ヴェスプレーム市 歴史 ヴェスプレーム市はハンガリー

ヴェスプレーム市
歴史
ヴェスプレーム市はハンガリー西部の中心、バラトン湖から凡そ15キロ北、
バコニ山脈の麓に位置する、ヴェスプレーム県の県庁所在地である。ハンガリ
ー王国初期からの主要都市であり、何代にも渡って王妃たちに好まれたことか
ら「王妃の町」とも呼ばれている。
地名の由来に関しては、スラヴ語の bezprym(ベズプリム)という単語から
発しているという説が最も有力である。これは、初代王家アールパード朝の一
人で後にこの地へ住み着いた者の個人名とも言われるが、
「凸凹」の意味をも持
ち、シェード川を囲む幾つもの丘に由来するという見解もある。伝説によれば
町は5つの丘に建てられ、内4つは恐らく、
「城の丘」
「エルサレムの丘」
「墓地
の丘」「チェルハート」であり、残り一つは「カルヴァリーの丘」「ベネディク
トゥスの丘」「市場の丘」「牧畜の丘」の何れかであると思われる。
ヴェスプレームはハンガリー人がこの地へ住み着いて間もない10世紀の頃
から重要な役割を果たしていた。997 年、首長ゲーザが死亡すると、息子イシュ
トヴァーン(後に初代国王聖イシュトヴァーン1世)は、首長の座を継承する
為に親戚のコッパー二と戦わなければならなくなった。コッパー二はイシュト
ヴァーンの母シャロルトと再婚するべく、彼女の居城であったヴェスプレーム
へ攻め込んだが、イシュトヴァーンはそこで軍を連れて対決し、最終的な勝利
を収めたとされる。後にヴェスプレームには、1009 年にハンガリー初の司教座
が置かれ、それが 1993 年には大司教座へ昇格した。初代王妃ギゼラもこの町を
気に入っており、ヴェスプレーム司教には王妃の戴冠の資格が与えられた。ま
た、国王の戴冠式用マントは、恐らく 1020 年頃、ヴェスプレームの修道院で作
られ、伝説ではギゼラ本人もその中へ刺繍を加えたとも言われている。
1240 年には城の丘の麓にも修道院が建てられ、ベーラ4世の娘、後に聖者と
認められたマルギットは、1246 年から 1252 年までここで暮らしていた。現在
は「マルギットの廃墟」と呼ばれるその跡地が残っている。
モンゴルの襲来の際、ヴェスプレームの城は攻撃に耐えた。13世紀に設け
られた、ハンガリー初の高等教育施設「カープタラン大学」が設けられ、ここ
では芸術の他法学も教えられたが、1276 年の内戦で町が破壊され、更に 1381
年の火事で焼かれたのち、殆どが修復されたものの、大学は恐らく再建されな
かった。
ハンガリーがトルコ支配下にあった頃、ヴェスプレームは最も大きな打撃を
受けた町の一つだった。先ずは 1526 年以降の、王位をめぐるサポヤイ・ヤーノ
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シュと神聖ローマ皇帝フェルディナント1世との間競われる中、殆ど焼き尽く
され、トルコの侵攻を妨げる力が失われたが、初めに城がトルコの手に堕ちた
1552 年以降、国が解放される凡そ1世紀半後までに、9回も主を変える結果と
なった。この永い戦火を生き抜いた建物は、現在城の端に建つ上品な佇まいの
「火の見塔」そしてヴェスプレーム最古の建造物とされている「ギゼラの礼拝
堂」の二つのみである。
18世紀から19世紀にかけては平和な発展が始まり、特に穀物の売買のお
陰で町はハンガリー西部中央地域の中心都市となり、人口が 2500 人から 14000
人に増加した。現在も見られる城内の建造物の殆どはその頃に建てられた。更
に高速な発展を最も妨げたのは司教による封建制度であり、これは 1870 年、ヴ
ェスプレームに自治体が成立するまで続いた。
初期のハンガリーの鉄道の一つはヴェスプレームから遠ざかっていた。1872
年、セーケシュフェヘルヴァ―ル・ヴェスプレーム・ソンバトヘイを結ぶ路線
が建設された際、司教と町の指導者達はそれが町内を通過する事を拒否し、駅
は町の中心から数キロ北、ユタシュ地域に建てられた。その結果、ヴェスプレ
ームの産業、穀物の売買は退化し、それまでの商業における中心的な役割は失
われてしまった。これは住民の増加が停止した結果を見ても明らかであった。
1930 年代には軍事的産業の影響で更なる進化が始まった。第二次世界大戦で
は幾度も空爆を受け、町の象徴の一つでもある「聖イシュトヴァーンの架け橋」
も大幅に破損した。1950 年代になって、産業化は研究所や大学の設立が並行し、
その結果、町の人口は40年間で凡そ 3.5 倍に増加し、現在の6万人代に至った。
ヴェスプレーム城の風景
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観光スポット
ヴェスプレーム市の歴史的原点は、トルコ侵略以前まで国の中心都市の一つ
であり、国王・王妃のしばしばの滞在地、そして司教座のあった城と城下町で
ある。18・19世紀の街並みがそのまま残っている「旧市街広場」(Óváros tér)
から、住民の多くが町の象徴と答えるであろう「火の見塔」が見えてくる。元
は城門を守る為の塔として建てられ、16 世紀に描かれた図でも見ることができ
