ファン・エイク兄弟

ファン・エイク兄弟(出典: ウィキペディア)
1. フーベルト・ファン・エイク
フーベルト・ファン・エイク (Hubert van Eyck(1366年頃 - 1426年)
)は初期フランド
ル派の画家。弟に同じく初期フランドル派の画家であるヤン・ファン・エイクがいる。
生涯
フーベルトの誕生日や出生の記録はマース川流域の戦乱による破壊に巻き込まれて残って
いないが、1366年頃に現在のベ
ル ギ ー 、 マ ー ス エ イ ク
(en:Maaseik) に 生ま れた とさ
れている。マースエイクはベネ
ディクト派女子修道院の庇護の
もと、8世紀初頭から芸術や学問
が盛んな都市だった。
しかし長期にわたる戦乱でマー
スエイクは衰退し、かつて隆盛
だった学問も衰えてしまう。フ
ーベルトはフランドルを転々と
し、画家としての名声をフラン
ドルで得ることになる。ブルゴ
ーニュ公子の宮廷画家となり、ヘントの富裕な貴族の一人を顧客とすることで高く評価さ
れるようになったのである。1421年まではブルゴーニュ公フィリップ3世から年俸を受け取
っており、1424年には裁判所に絵を描き、主席裁判官から公式訪問を受けて賞賛されてい
る。
フーベルトは1426年9月に死去し、自身が手がけた『ヘントの祭壇画』が置かれたシント・
バーフ大聖堂の礼拝堂に埋葬された。 16世紀からの伝承によると宝物箱に収められたフー
ベルトの腕はシント・バーフ大聖堂正門上に遺物として安置されている。
ヘントの祭壇画
フーベルトの描いた作品でもっとも重要なのは富裕な商人ヨドクス・フィエトの依頼で描
かれた『ヘントの祭壇画 (神秘の子羊)
』で、フランドル派絵画の最高峰といえる作品で
ある。かつてはヘントのシント・バーフ大聖堂から散逸してブリュッセルやベルリンのギ
ャラリーに分散して所蔵されていたが、現在は元通りシント・バーフ大聖堂の所蔵となっ
ている。この祭壇画はフーベルトが制作を始めたが、その死とともに未完成になっていた
ものを弟ヤン・ファン・エイクが完成させた作品である。当時のほかの宗教絵画と比較し
て際立って特異な作品で、匹敵するのはマドリードの美術館に所蔵されている『 Fount of
Salvation』だけである。
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『ヘントの祭壇画』は表裏あわせて 24枚という多くのパネルで構成された祭壇画で、上段
のパネルには審判の椅子に座るイエスを中央にして、左側に聖母マリア、右側に洗礼者ヨ
ハネが描かれている。その外側には楽器を奏で賛美歌を歌う天使たちが、さらにその外側
にはアダムとイヴが中央
を見つめた姿で描かれて
いる。下段のパネルには天
使、十二使徒、預言者、殉
教者、騎士、隠者などが描
かれ、その中央に神秘の羊
が血を流している光景が
描かれている。
『ヘントの祭壇画』の裏
面(外翼)パネルの裏面(外
翼)には「受胎告知」、イ
エス生誕を予言していた
巫女と預言者が、また、下
段のパネルには洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネ、そしてその足元にひざまずくヨドクス・
フィエトとエリザベト・ボルルートの夫妻が描かれている。
この作品が最終的に完成し、大聖堂のヨードクス礼拝所の祭壇に飾られたのは 1432年だっ
た。パネルの銘文には「上回る者は誰もいない偉大なる画家 (maior quo nemo repertus)」
としてフーベルトを賞賛し、この不滅の作品はフーベルト
が描き始め、その後ヤンが完成させたとある。
『ヘントの祭壇画』の製作を引き継いだ弟のヤン・ファン・
エイクは、この作品はフーベルトとヤンが共同で描いた作
品であり、ヤンだけが描いた作品であるという誤った情報
を後世に残さないように望んでいた。ヤンが独りで構成し
完成させた箇所も、ヤンとフーベルトが共同で描いたかの
ように表現したのである。ヤンと同年代の人々、ブルゴー
ニュ公や1432年にヤンの家を訪れたブルッヘの主席裁判
官たちは『ヘントの祭壇画』はフーベルトが描き始めてヤ
ンが完成させたという事実を知っていたと考えられる。し
かし後世のフランドルの人々は『ヘントの祭壇画』へのフ
ーベルトの業績を忘れ去り、この祭壇画に対するすべての
賞賛は弟ヤンが独占することとなってしまった。
17世紀に想像で作成されたフーベルト・ファン・エイクの肖像木版画 15世紀のイタリア以
