石川 静雄(大正 12 年生まれ 88 歳)焼津市花沢 「この家は一人で住むに

石川
静雄(大正 12 年生まれ
88 歳)焼津市花沢
「この家は一人で住むには広すぎていかん。」
藤枝に生まれ、縁あって焼津に来た。一生懸命働いた。
気づいたら、長老になっていた。石川さんは語った。
●戦争で学校は困っていた
県立農業学校、今の藤枝北高を卒業したんだが、商売がない。それから、学校が兵にと
られて先生が不足して困っちゃって来て欲しい、という要請をうけてな。兵隊に行きゃあ
どうせ死んじゃうし。ええわ、と思ってな。静岡の師範学校は3年だかかけてええ先生を
こさえるわけだ。銭もかかる。でも早くこさえなきゃってんで、1年の、短期の準教員養
成所があってな。青島に。それに行った。
教育方針ってのがしっかりしていて、1時間のうちにこれとこれを教えろ、と、一年間
ずーっと決まってるんだ。全部、決まりがあった。でたらめにただやると、そういうわけ
にはいかんかった。人によって、学校によって違う、そういうことは許されない。日本の
教育というのは決まっていたんだ、その当時は。
●藤枝の地で教鞭にたつ
勤めていたのは、瀬戸谷第二小学校。瀬戸谷の辺鄙なところにあって、一週間泊まって、
土日だけ帰ってきた。複式教育でわずか二組だった。1、2年、3、4年、5、6年とそ
ういう風に。40 人くらいの生徒だったけど、純朴なええ子たちだった。へぼな先生だった
けどな。記念品だって、ひょうたんの大きいのを作ってくれた。その子らも、俺と8つ違
うから、もう 70 を過ぎているんだなぁ。
●湘桂作戦
昭和 18 年に二十歳になった。現役兵で、昔は二十歳になると兵隊にいった。静岡歩兵隊
に入隊して九州へ行った。湘桂作戦に参加した。ここらで現役で行ったのは、俺一人ぐら
いのもんじゃないかな。みんな死んじゃった。
韓国から、江陽、桂林、柳州にいって、南寧の途中のところまで、南寧までは行かなか
ったがな。桂林は素通りしたが、漓江は泳いで渡った。橋もなにも、落といちゃってある
からな。大砲とかそういうもんは水につけちゃ困るから、舟で渡したんだが、全部舟で渡
す力はないから、馬と一緒に泳いで渡った。真っ暗いときに、200m くらいをな。昼は爆撃
されるから。泳いでいくと、ずぅっと下の方に流されちゃう。そんで点呼してさ。点呼に
いなけりゃ、戦死。そんなもんだっけよ。戦死といっても、崖から落ちたり、舟で死んだ
り、馬に蹴られたり、噛まれたり千差万別だった。
●中国を勉強した
コレラの村も通った。コレラで死んだ人も大勢あるなぁ。コレラにかかったらおじゃん
だ。とにかく、水を飲みたくなっちゃうんだな。俺らは汚い水を飲んだよ。中国じゃ水が
ない。揚子江なんかも6千 km も流れてくる。上の方で何してるかわからんし、汚い。水牛
やらの糞が垂れ流し。豚の死んだのが流れてくる。だから向こうの人はぜったい生水は飲
まない。それを沸かいて飲むんだが、はじめは知らんから、つい飲んじゃう。それで、腹
を壊す。それで死んだ人もたくさんいるな。
それから、向こうは人糞を使う。それも、腐敗して回虫が死んだのではなく新しいのを
使う。中国の人は生野菜、浅漬けは絶対食べない。色が変わっちゃったやつを食べるんだ。
回虫の卵が死んじゃうから。知らないと浅漬けで食べちゃう。そうすると回虫の卵がいっ
ぱいだ。海がないから、回虫を駆除するカイジンソウがない。それで、回虫で死んじゃう。
そういうのは書物にはないことだな。中国の風習っていうだか、勉強してきたんだ。経験
してきた。
●馬とともに
とにかく中国は道が悪い。舗装してない。3千人も4千人も歩けば、ドロドロになっち
ゃうんだ。鉄のわっぱの一輪車が発達してたから、道の真ん中に石を引いていた。山だろ
うがどこだろうが、ずーーっとな。どこから石をもってきたか不思議なくらいだった。100
キロも積んだ馬が踏み外すこともあるしさ。山から落としゃあ、1日がかりで引き上げて
さ。大変だったなぁ。馬の足が駄目になったら代わりの馬を見つけたんだ。
湘桂作戦では、3千 km を 20 キロの荷物背負って、昼夜兼行でな。馬にこっそり荷物を載
せることもあったが。まぁ、自分の馬だから大事にしなきゃな。休憩とっても、すぐ水を
