江戸の刑事裁判 - 法制史研究会ホームページ

第三部
完成した武家社会
江戸の刑事裁判
難波
愛資
はじめに
「これにて一件落着」時代劇の奉行が言う決めゼリフである。時代劇等から、知られて
いるようで案外知られていないのが江戸時代の裁判制度である。犯人捜査はどのように行
われ、どういう過程を経て刑罰が決まったのか、また刑はどのようなものがあったのか。
この論文を通して江戸の刑事裁判を探っていきたいと思う。
第一章
1
捜査
捜査機関
寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行(幕府が公式に三奉行と称するようになったのは享
保六年〔1721〕以後)
、火附盗賊改、道中奉行、京都町奉行等の遠国奉行、郡代、代官が
刑事事件について有する権限は手限吟味権と手限仕置権に分けられる。手限吟味権とは他
の捜査、裁判機関に関与を受けることなく、独自で犯罪を捜査・裁判し得る権限を意味し、
手限仕置権とは幕府(老中)に仕置伺をなすことを要せずに、独自で刑罰を専決し、かつ
刑の執行をなし得る権限をいった。手限吟味権を有していても、手限仕置権についてはそ
の範囲が限定されていった。つまり手限仕置権は裁判機関によって異なっていた。
<町奉行>
町奉行は慶長九年〔1604〕
、土屋権右衛門重成が八重洲河岸の南組奉行に、米津勘兵衛由
政が道三川岸の北組奉行に任ぜられたのが南北両町奉行の始まりだとされている。寛永八
年〔1631〕
、加賀爪忠澄を北町奉行、堀直之を南町奉行とし、この時から役宅を作って、
隔月交替(月番)で勤務した。江戸の特殊性から、町奉行は遠国奉行ではないので、地名
を冠せずにただ単に奉行と呼んだ。町奉行は、旗本から任命され三千石高が多かった。定
員は寛永十二年〔1635〕に二名であったが、元禄十五年〔1702〕中町奉行が設置され、長
崎奉行丹羽遠江守長守が町奉行に進み、これより町奉行は三名となったが、享保四年
〔1719〕一名を減じ再び二名となった。当初北町奉行所は常盤橋門内に、南町奉行所は呉
服橋門内に設置された。宝永四年〔1707〕に北町奉行所は数寄屋橋門内に移転したが、そ
の間元禄十五年〔1702〕中町奉行所が鍛冶橋門内に設けられ、享保二年〔1717〕常盤橋門
内に移った。その後享保四年〔1719〕呉服橋門内の南町奉行所を廃止し、中町奉行所は北
町奉行所に、従前の北町奉行所を南町奉行所と改称し、文化三年〔1806〕には北町奉行所
が再び呉服橋門内に移転し幕末に及んだ。南・北の名称は特別の意義をもたず、場所的な
相対関係に過ぎなかった。
捜査・裁判に関しては、吟味方、例繰方が重要であった。吟味方は、与力十騎・同心二十
人で構成され、民・刑事の捜査・審理を行い、かつ刑執行事務に従事した。例繰方は、与
力二騎・同心四人で構成され、罪囚の犯罪に関する情状、断罪の擬律を行うと共に町奉行
所の先例集である御仕置裁許帳を整備し、必要があればこの御仕置裁許帳に照合して書類
を作成し奉行に提出した。その他、赦帳撰要方人別調掛というものがあり、与力四騎・同
心八人をもって構成され、刑の宣告を受けた囚人のうち、死罪以下の罪人の名簿と罪状書
を作成し、御赦(恩赦)が出た際の御赦該当者の名簿を作成して奉行に提出し、また撰要
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類集(判決集の編集)をまとめ、江戸市中の名主から提出のあった人別改帳を取り扱った。
いずれの分課も同心が与力を補佐した。
<勘定奉行>
勘定奉行は初め勘定頭と称し慶長八年〔1603〕大久保石見守長安が最初であった。元禄八
年〔1695〕勘定奉行と称した。旗本から任命され三千石高であった。享保七年〔1722〕公
事方、勝手方を定め各二名を置いた。勝手方は財政担当者であり、公事方は諸国代官所の
訴訟を掌り、月番であった。当初勝手方、公事方は一年交替であったが、後には任命制に
なったようである。捜査は主として評定所留役がこれにあたった。
<寺社奉行>
寺社奉行は慶長十二年〔1612〕板倉勝重、金地院崇伝に寺社に関する事務を掌握させたの
が始まりとされる。寛永十二年〔1635〕奉行職を置き、安藤右京進重長・松平出雲守勝隆、
堀市正利重を補した。譜代大名から任命され、万治元年〔1658〕に奏者番からの出役(兼
帯)が恒例となった。
寺社奉行は大名であるから、町奉行や勘定奉行のように直参の与力や同心を配下に持つこ
とはなく、捜査・裁判に従事する者は陪臣から寺社役、大検使、小検使、寺社役付同心等
を任命した。しかし他の二奉行と異なり、捜査・裁判に不慣れなため、後に評定所配下の
評定所留役を配属した。この評定所留役は吟味物調役と改称し、捜査・裁判などの調査に
あたった。捜査・裁判に従事する主な者は、吟味物調役の外、寺社役と寺社役付同心であ
った。寺社役は家臣から四、五名選ばれ神官・僧侶の犯罪を捜査・審理し、大検使は寺社
役から、小検使は中級武士のうちから選ばれ、いずれも管轄の寺社を巡検し寺社に関する
ものの殺傷事件には必ず臨検した。寺社役付同心は寺社領などの犯罪捜査に従事し、罪人
の取り調べ、処刑などを行った。しかし捜査力が弱体であったことから、往々にして犯人
逮捕の際、町奉行所同心の協力を求めた。
<道中奉行>
道中奉行は街道の宿場に関する訴訟・道路・橋梁の普請修復などを管轄した。道中奉行に
は大目付・勘定奉行から一人ずつ兼帯することになり、勘定奉行からは公事方勘定奉行が
多くこれを兼帯した。
五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥羽街道)及びその宿場は御料所(直轄
地)と私領に跨って貫通点在しているが、五街道に限り道路・旅人・旅籠屋・飯盛女・人