外の国において、フーベルト以上に荘厳な宗教絵画を描いた画家はいない。
『ヘントの祭壇
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画』では聖母と洗礼者の間に審判者としてイエスを写実的に描き出した。美しい表現と華
麗な色使いで誠実さと深い宗教心とともにある純真さが一体となって表現され、それまで
のフランドル派の作品に比べて明暗の表現や細部の豊かな描写は群を抜いていた。 1410年
から1420年頃にかけてフーベルトが考え出し、当時フーベルトとヤン以外は誰も知らなか
った、油とワニスの微妙な混合で構成された溶剤を用いて、
『ヘントの祭壇画』は驚くべき
新しい油彩技法で描き上げられたのである。この新しい油彩技法は近隣地域のギルド組合
員にも秘密にされていたが、15世紀末になってイタリア人によって解析されることとなる。
フーベルトは芸術活動と、画家として驚くべき成功を収めたその生涯を通じて、自身の芸
術のすべてを弟ヤンに教え込んだ。そして残されたヤンは後にフーベルトを超える地位と
名声を手に入れることになったのである。
2. ヤン・ファン・エイク
ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck, 1395年頃 - 1441年)は、初期フランドル派の画家。
兄のフーベルト(ヒューベルト)
・ファン・エイクとともに油
彩技法の大成者として知られる。フィリップ2世(豪胆公)の
宮廷で活躍した。フーベルトの事績は不詳で、確実な作品も
ないが、現存のヤンの作例は兄との合作も含まれている。代
表作「ヘントの祭壇画」は、1426年のフーベルトの死去に伴
い、弟ヤンが引き継いで完成させたものである。北方絵画の
特色である徹底した写実表現はファン・エイクの作品にも顕
著で、たとえば「宰相ロランの聖母」では、手前に描かれて
いる聖母子と寄進者の像だけでなく、宗教的主題とは直接関
係のない窓外の風景までがどこまでも細かく描き込まれてい
るのに一驚させられる。
生涯
ヤン・ファン・エイクの生涯については詳しいことは伝わっていない。ヨハン3世 (バイエ
ルン公)の宮廷画家であったようで、 1422年から1424年の間、エイクに対して支払いをし
たという記録が残っている。
1425年にヨハン3世が亡くなるとフィリップ3世 (ブルゴーニュ公)の下で働くようになる。
3. アルノルフィーニ夫妻像
作者 ヤン・ファン・エイク
制作年 1434年 素材 オークのパネルに油彩
所蔵 ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
『アルノルフィーニ夫妻像』は、初期フランドル派の画家、ヤン・ファン・エイクが 1434
年に描いた絵画。合計3枚のオークのパネル(板)に油彩で描かれたパネル画である。日本
では『アルノルフィーニ夫婦像』、
『アルノルフィーニ夫妻の肖像』などと呼ばれることも
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ある。
この『アルノルフィーニ夫妻像』は精緻な油絵の嚆矢として西欧美術史で重要視されてい
る作品となっている。作者ファン・エイクのサインが 1434年の日付とともに記され、同じ
くファン・エイクと兄のフーベルト・ファン・エイクが描いた『ゲントの祭壇画』とともに、
パネルに描かれた油絵としてはもっとも古く、
かつ有名な絵画である。細部の表現だけでは
なく、特に室内の空間を表現する光の描写は
当時の絵画として異例の水準にある。
「屋内の
様子とそこにいる人間の描写として、これ以
上に説得力あふれるものはない[1]」と言われ
ている。
現代美術の著名なイギリス人画家デイヴィッ
ド・ホックニーとアメリカ人物理学者チャー
ルズ M.ファルコ (en:Charles M. Falco) は
共著の論文 (:en:Hockney-Falco thesis) の
なかで、ファン・エイクがカメラ・オブスク
ラのような光学機器を使って作品を仕上げた
のではないかと考えた。
『アルノルフィーニ夫妻像』は1842年にロン
ドンのナショナル・ギャラリーに購入され、現
在もナショナル・ギャラリーに所蔵されてい
る。
モデル
長い間『アルノルフィーニ夫妻像』に描かれているのは、
ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとその
妻ジョヴァンナ・チェナーミであるとされてきた。しかし
