戦後70周年特集

メッセージ
戦後 周年特集
昭和 年8月6日と9日に、
広島と長崎に原爆が落とされ、
たくさんの命が失われました。
同年8月 日に終わりを告げた
第2次世界大戦からことしで
年がたとうとしています。
今、
私たちはどんなことを知らなければ
3
メッセージ
人が亡
日には
し た。 戦 況 が 悪 化 し た た め、
タル6カ月の訓練が行われま
隊。前期と後期に分けてトー
航 空 隊・人 吉 海 軍 航 空 隊 が 開
連合
民や学生たちも動員されまし
期の日本には戦闘機が少な
るようになりました。戦争末
地では特攻隊の訓練が行われ
れました。教育の場だった基
以 て 作 戦 す る 施 設 」に 指 定 さ
えて「中型練習機・軽爆撃機ヲ
隊名は人吉航空基地施設に
変 わ り、基 地 は 本 土 決 戦 に 備
ありました。ぬかを野草やサ
のえさにしていたぬかなども
い た 大 豆 油 の 絞 り か す、牛 馬
ました。中には肥料に使って
れ、配 給 も ひ ど い も の に な り
はさらに貧相な生活が強いら
昭和 年半ばごろから沖縄
戦 の 敗 色 が 濃 く な る と、国 民
できる油状の液体。
※マツの切り株を乾留して
20
15
ならないのでしょうか。
機が高原飛
射 さ れ、軍 人 や 住 民
くなりました。7月
あさぎり町上も爆撃されまし
7期目には3カ月に短縮され
く、基地では「赤とんぼ」と呼
ツマイモのツルなどと混ぜて
た。
ましたが、訓練は8期行われ、
ばれる2枚羽根の練習機に爆
塩味だけですすった人もいた
た。翌年2月1日に第
解隊されるまでに約6000
弾を積んで特攻する練習をし
もっ
人の予科練生が卒業しまし
そうです。
18
70
20
今回は戦争と平和について
学 ぶ 基 礎 教 育、整 備 や 兵 器 の
飛び交う戦闘機、
生活は貧相に
移動はすべて駆け足。制裁や
航空隊基地内の工場では簡
易兵器だけでなく燃料不足を
6000人が門をくぐる
こ と を 学 ぶ 実 習 教 育、体 育 な
私たちが住んでいる人吉球
磨にはかつて海軍の航空隊が
罰 則 は 厳 し く、連 帯 責 任 で し
補 う た め に、ガ ソ リ ン の 代 わ
ど を 学 ぶ 教 練 が あ り ま し た。
あ り、た く さ ん の 若 者 た ち が
た。
り に な る 松 根 油 ※( し ょ う こ
ん ゆ )を 作 っ て い ま し た。 人
吉球磨の豊富な木材を使って
用ボートを作ったという話も
爆弾を運ぶための木箱や特攻
1期目は整備兵を育成しま
し た が、2 期 目 か ら は 航 空 消
あります。
教育よりも防衛協力
飛行機の操縦や整備の訓練を
していました。隊の名前は人
吉 海 軍 航 空 隊。 高 原( た か ん
ば る )と 呼 ば れ る 球 磨 郡 錦 町
にありました。海軍航空兵予
耗戦で不足していたパイロッ
の西北から相良村の南の地域
科練習生(予科練生)として入
トの育成を目指しました。昭
日にはアメ
代の若者たちは当
隊した
昭和 年3月
リカ軍の戦闘機
年3月には教育よりも本
行場を爆撃。5月
和
土の防衛協力が優先されるよ
日に航空隊は解隊され
日には人
い と い う 志 だ け で な く、大 空
吉市内と球磨郡各地が機銃掃
7月
31 14
ました。
ました。
14
た。 訓 練 は 国 語、数 学 な ど を
した。建設には人吉球磨の住
22
10
連 合 航 空 隊 に 編 入、同 年
う に な り、人 吉 海 軍 航 空 隊 は
時、愛 す る 国 や 家 族 を 守 り た
23 18
への夢やあこがれを持ってい
20
第
20
ました。
昭 和 年 月 か ら 航 空 隊・
飛行場の建設工事が始まりま
11
1
2
4
2
広報ゆのまえ 8 月号
2015.8
3
5
6
10
18
70
考えてみませんか?
【当時の人吉海軍航空隊の写真】
1. 物資を格納する倉庫 2. 基地施設の内部と思われる写真 3. 練習機でのグライダー訓練
4〜 6.人吉球磨の豊富な松を使って松根油を製造。若い兵隊たちが作業に汗を流した 人吉海軍航空隊基地跡検証プロジェクト提供(錦町)
未来への伝言
未来への伝言
特集