オスマン帝国の興隆と滅亡

オスマン帝国の興隆と滅亡
トルコ語の「テュルク」にあたる言葉として、日本語では「トルコ」という形が江戸時代
以来使われている。この語は、しばしばオスマン帝国において、トルコ語を母語とした
人々を意味し、現在では、トルコ共和国のトルコ人を限定して指す場合が多い
テュルク系民族は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域
に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民俗名称である。
中国史料に狄(てき)と記される民族が「テュルク」に関する最古の記録であると考えら
れている。狄は周代に中国の北方(河北地方: 山西省、河北省)に割拠する、中原的都市
文化を共有しない遊牧民を呼んだ呼称である。殷、周の時代に、多くが戦争によって中原
から北方へと追われた。狄には北に位置する赤狄と南に位置する白狄が居たが、周が衰え
ると白狄は春秋時代の衛や
、晋といった国々に侵入して略奪を行った。中国諸国と同
盟・離反を繰り返しながら存続し、戦国時代には、白狄が中原に中山国を建てている。中
山国は紀元前296年に趙の攻撃によって滅亡するが、ある者は中国人と同化し、ある者
は北狄、戎狄と総称される異民族として中国の周辺で遊牧を続けた。
後世になって北狄、戎狄の語は北方遊牧民族の代名詞となり、四夷の一つとして数えられ
る。
丁零と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフ
ステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている。モ
ンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人から高車と呼ばれるようになる。これ
は彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる。モンゴル高原に進出した
丁零人つまり(高車)は6世紀に柔然可汗国に敗れて滅亡した。中央ユーラシア東部の覇
者であった柔然可汗国は、その鍛鉄奴隷であった突厥(とっけつ)によって滅ぼされる
(555年)。突厥は柔然可汗国の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支
配下においた。そのため東ローマ帝国の史料にも「テュルク」として記され、その存在が
東西の歴史に記されることとなる。一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は鉄
勒(てつろく)と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の
民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独
立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。突厥は582年に東西に
分裂し、8世紀には両突厥が滅亡してしまう。両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広
まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。
中央アジアでは多くの諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイ
スラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。
サーマーン朝は、中央アジア西南部とイラン東部を支配したイラン系のイスラーム王朝。
サーマーン朝
テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝である。
カラハン朝
こうした中でテュルク・イスラーム文化というものが開花し、数々のイスラーム書籍が
テュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界における
テュルク語の位置はアラビア語、ペルシャ語、(イランを中心とする中東地方で話される
言語)に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。
古代のイラン(サファヴィー朝)
840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大
な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。これらカラハン朝
と天山ウィグル王国という2国によって西域はテュルク語化が進んだ。
当時、モンゴル高原にはケレイト、ナイマン、メルキト、モンゴル、タタル、オングト、
コンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモ
ンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン
としてモンゴル帝国を建国した。チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、
北のバルグト、オイラト、キルギス、西のタングート(西夏)、天山ウイグル王国、カル
ルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大
帝国を築き上げた。しかし、第4代モンケ・カアンの死後に後継争いが起きたため、帝国
は4つの国に分裂してしまう。
この史上最大の帝国に吸収されたテュルク系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比
べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にテュルク語が普及していたため、
テュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。
モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設されることとなった。
幾波にもわたってテュルク人がアナトリア半島に侵入し、移住してきたため、アナトリア
半島のトルコ化が進んだ。それまでのアナトリア半島には東ローマ帝国が存在し、主要言
語はギリシア語であった。
アナトリアへ最初に侵入してきたのはセルジューク朝である。始祖セルジュークは、テュ
ルク系遊牧民である。セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、アナトリア
のテュルク化が始まった。その後、セルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジュー
ク朝がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーン(中央アジア北部の
テュルク系遊牧民)が中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのテュルク化・イス
ラーム化は一層進んだ。14世紀にはオスマン帝国がアナトリアを中心に拡大し、最盛期
には古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展したのである。
オスマン帝国は、テュルク系(トルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族
帝国である。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポ
リスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、や
がてイスタンブルと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイ
ジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロ
ヴァキアに至る広大な領域に及んだ。
その後、オスマン帝国はそれなりの歴史を刻んでいくが、その点は省略して、19世紀の
様子を説明しよう。
1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけに、1806年にムハンマ
ド・アリーがエジプトの実権を掌握した。一方、フランス革命から波及した民族独立と解
放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立
戦争によってギリシャ王国が独立を果たした。ムハンマド・アリーは、第一次エジプト・
トルコ戦争と第二次エジプト・トルコ戦争を起こし、エジプトの世襲支配権を中央政府に
認めさせ、事実上独立した。
これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙
うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆
余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの
諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国の
勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。オスマン帝国はこ
のような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの
死の病
人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。180
8年に即位したマフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内
務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して
人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに
1839年、アブデュルメジト1世は、改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草し
たギュルハネ勅令を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文
化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオ
スマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進め
ていった。
1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によってき
わどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に
迫られたオスマン帝国は、1856年に改革勅令を発布して非ムスリムの権利を認める改
革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法
(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開
設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革
が進められた。
しかし、改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から
経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために農業のモノカルチャー化が進んで、帝国
は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を
強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で
破産した。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改
革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとでオスマン帝国憲法
(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを
宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定
めた。
だが憲法発布から間もない1878年に、オスマン帝国はロシアとの露土戦争に完敗し、
帝都イスタンブル西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望
むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、
非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反
動専制の時代がはじまるが、この時代は専制の一方で財政破産以降に帝国経済を掌握した
諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合
しない繊維工業などの分野で民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊
行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の民主主義、民族主義の拡大を準備した。
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは
専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進
歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求
めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。1891年には、時事新報記者の野田正太
郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した。
こうした経緯を経て、いよいよ20世紀に入る。
1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の
一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909
年には保守派の反革命運動を鎮圧、1913年には自らクーデターを起こし、統一派の中
核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする統一派政権を確立し
た。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を
保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。
この間にも、サロニカを含むマケドニアとアルバニア、1911年には伊土戦争によりリ
ビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対
抗するためドイツに近づき、1914年に始まる第一次世界大戦では同盟国側で参戦し
た。同盟国とは、、第一次世界大戦時に連合国と戦った諸国を指す名称で、三国同盟を結
んでいたドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリアのことである。
この第一次世界大戦において、1918年10月30日に、スマン帝国は降伏し(ムドロ
ス休戦協定)、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領された。そし
て、1920年、講和条約としてセーヴル条約が締結される。
セーヴル条約により、オスマン帝国の財政はイギリス・イタリア・フランスが決定権を持
つこととなった。すかさず イギリス と フランス は極秘に協定を結び、中東の多くの土地
を分割して支配し、これらの領土を植民地化する。
第2次世界大戦後、アラビア半島の多くの国が、次々と独立していったが、各国の 「国
境」 がイギリスとフランスが勝手に決めたものだったため、民族的あるいは宗教的な違
いからきわめて険悪な政治状態になっているのである。