足等交通往来に関する事件は道中奉行が専管し裁判した。その実務にあたったのは勘定奉
行に所属する役人であって、道中方と称する分課があった。したがって道中奉行の実権は
兼帯勘定奉行の掌握するところであり裁判については特に勘定奉行が主となって行ったの
で大目付の関与は形式的なものであった。
<火附盗賊改>
火附盗賊改は、先手弓頭・先手鉄砲頭から加役として兼補され、旗本で千五百石高。寛文
五年〔1665〕先手頭水野小左衛門守正が盗賊改を兼帯したのが始まりとされている。天和
三年〔1638〕火附改を設けた。その後元禄十二年〔1699〕一旦両職を廃止したが、元禄十
五年〔1702〕には復活させ、享保三年〔1718〕盗賊改・火附改に博奕改をも兼帯させ、火
附盗賊改と称した。秋から春にかけて犯罪が増加するので十月から翌年三月までは一名増
員した。これを当分加役といった。また天明一揆等の特殊犯罪が発生したときには先手組
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から増員された。これを増役といった。
火附盗賊改は市中を巡察し、火附・盗賊・博奕(享保十年に町奉行所管になる)の犯人を
検挙することが主たる任務であり、大名・旗本・御家人等の将軍直属の武士を除く陪臣(宝
暦十年〔1760〕以降は御三家方・諸大名・旗本の家来であっても挙動不審者については召
し捕り吟味できるようになった)
・町人・百姓・神官・僧侶など区別なく検挙する権限を有
していたが主たる対象者は無宿者であった。
火附盗賊改は町奉行などと異なり、役方(文官)ではなく番方(武官)であったから、捜
査方法が強引で荒かったことでも有名であった。また、火附盗賊改自身が江戸の市中を巡
回したとき犯人を逮捕することがあり、これを「御馬先召捕」と称し名誉としたが、後に
弊風を生じ、予め逮捕した犯人を自身番に留置しておき、たまたま火附盗賊改が巡廻に来
た時に逮捕したように装うに至った、という。
<目明し>
捜査機関の私的補助として目明しがあった。目明しは一般に岡引・手先・御用聞・小者等
といわれた。江戸の目明しは、平安時代の検非違使庁の放免の系統に属するといわれる。
放免は平安から鎌倉時代にかけ、刑期を終えて出獄した前科者が検非違使庁の下部として
使役され犯人探索のために利用された。下部はもともと盗賊を逮捕し囚人を拷問し流人を
配所へ押送することなどを職としていたもので軽罪の者は放免して用いたので、一に放免
ともいい、また追い使われて駆け走ることから「走下部」とも言われた。
目明しは犯罪捜査面においてそれなりの功績を挙げていた。しかし偽目明しや目明し自身
が特殊な地位を利用して脅迫行為等を行い、その弊害も著しかった。そのため正徳二年
〔1712〕に「評定の面々へ被候御書付」のなかで目明し使用禁止について触れている。ま
た享保二年、
八代吉宗の時にも同様の触れを出し、
「三奉行所には目明しなるものは一人も
いない」といい、目明しは幕府非公認の存在になっていった。
それでも目明しが絶滅できない理由として、江戸の公的捜査機関の捜査能力が不十分であ
ったことと、的確な情報を把握していた目明しを適宜利用することでそれなりの効果をあ
げていたことがあるからである。天保の改革時に町奉行所の役人から小遣銭をもらって情
報を提供する目明しが百五十人程いたといわれ、慶応三年〔1867〕には南北両奉行所あわ
せて三百八十一人の目明しが存在したといわれている。
2 捜査方法
<捜査の端緒>
捜査機関の犯罪認知は捜査能力が不十分であったことから、捜査の端緒は被害者等一般私
人による訴えによらざるを得なかった。訴えは管轄奉行所に対して一定の手続きを履行し
てなすべきものとされた。この手続きを経ない筋違いの訴えは禁止され処罰された。筋違
いの方法として、直接将軍や老中に対し訴状を提出する「直訴」
、老中等重要官職にある者
の通行の途次に直接に乗物に近づき訴状を提出する「駕籠訴」
、評定所・三奉行所・重臣の
邸宅等に訴状を出す
「駈込訴」
、
奉行所等の役所に密かに目に付くように訴状を捨て置く
「捨
訴」、老中等のまたは役所の門前等に密かに訴状を貼付しておく「張訴」があった。特に重
く罰せられたのは、百姓一揆に見られるような徒党を組んで強引に訴える「強訴」であっ
た。
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訴状の提出は吟味筋(刑事裁判)
・出入筋(民事・刑事裁判)共に、訴状を提出しようとす
る申告者が支配を受ける名主宅で所定の書面に名主・月行事・五人組・家主等の町役人に
よる加判の上、町役人と共に奉行所に出頭し「恐れ乍ら御訴申し上げます」と物書同心に
対し口上し訴状を提出した。これを当番与力に渡し、当番与力は例規に従って指図を与え
た。重要事件の時は言上帳に記した。被害の届出も重要な端緒であって被害届は有力な証
拠であったから提出を怠ったものは処罰された。
<捜査の方法>
捜査の目的は犯人の容疑事実の有無を一応取り調べ(一通の糺)
、容疑十分と思料される者
のみ身柄を奉行所に送致する事であった(奉行所送り)
。この段階における捜査の主体は同
心・目明しであった。
三廻り同心と呼ばれる隠密廻り(町奉行に直属し秘密探索に従事した)
・定町廻り(市中を
巡廻し犯罪捜査に専従した)
・臨時廻り(定町廻りと同じ任務で増員の時に勤務した)は、
一般的に犯人ないし事件関係者を自身番に呼び出して取り調べ、犯人逮捕する必要があれ
ば逮捕の理由を告げることなく単に「御用に付」と称して身柄を拘束した。目明しが単独
で逮捕し取り調べの上同心の巡廻を待つ事もあった。また自身番に詰めている町役人が犯
人を逮捕し巡廻の同心に身柄を引き渡すこともあった。これを「自身捕」と称した。同心