くんで、そのうち準備ー!ってな、自分の休んでる暇はないんだ。馬部隊は大変だ。人一
倍苦労しにゃあならん。足洗ったり、さすったり。馬は泳いでくれるから、首につかまっ
たりして、ちったあ楽できたっていう、特典はあるけどな。馬に乗るのは上手になったっ
けよ。気持ちのいいもんだった。たっかいところからな。馬は概ねいうことをきく。犬や
猫よりもうんということ聞く。従順だ。雨がきつく降ったとき、中国の雨は痛いようなの
が降るんだ。馬の腹の下に入ったりな。そんなことをしたっきな。
●中国から日本へ帰る。そして焼津へ。
終戦は、九江っていってな、揚子江のところだ。 廬山はとても、ええとこだった。蒋介
石の別荘があってな。揚子江は、川といっても海みたいだ。イルカもぷかぷか泳いでいる。
日本の川とは違う。乗船は上海からな。静岡連隊全部ってわけにはいかないからな。中隊
に分かれて。えとろていっていう、海防艦に乗ってな。博多まで。それから、汽車で、軍
用列車でな。広島あたりから民間も全部入ってきたな。デッキで寝て。そんときは、兵隊
は功績どころか罪人みたいだった。おまっち負けたで悪いだ、と敗残兵といってな。引け
目を感じていた。俺はもともと藤枝だから。ハイヤーとかはないから、藤枝駅から、葉梨
の家まで歩いた。ハイヤーもない。お金もなんにもないしな。
ここの若手の人と同じ歳で同じ中隊に入ったんだ。親しくしてたしな。帰ってから、こ
の家に知らせてやるような、報告に来たんだ。そうしたら、代わりに、ちゅうことになっ
ちゃったんだなぁ。
●みかんの復興に力を注いだ
ここのあたりはみかんが盛んだったが、兵隊に長男をとられて、そういううちは貧乏に
なっちゃったんだなぁ。兵隊から帰ってきて、みかんが駄目になっちゃてるから。忙しく
て先生どころじゃない。荒廃しちゃってるから。まずは人を頼んだんだ。自分が出るなん
てもってのほかだ。女衆が、当目から、野秋のあたりから山の草刈に来てくれたわけだ。
お茶とりとか、みかんの取り入れなんかにみんな来てくれた。割合みかんが多かったん
だ。
それだもんで、30 件でマルハナ組合って、出荷組合を作ってさ、みかんを直接、山梨と
か、新潟とかに売り行ったんだ。その当時は自動車がないから汽車でな。規模が小さいか
ら一車まで買うってことはないが、積み込んでな。お金もとらにゃなんねえしさ。お金が
とれねえで、鎌や鍬をとってきたってこともあるよ。
●みかんは風
一生懸命生産して、ようやくまあまあになった時分だ。三ケ日の何町歩っていう、原っ
ぱをブルドーザーで、だーっと開墾して。ビニールの網でずっと囲って風追いをして、え
えみかんがとれるようになっちゃった。平地でな。みかんは日当たりもあるけど、やっぱ
り風だ。こっちは、山地で風がないから、いいみかんができていたが、山登っていって仕
事するような不便なとこは駄目だ。労力がかかる。ちっちゃいもんだ。向こうは自動車で
入って、いっぺんにどんどんとれる。向こうが勝っちゃった。みんなとられて、さびれち
ゃった。
●山を売っていた
長屋門のあるうちがあるだろ。あれは、人を、青年を雇ったんだな。一年中泊まらせて、
家の手伝いをさせた。今で言う会社みたいなもんで、働いてもらって、お金を払って、う
ちのみかんなり、お茶なりを手伝ってもらった。ずっと昔はそういう徒弟制度、丁稚とい
うかな、があったんだな。昔は機械がなかったからな、草も全部手で刈ったんだ。ここは
山がたくさんあるで、スギ、ヒノキそういうもんが売れたんだ。みかんもお茶も入るし、
ある程度裕福だった。何町歩の山をみんな持っていて、昔は、今のお金で勘定すれば 100
万円くらいになった。それが今は木がぜんぜん売れなくなっったんだ。その後、みかんが
よくなったからよかったけどな。
そこへ、畑総っていって、山の道路をつくった。とても便利になった、と同時に借金を
抱えて。半分は国で、2割5分は市で出いてくれて残りが地元。はじめは3億くらいでで
きると言ってたが、30 億くらいになっちゃって。みかんと山林のためにつくったんだが、
完成したころはみかんはもう駄目になっていて、山はゼロだ。今度はこっちが日雇いに出
るようになった。そのもらいで借金を払った。その日暮らしがやっと。貧乏になっちゃっ
