加納村近傍には上三宮村、喜多方町又は熱塩村などの周辺に取り
名
村
0.996
0.380
0.946
0.350
】.524
0.630
1.524
0.550
1.454
0.699
百木田中
i.684
0.720
針生村
野辺澤
上野村
1.315
0.480
1.323
0.479
鷲田村
0.720
1.624
0.650
1.524
0.770
676
0.7舶
629
0.674
200
0.530
323
0.498
493
0.493
352
0.480
472
0.630
386
0.615
459
0.611
村村村村村村村村均
川谷川納岡田塩田
吉三宮加米相熱山平
1.699
五分一村
上三官村
1.372
0.490
1.247
0.410
1.245
0.447
】.175
0.450
下谷地村
山岩尾村
赤崎新田
半在家村
中川原村
石
石
五目村
根岸村
岩尾村
畑
備考耕宅地僧収穫地債取調
村別帳
田
農業経管を行ってい
心に畑作を加味した
等の奮村は水田を中
野、五分目、半在家
中、米岡、針生、上
岸、下谷地、百木田
ているが、五目、根
かこまれている。周園は山に園まれ、大平山等を中心に黒岩等の部落から山形縣米澤へも通ずる。通構山村地帯といわれ
(明治九年)
い。次が半在家、中川原、上三宮の三ケ村であり一石五斗、一石四斗前後では五目、針生、米岡等があり、下谷地や山岩尾
更に田については、その生産量の多い村は上野、百木田中、五分一、吉川、三谷等であり一石六斗を上廻り一石七斗に近
地租改正による反當り田と畑の収穫量をみると二十三ケ村平均では田一石四斗五升九合、畑六斗一升一合となっている。
れはともかく、右にあげた各村では幕末に語いて農業がどのように震達していたかを述べてみることにする。明治九年の
る。山添の山岩尾村等が山村経螢にあてはまる。軍なる行政的又は田・畑・山林等からの地帯別匝分は一考を要する。そ
第12表 反当牧積量
等は九斗⊥石三位のとこ2ある・あよ庭急はその生産量蓋産している.これ等各村の生産力の差異が幕
末重羅新の世直し議誓蓄畏難動にどのようにつ盗るかはしばらくおくが、さしあたり、生産量が藪上
野村三襲半蓑村髪とやや下っている昔村書家、下位にある遠蒙筆思妻業の窪叢を示してみる.
前にみ窺鶉村の暑村翁禺鑑以外は歯串累㌘第嚢の上野村のご・とくである.しかし、上中田で占
割1舗1鋤箋1砧l llllll
下!18.612 19571114・014 3・657
訓119.621154.517189.7・154.444
とある。五分一村は下柴村に比して収穫量が多い。反當り肥料は
苅敷三十束︵代一駄百文︶灰肥十四俵位二俵三十文︶代〆九百二十文
−商品生産の 聚 展 と 寄 生 地 主 制 の 成 立 一
一七一
粒数は五分一村が一株十一本、一本に中出來で百二十粒、下柴村一株六、七本の八十粒位
を作付し、生産をたかめていたといえる。稲株は五分一村が八十株、下柴村が八十一株、
後の技術対策による攣化︵拙著﹁福島縣農業史﹂︶を無視することになるが、中稲より晦稲
九町七反︵天明二年︶を作付している。天明度の事情を幕末まで押しすオめることは凶作
にもかかわらず作付面積は少ない。たとえば五分一村では早稲八反、中稲五町、晩稲二十
作付品種からみれば、熟地︵二+四種︶と薄地︵九種︶とで異り熟地は早稲種の品種が多い
農業の技術は立地條件に印慮しながら徐々の改善を行っていたとみられる。それにしても
宇田成一の出蹴地︶の醤下柴村は乾田五十九町二反、漁田二町で五分一村と封蹄的である。
い。五分一村は乾田一町八反、漁田三十三町九反に上るのである。耶麻郡關柴村 ︵民権家
乾田、下谷地と針生の一部は漁田で生産力がびくい。同じ温田でも五分一村は生産力が高
めているとはいえ乾田と雷で箋つ養整行っている.百雷中、上野、下谷地は隣接するが、栗閑、上野は
田 1 畑
酬 反 石 1 反 石
五分一村 馬肥二十束︵代一朱廿文︶下肥二箱︵一箱代二百十文︶代〆二百二十文
第13表 上野村田畑等級別(文久2年)
一寄生地主制研究一 一七二
.下柴村 厩肥六十東︵代百三十二文︶下肥三櫃︵代九百十文︶
苅敷二十束︵代百文︶ 〆銭に〆一貫二百文
下柴村は五分一村に比して高慣につく施肥を行っている。右の肥料は自給肥もあろうが、贋格計算を行っていることは、
金肥︵大豆︶使用と照鷹していると思われる。畑作については、以下の各村でふれるが、山地と畑地の漆・大・小萎・大
豆・小豆・麻・綿・煙草・荏・その外の疏菓類の栽植が主である。五分一村では大豆畑五町、萎七町、 ︵但し婆刈跡大根・
そば.煙草等の二毛作︶綿.胡麻・油荏で六反位を作付し、下柴村では大小萎十町四反、菜・大根丘町、大小豆十町、たば
こ一町五反、綿一町、茱からし一町、あわ五反、麻苧五反を作付し、下柴村は五分一村よりその面積が多い。大小萎や粟
・そば等の食料以外は多かれ少かれ商品作物である。
以上で現加納村︵關柴村も含めて︶の水田、畑作の農業歌態を知り得ると思う。このような農業歌態の下における標準経
螢規模と勢働力について示してみる。この場合生産力爽展の指標を反富所要勢働力数に求めよう。ちなみに螢働力と農具
又は肥料等の生産手段、更に錯圃耕地、山と水による地主的支配等をめぐる生産力焚展の阻止要因が問題とされている。
その飾結するところは農民的生産力の停滞性であり、農具と錯圃状態、金肥と多肥による生産力の弱さが指摘されて来て
いるのである。しかし、そのような農業形態であれ、又高率地代を収奪されているとはいえ、生産力はそのような條件を
徐々に克服していることを知り得る。この地方の反當り勢働力を示してみれば乾田と漁田とによって所要螢働力が異って
いる。第14表の五分一村は漁田地下柴村は乾田地であるが、爾者の作業別相違だけをみると、田割は漁田では一人五分、
乾田では二人五分、あらくれでは湯田一人、乾田で二人七分、植代の六分封一人五分、稲干燥の五人封一人、稲乳と稲扱
では三人封六人となっている。滋田で干燥に要する勢力が多いのは地干叉はかせに勢力を要するため、又乾田の田割、あ
らくれに多くの勢力を要するのは耕起、砕土の困難等、それぐ特徴をみせ、乾田の内稲乳積と稲扱に六人づつ要するの
O.6
0.5
割1
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塊 返 しi
1.0
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2.7
田 畔 削1
かいとうない1
0.6
0.5
1
植 代1
0.6
1.5
0.7
り
団見知蜀生。
1.0
53.2
町蔵納運搬
4.0
米 持
1(三番)15.0
草取(二番)i
6:0
稲 乳積
1 1.4
1
早 乙 女一
1.0
稲干(ラ日)
0.3
養 樹
苗くばりi
1.5
稲 刈
稲まくひi
3.0
0.2
脇知α5D臥。
5.0
50.9
計
0.6
鼻 取1
苗 取1
ゑんぶり
i
l.0
あらくれ1
鼻 取i
6.0
扱
稲 塗1
人分 人秀
1.O
1.2
ヒ
苗 代1
3.4
乳。
引一
水 天明二年
天明二年
五分一村
下 柴村
,調1
は明かにしがたい。苗代
から調製までは漁田四十
五人九分、乾田で五十二
人二分となる。乾田地の
草取三番を二番とすると
四十七人二分で、やや漁
田地に近くなる。この表
では年貢米運搬まで計上
され、五分﹂村から喜多
方まで五人、叉下柴村か
ら喜多方まで一人と計算
−商品生産の蛮展と寄生地主制の成立一 .一七三
五石︵中田︶が幕末の標準経管規模︵後出︶であるからこの経螢規模の耕作は男子二人又は三人︵女子をふくめて︶で可能
までもない。八石・六反三畝が労働力一人前の耕作能力とされ、これが幕末の小規模経営の規準と思われる。高八石!十
分の勢働力とみている。江戸時代の螢働力一人前の標準耕作能力に何人役、又は何束刈と稽したところがあることはいう
はどの位であったかというと、鍬取人といわれるものは男八石︵六反一二畝+五歩︶女四石︵三反一畝二+三歩︶で女は男の牟
達の状態を考慮しなければならない。ともかく反當り五十人前後で農耕を行っていた。それでは勢働力一人前の耕作能力
人i三十九人に比してまだ聡くれているように思われるが、それは作業種別の精粗や漁田、乾田、用水等の條件と技術稜
い
る
こ
と
は
運
搬
距 して
離 に 關 係 す る 。こうみてくると、江戸時代の反當り螢力調査によるもの一で例えば會津農書の四十一
五升背負労力 4、水引は苗代から稲貴人まで 5、種子籾六升蒔
二、下柴村 −、米持は御蔵まで運搬労力含む 2、種子籾六升蒔米持と運搬は五人と
あるが、假りに米捲四人、運搬一人とする。
備考 一、五分一村−、稲乳積は運搬まで2、米椿は並米より上米まで3、町蔵は二斗
第14表反当””労働力
貫15表 鍮取人一人前の耕作反別及生産量(丈久二年)
060 0.61
060i O5
−寄生地主 制 研 究 −
生産高収支
摘要
(乙) 労
種 別 l I I
生産高収支 1%
%1摘要
■働
1・00011051内割銭
内割銭
1.000 7.9
160i L7
160 1.3
2.968 31.2免7ツ
ll講
%
石 ;
免7ツ
5.936…46.7
聯15i高8石
6反3畝15!
9.525 100.0
12‘7001ioO.0
生 産 量
局8石
!
耕作反別
力
(甲)労 働 力 1
1養 米i 1・27010・Ol I 1・200112・6
計 一 8・426衡・4 1 5・458157・3
計
イ乍 徳
作 徳 ・ 4・27033・61 1 4・061142・7
備考 1.小割定数は銭納、養米は銭で換算してある。
2.女子の労働力は男子の半分とみている。その収支略す
3・三浦文右衛門「地下掛諸品留書」より
一七四
であったと推測出來る。更に八石・六反三畝歩という小規模経膏に
語ける労働力一人の耕作能力の計算以外に大規模経営におけるそれ
の計算も行われている。漁田を規準とした一町歩耕作に要する人馬
勢働力の調べでは、苗代薄十一人、馬一疋一分、耕作勢力数六百三
人六分、馬五十一疋一分とあり︵前掲文久二年三浦文書︶、これを反當
りにすると苗代一人一分、馬一分一厘、耕作人六十三人三分六、厘、
馬五疋一分一厘となる。反當りでは前出五十人九分より余計要して
いるわけである。尤もこの六百三人六分の中には若松までの米の運
送三十一人、馬三十疋、運搬勢働往復百九十七人を含む計算であ
る。これを差引すると勢働力四百六人、馬二十一疋となり、反當り
四十人六分、馬二・一疋となる。右の計算だけでは機械的で早計で
あるかもしれないが、規模が大きくなる程、劣働力が減少し得、文
責際にそのように焚達したことは後述するところである。
ところで勢働力一人の耕作能力及び標準経螢規模における二人又
は三人という規準所要勢働力数が確立されたことが、手勢働による
苛酷な勢働力の消耗の方向を示すとしても、そのようにしても生産
力をたかめた所要勢働力数の減少を評憤をしなければならない ︵後
出︶。それはともかく、一人前の耕作規模の規準を六反三畝歩余に語
くとしても上、中、下田又は豊作、不作等によって生産量が増減するので手ばなしで勢働生産性の上昇を認めえない。
第15表の甲と乙の榮働力で示したように、爾者は中田をもつが生産量如何で上昇するか轄落するかの瀬戸際に立つのであ
る。甲は十二石七斗、乙は九石五斗余を生産する。年貢、肥料を差引き作徳が甲は四石工斗七升、乙は四石六升七合であ
るから、乙は甲に比し二斗七合の差額をもつのである
反當り生産量はどの位に上っていたかというと、李均又は上作の場合などを概算したものによると上田で二石一斗五
升、上作で二石二斗五升、中田で一石七斗五升から一石三斗七升位︵前掲]三浦文書︶と計算されている。したがって前出明
治九年の一石九斗平均は手加減された数字とも考えられるが幕末の事情を推測し得る。それではこの地方における農業の
叢達と地主制はどのように關係づけられて來たかについて以下述べてみる。
二 手作地主の獲展と米市場
1 手作経管の持続と手作地主
現加納村のうち奮半在家村の原家は、葦名時代にさかのぼり得る程の中世からの家柄であるが、近世初期から元緑.享
保にかけての経螢についてはいまのところ明かにし得ないので、ほぼ寛政以降についてみることにする。
原家の経管を知るためその持高及び家族等を掲げてみる。
原 平 左 衛 門
永々津川町検断、小書院御目見、御借金方御用達
一、高百五石五斗七升 配 付 高
外に
嵩笙虜叢と寄生聖制農楽 一七五
一寄生地主制研究−
此分山岩尾村へ新田
他村より定出作配付高
内十一石玉斗四合
此分五目村へ同
一、高十二石七斗三合
一石三斗九升九合
本 田
當耕作高
内 百九石九斗八升六合
散 田
一、百九石一斗三升三合
八石一斗四升七合
外二
一、高二十六石三
升 六 合他村へ入作散田分
斗
三 内十七石四斗 五
合
吉志田村へ
、 、 、 、 、 、 、 、 、 や
四
〆 一
産持漆金小長蝋土家
業林木爾屋屋屋蔵軒
一七六
母 一も め 年六十七
薪木少々切出本場へ売彿申候
わケ地 七ヶ所
二百一本五分但二百五.十九本惣有木 御役木
但二十五南分利付内二両御納戸祝金子八分拝借金
一つ二間に五間、下屋二尺
一つ九間に二間、下屋二尺
一つ三間に七間
一つ二間に四間半、一つ二間一尺に四間半一つ二間忙三間半
但行間十三間半、梁三間、下屋一間に一間半、角屋二間半に四間一尺、玄關一間半に五尺、厩住門四間半に三間半
九石二斗九
升
一
合
背戸尻村へ
一一」
一 _一』 __⊥ 一一↓ 一一↓ __占 層一▲ 一一⊥ 此者 百 木 田 中 村 よ り 金 五 両 質 券 に 召 抱
此者 譲 屋 村 よ り 金 二 両 二 分 の 給 取
此者 自 村 よ り 半 右 衛 門 妻 金 三 両 の 質 券
此者 同 村 藤 十 郎 妻 金 四 両 二 分 の 質 券
四十七
二十六
四十六
二十三
六 つ
三 つ
二十三
二十二
三 十
三十三
十 八
六十六
伜
十 七
二十二
四十七
二 女
一七七
︵質券八人、扶持食一人︶
歎娚去暮買人、年季盟り減
内四人男、六人女 鍬取の者
小
十 六 人 内八
\
↓ノ
内十人
外二九人 内
疋疋
此者 譲 屋 村 傳 蔵 妻 金 二 両 給 取
−商品生産の登展と寄生地主制の成立i
天保十五年
郡村松城下出生
此者共越後引入にて抱分限無跡代百姓相建申度奉願上置候蒲原 妻
抱の者
四二伜嚢胞ヶ〃下下下二男妻伜妻家
の 、
女 者 女男男男孫 王
人人
女男も倉よ千ゆかし傳勘粂粂む平ぎ平
左
雑夫 次 次
衛
駄駒
_ と吉し八わのけ蔵郎八蔵め郎ち門
八八 , ご
雌﹁醜,労粋⇒ =現αひ℃
尊志η垂O渇型口中升蚤δゆゆけ
酬患い廻 堂噌寄一訟雫臼や升努Oψゆ呼
,下計蝿一識“﹀ 一〇“訟αψ誤
出皿註.⇒
雌紐之φ
㌧下幣彊ナ怖ゆ
一琵ω追
=一斑一〇♪
雌¶ き山 訓.⋮
一一rcG悼N
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一 ︺
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一七八
一
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一図
一〇
燭
﹂け
旨
,1協プ沖中声価牌曝
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一一
一
ス蹄一顰コ夙曲直
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一寄生地主制研究−
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一1 −
天保十五年の場合は配符高百五石この内出作、散田が十二石と他村への入作散田高二十六石余があり、合せて百四十=
F
1囲
料一〇魁 潮 潟
樋+耕1樋翔一
醤十蒋済 1岳lll合爵
㊥ll醐i認
石余に上る・あ内・耕作高書九套馨.家屋四棟と土蔵三つ、あ外長屋、小屋、饗雀舞奮、廣大な屋敷
地をもつている・葉役言辛象亀ち、七ケ所の山林所薯である.震として議論てあるのは士ハ人で、こ
の内豪族蛮人費準果合盗る.業人が+人骨、馬三蛋暫して号、萱。同百石の大いさをみせるので
ある。この持高百石は中世より持続したものであるかどうか明かにし得ないが、寛政以降は多少の増減があるにしても百
石は維持されている。第16表によって彼の経管をみることにする。
葉に展開してくる彼羅猿、他の山・家、遠蒙、三婆等と同じ考に、會津藩の寛政農業豊前毯そ基
礎を据蓋逡とみおる・寛肇の持喜二+三石雰内藤半豪村内集馨隻ち、田.畑.新田.薄地等を合
せて九十七石八斗余に上り、他の二十五石四斗は薄地で五目村等に所有している。この賞状は少くとも一兀緑以降から村内
に耕地を多く所有していたことを示す。特に寛政度の持高は天明七年の持高百四石二斗余に比して約十八石五斗余増加し
ている。この増加面積は薄地であったとしても、藩の土地分給政策に反して土地を集中している様相を示している。すな
わち・寛政二年の持高の内﹁誰λ方への分﹂と﹁誰凌よりの分﹂︵+九石八斗余︶ をみると﹁誰みより﹂の分が多い。ここ
で﹁誰々の方へ﹂については﹁散田﹂とみられるが︵後出︶.﹁誰凌よりの分﹂は質地取叉は買得地とも考えられる。しか
もこの土地は村内水田に集中しており、 ﹁誰みより﹂は村外の畑と新田を主としている。高百二十三石の内課は次のとお
りである。
原 平 治 郎.
