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佐賀・鍋島藩と大砲製造
昨 年 、『 偕 行 』 誌 の 取 材 途 中 で、 佐 賀 市 に 立 ち 寄 った 。 佐 賀 訪 問 は 3 回 目 。J R 駅 前 か ら 佐 賀 城 址 ( 官 庁 街 ) に 連 なる道 筋 は 余 り
変 わ ってお ら ず、 楠 木 が 照 り 映 えて い た 。 今 回 、 レ ン タル サイ ク ル で 市 内 見 物 に 出 か け たが、 そ こ こ こに 旧 式 大 砲 が 展 示 さ れて いた。
佐 賀 城 跡 にある 外 書 院 の 玄 関 、 博 物 館 、 護 國 神 社 、 築 地 反 射 炉 ( 小 学 校 の 横 ) 等 、 デ ンと 2 4ポ ンド の カ ノ ン 砲 が 据 え られ て いた。
佐 賀 城 本 丸 歴 史 館 の 解 説 者 (ボ ラ ン ティア) に よると、 そ れ ら 大 砲 は、 激 動 の 幕 末 期 に 日 本 をリー ドし た 佐 賀 県 民 の 誇 りであ り、
鍋 島 藩 が 最 も 輝 い た 時 代 の 象 徴 だと か。
そこで、 幕 末 の 日 本 で 「 器 械 戦 争 の 時 代 」 を 見 通 し た 藩 主 ・ 鍋 島 正 直 ( 閑 叟 ) の 手 腕 を、 大 砲 の 研 究 → 試 作 → 製 造 → 運 用 → 改
良 → 新 砲 開 発 過 程 を 調 べ る こと にした 。
鉄製大砲と反射炉
「 海 防 ( 国 防 ) に は 台 場 と 大 砲 が 不 可 欠 」 と 幕 府 ・ 諸 藩 が 強 く 認 識 し たの は、 18 0 0 年 代 にな ってか ら。 日 本 周 辺 に 黒 船 が 出 没 し た
ため、 徳 川 幕 府 は 1 8 05 年 代 に「 外 国 船 打 ち 払 い」 の 強 硬 策 を 打 ち 出 し 、 諸 藩 に 台 場 ・ 大 筒 の 備 え を 求 めた。し か し、 アヘ ン 戦 争
(1 84 0 ~4 2 年 )の 風 評 や 情 報 をつ かん だ 雄 藩 の 間 には、 「 外 国 に 蔑 ま れた くない」と い う 感 情 から、 洋 式 大 砲 を 自 前 で生 産 し ようと
の 機 運 が 高 まって い た。
こ うした 国 防 情 勢 の もと、ペリ ー 来 航 (1 85 3 年 )の 前 段 階 で 全 国 に は 約 6 0 0か 所 も の 台 場 が 設 け られて い た 。 だが、 そ こ に 備 えら
れた 大 筒 は 火 縄 銃 の 口 径 を 大 き くし た 程 度 であり、 黒 船 や 軍 艦 に 有 効 な 打 撃 を 与 えうる 代 物 で はなか った。
関 ヶ 原 や 大 坂 の 陣 で 用 い られ た 大 砲 は 青 銅 砲 だっ た。 銅 の 溶 点 は 約 千 度 で、錫 を 混 ぜる と 70 0 ~9 0 0 度 に 下 が る。東 大 寺 の 大
仏 に 見 られる 鋳 造 技 術 を 用 い た 青 銅 砲 は、 丸 い 弾 丸 で 塀 や 城 を 破 壊 する 目 的 で、 移 動 目 標 の 軍 艦 等 に は 射 程 ・ 精 度 ・ 発 射 速
度 ・ 移 動 性 に 欠 けて い た。そ のた め 雄 藩 は、オ ラ ン ダ 語 の 文 献 をも とに 、 大 型 ・ 鉄 製 砲 の 研 究 に 乗 り 出 し た。
原 料 の 砂 鉄 は、 日 本 各 地 に 産 出 した。 こ れで 大 砲 を 作 る に は、 「た たら」 ででき た溶 鉄 を 鋳 型 に 流 し 込 んで 砲 身 を 作 り 、 それ を 中
