<科研費・基盤C> 成果報告(詳細) 「北欧モダニズムの成立に関する総合的研究 - フィンランドの教会建築を事例として」 伊藤 大介(東海大学国際文化学部) <Ⅰ> 北欧とフィンランドの建築の全体像 第1章 2つの視点:「教会建築」と「建築近代化」 ・・・ 4 第1節 古い教会建築が示す北欧性のあり方 ・・・ 4 1-中世大聖堂:ヨーロッパから導入された外来文化 2-村の教会:地域のランドスケープと一体化した存在 3-「ヨーロッパ性」と「風土性」から捉える北欧の建築 第2節 周辺国型の建築近代化とその役割 ・・・ 7 1-西暦 1900 年の建築の豊かさと広がり 2-都市のストックとして重要な建築群 3-近代建築運動全体の中で果たした役割 第3節 フィンランド建築近代化の事例 ・・・ 10 1-関連年表 2-フィンランド建築の近代化過程-全体見取り図 (第3節に関わる参考文献 ・・・ 15) 第2章 20 世紀の建築と都市の全体像 ・・・ 16 第1節 北欧全体を視野に入れた 20 世紀建築の推移 1-北欧近代建築と「過去」のつながり 2-ナショナル・ロマンティシズム建築の展開 ・・・ 16 3-北欧古典主義を経てモダニズム建築へ 4-黄金の 1950 年代と建築の「社会民主化」 5-生活・自然から「環境」へと継承された北欧建築のテーマ 第2節 20 世紀前半のフィンランドの都市と建築:ヘルシンキを中心に 1-世紀転換期:ナショナル・ロマンティシズムから郊外住宅地へ 2-両大戦間期:モダニズムと都市の新たな模索 第3節 20 世紀後半のフィンランド建築 ・・・ 33 1-頂点の 1950~60 年代 2-狭間の1970~80年代 ・・・ 25 3-再び注目された1990年代 4-21世紀へつながる歩み -1- 第3章 外部からのフィンランド建築への評価 ・・・ 45 第1節 日本におけるフィンランド戦後建築への評価の変遷 1-フィンランド建築、日本での栄枯盛衰 2-理想モデルであったフィンランド建築 3-建築を性格づけるものとしての「機能性」 4-建築を性格づけるものとしての「自然」 5-日本で一時必要性のなくなったフィンランド建築 6-新たなる評価へ 第2節 日本の評価軸から見たヘルシンキの20世紀建築 1-北欧モダニズムの時代のヘルシンキの建築 2-ヘルシンキとその周辺にある主要な 20 世紀建築 <Ⅱ> ・・・ 45 ・・・ 50 20 世紀フィンランドの教会建築 第1章 建築家ラーシュ・ソンク ・・・ 55 第1節 ソンクの全体像 ・・・ 55 1-生涯の方向性を決めた処女作の自邸 2-活動の中で出会った“フィンランド”と“スウェーデン” 第2節 主要な教会建築作品 ・・・ 57 1-トゥルクの聖ミカエル教会(1893~1905) 2-タンペレ大聖堂(1899~07) 3-ヘルシンキ・カッリオ地区の教会(1906~12) 4-ヘルシンキのミカエル・アグリコラ教会(1930~35) 第2章 建築家アルヴァ・アールト ・・・ 62 第1節 アールトの全体像 ・・・ 62 1-風土と地縁に発するモダニズムの普遍性 2-作品とともに追った生涯 3-主要 30 作品の概観および活動・作品年表 第2節 主要な教会建築作品 ・・・ 71 1-ムーラメの教会(1926~29) 2-イマトラのヴオクセンニスカの教会(1956~58) 3-セイナヨキの教会と教区センター(1952,1956~62/1956,1962~67) 4-ラハティの教会(1969~79) 5-リオラの教会(1966,1975~78, 1993~94)[イタリア] -2- 第3章 20 世紀フィンランドで教会建築が果たした役割 ・・・ 78 第1節 様式・デザイン面での時代の表象として ・・・ 78 1-アール・ヌーヴォーまたはナショナル・ロマンティシズム [トゥルクの聖ミカエル教会(1893~1905)/他] 2-北欧古典主義からモダニズムへ [ヘルシンキ・テーレ地区の教会(1927~30)/カンノンコスキの教会(1938)/他] 第2節 自然との一体性を具現する存在として ・・・ 83 1-木を媒介として [オタニエミ学生村の礼拝堂(1956~57、1978)/他] 2-花崗岩を媒介として [ヘルシンキのテンペリアウキオ教会(1968~69)/他] 3-光を媒介として [ヘルシンキ・ミュールマキ地区の教会(1980~84)/他] 第3節 人間の活動に場を提供する施設として ・・・ 89 1-北欧人の死への思いを共有する場として [トゥルク公共墓地の礼拝堂(1938~41)/他] 2-コミュニティー施設として役割を果たす器として [エスポー・オラリ地区の教会(1981)/他] 3-現代社会の中での瞑想の場として [ヘルシンキ・カンピ地区の礼拝堂(2008~12)/他] 第4節 社会的公共財になったフィンランドの教会建築 ・・・ 95 (第3章に関わる参考文献 ・・・ 96) ************************************************************************ 謝 辞 ・・・ 96 -3- <Ⅰ> 第1章 第1節 北欧とフィンランドの建築の全体像 2つの視点:「教会建築」と「建築近代化」 古い教会建築が示す北欧性のあり方 この論考に対する第一の視点は「教会建築」である。北欧建築の全体像を捉えるのに、教会建築 に焦点を当てる方法は大変有効である。北欧が「ヨ-ロッパ性」といかなる距離を取ってきたか、 そして特徴ある「風土性」にいかに向き合ってきたかという問いに対して、大きな大聖堂と一方で の村の小教会の両方向から捉える方法である。 ここでは、まず北欧の代表的な文化遺産である古い教会建築をいくつか取り上げて、ヨーロッパ の様式建築との関係から特徴を示す。その一方で、小さな村々に立つ無名の教会についても目を向 けて、風土との関係から描き出す。 1-中世大聖堂:ヨーロッパから導入された外来文化 北欧の古代、つまりヴァイキング期の建築遺構は残っていない。中世になって北欧にもキリスト 教が伝播し、ちょうど同じ頃スウェーデン・デンマーク・ノルウェーが王国の形を成し始めて、各 国の主要都市に大きな大聖堂が建った。中世にはまだ建築家がおらず、正確な設計図面もなかった ため、大聖堂は建設職人を束ねる工匠が陣頭指揮をして作り上げたものだった。着任した司教との つながりでヨーロッパ各地からやってきた工匠たちは、それぞれ地元の大聖堂の様式を携えてきた。 そのため、北欧の大聖堂はヨーロッパの様々な国の大聖堂の姿を彷彿とさせる点に特徴がある。北 欧の教会建築は、まず仰ぎ見るような外来文化として成立したのである。そして、宗教施設である とともに時の王権の意向に添い、宗教儀礼が国家統制の道具としても利用された。 ・ルンド大聖堂(1180~1145 頃)[スウェーデン] 最初の大聖堂建築はドイツからやって来た。12 世紀初頭に北欧管区がドイツからの分離を果たし、 当時はデンマーク領だったルンドに北欧初の大司教座が置かれた。今も残る大聖堂は、後世の修復 も一部あるが、北欧には少ない本格的なロマネスク様式である。ドイツ風の外観は砂岩を積み上げ た重厚な姿で、窓が少なくうす暗い内部には 14 世紀からの天文時計が動き続け、地下聖堂(クリプ ト)もよく残っている。<図Ⅰ-1-1> ・ロスキレ大聖堂(1170 頃~1280 頃)[デンマーク] -4- デンマーク王家ゆかりの地であるロスキレには、近隣の港町コペンハーゲンが発展する前からこ の一帯の司教座があった。デンマークで建設材としてレンガが利用され始めたのが 1170 年頃からと され、大聖堂はその最初期に建設された。階段状破風をもつ姿は北ドイツによく見られるゴシック 様式に近いが、一部平面構成にはフランスの影響も感じられる。近世ルネサンス期になって増築さ れた付属礼拝堂の内部も美しい。<図Ⅰ-1-2> ・ウプサラ大聖堂(1270 頃~1435)[スウェーデン] フランスから来た大聖堂の最良の例と言えるもの。ウプサラは異教時代からのスウェーデンの中 心地であった。王国の成立後にここが大司教座となり、大聖堂も建設された。現在のものは初代が 焼失後に、場所移転して再建されたもので、パリから工匠 E.ド・ボンヌイユが招かれたことが知られ ている。外観では高さ 118mの2つの大塔が周囲を圧していて、内部には本格的な周歩廊や放射状祭 室があり、大きなバラ窓のステンドグラスが輝く。北欧で最大規模のフランス・ゴシック様式の中世 大聖堂である。<図Ⅰ-1-3> ・トロンヘイム大聖堂(12 世紀後半~13 世紀)[ノルウェー] これはイギリスからの例である。ノルウェー西海岸はヴァイキング期以来、北海を渡る航路でイ ギリスと深い関係を持っている。古都トロンヘイム(旧名ニーダロス)にノルウェーの大司教座が 置かれることになり、大聖堂への拡張が行われたが、それを請け負ったのもイギリスの大聖堂の地 リンカーンからやってきた建設職人たちであった。西側正面はスクリーン型で、13 世紀後半の聖像 彫刻で埋め尽くされて圧巻である。内部東端部の八角堂や大胆な形の内陣障壁にも、初期イギリス・ ゴシック様式の香りがあふれている。<図Ⅰ-1-4> ・カルンボー大聖堂(13 世紀前半?)[デンマーク] 来歴不明の変わり者とでも言えそうなのが、デンマーク・シェラン島西部カルンボーに作られた大 聖堂である。レンガ造主体だが一部に花崗岩も使用され、いわゆるギリシア十字型と呼ばれる4本 の同長の腕が伸びる集中形式の平面で、中央部と腕の上に計5つの大きな塔が載った印象的な姿を もつ。地方レベルの大聖堂ゆえ資料が少なく、建設年代も確定はできない。来歴はさらに曖昧模糊 としており、様式面からビザンティン様式のギリシア、施工面から北イタリア・ロンバルディア地方、 構造技術面からフランスやベルギーとのつながりなどが推測されている。こんな大聖堂も中世の北 欧に届いていたのである。<図Ⅰ-1-5> <図Ⅰ-1-1> <図Ⅰ-1-1> <図Ⅰ-1-2> <図Ⅰ-1-3> <図Ⅰ-1-4> <図Ⅰ-1-5> -5- 2-村の教会:地域のランドスケープと一体化した存在 同じキリスト教会でも、大聖堂と異なったタイプのものもある。地元で得られる建設材を使い、 土着の構法で建設され、地方の風土の中に溶け込むようにして立っている小さな教会群である。都 市の大聖堂のような大建築ではなく、王権と一体化した国家的儀式の場にもならないが、それぞれ の村で日々暮らす人々の心の拠りどころのような存在であることが多い。北欧には、こうした面で 役割を果たしている教会も多いのである。 ・スターヴ教会 [ノルウェー] ノルウェーのソグネ・フィヨルドを中心とした内陸部の一帯に、特異な価値をもつ建築遺産がある。 約 30 の例が現存している中世初期の木造建築のスターヴ教会である。ログハウスとは異なった構法・ 屋根架構、随所のドラゴン飾りや組紐文様などは、キリスト教以前のヴァイキングたちの建設・造船 技術あるいは装飾感覚から受け継いだ要素が強く感じられる。険しいフィヨルド地形の中に、ター ルをかぶった黒々とした姿でヴァイキングの小墳墓などと並び立っているスターヴ教会は、北欧文 化すべての原点のような強い印象を残す。ボルグンの教会の例を挙げる。<図Ⅰ-1-6> ・階段状破風をもつ教会 [デンマーク] 北欧の国々としては比較的珍しく、デンマークの特にシェラン島やフューン島には、よく人の手 の入った豊かな田園が広がっている。そうした中で、一面に広がる麦畑の向こうに小さな教会が静 かに建っているのを目にすることがある。オランダや北ドイツの地方都市などで見る階段状の破風 を立てたレンガ造の商家がもとになっているが、デンマークの農村ではそれが例外なくスタッコ(化 粧漆喰)で白く塗られて、村の教会としての役割を与えられているのである。デンマークでしか見ら れない心休まるようなランドスケープとも言えよう。シェラン島キナートフテの教会の例を挙げる。 <図Ⅰ-1-7> ・素朴な花崗岩の教会 [スウェーデン・フィンランド] 中央スウェーデンから南フィンランドのバルト海沿岸一帯は、地質学上でバルト楯状地と呼ばれ る花崗岩の岩盤から成りたっている。中世にはこの固い石をきれいな切石とする技術が広まってい なかったこともあって、石を単純に割って積み上げて大きな切妻屋根をかけただけの地方教会が作 られた。しかし、その素朴な姿こそが大きな空の下で印象的なシルエットを作り、大地を支える岩 盤とともに存在感ある教会として地域のシンボルとなっているのである。フィンランド・テュルヴ ァーの教会の例を挙げる。<図Ⅰ-1-8> ・近世のログ構法の木造教会 [フィンランドなど] 近世以降のフィンランドなどでは、花崗岩よりも豊富に使える木材を生かして、地域ごとに活動 していた棟梁たちによって、森と湖の風景の中に見え隠れしつつ、多くの教会建築が作り上げられ ていった。棟梁たちの技術水準は高く、ログハウスの構法を使いながら比較的大規模な教会も実現 できる“箱柱”という技術を生み出したりもした。それらは森に埋もれるように、あるいは水辺に -6- 佇むようにして立ち、乗り合いの教会ボートで毎週礼拝に通う人々の生活に、自然な潤いをもたら していた。フィンランド・ピヒラヤヴェシの教会の例を挙げる。<図Ⅰ-1-9> <図Ⅰ-1-7> <図Ⅰ-1-6> <図Ⅰ-1-8> <図Ⅰ-1-9> 3-「ヨーロッパ性」と「風土性」から捉える北欧の建築 中世や近世の北欧の教会は、ヨーロッパの建築様式を映した文化遺産として理解できるタイプが 残されている一方で、地域の風土の中に立って人々の日々の生活を支える役割をもつタイプも多か った。ヨーロッパ文化と独特の距離感があり、一方で風土とのつながりを常に無視できないのが、 近代以前の北欧の建築なのだと言えよう。そうした事情は、近代化を達成したあとの北欧にも、一 定の留保をつけながら適用できるはずなのである。 第2節 周辺国型の建築近代化とその役割 次いで提示する視点は「建築近代化」である。北欧およびフィンランドの建築へのアプローチに 重要なのは、特に「周辺国型」の近代建築運動の出発点を見定めることである。。 1-西暦 1900 年の建築の豊かさと広がり 「近代建築」という表現は、意味が一通りではない。社会全般の近代の幕開けに合わせて、18・19 世紀の産業革命や市民革命以後の建築をさすこともある。ここではひとつの慣例に従って、20 世紀 のモダニズム建築を「近代建築」の到達点と考えておく。そこへ至る道程のひとつとして、「初期近代 建築運動」がある。 「初期」の具体的なイメージをつかむために、主にヨーロッパの西暦 1900 年とその前後 10 年間ほ どの期間に作られた建築を見渡してみると、まさに多様であることに気づかされる。従来の歴史的 様式の遵守にこだわらず、また地域ごとの固有性も容認されていて、それらにそれぞれの名称が与 えられている。これらをひとつにまとめて呼ぶのにふさわしい統一的名称はない。その事実自体が、 -7- 初期近代建築の大きな特徴を示していると言えるのだが、ここではとりあえず、もっともポピュラ ーな用語を援用して「アール・ヌーヴォー」期の建築と括っておく。 この時期の建築には、人々の記憶に残り、愛され続けている名建築が少なくない。「アール・ヌー ヴォー」の発祥の地パリ(フランス)では、建築家ギマールが活躍し、今ではこの都市の華やぎに欠か せない一連の地下鉄駅入口(1899~1900)<図Ⅰ-1-10>や、外壁や門扉が美しいカステル・ベランジ ェ(1897~98)など都市住居群を実現させた。ブリュッセル(ベルギー)では、建築家オルタがタッセ ル邸(1892~93)や自邸(1898)の内部<図Ⅰ-1-11>で、絡まりあった蔓草のような鋳鉄製の手すり を生かして見事な階段室を作り上げた。ドイツ語圏諸国では「ユーゲント・シュティル」が盛んとなり、 なかでもウィーン(オーストリア)の「ゼツェッション(分離派)」運動は音楽や美術とも連動した総合 的文化運動となった。建築家オルブリッヒ設計のゼツェッション館(1897~98)<図Ⅰ-1-12>がそ のシンボルとなり、中心的な建築家 O.ワーグナーによるウィーン郵便貯金局(1904~06)<図Ⅰ-1 -13>の2重ガラス天井下の空間は、近代建築への道を直接切り拓いたとも評される。 視野をさらに広げると、ヨーロッパ周辺地域の国々でも、注目される作品がこの頃続々と誕生し ていた。イギリス・スコットランドでは、「グラスゴー派」に属する建築家マッキントッシュが登場し、 グラスゴー美術学校(1896~1908)<図Ⅰ-1-14>やウィロー・ティールーム(1903)で建築家固有の 繊細さとスコットランドの地方色がない交ぜになった作品を残した。スペイン・カタロニア地方では バルセロナを中心に建築家ガウディが活躍し、今も建設が続くサグラダ・ファミリア教会(1882~ ) <図Ⅰ-1-15>をはじめ、強烈な造形力を示す作品群を残した。彼の周辺では、「モデルニスモ」に 属する他の建築家たちも活動していた。さらに、当時はオーストリアとの二重帝国下にあったハン ガリーには、とりわけ大きな建築家レヒネルの存在があり、彼のブダペスト郵便貯金局(1901)<図 Ⅰ-1-16>はウィーンのそれと好対照をなし、土俗的ともいえる特異な生命感にあふれている。彼 に続く建築家たちは、「トランシルヴァニア派」と呼ばれる民族色の濃い建築を志向した。北欧やバ ルト3国には、「ナショナル・ロマンティシズム」と呼ばれる重厚さの中に民族性や風土性を感じさせ る建築が作られた。スウェーデンの建築家エストベリによるストックホルム市庁舎(1906~23)<図 Ⅰ-1-17>、フィンランドの建築家サーリネンによるヘルシンキ駅(1904~14)<図Ⅰ-1-18>など に代表されるが、バルト海対岸のラトヴィアでも、著名な映画監督の父にあたる建設工匠エイゼン シュテインによって、華やかな装飾にあふれた都市住居群(1901~06 頃)がリガの町を飾った。 <図Ⅰ-1-10> <図Ⅰ-1-11> <図Ⅰ-1-12> <図Ⅰ-1-13> -8- <図Ⅰ-1-14> <図Ⅰ-1-16> <図Ⅰ-1-15> <図Ⅰ-1-17> <図Ⅰ-1-18> 2-都市のストックとして重要な建築群 ストックとしての視点からアール・ヌーヴォー期の建築を捉えてみると、ヨーロッパ中心部に近い 国々では、すでに成熟した都市の存在が前提となっており、この時期には比較的外縁部に近い地区 に中層住居群が建設されて、都市にさらなる厚みをもたらした。一方の周辺地域の国々の場合は、 アール・ヌーヴォー期がちょうど都市拡大やインフラ整備の時期にぶつかり、さらに列強の圧力に対 抗するために自らの民族性を表象するような建築を求める世情も加わって、都市中枢の公共建築が 重要テーマとなっていたことがわかる。建築表現の面でも幅があり、アール・ヌーヴォーに代表され るような繊細で流麗な表現が際立つ軽いタイプの建築の一方で、ナショナル・ロマンティシズムのよ うに建設材の選択にこだわり、建築の存在感を誇示するような重いタイプの建築も見られる。 この時期の建築が都市のストックとして果たしている役割は、現代都市のあり方を考える上でも 見過ごせないポイントであろう。たとえばその後のモダニズム期の建築が、無装飾のコンクリート 打ち放しなどの単一的で強い建築表現をとっている分、現在の都市中心部では古びて見えてしまっ たり、建て替えを迫られていることも多いのに対し、アール・ヌーヴォー期の建築は都市になじみ、 その個々の個性が豊かに町を彩っている。現代に確実に役立っている建築ストックであり、同時に 今後都市景観の再生を図るときに必ず生かされるべき貴重な財産だともいえよう。 -9- 3-近代建築運動全体の中で果たした役割 アール・ヌーヴォー期の建築では、構造・生産技術や空間・様式の面での進歩性は必ずしも強調され ない。それでもこれらは、近代への歩みを確実に印しているのである。 同じ視点から重要な先例と言えるのは、19 世紀半ばにイギリスで登場したアーツ・アンド・クラフ ツ運動であろう。人間の「生活」に基準を置いて、産業革命の進む社会での真実を捉えなおすことを めざした。中世の時代をモデルに、手作りのぬくもりを見直し、生活の全体を統一的にデザインす ることで、機械文明の前で失われつつあった人間の主体性を取り戻そうとしたのである。社会改革 家でありデザイナーでもあったW.モリスが、友人の建築家や職人らと共同で作り上げた自邸「赤い 家」(1859)は、そのシンボルとなった。ここで追求されたのは、「中世」に発して「近代」にも通用する 生活と建築像である。技術や様式面を超えた判断基準が、ここに存在していることがわかる。 20 世紀初頭のアール・ヌーヴォー期は、中世色を薄めることで、この考え方がより一般化され、ヨ ーロッパ社会に広く浸透したのだと言えよう。産業革命後の巨大な「社会」の前で、小さな人間の「個 人」のライフスタイルを再構築することが、近代として出発するための必要条件となったのである。 加えて、そうした「中央」の動きが延長され、「周辺」の建築にも広がったのがこの時期のヨーロッパ であった。「周辺」は「中央」から一定の原理を学びつつも、それを独自の多様な方法で展開してしま う自意識と潜在能力をすでに有していた。列強の圧力に抗して、みずからの国や民族の存在を、そ れぞれに強く主張したのである。 そして気づくのは、この「中央」対「周辺」の関係は、すでに述べた「社会」対「個人」のそれを少し置 き換えたものにすぎず、結局両者は同質の構図だという点である。言い換えれば、建築を通じて自 己のアイデンティティを確立することこそが、国・地域性や表現面での違いを超えて共通していたこ の時期のテーマであった。ここに、アール・ヌーヴォー期が「初期近代建築運動」として位置づけられ る所以がある。近代化をめざすための最初の手続きとして、建築手法の自由化を背景に自己意識を 確立し主張することが、まず必要とされたと言えよう。 もちろん、アール・ヌーヴォー期の建築は近代への道程の一部に過ぎない。次の時期となると、 解き放たれていた多くの糸は再びひとつにより合わされて、 「モダニズム」という理念に収斂してゆ く傾向が強まってくる。各国ごとの多様性を強調するのではなく、共通の近代という普遍的な理想 をめざして「盛期近代建築運動」が展開されるのである。 第3節 フィンランド建築近代化の事例 本論考で重要なのは、フィンランド建築の 19 世紀初頭から 20 世紀前半まで(新古典主義からモ ダニズムまで)のやや長いスパンを、近代化へ向かう動きとして具体的に跡づけてみることであろ う。まず、当時の社会情勢も含めた年表を用いて大きな流れを押さえた上で、さらに時期ごとの建 築思潮をそれぞれに描き出してみる。 1-関連年表 (※建築作品の年代は基本的に完成年を示す) - 10 - <新古典主義期> 1809:フィンランドがスウェーデンからロシアへ割譲される 1810:ヘルシンキ人口 4,065 1812:ヘルシンキを首都化 1816:ドイツ人建築家エンゲルのヘルシンキ招聘 ヘルシンキの都市計画(1817, J.A.Ehrenström) 1818:エンゲルが首都中枢セナーティ広場の計画に着手(本人死後 1852 年に建設完了) ヘルシンキ市庁舎(1819, Carl Ludvig Engel) 1820:ヘルシンキ人口 7,719 セナーティ(政庁舎) (1822, Carl Ludvig Engel) 1824:エンゲルが国家建設行政庁の長官に就任(1840 年まで) 1830:ヘルシンキ人口 12,139 ヘルシンキ大学本館(1832)及び図書館(1840, ともに Carl Ludvig Engel,) ヘルシンキの都市計画(1838, Carl Ludvig Engel) 1840:ヘルシンキ人口 18,176 アラヤルヴィの教会(1842, C.L.Engel + Jaakko Kuorikoski) サーリヤルヴィの教会(1849, C.L.Engel + Jaakko Kuorikoski) 1849:民族的叙事詩「カレワラ」刊行 1850:ヘルシンキ人口 20,745 ヘルシンキ大聖堂(1852, C.L.Engel+E.B.Lohrmann) <折衷主義期> 1860:ヘルシンキ人口 22,228 1862:国内初の鉄道開通(ヘルシンキ=ハメーンリンナ間) 1863:ヘルシンキ工学実業学校で建築教育の開始 1870:ヘルシンキ人口 28,519 1872:改組によりフィンランド・ポリテクニック設立(建築教育の本格化) 1872:初の民間の個人設計事務所の成立(Th.ヘイエル設計事務所) 1876:国内初の工業博覧会の開催 1876:ヘルシンキで電気・水道の供給開始 1880:ヘルシンキ人口 41,760 グレンクヴィスト商業ビル(1883, Carl Theodor Höijer) 国立美術館アテネウム(1887, Carl Theodor Höijer) 1888:乗合馬車によるヘルシンキ市内交通網の開通 ヘルシンキのマーケット・ホール(1889, Gustaf Nyström) 1890:ヘルシンキ人口 61,530 議員会館(1891, Gustaf Nyström) <ナショナル・ロマンティシズム期> 1892:分離により建築家クラブ設立(フィンランド建築家協会の前身) - 11 - 1894:建築家クラブ監理下で初の建築設計競技(トゥルクのミカエル教会) 1894:古代遺物協会によるカレリア地方の民俗と木造建築調査(1900 年以降に報告書刊行) アトリエ兼住居カレラ(1895, Akseli Gallen-Kallela) 1896:ゲセリウス・リンドグレン・サーリネン設計事務所の設立 1898:初の地区計画設計競技を実施(ヘルシンキ・テーレ地区) 1899:第一次ロシア化政策によるフィンランドに対する政治弾圧強化(1905 年まで) 1899:交響詩「フィンランディア」 (J.シベリウス作曲)の初演 1900:ヘルシンキ人口 93,576(1903 年に 10 万人突破) 1900:パリ万国博に独立した展示館で参加 パリ万国博フィンランド館(1900, H.Gesellius+A.Lindgren+E.Saarinen) 1901:ヘルシンキで市電開通 ポホヨラ保険会社(1901, H.Gesellius+A.Lindgren+E.Saarinen) 国立劇場(1902, Onni Tarjanne) 1903:工学協会誌からの分離により「建築家」誌の創刊(建築家協会機関誌) タカハルユのサナトリウム(1903, Onni Tarjanne) 1904:ヘルシンキ駅設計競技の結果をめぐる論争 (合理主義建築家フロステルスらのサーリネン案批判) ヘルシンキ・カタヤノッカ住宅地区(計画:1902、建設:1903-04 他) アトリエ兼住居ヴィトレスク(1904, H.Gesellius+A.Lindgren+E.Saarinen) 住居アイノラ(1904, Lars Sonck) ヴァルパイスヤルヴィの教会(1904, Josef Stenbäck) 1905:ゲセリウス・リンドグレン・サーリネン設計事務所の解散 1905:再編によりフィンランド建設工匠協会の設立(都市型住居の大量供給を担った職能) 1905:フィンランド全土でロシアに抵抗するゼネスト ヘルシンキ電話会社(1905, Lars Sonck) 1907:初の普通選挙制度による選挙を実施(婦人参政権を含む) 1907:ヘルシンキ都市計画局設立(初代責任建築家 B.ユング) 1907:初の鉄筋コンクリート建築(ヘルシンキのハムステルン商業ビル) タンペレ大聖堂(1907, Lars Sonck) 1908:第二次ロシア化政策により再び政治弾圧が強化(1917 年まで) ヘルシンキ・エイラ住宅地区(計画:1905/1908, Lars Sonck 他、建設:1910-13 他) 現ヘルシンキ・クロサーリ住宅地区(計画:1907/1909, Lars Sonck 他、建設:1912 他) 1910:ヘルシンキ人口 136,497 1910:ヘルシンキ中心部「シティー計画」の完成(駅前商業地区の整備) 1910:住宅改善協会の設立(労働者の住環境問題への対処) 国立博物館(1910, H.Gesellius+A.Lindgren+E.Saarinen) ヘルシンキ証券取引所(1911, Lars Sonck) ヘルシンキ都市基本計画(1911, Bertel Jung) - 12 - ヘルシンキ・カッリオ地区の教会(1912, Lars Sonck) スヴィラハティの発電所(1908/1913, Selim Lindqvist) 1914:第一次世界大戦の勃発 ヘルシンキ駅(1914, Eliel Saarinen) ヘルシンキ都市基本計画及びムンキニエミ=ハーガ地区計画(1915, Bertel Jung+E.Saarinen) ヘルシンキ都市基本計画(1918, Eliel Saarinen) <北欧古典主義期> 1917:ロシアからの独立宣言とそれに続く内戦(1918 年まで) ヘルシンキ・カピュラ住宅地区(計画:1918, Birger Brunila 他、建設:1920-25, Martti Välikangas) 1920:ヘルシンキ人口 160,921 1923:建築家サーリネンのアメリカ移住 ヘルシンキ・トリッケリンマキ住宅地区(建設:1926-28) 国会議事堂(1931, J.S.Siren) ヘルシンキ都市基本計画(1932, Berndt Aminoff) <モダニズム期> 1929:アールトが CIAM 第 2 回大会に参加(フィンランド人建築家として初) 1930:ヘルシンキ人口 219,842 1930:ストックホルム博覧会開催(建築家アスプルンドが北欧へモダニズム建築を本格導入) 1933:アールトの首都進出(自宅とアトリエをヘルシンキに移す) パイミオのサナトリウム(1933, Alvar Aalto) 1935:アルテック社の設立(アールトの家具の製造販売) 1935:P.E.ブロムシュテットによるヘルシンキ・テーレ湾岸地区整備計画の提案 (都市計画方針の分岐点) ヴィープリの図書館(1935, Alvar Aalto) 1936:ヘルシンキに初のモダニズム建築が出現(ガラス宮) ヘルシンキのガラス宮(1936, N.Kokko+V.Revell+H.Riihimäki) ナッキラの教会(1937, Erkki Huttunen) カンノンコスキの教会(1938, Pauli E.Blomstedt) スニラの製紙工場と労働者住居群(1938, Alvar Aalto) ニューヨーク万国博フィンランド館(1939, Alvar Aalto) 1939:ヘルシンキ人口 262,416 1939:ソ連との冬戦争(1940 年まで) マイレア邸(1939, Alvar Aalto) 1940:アールトが米 MIT 客員教授に招聘される(1948 年まで) ヘルシンキのオリンピック・スタジアム(1940, Y.Lindegren+T.Jäntti) 1941:ソ連との継続戦争(1944 年まで) トゥルク公共墓地の礼拝堂(1941, Erik Bryggman) 1944:北極圏ラップランド地方でドイツと交戦 - 13 - 2-フィンランド建築の近代化過程-全体見取り図 <近代化第1期> 新古典主義(19 世紀前半)…「ヨーロッパらしくなること」 ・首都化でヘルシンキが必要としたもの: 本格的なヨーロッパ都市の骨格(都市計画、重要公共建築群) ・「お雇い外国人」によるドイツ風新古典主義の導入(初めての本格的なヨーロッパの建築様式) ・建築家エンゲルの功罪:壮麗な首都の都市空間の実現/統制強化で失われた地方固有の建設伝統 <狭間の時代> 折衷主義(19 世紀後半) ・次第に浸透したヨーロッパ的都市空間 (産業革命、鉄道、博覧会、都市インフラ、商業建築) ・建築を取り巻く体制作りのスタート(建築教育、民間設計事務所) <近代化第2期> ナショナル・ロマンティシズム(世紀転換期) …「ヨーロッパらしくなくなること?」 ・弾圧の中で必要とされたもの: 民族的アイデンティティの強調(文化運動の隆盛、民族の過去への視線) ・建築家の活動環境の整備 (国内で建築教育を受けた世代の進出、建築家協会とその機関誌、設計競技制度) ・建築家たちの2つの取り組み:脱ヨーロッパをめざして? ① 森の中の理想的住まい:ヨーロッパ型都市文化からの自由 →モダニズムまで長く継承 ② 花崗岩の公共建築の存在感:ヨーロッパの歴史様式からの自由 →ヘルシンキ駅で変更 ・課題となった都市住環境 (建設工匠の役割、郊外住宅地計画、労働者住居問題、都市計画局と都市基本計画) <狭間の時代> 北欧古典主義(1920 年代) ・独立達成で新国家が必要としたもの:夢より現実に資する建築 (大量の住宅供給など) ・途切れなかった自然への親和感、木造建築の復権 <近代化第3期> モダニズム(1930 年代)…「フィンランドらしくなること」 ・ヨーロッパのモダニズムへの参加が促したもの: “フィンランド版”インターナショナル・スタイルの模索 ・フィンランド的モダニズムの登場を象徴する2つの事例 ① ヘルシンキ中心部テーレ湾岸の整備をめぐって: 都市中枢に水辺を残して生かす方向への姿勢転換 ② アールト作品の建築的性格の変遷: CIAM、アスプルンドの影響、近代産業との繋がり、自然との共生 - 14 - ※第3節に関わる参考文献(原史料以外では英語による研究文献を優先して掲げた) <原史料> ・S.Frosterus, G.Strengell, “Arkitektur”, Helsinki 1904. ・E.Saarinen, “Munkkiniemi-Haaga ja Suur-Helsinki”, Helsinki 1915. ・P.E.Blomstedt, ‘Asemakaavakysymyksiä Suur-Helsingin Keskustassa’, in “Arkkitehti(3/1937)”. <通史・建築思潮・他> ・N.E.Wickberg, “Finnish Architecture”, Helsinki 1959. ・R.Tuomi(Wäre), ‘On the Search for a National Style’, in “Abacus I”, Helsinki 1979. ・H.Lilius, R.Nikula, et al, “Suomen Kaupunkilaitoksen Historia I-III”, Vantaa 1981/83/84. ・I.Okkonen, A.Salokorpi, “Finnish Architecture in the 20th Century”, Jyväskylä 1985. ・J.B.Smith, “The Golden Age of Finnish Art / Art Nouveau and the National Spirit”, Helsinki 1985. ・H.Lilius, R.Wäre, M.Sundman, et al, “Rakennushallitus 175 vuotta”, Helsinki 1986. ・V.Helander, S.Rista, “Modern Architecture in Finland”, Helsinki 1987. ・P.Korvenmaa(ed.), “The Work of Architects / The Finnish Association of Architects 1892-1992”, Helsinki 1992. <都市ヘルシンキ> ・E.Suolahti, “Helsinki / A City in a Classic Style”, Helsinki 1973. ・N.E.Wickberg, “The Senate Square”, Rungsted Kyst 1981. ・M.Sundman, “Stages in the Growth of a Town / A Study of the Development of the Urban and Population Structure of Helsinki”, Helsinki 1982. ・M.Karjanoja, “Rinnastuksia Signe Branderin Kuviin Helsingistä”, Helsinki 1983. ・H.Lilius, “The Esplanade during the 19th Century”, Rungsted Kyst 1984. ・J.Moorhouse, M.Carapetian, et al, “Helsinki Jugendstil Architecture 1895-1915”, Helsinki 1987. <建築家モノグラフ> ・ E.M.Viljo, “Theodor Höijer / En Arkitekt under den Moderna Storstadsarkitekturens Genombrottstid i Finland från 1870 till Sekelskiftet”, Helsinki 1985. ・R.Nikula, “Armas Lindgren 1874-1929 architect”, Helsinki 1988. ・O.Lappo, K.Siren, et al, “J.S.Siren 1889-1961 architect”, Helsinki 1989. ・J.Sinisalo, H.Lilius, et al, “Carl Ludvig Engel 1778-1840”, Helsinki 1990. ・M.Hausen, K.Mikkola, A.-L.Amberg, et al, “Eliel Saarinen / Works in Finland 1896-1923”, Helsinki 1990. ・P.Korvenmaa, “Innovation versus Tradition / The Architect Lars Sonck Works and Projects 1900-1910”, Helsinki 1991. ・R.Nikula, et al, “Erik Bryggman 1891-1955 architect”, Helsinki 1991. ・T.Keinänen, et al, “Martti Välikangas 1893-1973 arkkitehti”, Helsinki 1993. - 15 - ・Göran Schildt, “Alvar Aalto / The Complete Catalogue of Architecture, Design and Art”, New York 1994. ・Elina Standertskjöld, “P.E.Blomstedt 1900-1935 arkkitehti”, Helsinki 1996. <伊藤によるもの> ・伊藤大介『アールトとフィンランド-北の風土と近代建築』(丸善)、1990 ・伊藤大介、越野武、入江正之、足立裕司、柳田良造、中渡憲彦 「建築の近代化過程に関する比較研究 -フィンランド・ハンガリー・スペイン・日本を対象として(指名論文)」、『北海道支部研究報告集 (No.64)』(pp.397-412)、1991 ・伊藤大介「サーリネンの初期活動における設計競技の役割」 、 『計画系論文集(No.480)』(pp.185-193)、 1996 ・伊藤大介「ヘルシンキにおける中層都市住居の需要と建設工匠の役割」 、 『計画系論文集(No.483)』 (pp.241- 249)、1996 ・伊藤大介「ヘルシンキ-都市と建築の系譜」、『ヘルシンキ/森と生きる都市』(市ヶ谷出版) (pp.26-61)、1997 ・伊藤大介 「アールト作品の軌跡-フィンランドという舞台/地方という舞台」、『アルヴァー・アールト 1898-1976/20 世紀モダニズムの人間主義』(セゾン美術館)(pp.23-26)、1998 ・伊藤大介 『フィンランドのナショナル・ロマンティシズムに基づく住宅地計画に関する歴史的研究』(平成 10-11 年度科学研究費補助金研究成果報告書)、2000 第2章 第1節 20 世紀の建築と都市の全体像 北欧全体を視野に入れた 20 世紀建築の推移 ここでは、本論考の主題である 20 世紀の建築について、まず北欧全体の大きな概観を試みる。そ の上で、次節以降でフィンランドへと対象を絞り込む。 1-北欧近代建築と「過去」のつながり ヨーロッパの建築を歴史の流れを遡って辿るとき、どこに現代へとつながる出発点があるのだろ か? 1920 年代頃から始まるモダニズム以降を考えるだけでは物足りず、少なくとも 20 世紀初頭 のアール・ヌーヴォー期までは視野に入れておきたい。なぜなら、この時期に各国はそれぞれの建 築表現を得て、いわばヨーロッパとしての再出発をするからである。その背景には、社会を動かす - 16 - 力をもつようになった一般市民たちの自己表現の欲求、つまりアイデンティティ模索のエネルギー があった。アール・ヌーヴォー建築と言えば、植物のつる草のような曲線表現や様々な素材の混用に よるカラフルさが典型的なイメージかもしれない。しかしむしろ、各国・各地域の多様性にこそ、本 当の特徴がある。実は、建築の名称も多様だった。フランス・ベルギーなどの「アール・ヌーヴォー」 のほかに、ドイツ系では「ユーゲントシュティル」が一般的で、中でもウィーンなどいくつかの都市 では「ゼツェッション(分離派)」という名の芸術運動として知られていた。 北欧建築の場合も例外ではなく、ヨーロッパ各国と並行して、20 世紀を迎える頃から建築のアイ デンティティが模索される。しかし方向性がやや違っていたことで、独自性も育むことができた点 を見落としてはならない。フランスやドイツなどの国々では、その模索とは過去 (具体的には、数 百年来続いてきた古典主義の歴史的建築様式という重い足かせがあった) を断ち切り、建築を革新 する意識に支えられたものであった。ところが、北欧では逆に自国の過去、それも庶民の生活やそ れを支えてきた自然環境を参照し、それを新しい時代に生かそうという姿勢が貫かれた。その結果、 北欧で追求されたアイデンティティは、市民個人というよりも、民族全体あるいは社会そのものの アイデンティティとなった。19 世紀を通じてヨーロッパの片隅で、いわば二流のヨーロッパに甘ん じてきた北欧では、まずこの大きなアイデンティティを確立して、一流の北欧としての歩みを始め なければ、本当の意味での再出発とは言えなかったのである。20 世紀初頭の北欧で主流となったこ の考え方を、「ナショナル・ロマンティシズム」という。 少なくとも建築の分野では、この「ナショナル」が狭量で排他的な民族主義を意味せず、正反対の 柔軟性をもっていたことは重要なポイントである。確かに、民族の力強さを表現するために重苦し いような造形を見せる建築もあるが、ある時は生活感や自然との一体感が暖かみや優しさを表現し、 また場合によっては他国の進歩に学ぶことがナショナルな建築のあるべき姿とさえ解釈された。自 国の過去を中心としつつも、様々な要素を取り入れる。そして最終目標は、あくまでも新たなアイ デンティティの「北欧らしさ」の創造に置かれていたのである。こうしてみると、ナショナル・ロマン ティシズムは、ひとつの時期に固有のものというよりも、20 世紀から現代に至るまで、常に北欧人 とその建築の背景に潜んでいる発想だといえよう。これがあったために、1930 年代からのモダニズ ム期にも、北欧は新しい国際的な理念を積極的に吸収しつつも、どこかに北欧らしさを残した建築 を築いてゆくことができた。それが、今日再評価されている「スカンディナヴィア・モダン」として結 実したのである。 2-ナショナル・ロマンティシズム建築の展開 1890 年代から第一次大戦開始までの時期の北欧を風靡したのが、(本来の狭い意味での)ナショナ ル・ロマンティシズム建築である。過去とのつながりを意識して、生活への視点や自然との関わりを 深めた住宅が登場する一方で、民族のあり方が問われるために、公共建築も大きなテーマとなった。 スウェーデン人画家カール・ラーション(1853~1919)がダーラナ地方スンドボーンに建てて家族 とともに移り住んだ住宅「リラ・ヒュットネース」(1889~1901)<図Ⅰ-2-1>は、農村での日常の中 から本当の生活を取り戻そうとした近代芸術家の行動が、スウェーデン人の広い共感を呼んで、今 でも訪れる人が絶えない。建築としても、ヨーロッパから北欧へとスタンスを移したライフスタイ ルをそのまま表した、格式にこだわらない愛らしいインテリアが、北欧インテリアの原点のような - 17 - 意味合いをもっている。それに対して、フィンランドのゲセリウス・リンドグレン・サーリネン設計 事務所の3人の建築家がそれぞれの家族とともに暮らした森の住まい「ヴィトレスク」(1902~04)< 図Ⅰ-2-2>もすばらしい住環境という点で共通するが、ヘルシンキへ向かう鉄道を利用できる立 地が選ばれ、市民の郊外居住への道を開く先例ともなっている。 公共建築としては、デンマークのコペンハーゲン市庁舎(M.ニーロップ/1892~1905)<図Ⅰ-23>が最初の大作ということになろう。市民社会のシンボルとしての市庁舎は、以後のナショナル・ ロマンティシズム建築の重要テーマとなった。一方、コーレ・クリントの父 P.V イェンセン=クリン ト(1853~1930)によるグルントヴィ記念教会(1921~40)<図Ⅰ-2-4>は、パイプオルガンのよう なファサードからヨーロッパの表現主義建築に分類されることもあるが、設計過程を見ればこれが まさにナショナル・ロマンティシズム建築であることがわかる。デンマーク固有の階段破風をもつ村 の古い教会(シェラン島西部のキナートフテやゲルレウなど/15 世紀頃完成)を下敷きに、オーデン セのフレーデンス教会(1916~20)での経験を踏まえ、さらにイェンセン=クリントがリ・デザインし た成果がグルントヴィ記念教会であった。 スウェーデンのナショナル・ロマンティシズムを代表する建築家ラグナール・エストベリ(1866~ 1945)の手になるストックホルム市庁舎(1904~23)<前掲・図Ⅰ-1-17>は、ノーベル賞受賞パーテ ィーの会場となることでも知られる。湖面に塔の姿を映した佇まいは際立った存在感を示し、20 世 紀の名建築のひとつに数えられることも多い。ストックホルムでは、エンゲルブレクト教会(L.I.ヴ ァールマン/1906~14)<図Ⅰ-2-5>も挙げておこう。放物線アーチの架かった内部空間は、手作 りに近い完成度の高さに加えて、ほの暗さの中に神秘思想にでもつながりそうな濃密な空気が漂い、 独特の魅力を秘めている。 ノルウェーでは、ヴァイキング時代の過去が参照され、その装飾様式を取り入れたドラゴン・スタ イルが出現した。この様式はおもに住宅に適用されたが、オスロ郊外ホルメンコーレンのフログネ ルセテル・レストラン(H.ムンテ/1891)<図Ⅰ-2-6>のような大きな作例もある。まったく別の姿 だが、オスロ市庁舎(A.アーネベルグ+M.ポウルソン/1916~31)<図Ⅰ-2-7>も、やはりナショ ナル・ロマンティシズム建築に分類されている。 フィンランドの場合は、花崗岩の重い外壁に民族性が刻印されている。タンペレ大聖堂(1899~ 1907)と、ヘルシンキにある国立博物館(ゲセリウス・リンドグレン・サーリネン設計事務所/1901~ 10)<図Ⅰ-2-8>がその好例と言えよう。前者を設計した建築家ラーシュ・ソンク(1870~1956)は、 後者の中心だったエリエル・サーリネン(1873~1950)に比べると国外での知名度は低いが、石材を見 事に使いこなした建築の完成度の高さではむしろ上回る。しかし、新しい時代を切り拓く能力とい う点ではサーリネンの独壇場で、共同設計事務所を解散した後のヘルシンキ駅(1904~14)の計画で、 その力が遺憾なく発揮された。当初の設計競技当選案<図Ⅰ-2-9>は、国立博物館と同じ重い花 崗岩建築であったが、その後彼は北欧以外の動きにも目を向け、花崗岩の素材感を生かしながらも ウィーンのゼツェッション建築にも似た洗練された作品として完成させてみせた<前掲・図Ⅰ-1 -18>。 ただし、サーリネンのスケールの大きな構想力は、北欧の枠を越えていたようである。次第に国 内での仕事を減らし、シカゴ・トリビューン国際設計競技(1922)で2位になったのをきっかけにアメ リカに移住し、彼はそこでクランブルック芸術アカデミーの新しい教育の中心を担うことになる。 - 18 - やや遅れて 1930 年代後半には、ナチスに追われたドイツ人建築家の W.グロピウスや L.ミース・フ ァン・デル・ローエも渡米して、バウハウスに発するモダニズム教育をアメリカにもたらし、結局こ の2つの流れが、第二次大戦後のアメリカ・デザインの隆盛の基盤を築くことになった。技術力の進 歩や構想の新しさに目を向けつつ、人間的な要素も失わないクランブルック流の柔らかさが、一方 のバウハウス直系のモダニズムの鋭さを補完する役割を果たしたのである。このサーリネンに代表 されるように、いわば国際性と地域性の双方にゆるやかに結びつく性格は、ナショナル・ロマンティ シズムがあきらかに一部に有しているもので、ある意味ではこれこそがもっとも重要な部分なのだ と言えるかもしれない。 <図Ⅰ-2-1> <図Ⅰ-2-4> <図Ⅰ-2-7> <図Ⅰ-2-2> <図Ⅰ-2-5> <図Ⅰ-2-3> <図Ⅰ-2-6> <図Ⅰ-2-8> <図Ⅰ-2-9> 3-北欧古典主義を経てモダニズム建築へ 第一次大戦期から 1920 年代にかけての北欧建築は、北欧古典主義の時代と呼ばれる。20 世紀初 頭の社会の成長期は終わり、第一次大戦の戦中戦後の厳しい情勢の中で、整理された簡潔な構成と すっきりした表情をもっている建築が多い。その結果、この北欧古典主義は、確実に次のモダニズ ムへの橋渡しの役割を担ったのである。オーダーを用いた建築表現が復活した点では、1930 年代に ドイツに現われた古典主義建築にも似ているが、その性格は大きく異なる。ドイツの場合が、モダ - 19 - ニズムに対する反動でナチスドイツが推進した誇大妄想的な重々しい建築で、オーダーも権威づけ に利用されたのに対し、北欧でのオーダーの利用はむしろ建築を理性化し、静かに秩序立てる役割 を果たしたのである。 北欧古典主義の早い実現例として、デンマーク・フューン島の漁港フォーボーにある小さな個人美 術館(C.ペーターセン/1912~17)がある。町並みのスケール感に対応しつつもオーダーが凛とした 強さを示すファサードから中に入ると、美術館の展示室の連続が奥へと導いてくれる。それぞれの 部屋を落ち着きのある色調で塗り分けてゆくセンスは、デンマークの美術館に特有のもので、コー レ・クリントによる椅子も展示空間<図Ⅰ-2-10>の魅力を高めている。北欧古典主義の建築をもう ひとつ挙げておくなら、建築家エリック・グンナール・アスプルンド(1885~1940)によるストックホ ルム市立図書館(1918~27)<図Ⅰ-2-11>がよいだろう。 モダニズム建築は、建築家アスプルンドが会場計画を行ったストックホルム博覧会(1930)<図Ⅰ2-12>によって、初めて本格的に北欧にもたらされた。一般にモダニズム建築は、世界共通の建築 言語に基づいていると考えられやすいが、北欧に関しては、むしろここから本当の意味での個性が 発揮されてゆくと捉えた方がよい。なぜなら、北欧の建築が過去の否定ではなく継承によって発展 することを前提として考えてゆくと、彼らがもっとも親しんでいる過去の伝統は、飾ることの少な い質実な建築であり、これはまさにそのままモダニズムが主張する機能主義建築と大枠で重なり合 うものだったからである。北欧でもバウハウスなどが構築したモダニズム理念の影響は大きかった。 しかし、それを取り入れつつも、むしろ自分の体格に衣服を合わせるように自由に改変してしまう 余裕が、北欧にはあった。その結果として北欧モダニズム建築は、モダニズムが陥りやすい教条主 義的な堅苦しさに囚われることがなく、自由な表現を獲得できたのである。実際、ストックホルム 博覧会の会場では、広告塔や天蓋、旗やネオンサインといった付加的な構造物が重要な要素となっ て会場に生き生きとした活気を与え、また展示館の周辺には狭い路地のような空間が用意されて、 人間的なスケールへの配慮が示されていた。 北欧モダニズムにとって、その開始期にアスプルンドという存在があったことは、大きな幸運で あった。自然とのつながりを大切にする佇まい、異質な要素と対立せず融合してゆこうとする態度、 鋭い主張よりも気品ある優しさを優先する姿勢、ロマンティシズムで深く性格づけられたあり方、 などといった北欧モダニズムの様々な特徴は、ほとんどがすでにアスプルンド作品のうちに見出せ るのである。たとえば、イェーテボリ裁判所の増築(1934~37)<図Ⅰ-2-13>では、隣接する古い 様式建築のファサードとバランスをとりながらモダニズムの表現を行うという課題に、見事な解答 を提示してみせた。内部空間<図Ⅰ-2-14>では、木の感触とスリムな構造体が繊細に組み合わさ れ、「スウェディッシュ・グレイス(スウェーデン的優雅さ)」の実例となっている。また、ストックホ ルム郊外の森の墓地「スクークスチルコゴーデン」(1915~40)は、アスプルンドが若い頃から死の直 前まで取り組み続けた作品で、ユネスコ世界遺産にも指定された。初期の森の礼拝堂<図Ⅰ-2-15 >は、木立の中に埋もれるように小さく建ち、一方晩年の火葬場付近のランドスケープ<図Ⅰ-2-16 >は、遠い森のシルエットを背景に戸外の十字架が立つという、空と大地を相手とするようなスケ ールを持つ。そのどちらもが、人間の生と死と自然の関係をめぐる深い思いを、見る者の心に呼び 起こす。こうした作品の表現の幅に触れてみると、モダニズムが北欧にとっていかに適した建築で あったかを、あらためて感じずにはいられない。 - 20 - <図Ⅰ-2-10> <図Ⅰ-2-11> <図Ⅰ-2-13> <図Ⅰ-2-15> <図Ⅰ-2-12> <図Ⅰ-2-14> <図Ⅰ-2-16> 初期においてアスプルンドから強い影響を受けたが、その後に独自の道を切り拓いて北欧モダニ ズムの可能性を広げた建築家といえば、デンマークのアルネ・ヤコブセン(1902~71)と、フィンラン ドのアルヴァ・アールト(1898~1976)の名を挙げないわけにはいかないだろう。ヤコブセンは、コペ ンハーゲン北郊クランペンボーの海岸近くで、劇場やレストランも含んだベラヴィスタ住宅地(1932 ~37)<図Ⅰ-2-17>の開発を純白のモダニズムで手がけて、一躍注目を浴びる。アスプルンドへの 接近が特に感じられるのはオーフス市庁舎(1937~41)<図Ⅰ-2-18>で、ナショナル・ロマンティシ ズム以来の北欧の市庁舎建築のあり方を踏まえた上で、モダニズムの軽快さと柔らかさを持ち込ん でみせた。若いハンス・ヴェグナーがインテリアを担当していることでも知られる、多面的な魅力を もつヤコブセン戦前の代表作である。 アールトは、モダニズムの洗礼を受けてパイミオのサナトリウム(1929~33)<図Ⅰ-2-19/20>を 作り上げ、1930 年代後半からアスプルンドとの交友を経て、建築と自然の融合や空間の連続性のあ り方に独自の境地を開いた。マイレア邸(1938~39)<図Ⅰ-2-21~23>は彼の戦前の活動の頂点で、 木や石といった自然材の触感を巧みに生かした心地よい居住性が実現している。内部空間は多目的 - 21 - な複合性を志向しており、外部空間ともつながって流動的に展開してゆく。世界のモダニズム住宅 の中でも、とりわけ大きな魅力を秘めた名作だと言ってよい。一方、ほぼ同時期のニューヨーク万 博フィンランド館(1938~39)<図Ⅰ-2-24>では、「オーロラの壁」と呼ばれる、うねって倒れかか るような木のスクリーン壁が、アメリカの地で強く「フィンランド」を表現した。ただしこの時期の アールトは、企業労働者のための住宅地計画や、小規模住宅の標準化平面の研究などにも熱心に取 り組み、北欧の建築家らしいモダニズムの理想に基づく社会改革にも強い意欲を示していたことを 忘れてはならない。 アスプルンドの美点を受け継ぐ作品例として、フィンランドにあるトゥルク公共墓地の礼拝堂(E. ブリュッグマン/1938~41)もぜひ挙げておきたい。祭壇右側の開口部から差し込む光は季節・天候・ 時刻ごとに変化し、葬儀の空間に静かな表情の移ろいをもたらす。その空気は、アールト作品から は決して感じられない深いロマンティシズムを宿している。 <図Ⅰ-2-17> <図Ⅰ-2-20> <図Ⅰ-2-22> <図Ⅰ-2-18> <図Ⅰ-2-19> <図Ⅰ-2-21> <図Ⅰ-2-23> <図Ⅰ-2-24> - 22 - 4-黄金の 1950 年代と建築の「社会民主化」 第二次世界大戦では辛酸をなめた北欧各国だったが、その復興は早く、特に 1950 年代のデザイン 界の輝きは、戦後のヨーロッパ全体に明るい光を点し、アメリカにも大きな影響を与えた。建築分 野では戦中から戦後にかけて、ドイツに代わりアメリカが世界をリードするようになったが、北欧 はそのアメリカとも関係を保ちながら、同時に新しい形での北欧らしさを獲得してゆく。建築にお いても、1950 年代の北欧は黄金時代であった。 それを象徴したのは、建築家ヤコブセンの戦後の活動であろう。SASロイヤルホテル(1956-61) <図Ⅰ-2-25>は、歴史都市コペンハーゲンの中心部にアメリカ的、あるいはミース的ともいえる 姿で登場して物議をかもした。しかし、インテリア<図Ⅰ-2-26>も含めたホテルの総体をデザイ ンする過程で、ヤコブセンは建築の鋭い輪郭の内側に、柔らかな空間を入れ込む配慮をしている。 元来、成型合板や強化プラスティックを用いるヤコブセンの椅子デザインは、同じアメリカでもバ ウハウス系のミースよりも、クランブルック系のチャールズ・イームズやエーロ・サーリネンに近い。 すでに触れたとおり、そもそもこのクランブルック芸術アカデミーは、エリエル・サーリネン(エー ロの父)がアメリカにもたらした北欧センスを根底にもっていた。アメリカと北欧を融合させたSA Sロイヤルホテルは、今ではコペンハーゲンの戦後の顔としてすっかり定着している。 戦後のヤコブセンが作り上げた新しい潮流は、21 世紀の目で見ると、ことのほか大きな意味をも っていたように思われる。それは、北欧らしい優しさが自然との融合や木のぬくもりばかりでなく、 別の方法でも実現できることをはっきりと示してくれたからである。20 世紀「ミッドセンチュリー」 の再評価が北欧デザインにも及び、北欧らしさが若い世代にも受け入れられたのは、ヤコブセン作 品のようなシンプルで気持のよい「ポップさ」に、大きな理由があると考えるべきなのであろう。 1950 年代のデンマークでは、ヤコブセンばかりでなく、多くの新しい世代の建築家たちが、ミー スに学ぶ一方で日本の伝統的住宅にも刺激された、機能的でシンプルなデザインの個人住宅をコペ ンハーゲン北郊などに作り上げた。グンログソン自邸(J.H.グンログソン/1958)、ケアホルム自邸(ハ ンナ・ケアホルム/1963)などが知られる。同じ頃に世界に喧伝されたデンマーク・デザインの家具や 照明の数々は、本来こうした住宅で使われてこそ最大限の真価を発揮する。シドニー・オペラハウス (1957~73)で世界的に知られた建築家ヨーン・ウッツォン(1918~2008)もこの世代の建築家で、60 戸のテラスハウスからなるキンゴー・ハウス(1958~-60)を作りあげた。また、ルイジアナ現代美術 館(J.ボー+V.ヴォリャート/1958~91)<図Ⅰ-2-27>も、これらの住宅とほぼ同列の建築として位 置づけられる。オーレスン海峡を見下ろす丘に配置され、現代美術を外光とともに鑑賞できる開放 的な展示空間は、ともすれば美術館につきまとう息苦しさとはまったく無縁である。 <図Ⅰ-2-25> <図Ⅰ-2-26> <図Ⅰ-2-27> - 23 - 1950 年代には、アメリカの MIT 客員教授からフィンランドに帰ったアールトも、別の形で充実 期を迎えていた。イマトラのヴオクセンニスカの教会(1956~58)、ロヴァニエミの図書館(1961~68) <図Ⅰ-2-28>などの作品は、自由な造形と有機的な空間、それに光の導入の巧みさなどの点で、 まったく他の追随を許さない天才の所産であろう。ただし、こうした建築の味わいや空間の奥行き と引き換えにアールトが失ったものは、モダニズムが求める建築の社会性だった。それもあってか、 戦後のフィンランド建築界の主流は、アールトの個人的傾向の強い作品とは一線を画すことになる。 若い世代を中心に、ル・コルビュジエに立ち返って理論を再構築し、それにフィンランド色を加える ことで、社会に還元できる、いわば社会民主的な建築をめざすようになってゆくのである。 そうした建築の代表例として、ヘルシンキ西郊の田園都市タピオラ(1952~89) <図Ⅰ-2-29>の 建設に結集した建築家たちによる一連の作品群があり、当時の日本にも広く紹介された。たとえば、 ヘイッキ・シレン(1918~2013)によるオタニエミ工科大学(現・アールト大学)キャンパス内の学生 村の礼拝堂(1956~57)は、簡素な構造の小品ながら、林に埋もれて戸外に立つ十字架をガラス越し に礼拝する方法が新鮮で、広く知られることになった。そうした中で、建築家レイマ・ピエティラ (1923~93)だけは、同じ立脚点から出発しながらも、丘の上のシルエットが際立って美しいタンペ レのカレヴァ教会(1964~66)などを経て、次第に独自の生物形態学に基づいた不規則な建築の構築 に向かった。 スウェーデンでは、戦前からモダニズムを先導してきた建築家スヴェン・マルケリウス(1889~ 1972)が 1952 年に立案したストックホルム都市基本計画に基づき、ニュータウンのヴェリングビー (1952~54)とファシュタ(1953~61)が郊外に建設される。戦後のこの国の建築は、社会発展に役立 つことを第一義とする姿勢がはっきりしている。1970 年代に向けて、バリアフリーの建築と街づく り、あるいは新たなコミュニティー形成をめざすコレクティブ・ハウスなどの試みが、世界の先端を 切って行なわれてゆくことになる。 5-生活・自然から「環境」へと継承された北欧建築のテーマ 1970-80 年代の世界の建築が、歴史引用的で奇矯な表現のポスト・モダニズムで沸き返っていたと きも、北欧ではこの動きはあまり深い刻印を残さなかった。モダニズムの受け入れ方が多様である 分、その可能性への信頼が厚く、北欧がめざす建築像は簡単に揺らぐことがない。