る。数多くの戦争を生き延びて、1810 年の地震で著しく破損をし、取り壊しの
案も挙がったが、トゥムレル・ヘンリクによって修復され、同時に消防署が隣
に建設されたことで、「火の見塔」の役割を得た。
火の見塔
この塔の傍の門、第一次世界大戦の犠牲者の記念碑として建てられた「英雄
の門」を潜ると、ブダの王宮に次いで全国で2番目に広い面積を誇るヴェスプ
レーム城へ入ることができる。長さ 360 メートル、横幅は最大で 100 メートル
近くもある巨大な城だが、スタイルは中世のものではなく、18世紀から建ち
始めた大きく美しい建物の数々が、城内の通り「城通り(Vár utca)」に狭い印象
を与える。向かって左へ進めば、ヴェスプレームの偉人を奉った「万神殿」が
あり、ここから「火の見塔」へ上ることができる。
「城通り」を暫く真っ直ぐへ進むと、左手にライオンの頭が飾られた、嘗て
の城内牢獄、現在の県立裁判所、その向かいに、ピアリスタ教会と学院(後に、
2008 年までは「経済学専門学校」)があり、それを抜けると、「三神一体広場」
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(Szentháromság tér)へ出る。
ここで右手に見えるのは、1765 年、名建築家のフェルネル・ヤカブが設計し
たバロック式の「大司教館」。1772 にヨハン・シンバルが天井いっぱいに描い
たフレスコが有名で、1908 年には、オーストリア・ハンガリー皇帝フランツ・
ヨーゼフが投宿したことでも知られている。
大司教館に向かって左側にあるのが、城内で最も古くからその一部が残って
いる、「ギゼラ礼拝堂」。町の伝統は初代王妃ギゼラと結び付けるが、実際には
13 世紀に建てられたものであり、トルコ侵略の頃ほぼ完全に破壊されてしまっ
たものの、壁面には12人の使徒の内6人を描いた中世のフレスコは今も尚健
在である。
広場の三神一体像の奥に聳えるのが「聖ミハーイ聖堂」。1001 年に建てられ
たヴェスプレーム司教の初の聖堂はロマン式のもので、その後戦争や火災等で
幾度と焼けてしまい、1723 年にバロック式で再建され、1910 年にはネオ・ロ
マン式に建て替えられた。地下には過去のヴェスプレーム司教たちが埋葬され、
ギゼラ王妃の腕骨の一部も奉られている。
聖堂の北側には、恐らくヴェスプレーム最古の建造物である「聖ジョルジュ
礼拝堂」の跡地がある。ここでは嘗て、何世紀にも渡って聖ゲオルギウスの遺
物が守られていて、入口にはイシュトヴァーン一世の息子で同様に聖者である
イムレ王子の、伝説のゲオルギウスの如く竜を退治した像がある。
聖堂の向かいにあるのは18世紀に建てられたフランシスコ派教会と、聖フ
ランシスコに因んで名付けられた神父の住居。ここでは教会の宝物が多く飾ら
れている。
初代国王と王妃の像
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「城通り」の最終地点、断崖沿いに初代国王と王妃の像がたたずむその場所
からは、ヴェスプレーム北部のほぼ全てを見渡せる、素晴らしい景色が目の前
に広がる。左方に見えるのは「墓地の丘」と「エルサレムの丘」とを結びつけ
る、これまた町の象徴の一つである「聖イシュトヴァーンの架け橋」。この橋の
中心にある休憩所からも同格の景色、一方にはバコニ山脈、もう一方には城の
美しい建物の組み合わせを見ることができる。
架け橋の底、シェード川が流れる谷を城とは反対方向へ歩けば、猟師であり
狩猟専門の作家でもあったキッテンベルゲル・カールマンに因んで名付けられ、
1958 年、国内で2番目に開かれた動物園には、これまで国際的人気を誇った動
物がいくつも滞在しており、幅広い世代から注目が集められている。
現在のヴェスプレームの中心に広がる街並みは、主に住民が急激に増加した
20世紀後半に出来上がったものである。日頃の生活のメイン舞台となるのは
無論ここであり、最も賑わう商店街「コシュート・ラヨシュ通り」には、旧式
な建物が目立つ北側にも、モダンなものが多い南側にも、様々な店やレストラ
ンが経営されている。
コシュート通りを下って「自由広場(Szabadság tér)」へ着くと、町で最も美
しい建物の一つと言われる、1887 年にネオ・ルネサンス調で建設された県庁を
見ることができる。この県庁の傍に広がる公園は、嘗ては司教の広大な庭園の
一部であったが、今では、ハンガリーで最も有名な詩人の一人であるペトゥー
フィ・シャーンドルの名を持つ劇場が中に建っている。
県庁から公園に沿って暫く歩いた所に見える、ロマンティックな要素をも持
つ「エトヴォシュ・カーロイ県立図書館」も、嘗ては司教が所有した宮殿であ
った。
さて、ここで町の中心から更に遠ざかると、そこは最早「大学市街」である。
13世紀に焼かれた後、ヴェスプレームに再び大学が設立されたのは 1949 年。
当初は「ヴェスプレーム化学大学」であった施設は後に分野を広げ、
「パンノン
大学」となった現在は、1万1千人もの学生が通う、ハンガリー西部における
教育の中心ともいえる。
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