根 来 寺 千 三 百 年 の 歴 史

はや
僧兵の増勢と武備に逸り秀吉軍の武力に滅びた
ら い ゆ
根来寺千三百年の歴史
かく ば ん
平安時代の高野山高僧覚鑁が開山し頼瑜が興こした根来寺
鉄砲導入と傭兵によって武装集団と化した根来寺衆
ひ
ご
江戸時代に紀州藩の庇護で再興したが往古の姿今いずこ
山下重良編
-1-
次 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根来寺千三百年の歴史
目
本書の要約 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
か く ば ん しよう に ん
覚鑁 上 人の生涯 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かくばん
根来寺の開山 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
金剛峯寺衆の覚鑁排斥と荘園相論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
中世紀の川周辺の荘・郷の略図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
かくばん
覚 鑁の死とその後の高 野山及 び根来寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
13
金剛峯寺と根来寺の確執・寺領を巡る相論 ・・・・・・・・・・・・・
根来寺の独立 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鉄砲の導入と根来衆の武力集団化 ・・・・・・・・・・・・・・
鉄砲伝来と伝播 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だ け んも つ
秀吉の根来攻めと寺僧衆の焼死・逃亡 ・・・・・・・・・・・
つ
津田監物と津田氏・平野氏の系譜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
津田家系譜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平野氏先祖書 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根来寺の再興 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根来寺の現況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
藍 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大伝法堂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伽
大塔 多(宝塔 ・・
)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大師堂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
光明真言殿 御(影堂 ・・
)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
聖天堂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
不動堂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
行者堂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 68
奥の院 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 68
-2-
56
67
53
47
67
57
61
65
65
65
1
根来衆の武装集団化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
27
65
67
67
16
36
17
5
27
18
4
10
22
門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
坊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鐘桜門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本
大
園 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
短
歌 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根来寺関係寺院と末寺一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根来一山の現状 写(真 ・・
)・・・・・・・・・・・・・・・・・
根来寺を巡る年表 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
76
引用文献・参考史料 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
82
76
77
84
庭
頭 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
著者略歴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
87
たつち ゆ う
塔
愛染院 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
蓮華院 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
-3-
律乗院 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
円明寺 興教大師入寂地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根来の子守唄 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
石手 岩(出 と)根来の地名由来 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
根来塗りの由来 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文化財 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一乗閣 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
境内にある施設 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
旧御廟所 興教大師荼毘地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
69
72
70
72
69
68
68
68
68
69
69
69
69
70
70
74
えいき ゆう
かく ばん
か ほ う
さ いぜ ん いん
みようじやく
し
に ん じ
ら い ゆ
かくばん
1304
だ いほ う え
1226
行うようになった。
しんぎ は
基 址 等を根来 山に移 して殿 堂を造 営 し根来山で大 法会を
き
やがて正応元 年、根来山の中性院の頼瑜 ( -年 ら)
(
)
だ いで ん ぽ う いん
み つご ん いん
僧 徒 は、高 野 山 の大 伝 法 院 ・密 厳 院 ・及 び諸 堂 舎 ・僧 坊 の
しよう おう
残らず焼失した。
年を経た仁治三 ( 年)、高野山金剛峯寺の僧徒らが覚鑁の
だ いで ん ぽ う いん
創 建 した高 野 山大 伝 法院 に放 火し、堂 塔 や 僧 坊が一宇も
1242
1288
本書の要約
歳。
1131
正 覺 坊 は永 久 二 ( 年) 、高 野 山 に入 り最 禅 院 の明 寂 か
ひ い ん み つご ん
かくばん
ら秘印密言を受け覚鑁と称するようになった。ときに二十
しよういかくぼう
根 来 寺 の開 山 僧 覚鑁 は、嘉 保 二 ( 年) 、平 氏の枝 孫とし
ひ ぜ ん のく に
や ち とせ
しよういかくぼう
て肥 前国 佐( 賀県 に)生まれた。幼名を弥千歳、後に正覺坊
と名乗った。
1095
かく ばん
こう きよう だ い し
け ん も つか ず な が
かず なが
め いざ ん
し ば つじ か
じ かたな ば
監 物 算 長 が種 子島 から銃 と火 薬 の製 法 を伝 えた。翌 十 三
す ぎ のぼう
ができ、寺 社 宇 がその中 に充 ち子 院 は九 十 八 にも及 んだ。
しゃ み
げ んろく
てんも ん
た。沙 弥 から一 大 勢 力 にのしあがった覚 鑁 は、高 野 山 で真
いわ
言 宗 新 義 派 を建 てた。しかし先 輩 僧 から受 容 れられず 石
いち じよ う さ ん え ん みよう じ
天 文 十 二 ( 年) 、根 来 寺杉 坊 院 主明 算 が種子 島 領 主 の
たね が しま とき たか
か つあ い
つ だ
種 子 島 時 尭 にポルトガル伝 来 の鉄 砲 割 愛 を要 請 し、津 田
で しよう
にゆうじやく
こぎ しんご んしゆ う
し ん ぎ
( 年)十二月、興教大師の尊
手 荘 に下り一乗山円 明 寺と号したが三年後に四十九歳で
入 寂 した。江戸時代の元禄三
号を賜った。
かく ばん
( 年) 、算 長 は根 来 寺 門 前 町 の芝 辻 鍛 冶 刀 場 に伝 来 銃 を
も ほう
示して模倣させ国産化に成功、織田信長にも献上した。
だ いが ら ん
覚 鑁 の没 後 も 高 野 山 では古 義 真 言 宗 と覚 鑁 派 の新 義
し ん ご ん しゆ う
かく ばん
1543
室町時代になり天下が大いに乱れ、根来山の大伽藍、及
1544
真 言 宗 の二 派 に分 かれ争 いが絶 えなかった。その後 、百 余
1690
-4-
1114
だ い じ
ひ
ご
こ
の
た
め
高
野
山
の
新
義
派
の僧 徒はすべて根 来 山に移 住し
大治五
年 、鳥 羽 上 皇 の庇 護 を 受 け 高 野 山 に
(
)
し ん ぎ しん ご んしゆ う
ら い ゆ
し よ う で ん ぽ う いん
いわ で し よ う
てんしよう
小 伝 法 院 を創 建 し那 賀 郡 石 手 荘 を寄 進 さ れ、天 承 元 ( ) 新義真言宗を開帳した。頼瑜等が中心となって根来寺の建
え んみ よう じ
ぶ ふ く じ
だ いで ん ぽ う いん
み つご ん いん
だ いで ん ぽ う いん
しよう えん
年 、大 伝 法 院 を建 立 し鳥 羽 上 皇 から数 個 の荘 園 を賜 わっ 設 が続 き、根 来 山 には円 明 寺 ・豊 福 寺 ・大 伝 法 院 ・密 厳 院
1130
も
び領 内 の者 は常 に兵 具 を帯 びて防 衛 し、僧 徒 や 傭 兵 は兵
よ
力 を四 方 に輝 かした。室 町 末 期 には僧 兵 一 万 余 の大 軍 事
か く ば ん しよう に ん
開山 覚鑁上人の生涯
かく ばん
根 来 寺 を開 山 した僧 覚鑁について紀 伊 続 風土記 は次 の
い さ
へ い じ
まつ
集 団 と化 し、宗 教 都市 を形 成 、寺 領 七 十 二 万 石を数 えて
ひ ぜ ん のく に
ように伝えている。
か ほ う
繁栄した。
氏 の出 身 で法 名 妙 海 尼 と あ る 。父 は桓 武 天 皇 の曾 孫
たいらのまさかど
ひ ぜ ん の く に ふ じ つし よ う
み よ う か いに
羽 柴 秀 吉 が天 下 統 一 を目 指 していた天 正 十 二 ( 年) 、
さ な だゆ き むら
真 田 幸 村 を遣いとして「根 来 寺 領をす べて没 収し新 たに二
高望王 の孫 平将門の枝族 で平安時代に勢力を誇 った平氏
たかも ちおう
万 石 を与 える」と説 いたが寺 衆 徒 は聞 き入 れなかった。三
へ い じ
ふ じ つし よ う
に ん な じ じ よ う じ ゆ いん
つ い ぶ し
の傍系だった。
おう ご
つ い ぶ し
12)
ふ じ つし よ う
かんす け
( 年) 、十 六 歳 で仁 和 寺 成 就 院 の寛 助
に ん な じ じ よ う じ ゆ いん
仏( 法の素質 者 を)求 め、使者 の慶 昭が藤津荘 の山 寺に来て
や ち と せ
や ち と せ
弥 千 歳を仁 和 寺に出 家 を誘った 。ときに弥千 歳は十三歳
け いしよう
宗 の)荘園だった。
かしよう
に ん な じ じ よ う じ ゆ いん
かんす け
ほ う き
嘉 承 二 ( 年) 、仁 和 寺 成 就 院 の僧 正 寛 助 が、広 く法 器
しよう えん
追 捕 使 となった。藤 津 荘 は当 時 、京 都 仁 和 寺成 就 院 真( 言
い さ
月 上 旬 、秀 吉 の使 者 として高 野 山 僧 の應 其 が根 来 寺 を訪
し應其の宿所を鉄砲で襲った者がいた。
てんしよう
秀 吉 は怒 り、天 正 十 三 ( 年) 二 十 三 日 、根 来 寺 を攻 め
た。その兵 火 により大 塔 ・大 伝 法 院 ・弘 法 大 師 堂 を残 して
ご
焼 失 した。根 来 寺 衆 や 僧 兵 等 の戦 死 者 は六 百 三 十 余 人 、
生け捕られた者二百余人、他は四方に逸散した。
ひ
徳 川 家 康が天 下を制 した江 戸 時代、紀 州 徳川 家 の庇護
てん え い
の年にあたる。
や ち と せ
弥 千 歳 は天 永 元
12)
おう ご
れ和睦を斡旋した。しかし行人方のなかには斡旋案に反対
は し ば ひ でよ し
嘉 保二
年 、肥 前 国 佐 賀 県 で)父 伊 佐 平 次 、母 の松 の
(
)
(
や ち とせ
しよういかくぼう
間に生まれ幼名を弥千歳、正覺坊とも称した。母の松は橘
1)
父 の伊 佐 平次 は肥 前 国 藤津 荘 の追 捕 使 武( 士 で警 察 官 )
だ ざ い しよう に
ふ じ つし よ う
の功 績 に より 太 宰 小 弐 に 補 せ ら れ 、後 に ま た 藤 津 荘
1584
のもと、根 来 寺 は堂 舎 の一 部 が復 興 さ れたものの、往 古 の
姿今いずこ。
1110
-5-
1095
1107
1585
みようじやく
ひ い ん み つご ん
僧 正 について出 家 した。二 十 歳 のとき、初 めて紀 州 高 野 山
さ いぜ ん いん
お う じ よ う いん
しよ う れ んぼ う
かくばん
( 年) 十 二 月 三 十 日 、正 覺 坊 後( の覚 鑁 は)南 都
しよう いかくぼう
に詣で最禅院の明 寂から秘印密言を受けた 。
え いき ゆう
永久二
みようじや く
奈 良 から高 野 山 に入 り、往 生 院の青 蓮 房 で過 ごした。一
(
)
し ん よ じみよう ぼう
ししゆ く
ご のむ ろ だ に
説 に真 誉 持 明 房 に止 宿 したと も 云 う 。五 室 谷 の最 禅 院
ぐう きよ
かくばん
明 寂 上 人 のもとを 尋 ね事 教 の密 旨 を受 け最 禅 院 の傍 に
しよう いかくぼう
寓居した ともいう。
さ いぜ ん いん
みようじやく
ひ いん み つご ん
ところで正 覺 坊 はいつ覚 鑁 を名 乗 るよう になったのか記
て ん じ
いわ
で
録 はないが、高 野 山 最 禅 院 の明 寂 から秘 印 密 言 を受けた
しよう いかくぼう
ご が ん じ
し ょう で ん ぽ う いん
と く ど
得度を許された者 三)人(金剛頂業・胎蔵業・声明業の三業
り ょう ぶ く じ ゅ う
をそれぞれ行 うもの)の定 めにのっとり、令法久住 のため毎
え よ う
きょう
りつ
ろん
そ
ほ う え
年 春 秋 の二 回 、東 寺 ・高 野 山 ・根 来 寺の諸 大 寺 で開 かれた
こう せ つ
どく しょう
真 言 宗 の依 用 す る 経 ・律 ・論 ・疏 の講 演 の法 会 を 云 う 。
ほ う え
だ い じ
しよういかくぼう か く ば ん
( 年) 七 月 、同 族 の平 為 里 が先 祖 相 伝 の私 領 地
たいらのためさ と
法会は、その経典を講説・読誦すること と云う。
大 治元
一所を伝法会料として正覺坊 覚( 鑁 に)寄進 した。ただし下
し し
司職は保留する。四至 領(域 東)の岡田村西堺、及び沼田畠
いわ
( 年) 六 月 十
を限 り、南 の大 河 紀 の川 を限 り、西 の市 村 山( 崎 村 の)東
(
)
たいらのためさと
堺を限り、北の弘 田荘 南境を限る。平( 為里所 領寄 進状案
げ じよう
とみえる。
)
き
い こ く し ちよう せん
かく ばん
だ い じ
紀 伊 国 司庁 宣 案 によると「覚 鑁 が大 治 元
さ いろ う
おおかみ
すみ
いわ で む ら
豺 狼 山 犬 や 狼 の)棲 かであ る。も しこの空 地 を以 てこの
(
しゆ う がく え
れ ん が く え
修 学 会・練 学 会の為 に荘 領 となせば即 ち国 の為となって損
失 がなく根 来 山 にとって有 益 となるか。よって當 石 手 村 を
-6-
31)
日 付 け解 状 上 申 書 を以 て云 う 。 そもそもこの那 賀 郡 石
(
)
[
で
こ う ぶ
こ と
きつね
や ま うさぎ
手村 は往 古から荒 蕪の地 荒( れ地 に)して狐 兎 狐( や 山 兎 ・)
1126
時点ではないかとみられる。
と ば じよう こう
鳥 羽 上 皇 の御 願 寺 とした。小 伝 法 院 と名 付 けて学 侶 三 十
でん ぽ う
六人を置いた。
「伝 法 」とは、仏 語 では師 が弟 子 に仏 法 を授 け伝 えるこ
ね んぶんど しゃ
と 。ま た 弟 子 が 師 か ら 法 を 伝 え 受 け る こと も 云 う 。
でん ぽ う え
3),5)
12)
正 覺 坊 は天 治 元
年 、紀 州 那 賀 郡 石 手 村 根 来 山 に
(
)
が ら ん
ち ん ご し や
伽 藍 を創 立 しよう と欲 し、まず 一 社 を造 営 、鎮 護 社 とし
1124
1126
1114
「伝法会」は、空海の真言宗に許された年分度者 一(年間に
3),5)
1)
しゆう がく え
れ ん が く え
りよう そく
いわ で む ら
開 発し修 学会 ・練学 会 の料 足 経( 費 に)当てることを許 可さ
いわ で む ら
れたい と]。よって紀 伊 国 司 は石 手 村のう ち現 作 の田 畠 、年
荒地を除く常荒の田畠について開発を許可する。紀伊国司
いわ で む ら
判 」とみえ、石 手 村 の荒 廃 した田 畑 の開 発 許 可 を得 たと
(
)
かくばん
みられる。この時、覚鑁は 歳の年である。
石手村は当時、東は岡田村 岩(出市岡田 の)西堺、南は紀
だ いで ん ぽ う いん
ぶ つ ぶ
ば じよう こう
だ い じ
しよう えん
た いぞ う ぶ
でん ぽ う だ い え
こ ん ご う ぶ
かくばん
り ん こう
み つご ん いん
建てた。
ひ ろ た
お か だ
ら つけ い
や まさ き
し
ぶ
た
そして鳥 羽上皇 から高 野山大 伝法 院落 慶の荘園六 カ所
い わ で
さ んどう
領 として、那 賀 郡 石 手 ・弘 田 ・岡 田 ・山 崎 、伊 都 郡 志 富 田
かくばん
お う が
でんぽ う お お え
か( つら ぎ 町 渋 田 の)各 荘 、名 草 郡 山 東 荘 、及 び高 野 山
み つご ん いん
密 厳 院 覚( 鑁 の住 坊 、)伊 都 郡 相 賀 荘 を賜 り伝 法 大 会 の供
とおとう み
は つく ら
び ぜ ん
料 に充 て、また遠 江 国 静( 岡 県 西 部 初) 倉 荘 ・備 前 国 岡( 山
かくばん
ざ
す
け ん ぎよう
県 香)登荘も賜った。
ざ す
け ん ぎよう
当 時、高 野 山の座 主 や 検 校 は京 都 東 寺 の住僧 が兼 務 し
ていた。覚 鑁 は、高 野 山 の座 主 や 検 校 寺( の事 務 や 僧 尼 の
かくばん
監 督 は)高 野 山 に在 住 す る者 が司 るものであるとして、院
庁に奏上したのであろうか。
ちようしよう
よ う こう ぼ う
し つぎ よ う
み よう じゆ じ よ う ざ
ぜんしん
「長 承 三 ( 年) 五 月 八 日 、覚 鑁 上 人 が訴 え申 す により
し ん よ じみ よう ぼ う あ じ や り
かくばん
真誉 持明房阿闍 梨を金剛峯寺座主に補す。覚鑁上 人の弟
しんけ い
さ かのう え りよう ぜん
信 恵 曜( 光 房 を) 執 行 と し 、明 寿 上 座 を 少 別 当 禅 信
ぎ み よう ぼ う
あずかりどころ
義( 明 房 を) 高 野 山 根 本 大 塔 領 那 賀 郡 那 手 荘 の預 所 荘(
-7-
の川 、西 は山 崎 村 の東 堺 、北 は弘 田 荘 現( 岩 出 市 押 川 の山
間部から平地に在った の)南を領境とした区域とみられる。
かく ばん
てんしよう
その後も覚 鑁は高 野 山に住 み、大 治五 ( 年) 、鳥羽上皇
かくばん
し よ う で ん ぽ う いん
いわ で
が覚 鑁 の為 に小 伝 法 院を創 建して那賀 郡石 手 村 を寄 進 し
いわ で し よ う
だ いで ん ぽ う いん
ら つけ い
その年 の冬 十 月 、鳥 羽 上 皇 が高 野 山 に臨 幸 して密 厳 院
と
野山に大伝法院を建立し数個の荘園を賜わった。
ので大 伝 法 院 を建 立 したいと願 い出 て許 さ れた。そして高
だ いで ん ぽ う いん
覚鑁の荘園・石手荘となった。天承元 年)、覚鑁は高野山
(
き よう あい
た いほう え
に造営していた小伝法院が狭隘で伝法の大法会を開けない
かくばん
1130
を落 慶 、大 伝 法 院 にて初 めて伝 法 大 会 を行 った。また、別
官 と)す る。そこで現職 の金 剛峯寺 第十 四代坂 上良 禅検校
ちよう しよう
さ かのう え
を 免 職 とす る」とし、また、「長 承 三 ( 年) 十 二 月 、坂 上
1134
1131
に高 野 山 の三 部 佛( 部 ・金 剛 部 ・胎 蔵 部 、)及 び九 社 明 神 を
1134
34
りよう ぜ ん
かく ばん
しんけい
けんぎ よう しつぎ よう し き
良 禅 を追 放 し覚 鑁 の弟 信 恵 曜( 光 房 を) 検 校 執 行 職 に補
す」高(野山検校帳・高野山文書七 と)みえる。
ちようしよう
そして長 承 三 ( 年)
かく ばん
五 月 八 日 、覚 鑁 が金 剛
峯 寺 と大 伝 法院 を兼 任
す
かく ばん
ひ
ご
こころよ
し や み
ざ
す
かくばん
鳥羽上皇の手厚い庇護をうけ沙弥から座主にのし上がっ
ほう え ん
み つご ん いん
こも
( 年) 、両座主を真誉に譲り、住坊の密厳院に籠
し ん よ
た覚 鑁を、先 輩僧 らが 快 しとしなかったとみられ、覚 鑁は
ほう え ん
翌保延元
った。
いち じよう さ ん
かくばん
一乗山と号した。
しん ご んしゆ う
かくばん
真言宗の開祖である。
こ う じ
かくばん
かく ばん
ね ご ろ
し ん ぎ
( 年) 十 二 月十二 日、根
戸 を 建 て、五 百 人 余 の門 徒 を 擁 していた。いわ ゆる新 義
よう
覚 鑁 は空 海 ー 年 の)真 言 密 教 を継 いで研 学 したが、
(
し ん ご ん み つき よ う
じよう ど き よう ね ん ぶ つし ゆ う て き
一 方 で真 言 密 教 に浄 土 教 ・念 仏 宗 的 要 素 を取 り入 れて門
し ん ご ん み つき よ う
よう 促 した。しかし覚 鑁 は辞 退 して根 来 山 に留 まり根 来
かくばん
・覺玄ら三十六人を罰して配流とし、覚鑁に高野山に帰る
かくげん
そこで鳥羽上皇は院宣を発し、金剛峯寺の僧宗元・玄真
いん せ ん
山から根来山に下った。
いわ で し よ う
その後、保延六 ( 年)十二月八日、金剛峯寺僧徒等は数
かくばん
み つご ん いん
かくばん
百人で覚鑁の住坊密厳院を襲った。覚鑁はやむなく那賀郡
し ん よ
支 配 しよう と 欲 し、上
ざ
げ んしん
石手荘根来 山に移り、その門徒 の多 くは覚鑁に従って高野
す
そう げん
奏 して第 三 十 一 代 金 剛
かくばん
ねた
兼 務 す ることになった。つまり覚 鑁 は、高 野 山 住 職 の最 高
かくばん
だ いで ん ぽ う いん ざ
また同 ( 年)十二月二十二日、重ねて鳥羽上皇の院宣を
し ん よ
かく ば ん
ざ
す
賜 り、真 誉 の高 野 山 座 主 をや めさ せ、覚 鑁 自 身 が座 主 に
峯 寺 座 主 定 海 京( 都 東 寺 長 者 が兼 職 を) 辞 職 さ せ、真 誉
じみ よう ぼ う
持明房 高(野山住僧 が)金剛峯寺座主に改補された。
じよう か い