た。そうなるとみんな出て行っちゃう。過疎地だ。あえいでいる。しょうがねえ。
●領分争い
田んぼも土地改良してさ。ここの衆はみんな小浜の方にたんぼを持っていて。花沢の衆
が持ってるところは花沢で、野秋の衆が持ってるところは野秋で。それが土地改良があっ
て、花沢はここ、って固めたんだがな。今でも飛び地が残っている。その時分はな、よそ
の衆が花沢の土地で作ったら、お金をとったんだ。領分争いをしていたんだ。協議費とし
てとった。部落を経営するために、役員が協議するときにいろいろと、道を直いたり金が
かかるから。小坂の衆も山を越えて土地を持ってる衆が取りにきたよ。それは平気だった
よ、そういう制度だったから。歩いて山の道も直いた。今はもう歩いていかないで、小さ
い道はもう駄目だ。今じゃ、田んぼも委託して、米を買うようになった。
●血と涙の復興だった
みかんの回復のために努力して、月月水水金金で、日曜なんてない。戦後はな。働いて、
そんで復興して、今の週休二日なんてそんな馬鹿な、というな。まったくいい世の中だな。
みかんを復活させて、収入を増やさないといかんといって復興したわけだ。今も、津波の
被害といってるが、働いて復興するんだよな。そんときは義援金もなけりゃ、補助金もな
い。働いて復興した。仮設住宅も作ってなんてな、義援金も何億とあってな、うらやまし
いわ。早く復興すると思うよ。戦後は、なんにもびた一文ない。それでも復興したんだ。
血と涙で復興したんだ。今はええ世の中だよ。そんときを考えりゃ。今は極楽だえなぁ。
食べ物もありゃこれまずいだ、なんてとんでもねえ。
●自動車はやめた
こっちにきて、自動車がなかったから、葉梨には自転車で半日かけて行ったな。山の手
は風がないからよかったな。大昔の話だ。ずいぶん自転車の時代が長かったな。それから、
スクーター。250cc の。ポンポンっていってな。家内は体が丈夫じゃなかったら、富士の医
者につれてったな、それから自動車になった。とにかく便利なもんだ。
しかし、もし一旦事故を起こしたら、自分が困るより、うちが困る。補償で。だから自
動車はやめたんだ。もう一年免許もあるけどな。満足にしているいとにやめるんだ。そう
しないとうまくいかない。もうちっと欲しいな、ってときにやめる。ぱっと。さわりもし
ない。子どもがちゃんとやってくれるから、なんも困らん。人に言われてやめるもんじゃ
ない。人に言われてもなかなかやめれん。88 の祝いもしてくれたし。困ることはなにもな
い。もうあの世に早く行きたいと思ってる。
●男ごけはひとりだけ
花沢には、女ごけってのが、10 人ばかいる。男ごけは俺ひとり。ごけ、っていうのはひ
とりもんのことだ。俺は一番苦労して。なんにも苦労してない、戦後の若い衆が早く死ん
じゃった。おかしなもんだなぁ。今になって考えてみると。早く死ぬと思ったのにな。い
つの間にか長老になってた。
一人になると、寂しいなぁ。なんとなく相手がねえんだ。子どもがなんでもしてくれる
から、困ったということはないがな。なんとなく、夫婦は空気みたいなもんなんだな。い
てもさほどいいってことでもないが、いなくなりゃあ困ることが多いよな。わずかなもん
だけえが、やっぱ違いがでてくる。これってもんでもないんだがな、なんとなく。夫婦っ
てそんなもんじゃないかな、と思うよ。子どもたちがよくしてるけど、なんとなく一人ぼ
っちってな。家内は6つ違いで、79 で死んだ。それから3年たつな。
●じっとしてはいられない
今も、ちょこっとな自分の田をいきぬけでやっているよ。百姓でくってきたもんはどう
してもじっとしてられない。健康のためにもなるし、自分のためにもなる。何もせずのも、
本を読むのも、寝ているのも限界がある。それから歩くってのも大変なんだよな。
人間は浮き沈みがある。分家の方が栄えることもある。古いで立派ということもない。
石かけ、家が立派だから、いいという基準もない。
ことたりてるから、正しい判断ができるんだな。ことたりてないと、何か不足してると、
正しい判断はできないな。部落には 30 件くらいあるけどな、母さんが病気してるとか、い
ろいろある。なんか不幸だと、正しい判断はできない。俺はそう思う。
<聞き手:山内健一>