この時期の建築 の実例をひとつだけ挙げるなら、フィンランドの建築家ユハ・レイヴィスカ(1936~ )によるヘルシ ンキ北郊のミュールマキの教会(1980~84)がよい。簡素な素材と単一的な構成、それに光の濃淡を 重視する処理によって、ポスト・モダニズム建築にはありえない清冽な空気で満たされた内部空間を 実現した作品である。 1990 年代以降の北欧は、IT化を進める一方で、エコロジカルで持続可能なライフスタイルを模 索しつつある。こうした社会の動きに、建築界が無関心でいるわけがない。ナショナル・ロマンティ シズム期から追求し続けてきた生活感の重視や自然との一体化は、今ではより広い意味の環境志向 型の建築を求める方向性へと、ごく自然に発展継承されている。また最近では、ヘルシンキの現代 美術館「キアズマ」(S.ホール/1993~98) <図Ⅰ-2-30>やストックホルムの建築博物館(R.モネオ /1995~98)のように、外国人有力建築家の作品が北欧で実現する機会も増えてきた。 北欧建築は、様々な時代を通じて変容を遂げつつ、しかもその基本的なあり方は決して崩れるこ - 24 - とがない。外からの大きな力に対して柔軟に対応しつつも、必ず守るべきものを内に持つ。それこ そが北欧建築の、時代を超えた強さなのである。 <図Ⅰ-2-30> <図Ⅰ-2-28> 第2節 <図Ⅰ-2-29> 20 世紀前半のフィンランドの都市と建築:ヘルシンキを中心に 次いで、北欧の中でもフィンランドに焦点を当てる。20 世紀前半(世紀転換期から第二次世界大 戦まで)の期間の動きを、特にフィンランドの特徴が集約されている首都ヘルシンキを中心に追う。 ここでは、建築ばかりでなく都市の成長や住環境の発展にも目を配りながら検証してゆこう。 1-世紀転換期:ナショナル・ロマンティシズムから郊外住宅地へ ・ユーゲント期と新しい世代の建築家たち 19 世紀前半の都市計画にも劣らぬほど大きな変化がヘルシンキの都市構造にもたらされたのは、 世紀末と第一次世界大戦に挟まれた 1895~1915 年頃のことだった。一般に「アール・ヌーヴォー」 、 フィンランドでは「ユーゲント」とも呼ばれる 20 年間ほどのこの期間に、ヘルシンキの都市中心部 ではナショナル・ロマンティシズムの剛直な花崗岩建築が要所に姿を現して存在を誇示し、住宅地区 には洒落た中層都市型住居が大量に建設されて市民たちの日常生活を彩った。さらには従来の街区 の外側に、単純なグリッドではない手法も取り入れた新しい住宅地区も開発されてゆく。そして、 この時期の最後に出現する郊外居住の試みは、20 世紀ヘルシンキの都市計画の全体的な方向性にも 関連のある、都市と自然の交流から生まれる住環境の萌芽だったのである。ユーゲント期はわずか 20 年間ながら、都市の歴史的発展の節目で非常に重要な役割を果たした時期だったといえよう。 こうした大きな展開を支えていた要因は、社会的にも経済的にもいろいろあるが、特にエリエル・ サーリネン(1873~1950)とラーシュ・ソンク(1870~1956)の2人に代表されるこの時期の建築 家たちの積極的な姿勢を無視してはなるまい。逆に言えば、ユーゲント期のフィンランドは、彼ら が本当の意味で活躍できる社会条件が初めて整えられた時期だったのである。まず建築家を生み出 すシステムについては、すでにフィンランドで 1863 年に開始されていた教育制度が、ポリテクニッ クへの改組などを経て 1885 年になって軌道に乗る。ユーゲント期に活躍を始めた建築家たちは、国 内で養成されたほぼ最初の世代だったといってよい。かつてヘルシンキの街づくりを担った建築家 - 25 - たちは、外国で建築を身につけた人々であった。次いで、建築家たちに仕事を提供するシステムと して、建築設計競技制度が確立されたことも大きかった。これ以前にも設計競技は一部行われたが、 建築家協会の前身である建築家クラブの管理下に置かれた本格的なものは 1894 年に初めて実施され、 当時まだ建築科学生だったソンクが当選するのである。ユーゲント期の建築は、こうした新しい建 築界の体制に支えられ、確実に若い世代の建築家たちを中心として展開されてゆく。彼らはまずポ リテクニックで専門教育を受け社会に出て、次いで数多く行われる設計競技に当選し、あるいは競 技の審査結果をめぐって議論することで、建築や都市を自力で変革していったのである。 ・街かどを飾ったナショナル・ロマンティシズム建築 こうして登場した建築家たちがヘルシンキでなしたことは、大きく捉えれば都市の近代を確立す るための様々な試みだったといえる。それは時代の風潮のなかで、みずからのアイデンティティを 強く主張するナショナル・ロマンティシズム建築へと結実してゆく。本来ナショナル・ロマンティシ ズムとは、19 世紀の北欧を風靡した社会思潮であった。同じ言語を用いる人々はひとつの民族をな しているのであり、民族は国家を形成することができるという考え方であり、北欧に民族的覚醒と 解放運動を生み出す原動力となった。そしてこれが世紀末になって、新しい民族文化の創造をめざ す運動へと展開したのである。特にフィンランドでは、画家アクセリ・ガッレン=カッレラ、作曲 家ジャン・シベリウス、そして建築家サーリネンの3人を軸とした文化運動がかつてなかったほど 大きな盛り上がりを見せ、しばしばフィンランド文化にとっての“黄金期”と評されている。 建築分野におけるナショナル・ロマンティシズムは、まず 1900 年パリ万国博フィンランド館で国 際的に注目されることで、幸運なスタートを切った。その後、フィンランド館を設計したゲセリウ ス・リンドグレン・サーリネン設計事務所を軸として多くの建築家が参加することで、ヘルシンキ 中心部にも強い主張が込められた建築が次第に実現してゆく。その明らかな特色は、石材による壁 面を強調することで重い存在感を漂わす表現にあった。1901~02 年頃に完成したポホヨラ保険会社 (ゲセリウス・リンドグレン・サーリネン設計事務所)や国立劇場(O.タルヤンネ設計)では、加 工技術上の問題から一部に柔らかい石材が使われているが、その後のヘルシンキ電話会社(L.ソン ク設計)や国立博物館(ゲセリウス・リンドグレン・サーリネン設計事務所)では、特に花崗岩を 使うことが大きな特徴となってくる。ナショナル・ロマンティシズム期には、固い花崗岩にフィン ランド民族が保持すべき強さを象徴させる発想があったのである。この方法によって、民族性にま つわる独特のかげりや深みが、本当に建築に刻印されたのかは判断が難しい。しかし実際、見事に 使いこなされたナショナル・ロマンティシズム建築の花崗岩壁面は、現在でも充実した質感を失っ ていない。さらに言えば、この方法で彼らは 19 世紀を通じて確立されてきたヨーロッパ的な顔をも つ都市ヘルシンキに、異を唱えることに成功している。明るいスタッコ塗りの整った様式表現をも つ新古典主義や折衷主義の建築に、暗くザラついた感触の重い花崗岩建築をぶつけることで、そこ に一種の軋みが生まれ、都市の表情に複雑さが付け加えられているのである。ただし、ヘルシンキ 中心部はすでに骨格が固まっており、花崗岩建築は都市構造自体に大きな変更を迫るようなものに はなりえなかった。 しかしながら、こうしたナショナル・ロマンティシズム建築の重さは、やはり近代をめさず都市 に本質的に適合せず、早晩変更を迫られることにならざるをえない。ヘルシンキでは、中央駅の設 - 26 - 計競技とその結果をめぐる論争が、転換のきっかけとなった。1904 年に実施された設計競技では、 すでに評価を確立していたゲセリウス・リンドグレン・サーリネン設計事務所が、従来どおりのナ ショナル・ロマンティシズム建築の案<前掲・図Ⅰ-2-9>で当選した。しかし、この競技に鉄骨と 軽量パネルによる応募案<図Ⅰ-2-31>で応募して落選した若い建築家 S.フロステルスに正面から 批判されたサーリネンは、批判を受け入れる形で実施案に向けて設計内容を大きく変更してゆくの である。ナショナル・ロマンティシズムの限界を実は自身がもっとも強く感じていたサーリネンは、 これを機会に共同設計事務所を解散して自由になり、ヨーロッパ各国をめぐって鉄道駅のあり方や RC構造技術などを学ぶ。そして最終的に 1919 年にオープンした中央駅<前掲・図Ⅰ-1-18>は、 あくまでも花崗岩の壁面は残しつつも平滑な扱いとして、内部架構に鉄筋コンクリートも用いられ て、全体としてウィーンのゼツェッションにも近いような明快な表現<図Ⅰ-2-32>となり、ヨー ロッパの駅舎建築の名作として知られるようになったのである。 サーリネンが大きく軌道修正し たことで、ナショナル・ロマンティシズム建築全体も、いわば後期の様相へと変わってゆく。たと えばソンクの設計で 1911 年に完成した証券取引所<図Ⅰ-2-33>では、外観には花崗岩が使われる が、内部に大きなガラス天井をもつアトリウムが登場してくる。一方サーリネン自身は、次第に建 築単体から住宅地や都市の全体構成へと関心を移してゆくのである。 <図Ⅰ-2-31> <図Ⅰ-2-32> <図Ⅰ-2-33> ・市民たちの求めた都市の住まい ここで、ヘルシンキ中心部から外へと目を転じよう。19 世紀の都市計画で街区が設定されて低層 木造の住宅群が建ち並んだ地区にも、中層レンガ造への建て替えの波が押し寄せていた。ユーゲン ト期を通じてヘルシンキの人口はほぼ3倍化し、1903 年に 10 万人に達した。特に、新たな都市的職 種といえるオフィスワークに従事する新興中産階級の人口は7倍化し、ようやく社会階級としての 力を身につけてきていた。彼らは、もはや 19 世紀の住民のように敷地内に家畜小屋や菜園は必要と せず、代わって新しい時代の雰囲気を盛り込んだ洒落た都市的な住まいを求めたのである。 “中産”のための“中層”は、ヨーロッパでは 19 世紀以来の典型的な都市住居のタイプであろう が、フィンランドではあまり先例のない課題であった。そして、これに取り組み新たなプロトタイ プをつくり出したのも、ナショナル・ロマンティシズムの花崗岩建築を生み出したのと同じユーゲ ント期の建築家たちであった。花崗岩のベースメントとプラスター塗りの壁面からなるユーゲント - 27 - の都市住居は、こうしてヘルシンキの住宅地区を埋め尽くしてゆくことになる。南港の東側に半島 になって突き出しているカタヤノッカ地区の西半分は、ユーゲント期に一気に開発され、しかも現 在にいたるまでほぼ当時のままに残されている住宅地区である。その他、やはり開発が遅かった南 のウッランリンナ地区の南端付近や、逆にヘルシンキでもっとも歴史の古いクルーヌンハカ地区の 北半分も、現在でもユーゲント期の住環境をよくとどめている一画になっている。 ただし、ユーゲントの都市住居が短期間で広がり得た要因としては、人数の限られた建築家に加 えて、工業専門学校卒の建設工匠(ラケンヌス・メスタリ)たちの力によるところも大きかったこと を忘れてはならない。彼らは、設計競技という手順を踏まないですむ中層都市住居の設計・建設を 仕事の中心に据え、建築家たちのデザインに学びながら、それを比較的安価で大量に建設しやすい 形に少しずつ変えていったのである。住居内部の平面構成などは、彼らの方が建築家よりもはるか に柔軟で、新たなコンパクトな間取りを作り上げて、多様化した新興中産階級の要求に応えている。 ユーゲント期を通じて、ヘルシンキの住宅建て替えはかなり進んだ。実際 1910 年の段階で、市内 の居住用部屋総数の 84.2%がレンガ造中層の中に作られていたとのデータがある。しかし、これは あくまでも中心部に近い既存市街地に限った数字だという点に注意しなければならない。都市外縁 部も含めれば、木造1階建て住居はだいぶ減ったとはいえ、同年でまだ 59%を占めていた。こうし た木造住居ではおもに労働者階級の人々の生活が営まれ、なかにはかなり劣悪な環境のものもあっ た。彼らの住環境の改善にも少しずつ目が向けられるようになり、1910 年から市の主導で労働者向 け木造住宅地区プー・ヴァッリラの建設が始まっているが、改善の動きが軌道に乗るのは第一次大 戦後のことである。 ・郊外への展開の萌芽 ユーゲント期には、個々の住居のデザインや形式の提案に加えて、街区自体の構成にもグリッド とは異なる新たな手法が導入された。まず、カミロ・ジッテの主張がおもに建築家ソンクの論文を 通じてフィンランドにも紹介され、不整形であっても生活感や安らぎが感じられるような街路風景 が再評価された。この考え方が一部適用された早い例として、1898~99 年に設計競技が行われたテ ーレ地区(現在の前テーレと後テーレの2地区)がある。しかし、完結した住宅地区としての環境 にこだわり、よりはっきりした形で成果をあげた例といえるのは、ヘルシンキの南のはずれに位置 するエイラ地区<図Ⅰ-2-34>であろう。1905 年にソンクら3人の建築家によって提案された計画 は、ジッテに加えてあきらかにイギリスの田園郊外住宅地の開発手法が取り入れられたものだった。 その後の過程で当初案どおりには実現されなかった点もあるが、ゆるやかにうねる道路に沿って、 おもに 1910 年代前半建設の2~3階建ての住宅が豊かな緑の中に見え隠れする環境は、やはりヘル シンキ市内でも特に恵まれている。エイラ地区は、地区構成手法の面から、ヘルシンキに郊外住宅 地開発への流れを作り出すきっかけのひとつとなったと評価することができよう。 エイラ地区とはまったく違った点から、やはり郊外的住環境への出発点となった動きも、ここで 指摘しておきたい。それは、みずからの本質を森の民と認識したナショナル・ロマンティシズムの 芸術家たちが、自然の中に求めた住まいである。これには、A.ガッレン=カッレラが中央フィンラン ド地方ルオヴェシ近くに 1894~95 年に建てたアトリエ兼用住居カレラという先駆例があったが、20 世紀に入る頃から他の芸術家たちも彼に続くのである。たとえば、ゲセリウス・リンドグレン・サ - 28 - ーリネン設計事務所の3人の建築家は、家族との生活と設計活動の両立できる環境を求めて、ヘル シンキから西へ約 24 ㎞離れた湖に近い森の中に、1901~03 年にヴィトレスク<前掲・図Ⅰ-2-2> を作って移り住んだ。 また、作曲家 J.シベリウスの場合は、友人の芸術家たちと自然の暮らしを 共有しようと、ヘルシンキの北方約 30 ㎞のトゥースラ湖東岸に、1904 年にソンクの設計でアイノラ を建てている。カレラの場合は、周囲から隔絶された本当の意味での原生林の住まいだったのに対 し、ヴィトレスクやアイノラの立地は、鉄道を利用すれば簡単にヘルシンキに出られるという条件 を満たしていた。豊かな自然を享受しながらも、同時に鉄道によって都市と結びつけられている点 で、これもまた郊外的住環境への一歩を記すものだったといってよい。一般に、都市外縁部に開発 される郊外は立地的には無性格なことが多いが、フィンランドの場合、固有の文化と深い関係をも つ森にその発祥をもつことができた。この点は、20 世紀を通じて都市と自然の交流を展開してゆく ヘルシンキにとって、大きな意味があることだったように思える。 ・サーリネンによる都市・住宅地計画 ここで再びサーリネンのユーゲント後期の活動に目をむけてみるなら、そこにはヘルシンキを都 市全体の視点から捉えてその未来を構想する建築家の姿を発見することができる。彼は 1910 年代初 めに中央駅周辺の整備計画に乗り出し、まず駅の向かい側ブロックの商業空間を活性化させる「シ ティー計画」を実施する。次いでカッリオ地区方面から鉄道広場に流入する交通量増加に対処する ために、19 世紀以来のグリッドを一部変更してカイサニエミ通りの建設と周辺開発も提案するので ある。<図Ⅰ-2-35> そしてこうした経験の後に、彼はユーゲント期の総決算ともいうべき大郊 外住宅地計画であるムンキニエミ=ハーガ計画<図Ⅰ-2-36>を 1915 年に発表するに至る。これは フィンランドで初めての本格的な郊外住宅地計画であったが、その内容と規模はむしろ田園都市の 建設計画ともいえる性格を備えていた。 この計画は、ヘルシンキの北西郊外のムンキニエミ地区とハーガ地区の計 861ha を、実業家 J.タ ルベリらとの共同事業として開発して、当時のヘルシンキ全体の人口に匹敵する 17 万人規模の郊外 住宅地をつくりあげようとする壮大な構想であった。出版された全 165 ページの計画書『ムンキニ エミ=ハーガ地区と大ヘルシンキ――都市建設の時代の研究と提案 』に示されているサーリネンの 立案上の姿勢は、非常に合理的なものである。まず計画の大前提として、形態上のデザイン理念な どに代わり、将来の人口動態や交通問題の予測が行われる。地区内部の構成に関しても、用途別に ヒエラルキーをつけた道路分類がなされ、地区も中心地区、ヴィラ地区、工場地区などに分けて社 会階層ごとの住み分けが提案される。そして最後には、個々の住居形式についても、具体的で詳細 な説明が加えられてゆく。 たとえば低層テラス・ハウスは、大きく中産階級用と労働者用に分けられ、さらに細かいヴァリ エーションとして 11 タイプが用意される。 サーリネンは区域ごとの適用タイプを指定するに留ま らず、各戸の内部平面まで指定してゆくのである。ムンキニエミ=ハーガ計画は、住居形式の提案 などにイギリスの田園郊外住宅地からの影響を示しつつ、フランス風の壮大な合理主義も一部に感 じさせ、全体としては田園都市の構想と言ってよい骨格を有したフィンランド初の大規模住宅地計 画となっている。結局計画はほとんど実現せずに終わったが、それでもこの計画の出現自体が、ヘ ルシンキにとっての近代的都市計画の本格的な出発点となったことは間違いがないだろう。 - 29 - ヘルシンキ全体を対象とした初めての都市基本計画は、ムンキニエミ=ハーガ計画が発表されるよ り早く、1911 年に初代都市計画担当建築家の B.ユングによって作成されていた。ムンキニエミ=ハ ーガ計画を都市の全体構造の一部として位置づけたサーリネンは、1915 年の都市基本計画にユング と協力する形で参画する。そしてこれがさらに、1918 年のサーリネンによる「大ヘルシンキ計画」 へと発展してゆくことになる。この計画は 1945 年の都市人口が最低でも 373,000 まで増大するとの 予測の上に立って作成され、現在のオタニエミ地区付近まで含む広い範囲を扱うものであった。計 画図では、ムンキニエミ=ハーガ地区以外にも独立的な性格をもつ郊外地区がいくつか設定されてい る点が目を引く。また中心部に関しては、将来にわたる交通問題への対処から、中央駅を約 3 ㎞北 の現・パシラ駅の位置まで移動することが提案されている。それに伴いテーレ湾は埋め立てられ、跡 地にはヘルシンキの新しい発展を象徴するかのような幅 90mの大きな直線道路が通り、その両側に は並木で飾られた華やかな商業空間が展開される未来図<図Ⅰ-2-37>が示された。目を見張るよ うな壮大さをもつ計画といえよう。 しかし、現実は厳しい状況を迎えつつあった。1914 年に第一次世界大戦が勃発し、1917 年にロシ アから独立したフィンランドは、その後数年は内戦も経験しなければならなかった。こうした中で ヘルシンキも、そのすべての発展予測を覆されてしまう。ユーゲント後期の数々の都市計画や住宅 地計画は、暗い時代に向かう中だからこそあえてなされた明るい夢の表明だったようにも見える。 <図Ⅰ-2-34> <図Ⅰ-2-35> <図Ⅰ-2-37> <図Ⅰ-2-36> 2-両大戦間期:モダニズムと都市の新たな模索 ・独立国の首都の街づくり 独立後の内戦という混乱を体験した後、ようやく新憲法に基づく共和国として再出発したフィン ランドは、1920 年代を通じて新たな国家建設という大きな課題に取り組む。ヘルシンキも、独立国 の首都という立場を初めて与えられることになった。ここではもはや、ユーゲント期のような成長 神話に支えられた壮大な夢を語る余裕はなく、より現実的に建設に取り組んでゆく個々の方法が問 われることになる。 この時期の数少ないモニュメンタルな建築の例として、建築家 J.S.シレンの設計によりヘルシン - 30 - キ中心部に出現した国会議事堂がある。マンネルヘイム通りに面して、大階段の上に簡略化され引 き伸ばされたプロポーションの 14 本のオーダーを並べ立てた花崗岩建築は、まさに新国家フィンラ ンドの堂々としたシンボルというにふさわしい。 1920 年代のフィンランド建築は、北欧古典主義と呼ばれる様式に基づいている。ただし、国会議 事堂のような建築の威厳を誇示する作品は例外的で、合理的に整理された構成に特徴があり、その 基本的性格はあくまでも簡素さを旨とするものであった。モダニズムが導入されるまでのわずかな 期間ながら、フィンランドの建設活動を確実に支えた様式である。北欧古典主義は、むしろ住宅建 設に適用されて最大の効果を発揮したといえる。たとえば、カッリオ地区東側のトルッケリンマキ の丘、ヴァッリラ地区のマケラ通り、それに前テーレ地区や後テーレ地区の多くの街区などに立つ 都市住居は、1920 年代に相次いで建設されたもので、壁面に装飾や凹凸の多いユーゲント期の都市 住居と比べて簡素さで際立っている。 さらに言えば、この様式は簡素さゆえに小規模な木造住宅にもよく似合い、構成原理の合理性と も相俟って、郊外住宅地区の開発に大きな役割を果たした。そのよい実例が、1920 年代の新生ヘル シンキのシンボルともいえるカピュラ地区<図Ⅰ-2-38/39>の開発であった。 これは、ヘルシン キ中心部から 5 ㎞ほどの北郊に、市当局によって 1920~25 年に建設された労働者用住宅地で、ビル エル・ブルーニラとオットー・I・メウルマンによるマスタープランに基づいて、マルッティ・ヴァ リカンガスが主にログ構造による2階建て住宅を設計した。短期間に低コストで建設することが要 求されたために、標準化されたデザインとプレファブ化された建設材料が大規模に利用された。た だし、玄関ポーティコ付近や窓まわりには、古典主義の白いオーダーや装飾要素が効果的に取り入 れられて、簡素な木造住宅を生き生きとさせるアクセントとなっている。さらに特徴的なのは、市 の造園アドバイザーが関わって作られた周辺環境の豊かさであろう。すべての住戸の扉は中庭や菜 園に直接つながっており、現在では木々も大きく育って心地よい木陰を作り、ヘルシンキでも類例 の少ないすばらしい住環境が実現しているのである。 <図Ⅰ-2-38> <図Ⅰ-2-39> カピュラが建設されるに至る過程では、労働者の住環境改善をめざす住宅改善協会の活動が市を 動かした。19 世紀以来の都市建設の歴史において、労働者階級の占める位置が初めて重要視される ようになった証だといえよう。一方、郊外開発の進展とともに、木造の復権もここで明らかになっ てきている。もはや木造の住環境は、ひたすらヨーロッパ風の街並みをめざした以前のヘルシンキ でのように、恥ずべき貧しさのシンボルではないのである。こうして、形式は簡素だが自然とのつ - 31 - ながりを重視する 20 世紀ヘルシンキの住環境形成の方向性がはっきりしてきた。ユーゲント期に芽 吹いた自然とともに住まう理想は、市当局に受け継がれて、よりはっきりした形をとってきている のである。 ・モダニズムの登場と“カンピ=テーレンラハティ”問題 北欧へのモダニズム建築の導入は、1930 年のストックホルム博覧会で建築家 G.アスプルンドが担 当した会場建築がきっかけとなった。北欧古典主義からモダニズムへの転換は、両者の間にさほど 大きな理念上の衝突もなく、当のアスプルンドがそうであったように、多くのフィンランド人建築 家にとっても基本的にはスムーズであった。 ヘルシンキ中心部に出現した最初のモダニズム建築は、マンネルヘイム通りが鉄道広場へと曲が る付近に 1936 年に完成した商業建築ガラス宮(ラシ・パラッツィ)である。大きなガラス面と白い 壁だけからなる軽快な建築のイメージは、新しい時代の到来を当時の市民に強く印象づけたはずで ある。 ここで、都市計画規模に視点を広げて、1920~30 年代のヘルシンキ中心部を概観してみると、ガ ラス宮が建設された周辺こそ、まさに新しい都市計画上の重要ポイントであったことがわかる。ガ ラス宮の位置から西へ広がるカンピ地区には、19 世紀以来長らく大きな兵舎群が立ち並んでいたが 1918 年の内戦時にほとんど焼失し、隣接する旧・閲兵場とともに利用の仕方が問題となっていた。 また、マンネルヘイム通りに沿って北へ広がっているテーレ湾とその周辺の扱いも、1918 年のサー リネンの「大ヘルシンキ計画」で提案された鉄道移転と湾埋め立てが実行されず、未解決のまま残 されていた。都市中心部にL字型に残されたこの広大なオープン・スペースの開発をめぐって、し ばしば“カンピ=テーレンラハティ(テーレ湾)”とまとめて呼ばれるヘルシンキの都市計画上の大 テーマが、この頃はっきり浮かび上がってきていたのである。 1923 年に作成された都市基本計画においては、駅はそのまま残しテーレ湾は埋め立てることが提 案された。これに従う形で、翌 1924 年にはカンピ=テーレンラハティ地区の設計競技も実施されて いる。その後も議論は続いたが、1932 年の都市基本計画でも、湾の埋め立て方針に変わりはなかっ た。ところが、ちょうどこの頃から、別の主張が頭をもたげてくる。それは、ビジネス上の必要に あわせて都市空間を拡大させてゆくだけの単純な都市の理解を越えて、むしろ新しい時代の生活を 支える都市のあるべき姿を考えようとする姿勢の出現であった。議論が、都市や建築の環境をめぐ る一種の美学の問題へと発展した点で、これは大変重要な転換点となったように思える。埋め立て 反対の急先鋒となったモダニズム建築家パウリ・ブロムステッドは、都市の価値がその“硬さ”か ら“柔らかさ”へと変わってきている状況を指摘した。彼は、19 世紀前半のエーレンストレムによ る運河計画にまで言及しつつ、自然は市民が利用できる形で残されねばならず、都心部にある静か な水辺の価値は今後 20 年以内に近代的生活の必需品となるだろうとした。サーリネンの世代と異な った新しい価値観が、ここにはっきりと示されている。 こうした議論を経て、市当局の姿勢も変わってゆき、結局ヘルシンキ中心部のテーレ湾は埋め立 てることなく残された。そしてカンピ=テーレンラハティ地区は、現在に至るまでヘルシンキ中心部 の都市計画上の最大の課題であり続け、何回も設計競技の対象となってきているのである。 - 32 - ・戦後へとつながる歩み 世情が次第に戦争へと傾斜してゆくなかで、独立国フィンランドを世界に示す大イベントとして ヘルシンキが期待していたのは、1940 年のヘルシンキ・オリンピックの開催であった。このオリン ピックは当初は東京開催が予定されていたが、日中戦争の勃発で東京が返上し、ヘルシンキが急遽 引き受けることになったものである。そして、このために用意された施設が、戦前のヘルシンキに 最後に登場したモダニズム建築の傑作オリンピック・スタジアムであった。しかし結局、1939 年か らのソ連との冬戦争の勃発でオリンピックは中止せざるをえず、それに続く第二次世界大戦も含め て、フィンランドはソ連とドイツの狭間で辛酸をなめることになった。 フィンランドの戦後復興は、国民の努力もあって非常に早かった。そして、1952 年に対ソ賠償金 の支払いを済ませたフィンランドは、いわば再出発の決意表明として、一度中止に追い込まれたオ リンピックの開催を同年に実現させる。再び脚光を浴びたオリンピック・スタジアムは、いわば大 戦を乗り越えて2つの時代をつなぐ歴史的役割を果たし、ヘルシンキの新たな都市シンボルとなっ たのである。 そして戦後には、建築家 A.アールトのヘルシンキでの本格的活動が始まるという大きな事実があ る。彼はすでに戦前の 1933 年に、トゥルクからヘルシンキに設計アトリエを移していたが、作品は むしろ地方に立地するものが多かった。戦争も終わりアメリカから帰国したアールトは、1955 年に 郊外ムンキニエミ地区に新しいアトリエを構えて、いよいよヘルシンキの都市計画に積極的に取り 組むようになるのである。残されていたテーレ湾岸の開発計画も、当然彼の重要なテーマとなった。 そしてさらに、彼の積極的な姿勢に刺激されたかのように、他の建築家たちの活動も盛んになって ゆく。 このあと訪れる 1950 年代は、フィンランド建築が、そして都市ヘルシンキが世界から大きな注目 を浴びる新たな黄金時代の幕開けだったのである。 第3節 20 世紀後半のフィンランド建築 第2節に続き第3節は、フィンランドの 20 世紀後半をテーマとする。1950 年代から 1990 年代の 各時期の建築の特徴を具体的作品に即して概観してゆく。ここで重要な視点とするのは、フィンラン ド・モダニズム建築のバランス感覚である。 20 世紀後半の中で、1990 年代はフィンランドの建築界が新たなエネルギーを発散した時期である、 しかも、20 世紀のモダニズム建築の歴史の中で、世界が注目したフィンランドの 1950~60 年代に並ぶ 大きな画期となった。1950~60 年代の隆盛が建築家アールトを核として築かれたものだったのに対し、 今回のそれはいわばフィンランドにおけるアールト以後の世代が新たな方向性を見出し始めたものと 捉えることができる。 フィンランドのモダニズム建築の発展といえば、もちろん建築家アルヴァ・アールトの存在をなくし ては語れない。そして、アールトの生涯の軌跡とその作品系列を見ていると、彼が後に続くフィンラン ド人建築家にとっていかに重要な指標となったのか、よくわかる気がする。それは、誤解を恐れずに言 うなら、彼が常に質の高い作品を作ったからではない。むしろ、彼が建築のインターナショナリズムと - 33 - フィンランドらしさ志向の間で見事にみずからのスタンスをとってみせたことによる。そのバランス感 覚こそがフィンランドの建築家たちの指標たりえたのである。アールトのデザインが示す個性に、個々 の建築家がいかに心酔したかは、これとはまた別の問題である。 このバランス感覚は、フィンランドのモダニズム建築を考える際に、非常に本質的なポイントとなっ てくる。文化的中心から離れたこうした周辺国では、建築の近代性は、まず第一にいかにみずからのア イデンティティを表明するかにかかっている。この意識がなくては、近代は迎えられないのである。フ ィンランドの場合、今世紀初頭のナショナル・ロマンティシズム建築がこの問題に目覚めて以来、常に 重要なテーマであり続けてきた。モダニズム期になっても、もちろん同じである。ところが一方で、モ ダニズムが要求する建築の機能性などの要素は、普遍的な解決を要求する方向性をもっている。ここか ら目をそむけてわが道を邁進する自信や勇気をもてないのも、また周辺国なのである。要は、この2つ の方向性をどこでバランスさせるかであり、アールトはその課題に見事に答えた。アールトを評価する 際、フィンランド好きはついつい彼の作品のフィンランドらしい固有性を強調し、一方でフィンランド の国に特に興味があるわけではない人は、むしろモダニズムの立場からの合理的な作品解釈を要求し、 どうしても両者の議論はかみ合わない。しかし、アールトという存在の大きさは、むしろ彼がそれぞれ の解釈を超越して、両者を自己の中に共存させた点にこそある。