一、高百二十三石七斗五升三合
祖母 八+
母 七+
家 主 原 平治郎 四十五
−商品生産の褒展と寄生地主制の成立一 一七九
1寄生地主制研究−−
二両貸酉より戊迄一年
同 免
十
一 右
一八〇
四十四
門 十 九
[、耐τ、1.1.耐
蔵 一一十
蔵 十九
衛 四十六
三 十 四
十 九
天 太太 兵
鍬 衛
_
取 働んの郎郎蔵蔵衛二 門
ん 三十一
の 二十三
郎 一一十五
郎 十 八
の
者「 ___⊥_
一両一分同噺
岩尾村より二両一分賛同
三両 一 分 貸 同 断
二両貸し一年質券
シ貸同
新田十八石九斗七升八合
同 免
田高六十七石四斗六升九合
薄地一石三斗一升五合
五目村分
同 免
同高十石四斗一升一合
岩尾村分
免四つ六分
〃 十石一斗四升一合
畠高十石一斗一升一合
一、高百二十三石七斗五升三合
一両二分かし 同
一一
家
内
十
突
内下下下下下下下次要件妻
馬六八
人人 女 女 男 男 男 男 男 男
六女男
疋
内きし孫吉七三吉幸 平
畠高二石八升四合
同 村分
同 村分
同 村分
新田一石五斗 二 升 六 合
五目村分
〃 一石四斗三升
〃 二斗八升六合
〃 四斗九升
同村藤衛門方へ
同村久兵衛方へ
同村六兵衛方へ
〃 五斗八升五合
同村吉助方へ
内田高七斗九升八合
〃 一石五斗八升
同村藤次郎方へ
〃 六右衛門方へ
畠高一斗一合
〃 六升二合
〃 甚助方へ
同村六左衛門方へ
〃 六升五合
同村久右衛門方へ
〃 八斗三升一合
〃 九升四合
同村善太郎方へ
同村勘右衛門方へ
三斗六升八合
同村太右衛門方へ
新田九升五合
〃
二石三斗七升六合
二石一斗九升六合
二石四斗七合
八斗三升五合
三斗八升二合
三升二合
七斗三升五合
四石四斗三合
同村六兵衛より
同村七右衛門より
同村六兵衛より
同村太左衛門より
同村甚右衛門より
同村源左衛門より
同村五兵衛より
同村十右衛門より
同村磯右衛門より
二石三斗五升三合
同村平七より
外 田高三石六斗六升七合
八斗九升三合
善右衛門分同村門三郎より
一八一
同村甚右衛門より
惣次郎分同村安右衛門より
平七分同村惣七郎より
二斗九升
一石九斗七升五合
畠高一斗一升三合
五斗三升八合
同村長十郎方へ
同村山三郎方へ
[石五斗七升五合
計
十九石八斗二升三合
同村長右衛門方へ
一石六升四合
〃〃〃ケ〃〃〃〃〃〃〃〃
一石五斗七升五合
一商品生産の嚢展と寄生地主制の成立i
計 十一石六斗五升八合
〃〃〃〃
一寄生地主制研究一 一八二
右の持高の内課内容からみて原家の経螢は、村内既耕地と村外開墾地をもつ爾様の経管を行っていたことが判る。した
がって村内既耕地は藩初以来の持続した持高と村内からの土地集中とで持続し、藩政改革は彼の経螢に影響をあたえす、
むしろ、天明度凶作前後の手余ウ地文は薄地と総された荒地の開焚を行っていたということができる。又、藩は新田開焚
を奨倒して持高を増加させ、その上に貢租を彼の責任において徴収することが藩の政策であったともいい得る。
︵註︶
︵註︶ 持高の内薄地開黄のため、手常をうけ、年貢は別免二つ五分又は本免三っ五分等を拐うが、開嚢中のために振替低年貢を拝願
したもので、開登の請負者となっている。
乍恐以口上書奉願候
私儀持高百四十二石六斗八升所持耕作仕、右持高の内七十石余、山手並に濁川邊一帯の地所極々薄地に御座候て、年寿不作仕作徳無御
座、右故難渋仕り、下男女召抱可申様無御座、自然と田畠疎、手入に罷成、大高始夫相及兼、手余地申上候体に罷成、依て乍恐奉願上
候、先年持高の内極薄地の場所、本田高三十四石一斗三升三合の分六斗値金方直しに奉願候得は、願の通、被仰被下置、難有取績罷有
候に付、右御取箇御損毛に罷成候分先年無毛地多分御座候節、補地開講仕、今に耕作仕り罷有申候、然威去年中右御手當作の分、不残
御吟味に罷成り地引帳を以て御改被仰付候庭、去湊酉戌ニケ年の年季に被仰付鞍下置、當年々季明に罷戊申候に付、乍恐交友奉願候別
六石三斗三合の分、申より子迄五ヶ年三つ五分成上納、残り御手當作の分共に合四十石一斗六升六合二つ五分成別免別高に御振替に被
紙地引帳を以て奉願候高三十四石一斗三升三合の分地元御見分の上二つ五分成別免に御振替被仰付と下直度奉願候、且又本免口の内高
仰付致下置度奉願候、尤御取箇減又罷成候分は無毛地開叢仕、御損毛に罷成不申様仕り候間、厚御吟味の上、以御哀憐、大高耕作仕候
上、極薄地の場所に御座.檬、其上最初補地開護等も仕り、御取箇減にも罷成不申様仕置候段、厚御者辮、被成下置、右奉願候通、被仰
付被下置候はば大高耕作仕り永.取続き難有仕合奉存候 以上
亥九月 半在家村肝煎
御代官様 原 平 治 郎印
このように彼の経管は、自耕地と新田開獲との爾様に向つたが、次に自耕地をどのように経管したかについてみる。第
¥で明かなようにその螢力は家族勢力と下男質券劣力で行っている。しかし、寛政度は爾者を合せて十二人であったが
治
八め郎
き﹂とあるように雇人同志の論雫を仲裁し、なお鍬首的に差配していることがうかがえる。
男要件
乍恐以書付奉言上候
平 左 衛門
孫
高百四十二石三升 一 合 半 在 家 村 肝 煎 原
年四捨三
母 年六十三
原平左衛門 =同同同
一二十二
十
つ九二
八
妻 き ち 同四十二
1商品生産の褒展と寄生地主制の成立1
粂む平
次の文書は下男治郎左衛門が十一年の年雇として働いているが、 ﹁傍輩へ封し俟ても立腹仕候儀杯一度も無之睦しく働
人前六反余の耕作規準は馬を使役したとしても、榮働強化の様相を想わせ、下男労働の苛酷︵勢働契約︶さがみられる。
ば自家螢働と年雇螢力と合せて鍬取人︵一人前︶が十人いるので、大体六町七反が可能であったとみられる。もともと一
えられる︵後出︶。六町七反を自耕したとみるのは、別項でみた一人前の耕作に要する勢働力の面積が六反余であるとすれ
地として名子抜けにより奮名子の保有地化したが、この散田地は多分に隷属關係をもつた農民の耕作するものであると考
は約八町歩と假定するが、この内本国分約六町七反︵六+七石余︶を自耕し得たとみるのである。他の約一町三反は散田
すなわち、前に示した持高の内本免分︵免四っ六分︶田畑合せて約八十石は手作地として維持したとみる。八十石の面積
と共に究明されなければならないが、右でみた事情から名子主“隷農主の経醤から手作経菅に移行したものとみられる。
体としたとみられる。名子を雇役した元緑度︵同五年の宗門帳︶から質券螢働に依存する過程については質地取の土地集中
天保度は十人に減じている。文政度には七人となったこともみえるが、たとえ勢働力が減少していても両者の螢働力を主
16
四
下女
同
同五拾二
同
同二 十
同五十四
同
小十六人 内
同五十六
同三十九
同十 六
太
馬 天
回璽同同四
二_二十
十十十
一一五五
疋おきけ郎
一寄生地主制 研 究 一
郎 左
郎 兵
久七文甚治幸
郎衛助蔵門三
六十
女男
人人なさし常
此利 二分一朱百二十文 但二割の利に商人にて
一、金三両此貸田 三反二十五歩 出尻 善 八 高入
る。次の場合は利子の支梯を利子率の攣動にしたがい米で支沸っている。
原 平左衛門
質地人の負播とみられ、質地人はどれだけの質地分返済を行ったか不明である。いづれにしても、質地小作の形態であ
場合とあるが、質地は質地小作の形態を語びている。第17表は下田を六入が耕作しているが、取口と役料は年貢諸役で、
は前にも述べたところで、更に質地以外にも散田地と小作地をもつのである。質地については本免田と別免田︵免囚っ三分︶
以上により原家がその持高の内六町乃至八町の手作経螢を行ったということができるが、この持高は質地分を含むこと
御 代 官 様
天保十一年子正月 成下置度奉願候、右願之通被仰付下置候へば此未村方者不及申二隣村迄も亀鑑と茂相成可申と私難有仕合奉存候 以上
働、何事茂主人え氣不叶事無御座、年中も三日と隙費不仕、萬端深切二相勤、心底稀成者二御座候二付乍恐奉言上候御哀憐厚御構相
仕候庭、大高耕作下男女大勢召仕候得共、諸事引廻、才判仕柔和成者にて傍輩へ封し候而茂、立腹仕候儀杯一度茂無之、指睦威爲
右者私下男當村治郎左衛門と申者生得律儀實体成者二御座候塵、家内病難等二進困窮仕、売人二罷成私方二當年迄十一ヶ年引続奉公
同同同同下二
男男
現米にて御定一斗六升、
嘉永七年改置
石
1.293
山三郎 0・92613 LO36
0.420
多右衛門 2・000−3 2・100
1.024
忠兵衛 2・926!3:3・136
1.549
忠兵衛 1・903i10−2・020
0.910
要
役料
移行過程が考えられる。更に質地も又散田といい、この質地取出し關係のうちに
に移行し、さらに請負小作的なものが、地主・小作關係に移行したという一連の
ら、ここでは初期開嚢にみられた作子 ︵幕内村の場合﹀ 的存在が請負小作的存在
ものである。第19表と第20表とから推測すると、第18表にも小作が居るところが
かにされ、その年限は二年i十年の間である。第19表は小作高と年季とを示した
右の散田の外に小作地が存在したが、この場合でも散田と縛し、小作年限が明
とみられる。その意味で地主は請負主で農民は請負小作的存在と考えられる。
しか判明しないが、農民が預地的耕作を行い、地主に封し収穫の一部を支梯つた
り分は何程であったか、これについてはいまはふれない。いまのところ右の事情
それではどれだけ領主と地主とが収穫米を分けあったか、又小作人的な農民の取
総石高を現わしているようである。したがって、散田米は小作料とは断じがたい。
る。反別で散田米をわると反當り一石平均にあたり、散田石高は散田の生産する
田は村内,村外にあるが、この土地は質地と薄地又は新田開獲地であるとみられ
小作地、質地又は預地等に分れるが、第18表の場合は請負小作的存在である。散
年貢・諸役負憺と利子が米で納められている。次に散田経螢であるが、散田は、
一分の時は四斗六升、叉二斗 分の時は五斗七升五合、右何れも御定にて米と取箸の事
藤兵衛 2.41517 2.573
4 0 4 2 2 8
6 ﹁フ 6 2 5 7
備考 別免分で四つ三分五厘成、下田である。
6 5 3 0 5 4
ド
1.192
摘
内諾引1畝15
文交交文交交
内二人作含む
勘左衛門 2・511 13 2・5う9
反 ! 石
/取・
1質地反別1
作人名 一一一1分米
反別枚郊
−商品生産の褒展と寄生地主制の成立t 一八五
は、質地が小作地となる場合の外、質地が質地取り主の経螢規模の拡大となる場合があり、この場合は近世後期に獲展し
第17表 原家質地取分と年貢諸役分(嘉永7年)
第18表 原家散田反別及び散田米表〔嘉永六年)
吉岡田村 L506
判 1.627
ド
510・404(3人分)
8!1・引5(4人分)
−I O・506
1! 一
ラ
21 一一
11 _
一」 0・400
−1 0、203
村 杉 0.721
−1 0.512
−1 0、020
1高人
1石5斗(3ケ所分〕
2石5斗(2ケ所)
一
21 _
2斗(2ケ所分)
4斗(1ケ所)
1
3…0.126(1人分)
2 −
11 1−
1 −
5・ 一
5斗(1ケ所)
祠−−
│−﹁.−一−⋮
一10.526
i!0・400_
一2L−﹄
ユ鼠6。8一
2.714
2石1斗
2石
歩「 ニ
一 〃 0.324
〃 1.416
4斗5升〔1ケ所)
I l −
」郵。.129
−l r’ 0.010
3石
4斗(1ケ所)
ll 二
21 一
「
一一1 0.119
一 2石3斗(1ケ所)
8斗(1ケ所)
2・ 一
11 −
融
村杉
一寄生地主制研究1
6i o.018(1人分)
− 0.419
1
二226[5 一
334
村杉分! 0.807
− 0.600
背戸尻村 1・810
数−﹃
一伽伽勿勿
人人人 人
_i I.510
引 0・526
散田米料
3石4斗
21 一
ド
11 I.204(3人分)
3! _
村杉剤 擁
殴一
民入一
別 分地一︻
ノーi o317
082025.13
村髪分!2蓮
GGα σ
ユ ド 55∩⋮ 3
2.514
農家一
﹁I−−10−B−I−一つ
53二一4一1
3.6!2
∫ 一1 0511
反
弓 一
反歩
3.112
分尻分
杉戸杉〃ケ
村背村
作門助吉三門衛郎衛門衛郎助門助門助郎吾門衛衛吉郎七衛郎衛助郎す郎す門作治郎
衛 衛兵 兵衛兵 衛 衛 庄衛 兵 兵 槌 防衛
右之配一郭郎一一石右四整兵郎五郎三兵五獄響平太
右 左
利義庄利幸善治長四善治才傳藤清藤傳善佐傳藤次甚清半次甚忠傳清文善勘傳利青市
−枚卜一!
