一 はじめに

飯 塚 恵 理人
大 須 賀 鬼 卵 著 ﹃東 海 道 人 物 志 ﹄ に 見 ら れ る能 楽 愛 好 者
能 楽 の伝 搬と 街 道沿 いの数 寄者 達−
はじ め に
近 世、能楽 師が江 戸・京 都などに 旅行すること はかなり 多か った。 名古屋に京 都住・江戸 住の能楽 師が来て能 の催
−
|
‥ 大
五三
と いう こ と を 記 し た 人 名 録 で あ る 。﹃東 海 道 人 物 志 ﹄︵以 下 ﹃人 物 志 ﹄ と 略 称 ︶ は 掛川 の 住 人 で あ った 大 須 賀 鬼 卵 が 纏
の主 人 に 教 え た り と いう こ と があ っ た の で あ る 。 そ し て こ の よ う な 能 楽 師 の 旅 が 能 楽 の 伝 搬 に 大 き く 寄 与 し た と 考え
著
n
川p
刎 ら れ る 。 旅 を 行 う 上 で は こ の よ う な 同 好 者 ・ 同 業 者 に 連 絡 を つ け て お く こ と が、 能 楽 師 に と っ て も 重 要 な こ と で あ っ
四
た と 考 え ら れ る 。 こ のよ う な 時 に 役 に 立 つ の が 、 そ の道 中 沿 い の 各 宿 場 に 、 ど の よ う な 芸 を 得 意 と す る 人 物 が い る か
難 うに 、能楽 師も 旅を続け る途中に愛好 者・同業 者の家を 宿所として、 そこで囃子仝 ・狂言仝 を持った り、ある いはそ
r
剖 しを行 うことも 多々あ った。これら の東西の能楽 師は名古屋 に来るこ とを目的にして いたも のばかりで はなく、 旅の
物
畝 途中 に名古屋 によ ったと いう者も 多かった。俳 諧師 が所 々の同 好者・同 業者 の家 を宿所として 、そこで仝 をも ったよ
に見 られ る 能楽 愛 好 者
五四
め た 人 名 録 で 、 享 和 三 ︵一 八 〇 三 ︶ 年 の 奥 書 を 持 ち 、 京 都 ︵ 菊 舎 太 兵 衛 ︶ ・ 大 阪 ︵ 播 磨 屋 九 兵 衛 ︶ ・江 戸 ︵須 原 屋 茂
兵 衛 ︶ の 共 同 企 画 で あ る ﹁ 三 都 書 林 ﹂ よ り 刊 行 さ れ た も の で あ る 。 本 稿 で は 、 こ の ﹃人 物 志 ﹄ よ り 能 楽 関 係 者 を 抽 出
し 、 そ こ から 近 世 の 能 楽 の 普 及 と 伝 搬 の 問 題 に つ い て 考 え て み た い 。な お 、﹃人 物 志 ﹄ の 底 本 は 、刈 谷市 立 図 書 館 村 上
文 庫 本 を 用 い た 。 但 し 、 序 文 ・ 凡 例 等 の 引 用 は ﹃ 静 岡 県 史・ 資 料 編15
﹄ の翻 刻によった。
ニ ﹃東 海道 人 物志﹄ と大 須賀 鬼卵
注
︵1︶
こ の ﹃人 物 志 ﹄ を 著 し た 大 須 賀 鬼 卵 に つ いて は 、 同 書 の富 小 路 貞 直 の序 文 に 、
芭蕉 のかせをし も、 つたへし人あ り、もとよ り、おほき ひしり のをしへをも かしこみて、 千磐破人を し
と ほ つぁ ふ み の 国 な る 日 坂 と い へ る わ た り に 、 栗 杖 亭 と か ら 名 つ け て 、 白 拷 の し ろ き を 後 に す る 事 を 家 わ さ に
しつこ
をと
ら さ る事 を う れ た むこ ゝろ 、 いと ふ か く 物 し け れ は 、 あ ら 玉 の此 年 こ ろ あ し 曳 の や ま し ろ の 国 よ り 、 鳥 か な くぁ
にな たかき人ぐ
こたひ それかなすわ さ、われ かすむ附、 それか氏名ま でも、 夕月夜、お ぼっかなき所 なく、降 つむ
っまに いゆきかよふ小 余綾の、 いそちあま りみっ のはゆまちわ たりにて、玉 はこの道く
ふらひ つ ∼
雪 の いち し ろ く か き あ つ め 、 板 に ゑ り て 、 瓢 形 の 天 の下 に 、 ほ どこ ら さ む
と あ る 。 鬼 卵 は 、 こ の 序 文 に ﹁ 芭 蕉 の か せ を し も 、 つ た へし 人 ﹂ と あ る よ う に 、 特 に 俳 諧 を 好 ん で い たよ う で あ る 。
注
︵2︶
ま た 、 同 書 の江 戸 の 臨 海 春蟻 の 序 文 に は 鬼 卵 に つ い て ﹁ も と 河 内 の 隠 士 に し て 、 今 画 を 業 とし 、 俳 諧 狂 歌 を こ の む ﹂
と 述 べて い る 。 そ れ ら の教 養 人 同 士 に は 、 そ れ ぞ れ の 同 好 者 の ネ ット ワ ー ク が 必要 で あ っ た 。 鬼 卵 がこ の ﹃人 物 志 ﹄
を 纏 め た き っ か け も 、 最 初 は 自 ら が交 際し 、 連 絡 を と り あ った 教 養人 を 集 め た も の と 考 え ら れ る 。
こ の鬼 卵 が日 坂 の住 民 で あ っ た こ と は 、 こ の ﹃人 物 志 ﹄ 記 載 の人 物 に 大 き な 影 響 を 与 え て い る 。 こ の こ と に つ
注
︵3︶
は 、﹃ 掛 川 市 史 ﹄ に 、