は自身番において一応の取調べをし、犯罪の嫌疑がない時は身柄を釈放し、容疑ありと判
断すれば縄をかけ大番(調番屋)に送致した。もっとも夜間であれば自身番に詰めている
家主から身柄預状を受け取って同所に留置し、翌日身柄を送致した。犯人のみならず挙動
不審者に対する身体捜索・所持品の押収・家宅捜索等の強制処分につき、奉行の令状は必
要としなかったが、公正を期する意味で町役人の立会いを求め、また押収品目録の請書を
徴した。ただ逮捕については場所的制限があり、寛永寺・増上寺など格式の高い寺院、御
三家(水戸・尾張・紀伊)等の門前においては犯人をその地域外に出して捕縄をかけた。
死刑や遠島にあたる重大犯人を三廻り同心が逮捕した時、あるいは目付けその他の役所か
ら犯人の身柄を受け取った時、または犯人が奉行所に自首した時等は大番屋に留置せず直
接奉行所内に付置された仮牢に留置することもあった。大番屋においては犯人の取調べの
外、被害者・八品商人(質屋・古着屋・古着買・古鉄屋・古鉄買・古道具屋・小道具屋・
唐物屋など幕府が贓品などの取締りのため特別の規定を設けた八種の商人)等の事件関係
者を呼び出し、また押収した証拠物件の取調べをした。
容疑者の白状を得て「捕物書上」を作成することが究極の目的であった。これは、吟味に
おける「吟味詰り之口書」に対し準備的・暫定的調書であるから「仮口書」とも呼ばれた。
「捕物書上」作成のために同心・目明しによる拷問類似の行為が行われることもあった。
この拷問も吟味での拷問と違い、法規制が無かった為とても残虐なものであった。捜査に
必要ならば数日間大番屋に身柄を留置した。取調べの結果容疑がない時は釈放し、容疑の
ある者については「捕物書上」を作成し同心がこれを身柄及び証拠物件と共に奉行所に送
致した。
三廻り同心による逮捕の外、居住者・被害者等の訴出により検使を遣わした上、一件の者
共を召し出し、入牢・預・手鎖等の身柄措置をなし吟味に及ぶこともあった。
特別な捕物として、江戸市中で乱暴狼藉行為がある時、あるいは犯人が家屋の中に取籠も
った時などは町名主から町奉行所へ訴え出ると町奉行は直ちに当番与力一騎、平同心三人
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に出役を命じた。これを「捕物出役」といった。また旗本・御家人等が罪を犯し、町地に
逃げ込んだ時、その者の頭支配が町方に探索方を依頼すると共に幕府に上申し老中から町
奉行に対し逮捕方を指図した。老中の下知による逮捕であった。そのためこれを「御下知」
といった。犯人が旗本・御家人の他、浪人・盗賊であっても重大事件のときは御下知物と
なった。他には「御名指物」があった。これは公事方勘定奉行が代官を介して逮捕すべき
人物を「関東取締出役」に指名することである。関東取締出役は文化二年〔1805〕設置さ
れ、代官所の手付・手代から選抜された。関八州のうち水戸領を除く大名領・旗本知行所・
寺社領の区別なく犯人を捜索・逮捕する権限が与えられ、そのため勘定奉行発行の証文を
所持していた。
捕物の目的は犯人を殺傷することなく逮捕することにあり、それによって犯人の自白を得
て余罪・共犯者の有無・事件の真相等の追及を可能にすることにあった。しかし場合によ
っては切捨が認められた。犯人逮捕に際し役人に抵抗し公務執行妨害をなした者は死罪に
処し、役人を殺傷した時は獄門となった。
第二章
1
裁判
裁判機関
江戸の裁判機関は捜査機関と同じく、寺社・町・勘定・道中の各奉行と火附盗賊改があっ
た。あともう一つ、評定所があった。評定所とは奉行が重要な裁判をなし評議するために
設けられたものであり、三奉行に支配下の事件で特に重大なもの、二奉行に関連する事件
及び武士に関連する事件を扱った。寺社奉行四名、町奉行二名、公事方勘定奉行二名が評
定所一座を構成し訴訟事件を合議裁判し評議決定するところであった。評定所で行われる
訴訟上の事務のうち最も重要とされるのが評定所一座による行為であった。この評定所一
座の機能は二種あり、一つは老中の諮問機関としての機能、他は裁判機関としての機能で
ある。
老中の諮問機関としては、老中の諮問に対して評議し答申することが最も重要なことであ
った。もっとも老中が特に参加を命じない場合を除き、三奉行のうちから御仕置伺を提出
した奉行は評議に参加しないのが原則であった。老中はこの答申を採用する時は、死刑・
遠島については将軍の決裁を得て伺いをした向に御差図を発し、それに基づき御仕置が宣
告された。もし老中において一座の答申を不可とする時はさらに再評議を命じたが、前の
掛奉行(主任奉行)は再評議には参加しなかった。
裁判機能としては、他領支配に関する出入物を裁判した。いわゆる「評定公事」がこれで
あった。吟味物としては「一座掛詮議物」があり、寺社奉行全員、南北両町奉行、公事方
勘定奉行二名、大目付・目付各一名によって構成されたが、これは例外的なものであり天
明八年〔1788〕の伏見奉行小堀和泉守事件、天保九年〔1838〕の大塩平八郎の乱等があっ
たに過ぎない。特別裁判所ともいうべきものであった。
2 裁判
<裁判の開始>
奉行が親しく法廷に臨んで吟味にあたることを「直糺」という。事件関係者が奉行に集
められると直糺によって吟味が始まるのである。
奉行が法廷に臨席して発言するのは、冒頭手続・吟味詰のための口書の確認・判決申渡
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しの時だけであった。これは奉行の管轄、責任を明らかにし、あわせて裁判を権威あるも
のにするために奉行の親臨を不可決の形式としていたからであった。
冒頭手続で奉行がすることは、人定尋問・罪状の概略の取調べ(一通の糺)
・未決勾留の