原家所有反骨
数一I−卸,
地
他原反
田.
−−−各=
散
散田作人
2石2一斗
備考 嘉永六年「持高納質地・散田に建町反別人別帳」
一八六
た地主。小作關係へ
の推轄過程にあるも■
のと考えちれる。こ
の推韓により地主・
小作關係が成立した
のが第20表のような
小作料の値上げとな
って現われる領主の
年貢増徴とその地主
による小作人への薯
嫁なのである。
以上の百石所持の
原家の経管を整理し
てみる。e會津藩の
農業改革は大高持農
民には影響なく、む
しろ、自耕地の拡大
を質地を通しても行
、
の
と
登
展
t傳三郎lo・麟O
2.4弓
i彌右衛門i O.230
i
12
27
70
18
44
福V
8 191 7
P42い1
121
1
1
1
5
10
4
11
7・
7
1
54
501
46,
44−
45,
し
22
8
18
い得たこと、このような自耕地の拡大は寛
817
38
%
%二4572
28
43
政改革以前から行っており、それは名子主
13
7116i19
ロ
コ
10年
無 高 計
以上
一一2231
B 26
的経菅から質券労働による手作経誉に切り
P32
6
11
かえられたもので、改革以降は手作経管部
17
17118
1
31
斥
%
20石
月3525331
天保十五年
36
8t
20石
分を六町乃至八町に拡大し得たこと、目他
八七
317
剣6
捗石
.方寛政度以前に既に持高跳耕地の一部が荒
511。
ぎ爾,蜀
%1
1 1
蜘
備考文久4年
蕪地に蹄したものを改革と同時に
5石 け。石
篭石 パ 1 ∼
10石1 15石
天保四年: 2:4
411。
慶應二年
0.50i
の墾化
1石
1『』争6
文政十三年
地や荒蕪地は低年貢によってます
所得分を確保すると共に請負小作
的散田地に出すことによって経管
別1
天明七年
寛政七年
文化十年
i半”平隅
成 藩の資金で年貢請負的仕組で定免
田建上げ米増人別」より
農1
種
l:器1
備考 「文久二年御免相御上免に成散
に 散
泉 層
1吉兵衛11.6・・
計 16人一
0.30一
されたこと、四更に質地小作や一
第21表
O・201
■免入
]
立
LOO:
0.401 市太郎一
0.05i 藤左衛門1
御増 た。白このような開墾された手余
成
暴論
oβO
席鷺嬬
1.oo I
0.50t 利 吉
鍔制として疑し、憲田詫蕪地
の
O.101
野藷蓉、土地の集繁はかつ
寄
生
地
主
制
謹甥…
。・o㍉
一斗升合 一 1 石
1:謝
年年上〃年
43立 2
生
産
斗升合
五舗轡:
品
小鮎蘇作講 酢矧繁作濡1丞墨磨細
助郎助門門郎郎郎吉
商
第19表 小作期間
第20表 小作料値上(文久二年)
甚清傳忠甚才徳甚甚
1 。
般小作地をもつたこと、田以上の實態からして手作地主経螢が.堅倒的で、地主的側
面は隷農主的姿をまといながら近世的地主経管へ移行する様相を示すこと等に要約
出
來
よ
う
4玩
52
1寄生地主制研究1
■計
■田
合
■下
小■一む一15解解1絶1旦卵2518
募:1裂織尾隷,1欝
宕U 免 2.415 3.430 3.805 4.809
月、
年一田
懸⋮
︹∼中
慶
及⋮
田
田⋮
上
反別F石高反別1石高 反別1石高反別1石高
反1石一『…反…一一右一 咳 P一石r哀丁石
8.220 8.680 43.711 155.182
種 別
本田13.40718.79322.01427.709
一八八
それでは半在家村に聳立した十町会の土地経管者の存在に謝して一般本百姓はどのよチ
な経螢規模をもつたであろうか。第21表を中心にみてゆこう。天明七年の六十三戸が慶應
三年には五十二戸に減少、この聞四十一戸となった天保十五年の場合もある。天明から天
保十五年までをみると十石以下は大きな憂化はない。十石一十五石までは寛政・天保まで
は多少攣化しているが、天保十五年には十七戸あったものが七戸に減少、十五石一二十石
までは増加、二十石以上は三戸−五戸または三戸に齢ちついている。右のことからこの間
の農民層の分化は十石以上に墾動がはげしいが、大体一町一二町経鶯農家が大きく存在し
たといえる。ところが慶應二年になると天保度の髪化の仕方と異り、一石!−五石までが十
七戸、五石一十石まで二十二一尺十石−十五石まで十一戸、十五石以上は二戸存在するのみ
で、十五石以下農民の攣化となるのである。この天保から慶應にかけての攣化の事情は凶
作の結果と考えられるが、ともかく、原家でさえ八十一石工斗四升七合︵六+六町九反二畝
四歩︶に減少してくるのである。
かくて原家の場合は手作地を大規模に経鬱すると共に開爽地を散田小作の形で請負して
いる手作地主として存在したのである。これが明治初期から十五年にかけての民権運動の
経濟的基盤となったといえよう。
手作・開護地主と米市場■
五目村山口家は幕末には七十四石を持ち年貢米取扱の御藏役人となる。この村の農民層
2
六
二
別
所 有
水
第22表
備考’本免別免耕作高名寄帳より
については後述するが、山口家は早くから地主的様相を示してくる。そこで彼を中心に原家でみた米作経管が持続したか
あるいは解体したかをみることにする。
原家の場合は名子主経欝の様相をのこしていたのが元緑度である。それを手作下人経螢へきりかえる元緑度から、それ
より下った享保⊥兀丈にかけて、山口家では質地取り手作地主から寄生地主的存在への移行を示してくる。もっともはっ
きりと享保からとはいえないが、そのように感じさせる。そこで一先す小作形態につWて述べてみる。通例的な質地には
いくたの例があるが山口家の場合は次のようになる。
質物田地謹文の事
一、板屋と申所、中田一反四畝二十七歩の所、巳十二月より未の十二月迄二年の質物に仕、金子一両一分借置申候所實正に御座候、年
季の内御年貢諸役諸人足共時々に塒明可被成候、年季明候はば本金相濟、右の田地受返し可申候其内何様の儀申來候共、無異儀爲
作可申候、尤年季明候其此讃文不取返内は何年も御作可被成候、惣て世間質物田地なみに付、枳背申間敷候爲後日請状如件
享保十年巳十二月二十二日 五目村置主 初 三 郎 印
同村 五 四 郎 殿 同 村 与 兵 衛印
質地出人は一爾一分借りるために中田一反四畝余を質地に出し、質地取人が年貢諸役共負推して耕作する。年季内に受
返さなければ何年でも質地取人が耕作出來る。事實ごの土地は山口家のものになったのであり土、地費買に似ている。この
ような質地による土地集積と質地出しの關係は他のところでみるように全國的に行われている。質地出し又は質地取りは
土地の費禁規制の強さをみせるが、しかし﹁出し﹂・﹁取り﹂關係を行っている段階ではまだ地主と小作關係がすっきりと
出てこない。それは後進地帯の質地取と譜代的質券勢働による経螢にみられるところである︵拙稿﹁後進農村社倉の構成と
手作経蒼﹂東北経済第2號︶。このような段階の質地取経螢から質地小作経醤更に小作経醤へ移行しつつあったのが元文度の
山口家の場合と考えられる。第23表は山口家に残った小作謹文の一部を集録したものであるが、表によってその憂化の堰
−商品生産の褒展と寄生地主制の成立一 一八九
口評麟軒謹勘彊藤凶冷努努済亡ゴ計 【ヤ巌澱
掛戯 軽 嵌蚤 騰
十lll十 団〉由臣ltl_ _緊赴 獅□
融書 灘 寒露 蚕
雲袈雲醗醗喜雲書聖雲:…§三二i…雲 …讒口
[ll口 旨 ll羽口 lll ltUt 引
省撃 E 撃 婚 欝 露霜
の
薄曇茎婁藁鑓馨長潟墨差塁婁室長差長
N“、』、』)nGdψ団一 一山へ』へこ。、Dσ、、つ
口咲鶴亀誌8壷鉛翼礁8望8器オ$望賠翼
監節
⇒こ
伴}駅
一命
鴎伴〉 一き窄 一一一轟 羊※8 掻羊子 刺創創羊 か+
早撃翼享翠革革皐卓學睾學翠早早単皐翠1
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I lヤミヤや遣1頓11岳!ヤモi I堅強
t寄生地主制研究− 一九〇
書§ 讒
.凋首
謡爵
璃誉
態を述べてみる。表の内、小作料をめぐる領主と地主の分け前の問題は實収穫量の記載がないので述べ得ない。契約期間
鳶ヤヤヤヤヤモヤヤヤヤヤモモ〉爵 勺や沖
ムノ 壽 羅 縣
沁酋 摂
は一年が多く、更新は一年毎のようで、普通小作と質地小作を行っている。ここで注目されるのは年貢納入の様式と年貢
強盗庸岳笹舟岳醤岳岳禽岳鵜舟醤醤禽岳醤
器団ω翔 済 粛
ゆ
)ト國団団団団煕団団遣頂lllltu既tl巨鳥_℃
甚 羅誉掛訟ま;訟\;受蓬﹄引!詣㌧蜥一一−塾畜ご﹂⋮朗曝塗齢蔑
堅桑ヤモや桑モ勢ヤヤヤモヤや堅目1 鳶笹
ヤ
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ヤ
“ 母⇒﹃=一
獣
)∋ r÷モ
書
匁“蚕 彊
露一三逆 q=一一 一 一
ミ…
鳶モ電ヤモ
1商品生産の壷展と寄生地主制の成立1 . 一九一
もなく村と領主が賦課する労役で、村の場合は共同体成員の共同負澹、課役は夫役である。諸役を小作人が負播している
配を御蔵所を中心に行っていることであり、更に重要なことは諸役を小作農が負播していることである。諸役はいうまで
同一の文言で、異るのは小作料を金で納入することである。小作料金納はともかく、右の形態は領主と地主が収穫物の分
年貢・諸役と小作料を支梯う質地小作の實際をこ、にみるであろう。もう一つの事例は普通小作であるが、質地小作と
同村又兵衛殿 同村受人 七 左 衛 門印
元文五年中二月十一日 五目村 五 兵 衛印
相納相渡可申候、若不作等其外如何様の儀御座候共少茂違背中間敷候、爲後日謹文伽而如件
右の田地前々質地差置申候威,當年の儀は私方にて開作仕度御座候に付、御年貢諸役は無滞、上納可仕候、其外立上米六斗町御蔵にて
一、高二石二斗六升八合 谷地中
相渡し申さん田謹文之事
にその原形を見出す。次に例を掲げよう。
合⇔は地主が年貢と諸役を負捲する場合である。eの小作人が年貢・諸役と小作料を負措することについては、質地小作
諸役の負捲問題であり、これについて二つの基本的なものが考えられる。eは小作人が年貢と諸役.小作料を負推する場
霊山瞭 ロ目皿彊\プ 霜 融 済 旨 σ へ 庸 黙
ヤや函要濤
雰 輯
目口ロ田田
醤艦岳禽醤
1寄生地主制研究一 一九二
ことは、手作地主経管の存在を示し、又共同体全員が領主の夫役を負捲していることである。
相渡申謹文之事
上田 一反五畝九歩 分米二石一斗二合 針生村町尻と申庭
上田 八畝歩 分米一石一斗二升 同村同断作分と申庭
右の田地申正月より同十二月迄一年切の散田に取申虞實正に御座候、御年貢諸役f無滞相濟可申、其外立上の儀米にて相渡可申一御蔵
へ運送成兼申候間、金にて一一一分二百文御取可被下候・1
元文五年正月 上野村預り主 吉 平 印
五目 又 兵 衛 殿
⇔の場合は地主が年貢と諸役を負擦する。すなわち、
相渡申さん田謹文の事
松木田
一、下田 一反二畝十七歩 同 所
一、下田二反三畝十一歩 右之田地二月より月暮迄一年切のさん田に請取申候庭寛正に御座候、御年貢諸役は貴殿方にて相濟可被成申候、私方にて上米三石三斗
町御蔵納にて貴殿方へ相渡可申候、若不作等如何様の儀御座候共相違仕間敷候 以上
元文五年中二月十日 上五目 萬右衛門印
同村又兵衛殿 受人 惣 太 郎
地主が諸役を負捲する場合は、小作料が諸役分だけ増額となっているか否かに一鷹問題があるが、しかし、地主はたと
え諸役分を含む小作料の内から支佛つたとしても、小作人は年貢負櫓につきまとう夫役から解放されている。つまりeの
場合のように年貢.小作料.諸役を負措しなおかつ自己必要量を生み出さなければならないのに反して、その諸役から解
きはなれたということが注目されるのである。小作人の諸役負捲は幕末になるにしたがい、なくなり次のようになる。
質物田地開地謹文之事
下田 一反二畝十三歩 七左衛門分細田
右は私方開作仕候、立上米三分と二斗二升若松御蔵にて収納の内に屹度、上納可仕候少茂違背仕問敷候、爲後日散田讃文、価而如件
元文六年酉二月五日 岩尾村作主 吉 午 郎 ㊥
五目村 又 兵 衛 殿
高 72
率■つ飢
1
3.5 1 9、988
27.429
看石乱
分2
52.673
2.2
57.455
1.5 8.612
41.621
2.8
(給田)
30.899
2β1.7・107
10.176
0.5 0.509
遠横同瓜三上庄村
喜衛煎治門松六衛
石
瓢露欝轟
31.167
下谷地
上三宮
吉志田
中村
上野
百木田中
中川原
備考 五目組の内開獲人判明分 但し天保以降
以上享保−元文度に於て、この村に生起した小作關係は幕末地主・小作關
係の原形とみなすことができ、しかも元文度に各種の形態が織りなされてい
るのである。それでは山口家の経螢は地主として嚢展したであろうか。資料
の僅少さでこれを解くことはできない。ここでは原案や三浦家・遠藤家の例
で示したように會津藩の寛政改革以降についてみることにする。原家や三浦
家の場合に述べたように寛政改革前後、特に改革後は所有地や手余地等の開
震を行う。明治三年の調べには第餌表のように八人の入みがその村の代表的
開獲人となっている。會津藩領内が、このような肝煎や郷頭暦によって、開
爽されたことは他の機會︵拙稿﹁曾津藩における土地分給制﹂歴史學研究 +.八
年九月︶でふれたことがあるが、開嚢方式はe大高持の手余の場合は資金借
入や沸下米等で行い、⇔開護経欝は村内外の本百姓と越後地方からの移住
一商品生産の褒展と寄生地主制の成立1 一九三
譲屋
30.561
貢
年
石 局
村名
…農民名
11.588
右の例は幕末の小作誰丈の原形とみてよいであろう。特に金納小作へ登展する様相は6の質地小作の場合にみられる。
第24表 別冤開護人名(明治三年〕
村
0.尋07
上山新村
11.890
3.7031五目村同上
3.386
針生村8
78.951
9・301:針生村ぶ
0.325…同質地孟
3.294
してみる。
一九四
︵勝常村、猪苗代町等︶により行われ、目無高となった人達の持高に代百姓を立て、その
本百姓化をはかったこと等をあげることができる。開震地の年貢は二つ二分から三つ五
分の間を上下し、定免制をしくが、のちに揚げ免を行う。實際開獲面積は第24表のよう
に十石から五十余石、猪苗代地方では百石以上のものがある。五目村の隣村上野村は第
¥のように針生村に七十八石の出作地があり三浦家の開震地である。それでは山口家
口 庄 五 郎
定雇的な勢力で開壷している。定雇はどのような農民か明かでないが本百姓とみられる。二・三の文書の内、その例を示
る。又隣村山岩尾村に新田を開獲し、開焚地の勢働力は原家のように請負散田的形態をみるが、山口家では反當り二爾で
地によるとみられる。 百石余の内三十二石は極薄地で、 下免を願い、別高免となり六斗値金納になっているといってい
山口家が百石余に持高を増加した経過は明かでない。前でみたように地主的存在を示しているが、土地集積は質地と開蛮
五目村肝煎 山
.御頼申上候庭、地元御見分の上別高難破仰付格別に六斗偽金、金方被仰付、難有耕作罷在、其後
右は私持高百石余の内三十二石極薄地にて作徳無御座亡父勤中本納相及兼御下免別高に被下置度
田方 三十二石 本 田
乍恐以口上書付奉願上候
の場合はどうかというと次の文書がある。
25
一寄生地主制研究1
石
名
石 1
中川原村方
宮
22.413;計
計
定出作
2.31引田中村孟
6.76gl同質地歩
97.928
様
と散田
騒笛1村名
五目村み
田中村方
月
代
第25表 入作・出作並に散田(文久二年)
統
御
子吟
妹
御九.1
賢
一、金六両也 三両 彦六、三両 清右衛門 駈
但新田一反歩開嚢役料二両の積を以て三反分開獲可仕候、尤三反分内二反分は作付前に開護仕候、残一反歩分は作付後に開褒仕候、
田方長割縄引開業等の仕法御差岡に随い相働可申候
右は山岩尾村分新田開講御取計に付定雇に御抱に罷成紙面の通拝借仕候庭、實正に御座候、來亥春雪消次第取懸り四月下旬迄に開護仕
上げ御改可申受候、若當人相及兼候はば、請人罷出、期日通無滞開護可仕候爲後日謹文華差上候 以上
嘉永三戌十二月 上野村借主 彦 六
五目村山口庄五郎殿 〃 清 右 衛 門
以上山口家の場合は手作的経管をもつと同時に自耕地を開獲によって拡大し、原家や三浦家のように百石余の土地所有
者となるのである。しかし、明治二年には四十一石に鱒落する。それでは山口家は手作地主として持緩したかというと實
は御藏米取扱人となり、又米の販責者となり同時に漆水栽培から養慧経螢者に推轄する。以下彼の幕末.明治初年の動き
を述べる。米市場がどのようにして成立し、農民がいかに流通経濟にまき込まれ、自立化して農民的市場を形づくっていっ
たかについては明かにされていない︵部分的であるが拙稿﹁地方的帯揚の形成の問題﹂本誌第一九巻第一號及び﹁明治維新の経済
構造﹂参照︶。ここでは、年貢納入形態から少しくふれてみる。五目村の農民階層の愛化と貢租額について第25表をかかげ
る。農民暦の分化状態について文久度前後と明治二年を比較してみると、持高を持続するものと増加または減少するもの
があり、明治二年の場合は大高持で四十一石の山口家と三十一石の三浦家が最大の所有者で、大体十石以上二十石までの.
