第3章 民団愛知の結成(∼ 年) 1 在日本朝鮮居留民団(民団)の誕生( 年 月3日) 年8月 日、建同は第2回全体大会において右派系人士を結集させ、在日居留民 団組織問題を提起し、9月 日、本部講堂において の団体代表とともに居留民団結成 準備委員会の発足を慎重に検討し、これを満場一致で可決、委員長に高順欽を選出した。 一方、建青でも同日永田町国民学校講堂において第3回全体大会を開催して、民団結成 準備委員会への参加を決議した。続いて9月 日には、建同と建青の双方の全国代議員 合同会議を開き、民団創設の諸原則を再確認した。 月3日、東京・日比谷公会堂において歴史的な在日本朝鮮居留民団の結成大会が開 かれた。この日の創団大会に参加した団体は、新朝鮮建設同盟・在日朝鮮建国促進青年同 盟・建国促進会・朝鮮倶楽部・朝鮮居留民団・朝鮮文化協会・国際新報社など 団体で あった。これらの団体の代表と代議員 名を含め約2千名の在日同胞が雲集し、大会場 は熱気をおびていた。 民団結成の趣旨及び経過報 告がなされた後、任員選出に 入り、団長には朴烈、議長に は高順欽、 副団長には李康勲、 事務総長には元心昌を選出し た。この日採択された民団結 成宣言書(第1次宣言)にお い て、 万 在 留 同 胞 を 取 り 巻く内外情勢の分析と民団が 果たすべき役割を明らかにし ている。 ▲ 秋田刑務所から年ぶりに釈放された朴烈(初代民団中 央団長)を熱烈に迎える在日同胞(年月日) يɁፀ 祖国が解放されて幾星霜を経過した今日、未だ日本には 万余の同胞が在留して いる。これは本国の多難なる国情にもよることも少なくないが、在留同胞各自の人的、 経済的、その他即時解決することができない諸般事情によって、当分は日本に残留し なければならないからである。 79 ቼᴮኲ يঢ়ᅺᅇట ࢳɁඬɒ 今日在留同胞の現状を冷静に観察すれば、憂慮に耐えないものがあまりにも多い。 われわれにとっては、時間が経つにつれて基本的人権がおろそかにされ、居住の自由 を保証されることもなく、言論、結社、信仰の自由を行使する機会と条件が削減され つつある。 そして、在留同胞の法的地位はきわめて不安定で、経済的には破綻線上を彷徨して いるばかりか、社会的には日帝時代に逆行する傾向すら見られる。また、児童教育を 始め文化面でも甚だ停滞しているといわざるをえず、諸般の事情は錯綜混乱して、一 般同胞の苦言は言語に絶するものがある。 頼みの綱ともいえる本国は、国内外を通じて多事多難で、在留同胞の問題まで手を 差しのべられないというのが実情である。だからといって本国が独立し、主権が対外 的に発動することを待つには、あまりにも深刻で緊急を要する問題である。このまま 放置しておけば社会的にも国際的にも問題が惹起しないと誰が断言できようか。在留 同胞は、政治や思想運動に走って主義主張のみを叫ぶ時でもなく、また場所でもない。 われわれは目下緊急を要する課題を解決しなければならない。問題を解決するもの はわれわれ 万自身であることを知るべきである。われわれは、現在外国の地に住ん でいる。民族が違うし風土も違う。そしてまた歴史が違うだけに日常生活の形式と内 容が違うのである。同じ血液が流れているわれわれは、異邦民族の中で生きるには、 共同目的を達成するため固い団結をしなければならない。これは同胞自身が切望して いる。 過ぎ去ったことを忘れて、相互理解と親善を図り、共存共栄のため東洋の平和を期 すべく、在留同胞は各自の義務を果たして道義・法令を遵守し、人格の向上を図りつ つ行動しなければならない。 ここにわれわれが朝鮮居留民団を結成するのは、軍政当局のあたたかい指導のもと 全員帰国するまで一致団結し、各自の義務を忠実に守る自治機関としてわれわれに賦 与された権利を享有し、われわれに関連した諸問題を解決し、当面の難局を突破して、 国際信義を回復し祖国の栄誉を保全するためである。