アルノルフィーニ夫妻が結婚したのは 1447年であり、それ
は絵画に記されている日付1434年の13年後のことで、さら
にファン・エイクが死去した 1441年よりも後であることが
1997年に判明した。現在ではこの絵に描かれているのはジ
ョヴァンニ・アルノルフィーニの従兄弟のジョヴァンニ・
デ ィ ・ ニ コ ラ ・ ア ル ノ ル フ ィ ー ニ 夫 妻 (en:Giovanni
Arnolfini) で、部屋はフランドルのブルージュにあった彼
ら自身の家であると考えられている。女性は内縁の二番目
の妻、あるいは近年の研究によれば1433年2月に死去した最
初の妻コスタンツァのどちらかである。コンスタンツァで
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あれば、生存している人間と死亡した人間を一枚の絵に描いた追悼作品という性格を一部
この絵に与えることになる。ニコラ・アルノルフィーニはイタリアのルッカ出身の商人で、
少なくとも1419年まではブルージュで生活していた[3]。ニコラ・アルノルフィーニはベル
リンでもファン・エイクの別作品に描かれており、二人は友人同士だったのではないかと考
えられている。
概要
女性の衣装わずかな顔料の剥落や損傷に対する修復はあるが、この作品の保存状態は非常
によい。赤外線リフレクトグラムによる調査で、二人の表情、鏡などに多くの細かな修正
が下絵の段階で加えられていることが分かっている[4]。
描かれている部屋は二階以上の部屋で、窓の外に見える桜が果実をつけていることから季
節は夏と考えられる。この部屋は一般に思われているようなベッドルームではなく客間で
ある。フランスやブルゴーニュ地方の習慣では客間にあるベッドは普段椅子として使われ
るもので、乳幼児を連れた母親が来訪したときくらいしかベッドとしては使用されないの
が普通だった。窓の内側には6枚の木製のよろい戸があり、最上部には青、赤、緑に着色さ
れたガラスで飾られている。
人物は二人とも豪奢な衣装を身に着け
ている。季節は夏であるにも関わらず
男性はタバード(袖なし、あるいは袖
の短いショートコート (en:Tabard))
姿、女性は厚いドレス姿で、しかも毛
皮で縁飾りが施されている。毛皮は男
性がセーブル(クロテン)
、女性がアー
ミン(シロテン)で、どちらも非常に
高価なものである。男性は夏に用いら
れることも多い、黒く着色された麦藁
帽子を被っている。短いコートは現在
退色してしまっている色よりも紫に近
い色で、シルクベルベッドのような高価な素材を表していたと考えられる。コートの下に
はシルク織と思われる模様のついたダブレット(襟と袖のある身体に密着した上着
(en:doublet))を着用している。女性のドレスの袖には手の込んだ波状の飾りが施され、
長いトレイン(ドレスの後ろに引きずる部分)がついている。ドレスの下に着ている青い
服にも白い毛皮で縁取りがされている。 女性が身に着けている装身具はシンプルなゴール
ドのネックレスと指輪だけであるが、鑑賞者たちにはどちらも極めて高価なものであろう
と賞賛され続けてきた。しかし男性は商人という職業にふさわしい慎み深い衣服であると
考えられた。貴族階級の男性を描いた肖像画は金鎖など、より飾り立てた衣装を着用した
ものが多かったのである。
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壁際のオレンジ室内にも富裕を意味する調度品が描かれている。大きく、入念な装飾が施
された真鍮のシャンデリアは非常に高価なものである。このシャンデリアには引き降ろし
てロウソクの手入れをするための滑車装置が上部にあったと思われるが、ファン・エイク
はこの部屋には不要なものとして描かなかった可能性がある。人物像の背後にはキリスト
受難が描かれた上にガラスをはめ込んだ木製のフレームに縁取られた凸面鏡がある。これ
は当時実際に制作可能だった凸面鏡よりもサイズが大きく、ファン・エイクによって若干誇
張して描かれている。部屋には鏡に映っている場所も含めて富を意味する暖炉はなく、暖
炉にくべる薪や焚き付けなどもない。しかしながら何気なく置かれたように見える、画面
左に描かれたオレンジは富を象徴している。オレンジは当時のブルゴーニュでは非常に高
価な果物であり、アルノルフィーニが取り扱っていた商品の一つだったのかもしれない。
さらなる富裕の象徴として、天井に固定された鉄の棒で支えられているであろう精巧なベ