そしてそれこそが、20世紀のフィンラ ンド建築の歩む道を決定づけたのである。フィンランドのある若手研究者は、この道を「フィンランド 版インターナショナリズム」と呼んだ。一見矛盾したこの言い方は、実はこの国の20世紀建築のあり方 をとても見事に言い当てている。本当の意味での「フィンランドらしさ」は、ここにこそ存する。 以下では、1950~60年代に始まり21世紀へと継承されてゆくフィンランド人建築家のこのバランス感 覚を検証してゆく。 1-頂点の 1950~60 年代 黄金期としての評価が定着している1950~60年代のフィンランド建築界において、隆盛を担った建築 家たちのアールトへの思いの深さは、やはり特別なものだったと言わざるをえない。そして実際、アー ルトは当時の彼らのすぐそばにいた。 すでに生誕100年をとうに過ぎた1898年生まれのアールトは、1920年代の習作と北欧新古典主義期の 作品を経て、ほぼ1930年代からモダニズムの作品を作り始め(戦前期のアールトがいかにモダニズムと 切り結んだのかも、もちろん大変おもしろいテーマである)、そして第二次世界大戦を挟んで1976年の 死去まで、フィンランドのモダニズム建築をリードし続けた。1950~60年代は、そのアールトの活動の まさに最盛期にあたるのである。セイナッツァロの役場(1949~52)<図Ⅰ-2-40/41>、アトリエ・ アールト(1954~55)<図Ⅰ-2-42>、国民年金局カンサンエラケ・ライトス(1953~57)<図Ⅰ-2 -43>、ヘルシンキの文化会館クルトゥーリ・タロ(1952~56)<図Ⅰ-2-44/45>、イマトラのヴオク センニスカの教会(1956~58)、セイナヨキの市庁舎(1958,1959~65)<図Ⅰ-2-46>、ロヴァニエ ミの図書館(1961~68)、オタニエミ工科大学(現・アールト大学)本館(1969)<図Ⅰ-2-47/48>な どがこの時期に完成した彼の作品だと指摘すれば、それはすぐに理解されよう。油の乗りきったアール トが、精力的なデザイン活動を若い建築家たちの眼前で展開して、その影響力が小さかろうはずがない。 この時期の建築界の成果を伝えるシンボル的な存在といえる大規模プロジェクトが、どちらもヘルシ ンキ郊外に位置する田園都市タピオラ<前掲・図Ⅰ-2-29>と学術都市オタニエミの建設であった。こ - 34 - れらのプロジェクトに加わり、あるいはアールトの下に結集した当時の建築家たちを列挙するなら、ア ウリス・ブロムシュテット(1906~79)、ヴィルヨ・レヴェル(1910~64)、アールネ・エルヴィ(1910~7 7)、ヘイッキ・シレン(1914~2013)、レイマ・ピエティラ(1923~93)、アールノ・ルースヴオリ(1925 ~92)といった顔ぶれが並ぶ。彼らの作品の多くも、この時期のアールト自身の作品とともに、当時の 日本の建築誌でよく紹介された。ブロムシュテットによるタピオラのチェーン・ハウス(1954) <図Ⅰ2-49>、シレンによるオタニエミ学生村の礼拝堂(1956~57、1978)、ルースヴオリによるヒュヴィン カーの教会(1961)<図Ⅰ-2-50/51>、ピエティラによるタンペレのカレヴァ教会(1964~66)、それ にティモとトゥオモ・スオマライネン兄弟によるヘルシンキ市内のテンペリアウキオ教会(1968~69) などの作品名に懐かしさを感じる向きは、今なお現役の日本人建築家の中で決して少なくないはずであ る。この時代のフィンランド人建築家は、何らかの形でみなアールトの影響下にあり、アールト1人で はなしえなかった隆盛を、共同して作り上げた感がある。強固な核を得て、フィンランド建築界が1つ にまとまり得た幸福な時代だったといえよう。 <図Ⅰ-2-40> <図Ⅰ-2-43> <図Ⅰ-2-47> <図Ⅰ-2-41> <図Ⅰ-2-42> <図Ⅰ-2-44>(上) <図Ⅰ-2-45>(下) <図Ⅰ-2-46> <図Ⅰ-2-48> - 35 - <図Ⅰ-2-49> <図Ⅰ-2-50> <図Ⅰ-2-51> ・自然との共生:1950~60年代のキーワード 1950~60年代の建築作品の中でも、戸外に立つ十字架をガラス越しに見るオタニエミの礼拝堂は、建 築と自然の共生を外国人の目にも強く印象づけ、フィンランド建築に対する評価の軸を固める大きな役 割を果たした。ただし、評判を聞きかじった日本人建築家が、もし「森と湖の国フィンランド」の雄大 な自然をバックにした建築を期待して訪れたとしたら、拍子抜けであったろう。そもそもヘルシンキ近 郊のオタニエミに、そんなスケールの大きい自然などありえないし、またフィンランド建築が向き合お うとする自然とは、本来そうした性質のものではない。その意味で、このオタニエミの作品のあり方を 知ることは、フィンランド建築と自然との関係を理解する糸口となるように思う。 この作品における人間の置かれた位置とは、自然を「眺める」あるいは「愛でる」ものではなく、い わば自然の中に「住まう」ものである。十字架の背後の森は決して大きくもなく、また何か強い特徴を 持つものでもない。しかし、森は当然のこととして、夏に深い緑に染まり、冬に白い雪の中に静まりか えり、平凡でありながらも十分な存在感をもって見る者を包み込む存在である。ここでは、美しい自然 をいわば額縁に入れて対象化して人間と対置しようとはせず、美しかろうが美しくなかろうがそこに自 然があり、人間はそれと一体化するよう仕向けられる。そのために、礼拝堂内部から十字架に対して礼 拝する際に、この森を越えて視線は広がらない空間構成がとられる。もし、1950~60年代のフィンラン ド建築の特徴を「自然との共生」と呼ぶのなら、それが本当に特徴的でありえるためのもっとも重要な ポイントは、フィンランド人のこの「住まう」感覚にあることに気づかなければならない。 これを理解する助けになるのは、たとえば安藤忠雄設計による北海道トマムの「水の教会」(1988)と の比較であろう。戸外に置かれた十字架という同じテーマを追求しながら、遠くの雄大な山並みまで視 野に入れて大きな空間構成にゆきついている水の教会は、フィンランドの例と実によい対照をなす。自 然を愛する国民と言いながら、実は自然を遠くから美しい風景として眺めることが好きな日本人の古く からの主流の自然観を、これはよく代表しているように私には思える。もちろん、それが欠点だと言う つもりはなく、単にフィンランドの例とは別の価値観に基づいた作品だということである。 2-狭間の1970~80年代 多彩な1950~60年代に比べ、それに続く1970~80年代は、フィンランド建築があまり国際的な評価を 得られなかった時期である。バブル経済の表面的な華やかさにも後押しされたポスト・モダニズムの世 界的潮流の中で、フィンランドがこれに乗ることがなかったせいもある。建築構法上の面では、北欧の 気候風土に適したプレファブのエレメント構法が公共建築など大規模建築物にも全面的に導入され、そ - 36 - の初期にはこれがネックとなってデザイン表現の面が制約を受けたりもした。 一方で建築家の意識は、アールトからまだ自由にはなっていない。1976年にアールトの死があった。 しかし、この時期の建築家の多くは、実際に何らかの形で過去にアールトの謦咳に接した経験があり、 それを大きな財産として意識しているのである。様々な方向への模索は始まりつつあったものの、結局 アールトという存在に対して自己をどこに位置づけるかという発想の枠を出ることはなかったように 見える。いずれにせよ、新しい展開を見せる1990年代を前にした、狭間の時代といえるかもしれない。 この時期に活動した建築家の代表的存在としては、クリスティアン・グリクセン(1932生)+エルッ キ・カイラモ(1936生)+ティモ・ヴォルマラ(1942生)のグループ、ユハ・レイヴィスカ(1936生)、カリ・ ヤルヴィネン(1940生)+ティモ・アイラス(1947生)のグループ、ペッカ・ヘリン(1945生)+トゥオモ・ シートネン(1946生)のグループ、ミッコ・ヘイッキネン(1949生)+マルック・コモネン(1945生)のグル ープなどを挙げておくべきであろう。ヤルヴィネン=アイラスによるサキュラの保育園「オンニ・マン ニ」(1980)<図Ⅰ-2-52/53>、グリクセンらによるマルミの教会(1981)、レイヴィスカによるミュー ルマキの教会(1980~84)、ヘイッキネン=コモネンによるフィンランド科学センター「ヘウレカ」(198 8)<図Ⅰ-2-54/55>、ヘリン=シートネンによるノキア本社(設計競技1983/但し完成は1997)など、 実際の建築作品としてフィンランド建築を語る上で見落とせない価値をもつ作品も多い。マルミの教会 はレンガ壁の重厚さが際立つ作品で、一方ヘウレカはこの国にハイテク建築の到来を告げた建築であっ た。またヘリン=シートネンの活動は、従来の作家性の強いアトリエ型設計事務所の枠を越え、多くの スタッフを統合して大規模プロジェクトに取り組む方向性を示してみせた。この時期に至って、フィン ランド建築もかなり多様化の様相を示したことは確かである。 しかし、もっとも忘れがたい印象を残す作品は、結局フィンランドらしさを感じさせてくれるミュー ルマキの教会と保育園「オンニ・マンニ」の2つであろう。ミュールマキでは、内部空間の柔らかさが まさに見事である。高い天井からのペンダントライトや薄いテキスタイルに織り込まれた十字架によっ て、縦と横の直線のゆらめく交錯が作られ、そこへ祭壇脇にとられたスリットから光が入るという構成 は、時に水墨画のにじみにも似た効果を生むことさえある。レイヴィスカはこの作品で、もっとも日本 人に愛される現存フィンランド人建築家となったといえよう。一方「オンニ・マンニ」の方は、傾斜屋 根をモチーフとして楽しさを演出し、子供の身長に合わせた位置に窓を配置するなど、文字どおり子供 の視線の高さに立った設計がなされている。なお、この2つの作品は、どちらも木造建築である。 <図Ⅰ-2-52> <図Ⅰ-2-53> <図Ⅰ-2-55> <図Ⅰ-2-54> - 37 - 3-再び注目された1990年代 こうした過程を経て、フィンランド建築は1990年代を迎えることになる。ところが、1990年代から本 格的に活動を始めた若い世代の建築家たちは、これまでのフィンランド人建築家と比較して、どうもそ の依って立つ基盤が少し違っていたように感じられる。それは結局、アールトという存在をどう意識す るかの差であろう。もはやアールトから直接教えを受けた経験のない世代に属する彼らは、アールトを それなりに相対化できるようになり、結果的にアールトの呪縛から離陸できたと言ってよいのかもしれ ない。 では、1990年代の彼らは、もはや前の世代とまったく別の建築の方向性を構築しつつあるのかといえ ば、おそらくそうではあるまい。変化が激しく流行に乗りやすい日本の建築界からは評価しにくいこと なのかもしれないが、フィンランド建築の特徴はモダニズムの基本に沿って、連綿と変わらずに続いて いる。フィンランドで変わったことと言えば、この国の建築のあり方の問題を、アールトの個性という 次元を離れて、フィンランドらしい建築表現の問題へと一般化して捉えることができるようになった点 にある。ところで、アールトとの関係を超えて継承され続ける「フィンランドらしさ」とは、一体どの ようなものなのか? 1950~60年代のみならず、1990年代まで含めて語る時には、従来言われてきたよ うな「自然との共生」といったものでは捉え切れず、もう少し幅広い見方が必要となってこよう。 まず、社会全体の概観をしておく。1990年代初頭のソ連崩壊は、フィンランドにとって輸出総額の約 1/4を占める貿易相手を失うという大打撃を与えた。これが折りからのバブル破綻と重なって、ほと んど当時の日本の状況にも似て銀行や企業が倒産して、一時は国内失業率が25%に達するという危機的 状況まで発生した。これはもちろん建築界にも建設活動の停滞という形で影響し、大規模プロジェクト のほとんどが中断を余儀なくされ、あるいは計画が白紙に戻された。1980年代に活躍していた建築家の かなりの部分は、この時期に設計をする機会を失った。さいわい、政府主導の思い切った危機打開策が 功を奏して、その後日本よりも早く景気は完全に回復した。 そして、建設活動の再活性化とともに、新たな建築家の活動が始まっていった。建設活動の断絶が建 築家の世代交代を促し、その結果として新しいフィンランド建築の出発は、大変鮮やかな印象を与える ものとなった。こちらも一新された隣国ロシアとの関係も、従来なかったいくつかの建築テーマを提供 してくれることになった。 ・若い世代のセンス:セビリア万国博覧会フィンランド館 再出発の象徴ともいえる事件となったのが、景気回復がまだ軌道に乗り切っていない1992年の、小さ な、しかし非常に印象的な建築の登場であった。すなわち、スペインのセビリアで開催された万国博覧 会のためのフィンランド館<図Ⅰ-2-56>である。 この計画のスタートとなった設計競技は、1989年まで溯る。157の応募案の中から1位になったのは、 マッティ・サナクセンアホを中心とする5人のグループ「モナーク」(J.ヤースケライネン+J.カーコ +P.ロウヒアイネン+M.サナクセンアホ+J.ティルッコネン)の独創的な計画案で、1964~66年生まれ の彼らは当時まだヘルシンキ工科大学の学生だった。第2位にシートネン案、第3位にヘリン案、入賞 にヘイッキネン=コモネン案がはいっており、モナークはこうした1980年代を主導した建築家たちを抑 えて当選したことになる。20歳代前半という彼らの若さは、世代の交代を予感させてあまりにも象徴的 だった。しかも、この設計競技が万国博覧会のパヴィリオンという、小さくて仮設的だが大変重要な建 - 38 - 築を対象とするものだったことが、さらに周囲の期待感を高めた。過去のエリエル・サーリネン(1900 年パリ万博)、アルヴァ・アールト(1939年ニューヨーク万博)、そしてレイマ・ピエティラ(1958年 ブリュッセル万博)などは、みな博覧会のフィンランド館の設計競技に当選して台頭してきた建築家な のである。 そして実際に、今回のモナークによるフィンランド館も、非常に新鮮な造形センスを伝えるものであ った。万国博会場の種々雑多で華やかさを競うパヴィリオン群の中で、単純ながらも力を秘めたその姿 はまさに際立っており、結果的にこれが1990年代のフィンランド建築の復興を内外に宣言するものとな ったのである。 建築全体は、木造在来構法による湾曲した壁や屋根をもつ「竜骨」と、プレファブ化・モデュール化 された構法に基づくスチールの「機械」と名づけられた2つの彫刻的な立体から成り、狭間に置かれた 空間を介して、両者は緊張関係を保って対置される。立体内部にある展示空間へのアプローチとなって いるこの陰影豊かな狭間は、15mの高さと35mの長さを持ちながら幅は2mしかない。フィンランドの 大地では自然の力が岩塊に深い裂け目を刻みこむことがあり、それがここに表現されているのである。 「竜骨」と「機械」という自然とテクノロジーを表す2つの形態と、その両者をつなぐ光と影の空間の 存在は、現代フィンランドにおける二項対立、あるいはフィンランドとヨーロッパとの関係についての 多面的な認識のあり方を表現していると捉えることもできよう。 モナークの中心人物であったサナクセンアホは、この作品以後に独立して、フィンランドでもっとも 鋭いデザイン・センスをもつ建築家として注目されている。複雑な機能を有する大きな建築の実現例は まだなく、その点では未知数ともいえる。比較的最近の作品には後述するトゥルクの聖ヘンリー礼拝堂 があり、象徴的な形態を操る造形的才能がやはり際立っている。 ・若い世代の実力:フィンランド森林博物館 1990年代のフィンランド建築を象徴する作品は、セビリア万博フィンランド館の他にもうひとつある と考えられる。1990年に設計競技が行われ、1994年までにプンカハルユに完成したフィンランド森林博 物館「ルスト」<図Ⅰ-2-57/58>である。これを設計したのは、ミッコ・カイラ(1958生)+イルマリ・ ラハデルマ(1959生)+ライネル・マハラマキ(1956生)らのグループで、その実力からして、その後フィ ンランド建築界の中心的存在となっていった。森林博物館は、彼らが総力を結集した早期の作品で、事 務所の活動を世に知らしめるきっかけとなった。 フィンランド森林博物館財団、フィンランド農林省、プンカハルユの地方自治体の3者が合同で実施 した設計競技には、103案が応募した。当選案に名づけられていた「ルスト」は、フィンランド語で「年 輪」を意味し、成長をシンボライズするが、同時に建物の丸い平面形態も反映している。敷地は、フィ ンランド東部の景勝地として知られるプンカハルユの松の樹林の斜面にあり、前面にはサイマー湖が広 がる。建物は、こうした周囲の自然となじみながら、森の空気と一体化することがめざされている。こ の森林博物館の佇まいからは、1950~60年代のフィンランド建築のシンボルともいえるオタニエミ学生 村の礼拝堂のことがイメージされる。一見比較のしようもない2つの作品を結びつけるものは、自然と の関係である。それはオタニエミの作品にもあった自然に「住まう」感覚である。プンカハルユのよう なフィンランドを代表する景勝地に建ちながら、森林博物館は決して傍観者的にその自然を「眺めて」 はいない。 - 39 - 訪問者は、まず道路側からブリッジを渡って入口へと導かれ、建物内でもう1つのブリッジで受付ホ ールへ、さらにゆるやかなスロープで1階下の展示ホールへと進む。建物は2つのセクションに分けら れ、主要な円形部分には展示スペース、オーディトリアムなどの公開の施設が、一方の長方形部分には 工房、研究部門、倉庫などが集められている。 ルストの主な建設材料は木材とコンクリートで、この2つの素材は互いに支えあっている。打ち放し コンクリートの外壁の表面は、木質系タールを沁み込ませた現地産の木材で覆われる。木材のこの処理 は、古くから北欧で木造船の建造時に使われた手法で、これがルストに歴史的な奥行きを与え、さらに その美しい色合いや芳香が周囲の樹林と見事に響きあう。内部でも、床や壁に木材がふんだんに使われ て、豊かなディテールが構成されている。フィンランドの伝統を尊重し、しかも一方で近代的な建築物 としても造形的、機能的に妥協するところがない。 カイラ=ラハデルマ=マハラマキ設計事務所は、「ルスト」以後も大変精力的な活動を続けた。サナ クセンアホのようにデザインの鋭さを指向するよりも、彼らはむしろ実際に「役立つ」建築をめざす。 しかも、その目標と質の高い造形をほどよくバランスさせる総合力は非常に高い。彼らの活動を支えて いるのは、数多くの設計競技への応募と当選で、過去10年ほどの間に15以上の競技に当選して、その多 くを実現させている。3人の建築家は対等のデザイン能力をもち、設計競技には基本的に単独で応募す るが、当選して実施案を練る段階では互いに助言しあって、充実した作品に仕上げていったのである。 フィンランドに多いグループ設計事務所の理想的なあり方が、ここに示されている。たとえば1997年に 彼ら3人は、それぞれが中心になって並行して計画を進めたヴァンターの保育園「ミステリ」(カイラ)、 ヘルシンキのソイニネンの学校(ラハデルマ)、カウスティネンのフォーク・アート・センター(マハラ マキ)の3作品を、ほぼ同時に完成させている。その評価も今では定まり、カウスティネンの作品など は、1990年代のフィンランド建築を代表する存在のひとつと言えよう。 <図Ⅰ-2-57> > <図Ⅰ-2-56> <図Ⅰ-2-58> ・その他の1990年代の作品 その他の1990年代の印象に残る建築作品も挙げておく。サナクセンアホやカイラ=ラハデルマ=マハ ラマキの他にも、30~40歳代の建築家たちが多く活躍したのが特徴だが、もちろん1980年代からフィン ランド建築をリードしてきた建築家たちの何人かも活動を続け、熟達した手腕を見せている。 フィンランド西部海岸に面した古都市ラウマに、オッリ=ペッカ・ヨケラ(1955生)とペンティ・カレ - 40 - オヤ(1959生)によって作られた合同政庁舎(1992)は、1980年代末に実施された設計競技の当選案に基づ く。建築は、運河をまたいで差し渡された棒のようにほそ細長い主要部分をもち、その内部には3層吹 き抜けで運河側に連続開口をもつ長さ144mの廊下状の空間がある。手続きに訪れた市民に応対する窓 口がここに開いているわけだが、それに加えてこの室内空間にはベンチや街灯が用意されていて、運河 を眺めながらひと休みする楽しみを与えてくれる。戸外が雪に埋もれてしまう冬にもそぞろ歩きが可能 な擬似的な街路空間が実現しているのである。気がつきにくいが、運河側に突き出した部屋の平面形が パイミオのサナトリウムの正面入口キャノピーの形を模倣しており、思わぬところで若い世代からのア ールトへのオマージュに出会うことにもなる。 次に、ハンヌ・キースキラ(1950生)によるヴァーリマーの国境税関と検問所(1996)を取り上げよう。 ソ連時代のフィンランド=ソ連国境は厳しい東西対立の最前線であり、通過には多くの時間を要した。 ところがロシアが生まれた今日では、年間に約150万人の人々がこの国境を越えて交流し、この数字は さらに増えてゆくものと考えられている。ヴァーリマーの新しい施設は、ヘルシンキとペテルブルグを ほぼ最短距離で結ぶ幹線道路上の国境線近くに建設された。利用面からは、特にEU加盟国の国民と貨 物の国境通過の迅速化を図る工夫が随所に見られる。可能な限り軽快で広々とした印象を与えるように、 鉄骨とパネルとガラスによる構成が選ばれ、それが建築表現上の特徴にもなっている。その簡素さは、 見る側の意識によっては粗末にさえ感じられるほどだが、しかし実はこの「軽さ」の感覚こそが、フィ ンランド人がモダニズム建築に求めているもっとも重要な要素の1つだといえる。その意味で、この作 品はまさにフィンランドらしい現代建築の代表例であるし、彼らの好むこの感覚を理解することがフィ ンランド建築に近づくための第一歩だと思われる。 ヴィヒティにあるパッピランペルトの小学校(1994)は、ラッセ・ヴァハテラ(1951生)らによる作品で ある。外観の主要部分は打ち放しコンクリートと金属パネルによるモダニズムの顔をもっているが、建 物の本構造から独立した教室隣の階段室の部分は着色された合板の壁が用いられて、ポスト・モダニズ ムへの親近感を示しており、フィンランドでは比較的珍しい例となっている。内部は、その中央に置か れた吹き抜けの大ホールによって2つの部分に分けられ、3層のどの階もこの空間へと接続されている。 ここは、オーディトリアムの階段状座席のようになっていて、同時に下階の食堂へと降りてゆくメイン の階段も兼ねており、その他にもすべてがこの中心の空間に結びつけられている。何よりも、子供にと って楽しい学びの場が実現しているといえよう。 フィンランドでは、都市計画における地下空間の広範な利用がひとつの特徴となっている。それはす なわち、国土の基盤をなしている花崗岩の固い岩盤とつきあうことを意味し、かつて1960年代には、テ ンペリアウキオ教会という花崗岩を見事に扱った傑作があった。ヘルシンキのイタケスクス地区に建設 された地下プール(1994)<図Ⅰ-2-59>は、ユッカ・カルフネン(1945生)らのグループがヘルシンキ市 都市計画局と協力して実現させた市民のための公共施設で、近年広く話題となった建築である。対ソ連 政策の一環としてヘルシンキが長年にわたって用意してきた核シェルターの再利用として計画された もので、その内部(ほとんどが地下にあるこの建築には、必然的に入口部分以外に外観というものがな い)は思いもかけない豊かな空間を現出させた。シェルター用に大きくくり抜かれた花崗岩の粗い岩肌 がそのまま内壁となり、ライティングの巧みさもあって、他にはない独特の雰囲気を生み出しているの である。カルフネンの近年の作品としては、大作のヘルシンキのオペラハウス(1993)もあるが、これは 1975~77年の設計競技の当選案に基づくもので、現代の視点からは特に注目すべき作品とはなっていな - 41 - い。 古い建築の転用に関しても新しい試みが始まった。トゥルクの音楽学校(1994)<図Ⅰ-2-60/61>は、 1920~30年代建設の旧造船工場とロープ工場の転用として計画され、特に旧造船工場の大空間の中に作 られた400席の室内楽用コンサートホールが大きな特徴をもっている。工場は可能な限り旧状のまま使 われることになり、内部では建物を支える鋼鉄製の巨大な構造体が使い古しの錆びた状態で露出し、造 船用に設置されたブリッジ・クレーンも残されている。そうした中に、室内楽ホールが軽いガラス張り の箱としてそのまま置かれ、全体が入れ子のような構成となっている。ブリッジ・クレーンは再利用さ れ、その1つが正面入口外側のキャノピーを、残りの1つが内部2階ホワイエの床板を吊り支えるのに 使われる。コンサートホールとしての洗練と、かつての工場の重厚さの混合が、独特の表現に結実して いる作品である。これを実現させたライホ=プルッキネン=ラウニオのグループは、古い建築物の修復 を数多く手がけてきたフィンランドを代表する事務所で、かつては国会議事堂、国立美術館アテネウム、 ラウマ旧市庁舎などの文化財級の建築の修復も担当した。この頃には、3人の中でミッコ・プルッキネ ン(1940生)が中心となって若い所員とともに活動し、歴史的な価値は特に高くない建築であっても、新 たな役割を与えることでそれを再生させる仕事が注目された。 この項の最後に、ヘルシンキ市内に建設された集合住宅の中で注目される例として、グリクセンらに よる集合住宅「オリュンポス」(1996)と、ヘリンらによる集合住宅「ライヴァポイカ」(1995)を挙げて おく。いずれも1980年代から活躍してきた建築家による最近の作品で、都市計画局主導の地区計画との 関係を巧みに調整しつつ、完成度の高いデザインを示している。 <図Ⅰ-2-60> <図Ⅰ-2-61> <図Ⅰ-2-59> > 4-21世紀へつながる歩み ・フィンランド・モダニズム建築を背後で支えるもの 以上のような20世紀末のフィンランド現代建築の質の高さを、背後で支えている要素にも言及すべき であろう。それを簡単にまとめてしまえば、建築家たちによりよい活動条件を与えるための社会あるい は建築界の側のシステムであり、また一方でその社会や建築界に対する建築家個人の側の責任感という ことになろうか。 システムとしてまず重要なのは、やはり設計競技の着実な運営であろう。19世紀末に制度が確立され て以来、この国の設計競技はまず20世紀初頭のナショナル・ロマンティシズム建築の隆盛を生み出し、 1930年代からのモダニズム建築の発展を保証し、そして確実に現代の建築も支え続けているのである。 - 42 - すでに触れたセビリア万博フィンランド館にせよ、フィンランド森林博物館「ルスト」にせよ、どちら も国内で広く注目を集めた設計競技の結果として実現したものだった。 ただし実を言うと、この国の設計競技が本当に重要な理由は、むしろこれら誰もが注目する大きな設 計競技とは別に、目立たない小さな設計競技が多数実施され続けているという事実にこそある。若い建 築家や学生たちは、設計事務所でのルーティンワークや大学での設計課題の合間に、こうした地方都市 の小規模公共建築や住宅地開発計画などの設計競技にいくつも応募することで、みずからのキャリアを 作るきっかけを模索し、そしてやがて離陸を果たすのである。このシステムがなければ、フィンランド 建築の現在はなかったことは間違いない。 1990年代に入って目立ってきた変化として、地方出身の建築家の実力が大きく底上げされた事実があ る。そもそもフィンランドには、ヘルシンキ工科大学(通称オタニエミ工科大学・現アールト大学)、タ ンペレ工科大学、オウル大学の3箇所にしか6年制の建築学科がない(4年制でエンジニアリングを学 ぶ建設工学科を除く)が、主要な建築作品の設計者は長らくヘルシンキ出身の建築家でほぼ占められて きた。その状況が、この頃大きく変わった。すでに触れたカイラ=ラハデルマ=マハラマキの3人やキ ースキラはタンペレ出身であるし、ヴァハテラはオウルなのである。 ただしこうした状況は、以前から少しずつ準備されてきたものだと言うべきであろう。特に大きかっ たのは、1980年代半ばに「オウル派」の名で展開された地域主義の建築運動の経験である。たとえばヴ ァハテラは、30歳頃までオウルで活動しており、このオウル派の一員として知られていた。 オウル派は、当時の建築界の重鎮ながらヘルシンキではややアウトサイダー的な位置にいた建築家ピ エティラが、オウル大学での教育に関わったことに端を発した。彼を精神的支柱として仰いだオウルの 若い建築家たちがヘルシンキに反旗をひるがえして、ヘルシンキの頭越しに他の北欧や欧米各国の建築 運動との直接の連帯をめざしたのである。その結果、ヘルシンキがほとんど関心を示さなかった海外の ポスト・モダニズムの造形言語の影響を受け入れ、それを地方の土着性と融合させた建築が、北極圏に も近い地方都市オウルとその周辺で実現することになった。レイヨ・ニスカサーリらによるオウルンサ ロの町役場(1983)やユハ・パサネンとラッセ・ヴァハテラによるミュッリュオヤの教区センター(1983) などがその実例となる。一方タンペレでは、ピエティラはこうした役割は担わなかったが、市内に特異 な造形の市立図書館(1986)を残し、郊外のヘルヴァンタ地区では中心地区の主要建築を群として手がけ て、ヘルシンキでよりも大きな存在感を示してみせた。 オウル派の運動やその作品に対するフィンランド国内の評価は、決して高くない。当時のテレビ番組 で特集が組まれるなど一般の関心は集めたが、ヘルシンキの建築界はおそらく意図的に冷淡な無視の姿 勢を貫いた。それもあってか、海外に紹介されることもあまりなかった。運動の中心を担ったニスカサ ーリの1988年の若い死などもあって、オウル派は1980年代の終わりとともに姿を消した。しかし、これ があったあと、フィンランドで確実に変わった点もある。地方の建築家たちがある自覚をもったこと、 そしてヘルシンキ側が彼らの実力を認めざるをえなくなったことである。それだけでも、この運動が残 した遺産は決して小さくないと考えるのが正当な評価というものであろう。この時期に地方が得た自信 が、1990年代のフィンランド建築の広がりの下地を作ったのである。 次に、建築家の側の姿勢にも触れておこう。その社会に対する責任感は、たとえば彼らが積極的に取 り組む建築種別を見ても感じ取れる。大規模な公共建築などばかりでなく、むしろ地域に密着して住民 の日常生活に役立つ施設がしばしば彼らの主要な建築テーマとなっている。実際に注目を集める建築の - 43 - 実例も、この分野に多い。たとえば、冬の市民生活を豊かにするための施設として、地区の図書館と公 共プールがある。図書館はアールトにも名作があって納得しやすいが、プールは意外と思われるかもし れない。しかし、イタケスクス地区の地下プールを取り上げたように、図書館とプール(プールには大 きなサウナが併設されている)はペアになって、精神と肉体の両面でリラックスするための北国の冬の 必需品であると考えられよう。建築家もプールの設計を嫌ったりはしない。 