1134
こう して覚鑁は高野山 大伝法院座主と金剛峯寺座主 を
補せられた。
1135
高 野 山を下った覚鑁は、康 治 二
1143
位に就いた。
かくばん
1140
835
-8-
▲ 覚鑁上人座像
しかし金 剛 峯寺 の僧 徒 等 は覚 鑁 を嫉 み排 斥 しよう とし
た。
774
1134
え んみ よう じ
にゆ う めつ
▲ 根来寺を開基した覚鑁は康治二(1143)年、根来山円明寺の院坊で没した
にんあ ん
仁 安 三 ( 年) 正 月 二 十 日 、金 剛 峯 寺 衆 徒 が連 署 して高
ふんらん
にちぜん
野 山 紛 乱 の始 末 を 記 し、座 主 日 禅 ら を 処 罰 し、さ ら に
かくばん
み つご ん そ ん じ ゃ
しかし江 戸 時代 になって元禄 三 ( 年) 十 二 月 二 十 六日 、
かくばん
こう きよう だ い し
勅 宣 によって覚 鑁上 人に興教 大師の尊号 を追 贈し、その功
げんろく
した こともあって、長らく尊号は追贈されなかった。
「覚鑁 上人 に大 師号 を贈ることは甚 だ不 当」と官庁に上申
1168
1690
績を称えるこことなった。密厳尊者とも云われる。
-9-
1),4)
来 山 に来 てわず か三 年 で根 来 山 円 明 寺 にて入 滅 した。行
年四十九歳 の生涯だった。
1)
根来寺の開山
はく ほう
え ん のお づね
てん お う
( 年) 頃 、修 験 者 役 小 角 が 根 来 山 を 葛 城 二
かくばん
ち ん ご し や
て ん じ
と ば じよう こう
ご が ん じ
しゆう がく え
れ ん が く え
りよう そく
いわ で む ら
開 発し修 学会・練学会 の料 足 経( 費 に)当てることを許可さ
いわ で む ら
れたい と]。よって紀 伊 国 司は石 手 村のう ち現 作 の田 畠 、年
荒地を除く常荒の田畠について開発を許可する。紀伊国司
いわ で し よ う
しよう りよう
判 」となり、紀伊国司から石手村の荒廃した田畑の開発
(
)
だい じ
いわ で
いわ で し よ う
許可を得て、大治元 ( 年)八月、那賀郡石手村は石手荘と
し や み かく ば ん
して立券された 。
しゃ み
沙 弥 覚 鑁 は石 手 荘 を高 野 山 伝 法 院 の荘 領 とす るよう
次 のよう に上 申 している。沙 弥 とは仏 法 に未 熟 な僧 のこと
お む ろ
に ん な じ
しや も ん
で、上 司に対 して謙 遜した表 現。また沙門 とは髪 をそり悪
いわ で し よ う
だ い じ
で ん ぽ う いん
さば
高野 山に居た正 覺坊 後( の覚鑁 は)天治元 ( 年)、紀 州那
いわ で
が ら ん
賀 郡 石 手 村 根 来 山 に伽 藍 を 創 立 しよう と 欲 し、ま ず
かくばん
いわ で む ら
まんどころ
を止め善を勤める修行僧 をいう。
い こ く し ちよう せん
( 年) 六月十
げ
石 手 荘に一 社を造 営し鎮護 社とし鳥羽 上皇の御願 寺とし
き
おおかみ
すみ
きんじゆう
え
だじよう
こ
そ
判 に任せ紀 伊 国那 賀郡 石手村 を以て永く 高野 山 伝法 院
(
)
しようりよう
ほう に え く り よう
もと
の荘 領となし、その地利 を毎年 の法二 会供料に宛 て、本の
うさぎ
日 付 け 解 状 上( 申 書 を) 以 て云 う 。 そ[ も そも この那 賀 郡
いわ で し よ う
こ う ぶ
こ と さ い ろ う きつね
石手 荘は往 古から荒 蕪 の地 荒( れ地 に)して狐 兎豺狼 狐( や
に
ち ん ご
通 り勤 修 し太 上 鳥 羽 法 皇 を祈 り奉 ることを請 う 状 。副
(
)
こ く し ちよう せん
りよう しゆ よ せ ぶ み
え進める国司庁宣二通、立券・実検張・領主寄 文など各一
す うちよう ひ み つ
兎 、山 犬 や 狼 の)棲 かであ る。も しこの空 地 を 以 てこの
しゆ う がく え
れ ん が く え
修 学 会 ・練 学 会 の為 に荘 領 となせば即 ち国の為 となって損
いわ で む ら
通 。右 、この二 会は崇 重 秘密 の智 海 、鎮 護 国 家 の法 城 であ
げ じよう
紀 伊国 司 庁宣 案 によると、「覚鑁が大治 元
13)
失 がなく根 来 山 にとって有 益 となるか。よって當 石 手 村 を
しや も んかく ば ん
た。名付けて小伝法院とし学侶三十六人を置いた。
「高 野山沙 門 覚 鑁 が解 申 請 す) 。御 室 仁( 和寺 政) 所の裁
(
いん せ ん
きを申し請うこと。とくに院宣 鳥(羽上皇 を)申し下され国
しよういかくぼう
1126
白鳳五
ね
十 八 カ所 の一 行 場 と 定 め て修 行 、天 応 二 ( 年) 、石 手
わ けの きよ ま
ろ
村 西 坂 本 に 慶 福 法 師 が 和 気 清 麻 呂 の援 助 で小 宇 を
か ん じ
建 てた とみえ、また寛 治 ( - 年) 間に那 智 修 行 者 の根
ごろ ぼう
ぶ ふ く じ
来 坊 が 豊 福 寺 を 建 立 し た と も あ る 。根 来 山 は 飛 鳥
30)
3),5)
676
時 代 から 寺 の適 地 と して着 目 さ れ たのであ ろう か。
3)
1087
1094
782
1124
1126
- 10 -
17)
ぜ ん こん
かくおう
き よう り
く ど く
しゆしよう
る。ところで善根 は一つではなく、弘法の功 徳は殊勝にして
き よう ろん
ほう しん
し や か に よ ら い
ちよく
経 論 の思 いはかり多 く真 言 の教 理 は最 上 である。この為 、
こ う そ
高 祖 創( 業 の帝 法) 身 の大 日 覺 王 が釈 迦 如 来 に勅 してこれ
ふ え ん
こんご う ぼ さ つ
る で ん
を布演し、金 剛菩薩に命じてこれを流伝する。八大祖師が
あまね
る いだ い
り や く
せ いお う
け いし ゆ
じ つけ い そ う ず
を期すと。
し ん ね ん そう じよう
で ん ぽ う え
き んじゆ
そ か い
う
こん ご う か い
また実 慧 僧 都 ・真 然 僧 正 が弘 法 大 師 の素懐 を承 けて遺
た ん こん
た いぞ う か い
れ ん や
か
か
せ いひ つ
弟 の丹 懇 を 運 び二 季 の伝 法 会 を 勤 修 し両 部 金( 剛 界 と
すなわ
胎蔵界 最上乗を練治す る。華夏 中( 国 は)これによって靜謐
)
き せ ん
た い へい
である。貴 賤 はこれによって泰 平 である。むしろ修 練 の力 で
れ いげ ん
身 を忘 れて道 を弘 め、累 代 の聖 主 が稽 首 して法 に帰 す 。
ご ん げ
さ いち よ
そ じ き
ぎ
はないか。便 ちこれ護 持 の功 である。仏 法 の中 興 は今 後 ど
えら
け ん こ
めし
え
霊験 は天 下に遍 くし利 益は城 中に満つ。この教えは甚だ深
う す べきか。しかし年 代 よう や く久 しくして会 儀 はす でに
おもむ
すた
くして弘 めるに必 ず 処 を択 ぶ。その処 とは高 野 山 である。
廃 れている。つらつらその理を思 う に、ただ斎 儲 あ(がめ・た
せいき よう
ま
け んじん
ぜんまい
弘法大師が大唐に従い本 郷に赴 いた時、祈り請うて云う、
りゆう もう
しよう かく
みね
我が学を伝える所は秘密の聖教である。もし流布相応の地
くわえ ない故である。春 の嶺に 薇 が老いた後、蔬食 菜( 食 )
)
ら と う
少なくして日を送り、秋の林に葉が落ちる時、蘿衲 僧(侶の
さ ん こ
み ろ く ぶ つ
かか
ふ そう おう
あれば早く至ってこれを点じる 調(べる べき
) であると。そこで
衣 が破 れて霜 を畏 れる。自 らは権 化 佛( の化身 の)人 ではな
)
い は つ
たすけ
い。どう して衣 鉢 の資 を離れられよう か。故 に弘 法大 師 は
あき
る
日 本 国 に向 かって三 鈷 仏 具 を投げた処、遙かに雲 中に入
(
)
とど
ゆ
り来 たって高 野 山 に駐 まった。また記 録 に云 う 前 佛 の遊く
言 う 、人 は懸 瓠 か(けつぼ で)はないと。孔 子 の格 言 は皆 、衣
食 足 ると云う のは釈 尊 が談じる所 である。そこで道 を弘 め
へん め い へん じ よ う
たた
じ そ ん
おそ
ところは伽 藍 の旧 基である。この為 、丹( 生 明) 神 が居を譲っ
て外 護 の霊 社 となり、弘 法 大 師 が結 界 して内 詔 の秘 蔵 を
ようと欲するならば必ずその人に飯を与えねばならぬ。も
りゆう ち
そそ
が ら ん
開 く 。遍 明 遍 照 の法 燈 を 高 野 山 上 に朗 ら かに挑 げ 龍 猛
し国利を益さそうとの意図ある人、または志を求め出して
へい
こ く り
龍 智 の教 海 は深 く高 野 山 に湛 えた。伝 燈 はす でに終 わり
証 覺 に迷 う者 は同じく涓 塵 少( しの水 と塵 を)捨ててこの願
ちり
瓶に瀉ぐもまた満ちて法界の定めに入り慈尊 弥(勒佛 の)時
- 11 -
さ いは ん
かくばん
さ んみつ
す んしん
こう え ん
が
おも
ぐんじよう
いを済ませば世々に生々し、同じく仏乗に駕し群生を利す
ると。
え
ところで覚 鑁は多年 間 寸心にひそかに念うことは、どう
に
して二会の斎飯を貯え三密 仏法僧 の香莚を弘めようかと
(
)
おこた
云 う ことである。貧 しい力 にて及 び難 いが祈 願 は懈 りしな
し
し
ぼ う じ
かった。そこで地 主 が所 領 を寄 進 し、国 司 が免 判 を 加 え
み れ い
とこし
賢 性 を 至 孝 に感 じ鳥 羽 上 皇 の遐 齢 長( 寿 を) 鎮 えに祈
げ んくん
かな
る。聖 心 を弘 道 に受 け、専 ら 弘 法 大 師 の玄 訓 に協 えてい
よ う と
る。鳥羽上皇の瑤図 美(しい意図 を)千秋に延べる為、どうし
け いめ い
おくさい
て教王の恵命を億載に続かぬことあろうか。旧跡を修復す
ることは今まさにこの時である。
しよう りよう
しよう しよく
とくに院 宣を申し下 されたく望み請い、国判 に任 せこの
こう りゆう
まんざ い
せんさ ん
石 手 村 を以 て永 く伝 法 院 の荘 領 となし、二 会 の勝 燭 優(
こん が ん
れた足跡 を)興 隆し益々 萬 歳の仙 算 上( 皇の長 寿 を)祈り奉
しる
げ
だ い じ
る。そこで事状を注し以て解す 上申する 。大
(
) 治四 ( 年)二
し や み かくばん
に ん な じ ま んど ころ
高 野 山 沙 弥 覚 鑁 」と、京 都 仁 和 寺 政 所 宛 てに
月三日
懇願した。
かくばん
しよういかくぼう
覚 鑁にとっては若い正 覺坊 時代 に修 業した仁和 寺 は、鳥
羽 院 政 とも関 係 が深 かったことから仁 和 寺 を経 由 して鳥
いわ で し よ う
羽上皇を頼ったものとみられる。
ところで、当 時 の石 手 荘 の実 検 帳 では「合 計 一 七 五 町
十 歩 、年 荒七 町 二 百 四 十 歩、田 代 水( 田 面 積 三) 十 八 町 六
- 12 -
四 至 の牓 示 領( 域 を示 す 杭 を)打 ち立 券して荘 領 とす る事
ご ね ん
め いか ん
が終わった。これは諸仏の護念・弘法大師の瞑感であること
かたじけ
を知 る。しかし浪 人 の田 民 が勅 免 でないと称 し、各 々 が実
ぜ ん じ よ う せ ん いん
施されていない。伏して思えば禅定仙院 鳥(羽上皇 が) 忝 な
び ぜ ん
し
くも当 高 野 山 を崇められ天 下 海 内は靡 然 として風 に向 た
せんぴつ
ばんだい
がう。その帰依の誠はしばしば仙蹕 先( ばらい を)廻らし、そ
こう しよう
の興紹の善は他山を超える。
さ んぎよう
1129
五 反 のう ち田 地 五 七 町 八 反 六 十 歩 で現 作 十 二 町 一 反 六
3),5)
今 、広 大 の恩 を仰ぎ鑚仰 の道を弘めたい。願わくは萬 代
こ う き
の恒 規 となし、遙 かに三 会の説 法を期 す ことにある。方 今
とうりよう
現( 今 、)禅 定大 王 鳥( 羽上 皇 は)密 家 真( 言 密教 寺院 の)棟梁
ひ ぞ う
す うけん
にして秘蔵の枢鍵である。
2)
反 二 百 二 十 歩 、畠 代 畠( 面 積 百) 十 一 町 五 反 六 十 歩 、荒 野
四 至 内 を免 除 の地 とす るよう 命 じる庁 宣 案 が出 さ れ、同
勘することを停止する」となった。
ちようしよう
かくばん
そ う ろ ん
だ いで ん ぽ う いん ざ
す
金剛峯寺衆の覚鑁排斥と荘園相論
か く ば ん
くだし ぶ み
三カ所」とある。
げ じよう
( 年) 十 月 六 日 付 けで鳥 羽 上 皇 院 庁 から 下 文 が発 せら
いわ で し よ う
れた。「高野山伝法院領として石手 荘の四至内 に国使が入
かく ばん
そこで覚 鑁 の解 状 上( 申 書 を) 受 けて鳥 羽 上 皇 院 庁 は次
ちよう
( 年) 十 一 月 三
3),12)
ねた
「石 手 総社 権 現 縁 起 」によると、紀 伊 国 那賀郡 石 手 荘 の
い わ て そ う じゃご んげ ん え ん ぎ
歩、うち現作 二十九町五反 三百八歩、荒九 町二反二百六
ちよう しよう
十 二 歩 、畠 二 十 町 三 反 八 十 二 歩 、う ち現 作 六 町 百 九 十
三部権現と号し社を大神宮と名付け、康治元 ( 年)、重ね
て高 野山大伝法院 寺領石手村 の紀の川北岸に社壇を建立
し や み
こ う じ
所 、荒 野 百 十 町 、在 家 農( 家 数 五) 宇 。大 治 四 年 十 一 月 二
十一日」と報告されている。
ご
12)
1142
ところで、鳥羽上皇の庇 護をうけ沙弥から座主にのし上
ひ
う。覚鑁が他界する前の年である。
し寺 領総社 と定 めたことに始 まる 金( 剛 峯寺 文 書七 と)云
( 年) 七 月 付 けで紀 伊 国 司 から石 手 荘 の
いわ で し よ う
これを見ると荒地が多く、農家数は僅か五戸とある。作
歩 、荒 四 町 二 反 二 百 五 十 二 歩 、他 に田 代 五 十 町 、池 三 カ
総 社 権 現 、つまり現 在 の大 宮 神 社 岩( 出 市 宮 は)、長 承 四
( 年) 五 月 四 日、葛 城山 麓 に一 集 社を建 てて 中( 略 、)神を
覚鑁を嫉み排斥しようとした。
かくばん
長 承三 ( 年) 、覚鑁は高野山 大伝法院 座主と金剛峯寺
ざ す
座 主 を兼 務す ることとなった。しかし金 剛 峯 寺 の僧徒等 は
1134
のよう に牒 命 令 書 を下 した 。「那 賀 郡 石 手 村 の地 を正
(
)
いわ で し よ う
し し ぼ う じ
式に伝法院領石手荘として再立券し、四至牓示を打つよう
き い の こ く が
紀 伊 国 衙 国( 司 の官 庁 に)命 じる。大 治 四
日」と命令が出された。
き い の こ く が
1129
1131
1135
- 13 -
1129
そして紀伊国衙 政(庁 が)実施した検注 の結果、同 ( 年)
いわ で し よ う
十 一 月 二 十 一 日 付 けで「石 手 荘 、田 三十 八 町 八 反 二 百 十
3),12)
3)
付けのない荒地が多いのもその為であろう。
てんじよう
そして天 承 元
1131
かくばん
ほう え ん
す
こころよ
ざ
す
し ん よ
いん せ ん
し ん ご ん み つき よ う
みなもとためよし
そう げん
げ んしん
かくばん
し ん ぎ しんご ん しゆ う
お う が し ょう
戸を建て五百余人の門徒を擁した。いわゆる新義真言宗の
よう
覚 鑁は弘法 大師 空( 海 の)真 言密 教を継 いで研学したが、
し ん ご ん み つき よ う
じよう ど き よう ね ん ぶ つし ゆ う て き
一 方 で真 言 密 教 に浄 土 教 ・念 仏 宗 的 要素 を取 り入 れて門
かくばん
に留まり根来一乗山と号した。
かくげん
そこで鳥 羽 上皇 は院 宣 を発し金 剛 峯 寺の僧 宗 元・玄 真・
かくばん
がった覚鑁とその宗旨を金剛峯寺僧らが 快 しとしなかった
覺玄ら三十六人を配流 流(罪 と)した。そして上皇は覚鑁に
高 野 山 に帰 るよう 促 したが辞 退 して戻 ることなく根 来 山
だ いで ん ぽ う いん ざ
ね ご ろ いち じよう さ ん
とみられ、覚 鑁は翌保 延元 ( 年) 、両 座主を真誉に譲り自
み つご ん いん
こも
らの住院だった密厳院に籠った 。
かくばん
こうして覚鑁は大伝法院座主と金剛峯寺座主を引退す
ることとなった。と云 う よりは金 剛 峯寺 僧 衆 に追 い出 さ れ
たことになる。
ほう え ん
起こりである。
かねて支 援 を頼 んだ源 為 義 から 返 事 がきた。「相 賀 荘
みなもとちかまさ
高( 野 山 密 厳 院 領 橋
= 本 市 市 脇 辺 り 」の
) こと は、や はり
み つご ん いん
けんかい
- 14 -
その上、保 延六
年十 二月 七日、金 剛峯寺の行人が伊
(
)
おう が
そう ろん
かく ばん
都 郡 相 賀 荘 橋( 本市 市 脇 覚
= 鑁の大 伝 法院 荘園 の)相 論 紛(
みなもとためよし
み つご ん いん
みなもとちかまさ
源 親 正に預け給わりたい。永 治二
年 三月 六 日 河 内 国
(
)
みなもとためよし
み つ ご ん い ん まんど ころ
源 為 義 。覚 鑁 上人 殿 」と。そこで三 月 十 三 日 、密厳 院 政 所
うるう
また康 治元 ( 年) 秋 閏 七 月 、根 来 寺 の学 頭 兼 海 や 高野
しんかく
き ふ く
山 大伝法院の座主 神覺らが金剛 峯寺に帰 服して和平を乞
こ う じ
は、「河内国源 親 正を密厳院領伊都郡相賀荘河北 相(賀北
お う が し ょう
みなもとちかまさ
荘 の)下 司に補 任す る 」とし、相 賀 荘 の守 護 を源 親 正 に委
嘱した。
1142
争 にかこつけて諸 荘 の兵 士 を集 め、高 野 山 大 伝 法 院 を破
)
ていのじょう
却しよう とした。大伝法 院僧がこれを聞き及び六条廷 尉・
源為 義に支援を頼んだ。
かく ばん
ところが、同八 日、金 剛峯 寺の大衆が蜂起して密厳院 に
乱 入 し、覚鑁の頭を討 ち破 り、子 弟らを総て追放してしま
いわ で し よ う
った。また大 伝法院の住僧舎七十余りを破壊し、僧徒七百
余人を追い出した 。
かくばん
十 二月八 日、覚鑁はやむなく那賀郡石 手荘根来山 に移
かくばん
3)
1135
1)
った。その門徒の多くは覚鑁に従って根来山に逃避した。
1142
1140
1),12)
うたものの、金剛峯寺側はそれでも許容しなかった 。
そこで高 野 山 大伝 法 院 の法 師 等 が鳥 羽 上 皇 宛 ての解 案
申(請案 を)以て紀伊国司に次のように訴えた。
こ う じ
だ いじ ょう え
やから
使らは大嘗会の召物料により、この御領所に入り稲米など
を押 し取 り犯 す 輩 を尋 ねて遅 滞 している為 である。仏 像 ・
注文・道具・三宝においては・・・確かに大伝法院政所に返す
みなもとまさしげ
( 年) 十 二 月 十八 日 。斎 院 長 官
さ いいん のか み
べき状、定める所この通り。留守所はよく承知すること。・・
み なも と あ そん ま さ し げ
・そこで庁 宣 す る。康 治 元
そう どう
なげ
・国 使 らが騒 動 を致 す ことは返 す 返 す 嘆 かわしいと承 って
せ い こ う せ いき ょう き ん げ ん
ただ
こ く が
し ぶ た ご う
に従 い返 す 。子 細 は御 使 から上 人 覚( 鑁 に)委 しく申 さ せ
こ う じ
みなもとまさしげ
る。康 治 元 年 十 二 月 十 八 日 。紀 伊 守 源 雅 重 。聖 人 御 坊 」
くわ
なす由 、庁 宣の一 紙 を献 上 する。法文においては尋 ね出す
であるなら自 他 とも安 穏 の為 、渋 田 郷 を以 て永 く寺 領 と
あ ん のん
呵責し難い。現在、国衙の力では決して達成出来ない。そう
かしゃく
出 し難 い為 、残 物 な ど を 返 納 す るのが遅 いので、頻 り に
しき
いる。国 司 がいっこう にこの物 などを知 らないが、院 宣 によ
取 った物 などを糺 し返 さ れれば益 々 皇 威 と仰 ぎ天 皇 の長
ただ
し、御 願 の官 省 符 御 荘 、及 び御 願の末 寺を追 捕 し、 恣 に
兼守・源朝臣 雅(重 判) 」とみえ、紀伊守源 雅 重は同日付け
放火・殺害・却奪などを致す条々、乱行の子細の状。中(略 ) で聖人御坊 覚(鑁 に)宛てにも次のような書状を送っている。
・広 大 な慈 悲 を望 み請 い、早 く彼らの悪 行 を禁 制 し、押 し
「高 野 山御 願寺 大 伝法 院の住 僧 らが陳 べ申 す。右、官使
ほしいまま
「御願寺大伝法院が上申する。中(略 ・紀
) 伊国へ下向の官
使 、及 び国 使 らが官 符 院 宣 、及 び去 る九 月 の宣 旨 を無 視
1142
り糺 し返 さ せよう としたところ所 犯 の輩 が、すぐには探 し
12)
寿を祈り奉 る。誠惶誠 恐謹厳。康治元 ( 年)十月十一日。
つ い な
じ し ゅ
じ ょう ざ
高野山大伝法院 都維那法師・寺主大法師・上座大法師 」
と。
に宛 てて「留 守 所 に庁 宣 す る。早く大 伝法 院 となす べき渋
田郷一所のこと。右、この郷は田畠の荒熟、山野、及び在家
などは石 手 荘 等 、五 カ御 荘 のよう に永 く大 伝 法 院 の御 領
となし一切の他所の役を停止すべきである。即ち、官使・国
- 15 -
12)
4)
また在 京 の紀 伊 国 司 が、紀 伊 の在 地 執 務 を司 る留 守 所
1142
と。
きゅう あん
そして四 年 後の久 安 二 ( 年) になってよう や く鳥 羽 院庁
から次のように下文が発せられた。
し
し
「鳥 羽 院 庁 が紀 伊 国 在 庁 官 人 等 に下 す 。早 く使 者と共
し ぶ た
あ に いだ に
に高 野 山 大 伝 法 院 の為 に四 至 を定 め境 界 杭 を打 つべきこ
お
う
づ ごう
と。管 ・伊 都 郡 渋 田 郷 にある。四 至 、東 は兄 井 谷 を限 り、
ご ん ち ゅう な ご ん
河内国
←
和泉国
大和国
隅田北荘
古沢郷
摩尼郷
富貴荘
北俣郷 筒香荘
隅田南荘 丹生川郷
炭香荘
加林郷
三尾郷
▲高野山
相賀北荘
相賀南荘
官省符荘 小河内郷
静川荘 桛田荘 三谷郷
名手荘
天野郷
木本荘
粉河荘 志富田荘
湯川郷
井上本莊
志賀郷
花園荘
井上新荘
麻生津荘
池田荘
鞆渕荘 長谷郷
弘田荘
荒川荘
毛原郷
調月荘
細野荘
岡田荘
貴志川
▲根来寺
吉仲荘
貴志荘
石手荘
三毛荘
小倉荘
野上荘
山崎荘 永穂郷 埴崎荘
平田荘 川 布施屋郷
山口荘
田屋郷
和佐荘
山東荘
田井郷
岩橋荘
直川荘
栗栖荘 鳴神郷
六十谷郷 の 永沼郷 秋月郷
薗部荘
有本郷 太田郷 忌部郷
楠見郷
黒田郷
紀 宇治郷 吉田郷
雑賀荘
加太荘
しんかく
- 16 -
南 は六 か荘 北 堺 を 限 り、西 は那 賀 郡 麻 生 津 郷 東 堺 を限
ご ん さ か ん な かはら あ そ ん
り、北 は大 河 紀( ノ川 古) 流 を限 る。中( 略 在) 庁官 人 等はよ
おろそ
く承 知 し疎 かにしてはならぬ。故 に下 す 。久 安 二 ( 年) 七
さ か ん だ い
月 十 日 。主 典 代 皇 后 宮 権 大 属 中 原 朝 臣 判( 。)権 中 納 言 兼
ご ん のか み
なりみち
は り ま のか み
う き ょう の か み
皇后宮権大夫待従藤原朝 臣成道 判( 。播
) 磨守兼右京 大夫
ただもり
平 朝 臣 忠 盛 判( 。)他 三 十 六人 連 署 略( 」と
) みえ、同 年 十 一
し ぶ た ご う
ぼ う じ
月、官 使 ・国 使が共に立 ち会 って渋 田 郷の四 至を定め牓 示
荘郷略図
久 安 三 ( 年) 六月 二十四日 、高 野山大 伝法 院 座主 神 覺
けんかい
と別所 根(来寺 院)主 兼海等が高野山に戻ってよい旨が鳥羽
1147
1146
境( 界 杭 を) 打 ち終 わる 根( 来 要 書 ・平 安 遺 文 二 五 八 二 号 ・
かく ばん
かつらぎ町 史 史 料 編 ・和 歌 山 市 史 と
) ある。しかし覚 鑁 は
すでに三年前に他界している。
12)
中世の紀ノ川周辺
1146
上皇院宣 、及 び京都東寺長者 の御下文があり帰山した 高(
けんかい
野山検校帳・高野山文書七 と)あり、同年六月二十四日、
大 伝 法 院 僧 の高 野 山への帰 住 についての鳥 羽 院 宣 が五 回 に
も及 んだ。座 主 兼 海 等 は、高 野 山 規 に再 び違 反 す れば重
き し ょう も ん
ねて締め出される旨の起請文 誓(約書 を)書いて高野山に帰
ほう げ ん
え んみよう じ
( 年) 七 月 二 日、五 十 三歳 で崩 御さ れた。
ほう ぎ ょ
住した 紀(伊続風土記五 と)もある。
かくばん
大伝 法 院を開基 して仏 法に帰依し覚 鑁を支援した鳥羽
上 皇 は、保 元 元
こ う じ
