クリスチャンの終活 -ジョン・ウェスレーの神学による一考察-

クリスチャンの終活 -ジョン・ウェスレーの神学による一考察-
2015.5.19 更新伝道会ウェスレー研究会 中井幸夫
【初めに】
聖書に目を向けましょう。まず、マタイ 6:19 です。
マタイによる福音書
〈天に富みを積みなさい〉
06:19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、
さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 06:20 富は、
天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人
が忍び込むことも盗み出すこともない。06:21 あなたの富のあるところに、あな
たの心もあるのだ。
」)
続けて、同じような内容に触れている、二つの福音書を読み比べてみましょう。
マタイによる福音書
〈神と富〉
06:24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛す
るか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と
富とに仕えることはできない。」
〈思い悩むな〉
06:25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であ
り、体は衣服よりも大切ではないか。 06:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔か
ず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養っ
てくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 06:27 あなた
がたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことがで
きようか。 06:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つ
のか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 06:29 しかし、言って
おく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかっ
た。 06:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこ
のように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、
信仰の薄い者たちよ。 06:31 だから、
『何を食べようか』
『何を飲もうか』
『何を
着ようか』と言って、思い悩むな。 06:32 それはみな、異邦人が切に求めてい
るものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なこと
1
をご存じである。 06:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうす
れば、これらのものはみな加えて与えられる。 06:34 だから、明日のことまで
思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで
十分である。」
ルカによる福音書
〈「愚かな金持ち」のたとえ〉
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし
たが、 12:18 やがて言った。
『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、
そこに穀物や財産をみなしまい、 12:19 こう自分に言ってやるのだ。
「さあ、こ
れから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲ん
だりして楽しめ」と。』 12:20 しかし神は、
『愚かな者よ、今夜、お前の命は取
り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われ
た。 12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとお
りだ。」
〈思い悩むな〉
12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のこ
とで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ
物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。 12:24 烏のことを考えてみなさ