農民で占めている。中には五石前後のものや無高著もいる。鷲田は十石以下で零細化している。 原家で述べた牛在家村
は十石以下が多く五目村は約一町一二町までの農家が多い。年貢納入は會津藩の牛石半永貢租制度に基くものである。半
石半永は信連地方の養慧地帯のように水田不足のところでは算糸業収入による金納化へ進展したが、水田地帯に旛する五
−商品生産の褒展と寄生地主制の成立t 一九五
1寄生地主制研究− 一九六
自村の場合は半永分は米を賣り金納しなければならない。もっとも、のちにみる漆や麻苧、種綿、桑、茶等の特産物の販・
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不籾郷同丙
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400
500
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田︶
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門吉衛郎郎助郎蔵
衛 兵四次之太 計
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5.138
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+丁丁+︵田
++乙過 作金
一
乙
計戊差
分
戌の納金
、計計か引︶方田引納
23.083
給 分
本租金納
︵半納分︶
給元成一 甲丙丙ら差本新不現
米費
1.200
5.617
計
分分
4.417
濟
もな語残がある場合は過納分となって代金で梯戻される。庄五郎の場合は甲と丙分は納入するが、乙と丁は他村分と村内
かが判る。市右衛門は残︵差額︶がありその差額は﹁散田﹂分で、林右衛門外二入の農民の年貢として納入される。しか
租︵甲︶と諸負捲︵乙︶の合計から諸引︵丙︶を差引いた場合、過・不足があるかないかによって年貢を皆濟したか未進
方法は農家交は商家で行っている大福帳式の差引帳と似ている。それはともかく、市右衛門の例で分るように、半納は本
年貢は第27表のように米納と金納とに大別され、更に諸負捲米と免租分が示され﹃−散田﹂分を差引いている。この受佛
訟
5.OO
1.on
2.65
1.55
村 分
同 他
500
不詳
︵半石分︶
3.720
5.903
弓1
皆
1、273
3.408
2.!35
諸
石
高
別
石高及
種
別
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金額
種
郎
五
庄
農民名i
高
男
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21 5
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共
高高高田田︶
利
割計
米米米米
1.158
引當
納代
作手計
726
郷籾不御丙
﹃一﹃フ
22
内 諜
1
300
120
1201
060
残 (過納分)
2101
田︶
林右衛門へ
新左衛門へ
与惣兵衛へ
計
︵散
0
残
貫文
31
44
2.760
2.760
金 イ
計不金
﹃ 乍
方田 引納
2.719
本租金納
︵半納分︶
本新 内現
田
蔵 口
田畑内別後計
小!右乙
繁新癩
内訳 甲
甲+乙一丙差額
1.55
請負携
本組木納
7.124
弓1
4.10
5.00
1.00
2.65
︵半石分︶
差 額(過納分)
4.000
1.240
諸
割
無勝
1
農民剤 市 右_
種 一 種 別
代金1両2分143文
皆 濟
考 明治二年「五目村御租税米金取立
勘定帳より免は4つ1分の如し
三浦良之助受.取
嵩笙産暴展と寄生聖制の成業 一九九
十五両一分 内
一、三十六両一分二朱 一〆九十七文
三浦良之助山岩尾より午年分散田立上御金受取差引
る。直納であることはうたがいない。しかし、御藏所取扱の手に納められてから地主へ渡す例もある。
作關係による年貢焚霰男主ろ看るように年貢蓉の畠書論ているの直接聖への納入方賛竈であ
式の示すと毫は養の租響盆窃農一蓋名言妻嘗て納会れ、藏役人が決婆誓の募る.地主.小
部落費.裏と馨れ誤る﹁内割﹂にあ講をみる︵[.福島縣における農村財政と農民負警葦一︶.かくて年貢焚方
養益して納入論る・あよ藻年貢納の蓄競落羨て毒煮るが、村入用費と共に現在部落の協議箋は
第27表 貢租網入と差引
一寄生地主制研究.1 ・ 二〇〇
十七両一朱但両度にて 山口庄五郎受取
二分一朱五百文 塩ノ澤次蔵受取 ,
二 分 定数郷頭所三節納
二分二百四十一文 山山、勲尾村岩吉の分引地米一斗づつ年々引代
〆 三十三両三分二朱八百五十文
外に ﹁
一、一両二分 原平右衛門より受取候分
合 三十五両一分二朱八百五十文
外 一両二百二十七文 ︵明治四年﹁御蔵日記帳﹂︶
三浦、山口、原等への散田金納を山口家が代理して取扱い受沸いしている。
以上は臼年貢米に地主米国農民の賓米の三者が、年貢の米金爾納制を通じ又は地主と小作人の米を通じて動いている歌
態を示したが、それでは、三者は米市場をめぐってどのような活動を展開していたか。年貢米は籾納と米納の二つがあ
り、喜多方と塩川の爾所に納入し廻米される。その労力は前に示したように多大の運搬螢力となってWる。米納の場合は
現喜多方町︵奮小荒井村︶の米屋で籾挽を蒋負う専業者の存在をみる。次の文書は籾八十六俵を賃引で引受けたが値段違
いで問題となっていたが、日限を以て調製するというものである。
御 請 書
一、籾八十六俵
右者籾挽被仰付候節村表より打銭にて私共受取置申候所、値段違に相成此度御代官所に奉願、嘗村右の籾入置候様仕度奉願候所、此度
計立の上、縄俵共に取替上納可仕筈に御座候処、御勘定へ差懸り縄俵急に出來兼申候間、先達墨取候籾にて常時御見置被下置度奉願候
御勘定相濟候はば早速計立縄俵共に後日限被仰付次第屹度相直し可申候
午四月十八日 小荒井村 米屋 佐 平 治 ㊥
五目御蔵元肝煎 山口庄五郎殿 同 村 同 佐 兵 衛 ㊥
同任役肝煎遠藤彌右衛門殿
前書の通相違無之候 以上 、 小荒井村 肝煎 斎 藤 傳 五 郎 ㊥
右の喜多方町米挽業者はのちに米穀商に成長したか否かは明かでない。廻米以外の年貢米は飯米として彿米を行う。彿
米の買受人は肝煎暦で、肝煎から下層民へ費られるが、その間の利鞘は不明である。次に農民の販費米については大量に
賣るのは地主層で、喜多方町の米屋に費られる。三浦、山口雨家の米二十七俵二斗を代金二十五爾︵+両に付+一俵︶で小
荒井村長島初吉へ販贅した文書がある。又小量の販費については山口家の場合は次のように散見される。
明治四年﹁萬日記帳﹂
米六俵二斗四升 右 同人︵H家︶に貸す
銭五〆文 米代金 小屋分新吉より受取
耳 六 月
四月四日
四両一分一朱三百八十六文 米三俵代 黒岩分乙三郎
、 口
四月四日
八〆三百文 米四斗代残八百二十文不足 上三宮平吉
米八斗三升 糀.取替勘定
展
と
寄
生
地 一商品生産の焚
主 制 の 成 立 一 ニ〇一
、
その費値は米の収穫期には下落し、一雨位の差をみせている。しかも、農民は山口
る。田邊屋、風間等 の 米 屋 に う るが
。
更に個々の農民が村内にうるのでなく、やはり喜多方町の米屋に販費するものとして次の例があ
作部分かは明かでない
高
、
少くて四斗などと記されている。掴みの農民に直接販費しているわけであるが、自作部分か小
右の例では六俵が最
四月十四日
七〆五百文 米代受.取 上三宮 平吉より受
、 、 、 、 、 、
四月十四日
六五四三二一
4.00
六両値 六両五分値
薔 彌 十 6.30
木 吉晟6・24
㌻十郎日5.25
弄 十 良区1 6.30
互 蔵 6.46
主 助,+ 5.07
落四郎一月5.06
代次郎1 ソ6・・8
1寄生地主制研究i
6.26
3.18
4.27
6.47
42.69
6.18
田邊屋榮吉方へ売
青 松1 4.20
藁 七 5.00
昔 蔵 5.36
襲 平 0.49
FL 六 6.78
1・ 計 68.59
山寺新入遠藤五郎兵衛・風
与小与熊与徳孫又小 徳林吉新直庄嘉久清長吉次九小山間
八惣四 三 三 十十 四次
州郎平郎副製郎計鷺古訓酬鯛劉割判翻鷺
6.53
七両七分値
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売 斗凱
石
米
販
農民名
間平八方へ売梯
備考 五目村山口家文書
二〇二
家に販費方を依頼してい
るようである。
以上山口家を中心とす
る年貢米の納入形態と米
の販責形態を若干の例で
示したが、要するにe領
主並に新政府︵朋治四年
の時期︶ の廻米に収奪さ
木総数は台帳では四千本あったが、現有調では僅か四百四十六本となっている。、漆蝋は會津藩の重要な專費品の一であっ
〆八百余匁に減少している。漆木栽培から桑栽培への韓換事情について少し述べてみる。丈久二年の上野村外四ケ村の漆
苧、茶等をあげることができる。大豆と穂綿の次に桑の生産が目立っている。これに反して藩政時代盛んであった蝋が七
調べがある。米六百十五石はともかく、畑作物で販費金額の多いのは、大豆の三十九貫が多く、次が種綿、桑、菜芥子、麻
ならす、漆から養慧を象賛するに至るのである。幕末の五目村の特産物の敢況を知ることの出來るものに明治五年の物産
このように米市場と藩の年貢収納と結びつきながら山口家は持高四十余石を経菅したのであるが、彼の経管は水田のみ
行うと同時に米の仲買的存在をみせること等に要約出來る。
にも手を出していると考えられる。㈱村内農民の一部は小量づつの自宅販費を行っている。㈲山口家は御藏取扱い役人を
費部分に廻らす、結局三分の一は販責されたとみられる。国米市場は喜多方町に集中され、米商人が掌握し米商人は廻米
れる量が生産量の三分の一を占めることが豫想される。⇔金納部分と作得部分が三分の二をしめるにしても飯米部分は販
第28表 販資米と販資先
一一’■ @ 本分 本
村矧漆役木舞有木
上野村!3・772・5: 848
田中村1 265,6! 18
ラ
中河川原I lOLo i 20
針生村l DO.飢 17
ド
計14・505・21946
五目矧215引 43
註 高1本数
[ 等級1反別1免
l I 1ヲ、蕊5誌1、禿
1
1町反
5ッ1 7.2631155
5ツ』4.645185
132.尋。8』5。
下畑 4.029
網顧iコ1;1
≒陣 免 i辱
上畑115.000
中畑t18.921
備考 文久二年
下畑1 9071 323
たことはいうまでもない。右五ケ村の減木は漆木からの収奪に基く枯木と天明以来の
農家戸轍の減少によると考えられるが、農民は專費制下にあって市場を奪われ、買上
制のもとに、現金収入源の一つを得ていた。
漆木は五目村の例では畑地に栽植していた。幕末の一文書に散見されるが、明治六年
の調べでは本免、下免の別あり、上、中、下畑別に免がつき、普通畑と同様である。
漆木の減少から再興をはかったのは寛政度の藩の殖産興業政策である。上野、針生、
百木田中の三ケ村では、漁地から枯木を生じたので、漆木栽培を他の土地に切替え、
副3・3・gl,1璽
i商品生産の稜展と寄生地主制の成立−
殺に被仰付被下直度奉願上候也
謝塑6分1 免
計138.020
備考 明治6年五目村漆木
二〇三
だ難微に相沈み罷在申候間右体障の漆木掻殺に仕り跡畑へ前書の良作仕度、掻
得とも、畑方に漆木有之、右良作植仕付可申様無御座、常節に至り申候ては甚
此度養慧随一の御世話も被出候に付、桑並に人蔘、茶、綿等涛良作仕度奉存候
漆木伐木被仰付鞍下置度願書
したいといっている。
し始め、漆木は、桑・人蔘・茶・綿等の栽培にさまたげになるので掻殺
り鷲糸業へ向つたのである。明治初年になると、政府も殖産興業を奨倒
しかし栽植はすすます、三浦家のように桑苗の植付けを奨倒し、漆よ
募漆木植覆香雲品書襲、切替地各焼畑へ栽驚來る.その面積+五町あり内七町歩分は鑛免除し羨
しいと、五目、鷲田、下谷地、添田の各村肝煎が願出ている。
9201
錫9
湧
第29表 漆木役数と現在数
第30表 漆木畑反別
一寄生地主制研究一 二〇四
明治六年四月十五日 . 五目村惣代 三 浦 十 郎 ㊥
同村 戸長 山 口 昌 平 ㊥
願の趣は其節伺の上追て可及沙汰事
若松縣参事岡部綱紀殿 匠 長 原 平 三 郎㊥
明治八年に許可を與えざるを得ない事情まで進展していた。山口家は明治二年次のように養慧経螢を行っている。
養難金銭日記︵明治二年﹁萬日記■豊帳﹂山口家︶
一、二分ト五十文 但し塩川鶴屋孫三郎方より謝儀 なつ子種子代
一、繭二斗三升程 代四両三分三百四十文 平均一分二付一升二合位
内一斗一升小繭の分彿代三両内一両種子代として自分に受取
彼は桑園を仕立てると同時に桑の費買を行い、更に最初から繭生産者として立ち、製糸は行わないようである。繭生産
者となったことは、幕末に製糸専業者の出現を推察出來る。事實、喜多方町の御用商人小荒井小四郎は開港以降生糸の買
占め商人として活動し、その蓄積を以て喜多方製糸所を明治三年に創立するのである︵拙著﹁明治維新の経済構造﹂参照︶。
三 水田経管と﹁産業資本﹂の形成
手作地主経欝と製陶経螢
煙草、細筆の商品作物や自給作物を栽培している。桑と茶は幕末・明治初年に栽植が盛んになる。
が百十九町六反、畑が八+九町七反で、田がちの村である。畑は山麓に近いところでは漆木が栽培され、又萎類、麻苧、
上野村の高は二百七十一石余︵實際は隣村針亜村、五目村、百木田中村等に入作分がある︶、實面積は丈久二年の調べでは田
1
第31表 上野村農
畢村農民層分化(天疋明一元治)
10石15石L29石 2翅
1口 斤一 只 戸 斥 斥
一 1 2
1 !
t6 5 2
1 6− 12’
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一 一 3
ラ
1 6 51 2
l f 月1月:月 月…
2 2 1 目に
一…1 3・15 612
1
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74666438
1
…一2i Ig
I
18
∩i 、o
223一一一21
5一 3 3 4
一 一 2
一一2F 18!