に来 てわずか三 年 後のことである。遺体 は根来 山の一 角に
埋葬された。
高野山入寺以来、大法会によって空海の教義を説きなが
かくばん
た覚鑁にとって、さぞかし心残りだったに違いない。
かく
高野山を追われたものの彼はここ根来寺でその夢を果た
え し ゃ じ ょう り
したいと念 じていた矢先 の他界 だった。最期 に向 き合 った覚
し ょう じ ゃ ひ つめ つ
鑁 は、「生 者 必 滅 、会 者 定 離 は浮 き世 の習 ひにて候 なり 」
ばん
らも新 しい宗 旨 を取 り入 れ、鳥 羽 上 皇 の庇 護 を得 て大 伝
と観念したであろうか。
ご
法 院 を建 立。自ら金 剛峯 寺・大伝法院の両座 主にまで上っ
ひ
▲ 興教大師 覚鑁の御廟(古墳) 根来寺奥の院
12)
覚鑁の死とその後の高野山及び根来寺
かくばん
か く ば ん
1)
覚鑁は、康治二 ( 年)十二月十二日、根来山円明寺にて
にゆ う めつ
入 滅 した。行 年 四 十 九 歳 の若 死にが惜 しまれる。根 来 山
1)
14)
- 17 -
1156
1143
金剛峯寺と根来寺の確執・寺領を巡る相論
かくばん
ほしいまま
から
こ う じ
御 領 山東 荘 内に発 向さ せ、是 非を論 じずに住 人四 人を搦
め取り 恣 に侵犯、衣服などをはぎ取ったのをはじめ、康治
かく ばん
みだ
ところで覚 鑁 の没 後 も高 野 山 では古 義真 言 宗と覚 鑁 派
み
こ
しきり
げ
ち
せ っか ん
榊 を立てて帰った。また同年四月二十八日、神人等を山東
うるう
の新 義 真 言 宗 の二 派 に分 かれ争いが絶えなかった。山 大伝
二 ( 年) 閏 六 月 一 日 に八 講 頭 と称 して、妄 りに神 人 を御
ろう ぜき
荘 住人 の延 久 や 有 元の住 宅 に放 ち入 り、種 々 狼藉 を致 し
てん よ う
し ん ぎ
法院領の利権を巡っても相論は続いた。
荘に入れ、住人の妻子に巫女となるよう 頻 に責勘した。さ
さかき
天養二 ( 年)三月二十八日付け高野山大伝法院陳情案
によると、「御願寺大伝法院が陳べ申す。日前・国懸神両社
司・紀 良助等が訴え申す非理の子細の状。副え進める山東
検 討 す ると、・・・禅 定 仙 院 鳥( 羽 上 皇 が)伝 法 ・密 厳 の両 院
を建て、・・・両 院 の御 荘は官 符 に云 う よう に、例 え天 下 一
水 干 袴などを剥 ぎ取 った。こう した乱 暴 は数 えられない程
の仏餉 仏の食物 ・灯油料の作田を刈り取り、あるいは住人
(
)
に んじょう
たれぎぬ
の成 友 に刃 傷 を 負 わ せ、あ るいは同 住 人 行 友 の 帷 及 び
ぶ っしょう
らに、七 月 十 三 日 巳 の刻 午( 前 時 頃) 、下 知 命( 令 と)とな
えて神 人 、及 び人 夫 三 百 余 人 を御 荘 内 に放 ち入 れ、若 干
同の公 役、国内平 均の所課 であっても永く一 切の役を停止
多い。中( 略 ・子
) 細 は山東荘解 申( 請 に)見えるとおり。年来
いまし
ろう ぜき ら んす い
おこ
の悪 行 はその戒 めがない為 、狼 藉 濫 吹 は益 々 繁 く 興 る。
々 皇 法 ・仏 法 の重 威 と仰 ぎ 千 秋 万 歳 の宝 算 を祈 り奉 る。
され、かつ日前国懸社による非法の妨げを停止されれば益
こ う じ
す いか ん ば か ま
免(除 す) ることになっている。・・・その旨は、国郡は普 く知っ
ている。かつて紀 良 助 の父 、前 国 造 紀 良 盛 が専 ら官 符 の旨
あまね
を守 り決 して社 役 を御 荘 に課 さ なかった。ところが子 息の
荘 名( 草 郡 の)上 申 、及 び日 記 一 通。右 、謹 んで事 の内 容 を
1143
鴻慈 広( 大な慈 悲 を)望 み請 い、早 く重 ねて綸 言 を下 され、
ただ
日 前 国懸 社 の神 人に度 々 押 し取 られた雑 物 などを糺し返
ほしいまま
現 国 造 紀 良 助 が 恣 に、官 符 、及 び度 々 の院 宣 の旨 に背
あ と う
き、常 に阿 党 権( 力 を 持 つ者 におもねり を) なし乱 暴 を致
( 年) 九月九日、神人 氏(子 等) を大伝法院
こ う じ
す。去 る康治元
1142
- 18 -
10
1145
てん よ う
つ
い
な
大 和 国 奈( 良 興) 福 寺 藤( 原 氏 の氏 寺 西) 金 堂 の寺 僧 ら が
り ゃく だつ
つ い な
掠 奪 しよう としたとして、高 野 山 大 伝 法 院 の都 維 那 法 師
や院主 等五人 が連 署して、その非を訴えている 根( 来要書・
かつらぎ町史史料編 。
)
そう ろん
大 伝 法 院 領 渋 田荘 の相 論 に関 して太政 官 からの通 達案
が次のようにみえる。
お う ほう
しかし日前宮の乱暴狼藉がさらに続いたとみえ、応保二
ている。
く げ ん
四 至、東 は六 か荘 西堺 を限り、南は六 か荘堺 を限り、西 は
ぎ ょう ごん う ち ゅ う べん
なりより
行権右中弁藤原朝臣成頼 」と。
に じよ う
り んじ
み つご ん いん
日 前国懸社の伝法院・密 厳院領への侵害については、やが
1164
そして大 伝 法 院 の荘 園 騒 動 は、まだまだ続いた。仁 平 元
み つご ん いん
12)
て二 條 天 皇 の綸 旨 が出 た。「大 伝 法 院 及 び密 厳 院 領 への日
にんぴょう
以て永代の公験 公(の証文 と)なし、山東荘は永く日前宮役
那 賀 郡 東 堺 暗 谷 を限 り、北 は大 河 紀( ノ川 現) 在 の流 北 際
を勤 めてはなら ぬ由 、早 く綸 言 天 皇 の言 葉 を下 さ れれ
岸 を限 る。中 略 この荘は役 夫工 、及び造内 裏 以 下 の勅事
(
)
(
)
ほ う そ
ふ ゆ
ば、益 々 正 道 の不 朽 と仰 ぎ、倍 して万 歳の宝 祚 天( 皇 の位 ) ・院 事 ・臨 時 国 役 などを停 止 し、永 く不 輸 租( 税 の免 除 と)
ち ょう かん
を祈 り奉 る。重 ねて現 状 を記 し、以 て解 上 申 す る。応 保
なすべきこと。以下略 。長寛二
年)七月四日。正五位下
(
)
(
)
(
ぎょう お お い の か み
か み ふみかず
こ つ き すく ね
日」根(来要書・和歌山市史四 と)、再び訴え
行 大 炊 頭 兼 左 京 大 夫 史 算 博 士 小 槻 宿 祢 判( 。)正 四 位 下
二年十一月
ちょう
( 年) 十 一 月 付 けで、「御 願 寺大伝 法院僧 徒等が重ねて上
「太 政 官 が高 野 山 大 伝 法 院 に牒 通( 達 す) る。大 伝 法 院
領 紀 伊 国 渋 田 荘 のこと。紀 伊 国 管 伊 都 郡 渋 田 郷 にある。
ら んぼ う ろう ぜ き
暴 狼 藉 を働く現 状を訴え、これを止 めて欲 しいと訴 えた。
日 前 ・国 懸 神 宮 通( 称 日 前 宮 の)氏 子 等 が大 伝 法 院 領 と
して課 役 を免 除 さ れている筈 の山 東 荘 に度 々 押 し入 り乱
天 養 二 ( 年) 三月 二 十八 日 。高 野山大 伝法 院都 維 那法 師
じ し ゅ
じ ょう ざ
・寺主大法師・上座大法師 」と。
12)
( 年) 九月 、大 伝法院領渋田荘 伊(都郡かつらぎ町渋田 を)
12)
- 19 -
12)
1145
申し天 裁 を申し請う こと。前( 略 天) 恩 を望 み請 い、永 く日
かんじん
前 宮 の神 人 等 の無 道 謀 計 の訴 訟 を停 止 し、長 承 の管 符 を
1162
1151
くにかかす
つく
前・国懸 両宮 役は鳥羽 院宣に任せ免除する。紀伊国司 ・源
り んげ ん
ふ じ は ら つね ふ さ
日 案 文 を以 て右 中 弁 藤 原 経 房 に付 けた 」と、太 政 官 に訴
えている。
う け ぶみ
為 長 の請 文 を遣 わす 。綸 言 この通 り。これを悉 すに状を以
みえ、「那賀 郡荒 川 荘 は八 条 院(鳥 羽天皇 の娘)領 である。
この頃 、日 前 ・國 懸 社 は、社 殿 の造 営用 木 材 の調 達 に各
これで山 東 荘 に対 す る日 前 宮 が強 要 していた課 役 は公
ところが日 前・國 懸宮 造 営 の材木 雑 事 のため、官 使 が荒川
り ゅう か い
地 の荘 園 に入 って強 引 に木 材 を手 に入 れよう としていたと
的 に免 除 さ れたかと思 いきや 、三 度 、高 野 山 大 伝 法 院 衆
推 測 す ると、紀 伊 国 司 が逆 に日 前国 懸 社 の課 役を訴 え
宣 を受 けず 勝 手 に荒 川 荘 に押 し入 るか。その責 めを停 止
責 め、百 姓 を怨み侵 す 由、訴え申 す 所である。どう して院
ちょうしょう
たとみえる。「特 に管 裁 を頂 き、長 承 の管 符 、及 び庁 宣 の
あ ん ど
じ し ょう
旨 にそって造 日 前 国 懸 社 の課 役 を停 止 さ れることを請 う
る ろ う
これに対 し、「紀 伊 国 七 カ荘 石( 手 ・山 崎 ・弘 田 ・岡 田 ・山
げ
じ し ょう
こ つ き
げ んりゃく
やから
ち ゅう しん
く だしぶみ
( 年) 五 月 二 十 四 日 付 けの源 義 経 の下 文 もみら
みなもとのよしつね
反 す る 輩 は名 前 を 記 して注 進 す べき 状 、この通 り 」と 、
元暦元
12)
より大伝法院の仏法が滅亡してよいのか。中(略 そ)こで事状
う まとき
) 大 夫 史 小 槻隆 職 に付 けて奏す 。同 十 二
由 、聞 こえがある。返 す 返 す も不 当 である。この定 めに違
たい。そう でなければ一 千 余 の大 伝 法 院 衆 徒 は高 野 山 寺
1178
院を離別し道路に流浪する。どうして国司の無道の訴えに
8)
東 ・渋 田・相 賀 は)高 野山 大 伝 法 院 領 である。兵 士 ・兵糧以
下 は、その催 促 は停 止 す ること。先 日 の下 知 をまもらない
状。・・・早 く免 除の宣 旨を下 され、安堵の秘計を廻 らさ れ
ひ け い
し、損 亡 物を返 し与 えること云 々。治承二 ( 年) 十 二月 五
日」(高野山文書七 )と、荒川荘も訴えている。
に ち ぜ ん くにかかす
庄に乱入し、衆多の眷族・国使らを引率し造営費の拠出を
ちよう かん
てす 。長 寛 二 ( 年) 十 月 二 十 七 日 。左 中 弁 判( 。)隆 海
あ じ ゃ り
阿闍梨御房に奉る 」と。
12)
徒が解状案を以て申請している。
1164
を記 し謹んで解 申 請 す 。治 承 二
年 六 月 日。高 野 山
(
)
(
)
しんま ん
じ し ょう
大 伝 法 院法 師信満 ・他三 百 三十三 人連 署。治 承二年 六月
十 日 午 時 正( 午
1184
1178
- 20 -
12)
れる。
かくばん
に ん じ
覚 鑁 の死 後 、百 余 年 を経 た仁 治 三 ( 年) 、ついに高 野山
ほ う き
かくばん
金 剛 峯 寺 の僧 徒 が 蜂 起 し て覚 鑁 の創 建 し た 高 野 山
だ いで ん ぽ う いん
大 伝 法 院 に放 火 し、堂 塔 や 僧 坊 が一 宇 も残 ら ず 焼 失 し
こう あ ん
郡 渋 田 荘 ・伝 法 院 、以 上 十 二 カ所 。内 当 山 知 行 分 三 十 カ
所 、他 人 の横 領 分 八 カ所 。以 上 、注 進 宣上 この通 り。孝 安
八 ( 年)乙酉九月 日 」とした書付けがみられる。
そして金 剛 峯 寺 が定 め置 く条 々 として、「一 、伝 法 院 僧
ち ょく さ い
においては永 久 に高 野 山 に帰 住 を許 してはならない。たと
じょう さ い
た。
え上 裁 天( 皇 の裁 可・勅裁 が)あっても、何 度も訴えるべきで
ある。もし理裁が達しなければ御 祈願を勤めず、山林にお
ぶんえい
しかし三 十 年 後 の文 永 九 ( 年) 三 月 になって、高 野 山 伝
ちゅうしゅん
法 院 、及 び僧 坊 が再 建 さ れ落 成 した。そして忠 俊 僧 都 が
いて交戦す ること。もし契 約を忘れた一味 が伝法院僧の帰
やから
京 都 の醍 醐 、木 幡 などから高 野 山 に帰 り、僧 坊 に移 住 し
山上・山下を追放すべきこと。
やから
かす
一 、寺 院 闘乱 のことについて伝 法院 僧 により子 細を掠 め申
り ざ ん へい も ん
とな
そして孝安七 ( 年)、高野山伝法院に大湯屋を建設しよ
うとしたが金 剛峯寺 から先例はないとして阻止さ れた。伝
そうごう
じ ん み ら いさ い
一 、寺 門 の訴 訟 に御 同 心 あ り 奏 聞 さ れ るべき 由 は門 徒
そうもん
なければ離山閉門に及ぶべきこと。
こっち ょう
し骨 張 と称 え罪 科 を受 ける 輩 があれば、別 の張 本 者 があ
月二十四日のこと とある。
だ ん じ ょう が ら ん
法 院 僧 らが遺 憾 とし、壇 上 伽 藍 を焼 こう としたところ双
る筈 がない由 、諸 衆 一同 が訴 え申 す こと。もし訴 訟 が達 し
ちゅう しょう いん
山 を許してもよいと評 定す る輩 は、永 く交 衆の札 を削 り、
12)
た。時の人は根来中性院と呼び、法会の談義を勤励した 。
1285
カ所は当 山 の知 行 分 である。那 賀 郡小 川・柴 目村 根( 来 寺 ) 僧綱 に触れ申すこと。もし無許 容の所においては尽未来際
玄 親 律師 、以 上五カ所は他人 の押 領 横( 領 分) である。伊 都
永(久に 、弘
) 法大師の門徒を追放し奉るべきこと。
- 21 -
1242
方で合 戦となり夜 になり伝 法院方が東 西に敗 走した 。七
4)
1272
こう して金 剛 峯 寺 は、「名 草 郡 山 東 荘 ・伝 法 院 、以 上 八
1)
1284
12)
べ っ し
右 、伝 法 院 僧 らは時 に従 い事 に触 れ、金 剛 峯 寺 を蔑 視
根来寺の独立
かくばん
しよう おう
す る、とりわけ大湯 屋 の構 えは一寺を超過する。あれこれ
金 剛 峯 寺 側 のこう した姿 勢 も あ ってか、や がて正 応 元
ちゅう しゅん あ じ ゃ り
奇怪を現す。その上、悪徒を引率し本寺に押し寄せ壇上の
( 年) 三 月 、伝 法 院 の忠 俊 阿 闍 梨 の計 画 によって、覚 鑁 派
ら い ゆ
の僧 徒 だ った 高 野 山 中 性 院 の頼 瑜 ら は 、高 野 山 の
仏 閣 を焼 き払 う 計 画 を本 寺 衆 徒 は堅 く防 いだので滅 亡 し
み つご ん いん
き
し
大 伝 法 院 、密 厳院 、及 び諸 堂舎 、僧 坊 の基 址 土( 台 ・基礎 ・
だ いで ん ぽ う いん
なかったが、所 行 の 企 はす でに明 かである。もし一 山 に共
くわだて
住 す るにおいては今 後 の狼 藉 は止 め難 い。前 事 を忘 れない
基 盤 等を根来 山に移し高 野山 から永久に跡を絶って独立
)
ちゅうしゅん あ じ ゃ り
え ん み ょう いん
だ い え
した 。そして忠 俊 阿闍梨らは根来寺円明院で大会を行う
ろう ぜき
者 は事 後 の師 である。そこで、永 代 の証 拠 に備 える為 、条
ようになった 。
ぼん
々 の契 状 を定 める。たとえ一 事 であっても違 反 す れば、梵
て ん た いしゃく
かくばん
し ん ぎ し んご んしゆ う
ら い ゆ
天 帝釈・四天 王、王 城鎮守 の諸 大明神を始め奉り、とくに
ともがみ
このとき高野山 の覚 鑁派の僧徒はす べて根来山に移住し
う
かく ば ん
て根来山で新義真言宗を開帳した。こうしたことから頼瑜
に
き ょう さ ん
日 。預 大 法 師教 算 。他 百 四
あずかり
丹生 ・高 野 両 大 権現 、十二 王 子、百 二十伴 神 す べての日本
へいじ ゅ つ
は根来寺中興の祖とされ、覚鑁の御廟の傍に墓碑が建てら
こう あ ん
り。孝 安 九
た。
こう あ ん
ら い ゆ
ぶ
( 年) 正 月 に高 野 山 大 伝 法 院 の学 頭 に就 任 してい
は
頼 瑜は当 時、高野山大伝法 院領だった山崎荘波分村 岩(
は ぶ
に ん な じ
だ い ご じ
出市波分 の)出身で、かつて京都仁和寺や醍醐寺で修行し、
れている。
十 二 人 連 署 以( 下 略 」)金( 剛 峯 寺文書 三 と)。この文 面では
金 剛 峯 寺 衆 徒 等 は強 硬 姿 勢 を以 て伝 法 院 僧 徒 を徹 底 的
弘安九
( 年) 丙 戌 八 月
国 中 の大 小 諸 神 の御 治 罰 を各 々 身 上 に受 ける状 、この通
4)
1)
折から金剛峯寺との激しい対立の渦中 にあり、自らの出身
1286
12)
- 22 -
1288
に排除・排斥しようとする決意がみられる。
1286
らいゆ
らいゆ
ら い ゆ
頼 瑜の時代 からとみられており、彼 の著作 「釈論 第三 愚草
げ ん こう
・金剛寺聖教」の奥書に、それぞれ「根来寺」と記している
中
という。
げ
し
ところが元 弘 三
年 十 月 十 四 日 、金 剛 峯 寺 衆 徒 が諸
(
)
し ぶ た
お う が
荘 の兵 士 数 十 人 を率 いて伊 都 郡 渋 田 荘 ・相 賀 荘 に押 しか
し ぶ た
お う が
し ょう ま つじ ょ
21)
地に近 い根来の円明寺への避難を決断したのであろう とみ
しかし根
来寺中興
ら い ゆ
に尽 力 し
け ん む
とを請う綸旨を願い出た 。
に捧げ、頻 りに渋田荘・相賀 荘を従 前どうり領知 できるこ
しき
た頼 瑜 は、 け、根 来 寺 から 派 遣 さ れていた下 司 荘( 官 等) を 追 い出 し
嘉 元 二 ( ) た。
年、七十八
そこで同 年 十 一 月 十 八 日 、根 来 寺 僧 は二 紙 の訴 状 を官 庁
歳 の天 寿
根来
志 富田 渋( 田 荘) 内西村 字小 田口西 山田 の水田 一反 」とみ
え、す でに渋 田 荘 が金 剛 峯 寺 領 となってしまったことを示
しかし、建 武 二 ( 年) 二 月 二 十 五 日 付 けの「生 松 女 の高
だ ら に
野山陀羅尼田寄進状」には、「紀伊国伊都郡金剛峯寺御領
て本 格
しき
状 を送 り根 来 寺 衆 を味 方 に引 き入 れよう と努 めた。その
南 北朝 時 代 に入 り、北 朝方 の将 軍 足利 尊 氏 は頻 りに書
あ しかがたかう じ
している。
寺 が寺
4)
的 に成
立 した
院とし
1335
- 23 -
1304
1333
21)
のは
8)
▲ 頼瑜像(根来寺蔵 21)
らいゆ
頼瑜は嘉元 2 年、78 歳で没した
(1226-1304 年)
られている。
を全うした。
▲ 中興 頼瑜の墓(根来寺奥の院)
あ しかがたかう じ
じん そう
い わ で
( 年) 以 来 、没 収 さ れ ていた根 来 寺 領
え こ う
う え、足 利 尊 氏 の陣 僧 戦( 陣 で死 者 を回 向 し、また軍 使 と
して敵 方 に派 遣 さ れ た僧 で、文 筆 役 と して働 いた僧 で)
だ い ご じ
け んしゅん
え んげ ん
( 年) 十 月 二 十 六 日 、根
醍 醐 寺 三 宝 院 の賢 俊 を、延 元 元
ぶ
た
来寺の座主を兼務させた。
げ ん こう
し
そ して元 弘 元
おう がみなみ
あ しかがたかう じ
だ いで ん ぽ う いん
み つご ん いん
くみ
大伝法院・密厳院があり寺社宇がその中に充ち、子院は九
十八にも及んだ。
ご か め や ま
根 来 寺衆 は当 時 、北 朝 方 に与 していたようであるが、南
朝 後 亀 山 天 皇 の綸 旨 もみられ、「紀 伊 国 那 賀 郡 山 崎 荘 の
げ んちゅう
ごん の
す
け
根 来 寺 領 は相 違 あってはならぬと、天 皇 の命 令 この通 り。
元 中 二 ( 年) 八 月 二 十 日。権 左 中 将 判( 」
)とある。これは
南朝 方が北 朝 方 の根 来寺 衆 を味 方に取 り込もうとして出
け ん む
相 賀 南 荘 ・志 富 田 渋( 田 荘) 、及 び石 手 ・山 崎 ・弘 田 ・岡 田 ・
お う が き た
山 東 ・相 賀 北 荘 のこと、元 の通 り相 違 あ ってはなら ない。
12)
たかう じ
せ いひ つ
さ ま のか み
ただよし
はたけや ましょう げ ん
こと、根 来 寺 伝 法 院 の領 掌 は相 違 あってはならぬ状 、この
べき状 、この通り。入 道准三宮・前太政大臣足利義満 判( 。)
あ しかがよしみ つ
役・守護使の入部を停止する所である。早く領知を全うす
通り」と、また同年七月二十三日付けに、「紀伊・和泉両国
りょうしょう
の介 入 があったのか、応 永 三 ( 年) 六 月 二 十 五 日 、前 太 政
あ しかがよしみつ
大 臣 足 利 義 満 が御 教 書 を下 し、「紀 伊 ・和 泉両 国 の寺 領 の
おうえい
信達荘や紀伊国内の根来寺荘園についても、まだ他者から
しんだち
ところで、さ きに足 利 尊 氏 が根 来 寺 に寄 進 した和 泉 国
いず み の く に
された綸旨 とみられている。
あ しかがたかう じ
足 利 尊 氏 はこれに加 え、「建 武 四 ( 年) 三 月 、四 季 大 般
いず み の く に し ん だ ち
若 転 読 料 と して和 泉 国 信 達 荘 を 根 来 寺 に寄 進 す る 。
あ しかがたかう じ
12)
ところが、暦 応 三 ( 年) 五 月 、渋 田 ・相 賀 荘 の争 奪 論 争
で、金 剛 峯 寺 僧 徒 と根 来 寺 僧 徒 が合 戦 に及 んだ。そこで
1396
12)
の大 伝 法院 領 のこと、証 文などの旨に任 せ諸公 事 、及 び国
りゃくおう
あ しかがたかう じ
建 武 三 ( 年) 十 二 月 十七 日 。足 利 尊氏 花( 押 と
) 御 教書 を
送っている。
1385
1336
静謐 合(戦を治める に)させた とある。
えんみよう じ
ぶ ふ く じ
当 時 、根 来 山 は四 つの区 域 から成 り、円 明 寺 ・豊 福 寺 ・
4)
尊 氏 の弟 で左 馬 頭 足 利 直 義 が、守 護 畠 山 将 監 を派 遣 して
1340
12)
- 24 -
1331
足利尊氏 花(押 」
)と、泉南にも根来寺領を追加した。
1337
1336
執筆飯尾貞之 」とみえる。
また守護畠山基国は、「根来寺大伝法院領の諸公事、及
( 年) 三 月 二 十 五 日 。守 護 畠 山 徳 元 基( 国
び国役、守 護使 入部 のこと。去る応永 三 ( 年) 七月二十 三
日 の御 下 知 の旨 に任 せ、催 促 を停 止 さ せるべき状 、この通
り 。応 永 七
判( 。)守 護 代 遊 佐 豊 後 守 入 道 助( 国 殿) 」とあ り、さ らに
「紀 伊 国根 来寺大 伝 法院 領 七カ荘 石( 手・山崎・弘田・岡 田
・山 東 ・相 賀 北 ・信 達 の各 荘 、)及 び名 草 郡 直 川 荘などの役
夫工 米のこと。先例に任せ催促 外( 部からの督促 を)停止さ
し ゃ み
せるべき状 、この通 り。応 永 九 ( 年) 六 月 二 十 九 日 。沙 彌
畠(山基国 判
)( 。根
) 来寺衆徒御中 」と、書き下しを送ってい
る。
そ う く も ん
この頃 、根 来 寺 領荘 園 の惣 公 文 荘( 官 の長 は)次 のよう に
うるう
斗 五 合 。毎 年 支 出 分 ・三 十 一 石 三 斗 一 升 。閏 月 の年 は三
十二石九升五合。敬白、起請文のこと。
し ょう い
) そこで起請文の状、この通り。応永
おうえい
右 、意 趣 は根 来 寺 鎮 守 講 米 として荘 々 から収 納 の注 文
を右に備えた。中( 略
し ゅ ご は た け や ま み つのり
) 十 ( 年) 十 一月三 日 。惣 公 文性意 花( 押 」
)と、根 来 寺領 の
各荘園から納める毎年の米の割り当て量である。
たんせん
そして紀 伊 国 守 護 畠 山 満 則 は、次 のよう に施 行 状 を出
している。
「根 来 寺 大 伝 法 院 領 紀 伊 国 所 々 官 庁 段 銭 土( 地 税 の)こ
し ょ く じ
と。先 々 に諸 公 事 免 許 の支 証 を以 てこれを執 り申 さ せ御
免 の由 につき、仰 せ下 さ れる所 である。早 くその旨 を存 知
おうえい
す べき状 、この通 り。応 永 十 四 ( 年) 八 月 二 十 六 日 。守 護
は た け や ま み つのり
ゆ さ
ながも り
畠 山 満 則 判( 。)守 護 代 遊 佐 筑 前 守 入 道 長( 護 殿) 」とみえ
る。
さ らに、知 行権、領 有権 、所有 権などを確 認あるいは承
起請文を書いている。
「鎮 守 講 米 の当 年 収 納 分 。石 手 荘 分 ・七 石 三 斗 一 升 六
認する公文書である安堵状として、「根来寺大伝法院領紀
あ ん ど じ ょう
合。弘田 荘分・三石二斗七升七合。山崎 荘分・九石 四斗六
伊 国 七 カ荘 、及 び直 川 荘 などのこと。当 知 行 の旨 に任 せ、
12)
- 25 -
12)
1396
12)
升二 合。山東荘分・三石二斗五升。以上合計・二十三石三
1407
1402
12)
1403
12)
1400
保 証す る旨の足 利 将軍 の御教 書 や紀 伊 国守護からの施行