処置であった。未決勾留の方法としては入牢があったが、幕府はこれを制限する方針を立
てており、牢屋以外での未決勾留を希望していた。無宿は別として、有宿者は軽い罪、す
なわち手鎖・過料・叱等にあたる場合は入牢させず、私人ないし団体に責付、監禁させる
預にし、江戸町方では「宿預」
、在方では「村預」といった。もし未決勾留中の者が脱走を
した場合、その者は吟味中の犯罪に科せられる罪より一等重く罰せられ、預り人は捜索の
義務を負い、探し出せないと過料に処せられた。
<下役糺>
下役糺とは、評定所留役・吟味物調役・吟味方与力など各奉行所における奉行配下の吏
員、すなわち実質的裁判担当者による糺問の事を言った。奉行による冒頭手続の後、下役
が奉行を代行して本格的吟味を続けた。犯罪事実を実質的に認定するのは下役糺において
である。
町奉行所では奉行が冒頭手続ののち、一件を吟味方与力に下して詳細を追々に吟味させ
た。奉行はこの時、当該一件に関する見込み、意見を書き一件書類に添えて渡すこともあ
った。直糺は形式的であったにせよ奉行がある程度の心証を持つのは当然であり、これを
奉行の意見として下役に伝達したのであった。
下役糺にあたる掛り吟味方与力はくじ引きで決められたり、奉行の指名によって決めら
れたりした。一件に縁故のある者は掛りから外れる事もできた。
被疑者の自白を得るため、まず吟味方与力は口頭尋問を行った。口頭尋問では投獄・責問
を予告する威嚇が盛んに行われ、それでも否認する場合は拷問が行われた。
<拷問>
下役糺では「吟味詰り之口書」を作成することが目的であった。
「吟味詰り之口書」とは書
面に転換された被疑者の自白であった。
「吟味詰り之口書」
が有罪判決には必要であったこ
とから、拷問による自白強制が不可避であったことがわかる。
まず、掛与力が問書を読み聞かせ、利害を説き有体のまま白状せよ、と再三にわたり説諭
し、それでも否認する場合は牢問をした。最初に笞打をし、自白をしない時は石抱と称し
三角形の木台に座らせ、次第に伊豆石を何枚も重ね、自白するまで笞打と石抱を交互に反
復継続した。ここで普通の罪囚は自白をした。この石抱によっても自白をしない時は数日
の間隔を置いて身体の回復を待って、海老責や釣責を行った。海老責とは胡座すわりにし
両手を後ろに回して体を屈曲させ、両足首を青細引で一つに結び右足首から首へ縄をかけ
た上、徐々に絞め寄せ両足と項とが密着するように緊縛した。釣責は最も過酷な拷問とい
われ、両腕の下膊部に下布を巻きつけ両腕を背中に回して堅く青細引で縛った上、拷問蔵
の柱の上下に鐶をつけそれに右の青細引縄を通して蔵の梁に引き上げ両足を地上二・三寸
位の所まで垂らし、そのまま放置しておくと徐々に縄が体に食い込みその苦痛は甚だしく
二・三時間もすると足の爪先から血が滴ることがある。
そして期待した白状が得られると、その場で口書を作り押印させた。これを「白状書」と
いった。そして与力は「白状書」と「牢問御届」に問書を添えて掛奉行に提出した。
<吟味詰>
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吟味詰とは吟味終了ということで、つまり「吟味詰り之口書」の完成を意味した。幕府法
上、有罪判決をなすには原則として「吟味詰り之口書」が必要であった。
「口書」とは一般
に被糺問者の供述録取書の事をいい、武士及びこれに準ずる特別身分の者の場合は「口上
書」とよんだ。この二つは書式にやや違いがあった。下役糺にあたり吟味役人は日々の吟
味において「有躰可申上書」を命じて尋問し、事件関係者より供述を録取し、これを基に
有罪と思われる者について「吟味詰り之口書」を作成した。犯罪事実は「吟味詰り之口書」
によって認定された。
「吟味詰り之口書」の特色は「詰文言」で末尾を結ぶことである。詰文言は、例えば「不
埒之旨御吟味受可申立様無御座候」
「不届之旨御吟味受無申奉誤入候」等と書いたが、叱・
急度叱・手鎖・過料など軽い刑(
「御咎」
)にあたる場合は「不埒」
「不念」
「不束」といい
(「不埒詰」
)
、追放以上の刑(
「御仕置」
)は「不届」と書き(
「不届詰」
)
、数罪ある時、軽
い場合は「旁不埒」と書き、重い場合は「重々不届」と詰めた。これは「吟味詰り之口書」
が科せられる刑を予想しつつ書かれていた事を意味する。
「吟味詰り之口書」
は供述者の肩
書前名年齢に始まり、罪状を物語体、時に問答体を織り交ぜつつ、被疑者の「申口」つま
り供述の形式で略記したものであったが、公事方御定書・判例法など実定法上の犯罪構成
要件に該当する事実だけが叙述されるのであって、犯罪とその相当刑は常に吟味役人の頭
にあったと考えられる。
「吟味詰り之口書」は奉行がこれを確認することによって犯罪事実認定書としての効力を
発生する。
「吟味詰り之口書」の確認は奉行が出席し奉行の面前で行われる。また事件関係
者をすべて出頭させる。一同を法廷に集め、各自の供述を「突合せ吟味」して「申口符合」
するかどうか確認し、これにより事業の全貌を確定すると共にいかなる刑にも服する、と
いう覚悟を一同に決めさせるのである。
奉行の口書確認の方法には二種類ある。一つは「口書申付」といい、奉行の面前で下役が
口書を読み上げた後、供述者に押印をさせた。奉行の面前で口書の作成とその確認を同時
に行ったのである。他の一つは「口書口合」で、すでに吏員によって作成され押印もされ
た口書を、奉行が供述者に尋問して確認するものであって、奉行の面前では読み上げなか
った。
読み聞かされた口書に対し異議を唱える事もできた。異議を容れ口書申付・口書口合の場
で口書の内容を加除する事もできた。しかし犯罪事実に影響を及ぼしたり、他の関係者の
供述と相反する事実を申し立てたりした時は採用しなかった。すでに下役糺の段階におい