ぐ りして 仕 上 げる 。 この 砂 鉄 は、 木 炭 と 一 緒 に 炉 に 入 れて 熱 す る と、 40 0~ 8 0 0 度 で アメ 状 の 軟 塊 とな り、 これ を 鍛 練 すると 鉄 になる。
純 粋 な 鉄 は 1 50 0 度 以 上 、 炭 素 の 多 い 銑 鉄 で も 1 2 0 0 度 な くて は 溶 解 しな い 。
だが 、 大 砲 製 造 に は 大 量 の 溶 鉄 が 必 要 だ が、「たた ら」 では それ ができ ず、 反 射 炉 が 不 可 欠 だ った。 広 い 炉 底 を 持 つ 反 射 炉 は、
燃 焼 室 と 溶 解 室 が 分 離 して お り、 同 時 に 大 量 の 溶 解 を 可 能 とし、 作 業 中 に 溶 解 室 から 試 料 を 取 り 出 し た り、 途 中 で 溶 鉄 を 攪 拌 す
るの に 適 して い た。ま た、 高 い 煙 突 を 上 昇 する 気 流 の 吸 引 力 に より、 溶 解 室 に 自 然 に 炎 と 熱 風 が 送 り 込 ま れ、 人 力 に よる 送 風 を 必
要 と しな くな って いた。
そこで、 大 砲 製 造 を 目 論 む 佐 賀 、 薩 摩 、水 戸 、 長 州 、 岡 山 、 鳥 取 、 豊 前 の 各 藩 と、 天 領 の 韮 山 が、 反 射 炉 構 築 に 乗 り 出 し た。テ
キス トは、 ヒュ ゲエ ニ ン著 の『 ロイ ク 鉄 熕 鋳 造 所 に おけ る 鋳 造 作 業 』 ( 1 82 0 年 ) で、こ れ が 日 本 で 唯 一 の マ ニュア ルに なった。し た がっ
て、反 射 炉 そ のも のは 長 州 を 除 き 同 一 規 格 のも の が 全 国 11 カ 所 に 作 られ た。
こ の 反 射 炉 と 大 砲 製 造 の 技 術 基 盤 と して 、 刀 鍛 冶 の 鍛 造 技 術 、 焼 き 物 窯 の 耐 火 煉 瓦 、 砲 身 中 ぐ り に 水 車 動 力 、 反 射 炉 築 造 に
城 郭 石 積 み が 用 いら れた 。
蘭癖大名・閑叟と人材育成
大 砲 製 造 競 争 で 佐 賀 藩 が 先 頭 を 走 った の は、 同 藩 が 天 領 ・ 長 崎 湾 口 の 警 備 を 幕 府 か ら 命 ぜら れて い た こと による 。18 0 8 年 、 英
国 軍 艦 フェイ トン号 が 無 許 可 で 長 崎 港 に 侵 入 し 、 乱 暴 狼 藉 を 働 い て 遁 走 する 事 件 が 発 生 し た。 こ の 時 幕 府 は、 佐 賀 藩 に 警 備 失
敗 の 責 任 を 問 い、 藩 主 ・ 鍋 島 斉 直 に 逼 塞 を、 関 係 者 2 名 に は 切 腹 を 命 じて いる 。 こ うした 失 態 と 汚 名 挽 回 から、 斉 直 の 子 ・ 直 正 ( 以
下 、 閑 叟 と 称 す )は 長 崎 警 備 強 化 の た め 西 洋 砲 術 の 取 得 を めざし た。
研 究 段 階 で は、 江 戸 の 佐 賀 藩 侍 医 ・ 伊 藤 玄 朴 のも とで 蘭 学 塾 の 門 下 生 を 動 員 し 、 上 記 の 蘭 書 の 翻 訳 を 急 が せ た。 地 元 佐 賀 で
も、プ ロジ ェク トチー ムを 発 足 させて 反 射 炉 の 築 造 を 検 討 させ た。し かし 内 容 は 極 秘 と さ れ、 御 側 頭 、 御 側 目 付 な ど 藩 主 の 側 近 すら