ッドの天蓋や、背後に置かれた椅子やベンチに施された彫刻があげられる。床に敷かれた
小さな東洋のカーペットも富裕を表している。このような高価なものは床ではなくテーブ
ルに敷くのが当然であり、ファン・エイクの故郷オランダでも同様だった。
凸面鏡にはアルノルフィーニ夫妻像と対峙して、ドアのすぐ近くにいる二人の男性が描か
れている。手前の青い
服の男性はファン・エ
イク自身だと考えられ
ているが、ベラスケス
が絵画制作中の自身の
姿を描き入れた『ラス・
メニーナス』とは違っ
て、ファン・エイクは絵
を描いている姿で描写
されているわけではな
い。画面手前に描かれ
ている犬は現在のブリ
ュッセル・グリフォン
の祖先である。
鏡の上に「ヤン・ファ
ン・エイクはここにいた。1434年 ("Johannes de eyck fuit hic. 1434")」と日付つきの
署名がある。この署名は当時の格言や箴言を大きな文字で壁に書いたかのようにも見える。
他に現存しているファン・エイクの署名は絵画が収められている木製の額縁にだまし絵風
に書かれており、あたかも額縁に直接彫刻しているかのようである。
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4. 宰相ロランの聖母: De Maagd van kanselier Rolin
作者 ヤン・ファン・エイク
制作年 1435年頃
素材 パネルに油彩
所蔵 ルーブル美術館(パリ)
『宰相ロランの聖: De Maagd van kanselier Rolin は、初期フランドル派の画家ヤン・フ
ァン・エイクが1435年ごろに描いた絵画。パネルに油彩で描かれ、現在パリのルーブル美
術館に所蔵されている。
『宰相ロランの聖母』はブルゴーニュ公フィリップ2世のもとでブルゴーニュ公国宰相だっ
たニコラ・ロラン (Nicolas Rolin) からの依頼で描かれた。オータンにあったロランの教
会区教会ノートルダム・ドゥ・シャステルへの奉納肖像画(教会や修道院などの宗教施設
に献納する絵画のこと。聖書を題材にした宗教絵画が多く、献納者自身の肖像画がともに
描かれる (Donor portrait))で、ロランが画面左に聖母子と向かい合って描かれている。
ノートルダム・ドゥ・シャステルが 1793年に焼失した後はオータン大聖堂に所蔵されてい
たが、1805年にルーブル美術館へと移された。
概説
宙に浮かぶ天使が戴冠しようとしている聖母マリアが、ロランに幼児イエスを見せている
という構図である。屋内は贅沢な飾り彫刻がされた柱を持つイタリア風の広々とした回廊
(ロッジア)に描かれている。広
大な背景には宮殿、教会、島々、
塔を持つ橋、川、丘、野原などが
詳細に描かれた町並みが表現され、
この風景はロランが居住し、また
そこに多くの土地を所有していた
とされるブルゴーニュのオータン
であると考えられている[1]。霧が
かかった山が遠景に描かれている
が、ほかの多くのフランドル風絵
画と同様に絵画的効果を意図して、
山や谷の勾配は実際のものよりも
急峻に描かれている。
ヤン・ファン・エイクの自画像と
考えられている肖像画, ナショナ
ル・ギャラリー(ロンドン)柱の
外にはユリ、アヤメ、ボタン、バラが描かれていることが確認できる小さな花壇があり、
これはマリアの純潔の象徴となっている。画面中央遠景には、要塞化されたかのように見
えるバルコニーか橋の上に、シャペロン(中世ヨーロッパで頭部着用された布や帽子
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(en:Chaperon (headgear)) を被った2人の男性が描かれている。この作品以前に描かれた
『アルノルフィーニ夫妻像』で、ファン・エイクが自身の肖像を画面中央最奥の鏡に描い
たように、この2人はファン・エイク自身と彼の助手の肖像である可能性もある。右側の男
性は、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵するファン・エイクの自画像とよく似た
赤いシャペロンを着用している。男性たちの近くに描かれた2羽のクジャクは不朽の名声と
自尊心を象徴し、宰相ロランに勝るとも劣らない有力者であることを示唆している 。
室内には正面のポーチと側面の窓の両方から光が差し込み、ファン・エイク独特の複雑な
光の表現が描写されている。強固な人格がよく描き出されているロランは毛皮で縁取りさ