241
1…1【 _ 1 −i ・ 17
一一一︷
6 5 6 7
56、釧一−別一8−副−到、引4 5 6
一 3 10
劉影蜘ポ
−↑一 ︸
年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年 に2あ
3 5 7 4 5 6 8 9 10 11 12 B 2 3 4 9 2 3 4 5 6 一た
兀り、その凶作にも
明 政 和 化保 久治
計
天〃〃寛〃〃〃〃〃〃〃〃享〃ヶ文天〃〃〃厚文元 平一
一商品生産 の 褒 展 と 寄 生 地 主 制 の 成 立 一
6烈11到1暫一 21石
6
以下11石15石:
葬「6毘一
號
年
21 4134
111…1
41一烈...一一2。1
16
17
18
17
16
21
405
17
−1
備考 同村分限帳より
農民階層については、
天明三年から元治元年ま
でについてみると天明三
年i元治度までの間には
十石以下の農民は減少し
て、十一石一十五石と十
六石−−二十五石までの農
民が増加してくるが、特
に増加は寛政十三年以降
にみられる。六十石以上
の農民は二人いるが、大
きな愛化はない。農民居
の攣化の仕方について第
¥を掲げてみる。
天明三年前後は凶作年
ちこたえた農民には五・
六十石、十一石−十八石
二〇五
31
砺一 セ隔嵩一’耕径嵩一一一鑑天基三
農民名
l l 萌1女」計
2 3 45 6 7 8 9 0
吉四郎 14・071
0・05814・129卜
1.218i尋.63212
源 吉
3.414
利右衛門
11.944
−1 11.94ぐ 2
傳九郎
吉兵衛
4.867
−i4・86711
0.502113.106h
1
i
112・664
1
太郎兵衛 1無6.305
0.282 6.5871 1
徳右衛門
1 5.159
傳右衛門
8.387
六右衛門
0.172 −8.006, 2
7.8441 0.1721 8.006!
し
5.584!10.14312
r
5.582 13.969 2
1
清左衛門
8.1621 3.369
12
利右衛門
12.8791 0.007
13
1
P−
12・677i6・443 19.140 1
19.04412
11:1:τr4●返
彦 六
7.761 1
1
69.181 4
E
31.124 28.381
59.505 1
3.620! 一 3.62015
1
1
長右衛門
287.693130
17 56
32・ge引36・277
〆O
切兵衛
利十衛
久三郎
2 ,6
呂15161718 計
安之丞
11・631
12.8861 1
3
2 3 3 5 11
4 4542
2 1
3 0
1 。莞7。17.。3212
6.962
2︸233 一111121
4
2 2一業改革が行われたとはいえ、後にのべる
石
七左衛門
馬
1
−1病死
2 −
I
I I_
一寄生地主 制 研 究 一
1
一要
上野村農民層(天明三年)
摘
第32表
¶
一…馬1売る
1i貸,1痔
一16年前1両3分売人
1 一,
1 外の内に質地取宿
引一
一12人売人質券
i
l O −
1 馬小荷駄
月馬買取
一1−
3i外1入本家飾り増
;
2!内!頭貸馬給取1人
131
引一 1195・331192βラ21287・6gl130−1261■56113i
1
備考 この外無跡22人この高残らず一村割り享保3年40戸より天明3年23戸に減ず。
二〇六
の高持者が多い。十石以下の農民は七戸
存在した。享保度に四十戸が存在したが
天明に二十三戸に減少したのである。中
には質券、借馬、駄賃取りに出ている農
民と質地取と質券雇用勢働や、貸馬を行
っている農民もいる。この一ような歌態か
ら、たとえ禽津藩で土地分給策による農
ようにこれ等農民の中から上昇してくる
ものが出てくるのであるが、天明度か
ら、丈久度にかけてどのように農民暦が
攣化したかについて、第33表の丈久度の
状態についてみる。丈久度は十六戸ある
が︵表には十五戸となっているが︶それ
はともかく、ここに三つの階層がみられ
た。 eは経螢を不安ながら持続する農
民。ωは上昇する農民。日暮初以来その
基盤を持続し高分けし、のち経螢を振大
諜
瞬
一
競勢
鳶冴一
繋ウ
コNし
℃ドO
二〇〇6
ひ!O
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一
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齢冒.︷醇﹁㌃葵一
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二〇七
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一
一
一
︵冷、/目、君︶
一 一 l I l I l l I ‘ 』 一 l l l
聾i灘
讃球
11
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σ、o℃
薫三潴
彊捧戴、一ノ翻−
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
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一
一
卜鯛
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一
一
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O 垂 − ω
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一
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三二…書
冴謬田φ
婁 喪 葺 哉
崔導諺鼓三尊>§妻雲三雲き§き三
悪書
矯津唐 叢二麟亙鶏一 凄万
哉 腎 掛 、, 掛
汁 酋で÷ 緊猷 淋r÷cΨ誉_
掛財
鷺ωω麹
材\丑
,該\モ
副撒・﹂い照サ症薄弱⇒弼前景藝g丹翻>嬉臨港蒔>伊勝ア 濫薄昏睡罵趾垂=蔵翼♂跨羊謡瀞酔認臨選
i商品生産の褒展と寄生地主制の成立一
戯景耀
1u♪
室魂
団わいローO・00Grひ廟ムゆ悼一
プ夙丑丑ププ冕冠■一統国威■号
\\\\\\\\\\\\\\\
号任看引引縁引線量ヨデ一線モ暑
lll冷暮毒爵渾醗唐爺煎薬誤汲繕蟄蘇
GQrσ、
第34表上昇する農民 (上野村)
n、381!
12.160一
散田出す 田 1.3441
10.869
10.i51
15.4831
15.4831
15.483
i文ク、2年一
88.OI8
1
19.140
20.0101
61_L
5_L…
養子行く
5._L
鍬取3人
l
J
無跡分
脇差御免
l
10一一 一一 1
101−1− 地首
1
1
9一一 一 2
1
10 11− 2
1
11一1−2
7L−
@l
1人病死
買、べ1。べおく
よめ1、ヘ
ツノレ
鶴松代
I
3 −1−11
7 111 21 質券2ノ、おく
一録取5人
F
11 −1− 2
○八
i
19.943一
6 −
333445■224
9.8961
甚刃
1.2841
馬借
11.180
一一﹃一﹃一
】0.496
無跡分
山守
ラ
7.7611
10.4961
4上5﹁フ44、
7.761
1文久2年
丞i天明3年
I
i天保8年一
戸主質券
外馬売
鮎
8.994
7.674
﹃︸一一一 10.003
776772
2 3 4. 5 8
高田年年年年年
天厚〃μ厚
持
散呆f
勘 之
7.931
8.305−
87[フ566
9.050…
内
勘 兵 衛 天明3年
寛政11年
享和2年
〃 4年
文化9年
戸主質券
0.45弓一
’天保2年 8.092
〃 3年
厚 5年
” 6年
〃 8年
文久2年
要
0.258:
333332
542234
質地出
無毛地
散田作
摘
錨
一寄生地主 制 研 究 −
11.381
計
1一1一
石
7.022
内
寛政4年
享和2年
〃 4年
文化9年
箪型入馬
家 族
男 1女
3555
2223
1332
七左衛門
年 號 …持 高
出
農民名
してゆく農民の三階暦である。eの場合はしばらく語いて口と国についてみる。かりに口を中農暦、国を手作地主とい
づておくことにする。
右の文久度における農民暦の表の内、三人の農民は中層農で農家番號③の藤之助は第蟄表の七左衛門、同胞は勘兵衛、
同Oのは勘之亟である。なお天明三年に無高伊右衛門が寛政+三年に六石七斗三升の高持になるが、これは除いて三人につ
いてみる。第34表の七左衛門は寛政四年に七石余をもち、七左衛門は質券奉公人であり、享和度十;石三斗に持高を増加
してくるが、戸主はなお質券として螢働に出る。文化九年には十二石一斗に増加する。しかし、文化度は質地や散田に出
すが、散田も耕作するのである。このような経過を経て耕作地が減少し、天保度には十石に持ちこたえたが、丈久度には
ついに寛政七年の七石台に逆もどりする。この村の持高からいえば貧農暦に属するが、十二石まで上昇しようとする経営
の拡大傾向をみのがしてはならない。次の勘兵衛については天明三年にやはり七石台の農民である。七左衛門と異り天保
度に減少したが、丈久度までは上昇して、十九石八斗余の経管を行うのである。勘之亟は天明三年には十九石余をもち上
層農であったが丈久度に八十八石に上昇している。
次に、前出の文久度の農民暦の表は三つの農民層に分けることができるといったが、右の内手作地主について三浦家の
場合をみることにする。三浦家は芦名家時代からつづく家柄であるが、中世から近世へかけての、その攣化の様相はとも
かく、天明前後から明治初年の自由民椹運動の時期までについて述べてみる。三浦家一族の持高は天明.寛政度の聞まで
は三百二十二石の大高持であった。すなわち
乍恐以口上書奉言上候
私ども本家上野村肝煎三浦澪之助儀當祖父三浦文右衛門代迄ハ内證相感に相螢み、下男下女大勢召仕、持高並に質地高等取合せ二百拾
石余全く自作仕り上野、針生両村肝煎被仰付、数代難有く相勤め罷在申候、然る処私共儀追々別家に相成り其外村方太祖右衛門、勝右
−商品生産の登展と寄生地主制の成立一 二〇九
1寄生地主制研究1 一二〇
衛門と申者共別家仕り候処、勝右衛門先祖久三郎と申者、寛政年中死禿、無跡に罷成申候、然る処澤之助儀先祖の志を縫ぎ、十二年已
勝 太 浦 浦
良
κ一
一レ
右 衛
祖 右衛
豊
祖 澤
門門治蔵樹
前文政七申年願の上、自力を以て代百姓相立て、當時にては本末共都合五軒連綿と繁昌仕罷在、何れも大高耕作仕り罷候段、畢竟澤之
浦
助儀先祖より本業に踏込み、志を相立て螢費を不厭別家高分仕り候故儀と一同奉存候
一、高百石二斗五升七合 上野村肝煎
一、高八十六石六斗五含 五目組郷頭
一、高八十三石三斗四升八合 針生村肝煎
一、高八十八石六斗二升九合 上野村百姓
一、高二十三石六斗九升五合 〃
三
それでは三百余石乃至二百余石に土地を集中し得たのは何時の年代であろうか。明かではないが
木
次
第
に
城
木
仕 兼候故か追ゐ無跡に相成、田畑多分の無毛地に相成り漆
り 年 増 不 足 、 蝋代過分に相成り立百姓友禿に相成り、僻納
一、上野村の儀御高二百七十一石余、漆木役四千本、 元來百姓数四十三人にて相勤候形に相見候処、小高に不似合、大多役の漆木組勤
を植立て開護賃を出して一つは年貢徴収、一つは農民現金収入の途としたのである。
下を行い、五十爾の備金を 以 て そ の 利 米 を つ み 立 て 、 叉蝋年貢不足へ廻す等して開墾し、更に無毛地畑の内七町会に漆木
恐らく天明の凶作時の質地 と そ れ 以 降 の 手 余 り 荒 蕪 地 の 開 墾 に よ る も の と み ら れ る 。 三浦利十郎は寛政九年に無毛地の貸
したものと考えられる。
三
浦
沢
之
助
の
時
代
︵
文
化
士
二
年
︶ に二百十石余自作とあるので、文化度に二百石余を分割所有
年代はいま明かにし得ない。
のである。三浦家から分れ た 針 生 村 三 浦 豊 治 、 五目組郷頭三浦艮藏又は上野村に居住した太祖右衛門、勝右衛門等の分家
家の後縫者である。すなわち
、
久三郎一利十郎一勝右衛門−浪右衛門一沢之助一文右衛門一嶺八一信六という系譜を辿る
明治十五年常時自由民椹運 動 に 参 加 し た 三 浦 信 六 と 針 生 村 の 三 浦 文 治 ︵ 女 婿 ︶ は三浦家から出るのだが、その信六は三浦
持高 小三百二十二石五斗三升四合
三
三
多く、何分村体難相立、既に亡所同前に相至り、年々過分の不足蝋代相納め兼、無鯨儀、石不足蝋代に當り、米金の内を以て毎年御
手當に成下置、漸く上納仕居り候儀に御座候慮、左候ては一旦急難をしのぎ候とのみにて、百姓共勢力相衰い闘し無御座、田地手飴
り配當地等多分に相成り一村衰亡の際に相至り、 一同恐懼仕り罷有候所、澤之助祖父三浦利十郎儀四十年已前寛政九巳年中存寄奉
願、品西考量相壷し、無毛地の内御貸地相願各出殻を以て、溜米等仕り、村方不相痛様、取計ひ金五十両備相立て一ヶ月二十両に一
分の利子にて元〆方へ御廻に相成り右利金、年寿御渡被下置、不足螺納へ差向罷在申候、右備相立候已來、今年迄、利金を以て、村
方の手當に成候高大凡三百両饒に相見申候、然る庭右利十郎儀不圏、二十八年已前急病にて勤中に病死仕候に付、各一件御賞し方も
一向無御座候
て右申上候通、田畑多分の無毛地に相成居候塵、右利十郎儀、寛政九巳年中存寄申上、無毛地類方の内、七町歩余産物役所御計ひを
以て・漆木植立に相成り右開護役人足、專ら村方より差出し賃代渡し方等を始め、凡て考量痛に不相成様取計ひ御計候成就仕り、其
後引績き澤之助儀下畑手入れ等の儀專ら世話致し多分の淡水繁茂罷在か、各漆木實年々蝋に絞り相納、四公六民の割合に被成下、追
々不少、上下の御益に罷、灰申候
次で澤之助時代︵文化士二年︶には利十郎の後をついで手余り地の配當を引うけ﹁民風取直し﹂に努力、文政四年代官所
手簿、塩川五目廻米請梯役等をつとめ、天保二年六百八十石余の開獲を行い、合せて千二百余石を開いた。又文政八年か
らは漆木や桐の植立を行っている。
一、沢之助親三浦並右衛門儀、親利十郎病死に付、早速親跡肝煎被仰付候庭、身弱にて繁多の御用相勤兼候に付文化十三年子年中願の
上伜沢之助へ肩替勤被仰付候
一、沢之助二十年以前文化十三子年中親肝煎肩替勤被仰付候塵、親身弱に付、強て御用向本務相勤罷在中候、然庭右村の儀前文申上候
通り一ト通の窮村に無之、既に亡所同然に相至り候体の村方にて祖父利十郎取計已來鹸程の年数も相立ち候へ共、と角仕居にも不相
成、民氣匠凌にて田畑耕作も不相定、手飴り配當地等多分有之、何れも取扱い難渋の時期に御座候虜、沢之助儀、兼て爲人、貴体成
ものにて、物事心を委ね、品み規別等相立て質素槍約を守り、農に厚き、戸前手厚に取扱い、窮民を血き、萬端取計ひ行届き民氣引
!商品生産の嚢展と寄生地主制の成立f ・二一一
一寄生地主制研究一 二一二
起、農業一節に相助み、田畑耕作仕候に付、配當地も無之、前々へ較御手當物相減じ諸上納物期に先立、民風落西取直しに罷戊申
候、加之、年高より書算等相懸に相暗し御用辮に相成候由にて十五年以前文政四巳來中御代官所帳書手傳被仰付、翌午年塩川五目御
蔵所納御廻米請携ならびに同所右助人差を以て被仰付候庭各御蔵所の儀大俵数も相納何れ大業の儀共に御座候庭、綿密に取調米持は
勿論羅綾仕持に至迄心をつけ1刎俵等も相減、專ら組方笏費省きに罷成一十三年已前文政六未年二月朔日親跡、肝煎本務被仰
付、追西無跡代百姓三軒相立去ル申年五目、慶徳両組田地開業−取計り候様被仰付、寅年迄新田開護並に無毛地生蹄等取合高五百
石鹸開護取計ひ、尚又天保二卯年より去午年迄に六百八十石余生購開発取計ひ都合千二百石飴の開発高に相成、追々不少、御取箇増
し細節に罷成、後来のため不容易儀と奉存候、猶又文政八年中五月組中塗木植立才判人被仰付、同十一子年重き御尊慮勧農御下げ金
加金の節、諭方掛被仰付両紙富有のも0とも諭方行届、御下げ金へ加金共に六百六十八両、備相立、天保三辰年御代官所御許金御
備、微に相成、加金御爺の節精肉相壷し富有のもの共中諭金三百二十六両二分一朱加金被罷成、同年郡役所御計桐植立才判任役被仰
付︵下略︶
天保六末年正月 五目組針生村肝煎 三 浦 豊 作
御代官様 五目組郷頭三 浦 良 蔵
文右衛門の時代には安政度陶器製造所に關係し弘化四年には士分格になり持高と開蛮高とを以て給田化し、康藩置縣に
際しては蹄農し、農民となるのである。三浦家持高の攣化は次の第35表のようになる。天明三年から享和四年までは、持
高に多少増減あるが、三十二石余と外に三十六石余が総持高となる。文化九年に減少するが、天保二年t明治二年まで百
石余に一まとめになる︵さきにみた文化十三年に二百十石自作したとあるが、二百石の内百石がどのように分割されたか
不明である︶。 ともかく本家としての澤之助、文右衛門の時代には所持石高を維持していたといえる。さしあたり天明か
ら文化までについて述べるが、持高三十二石は自作高で家族と下人勢働で経督したとみられる。外高の三十六石は質地又
は無跡と散田地とである。たとえば文化九年の分限帳には
6
3
32.904
4
2
6
1
32.904
5
3
8一
5
32.904
外 36.277
32.904
外 36.277
32.904
36.277
4
3
7
外 36’277
〃
〃 6年 〃
!