子供の成長を助ける環境つくりとして、保育園や小・中学校も建築家の重要なテーマとして位置づけ られている。これらの建築は、決して子供にとっての牢獄であってはならない。ヤルヴィネン=アイラ スが1980年代に実現させた一連の作品(すでに触れた保育園「オンニ・マンニ」など)は、まさにフィ ンランド人建築家のこの分野での意識の高さを示したものだったが、その後になっても、たとえばカイ ラ=ラハデルマ=マハラマキやヴァハテラなどは、はっきりとこのテーマに深く立ち入る姿勢を保ち続 けた。 その他、集合住宅への積極的な姿勢も目立つ。都市計画の一環として計画されるものが多く、その多 くは高齢者や身障者に対する配慮を含んだものとなっている。フィンランドではこうした集合住宅は、 一部の建築家のみが取り組む専門領域ではない。しかも、円熟の域に達した年代の建築家が、蓄積した 技術と能力をフルに発揮して、好んでこのテーマに挑戦する傾向があるようである。 ・21世紀へ向けたバランス感覚と共生感覚 本節のはじめに、フィンランド建築を評価する前提として、インターナショナリズムとフィンランド らしさ志向のバランス感覚を指摘し、次いで1950~60年代のフィンランド建築のキーワードを「自然と の共生」であると示した。最後に、こうした特徴が21世紀へ向けていかなる形で受け継がれ、あるいは 変質しているのかを考えておきたい。 フィンランド人建築家がみずからの作品にフィンランドらしさを付与しようとする傾向は、現代の多 くの若手においても確かに継承されている。カイラ=ラハデルマ=マハラマキらがフィンランド森林博 物館などで見せた、外観の木材部分を伝統的な木質系タールで被覆して特有の香りを漂わせる方法など はその好例であろう。一方での機能面でのすぐれた解決とあいまって、フィンランド人建築家のバラン ス感覚は健在だと感じさせられる。ただし、その中庸を踏み外さないバランスは、やや別の意味も帯び た。つまり、建築それ自体におけるバランスであるにとどまらず、むしろ建築という存在が社会で有す べきバランスへと敷延されていった感が強いのである。1990年代における本当のフィンランドらしさと は、デザインの追求と社会の中での役割が、渾然一体となって認識されている点にこそあったというべ きであろう。 この視点の延長上に、彼らの建築に関わる共生感覚を捉えてみるなら、1950~60年代の「自然との共 生」は、1990年代においてさらに広い「環境との共生」へと進んでいったものと考えられる。現代にお いても建築を取り囲む環境は、フィンランドであっても美しい自然ばかりではない。都市近郊の取りた てて特徴のない自然や、ごく当たり前の都市の中にあっても、彼らの建築はその与えられた周辺環境と 良好な関係を取り結ぶことを最大の目標としているように見える。建築を自己の論理のみで存在するも のとみなさず、周囲との関係によって成り立つものと理解することが、彼らの流儀である。そして、こ の国の建築は、世界中で「環境」という言葉がもてはやされるようになるずっと以前から、この姿勢を 当然のように身につけていた。さらに、21世紀に向けて大きなテーマとなったサステイナブル・ディベ - 44 - ロプメントとの関連においても、建築家への期待はこの頃から膨らんでいた。資源を無駄使いしない都 市計画が推進される一方で、都市計画側の意図を理解しつつ、同時に人間性を失わない新しい集住のあ り方やライフスタイルを提案してゆくことが必要であるとしたら、それはやはり建築家の仕事なのであ る。集合住宅への建築家の取り組みは、その後ますます重要性を帯びていった。 この国では、抽象的な思考から文化が作られることは、歴史上でもほとんどなかった。どんな場合で も、出発点は「フィンランド」という具体性をもった存在への深いまなざしである。しかし、その「地 域」に発した文化が、時としてその地域を越えて「世界」に受け入れられる普遍性をもつことがある。 かつての1950~60年代のフィンランド建築がそうであったし、そして1990年代のそれも同じような価値 をもつまでに成長したと言ってよいだろう。各時代のフィンランドの若い建築家たちの生み出した作品 の多くは、そうした評価に値するものが大変多いのである。 第3章 第1節 外部からのフィンランド建築への評価 日本におけるフィンランド戦後建築への評価の変遷 ここでは視線の方向を変え、前章までに定位させてきたフィンランド建築あるいはその歴史的推 移が、外部からどのように受容されあるいは外部に影響を与えてきたかについて述べる。まずは戦 後の日本において、ヨーロッパ先進諸国の建築が復興期のモデルとなる中で、フィンランドのそれ に対する日本側の意識が、他とはやや異なっていた点を検証してみる。 1-フィンランド建築、日本での栄枯盛衰 21世紀前半の日本の建築界の視点に立ってみる。そこで建築に携わる現役世代は、「戦後から現 代までのフィンランド建築」と聞いてどんなイメージを抱くだろうか。まずは建築家アルヴァ・ア ールトの名は広く知られていよう。さらにフィンランドに関心のある人であれば、、日本でもかつ て雑誌に紹介されたりした建築家ピエティラ、そしてレイヴィスカあたりの名を挙げよう。平均的 な関心の範囲としては、ほぼこのあたりまでであろう。要するに、情報の多い現代日本であっても、 フィンランド建築はかなり忘れられた存在となっている。 しかし、ある程度年輩の世代では事情は異なる。かつて戦後から高度経済成長が始まる頃までの 日本では、フィンランド建築がアールトの作品以外にも非常に多く紹介され、熱い共感をもって迎 えられていたのである。自然と共存し、あるいは機能的に洗練されたフィンランド建築の新鮮な印 象は、強く脳裏に焼き付いているに違いない。 アールトの1950~60年代のもっとも実り豊かな時期(セイナツァロの村役場、イマトラの教会、 ヘルシンキの国民年金協会、ロヴァニエミの図書館)のあとは、前述したレイマ・ピエティラ(タ ンペレのカレヴァ教会、オタニエミの学生会館)およびヘイッキ・シレン(オタニエミ学生村の礼 拝堂)、アールノ・ルースヴオリ(タピオラの教会)の3人が、アールトの後を追う世代のフィン ランド建築家たちとして特に脚光を浴びた。他の建築家のこの時期の作品の中にも、テンペリアウ - 45 - キオ教会など注目を集めたものが多い。(先述したレイヴィスカは、さらに後の世代である。) ここで、1960年代から70年代にかけての日本の建築誌のバックナンバーを参考資料とする。これ らのページを繰ってみれば、20~30年前の当時の日本の建築界では、フィンランドの現代建築の動 向が実によくフォローされていたことがすぐに見て取れる。単発的な個々の作品紹介記事は別とし て、目につく大きな特集記事だけでも簡単に拾ってみよう。 たとえば、『国際建築』の1963年10月号と12月号が北欧建築を特集し、その10月号の方がフィン ランドに割り当てられている。特集は94ページにわたり、北欧の歴史風土や建築・デザインの概論 に始まり、建築家アールトや住宅地タピオラについての解説記事に加えて、その他の個々の建築家 8人ほどの作品が紹介されている。『国際建築』は1967年2月号でも、同年1月のフィンランド建 築展にあわせて40ページのフィンランド建築特集を組んでおり、そこでもアールト以降の世代の建 築家たちの作品を積極的に紹介している。さらに同誌4月号の特集は、「アアルノ・ルウスヴォー リ/北欧の新星-アアルトオにつづくもの」(表記は当時のまま)である。 『SD』誌の場合は、1966年11月号で「フィンランドの自然と造形」が、1974年12月号で「フィ ンランド・デザイン/自然と人とのふれあい」が特集される。さらに、1975年10月号の同誌の特集 「北欧の建築家カイヤ&ヘイッキ・シレン」は、この作家の作品を網羅的に扱い計68ページに及ぶ。 一方『インテリア』誌にも目を配ってみると、1974年12月号では「フィンランドのリビングデザイ ン」が、1977年11月号では「フィンランドの住宅」が特集となっている。ここで見落としているも のもあろうから、フィンランド建築を扱った特集は、当時もっとあったものと考えられる。 これほど注目されていたフィンランドの建築だったが、1970年代後半から特に80年代になると、 日本の建築誌上からほとんど姿を消してしまうのである。わずかに、『a+u』誌が建築家ピエテ ィラの作品を個別に紹介し続けたことを除けば、あとは『プロセス』誌第37号(1983年 4月)が「現 代フィンランド建築」と題して、唯一新しい建築家たちの活動を伝えてくれているのみである。よ うやく1990年代になって、『a+u』1991年7月号が建築家レイヴィスカの特集を組み、現役のフ ィンランド人建築家の作品を久しぶりに日本に紹介した。 フィンランド建築に対する日本人の関心のこうした急激な退潮は、どこから来たものなのか。フ ィンランド側に関しては、建築発展の歩みのスピードや基本的な方向性は、現在までそれほど変わ ってはいない。この数十年のうちにあきらかに大きく変わったのは、受容する側である日本の方の 意識なのである。日本人の建築観が変容してゆくことが、結局フィンランド建築に対する関心を次 第に失わせていった。こうした意味で、フィンランド建築に対する評価の日本での盛衰を追ってみ ることは、結果的に日本建築が戦後から現代に至るまでにたどった歩みを照らし出すことになるの である。 2-理想モデルであったフィンランド建築 上に挙げた雑誌類に目を通して容易に読み取れることは、当時の日本の建築界の中で、フィンラ ンド建築がやや特殊ながらも、ひとつの理想モデルとしての役割を果たしていたという事実である。 当時のフィンランド特集に掲載されている多くの解説文の論調は、大前提としての歴史や風土が日 本とはまったく違うことを認めた上で、そのバランスのとれた建築発展の姿に羨望のまなざしを送 る、といったものである。なかでも、この国の豊かな自然との共存が強調される。簡素で機能的な - 46 - 建築であることを基本としながら、そこに自然との関係が持ち込まれることで、特有の性格づけが なされ、フィンランド建築としての顔が作られる。たとえば、武藤章氏は言う。 「・・・ヨーロッパの近代建築は、もともと、人間対工業の関係をそれの基本的命題として出発し、建 築を通して、それの様々な解を示してきた。ところが、その近代建築がフィンランドという特殊な 環境に移された時、フィンランドの豊かな自然は、それに新しい命題を加え課した。それは人間対 自然の関係であった。フィンランドの近代建築は、この連立する二つの命題に答えなければならな かったのである。こうしたフィンランドでの近代建築の発展過程において、近代建築のもつ国際的 な性格に、新たにフィンランド固有の性格が加味され、コルビュジエの機械の美学の結晶である純 粋に幾何学的な形態は、徐々に有機的な、自然の環境条件に敏感に反応してデリケートに変化する マスへと変わっていった。そして、このようにして1950年代にフィンランド独特の建築表現が確立 され、当時のミーシアン一色の単調な世界の建築界の中で、北欧建築の鮮明なイメージを世界に刻 印したのだった。・・・」<『SD』1975年10月号(p.65)より> 1950~60年代当時の日本はといえば、戦後の混乱をまだひきずりつつ、その混乱を本当には整理 できないままに、高度経済成長という目標の下に新たなる混乱の中へと足を踏み込みつつある時期 であった。建築家たちの間にもそうした現状認識があったからこそ、その対極にあるかのようなフ ィンランド・モデルは、まさに輝いて見えたのであろう。高度成長にそろそろ足元をすくわれなが らも、当時は日本の建築家にこうした異質なモデルを愛でるだけの心の余裕があった。それはもち ろん、建築の理想像を模索することが時間的にも空間的にもまだ許されていたということを意味し ていよう。 上記の武藤氏の論考は1975年に発表されたものであり、すでに1950年代からのフィンランド建築 を回顧する性格もいくらか帯びている。そして皮肉なことに、ちょうどこうした客観的な位置づけ がなされるようになるのと同じ頃に、日本におけるフィンランド建築への関心は急速に失われてゆ くのである。これより以後、日本建築は立ち止まって考える余裕を失って、バブル経済が崩壊する 日まで、先の見えない道を突っ走ることになる。 3-建築を性格づけるものとしての「機能性」 武藤氏の論でほぼ尽きているとも言えるのだが、ここで1950年代以来のフィンランド建築の性格 を、再度検証してみることにする。当時に確立されたとされる性格は、根本の部分においてはいつ の時代のフィンランド建築にも通底しており、また現在にいたってもこの国において基本的には継 承されていると考えられる。これはこれで一定の普遍性をもつ建築タイプのひとつをなしていよう。 そして、そのタイプの近代建築を日本が一時賞賛し、のちに次第に見失っていったことは、やはり ある重要な意味をもっていたといわざるをえない。 検証にあたり、ここで提示したいキーワードは、「機能性」と「自然」のふたつである。 私はかつて、アールトと1930年代のフィンランド建築の性格を「機能主義的」ではなく「機能的」 であると説明したことがある<拙著『アールトとフィンランド』丸善(p.16)>。近代建築の確立に おいて機能主義が重要な理念であったことは、周知の事実である。まず近代建築の定義があり、そ の論理体系を支えるために機能主義が構築され、両者は表裏一体のものとして存在した。ところが、 その同じ時代にあってフィンランド建築の場合は、機能性を主義という形に理念化せずにむしろ建 - 47 - 築の実質として取り込み、いわば内実化させていったのである。 20世紀初頭に本格的な近代の入口に立ったフィンランド人は、近代的な自己形成という課題に直 面して、みずからを振り返る。そして、厳しい自然風土のなかにあり、しかも華美にも壮大にもな じまない文化的伝統に思いを致し、建築の本質として簡素であること、あるいは機能的であること を出発点とする方法を選びとった。簡単に言えば、フィンランドにおける機能的建築は彼らの体質 から自然に発したものであり、決して理論が優先して抽象的に構築されたものではない。(そもそ も、フィンランド人という民族は西欧人が得意とする概念操作の作業はあまり得意とはしない。) これが、フィンランドの近代建築を「機能主義的」ではなく「機能的」だとする所以である。そし て、この議論はそのまま1950年代以降のフィンランド建築にも通用すると考えられる。 その上でさらに言っておきたいことは、建築が機能的であることがフィンランド人の内奥から滲 み出た性格である以上、これは建築としての個性に関わる問題だという点である。本来、20世紀の 建築における機能性とは、それをまとうことによってどこに建つ建築であろうと近代的であること が保証されるといった意味で、インターナショナル・スタイルと同義の概念であった。ところが、 フィンランド建築に付与された機能性は、むしろ建築に国籍を与えるための役割を果たしているの である。この点を見落としてはならない。フィンランドでは、建築が機能的な姿をとることで特有 のアイデンティティが生みだされ、さらには一種のみずみずしささえ建築に与えられてきたのであ る。 4-建築を性格づけるものとしての「自然」 もうひとつ、建築の成立に強く関わってくる要素がある。建築誌のフィンランド建築特集に際し てもしばしば惹句として登場していた「自然」である。建築と自然との一体化という命題は、あた かもフィンランド建築にとって必須の要件であるかのように扱われることが多い。しかし、これに も一定の留保がいる。単に景観と建築をマッチさせるといったレベルの話ではないからである。実 際、本当に美しい自然を周囲にもつ建築は幸運であって、フィンランドといえども大半の建築が接 する自然とは、都市郊外の荒れた針葉樹林などといったものが多いはずである。それでも彼らは、 確かに自然との関係に強くこだわる。 フィンランド人自身が口にする「自然」とは、どうもわれわれの解釈とはいくらか誤差があるよ うに私は感じている。「自然」もやはり、いわゆる西欧的思考の産物としての概念ではなく、あく までも実体として意識されているようなのである。「機能」という語の場合と同じく、いわば文化 史的経緯として彼らは違う「自然」をもっている。それに加えて、より実際的な日常のレベルでも、 この違いは歴然としている。つまり、日本や一般的なヨーロッパ各国においては、現代では都市生 活が当たり前になっており、「自然」などはむしろ非日常的な体験というに近いが、フィンランド ではいまだに日常的なのである。 フィンランドでは、都市を離れれば自然は確かに豊かである。ランドスケープという観点からす れば一般には退屈だとはいえ、なかには観光ガイドブックを飾るような特別な景観美ももちろんあ る。しかし、そんなことよりも重要なのは、フィンランド人はひとりひとりが自然のイメージを個々 にもっているという点であろう。それらはどれもとりわけて特筆するような自然ではないから、象 徴化されたり美化されたりしないが、ごく平凡ながらもそれぞれが場所や土地ごとの固有性をもっ - 48 - ている。 たとえば、夏になるとフィンランド人が一家で過ごしに出かけてゆく湖畔のサウナ小屋のまわり の自然。名もない小さな湖と針葉樹林に囲まれて、彼らは太陽のあるうちは湖に浮かべたボートに 寝そべり日光浴や読書で時間をつぶし、夕方からは薪でサウナの火をおこす。夜はランプを灯し、 質素な食事をとる。断っておくが、こうした生活は決して特別な人々のものではなく、ごく普通の 都市市民が夏のあいだにとる一般的な生活様式である。ここでは、自然がごく近い。現代でもフィ ンランド人は、自然のイメージをしっかりともっている。しかもそのイメージは、変に概念化され ることなく具体的なままで、いわば字義どおりごく自然に自分の周囲にあるものとして意識のなか に定着されている。 そして、その自然観の延長上にフィンランド人建築家たちの建築環境へのこだわりがある。それ こそここでは、「建築環境」などと抽象化して表現するよりも、「敷地条件」とでも直接的に言っ た方が彼らの思いにより近いかもしれない。特に歴史があるわけでもない敷地の由来やら、特に美 しいわけでもない敷地内の樹林やらに、彼らはとにかくこだわる。一回性のもので応用のきかない 固有の土地条件であっても、建つべき建築との関係を徹底的につきつめてゆくのが、今に至るまで 共通するフィンランドの建築家の設計作法である。敷地の場所性を常に強く意識しているという意 味において、確かにフィンランド建築は自然とのつながりが強いと言えるのである。 5-日本で一時必要性のなくなったフィンランド建築 こうして考えてみれば、日本の建築界が次第にフィンランド建築から離れていったことは、それ ほど不思議ではない。高度成長を遂げつつ急速に回転し続ける社会のなかでは、西欧流に概念化さ れた「機能性」や「自然」でなければ、利用しにくかったのである。もちろん、対象の客観化や抽 象化を通して法則性を見いだしてゆく西欧的な論理というものとて、本来コピーしたり引用したり するための道具ではない。しかし、事実として日本人は、その西欧的手法を実に功利的に利用した とはいえまいか。 1990年代に入る頃までの日本の建築状況は、ひどく貪欲に多くの情報を集め、それをあやつり、 そして消費してきた。そうした実例として、たとえば1970~80年代のポスト・モダニズムの隆盛も あったし、あるいは最近のイタリア・デザインの流行もある。これらとて本来固有の文化体系の一 環として導入されるべきだったのかもしれないが、その面倒な過程は一応回避しても、建築界にお ける個々の部分としての利用価値は十分高かった。 一方、フィンランド建築はこうした日本の消費の論理には、確かにのりにくい性格を持っていた。 機能的とはいえその内容が論理ではなく一種の香りとして表現されたり、建築の基盤に場所とか土 地というものがあって切り離すことができなかったりするのでは、やはり日本での利用は難しかっ た。実際、個々に利用可能な個性的な形態などは、フィンランド建築からはなかなかみつからない。 何らかの引用を考えるのなら、結局時間をかけて全体を知るしかないのだが、これは回転の早い日 本に建築界においては、フィンランドに傾倒するごく限られた数の建築家が行う作業にすぎなかっ た。 その点で言えば、シレンによるオタニエミ工科大学の学生村にある礼拝堂(1957)は、日本の一部 の建築家に直接参照されたフィンランド建築の数少ない実例であろう。自然の中に埋もれているよ - 49 - うな簡素な建築の外観、そして内部正面の祭壇うしろのガラス壁を通して見る戸外の自然とそのな かに立つ十字架、という構成は、池原義郎の所沢霊園の礼拝堂(1973)に影響を与えているように見 えるし、さらにその後になって北海道のトマムの自然のなかに安藤忠雄が計画した水の教会(1988) にもやはりこのオタニエミのイメージが何らかの影を落としていよう。 しかし、こうした例は、ごくわずかに留まっている。海外情報の充満する日本において、フィン ランド建築は一時一般からは忘れられた存在となってしまったというのが、やはり公平な評価であ ろう。 6-新たなる評価へ フィンランドのその後の状況を伝える建築展が、1992年秋に日本で開催された。すなわち、フィ ンランド独立75周年記念「フィンランド現代建築展」(9~11月に東京池袋のメトロポリタン・プ ラザホール及び札幌の芸術の森工芸館にて開催)であった。 ここには、もはやアールトは登場し ない。ピエティラやシレンやルースヴオリもすでにほとんど過去となった。代わって紹介されるの は、この年に60歳となったクリスチャン・グリクセンを最年長に、50歳代のユハ・レイヴィスカ、 カリ・ヤルヴィネン、40歳代のペッカ・ヘリン、トゥオモ・シートネン、シモ・パーヴィライネン、 マルック・コモネン、そして最若年で41歳のゲオルク・グローテンフェルトなどといったフィンラ ンド建築の今を担う建築家たちの作品であった。 かつてはヨーロッパの辺境に位置することの後進性に苦しみ、一方での自由を享受していたフィ ンランドも、その頃にはEC統合やロシア問題をめぐって他のヨーロッパ各国と同時進行で社会変 動の波をかぶっていた。確実にヨーロッパの一員として組み込まれ、もはや文化的にも政治的にも 孤立は許されなかった。当然のことながら、建築も随分と多様化した。ここで展示された作品にも、 彼らが以前から得意とする教会建築、地方公共建築、幼稚園、湖畔のサウナ小屋といったものばか りでなく、ショッピング・センター、空港ターミナル、科学センターなども含まれていた。エコロ ジーを強く意識した作品がある一方で、レーザー光線を用いるハイテク建築も出品された。しかし 根本的な次元において、建築の機能性と自然への信頼は彼らの作品のうちにやはり共通しているよ うに思える。世界的に注目を集めたような作品は決して含まれていなかったし、またフィンランド 人たちのあまりにも健全な建築への取り組みは、現代の日本人にはあまりに刺激が弱すぎたかもし れない。しかし、じっくりとデザインを詰めてゆく真摯な姿勢はいまだに失われておらず、作品は どれも質が高かった。この頃でもフィンランドでは、日本のように建築が消費されたりはしていな かった。バブル崩壊後の1990年代の日本の建築界は、これらの作品群をいかに見たのか。フィンラ ンド建築が、ふたたびわれわれ日本人の建築と社会の姿を映し出す鏡となったのである。 第2節 日本の評価軸から見たヘルシンキの20世紀建築 これまでの分析検証の上で、日本に有用な評価軸に立って、ヘルシンキにある 20 世紀建築を「北 欧モダニズム」として論評し、そのうちの代表的な作品をリストアップすれば以下のようになる。 - 50 - 1-北欧モダニズムの時代のヘルシンキの建築 20 世紀の北欧建築には、いくつかの特色を見出すことができる。そのひとつは、世界の先端を行 く福祉社会を支える基盤としての建築の充実であろう。市民の誰もが入居できる整ったアパート群 や、冬の生活を楽しませる図書館や体育施設。さらに女性の社会進出を援護する保育園や、万人の 老後を保証する各種の生活・医療施設など。これらが有機的に関連しあって、北欧には見事な社会シ ステムが形成されている。建築はその中心的な構成要素をなす。 しかし、別の角度からも北欧建築の魅力は発見できる。建築に加えて家具や食器の分野などにも 共通する、「北欧モダン」と呼ばれるデザイン感覚のすばらしさである。機能重視でありながら機能 偏重に陥らずに、むしろ人間的な温かみが残される。デザインとして繊細を極めることはあっても、 決して華美には走らない。 詳しくみれば「北欧モダン」はひとつではなく、傾向が国ごとに少しずつ異なる。ここではフィン ランドに例を取り、中でも首都ヘルシンキに焦点を当てる。公共建築を中心に、商業建築なども一 部交え、20 世紀に出現した代表的作品をほぼ時代順に並べて検証する。建築の姿を具体的に追うこ とで、「北欧モダン」の全体像が少しでもイメージできるはずである。もちろんアールト作品も、そ の大きな流れの中の重要な一部を占めている。 次項以降に、多くは写真つきで掲げた短文解説の内容からもわかるように、フィンランドの「北欧 モダン」は、世紀初頭のサーリネンの世代がその土壌を耕し、第2次大戦までに何人かのモダニスト によって確立された。戦後にアールトが特別な価値を付け加え、そこにシレンなどの世代の建築家 の活躍もあって、1950~60 年代に広く注目される存在となった。その後の世界的なポスト・モダニズ ム全盛の中でも、レイヴィスカのようなフィンランドの建築家は、それに染まり切ることはなかっ た。続くITブームによる好景気の建設ラッシュの渦中でも、この国の少なくとも一部の実力ある 建築家たちは、着実な建築へのアプローチを捨てなかった。 20 世紀フィンランドの建築家には、ある種の共通性が感じられよう。まずひとつは、社会との接 点を常に意識しつつデザインを進める、抑制の効いた建築家としての姿勢である。加えて、建築を 自然やその他の周辺環境となんらかの形で結びつけようとする彼らの指向性も注目される。そもそ も環境との共生は、この国の人々が自然に身につけている生活感覚でもある。こうして社会や外界 との関係が強く意識されている以上、建築家のデザインが独りよがりに陥ることは少ない。時に、 すばらしく斬新なアイデアで建築と自然の新しい関係などを提案しながら、それが万人に受け入れ られるように、安定した表現語法に昇華するまでデザインは練り上げられてゆく。北欧モダンは、 その結実なのである。 こうしたモダニズムが確立されてゆく過程で、その中心近くにあって常に影響を与え続けたのが、 建築家アールトであった。戦前のアールトはヘルシンキ西郊に構えた自邸での設計活動を通じて、 有機的な本質をもつ独自のモダニズム・デザインを確立し、ノールマルックのマイレア邸という傑作 を仕上げてみせた。戦後は、ヘルシンキ周辺での大規模な作品も増え、その構想の壮大さゆえに時 にこの国の社会システムとの間で軋みを引き起こしつつも、少しずつこの首都の都市空間にも浸透 していった。彼はフィンランドのモダニズムから多くを得つつ、それを何倍も豊かな環境との融合 の提案として返したと言えよう。 アールトの存在がなくても、フィンランド建築の底流をなす環境指向のデザインは変わらなかっ - 51 - たかもしれない。しかし、彼がもたらしたある種の骨太さは、余人からは決して期待できなかった ろう。この国のモダニズム建築は、フィンランド人の共通感覚と、アールトという特別な才能の出 会った場所だけに生まれ得た特別な存在と位置づけることが許されよう。 2-ヘルシンキとその周辺にある主要な 20 世紀建築(※住宅を除く) ・ヘルシンキ駅(1904~14、 Eliel Saarinen) 20 世紀のフィンランド建築が世界から注目されるきっかけとなったサーリネンの作品。ナショナル・ ロマンティシズムに基盤を置きながら、近代志向も明確に形に示した。<前掲・図Ⅰ-1-18> ・証券取引所(1911、 Lars Sonck) 当時サーリネンと並び称されたソンクの作品。造形感覚はまだ重いが、中庭の大きなガラス天井が 新しい時代の到来を予感している。<前掲・図Ⅰ-2-33> ・ストックマン・デパート(1930、 Sigurd Frosterus) ナショナル・ロマンティシズムからモダニズムへの過渡的作品。都市の賑わいの中心として重要な位 置を占める。増築部分(1989、 Gullichsen-Kairamo-Vormala)は、周囲の歴史的建築やアールト作品 との調和を考えたグリクセンらの解答。 ・国会議事堂(1931、 J.S.Sirén) ロシアからの独立を果たしたフィンランドの記念碑。北欧古典主義の典型例だが、過剰なまでの壮 大さは、むしろこの国では例外的な表現。<図Ⅰ-3-1> ・ガラス宮(1936、 Niilo Kokko, Viljo Revell & Heimo Riihimäki) ヘルシンキで最初に実現したモダニズム建築で、当時は映画館が中心だった。近年修復が実現して、 放送スタジオやIT関連施設がはいり、往年の輝きを取り戻した。<図Ⅰ-3-2> ・オリンピック・スタジアム(1940、 Yrjö Lindegren & Toivo Jäntti) 戦前・戦後のオリンピック・ヘルシンキ大会をめぐって実現した建築。戦後の増築部分(1952)を除け ば、白一色で水平線と垂直線が強調され、純粋なモダニズムの表現が際立つ。<図Ⅰ-3-3> ・国民年金協会(カンサン・エラケ・ライトス/1953~57、 Alvar Aalto) 戦後のアールトのヘルシンキでの活動の出発点。外観はさほど目立たないが、内部の構成やインテ リアの密度の高さはアールト作品の中でも群を抜いている。<前掲・図Ⅰ-2-43> ・オタニエミ学生村の礼拝堂(1956~57、 Heikki Siren) 日本にも喧伝された戦後早くのフィンランド建築の良作のひとつで、小品ながら印象深い。森を背 景に戸外に立つ十字架を、ガラス越しに室内から見るアイデアで知られる。焼失後に再建(1978)。 - 52 - ・文化の家クルトゥーリ・タロ(1952~56、 Alvar Aalto) 旧共産党が作った文化センターと党本部の複合建築。特注レンガ・ブロックを用いて有機的な形態を 実現させたオーディトリアム棟と、銅板で整形のオフィス棟が対置されている。<前掲・図Ⅰ-2 -44/45> ・オタニエミ工科大学(現・アールト大学/1964、 Alvar Aalto) オタニエミは工科大学と工学系研究所の集合したヘルシンキ西郊の地区。アールトによる配置計画 に基づき、建物も大学本館を中心に図書館やいくつかの研究所などが彼の設計。<前掲・図Ⅰ-2 -47/48> ・アカデミア書店(1969、 Alvar Aalto) 繁華街にある書店として、ヘルシンキ市内でもっとも接しやすいアールトのインテリア。外観構成 には、アールトには珍しく都市の連続ファサードに対する配慮がある。<図Ⅰ-3-4/5> ・テンペリアウキオ教会(1968~69、 Timo & Tuomo Suomalainen) 花崗岩を掘り込んで作った“岩の教会”として、市内観光名所のひとつ。岩肌のテクスチュアを生 かした内壁、銅を利用した天井など、建築家にも現在でもインパクトが強い。 ・フィンランディア・ホール(1971+1975、 Alvar Aalto) アールト晩年の大作で、ヘルシンキ都市センター計画の一部をなす国際会議場兼コンサートホール。 大理石外壁の剥離や音響の悪さなど問題点の多さでも、話題を提供してきた。<図Ⅰ-3-6/7> ・マルミの教会(1981、 Kristian Gullichsen) アールト以後のフィンランド建築を支えてきた建築家による作品。レイヴィスカと同世代だが、フ ィンランドらしさにこだわるより、普遍的な建築の質の高さをめざしている。 ・ミュールマキの教会(1980~84、 Juha Leiviskä) バブル以前の時期に、もっともフィンランドらしい建築家と目されたレイヴィスカの代表作。建築 の重い存在感より、そよぐ風やうつろう光との一体感を表現しようとした教会。 ・イタ・ケスクスの地下プール(1993、 Hyvämäki-Karhunen-Parkkinen) 岩盤の下に用意されていた核シェルターを、市民のリクリエーションの場に見事に転用した建築。 くり抜かれた花崗岩がそのまま内壁となり、特異な性格の内部空間を生む。<前掲・図Ⅰ-2-59> ・ノキア本社(1983/1997、 Helin-Siitonen) 世界に進出するノキアの企業イメージを表現すべく建てられたガラス張りのハイテク建築。大きな アトリウムが内部空間の核となっている。 - 53 - ・ソイニネンの小学校(1997、 Kaira-Lahdelma-Mahlamäki)Kenttäpolku 3, 00700 Helsinki 保育園ミステリと同じ建築家グループによる作品。ゆるやかに湾曲するレンガ外壁の内側には小さ な「町」が内包され、子供たちはここで「社会」を体験する。 ・保育園ミステリ(1997、 Kaira-Lahdelma-Mahlamäki) 保育園としての適正なスケールと、木を生かした空間の柔らかさが心地よい建築。本来の意味での フィンランド建築の質の高さがよく継承されている現代建築の例。 ・ヘルシンキ現代美術館(1998、 Steven Holl) 長らく手つかずになっていた市内中心部の敷地に、設計競技の結果実現した外国人有力建築家によ る話題作。1990 年代好景気(IT バブル)のフィンランドを象徴する作品。<前掲・図Ⅰ-2-30> <図Ⅰ-3-1> <図Ⅰ-3-2> <図Ⅰ-3-3> <図Ⅰ-3-6> <図Ⅰ-3-4> <図Ⅰ-3-5> <図Ⅰ-3-7> - 54 - <Ⅱ> 第1章 第1節 20 世紀フィンランドの教会建築 建築家ラーシュ・ソンク ソンクの全体像 ここからは、20 世紀フィンランドの教会建築の中でも、特徴のある作品を残した建築家を個々 に取り上げてゆく。まずは、世紀転換期の北欧ナショナル・ロマンティシズム建築の主要建築家 であり、特に花崗岩の利用によって見事な成果を上げたラーシュ・ソンク Lars Eliel Sonck (1870-1956)である。 1-生涯の方向性を決めた処女作の自邸 まず、ソンクの処女作品とみなされる建築を検証する。 ヘルシンキで建築教育を受けたソンクは、1893 年から建築家としての活動を開始する。そして早 くもその翌年に、トゥルクのミカエル教会の設計競技を 23 歳の若さで獲得する。しかし、実際にこ の教会が完成するのは 1905 年になってからのことである。1890 年代の建築家としての経歴を実際に 形作っていたものは、かなりの量にのぼる木造の住宅作品であった。中でも早い時期のものは、ほ とんどがフィンランドとスウェーデンの中間のバルト海に浮かぶアハヴェナンマー諸島に建てられ ている。 その中で特に重要な作品であり、実質的な処女作品と言えるのが、1894~95 年に建設された「ラッ セス・ヴィラ(ラッセのヴィラ)」<図Ⅱ-1-1>と名づけられたソンクの自邸である。彼はこの家で の生活を好み、後年に活動の本拠地をヘルシンキに移してからも折をみてはここに戻り、終生使い 続けた。 <図Ⅱ-1-1> ヴィラは、島内の村フィンストレムから山に入った海の見える場所にある。海と反対側立面の古 い写真は、フィンランド東部カレリア地方の民家との類縁性をもっとも強く感じさせる。外装材を 貼ることなく丸太組み構造をそのまま外にあらわした広い切妻面には、窓が上下2列に並ぶ。その 窓まわりは装飾された幅の広い額縁で枠どられ、特に上階の窓には比較的大きなヴェランダが張り 出す。こうした構成は、カレリア地方でごく一般に用いられるものである。この類似に関しては、 後述するカレリア地方の民俗調査報告書(1900)に用いられている民家の写真に同じようなものがあ ることが知られ、ソンクが報告書刊行以前にこれを見ていた可能性があるとされる。しかし同時に、 石のベースメントを高く積む方法や丸太のジョイント部分を必要以上に長く突き出して装飾的に扱 - 55 - う方法などはカレリア地方の民家とは無関係で、むしろ諸外国のヴィラ建築から学んだ要素であろ う。また、海側ヴェランダの側面にあった「雄牛の眼」と呼ばれる円形の開口部にも、アメリカ東海 岸のヴィラとの関連が見られる。 ラッセス・ヴィラの周辺の自然環境は大変豊かである。ヴィラは海を見下ろす急峻な崖のうえに立 つが、窓から見渡せる風景はかなたの水平線を望むといったスケールのものではなく、海峡のよう に対岸がごく近い。針葉樹林と無数の湖沼が一体となったフィンランド内陸部の風景と変わらない ものになっている。一方、ヴィラの山側では狭い平坦地が前庭をつくり、その向こう側に裏山の原 生林が迫る。背後を山に守られ前面に開放的な光景が広がるといった敷地の設定は、建築家の確か な選択眼を示している。 このラッセス・ヴィラの完成は 1895 年で、ナショナル・ロマンティシズム建築の中でも早い実現例 のひとつである。そこに見出せるソンク自身の理想は、深い自然のなかで生活することを第一義と 捉え、原生林との精神的な対話を通じてすべてを構築してゆこうとするものである。彼の建築家と して活動のスタートは、森の生活の場をまず自分のために用意することであった。都市志向の強い もう一方の雄たる建築家エリエル・サーリネンとは対照的な、ソンクにとってのナショナル・ロマ ンティシズムの原点が、ここにはっきりと示されている。 2-活動の中で出会った“フィンランド”と“スウェーデン” ラーシュ・ソンクは、フィンランド西部のボスニア湾(バルト海の一部)に近い小村の聖職者の 家に 1870 年に生まれた。その後、物心つく頃には家族とともにアハヴェナンマー諸島のフィン ストレム村に移住している。高校時代は親許を離れ、近隣の大都市トゥルクで過ごした。ソンク がその出自から得たものとして、これらの事実にまず注目すべきであろう。 そもそもフィンランドの西海岸地方は、歴史的に固有の文化圏をなしている。12 世紀半ばか ら 19 世紀初頭までスウェーデン支配を受けていたフィンランドにあって、特にこの一帯は農場 経営などで移住してきたスウェーデン人たちがすでに世代を重ねていた。実際、「ソンク」という 姓もあきらかにスウェーデン系のそれで、祖先をたどるとソンッキラ農園の所有者の家系にゆき つくという。スウェーデン支配期を通じて首都の置かれたトゥルクは、多くのスウェーデン人支 配層が住み、スウェーデン文化の影響が色濃い中世都市である。長らくフィンランド唯一だった 大聖堂もトゥルクにあり、この国では稀な本格的なゴシック様式の建築として知られている。 そして、トゥルクとストックホルムからほぼ等距離のバルト海上に浮かぶアハヴェナンマー諸 島は、スウェーデン色の強さでさらに際立った地域と言える。現在に至るまで日常的にスウェー デン語が話されており、文化圏として完全にスウェーデンに属しているのである。フィンランド 本土より古い中世の石造小教会が数多く残り、ソンクの父が牧師をつとめたフィンストレムの教 会(15C 初頭) <図Ⅱ-1-2>もそのひとつであった。 すでに触れたように、ソンクはこのアハヴェナンマー諸島の自然環境をみずからの拠って立つ 基盤とした。建築家としての初期活動をここで行い、みずから生活の場ともした。後年にヘルシ ンキを中心に活動するようになってからも、彼は機会あるごとにここへ立ち帰り、また晩年には、 中央での活動の場がなくなった彼に対して、この故郷は多くの仕事の機会を提供してくれること になった。 - 56 - <図Ⅱ-1-2> <図Ⅱ-1-3> ここで、建築家ソンクの内面における“フィンランド”と“スウェーデン”の対立という論点 が浮上する。そしてこれは、ナショナル・ロマンティシズム期のスウェーデン系フィンランド人 のアイデンティティのあり方と、当時の彼らがとった行動という大きな問題を背景にもっている。 スウェーデン系の人々は、単純に彼らの血に従ってフィンランド民族文化の復興を謳うナショナ ル・ロマンティシズムに常に冷淡であったかといえば、必ずしもそうではない。彼らの家系は、 フィンランドの地で世代を重ねたという意味で、フィンランド人とも言える。彼らは常に自身の 精神面での帰属をめぐる問題を抱えてきた。みずからの出自を刻むスウェーデンの血と、生活の場 たるフィンランドの風土の間で揺れ動きながら、スウェーデン系フィンランド人なりの存在形式を 模索してゆくしかなかった。ソンクもまた、“フィンランド”と“スウェーデン”の二面性を身内 に宿し、建築家の経歴を重ねてゆくことになるのである。 第2節 主要な教会建築作品 研究者 P.コルヴェンマーが作成した作品リスト(Pekka Korvenmaa, Lars Sonck 1870-1956 arkkitehti, SRM 1981, pp.141-152.)によれば、建築家ソンクは生涯に259の作品を残した。 その中で、生涯に設計競技を32回経験しているが、当選は5回のみである。しかもそのうち4 回までは教会が対象となったものであり、その4教会はいずれも建設され完成に至った。 ソンクの作品を全体として捉えるとき、教会建築の数はそれほど多いわけではないが、活動の 重要な柱のひとつとなっていたことは否定できない。ここで検討を加えるのは次の4つの教会建 築で、どれもソンクが設計競技で当選し、今でもフィンランド主要都市の重要な構成要素となっ ている規模の大きな作品である。 ・トゥルクの聖ミカエル教会(設計競技:1893~94、建設:1899~1905) ・タンペレの大聖堂(旧・ヨハネス教会/設計競技:1899~1900、建設:1902~07) ・ヘルシンキ・カッリオ地区の教会(設計競技:1906、建設:1908~12) ・ヘルシンキのミカエル・アグリコラ教会(設計競技:1930・1932、建設:1933~35) 1-トゥルクの聖ミカエル教会(1893~1905) ソンクに関係の深い古都トゥルクに建つ教会である。1893~94 年に実施された設計競技は建築家 - 57 - クラブが初めて監理して、この国に設計競技制度を定着させるきっかけを作った記念すべきもので あった。1894 年春にポリテクニックを卒業する直前の 23 歳のソンクが当選したが、当選案は塔のデ ザインなどで称賛を集めたものの、ソンクの若さもあって構造面などで不備を残した。そこでソン クはドイツへ旅行し、煉瓦の使い方について見識を深めるなど万全を期した。そのため、建設開始 が 1899 年、完成が 1905 年とかなり遅れることになった。ただし、当選案からの変更はデザイン面 では最小限しか認められなかったので、ソンクの最初期の様式を伝える作品と考えてよい。 完成した教会の外観<図Ⅱ-1-4~7>は、ドイツのネオ・ゴシック様式の教会に近いものになっ ている。一方内部<図Ⅱ-1-8~11>では平面形式にゴシックの要素を示しつつも、装飾感覚には O. ワーグナーなどウィーンのゼツェッションの影響もかなり感じられる。同時に、フィンランドの自 然から採った動植物も装飾モチーフとして利用されるなど、すでにナショナル・ロマンティシズム の意識の芽生えも指摘することができる。ソンクらしさはまだ確立されていないものの、フィンラ ンドでもっともアール・ヌーヴォーらしい内部空間をもつ建築のひとつと評することができる。手 法的には多くが混在しているが、仕上がりの丁寧さや堅実さではすでに後年のソンクにつながる特 徴も有している。 <図Ⅱ-1-5> <図Ⅱ-1-6> <図Ⅱ-1-4> <図Ⅱ-1-7> <図Ⅱ-1-8> <図Ⅱ-1-9> <図Ⅱ-1-10> <図Ⅱ-1-11> - 58 - 2-タンペレ大聖堂(1899~07) タンペレはヘルシンキの北方約 160 キロの内陸部に位置する工業都市で、ちょうどこの頃市域が 拡大し、それに伴い新しい教会の建設が計画された。1899 年からの設計競技を経てソンクの手に委 ねられて、1907 年までに完成したタンペレ大聖堂(完成当時の名称は聖ヨハネ教会)は、ソンク個人 のみならずフィンランドのナショナル・ロマンティシズム建築を代表する存在とみなされるような 作品となった。 外観<図Ⅱ-1-12~14>の全体構成は、いくつかの大きな花崗岩の量塊を不規則に集合させたも ので、多くの破風や尖塔がアクセントをなしている。ただし、当選案では尖塔、破風、パラペット などにかなり装飾的な細部が目だっていたが、実施案ではその多くがそぎ落とされ単純化し、付加 物の少ない明確な輪郭線をもつようになった。この変更で、それまでのアール・ヌーヴォー的な印 象が薄れ、力強さが前面に出るようになる。全体の印象としてはフィンランドの中世石造教会にも その源泉をたどることができそうで、特に尖塔部分の形態には、ソンクの故郷フィンストレムの中 世石造教会<前掲・図Ⅱ-1-2/3>からの影響も指摘される。ただし、従来の様式とは異なる幾何学 的形態の開口部なども用いられ、伝統と新しさのバランスが図られている。 特にこの教会を強く性格づけているのは、大きな花崗岩を荒々しく積み上げたような外壁が生み 出す存在感の重さであろう。この粗面の迫力は、後述する「スクエア・ラブル」の石材加工の技法を 駆使して、寸分の狂いもなく精緻に仕上げた結果である。一見自由奔放なようで、実際には十分計 算されたデザイン・バランスと高度な施工技術に支えられ、繊細さと量感を併せ持つ作品が実現し た。20 世紀に完成したヨーロッパの石造建築のなかでも、タンペレ大聖堂は際立った存在のひとつ だと評価できよう。 <図Ⅱ-1-12> <図Ⅱ-1-13> <図Ⅱ-1-14> 内部<図Ⅱ-1-15~20>の平面構成に関しては、英米を中心としたピューリタン系の教会がソン クに影響を与えたと考えられる。一般に、福音主義を奉じて説教を重視する教会の内部では、空間 の象徴性より使いやすさが優先される。タンペレでも、奥行きを制限して柱の少ない平面形式とし、 説教する牧師の声の聞こえやすさや姿の見えやすさに配慮した集中形式に近い空間が採用された。 しかし、実際のタンペレ大聖堂の内部は、使いやすさに関わる評価とは別の次元で、強い主張が 込められた空間が実現している。内部に入ると、まず花崗岩を用いたふたつの太い独立柱が、教会 全体を支えているかのように屹立する。空間のすべての力の流れがこのふたつの柱へと収束してゆ - 59 - く。通常の集中形式の教会がもつ秩序感とは異なった、独特の力感に全体が支配されている。内部 の色調が灰色主体で、ほの暗い空気が漂っていることも、空間を強く性格づけている。このタンペ レ大聖堂の内部空間は、 「ほとんど洞窟のようだが、すばらしく力強く神秘的」と評されることもあ る。ヨーロッパのキリスト教会建築としてはかなり異質の空間性が実現しているといえよう。 <図Ⅱ-1-15> <図Ⅱ-1-17> <図Ⅱ-1-16> <図Ⅱ-1-18> <図Ⅱ-1-19> <図Ⅱ-1-20> 3-ヘルシンキ・カッリオ地区の教会(1906~12) ソンクは 1912 年に完成するヘルシンキ・カッリオ地区の教区教会で、タンペレ大聖堂での表現手 法から大きく方向転換を行う。この教会は、ヘルシンキ南部の天文台の丘に発してピトカシルタ橋 を介して北へ延びる市内でもっとも長い約2キロの直線道路を、その北端で受け止める位置に建つ。 その軸線は教会内部にまで持ち込まれ、左右対称でラテン十字に近い平面構成(縦方向長さを制限し て一応福音派教会としての配慮も見せる)と、身廊部分に一体的に架けられた高さ 18mの円筒ヴォー ルト(フィンランド初の鉄筋コンクリート使用例のひとつ)が、空間の方向性をつくりだしている。 左右対称性は説教壇の配置にも反映していて、通例のように祭壇に向かい左側の壁につけられるの でなく、内陣部分で祭壇、説教壇、聖歌隊席、オルガンが軸線上で奥へと重なり合う構成が取られ た。(ただしこの内陣構成は、1955~56 年の改修で失われた。) カッリオの教会での軸設定に基づく内部空間は、タンペレ大聖堂の力感の強い空間性とはまった - 60 - く異なった性格を与えられている。タンペレでは2本の太い柱に集中されていた荷重は、ここでは すべての柱に均等に配分される。また、灰色のほの暗さを秘めた色調であったタンペレに対し、こ の教会の内部は明るいクリーム色が基調となる。重い存在感や神秘性をめざしたタンペレ大聖堂と は対照的に、このカッリオでの空間性は明晰で秩序ある、調和的なものとなっていると評価できる。 外観についてもタンペレ大聖堂との違いは大きい。すでに述べた長い直線道路を受けとめるアイ ストップとしての役割が考慮され、高さ 64 メートルの塔を中心とした左右対称の構成で、全体はタ ンペレよりはるかに単純な量塊の集合からなる。壁面の花崗岩が粗面仕上げになっている点はタン ペレと同じだが、そのスクエア・ラブルの個々の石材の寸法は、はるかに小さなものに変わってい る。全体として、滑面仕上げの帯や抽象的な装飾が外観を強くコントロールしており、粗面部分は その間を埋めるテクスチュアのみとなっている。ただし、タンペレ以来の石材加工の技術の高さは 着実に継承され、外観では装飾の細部に至るまですべてが花崗岩で作られている。花崗岩の扱いの 見事さは、当時の他の建築家たちをはるかに凌駕するレベルに達している。<図Ⅱ-1-21/22> タンペレからカッリオへと、建築の変化は大きい。タンペレ大聖堂がナショナル・ロマンティシ ズムに基づく独立的なモニュメントとして存在するのに対し、カッリオ地区の教会はむしろ都市環 境の一部としての役割を果たしている。ただし、あくまでも花崗岩を壁面に生かすことで、ソンク の建築の最大の特質は失われていない。タンペレとカッリオという、2つの様相の異なる教会建築 を花崗岩で実現させ、彼は 20 世紀に質の高い石造建築を実現させた建築家として、確実に名を残す 存在となっている。 <図Ⅱ-1-21> <図Ⅱ-1-22> 4-ヘルシンキのミカエル・アグリコラ教会(1930~35) 1930 年代に至ると、フィンランドにも機能主義建築の主張が出現するようになり、設計競技 は伝統主義と機能主義のせめぎ合いの場となった。そうした中で実現したソンクの最後の教会建 築の大作が、ヘルシンキ市内南部のテヘターンプイスト公園に建つミカエル・アグリコラ教会だ った。 大きな注目のなかで 1930 年に行なわれた1回目の設計競技では、審査員は機能主義的な応募 案を当選させたが、施主の教会側がこれに難色を示した。結局 1932 年に再度競技が行なわれる ことになり、ソンクを含む何人かの建築家が招待された。そして2回目の競技は、ソンク案を当 選とする。そして教会は、ソンクの実施案にしたがって 1935 年に完成することになった。 - 61 - 外観はすべて暗赤色の煉瓦で表現され、いくつかの単純な量塊の組み合わせからなる。一端に 塔をもち、特にその頂部には尖った青銅製の先端部がつく。教会が海に近い地区にあることもあ って、入港する船から最初に目に入る塔として、現在ではヘルシンキのシンボルのひとつとなっ ている。すでに花崗岩は使用されないが、それに代わるレンガ工事の質の高さは際立っている。 一方、内部空間も印象的である。ヴォールト架構が放物線を描き、内陣の壁が赤色で塗られてお り、その空間性は予想外に斬新でダイナミックである。当時は伝統主義者と揶揄されながらも、 ソンクは可能な限り新しい建築への接近を試みている。しかも、機能主義者にありがちだった理 論のみ優先して建築としての質を欠くといったことは、彼には無縁である。先鋭な機能主義を表 現してはいないにせよ、十分に新鮮な建築に成り得ている点が評価され、このようなあり方こそ が北欧にとってもっとも自然な進歩であるという見地から、「北欧近代様式」の名が、この教会 に冠されることもある。ソンクが晩年に行きついた境地を示す作品である。<図Ⅱ-1-23/24> <図Ⅱ-1-23> 第2章 第1節 <図Ⅱ-1-24> 建築家アルヴァ・アールト アールトの全体像 まずは、アルヴァ・アールトという大きな存在を、モダニズムの中に位置づける作業が必要である。 1-風土と地縁に発するモダニズムの普遍性 アールトは、常に国籍とともに語られる。同時代のル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ロー エが、いわばモダニズムそれ自体の体現者であったのとは異なり、アールトの場合は根底にモダニ ズムの原理を持ちながらも、具体的な形として現れた作品にははっきりとフィンランド性が刻印さ れている。かつてモダニズムには国籍はなかったが、今では中南米には中南米の、東南アジアには 東南アジアのモダニズムがあって当然と考えられている。地域固有の要素はモダニズムの中の不純 物ではなく、むしろ豊かな内実となった。アールトへの評価も、もはや以前のようなモダニズムの 一変種といったものではありえない。 - 62 - ヨーロッパ北辺の国フィンランドの、特に森が深く固有の文化が根づいている中央フィンランド 地方が、アールトの拠って立つ基盤である。若き建築家の彼は、むしろそうした出自ゆえに時代の 空気に敏感に反応し、純粋なモダニズムの金字塔パイミオのサナトリウムを作り上げた。この時期 のアールトは、フィンランドで先端をゆくヨーロッパ建築の代弁者であった。 まもなく転換期が訪れる。マイレア邸をものする頃から、自身のうちに眠っていた意識が覚醒さ れたかのように、彼の作品にはフィンランドの風土が刻印されるようになる。また風土ばかりでな く、地方建築の伝統的手法や空間構成も自由に応用されてゆく。 戦後、アールトはさらに変身する。モダニズムの同志だったアイノ夫人を亡くし、以後の彼はフ ィンランドからも離脱して、自己そのものの表現に沈潜してゆく。イマトラのヴオクセンニスカの 教会ではフリーフォームが駆使され、空間は幾何学の規範からはずれてゆく。そして最後に、セイ ナヨキやロヴァニエミといった地方都市の中心部をアールト色に染められた複合的建築体としてま とめあげることが、重要なテーマとなった。晩年の彼は、孤高の存在となってゆこうとしたかのよ うに見える。しかし、そうしたアールトの作品にこそ、まごうことなく「フィンランド」の「モダニズ ム」が香り立っていることを、われわれは肌で感じ取るのである。 今世紀を通じて、「近代」の名の下で版で押したような理想主義が押し進められた結果、かつては地域 ごとに成立していた環境バランスが世界じゅうで崩れてしまった。建築もその環境破壊の、重要な一翼を 担ってきたのである。20世紀末の頃にそれに気づいた世紀末のわれわれは、ふたたび地に足のついた着実 な発想の大切さに目を向けるようになった。その時、アールトの建築のあり方から学べることは、何もフ ィンランドあるいは北国という特殊な環境での建築の作り方の問題に止まらないのである。 あらためて注目されるようになった建築家アールトの特徴とは、大きく捉えてみれば、建築が置かれる 環境に対する広汎で柔軟な理解にあるといえよう。彼もモダニズムの建築家である以上、20世紀初頭のフ ィンランド人建築家たちのように歴史性や民族性をストレートに表す形態を建築に盛り込むようなこと はしない。代わって、まず建築と自然風土のつながりが十分吟味され、さらにいわば地縁に支えられた存 在形式が重視される。最終的に彼独特の作品群として結実してゆくこの「風土」と「地縁」こそが、とり もなおさずアールトというフィルターを通して表現されたフィンランドの歴史性や民族性なのである。建 築とその環境への真の深い理解は、結局はフィンランドそのものの本質への理解と重なり合うのである。 建築家アールトは、北国の自然と向き合い、あるいは小さな地方都市のために作品を残した。モ ダニズムに逆行するようでいて、しかしその作品の否応のない豊かさによって世界的な存在となっ た。彼が、ともすれば偏狭な教義を遵守して硬直化しがちなモダニズムの可能性を広げてくれたこ とを、今ではわれわれはよく知っているのである。 2-作品とともに追った生涯 ヨーロッパ北辺の国フィンランドの、それも内陸地方の一寒村クオルタネで生まれたアールトは、その 生涯を通じて一地方の建築家から全国的に知られた建築家へ、そしてさらに世界的に著名な建築家へと地 位を高めてゆく。しかし、そのステップアップにも関わらず、建築とその環境に対する彼の基本的な姿勢 は、一貫して変わらず守られてゆく。 まず大学卒業後に、彼は少年期を過ごした内陸の地方都市ユヴァスキュラに戻って最初の設計事務所を 開設する。北欧古典主義とよばれるモダニズム以前の様式を用いたこの時期にも、ユヴァスキュラの労働 - 63 - 者会館(1924~25)<図Ⅱ-2-1~3>のような質の高い作品が残されている。しかし、アールトの存在が 本格的に注目されるようになるのは、事務所を西海岸の都市トゥルクへ、さらには首都ヘルシンキへと移 して、作風もモダニズムを基本とするようになってからである。その初期の代表作パイミオのサナトリウ ム(1929~33)<前掲・図Ⅰ-2-19/20>は、若いアールトのみずみずしい感性を伝える傑作である。 <図Ⅱ-2-1> <図Ⅱ-2-2> <図Ⅱ-2-3> そして何よりも、自然と一体化するように森の中にたたずむマイレ・グリクセン夫人の住宅マイレア邸 <前掲・図Ⅰ-2-21~23>(1938~39)の印象は、一度訪れた者には忘れ難い。一般のモダニズム建築が、 機能主義を奉じるあまり、住宅であってさえ冷たく張りつめた固い空間を作り出してしまうことが多い中 で、マイレア邸の生活空間の暖かさと柔らかさは他に例を見ない。この住宅を性格づけているのは、工場 生産の近代的材料に代わって随所に用いられている、木材その他の自然材の質感であろう。玄関ポーチは 自然石が敷かれ、木造の屋根で覆われている。内部の居間も、天井は木で作られ、鉄製の柱も手に触れる 高さの部分には籐が巻かれている。美術愛好家として知られた夫人の数々のコレクションと共に、植物の 緑も室内の随所に持ち込まれる。居間の奥では大きな暖炉の火が揺れ、体ばかりか心まで暖めてくれるか のように周囲を照らし出しているのである。機能性を追求するモダニズム建築としての基本的性格はすべ て捨てられたわけではないが、それだけでは説明がつかない味わいのある建築が、ここに実現されている。 第二次大戦中に一時アメリカを活動拠点として、戦後に帰国したアールトは、さらに独自の姿をもつ作 品群を次々と生み出して、再び充実した活動を展開し始める。これ以後の彼はまさに国際的な建築家とい うにふさわしく、フィンランド国内のみならずアメリカや他の北欧各国、さらにはドイツやフランスなど でも作品が実現するようになってゆく。 しかし本質的には、彼の作品はあくまでもフィンランドにあってこそ価値があったし、さらに言えば地 方の風土あるいは地縁と結ばれていてこそ生き生きと輝いたのである。事実彼は、戦争直後に煉瓦という 伝統的な材料を生かして親しみやすい表現を実現したセイナッツァロの役場(1949~52)<前掲・図Ⅰ2-40/41>に始まり、晩年に至るまで、フィンランドの地方市町村やその周辺の自然のなかでの作品を、 首都ヘルシンキでの作品にも増して積極的に手がけた。その他の作品でも、イマトラのヴオクセンニスカ の教会(1956~58)やロヴァニエミの図書館(1961~68)<前掲・図Ⅰ-2-28>などが、その特にすばら しい実例として思い起こされよう。アールトの場合、傑作といわれる作品の大半は、風土とともにある。 さらに、セイナヨキやユヴァスキュラといった地方都市で、彼は都市の中核となるべき複数の公共建築 群を設計している。これらの多くは、幼少年期以来アールトの才能を育んでくれた地域のために、いわば - 64 - 御礼奉公のごとく作品を残している例でもある。国内のそれも地方の視点から言えば、アールトは世界的 建築家である前に、まず“おらが村の英雄”でありえたといえる。一方彼は、首都ヘルシンキでももちろ ん作品を残し、なかには人工地盤を用いた大規模な都市センター計画のような国家を象徴する大プロジェ クトも含まれるが、しかし成功している例はむしろ少ない。 20世紀にあって、近代性ばかりでなく風土や地縁にも支えられたアールト作品のような存在がありえた 事実を、見すごしてはならない。彼の作品のもっとも大きな特徴は、すぐに目につく不規則な形態(これ については実は根底に合理的な発想がある)などではない。本来ありえないはずの“ナショナルなインタ ーナショナル・スタイル”という建築のあり方をごく自然に実現させてしまった点こそが、根なし草の近 代建築へのアンチテーゼとして、本当に重要なのである。そして、アールトのこうした建築への姿勢を支 えていたのは、フィンランドという国への彼の深い理解と愛情だったことを、強調しておきたい。 アールトは、1972年7月にインタヴューに答えて次のように発言している。彼の思想の本質をもっとも よく伝えていると考えられるこの一節を最後に掲げることにする。 「 ...ジグフリート・ギーディオン(注:近代建築の発展に尽くした建築評論家で、『空間・時間・建築』 などの著作がある)は、私の特徴が、国際主義だと書いたことがあります。がしかし、私はフィンランド で建てたい、そう、フィンランドで建てることが好きなのです。これは自然な感情的な動機によるばかり でなく、私がフィンランドの建築的問題を最もよく知っているということにもよるのです。同時に、私は 私が国際的であると感じていますが、国際主義が唯一の正しいアプローチであるような人とは違ったふう にです。もし、バックグラウンドを形成するもの、地方に根ざしているものを欠いたとすれば、それは空 虚な話です。... 」(『アルヴァ・アアルト作品集』第3巻(A.D.A.EDITA Tokyo)より) 3-主要 30 作品の概観および活動・作品年表 (1)カンサン・エラケライトス(国民年金局) 1948、1953~57、ヘルシンキ 戦後のヘルシンキでの活動の出発点で、白い壁のモダニズム一辺倒からの脱皮を首都でも示してみ せた作品。複雑な内部空間の統合やインテリア造作の見事さでも、アールトの公共的な作品中で群 を抜く。<前掲・図Ⅰ-2-43> (2)ラウタ・タロ 1951、1952~55、ヘルシンキ ヘルシンキ中心部に立つ店舗を含むオフィスビルで、銅板のファサードをもつ。内部の3層吹抜け のライト・コートには、アールトのデザインによるカフェもあったが、現在では移転。 (3)クルトゥーリ・タロ(文化の家) 1952~56、ヘルシンキ 旧共産党が作った文化センターと党本部の複合建築。特注のレンガ・ブロックを用いて有機的な形態 を実現させた。音響的にも優れるオーディトリアム棟と、銅板で整形のオフィス棟が対置されてい る。