み る べきで、必 ずし も一九世 紀初め の東海道文化人 地図を客 観的に表現し たものと はいえな いだろう
セ ント となり、相 当の高 率で ある。 むろん、こ のこ とは、撰 者の居住 地からみて、 知識と調 査の偏り があ ったと
所載 の近世文化人 は︵中略︶、日 阪宿二 七名・掛川宿 六六名、合 計九三名 、全体のな かの比串 は、約一四・五 八I
﹃ 東 海 道 人 物 志 ﹄は 、 巻 末 の追 加 ま で い れ る と 、一八四三 名の人名 ・寺名を のせて いる。そのう ち、日坂宿・ 掛川宿
い
て
城との藩中 にも、名 高き人 々も あなれと、 もらし つ るは、御門 の内 へあたし人 、入たま はねはなり
なり
名高き人 々も、駅路よ り道の程、二 里に余り つるは いれす、さまて は旅路 のわ つらはし きを、 いと ひ 侍 れ は
一
え がた い。しかしな がら、それ でもなお、こ と能楽に 関する限 り、この書 から判明す るこ とは かな り多 い。
注
︵4︶
鬼卵 は、﹃人物 志 ﹄の凡 例に、
一
J
一
武術は 公 を恐れて 、もらし侍 る
日L
はヴ
名ある人 の、此草 紙にもれぬ るもあるは、風人 の訊 んこ とを いと ひて、しゐて 加入を ゆるさす、或 はやまひ
と いひ、 或は宿に ありなから、 他へ行しなと いひて、出会 たまはね は、本意な く書もらし ぬるもあ なり
享和三 年亥 初冬
栗杖 亭鬼
五五
誌
とある 。無論この人 数的な偏 りからも、こ の ﹃東海道人 物志﹄ が当 時の東海 道の文化人 を公 平に網羅 したも のとは考
大 須 賀 鬼卵 著 『東 海道 人 物 志 』 に見 ら れ る 能 楽愛 好 者
五六
と 記 し て い る 。こ の凡 例 で と く に 注 目 さ れ る の は 、﹁ 名 あ る人 ﹂で あ っ て も ﹁ 風 人 の 訊 ん こ と を い と ひ て 、し ゐ て 加 入
を ゆ る さ す ﹂ と いう 人 が い た と 記 し て い るこ と で あ る 。 こ れ は こ の ﹃人 物 志 ﹄ が単 に 有 名 な 人 物 を 列 挙 す る こ と を 目
的 と し て い る の で は な く 、 そ れ を 見 て ﹁ 風 人 ﹂ がそ の人 を 訪 れ るこ と を 、 記 載 さ れ た 人 物 も 期 待 し て い る こ と を 示 し
て い る 。ま た 、こ の凡 例 に ﹁他 へ 行 し な と い ひ て 、 出 会 た ま は ね は 、﹂書 き 載 せ る こ と が出 来 な い人 が い た と 書 か れ て
お り 、 こ れ ら の 記 載 人 物 に つ いて は 鬼 卵 自 身 が原 則 と し て 面 識 があ っ た と 考 え て よ い点 が挙 げ ら れ る 。 そ し て 、 鬼 卵
注
︵5︶
が ﹃人 物 志 ﹄ に 収 め た 芸 能 は 、 そ の 目 録 を 挙 げ る と 、
○目 録
皇 学 歌人 漢 学 詩 人 仏 学 医 学 外 科 暦 学 天 文 算 学 連 歌 狂 歌 俳 諧 音 楽 琴 筝 碁
書 画 香 茶 道 立 花 生 花 印 章 蹴 鞠 将 棋 双 六 猿 楽 浄 瑠 理 三 弦 小 唄 古 書 古 画 古 銭
石 品 扇 面
と な る 。 し か し な がら 、 実 際 に は こ の 枠 に 納 ま ら な い 芸 を 持 つ 人 物 も 、 こ の ﹃人 物 志 ﹄ に は 収 め ら れて い る 。 こ れ に
注
︵6︶
関 し て は ﹃ 静 岡 県 史 通 史 編4 近 世 二 ﹄ に
特 殊 な 表 記 と し て 、静 岡 県 下 で は 、﹁ 著 伊 豆 誌 ﹂﹁ 著 駿 河 名 勝 志 ﹂﹁ 製 初 雁 皮 紙﹂﹁ 建 小 島 碑 ﹂
﹁ 五 才 ヨ リ 詠 歌 ﹂﹁ 冷
泉 家 門人 ・ 冷 泉 家 流 ﹂ な ど の 例 も あ る 。 か く て ﹁ 目 録 ﹂ よ り も標 榜 す る 看 板 の 表 記 は 増 加 し た の で あ る 。
こ の 表 記 と は 、 序 文 に いう 各 宿 駅 に お け る ﹁和 漢 の 芸 術 を た し む 非 常 の 人 ﹂ が﹁ お の かし こ ﹂のめ る わ さ ﹂、そ
の﹁ わ さ ﹂ で あ る 。﹁ 項 目 ﹂ と ﹁ わ さ ﹂ と の数 の 落 差 は い か な る こ と を 意 味 す る か、 と いう こ と を み る と 、 お そ ら
く 登 録 者 の 意 向 を 踏 ま え た か ら で あ ろ う 。 つま り 、 第 四 か条 に い う 面 会 謝 絶 の 者 の意 向 を 尊 重 す る こ と と 同 様 に 、
当 時 の 出 版 事 情 、 た と え ば 俳 諧 連 歌 の 結 社 や 類 題 和 歌 集 な ど 、 個 人 に よ る 編 さ ん の 際 の 例 か ら し て わ か るよ う に 、
登 録 者 は 掲 載 料 を 支 払 って い る と 思 わ れ る か ら 、 そ の 者 の自 己 主 張 は 容 れ ら れ た は ず で あ る 。 た とえ ば 日 坂 駅 の