い。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養って
くださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。 12:25 あなた
がたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことが
できようか。 12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事ま
で思い悩むのか。 12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働き
もせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この
花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 12:28 今日は野にあって、明日は炉
に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがた
にはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。 12:29 あなたがたも、何を
食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。 12:30 そ
れはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのも
のがあなたがたに必要なことをご存じである。 12:31 ただ、神の国を求めなさ
い。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 12:32 小さな群れよ、恐
れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 12:33 自分の持ち物を売
2
り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を
天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 12:34 あな
たがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
福音書の中でイエス様が、
「明日のことまで思い悩むな」と語る部分がマタイ
書とルカ書にあります。私たちクリスチャンが、明日のことが心配で仕方ないと
きに、よくこの部分を心のよりどころにします。でも、実はこの部分を私たちは
つい自分に都合のいいように解釈していないでしょうか。
マタイ書もルカ書もこの部分は、
「だから、言っておく」で始まります。つま
り前の文章からつながってきているわけです。その前の文章は、
「神と富とに仕
えることはできない(マタイ)」ということです。ルカでは「愚かな金持ち」の
たとえが語られています。人は明日の食べ物や着るもののことのためにお金を
残さなければならないと考えます。そのためにお金に執着し、神にのみ仕えるこ
とができないでいます。イエス様はその様子をご覧になって、富への執着をやめ、
「尽きることのない富を天に積みなさい(ルカ 12‐33)」とおっしゃっているの
です。
この他にも、富・お金に関する例えはイエス様の口から何度も重要なこととし
て語られています。「金持ちとラザロ」、「金持ちの青年(議員)」(らくだと
針の穴のたとえ)、「やもめの献金」、「12 人の派遣」など。しかし私たちは
それを無視しがちです。
「明日のことを思い悩むな」というイエス様のみ言葉も、
前の文脈と関連付けて捉えれば、イエス様がお金のことで明日のことを思い悩
まないで、富ではなく神に仕えよとおっしゃっているのは明白です。ルカ書では
明確に「自分の持ち物を売り払って施しなさい。」とおっしゃっています。
新共同訳聖書には「小見出し」がついていますが、この部分は「思い悩むな」
とするのは明らかに間違いで、正しくは「富に執着して思い悩むな」と変えるべ
きです。私たちは自分に都合の悪い部分には蓋をしてしまい、都合のいい部分だ
け見てはいけません。
私は税理士・行政書士、職業後見人として、いわゆる「クリスチャンの終活」
に関わり、主に相続の現場に携わってきて、よく疑問に思うことがあります。そ
れは、熱心だったクリスチャンが亡くなって、多額の財産を残し、それをクリス
チャンでない相続人が相続していくことへの疑問でした。なぜ、この方は多額の
財産を善に使わず残していたのか。そして、何故、信仰を継承できなかった相続
人に相続させるのか。それはクリスチャンと神との関係からして正しいことな