即ち、われわれが目的とすると ころは次の通りである。 يɁᄻᄑ 1.われわれは在留同胞の民主安定を期する。 2.われわれは在留同胞の文化向上を期する。 3.われわれは国際親善を期する。 以上の目的を確実にし強力に実現させると同時にその範囲外は活動を一切拒否し、 下記の通り要領を明白にする。 يɁژటᛵᬻ 1.本団は在日同胞全体をその構成員として包含し、同胞各自はその決議と執行に参 80 ቼᴰቛǽيঢ়ᅺɁፀ 加するにあたり、均等な機会と平等な条件を確保するとともに、各団体にも誠実 に参加する意志を表明する時はいつでも包容する。 2.本団は日本全国を通じ在留同胞も総意と要求を正確且つ、迅速に集中把握すると 同時にこれによる諸企画及び思索を極力賢明且つ効果的に執行すべき組織体と規 約を持つ。 3.本団自体は決して一種の思想、政治団体ではなく、本国または海外のいかなる思 想、政治の主流にも偏向するものではなく、これを支持したり加担するものでも ない。 4.本団は在留同胞の共同に基づく自治組織であり、将来本国及びその他の必要な関 係当局の承認する自治団体として発展するか、官設機関の補助機関になることを 目標とする。 5.本団は在留同胞の生活が極度に切迫する状態にあることを正確に把握して生業を 持つようにし、食糧及び生活必需品を確保するとともに、住宅難の緩和のために 緊急且つ効果的対策を樹立して、その解決に最善の努力を傾注する。 6.本団は将来国家の発展を図るため、あるいはその恩恵を享受するために在留同胞 が諸般の企業を起こし、これを育成することに積極的に援助し指導して国際貿易 に協助する。 7.本団は在留同胞がわが国国民としてまた、国際人としての必須なる教育を実施し、 知徳体の完全な発達と人格陶冶のために全力を傾注する。 8.本団はわが民族と国土が異邦に比べ、後進的な諸方面を急速に進歩させるととも に、国家の健全なる運営と発展を目標として、特に青年の創意と能力を最大に発 揮できるよう訓練を完全にし、活発で堅実なる青年運動を積極的に展開すると同 時に、女性の地位や質的向上を期する。 9.本団は国際社会に理解と友好を促進させ、その親善を期するため在留同胞が信義 愛に生きるよう指導努力する。 . 本団は常に在留同胞の総意を総合把握し在留同胞及び各方面の助言と決議を受け、 直接活動部門自体の間断なき観察と思考により目的遂行に適切なる科学的立案と 施策を創造し、これを強力に実践する生命体である。 以上の目的と基本要領によって本団は1日も早く諸般の問題を解決して、各方面の 進歩向上を促進するとともに、歴史的段階にあるわれわれ民族の偉大なる発展を期し つつ、人類の理想達成に貢献する覚悟である。 年 月3日 在日朝鮮居留民団 民団が結成されてからも、その事務所は建青と同じ東京・赤坂区青山の陸軍大学跡に置 かれた。 年 月には GHQ 命令により、東京・牛込区若松町の旧陸軍経理学校跡に、 建青とともに移転した。 建青は民団結成に賛同しつつも建青を解消して合流することには反対であった。 月 81 ቼᴮኲ يঢ়ᅺᅇట ࢳɁඬɒ 日、民団は建青との共催による生活危機突破居留民大会を開催し、在日同胞の帰還計 画の実施と生活権を守ることを決議した。民団に対する建青の発言権は強く、本国におけ る南北協商と単独選挙をめぐっても対立した。 一方、GHQ の意向でその年の 月2日、民団と朝連の合同会議が開かれ、「朝連は居 留民団に合併してはどうか」との提案に対し、朝連側は「民団こそ朝連に合同せよ」と主 張して譲らず、民団と朝連の合併工作は成功しなかった。 