石 川 為 蔵 ︵依 平 ︶ の場 合 、﹃冷 泉 家 御 門 人 、 五 才 ヨ リ 詠 歌 ﹄ と 記 さ れ て い る ごと く で あ る 。 も っと も 、 石 川 依 平 は
享 和 三 年 当 時 、 一 三 歳 で あ り 、 近 親 者 の 意 向 が反 映 し て い るこ と も 考 え ら れ よ う 。
と 述 べら れて い る 。﹃人 物 志 ﹄は 、そ れ に 記 さ れ た 人 物 が 自 ら の 意 志 に 依 って 登 録 料 を 払 って 登 録 し て い る と 考 え ら れ
るこ と 、 そ し て 一 三 歳 の 子 供 の よ う に 、 掲 載 当 時 に 技 量 の 面 で は 優 れて いな い に 違 い な い人 物 も 載 せ て い る こ と は 注
意 されてよ いだろう。
ま た 、 こ れ ら の 目 録 に 載 せ ら れ て い る 芸 のう ち 、﹁ 浄 瑠 理﹂﹁ 三 弦﹂﹁ 小 唄 ﹂ は 本 編 に は 載 せ ら れ ず 、﹁ 追 加 ﹂ の部 分
運 ば れ た と も 言 う こ と が あ り 、 こ の 様 相 が ﹃人 物 志 ﹄ によ り 窺 う こ と がで き る の で あ る 。
五七
近 世 の 芸 能 の 一 つ の特 徴 と し て 、 専 門 家 の 旅 と 、 そ れ を 愛 好 す る 街 道沿 い の 数 寄 者 と の 交 流 に よ って 、 文 化 が東 西 に
が優 れ た 技 量 を 持 つ 必 要 は な く 、 嗜 み ・ 趣 味 と し て そ の 芸 を 楽 し ん で い る と 言 っ た ふ う で あ っ た の で は な か ろ う か 。
・ 愛 好 者 の 複 数 集 ま って 情 報 交 換 を す る こ と が 必 要 で あ る 点 で あ ろ う 。 専 門 家 を受 け 入 れ る 愛 好 者 は 、 必 ず し も 自 ら
掲 載 さ れて い る 芸 は 非 常 に 多 分 野 に 亙 る が 、こ れ ら の 芸 の 特 徴 は い ず れ も 一 人 で 行 う 性 質 の も の で は な く 、 職 業 人
と となる 。
み ら れ 、 単 純 に 集 計 す る と 六 三 七 名 に な る が 、こ こ か ら 重 複 す る 四 名 を 除 き 、 六三 三 名 に 関 す る 情 報 が載 っ て い るこ
物 志 ﹄で は 本 編 に 載 り な がら 、 追 加 に も 記 さ れ る人 物 が四 人 あ る 。﹃人 物 志 ﹄ に は 、 本 編 六 〇 二 名 、追 加 三 五 名 の 名 が
ら の 芸 は 数 寄 者 の 芸 と 言 う に は 俗 な イ メ ー ジ が あ った た め 、本 編 で は な く 追 加 に 記 し た と いう 事 情 が考 え ら れ る 。
﹃人
に 収 録 さ れ て い る 。 追 加 に 収 め ら れ て いる 芸 の 項 目 は こ の三 種 に 加 え て ﹁ 横 笛 ﹂﹁ 八 人 芸 ﹂﹁川 崎 音 頭 ﹂ と な る 。 こ れ
大須 賀 鬼 卵 著 『東 海 道 人 物 志』 に見 ら れ る 能楽 愛 好 者
三 東 海道 の 能楽拠 点
五八
﹃人物志﹄ に記され た人 名は、鬼卵 の交友圏 から駿河 ・遠州で総人 数の半分 近くをしめ るという偏り がある が、 そ
れでも束海 道添 いの 宿場 につ いて、 どの宿場 からもでき るだけ人数的 に偏らな いようにと いう 配慮をして いると思 わ
れる。五三 宿を通して 、能楽に関係す る人物 とし て挙 げられて いるのは、乱舞一 七名、謡一 一名、笛四 名、小鼓 七名、
大 鼓五名 、太鼓五名、 狂言四名 とな る。 但し 、掛川の岡田三 右衛門 は謡・狂言 の二 種 がと もに載る ので 、人数とし て
は総数五二 名とな る。
﹁ 乱舞﹂と﹁謡﹂ が分 けて載せら れて いるこ とから、技量はとも かく﹁乱 舞﹂はシテ方とし て立
って舞う人 、謡は地謡 方︵もしく はワキ方︶ と一応考え ておく。無 論、今後こ れらの人物 が関係した 能番 組・謡 講の
資料 がな いか、調査す る必要はあ るだろう 。
国・ 宿別に挙 げら れた能楽関係 者の分 布を ︵表1 ︶ に、挙げら れた人 名を ︵表2 ︶にま とめてみた 。まず、武 蔵・
相模に は能楽関係者 とし て載 る人 物 がいな い。伊豆に は一名、駿河 には一四名 、遠江には一四 名、三河 には四名 が挙
げられ る。尾張に は記載さ れる人 物 がな い 。伊 勢 に は 一 四 名 、近 江 に は五 名 が挙 げ ら れ る 。﹃人 物 志 ﹄ に は 、武 蔵 ・ 相
模 の 人 物 で 能 楽 の関 係 者 は な く 、 そ の 点 で こ の 地 域 の能 楽 事 情 は わ か ら な い 。ま た 、 尾 張 に 記 載 さ れ て い る 人 物 が な