のか。聖書の中でイエス様が語っておられたことに反しているのではないか。
3
私たちクリスチャンが終焉の時に向かって人生を歩む中で、何をすればいい
のか、また、教会はどう教会員に関わればいいのか、そういった問題に対する一
つのオピニオンとして、雑誌「福音と世界」3 月号に、「良き管理人となるため
に―ジョン・ウェスレーの神学と終活―」という短い寄稿文を書きました。今回
はこの寄稿文をもとに、もう少し詳しく、あくまでウェスレーの神学からアプロ
ーチしていくことにしました。
【ウェスレーの神学】
ウェスレーは 18 世紀英国国教会の司祭で、メソジスト運動と呼ばれる信仰覚
醒運動を指導しました。一般に伝道者とイメージされることが多いですが、今日
世界中に広がっているメソジスト教会(UMC)やホーリネス系の教会の「祖」
と言うべき「神学者」です。あくまでもウェスレーを神学者として取り上げるこ
とにします。
ただ、ここではウェスレーの神学について多くを書くスペースがありません。
そこで、初めにウェスレー神学の中核となる、
「原罪」、
「信仰義認」
、
「聖化」に
ついておさらいし、その後に「クリスチャンの終活」に関する部分だけを取り上
げて考察し、あわせて終活の実務の中の「相続」について詳しく説明することに
します。
ウェスレーの神学は、彼が書いた 150 の説教集と聖書注解、神学論文、書簡
集、日記・日誌などで知ることができますが、ウェスレー神学の基本を押さえる
ために、神学論文より「原罪の教理」、150 の説教より、「原罪」「あと一歩でク
リスチャン」を取り上げ、終活の実務に関連して、説教『良き管理人』、
『金銭の
使い方(The Use of Money)』を中心に論じたいと思います。
【原罪論について】
ウェスレーの残した著作の中で、最長のものは「原罪の教理」です。ウェスレ
ー著作集刊行会から出版されていますが、440 ページにも及ぶ大著です。ただ、
この著作は、ジョン・テーラーが 1750 年に出版した「原罪の聖書的教理を自由
にまた率直に調査する提案」という書物に対する答えとして書いたという特殊
事情があります。この「原罪の教理」の中心的な部分については、説教 44「原
罪」にまとめて書かれているので、そちらを読むことをお勧めします。しかし、
「原罪の教理」のあとがきとして野呂芳男先生が詳しい解説を書かれており、大
変参考になります。以下はその引用です。
ウェスレーはテーラーが示した啓蒙主義・理神論的な原罪論に反対しました。
そして、
「人間は生まれながらにして、あらゆる種類の悪で満ちているか。全然
4
善を所有していないか。全く堕落しているか。魂が全的に腐敗しているか。すべ
てその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるか。この事実を認め
るならば、その限りにおいて、あなたはキリスト者である。それを否定するなら
ば、あなたは異教徒であるにすぎない。」と断言すます。
「原罪」をクリスチャン
とノンクリスチャンを見分ける「試し言葉」
(シボレテ shibboleth)としたので
す(このシボレテの部分のみ、インマヌエル版説教「原罪」3‐1~2 を引用)。
注)『旧約聖書』「士師記」第 12 章に、エフライム人を破ったガラアド人
が、逃げて行くエフライム人を捕らえ、
「シボレテ」Shibboleth(ヘブライ語
で「麦角」)といわせ、「セボレテ」としか発音できないエフライム人を識別
した、との記載がある。
ウェスレーがなぜこれほどに「原罪」を力説したかというと、それがキリスト
教の中心的教理、すなわち「贖罪」
・
「義認」
・
「新生」
・
「聖化」の基礎をなすもの
だからです。くどいようですが、ウェスレーがキリスト教の本質的な教理となし
たものは、
(1)原罪、
(2)信仰による義認、
(3)心情と生活の聖潔であり、予定
論と完全論とは任意に選択し得る意見(opinion)で、本質的なものとは考えら
れていなかったのです。このように「原罪論」はウェスレー神学にとって最も基
本的なものであると言えます。雑誌「福音と世界」での拙著に、この原罪論を取
り上げるスペースがなかったので、ここであらためて強調させていただきまし
た。
この「原罪論」に関して、さらに 2 点付け加ええなければなりません。
一つは「先行の恩恵」です。人間はアダムの堕罪を通して全く腐敗しているも
のであるという主張と同時に、ウェスレーはすべての人間が神からの先行の恩
恵(prevenient grace)を所有していると主張します。ここがカルヴァンと違
うところです。アダムの堕罪の結果すべての人間は、生まれながらにして原罪を
背負い、神の怒りの対象です。でも、神様は人間を放置されているのではなく、
先行の恩恵によって人間は自分の中に深く根を下ろしている原罪たる罪への傾
向性に抵抗し得る力を与えられている。この部分はペラギウス主義や神人協力