て実質的に犯罪事実の取調べは終了しており、奉行面前での確認は形式的なものに過ぎな
かったからである。
「吟味詰り之口書」を奉行が確認し終えることによって直接、口頭の取調べは終わり、書
面による刑罰決定手続へと移っていく。
<刑罰の決定>
刑罰決定の手続きは奉行所の手限仕置権の範囲に従い、手限仕置権内の事件は同一裁判機
関内で行われ、これを超えるものは他の役所が関与した。
刑罰決定手続きにおいて法的規制は最も厳重であった。事実審が簡易だったのに対し、法
律審は慎重を極めた。
<手限仕置権>
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町奉行所において実際擬律にあたるのは、御用部屋手附の同心であった。手附の同心は法
規先例を按じて刑罰を決し、かつ必要書類を作成した。
町奉行所の手限仕置権である中追放以下にあたる場合、手附同心は奉行の確認を得て吟味
方与力より回付された口書を基にして、公事方御定書あるいは先例によって刑罰を擬し、
奉行に報告し、奉行の意見(
「存寄」
)を聞き、奉行において異議がなければ判決書を作成
した。たとえ手限仕置権内の場合でも準拠すべき先例は、なるべく伺を経たものをとるべ
きであった。手限仕置権内の判例が役所によって特異な方向の独走しないように、幕府法
体系との全体的調和を保つように配慮されたのであった。
先にも述べたように「吟味詰之口書」は犯罪構成要件とそれに科せられる刑罰を指導形象
として作成されている。このような口書は絶対なものあり、奉行がこれを尊重しなければ
ならない以上、手附同心の擬律・刑罰決定は与力の予想的判断によって大きく規定されて
いたことがわかる。そして下役糺に先立ち下吟味が行われている場合は、下吟味の結果が
刑罰決定に大きな影響を及ぼしている事が充分にあった。
<仕置伺>
手限仕置権を超える事件及び手限内でも疑義のある事件は、支配の上司の伺うことになっ
ていた。
町奉行の上司は老中である。つまり町奉行は老中へ仕置伺をする。老中への仕置伺には、
「吟味書」と称する書面を主とした書類を提出する。町奉行所吟味書の形式は「吟味詰り
之口書」により被糺問者の犯罪事実を記述し、文中朱書註書を加え、伺の文言で結んだ。
そして公事方御定書、判例を引用して擬律をなしてそれが妥当かどうかを伺った。
<裁判の終了>
刑罰が決定すると判決が告知された。判決の告知があれば直ちに刑の執行に移った。上訴
の制度はなく、初審が終審であったから判決申渡しは裁判の完全な終了を意味した。吟味
筋において判決告知することを「落着」といった(出入筋では「裁許」といった)
。
判決の告知は刑罰執行ないし執行の命令を下すことに直結するのが原則であった。
判決の告知は死者に対してもなされた。
「吟味詰り之口書」
が出来上がれば本人の生死に関
わらずこれを基に刑罰を決定してしまうから、吟味を続行し判決を下すのであった。
判決の申渡しは奉行所内の白洲において行われ、奉行が出座し、奉行自ら「申渡」という
書面を朗読して口頭で判決を告知するのが原則であった。しかし死刑に処せられる者だけ
は小伝馬町牢屋内の牢庭改番所(俗に「閻魔堂」と呼ばれた)で奉行所の吏員が申渡しな
した。奉行は判決申渡しに続いて事件関係者一同に「落着請証文」を申し付けた。
第三章
刑罰の執行
1 刑罰体系
<刑罰の種類>
幕府は、御定書 103 条「御仕置の仕形の事」において刑罰とその執行方法について規定し
た。それらを分類すると以下のようになる。
生命刑
生命刑とは死刑のことをいう。死刑として、鋸挽・磔・獄門・火罪・死罪
及び下手人の六刑があった。この外、武士に対しては斬罪と切腹があった
が斬罪の御仕置に関する方法は御定書に規定されているが、切腹に関する
江戸の刑事裁判(難波)
8
第三部
完成した武家社会
規定はなかった。
身体刑
身体刑として、敲と入墨があった。なお特殊なものとして剃髪があった。
自由刑
自由刑には遠島・追放(門前払・所払・江戸払・江戸拾里四方追放・軽追
放・中追放・重追放)
・閉門・逼塞・遠慮・戸〆・手鎖・押込・御預があ
り、僧侶の閏刑(武士・僧侶・庶民等のうち特定の身分階級にある者の特
別の犯罪に科する刑の事。身分階級を問わず一般的に関する刑を正刑とい
った)として追院・退院・晒等があった。
財産刑
財産刑としては闕所・過料があった。武士に対する闕所を改易といった。
身分刑
身分刑とは犯人の社会的身分に影響を与える刑をいった。階級制度の厳格
な封建制度にあっては一種の階級刑ともいえる刑であった。奴・非人手下・
改易・一宗構・一派構等があった。
名誉刑
名誉刑とは犯人の名誉を剥奪することを内容とする刑であった。役儀取上
叱・急度叱・隠居がこれに属した。
本刑に附加される刑を附加刑といった。附加刑には晒・引廻・闕所・非人手下等があった。
「晒の上磔」
「引廻の上獄門」の晒・引廻が附加刑、磔・獄門が本刑であった。晒は磔以上、
引廻は死罪以上の各刑に科せられる附加刑であり、闕所は軽追放以上の刑に処せられた犯
人の財産に科する刑であった。附加刑としての非人手下は犯人の身分変動を及ぼす身分的
附加刑であった。刑執行の順序としては、まず附加刑を執行し、引き続き本刑を執行した。
<本刑の軽重順序>
幕府法には二種類の「御仕置軽重順序(御仕置段取)
」が存在し、一つは盗賊本犯以外の犯
罪に対する「一般的御仕置軽重順序」があり、他は盗賊本犯にのみ対する「盗賊御仕置軽
重順序」があった。盗賊に対する御仕置は死刑以上・入墨・敲等であって、原則として遠
島刑や追放刑の定めがなかったことから「一般的御仕置軽重順序」を適用することは不適
当であったため、盗賊にのみ対して特別の「御仕置段取」を設ける必要があった。
「一般的御仕置軽重順序」
死刑(鋸引−磔−獄門−火罪−死罪・下手人)−遠島−重追放−中追放−軽追放−江戸