いの は 、 宮 か ら 離 れて い る た め に 名 古 屋 の人 名 が記 載 さ れ て いな い た め で あ る 。 し か し な が ら 、 こ の 表 か ら 、 東 海 道
沿 いで 能 楽 に 関 係 す る 人 物 は 、 あ る 程 度 同 じ 宿 場 に 集 中 し て 居 住 し て い る こ と が類 推 で き る 。 三 名 以 上 の 能 楽 関 係 者
が記 載 さ れ て いる の は 、 駿 河 の 嶋田 ︵ 一 一 名 ︶、 遠江 の 掛 川 ︵ 六 名 ︶ ・ 見 附 ︵ 三 名 ︶ ・浜 松 ︵三 名 ︶、 三 河 の 吉 田 ︵四
名 ︶、 伊 勢 の 桑 名 ︵六 名 ︶ ・ 四 日 市 ︵ 六 名 ︶、 近 江 の大 津 ︵四 名 ︶ の 八 箇 所 で あ る 。 こ れ ら 複 数 の愛 好 者 が い る 宿 で は 、
能 そ の も の が行 わ れ て いな い と し て も 、 少 な く と も 囃 子 会 や 謡 講 は あ っ た と 考 え る の が 自 然 で あ ろ う 。 こ のう ち三 河
の 吉田 ︵ 豊 橋 市 ︶ に 関 し て は 、 安 海 熊 野 神 社 の 能 面 ・ 装 束 を 中 心 に 研 究 が 行 わ れ て い る が、 そ れ以 外 の 宿 に つ い て は 、
ま だ 能 楽 史 研 究 の 対 象 に は な っ て いな い よ う に 見 受 け ら れ る 。 特 に 注 目 さ れ る の は 、 能 楽 関 係 者 一 一 名 を 数え る 嶋 田
注
︵7︶
で あ る 。﹃ 島田 市 史 ﹄ に は 。
こ の 乱 舞 と 俳 諧 ・ 漢 詩 がそ れ ぞ れ 七 名 で 最 も 多 く 、 こ れ に 次 ぐ の が 書 道 ・ 碁 の 六 名 、 和 歌 の五 名 に な っ て いる 。
こ れ ら の文 芸 は 当 時 の中 央 文 化 に直 接 つ な が る も の で あ り 、 そ の他 の 諸 文 芸 も ま た同 じ で あ っ た 。 こ れを 隣 接 宿
駅 の 藤 枝 ・ 金 谷 及 び府 中 に 比 較 し て 見 る と ︵中 略 ︶ 島 田 に だ け あ って 他 の 三 駅 に あ げ ら れ て いな い の は 、 乱 舞 ・
小 鼓 ・ 大 鼓 ・ 碁 ・ 古 銭 ・ 印 章 で あ り 、 特 に 乱 舞 は 武 家 階層 の た し な む 能 楽 に 関 連 す る も のと し て 、 庶 民 芸 能 と は
異 る も の が あ っ た 。 に も か か わ ら ず こ れ を よ く す る 者 が 七 名 に 上 り 、 島 田 本 陣 の三 家 置 塩 ・大 久 保 ・ 村 松 を 中 心
に 行 な わ れて い た こ と は 、 こ れ ら 武 家 階 層 の 芸 能 が、 や が て 庶 民 階層 の 中 に お りて く る 地 方 文 化 の 変 質 の 推 移 を
語 る 興 味 深 い 資 料 と も いえ よ う 。
五九
﹃ 人 物 志 ﹄ に は 笛 の徳 田 吉 次 郎 の 一 名 し か 載 ら な い が、 近 世 後 期 か ら 明 治 時 代 の 能 楽 を 考 え る 上 で 重 要 な の が静 岡
に 当 時 の能 楽 の番 組 が 残 さ れ て い る か 、 あ る い は 謡 本 ・ 能 面 な ど があ る か は 今 後 調 査 す る 必 要 が あ る だ ろ う 。
に 、 こ れ だ け の人 数 が能 楽 を 嗜 む と 記 さ れ て い る 宿 場 町 が あ っ た と いう こ と は 、 確 か に 注 目 す べき こ と と 思 う 。 嶋 田
ま だ 検 討 す る 余 地 があ る 。し か し な が ら 、 全 国 的 に み て 、 富 裕 な 町 人 階層 が積 極 的 に 能 楽 に 関 わ る 文 化 ・ 文 政 期 以 前
と い う 指 摘 が あ る 。 能 楽 が江 戸 前 期 に お い て ﹁ 武 家 階 層 の たし な む ﹂ も の で あ った と 限 定 し て と ら え て よ い の か は 、
大 須 賀 鬼 卵著 『:東海 道 人物 志 』 に 見 ら れ る能 楽愛 好 者
一
一
七 五
一
一
七 五
一
一
七 五
一
一
七 四
一
一
七 三
一
一
七 三
一
一
七 三
一
一
七 三
一
一
七 二
一
一
七 二
一
一
七 二
一
一
七 二
一
一
七
一
七
一
六
一
六
一
一
一
五
一
四
一
四
一
一
一
七
一
七
一
六
一
六
一
三
一
興
行
年
月
日
年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年
閏
一 閏 一 一
五 一 六 三 三 冬 九 六 〇 四 〇 三 二
月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月
一 一
一
一 一
一
一
一 一
一
六
一
〇
六 七
二
一
二 四
一
日 日 日 日 日 日1 日 日 日 日