説と混同されやすいのですが、きっちり押さえておく必要があります。そして、
この「先行の恩恵」は全ての人に与えられているのであり、このことからすべて
の人は救われ得るという結論に導かれます。
もう一つは、「更新(renew)」です。説教 44「原罪」の 3-3 で、ウェスレーは
原罪の教理を説きつつ、極めて明快な救いの教理をまとめています。ウェスレー
は「キリスト教の最大の目的は、
「私たちの心を神の形に「更新」すること」で
あり、私たちの最初の祖先の罪によってこうむった、義と真のホーリネスの完全
な損失を修復することにある」と述べ、
「その目的に答えないような、あるいは
5
その目的に届かないような宗教は全て、貧相な茶番劇や神に対する単なる軽蔑
以外のなにものでもありません」と自らの救済論の方向を明確に打ち出してい
ます。(インマヌエル標準説教下 266 頁)
私たち「更新伝道会」が、なぜ「更新」伝道会という名称なのか。何を目的と
する会なのか、この重要なポイントはきっちりと押さえておくべきだと思いま
す。
以上から、ウェスレーの神学を私なりに要約してみます。
ウェスレーが言うように、宗教を家に例えるなら、土地の部分は「信仰義認」
であり、宗教そのものはその土地の上に建てられた建物、すなわち「聖化」です。
ただ、私なりに付け加えさせていただくと、その土地は砂のような理神論的原罪
論の土台ではなく、後期アウグスチヌスから引き継ぐ古典的な「原罪」理解とい
う堅固な岩でなければなりません。その岩と建物とが、
「先行の恩恵」という神
様から与えられた強い杭によってつなげられて一体となっている。こうして私
たち一人一人が安定した土台の上に、日々神の形に「更新」されるよう、心情と
生活の聖潔を求めて前進していくとともに、すべての人が「更新」されるよう
人々に伝道していかなければなりません。
これが、
「更新伝道会」のシボレテ shibboleth ではないでしょうか。
【ウェスレー神学の変遷】
ここで、ウェスレーの神学が彼の人生の中でどう移り変わっていったかとい
う面に注目するとき、参考となる説教として『あと一歩でクリスチャン』を取り
上げます。その結論部分である 2‐11 に以下のように書かれています。
「願わくは、私たちすべてのものが『あと一歩でクリスチャン(Almost
Christian )』 とな る まで成 長し、 そこに 留まら ず、『 全面的 なキリ スト者
(Altogether Christian)』となることを体験することができますように。それ
は、イエスによる購いを通して、主の恵みにより無代価に義とされ、イエス・キ
リストによって神との平和を持つにいたったことを知り、神の栄光を望んで喜
び、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれることで
す。」
(インマヌエル綜合伝道団「ジョン・ウェスレー説教 53」1995 年 72 頁)
ウェスレーは 1725 年第 1 の回心を体験し、
「私の全生活を、その思いも言葉
も行いもすべて神に捧げることを決意」しました(この部分、同「説教 53」
(下)訳
者ノート藤本満 437 頁)
。しかしそれが律法主義的となりすぎていた時、1738 年 5
月 24 日の第 2 の福音的回心により、イエスによる購いを通して、主の恵みによ
り無代価に義とされ、イエス・キリストによって神との平和を持つにいたります。
6
第 2 の回心から数年しかたっていない時に書かれた、この『あと一歩でキリス
ト者』で、「Almost
Christian」から「Altogether Christian」になるには、
「十字架への心からの信仰」を最重要ポイントとしています。信仰義認に立ち返
ったのです。しかし同時にこの説教の(2-6)では「すべての人々のために財を
費やし、また自分自身を注ぎ出すことを誇りとし、
(中略)愛をもって働くこの
信仰をもっている人はすべて、Almost Christian であるとうより Altogether
Christian であるのです」
(同書 69 頁)とも語っています。つまり、聖化(心情
と生活の聖潔)も取り上げています。ウェスレー特有の、
「義認も聖化も」の神
学をこの説教で見ることができます。ただ、この時期は信仰義認に重点が置かれ
ていましたので、この説教の結論部分は前記のように「信仰義認」でまとめてい
ます。また「先行の恩恵」という教理はこの時点では生まれていなかったようで
す。
つまり、ウェスレーは、1725 年に聖化一辺倒の神学に偏り、1738 年 5 月 24
日に信仰義認に立ち返り、その後、両者のバランスを保ちつつも、原罪への徹底
的な探求と同時にそこに新しく「先行の恩恵」の教理を加え、その後の人生にお
いてはそれらを土台に「宗教そのもの」とウェスレー自身が語った「聖化(心情
と生活の聖潔)に重点を移していった。私にはそのように見えるのです。