現 場 への 立 ち 入 りを 禁 じ、 厳 重 な 情 報 管 理 を 行 っ て いた。 幕 府 は 未 だ 大 砲 製 造 を 禁 じて お り、 公 儀 隠 密 の 目 を 厳 に 警 戒 す る 必 要
があっ たた めで ある 。
翻 訳 が ほぼ 完 成 し た 嘉 永 3 年 ( 18 5 0 年 )、 鍋 島 閑 叟 は 大 砲 製 造 の た め「 精 煉 方 」 を 設 け、 7 月 に 城 下 の 築 地 (つ い じ) に 反 射 炉
を 建 設 して 試 作 に 乗 り 出 し た。 2 トンの 銑 鉄 を 作 る に は、 1 2 ト ン の 砂 鉄 と、 1 2 ト ン の 木 炭 が いる。そ こで 、 水 運 と 水 車 動 力 を 活 用 し う
る天 祐 寺 川 沿 い の 築 地 を 選 ん だ。 現 在 は、 日 進 小 学 校 のグ ラ ン ド 脇 に なっ ている。 その 川 は、 有 明 海 ・ 三 重 津 に 注 いで お り、 大 量
の 砂 鉄 ・ 石 炭 ・ 木 炭 輸 送 に 適 して いた 。
築地大銃製造所
また「 精 煉 方 」 は 、 反 射 炉 製 造 ・ 運 営 の 他 、 化 学 工 場 で 火 薬 を 製 造 し、 他 の 部 門 でガ ラス、 陶 磁 器 、 油 脂 、 皮 革 を 作 り、 紡 績 、
製 紙 、 印 刷 、 醸 造 、 製 糖 を 始 めた。 こ う した 事 業 を 推 進 した 鍋 島 閑 叟 は 、 後 に 「蘭 癖 大 名 (オ ラ ンダ か ぶれ) 」 と 揶 揄 さ れて いる 。
近 代 産 業 を 興 すに あた って 閑 叟 は 、 藩 の 内 外 から 洋 学 者 を 集 め、 佐 賀 藩 の 人 材 育 成 ・ 教 育 を 徹 底 し た。「 佐 賀 の 勉 強 好 き」 と 言
わ れる が、 佐 賀 は 藩 校 「 弘 道 館 」 を 持 って いた。 藩 士 の 子 弟 は 6~ 7 歳 で 外 生 と して 小 学 に 入 り、 1 6 ~1 7 歳 で 中 学 に 進 ん で 内 生 と
なり、 25 ~ 26 歳 で 卒 業 せし める 制 度 で ある。但 し、 落 第 生 に 対 して は、 罰 とし て家 禄 の 8 割 を 控 除 し、 かつ 藩 の 役 人 に 就 く こと を 許
さな かっ た( 大 隈 伯 昔 日 譚 )。 落 ち こ ぼ れ は 許 さな い、 何 とも 厳 し い 教 育 制 度 ではな か ろう か。
試作砲の砲身破裂
次 の 問 題 は、 幕 府 に よる 大 砲 製 造 の 許 可 と、 資 金 調 達 に あっ た。 鍋 島 藩 は 、世 上 「 知 行 高 3 5 万 7 千 石 の 雄 藩 」と 言 わ れる が、
実 情 は 3 支 藩 ・ 4 庶 流 家 ・ 4 分 家 の 自 治 領 を 抱 えて いるた め 、 藩 主 の 実 質 知 行 高 は 6 万 石 程 度 だっ た。そ れ に、1 年 ご との 長 崎 警 備
の 出 費 がか さん だた め、 財 政 事 情 は 非 常 に 厳 し かっ た よ うであ る。
そこで 佐 賀 藩 は、 長 崎 台 場 の 増 築 許 可 を 求 める 意 見 書 を 幕 府 に 提 出 し、 大 砲 を 製 造 す る 特 別 の 許 可 を 求 め た。 最 初 は 渋 って
いた 幕 府 も、 鍋 島 閑 叟 が フェー トン 号 事 件 を 持 ち 出 し、 「 再 び 同 様 の こと があ っても、 責 任 を 負 いか ねる」と 主 張 した こと から 、 幕 閣 は