<前掲・図Ⅰ-2-44/45> (4)ヘルシンキ都市センター計画 1954~64、1971~、ヘルシンキ テーレ湾の南側に3段に分かれた人工テラス広場を設けて歩車分離を図り、湾の西岸には複数の大 - 65 - 規模文化施設を配する壮大な計画。アールトの戦後の中心テーマだったが、あまり実現しなかった。 (5)エンソ・グートツァイト本社 1959~62、ヘルシンキ 大製紙会社の本社オフィス。イタリア産大理石を用いて規則的に窓が並ぶファサードは、アールト らしからぬ端正さだが、周囲の新古典主義建築の歴史的都市景観を、結果的にはやや乱している。 <図Ⅱ-2-4> (6)アカデミア書店 1961、1962、1966~69、ヘルシンキ 内部に大きな吹抜けをもつ書店で、ヘルシンキ市内でもっとも容易に体験可能なアールトの空間。 彼が都市建築に取り組んだ少ない例のひとつで、ファサードには町並みとの連続性に対する配慮が 見られる。<前掲・図Ⅰ-3-4/5> (7)フィンランディア・ホール 1962、1967~71、1973~75、ヘルシンキ アールト晩年の大作で、都市センター計画の一部をなす国際会議場兼コンサートホール。テーレ湾 に映る姿は美しいが、大理石外壁の剥離(のち貼り換え)や音響の悪さなど、問題点の多さでも話 題を提供してきた。<前掲・図Ⅰ-3-6/7> 。 (8)オタニエミ工科大学(現・アールト大学)キャンパス 1949~78、オタニエミ 工科大学や研究施設の集合したヘルシンキ西郊地区。アールトの全体配置計画は一部変更されたが、 大学本館や図書館を含む 14 作品が彼の設計で実現。キャンパスの建築は、レンガ色で統一される。 <図Ⅱ-2-5> (9)オタニエミ工科大学(現・アールト大学)本館 1949、1955~66、オタニエミ 扇型平面の大講堂を中心に、建築学科・測量学科・カフェテリアなどを含む。大講堂部分の特徴的な 外観は、アールトによる造形中でも特に印象深いひとつで、大規模な建築を単調さから救っている。 <前掲・図Ⅰ-2-47/48> (10)スニラの製紙工場 1937~38、1950~53、スニラ 友人かつパトロンであった H.グリクセンが経営する製紙製材の大企業アールストレム社のために手 がけた工場建築。近代産業をダイナミックに表現するのは、初期アールト作品の重要テーマのひと つだった。継続して、隣接する労働者住宅地も建設された。<図Ⅱ-2-6/7> (11)ラハティの教会 1969~79、ラハティ 小高い丘に塔を際立たせて、都市のランドスケープを支配している教会。内部では奥に向かって側 壁と天井が絞り込まれて、十字架と祭壇に対する求心性が演出される。アールト死後に完成。 (12)ヴオクセンニスカの教会 1956~58、イマトラ - 66 - アールトの教会建築の頂点。外観では白い壁と黒い屋根と塔が非対称な形態を構成し、内部ではも はや壁と天井の区別が消滅したようなフリーフォームが実現。祭壇付近の光の扱いも印象深い。 (13)ユヴァスキュラの労働者会館 1924~25、ユヴァスキュラ この都市にアトリエを置き、地方建築家として活動した時期の代表作。モダニズム以前の北欧古典 主義に基づき、オーダーや様式的なキャノピーを用いている。細部まで丁寧な仕上げで、完成度が 高い。<前掲・図Ⅱ-2-1~3> (14)ユヴァスキュラ大学 1951~71、ユヴァスキュラ 旧制師範学校が教育大学さらに総合大学へと昇格するのに合わせて、アールトが長期にわたって担 当したキャンパス拡張計画。大学本館・学部棟・付属小学校・体育館・学生寮・カフェなどを含む。 (15)ユヴァスキュラの行政・文化センター計画 1964~82、ユヴァスキュラ 地方都市のセンター計画のひとつ。既存の市庁舎建築と同一ブロック内に、市議会タワーをもつ市 役所増築・劇場・警察署などを配して中庭を囲い込む構想。ただし、タワー部分などは実現せず。 1971~73、ユヴァスキュラ (16)アルヴァ・アールト美術館 故郷とも言えるユヴァスキュラに建てられたアールトの個人名を冠した美術館。白い外壁の一部に 磁器タイルを用いた簡素な外観。内部には、彼の建築・都市計画・家具などの展示もある。 (17)セイナッツァロの役場 1949~52、セイナッツァロ 戦後早い時期のレンガ造の作品で、小規模ながら代表作のひとつ。議場・役場オフィスの他に、図書 館・店舗なども中庭の周囲に配されて、親しみやすい建築の表情や人間的なスケール感が心地よい。 <前掲・図Ⅰ-2-40/41> (18)ムーラメの教会 1926~29、ムーラメ 初期のアールトが、(修復を別とすれば)初めて手がけた教会作品。北欧古典主義に基づきながら、モ ダニズムへ移行する予感があり、同時にイタリアの風景への憧れも感じられる白い建築。 (19)トゥルン・サノマット新聞社 1928~29、トゥルク ユヴァスキュラからトゥルクへアトリエを移して手がけた最初の本格的作品。平滑な白い壁面と水 平連続窓が目立ち、直前に訪れたパリで接したル・コルビュジエ作品の影響も感じられる。<図Ⅱ2-8> (20)パイミオのサナトリウム 1929~33、パイミオ ヴィープリの図書館と並んで、彼の名をヨーロッパに広めた作品。ヘルシンキ自邸やマイレア邸で 独自の表現に向かう以前の純正なモダニズム。患者用ベッドや椅子なども、すべてが彼のデザイン。 <前掲・図Ⅰ-2-19/20> - 67 - 1924~25、セイナヨキ (21)セイナヨキの自警団本部 ユヴァスキュラの労働者会館とともに、モダニズム以前のアールトの主要作品のひとつ。ベースメ ント以外は木造で、道路側ファサードではジャイアント・オーダーの付柱が端正な表情を作る。 (22)セイナヨキの都市センター 1951~87、セイナヨキ アールトによる地方都市のセンター計画で、ユヴァスキュラやロヴァニエミよりも規模が大きい。 教会・教区センター・市庁舎・図書館・行政棟の他、本人の死後建設の劇場も含めてすべてが完成。 (23)セイナヨキの教会と教区センター 1952、1956~62/1956、1962~67、セイナヨキ 都市センターの東半分を占める宗教施設。1400 人の収容規模はアールトの教会建築として最大で、 高さ 65mの塔は周辺農村部からも遠望できる「平原の十字架」として意図されている。 (24)セイナヨキの市庁舎 1958、1959~65、セイナヨキ :センター計画の核をなす建築で、議場部分のシンボリックな形態と、そこに張られた磁器タイルの 深い青色が印象に残る作品。これ以後、アールトは磁器タイルを随所に用いるようになる。<前掲・ 図Ⅰ-2-46> (25)セイナヨキの図書館 1960~65、セイナヨキ ヴィープリ以来、アールトが重要テーマとしてきた図書館建築の集大成。同時並行して進めたロヴ ァニエミの図書館とともに、空間構成の手法を確立した作品。<図Ⅱ-2-9> (26)アラヤルヴィの役場 1966~69、アラヤルヴィ 小さな町アラヤルヴィは、学生だったアールトがよく滞在した。晩年になってここに実現させた役 場は、保健センター・教区センターとともに、いわば「地縁」によって成り立つ彼の作品の典型例。 (27)ロヴァニエミの行政・文化センター計画 1961~88、ロヴァニエミ 北極圏への玄関口の都市の中心部計画で、市庁舎・図書館・文化施設の3つからなる。長く手つかず だった市庁舎も 80 年代に完成し、セイナヨキとともに彼の全体構想が実現した数少ない例となった。 (28)ロヴァニエミの図書館 1961~68、ロヴァニエミ アールト円熟期の代表作のひとつ。扇型部分をもつ平面に、室内の床レベル差とハイサイドライト による採光を巧みに組み合わせて、明るくしかも落ち着ける閲覧空間を実現させている。<前掲・図 Ⅰ-2-28> (29)ラッピア・タロ 1969~76、ロヴァニエミ 劇場などを含む複合文化施設で、ロヴァニエミ都市センター計画の一部をなす。広場から見ると、 オーディトリアムの屋根の曲線の連なりが、この地方特有のなだらかな小丘の続く地形を連想させ - 68 - る。<図Ⅱ-2-10> (30)ヴィープリの図書館 1927~35、ヴィープリ [現ロシア] 当時はトゥルクと並ぶフィンランドの文化中心だったヴィープリで実現させた図書館。パイミオの サナトリウムとともに、アールトをモダニズムの旗手として有名にした。長らくソ連側にあって荒 廃していたが、ロシアになってからフィンランドも協力して修復工事が行われた。 <図Ⅱ-2-4> <図Ⅱ-2-6> <図Ⅱ-2-5> <図Ⅱ-2-7> <図Ⅱ-2-9> <図Ⅱ-2-8> <図Ⅱ-2-10> - 69 - アールトの活動歴と主要作品年表 <前期:戦前> 1898:クオルタネで生まれる 1903:一家はユヴァスキュラへ転居 1921:ヘルシンキ工科大学建築学科を卒業 1923:ユヴァスキュラに設計アトリエを開設 ・ユヴァスキュラ期(1923~) アラヤルヴィとユヴァスキュラの初期作品(1910~20S) ユヴァスキュラの労働者会館(1924~25) ユヴァスキュラの旧自警団本部(1927~29) 1927:トゥルクに設計アトリエを開設 ・トゥルク期(1927~) 南西フィンランド農業組合(1927~28) トゥルン・サノマット新聞社(1928~29) パイミオのサナトリウム(1929~33) ヴィープリの図書館(1927~35) 1933:ヘルシンキに設計アトリエを開設 1935:家具のアルテック社を設立 ・ヘルシンキ期(1933~) 自邸(1934~36) レストラン・サヴォイ(1937) スニラのパルプ工場(1937~38)と同労働者用住宅地(1937, 38, 47) カウットゥアの階段状集合住宅(1937~38) 規格化住宅「A-ハウス」(1937~)と規格化サマーコテージ案(1941) ニューヨーク万博フィンランド館(1938~39) マイレア邸(1938~39) 1940-48:アメリカでMITの客員教授 <後期:戦後> ・最盛期(1950s~) セイナッツァロの役場(1949~52) ムーラッツァロの夏の家「コエ・タロ」(1953) アトリエ・アールト(1954~55) 1955:ヘルシンキに新・設計アトリエを開設 オタニエミ工科大学キャンパス(1949~78) ユヴァスキュラ大学キャンパス(1951~71) クルトゥーリ・タロ(1952~56) カンサンエラケ・ライトス(1953~57) イマトラのヴオクセンニスカの教会(1956~58) ブレーメンのノイエファール地区高層住宅(1958~62) ヴォルフスブルクの文化センター(1958~62)と同教会(1959~62) オールボーの北ユトランド地方美術館(1958,1962~72) ・晩年期(1970s~) フィンランディア・ホール(1962,1967~71,1973~75) ヘルシンキの都市センター計画(1954~64, 1971~) セイナヨキの都市センター(教会・教区センター・市庁舎・図書館・劇場など)(1951~87) ロヴァニエミの都市センター(ラッピアタロ・図書館・市庁舎)(1961~88) ユヴァスキュラの都市センター(1964~82) アラヤルヴィのセンター(1966~70) - 70 コルピラハティのオクサラ邸(1965~66, 1974~76) 1976:ヘルシンキで死去 第2節 主要な教会建築作品 アールトの作品数は、その算出基準によっていくらか幅があるが、以下を採用するものとする。 ・建築 = ・地域・都市計画 = ・規格化住宅 179(うち、フィンランド国外19) 11(いずれも一部のみ実現) = 約2500(実現数の推定値) ・その他(テキスタイル・絵画・彫刻・オブジェ・宝飾・舞台・他) この179の建築作品の中に含まれるアールトの教会建築の数は、必ずしも多くない。本質的にアールトは、 一般に想像されるようなキリスト教の教会建築、すなわち宗教に基づく象徴性の高い純粋な空間を追求す ることを好むタイプの建築家ではなかった。ただし教会建築も、それを巡る環境まで考慮に入れると様々 な存在形式がある。すなわち、カトリックではなくプロテスタント教会であること、北欧人あるいはフィ ンランド人の意識や宗教観が反映していること、あるいは地域社会の中で役割を果たすものであること、 などを含めて考えれば、アールトの教会建築のあり方は見事な多様性を帯びてくることになる。 ここでは、アールトの教会建築のうちから、以下の主要な5作品についてその実現の経緯や基本的な特 徴を整理する。 ・ムーラメの教会(1926~29) ・イマトラのヴオクセンニスカの教会(1956~58) ・セイナヨキの教会と教区センター(1952,1956~62/1956,1962~67) ・ラハティの教会(1969~79) ・リオラの教会(1966, 1975~78, 1993~94)<イタリア> 1-ムーラメの教会(1926~29) ユヴァスキュラに事務所を置いていた初期のアールトは、既存の教会の修復・改修を手がけることが多 かったが、このムーラメの作品で彼は初めて教会建築をみずからデザインするチャンスを得た。そしてこ こで彼が実現させたのは、当時一般的だった北欧新古典主義に基づきながら、彼の内なるイタリアの風景 への憧れがよく現れた白い教会であった。傾斜屋根の架かった教会本体の脇には独立的な鐘塔が立ち、他 方の脇に突出した教区ホールは外に対してロッジアを開く。当初はロッジアの先にローズガーデンも計画 されていたが、これは実現しなかった。一方、二廊形式で木造ヴォールト天井に覆われた教会内部は、初 期のPHランプが使用され、装飾を抑えた整理されたデザインとともに、モダニズムにも通じる感触があ る。 1920年代の終わりのこの時期のアールトの作品は、それまで順守してきた北欧新古典主義と新たな潮流 のモダニズムの間で揺れ動いている。たとえば、ムーラメの教会とほぼ同時進行でユヴァスキュラ市内に 完成させた旧自警団本部(1926~29)は、様式主義の要素を残しつつも陸屋根でモダニズムの表情の方が むしろ強い。こうしたアールトの模索は、1927年にヴィープリの図書館の設計競技に新古典主義的モチー フを用いて当選した彼が、1933年の最終第4案までにそれを平滑な壁面と大きなガラス面の目立つモダニ ズムの建築へと変更してみせることによって、はっきりと決着がつけられることになる。そしてこの1927 年に、彼は事務所をユヴァスキュラから、スウェーデンにも近い西海岸の都市トゥルクへと移してゆくの である。 - 71 - 2-イマトラのヴオクセンニスカの教会(1956~58) すでに述べたように、アールトには教会作品は必ずしも多くないが、その中で最高峰に位置すると目さ れるのが、この教会である。“イマトラの教会”という呼称も使われるが、イマトラの駅から約5㎞ほど 北へ向かったヴオクセンニスカ地区のための教会なので、“ヴオクセンニスカの教会”の方が正確であろ う。(イマトラには、この他にも地区ごとに2つの教会がある。) イマトラはロシア国境近くに新設されたパルプを中心とした工業都市で、ここからバスで国境を越えた ロシア側の最初の都市が、かつてはフィンランドの文化都市だったヴィープリである。戦争直後の1947~ 53年に、アールトはイマトラに新しい工業地帯を生み出すための地域計画を立案し、その一部を実現させ ている。彼の計画は、周辺の既存の3つの村にそれぞれ工場ユニットを配置し、それらを交通システムな どで統合してひとつの都市にまとめようとするもので、旧ヴオクセンニスカ村にも工場が建設されてイマ トラの一地区となった。ただしここは風向きによっては工場からの刺激臭が漂い、生活環境としては必ず しも恵まれてはいなかった。 1958年に完成したヴオクセンニスカの教会は、ここの地区計画の一環として位置づけられる。元来、プ ロテスタント系の教会は、純粋な祈りの空間としてばかりでなく、地区のコミュニティー施設としての役 割も担うが、この教会はまさにその好例をなす。特に工場地帯の住民の日常生活を考えれば、宗教的なミ サはむしろ中心ではなく、各種集会や社会活動の場として広く利用できる教会の方が強く求められた。ア ールトは、多くの制約や諸条件の中で複合的なテーマが課された場合ほど、新たなアイデアに基づいた造 形や豊かな空間性を生み出してゆく傾向がある。その意味からもヴオクセンニスカの教会は、まさに彼が デザインを飛翔させる格好の舞台となった。 この教会は“3”をテーマとしている。外観<図Ⅱ-2-11~15>については、近づいてゆくと、このテ ーマに因んで先端が3部分に分かれた白いスリムな塔が、まず周辺の林の上に突き出して見え、工場煙突 が林立する地区に教会が存在することを教えてくれる。おもに白い壁と黒い銅板屋根からなる外観は、見 る位置を変えると別の作品に思えてしまうような自由な形態で、それがわずかな造形的破綻もなくまとめ られている。ただし、その自由さも単なる放縦さとは異なり、内部にある空間の連続性をそのまま外部に 現したものであることが分かる。 <図Ⅱ-2-11> <図Ⅱ-2-12> <図Ⅱ-2-13> - 72 - <図Ⅱ-2-14> <図Ⅱ-2-15> ほとんど白一色に塗られた内部<図Ⅱ-2-16~25>では、約800人を収容できる空間が中心となってい る。特徴的なのは、この大空間が必要に応じて3つに区切って使えるという点で、境界となる部分に厚さ 42㎝で防音効果の高い電動間仕切り壁が用意されている。3つの空間のうち、十字架と祭壇・説教壇・オ ルガンが設置された部分は宗教専用だが、それ以外の2つは特に平日は周辺住民の様々な活動に提供され ることになる。 そしてこの構成上の工夫は、他に類例のない独創的な内部の空間形態とともに実現しているのである。 側壁は祭壇に向かって左側が直線的なのに対し、右側は空間の3分割に呼応して3つの湾曲を描く。同じ ような関係は、平らな床と曲面をなす天井にもあてはまる。そして、湾曲した壁はもはや常に垂直とは限 らず、ある部分では傾斜してそのまま曲面の天井へとつながり、壁と天井の区別はほとんど消滅してゆく。 アールト特有のフリーフォームが、平面形や断面形に留まらずに3次元的に実現しており、内部空間が有 機性を宿した最高の実例となっている。アールト自身は、説教壇からの声がよく通るように音響効果を考 えてこうした空間を生み出したと述べており、実際そのために縮尺模型と光線を使ったシミュレーション 実験をしたことが知られている。 宗教的空間としての象徴性についても、ヴオクセンニスカはあとで述べるラハティなどよりも効果をあ げている。正面の3つの十字架に対しては上方の小窓から光が投げかけられ、明暗のコントラストが描き 出される。曲面をなす背後の壁に落ちる十字架の影は時々刻々と変化してゆき、見る者は何かを感じ、し ばらく無言で立ち尽くすことになる。こうした空気を湛えたアールトの教会作品は他にはあまりない。 <図Ⅱ-2-16> <図Ⅱ-2-17> <図Ⅱ-2-18> - 73 <図Ⅱ-2-19> <図Ⅱ-2-20> <図Ⅱ-2-23> <図Ⅱ-2-21> <図Ⅱ-2-24> <図Ⅱ-2-22> <図Ⅱ-2-25> 3-セイナヨキの教会と教区センター(1952,1956~62/1956,1962~67) 南オストロボスニア地方の中心都市セイナヨキは、フィンランド西部の平原の中心に位置し、国鉄幹線 が5つに分岐する交通上の要衝である。ただし、1960年にようやく正式に都市の資格を得た若い都市で、 核となりうるような歴史的建造物もなく、中心部は本来もつべきポテンシャルを欠いていた。この無個性 だった都市に、1950年代以降円熟期のアールトが大きなエネルギーを投入して、センターの建設を着々と 押し進めることになった。 アールトは、国内外の多くの都市のために、複数の建築からなる行政・文化・宗教センターの建設計画 を残している。建築群に囲まれた外部空間をいかに構成するかは、彼にとっては建築単体の内部空間と同 様に重要なテーマであったように思われる。さらに特徴的なのは、フィンランド国内のセイナヨキ、ロヴ ァニエミ、ユヴァスキュラ、クオピオにせよ、国外のアヴェスタ(スウェーデン)、ヴォルフスブルク(ド イツ)、カーストロープ=ラウクセル(ドイツ)にせよ、彼が好んで手がけたセンター計画は、新興工業 都市や特徴の少ない中規模地方都市のためのものがほとんどであった点であろう。歴史が深く染みついた 都市を相手にするよりも、むしろまだ個性のない都市をアールトの色に染め上げることを、彼は望んだよ うに見える。彼は後年にヘルシンキのセンター計画にも取り組んだが、この唯一の大都市のための計画で は、必ずしも満足ゆく成果は残せていない。 アールトのセンター計画は、本人の死後にアールト事務所が完成させた部分を含めたとしても、計画ど - 74 - おりにすべて実現しているものは多くない。そうした中でセイナヨキは、規模が比較的大きく、しかもほ ぼ完成に至っている稀な例である。まず1951年に、教会を中心とする東側の宗教ブロックの設計競技が先 行した。アールトの応募案は条件違反があって当初は選外となったが、結局彼の提案が採用される。一方、 市庁舎を中心とする西側の行政・文化ブロックも1958年に設計競技となり、こちらもアールトが当選した。 これによって、道路をはさんだ2つのブロックは一体化され、統合された都市センターとしての建設が可 能となったのである。以後、東側ブロックに教会(1952,1956~62)と教区センター(1956,1962~67) が、西側ブロックに市庁舎(1958,1959~65)、図書館(1960~65)、行政オフィス(1964~68)が次々 と姿を現す。設計後に建設着工が唯一滞っていた劇場(1961~69,1984~87)も、アールトの死後になっ たが完成した。6棟すべてがアールトの建築から成る都市センターが実現しており、しかも少なくともそ のうち3棟(教会、市庁舎、図書館)が建築単体としても彼の主要作品に数えられる質で揃っているのは、 このセイナヨキだけである。<図Ⅱ-2-26~27> <図Ⅱ-2-26> <図Ⅱ-2-27> 教会と教区センターは、セイナヨキの都市センター計画の中で他に先行して進められた部分である。実 際、この教会が規模と質の両面から、セイナヨキの都市センター全体の計画の基準となった旨を、のちに アールト自身も述べている。当初1951年の設計競技では、アールトの応募案は当選しなかった。教区セン ターのウィングを長く延ばして教会の前庭を囲み込むことで、ここに夏に野外礼拝や祝祭に利用できる戸 外空間を作ることを提案したため、面積面で競技条件をオーバーしてしまったのである。しかし、審査員 団は結局このアールトの提案を支持して、これに基づいて実施案を作成するよう推薦した。結局翌年に教 会のデザインはアールトの手に任され、1956年にさらに計画の拡張も依頼されることになる。実現した教 会と教区センターは、設計競技案とそれほど大きく違わないが、教会とその塔を黒花崗岩張りとする当初 からの構想だけは、費用の面から実現できず、白塗りのレンガの壁と銅板屋根による表現となった。 まず目立つのは、教会の脇に 65mもの高さで十字架の形をして独立的に建っている塔である。アールトは 設計競技応募案を「平原の十字架」と名づけて、そのイメージを伝えるスケッチも提出していた。実際に 完成した塔も、セイナヨキ周辺の大平原の中で、遠目にも見える十字架として大変シンボリックな存在と なっている。<図Ⅱ-2-28/29> <図Ⅱ-2-28> <図Ⅱ-2-29> - 75 - 教会本体もカテドラルの規模をもち、アールトの残した最大級の教会建築であろう。1400の信者席を有 する内部はほぼ左右対称な平面で、白一色の内壁が清潔な印象を演出する。奥の祭壇と十字架に向かって 身廊の幅が微妙に狭まってゆく構成は、両サイドに規則正しく配置された列柱とともに、実際の空間より も深い奥行きを感じさせる。天井や床にわずかなむくりや傾斜があることも合わせて、一種の内部空間の 錯視の効果が追求されているようで、アールトの作品としては比較的珍しい例となっている。他には、ほ ぼ同時期の1950年に設計競技が行われたラハティの教会でも、応募案の内部スケッチを見ると同様の空間 処理が行われていることがわかる。ただしラハティの場合は、1970年代になって再計画された段階で、奥 に向かって狭まってゆく壁の配置だけが採用されるにとどまった。<図Ⅱ-2-30~33> <図Ⅱ-2-30> <図Ⅱ-2-31> <図Ⅱ-2-32> <図Ⅱ-2-33> 4-ラハティの教会(1969~79) アールトとフィンランドの教会建築について簡単にまとめておく。ユヴァスキュラにアトリエを開いて いた最初期には、既存の教会の修復や改修を手がけることも多かったのだが、作風を確立して名声を得て からのアールトは、教会に取り組むことを特に避けているわけではないにせよ、必ずしも積極的な姿勢は 示していないように見える。これは、20世紀フィンランドの建築家としては、どちらかといえば異例のこ とに属する。フィンランドでは現代でも教会税が存在する(ルーテル派教会が地区住民の戸籍管理を代行 することに対し、国庫金から手数料が支払われる)事情から、各地の教会組織は建設資金を潤沢にもつ。 そのため、新しい教会が設計競技に付される機会は日常的に大変多いし、また教会という建築が要求する 空間の象徴性は、建築家であれば必ず腕をふるってみたいテーマのひとつでもあろう。もし、アールトが - 76 - 教会建築のデザイン、中でもその内部空間への取り組みにあまり関心がないとしたら、その姿勢自体が彼 の志向する空間性の一端を示しているようで興味深い。実際、彼の教会は、ランドスケープの中でその尖 塔がしばしば印象的なアクセントを作り出すが、一方教会内部の光を用いた宗教性の演出などはあまり強 い印象を残さない。彼の求める内部空間の光は、それとはまた別の北欧の光であったのかもしれない。 ヘルシンキにはアールトの教会作品は残されていない。従って、ヘルシンキからもっとも近くで彼の教 会が体験できるのが、このラハティの教会ということになる。当初、1950年に設計競技が行われてアール ト案が当選したが、実際の建設は見送られた。1969年に改めて別の敷地での教会建設がアールトに委嘱さ れ、1975年までに実施案が作成されたが、建設が完了して献堂された1979年にはアールトはもはやこの世 にいなかった。 この作品の最大の特徴は、E.サーリネン設計のラハティ市庁舎(1913)との関係が強く意識された配置 計画にある。市内の小高い丘に立つ教会からは、直線道路が市内中心部へと下りてゆき、繁華なマーケッ ト広場を通り抜けて、ふたたび道路はなだらかに上り、市庁舎が立つもう一方の丘に至る。両者の塔は呼 応しあい、都市のランドスープを見事に引き締めている。<図Ⅱ-2-34/35> <図Ⅱ-2-34> <図Ⅱ-2-35> 教会は、レンガタイルを主体とした姿を持つ。内部には、2階バルコニーも含めて 1,100 の座席が用意 された。空間的には、正面奥に向かって側壁や天井が絞り込まれてゆき、十字架と祭壇に対する求心性が 生み出されている。また、建設委員会の要請により祭壇や座席の一部が取り外し可能になっており、宗教 施設ばかりでなく文化施設としての役割も果たしている。オーケストラ規模のコンサートが可能で、ここ で録音されたCDなども見かけることがある。<図Ⅱ-2-36~39> <図Ⅱ-2-36> <図Ⅱ-2-37> <図Ⅱ-2-38> <図Ⅱ-2-39> - 77 - 5-リオラの教会(1966, 1975~78, 1993~94)[イタリア] アールトとイタリアの関係は、本来大変深い。1920年代の北欧新古典主義の影響下に建築家としての活 動を始めた当初から、古典主義のルーツとしてのイタリアの歴史的建築への関心は強かった。戦後には、 そうした様式に対する興味にとどまらず、イタリアの山岳都市などに見られるヴァナキュラーな風景や環 境への憧れも、作品の中に表現されるようになっていった。晩年には、建築のモニュメンタリティーを表 現するために、イタリア建築の形態言語や材料をフィンランドでいかに生かすかが再び彼のテーマとなっ た。1924年のアイノとの新婚旅行以来、イタリアは彼のもっとも好む旅行先でもあった。アールトのこの 国への思いは、青年期から晩年に至るまで途切れることなく続いたといってよい。アールトの作品の基底 にフィンランドの伝統を見るとしたら、それと同等とは言わないまでも、かなりの程度までイタリアの歴 史的建築や環境から得た要素も評価しなければならないはずである。 それにもかかわらず、アールトがイタリアでみずから実現させた作品が非常に限られているのは、やや 意外な点である。新都市建設計画、歴史的都市改造計画、住宅地計画、芸術家村、博物館、コンサートホ ール、個人住宅など、様々な計画がアールトの前に提示されたが、どれもが実現することはなかった。19 56年のヴェネツィア・ビエンナーレの木造の展示館は完全な形で実現したが、これはフィンランドで作っ た部材をイタリアへ運んで組み立てたものだった。 そうした中で、ボローニャから南へ約40㎞離れた村リオラに計画された教会は、アールトがイタリアで 実現させたほとんど唯一の本格的な作品となった。建築に熱心なボローニャの枢機卿の求めに応じて、ア ールトは1966年に計画案を作り上げたが、資金面の問題から建設は持ち越しになった。アールト最晩年に なって建設のメドがつき、1975年から計画が練り直されたが、結局建設が完了したのはアールト死後の19 78年になった。 教会の外観は、アールトの他の教会作品とは大きく異なるものになっている。断面形はまるで鋸の歯を 立てたようで、この歯の部分に3列になった長いハイサイドライトが用意され、内部に明るい光をもたら している。その内部では、天井を支えるコンクリートのアーチが、まるでアールトの曲げ木の椅子の脚を 思わせるような形を見せていて目を引く。問題が残されているのは、教会本体に寄り添って建つはずの塔 が建設されていない点である。塔のない外観の構成は、やはりバランスを欠いたものと言わざるをえない。 第3章 第1節 20 世紀フィンランドで教会建築が果たした役割 様式・デザイン面での時代の表象として ここでは、ソンクとアールト以外の 20 世紀の教会建築も含めて分析の対象とする。全体を広く俯 瞰して、フィンランドの教会建築が実現させた特質をいくつか抽出して、実例とともに検証を加え てゆく。まず第1節では、建築の様式面やデザイン面から推移を跡づける。 1-アール・ヌーヴォーまたはナショナル・ロマンティシズム [トゥルクの聖ミカエル教会(1893~1905)/他] - 78 - 19 世紀末あるいは 20 世紀初頭のヨーロッパ建築は、 「アール・ヌーヴォー建築」と総称されるが、 むしろ各国の多様性にこそ特徴があることはすでに指摘した。特に、周辺国型の近代化を経験する ことになる国々においては、中央から一定の原理を学びつつもそれが独自の多様な方法で展開され て、みずからの国や民族の固有性を強く主張する建築に結実した。フィンランドはまさにその周辺 国に属し、 「ナショナル・ロマンティシズム建築」を成立させた。中でもすでに言及した建築家ソン クによるトゥルクの聖ミカエル教会とタンペレ大聖堂は、その典型的な姿を見せていると言ってよ い。前者では、ナショナル・ロマンティシズム初期の手法として、民族や風土に由来するモチーフ を装飾として貼り付ける手法が採られており、例えば建築の内外に用いられている「キノコ」の図 像<前掲・図Ⅱ-1-7>は、フィンランドの森の豊かさを想起させる。