【金銭の使い方と Steward ship】
その晩年のウェスレーにとって最大の関心事は、メソジストと呼ばれる人た
ちの富の蓄積にありました。
誤解されないように言えば、ウェスレーは決して金銭を悪いものだとは考え
ていません。「金銭を愛することがすべての悪の根(Ⅰテモテ 6:10)」ではある
が、
「金銭はあらゆる文明国で、日常生活の全般に言い様のない貢献をしていま
す(「金銭の使い方」序-2)。」と言っています。問題はその使い方です。
ウェスレーは 1760 年に書かれた説教『金銭の使い方』において、金銭に対す
る 3 原則を唱える。それは、
「まずできる限り稼いだ後に、できる限り蓄え、そ
してできる限り与えるのです(First, gained all you can, and, Secondly saved
all you can, Then "give all you can.")」(同書 430 頁)
ウェスレーの信仰覚醒運動の対象となっていた人たちは、炭鉱の労働者や工
場の労働者たちで、当時大流行していたジンに溺れ、働かず、アルコール類など
に浪費するすさんだ生活をする人が多かったのです。そこでウェスレーは上記
の金銭に関する 3 原則を唱えました。そして彼に信従し、メソジストと呼ばれ
た多くの人が勤勉に働き、無駄使いをやめて蓄え、次第に裕福になっていきまし
た。しかし、第 3 の原則である give all you can が守られなくなっていった。富
が蓄積されていってしまったのです。そこにウェスレーは大変な危機感をもち
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ます。
富の蓄積は個人の霊性の低下・メソジスト全体を通しての神の働きの衰退を
招くと察知したウェスレーは、その晩年に次から次へと警告の説教を出版しま
す。
説教『富の危険性』(1781 年)『金持ちとラザロ』(1788 年)『富について』
(1788 年)
『キリスト教の非効率性の原因』
(1789 年)
『世的な愚かさについて』
『増し加わる富の危険』(1790 年)。(同書 413 頁)
あとで詳しく取り上げる説教『良き管理人』
(1768 年)もその流れの中で書か
れたものと言うことができます。
ところで、
『金銭の使い方』にも、この「管理人」に関する記載がありますの
で、まずここで「管理人」についての部分を取り上げてみます。
「天地の所有者があなたがたを生み出し、この世に据えたとき、神はあなたを
所有者としてではなく、管理人として据えました。神は様々な種類の良きものを、
管理人としてしばらくの間あなたに委託されました。しかし、それらの所有権は
みな依然として神にあり、神から離れることはあり得ないのです。あなた自身も
あなたのものではなく、神のものです。」(以下、同書より引用)
「もし忠実で賢明な管理人になろうと願うなら、主があなたの手に現在託さ
れた財産の中から―主はいつでもそれを回収する権利を持っておられますが―
まず、自分に必要な分をとっておきなさい。食べ物や衣服、健康や体力を維持す
るために自然が適度に要求しているものは何でもそこに含まれます。次に、託さ
れた財の一部をもって、あなたの妻、子ども(中略)のために必要なものを供給
しなさい。その後、余分な部分が残されていれば、その時には「信仰の家族のた
めに善を行いなさい」
「持てる者すべてを神に捧げなさい。これくらい、あれくらいと言って出し惜
しみしてはなりません。(中略)神に属するものはすべて、その十分の一でも、
三分の一でも、半分でもなく、すべて神に返しなさい。やがてあなたが管理人と
しての責任を終え良き会計報告を提出することができるように、自分のために
も、家族のためにも、信仰の家族のためにも、全人類のためにも、財を用いなさ
い。」
以上、
『金銭の使い方』ではあくまで金銭・財産に重点を置いていますが、
『よ
き管理人』では、財産だけでなく、私たちの体(命)や時間、発する言葉まで管
理し、裁きの日に会計報告を出すことを論点の中心においています。
第 1 の回心後、ウェスレーがキリスト者の生活を実際的に論じるとき、この
説教に描かれているような「Steward ship」があらゆるベースとなります(同書
8
437 頁)。
「管理人はその手に委ねられたものを自由に自分の思うとおりに用いるので
はなく、それを委ねた主人の意志に従って用いるべきです。
(中略)神の意志に
よる以外、管理人に持っているものを処分する権利は全くありません
「管理人としての務めを終えたとき、残されているのは「会計報告」を提出す
ることです。
(中略)
(その時とは)
『人の子が、栄光に輝いて天使たちを従えて
来る』、裁きの時です。」
「主はこう尋ねます。私があなたの手に預けたこの世の財を、あなたはどのよ
うに用いたか。
(中略)魂にふさわしい器として体を健康に保ち、力と活力の中