れた優雅な衣装を着用し、伝統的なゴシック表現に比べると珍しくロランと同じくらいの
身長で描かれた聖母は赤いマントを着用している。幼児イエスは左手に十字架を持ってい
る。完璧に表現された柱頭、格子模様の石畳、天使が手にする宝冠や衣服の金細工など、
まさしくヤン・ファン・エイクの典型ともいえる見事な作品に仕上がっている。
他のファン・エイクの作品と同様に、この作品でも空間表現は見た目ほど単純なものでは
ない。描かれている室内の調度品や人物と床のタイルとを比較すると、ロランとマリアの
位置は部屋の奥からわずかに6フィート程度しか離れていない計算になる。もしロランが部
屋の奥の柱の間から外へ出て行こうとするのであれば、身体を無理に縮める必要がある[3]。
多くのファン・エイクの作品では室内は非常に小さく描かれることが多いが、その描写は
巧妙に計算しつくされたものであり、鑑賞者に圧迫感を与えるようなことはない。
変更と修正
赤外線リフレクトグラムによる調査によって、この作品には下絵の段階から多くの変更と
修 正 が行 わ れ てい る
ことが判明している。
例 え ばロ ラ ン の腰 に
巻 か れた 帯 に は大 き
な 財 布が 吊 り 下げ ら
れていた。しかしロラ
ン が 他の 宮 廷 人と く
ら べ て実 際 に 非常 に
裕福であったため、不
適 切 な表 現 で ある と
し て 消さ れ た 可能 性
がある。古いオータン
の記録によれば、もと
も と のこ の 絵 画の 額
縁は献辞の入った木製のもので『アルノルフィーニ夫妻像』などの署名と同様に、献辞が
額縁に彫刻されているかのように見える凝ったものだった。
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図像学
ロランの頭上のレリーフ聖母マリアは幼児イエスを膝の上に抱いて座っている。このポー
ズはローマ・カトリック教会において聖母を意味する伝統的なもので、ファン・エイクも
複雑な隠喩をこめてこのポーズの聖母マリアをよく描いている。この絵画でのマリアは、
ミサを執り行っている幼児キリストの背後で祭壇としての役割を与えられているとされる。
この絵画が完成しロランの教会区教会に飾られていたときには、この絵の構図通りにロラ
ンが座る席の正面左側にあったのかも知れないし、あるいは実際の教会に聖母の肖像が正
面の祭壇画に描かれていたのかも知れない[4]。ロランの前に開いて置かれている装飾写本
のページには大きな「D」という文字が見てとれる。これは早課の冒頭の一節「主よ、私の
唇を開きたまえ (Domine, labia mea aperies)」の可能性があり、もしこの推測が正しけ
ればロランの本は時祷書ということになる。
描かれている回廊のスタイルは、他の多くのファン・エイクの絵画と同様に当時フランド
ルで主流だったゴシック建築様式ではなく、豪奢で優美なロマネスク建築様式で表現され
ている。描かれているのはおそらく当時のオータンの建築物そのものではなく「エルサレ
ムの神の都市」であり、現界の
権力者であるロランと天界の権
力者であるイエスとの出会いが
二つの異なる世界を融合させて
いる。
教会、大聖堂、花壇、
「色欲」を
意味する押しつぶされたウサギ
『宰相ロランの聖母』は、ロラ
ンの息子のジャンが1436年にオ
ータン司教叙任予定だったこと
と関係がある可能性があり、聖母マリア側の河岸に壮麗な大聖堂が描かれている。そして
ロラン側には小さな教会が描かれ、この教会はマリアに捧げられたものか、あるいはロラ
ンが多額の寄進をした教会区教会ノートルダム・ドゥ・シャステルかも知れない[5]。
この絵画には七つの大罪を意味するモチーフが描かれている。ロランの頭上に描かれたレ
リーフには左から、
「アダムとイブの楽園追放(高慢)
」
、
「カインのアベル殺害(嫉妬)
」
、
「ノ
アの泥酔(暴食)
」である。ロランの背後に描かれた柱頭のライオンの頭は憤怒、そして柱
基部には押しつぶされた小さなウサギが描かれ、これは中世では色欲を意味していた。こ
れら現世の罪はすべてロラン側に描かれ、イエスとアリアの側には描かれていない。しか
し強欲と怠惰を意味するモチーフはロランの側には描かれておらず、下絵の段階で描かれ
ていたロランの財布と回廊の外で所在なげにしている男性(おそらくファン・エイク自身)
が残り二つの罪を象徴していると考えられる。
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