拾里四方追放(大阪は摂津河内両国払、京都は山城国中払、長崎は長崎市中郷中払)−江戸
払(大阪は大阪三郷払、京都は洛中洛外払、長崎は長崎払。重敲)−所払(京都は洛中払、
大阪・長崎も所払。敲、百日手鎖、過料拾貫文)−五拾日手鎖(過料五貫文)−三拾日手鎖
−急度叱−叱剃髪・監禁刑(戸〆・押込・預など)・晒・奴・非人手下・役儀取上等の刑が、
上における刑の軽重順序のどの位置に置かれるかは定かではない。
「盗賊御仕置軽重順序」
死刑−入墨重敲−入墨敲−入墨−重敲−敲
上の順序の差等は「段」と称し、段を上下すること、つまり形の軽重順序にあたっては、一
等、二等というように「等」を単位とした。
2 刑の執行
<生命刑>
死罪及び下手人の刑の執行方法は、死罪は夜間、下手人は昼間である点を除けば両者は全
く同じであった。検使による判決の宣告が終わると、控えの縄取非人三人が取り囲み牢屋
江戸の刑事裁判(難波)
9
第三部
完成した武家社会
敷内の刑場である死刑場
(斬首場)
に連行し検使与力が検使場へまわって本刑を執行した。
引廻の附加刑がある時は寺社・勘定奉行所、火附盗賊改方にあっては当該検使による宣告
の後、その身柄を町奉行所牢屋見廻方与力を介し町奉行所与力の引廻検使に引き渡した。
そしてまず附加刑を執行し、本刑を執行した。
火罪の刑の執行方法は、罪囚の引廻行列が浅草・品川の両御仕置場に到着すると罪囚を罪
木といわれる柱に縛りつけた。そして周囲を薪で囲い火をつけた。死体は三日二晩晒され
た。
獄門は牢屋敷内の斬首場での死罪の執行と同じ方法で斬首され死体の胴体は取り捨てら
れ、首すなわち刑首は御仕置場において三日二晩晒され、その後捨てられた。
磔は罪囚を罪木へ仰向けに寝かせて手足を横木に縛りつけ、罪木を起こし下働非人のうち
二人が槍をもち左右に分かれ罪囚の眼前で槍を交わす「見せ槍」をした。その後下働非人
六人で槍を罪囚に突いた。死体は三日二晩晒された。これを捨磔といった。
鋸引は申渡しのあった日に一日引廻の上、晒場で二日間晒された。晒されている時は罪囚
の傍に竹鋸と普通の鋸が置かれ、往来の者に首を挽かせる真似事をさせた。しかし実際に
罪囚の首を挽いてしまった事があったので、その真似事はやめになった。鋸引といっても
江戸時代では形式的なものであって、実際は槍で右脇腹から右肩先まで突き抜き、左も同
じようにし、最後に咽喉仏に槍を突いて殺した。
斬首は犯罪の主体が武士であるため死罪の執行とは異なった方法で行われた。武士の名誉
を保つためであった。罪囚は首斬穴の前に連行され非人二人が左右の腕を捕らえ、一人が
背後から後ろ髪を撫で上げ、縄斬刀で喉輪を切断する瞬間に罪囚の左側にいた同心により
斬首された。死罪とは異なり罪囚に目隠しはしなかった。
切腹の執行方法は前述のように御定書には規定されていない。切腹は武士の特権であって
一般庶民には許されなかった。
<身体刑>
敲の執行方法は伝馬町牢屋敷の表門前に筵を敷き刑場とした。そして罪囚を裸にし、筵の
上に腹ばいにさせ下男四人が手と足を押さえ、笞杖で背骨を除いた肩骨・尻を打った。重
敲(百敲)の場合は五十打で一旦中止し立会いの医師が気付薬を与え、残数を打ちつづけ
た。打ち終わると他の罪囚に移り、多い時には一日数十回打つこともあった。刑の執行が
終わると直ちに引受人に引き渡された。
入墨刑の執行方法は、牢屋敷内の牢屋見廻詰所前の砂利の上に筵を引いて刑場とし、そこ
で入墨を入れた。刑が終わって三日間その箇所を紙で巻き、乾いたら検分の上釈放した。
この入墨刑は各地で入墨の入れ方が違った。幕府は左腕に入墨をしたが、阿波・肥前・筑
前・安芸等の諸藩では額に入墨を入れた。入墨刑の受刑者が釈放後入墨を消した場合は再
びやり直しただけでなく罰せられた。
剃髪刑は御定書に何も規定されていなかった。ただし『記事条例一』二十五番安永三年
〔1774〕八月二十四日の条に、評定所において勘定奉行の命により町の髪結が女囚の剃髪
を剃り、女を親元へ引き渡した、とある。これから他の刑が皆刑場で行われているのに対
し剃髪刑は裁判所内で行われていた事がわかる。
<自由刑>
遠島刑での流配地は江戸からの流罪者は大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・
江戸の刑事裁判(難波) 10
第三部
完成した武家社会
利島の伊豆七島へ流された。対して京・大坂・西国・中国から流罪の者は薩摩・五島の島々・
隠岐国・天草島へ流された。美濃以東の遠国奉行・代官は遠島者を全て江戸の町奉行に送
致し出帆まで小伝馬町牢屋に在牢させ近江以西は大坂に集めた。長崎奉行所だけは直接長
崎から配流した。伊豆七島への出帆は春秋の二回であった。流配地の島における生活は流
人にとって非常に厳しく、度々島抜けが計画されたが未遂に終わる場合が多かった。遠島
刑は刑期の定めのない絶対不定期刑であった。
追放刑のうち重追放は武蔵・相模・上野・下野・安房・上総・下総・常陸・山城・摂津・
和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・甲斐・駿河の十五カ国、二道筋と現在の居住国
に居住する事を禁じた。即ち御構場所とした住居を離れて他国で悪事を働いた者はさらに
犯罪国が加わった。京都で重追放の判決を申渡された者は上の外に河内・近江・丹波の三
国が加わった。中追放は武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下
野・日光道中・甲斐・駿河の九カ国、三道筋と居住国及び犯罪国が御構場所であった。軽
追放は江戸拾里四方追放・京都・大坂・東海道筋・日光・日光道中と居住国及び犯罪国が
御構場所となった。江戸拾里四方追放は日本橋を中心とし、半径五里以内の地域内が御構