2 民団愛知県地方本部の結成( 年 月 日) 民団は創団時点から厳しい状況下にあった。豊富な人材と資金源を擁する朝連が共産系 に権力を奪取され、わずか数千人で民団中央本部を結成した後、地方本部の組織化を急が ねばならなかった。 当時、愛知県でも朝連組織が強く、 「在日本朝鮮居留民団愛知県地方本部」(民団愛知県 本部)は、逆風の中の船出となった。急速に左傾化してゆく朝連に疑問を抱き、新しい民 族団体を創ろうとする動きは朝連愛知の各級組織の体内でうごめいていた。 「民団結成」 を望む声は日増しに高まり、最初に名南支部内の愛族志士たちが立ち上がった。 その中心メンバーは、権尚基、劉学燮、朴哲、金溶圭らで、朝連を脱退し、民団愛知県 本部の結成にむけ奔走した。劉学燮、朴哲らは、上京して民団中央本部を訪ね、朴烈団長 ら幹部と会い、愛知県に民団地方本部を結成することで諒解を得た。 年 月初旬に は民団大阪府本部を礼訪し、最終的な結成のための協力と準備を整えた。 ◉ ቸߥӅکȺፀ͢۾ᩒȢ 年 月 日、名古屋市南区城下町の笠寺劇場において来賓を含め 余名が参加し て、結成大会が開かれた。会場の外には、大会つぶしを図る朝連盟員ら数百名がとり囲み 騒然とした雰囲気のなかで挙行された。席上、選ばれた初代役員は次の通りである。 団 長:権尚基 副 団 長:劉学燮 金寿童 議 長:白三世 事務総長:李春根 財政部長:朴凡述 この後、金寿童宅に「在日本朝鮮居留民団愛知県地方本部」の看 板を掲げ実質的なスタートをきった。しかし圧倒的な組織力を誇る 朝連は民団に対するいやがらせ、妨害を一層強め、民団の看板を割 ったり、持ち去ったりした。発足間もない民団はその都度、看板を 権尚基、金在男宅に移したりして妨害に対処するより方法がなかっ たのが実情である。 ここで創団当時の功労者の名前を何人か紹介してみたい。 ▲ 権尚基民団愛知 県本部初代団長 82 権尚基 河三水 劉学燮 朴凡述 白三世 李春根 金寿童 金溶圭 李炯甲 河啓伯 河啓斗 沈相律 李在根 朴福天 ቼᴰቛǽيঢ়ᅺɁፀ 民団愛知県本部は、わずか 数名の先達の愛族・愛団精神でスタートがきられた。 結成後1年は民団と朝連との小ぜり合いの中で、いつも看板を持って事務所を移動する 苦難の時代が続いたが、当時の執行部が中心となり募金活動を展開して、名古屋市南区水 車町に木造平屋建ての事務所を建てた。当初、わずか一間余りの建物から3回の増築を経 て、ある程度の事務所を構えることができた。この事務所では、韓国語の勉強などをして 徐々にではあるが組織の体制を整え、対外活動も展開するようになった。 ◉ గᣵȻɁߦ༜ԇ 朝連・民青との対立は一向に収まらなかった。 年4月 日、民団愛知県本部に朝 連系が昼夜わかたず散発的に攻撃してきた。そうこうするうち6月 日、民青突撃隊約 名が凶器をもって事務室を襲撃し備品と室内を破壊して、外出から帰ってきた権団長 を集団殴打し重傷を負わせ逃走する事件が起きた。 権尚基は民団愛知県本部団長に就任後、県下各地に支部を結成するため、名古屋市内を 始め瀬戸、豊橋、岡崎、豊川、知多などの県下各市町村に出むいて積極的な活動を展開し た。このため朝連にとって、民団とりわけその団長は脅威の存在となった。この権尚基団 長の行動を封じ込めるため、朝連は夜陰に乗じて襲撃した。 この時の重傷がもとで権尚基団長は数年後他界することになる。 ◉ ፖȁȻୈፀɋ こうした中で民団愛知県本部を結成したメンバーを中心に、 年8月 日、名古屋 市南区の呼続小学校の講堂で県下初の支部である名南支部を結成したのである。さらにこ の日、建青愛知県本部が結成され、初代委員長に朴哲、副委員長に金溶圭らが選ばれた。 