やむな しと 見 た わ け だ が、 祖 法 の 順 守 と他 藩 との 手 前 か ら、 黙 認 と い う 措 置 を とった。
そこで 佐 賀 藩 は、 早 々に 鋳 造 砲 の 製 造 計 画 を 提 出 し、 警 備 強 化 の 名 目 で 1 0万 両 の 借 入 を 申 し 込 ん だ。そして、 幕 府 勘 定 所 や
長 崎 奉 行 所 と 交 渉 す る 一 方 で、 藩 主 自 ら 幕 閣 と の 談 判 に 臨 み、 結 果 として 5 万 両 の 借 金 返 済 免 除 の 他 に、 5 万 両 の 借 入 に 成 功 し
ている。
こうして、 佐 賀 藩 の 鋳 造 砲 事 業 は 長 崎 警 備 の 一 環 と してス タ ー トした わ け だ が 、借 金 返 済 免 除 の 条 件 として 大 砲 製 造 と 長 崎 砲
台 の 整 備 に 関 す る 定 期 報 告 を 義 務 づ けら れ た。 資 金 提 供 を 受 け た 半 年 後 、 佐 賀 藩 は「 砲 台 強 化 は 順 調 」と 報 告 し ている。 だ が 実
情 は、「 公 儀 役 人 の 巡 視 もある ので、そ の まま に してお いて は 不 都 合 」と いう 状 態 だっ た。
佐 賀 藩 に 対 する 幕 府 の 大 砲 製 造 許 可 、 砲 台 整 備 、 資 金 援 助 の 噂 は 直 ち に 世 間 に 広 がっ たが 、 実 態 として 佐 賀 藩 の 製 造 技 術
は 完 成 して なか った。 出 来 上 が った 試 作 砲 2 8 門 の うち、 鋳 鉄 砲 は 僅 か 4 門 で 、他 は 全 て 青 銅 砲 だ ったと さ れる。
さらに、 初 期 の 鋳 鉄 砲 は 試 射 段 階 でこ とごと く破 裂 を 起 こし た。 原 因 は 、 砲 身 そ のも の に「 巣 ( 鋳 物 に 出 来 る 気 泡 の 孔 ) 」 が 生 じ た
ことと 、 水 車 動 力 を 用 い た 砲 身 の 穿 孔 が 真 っ 直 ぐ 出 来 なか った こと に よる。し かしとも か く佐 賀 藩 は、 長 崎 奉 行 の 視 察 に 備 え、 鋳 鉄
砲 を 砲 台 に 備 える 作 業 を 急 ぎ 、 報 告 書 を 粉 飾 す る 操 作 を 行 っ た。
佐 賀 藩 の 名 誉 のた め に 述 べるな ら、 「 脆 い 鋳 鉄 砲 」 が 発 射 の 衝 撃 で 破 裂 す る事 故 は 珍 し くな い。 トル ス トイ の 小 説 にも 登 場 する。そ
れでも、 原 料 が 豊 富 で 大 量 に 製 造 出 来 る 鋳 鉄 砲 は 魅 力 だ った た め、 鋳 鋼 砲 が 実 用 化 さ れる まで 外 国 でも 鋳 鉄 砲 と青 銅 砲 が 併 用
された。
諸藩に対する秘密保全
18 5 3 年 ( 嘉 永 6 年 )、ペリ ー 艦 隊 が 浦 賀 に、 ロシア と 英 国 の 艦 隊 が 長 崎 へ 来 航 し た。 開 国 を 迫 ら れて 狼 狽 した 幕 府 は、 海 防 強 化
のた め「 大 船 建 造 の 解 禁 」 と「 洋 式 砲 術 の 奨 励 」 を 各 藩 に 伝 え、 全 国 の 寺 社 に 青 銅 砲 の 材 料 となる 梵 鐘 の 供 出 を 命 じ た。 こ れ によ り、
「幕 府 頼 るに 足 り ず」と 認 識 し た 諸 藩 は 、大 砲 ・ 軍 艦 の 製 造 に い ろ めき たっ た。 こ の 時 、 大 砲 製 造 を 届 け 出 た 大 名 は 2 20 藩 、 計 画 さ
