伊藤義敦の冒険 - OmniaEventiLab

カニック
日本人初の F 1 メ
伊藤義敦の冒険
マセラティ
・
ミストラルで
モデナから東京へ…
1966年9月 東京・二子玉川
1966 年 9月、世田谷区に萩原自動車という輸入車
専門のサービス工場がオープンした。アバルトシムカ
1300、ポルシェ356カレラ2、イセッタが並び、隣接し
て設けられたカフェでは、修理に訪れたオーナーがくつろ
ぐというクルマ文化の桃源郷がそこにあった。オーナー
の萩原孝明(文中敬称略)は浅間高原レースを経験し、
その後、ポルシェクラブジャパンの会長を務めたエンス
ージアストでもある。そしてその工場には豊田信好メカニ
ックという大きな存在もあった。後にガレーヂ伊太利屋
の看板ともなる伝説の人物が、メンテナンスを担当した。
その萩原自動車へ焦点を合わせ、時計の針を1967
年 11月まで戻してみよう。するとそこには新車の輝きを
残しながらも汚れたマセラティ・ミストラルが佇み、長身
の西洋系の男が不安げに立っている。その横で、細身
の日本人男性が素早い手さばきで、ミストラルのシリンダ
世田谷区にオープンした外車
専門のサービス工場「萩原自動
車」
。
世界一周のためにモデナを
出発したマセラティ・ミストラ
ルは、
ユーラシア大陸を横断し
てここまでやってきたのだ
ーヘッドのボルトを外しながら、流暢なイタリア語でその
西洋系の男に話しかけている。よく見ると、ボディサイド
には「MODENA-TOKYO」と書かれている。
主人公 伊藤義敦
その細身の日本人、伊藤義敦がこれから始まるストー
リーの主役である。コーリン・チャプマンに見染められ、
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文:越湖信一(Shin-ichi EKKO )
資料提供:萩原孝明(Takaaki HAGIAWARA )
ロータスチームにおいて日本人初のF1メカニックとして活
ォーミュラカーにFRP製のボディを載せたものだ。エンジ
躍したことは有名だ。その後、フィッティパルディに乞わ
ンにはデ・トマソ製ヘッドを載せて組み付け、ギアボック
れてF1 チームのマシーン開発を手掛け、日本帰国後は
スはVWビートルのケージングを流用し、ヒューラントの
生沢徹氏とI & Iレーシングディベロップメントを設立し、
ギアを組み込むといった具合で、レーシングカー作りの
日本のレース界にも新風を巻き起こした伝説の人物だ。
OJTを行ったようなものだ。そして、何より幸運だったの
その彼がなぜ萩原氏の工場でマセラティの整備をしてい
は、あのデ・トマソが伊藤を寵愛したということだ。デ・
るのだろうか?それも流暢なイタリア語を操って…。
トマソ5000に伊藤に同乗させてモデナのセレブリティ達
1966年9月 イタリア モデナ
に紹介したこともあり、その様子はまるで父親のようでも
あったという。
「僕はこの人が好きだ。デ・トマソさんの
その訳を説明する為には、まさに萩原氏の工場がオ
為ならどんなことでもやる…」と、伊藤は母に宛てた書
ープンしたのとちょうど同じころまでさらに時計をもどす必
簡に書いている。程なくして、労働許可証なく、もぐりで
要がある。伊藤は、モデナをひとり歩いていた。アポイ
働いていた伊藤をマセラティに託し、正規の雇用を実現
ントもなく"あるファクトリー"を訪ね、職を乞おうとして
させたのもデ・トマソの親心だった。
いたのだ。たどたどしいイタリア語で、想いを語る伊藤
に対して、その人物はいとも簡単に答えた。
「いいよ。す
マセラティと
「モデナ-東京」
ラリー
ぐうちで働きなさい。ただ給料は安いぞ」と。その人物
マセラティに職を得た伊藤はオーナー、オルシやベル
とはアレッサンドロ・デ・トマソであった。デ・トマソ社
トッキらに腕を認められカスタマー・サービス部門へと配
にもぐり込むことに成功した伊藤は、製作のアシストをす
属が決まった。当はモデナの本社工場でも、顧客のク
ることになった。伊藤は、都立航空工業短大でエンジ
ルマのメンテナンスを行ったのだ。その中に面白いフラ
ンの設計を学んだ後、電気メーカーで働いていたがク
ンス人がいた。高価なミストラルをポンとキャッシュで買い、
ルマへの想いは断ち切れなかった。折しも日本グランプ
さっそうと乗り回すその男、ジャック・マグリアはF2レー
リが開催され、生沢徹がヒーローとなりスカイラン神話を
スで活躍したレーサーであったが、事故のため引退して
生みだした。伊藤が心酔していたモータースポーツが表
いた、ということも解った。
舞台に出てきたのだ。スポーツカーのエンジンに魅せら
ある日、ジャックは伊藤に提案をする。
「世界一周を
れていた伊藤はもう我慢できなかった。クルマ全体を理
一緒に走ろう。アジアハイウェイルートを走って、世界記
解するためにはヨーロッパの少量生産スポーツカー・メ
録を作らないか。その目的地は日本だよ」と。この夢の
ーカーで働くのがよいという判断を下し、候補を探した。
ようなプランはとんとん拍子に話は進み、伊藤は世界一
伊藤は応急処置をし、マレーシアとバンコクを経由して
伊藤の眼鏡にかなったのがデ・トマソ社だったのだ。
周の旅にメカニックとして参加することになる。各部を補
東京に到着した。ここでようやく、冒頭に描いたガレー
強したミストラルにガソリン缶を満載してモデナをスタート
ジの光景にタイムスリップして戻ってきたのだ。
僕はデ・トマソさんが好きだ!
したのは1967 年10 月のことであった。アフガニスタン
日本、
フレンチ&イタリアン コネクション
結果的に伊藤の判断は正解であった。伊藤の手掛
を経由し、インドへと道なき道を繊細なグランツーリスモ
けたデ・トマソ・ヴァレルンガはバックボーンフレームのフ
で走り抜けた。300S譲りのレーシングエンジンにとって、
ミストラルは萩原の工場に持ち込まれ、伊藤の手によ
粗悪なガソリンは大敵であった。カルカッタに到着する
ってエンジンは組み直された。伊藤とジャックと共に次
頃には、すでに半分の3気筒は機能を止めていたという。
なる目的地、北米へと旅立っていったのだ。
「当時は海外と接点を持ってクルマ文化を楽しむという
考え珍しかった。私は海外の友人との交流の中から、
ライフスタイルとしてのクルマの楽しみ方があるということ
に気づき、工場をオープンさせました。そこはレース・マ
ニアだけでなく、菊池武夫ら、サブカルチャー好き達の
拠点となったのです」と語る萩原。
そこに伊藤、ジャック、マセラティという絆が生まれた
のは面白い。
さらにもう一つの絆も生まれるはずであったという。
「伊藤とジャックを交えて、日本の技術を世界に発信す
るクルマを作るというプランを考えました。デトマソ・ヴァ
レルンガにホンダ S800の精巧なエンジンを載せるので
す。デ・トマソはやる気でしたよ。結局、そのプロジェク
トは尻切れになってしまったんですが、そのクルマにジャ
ックを乗せてやりたいと思ったんです」
次回ではさらにスケールアップした伊藤の"冒険"イ
ギリス・コネクション編をお伝えしたい。
Yoshiatsu Itoh
became the first ever Japanese to be an F1 mechanic
went onto a tour around the world as a riding mechanic
of Maserati Mistral with former French F2 driver Jacques
Maglia in October 1967.
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