りょうしょう
根来寺大伝法院の領 掌は相違 あってはならない。次に諸公
状が幾通もみられる。
き ょう と
しかし長禄四 ( 年)六月二日、根来寺の凶徒を平らげる
よしな り
ゆ さ
き ょう と
為 、畠 山 義 就 、遊 佐 氏 が根 来 寺 に発 向 した とあり、凶 徒
ち ょう ろく
事、及 び国 役、守護 使 入 部においては先々 に免除の上は益
ちゅう しんじょう
か っぷ く
よしな り
ゆ
さ
じ ん ぼ
しかし粉河寺方の群衆が使者を攻め、説得方が敗れた。
木沢の三家臣を遣わして修復を説いた。
き のさ わ
悪( 行をはたらく者 の)子細は不明であるが、同年五 月八日
に、「根来寺管内の六カ井用水路堤を粉河寺僧が壊し根来
のう が わ
影 範御代 官分 ○ 石手 荘三十 貫・荘 立 用他 。○
い わ で
根 来 寺 衆 徒 からの注 進 状 が次 のよう にみえる。注 進 状
ある。
「注 進
しんだち
三 使 者 は逃 げられず 割 腹 し余 兵らは折から増 水 した紀 ノ
ひ ろ た
弘田荘五十貫・荘立用他。○信達荘百貫・荘立用他。直川
川 を渡 ろう として溺 死 す る者 一 千 二 十 余 人 」とみえ、根
おうえい
12)
かんしょう
とおとうみのかみ
殿、大(伴 遠) 江 守殿をはじめ、軍勢が籠城した。
ろう じょう
また、寛正元
年九月十九日、粉河寺に根来寺勢が押
(
)
に う
や
し寄 せ放 火し、粉 河寺 が炎 上 した。粉 河 寺 の大 将 ・丹 生屋
た。
斡旋に入った守護方・根来寺方民衆に大勢の犠牲者を出し
で き し
荘 十 貫 ・荘 立 用 他 。上 使 が御 検 知 を下 し賜ったとき、加 増
) 来 寺衆 と粉 河 寺 衆 が用 水 路 堰 で相 論 のうえ合 戦 となり、
さ んごう
あれば御 得 分となす べきものである。御 代 官 を改 易 交( 替
か げ のり
寺 方 の民 衆 が争 った。そこで守 護 畠 山 義 就 が遊 佐 ・神 保 ・
12)
とは事 物の明 細 を記 して上 部 機 関 に提 出 す る報 告文 書で
々催 促 を停 止さ せるべき状 、この通 り。応 永 十 四 ( 年) 八
し ゃ み
月二十九 日。沙彌 畠(山満則 判
)( 」と
) 、根来寺にとって寺領
を擁護する強い味方が出来た。
1460
1460
せられ三 綱 三 役 僧 中 に仰せ付 けられたとき御 年 貢 増 加
(
)
ち ん じ ゅえ
け た い た いま ん
の分。御坊の御修理料足 十三石。鎮守会 を懈怠 怠( 慢 の)と
1409
( 年) にかけて、根来 寺大 伝法院 領を
12)
- 26 -
1407
き、毎 年 三 十 貫 。以 上 、二百 三 十三 貫。応永 十六 ( 年) 十
一月日。根来寺大伝法院入寺以下衆徒ら 」とある。
この頃から永 享 八
1436
九 月 二 十 二 日 朝 、粉 河 寺 方 の城が落 城 し幾 人 かの寺 僧
が戦死した とみえる。
ゆ
さ
き のさ わ
じ ん ぼ
ろころが、また翌年五月、今度は粉河寺勢が根来寺に押
し寄せた。この時、守護 代遊佐 豊後守木 沢氏、神 保氏 が根
来寺にて戦死した とも記されている。
この頃 から寺 領 の相 論 を巡って各 寺 方 が論 争の末 、武 装
化がすすんでいったものとみられる。
鉄砲の導入と根来衆の武装集団化
鉄炮の伝来と伝播
根 来 寺 の繁 栄 と破 滅 の因 縁 を辿 るには、鉄 砲 伝 来 の歴
史と鉄砲集団根来寺衆の起こりを抜きにして通れない。
一(説に
450
す ぎ のぼう
め いざ ん
じ ゆう さ い
( 年) 、根 来 寺 杉 坊 院 主 明 算 自( 由 斎と名 乗 る
72
る。
とき たか
だ け ん も つか ず な が か ず な が
まさ のぶ
だ け ん も つか ず な が
たちばな
か つあ い
し ば つじ か
かず なが
た ち ば のも ろ え
じ
の二十七代、楠 河内判官正成四代の孫、河州交野郡津田
くすのきかわう ちのほ う が ん ま さ し げ
考 ふるに、その先 敏 達 天 皇 より出 て 橘 姓 なり。橘 諸 兄 公
び た つ
「吐 前 村 那( 賀 郡 小 倉 荘 = 和 歌 山 市 吐 前 )にあり。当 家
こ けんも つ
ちょう じゅう
の祖 小 監 物 は初 めて東 方 に鳥 銃 を伝 えし人 なり。家 系 を
はんざ き
々 長 くなるが、極 力 現 在 文 に書 き直 す と次 のとおりであ
下 那 賀 郡 」によると、炮 術 家 津 田 監 物 筭 長 算( 長 宅) につい
て物 語 り風 に鉄 砲 伝 来 とその普 及 について記 している。少
ほ う じ ゅ つか つ
江 戸 時代 に高 市志 友 が編 纂 した「紀伊名 所 絵 図 六 之 巻
化に成功したと云う。
翌十三
年 、算 長 は根 来 寺 門 前 町 西 坂 本 の芝 辻 鍛 冶
(
)
かたなば
し ば つ じ し ん え も ん みよう さ い
も ほう
刀場の芝辻清右衛 門妙西に伝 来銃を示して模倣させ国産
かず なが
請し、津田監物算長 筭(長 が)種子島に渡り銃一挺を初めて
伝えた 鉄(炮記・鉄炮由緒書 と)する。
つ
が)種 子 島 の領 主 時 尭 にポルトガル伝 来 の鉄 砲 割 愛 を要
15)
城主津田周防守正信 〈津田を氏 とす〉の長男にして、津(田
まさ のぶ
かず なが
家 家 譜 では正 信 の五 代 目 が算 長 となっている 当) 国 小 宏 の
- 27 -
12)
根 来寺は、天下 大乱の室町時代末期には坊舎
と云う。
てんも ん
天 文 十二
1543
1544
12)
は とも を)数え一大宗教都市を形成し、寺領 万石を数
え、根来衆とよばれる僧兵一万余の軍事集団を擁していた
2700
おお すみ
かず なが
りたるがこれ即 ち他 にあ ら ず 、大 隅 の国 を去 ること十 八
里 、小浦 といへる小嶋なり。ときに筭長は滞留 の間、嶋の光
お り べのじ ょう あたひ
しょう しょ
みんじん
し
おおぶね
ひそ
社を領 じてこの地 に居 住せり。常に南 木 楠( 明) 神を崇 敬 し
き とく
大いに家 勢 越 あらわさ んこと祈りたるが、あるとき奇 特の
む
景を伺ふに、ひとへに夢中に見 しところの趣きあれば、密か
ゐ
異夢 を感 じた。例 えば船に乗りて大洋 に浮 み、とある嶋 が
に心 に疑 いつゝ嶋 人 にこれをば問 う た。嶋 人 告 げて云 う 。
こ
根に漕 ぎよす がる。異様の人来たって、いまだ目馴れない一
去 年 天 文 十 二 癸 卯 の年 八 月 廿 五 日 、この嶋 に異 国 の大 舶
かず なが
つの兵 器 を与 えるとみて夢 覚 めぬ。・・・筭 長 は不 思 議 に思
漂 着したるが、西村 の地主織部丞 直 なる人、自 ら至ってこ
り め つれ つ
ひょうちゃく
い、ここにおいて志 を変 へ、これ迄 押 領 した地 をことごとく
れを検 問 す るに、舶 中 一 百 余 口 の人 、す べて朱 離 决 舌 支(
し ゃ り
あたひ
その主に返 し、幼 児 〈のち自 由 斎 と称 す 、此 人 諸 国 に相 歴
きょう ろ く
へん れ き
の杉の坊明筭に托して、遂に亨 禄年中に家を捨てて単身で
め いさ ん
して大にこの術を弘むといふ〉に私領を附して、舎弟根来山
離滅裂か 。)直 もとより象胥(通じ)にならはざれば、これに
通ずる 会(話する こ)とあたはず。
かたら
西国に走り、あまねく海岸に傍 ふて遍歴し、夢中に兵器を
しかるに這 裏 そ(のう ち 一) 人 の明 人 中( 国 人 あ) り、名 を
かしら
五 峰 という 。渠 す こぶる字 を知 れり。此 のとき衆 をぬきん
この
いち ゆ う
求めるといへとも年を越えてさらに得るところなし。いて此
な んばん
あたひ
でて直 の前 に一揖 軽( く会釈 し)、杖 をもって地面に書いてい
ろう じ ゅ
たまたま ば ん か
ふ。吾 はこれ明 国 の陋 儒 で五 峰 といへる者 なるが、遇 蛮 賈
ぐ ふう
み ん こく
う へは明 国 中( 国 に)をし渡 り志 を達 せんものをと、後 に船
は と う
に揺 られて万 里の波 涛 を凌 ぎつつ、遙 かの大 洋 に漕 ぎ出 る
南( 蛮の商 人 の)来 朝せるに便舩 し他 国 に渡 らんとす るに、
ふね
おもはざ りき洋 中 にて風 波 のために舩 を破 られ、やっとこ
びんせん
に、颶 風 台( 風 大) いに起 つてたちまち舩 を くつがへさ んと
かず なが
なげう
す。筭長は心に南木明神を祈念し、身命を 擲 ってただ風に
かろ
ばん か
まかせてぞ居りたりける。
こに至 ることを得 たり。己 をのぞく外 はす べてこれ蛮 賈 外(
れんびん
国の商人 な)り、幸に憐愍をたれたまへと云う。こゝにおゐて
かつて辛 う じて一つの嶋 を見 つけた。や がてこれにて陸あ
- 28 -
ときたか
かしら
ときたか
かず なが
いとま
め いさ ん
せか
に具 足 せしかば、時 尭 に厚 く謝 し暇 を告 げて帰 国 を促 た
あたひ
とき たか
これ
とき たか
あた
ただち
つい
かず なが
直 は、種子嶋の地主兵部丞時尭と商議し、翌廿七日、その
フ ラ ン シ ス コ
とき たか
ときたか
れり。
タ
是 より先 に筭 長 の舎 弟 杉 の坊 明 筭 の甥 の幼 児 の稍 成 長
ッ
舶を赤 尾 木の津 港 に入 れしむるに、時尭 もとより情 けあ
(
)
か のふ ね
る者 にて自 ら私 財 を投 じて彼 舩 を修 繕 しす べて本 土 に帰 へ
モ
しけるに、しきりに父 を慕 ふのや るせなく且 つその便 りも
ダ
らしめんとす 。ここに舶 長 牟 良 叔 舎 〈蛮 人 の名 なり、一 に
たずさ
シ
知 らまほしく 渠 をたづねて西 国 に趣 き筭 長 の行 方 を尋 ね
リ
喜 利 志 多 孟 太 とも云 う 〉と云 う 者 、深 ぶか時 尭 の恩 を感
しに、図 らず も種 子 島 に至 る。かの鳥 銃 を見 しに、いとあ
キ
じ、携 ふるところの鳥 銃 一 挺 を贈り、製 作 の法 および其 の
や しき 軍 器 なれば如 何 にしても得 まく欲 しさ に、これも
かず なが
た よせ
術をも詳しく伝えてこれを謝せしにより時尭 もつぱらこれ
時 尭 に手 寄 てさ まざ まに云 いこしらへ、竟 に鳥 銃 を得 て帰
おおい
つぶさ
を修 練し、当面はまだ他に漏らすことなしと、始終を具 に
りしが、其の術および製作法さへ知らざれば、これをよくよ
かず なが
てのひら
物 語 る。筭 長 おもわず 掌 を打 て大 に喜 び、我 毎 に求 める
く用 ふること能 わず 。いたづらに秘 め置 くのみなりしに、
か じ こう
ところのもの果 たして是 なりと。遂 に嶋 人 に従 て種 子 嶋 に
か つぼ う
せ ん しゅう さかい
筭長 かへり来たって直 に根来山の麓なる村 に住む鍛工 芝辻
ときたか
かんえき
渡り、時尭 に面会し多年の渇 望を述べて懇切にこれを伝え
とき たか
清 右 ヱ門〈元泉 州 堺 の産 人なり〉なるものに語 り製法 を知
こんもう
んことを求 めたところ、時 尭 ほとんどその志 しを感 懌 し、
ロ ウ
ひょう か く
め いさ ん
らしめ一 時に数千 挺の鳥銃 を作 らせ、懇望 にまかせてこれ
タ
前 に蛮 人 より得 たるところの鳥 銃 、および製 作 の法 までこ
ベ イ
を与 え、その術 を弘 めしが杉 の坊 明 筭 も是 を学 び、ともに
ばん か
とごとく伝 えたるが、此 とき蛮 賈 のう ち皿 伊 且 崙 といへる
名誉の達人となりたり。
おう にん
者 が当 嶋 に止 り有 りたるに、よくこの術 に達 練 せしかば、
げに
実や応 仁の兵 革ひとたび動いてより以降、天下大いに乱
か っき ょ
即 ちこれに就 いて昼 夜 にこれを学 び、いく程 もなくその奥
れ英 雄 とこどろころに割 拠 し、少 をう 子 弱 をしのぐの秋 な
かず なが
妙を極 める。筭 長は既 にその求めるところを得 て今 は十分
- 29 -
を慕 って云 々 」は誰 をさ しているのであろう か。その時 代 の
つわもの
歳前後で
れば、如何なる 兵 をも招き求める折なるに、いはんや皇国
かず なが
め いさ ん
算 長 の近 親 者 の人 物 を考 証 す るに、まだ若 干
かず なが
にいまだ目 なれざ る鳥 銃 の達 人なれば、誰 かは是 を慕 いよ
も
め いさ ん
とき たか
しょう さ ん
はあるが算 長 の実子 で明筭の養子 になったとす る照 算 その
よ
け ん も つか ず な が
ろこびざ らん。四 方 よりつどひ請 ふもの数 を知 らず 。遂 に
つい
人だったことになる。
もとめ
とどろか
通 説 では、杉の坊 明 算 が種 子 島 時 尭 に鉄 砲 割 愛 を要請
かず なが
足( 利 将) 軍 義晴 公の徴 に応じ、其の術をもつて累 りに従 五
位下小監物にぞ拝せらる。
しょう さ ん
し津田監物算長が使者となって鉄砲を導入したとされてい
かず なが
鍛 工 芝 辻 清 右 ヱ門 に指 示 して模 造 さ せ、砲 術 を広 めたと
か じ こう
そして製 法や砲 術を修練 して帰 った算長 が、その製法 を
かず なが
島に渡り鉄砲を譲り受け帰ったことになる。
るが、この文 面 からす ると明 算 の養 子となった照 算 が種子
め いざ ん
さ れば筭 長 、かくの如く家 勢を 轟 し、終 に永 禄 十年 十
しょう さ ん
二月廿二日卒す。其の子成長して自由斎 照(算 と)号す。家
あまね
伝をことごとく得て、さ らに自 ら工夫して一家 をなし、普
よく よく
く諸国に遊歴して天下にこれを弘む。然してより以来能々
当国に居住す。希代の名家といふべし」と。
た ち ば のも ろ え
みるのが妥 当 のよう である。算 長 は種 子 島 に滞 在 していた
け ん も つかず な が
ロ ウ
ところで、この文 頭 で津 田 監 物 筭 長 の出 自 は「橘 諸 兄 公
タ
だ け ん も つか ず な が
じ し ば つじ せ い
え
も ん
え いろ く
( 年)十月二
砲術 を学び堺の鍛 冶芝 辻清右 衛門に銃砲 の製 作を教える
か
また一 説 に津 田 監 物 算 長 は津 田 流 砲 術 の祖 。種 子 島 で
つ
ベ イ
ポルトガル人 皿 伊 且 崙 に師 事 してその奥 義 を得 て帰 ったの
くすのき かわう ち の ほ う が ん ま さ し げ
の二 十 七 代 、楠 河 内 判 官 正 成 四 代 の孫 云々 」とあること
であろう。
かく ばん
たちばな ま つ
から、根 来 寺 の開 基 覚 鑁 の母 である 橘 松 と血 縁 をもつこ
とがわかる。
ときたか
- 30 -
10
1568
かず なが
おい
おい
とともに津田流を開いた ~( 年 。永
) 禄 十一
十二日六十九歳没 と)もある。
13)
しかも、この文 面では筭長 自身は鉄砲の製 法や火薬の製
め いさ ん
め いさ ん
法 を学 び帰 り、それ以 前 に明 筭 の甥 が時 尭 から鉄 砲 を一
丁 譲 り受 け帰 ったとしている。明 筭 自身でなく甥とし、「父
1567
て つぽ う や く
たねが し ま
てん ぶ ん
て つぽ う
でん じゆ
さ らに、津 田流 鐵炮 薬由緒 書 には、「天 文 十三
じ ゆ う さ い しょう さ ん
( 年) 、
すぎ
でんじゆ
とき たか
え いこう
けた島 主 の種 子 島 時 堯 は、これを赤 尾 木 湊 に曳 航 さ せ船
主 と会 ったところ、乗 組 員 の中 にいた商 人 が見 慣 れぬ鉄 の
棒 鉄(炮 を)持っているのを見つけた。
とき たか
言 葉 は通 じなかったが、これが欲 しくなった時 堯 は乗 組
て つぽ う で ん じ ゆ
遊ばさ れ鉄 炮 傳 受 仕 り候 よう仰 せ付 け候 に付 、一 々傳 受
け ん も つか ず な が
津 田 家 家 譜 によると「算 長 は津 田 太郎 左 衛 門 尉 従 五
かず な が
絵図」の記述にほぼしたがっている。
が我が国への鉄炮伝来の瞬間であった」と。これは「紀伊名所
り、彼はこれを「稀世の珍宝」として家宝にしたという。これ
とき たか
員 の中に五 峰という中 国人 がいたことから彼 を通訳 として
筆 談 で話 を進 め、高 価 にもかかわらず 二 挺 の鉄 砲 を購 入
じ ゆう さ い
ご しや て い
仕り上げ候ところ 中(略 。之
) に依り信長公の御舎弟津田太
む しく い
つ だ
郎左衛門尉□□に仰せ付けられ津田の名字を下され津田
したという 。こう して二 挺 の鉄 砲 が種 子 島 時 堯 の手 に入
だ
申し候云々」とある。
つ
め いさ ん
ここでいう 津 田 自 由 斎は、後 項に示した系 図でみると杉
の ぼう
之坊院主明算の養子になった監物算長の実子で、杉之坊二
しよう さ ん
位下 小監物 。永禄十 ( 〈丁
) 卯〉年十二 月廿二日 小倉ニテ
卒 す 。光 善 院 久 室 宗 長 禅 門 居 士 行 年 六 十 九 歳 。紀 州 小
はち まき
な
敵 は恐 れて近 づく者 なし。享 禄 年 中 に種 子 島 に渡 海 し鉄
きょう ろ く
なき大 力 で戦 場 に臨 み、時 には大 竹 を割 き鉢 巻 と為 す 。
さ
壹 万 石 余 也 。小 倉 吐 前 に居 城 す 。身 の丈 七 尺 有 り。比 類
はん ざき
倉 に領 地 八箇 村 五千 石 、紀 泉 之 内 に合 わせて本 知行 凡 そ
1567
代め院主となった照算にあたる。
我 が国 への鉄 砲 伝 来 と伝 播 については他 にも多 くの論 考
がみられ、「鉄 炮 と紀 州 の傭 兵 集団 」は、多 くの資 料 を検
証し次のようにまとめている。
天 文十 二
なんばん
24)
じ ゆう さ い
自 由 斎 と申 し候 。それより一 家 の者 どもは津 田 と名 乗 り
先 祖 自 由斎 照( 算 は) 中( 略 種) 嶋 に渡 り鉄 炮を傳 授仕り帰
り、それより段 々 日 本 へ広 め申 し候 ところ、信 長 公 がお聞
1544
( 年)八月二十五日、大隅種子島の南端・西之
22)
- 31 -
15)
村の小浦という所に、百人ほどの南蛮 ポ(ルトガル 商)人の乗
った一 隻の船が強風 に流され漂着した。代官から報せを受
1543
かず な が
算長は直ちに種子島 に渡って二挺 のうちの一挺を入手、
て っぽ う
炮を傳 来 、天 文 十 三 〈甲 辰 〉三 月 に帰 り、紀 州 の西 坂 本 邑
じ しょく
また橘 屋 又 三 郎 は現 地 の八 板 金 兵 衛 のもとに弟 子 入 りし
か
の鍛 冶 職 芝 辻 清 右衛 門 に鉄炮を造らせ、将 軍 義晴 公 に献
てその製法技術を持ち帰ったという。つまり鉄炮は、本州で
め いさ ん
きょう
( 年) 〈戊 午 〉十 二 月 五 日 寂 す 」とあ
く鉄砲伝来に巡り会ったものと考えられる。
命 じ、天 文 十四 ( 年) に紀 州 第一号 の鉄 炮 が誕 生 したとい
め いさ ん
う。そして根来寺の子院杉ノ坊の院主津田明算に命じて武
を根 来 西坂 本 の芝 辻鍛 刀場・芝 辻 清 右衛 門妙 西に複製 を
根来に鉄炮を持ち帰った津田監物算 長は、ただちにこれ
かず な が
はまず紀州根来と泉州堺に伝播したわけである。
ず。その為に賞として従五位下を叙さる。明算は根来寺総
え いろ く
門 主 杉 之 坊 。永 禄 元
る。
かず な が
てん ぶん
この文 書 も先 の紀 伊 名 所 絵 図 と同 様 、算 長 はす でに享
(~ 年 に)種 子島 に渡海していて、天 文 十三〈 〉
1544
装 化 を進 めていった。これが鉄 炮 傭 兵 集 団 ・根 来 衆 の発 祥
てっ
一 方、堺 では橘 屋 又三 郎 が鉄 炮 の製 造 に着手 、後 に「鉄
となる。
また「種子 島時堯は自領で鉄砲の複製を造ろうと考え、
け いち ょう
余 年を経 た慶 長 十 一
( 年) 九 月 九
なん ぽ ぶん し
日、鹿児島県加治木町の禅僧文之玄昌 南(浦文之 が)、時の
ひさ とき
ときたか
種子 島領主久時 の要請で父時 尭を顕彰する目的で著され
また鉄 砲伝 来 から
門 が後 に堺 に移 住 したこともあり、堺 は一 大 鉄 炮 生 産 地
ぽう また
炮 又 」と呼 ばれる大 商 人 となった。また根 来の芝 辻 清 右 衛
じ
刀 鍛冶の八板金兵衛清定と篠川小四郎にその製法や火薬
として知られるようになった 」とする。
そして、これをいち早 く聞 きつけて行 動 に移 した人 物 が
二 人 いた。一 人 は紀 州 那 賀 郡 小 倉 荘 領 主の津 田 監物 算 長
た ち ば な や ま た さ ぶろ う
1606
22)
かたな か
調合法を学ばせ、ついに天文十四 ( 年)複製に成功した。こ
れが国産の鉄炮第一号であると云う。
とき たか
1545
1558
三 月 に 紀( 州 へ帰) えったとしている。また鉄砲を夢見て明 国
に渡ろうとしたが、台風に遭遇し種子島に辿り着き、運良
ろく
1531
で、もう一人は堺の商人橘屋又三郎である。
60
1545
- 32 -
禄年 中
1528
(年
て っぽ う き
23)
月
みず のとう
たとす る「鉄 炮 記 」によると、「天 文 癸 卯 ( 年) 八 月 二 十
日 、)種 子 島 の西 村 小浦 島( 最 南端の門 倉
五日
9
23
岬 付 近 の浜 辺 に)一 大 船がたどり着 き、そのなかに乗 ってい
た牟 良叔舎 フ(ランシスコと)喜 利志多侘孟太 ク(リストヴァン
12
る。
あ しかがよしはる
この国友村でも天文十三 年)二月、将軍足利義晴が管
(
ほそ かわ はるも と
か じ
領細 川晴 元 を通 じて国 友村 の鍛冶 職 善兵 衛に鉄炮 の制作
を命じ、半年後に二挺の鉄炮を献上させたと伝えられてい
利将軍義晴から当主の浅井氏を通さずに国友村に直接命
国 友 村は浅 井 氏の領 内にあり、ほとんど無 力化 している足
し ん ぴょう せ い
・ダ・モッタ が)鉄 砲 を持 参 した。種 子 島 時 尭 はその射 撃 を
目 の当 たりにして二 挺 を購 入 し火 薬 の製 法 を篠 川 小 四 郎
令を下すことなどあり得ないと思われるからである。
る。しかしこれはどうも信 憑 性に欠ける。というのは当時の
に学 ばせた。根 来 寺 杉 坊 および津 田 監 物 丞 も鉄 砲 の製 法
しかし国 友 村 はや がて織 田 信 長 の武 将 だった長 浜 城 主
け ん も つじょう
を学んだ。時尭は津田を遣わして 根(来寺 杉)坊に鉄砲一挺
を送 り、火 薬 の製 法 ならびに使 用 法 を教 えた。翌 天 文 十
代官 に任 命することになり、織 田政権下において鉄炮 の一
ときたか
三 ( 年) 、再び同島熊 野浦に到来した一行のなかに鉄職人
ふさ
が乗っており、八 板金兵 衛丞清定が銃 身の底を塞 ぐネ ジの
大 生 産 地 として機 能 していくよう になる。これが事 実 上 の
時代を迎えることになった 」とみている。
し、中央では石山合戦から長篠合戦へと本格的な鉄炮戦の
な が し の の か っせ ん
る。各 地 の発 祥 はどう であ れ、鉄 炮 は次 第 にその数 を増
羽柴 秀 吉 が、国 友 藤二 郎 なる人 物を抜 擢して国 友 河 原方
は しば ひでよし
技 術を伝 授さ れ、しばらくして数 十 挺の製 造に成 功した。
とき たか
国 友 村 の鉄 炮 生 産 地 としての発 祥 ではないかと考 えられ
た」とある。
いるが、そうではない。
ここでは津田監物は種子島時尭の使者のように記されて
けんもつ
堺 の橘 屋 又 三 郎 も一 ~ 二 年 間 滞 在 し、関 西 へ鉄 砲 を伝 え
とき たか
1544
このように、鉄炮の伝来やその後の普及には幾つかのルー
- 33 -
1543
「もう 一 つ、鉄 炮 といえば近 江 坂田 郡 国 友村の存 在 があ
22)
1544
べ
国 造 荒 河 刀 弁 に祖 をもつ荒 川 郷 荒 川 氏 の(ちに平 野 氏 、
くにのみやつこ あ ら か わ と
トが語 られているが、種 子 島 に漂着 避(
一 部 は津 田 姓 を名 乗 る の支 族 で、その末 裔 の一 人 は紀 の
)
かず まさ
て つぽう
川 市 桃 山 町 神 田 に住 んでいる津 田 算 正 氏 で「津 田 流 鐵 炮
やく
難 し)たポルトガル人 から時の種 子島領
ときたか
主時尭が二挺を購入するとともに、鉄
( 年) 、根来衆は織 田信長 に味 方
薬由緒書 」の古文書を蔵しいる。
としあ き
て ん しよう
さ い か の か つせ ん
し雑賀攻めに参加した 信(長公記 と)する。
ひ ら の だ んじよ う さ え も ん と し み つ
ぎようぶ
前 出 のよう に、荒 川 荘 平 野 弾 正 左 衛 門 俊 光 の弟 刑 部
それによると、天 正 五
て ん しよう
炮 や 火 薬 の製 法 を 学 び、津 田 監 物 算
長 や 堺 の商 人 橘 屋 又 三 郎 がそれを伝
とき
授 して各 地 に広 まったのは確 かとみら
れる。
さきにもみたように、種子島領主時
俊 明 は天 正 五 ( 年) 、織 田 信 長 公 が紀 州 雜 賀 合 戦 の時 、