場所であった。在方の者はその居村も居住禁止となった。江戸払は品川・板橋・千住・本
所・深川・四谷大木戸より内が御構場所であって町奉行支配地内に立ち入ることを禁じた。
所払は在方の者ならば居村、江戸・大坂の町人は居町が御構場所であった。門前払は奉行
所の門前から追放するもので、主として無宿者が対象であり御構場所はなかった。
閉門は、門扉を鎖し、竹柵を張り、窓を閉じて、昼夜共に当人・使用人その他一切の出入
りを禁じた。期間は三十日、または五十日と規定されていた。
逼塞は武士・僧侶に対する閏刑であって、門扉を鎖し謹慎するが、夜は目立たぬように潜
り門から出入りすることは許された。期間は閉門と同じ三十日と五十日であった。
遠慮も武士・僧侶に対する閏刑であって、門を閉じるが、潜り戸は引き寄せるだけで鎖さ
なくてよく、夜中に目立たぬよう出入りすることも許された。
戸〆は庶民を対象とした閏刑であった。これは門の戸を貫にかけて釘〆にし営業を停止さ
せ謹慎の意を表させる軽い監禁刑であった。期間は二十日・三十日・百日であった。
押込は門を鎖し自宅の一室に引き篭らせておき夜間の出入りも許されなかった。期間は二
十日・三十日・五十日ないし百日程であった。
御預の執行方法についての規定はない。御預には大名預・町預・村預・親類預・主人預・
宿預があり、犯罪処分を待たせるためのものと刑の執行のためのものがあった。大名預で
有名なのが、赤穂義士の場合であった。
晒刑は僧侶に対する閏刑であった。晒とは間口五尺の奥行三尺の小屋掛をなし、三方を筵
で囲い、その小屋の中に罪囚を入れた。小屋の前に竹で二重の柵を設け見物人の近寄るの
を防止した。晒の時間は午前八時から午後四時までであった。
手鎖は鉄製の瓢形をして左右に開くようにし継錠をした刑具であって、両手を懐中で組ま
せその上に嵌め端に錠を下ろした。受刑者は三十日・五十日及びその他の手鎖の時は五日
毎に、百日手鎖は一日おきに奉行所へ出頭し、手鎖の中央部分に張られた奉行押印の封印
を確認され、その都度封印を取り替えられた。
<財産刑>
過料は現在の罰金にあたる。過料には単純過料・軽過料・重過料・応分過料・小間過料・
江戸の刑事裁判(難波) 11
第三部
完成した武家社会
村高過料があった。過料刑の上限は三十両、下限は三貫文で納付期間は三日で申渡し裁判
所に納付した。応分過料はその者の財産に応じ徴収し、村高過料は村高つまり地味の良否
によって過料した。三貫文または五貫文が軽過料、拾貫文が重過料であった。
闕所とは没収のことである。武士に対する領地の没収は、闕所と呼ばず改易と称した。土
地・屋敷を始め家財道具や持金も没収された。
<身分刑>
奴は庶民たる婦女に対する閏刑であった。奴刑は女性の罪囚に対し、人別改帳から除籍し
望む者に下付し奴婢として使った。つまり奴隷化する刑罰であった。
非人手下は罪囚の庶民たる身分を剥奪し、庶民の人別改帳より除籍した上、えた頭弾左衛
門の立合いのもとに非人頭に身柄を引き渡し非人別改帳に登載した。
改易は前述したように武士に対する閏刑であった。大名・旗本の場合は、その領分・地行
所の没収、役儀取上・御家断絶を意味した。
<名誉刑>
御定書で規定している役儀取上は武士に対するものではなく、庶民に対してのものであっ
た。つまり罪囚が名主や百姓代の村役人や、家主や五人組などの町役人という庶民が帯び
ている役儀を取上げることをいった。
叱と急度叱は御仕置の中で最も軽い刑であった。町奉行が罪囚を御白洲に呼び出し、その
罪につき叱責し、宣告後吟味方与力が与力吟味席で請書を徴し、差添人がこれに連署拇印
して放免した。これが叱であり、そのやや重いのが急度叱であった。
第四章
公事方御定書
1 御定書の制定
徳川家康が天正十八年〔1590〕関東に入部してから、裁判に関しては専ら旧来の慣習に準
拠し、先例のないものについては先例の精神を汲み取り裁判する者の裁量によった。つま
り祖法墨守・新儀停止が厳守された。二代将軍秀忠の時に、裁判に練達であった町奉行島
田弾正忠が刑事の断案たる裁判例を編集し、これを後世に残さんとの配慮からこの事を秀
忠に懇請したところ、
「人事は変じ易い。一々情実を尽くすに非らざれば、訟を段ずべきで
はない。
いやしくも刑律を定めるような事があれば、
却って後人をしてこれに拘泥せしめ、
情実を詳にするに疎くなり、或いは法網をくぐって悪事を行う者が出るであろう。
」と言っ
て刑事判例集の編纂を許さなかったという。
三代将軍家光の時、寛永八年〔1631〕に評定所を設置し、評定衆に訴訟を聴断させた。そ
の後裁判例を記録にとどめる必要が生じ、四代将軍家綱の寛文四年〔1664〕頃から評定所
留役を置いて訴訟の判決案を記録させるようにした。
しかし元禄時代を経て天下泰平が続くに従い、商品流通経済が進展したことによって社会
生活が複雑化したことで、刑事事件の裁判例も膨大になり先例の検索に多大の不便を来た
すようになった。歳晩に関する与力等のうちから、個人的に裁判例を編集するものも現れ
宝永期にはすでに町奉行の牢帳から抽出した九百七十四例を分類整理して作成された『御
仕置裁許帳』が存在し、さらにそれを百九十八条の箇条書にした編者不明の『元禄御法式』
があった。また寛保元年〔1741〕には私撰の『律令要略』という法律書も編集された。こ
れらは御定書の先駆的な役割をなした。
江戸の刑事裁判(難波) 12
第三部
完成した武家社会
八代将軍吉宗は享保の改革の一環として法制の整備を必要と感じていたので、享保五年
〔1720〕三奉行に命じ、あらかじめ大概の罰則を定めて犯情をこれに照らし、参酌考定し
て処罰させることにした『享保度法律類寄』を作成した。これは全文十四条からなる刑罰
法規集であった。ついで荻生徂徠・高瀬忠敦等に命じ唐律・明律を解釈させた。ここにお