に維持するために用いたか。」
「あなたはすべてにかかわる金銭と言うタラントをどのように用いたか。
(中
略)それをあなたの後に残すために貯蔵しなかったか。それは地の中に埋めるの
と同じだ。そうではなく、まずあなた自身の正当な必要、そしてあなたの家族の
正当な必要のために用い、残ったものを貧しき者たちに与えることを通して神
に戻したか。」
以上のように、ウェスレーは人間の体(命)も財産も、時間も、すべて所有権
は神にあり、人間はそれらの管理を委託された管理人であると考え、すべて、神
の意志のために用いらなければならないとしました。
【クリスチャンの終活-相続・遺産分割】
「クリスチャンの終活」には、葬儀や埋葬なども含まれますが、ここでは「相
続」と「遺産分割」についてウェスレーの神学から考察することにしました。
「相続」「遺産分割」について、『金銭の使用法』2‐7 に以下のような記載が
あります。
「もしあなたが、相続させるかなりな財産を持っているとしたら、どうするで
しょうか。
(中略)もし一人の息子があり、彼が金銭の価値を知っており、その
使い方をわきまえていると信じているなら、彼が大人であろうが子供であろう
が、その子に財産の大部分を残します。
(中略)その他の子供たちには、これま
で習慣としてきた生活を維持できる分を残します。しかし、もしあなたの子供た
ちがみな同様に、金銭の使い方をわきまえていないとしたら、その時は(厳しい
発言となります。誰も耳を貸さないかもしれませんが)、それぞれが困窮しない
程度の財産を与え、残りすべてを神の栄光のためにもっとも貢献できると判断
する仕方で用いるべきです。」
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これがウェスレーの「相続」「遺産分割」に関する見解です。
クリスチャンが相続人にキリスト教の信仰を継承することができ、その相続
人が『金銭の使い方』の 3 原則を理解し、実践することができると考えられると
きのみ財産の多くを相続させていいが、そうでないなら最低限の財産を相続さ
せ、残りは「神の栄光のため」、つまり、貧しい人に施すか信仰の家族(つまり
教会)へ渡すことにより神に返す必要があると言い切っています。
これは、説教のカッコ書きにあるように、非常に厳しい意見です。
確かに誰も耳を貸さないかもしれません。そして、現在の日本の法規や社会の
実情から実行できない部分も含まれています。
一例をあげれば、生前に多額の寄付や献金をしてしまった場合、万一本人が寝
たきりになり、いわゆる「特養」に入りたくても大変な順番待ちで入ることがで
きない。仕方なく高価な「介護付き有料老人ホーム」に入ろうとしても、概ね
2000 万円以上かかり資金が不足する。その際に、過去に寄付・献金したものを
取り消すことはできません。そのため、生前の寄付・献金より、後で取り消すこ
とのできる「遺贈」が安心して利用できる制度です。
「遺贈」とは、遺言書に「○○教会へ 100 万遺贈する」
「○○神学大学に遺贈
する」と書き残すことにより、相続時にその書かれた内容が実行される制度です。
この制度を使えば、
「介護付き有料老人ホーム」のために蓄えという「地に富
を積む」ことと、教会への遺贈という天に富を積むことを並行して行うことがで
きる、つまり一応形式的には「天と地に富を積む」ことができるのです。
注)もちろん実際には最終的にこの 2000 万円は天か地かどちらかに帰属す
ることになります。つまり、天と地と両方に富を積むことは不可能です。
ただ、この 2000 万円の所有者(本来の所有者は神であり、この方は管理人に
すぎませんが…)からすれば、運を天に任す形になります。
注)
「遺言書」に記載した遺贈額が法定相続人の遺留分を超えると後にトラブ
ルを招くことがあります。民法にあるこの「遺留分」
(法定相続分に対し一定
の割合で最低限相続できる分を決める制度)によって、ウェスレーが言うよ
うに、すべてを遺贈することは難しいのです(第 3 順位の兄弟・甥姪には「遺
留分」はありません。)
しかし、
『金銭の使い方』3 原則の中でもっとも重要な「give all you can」の
とおり、可能な限り貧しい人に施し、教会に遺贈することが重要です。
また、
「遺贈」は裕福な人だけが対象ではありません。例えば年金生活をして
いる方が、「自分名義の預金○○の全額」を遺贈するという遺贈の仕方もあり、
慎ましやかに生活をし、その後の生活費を気にしながらでも遺贈することはで
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きます。このように、遺贈はすべての教会員の終活に関わる問題であり、教会も
また終焉への道を歩んでいる教会員にその進むべき道を明示すべきでしょう。
説教「あと一歩でクリスチャン」2‐6 に書かれた、