れた 大 砲 の 総 数 は 1 千 50 門 に のぼる 。
一 方 、 江 戸 湾 の 防 備 を 急 ぐ 幕 府 は、 突 貫 工 事 で 品 川 沖 に1 1 基 の 台 場 構 築 に 着 手 し 、 江 戸 ・ 湯 島 で 青 銅 砲 の 製 造 を 開 始 し、 佐
賀 藩 に 20 0 門 の 鋳 鉄 砲 の 製 造 を 委 託 し、 御 三 家 ・ 水 戸 藩 にも 反 射 炉 築 造 名 目 で 1 万 両 を 貸 与 し た。
しかし、 製 造 技 術 を 完 全 に 習 得 して ない 佐 賀 藩 は、 早 急 に 大 砲 を 揃 える に は 何 門 かを 青 銅 砲 として は どう かと 幕 府 に 回 答 し た。
押 し 問 答 が 繰 り 返 された 結 果 、 2 4ポ ン ドと 3 6ポ ン ド の 鋳 鉄 砲 各 25 門 、 合 計 5 0 門 の 製 造 が 佐 賀 藩 に 求 め ら れた。 そ こで 同 藩 は、 反
射 炉 増 築 ( 小 布 施 地 区 )の 名 目 で、 再 び 幕 府 か ら 資 金 援 助 を 受 ける こと に 成 功 し た。
一 方 、 自 前 の 鋳 鉄 砲 の 製 造 を 目 指 す 諸 藩 は、 競 っ て 佐 賀 藩 に 見 学 と 技 術 指 導 を 求 めた。 反 射 炉 の 温 度 が 上 がら な い ことと 、 炉
壁 が 溶 けて 銑 鉄 に 不 純 物 が 混 じ る ト ラ ブル が 克 服 でき なか った 。そ こ で、 反 射 炉 運 営 の ソ フ ト の 開 示 を 求 めた のであ る。
だ が 佐 賀 藩 も、 砲 身 鋳 造 工 程 は 確 立 し て いた が、 砲 身 破 裂 と い う 難 問 を 抱 えて い た 。た め に 佐 賀 藩 は、 他 藩 者 の 反 射 炉 への 立
ち入 り や、 大 砲 の 試 射 見 学 を 厳 し く統 制 し た。 僅 か に、 同 盟 藩 である 土 佐 ・ 肥 後 藩 の みに 見 学 を 許 して いる。し か しこ れとて、 滞 在 を
2~ 3 日 に 限 定 し、 スケ ッ チ の 描 写 に 止 め さ せ、 或 い は 高 台 か ら 遠 望 さ せる 措 置 をとっ た。も っとも こ の 時 の 煙 の 色 と 匂 い から、 佐 賀
藩 が 木 炭 とと もに 長 崎 の 飛 び 地 と 藩 内 松 浦 から 産 する 石 炭 を 用 い、 高 温 を 得 ている こ とが つきと め ら れて いる。
この 時 、 見 学 や 技 術 指 導 を 拒 否 さ れ た水 戸 藩 や 天 領 ・ 韮 山 は 、 幕 府 か ら 直 接 委 任 を 受 けて いる こと を 理 由 に、 幕 臣 を 介 して 再 三
圧 力 をか け た。 そ れでも 佐 賀 藩 は、 御 三 家 の 水 戸 藩 に 砲 身 穿 孔 用 の 水 力 を 用 いた 動 力 模 型 を 与 え た も の の、 現 地 指 導 は 行 って
いな い。
情報収集と大砲事業の転換
大 砲 事 業 は 順 調 との 世 評 に もか か わ らず、 佐 賀 藩 で は 鋳 造 砲 の 砲 身 破 裂 が 続 い て いた。 そ こで 関 係 者 は、 長 崎 ・ 出 島 にオ ラ ン ダ
軍 の 艦 長 を 訪 れ、 鋳 鉄 砲 の 脆 さに つ い て情 報 収 集 に あた った 。 艦 長 は 「 鉄 質 に 問 題 があると 思 う が、 分 析 してみ な け れば わ か らな い。