S S S S
稽 稽 勧 勧 能 能 仕 能 能 囃 囃 能 能 内
古 古 進 進 舞 子 子
容
能 能 能 能 ・
囃
子
報 西 妙 少 少 西 報 少 浄 浄 善 通 雷 場
身 教 像 将 将 福 土 将 源 光 念 町 神 所
寺 寺 寺 社 社 寺 寺 社 寺 院 寺 社
山 長
下 谷
一 川
学 伊
織
中
心
人
物
六〇
注
︵8︶
︵府 中 ︶の 能 楽 事 情 で あ る 。中 村 羊 一 郎 氏 は 、﹁東 海 道 駿 府 城 下 町︵下 ︶﹂に お いて﹁ 駿 府 市 中 お よ び周 辺 に お け る 興 行 と
一
一
一
一
一
一
一
一
七 六 六 一 〇 九 九 六 二 二 一 一 三
開 帳 ﹂ と 言 う 年 表 を ま と め て お ら れ る 。こ れ に 載 る 能 楽 の催 し を 抜 粋 し て 挙 げ る と
の一三 回とな る・ これ が四 十年以上 にわた る記 録であ るこ とを考え ると、少な いよ うにも見え る が、能楽 の催しは 、
宝 宝 宝 寛 享 享 享 享 享 享 享 享 正
暦
暦
暦
保
保
保
保
保
保
保
保
保
徳
能であ って も囃子・仕 舞であ っても、実 際には発表会 のような 性格 が強く、 その裏に、愛 好者の稽古 の蓄積 があって
行 われ る。こ のこと を考えれ ば、駿府に は享保 から 宝暦 にかけて の時期に相当 数の能楽愛 好者 がいたこ と が類 推され
る。そし てここ に﹁勧 進能﹂
﹁稽古 能﹂とあるのは、当時 の慣例から、実際にはチ ャリティ ーで も稽古で もない、玄人
が入場料を と って行う 興行を 指し て いると考えら れる。当時 の駿 府では能 が興行としても 成り立つ だけの地盤 があ っ
たと思わ れるのだ 。享保年間 には、能楽 も相当に浸 透して いた 。文化・文 政期の文化は、こ のような蓄 積の上 に成り
立ったと 言え るだろう 。
注︵9 ︶
静 岡 の 江 戸 期 の 能 楽 に つ い て の 先 行 研 究 と し て は 鈴 木 正 錬 の ﹁ 静 岡 の 謡 曲 ﹂ が や や 詳 し い。ただ 資料の関係 から徳
五 郎と いひ 、野呂家 の養子とな り、文化四 年八月八十二 歳で没す。︵中 略︶
一
_l .
/
ゝ
物 太物商を営 み、謡曲 を嗜んだ。 此人は新 庄家の別家太 郎兵衛 ︵新 庄家の二代仁 右衛門 の弟︶ の二 男で 、初め助
野呂傅左衛 門 八本通 貳丁 目に住 み、桑名屋 といひ、先 祖は今川 の家 臣であった が、永禄年中町 人とな り、小間
静岡 支店 の支配 人とな り、明治十 九年七十 余歳にて没す 。観世流 の謡 曲を楽しま れた。
萩原四 郎 兵衛久訓は鶴夫 と いひ、土太夫町 に住ひ、町頭 の役を勤 め、名字帯刀 を 許さる。後 第二 十六国 立銀行
か りし と いふ 。︵中 略︶
岡 野源七は 静山と号し 、安西三丁 目に住 ひ、謡曲小鼓を 好くし、駿 府城中 の士 分の人 々にて 、師事す るもの 多
謡 曲を好み、人 にも教へ たと いふ 。明治十一 年二 月、 七十一 歳にて没す 。︵中 略︶
野 崎彦左衛門 貞利は、幼 名を直次 郎と いひ 、後徳成と 改め、詩歌俳諧 書画 挿花等 の趣昧深か りし が、観 世流 の
鈴木氏 ︵前掲︶ が、
川 家康 の静岡在住 時の記述 があるも ののその後幕末 までの記事 がない。幕末 の静岡に能楽 を好ん だ人 がいたこ と討、
大須 賀 鬼 卵 著 『東 海 道 人物 志 』 に 見 ら れ る能 楽愛 好 者
小杉 将監は、浅 間神社 の神官で、謡 曲を好ん だ。
栗田 嘉兵衛は宮 ヶ崎町住 み、謡曲を 好んだ。︵中略︶
六二
此外 、指物屋和 助︵宮ヶ 崎町に住 む︶森新七 ︵御 器屋町で深 江屋︶興津某 ︵西草深町 ︶中川飛 騨守、建部 藤十
郎、 豊藤某 女な どの名 が傅 つて居 る。
と 挙 げ ら れ て い る 。 い ず れ も 、 士 分 ・ 商 人 で あ って 玄 人 と し て の 能 楽 師 で は な い。特に商人 など静岡 の﹁
が広ま って いたこと 、これら の人 が素人 に謡曲を教え て いたこ とは重要であ ろう。
幽 終 わ り に
に
能
こ れらの人名 録を地方 ごとに広く 収集 し、 地方の数寄者 の能楽との関 わりにつ いて 考え て行 きたい。
旬発 行 書林 松坂職人 町深野屋利 助 刈 谷市立図書館所 蔵︶ が存在す る。こ の本 にも能楽関係 者 が記 される。今 後
に有 益な資料で あると言え み。こ れと同 様 の人 名録は、少し 時代 が下 る が﹃伊 勢人物志 南勢之部﹄
︵天保五 年五月中
方 の数寄者・愛 好者の存 在も無 視で きな いで あろう。こ のようなこ とを考え る上で、
﹃人物志﹄のような人 名録は非 常
旅は能 楽の地方 への伝搬を 考える上で 無視でき ない要素で ある。そして、 一方、そ れらの能楽 師よ り教えを受 ける 地
そ の形 で伝えら れたこと は、能楽 師が各地方に 旅をして、 能・謡 を教え たからに他な らな い。こ の意味で、 能楽 師の