ぎようぶ
忠 節 に働 いた恩 賞 として津 田 姓 を賜 った とし、平 野 刑 部
たか
尭が初めて得た鉄砲は「鳥銃」ともある
としみつ
としあ き
俊 明 は津 田 に改 姓 したと 云 う 。そして平 野 弾 正 左 衛 門
52
す ぎのぼう
て つぽう や く
ひ ら の だ んじよ う さ え も ん
15)
本 名 鈴 木 孫 市 鈴( 木 孫 市 重 秀 とも で)ある。孫 市 は海 運 や
貿易にも携わっていたとみられ水軍も擁していたようで、早
序 でながら当 時 、紀 伊 国 海 部郡 雑 賀 荘 和( 歌 山 市 西 部 )
さ い か ま ご いち
の雑 賀 衆 棟 梁 として活 躍 した雑 賀 孫 市 は鉄 砲 隊 を率 いた
15)
め いさ ん ぼ う
よう に、片 手 で持 てる程 度 の小 さ な鳥
俊光の弟の一人は「明算坊と云い根来寺 杉坊の住職で津田
め いさ ん
きの
㌢ の)五連発銃として改
( 年) に旧 日 本 陸 軍 に採 用 さ れ た 三 八 式
さ んぱちしき
を撃つ銃だったとみられ、その後幾多の
1577
改良 が重 ねられて戦いに用いられる初期の火縄銃として発
達したのであろう。
明治三八
ほ へい じ ゅ う
じ ゆう さ い
歩兵銃、つまり銃身三尺八寸 約(
良されていったものと思われる。
だ
ところで、この津 田 自 由 斎 明( 算 は)、弥 生 時 代 からの紀
つ
115
- 34 -
1577
15)
自 由 斎 流 鉄 炮 者 なり 平( 野 家 先 祖 書 ・津 田 流 鐵 炮 薬 由 緒
書 」と
) している (頁・平野氏系譜参照 。)
▲ 火縄銃
1905
くも鉄 砲 生 産 にも力 を入 れていたとみられる。こう して根
さ
の
お
来 衆 や 雑 賀 衆の鉄 砲 軍団 が増強さ れていったとみられる。
す
も ののべ
ほづ み のお み
ほ づ み
ま
つ
紀 州 熊 野 の鈴 木 氏 は、須 佐 之 男 尊 の三 男 で大 和 国 の始
に ぎ は や ひ のみ こと
祖王 饒 速日尊 の後 裔 物部 氏一族の穂積 臣 穂( 積真津 を)祖
く ま のむ ら じ
とする熊野連から分族した熊野の鈴木氏一党だったことが
ふじしろうら
に ぎ は や ひ
おおとし
饒 速 日 尊 大( 歳尊 を改 名 は)、八 世 紀 に古 事 記 や 日 本書
紀 が書 かれる迄 は大 和 国 の開 祖 で皇 祖 天 照 魂 大 神 として
大和を初め各地の主要神社に数多く祀られていた 。
鎌 倉 時 代 に源 頼 朝 と不 和 となった義 経 は、源 頼 朝 勢 に
追われ一時吉野に逃れてから熊野を経て紀伊の鈴木家 海(
南市 藤白 に)立ち寄ったとある。その後、鈴木一族を連れて
ひ でひ ら
ひ ご
遠路奥州に逃れ、藤原秀衡の庇護をうけたと云う。しかし
分かった。
紀伊続風土記は、「藤白浦旧家、地士鈴木三郎。鈴木氏
秀衡の死後、藤原泰衡に襲われ、平泉の衣川館で義経と共
や す ひら
は熊 野三旧家の一つなり。この地、古 へ熊野神領となり、鈴
に討 ち死にした家 来 の鈴 木 三 郎重 家 、亀井 六 郎 重 清 兄 弟
ひ でひ ら
木 一 族 が地 頭 となりてこの地 に移 りしならん」と記 してい
もこの地に祖をもつ人物だったと伝えている。
いにし
る。
また、鈴 木 氏 は全 国 に三 千 三 百 もあると云 われる熊 野
に ぎ は や ひ のみ こと
神 社 で熊 野 信 仰を広 めた全 国 鈴木 姓 の元 祖 とも云 われて
いる。
ふじしろ
海南 市 藤白 に在る藤 白神 社は、鈴木氏が饒速 日尊 を氏
神 として祀 り、境 内 には「藤 白 皇 大 神 社 」と彫 られた大 き
な自 然 石 の標 柱が今 も建 っており、同 神社の傍に鈴 木家の
屋敷跡が残っている。
- 35 -
29)
根来衆の武装集団化
だ いが ら ん
よ
も
室町時代になり天下が大いに乱れ、根来山大伽藍、及び
か わ ち
い ず み
根来寺衆は河内国・和泉国に進出するようになった明応
ひ
ね
ひ
ね
の
いり や ま だ
い
す ぎ の
せんしき
さ いぞ う
八
年 十 二 月 三 日 、「根 来 寺 衆 が近 日 、五 百 人 ばかりで
(
)
あ
か い
河内国に入ると云う。この年、根来寺の閼伽井坊が和泉国
か
領 内 の者 は常 に兵 具 を帯 びて防 衛 し僧 徒は兵 力 を四 方 に
よう へい
あ
日根荘日根野村・入山田村の代官職を獲得した 」とある。
よう へい
輝かした。寺 僧衆 ばかりでなく、外 部から多数 の傭 兵 が集
せ いし ん
当 時、根 来 寺 内 には、閼伽 井 坊 、杉 之坊、泉 識坊 、西蔵
院、成真院等が在り、これら院坊の僧兵を中心とした軍事
す ぎ のぼ う
集団として、いわゆる根来衆が形成されていた。
あわむら
さ いぞ う
杉 之 坊 は那 賀 郡 小 倉 荘 の土 豪 津 田 氏 の坊 舎 であ り、
せんしき ぼ う
泉 識 坊 は海 部 郡 雑 賀 衆 の一 人 ・粟 村 の土 豪 土 橋 氏 、西 蔵
い と く
い わ せ
ゆ わ せ
院は和泉 国佐野荘の土豪 藤田 氏、成 真院は和 泉国 熊取荘
の土 豪 中 氏 、威 徳 院 は名 草 郡 岩 橋 荘 の土 豪 湯 橋 氏 のそれ
ぞれ坊舎となっていた という。
し ゅ ご はたけや ま ひ さ の ぶ
し ゅ ご
ぶ ん ち
みなもとのよりとも
国守護畠山尚順に加勢するようになった。
守 護 とは、文 治 元 ( 年) 、源 頼 朝 が朝 廷 に奏 請 して諸
国 に設 置 した鎌 倉 ・室 町 幕 府 の職 名 である。大 番 の督 促 、
謀叛人・殺害人・盗賊の検断などに当たらせた。のち一般の
- 36 -
12)
1499
各 地で領土争いが頻 発したこの頃から根来 寺衆は、紀伊
12)
1185
められていたとみられ、いわゆる傭兵軍団でもある。
▲ 火縄銃を撃つ僧兵軍団(イメージ)
治 安維 持 も司り、社 寺や 駅 路の取 り締まりにも当 たった。
し ゅ ご し き
室 町 時 代 には強 大 な守 護 大 名となり、守 護 職とも呼 んだ
。
はたけや ま ひ さ の ぶ
12)
ぶ ん き
ま た、「文 亀 二 ( 年) 七 月 二 十 一 日 、近 日 、根 来 寺 が
ほ う き
うわさ
そう ぶん
蜂 起 す るとの噂 はす でにある。そこで奉 書 を惣 分 根( 来 寺
はたけや ま ひ さ の ぶ
あ
み
だ
ぶ
つ
たことについて堅 く 守( 護 畠 山 尚 順奉行 人から お)尋 ねある
ので申 し上 げ る。一 、百 十 二 貫 文 明 応 七 年 十 一 月 支 払
ね ん ぐ せ ん
い。この内 六 百文 は借 状 外 である。我らの使 者 と阿 弥 陀 仏
が借用 した。名草郡田屋 荘が納 める年貢銭 のこと。請け前
は五十八貫文である。
一 、四 十 二貫 文 明 応 八 年 年 貢の定 め。これは付 け方 並 と
申されて十六貫文を引かれた。
一、二十九貫五百文 夏十九貫五百文の分、秋半済 を引い
て残り十貫文 明応九年の分定め。合わせて七十一貫五百
ひ ね し ょう
の行 人 に)遣 わす 。使 者 は山 田孫五 郎。和泉 国日根 荘日根
村 ・入 山 田 村 のこと。去 年 詳 しく仰 せ下 さ れたが、近 日 に
ふう ぶん
文。前 のを引 き、残 って四 十一 貫 百 文の借り銭を下 さ れる
じね ん
在 荘 していない事 は自 然 のことと同 じく、その意 を得 られ
く じ ょう ま さ も と
し った つ
かんじょう
べきである。明応九年五月五日 草内源衛門尉 花(押 。き
) っ
と か く
と兎 角 申 さ れても、この他 には一 銭 もない。とくに申 さ れ
て借り状に判形 押(印 を)している。それ以後は算用 清(算 し)
つぶさ
ていない。御 心 得 の為 、具 に申 し上 げる」由( 良興 国 寺 文 書
まがごと
るべき旨 、摂 関 家 九 条 政 基 の命 令 である。そこで執 達 この
る事 あれば曲 事 不( 正 と)す べきである。明 応八 年 に勘 定 し
伝法院惣分沙汰所宛て 」とある。
ところで、根 来 寺は高 利 貸 も行 う よう になったことが次
そ う な いげ ん え も ん のじ ょう
しゃく せん
の「草内源衛門尉申状」から伺える。
と)みえる。
え いしょう
ひ さ のぶ
永 正元 ( 年) 九 月十 五 日 、守護 畠 山 尾 張 守 尚 順 が紀 伊
1504
ぶ ん き
通 り。文 亀 二 年 七 月 二 十 一 日 。 竹( 原 定) 雄 奉 。根 来 寺 大
そ う な いげ ん え も ん のじ ょう
根来 衆が入 国との風 聞のことを重ねて申 す由である。まだ
1502
明 応 九 ( 年) 八 月 三 十 日 、守 護 畠山 尚 順 が和 泉 国 に出
陣するにあたり、根来寺衆数千人が加勢した と云う。
1500
「草内方から根来寺へ借銭案文。名草郡田屋荘が借銭し
12)
12)
- 37 -
13)
国 から出 張 して和 泉 国 日 根 郡 新 家 村 に到 り、遊 佐 氏 の勢
か
い
せんしき
が昨 日、土 生城に到 着 中( 略 。)九月十九日、根来衆で和泉
国 に所 領 を 持 ち 知 行 す る者 ど も は今 日 出 陣 し根 来 寺
あ
か いじ ん
が ら ん
聞院日記・田辺市史四 。)
こう して紀 州 根 来 寺 衆 は武 力 集 団 となって紀 伊 国 周 辺
にその勢力を拡大していった。
( 年) 、よう やく竣 工し
こうしたなか、根来寺では伽藍のシンボルでもある大塔の
ぶんめい
1547
閼 伽 井 坊 も今 日 出 陣 す る。泉 識 坊 は和 泉 に知 行 地 はない
てんも ん
建 設が、室 町 時代後 期の天文 十六
ひ さ のぶ
が、畠山尾張 守尚順から給 分を紀州に於いて与えられてい
た。
せんしき
てん も ん
る。そこで泉識坊も今日出陣という 。
い ち の せ
さ
め いお う
てんぶん
また、根 来 寺 衆 は野 上 八 幡 にも侵 攻 した。天 文 十 ( )
年 、根 来 寺 の衆 徒 が不 意 に襲 い来 て野 上 八 幡 宮 の所 々 に
放 火し、社殿・堂舎 が総 て灰燼と化した。これによって神宝
てん も ん
・文 書 に至 る迄 す べて焼 失 し神 事 ・祭 礼 は廃 絶 した として
いる。
あ い す
・愛 州 氏 ・一 之 瀬 氏 をそれぞれ大 将 とす る一 万 騎 、根 来 ・
高 野 山・粉 河 三 カ寺の衆 それぞれの一 味 同心、また宇 治に
ゆ
21)
1541
これに加え、天文十一 ( 年)三月十三日、紀伊国守護畠
たねなが
く ま の
りゅう じん
た ま き
山 稙 長が紀伊 国熊 野衆 の龍神 氏・山本 氏・玉置氏・湯川氏
1),9)
在る四組の大将、その勢一万騎を従え、合計三万騎で河内
▲ 根来寺 大塔
天 文十六(1547)年に竣工
51
- 38 -
12)
文 明 十 二 ( 年) に建 築 資 材 の収 集 が開 始 さ れ、明 応 五
( 年) の大 塔 心 柱 の立 柱 同( 心 柱 墨 書 か)ら実 に 年 めに
1480
12)
国へ入国する旨、決まったため遊佐氏も同心した 興(福寺多
18),21)
1496
1542
あたる。
いた ぶ き
かわらぶき
しかしこの時 はまだ屋 根 は板葺だった。瓦葺 となったのは
来た由 」と。
え いろ く
さ らに、「永 禄 五
じっき ゅう さ い
和泉国久米田 岸(和田市 と)云う処である。畠山高政・根来
寺 衆 ・安 見 衆 が相 談 して俄 に打 ち出 る。・・・数 刻 合 戦 した
はた け や ま た か ま さ
( 年) 三 月 五 日 、三 好 実 休 斎 の陣 所 は
永 正 十 二 ( 年) 、その後 、三 十 二 年 を経 て扉 ・天 井 などの
と そ う
造 作 や 塗 装 が施 さ れたと云 う から、大塔 建設 計 画 から完
じっき ゅう さ い
か
はた け や ま た か ま さ
え いろ く
鉄 砲 の導 入 と国 産 化 に尽 力した津 田 監 物 算長 は、永 禄
撃たれて帰った」とある。
和泉国の衆・根来寺衆が一味 仲(間 し)て河内国へ出陣。そこ
で三 好 方 も高 屋 城 から出 陣 し鉄 砲 戦 ばかりにして双 方 が
るが、永禄九年二月十三日には、「畠山高政・安見美作守・
え いろ く
来 て、三 好 氏 三 人 衆 と対 面 、挨 拶 を交 わして帰 った」とあ
永 禄 六 ( 年) 十 月 十 六 日 、「・・根 来 寺 の三 人 の大 将
す ぎ のぼ う
いわ む ろ ぼ う
せ ん じ つぼ う
杉之坊、岩室坊、専実坊が根来寺衆を率いて和泉国の境に
え いろ く
みえる。
と根 来 寺衆がこの由を聞 き、忽 ち散りじりに落ち行 く」と
たちま
に三 好 氏 が斬 りかかり六 百 余 人 を討 ち取 った。・・安 見 方
教 興 寺 にて紀 州 の湯 河 方 ・根 来 寺 衆 が陣 取 っていたところ
ところ根 来 寺 衆 が敗 れて引 き退 る。五 月 二 十 日 、河 内 国
え いしょう
1562
12)
成までに実に六十七年を要した大事業であった。
( 年)に国宝に指定された 。
はた け や ま た か ま さ
現存する木造建造物としては国内最大のもので、昭和二
十七
え いろ く
み よ し ち ょう け い
き
平 らげ、和 泉 ・河 内 国 を掌 握 しよう として諸 所 の麾 下 家(
く な い の す け ま さ より
ともあき
来 を)召集した。まず畠山宮内少輔政頼、中(略 、雑
) 賀の鈴
しげ むね
しげ も と
たねおき
木 孫 九 郎 重宗 ・鈴 木 孫 市重 意 ・土 橋 小 平 次 種 興等 一 千 八
お お き
百騎、・・根来衆徒七百騎、根来大来左京亮友章八十六騎
・・その勢、都合二万千四百騎 」
とみえ、同年十月十五日、
はた け や ま た か ま さ
人 が戦 死 した。この他 、生 け捕 られた者 七 人 が三 好 氏 方 へ
1563
21)
「畠山高政が大軍を集めて三好長慶・実休斎兄弟を打ち
1560
「根 来 衆 が守 護 畠 山 高 政 殿 に合 力 して切 り負 け、八 十 九
12)
- 39 -
1515
永 禄 三 ( 年) 二 月 、根 来 寺 衆 は紀 伊 国守 護 畠山 高 政 に
くみ
与して和泉・河内国に出陣した。
1952
十
( 年) 十二月二十九日、那賀郡小倉の居館で没した。行
歳であった。天下戦国の時代にあって、幾多の群雄たち
同 年八月 二十 八 日「織 田信 長は摂津 国 天王 寺に陣取る由
である。・・・根 来寺衆 ・宇 治 ・雑賀衆 まで出陣 さ せる由 、根
来寺衆に先 陣の沙汰をする由である。・・・根 来寺衆は出陣
年
が非 業 の死 を遂 げていたなか、家 族に見 守 られながら静 か
した由、八 千 余と云 う 。八 月 三 十 日 、・・・紀 州根 来 衆 の岩
い
( 年) 五 月 四 日 。織 田 信 長 花(
じ よ う ど し ん しゆ う
め いお う
れんによ
てんぶ ん
てんしよう
1532
( 年)に
1580
合わせ乍ら、表向きは信長に加勢と唱えて、その勢一万ば
「紀州根来寺・雑賀の者どもは、かねて心を石山本願寺へ
が、実は信長に刃向かうつもりだったとも云う。
根 来 寺 衆 や 雑 賀 衆 はこの時 、信 長 に味 方 して参 戦 した
焼失した。
石山本願寺も織田信長との石山合戦の末、天正八
いし や ま ほ ん が ん じ
浄 土 真 宗 の寺 で、明 応 五 ( 年) に蓮 如 が開 き、天 文 元 ( )
や ましな
年 、山 科 本 願 寺 が焼 失 したのち 本 寺 と な った 。しか し
1496
石 山 本 願 寺 は、後 の大 坂 城 本 丸 にあ たる地 にあ った
いし や ま ほん が ん じ
のことである。
砲二 千挺 」とあり、これは信長 の大坂 石 山本 願寺 攻めの時
十 二 日 、・・・根 来 寺 衆 ・雑 賀 衆 一 万 余 が参 戦 、この内 に鉄
室坊・杉之坊が五千人を率いて織田信長勢に加わる。九月
に昇天したのは幸せの最期だった。
そ
長 が、守 護 畠 山 昭 高 に宛 てた書 状 に、「・・・紀 州 根 来 寺 が
根 来 寺 衆 はまた織 田 信 長 にも味 方 したとみえ、織 田 信
▲ 根来寺の僧兵(イメージ)
協 力 申 す 旨 は当 然 である。・・信 長 においては毛 頭 も疎 意
げ ん き
)畠山左衛門守昭高殿」とあり、
不( 信 は)ない云 々 。元 亀 元
押
1570
- 40 -
69 1567
かりが大 坂 と中 之 嶋 の中 間 に陣 取 り、鉄 砲 に弾 を込 めず
た者が恐 れて退 散した。根来寺僧 徒が来て信長に拜する。
江 に到 着 。このため紀 州雑 賀一 揆 で和 泉国 貝 塚 を守 ってい
たま
に石 山本願寺に向けて放ち、互いに合図の言葉を定めて夜
そこで諸 将に使いして一 揆 を分け攻 める。諸 城 が落 ちた天
き
行を厳 しくし、もしよい隙 あれば信 長の本 陣に斬りかかろ
すき
うと時節を待って控えていた 」との文書が残っている。
した 」と。
き ょう き ょう き んげ ん
ご ゆ だ ん
であるから無人にて軽々しく、もし御出勢ならねば失礼と
のぶ ひ で
「天 正 五 ( 年) 二 月 二 日 、紀 州 雑 賀 のう ち三 組 の者 、及
び根 来 寺 杉 之 坊 が、信 長 の雑 賀 一 揆 攻 めに味 方 として出
の ぶ お
なるだろう 。根 来 寺 が御 手 間 を入 れられないので、差 し急
のぶ た だ
陣 す ると御 請 けしたので、信 長 が二 月 十 三 日 に御 出 陣 に
味 方 して参 陣 している。金 剛峯 寺 も御 出 勢 して上様 信( 長 )
に御 協 力す るのが良 い。信 長 軍 の御 人 数 はことのほか大 軍
うえさま
長 が和 泉 国佐 野 荘 から出 発 さ れた。根来 寺 は織 田 信長 に
「急ぎ申し上げる。紀州雑賀一揆を御成敗のため織田信
ご せ いは い
金剛峯寺に宛て次のような書状を送った。
根 来 寺 の快 宥 は、今 度 は信 長 の高 野 山 攻 めを懸 念 して
か いゆ う
正五
年 三 月、一 揆 の将 鈴木 孫 一 ・土 橋 平次 ・岡 崎 三 郎
(
)
が いせ ん
大夫らが降参した。信長は紀州の政事を沙汰して後、凱旋
根 来 寺 衆 は天 正 三 ( 年) 、粉 河 寺 衆 とも合 戦 した。「根
せんしき
す ぎ の
来 寺 方 の大 将 は泉 識 坊 雑( 賀 荘粟 村の土 橋 氏 ・杉
) 之 坊 那(
こ だ ま
賀 郡 小 倉 荘 の津 田 氏 の) 両 人 。粉 河 寺 の大 将 は 児 玉
じ ん う え も ん
かく お う
甚 右 衛 門 と 別 当 御 池 坊 の覺 翁 の両 人 であ る。御 池 坊 の
かくおう
覺翁が粉河寺衆徒を引き連れて戦い、遂に戦死した」粉(河
1577
がれれば貴 金( 剛 峯 寺 寺) の御 為 に御 油 断 あ ってはなら な
寺御池坊文書等 と)ある。
くみ
さ い か い っ き
また、根来寺衆は信長に与 して雑賀一揆も攻めた。
1)
12)
なられる趣 を国 々 へ仰 せ出 さ れた」とあり、「織 田 信 長 が
じょう ら く
- 41 -
1575
い。恐 々 謹 言 。天 正 五 ( 年) 二 月 十 八 日 。根 来 寺 老 衆 中 ・
か い ゆ
そう ぶん さ た し ょ
書 意 衆 中 ・快 宥 判( 。)金 剛 峯 寺 惣 分 沙 汰 所 御 坊 御 同 宿
12)
上 洛 上( 京 し)、子 息 信 忠 、及 び信 雄・信 秀 らを使 者 とした
将 兵 が紀 州 雑 賀 一 揆 を攻 めた。・・信 長 が続 いて河 内 国 若
1577
1577
中」と。
のぶ は り
ところで信 長は何 を心 配 してか、弟 の信 張 に次 のよう な
朱印状を送っている。
「その方、しばらく待ってから諸卒を在陣させよ。雑賀三
中野城 紀(ノ川北 が)降参し赦免した。直ちに中野城を城之
かず ま さ
介 織(田信忠 が)御請け取り、御居陣とした」信(長記 。)
根 来 寺 杉 之 坊 は和 泉 国 佐 野 城 を守 った。佐 野 城 には津
油 断 してはならぬ。織 田 信 忠 ・信 雄 両 人 に申 し伝 えよ。天
すこと。それに従って加勢する。また信長軍も馬を進める。
組 の者 、及 び根 来 寺 衆 の動 向 を急 度 見 極 めてから申 し越
るから 命 を 助 けて欲 しい旨 、言 上 し、織 田 信 長 が了 承 し
「天正五 ( 年) 三月一日、信長軍が雑賀一揆の居城を攻
め、鈴 木 孫 一 が降 参 、所 々 残 らず 放 火 し男 女 を切 り捨 て
を任された。
田太郎左衛門算正・杉之坊 津(田昭算か が)、信長から采配
正五 ( 年)二月二十日」と。この文面だけでは警戒の本意は
分 からないが、おそらく雑 賀 三 組 衆 や 根 来 寺 衆 の寝 返 り
き っ と
12)
た。鈴木孫一・岡崎三郎大夫が、石山本願寺に味方を止め
かず まさ
た。和 泉 国 佐 野 城 に津 田 太 郎 左 衛 門 算( 正 ・杉
) 之 坊 津( 田
こ う の し ょう
氏 を)添え置かれ紀州の仕置きを仰せ付け、三月二十七日
に近 江 国 安 土 城 に帰 られた」とあり、別 の文 書 には「三 月
よう がい
要害 城( を)構えた。津田太郎左衛門・杉之坊を入れ置かれ
た」とみえる。
二 十 一 日 、信 長 は陣 払 いさ れて和 泉 国 香 之 荘 岸( 和 田 市
こ う の
とう りゅう
神 於 か に)陣 を取 る。三 月 二 十 二 日 、逗 留 あって佐 野 郷 に
久間右衞門 信( 盛 ・羽
) 柴筑前守 秀(吉 ・荒
) 木摂津守 村(重 ・)
別所 孫 右衛門 重( 宗 ・堀
) 久太 郎 秀( 政 が)、雑 賀荘内に乱入
し端々を焼き払った。
また、先に降 参した雑賀 一 揆衆は命 乞いした謝 礼に、信
た ん のわ
- 42 -
1577
二 月 二 十 八 日 、和 泉 国 淡 輪 まで信 長 が陣 を進 め、紀 州
山 手 へは根 来 寺 杉 之 坊 と雑 賀 三 組 衆 が案 内 役 となり、佐
め、浜 手 ・山 手 の両 方 に分けて御 人 数 をさ し遣 わさ れた。
「同 月 二 十 二 日 、織 田 信 長 が和 泉 国 信 達 荘 へ御 陣 を進
を懸念してのことと思われる。
1577
た。その意を得られよ。
一 、紀 州 雑 賀 荘 から 黄 金 十 枚 、及 びその方 へ二 枚 が届 い
いたし紀ノ川南の清水まで追い返した 金(剛峯寺文書六 と)
は東 家 表の持ち口 、麻 生津口は中村 孫 平治 殿 と根来 寺 連
高野山攻めに参加した。中(略 信)長殿から派遣の軍勢は松
山新介・烏帽子方衆で、生地氏の持ち口、隅田党二十五人
長のもとに参上した旨の書状にみえる。
一、雑 賀 鈴木 孫一 重( 秀 が)参 上し、益々忠 節に励む旨 を
(
)
しんみ ょう
申し入 れた。神妙 け(なげ の)由 を、よくよくその方に於いて
伝えている。
ゆう そん
この翌 年 二 月 、金 剛 峯 寺 惣 分 沙 汰 所 の祐 尊 は次 のよう
そう ぶん さ た し ょ
判衆、その他の侍衆の持ち口であった。・・・高野山衆と合戦
と う げ
も申し聞かれたい。
一、根来寺・粉河寺、その他へも一札を遣わす。さらに心得
さ ひ ょう え
つ だ の ぶ は り
な 書 状 を 神 野 荘 美( 里 町 神 野 の)神 野 氏 と 高 野 山 惣 分
も ん じ ゅ いん
文殊院宿所宛てに送った。
き っ と
て聞かれたい 後(略 。)
さ ひ ょう え の す け
天 正 五 ( 年) 五 月 二 十 日 。信 長 判( 。)津 田 太 郎 左 兵 衛 佐
のぶ は り
「急 度 、申 し入 れる。佐 兵 衛 殿 信( 長 の弟 津 田 信 張 が)、
根 来 寺 ・粉 河 寺 ・雑 賀 衆 とす べて打 ち合 わせ、近 日 に高 野
う じ と し ゅう
の覚 え メモ 、那 賀 郡 真 国 荘 百 丁 ・氏 人 衆 三 十 丁 、那 賀 郡
(
)
し
が
の
こ う の
志 賀 野 村 五 十 丁 ・氏 人 衆 二 十 丁 、那 賀 郡 神 野 荘 二 百 丁 ・
ま く に
山へ攻撃を加える由、あらまし申して来た。それにつき鉄砲
り、根来寺が金剛峯寺とは同心しないと堀秀政に回答し、
氏人衆八十丁、那賀郡小川荘五十丁。
天正九 ( 年)十月二日、「織田信長による紀州伊都郡高
野 山 攻 めの先 陣 、堀 久 太 郎 秀 政 が根 来 寺 のほとりに留 ま
根 来 寺 は杉 之 坊 ・泉 識 坊 から三 百 五 十 六 人 の人 質 を出す
右の荘々を 悉 く召し連れられ、敵方 信(長軍 の)攻撃次
第 に工 面 す るのはこの時 である。誠 に度 々 の御 手 柄 は、と
ことごとく
こととなった 。そして天 正十 ( 年) 、紀 伊国守護 畠山昭高
す
だ
が死 去 した後 、伊 都 郡 の隅 田 一 党 は織 田 信 長 に味 方 して