蘭 書 は 1 0 年 前 に 出 され た 書 物 で 、 既 に 時 代 遅 れ 」 と 述 べ 、 オ ラ ン ダ は 既 に ス ウ エ ー デ ン で 鋳 造 さ れ た 大 砲 を 輸 入 し て い る と 告 げ た 。
そして、 執 拗 に 鉄 質 の 分 析 を 迫 る 佐 賀 藩 に、「 鋳 鉄 砲 の 自 主 開 発 を 断 念 し 、 新 兵 器 を 輸 入 すべき だ 」 と 説 い た ので ある。
「嘉 永 6 年 6 月 3 日 、 米 国 提 督 ペルリ 軍 艦 4 隻 を 率 いて 浦 賀 に 来 る。 此 早 打 17 日 佐 賀 に 達 し、 米 艦 追 々 長 崎 に 廻 航 すべし とて 諸
掛 役 直 に 長 崎 に 出 張 警 戒 す」と 『 沿 革 史 』 に 書 かれて いる 。
海 防 強 化 が 急 が れる 情 勢 で、 佐 賀 藩 主 は 幕 府 の 許 可 を 得 てオ ラ ン ダ 軍 艦 に 乗 り 込 み、 蒸 気 機 関 、 艦 載 大 砲 、 水 兵 の 教 練 な ど
をそ の 目 で 確 か めた。 この 時 艦 長 から、 「 軍 艦 に 対 し ては 6 0ポ ン ド 砲 以 上 でな けれ ば 効 果 が 得 られ な い」と の 重 要 情 報 を 得 て いる 。
その 結 果 、 佐 賀 藩 が 苦 心 して 製 造 し て いる 2 4・3 6ポ ン ド 砲 は、 最 早 や 時 代 後 れ だ と、 鍋 島 藩 主 自 ら 確 認 し た の であ る。
これよ り 佐 賀 藩 は 、 洋 式 産 業 の 自 主 開 発 を 断 念 し、 輸 入 に 転 換 した。 1 85 5 年 9 月 、オ ラ ンダ 商 館 長 と 蒸 気 軍 艦 、 艦 載 砲 、 船 舶
修 理 機 械 等 の 購 入 に つ いて 密 約 を 交 わし て い る 。 これ に 先 立 ち 、 幕 府 に 1 5 0 ポン ド 砲 の 献 上 を 申 し 出 、 見 返 り に 蒸 気 船 の 輸 入 許
可 を 求 めた。 佐 賀 藩 の 申 し 出 を 受 け た 幕 府 は、 薩 摩 藩 建 造 の 軍 艦 2 隻 に 1 5 0ポ ンド 砲 を 搭 載 する 決 定 を 下 し た。そ こで 佐 賀 藩 は 、
砂 鉄 に よる 鋳 鉄 砲 で は 1 50 ポ ンド 砲 の 完 成 は 不 可 能 と 考 え、 鉄 質 の 良 い 鉄 地 金 を 輸 入 して こ れ の 製 造 にあた った 。(青 銅 砲 に 切 り
替 えた との 話 もある が、 真 偽 のほ どは わ からな い )
15 0ポ ンド 砲 の 一 番 砲 は 18 5 9 年 に 鋳 込 みが 行 わ れ たが、 7 ト ン 余 の 重 量 を 持 つ 砲 身 の 穿 孔 に 難 渋 し て いる 。し かし 良 質 鉄 材 に
恵 ま れ、 試 射 にも 耐 え、 18 6 0 年 に 江 戸 へ 回 送 さ れた。
一 方 で、 佐 賀 藩 が 製 造 した 3 6ポ ン ド 砲 は、 完 成 し た 品 川 沖 台 場 での 訓 練 中 ( 18 5 7 年 ) に 相 次 いで 破 裂 した。 佐 賀 藩 は 直 ち に 長
崎 砲 台 に 急 使 を 派 遣 し、 鉄 製 2 4ポ ン ド 砲 ・ 3 6ポ ン ド 砲 の 装 薬 を 所 定 の 1/ 4 に 減 らす よう 指 示 した。そ して こ れを 契 機 と して、 反 射 炉
を 用 いた 製 砲 を 鋳 鉄 砲 から 青 銅 砲 に 切 り 換 える 検 討 に は いっ た。