i“8年
1文久2年
〃
給 田48石027
配付高72石276
1明治2年 1G1石397
1
持 高40石035
無 役舅石362
3
6
4
3 ,7
4
3
7
4
4
8
2
1
]一3
1
2
1
1’
R
1
1
2
備考 弘化四年給田27石4斗2升9合「持高帳」より作成
1
rフ7787
〃
3
3
122222
1〃5年
6
1 122233
一一11111
1 111122
6 666667
〃 3年 〃
3
222222
外 6。949
3
4444445
20.536
2
〃
〃
〃
厚
〃〃〃厚〃〃厚ユ写〃〃
外 36.277
2
女
1 66 ﹃フ
2
1天保2年 100石257より
確4年
馬
4
外 36,477
〃
〃
1享和2年 〃
厚
3年 〃
厚
4年 厚
〃
,文化9年
−rフ44、
32.904
26.719
21.719
38.904
2
鍬取i
男
計
外 36.277
外 36.277
年年
年9
年年
5
6年8
1年01213
1寛政4年
32.904
︻フ5
〃 5年
〃 7年
男
女
女
4。67﹁フ
石
「天明3年
雇 人
6127
持 高
;男’
號
計
家 族
年
同十九石二斗八升二合 肝煎 三浦並右衛門
内 十三石五斗一升三合田方、五石七斗五升四合畠方
一升五合 新田、畠高二升七合無跡新六へ替地
一商品生産の褒展と寄生地主制の成立1
第35表 三 浦 家 持 高
3
3i
−寄生地主制研究・1 二一四
高八斗七升 畠方當申無毛地
残 十八石四斗一升二合
外二 内高 一石一斗七升六合 甚右衛門より質地
但十四年以前卯年より戌年迄金十二両貸質地取置申候
合 二十石五斗三升六合 當中耕作高
外 六石九斗四升九合 針生村分
とあ一るように質取地が耕作高に加えられる。天明以來の三十六石が文化九年には二十石余の自作に至った経過は明かでな
いが、三浦家は天保二年以降、百石余の土地を集中するに至るのである。すなわち、丈久二年の分限帳の給田以外の配付
り 高十七石九斗以外の五十四石二斗九升は針生村、五目村等の近隣の土地を持つの
862498749476 一よ
1−−ーーーー − 一年
散⋮分 る︶の大半を占める程、近村へ集中が向けられた。
15 7 ユ限
石四団解ω%麗田㎜媛 である。 この五十四石余の土地は上野村の出作地︵九十七石中七十二石に達す
配付村名 1石 高
弘化四年には再び、五分一村、百木田中村、日中村、熱塩村、五目村等五十石一斗二升四合の開獲を行うのであ
二
十
七
五
四
斗
が
給
田
分
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て
組
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る
。
この外山林には杉植立等を行っている。
高の内には
に
は
総
持
高
の
内
謹
が
載
っ
て
い
る
。
持高四十七石余、無役高五十四石余この計百一石余とあるが、無役
る。明治 二 年 分 限帳
となり、
っ されるに至
た 。 このような事情からの脱出をはかるため、こんどは弘化二年には擬作六石二人扶持の給田士分地方無役
]
配 針 五
一
−㎜
、 野
百
−
1考
・備 ﹁口上之畳﹂とあるように開稜は困難をみせ、この困難は又聞焚地の増税で倍加
一 生日邊木 η に耕作してもらうもので﹁大高自作のみ相及びかね、散田に片付け﹂︵慶応二年︶
瀬棚欝計膿しかし、.、一滴家の場合は、その開援地の耕作は﹁一作散田﹂と聡して本百姓
第36表 三浦衆敵田高
47.03引
i持 局
7.1921
1内
l:誤四ッ畷
0253四ツ三分成
別免本田
畑 高
新 田
新 田
1.1091三ヅ五分成
l
斜生村分
37.17ア1ニッ五分成
・・174
54.3621
無役 高
27・429停ツ五頒
上野村分本田
3ケ所一
質 地 林
2ケ所.
杉植立地引請
16ケ所i
!
4ケ所1 (無役)
ヒ
1 入 會 山
持 分 謬
P一城
1
1 野邊澤村新田
杉植立自力
3ケ所
持 林
7ケ所…
林
別!石 高:口
1種 石 1
上野村分
1二本木原新田
1.798 四ツ二分五
1 百木田中村本
1 畑
〇.6941七ツ五分成
ラ
12.910!一ツ五分五
レ
6.3351三ツ八分成
針生村本田
根岸村本田
五目村新田
i 東崎村新田
2.657i三ツー分五
I
r.0401一ツ五分成
合 計
01.397外3斗71
備考 明治二年高分謹1彗=上帳より
更に彼は養麟業の焚達を
はかるために無毛地へ八万
本の桑を自費で栽植するの
である。
五目組上野村三浦文右衛門
儀地方無役に被召出六石二
人扶持の分董高無毛の内に
て被下候庭、右無毛地村方
に紐一之一五目組村々.の内に
て無毛地五十石・余開発上納
仕候へば五十四俵増納に相
1商品生産の褒展と寄生地主制の匹反立− 二一五
新里立焼立搭め上三宮村の竺人撃入綾簗勢容﹂嘉三之留姦し!整轟る寮場藩工雲量禿霜成饒
春型三宮癌戸場の儀議一兀黄牛轟代官所計聳て紀州糞瀬戸師嘉三之助と雲実需成業坐作手際宜鴛膣付
からの収益を製陶業に投資するのである。すなわち隣村上三宮村の藩鶯製陶所を彼は民螢製陶所にきりかえて経督する。
このように手作地をもつと同時に開墾を行い、更に漆・桑等を栽植するが、こんどはこれ等自作地、開墾地、散田地等
砺地一兀見分の上一級仰付刃然と奉存候
濃問篶の内にて高二+七石余取二+四俵禦匿鍵禦候へば藷の吉実れ三士集づつ年々全く所務入籍成し三
+一集電穣と蜜不窺功作後−誹替り賀不申簿共、近轟嘉行致権、桑不足に王統護至極霜開嵩、
桑更菓莫絹隻睦葉臭候儀被管候康、場所場所へ身窪て植.霜稜共盛付袋笹塚種,,愚.田秋廻村の
第37表 三浦漠右衛門時代石高
1寄生地主制研究一 二一六
一大野喜右衛門と申者を以て弘化三年四月中三浦文右衛門、新城平五郎存寄の上、三浦友八、三浦常治、三浦文右衛門並吉志田村肝
煎瓜生直四郎、上三宮横山喜兵衛、百木田中村肝煎上野三四郎〆六人にて調達金を以て新釜築立瀬戸場再興焼立相始め、嘉永二酉年
中迄に住居取計−精力相墨焼立取計罷在申候︵安政六年四月﹁耶麻郡上三宮村瀬戸場仕居調一纏﹂三浦文右衛門︶
製陶所は彼の個人資本だけでなく、さぎにみた肝煎級の人達の共同資本である。
手作・開稜地主と金山経螢
らあったにしても、分化の仕方がはげしかったことが判る。しかし土地の集中は遠藤家以外はそう大きく増加していない
事情を裏付けている。すなわち、配付高より耕作高が下廻る者が四戸あり、しかも無跡が八戸ある。無跡は天明前後か
る。極めて小さい村落内部に於いても土地の集中が行われていることを立誰しているわけである。慶應三年の實際は右の
石余が慶感度に百石に拡大しているのみで、他の六戸は何れも減石となり、無高化しそうな農民が二戸存在する程であ
態をみると第38表のようになる。天保十五年から慶應三年にかけて耕作高が増加したのは遠藤直助のみで、天保度二十九
下谷地村は他村と同様に農民戸轍が減少しているが、他村の比ではなかった。天保以降七戸の全村民についての分化状
通に耕作しているが、三戸は三石余で手間取りで生活を支えているという。
助、源之助爾人は三石余位の耕作にて手間取り鋤を以て家内経螢罷有候、﹂︵元治元年九月﹁口上書﹂︶とあるように三戸は普
りは左衛門、吉左衛門、與右衛門〆三人は可成田畑耕作仕り取績候庭、嘉兵衛儀は七年以前売先明家同様に相成り、與
いる。農村人口の減少は天明以降著しかったことはさきに述べたところであるが、この村の状態については﹁家数六軒よ
に上田は少く漁田が多かったとみられる。元治元年の願書には家数十二戸とあるが、實際は七戸で他は無跡八戸を出して
現加納村の内奮下谷地村は百七十石余の小部落であるが、この村も水田が多く、畑地は少ない。しかし、上野村のよう
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、のであり、ひとり遠藤家のみ百石を持つのである。
右の事情から明治四年にかけてはどうかというと、
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二一八
それにしても幕末の
遠藤家の四町七反は
ともかく︵後出︶、八戸の農民は一町九反−から三反五畝の土地所有者とし
て現われるのであ一る。大半の農民は九反一⊥町四反の聞で、中農層的な様
相をみせている。
このような農民暦の中から、しかも水田経螢の中から、鑛山経鶯を行う
農民が出てくるのである。さきに述べた百石余をもつ遠藤家がそれであ
る。遠藤家の幕末における地位は肝煎として活動してくるが、會津藩領内
農民又は三浦家、山口家、原家と同様に寛政の農業改革後の荒慶地開獲に
よって、その持高の約孚分を占めるに至るのである。遠藤家の鉱山経管は
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(明治4年)
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一寄生地主制 研 究 一
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新田知計
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田 一畑
塞.脈
農民名
丈久若しくは元治年間と思われ、隣村山岩尾村の黒森金山を経螢するので
ある。同山は休山であったが、遠藤家が山師となってすでに八百匁の金を収め盛山であった事をつたえている。
第40表 下谷地村土地所有者
I i l I! i I
乍恐以口上書奉願上棟
私儀稼山黒森金山の儀・籍山麓山村盆御座候、往古盛山仕候由農、右山先と申者無之、只々一一、、、い傳のみにて取立候燕御座
候・且つ私権馨沢蟹雲へ撃罷越、鑛山奥賛態候所、蛮奮笛罷懸候籔肇存、右取立方の歎願差出、右
山先に被仰付草裹霧々仕・沓金八喜余霜納、追々盛山の模様に罷覆所、不量雲弱年よ晶内騒ケ敷く罷成、右稼方
無勢仕り・休冑様寵穫所、今般型暫蔑参謁鶉被無惨に付ては、右崩誓儀、先達て申奉願候得ば、御差岡被成
下貴著仕倉奉存草叢替申儀、追藷焚豊崔り葦、吹目金畠覆黛最襲、此上盛山に罷成可申と相態
候計芝御座候・右模籍直り候特蕊、追々人数相増し此蔑大楚震、右人数取締方特、不顧恐竃御題猛座候糞、
往古より金山出先籍別の分ヶ禦以茗審刀御家ド罷・麿候所此轟肇に護縫付譲、先壕無之讐付、右大勢取扱方
には格敷無毒て喚差■支の讐有を付、恣成御願には御機へ共、費の響以て葦帯刀御亀郡付震候程度轟上候
午四月 耶麻郡吾輩森諾々先直 理
直 助
若松縣御役所
名字帯刀を願い、維新政府の権威の下に経管を織綾するのである。
維新政府成立以前窪麓3て少し途べるが、饗開始直後、湧水のために蒔羅隊せ、皇、三+磨かか
歯借差したと題勇働者の飯米士ハ俵二書籍し夜と途べている.しかし、日寿出荷六、七荷、中等の一荷
砂金一分老犬厘隻綾金麦、ばら粒五つ位を生産している.鋸山は夏所のみ荏く、二、三ケ璽行建毒
られ・同村の的場利兵衛の山︵後に民権運動で活動する蕉山守の持高︶では大工三人、金場三人、掘子、岡廻り一人、山師共
九人で経臠していた。すなわち
以態々人中上候・當雷驚董農墾り譲無御座候、然農、當正月中より水曳に引通⊥一夏盃嶺懸農振倉て叢.寿
二一九
i商品生産の幾展と寄生地主制の成立t
1寄生地主制研究一 二二〇
散荷掘も相不成、春中より今度納候迄に漸く以て五十目不足ならで上納不仕、諸懸りは此の節迄百三十三余両も入費に相成候由にて、
山師手元内借等も多分に御座候由、此節至窮に相見申候、尤三番敷卸根合水湛、何分樋引上も不相及、委曲當御廻山の節、御見分も被
成下候通にて當分相休み居中候、仍て本日上通りにて三丁立精々相稼ぎ日々出荷六、七荷位、中荷一荷より砂金一分位より七、八厘位
の大凡そ見諸候御座候て、上荷の分、當分出荷無御座、日々仕揚げ少々にて何分困り入罷在候、且先達て中、山師罷登り相納候後、今
日迄吹目金九匁、ばら数五つ出來申候に付、爲相納候聞、数日御改御受取被成下、右代金の儀何卒厚以御憐愍納高より二分通りを以て
右拝借米代へ相納め残金岡廻忠太郎と申者へ御渡し遣わし下され度と奉存候、猶稼方精々仕追々模様申上候様可仕候
一、的場利兵衛山、此節人数も相増大工三人、金場三人、堀子一人、岡廻り一人、山師共に九人にて精々相稼ぎ罷在申候、敷内模様、
︵慶應三年正月﹁日記﹂黒森金山役場︶
黒森金山役
先達て程には無御座候へ共、出荷、日々出六荷位づつ出荷に相戊申、又候宜しき模様にも可相成と奉存候、砂金二匁五分位も出來居
申候、當月中には是叉相納候様にも可相成と奏存候右の廉申上度如斯に御座候
五月廿日 金山御役所 ところで遠藤家の金山経管は幕末も押しせまった時期に開始︵この例は伊達郡半田銀山の経袴着地主早田傳之助の文政度より
おくれている︶されたが、その労働者はどこから求めたかについて興味をひかれる。牟田銀山や他の鉱山の場合は自村又は
近村或は遠國からの労働力を以て経管しているが、彼も亦、近村、又は遠國からの勢働力によっている。慶應二年1同四
年までの三ケ年間の調べによると慶應二年では男二十三人、女八人で三十︼人を算したが、同三年には二十八人、同四年
には十七人に減じている。この減少は前でみた湧水のために勢働力を減らしたためとみられる。勢働者の年令については
二十才1,三十才前後のものと五十才前後又は十才前後のものがいる。子供は勢働力に入らないが、ともかC青翫年が大部
分を占めている。更に出身地別にみると會津領は少い。越後・宮城・山形・秋田等の東北、關東、伊予等の遠國からの出稼
的で就労の経路は明かでない。注目されることは、村内及近傍農民が勢働者とな.つていることである。村内では慶應二年
第41表 金山労働者出身地別表
嬲者名1鯛出身地
螢働者名
備考
1慶應二・三・四年
「切支丹宗門御改
分限帳」黒森金山
師遠藤直理
武蔵
越後
〃
〃
ラ
計男10人女7人
〃
〃
!