4)
1582
- 43 -
12)
信(張 殿)」と。
織田信長はいよいよ高野山を攻めることとなった。
1577
1581
そう ぶん
ぎ ょう にん
もに惣分 高( 野山 行人 =寺 院や法 会の雑役・俗事に従事し
せ出されるには、紀州の根来寺・粉河寺・雑賀一揆どもが、
いる。・・・紀 州 一 揆 の抑 えとして、和 泉 国 岸 和 田 に中 村 式
秀 吉 の御 下 知 に従 わないので、近 頃 、曲 事 に思 し召 さ れて
た下 級 の僧 侶 において満 足 している。いず れもこれから使
)
そう ぶん
者 をもって申 し入 れる。昨 日 から惣 分 の坊 主 衆 ・老 衆 ども
部 一( 氏 を) 配 置 す ると仰 せられた。 中( 略 紀) 州 一 揆 ども
は、根 来 寺 衆 と雑 賀 衆 が申 し合 わせ、和 泉 国 へ出 陣 し、中
あ ま の に う み ょう じ ん
が天 野 丹 生 明 神 かつらぎ 町 天 野 の)御 神 前 において集 議
(
ゆ だ ん
し、この通 り決 めた。益 々 御 油 断 ないよう 専 念 す べきであ
ゆう そん
村 ・沢・田 中・積 善寺 ・千石堀の五カ所に付 城を造 り、岸和
き ょう き ょう きんげ ん
防戦した 」と、記されている。
陣 した。その年 中 は岸 和 田 城 主 中 村 式 部 の軍 勢 が骨 折 り
池 坊 、雑 賀 ・中 村 ・木 本 ・的 場 ・湯 河 氏 が、罵 って皆 一 味 出
紀 州 一揆の大 将は、根 来寺 杉 之坊 ・赤井坊 ・粉河 寺の御
田城とは五十町ばかり隔てて日々対戦があった。
( 年)二
る。恐々謹言。金剛峯寺惣分沙汰所祐尊。天正十
戦闘武器として備蓄していたことを示している。
あ け ち み つひ で
ところが同年六月二日、戦々恐々としていた高野山にと
しら
っては思 わぬ報 せが入 った。織 田 信 長 が家 臣 の明 智 光 秀 の
む ほ ん
謀叛によって本能寺で自害した のである。高野山下に包囲
網をつくって攻 撃戦を構 えていた織田 軍は一斉 に引き上げ
たからである。
一 方 、根 来 寺 衆 と秀 吉 軍 の関 係も穏 や かならぬ状 態 と
なってきた。
こ ま き
根来寺衆は徳川家康に味方することとなった。
か ず え のか み ま さ な り
「天 正 十 二 ( 年) 四 月 に徳 川 家 康 が尾 張 国 小 牧 に在 陣
は し ば ひでよし
して羽 柴 秀 吉 と の作 戦 の時 、味 方 す る よう に と 井 上
主計 頭正就 を使者 として仰せ下されたので、根来 寺・宮之
か いぶ ん
郷 ・雑 賀 中 之 郷 ・海 部 郡 貴 志 荘 らの地 士 どもへ、太 田 氏 か
ら 廻 文 を 遣 わ し、太 田 左 近 ら 都 合 三 十 六 人 、根 来 寺 の
- 44 -
月四日。那(賀郡神野荘 神)野殿・高(野山惣分 文)殊院御宿
所宛 」と。この頃はすでに鉄砲が多 量に出回り高野山でも
も ん じ ゅ いん
1582
「・・・秀 吉 から尾 藤 甚 右 衛 門 ・戸 田 民 部の御 使 者 にて仰
1584
16)
12)
19)
せんしき ぼ う
て切 腹させられたことは、けしからぬことと存じる。中( 略 )
去 る三 月 二十 二 日、和 泉 国 に至 り、根 来寺 ・雑 賀 ・玉置氏
てい
泉 識 坊 土( 橋 氏 ら) 五 人 が日 前 宮 に集 まり一 味 し、太 田 氏
こ ま き や ま
から 血 判 した書 札 を書 き、小 牧 山 へ飛 脚 として太 田 荘 の
さ
・湯 河 氏 、その他 一 揆 三 万 ばかりに取 りかかったところ岸
け
まで存分 に攻 略す るよう申しつけた 後( 略 。天
) 正十二年三
そ う こう じ
惣 光 寺 住 職 が袈 裟 の中 にこれを縫 い込 み修 行 僧 の体 に見
ち捕らえた。その勢いをもって敵城を残らず乗っ取り、紀州
預けた。日 限を決めて和 泉 国 へ出 陣した。根 来寺 衆 は和 泉
和 田 城 に在 番 の者 が斬 り懸 かり、一 揆 勢 の首 五 千 余 を討
せかけ家 康 方 に差 し上 げた。中 略 そして、家 康 の御 朱 印
(
)
せんしき ぼう
状 を竹 の杖 に入 れて持 ち帰 り根 来 寺 へも廻 文 し泉 識 坊 に
国の堺に陣取った 」と云う。
月二十六日 。秀吉 花( 押 ) 佐竹 義( 重 殿) へ参る」とみえる。
この時 根 来寺 衆は徳 川家 康 の内 命 に従 って、秀 吉の要害 と
なっていた泉州岸和田城まで進攻していた とある。
ほ う び
る。
ほ う び
り 。天 正 十 二
ちかまさ
あ て が
いこ ま じ ん す け
( 年) 四 月 十 二 日 。秀 吉 判( 。)生 駒 甚 介
親(正 殿)」と。
と さ のく に
ち ょ う そ か べもとちか
根 来 寺 衆 はこの頃 、土 佐 国 高( 知 県 の)長 宗 我 部 元 親 と
- 45 -
一方、秀吉 軍側の立場で書かれた文書には、「この頃、和
泉国に出陣の根来寺衆・雑賀衆を成敗する由である。羽柴
いこま じ ん す け
衆としては成 敗 ないことを懇 望 し和 泉 国の知 行は望 んでい
討 ち崩 し、首 を 数 多 く討 ち捕 ら え比 類 がない。そのため
そしてこの時活躍した生駒甚介に秀吉が褒美を与えてい
る。羽 柴 筑前 守 秀( 吉 は)同 意する筈 はないと云 う。三 月二
十 三 日 、和 泉 国 岸 和 田 において秀 吉 軍 は合 戦 し紀 伊 国 一
褒 美 として二 千 石 を宛 行 う 。全 く領 知 してよい状 、この通
羽 柴 秀 吉 書 状 によると、「前 略 この度 、徳 川 家 康 が表
(
)
かす
裏 を構 え、織 田 信 雄 と云 う 若 輩 の仁 を申 し掠 め、去 る天
正 十 二 年 三月 六 日 、譜 代の家 老 三 人を伊 勢 国 長 嶋におい
1584
12)
「この度、和 泉国に至り、根 来寺衆 ・雑 賀衆 ・湯 河氏らを
揆衆の多くが討ち取られ敗戦した 」とある。
秀 吉 が諸 国 の軍 勢を大 坂 に集 結 さ せると云 う 。・・根 来 寺
1)
12)
もとちか
同 盟 の密 約 を結 んで秀 吉 軍との対 戦 に備 えていたのか、あ
るいは元 親 は秀 吉 の四 国 遠 征 を根 来 寺 衆 に阻 止 さ せよう
とした記録 もみえる。
幸 か不 幸 か、鉄 砲 を手 にした根 来 寺 衆 は進 んで戦 陣 に
挑んだ。
しかし戦 場 が根 来 寺 領 域 にまで及 んで猛 威 を振 るう よ
うになり、知 らず知 らず のうちに破滅 の道 を歩 んでいたと
云える。
- 46 -
12)
ご
其 が根 来 寺 を訪 れ和 睦 を斡 旋 した。しかし根 来 寺 行 人 方
それを聞いた秀 吉 は怒 り、天 正十 三 ( 年) 、総勢 十 万 三
千五 百余人という大軍をもって根来寺を攻めた。秀吉軍の
てんしよう
根 来 衆 は、羽 柴 秀 吉 陣 営 と織 田 信 雄 ・徳 川 家 康 陣 営 の
兵 火 により大 塔 、大 伝 法 院 、弘 法 大 師 堂 を残 して焼 失 し
おう ご
年、長谷寺蔵 。)
のなかに斡旋案に反対し反対する者が居て、夜中に應其の
おう ご
秀吉の根来寺焼討ちと寺僧衆の逃亡
お わ り のく に
宿所 を鉄 砲 で襲った。應 其 は急いで京都 に向 かった 智( 積院
と く が わ いえ や す
さ きにみたように、天正 十 二 ( 年) 、徳 川 家康 は尾 張国
こ ま き
な が く て
いのう え か ず え のか み
小 牧 ・長 久 手 合 戦 に当 たり、井 上 主 計 頭 を紀 州 に遣 わし
さ い か
日誉記・根来寺破滅因縁:寛永
そ う へい
根来寺の僧兵と雑賀の武士を招いた。根来寺は家康の要請
間で行われた戦 役のなか、秀 吉の留 守を狙って岸 和 田城 に
た。いわゆる秀吉の根来攻めである。この時の模様が紀伊続
に応えて軍兵を差し向け、秀吉軍を牽制たという。
攻城戦を仕掛けた。しかし城兵八千による対抗で敗 退、根
風土記 に、次のように生々しく記されている。
け ん も つか ず ま さ
は し ば ひ でよ し
来 寺 衆 の大 将 津 田 監 物 算 正 は敗 れて所 領 を没 収 さ れ、の
は し ば ひ でよ し
さ なだゆきむら
て ん しよう
しょう さ ん
はしば ひでよし
え だじろ
た。津田監物とは杉坊二代院主 照 算その人であった 」と云
しょう さ ん
多 の剛 敵 を討 ち取 りながらも遂 には増 田 長 盛 の手 に斃 れ
たお
このとき根 来 寺杉 坊 照 算 は、「鬼 神 のごとく荒 れ狂 い幾
たと云う。
二 百 人 、畑 中 には千 五 百 余 人 。沢 村 には六 千 人 が籠 城 し
ろう じよう
「天 正 十三 ( 年)三月二十一日、羽柴秀吉が兵を進め根
つけ じ ろ
しや く ぜ んじ
来 寺 の付 城 を討 つ。根 来 寺 は泉 州 積 善 寺 へ新 たに兵 を加
ちに名草郡松島村に住んだ 。
1585
織 田 信 長 の没 後 、羽 柴 秀 吉 が天 下 統 一 を目 指 していた
1585
1)
え、その勢 は合わせて九 千 五 百 人 。その他 の枝 城 高 井 には
はしば ひでよし
有していた。
羽柴秀吉は、真田幸村を遣いとして、「根来寺領すべてを
没 収 し新 たに二 万 石 を与える」と説 いた。しかし根 来 寺 衆
徒は聞き入れなかった。
おう
また、その年 三月 上 旬、秀吉 の使 者として高野 山の僧應
27)
- 47 -
13
1584
この頃 には根 来 寺の僧 徒 は勢 力 を拡 大 し寺 領 数 十 万 石 を
1)
しょう さ ん
しや くぜ んじ
う。津田家系譜にも、照 算は泉州積善寺にて討ち死にした
とある。
か も う
う じさ と
なか がわ とう
ただおき
は し ば ち ゆ う な ご ん ひ で つぐ
らくじよう
か ほ う
や
たが落 城 しない。しかし火 炮 鉄( 砲 を) しきりに発 して寄 せ
つ つ い じゆ んけ い
手 が多 く討 たれた。攻 めあぐんでいたところ、筒 井 順 慶 が
ひ
火矢 を放 っ
しや く ぜ んじ
せんご く ぼ り じよう
はしば ひ でな が
三 月 二 十 二 日 、秀 吉 が十 万 の軍 勢 を率 いて発 向 した。
え ひ でまさ
たかや ま う こ ん ともあき
はまじよう
せ ん ご く ぼ り じよ う
は せ が わ とう ご
や
り 、た ち ま
火 矢 が当 た
ひ
炮 薬 箱 に
ほう や く
た 。城 中 の
ふくしよう
おい
副将 大納言 羽柴 秀長 秀( 吉の異父 弟 ・羽
) 柴中納言秀次 秀(
しや く ぜ ん じじよう
来寺へ落ちて行く。
ち捕 らえる。これをみて積 善 寺 城 、その他 はみな落 城 し根
らくじよう
は す べて 討
人 、そ の他
者千六百余
焼死する
しよう し
た。
焦 土 と化 し
しよう ど
こし 城 郭 が
じよう かく
ち火 災 を起
▲ 根来寺の付城配置図
吉 の甥 を) 千 石 堀 城 へ向 かわ せ、細 川 与 一 郎 忠 興 ・大 谷
ぎ よう ぶのす け
のり み ち
じゆ んけ い
あ わ じ のか み
刑 部 少 輔 ・稲 葉 彦 六 典 通 ・筒 井 順慶・佐 々 淡 路 守行 政 ・伊
べ
藤 弥 吉 を積 善 寺 城 に向 かわせ、蒲 生 忠 三 郎 氏 郷 ・中 川 藤
ほ り きゅう た ろ う ひ で ま さ
兵 衛 秀 政 ・高 山 右 近 友 詮 を浜 城 に向 かわせ、長 谷 川 藤 五
ろ う しゅう い ち
こ
郎 秀 一・堀 久 太 郎秀政の一万五千をもって根 来寺へ向かわ
せた。
あ いせ ん いん
時に根来寺愛染院らが立て籠もる千石堀城から五百余
の僧兵が羽柴秀次の陣に横合いから攻めた。
あ きしげ
秀次はこれを見て田中久兵衛吉政・渡瀬小二郎詮繁・佐
お き のか み
藤 隠 岐 守 の兵 三 千 余 をもって堀 秀 政を助 けて根 来 寺 勢 を
討ち破る。
ふんせん
筒 井 ・長 谷 川 両 氏 がこれに続いて奮 戦 し、根 来 寺勢 の首
き
三百余りを斬り、逃げる者を追って千石城をしきりに攻め
- 48 -
34)
せ ん ご く じよ う
き
と
う
し
いつさ い き よぞ う
泉 国 へ陣 取 り 二
十 一 日 に秀 吉 が
出 馬 した。二 十
一 、二 十 二 日 の
間 に和 泉 国 の根
つけ じ ろ
来 寺 方 の付 城 五
カ所 が落 城 し
た 。二 十 三 日 、
秀 吉 が根 来 寺 へ
陣 替 え す る。根
ことごと
ことごと
二十三日夜、根来寺が炎 上した。大伝法院の本堂・多宝塔
来 寺 法師 どもは秀 吉軍 が來攻す る前に 悉 く逃 げ去った。
うにも記されている。
「天 正十三 ( )
年三月二十日、
秀 吉 の戦 陣 が和
1585
秀 吉 は千 石 城 で疲 れた軍 勢を休 息 さ せ、新 手 六万 騎を
こも
遣わし勢いに乗じて根来寺を攻めさせた。根来寺衆は精兵
い ず み の く に せ んご く ぼ り じよう
を選 び出 して和 泉 国 千 石 堀 城 および二 カ所の要 害 に籠 も
らせていたので、根来寺には老僧だけしか残っていなかった。
三 月 二 十 三 日 、大 勢 の秀 吉 軍 旗 が見 えると、根 来 寺 衆
オーと鬨の声 を
とき
は防 戦 の心 なく、ただ人 よりも先に逃 げ支 度を急 ぐ。その
うち寄せ手 の戦 陣 が門 前に至って、オー
こ わ か し ゆ
し
▲ 根来寺焼き討ちの図(紀伊名所絵図)
大塔には龍が巻き付いて類焼を守ったと云う
・弘 法 大 師 堂 ・一 切 教 蔵 は残 ったが、他 は 悉 く 焼 け果 て
- 49 -
挙 げ たので寺 中 は途 方 にく れ た。そ こへ攻 め入 ったので
ろ う び く
老 比 丘 ・児 若 衆 は久 しく住 み慣 れた根 来 寺 を捨 てて逃 げ
去った。
て いた く
お
秀 吉 軍 はついに根 来 寺 に焼 き討 ちをかけ三 昼 夜 の間 に
ぶ つか く
仏閣・亭宅は殆ど焼失した。
しゆう と
根 来 寺 衆 徒 の多 く は 伊 勢 内 宮 の御 師 祈( 祷 師 ・)
は ら ま き た いふ
いわ さ き た いふ
いせ の く に
腹巻大夫・岩崎大夫に年来の因みがあったため伊勢国を目
た い ふ
指 して走 り、その大 夫 によって幾 人 かは命 をつないだ と云
う。
1)
また宇 野 主 水 日 記 ・雑 記 、石 山 本 願 寺日 記 には次 のよ
12)
し ん ぎ
せ い し
あ た ご
けは助 ける。そこで少しも表裏あってはならぬ。もしも表裏
ふ び ん
た。坊 舎 は八 十 ばかり残 る。老 僧 五 、六 十 人 が焼 け跡 へ出
ご し や め ん
あれば大 日 本国 六 十 余州 大 小 の神 祇、とくに氏 神 ・愛 宕・
ことわり
ぎよばつ
はしば ひ でな が
この通 り。天 正 十 三 年 三 月 二 十 二 日 美 濃 守 秀 長 判( )
い ず み の く に し や く ぜ ん じ れ んば んしゆ う ちゆう
和泉国積善寺連判衆 中 」和(歌山市府中太田家文書・紀伊
み のう のか み ひ で な が
白山 権現 ・両 宮 八幡 の御罰を受 けねばならぬ。そこで誓詞
はくさ んごんげ ん
て秀 吉 に 理 を申 し出 たところ御 赦 免 あり。結 局 、不 憫 と
して食物などを与えられたと云う。
この時 、紀 の川 ・貴 志 川 流 域 の堂 舎 の多 くが焼 かれたと
伝 えられ、今 も焦 げ跡 の残 る仏 像 がみられる。たぶん、秀
吉 軍 の手 下 が各 地 の同 社 にまで火を付 けてまわったのであ
那 賀 郡 誌 によると、「この時 秀吉 の根 来攻 めにより、根
ある。
続 風 土記 三・県 史 中世二 と)みえ、羽 柴 秀長 は温情 をもっ
て幾 人 かの命 は助 けたもよう であるが、その氏 名 は不 明 で
12)
と く が わ いえ や す
ひでよ し
来寺 衆の戦 死 者は六 百三 十 余人 。生け捕られた根 来 寺衆
二 百 余 人 と 云 う 。これ 等 は徳 川 家 康 が秀 吉 に願 い出 て
じよめい
え ん ど う や ま し ろ のか み も と の ぶ
助命された」としている。
秀 吉 がその後 、遠 藤 山城 守基 信 に宛 てた同 年 七 月 二 日
ことごと
を高 野 山 へ遣 わした 宇( 野 主 水 日 記 ・雑 記 、石 山 本 願 寺 日
は
付 け書 状 写( に)よると、「去 る天 正 十三 年 三 月 二 十 一 日 、
てき じ ろ
あ ま た
秀吉が和泉国へ出馬するに当たり敵城三つを攻め崩し数多
ことごと
さ い か い つ き
や つこば ら
う
の首 を 刎 ねた。翌 日 、根 来 寺 へ押 し詰 め 悉 く放 火 した。
雑賀一揆の奴原は残らず討ち捨てた 」と書いている。
- 50 -
ろう。
天正十三 ( 年)四月九日、「根来寺大伝法院の本堂を解
ばんしよう
体す べし」との秀吉の命があり、番匠 大( 工 が)七十人ばかり
がやって来た。
9)
記 と)云う。
み のう のか み ひ で な が
ところが、秀 吉の弟 で美 濃 守 秀長の起 請 文 誓( 約 書 に)よ
つか
十 五 人 が池 に身 投 げ自 殺 した。身 投 げしながら残 りの僧
これを見 て、前 に命 を助 けられた根 来 寺 法 師 のう ち三
1585
ると、「秀( 吉 御)出馬の上は 悉 く打ち果たすよう定められ
こんが ん
ているが、最前から筋目をもって種々懇願しているから命だ
12)
12)
かく ばん
こ
ぎ
し ん ぎ
し ん ぎ
余 儀 はない。覚 鑁が寺 を離 山 させたのも古 義 ・新 義 の仏法
ほう ま い
秀 吉 軍 による根 来 寺 焼き討 ちの後 、徳 川家 康 は根 来 寺
ば つ か
を立て分けた為、右の様になったところ、只今また新義の仏
そ う へい
の僧 兵 二 百 人 を選 び、う ち百 人 を幕 下 に召 して俸 米 を与
法 を再 興す ることは一 向 に道理 がない所 となす 。つまりは
き ゆう まい
せ ん き
え、残る百人は後に命 令する筈とした。そして初代紀州藩
事 むつかしく思 し召 さ れるに付 いては、先 規 のとおり高 野
と く が わ よ り のぶ
つか
主 徳 川 頼 宣 は、根 来 寺 の僧 兵 百 人 を召 して給 米 八 石 ず つ
ねご ろどう しん
ご し せ つ
山 から追 放 さ れるべき旨 を仰 せ遣 わす べきである。決 して
き よ う こう き ん げ ん
がく り よね んによおんぼう
浅くない。なお後便を期す」と。
ち し や く いん
げ んゆう
ご お ん も ん
かんちゆう
違 儀 あってはならない。なお御 使 節 へ申 し入 れているので、
ぎ
与えて根来同心と云う。
ご説明あるだろう。恐惶謹 言 天正 十三年七月九日 歓仲
し ゆ ぜ ん に じ
い
なお織 田 信 長の高 野 攻 めのあった天 正 九 ( 年) 、荒 川 荘
す ぎ のぼ う
び ふ く も ん いん
の奥 氏 がかねて根 来 寺 の杉 之 坊 に預 け置 いた美 福 門 院 ゆ
花( 押 ) 金剛 峯寺学 侶年 預御坊へ御返報 。追伸・御音問と
こ し ゆ い つ か
はいりよう
かたじけ
ご こ ん し
して古酒一荷、両種を拝領し 忝 ない。毎度の御懇志のこと
お だ の ぶ な が
かりの修禅尼寺 荒(川荘小林村 の)仏具などが、天正十三年
さ ん いつ
の秀 吉 による根 来 寺 の焼 き討 ちの後 す べて散 逸 した とあ
る。
し ん ぎ し ん ご ん しゆう
こう して高 野 山 に逃 れた根 来 寺 智 積 院 の玄 宥 、及 び小
だ い ご じ
ち さ ん は
許されず、洛外の北野に仮屋を設けて法席を続けた。
ら くがい
そこで玄 宥は、京 都真 言宗醍 醐寺を頼ったものの入寺 を
げ んゆう
として高野山から追い出された。
せ ん よ
ところで高野山に逃れた一部の根来寺衆の扱いについて、
かんちゆう
池 坊 専 誉 は、金 剛峯 寺 の宗 派 と異 なる新 義 真 言 宗 である
は いえ つ
て次のような書状を送っている。
そ んしよ
げ つり ん いん
ち し や く いん
や がて徳 川 家 康 から 豊 国 寺 の名 を 賜 り、京 都 東 山 に
ご い ら ん
つき、 根 来 寺 智 積 院 ・月 輪 院 が金 剛 峯 寺 に頼 られるのは
(
)
み か く
てい
し ん ぎ ぶ つぽ う
先ず身隠しの体である。しかし根来寺の真義仏法を高野山
しつぎ よう
智 積 院 として再 興 し、新 義 真 言 宗 智 山 派 の総 本 山 となっ
ち し や く いん
「尊書を拜 閲し本望と存じる。さて根来寺 が破滅するに
は め つ
秀吉方の出頭人高野山奉行の僧歓仲は金剛峯寺年預に宛
9)
において執 行 す ることは一 山 の衆徒 が御 異 乱ある由 、まづ
- 51 -
1581
た。
せ ん よ
や ま と のく に は つ せ
ぐう きよ
一 方 、専 誉 は大 和 国 初 瀬に在る真言 宗長 谷 寺に寓 居し
こおりや まじょう
は根 来 寺 の山 門 大( 門 を) 大 和 郡 山 城 に移 築 し 多( 門 院 日
記 、根来寺の玄関だった山門がなくなってしまった。
)
かく ばん
思えば、覚鑁の開基 に始まった根来寺は、室町~戦国末
ぶ ざ ん は
す い び
て法 莚 を開 いた。当 時 、衰 微 していた長 谷 寺 は、天 正 年 間
期 までは隆 盛 を誇 って栄 えた。しかし、折 から天 下 大 乱 の
ぼ た ん
せ ん よ
ほう え ん
に専 誉が再 興し新義 真言宗豊山派 の総本山となった。いま
世 に寺の防備 に備 えた僧 兵衆 と監 物算長 や杉 の坊 明算 ら
ら い ゆ
めざ した法 会 や伝 法 による仏法 僧 の育 成と民衆 の人 心 救
かくばん
め いさ ん
では牡 丹 の名 所 としても有 名 で西 国 三 十 三 所 の第 八 番 札
による新 兵 器 鉄 砲 の導 入 で、開 基 覚 鑁 や 中 興 の祖 頼 瑜 が
かず なが
所 になっている。
が ら ん
済理念とは裏腹に、寺僧衆は武力集団と化していった。
秀吉 は根 来寺 焼き討 ち後 、粉河寺にも矛先を向け伽藍
の殆 どを焼 いた。粉 河 寺 御 池 坊 文 書 によると、「天 正 十 三
崩れ去った。
のの、鉄砲によってまた破滅の憂き目をみたことになる。
鉄 砲 導入 のお陰で根 来 寺 の僧 兵衆 は一 躍強化 さ れたも
おりから天 下 統 一 を旗 印 とした秀 吉 軍 の前 にあえなく
( 年)三月二十三日、伽藍・殿堂・寺院・僧坊が、あっという
か いじ ん
間に灰 燼となってしまった」とあり、焼き討ちした粉河寺に
本 陣 を移 した秀 吉 は、細 井 新 助 を高 野 山に送 り衆 徒 の武
だ く ひ
具停止など三箇条の諾否を迫った。四月十日、高野山の僧
「力 には力 、毒 には毒 を以て制 す 」として行 動 す れば、い
お う ご
かくばん
應 其 は老 僧 二 人 を伴 って秀 吉 の粉 河 本 陣 を訪 ね、高 野 攻
も く じき お う ご
ひ ゃ か
ず れかが破 滅 す る。覚 鑁 の理 想 とした仏 法 理 念 をもとに
通用しなかったのだろうか。
ふ し ょう
めの中 止 を交 渉 した。「木 食 應 其 は弱 武 士 か」と秀 吉 から
歩 んだきた筈 の根 来 寺 衆 には「徳 は不 祥 に勝 ち、仁 は百禍
1587
ちょうしょう
嘲 笑 さ れたが、武 具 等 の停 止 を誓 約 し、高 野 攻 めは中 止
を除く」と云う理念は天下大乱のこの世にあっては、もはや
( 年)、秀吉
となった 。
2
根来寺が焼き討ちされて 年後の天正十五
4)
- 52 -
13)
1585
つ
だ
け ん も つ
津田監物と津田氏・平野氏の系譜
たね が しまときたか
け ん も つか ず な が
鉄砲導入に活躍し、根来衆の武装集団を率いたと云う紀州津田氏の系図は諸説あって複雑である。
め いさ ん
け ん も つか ず な が
く す のき ま さ し げ
系図研究の基礎知識 よると、種子島時尭にポルトガル伝来の鉄砲を譲り受けに行ったとする津田監物算長は、楠木正成
め いさ ん
と し いえ
だ ん し ょう さ え も ん と しみ つ
を祖とする八代目で、根来寺杉之坊院主明算は監物算長の兄弟とした系譜になっている。
け ん も つか ず な が
しよう さ ん
め いさ ん
一方、平野家先祖書 にみえる明算坊は、平野神五郎俊家の子・平野弾正左衛門俊光の弟にあたり、根来寺杉之坊明算
め いさ ん
のぶ さ だ
)
と
け ん も つかず ゆ き
監太 郎
かず
ね ぐす
しげ
かず まさ
津田算正
)
芙佐子 神(戸市在住 )
茂
徳
準一
正
算
監物重 長
しげ な が
刀禰楠
監物算行
じゆ う さ い
信貞
正算
桃(山町神田在住
津 田 流鐵炮 薬 由緒 書 を蔵 し
て つぽう や く
るからであろう。
刑 部 俊 明から津 田 に改 姓 してい