他 方 、 遅 れて 鋳 鉄 砲 の 製 造 に こぎ つ けた 薩 摩 や 長 州 は、 薩 英 戦 争 や 馬 関 戦 争 (1 8 63 ~ 64 年 )で 惨 敗 した こと か ら、 英 仏 が 備 え
ている 錬 鉄 砲 (ア ー ムス トロ ング 砲 )、 鋳 鋼 砲 、 蒸 気 船 等 の 効 果 に 目 を 見 張 り、 自 力 開 発 で は 追 いつ けな い、 追 い 越 せな いと 悟 った
のである。
献 上 の 15 0ポ ンド 砲 を 送 り 出 した 佐 賀 藩 は、 清 国 に おけ る 内 乱 や、 幕 府 と 薩 ・ 長 の 対 立 から、 や がて 来 る べき 国 内 戦 を 予 測 し、
沿 岸 砲 か ら 野 戦 砲 へ と 方 針 を 転 換 し た 。そして、ネ ジ 式 尾 栓 の 後 装 砲 や、 旋 条 砲 ( アー ム ス ト ロ ング 砲 ) の 研 究 を 開 始 し た。
ア ー ムス トロ ング 砲 は 、 1 8 5 8 年 に 英 国 で 制 式 化 さ れ た 腔 内 施 条 ・ 後 装 式 ・ 錬 鉄 製 の 砲 で ある 。 小 さ な 弾 丸 で 装 薬 量 が 少 な くと も、
砲 弾 の 回 転 で 射 程 と 精 度 を 飛 躍 的 に 高 めた が、 尾 栓 が 破 裂 しや すか った。 佐 賀 藩 が 18 6 6 年 に 自 力 で 試 作 した ア ー ムス ト ロ ング 砲
のコ ピー は、 精 煉 方 に 務 め た 田 中 久 重 の 記 録 によ ると、 鉄 製 の 元 込 式 6ポ ン ド 軽 野 砲 ( 口 径 6 4 mm) で 藩 の 洋 式 軍 に 配 備 し た と さ
れる。 司 馬 遼 太 郎 は、 この 砲 は 戊 辰 戦 争 で 大 い に 威 力 を 発 揮 し たと 書 いて い るが、 榴 弾 威 力 に 関 して は 特 段 優 れ て いると は 言 え ま
い。
統治者の評価
現 代 の 感 覚 から す れば、 統 治 者 に 求 め られる 要 件 は 「 民 の 生 活 を 豊 か にし、 国 の 安 全 を 護 る こと」 だ が、 当 時 の 価 値 基 準 は 異 な
って いた。 大 砲 製 造 を 通 じて 洋 式 産 業 の 導 入 を 目 論 ん だ 鍋 島 閑 叟 は、 当 時 として は 有 数 の 軍 事 力 と 技 術 力 を 誇 っ てい たが、 中 央
の 政 局 に 関 して は 旗 幟 を 明 確 にせ ず、 大 政 奉 還 、 往 古 復 興 ま で 静 観 し 続 け た。ま た、 政 治 的 理 由 から 藩 士 の 他 藩 士 と の 交 流 を 禁
じ、「 二 重 鎖 国 の 藩 」と 言 わ れた。
しかし 1 86 7 年 に 鍋 島 閑 叟 が 新 政 府 か ら 北 陸 道 の 先 鋒 を 命 ぜ ら れ、 佐 賀 藩 兵 も 戊 辰 戦 争 に 参 加 する た め 東 上 し、 上 野 の 戦 闘
などで 新 政 府 の 勝 利 に 貢 献 した。 その 結 果 、 佐 賀 藩 は 明 治 政 府 に 多 数 の 人 物 を 送 り 込 み、 維 新 を 推 進 さ せた「 薩 長 土 肥 」 の 一 角
に 数 えら れ、 副 島 種 臣 、 江 藤 新 平 、 大 隈 重 信 、 大 木 喬 任 、 佐 野 常 民 等 を 輩 出 し て いる 。
鍋 島 閑 叟 に つ いて のもう 一 つ の 面 は、 近 代 産 業 を 興 すた め に、 優 れたリ ーダ ーシ ップ ― 経 営 ・ 情 報 戦 略 ―を 展 開 し た点 にあ る。