考えて みた。能 がその土 地固有の芸能 とはなら ず、全国に普 遍性・共通 性を持つ舞台 芸能とな り、そして現代 にまで
以上 、
﹃東 海道人物志﹄を中心に 、能楽の伝 搬と地方の能楽 愛好者 の存 在、江戸中期 の宿場町と 能楽の拠点 につ いて
町
衆
ま た 、 街 道 と 能 楽 の 伝 搬 と いう 問 題 を 考 え る 上 で は 、 東 海 道 の よ う な 幹 線 のみ で は な く 、 そ の 脇 街 道 や 裏 街 道 の存
在 を 考 慮 す る 必 要 があ る だ ろ う 。例 え ば、 浜 松 や 新 居 を 経 ず に 、 見 付 か ら 浜 名 湖 の 北 側 を 廻 り 、三 ケ日 を 経 て 御 油 へ
抜 け る 道 が あ っ た 。 こ れ は 姫 街 道 と 呼 ば れ て い る 。 こ の三 ヶ日 に 服 部 姓 の 能 楽 師 が い た 。 そ し て 服 部 氏 と 、 三 ケ日 か
注
︵1︶
0
ら 山 を へ だ て た 新 城 の 祭 礼 能 は 関 係 が深 か っ た 。 こ のこ と に つ いて は 、 大 原 紋 三 郎 氏 が﹁ 服 部 友 清 は 古 く か ら 遠 州 三
ヶ 日 の 大 福 寺 に 寓 居 し て 、 こ の 地方 の 能 を 指 導 し て いた 服 部三 左 衛 門 の 子 で 源 右 衛 門 と 称 し た 。 宝 永 五 年 父 三 左 衛 門
が 新 城 で 勧 進 能 興 行 の 時 に も 同 行 し 、 宝 暦 五 年 の 祭 礼 能 に 式三 番 叟 を 上 演 し 翁 の役 を 勤 め ら れ た 。 こ の時 、 友 清 は 八
十 八 才 で 、 三 年 後 の 宝 暦 八 年 に 九 十 一 歳 で 亡く な った 。 こ の 後 、 安 永四 年 と 五 年 に 出 演 み 記 録 の あ る 甲 門 は こ の 友 清
二 年四月 に西 草深町 の野崎彦左衛 門邸の屋 敷内 に四百余 名を収容でき る静岡能楽 倶楽部と いう 能楽堂 が設 立されて い
剖 行 く の に 全て 東 海 道 を 通 る 必 要 は な く 、 名 古 屋 か ら 大 垣 に 抜 け て 中 山 道 へ 抜 け るこ と も で き る の で あ る 。
物
人 能 楽 史 の研 究 は 、 現 在 能 楽 堂 が あ り 、 能 が 催 さ れ て い る 土 地 のみ を 対 象 と す べ き で は な い 。﹃人 物 志 ﹄ を 検 討 し て 、
道
海 特 に 静 岡 県 仁 つ いて は 能 楽 資 料 の 調 査 を す る 必 要 を 強 く 感 じ た・ た と え ば 、 静 岡 市 に は 、 戦 災 で 焼 失 し た が 、 大 正 一
陳
名 へ 渡 る ので は な く 、 名 古 屋 か ら 佐 屋 廻 り で 桑 名 へ 廻 る 道 があ り 、 こ ち ら を 通 る 旅人 も 多 か っ た 。 ま た 江 戸 か ら 京 へ
の 子 と 思 わ れ る 。﹂ と 述 べて お ら れ る 。ま た 、東 海 道 の 宿 駅以 外 に 、そ の 周 辺 の町 村 が 準 宿 場 的 な 機 能 を 持 っ て 発 展 し
注
︵11︶
たこ と も 考 慮 に 入 れ る 必要 があ る だ ろ う 。 嘉 永五 ︵一 八 五 二 ︶ 年 の三 代 豊国 の﹁ 東 海 道 ﹂ は 宿 駅 の 間 を 描 い て い る が 。
注
︵1︶
2
そ の 宮 ・ 桑 名 間 は 名 古 屋 と し て い る 。 こ れ は 二 代 国 貞 の ﹁ 東 海 道 名 所 之 内 名 古 屋 ﹂ も 同 様 で あ る 。 宮 か ら 直 接 桑
こ見 ら れ る 能楽 愛好 者
六三
野崎衛七 が昭和三 四年 に纏めた 、こ の能楽 堂で催され た能番組と出 演し た能楽 師・愛好者 の記録であ る。残念な がら。
七︶﹃思い出の能 舞台﹄︵昭和四一 年 企画 部文書課 市 史編集室︶ が詳し い。こ の内容は、 能楽堂の再 建を祈願し て
た。こ の静岡 能楽倶楽部 の活動に関し ては静岡 県立中央図 書館︵静岡県立葵 文庫︶に所蔵 されて いる静岡市史史 料︵一
大 須 賀鬼 卵 著
六四
静 岡 市 に は 現 在 能 楽 堂 は な い。 し かし な がら 、 静 岡 県 に は 、 江 戸 中 期 以 降 、 能 楽 史 の表 面 に は で な いも の の 、 能 楽 を
支 え た 人 々 が か な り いた よ う に 思 わ れ る の で あ る 。 こ れ ら の内 容 に 関 し て は 、 明 治 維 新 期 の 観 世 清 孝 の 静 岡 移 住 に 関
す る資料ととも に別稿を 期した い。
注
1 ﹃ 静岡 県 史 資料 編15 近世 七 ﹄ 編集 ・ 発 行 静 岡 県 平 成三 年三 月 発 行 七三 五 頁
2 同 注1 七三 六頁
3 ﹃ 掛川 市 史 中 巻 ﹄ 掛川 市 史 編 纂委 員 会 編 集 掛 川 市 昭 和 五 九 年 コ 一月発 行 一 一四 九 頁