名南支部結成を皮切りに、 同年中に西北(一宮)支部(9月3日)、西春支部(9月3日)、 瀬戸支部(9月 日)、名西支部(9月 日) 、翌 年には東中支部(4月 日)、東 三(豊橋)支部( 月 日)、岡崎支部( 月3日) 、中村支部( 月 日) 、豊川支部( 月 日) 、 年には知多支部(1月 日) 、 年には中川支部(1月 日)──民団 愛知県本部結成後ほぼ3年で現在の組織の陣容を整えるに至ったのである。その間の同志 の活躍は筆舌に尽くし難いが、それぞれが貧しく、厳しい生活の中、組織のために自費を 使いながら東奔西走した。 また民団静岡県本部結成( 年8月8日)、民団岐阜県本部結成( 年7月 日)、 民団岐阜県大垣支部結成( 年8月8日)、民団富山県本部結成( 年 月 日) に現地入りし、結成に多大な影響を及ぼしたのも輝かしい活動の一端を物語るものであ る。 83 ቼᴮኲ يঢ়ᅺᅇట ࢳɁඬɒ 3 民団愛知県本部の再宣言 年8月 日、大韓民国中央政府が樹立され、9月8日には本国政府が民団を正式 に承認し「民団を在日僑胞の唯一の民主団体として認定する」という公認状が伝達された。 民団にとって内外の情勢が好転していくにつれ、朝連と民青は民団に対する破壊工作を 強め、各地で民団・建青と朝連・民青との暴力事件が毎日のように繰り返された。過激化 していく朝連に対し、GHQ は 年9月8日、朝連・民青に解散命令を発したのである。 このような情勢変化をふまえて、民団愛知県本部は第3回全体大会を前に9月 日「再 宣言」を発表した。 ѓ 在留 万同胞の生命、身体、財産、職業活動など居住権と生活権擁護の目的と任 務を執行する公的団体の立場を堅守して、内部的には居留民の安寧秩序を維持し、外 部的には諸般の侵略を防禦し、国際的平和と居留の安定を期すべきであると再決心し たのである。 こうした中で 年 月 日に第3回定期大会が開かれ、権尚基執行部が三選された。 この頃になると発足当時の名古屋市南区を中心とした同志の他に県下各地から人材も多数 集まり、組織も重層化し、活動の範囲も一挙に広まった。 ◉ టɂջᮟᛴɁୗຑ͢ɋ そこで、名古屋市南区水車町にあった民団愛知県本部を中村区の名古屋駅西にある在外 戦災同胞救済会(救済会)に移し、新たな発展を期すこととなった。救済会は戦後朝鮮赤 十字社の金相敦社長が来日し、在日朝鮮人の引揚者を援護するために同赤十字社名古屋支 部を設立、救済会をつくった。会長に秋仁奉牧師、副会長に洪相元中村支部初代団長、救 護医療部長に徐載焄が就任した。 名古屋市から , 坪の土地を借 り、国際マーケットにバラックを約 軒建て、その家賃で救済会の運 営にあたった。本国からは医師と看 護婦が派遣され、その後名古屋大学 病院の医師と看護婦が常駐するよう になった。やがて木造2階建て、建 坪 坪の建物が建てられ、祖国に 引き揚げる極貧者や身寄りのない者 ▲ 民団愛知県本部が救済会に移転 84 また軍属として南方から引き揚げて ቼᴰቛǽيঢ়ᅺɁፀ きた人々の宿泊、食事、治療など無料で面倒をみたのである。救済会の1室が空き中村支 部が看板を掲げ、また南区の笠寺から本部が移り同居することになった。 4 朝連の解散 ◉ ᦂۿɜуᐳᣜ 年9月8日、日本政府は GHQ 承認の下に朝連など4団体に解散命令を発し、日本 共産党中央委員の金天海らその役員 名の公職追放を行った。 解散命令を受けた団体は、朝連と民青の全組織、そして民団宮城県本部と建青塩釜本部 である。 朝連の解散理由は、①度々占領軍に対する反抗、反対あるいは暴力主義的事犯を引き起 こしたこと。②具体的には 年 月の首相官邸デモ事件、 年 月ないし 月に かけて占領軍に暴行を加え反抗し、さらに同年4月下旬の神戸・大阪事件などは朝連の幹 部が率先して多数の本団体員を駆って集団的に敢行したものであるため。