いて元文五年〔1740〕評定所に御定書編集を命じ老中松平乗邑を主任とし、寺社奉行牧野
越中守・町奉行大岡越前守・勘定奉行水野対馬守ら三奉行を中心に法典の編集作業が行わ
れた。以前の判決例、将軍就任以来の新判例を参酌し、法文を起案させ、一条なるごとに
吉宗が親しく検討し、その意にあわないものがあると朱書の付箋を貼付して下付しさらに
評議させた。その結果寛保二年〔1742〕三月にようやく完成したのが『公事方御定書』で
あった。上下二巻からなり、上巻は令八十一条、下巻は律百三条から成り、この公事方御
定書下巻百三条を俗に「御定書百箇条」
「御仕置百箇条」等といわれた。
上巻は評定所の執務細則、行政取締法規及び訴訟手続に関する書付、触書、覚書等を類集
したものであり、下巻は各種犯罪と刑罰規定からなっているが、一部民事規定が混在して
いた。
2
御定書の特色
<道徳主義>
御定書は犯罪の構成と適用とを道徳主義をもってこれを律していた。ここにいう道徳とは
儒教に依拠するものであった。道徳を御定書に導入することで、一般庶民を教化しようと
し、君民・主従・親子・夫婦等の関係を道徳的に規制しようとするものであったので教化
主義ともいえる。御定書の中で道徳主義がわかりやすく成文化されている所は「人殺并疵
付等御仕置の事」の条項であった。
一、主殺し
二日晒、一日引廻、鋸引の上
一、古主殺し候もの
晒の上
一、親殺し
引廻の上
磔
磔
磔
一、師匠殺し候もの
磔
となっていた。刑の軽重は主殺しが最も重刑で、古主殺し、親殺し、師匠殺しの順となる。
道徳的に主殺しを重罪と考えることは、
主人のために相手を殺害しても不問に付せられる、
という結果をもたらした。封建社会は主従関係の保持を基本としていたから当然ではあっ
た。また夫婦間において妻が夫の悪口を言ったという理由で妻を殺害しても罪に問われな
かった。それに対し道徳的に対等ないしはそれ以下の関係の者を殺害した場合の刑は、死
刑のうち最も軽い下手人であった。ただし武士が百姓・町人を殺害しても罪にはならなか
った。それは属する身分によって犯罪の構成や刑の適用が違ったのである。以上のことか
ら御定書は道徳主義に徹していたといえる。
<連帯主義>
自己の行為のみに刑事責任を負うのが原則ではあったが、犯罪そのものに共謀の事実がな
くても、ただ犯人と一定の血縁的地縁的または職務的関連の地位にあるというだけで、犯
人と共に責任を追求するのが連帯主義であった。
御定書では、特に町村民の犯罪について村役人・総百姓・家主・地主・名主・五人組等が
連帯して責任を負った。たとえば
江戸の刑事裁判(難波) 13
第三部
一、車を引掛、人を殺し候とき、殺し候方を引き候もの
但し、人に当らざる方を引き候ものは
完成した武家社会
死罪
遠島
車の荷主
重キ過料
車引の家主は
過料
という規定があった。車の荷主や家主は犯罪には直接関係がないにも関わらず過料に処せ
られた。
この連帯主義は、警戒を厳にして犯罪を未然に防ぐためには止むを得ない制度であって当
時は一般に是正されていた。この種の規定は御定書に多く見られた。
<秘密主義>
御定書は一般に公布されたものではなく、三奉行に対し裁判基準を示したものにすぎなか
った。巻末には「三奉行の外、他見ある可からず」とあって三奉行の外は秘密文書であっ
た。しかし三奉行に順ずる者として京都所司代・大阪城代には参考資料として下付してあ
った。
幕府は一定の犯行に対する刑の軽重を一般民衆に周知させては、刑罰をもって威嚇の目的
を達することができないと考えたからであった。
罪の内容は御触書をもって周知させたが、
刑の内容は周知させなかった。罪と罰の結合だけが秘密とされた。しかし実際は各藩の役
人や庶民までもが御定書の内容を知っていて、天保の頃になると御定書の内容を記したも
のが民間の蔵にあるということもあった。しかし御定書の内容を公然と刊行させる者に対
しては厳罰に処した。
御定書は苛酷を極めしばしば残虐であった。しかし法は法としたままでそれを緩和する
実務も次第に発達した。法と実際、形式と実質のギャップは深くなるが、幕府の威信を保
ちつつ社会の実情を考慮された法こそが御定書であった。
おわりに
このテーマを選んだのには二つの理由があった。
一つは時代劇等の大衆芸能による江戸時代の裁判には本来といろいろ異なる点が数多く存
在するのでそれを見つけることである。多くの人は江戸時代の裁判を時代劇等の大衆芸能
から知るのではないだろうか。
「大岡裁き」
の大岡越前守忠相や桜吹雪の遠山左衛門尉景元
などは特に有名だが、共に実在した人物ではありながらあのような裁きはなく、吟味にお
ける奉行は形式的なものに過ぎなかった。それらの思い違いともいうべき点を、論文を進
めるに従い、見つけることができた。
もう一つは江戸時代の裁判を知ることによって今の裁判制度を知ってみようと思ったから
である。江戸時代は封建社会であり、捜査や裁判、法規におけるまでありとあらゆるとこ
ろまで封建制が染み込んでいる。しかし同じ日本人による司法である。今こうして江戸の
時代の裁判制度を詳細に知ることができた。今後は現在の裁判制度を詳細に研究していき
たいと思う。
この論文によって江戸時代の裁判制度に興味を持っていただけたら幸いである。
参考文献
江戸の刑事裁判(難波) 14
第三部
「近世刑事訴訟法の研究」
平松義郎
創文社
「江戸の罪と罰」
平松義郎
平凡社
「日本法制史」
滝川政次郎
講談社
「江戸の刑罰」
石井良助
中央公論
「法制史の研究」
三浦周行
岩波書店
「御定書百箇条と刑罰手続」
藤井嘉雄
高文堂
「近世法制史叢書・御仕置裁許帳」法制史学会編
完成した武家社会
創文社
石井良助編纂
「大岡越前守忠相」
大石慎三郎
岩波書店
江戸の刑事裁判(難波) 15