母と私の堂島物語 ■新編集講座 ウェブ版 大阪本社旧社屋 第41号 2015/12/1 毎日新聞社 技術本部長(元・大阪本社編集制作センター室長) 三宅 直人 今から 23 年前の 1992(平成 4)年 12 月 12 日、毎日新聞の大阪本社 ① は、堂島旧社屋=写真①=での紙面制作を終了。休刊日を挟んで、 旧 大 阪 本 社 = 1 9 2 3 年 14 日から、西梅田の現社屋で新たな歩みを始めました。大阪・キタの 繁華街で独特の存在感を放っていた旧社屋。私自身が編集者として 勤務しただけではなく、先年他界した母も、私の生まれる前、この地で 晴れ舞台に立ったのでした。親子 2 代の、不思議な縁を感じます。 ② ■ 大毎のホームグラウンド 毎 日 オ リ オ ン ズ ナ イ ン = 50 年 堂島の旧社屋は、大阪毎日新聞社(当時、通称「大毎」)の手に よって建設され、1922(大正 11)年に落成式を行いました。社史 「毎日の3世紀」によると、「地下1階地上5階建て、延べ床面積 は約1万 2200 平方メートル」 「大阪とはいえ、まだ低層の建物がう ち続くなか、ひときわ高く抜きんでた『白亜の殿堂』という形容が 恥ずかしくない威容を誇っていた」とあります。 ③ 堂島の地は、大毎のホームグラウンドとして、多くの市民に親し 「 毎 日 写 真 ニ ュ ー ス 」 = 54 年 まれました。社に残る資料写真には、第二次大戦後の 50(昭和 25) 年、プロ野球「毎日オリオンズ」 =右下欄参照=が日本シリーズを 制覇した際、ナインが堂島の社屋バルコニーに勢ぞろいし、ファン に手を振るシーンが写されています=写真②。 ㊦ は そ の ア ッ プ ■ 和服姿でオリオンズ激励 私の亡母歌子は、堂島旧社屋やオリオンズと縁がありました。 2013 年 4 月、母が 86 歳で病没した後、遺品を整理していると、 54(昭和 29)年 3 月 16 日発行の「毎日写真ニュース」というリー フレットが見つかりました=写真③。堂島の社屋で催された「毎日 オリオンズ大阪後援会」発会式で、結婚前の母(旧姓窪田、当時 26 歳)が和服を着て、別当監督に花束を渡しています。 母が伊藤万(大阪にあった繊維商社、後にイトマン事件の舞台と なる)に勤めていたのは聞いていましたが、オリオンズの一件は知 りませんでした。なぜ大役を仰せつかったのか、オリオンズのファ ンだったのか。何も語らぬまま、母は不帰の客となりました。照れ くさかったのだと想像しますが、60 年近く大事に保存してきたこ とを考えれば、大切な記憶だったのは間違いないと思います。 息子の私がその堂島社屋で働くようになったのをどう感じてい たのか、泉下の母に聞いてみたい気がします。 ■ 毎日オリオンズ 現在の千葉ロッテマリーンズ の 前 身の 球 団で す 。49( 昭和 24)年に結成し、翌 50(同 25)年 からパ・リーグ公式戦に参戦。 同年に開催された初の日本シリ ーズでセ・リーグの松竹ロビン ス(当時)を破り、初の日本一に 輝きました。 ( 左 ) ④ 正 面 玄 関 ■ エレベーターの恋 私は、母のそんな思い出も知らないまま新聞記者を志しました。 たまたま学生時代に堂島の本社でアルバイトをし、記者が体当たり して出入りする回転ドアや高い天井に響く会話の喧噪(けんそう)、 ( 右 ) ⑤ 1 階 ホ ー ル 床に舞う原稿用紙を目の当たりにして興奮。重厚な正面玄関=写真 ④=や優美な内装=写真⑤=、古風なエレベーター=写真⑥⑦=を見 て、 「毎日新聞社で働きたい」との思いを抱いたものでした。 ちょっと脱線すると、このエレベーターは、昔の映画に出てくる ⑥ エ レ ベ ー タ ー と 階 段 ような伸縮式ドアで、階数は針が回転して表示する方式です。自動 運転は無理でエレベーターガール(?)が操作していました(百貨 店みたいです)。元上司の某氏は若かりし頃、エレベーターガール を見初め、用もないのに「1階へ」「忘れ物をしたから戻って」と エレベーターに乗り続け、ついに射止めたという伝説があります。 ⑦ エ レ ベ ー タ ー 階 数 表 示 機 ■ 「ザ・ベストテン」で中継 閑話休題。私は幸い入社試験に合格し、81(昭和56)年から毎日 新聞記者となりました。ただ新人研修は東京本社で行われ、配属先 も宇都宮支局に決まったため、堂島勤務とはなりませんでした。 ところが宇都宮に赴任した年の夏、人気テレビ歌番組「ザ・ベス ⑧ 歌 手 の 石 川 優 子 さ ん トテン」 (TBS 系)が堂島の本社から中継されているのを見てびっ くりしました。しかも登場したのが、同じ高 校(大阪府立四條畷高校)出身の石川優子さ ん=写真⑧=だったので、2度びっくりです。 司会の黒柳徹子さんはエレベーターを見て 「まあアンティーク」と連発していました。 中継のいきさつは、本社OBで元和歌山市長の大橋建一さんがホ (上)⑨大橋さんのホームページから ームページ(※)に書いています =写真⑨。毎日放送(大阪)のラ ジオ番組にレギュラー出演していた石川さんは、東京の TBS スタ ジオまで行く時間がなく、大阪から中継の形で参加したのでした。 ※http://www.ken-ohashi.jp/contents/2b/dagakki/2012/20121016.html ■ ドラマのロケにも 私は宇都宮支局から東京本社を経て、87(昭和62)年に大阪本社 に転勤。母の思い出の地、堂島に勤務することになりました。この 時代の仕事の中身は改めて書くこととして、テレビ中継の話が出た ので、私が遭遇した堂島でのロケをご紹介しておきましょう。 元毎日新聞記者で日本初の五輪女性メダリスト(アムステルダム 五輪、女子 800 ㍍銀) 、人見絹枝さん=写真⑩=の生涯をドラマ化す ることになり、社屋移転目前の92(平成4)年10月、堂島でロケが 行われました =写真⑪⑫。ロケを知らなかった私は、バタバタと階 段を駆け上がり、休憩中だった主演女優の松下由樹さんとエレベー ター前で鉢合わせ。松下さんが目を丸くしたのを覚えています。 ⑩ ( 左 ) 人 見 絹 枝 さ ん ⑪ ( 上 ) ロ ケ 風 景 朝 刊 ( 大 阪 本 社 版 ) ⑫ ( 右 ) 92 / 10 / 3
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