4 同 注1 七三 六一 七三 七頁
5 同 注1 七三 七頁
6 ﹃ 静岡 県 史 通 史 編4 近世 二 ﹄ 編集 ・ 発 行 静 岡 県 平 成 九 年三 月 発 行 三 六四− 三 六五 頁
7 ﹃ 島田 市 史 中 巻 ﹄ 島田 市 史 編 纂 委員 会 編 集 島 田 市役 所 昭 和四 三 年 八 月発 行 七六 四一 七六 五 頁
8 ﹁ 東海 道 駿 府 城下 町 ︵下 ︶
﹂ 中 村 羊 一郎 ﹃東海 道 ル ネ ッサ ンス 文庫 ﹄ 中部 建 設 協会 平 成 九年 三 月発 行 一
二二二− 一三 四 頁
究 協会 編 国 書刊 行 会 昭和 五 七 年五 月 発 行 一四 四 ︱ 一四 五 頁
9 ﹁ 静 岡 の謡 曲 ﹂ 鈴 木正 錬 ﹁ 静 岡 県郷 土 研 究﹂ 第 十二 輯 昭 和 一四 年 三 月発 行 ﹃静 岡県 郷 土研 究 ﹄ 第 六 巻所 収 静岡 県 郷 土 研
10 ﹃新 城祭 礼 能番 組 帳 解 説 ﹄ 大 原 紋三 郎 私 家 版 平 成 八 年五 月 発 行 二 六頁
r-H
﹃ 浮 世絵 大 東海 道 上﹄ 大 野 和 彦 京 都 書 院ア ーツ コ レク ショ ン ー九二 京 都 書 院 平 成 一〇 年 九 月発 行 二 二 九頁
付記
12 ﹃浮 世絵 大 東海 道 下 ﹄ 大 野 和 彦 京 都 書 院ア ー ツコ レ ク ショ ン ー九 三 京 都 書 院 平 成 一〇 年 九 月発 行 一五 五 頁
貴 重 な 資料 の閲 覧を 許 可 頂 き まし た 刈 谷市 立 図 書 館 に 心よ り 感謝 致し ます 。本 稿作 成 に 当 たり まし て 貴 重 な御 教 示 を頂 き ま し た 、大 倉 流
セ ンタ ー 職員 松 本 稔 章先 生 、富 士市 立 博 物館 学 芸 員 荻 野裕 子 氏 に心 よ り 感謝 致 し ます 。本稿 は平 成 一一 年 度椙 山 女 学 園大 学 学 園研 究 費 助 成
大 鼓 方 筧 鉱 一先 生 、新 城市 在 住大 原 紋 三 郎 先生 、筑 波大 学 名 誉教 授 芳 賀 登先 生 、静岡 県 立 吉田 高 校 校長 中 村 羊一 郎 先 生 、静 岡 歴 史 文化 情 報
︵B ︶ に よ る成 果 の 一部 と な り ま す。 ’
大須 賀 鬼 卵著 『東 海 道人 物 志 』 に 見ら れ る 能楽 愛 好 者
(.ml 六
五
u東mm.
人 物 志 ) に 記 篆 己 れ 心筋 采 − 鮨 石 ̄
`の 人 気
番号 国名
1武蔵
2
3
4
小計
5相模
6
7
8
9
10
小計
11 伊豆
小計
12 駿河
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
小計
24 遠江
25
26
宿場名
本篇 追加 総計 能関係 乱舞 謡
品川
0 13
0
0
13
川崎
11
0 11
0
0
神奈川
10
0 10
0
0
5 1
5
0
0
保土ヶ谷
0
0
39 1 39
戸塚
3
0 3
0
0
藤沢
9
0 9
0
0
2
0
2
0
0
平塚
大磯
6
1 7
0
0
小田原
15 1 16
0
0
2
0 2
0
0
箱根
0
0
37 2 39
三島
31
0 31
1
0
0 31
1
0
31
7
0
7
0
0
沼津
原
4
0 4
1 1
吉原
3 1
4
0
0
2
0 2
0
0
神原
0
0
由比
2
0 2
興津
10
0 10
0
0
江尻
7
0 7
0
0
府中
3
1
0
18
21
2
0 2
0
0
丸子
0
0
岡部
3
0 3
藤枝
6 1
7
1
0
嶋田
0 30
7
30
11
5 99
94
14 8
0
0
金谷
14
0 14
日坂
26 1 26
0
0
掛川
63
3 65
6
3
27
28
29
30
31
32
小計
33 三河
34
35
36
37
38
39
小計
40 尾張
41
小計
42 伊勢
43
44
45
46
47
48
小計
49 近江
50
51
52
53
小計
ふ 斗
袋井
見附
浜松
舞阪
新居
白須賀
二川
吉田
御油
赤坂
藤川
岡崎
池鯉鮒
鳴海
宮
桑名
四日市
石薬師
庄野
亀山
関
坂下
土山
水口
石部
草津
大津
17
3 20
31
5 36
18 2 20
2
0 2
7
0 7
5
0 5
183 14 195
2
0 2
41 2 43
2
0 2
8 0
8
1
0 1
11 0 11
6 3
9
5 76
71
0 12
12
14 0 14
26 0 26
5 24
20
30 2 32
2
0 2
2
0 2
6 ・0 6
5
0 5
3
0 3
7 74
68
2
0 2
8 1
9
5
0 5
9
0 9
29
0 29
53 "1
54
A-n
fif>9
XCi
2
3
3
0
0
0
14
0
4
0
0
0
0
0
4
0
0
0
6
6
0
0
l
0
1
14
0
1
0
0
4
5
i ;ワ
0
1
1
0
0
0
5
0
1
0
0
0
0
0
1
0
0
0
1
1
0
0
0
0
1
3
0
0
0
0
0
0
17
笛