③これらの行為 が団体等規制令第2条第1号に該当するものである ことは明らかであるとした。 当時の朝連の組織は、中央本部をはじめ東北、関 東、北陸、中部、近畿、中国、四国、九州の8地方 協議会と、各都道府県に地方本部、支部、分会、班 をもち、その構成員は , 名という巨大な機構 にふくれあがっていた。しかし、GHQ の解散命令 により朝連はその歴史に幕を閉じるに至った。 さらに、 月 日には朝鮮人学校に閉鎖命令が 出され、全国 校のうち、 校に閉鎖、 校に 改組を命じた。 愛知県下には朝鮮人学校が 校あったが、その うち 校が愛知県庶務課に学校存続のための認可 申請書を提出した。朝鮮人学校の閉鎖に伴い、日本 人学校への転校が盛んに勧められた。 ▲ 朝連の強制解散。中央本部前 の警察隊(年9月日) ◉ ஓటɁࢃҝኍऐԇɋ 当時の民団系の学校数は劣勢であったとはいえ、・ 通達は民族学校全体に対し発せ られたもので等閑視できない重大な問題を内包していた。鄭桓範駐日韓国使節団長も「日 本政府は当地の朝鮮人学校を閉鎖する権利をもたず、もとよりその資格を没収する権利は ない。日本政府に抗議を行うかどうか本国と打ち合わせて決定する」と語るほどであった。 いずれにしても、問題は日本政府当局が暴力行為を規制するという名目の下に、在日同 85 ቼᴮኲ يঢ়ᅺᅇట ࢳɁඬɒ 胞全体を罪悪視して差別政策をおし進めようという意図が否定できないところにあった。 民団は朝連・民青の解散を契機に露骨化してくる日本政府の「民族の分裂と対立」を助長 する差別・抑圧政策に警鐘を鳴らしていくことになる。 朝連は解散により 年 月に愛知県下5支部の建物・財産の強制接収が執行された。 月 日、これを拒む旧朝連系が児童も参加して抵抗し、守山町(現名古屋市守山区) で 人が検挙され、名古屋市内でも乱闘の末6名が検挙された。 一方、その年の7月8日朝、名古屋市警は在日朝鮮民主民族戦線愛知準備委員会の祖国 統一戦線闘争月間の動向を注視していたが、 人の警官を動員して、市内8カ所の同会 の拠点を急襲した。8月 日の朝連解散後1年あまりで在日朝鮮統一民主主義戦線(い わゆる民線)が結成された。 5 在外国民登録の実施 年8月 日、大韓民国政府の樹立により、在外同胞は正々堂々と独立国家の国民 として正当なる権利を求めることができるようになった。その法的後ろ楯が即ち大韓民国 外務部令第4号として公布( 年8月1日)された「在外国民登録令」であった。特 に在日同胞の場合、日本の外国人登録で国籍が「朝鮮」となっていたために、これを正式 に「大韓民国」と改訂しなければならない現実的必要性があった。 民団中央本部ではすでに1年前から日本全国各地方本部に国民登録事業を準備するよう 示達していた。 年 月 日には「国民登録委員会」を設置して、大韓民国大統領令 第 号として「在外国民登録実施令」が公布( 年2月 日)されたことを契機に 本格的に事業推進することになった。 本令に基づく登録機関は、原則として大韓民国の在外公館である。在外公館は在外国民 の動態を把握し、保護する役割を担っている。ところが、日本国内においては韓国公館が 本令を施行するに十分なる機能を発揮するに至っておらず、さらに 万人にものぼる在 留同胞が居住していることもあって、民団が在外国民登録を代行するところとなった。 「在外国民登録」は、その後民団組織の発展とともに本団の民生活動業務の一環として 定着化していくことになる。 6 権尚基執行部の活動実績 年4月4日、名古屋市西区の葵会館で第4回臨時全体大会が開かれ、権尚基団長 が再び選ばれ、4期連続して団務を預かることとなった。また、第3回全体大会以降の活 動経過が報告され、了承された。そのなかで重要事項をまとめると次のようになる。 