5霜武蔵
22嘩後
111 〃
20! 〃
i
1
221 〃
3男當 國
46 米 沢
蔵ゑ郎郎七 蔵吉蔵洽き
惣
太四
勇す芳榮源 与重力儀ゆ
〃
gi 〃
越後
〃
〃
.〃
伊,達
〃
秋田
當國
〃
〃
〃
而ん
藤で
13…”
〃
〃
42: 〃
12一 〃
劣働者名年令
〃
P5
仙 肇
越 後
Q0
下
仙武當武山下鷲
ケ 三谷 後 野 峯、蔵國蔵郷地田
〃 〃
越
予田達人.田
〃 蔵
伊秋伊御秋
ケ
田
では一人、又
下谷地の隣村
鷲田村から三
人、近傍五人
という敏字を
,■
みせている。
三年には近傍
︵當國と﹂のるも
べ の︶から十人
9、
男
も働いてい
る。これ等の
會津領内交は
遠國からの螢
働者はどのよ
うな條件から
秋
21
市ん蔵ゑ郎き吉八松め蔵吉郎吉郎つ助めん衛寺郎郎七蔵
〃
計
女 人
23 人
太
太
太
之兵五四
山三郷板沢
藤で勇す林た孫源重し銀忠清榮重か榮とう庄豊芳榮源与
四國伊予
生れたかにつ
いては確認し
計
一商品生産の褒展と寄生地主制の成立1,
二︼
二
吉藤より竹寅の源百茂とと松清惣三男と幸太豊芳儀与善喜七秀 一得ないが、既
太 太惣兵篇
之之
治市つつ松松ひ八蔵助めみ助助吉郎戴く吉蔵吉郎治助衛門門吉
才55394012332824四3337245332555243420%%58
〃
才舶391282721尋28413136覧B男餌1719兜男
鱗5856
I i 一
22; 〃
なつ
とき
〃 〃
如人
40秋田
〃
、ず愉予
伊予
秋田
輕井沢
慶 感 杢 年
h慶應3年
慶應2年I
障令出身地
出身地
﹁
一寄生地主制研究i 二二ニ
に他山で働いた経験をもつものと農民暦の、分解から生じたものとの爾様の成立過程が考えられる。特に農民暦の分化から
と思われるのは下谷地村の農民與助は勢働者として働いているのである。奥勤は慶應三年の持高十石一斗から高六石九斗
八升八合に減じ、家族六人の経螢であった。しかし明治三年の下谷地村戸籍によると與助︵介︶は田十五石二升六合、畑
五斗二升二合この計十五石五斗四升八合、林一、斗一、漆木十本の所有で家族四人と共に生活していた。慶應二年富時は
勢働者であるが、それは牛螢半農の存在であったとみられる。會津領内や越後からの螢働者はこのような形態をもつてい
たといえる。又既に鉱山勢働者となっているものの内には無跡となったものが、専業に鉱山に従事していたと推測される
のである。現加納村の鷲田部落や岩尾部落は明治以降の加納鉱山経管の獲達と共にその労働力の給源となったのである。
それはともかく遠藤家の金山経管は半田銀山経管と同じように領主が製金を買上げる方法で︵拙稿﹁封建社會における工業
御運上御免
二十一年十一月に安達郡石笙村の
の生産形態﹂本誌第三、暮第一號︶、 二十貫匁の生産の場合は運上金が免除されh 二十一貫以上から買上げられるものであ
る。
金銀山御売方格
、 五貫文より二十貫文
右 同断
十分の一
十貫文引
、二十一貫文より百貫文 御売方
高の内十分一、出先料
、八十貫
、七十貫
差
引
残
而
七十二貫文金 主 入 用 徳分
なお、明治七年一月には新たに黒森金山受賃経管を行うため借山願いを出して経管し、
石炭試掘等を行っている。
野
1 周旋涜瞬
石! 石1
1 1
70・3銘 c12・0剣82・454
磯部藤九馴 2171一
組頭
70.884 弓.9961 75.880
・△1…,鷺築
大竹喜市郎! 年寄
6!.657 8.2フI I 69.908
遠藤伊惣.次1 1 _1
肝煎
l I
1
1尋・三16…2・163i16・279
組頭
L 7!一
1i
15.876 1.0351 16.911
∼I I −
大塚やい1
遠藤半右衛門1 1
ド
r 4一一
l
i i
14.626;1・108,15.734
五十嵐右衛門 1 4i−
1
155720・318i1559・
五十嵐良吉i 1!71_
12.27α 2.022i 14、292
l
大久保清右衛門1 i
組頭
1…3i』
14.67gl 1.7661 16.445
鈴木藤右衛門I : 1
組頭
Ii71−
l
1
12・071 羡 O93i13・164
渡邊つやi 一! 2一一
11
ラ
13・032i O・564i13・596
加藤慶三1 r31−
大竹嘉右衛門1
14.220 1.802 16.022−
B.83610.898114.714
皆川萬次郎 ユ, 61一
大久保 左平次一
10.133: 1.892! 12.025
△1i7ヒー
ヒ
… 一1
組頭
遠藤多介 1用二
10・012一 ]・9811 11.993 −
五十嵐忠右衛門 百姓代
9.607h.409111喜0161
高木利兵衛 115:
9・6
’ 8.3211 1.8フ1・ 10景172
l l
lt5−
PGiL5i6i1LII6目
五十嵐 孫十郎
レ54119・9121
酒井嘉七 2− 5
8.6821 1.709・ 10.391 1
8・3『1
津田木伊之吉
−10
1:1訓:1瀦翻
高木左吉 △11 8
1
鈴木とよ −111
5.18う12.19217.377』
津田木儀右衛門 116
5.。うラ11.37。16.42511
高木近右衛門.
−i3
5.21411.46316.677
遠藤彌惣次 △1r 4
百姓代
1
渡邊喜四郎一 6.832・ 0.378− 7.210
一;5
1
ド
ー445.510158。2ラ1:503,761
ド
計
221132i
2ラ
17・13
I151
ワ…2ぞOl.1雅1
平 均 ド
1
備考 明治三年六月「笈川組沼上村戸籍」より藤九郎は未吉(荒物
商)に貸付地あり・とよは素玄に貸地あり・無跡三十戸あり
3 水田経螢と絹織物製造
1商品生産の焚展と寄生地主制の成立一
農民名「 i家1商i役
葭
田 畑 計
の事例を一
つ掲げるこ
とにする。
北會津郡現
勝常村は水
田地帯に薦
するが、幕
末も米作を
主としてい
た。奮沼上
村は奮勝常
村に隣する
が、明治三
年の農民層
を示すと第
米の生産から生する利潤が水田経膏の拡充に向わす、その資金の一部が﹁産業資本﹂に投下される。その推 輻について
第42表 沼上村土地所有表 (明治三年)
3・尋0710・205…20・127143・809:3・511…4・721!2・822!II・124:55…3】
一 引2・611…12・611…一:一一一1 112・61}…
計
2.027
一一4041L6232・027i 一 } 引 ■12・027
I I I
← r1・900…L900…一1一;519卜51gi2・419
〃 新田
キ州下1副司剃下計
反 反;反1 1反 反 反1
4・6153・・19!2・923…1・・6271拍・815…61・12・425
醤學料新田
13.122
1寄生地主制研究一
上
24.614
8・722 P6・712iLOOOi16・5・413・5112・9・611・62318・11・
本 田
御墓料本田
− 404 1.623 2.027… 一一 一 一!
新村分本田’
田畑
合計
田 1 畑
別 1
種
遺藤家土地所有及別表(弘化三年)
第43表
備考 弘化三年伊惣治瞼地配付緩総高58石!斗5升6合
一二一四
羽表のようになる。水田四百四+五石、畑五十四石、この計五百余石となる。
二十六戸の持高は六十石一八十石まで三戸、十一石t十六石まで十六戸、十石
以下が九戸に分れる。約一町1一町六反までの農家が大多数を占め、その上層
に六十町以上農民が聳立している。最下層では六反で、小作は二戸存在するの
みである。このように沼上村は上層と下層との爾極に分化すると共に中層が農
業の中核的存在を示している。現勝常村に屡する薦村は沼上村の所有規模と同
一と推察され、特に勝常村に語ける中農層の存在意義もここで充分究明されな
ければならないが他の機會にしたい。そこで、六十石以上の三戸の農民の内遠
蔽㎜伊惣次について以下述べてみる。
遠藤家は弘化三年には田四町二反余、畑一町余で五町三反六畝余を所有して
いる。田畑共上中田を多くもち下田と畑は少ない。新田開護も行っている。明
治三年には前にみたように約六町九反を所有し、肝煎を勤めている。彼の所有
石高と納入年貢をみると半石半永の内半石の米純分は本田六斗九升余、新田分
五升七合、新村分一石六斗余で、この計二石四斗三升四石、他の本田半永分と
畑永分は金納である。水田からの現物納入部分は二石四斗余である.全生産量
をその持高から推すと六十一石六斗になるが、この生産量に比しては、僅かの
納入量であるといえる。もしそうだとすると、半永部分と畑租の部分は金納の
ために、その生産物を販賓しなければならない。ここでも米市場とつながるの
高
別
252
代 永
代 永117文5分 代 永1161
1石067
代 永
113
(与左衛門分)
057
田 畑 成
1石448
0ラ7
取(免2.5)
384
160文
ワ、躯92
3
3
866
石石
本 本
取代
免
︵
畑の永田
乱
6石444
本新 内 新 新
倖田取米永代村代
田田 代 ︵ 分
起1
免 田
米米方方永返球D方方永米永
新村分田米1 1石685
代 永17・2酬、
惣次
備考 明治4年「御年貢米金勘定帳」沼上村肝煎遠藤伊
崎村及ぴ勝常村近村に支配をひろめた。遠藤家は右の米と
種子桑苗等の栽植を行い、更に開墾にも手をそめる等、濱
資本として成長すると共に廻米及び材木の買入れ、又は綿
でもない。検断の政治地位は商品の流通を支配し、買占め
行っていた。商人の市場支配が特灌によったことはいうま
検断格をつとめ、若松と羽州間の商人取締と馬市の差配を
き村に濱崎村がある。濱崎村の肝煎角田平藏は幕末に騨所
ところで、勝常村と塩川町をつなぐ交通の要所というべ
民は塩川町の米市場を中心に動いたことは事實である。
同様他日にゆづらざるを得ないが、遠藤家及ぴ勝常村の農
川町の米商人の成立又は市場圏の問題は喜多方町の場合と
れた現加納村奮諸村の農民もここに年貢米を納入する。塩
若松の近郷塩川町にあゆ、ここから廻米され、山口家でふ
であるが、前に述べた山口家の場合と同様、資料の僅少さでこれを解くに至っていない。勝常村寺の諸村の年貢納入所は
田
162
67文5分
216文3分 取(免65)
4石133
貫722文
P
77
10
石
刷
高1種
石
種
畑
1商品生産の登展と寄生地主制の成立i ニ二五
かは明かでないが、恐らく當時盛んになった桑を植付したと考えられる。それでは米作からの収入を資本としてどの一よう
もない。自作地の一部は恐らく小作地として出した■と考えられるが、殆んどは自作地と思われる。畑地には何を仕付けた
遠藤家は米と材木とによって、その資本を蓄積するが、農業維瞥面は自家勢働力と下男労働力によったことはいうまで
材木とによって角田家とつながるのである︵・ド、の事情については他の機曾にゆづりたい︶。
第44表 遠藤家年貢納入高
1寄生地主制研究一 ニ二六
に投下したかをみることにする。會津藩の殖産興業政策は藩政改革と同時に土産物として商品化することの出來るものは
一切砥石までその対象とした。その内でも.筥糸業は會津全領域に亘った程盛んであった。加納村の三浦家や山口家のとこ
ろで述べたように、遠藤家も養慧業を中心に活動してくるが、彼の場合は製糸や繭生産者となるのでなく織物製造者とな
るのである。勝常村及びその近傍村と塩川町をふくめた地域は養簸業の新興地として天保度以後襲達するのであるが、ま
だ製糸から織物への工場形態へは焚展していなかった。個寿の養慧農家は片手間に製糸し入込買占商人の手に登せ糸とし
て費買された。絹織物を若干製織するものも出現するが染色抜きの白絹生産であった。遠藤家は右のような養慧業の普及
と製織歌態から染色と絹織物生産のために、越後出生の織工を招き紬織からはじめる。紬一疋の生産費は一爾一分位で、
市慣より一分から三分余も安く出來上る。叉木綿織輪仕も織立てる ︵後の塩川町塩川木綿織物工場の先駆︶。染色は塩川町に
専門的に染屋を設け、米澤織同様の技術を以て各種の染色を行うというのである。塩川町に染屋をつくることは希望的な
ものであるが、小規模の作業場をつくったのである。右の経過を知るため長文ではあるが、その實際を資料的に掲げてみ
る。
乍恐以書付奉言上.候
御國内の儀は種々御國産御座候二付、他邦出にて入金敷多御座候庭、御國産の内にも篁養の儀は近年別して御世話共に御座候而、桑苗
御買入の上、御渡在之候に付、格別流行仕、古來は猪苗代邊計養菖仕罷在候底,近來に至り、里郷村々より手飼仕就中騨宿にては、猶
以て多分に罷成候、内壕川村の儀は四、五年已前迄は村中にて養篁致候、絹糸百四五十両分に在之候由、一両年に至り、過分蟹養仕当
年方は爲登糸代金四百両余に到り候哉に相聞候、御國中右に準じ定て多分の代金に相至り可申候庭、御当地の儀は絹糸製し候儀不馴に
て白絹の外織立候儀無御座、白絹織候儀も御城下に限り、織立候のみにて、在々にては、且て不致皆以他邦抜き爲登糸に仕罷在候塵、
御國内にて出來候絹糸織立製し方何連仕覚候はば、依之御國産に罷成多分入金に相至り可申哉と兼て心配仕罷在候庭、去年中私引入の
内越國所生中村七右衛門夫婦、駒蔵夫婦引入差置候庭右村方へ紬織家業致罷在候由、右に準じ近在不残織立候に付、上方筋より商人ど
も入込右の潤ひい以て世渡り致罷在候由に付、紬絹糸取様を始め、織方及染立等の次第相尋候得ば、国元にて專ら家業に仕候儀立染等
全て功者に相聞、且絹仕持は勿論島割等に至る迄、両人の者共相辮ひ居候由に付、去年より誠に爲織立申度、志願に付御代官所付木津
傳五郎殿へ申合両人にて取計申候様紬の儀は、絹糸の取方在之爲登糸の振合にては用立不申出に付、当年新糸迄差控へ右両人の女管に
爲糸取駒蔵と中老に立染の類爲致、紬一疋織落し候庭糸代、染賃織賃等凡て諸懸り一疋に付一両一分位に仕上り候庭、右の紬店々より