は監物算長の子照算を養子にして杉之坊二代目を継がせている。そして明算もまた津田姓を名乗っているのは、実兄の平野
だ けんも つ
)
)
応(永二十九 ( 年)没 野田原にて絶命、五輪塔墓誌 )
法号「大忠一結泉」
のぶ まさ
信正
歳
太(郎左衛門
かず ま さ
監物算正
女
)
←
文(政三
野田原の五輪塔囲い柱を建立
正欣
る。
~十 二代目くらいかと推定でき
いが、系 図 から推 算 す ると十 一
か は)、その後 裔 とみられ、明 算
から何 代 目 になるかは定 かでな
め いさ ん
の現 当 主 津 田 算 正 氏 代( 々 襲 名
かず まさ
ている紀の川 市桃 山町神 田在住
15)
つ
まさ つら
正行
)
はる ゆ き
正興
(年没
杉之坊二代院主 自(由斎 )
しよう さ ん
照 算 明(算の養子となる )
日 小 倉 にて没
22
春行
津(田国見山城主
まさ のぶ
月
津田正信
( 年)
かず な が
1422
津田監物と平野氏 津(田明算坊 の)系譜
くす のき まさ しげ
楠木正成
まさ のり
正儀
明算
め いさ ん
杉之坊院 主
監物算長
永(禄十
と し いえ
12
( 年)十二月五日卒
富教
永(禄元
久道
平野神五郎俊家
清房
69
1820
1567
- 53 -
26)
15)
1558
め いさ ん
ご
平 野 家 文書 に云 う 明 算 坊 の系 譜 と前 記の津 田 監物 系
そ
図との関係は、各人物の年代を考証すると齟齬なくつなが
ることが分かった。
てんしよう
ところで、「天 正 十 三 ( 年) 三 月 二 十 三 日 、根 来 寺 炎 上
つ た け ん も つ
後、かろうじて根来寺を逃れた津田監物は、高野街道と村
( 年) 大忠 一 結 泉」前( 頁 系図
しかし平成七年五月、五輪塔の地輪に書かれていた墓誌
が解 読 さ れ、「応 永 二 十九
1422
)
となっていて、系 譜 から考 証 の結 果、津田 春 行の五輪塔 と
年 も前 のことになる。
てんしよう
( 年) の秀 吉 による根 来寺焼 き討 ち事 件 とは関係 ない。
津田春行は何がもとで絶命したかは不明ですが、天正十
みられており、根 来寺 炎 上 よりも
三
163
また春 行 は高 野 山 から下 ってきたのか、それとも高 野山
1585
に向 かう 途 上 だったかは定 かでないが、野 田 原 の伝 承 で
- 54 -
▲ 春行[大忠一結泉]の五輪塔
(桃山町野田原神縄掛の大日堂傍)
道 の分 岐 点 近 くまで落 ち延び落 命した」とす る説 がある。
1585
25)
25)
15)
はんざ き
紀 伊 続 風 土 記 に、「那 賀 郡 吐 前 村 和( 歌 山 市 吐 前 に)津
けんもつ
ばかり
田 監物 なる者 の住 居 跡 が村 中 北の端 にあり。方 一 町 許 掻
とう けん
は、「重傷を負った津田監物 春(行 を)最期まで介抱した村の
ち ょう ち ん
のぼり
とうけん
住民 三人に、自分 の墓所に提 灯と幟 、刀剣を埋めて欲しい
のぼり
上ケ土手并びに堀、今尚あり」と記している。
ち ょう ちん
し ん し ょう む ら
津田算正及 び一族の墓が残っている。ともあれ根来寺 潰滅
か いめ つ
また和 歌 山 市 大 垣内 の光恩 寺 境 内 の墓地 に津 田監 物 、
れる。吐前村は新荘村のすぐ西の集落である。
はん ざ き
方 一 町 は ㍍ 四 方 となり大 規 模 な屋 敷 であったとみら
と云い、三人にそれぞれ菊水紋の提灯・幟 ・刀剣を渡した。
そして津田姓を名乗ることを許された」と云い、刀剣の一つ
は野 田 原 処 垣 内 に住 む津 田 暁 美 氏 の家 に伝 えられている
と云う。
野田原には今も津田姓を名乗る家が幾軒かあるが、この
後 の津 田 氏 は主 家 運 に恵 まれず 、転 変 のす え故 郷 である
ます だながも り
とき津田の苗字を貰った人たちの子孫とみられる。
しげ な が
紀州に定着したとみられている。
け ん も つか ず ま さ
一族の後裔と云われている。
から明治前期にかけて活躍した津田氏も、そのような津田
町 市場 ・神 田 や) 名 草郡 松 島 村 和( 歌 山 市 松 島 な)ど、紀伊
のいくつかの村に移り住んだと伝えられている。また幕末期
賀 郡 重行 村 岩( 出 市 重 行 、)市 場 村 、神 田 村 紀( の川 市桃 山
衛の後裔、及び自由 斎の後裔 などがあり、彼らの子 孫が那
ところで津 田 氏 は、算 長 の流 れのほかに、重 長 の弟 市 兵
監 物 算 正 の子 ・監 物 重長 は、増 田長盛 大( 和郡山城 主 、)
あ さ の な が まさ
こば や かわ ひであ き
浅 野 長 政 甲( 斐 国 領 主 や) 小 早 川 秀 秋 安( 土 桃 山 時 代 の武
み の か の う じ ょ う し ゅ ま つだ いら ひ だ の か み
将 に仕え、小早川氏の断絶後は美濃加納城主松平飛騨守
)
ただたか
し げ のぶ
忠 隆 に仕 えたという 。もう 一 人 の子、重 信 は小 早 川 秀 秋 ・
富田 修理大夫、ついで松平摂津 守忠政に仕 えたと云う。そ
して、その子六 郎左 衛門 算長のとき主 家が断絶となり、算
し ん し ょう む ら
長は那 賀 郡 新 荘 村 和( 歌 山 市 新庄 に)住 んで大 庄 屋 を務 め
たとある。
- 55 -
109
【津田家系譜】
(松原正勝氏編 34))
津田周防守橘正信(父は楠木正義。始 五郎)
河内国交野郡津田村に一城、3 千町領す
弘和 2(1382)年 月 25 日卒
元清(庄五郎)後に周防守
兄春行が吐前に移る時
泉州に残り十五万石の領主
賢阿
紀伊国粉河寺住
津田監物春行(始 五郎)
紀伊国小倉吐前に城を構え
小倉・泉州日根・大鳥に
2 万石領地。応永 12(1405)
年、小倉に移る。
応永 29(1422)年 3 月、阿良
河デ卒葬 法号 大忠一結泉
津田監物信正(始 荘五郎)
母は河内国高屋城代遊佐
河内守の女
文安 4(1447)年 12 月 22 日卒
信之(早世)
津田監物信貞(始 二郎丸)
母は伊都郡相賀荘恩地兵部大夫昭澄/女
応永 2(1395)年、粉河寺再建の大檀那
延徳 2(1490)年 5 月卒。法号 清光覺道居士
算貞
津田監物算行(始 荘太郎) 肥後国大友家に寄食
兄算行の所領を預かり小倉に住む 永正 15(1518)年 8 月、肥後国平島合戦で討ち死す
明算 根来惣門主
津田監物算長(始 軍之助 津田太郎左衛門尉)
永禄元(1558)年 5 月 5 日遷化
小倉城に住す。種子島に南蛮伝来の鉄砲大小二丁を伝来す
天文 13(1544)年、小倉に帰り諸国に伝授す
永禄 10(1567)年 12 月 29 日 小倉にて卒 行年 69 歳
女
あ ら か わ
阿良河の奥弥兵衛/妻
自由斎(政太郎)
照算
津田監物算正(始 太郎
砲術家 諸国に伝播
根来寺惣門主杉之坊
後に津田左門)
のち肥後国加藤清正に仕る 天正 13 年泉州
天正 19(1591)年 4 月
積善寺合戦に討死す 小倉に光恩寺を建立
慶長 2(1597)年 9 月 4
日卒 63 歳
津梁院善誉光恩居士
長女
津田庄左エ門重信 二女
刀禰楠(算正嫡子)
/
津田刑部俊明
金谷二郎左エ門 妻 天正 5 年 3 月 18 日
平野左京大夫/妻
江州安土城にて切腹
津田監物重長
寛永 2(1625)年
6 月 17 日卒
行年 64 歳
(後 省略)
太線は家督を示す
参考資料:①安楽川津田家系譜
②和歌山市湊本町在住 津田算正氏所蔵系譜
③大阪市西宮在住 津田芙佐子氏所蔵系譜、その他
- 56 -
ぎ し
【平野氏先祖書】(奮高野領内文書三・古事記・三国志魏志より)
きのくにのみやつこ あ ら か わ と べ
と ほ つ あ ゆ め まくはし ひ め
紀 国 造荒河刀弁の娘/遠津年魚目々 微比売
とよすきいりひめ
すじん
10 代崇神天皇
と よ
しんぎわおう ひ み こ
豊耜入日売(185-248 年)(台与/親魏倭王卑弥呼:魏志
こういん
①荒川兵衛尉俊尊(荒河刀弁の後 胤 白川院御宇(1100-1150)、荒川両庄下司職)
②荒川藤蔵俊春(鳥羽院御宇(1156-1156)、北面仰付られ河内国平野庄を給り平野周防守と改め
久安三(1147)年、平野右衞門尉従五位、美福門院朝臣となる。保元元(1156)年、美福門院に
お供申し荒川へ帰る)
③平野左近之進寿季(俊春/嫡子)
④平野八郎俊忠(寿季/子)
⑤平野彌五郎俊兼(俊忠/子)
⑥平野内膳俊正(俊兼/子)
⑦平野将監俊國(俊正/子。上、代々高野山守護仕候)
⑧平野修理之進俊澄(俊國/嫡子 楠正成に与力し湊川にて討死す(1336 年 5 月)
⑨平野難波之祐俊基(俊澄/子、楠正行に与力)
⑩平野民部少輔俊勝(俊基/嫡子)
⑪平野左兵衛祐俊(俊勝/子)
⑫平野甚治郎俊信(祐俊/子、足利将軍へ属す)
⑬平野神五郎俊家(俊信/子)紀州野上城守護職。応仁合戦の刻、細川勝元に与力)
⑭-1 平野弾正左衛門俊光(俊家嫡/子)享禄三(1530)年、泉岸和田三好合戦の節、畠山に与力。
天正十(1582)年、信長高野攻めの節、一族召連れ高野山に籠り西口大将を承る
⑭-2 平野刑部俊明(俊光/弟)津田に改姓
天正五(1577)年、信長公の紀州雑賀合戦の時、忠節の為恩賞として津田姓を給る。天正十(1582)
年高野山へ籠る。のち備後岡山城主宇喜多中納言秀家へ召出れ知行3千石給り候。秀家遠島の
後、荒川に引込み罷り候所、紀伊国主浅野紀伊守依御合力と本知四百石下し置れ候。藝州へお
國替えの節、年が寄りお暇申請、安楽川にて病死仕り候。
⑭-3 津田左京(平野弾正左衛門俊光/弟)浅野紀伊守へ御奉公。元和元年病死仕り候。子無く之
候
⑭-4 古川坊(平野弾正左衛門俊光/弟)極楽寺住職
⑭-5 明算坊(平野弾正左衛門俊光/弟)根来寺杉坊住職。津田自由斎流 鉄炮者なり(永禄元
(1558)年十二月五日卒)
⑮平野隼人佐俊久(俊光/嫡子)賤ケ岳合戦(1583 年)の節、秀吉公に加る。その後所々軍役相務
め候
⑮-2 津田十郎左衛門(津田刑部俊明/嫡子)戸田左門様へ有付、本知三百石下し置れ、子孫は濃
州大垣に罷り在候
⑯平野久太郎正俊(俊久/嫡子)大坂籠城、落城後、奥に属し荒川に引込み罷在候所、南龍院殿
御入国の節(1619)、召出され御切米五十石頂戴仕り候
⑰平野八郎左衛門俊治(正俊/嫡子)
⑱平野八郎右衞門俊光・改め内蔵之丞(俊治/子)
⑲平野小平治俊綱・改め團右衞門(俊光嫡/子)
- 57 -
け ん も つか ず な が
かず まさ
かず まさ
こう お ん じ
こう お ん じ
津田監物算長や算正が居城を構えたと云う和歌山市吐前の東隣 大(垣内 に)在る光恩寺は、天正十九
け ん も つか ず な が
( 年)、当時小倉
津 田 監物 算 長の墓 誌 が書 かれているとみられる大
きな墓石は、同寺の住職によると、「
地震で倒れたので
あろう か危険なため今は横にして積んでいます」と云
い、見ると大きな幾つかの墓石が横に倒して積み上げ
られている 次(頁上段写真 。)
根来寺境内の岩出市民俗資料館に掲示されている
津田監物の説明板には、「
津田監物算長こそが根来鉄
砲 の普 及者で和 流砲 術宗 祖・根来 鉄砲 隊の創 祀者 で
ある。根 来 寺滅 亡 の悲 惨な最後を知 ることもなく那
賀郡安楽川の墓石の下に静かな眠りを続けている」と
している。
24)
- 58 -
1591
荘の領主監物算正が開基し、信誉上人の開山 光恩寺縁起 と伝えている。
(
)
かず なが
け ん も つか ず ま さ
ほ う き ょう いん と う
同寺に行ってみると、今も境内の墓地に苔むした大きな津田監物算長の逆修五輪塔や監物算正の宝篋印塔のほか、境内
墓地の各所に津田家一族の墓石が建ち並んでいる。
け ん も つか ず な が
▲ 津田監物算長の逆修五輪塔(光恩寺境内墓地)
光恩寺は津田監物算長が没して 24 年後に算正が創建
したとされ、五輪塔は算長の霊を弔って建てられたと
みられる。五輪塔は石造の卒塔婆である。
しかしそれは間違いで、「監物算長は永禄十 ( 年)十二月二十九日小倉荘吐前村で卒す 」とあり、ここ小倉荘吐前村 現(
こう お ん じ
和歌山市大垣内 の)光恩寺に墓地が在ったことが判明した。
1567
じ ゆ う さ い
じゆ う さ い
め いさ ん
いたうちの一人、ムラオシャから津田監物算長が砲術を学ぶとともに、ムラオシャが望んでいたジパング 日(本 の)都にキリスト
自由斎は南蛮人だったと云う。つまり、種子島に漂着した船に乗って
33)
- 59 -
安楽川 紀(の川市桃山町神田 に)葬られているのは杉の坊惣門主・自由斎、つまり明算坊とその後裔とみられる。
▲ 津田監物算正の宝篋印塔(二つの五輪塔の右)
宝篋印塔の墓誌銘は風化して判読できないが、手前の説明標柱
の裏に「津田監物算正 一五二八年吐前に誕生。那賀郡小倉荘領
主 一五九一年四月八日、光恩寺を創建。没年一五九七年九月四日
享年六十九歳 法名 津梁院善誉光恩居士」とある
)
ところで、津 田 監 物 の系 譜 について調 べた松 原 正 勝 氏 によると、
▲ 津田監物算長の墓誌が書かれているとみられる墓石
教の布 教 活 動をかなえる為 に一 緒に船 で日 本 に向 かった。
しかし、国 内 はどこで戦 乱 に紛れるかも知 れないと考 え
しょう さ ん
た算 長 は、堺 港 からひとまず 泉 州 街 道 を経 て紀 州 根 来 寺
に連れ帰った。
かず まさ
そして、さ らに方 術 や 火 薬 の製 法 を算 正 や 照 算 兄 弟 に
じょう
め いさ ん
じ ゆ う さ い
り、荒 川 荘 の豪 族 だった城 氏 一 族 のよう にもみえる。これ
からみると、杉之坊明算と自由斎は別人のようである。
け ん も つか ず な が
ともあれ、根 来寺 に鉄 砲見 本が届 いただけでなく砲術 、
火薬製造 技術の伝来は、監物 算長と南蛮ポルトガル人との
交流により、海を越えて日本に入ったことになる。
そして桃 山町 北 神 田 の西 應寺 跡の津 田 家 墓地 に残 る大
じ ゆ う さ い
も学ばせるとともに、根来寺杉之坊に住まわせたと云う。
まさ よし
う。
きな五輪塔 左(写真 は)自由斎のものではないかと同氏 は云
)
代 で江 戸 時 代の太 郎 左衛 門 正 欣 が著 し
後 世 、津 田 家
平 野 氏 先 祖 書 に、「明 算 坊 平( 野 弾 正 左衛 門 俊 光 の弟
は根 来 寺 杉 之坊 住 職 」とある。また津田 流鐵砲 薬 由緒書
- 60 -
33)
▲ 桃山町北神田の津田家墓地の五輪塔
風化がすすみ今は文字は判読できない
この地は西應寺跡と云われている
た鉄 砲 伝 書 に、「種 子 島 に漂 着 した南 蛮 人 が紀 州 へ来 訪
し、算 長 一 族 に砲 術 を伝 授 して日 本 で没 した」とあること
じ ゆ う さ い
から、自 由 斎はまさ にムラオシャその人 だとするのである。
そして明治の初め頃まで津田家には家伝として語り継が
じ ゆ う さ い
れていたが、今では子孫の間にさえ忘れ去られた と。
自 由 斎 については津 田 家 系 譜 では俗 名 政 太 郎 、砲 術 を
33)
諸国に伝授し、のち肥後国の加藤氏にも仕えたとある。
34)
には、「私 の先 祖 城 自 由 斎 と申 し鉄 炮 者 なり」としてお
15)
16
15)
れ ん げ いん
り つじ よ う いん
ち ざ ん は
じよう しつ
ち し や く いん
蓮華院・律乗院を学頭とし俸米三十石を与えられた。そし
え ん み よう じ け いだ い
こう きよう
かくばん
諸社寺があった と伝えている。
再興さ れた。紀伊続風土 記は、当 時、根来寺境内には次の
これにより根 来 寺 内 の真 言 院 ・大 伝 法 院 丈 室 などが逐 次
ぶ ざ ん は
根来寺の再興
け いちよう
しゅう さ ん
て大和国 の小池坊 豊山派 と京都 の智積院 智( 山派 が)互い
(
)
ご んそ う じよう
に根 来寺の両学 頭院 に住み権僧正を務めるようになった。
げ んゆう
あさ の よしなが
ぶ ふ く じ
ま
み つご ん いん
ぼ だ い
じようこう みよう
び し や も ん
・常 光 明 真 言 院 ・聖 天 堂・大 伝 法 院 丈 室 ・
・
大塔・弘法大師堂
ぐ も ん じ
あ た ご
・密 厳 堂 ・求 聞 持 堂 ・天 神 社 ・毘 沙 門 堂 ・
こ う き よ う だ いし ご び よ う
しよう ごん
じ こ う
じ つそ う
ほう と う
宝 憧 院 ・正 等
しよう とう
・千手堂・興教大師御廟・愛宕堂・弁財天社・峠
しよう ち
子院
・徳蔵院・正智院・荘厳院・慈光院・実相院
じよう ろく
○子 院
も んじゆ
・千 光 院・文 殊 院・丈 六 院
せ ん こう
○ 小谷
不動・地蔵堂
○菩提谷
鐘楼・春日明神
しよう ろう
○密厳院境内
○大伝法 院境内
だ いで ん ぽ う いん
護摩堂・九社大明神
ご
○豊福寺 境内
○円 明 寺境 内 ・興 教 大師 覚( 鑁上 人 堂) ・三部 権 現・伊太
しよう ろう
れ ん げ い ん り つじ よ う いん
祁曽社・一切教堂・鐘楼・蓮華院・律乗院
1)
云う。
け いちよう
け いちよう
そして慶 長 十 五 ( 年) 、当 時の紀州 藩主浅野幸長は、か
ねて没 収 していた大 伝 法 堂 の丈 六 三 尊 像 を根 来寺 に返 還
慶 長 九 ( 年) 、智 積 院 の玄 宥 と長 谷 寺 の秀 算 が根 来 寺
大伝法院の再興を願い出た 真(言諸寺院記 。)
ち し や く いん
徳 川 家 康 が天 下 を制 した江 戸 時 代 の慶 長 七 ( 年) 、根
来 寺 に学 侶 や 行 人 僧 の帰 山が相 次 いだ 根( 来 寺 院 血脈 と)
1602
した 浅(野家文書 。今
) も大伝法堂に安置されている。
げん な
元 和 元 ( 年) には根 来 寺 の復 興 院 坊 五 十 九 坊 学( 侶 坊
八、行人坊五十一 浅
)(野家文書 と)みえる。
た。
え ん ぽう
かん え い
12)
1610
さ らに寛 永 十 ( 年) 、根 来 寺 の復 興 院坊 は七 十 八坊 定(
条々之事 と)なり、根 来寺 は逐次、復興の歩みを続けてき
12)
1633
( 年) 、根 来 寺 の行 人 方 の十 二 坊 が追 放 となる
1751
伝(法院絵図 と)あり、行人方勢力の増強が抑えられた。
かんえん
寛 延 年 ( -年 間) 、紀 州 藩 主 の命 令 により、根 来 寺 の
延宝五
12)
- 61 -
1604
1615
1677
1748
え んじゆ
だ
だ い じ
しよう ぶ
こく う ぞ う
と く ち
じよう ねん
れんじよう
・地 蔵 堂 ・薬 師 堂 ・菖 蒲 観音 堂・大 師 堂
院・延寿院
○ 西谷
あ いぜ ん
み
子院
ご じょう も く
ご じょう も く
御 条 目二十八状」を通達した。「根来山御 条 目 条々。一、
たい
総 山 の大 衆 は学 頭に従って法 義 の学習 を専 要とす ること。
け
あ ん ど う た て は き か の う お お す み のか み
二 、不 動 堂 ・御 影 堂 は毎 日 の勤 行 を 懈 怠 してはなら ぬこ
・阿弥陀堂・虚空蔵堂・薬師堂・観音堂・地蔵堂
あ
宝生院・愛染院・大慈院・徳智院・靜然院・蓮上院
○蓮華谷
かく ばん
ず いご ん
と。以 下 二十 六 条 省( 略 。)紀( 州 藩 安) 藤 帯 刀 加 納 大 隅守
お か の いが の か み
岡 野 伊賀 守 」とみえ、紀 州 藩 は根 来 寺 僧衆 の綱 紀粛正 を
りしよう
・子院・宝積院・開化院・理性院・放光院・瑞厳院
ほう しや く
・大師堂
図ったと見られる。
げ ん ろく
ふくしゆう
・福聚院・地蔵院
寛政元 ( 年)、根来山内の有住寺院が三十一か寺、無住
あらためちょう
寺 六 十 二 か寺 となる。また寛 政 元 年 の根 来 寺 人 別 改 帳
かんじん
かんせ い
元 禄 三 ( 年) 十 二 月 二十 六 日、根 来 寺 の開 基 覚 鑁 上 人
こ う きよう だ い し
に「興 教 大師」の尊号が追贈される。
によると、寺院 数九十三、うち学頭二、寺中八十七、穀屋
ほう え い
かんせ い
米(穀店 四)、僧侶四十五人 とでている。
ほ う じゆう
3)
かんせ い
しげ のり
ぼ ん しよう
寛政十
年 、根 来 寺 の学 頭 法 住 が不 動 堂 の梵 鐘 を鋳
(
)
こ う きよう だ い し ご びよう
造、高野山奥の院に興 教 大師御 廟 を造立した。
かん せ い
寛政九 ( 年)五月、前小池坊僧正の学頭・蓮華院院主法
住が、根来寺大伝法院の再建趣意書を作る 。
こ く や
宝 永四 年 、護持院の隆光が根来復興の勧進を願い出
(
)
ほう え い
た。この頃 八 十 六 坊 が復 興 す る。そして宝 永 七 ( 年) に隆
むねなお
3)
吹上御殿を本坊として移築する。
寛政十一
年、清信院 紀(州藩主徳川重倫の生母 の)奉
(
)
ず
し
かんせ い
納厨子を大塔に納入する。寛政十二 ( 年)、清信院の旧居
1800
光の根来復興の勧進願いが許可された 隆(光僧正日記 。ま
)
げ んぶん
た元 文 四 ( 年) 、根 来 寺 の復 興 勧 化 許 可 を願 い出 る 桃( 井
家文書 と)みえ、復興へ向けた環境が整っていった。
ほう れ き
宝暦元 ( 年)、紀州藩主徳川宗直が、行人方を追放し両
学頭制を復活した。この年、不動堂の四大明王像を造仏す
る 同(像の台座銘文 。)
ほう れ き
宝 暦 二 ( 年) 五 月 、紀 州 藩 は根 来 寺 に対 して、「根 来 山
1789
1797
1798
- 62 -
9)
1799
1710
1690
1707
1739
1751
1752
ぶんせ い
ほう じ よ
ふ しん
ら っけ い く よ う
文政四 ( 年) 、寺僧法恕が、大伝法堂の再建普請に着工
する 縁(起略記 と)みえる。
ぶんせ い
文政十 ( 年)、大伝法堂が再建され、落慶供養が行われ
る。丈 六 三 尊 像 の修 理 が完 成 、開 眼 供 養 墨( 書 銘 ・榮 性 。)
清信院の奉納厨子を大日如来像の胎内に安置した。
か えい
大 伝 法 堂 は秀 吉 の根 来 焼 き討 ちには残 っていたものの、
てん ぽう
老朽化がすすんでいたものとみられる。
天 保 六 ( 年) 、根 来 山 大 門 の再 建 に着 手 す る。嘉 永 五
( 年) 、大 門 の再 建 が竣 工 、落 慶 供 養 が行 われる 同( 門 棟
ぶ ざん
ち ざん
( 年) 、根 来 寺 は豊 山 ・智 山 の両 本 山 新( 義 真 言
しよう わ
宗 に)所属することとなる。
昭 和 二 十 ( 年) 、根 来 寺 はよう や く単 立 寺 院 として独
立 す ることとなった。秀 吉の焼 き討 ち前 の華 や かな時 代 に
( 年) に根 来 寺 が新 義 真 言 宗 を設 立 す る。
比べ貧弱ながら、こうして寺院としての態勢が一応整ったこ
とになる。
昭和二十八
昭和三十七
( 年) 、旧 和 歌 山 県 議 会 議 事 堂 として明 治
三 十 一 ( 年) に建 築 さ れた建 物 を境 内 に移 築 保 存 し、根
かく ばん
ね ご ろ いち じよ う さ ん
来 寺 の開 基覚鑁 上人 が「根来 一乗山 」と名付 けたことに因
い ち じょう か く
( 年)、根来寺は新義真言宗の総本山となっ
んで一 乗 閣と名付けたとされている。
昭和四十七
た。
年 5月
昭 和五 十 一 ( 年) から根 来 寺 域 を横 断す る広 域農道 が
建設されるに先立ち、寺域周辺の発掘調査が行われた。昭
和
日 付 け法 律 214号 で文 化 財 保 護 法 が成 立
以来、埋蔵文化財包蔵地についても土地の改変を計画する
場合は事前に発掘調査を義務づけられたからである。
- 63 -
1962 1953
1972
1976
札 。)
大門の再建着手から実に十七年を要したことになる。天
正 十五 ( 年) 、秀 吉により大和 郡山城に移設 されて以来 、
余年間、根来寺は大門がなかったのである。
し げ のり
( 年) 、根来寺大伝法院が再建され、この棟札に
だ ん な
文政七
めい じ
明 治五
は、「大 檀 那 施( 主 、)第 八 代 紀 州 藩 主 徳 川 重 倫 と生 母 ・清
信院」の名前がある 。
3)
1945
30
1587
1898
1821
1827
1835
1824
1872
25
1852
260
と う じ き
し つ き
その結果 、往時 の根 来寺 の規模が ㌶余りと壮大であっ
たことが考 古 学 的 に裏 付 けられた。また陶 磁 器、漆 器 、仏
具 、武 器 などのおびただしい遺 物 が出 土 し、それら遺 品 は
( 年)、根来寺大門の修理が完成し、落慶供養
敷地内に建てられた岩出市立民俗資料館で保管展示され
ている。
昭和六十
を実施する。
▲ 根来寺一山絵図
紙本著色(縦 95.2 横 151.0 糎)江戸時代中期(18 世紀作)根来寺蔵 21)
本図は原図に解読文を挿入したもので秀吉が根来寺の山門(大門)を大和郡山
か えい
城に移築して後、嘉永 5(1852)に再築する迄は大門はなかった。