86 ቼᴰቛǽيঢ়ᅺɁፀ ◉ ୈˁᴯґيɁፀ 年 月に岡崎支部と中村支部、 月に豊川支部、 年1月に知多支部がそれぞ れ新たに結成された。また豊川支部管内には分団が1カ所設置された。 ここに愛知県下の総組織数は、支部が カ所、分団が2カ所結成され、民団愛知県本 部の組織は着実に拡大した。 ちなみに 年3月 日当時で、民団の全国組織総数は県本部 カ所、支部 カ所、 分団 カ所の合わせて カ所に及ぶ一大組織へと発展した。 ◉ టҾछᦂɁ߳о 民団組織が大きくなるにつれ、本部財政は切実な課題としてのしかかってきた。 年2月 日に開かれた民団愛知県本部の議事会の席上、切迫した経済状態が続くなか本 部財政の確立を図ることが重要であるとして、各支部が負担する割当金が決定された。 中村・名西・岡崎 各 , 円 西北・東中・豊川 各 , 円 東三・知多・瀬戸 各 , 円 名南 , 円 西春 , 円 以上の割当金を毎月5日までに本部に納入することとしたが、結成間もない支部にとっ てはつらく厳しい決定であった。 この割当金制度が確立されるまでには長い年月を要した。 ◉ ጞሎጸնঢ়ᅺᅇటɁፀ 同胞の税金問題は死活問題として、民団愛知県本部で対策を講究中であったが、支部管 内の課税状況を把握するため、まずその実態調査を行うこととし、民団員はもちろん過去 朝連傘下にいた同胞商工業者あるいは個人についても対象を広げた。民団愛知県本部では 支部の社会部長会議を開き、税金対策の検討に入った。 そして、 年3月日には県下同胞の経済基盤保護と納税問題の円滑な解決を期して、 在日韓国人納税組合愛知県本部が結成されたのである。納税組合の登記をめぐって名古屋 法務局、国税局とねばり強い交渉を行ったものの実現には至らなかったが、納税組合の法 人格問題を棚上げして、各支部でも組合を早く結成することを決議した。 当時の組合役員は次の通り。 理事長:権尚基 副理事長:劉学燮 余命辰 監 事:金萬根 李均秀 李希道 理 事:朴 哲 李且用 許弼ฟ ◉ ˿Ƚᚐ̜ () 本部新年祝賀会 日時: 年1月1日午前 時 場所:本部事務所前広場 () 新年会及び大韓民国東海北陸領事歓迎会 日時: 年1月 日午前 時 場所:本部事務所 () 第 回3・1独立運動記念式 日時: 年3月1日午前 時 場所:本部事務所前広場 87 ቼᴮኲ يঢ়ᅺᅇట ࢳɁඬɒ ◉ ៥ٌ࣍ˁзଡ଼ᑎৰᝩ౼Ɂஃ 年1月 日付公文で、民団愛知県本部社会部長金明達より各支部社会部長宛に管 内に居住する同胞中、極貧者数と氏名、家族数、年令などについて緊急に調査報告するよ う示達した。また地下足袋、自転車、タイヤの配給を希望する者も調査報告を求めた。 3月9日付公文によると、 韓僑児童教育実態調査を支部に委任している。それによると、 ①前朝連系小学校閉鎖後、非合法的に再開し現在授業を行っている学校について、校名、 住所、責任者名、教員数及び氏名、閉鎖の日時、児童数、その他現在までの経過報告。② 合法的に開校した学校とまだ閉鎖中の学校についても前記要領にて。③韓僑児童が通う日 本人小学校に、その学校名、住所、校長名、在学韓国人生徒数及び学年別数などについて 問い合わせることなどとなっている。 ◉ يঢ়ᅺɁيӯᝩ౼ このように結成3年目を迎えた民団愛知県本部は、困難の中にもようやく組織の拡充と 経済基盤の確立に向け団勢は一歩前進した。 年当時の団勢は次の通りである。 愛知県下民団加入実体数(年月1日) 88 支 部 名 戸 数 団員数 支 部 名 戸 数 団員数 名 南 東 三 (現在の豊橋) 西 北 (現在の一宮) 豊 川 西 春 岡 崎 瀬 戸 中 村 名 西 知 多 東 中 計 , ,
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