長 崎 警 備 や海 防 強 化 の名 目 で巧 みに幕 府 を動 かし、大 砲 製 造 の許 可 と資 金 を得 、試 行 錯 誤 により大 砲 の開 発 、製 造 、運 用 ・改
良 を 行 っ た。
更 に、 和 製 大 砲 が 時 代 遅 れであ ると 知 った 時 、 製 造 の 重 点 を 後 装 ・ 施 条 砲 の 製 造 に 転 換 さ せ、 外 国 から の 技 術 導 入 で 造 船 所
を 設 け ・ 和 式 陸 軍 等 の 創 設 に 向 か って いる。そ の 際 、 後 に 幕 府 や 明 治 政 府 が 行 った ような 「 お 雇 い 外 人 」 は 使 って い ない。
こうしたリ ーダ ーシ ッ プは、 現 代 の 企 業 が めざす「 勝 ち 組 」 の 条 件 ― 新 製 品 の 開 発 と 大 量 の 資 金 調 達 、 市 場 の 開 拓 と技 術 独 占 、
利 潤 の 追 求 と 業 態 転 換 、 情 報 収 集 と 秘 密 保 全 等 ― に、 ヒ ン トを 与 える ので は ない だ ろう か。
彼 のそ うしたリ ーダ ーシ ッ プは 、 個 人 的 な栄 達 や 権 勢 ・ 驕 り に よるも ので はな い 。 「攘 夷 か 開 国 か」で 大 揺 れ になっ た 幕 末 期 、 鍋 島
藩 は 財 政 の 優 先 を 大 砲 製 造 や 洋 式 技 術 の 導 入 に 充 て、 藩 主 の 住 ま い や( 御 殿 ) や 装 飾 に は 金 を 掛 け なか った。
焼 失 し た 居 城 本 丸 の 復 元 を 取 りや め、 「外 御 書 院 」を 建 設 して 藩 の 公 式 行 事 と御 座 所 ・ 執 務 室 とし た。 復 元 さ れ た「 外 御 書 院 」
は、 一 之 間 ~ 四 之 間 に 45 mも の 長 い 廊 下 を 合 わせ ると3 2 0 畳 の 大 空 間 を 持 つが、 瓦 ぶき の 平 屋 建 て、 木 材 は 檜 で なく杉 、 欄 干 に
透 かし 彫 り 等 な く、 襖 絵 も 単 純 なも の だ った。 こ こ に、 簡 素 な 武 士 道 の 美 学 。 葉 隠 精 神 の 一 端 を くみ 取 る こと ができ るので はな か ろう
か。
外御書院
今 、 佐 賀 県 民 は 有 明 湾 口 の 三 重 津 の 造 船 所 跡 地 を 世 界 文 化 遺 産 に 登 録 すべ く 運 動 を 展 開 し て いる。そ こ が、 当 時 の 近 代 産
業 の 発 祥 ・シ ンボル の 一 つ であ り、 遺 跡 が 残 って いるか ら だ ろう。 ま た 昨 年 は 、「鍋 島 閑 叟 生 誕 2 0 0 年 」 のイ ベ ン トが 実 施 さ れた。 彼 ら
もまた 、 こよな く郷 土 と 偉 人 に 愛 着 を 感 じてい るの であ ろう。
肥 前 史 談 会 発 行 『佐 賀 藩 銃 砲 沿 革 史 』
大 橋 周 治 『 幕 末 明 治 製 鉄 論 』( アグネ 、 1 9 9 1年 )
岩 堂 憲 人 『 世 界 銃 砲 史 下 』( 国 書 刊 行 会 、 1 9 9 5 年 )
和 田 康 太 郎 「 反 射 炉 の 導 入 とそ の 展 開 」( 平 凡 社 『たた ら から 近 代 製 鉄 へ』 、 1 9 9 0年 )
司 馬 遼 太 郎 『 歴 史 を 紀 行 する』 W ik ip edi a 「 佐 賀 藩 」「 ア ー ムス ト ロ ング 砲 」「 佐 賀 市 歴 史 探 訪 」