「Almost Christian」が
「Altogether Christian」に変わる一つの分岐点がここにあると言えます。
【クリスチャンの終活―認知症】
人生の終焉の時に向かう多くの人に関わる病に「認知症」があります。今、日
本では、高齢者の 4 人に一人が認知症になると言われています。
職業後見人の立場として、教会員の終活を語る場合、この「認知症」について
触れなければなりません。
ウェスレーの言うとおり、私たちの体(命)も神のものであって、所有権は神
にある。私たちはそのよき管理者として、委託された体を管理運営していかなく
てはならない。極論すれば、私たちの「体の会計報告」は人間ドック等での「検
診表」です。私たちは常に自分の体を聖霊の宿る宮として、健康を保って運営し
ていくとともに、頭の健康も大切にしていかなければなりません。そのために、
体に悪い飽和脂肪酸をとりすぎることとなる肉食を控え、適正体重の維持に努
め、喫煙しないとともにアルコール類の飲みすぎも避けなければならない。そし
て特に認知症予防のため、高齢者こそ、教会に集い、教会員と交わり、讃美歌を
歌い、聖書を研究し、証しし続けなければならない。熱心に教会生活することが
認知症の予防につながるのです。
それでも認知症になってしまうことがある。このため、牧師を始め、教会員が
相互に認知症の初期症状をチェックし、早期発見に努めるべきです。ただ、認知
症になってしまった場合、どうやって教会員として終焉の時に向かって準備を
すればいいのか。
結論は、
「委任契約→見守り→任意後見契約→死後事務委任」と言った諸契約
の締結により、認知症になっても、教会員としての献金を捧げ続け、病床聖餐を
受け続け、教会で葬儀をし、教会墓地に埋葬されることができる。身寄りのない
教会員の孤独死も防ぐこともできる。牧師も認知症や成年後見制度についての
知識を身につけ、教会員の終活に関与すべきです。
【義認と聖化と―よき会計報告を提出するために】
最後にあらためてウェスレーの神学を復習します。
信仰義認と聖化の関係は難しい。聖書のローマ書やガラテヤ書に書かれてい
るとおり、私たちはイエス・キリストの十字架の購いを信じることのみによって
救われる。しかし、一方で、ヤコブの手紙のように、一見すると逆の主張をして
いるように思われる書簡もある。何より、福音書の中に、マタイ 25 章 31 節の
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ように、
「最も小さい者の一人」への行為によって裁かれると明確に書いてある。
くどいようですが、ウェスレーの神学は決して「行為義認」ではない。
「律法
主義」でもない。ただ、ウェスレーは「義認も聖化も」という立場をとる。第 2
の回心前のジョン・ウェスレーは「聖化」に邁進していた。しかし、救いは得ら
れなかった。第 2 の福音的回心体験によって「信仰義認」に立ち返り、初めて救
いに至る。あくまで、私たちプロテスタント信者にとって、救いのよりどころは
「信仰義認」です。でも、それだけではない。
「救いは、恵みの故に(by grace)、
信仰によって(through faith)、神があらかじめ備えてくださった良い行いに
歩むように(unto good works)、キリスト・イエスにあって新しく作られる
ことである」と言うのがウェスレーの神学なのです。
(藤本満「ウェスレーの神
学」福音文書刊行会、1990 年 111 頁)
誤解をされないように、さらに具体的に説明します。1 億円の資産をもつ方が
1000 万円遺贈したとする。資産の十分の一です。一方、貧しい方が生活費を切
り詰め、残された預金通帳の全額を遺贈した。残高は 10 万円。しかしその方に
とっての残されたすべてでした。聖書の「やもめの献金」のたとえは大切です。
しかし、ここで強調したいことは、私たちの救いは、捧げた金額の多寡で決まる
のではなく、全資産に対する割合で決まるのでもない。あくまで、「信仰義認」
によって救われるということです。ただ、われらの主、イエスが山上の垂訓の中
で語られ、ウェスレーが晩年に執拗に説教し続けた通り、
「神と富とに仕えるこ
とはできない」
(マタイ 6-24)。富の蓄積、富への執着が、人の霊性を低下させ
てしまうのです。
だからこそ、教会員は富に執着することなく、ひたすら神の財産の「よき管理
人」として仕え、裁きの日によりよい「会計報告」ができるよう、常に準備して
いなければなりません。
「クリスチャンの終活」とは、裁きの日に、神に良き会計報告を提出するため
の、最後の仕上げの活動なのです。
【あとがきにかえて】
私は 1998 年に洗礼を受け、その後、教会員として教会生活の多くを教会会計
担当者として過ごしました。その私の役割上、常に教会財政の問題に関心を持っ
て過ごしました。そして、教会に高齢者が多く、若い会員が増えない現実の中、