調儀仕候得ば、 一両弐分より一一一両余の品と相見申候、乍併此度手始めの儀にて諸道具連も不揃染方も試の事故、上品とも不相至候得
共、多く仕懸け候上は、追々値高の品々出來可申趣に御座候、左候得ば白糸にて売梯候より過分の入金にも罷成、且又郷村騨宿は勿論
の儀御城下及御家中様迄も仕豊御召料織立に相成候得候一方の御省き其外夫女子の類年中の仕事手明の儀無之紬の儀は大和絹輪仕様、
相用ひ候儀に無之、是迄持來り候木綿織輪仕にて織立候儀に候得ば最安き業に付、行々産業に相成可申儀、左候上は御國中にて織に立
聞ひ他邦へ潤ひ候得ば商人の入込にも罷成可申併し御願中御手傳の儀にて一端の儀にも相至り申間敷候得共、塩川村の儀は諜ヶて多分
の養齪仕候に付爲織立申度奉存候得共、新規の儀にて立染の類染屋にて出衆中間数、染賃等に過分に相懸り候ては、夫丈け元引に相成
候間、藍染計染屋にて仕揚げ度、然る庭手始めの儀にて織方旺々に取近め候様にては、心用薄く御座候に付前文の儀と愚存を以て奉言
上候可然儀に被爲思召候はば、一先ず塩川村へ島取組を始め立染筆傳授爲致度奉存候に付、御上様御計ひの姿に枝下御許場被仰付鞍下
置候ば、木津徳五郎殿と両人にて取計申度然る上は、右の取計御國中に潤ひ右様志操の者共聞及傳授を受け候様に相至り、追年手廣に
罷成可申と奉存候、將叉紬織立のみに不限、色染の類出來候得ば、米沢表同様繰糸絹を始め青地の類は勿論、羽織紐様に至る迄御当地
にて出來候様取計申度奉存候間、何卒御威光を似て御國産の永利に罷成候様被仰付被下置度奉願上候、依之此度織立候紬一反奉御高覧
天候間御愛憐願の通り被仰付候はば精々取計手廣の産業仕居り申度奉存候、尚又委細の儀木津傳五殿より御願可有に御座候に付、相分
兼候儀は御吟味被下度奉願上候 以上
ニ二七
天保三年辰十月 小谷地村肝煎 遠 藤 伊 兵 衛
御 代 官 様
1商品生産の渡展と寄生地主制の成立1
、
一寄生地主制研究ー
要
ニ二八
制︵買占め︶ の下に地主小作關係が展開する。このような生産力の発展段階での農民層の分解は手作経管から地主小作關係へ発展
ていることが特徴的で、この専門的生産は農民の自生的発展を示しているが、一方地域肉叉は村内農村商人はこれを抑制し、その抑
的商人と地域内︹郷村︶叉は局地内︵村内︶の農村商人が結合して支配する。しかし、原料叉は加工品がそれぞれ専門的に取扱われ
料生産關係といえども原料︵例麻苧︶加工品︵例生糸︶の場合と完成商品︵例織物︶の場合、遠隔地に市場をもつ時は遠隔地の特権
段をもつか否かによって自立化の度合がきまり商業資本支配との封抗が出てくる︵人蔘では土根から手根設備所有の例︶。 しかし衣
麻織物叉は絹織物等の原料、加工若しくは完成商品への一貫性をもつところでは、蝿立的様相を深くする。加工要具つまり生産手
されていない。遠隔地市場の支配が濃厚である。
層の分解は質地取による脛骨規模の擾大と質券螢働︵初期質券︶による手作地主的純螢が堅倒的で地主小作關係は僅少にしか形成
き、藩と農村商人は原料から加工の段階で買占め、︸ての利潤を吸収してしまう。そのような生産力の段階で押えつけられている農民
實態を知るために人蔘と煙草についてみたが、人蔘は藩の専売と農村商人との結合並に直接生産者等三者の市場構成をみることがで
うに商業資本の支配が出ているが、加工からマニユ叉は資本制への展望をもつ掲立的様相をもつものといえる。右の内特産物關係の
加工品とに分けた。前者は、前期資本が農民の原料生産段階又は加工段階で商品を買占めることにより支配し、後者は前者と同じよ
る人蔘、蝋、漆、煙草、麻苧をあげ、衣料生産物では絹織物、麻織物、綿織物等の手工業的生産から資本制生産への展望をもつ原料
いる。更に領内における三つの市場を實謹するため特に特産物と衣料農産物とに分けてみた。特産物については原料加工のみに止ま
につながっているかというと、都市、郷村、村内の三つの市場に開運し、そこではそれん\の市場間に商品の移入と移出が行われて
品を通じてその利潤が前期的商人により汲み取られている市場構造についてである。このような遠隔地市場と領内市場とはどのよう
一、第一で述べたことは幕末における會津藩の諸商品の輸出入状態において、近畿地方及び信連、山形地方よりの輸入品が多く、諸商
以上、第一と第二に分けて述べたところを整理してみる。
約
し、階級關係も明瞭となっている。しかし、質地小作關係が強く支配している。
このように南會津地方に展開した人蔘、煙草等の楢原組地方と麻と生糸等の伊南地方の商品生産をめぐる市場構造をみたが、これ
を幕藩領主の纒濟的危機に即していえば、小農民経濟の発展と群小農村商人の前期的買占め資本としての発展が同時に展開し、前期
資本が小農民纏濟をしめつけて領主経済をおびやかすに至ったこと、例えば人蔘生産の上向に際し幕藩が樫力を以て人蔘濁占販売を
企岡する絶対主義的傾斜をもつに至ったことである。明治元年南會津地方一帯に起つた世直し一揆を右の二地方の商品生産と階級分
化の面から述べてみる。e楢原組地方の場合は商業高利貸資本からの支配排除を第一の目的とし、質物、質地問題の解決、第二は領
主と結合する郷頭、肝煎︵質地取地主、農村商人︶の政治的結合の切漸、第三に原料加工商品の段階でしめつけている領主と農村商
人の支配排除、第四に右の第二と第三の問題は領主と商人の結合切断であり︵農村商人側からみれば領主と必らずしも同一でない特
橿のみ︶、切漸の意味することは、貸借謹文年賦や楡地帳の破棄と焼却であり、土地攣革の費践、反封建闘孚並に階級としての自作
農・貧農・小作のそれぞれの劉立者との闘孚である。⇔伊南地方の場合は楢原組地方と同様の反封碓闘雫として同時に展開される
が、特に成立した地主と小作の階級闘雫がみられる。たとえ小作料の軽減運動であったとはいえ昭和期における小作人の要求の一原
型が出されている。
二、第二で論讃しようとしたことは、南會津地方には世直し運動が展開したが、現在までの調査範園では自由民樺運動へはつながら
ず・耶麻郡現加納村およびその近傍喜多方町をふくめたところでは世直しから自由民灌運動が行われる。そうだとすれば両者はどの
ような輕濟曲柱會的差異があるか。つまり南會津郡の山間畑作地帯では、特産物と衣料生産物市場をめぐりその低い生産力の上に前
期資本が支配的であるが、世直し闘争が行われる、しかし民榛運動への展望は起らず支配抑堅のままとなる。これに反して水田地帯
では発展的である。私はこのような畑作地帯と水田地帯における商品生産と農民層分解との相違を明かにしようとしたのである。以
下不充分な講談であるが述べてみる。
幕末●明治初年における加納村は水田が大部分を占めているとはいえ、山林に園饒され、畑作では漆畑と、南會津地方と同様の
麻・煙草・桑が栽植されている。この地方の農業発達をみるために、現加納村の三浦、遠藤、山口、原、 ︵以上民橿家の出自︶現勝
−商品生産の資展と寄生地主制の成立1− 二二九
1−寄生地主制研究i 二三〇
常村の遠藤の四家を中心としたが、その時期を幕末特に會津藩の農業改革以後においた。問題とした駐は次の通りである。
ω 手作経螢から手作地主纏管について。
會津藩の場合は元隷、享保叉は元文にかけて手作地主︵初期質券と後期質券とを直別︶から寄生地主へ移行するが、この場合、質
地取りによる経管の擾大と質券労働使用による手作経管から、質地關係の内容攣化の形で行われる。 つまり散田経管がそれであ
る。そこで﹁散田﹂について三つの事實をみる。すなわち、日村総耕作地、因質地取主地又は質地置主地、㊧小作地と匿分され
る。日は村内本百姓の石高所持以外の開発地文は預り地、手余り地、無跡地で共同体成員の内でこれを請負い、年貢を負捲し、作
徳は耕作者が所得するか、又は共同体成員間で使用するもの目質地取主の散田は取主が輕螢し、年貢諸役を負澹するが、置主は元
利返濟が可能な程他の保有地で生産力が高まれば請返しが可能であり、取主と置主との封抗關係が生ずる。更に質地置主散田の場
合は﹁質地小作﹂で、置主が耕作し、年貢諸役を負澹する。しかし、この場合、年貢諸役を小作人が負澹する普通の場合から、取
主が諸役まで負澹する方向に推韓する。このことは小作人が諸役︵領主並に共同体の諸役︶から解放されることを意味し、幕末に
おける先進地沓の﹁金納小作﹂への原型をみせる。㊧は小作地である。右の散田にみられる形態が元緑−元文ころに出て寛延以
サ
降特に天明の凶作まで持続する。しかし、會津藩は農業改革をやり、凶作による手余地、上地、荒蕪地の開墾を行うと同時に質取
地を置主へ返さしめ土地分給を行う。分給は本田を基本として別免、新田等に分けて耕地を再分配し﹁配付高﹂を定め本百姓の再
創出をはかった。特に郷頭、肝煎級の層には手余り地、荒蕪地の開墾を請負はしめ、無役高給分を知行化したのである。前にあげ
た国家は寛政改革前後に百石前後をもつ手作地主として成立し、なお幕末に持続す右のである。
図、本百姓の再編成と﹁耕作強制﹂並に勢働力の評借について。
農業改革によって領主は本百姓と農業勢働力の再編成を二つの仕方で行った。eは一人前基準耕作勢働力の設定で、男子鍬取人の
耕作勢働能力を六反三献︵八石︶女子螢働力を三反余︵四石︶として﹁強制耕作﹂を行った。⇔は農民に﹁作立目録﹂ ︵拙著﹁福
島縣農業史﹂︶を作成せしめ、播種−収穫までの栽培・管理状況を報告せしめ技術を指導し、干渉を行ったことである。この二
つの﹁強制耕作﹂は上.中.下田や共同地叉は手余地・開墾地・入組地︵入作・出作︶等耕地の錯圃形状のまま、或は湿田と乾田
等の劣働力の多寡を問わず、その土地の生産力に基準をおいた。故に自己消耗の最大限勢働力の方向に耕作方法を制定したという
ことができる。しかしこの場合劣働力の評贋を重視するが。これに封置される土地生産力の源流をたどれば、初期楡地帳登録の本
百姓の保有地の石高による評橿にまず現れ、耕地が石高規準、つまり土地の生産力を以て表現されることに基礎づけられ、螢働力
については未評憤である。共同耕作︵複合家族と譜代叉は初期質券勢働︶が否定されて、高分けによる掲立化叉は名子抜等による
本百姓の一般的形成︵軍婚家族︶の時期以後になれば土地と石高︵生産力︶と螢働力の評債︵例へば會津農書の反当り螢働内評
贋︶がはじまり、反当り螢働力の評橿問題が出てくる。さきにみた六反歩︵生産力八石︶の螢働力評贋は土地生産力の段階から螢
働生産力の段階への推轄を示すものといえよう。とはいえまだ人間勢働が主体で黎耕すらも導入されないが︵先進地帯と劉比︶、
労働力の評贋が具体的に出て來たことを謹する。このことは一町−⊥町五反の廣汎な中農層の自立化と勢働力の充實、生産費の評
贋等が現實化したこと、このような段階で、領主危機がもたらされ、収奪のため強制耕作が貴行される。
⑧ 手作地主から 寄 生 地 王 へ の 推 韓 と ﹁ 資 本 ﹂ の 問 題
寛政の改革で手作地主から寄生地主化への推輔が阻止され、手作地を持続したのが先の四家である。自耕地を家族笏働力と下汰勢
働で六町1八町を輕管したと推定される原家︵一人前六反耕作とみて︶の纒螢の限界は、それ以外の土地を散田叉は質地小作で経
螢する方向を示した。寛政改革以前へ逆倒した形態であるが、右の事情から五つの方向が出る。①手作縄螢を持続する原家図同じ
く手作経管を主体とするも御蔵米の販売又は米商化する山口家、⑧陶器製造や漆樹、桑園の再興纏誉する三浦家、㈲金山を経管す
る遠藤家、⑤絹織物と染色輕螢をする勝常村の遠藤家等である。右の諸脛螢の内容についてはなお楡討を要し、陶器については、
三浦家が肝煎級を主導し合資的輕管でギルド的職人をもった事、山口家及三浦家は桑園を栽植するが桑と苗の販売、遠藤家は金山
を藩から借地し買上制で経管、勝常村の遠藤家は自力で作業場を有つが、傳習所的輕管が濃厚である、というようにそれぞれの脛
猿手嚢望蟻書ニュ、或は問屋制喫あ重る.しかし、手作地主的醤と肇薪貸的蓄積から生ずる資本を以て右
の経螢に推輔したことは注目される。明治前期の日本資本主義発達嫁、寄生地主による自作地と小作地とからの米の販売を土毫と
して遂行されたのではないか。それでは、このような手作地主的叉は地主マニュ樫螢が行われた地域の農民層の分解はどのように
−商品生産の嚢展と寄生地主制の成立− 二三一
一寄生地主制研究f一 二三二
なっていたかというと、寄生地主的傾向は強大でなく、一町一一町五反程度の中位農民が占めており、右でみた各輕螢の勢働力は
村内外の貧農、旦雇からの雇入れは小籔で、大多籔は遠國の勢働力から成るということである。
㈲ 世直し農民闘箏は加納村の場合は資料は見出鼎、ない。勝常村の場合と同様と思われ、農村商人の諸商品買占め機構反封、肝煎級
の村政不正排除、實践的には﹁肝煎征伐﹂の旗をかかげ、誰文、強地帳の焼却打こわし等で、前でみた楢原組と同様の様相をみ
る。
以上世直しのみについて、三つの地帯をみると次のようになる。楢原組地方では貧農、伊南地方では貧農・小作農、加納・勝常
の水田地方では貧農・・螢働者︵金山︶、中農等というたたかう諸階級差がみられる。
㈲ 以上、南會津地方と加納村地方の畑作地と水田地に生起した畑作商品と米等の諸商品をめぐる領主叉は諸農民層の階級分化をみ
て來たが、畑作地帯では農民の自立化と近代に出てくる階級關係が形成されるが、前期資本の支配で歴縮され、そのまま持綾す
る。水田地帯では、特に領主の本百姓再編成と農民の自立化とが封慰しながら進展するが、米から生ずる資本を以て新興畑作農産
物の育成と加工業と資本家的纏螢にのりだすものが生れた。したがって階級關係の特徴は中農層の形成にあり、形成しかけた新興
地主マニユや寄生地主的土地集中とのたたかいが行われたということができる。
三、以上蕪雑なままの整理であるが、右の諸鮎の統一的槍討と地代問題及び民灌運動等については他の機會としたい。
︵一九五四年十二月十五日︶