一方後者では、ナショナル・ ロマンティシズム後期の花崗岩の存在感を生かした表現<前掲・図Ⅱ-1-14>が実現している。 フィンランドのナショナル・ロマンティシズム建築がどのような表現手法をもつのか整理してお くと、次の2つのタイプの手法を抽出することができる。 (A)民族の歴史や風土に由来するモチーフを、装飾として貼り付ける手法 (B)壁面を花崗岩で構成することで、その重厚な存在感を誇示する手法 まず(A)の手法について検討してみる。ナショナル・ロマンティシズムの発想は、非ヨーロッパ 的な森の民としてのフィンランド民族の出自を強く意識して、ヨーロッパ的な様式よりも深い原生 林に息づく動植物や架空の生物こそがみずからの本質を表現しているとする考え方にゆき着いた。 その結果、建築の骨格は従来とさほど変わらなくとも、その表面に自国の風土や伝説を表象する装 飾を配して建築の民族性を謳いあげるという建築の構成手法が成立する。ただしこの建築の表面処 理の手法は、当時のヨーロッパのアール・ヌーヴォーに代表される建築動向としても、それほど異 質なものではなかったと言える。北欧各国およびフィンランドの例で言えば、デンマークのコペン ハーゲン市庁舎<前掲・図Ⅰ-2-3>が、用いられる図像こそ民族性や社会状況の違いを反映して異 なれ同じ手法を試みている。ヘルシンキにあるフィンランド国立博物館<前掲・図Ⅰ-2-8>の一部 でも応用されている。さらにトゥルクの聖ミカエル教会<前掲・図Ⅱ-1-4~11>も、この手法を取 り入れた早い例と言えよう。 一方の(B)の手法は、花崗岩という建設素材の扱いに即して生まれたものである。(A)と比較し て、すぐれて建築的な解決方法だと言えよう。ある程度早い時点ですでに花崗岩壁面は実現してい たが、これは折衷主義の建築の枠組みを出るものではなかった。その後、建築がナショナル・ロマ ンティシズム文化の一部として地位を得たことが契機となって、花崗岩が建築の技術的な問題を越 えて、より思想的な次元に昇華されて解釈されるようになった。そして結果的に、この石材による 表現がもたらす豊かな存在感こそが、フィンランドの盛期ナショナル・ロマンティシズム建築の最 大の特徴として確立されるに至るのである。そして、このような花崗岩を巧みに使いこなした中心 的建築家がL.ソンクだった。タンペレ大聖堂<前掲・図Ⅱ-1-12~20>はその見事な実例であり、近 代の石造建築の傑作に数えられよう。 花崗岩の利用は、フィンランドのナショナル・ロマンティシズム建築を特徴づける大きな要素である。 当時のロシアからの独立をめざす民族主義的風潮の中で、この土着の素材の硬さが注目され、フィンラ ンドが保つべきアイデンティティの強さの暗喩とみなされ、建築への利用に大きな意味が与えられた。 古来花崗岩を多く産出して、一方で他の石材をあまり持たないフィンランドでは、中世教会の多くを花 - 79 - 崗岩で建てた歴史をもつ。しかし近世以降は、この硬い石材をうまく使いこなす技術が得られなかった こともあって、城砦建築など一部例外を除いて、花崗岩を建築に生かす途は閉ざされた。19 世紀以降に 近代都市ヘルシンキを飾ったヨーロッパ風の様式建築にしても、ほとんどは石造ではなく、レンガ造ス タッコ(化粧漆喰)塗りであった。そうした中、ナショナル・ロマンティシズム期に至って、再び花崗岩 の活用の動きが始まったのである。 その過程で、フィンランドは花崗岩利用の先達と言えるスコットランドの都市アバディーンに着目し た。何人かのフィンランド人建築家がアバディーンを訪れ、長い歴史をもつ採掘場を見学し、建築の外 壁を石材で構成するための「スクエア・ラブル」の技法を学んでフィンランドへ持ち帰った。近代にふさ わしい独自の花崗岩建築を実現させるために、多くの努力が積み重ねられたことがわかろう。その結果 として、フィンランドの中世石造教会が新しい姿になって20世紀によみがえったのである。 他の周辺文化圏諸国に目を向けてみれば、花崗岩に限らず特定の建設材料を高いレベルで使いこ なすことを通じて、民族や風土に由来する存在感を建築に付与しようとする方法は、一定の有効性 をもっていることが指摘できる。スウェーデンのストックホルム市庁舎<前掲・図Ⅰ-1-17>や、ハ ンガリーのブダペストの郵便貯金局(1899-1902) <前掲・図Ⅰ-1-16>は、熟達した建築家によって 巧みにまとめ上げられた作品の例である。その他にも、ラトヴィアやハンガリーでナショナル・ロ マンティシズムに分類されている建築作品には、(A)タイプよりこちらの(B)タイプの手法が用い られていることが多い。 花崗岩を用いた建築表現の手法が完成することによって、北欧のナショナル・ロマンティシズム は建築運動としての頂点を形成した。「形態」によってではなく、「材料」によって新しい建築が主張 されている点において、これは新しい建築であったといえる。素材自体のもつ潜在的な力や存在感 を生かしてゆくこの手法は、さまざまな建築形態の主張が乱立していた世紀転換期だからこそ、大 きな有効性をもった。周囲から様々な影響を受け入れながらも花崗岩という材料に固執することで、 フィンランドのナショナル・ロマンティシズム建築はその姿を作品ごとに微妙に変えながらも、ナ ショナル・ロマンティシズム建築としての本質を失うことなく存続することができたのである。 2-北欧古典主義からモダニズムへ [ヘルシンキ・テーレ地区の教会(1927~30)/カンノンコスキの教会(1938)/他] 第一次世界大戦の勃発とともにナショナル・ロマンティシズム建築はほぼ終息した。その後、フ ィンランドのロシアからの独立(1918)とその後の内戦を挟んで、1920 年代に主流となったのが「北 欧古典主義建築」であったが、ただしこれは比較的短命に終わった。ほどなくスウェーデンで建築 家アスプルンドが全体を統括したストックホルム博覧会(1930)が開催され、その会場計画と個々 の会場建築<前掲・図Ⅰ-2-12>がきっかけとなって、北欧にも「モダニズム建築」が導入されたと 言われている。 この項で、北欧古典主義とモダニズムを一括して扱うのには理由がある。通常では、この2つの 建築様式は相対立するものとして扱われようが、北欧ではむしろ一連の流れの中にあるのである。 つまり、 「存在感」を誇示し壮大になりがちだったナショナル・ロマンティシズムを解体して、より 合理的なモダニズムへ進むに当たり、 「形態」として解析できるタイプの建築として古典主義を経由 - 80 - したものと解釈できるのである。多くの場合、ナショナル・ロマンティシズムの建築家は次代には 活動を縮小せざるを得なかったが、北欧古典主義の建築家はそのままモダニズムの建築家として活 動を継続してゆく。 まず取り上げるヘルシンキ・テーレ地区の教会(1927~30/H.エケルンド)<図Ⅱ-3-1~6>は、 フィンランドにおける北欧古典主義の教会建築の典型例である。いくつかの単純形態を組み合わせ て、随所に古典主義のモチーフを貼りつけた外観はすっきりとしたものである。フィンランドのこ の時期の新古典主義建築のうちで、たとえばナチス・ドイツの建築が求めたのと同じような国家主義 的な姿を追求したと言えるのは、ヘルシンキにある国会議事堂<前掲・図Ⅰ-3-1>がおそらく唯一 の例であろう。テーレ地区の教会での古典主義の様式は、威厳を表すような役割は決して与えられ ず、むしろ形態の単純化や合理化のために用いられている。ここからモダニズムの白い建築への道 程は、決して遠いものではないことは容易に理解される。 <図Ⅱ-3-1> <図Ⅱ-3-4> <図Ⅱ-3-2> <図Ⅱ-3-5> <図Ⅱ-3-3> <図Ⅱ-3-6> 1930 年代のモダニズムの教会建築には、まず装飾を排した白い単純形態の外観が共通している。 先述のテーレ地区の教会の外観から様式に基づいた装飾モチーフをはぎ取れば、この姿が得られる のである。一方、内部空間には往々にして色彩の組み合わせが用いられる。 ナッキラの教会(1935~37/E.フットゥネン)<図Ⅱ-3-7~14>は、こうした例である。フットゥ ネンはおもに工場建築を手がけた建築家として知られるが、教会建築にも熟達した手法を用いてい る。外観では外壁の白さが際立ち、内部では壁や天井を彩度を落とした原色で塗り分けている。こ の内部空間の色彩計画は、北欧古典主義期からモダニズム初期の北欧に共通しており、たとえばデ - 81 - ンマーク・フューン島に作られたフォーボーの美術館<前掲・図Ⅰ-2-10>などにも見られる。 <図Ⅱ-3-7> <図Ⅱ-3-8> <図Ⅱ-3-11> <図Ⅱ-3-9> <図Ⅱ-3-10> <図Ⅱ-3-14> <図Ⅱ-3-13> <図Ⅱ-3-12> カンノンコスキの教会(1938/P.ブロムシュテット)<図Ⅱ-3-15~26>は、内陸部フィンラン ドの林業で暮らす村に建った小さく珠玉のようなモダニズム教会である。限られた予算や材料の中 で、ひたすら純粋なモダニズムの表現に徹している姿がなんとも美しい。フィンランド・モダニズム の知られざる名作である。建築家パウリ・ブロムシュテットはユヴァスキュラの学校以来のアールト の盟友であった。建築家としてアールトより先に、独立後まもないヘルシンキに乗り込んでモダニ ズムの首都への改変を夢見て奮闘したが、若くして逝った。 <図Ⅱ-3-15> <図Ⅱ-3-16> <図Ⅱ-3-17> - 82 - <図Ⅱ-3-18> <図Ⅱ-3-19> <図Ⅱ-3-21> <図Ⅱ-3-22> <図Ⅱ-3-24> <図Ⅱ-3-20> <図Ⅱ-3-23> <図Ⅱ-3-25> <図Ⅱ-3-26> 1930 年代のフィンランドには、教会建築以外にも白い純粋な初期モダニズム建築が建った。まず、 アールトの初期作品であるヴィープリの図書館、トゥルン・サノマット新聞社<図Ⅱ-2-8>、パイ ミオのサナトリウム<前掲・図Ⅰ-2-19/20>などがこれに該当する。ただし、それらばかりでなく、 他の建築家の手がけた例としても、ヘルシンキのガラス宮(1936、 N.コッコ他)<前掲・図Ⅰ-3-2> やオリンピック・スタジアム(1940、 Y.リンデグレン他)<前掲・図Ⅰ-3-3>のようなすばらしい作 品例もある。フィンランド・モダニズムの黄金期のひとつであったと言えよう。 第2節 自然との一体性を具現する存在として 前節で言及したように純粋なモダニズム建築が成立したあと、フィンランド建築はより独自の道 を歩み始めることになる。アールトによるマイレア邸(1938~39)<前掲・図Ⅰ-2-21~23>が大き な転機となった。これ以降のフィンランドのモダニズム建築は、理念としてのモダニズムを重視し - 83 - て造形を追求する姿勢から離れ、地域の固有性を主張する「北欧モダニズム建築」へとシフトして ゆく。従って教会建築の場合も、造形理念を追う視点などはもはや有効ではありえない。むしろ、 建築として周辺環境といかなる関係を持っていたか、あるいは教会として人間といかなる関わりあ い方を築いたか、といった視点からの分析が必要となろう。 その1つめは、教会建築と自然との一体性の問題である。 1-木を媒介として [オタニエミ学生村の礼拝堂(1956~57、1978)/他] フィンランド建築と自然の関わりとしては、まずは木を媒介とする方法に言及しよう。これはあ る意味では使い古された陳腐な視点ともいえるが、実際の自然との関わりあい方の質まで検証して みる必要があると考えている。 具体的には、オタニエミ学生村の礼拝堂(1956~57、1978/H.シレン)<図Ⅱ-3-27~34>を取り 上げてみる。オタニエミ工科大学(現・アールト大学)の学生寮が集まった地区の小さな森の中に用 意された、週末の学生礼拝のための建築である。一度放火により焼失したが、建築家本人によって 変更なく再建された。レンガの壁の上に簡素な木造屋根を架構しただけの構造だが、その内部空間 では木との親密感が強い。それに加えてこの作品を世界に広く知らしめたのは、祭壇うしろの全面 ガラス窓の外に、十字架が森を背景として立っている点であろう。礼拝は、この戸外の十字架に向 かって、つまり森に向かってなされるのである。 戸外に立つ十字架は、北欧にはストックホルムの森の墓地<前掲・図Ⅰ-2-15/16>のような先例 もある。ただし、オタニエミの礼拝堂が違うのは、その森が十字架とともにすぐ近くに存在する点 である。遠い森の美しいシルエットを眺めるような視点なら、自然を「愛でる」習慣のある日本人 にも親しいものである。ところがここでは森はごく近く、祭壇うしろの窓いっぱいに広がって、森 全体は目に入らない。むしろ個々の木々の枝ぶりや木肌が直接迫ってくるのである。その結果、教 会内に身を置く人間は、自然に「棲みこむ」感覚を得る。ここにあるのは、美しく概念化された自 然ではなく、平凡でどこにでもある実在的な自然との繋がりである。北欧人が好む森林浴という行 動にも似た、彼ら特有の自然との関わり方が実現していることが実感される。フィンランドでは、 教会建築での礼拝行為もそうした場で行われることが好まれるのである。 この他の教会建築でも、木との関わりが構法的にも空間的にも生かされている例が多く存在する のが、フィンランドの大きな特徴であろう。20 世紀以降の教会では、木を生かすことがむしろ通常 の方法となっているとさえみなすことができるかもしれない。 <図Ⅱ-3-27> <図Ⅱ-3-28> <図Ⅱ-3-29> - 84 - <図Ⅱ-3-30> <図Ⅱ-3-32> <図Ⅱ-3-31> <図Ⅱ-3-33> <図Ⅱ-3-34> 2-花崗岩を媒介として [ヘルシンキのテンペリアウキオ教会(1968~69)/他] 次いで、花崗岩を媒介とする自然との一体性である。花崗岩については、すでにタンペレ大聖堂 <前掲・図Ⅱ-1-12~20>という大きな例について検証を済ませている。ただし、タンペレの例は、 20 世紀初頭のナショナル・ロマンティシズムという時代精神のもとで作り上げられたものであり、 そこから生まれた重厚な存在感は、現代における花崗岩の有効性を示しているものとは言い難い。 より現代に近い利用例として、ヘルシンキのテンペリアウキオ教会(1968~69/T.+T.スオマライネ ン)<図Ⅱ-3-35~42>を挙げることにしよう。 フィンランド南部の一帯は、地質学上の分類で「ラパキヴィ」と呼ばれる花崗岩が露出したバル ト楯状地の上にある。ヘルシンキも例外ではなく、現在でも市内で花崗岩の隆起が残されたままの 公園などを見かけることがある。それを生かそうとする建築家の発想が、このユニークな「岩の教 会」を生み出した。現在では、市内観光のバスが続々と乗りつける観光名所となっている。また岩 壁が生みだす音響もすばらしく、室内楽規模のコンサートの場になることも多い。 ここに教会を建設する計画はすでに 20 世紀前半からあり、当初の設計競技ではごく当たり前に、 まず土地を平坦にならしてから教会を建てる計画が当選した。しかしこれは建設に至らず、戦後の フィンランド建築の隆盛期とも言える 1960 年代に再度設計競技が実施され、スオマライネン兄弟の 応募案が採用され建設も実現した。敷地に残る花崗岩の隆起をそのまま残して、更地にして壁を建 て上げる代わりに、隆起部分を上から掘り込んでその内側に内部空間を確保した。あとはその上に 銅板で屋根だけを架けた。外観はほとんど花崗岩の隆起だけが目立ち、ここに建築があることは遠 - 85 - くからはほとんど気づかれない。簡素な入口を入ってみると、内壁がむき出しの粗い花崗岩で作ら れ、その上に銅板を同心円状に巻いた屋根が架かった内部空間が現れる。人々の視線が集中する祭 壇付近では、その後ろの花崗岩壁が特に表情をもっている。自然の岩壁に囲まれた内部は、独特の 充実した空間体験をもたらしてくれる。 <図Ⅱ-3-35> <図Ⅱ-3-36> <図Ⅱ-3-37> <図Ⅱ-3-39> <図Ⅱ-3-38> <図Ⅱ-3-40> <図Ⅱ-3-41> <図Ⅱ-3-42> - 86 - 花崗岩の現代建築への利用は、教会以外でも行われている。ヘルシンキ・イタケスクス地区の地下 プール<前掲・図Ⅰ-2-59>がそのよい例で、この建築でも花崗岩の内壁が独特の表情を生み出して いる。地下プールとなる以前は、ここはヘルシンキ市当局が全市民を収容できるよう用意していた、 非常時の核シェルターであった。そのほか、原子力発電を推進するフィンランドでは、高レベル放 射性廃棄物最終処分場「オンカロ」の建設を西部地方で計画し、花崗岩の岩盤を地下 420mまで掘り 下げて、2020 年本格操業開始をめざしている。様々な点からこの国は花崗岩と縁が深い。 3-光を媒介として [ヘルシンキ・ミュールマキ地区の教会(1980~84)/他] 自然との一体性を表現するフィンランド教会のもうひとつの方法は、光を媒介とするものである。 フィンランド人は、特に冬は光の乏しい環境に身を置くゆえに、光のあり方に対して大変繊細な感 性を持っている。ただしそこでの光は、キリスト教会という対象から想像されるような宗教性に基 づく、象徴的な光ではない。むしろ、フィンランドで日常的に接することの多い光のあり方のこと である。その彼らが理想とする光の環境のひとつは、針葉樹の森に入って佇む際に感じられるよう な、木立の間を縫って上方から降り注ぐ光である。この淡い散乱光すなわち「森の木漏れ日」を愛 する感覚は、多くの北欧の人々に共有されている。 この光を教会の内部に持ち込んだ早い例が、タンペレのカレヴァ教会(1964~66/R.ピエティラ) <図Ⅱ-3-43~49>である。設計したピエティラは、作風の変転が多く評価の難しい建築家だった が、このカレヴァ教会では北欧人の理想とする光に取り組んで、それを見事に実現させてみせた。 <図Ⅱ-3-43> <図Ⅱ-3-46> <図Ⅱ-3-44> <図Ⅱ-3-45> <図Ⅱ-3-47> - 87 - <図Ⅱ-3-48> <図Ⅱ-3-49> そして、カレヴァ教会以上に光の導入を見事な形で実現させたのが、ヘルシンキ・ミュールマキ地 区の教会(1980~84/J.レイヴィスカ)であった。全体の姿<図Ⅱ-3-50~52>には特に目立つ要 素もなく、ヘルシンキ郊外の小さな樹林の脇に静かに建っている。自然と対立したり、あるいは周 囲を威圧するような様子は一切ない。建築体は大きな1つの量塊ではなく、小さく軽い多くの部分 の接合で作られて、周辺の樹林になじんでいる。小さな部分から建築が始まり、次第に姿を高めて ゆくといった風である。 <図Ⅱ-3-50> <図Ⅱ-3-51> <図Ⅱ-3-52> 訪問者は、そうした感覚の延長上でごく自然な形で建築内部<図Ⅱ-3-53~56>に導かれる。そ こは縦線と横線のみの交錯で作られた淡い光の空間である。すなわち、 「縦」としては多くのペンダ ントライトを吊るす細く長いケーブルのライン、それにオルガンのパイプがある。一方の「横」に は、光を通す素材でできたテキスタイル(十字架もテキスタイルでできている)の水平線や、信者 席のベンチがある。その他に、斜め方向の線やカーブする線などはここには一切持ち込まれていな い。そして、多くの縦長のスリット状の窓から導入された光が室内を満たす。無数と言ってもよい ペンダントライトが灯ると、そこに一種の浮遊感が加わる。スリットの重なり合いは、その間に光 と影を生み、まるで水墨画の「にじみ」のような効果をもたらす。内部の構造体がおもに木である 分だけ空間が柔らかく、差し込む光との親和力を高めている。 ここを訪れた人間は、誰もが穏やかな光が与えてくれる落ち着きと安らぎを感じとり、ゆったり と豊かな心持ちになれるのである。 - 88 - <図Ⅱ-3-53> <図Ⅱ-3-54> <図Ⅱ-3-55> <図Ⅱ-3-56> 建築家のレイヴィスカは、ヨーロッパの建築史にも造詣が深い。ミュールマキの内部空間の浮遊 感は、彼が賞賛する南ドイツのロココ様式の教会の内部空間に通じるものがあると同時に、そこに 彼自身の感覚が生んだフィンランドの自然との一体感が重なりあって生まれたものだと解釈するこ とができよう。最後に、彼の言葉を引用しておく。 「・・・私にとって、 “建築作品”としての建物など どうでもいいのだ。建築が意味を持つようになるのは、建物が環境や生活や光と対位法の関係にあ る時だけだ。」(1995 年の本人の発言/「建築と都市」誌 1995 年 4 月号より) 第3節 人間の活動に場を提供する施設として 最後の特質として、人間に活動の場を与える施設としての教会の役割がある。その活動の内容が 宗教に関わるものだけに限らないのが、20 世紀フィンランドの教会建築の大きな特徴なのである。 1-北欧人の死への思いを共有する場として [トゥルク公共墓地の礼拝堂(1938~41)/他] まず教会本来の役割と考えられる中から探せば、死への思いを共有する場としての教会建築があ る。世界遺産になったスウェーデン・ストックホルムの森の墓地<前掲・図Ⅰ-2-15/16>の例にも感 じられた「死んで自然に還る」という北欧人が希求する深い思いは、他の墓地礼拝堂でも受け継が - 89 - れているのである。 フィンランドの場合は、トゥルク公共墓地の礼拝堂(1938~41/E.ブリュッグマン)<図Ⅱ-3-57 ~63>が、それにもっとも相応しい空間を作り出している例である。ブリュッグマンは、西海岸の 古都トゥルクを拠点に活動した建築家である。対岸のストックホルムには、北欧モダニズムの先達 と言えるスウェーデンの建築家アスプルンドがいた。アスプルンドの作品がたたえる深いロマンテ ィシズムは、フィンランド側ではアールトではなくブリュッグマンに受け継がれ、それをもっとも よく示している作品がこの墓地礼拝堂だと言える。 建築は公共墓地の豊かな緑の中に建ち、白いモダニズム建築ではあるが随所に簡略化された装飾 や様式的な扱いが見られ、狭量で信条的なモダニズムとは一線を画している。内部は、天井が高く 窓の小さい身廊部分と、天井は低いが側面がガラスの開口部になって外の森に開いている南側側廊 からなる。(北側側廊はない。 ) 一方祭壇付近には、南側の広く高い窓から自然光が降り注ぐ。特 徴の1つは葬儀列席者の座る長椅子で、祭壇に対して正対せず、やや南方向に振れて配置されてい る。これによって列席者は、祭壇と棺と外の森を等分に見ながら葬儀に参加することになり、死者 への思いはそのまま外の森へと向かってゆくことになる。 <図Ⅱ-3-57> <図Ⅱ-3-59> <図Ⅱ-3-58> <図Ⅱ-3-60> - 90 - <図Ⅱ-3-61> <図Ⅱ-3-62> <図Ⅱ-3-63> <図Ⅱ-3-64> さらに、祭壇に届く光が深い意味をもたらすことを、多くの列席者は感じることであろう。外か らの祭壇への自然光は、季節や天候あるいは時刻によって移ろい、祭壇自体も刻々と表情を変えて ゆく。死者のために設えられた場の空気が、自然の移ろいに寄り添う。 「死んで自然に還る」という 北欧人の思いに応える空間が、ここに実現しているのである。 2-コミュニティー施設として役割を果たす器として [エスポー・オラリ地区の教会(1981)/他] 次いで、キリスト教会の中でも特にプロテスタント教会に要求される“非宗教的”役割として、 地域のコミュニティーに奉仕して場を提供するという側面を検証する。プロテスタントは、カトリ ックより教義を合理的に説明することが強く求められ、また地域の日常生活に溶け込むことによっ - 91 - て人々の心に浸透することをめざしている。そうした役割を担った早い例は、アールトのイマトラ のヴオクセンニスカの教会<前掲・図Ⅱ-2-11~25>に見られる。つまり、その内部は宗教性に基づ く象徴的空間であるとともに、電動間仕切りで3分割することで、それぞれの小部屋が地域住民の 集会所としても使用可能となる面も持っている。先述したこの建築の空間の複合性は、アールトの 個人的な嗜好だけが理由で生まれたものではない。むしろフィンランドの教会が地域に融和するた めの手段として、率先して求めた建築の多目的性でもあった。 地域のコミュニティーの場としての役割をイマトラとはやや別の形で実現したのが、エスポー・オ ラリ地区の教会(1981/K.+S.パーヴィライネン)<図Ⅱ-3-65~74>である。ここでは、教会内部 というより、隣接して用意された「中庭」がその役割を担う。交通量の多い幹線道路側の壁面は高 く閉鎖的に作られる一方で、逆側では教会は中庭に対して開く。その中庭には大きな木が枝を広げ、 心地よい静かな空間が地域住民のために用意されている。時に保育園の園庭としても開放され、子 供たちの歓声が響くこともある。 建築を中庭に向けて開く方法は、遡ってみればアールトによるセイナッツァロの役場<前掲・図Ⅰ -2-40/41>という先例があった。建築家パーヴィライネンの空間構成は、明らかにここの中庭が下 敷きにされている。レンガ色の壁面の採用ももちろんだが、他にも建築群の間から少し高い位置の 中庭へ上がる石段などが、セイナッツァロの役場へのオマージュとなっている。アールトよりさら に遡ると、元来中庭形式は、北欧の厳しい冬でも吹雪や強風から守られて戸外作業ができるスペー スとして、農家の伝統的な配置形式であった。モダニズム建築家でありながら伝統に学ぶことの多 いアールトがそれを 20 世紀に復活させ、さらにオラリの教会で参照された。こうした連続性が生ま れてゆくことも、北欧モダニズムのもつ特徴のひとつと言うことができよう。 <図Ⅱ-3-65> <図Ⅱ-3-67> <図Ⅱ-3-66> <図Ⅱ-3-68> - 92 - <図Ⅱ-3-69> <図Ⅱ-3-71> <図Ⅱ-3-73> <図Ⅱ-3-70> <図Ⅱ-3-72> <図Ⅱ-3-74> 3-現代社会の中での瞑想の場として [ヘルシンキ・カンピ地区の礼拝堂(2008~12)/他] 最後に、現代社会の中での瞑想の場としての教会について触れる。教会は本来キリスト教に基づく祈りの空 間であるが、現代のフィンランドではそれが宗教を超えた万人の心の安息の場として役割を付与されることが ある。 先述のオタニエミ学生村の礼拝堂<前掲・図Ⅱ-3-27~34>も、宗教にこだわらずに人が森によっ て心を休める空間を提供していたとも言える。十字架はむしろ森の一部であった。他には、トゥル クの聖ヘンリー礼拝堂(1995~2005/M.サナクセンアホ)<図Ⅱ-3-75~76>は、7つのキリスト - 93 - 教派が合同で人々の魂の救済の場として計画したエキュメニカル(全キリスト教)礼拝堂である。 その単純で象徴的な外観と内部は、確かにあまり宗派を感じさせない祈りの場である。 <図Ⅱ-3-75> <図Ⅱ-3-76> 21 世紀に入り、同じ役割を担ってさらに広く万人に開放される形で計画されたのが、ヘルシンキ・ カンピ地区の礼拝堂(2008~12/K.リントゥラ+N.シロラ+M.スンマネン)<図Ⅱ-3-77~83>で ある。これはルーテル派ヘルシンキ教区とヘルシンキ市社会福祉局の協働で、あえて現代の都会の 喧騒の中に建設された。日々の忙しい暮らしで心が疲れた人々が、仕事のわずかな合間にでも立ち 寄って、静かな空間にひたり瞑想する場として意図されている。ヘルシンキ中心部の硬い都市空間 の中にあって、この建築だけは内外とも木を多用している。湾曲した壁面を木材で作り上げるため に、高度な最新技術が利用されている。ただし、そうしたことを感じさせない単純な形が、木が生 み出す柔らかさを引き立てている。内部空間もごく単純で、窓のない木の壁に囲まれてその上部に 外からの光が少しだけ注ぎ込む。正面の簡素な祭壇に、気づかれないほど小さな十字架が置かれて いるが、空間の焦点になっていないことは明らかである。多くの人々は静かにここにやってきて、 しばらく佇み、そしてまた無言のまま立ち去ってゆく。 フィンランドの現代教会建築がゆき着いたひとつのあり方が、ここに示されていると言えよう。 <図Ⅱ-3-77> <図Ⅱ-3-78> - 94 - <図Ⅱ-3-79> <図Ⅱ-3-81> 第4節 <図Ⅱ-3-80> <図Ⅱ-3-82> <図Ⅱ-3-83> 社会的公共財になったフィンランドの教会建築 ここまで検証を重ねてきたように、フィンランドのキリスト教会建築は、中世にヨーロッパ文化の輸入の産 物として始まった当初の姿があり、近代に向けて建築様式面でも社会組織面でも次第に国内での基盤を確固と したものにして、20 世紀には自然との一体性という北欧らしい独自の性格を獲得し、さらに現代では特定の 宗派の教義に縛られずに人々の心の安息に寄与する「社会的公共財」としての地位を付与されるに至 っている。建築のデザインとしても様々な様相を経てきたが、それぞれ各時期の姿は教会の特質や 役割の変遷とともに歩んできたものだと総括することが許されよう。 この国の教会建築が果たした社会的、建築的な役割の大きさに、改めて注目することの重要性を 強く感じている。 - 95 - ※第3章に関わる参考文献 ・Severi Blomstedt et.al., Raili and Reima Pietilä – Challenging Modern Architecture, SRM Helsinki, 2010. ・Vilhelm Helander, Suomalainen Rakennustaide, Kirjayhtymä Helsinki,1987. ・Helsingin kaupungin Sosiaalivirasto, Kampin Kappeli, (pamphlet), 2012. ・Jari Jetsonen & Sirkkaliisa Jetsonen, Sacral Space - Modern Finnish Churches, Rakennustieto Helsinki, 2003. ・Teppo Jokinen, Erkki Huttunen 1901-1956 arkkitehti, SRM Helsinki, 1993. ・Jukka Kekki, Otaniemen Kappeli, (pamphlet), 2003. ・Pekka Korvenmaa, Innovation versus Tradition - The Architect Lars Sonck Works and Projects 1900-1910, Otava Helsinki 1991. ・Jonathan Moorhouse, Michael Carapetian, et al, Helsinki Jugendstil Architecture 1895-1915, Otava Helsinki 1987. ・Riitta Nikula, Architecture ana Landscape – the Building of Finland, Otava Helsinki, 1993. ・Marja-Riitta Norri et al., Alvar Aalto in Seven Buildings – interpretations of an architect’s work, SRM Helsinki, 1998. ・Marja-Riitta Norri, Elina Standertskjöld & Wilfried Wang, 20th century Architecture 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