数年中に教会員の減少により教会の財政は破綻するのではないか。そのことが
会計担当者として頭から離れなくなってきたのです。
そんな中、1 年半前にインターネットで「2020 年にクリスチャンの葬儀がピ
ークを迎える」と言う記事と出会いました(「キリスト教葬儀は存続できるか」
CCFI ホームページより)。そう、5 年後に教会員は激減する。そうなれば教会
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財政は破綻する。
注)一般の日本人の葬儀のピークは 2030 年~2040 年といわれています。
いわゆる団塊の世代(1947 年~1949 年生まれ)の方が葬儀を迎える時期に
当たります。でもキリスト教徒はそうではありません。終戦直後に当時 10 代
から 30 代の方が大量に洗礼を受け、その後大きなリバイバルが起きなかった
ため、その当時洗礼を受けた方がそのまま現在の教会の大勢を占めています。
この点から、クリスチャンの葬儀のピークは 2020 年といわれています。
この危機的状態を回避するには、福音・宣教に励むべきです。しかし、宣教は
なかなか思うように進まない。そこで教会の大多数を占める高齢者の「遺贈」に
頼るしかないという思いが確信に変わってきました。統計上日本人の個人の金
融資産は 1500 兆円あるが、そのうち 3 分の 2 は高齢者が持っていると言われ
ています。今「遺贈のムーブメント」が起こらなければ、確実に日本の教会は財
政破綻する。
しかし……、ウェスレーも言うとおり、このような声に、
「誰も耳を貸さない」
かもしれません。
ウェスレーの言うことは確かに非常に厳しい。でもそれは、イエス様が語った
ことを言い直しているだけで、言いかえれば、イエス様の命令なのです。
森文次郎先生は、次のように語っています。
「私たちは、ジョン・ウェスレー
が示した信仰の在り方が、キリスト教信仰の本質を正しく言い表していると信
じるがゆえに、更新伝道会の交わりを持ち、ウェスレーについて学ぼうとしてい
るのであります。(「メソジストの伝統 その信仰の特色」15 頁)」
私たちは「クリスチャンの終活」、特に相続・遺産分割問題を、ウェスレーの
神学を踏まえて、もう一度根本から学びなおす必要があると言えるでしょう。
最後に、ウェスレーの神学の視点で、現在の日本のキリスト教界に更新伝道会
がどうかかわるか、検討してみました。
結論は、
「今は大変なピンチだが、逆に福音宣教する最大のチャンスだ」とい
うことです。
なぜなら、今の日本はキリスト教の福音宣教に対する弾圧がないということ。
明治から戦前まで、絶えず、政府や仏教・神道からの弾圧・妨害がありまし
た。でも今は、少なくとも表面上は国家による弾圧は戦前ほどにはありません。
激しく妨害してきていた仏教も、それ自体が危機を迎え、廃寺する例も増えて
きています。日本人のいわゆる「葬式仏教」離れが進んでいると同時に、核家
族化、生涯独身者の増加などから無縁墓地対策としてのキリスト教の需要も見
込めます。
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高齢の方に偏在している富を、高齢の方が生前献金や遺贈で教会や神学教育
機関に移してくださりさえすれば、教会はそれを宣教の準備資金に充て、神学教
育機関は牧師を養成することができます。数年後神学教育機関から牧師が複数
教会に派遣され、副牧師は教会外にいる未信者専門に福音を伝えることができ
ます。
そのためには、まず、高齢の方が遺贈等により「天に富を積む」必要がありま
す。財産のすべては無理でも、せめて高齢のクリスチャンが持っている金融資産
の十分の一でも遺贈していただければ 1 兆円になります。
私たちは全くの罪人です。私たちには何の功もありません。でも、そんな私た
ちのために神様は愛する御子を十字架につけてくださいました。私たちはこの
十字架の購いを信じるだけで義とされます。そして、私たちの最初の祖先の罪に
よってこうむった、義と真のホーリネスの完全な損失を修復すべく、私たちの心
を神の形に「更新」し、さらに、すべての人が「更新」できるよう伝道に邁進す
べきです。そのために、まず今は、遺贈のムーブメントを起こす必要があると考
えます。
ウェスレーの説教「良き管理人」
「金銭の使い方」は、ウェスレー神学の中の
中心部分である「心情と生活の聖潔(聖化)」の根底をなす部分です。決して「任
意に選択し得る意見(opinion)」ではありません。この重要な二つの説教を踏ま
えて、日本のキリスト教界に遺贈のムーブメントを起こすことができるかどう
かは、ウェスレーの神学を理解している更新伝道会がカギを握っていると言え
ます。
どうぞ、このことを今一度御一考ください。
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