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
1
0
0
1
1
2
2
0
0
0
6
0
1
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
1
0
1
0
0
1
2
11
小鼓 大鼓 太鼓 狂酉 備考
0 0 0
0 0
0
0
0 0 0
0 0 0
0 0
0 0 0
0
0田口兵右衛門は追加再出
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0
0
0 0 0
0 0 0
0 0
0 0 0
0
0
0 0 0
0 0
0
0 1 0
0
0 1 0
0 0
0 0 0
0 0
0 0 0
0 0
0 0 0
0
0
0 0
0 0
0
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
1 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0 3 1
0
0
1
3 1
0
0
0 0 0
0
0
0伊藤徳兵衛は追加再出
0 0 0
0
0 1 0
1 1謡・狂言は同一人物の兼
岡田十平は追加再出
0 0 0
1
0
0 0 0
0 0
0
0 0 0
0
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0 0
0
0
0
0 1 0
2 1
0 0 0
0
0
0 0 1
0 1
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0 0 0
0
0
0
0 0 0
0
0 0 0
0
0
0
0 1
0 1
0 0 0
0
0
0
0
0 0 0
0 0 0
0
0
1
1 1
2
0田村喜代八は追加再出
1
0 1
1 1
0 0
0 0
0
0 0
0 0
0
1 0
0 0
0
0 0
0 0
0
0
0 0
0 0
3 1 2
3
1
0 0
0 0
0
0
0 0
0 0
0 0
0 0
0
0 0
0 0
0
0 1 1
0
1
0
1
1
0
1
4
7
5
5
4
*i 番 号」欄には江戸を起点とした場合のmm の油し番号を記した。
*掛川の岡田三右衛門は謡と狂言と両方記されている。そこで、謡・狂言の項目ではそれぞれの項目で1 名として数
えたが、能関係人数としては1 名として数えた。 このため、能関係人数の合計は5 2 名だが、乱舞 から狂言までの
各項目の人数を合算すると53
名となる。
*追加は宿場でない地名に人名が記されていることがある。この場合、次の宿場名が記されるまでの間に書かれた地
名を付された人名は、すべて前の宿場の人名として扱った。
*追加に記載される3 5 名の うち4 名は本編にも名前がある。 これらは本編・追加ともそれぞ れの欄で人数に数え
たが、総計の際には 1人として計算した。
( 表2 )r 東海道人物志』に記載される能楽愛好者名 ト
番号 国名 宿場名 役籍
名
宇
号
他技能
通称
11 伊豆 三島
小鼓
保
一色亭
渡遵彦左衛門
茶道
13 駿河 原
乱舞
蕃雨
渡遵曽平
府中
笛
抱―斎
徳田吉次郎
画
19
藤枝
謡
大塚甚左衛門
22
23
嶋田
乱舞
貞廉
孟簡
岡本勘吉
詩書
乱舞
徳郷
君臨
粛奄
置甕幸三郎
印章
乱舞
柴雨竜
大久保自寛
茶道
乱舞
寛管
村松九郎次
和歌
芯堂
乱舞
瑞
公圭
桑原伊右衛門
書
清m
乱舞
和田長四郎
画
乱舞
飯塚太助
碁
小鼓
長谷川如圓軒
小鼓
公聞
伊東主膳
医・香道・茶道
盛脊
寸苗奄
小鼓
罪路鈴成
秋山仁兵衛
狂歌
大鼓
大石民八
掛川
乱舞
柿檀人
渾野弥三左衛門
狂歌
26 遠江
乱舞
中山金藤次
乱舞
惟徳
子鎌
小潭冨三郎
碁
謡・狂言
岡田三右衛門
謡・狂言を兼
小鼓
伊東祐九郎
太鼓
馬水
小渾喜之次
中将棋
袋井
謡
大橋六兵衛
27
太鼓
政方
加藤輿左衛門
見附
乱舞
矢田無一
28
謡
山田徳左衛門
謡
半場又八
碁
浜松
乱舞
陶々斎
小滓玄渾
音楽
29
謡
千砂
川上助九郎
生花
謡
若森長右衛門
34 三河 吉田
乱舞
兎堂
植田七三郎
俳諧
謡
大山次左衛門
大鼓
義方
子植
―蓬舎・古帆 植田栄作
漢学・国学
狂言
不掃園・李成 山本彦七
乱舞
周豊
松岡庄九郎
42 伊勢 桑名
笛
矢田甚右衛門
小鼓
山口喜左衛門
大鼓
山口喜一
太鼓
牡丹亭・架橋 丹羽善九右衛門 俳諧
太鼓
月草棲・工十 工藤十右衛門
俳諧
四日市 乱舞
太田吉左衛門
43
謡
村田武右衛門
碁
笛
吉田角左衛門
大鼓
森寺幸助
太鼓
黒川彦左衛門
狂言
鈴木吉兵衛
俳諧・医業
46
亀山
笛
斎内長奥
坂下
乱舞
高屋傅右衛門
48
謡
堀井茂助
50 近江 水口
53
大津
謡
今井栄蔵
小鼓
中川勇蔵
大鼓
渾文内
狂言
川嶋弥三郎
地名
熱海
流儀
谷川
舞木
本郷
本郷
山梨市場
中泉
中泉
池田
下地
霞岡
観世門人
I
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ノ
/
ゝ