40
平 成 十 九年 ( 年) 現 在、根 来 寺領 域 内に岩 出 市民 俗 資
料 館 や 市 立 図 書 館 が建 設 さ れるなど、岩 出 市 によって文
1985
教地域化政策が進められている。
- 64 -
2007
根来寺の現況
な佇まいが残されているが、近辺は民俗資料館や岩出市立
非をめぐって賛否が分かれている。
ことをめぐっては、先 の課 題 による文 教 政 策 の見 通 しの是
なお、大門池が埋め立てられ、市立図書館が建設された
る。
るなど、根 来 文 化 の保 護 ・継 承 を めぐる課 題 は山 積 であ
と、また境内外 れの市立図書館近くにラブホテルが存在す
石 場 になるなど、周 辺 環 境 の乱 開 発 が続 けら れているこ
さ らに境 内 前 面 には広 域 農 道 が造 られ、後 背 の山 が砕
図 書 館 が建 設 さ れるなど、岩 出 市 によって文 教 地 域 化 政
策が進められている。
ご
天 正 十 三 ( 年) 、秀 吉 により焼 討 ちさ れたた時 、大 師
堂 、大 塔 など数 棟 が残 り、その後 江 戸 時 代 に入 り紀 州 徳
ひ
川家の庇護のもと一部の堂宇が復興されてきた。
昭 和 五 十 一 ( 年) から寺 域 周 辺 の発 掘 調 査 が行 われ、
往 時 の根 来 寺 の規 模 が 万 平 方 メー トル ( ㌶ 余) りと壮
し つ き
( 年) 現 在 、根 来 寺 境 内 は近 世 以 前 の閑 静
ひさし
られており、円 筒 形 の塔 身 の周 囲 に庇 を付 した多 宝 塔 本
藍
内部には 本の柱が円形に立ち、そのなかに四天柱が立
伽
通 例 、初 層 裳( 階 の)平 面 が方 形 、上 層が円 形 に造 られる。
この塔 も初層 の外 見は方形 だが、内 部には円形の内 陣が造
来の形式をとどめている。
15
平成十九年
岩出市立民俗資料館で保管展示されている。
ただしい遺品 が出 土し、それら遺 品 は敷 地内 に建てられた
と う じ き
40
また発 掘 によって陶 磁 器 、漆 器 、仏 具 、武 器 などのおび
大であったことが学術的にも裏付けられた。
400
○大塔 多( 宝塔 国
) 宝。高さ メートル、幅 メートルの日
本最大の木造多宝塔。「
多 宝塔 」
とは二層一階建ての塔で、
40
り、文明
( 年) 頃から建築が始まり、半世紀 以上経た天
っている。解 体 修 理 の際 に部 材 から 発 見 さ れた墨 書 によ
12
1480
12
- 65 -
1585
1976
2007
( 年)頃に竣工したと考えられている。
○大師堂
重 要 文 化 財 (国 指 定 )。大 塔 とともに秀 吉 の焼 き討 ちを
( 年) 頃 の建
- 66 -
まぬがれた建 物で、本 尊 の造 立銘 から明 徳 二
立と推定されている。
▲ 大師堂
文十六
ま た、大 塔 の梁
ひなわじゆう
には秀 吉 軍 に攻 め
られた際 の火 縄 銃
だ ん こん
の弾 痕 がいま も 生
々 しく残 っている。
てん ぶん
▲ 根来寺のシンボル 大塔
天 文 十六( 1547)年に竣工。壁板には
秀吉の根来攻め時の弾痕が今も生々し
く残っている
▲ 大塔の梁に残る弾痕
1547
1391
○ 大伝法 堂
県 指定 文化財。江戸時代後期の文政十
た。
( 年) に再建され
○光明真言殿 御(影堂 )
県指定文化財。江戸時代後期の享和元
( 年)建立。
○聖天堂
県指定文
化 財。
○不動堂
八( 角 円 堂 )
県指定文
化 財 。江 戸
時代末期の
嘉永三 ( )
年 建 立 。本
一 のきりも
み 不 動 」。
- 67 -
1801
▲ 光明真言殿(御影堂) 県指定文化財。
江戸時代後期の享和元(1801)年建立
尊 は「三 国
1850
1827
▲ 大伝法堂
○ 行者堂
県指 定文化財 。
○奥の院 興教大師廟所 6(頁写真 。)
○ 鐘桜門
○ 本坊
頁 。)
門
か えい ▲ 大
嘉永 5(1852)年落慶
湊 御 殿 、名 草 御 殿 、別 院 等 で構 成 さ れる。いず れも江 戸
時代建築である 写(真
78
園
メートル、奥行
庭
メートル。
滝 と池 を取 り入 れた池 泉 式 蓬 莱 庭 園 の池 庭 江( 戸 時 代 作
本坊池庭光明真言殿と本坊・名草御殿の間 にある自然の
6
庭 、)枯 山 水 庭 園の平 庭 江( 戸時 代 作 庭 、)平 安 時 代開 創 よ
り遺る聖天池があり、三つの日本庭園が国の名勝に指定さ
れている。
- 68 -
門
・
63 88
▲ 本坊池庭
○大
県指定文化財。
当 初 の山 門 は天 正
十 五 ( 年) 、秀 吉
が大 和 郡 山城 に移
えい
( 年) に再 建 さ れ
たもの。高 さ ・
代 末 期 の嘉 永 五
か
築 したが、江 戸 時
1587
メー トル、幅
17 16
1852
▲ 聖天池
頭
たつち ゆ う
塔
○愛染院
○蓮華院
- 69 -
○律 乗院
○円明寺 興(教大師入寂地 )
○旧御廟 所 興 教大師荼 毘地
▲ 円明寺(拝殿)
本院は拝殿の後方にある
境内にある施設
い ち じょう か く
○一 乗 閣
明 治 三 十 一 ( 年) 、和 歌
山 県 議 会 議 事 堂 として建
( 年) 、庁 舎 改 築 に伴 い
築 さ れ た建 物 で、昭 和 十
三
昭和十六年 ( 年)、和歌山
市 美 園 町 に移 築 さ れ和 歌
そ ん しょう ぶ つちょう
こん
大伝法堂に三尊として中央に大日如来、向かって右に金
ごう さ っ た
剛薩埵、左に尊 勝 仏 頂 を安置されている。
おうえい
( 年) から応 永 十 二
( 年)
大 伝 法 堂 の建 物 は、江 戸 時 代 後 期 文 政 十 ( 年) の再 建
と記録にある。これらの三尊像は秀 吉の焼き討ちを免れた
か け い
もので、像 内 の墨 書 から嘉 慶 元
・ メー トルの巨 像 で、仏 像
にかけての制作と判明している。
・ ~
そ ん しょう ぶ つちょう
そ ん しょう ぶ つちょう
いる。大日如来、金 剛薩埵 、尊 勝 仏 頂 の三 尊の組 み合わせ
こんごう さ っ た
彫刻としては衰退期の室町時代における佳作と評価されて
三 体 とも像 高 約
1405
1827
財。
文化 財
堂
国宝
こんごう さ っ た
大塔 説( 明 は前 出
そ ん しょう ぶ つちょう
) 重要 文化 財
大師
教義解釈による組み合わせ とみられている。
かく ばん
とさ れている。この三 尊 の組 み合 わせは覚 鑁 が高 野 山 に建
かく ばん
は珍 しく中 でも尊 勝 仏 頂 は彫 像 としては稀 有 の遺 品 であ
山 県 農 協 会 館 として使 用
1387
5
していたものを昭和三十七
ね ご ろ いち じ よ う さ ん
3
立 した大 伝 法 院 にす でにあったことが知 られ、覚 鑁 独 自 の
▲ 一乗閣(もと和歌山県議会議事堂)
( 年) に現 在 地 に移 築 保 存 し、開 基 覚 鑁 が根 来 一 乗 山 と
い ち じょう か く
名 付 けたことに因 んで一 乗 閣 としたと云 う 。県 指 定 文 化
かく ば ん
3
1898
1941
1938
木造大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊 勝 仏 頂 坐像
- 70 -
3
21)
1962
こんごうさっ た
そんしょうぶつちょう
▲ 大伝法堂に安置された大日如来座像(中央)・金 剛 薩 埵坐像(右)・尊 勝 仏 頂 坐像
(左)
嘉慶元(1387)年~応永 12(1405)年の作
重要文化財
▲ 根来寺の大門(和歌山県指定文化財)
高さ 16.88 メートル、幅 17.63 メートル、奥行 6 メートル
- 71 -
い わ
で
しゆう がく え
だ い じ
石手 岩(出 と)根来の地名由来
かくばん
いわ で む ら
覚鑁が高野山に居た当時、大治元
か つら ぎ
りよう そく
( 年)、六月十日付け
れ ん が く え
書 き替え、周辺 村を併合して岩出 町となった。また平成
み ね ご
( 年)、市制を施行し岩出市となった。
か つら ぎ
なんろく
また、根 来 山・根来寺 ・根 来村 は葛城 山 脈 の南 麓 に位置
18
か つら ぎ
こ
ね ごろ ぼう
ぶ ふく じ
寛 治 元 ( 年) 、葛 城 修 験 者 の根 来 房 が吉 田 村 の豊 福 寺
ぶ ふく じ
長者の寄進を受け、この地に堂塔を建立し豊福寺と称した
31
( 年)、岩出町の一字として「根来」に改称された 。
かわちのくに
西 坂 本 は古 代 から栄 えた河 内 国 の和 泉 へ越 える坂 の登
17)
ことから次 第 にこの地 を根 来 山 と呼 び、寺 号 を根 来 寺 と
岩山から建材石が採掘されている。
かん じ
ようにも思える。
て葛城の峯 嶺( が)、この地で凝った 寄(り固まった 形)勢によっ
いささ
て名付 いた」と説 明 している。しかし、これは些 かこじつけの
か つら ぎ
す る。紀 伊 続 風 土 記 によると、「根 来 は嶺 凝 りの転 化 にし
2006
いわ で
てんぴょうしょうほう
てんぴょうほうじ
れ いき
和 泉 はもとは河 内 国 の一 部 だったが、霊 亀 二 ( 年) 、河
いず み げ ん
内 国 の大 鳥 郡 ・和 泉 郡 ・日 根 郡 を 割 いて和 泉 監 が建 てら
で
岩出荘にはその後、明治
( 年)の市町村制度施行時ま
いわ で
で根 来 村 があったことから、石 手 村はそれ以 前 に根 来 村に
いわ
れ、天 平 勝 宝 八 年 天( 平 宝 字 元
かわちのくに
り口にあたり、「
坂の本」から名付いた字名とみられる。
17)
改 名 さ れていたとみられる。その時 、改 めて石 手 を岩 出 と
716
( 年) に)和 泉 国 として
757
1889
1956
いわ
1)
呼 ぶよう になった とも云 う。なお根 来 村 西 坂本 は昭 和
の断 層 が気 味 悪 く露 出 し、峠 道 の近 傍 には採 石 場 があり
葛 城 山 系 の風 吹 峠 を越 える道 路 の両 脇 には、今 も岩 山
となる前は石手村だった。
いわ で
解状 に、當 石手 村を開 発し修 学会・練 学会の料 足 経費 に)
(
いわ で
当てることを許可されたい と申請しているように、石手荘
げ じよう
1126
「手」は、石 岩 山の方 角や 場 所を表 す語 と熟 し、その方
(
)
いわ て
向、方 面にあるという意 味 を表す ところから、石 手と名付
いたとみられる。
け いち ょう
1601
22
- 72 -
1087
3),5)
那 賀 郡 石 手 荘 は慶 長 六 ( 年) から 岩 手 荘 と 書 かれ 、
き ょう ほう
( 年)以降は岩出荘と書かれている 。
享保十一
1726
せんしゅう
分国された 。後に泉州と呼ばれた。
根来塗りの由来
鎌倉時代から戦国時代にか
けて隆 盛 を誇 った根 来 寺 で創
作 さ れた朱 塗 りの漆 器 を、江
戸時代の初期には「根来」、「根
来もの」と珍重されたことによ
り広 く伝 わったと さ れ、根 来
し ゆ うるし
塗 の名 称 は根 来 寺 に由 来 す
く ろ うるし
いる。
本 来 、寺 僧 衆 の日 常 雑
し ゆ うるし
器 として大 量 生 産 さ れて
いたもので、朱 漆 の塗 立 て
仕 上 げ であ り 、現 在 の様
に研 ぎ 出 したり磨 き上 げ
はさ れてお ら ず 、全 面 が
朱 色 の表 面 であ ったと 思
われる。
根 来 寺 遺 構 の調 査 で発
掘 さ れ た遺 物 のな かに、
底 裏に「理性 院 」と漆 書きさ れた朱漆 塗椀 上( 写真 が)大量
に出土し、円明寺北の蓮華谷に理性院と称した子院があっ
る。
後、表面 を研ぎ出し、所々 に黒の研 出し模様をつけた漆器
たことが記され ており、その実在が証明された。
しかし発 祥 の頃 は作 為 的 に研 ぎ 出 しを したも のではな
来 」「奈 良 根来 」「吉 野 根 来 」「薩 摩 根来 」「堺 根 来 」、色 によ
現 在 売 られている根 来 塗 りには、産 地 名 をつけた「京 根
し ゆ うるし
く、日常雑器として使用している間に表面の朱 漆 が擦り減
り「黒根来」あ(けぼの塗とも云われ朱中塗と黒上塗で逆転
現 在 では中 塗 りに黒 漆 を 、その上 に朱 漆 を 塗 り乾 燥
を総称している。
▲ 根来寺の旧境内の蓮華谷の北部から
出土した朱漆塗椀 21)
り、中塗 りの黒が表面 に模 様として出来 たものと云われて
1)
- 73 -
32)
は
け
め
ぬの め
している 「青
) 根来」、また塗り方により「刷毛目根来」「布目
根来」などがある。
根来の子守唄
根来 の子守 唄 は、昔 は紀の川・貴志川流域 では有名な民
ず
謡 の一 つとして昭 和 前 期 頃 までよく唄 われた。寝 付 かない
ぐ
で愚 図 る幼 子 をおんぶしたり、抱 っこしたお婆 さ んや お母
さ んが口 癖のよう に唄 う子 守 唄だった。しかし戦 後 生まれ
の人々にはもう耳慣れない唄かも知れない。
根 来 寺 の歴 史 を書 き終 えて、ふと思 いついたので各 地 で
唄われたものを二、三集めてみました。
歌 詞が少 しず つ違 っています 。たぶん唄い継がれているう
ちに、年々 その地 、その地 域 で変 遷、編 曲さ れていったもの
とみられます。
ねんね根来の一 和(歌山市布引 )
○ねんね根来の かくはん山でよ!
としょじ 来いのよ 鳩が鳴くよ!
○ねんね根来の 地藏さんこけてよ!
荒川粉河よ!
それがおかしゅうて ねむられんよ!
○紀州紀の川
おまん包むは 竹の皮よ!
ねんね根来の二 貴(志川町神戸 )
○ねんね根来の かくばん山でよ!
としより来いよの 鳩が鳴くよ!
○ねんね根来に 行きたいけれどよ!
室谷の娘よ!
川がおそろし 紀の川がよ!
○さんさ坂本
嫁入りしたそな 住持よ!
○ねんね根来の 夜鳴る鐘はよ!
一里きこえて 二里ひびくよ!
- 74 -
ねんね根来の三 那(賀郡誌・大正十二年
○ねんね根来の かくばん山で!
)
としよじ 来いよの 鳩が鳴く!
○ねんね根来の 坂本焼けて!
なるも ならぬも みな乞食!
色々調べてみると、大正から昭和の初期頃には「としより
来 いよの鳩が鳴 く」と歌われていたが、元 唄 は「としょう じ」
で、根来の子守唄の代表的な歌詞のようである。
この「としょう じ」、「としより」については幾 つか説 があ
り、①根来 寺にすむ鳩の鳴き声が「年寄来い」、「年寄 来い」
②「東照神」、すなわち徳川家康を指し、秀吉の根来責めの
と う し ょう じ ん
と聞こえた鳩の鳴き声をとらえて歌ったもの。
一里聞こえて 二里響く!
際、家康に援軍を求めて根来寺の鳩も同調して鳴いたと解
○ねんね根来の よく鳴る鐘は!
○ねんね根来の 不動さん焼けて!
す る説 。③ 当時、根 来寺 の末寺 であった旧 山東 村の東照寺
呼んだとすれば理解できそうです。
さ れているところから、山 東 荘の東 照 寺 僧兵 を援 軍 として
と う し ょう じ
山 東 村 郷 土 誌 には、「この寺 に相 当 数 の僧 兵 あり」と記
に援軍を求めた。など、種々の説が残っているようです。
と う し ょう じ
ばさん可愛そに 丸焼けで!
○ねんね根来の かくばん山の!
お菜を流すか 名を流す!
○ねんね根来に 行きたいけれど!
川がおとろし 紀の川を!
のこと を 唄 っていると す ると 、家 康 はま だ健 在 です から
この唄 はいつ出 来 たか不 明 です が、秀 吉 の根 来 攻 め当 時
ところでこの歌詞のなかに、「としょじ来いよ」、「としより
「東照神」はあり得ないことで、「東照寺」が正解とみられま
と う し ょう じ
来いよ」とあるが、その意 味がどうも判然 としないのが不思
す。
と う しょう じん
議である。
- 75 -
短
歌
母唄う正調根 来の子守唄
五十回忌に聞くは まぼろし
桃山 町野田原 村木 正照氏詠
葛城連峰
大師堂
大塔
本坊
大伝法院
一乗閣
▲ 根来寺一山現状 21) 根来寺南方上空から
- 76 -
根来寺を巡る千三百有余年の年表
和年号(西暦年)
根 来 と 根 来 寺 を 巡 る 記 録 (出 典 )
白鳳 5(676)年頃 修 験者 役小角 が、根 来山 を葛 城二 十八 カ所の 一行 場と定め た (岩出 町誌 )。
てんおう
天応 2(782)年
石 手 村 西 坂 本 (根 来 )に 慶 福 法 師 が 和 気 清 麻 呂 の 援 助 で 小 宇 を 建 て る (岩
出 町誌 )。注)和 気清 麻呂 は 799 年 に没 した 13)。
かんじ
ね ごろ ぼ う
ぶ ふ く じ
寛治(1087-94)年 那 智修 行者・ 根 来坊 が豊 福寺を 建立 (紀 伊名所 図会 )。
かほう
嘉保 2(1095)年
や ち と せ
しよういかくぼう
かく ば ん
ひ ぜ んの く に ふ じ つ し よ う
弥 千 歳 (後 の 正 覺 坊 、 覚 鑁 )が 肥 前 国 藤 津 荘 に 誕 生 す る 。 俗 姓 平 氏 で
たいらのまさかど
たかもちおう
い さ へ い じ
まつ
平 将 門 (高 望 王 の 孫 )の 枝 孫 。 父 は 伊 佐 平 次 、母 は松 (橘 氏 で 法 名 ・
みよ うかいに
妙 海尼 ) 1)。
かしよう
嘉承 2(1107)年
に ん な じ じようじゆいん
かんすけ
ほ う き
けいしよう
ふじつしよう
仁 和 寺 成 就 院 の 僧 正 寛 助 が 広 く 法 器 を 求 め 、 使 者 の 慶 昭 が 藤 津 荘 (仁 和
や ち と せ
や ち と せ
寺 の荘 園)の 山寺 に来て弥 千歳 を仁 和寺に 誘う 。弥 千歳、 十三 歳 1)。
てんえい
や ち と せ
かんすけ
天永元(1110)年 弥 千歳 、十六 歳で寛助 僧正 につ い て出 家、得 度 1)。
えいきゆう
しよういかくぼう
かくばん
おうじよういん
しようれんぼう
永 久 2(1114)年 12 月 30 日 、 正 覺 坊 (後 の 覚鑁 )は南 都か ら高 野山 に入 り往生 院の 青蓮房
し ん よ じみようぼう
ししゆく
ごのむろだに
で過 ごす (一説 に真 誉持 明房 に止 宿す るという)。五室谷 の最禅院
みようじやくじようにん
ぐうきよ
妙 寂 上 人のもとを尋ね、事教の密旨を受け最禅院の傍に寓居する
しよういかくぼう
さいぜんいん
1)
。
みようじやく
正 覺 坊 20 歳のとき 、最 禅院 の明 寂から 秘 印密言 を受 ける 。
ほうあん
保安 2(1121)年
かくばん
に ん な じ じようじゆいん
かんすけ
覚 鑁 は 、 仁 和 寺 成 就 院 の 寛 助 僧 正 の も と で 伝 法 灌 頂 を 受 け る (根 来 寺 展 資
料 )。
ほうあん
保安 3(1122)年
かくばん
ぐ もん じ ほ う
ごんじゆう
覚 鑁は、最 初の 求聞 持法を 勤 修 。以降 、数度 に及 ぶ(根 来寺 展資 料)。
だいじ
たいらのためさと
しよういかくぼう かくばん
大治元(1126)年 7 月 、 平 為 里 が 先 祖 相 伝 の 私 領 地 一 所を 伝法 会 料 と し て正 覺 坊 (覚 鑁 )に
し
し
寄 進 。四 至(領域 ) 東 の岡 田 村西 堺 、及 び沼 田 畠を 限 り、 南の 大河(紀の川 )
を 限 り 、 西 の 市 村 (山 崎 村 )の 東 堺 を 限 り 、 北 の 弘 田 荘 南 境 を 限 る (中 略 )。
たいらのためさと
しよういかくぼう
かくばん
平 為 里 所領寄 進状 案 3),5)。この頃 から 正 覺 坊は覚 鑁を 名乗 る 。
かくばん
いわでむら
しゆうがくえ
れんがくえ
覚 鑁 は 6 月 10 日付けで、那 賀郡 石手 村を 修学会 ・ 練学 会の 為に荘 領とし
げじよう
いわでむら
て 開 発 許 可 さ れ た い と 解 状 (申 請 )。 紀 伊 国 司 は 石 手 村 の う ち 現 作 の 田 畠 、
年 荒地 を除 く常 荒の田 畠に つい て開発 を許 可 3),5)。
だいじ
大治 4(1129)年
し や み かくばん
いわでしよう
しようりよう
に ん な じ
2 月 3 日 、沙弥 覚鑁 は石手 荘を 高野 山伝 法院の 荘 領 とする よう 京都 仁和寺
まんどころ
政 所 宛て上申 。 11 月 3 日 、覚鑁 の上 申書 を受 けて鳥 羽上 皇院庁 は「那賀
し
し ぼ う じ
郡石手村の地を正式に伝法院領石手荘として再立券し四至牓示を打つよ
き い の こ く が
う 紀伊 国衙 に命 じる 3)。
き い の こ く が
11 月 21 日 、 紀 伊 国 衙 が 検 注 の 結 果 、 同 (1129)年 11 月 21 日 付 け で
いわで しよう
「 石 手荘、 田 38 町 8 反 210 歩、う ち現作 29 町 5 反 308 歩、 荒 9 町 2 反
262 歩、畠 20 町 3 反 82 歩 、う ち現作 6 町 190 歩、荒 4 町 2 反 252 歩、他
に 田代 50 町 、池 3 カ所、荒 野 110 町、 在家(農家数 )5 宇 3),12)」と報告 。
だいじ
かくばん
しようでんぽういん
いわでしよう
大治 5(1130)年
鳥 羽上 皇が覚 鑁の 為に 小伝法 院を 創建 し 那賀郡 石手 荘を 寄進 する 。
てんしよう
かくばん
きようあい
天 承元(1131)年 覚 鑁 は 高 野 山 に 造 営 し た 小 伝 法 院 が 狭 隘 で 伝 法 の 大 法 会 を 開 き 得 な い の
だいでんぽういん
だいでんぽういん
で大伝法院を建立したいと願出て許される。そして 高野山に大伝法院を建
しようえん
いわでしよう
立 し 数 個 の 荘 園 を 賜 わ る 。 7 月 付 け で 紀伊 国 司 か ら 石 手 荘 の 四 至 内を 免
- 77 -
除 の地 とする よう 命じ る 庁 宣案が 出され、 同年 10 月 6 日 付けで鳥羽 院庁 か
いわでしよう
ら「高野山伝法院領として石手荘の四至内に国使が入勘 することを停止す
る 3),12)」 となっ た。
と
ば じようこう
りんこう
みつごんいん
らつけい
だいでんぽういん
冬 10 月、 鳥羽 上皇が 高野 山に 臨幸し 密 厳院を 落慶 、 大伝 法院に て初め て
でんぽう だ い え
ぶつぶ
こんごうぶ
たいぞうぶ
伝 法 大 会 を 行 う 。 別 に 高 野 山 の 三 部 (佛 部 ・ 金 剛 部 ・ 胎 蔵 部 )、 及 び 九 社 明
らつけい
いわで
ひろた
神 を建 てた。高 野山大 伝法 院 落慶 の荘 園 6 カ 所領とし て那賀 郡石 手・ 弘田
おかだ
やまさき
し
ぶ
た
さんどう
みつごんいん かくばん
・ 岡 田 ・ 山 崎 、 伊 都 郡 志 富 田 荘 、 名 草 郡 山 東 荘 、 及 び 高 野 山 密 厳 院 (覚 鑁
お う が
でんぽうおおえ
の 住 坊 )、 伊 都 郡 相 賀 荘 を 鳥 羽 上 皇 か ら 賜 り 伝 法 大 会 の 供 料 に 当 て る 。 ま
とおとうみ
びぜん
た 遠 江国 (静岡 県西 部)初 倉荘 ・ 備前 国(岡 山県 )香澄 荘を 賜 る 。
ちようしよう
かくばん
だいでんぽういん ざ す
ざ す
長 承 3(1134)年 覚 鑁 は 高 野 山 大 伝 法 院 座 主 と金 剛 峯 寺 座 主 を 兼 務 す る こと に なっ た 。 し か
かくばん
ねた
し 金剛 峯寺 の僧 徒等は 覚鑁を 嫉み 排斥 しよ うとす る。
ほうえん
かくばん
し ん よ
みつごんいん
こも
保延元(1135)年 覚 鑁は両 座主 を真 誉に譲 り、住 寺密 厳院 に籠る 。
ほうえん
保延 5(1139)年
ほうえん
保延 6(1140)年
かくばん
ぶ ふく じ
覚 鑁、高 野山 から 下り一 時、弘 田荘 豊福 寺(根 来寺の 地)に移 る 。
みつごんいん
かくばん
12 月 8 日 、金剛 峯寺 僧徒等 数百 人で密 厳院を 襲う 。覚 鑁はや む なく那賀
いわでしよう
かくばん
郡 石手 荘根来 山に 移り、 その 門徒の 多く は覚鑁 に従 っ て根来 山に下 る 。鳥
いんせん
そうげん
げんしん
かくげん
かくばん
羽 上皇 は院宣 を発 し金 剛峯 寺の宗 元・ 玄真 ・覺 玄ら 36 人 を配 流とし 、覚鑁
ね ご ろ いちじようさん
に 高野 山に帰 る よう促 し た が辞退 して根 来山 に留 まり根来 一乗 山と号 した 。
かくばん
しんごんみつきよう
しんごんみつきよう
覚 鑁 は 弘 法 大 師 (空 海 )の 真 言 密 教 を 研 学 し て 継 い だ が 、 一 方 で 真 言 密 教
じ よ うどき よ う
ねんぶつしゆうてき
よう
に 浄土教・念仏宗的要素を取り入れて門戸を建て五百人余の門 徒を擁し
た。
こ う じ
し ぶ た ご う
康治元(1142)年 紀 伊 国 司 よ り 志 富 田 郷 ( 現 か つ ら ぎ 町 渋 田 ) を 大 伝 法 院 領 と す る 庁 宣
が下る。
こ う じ
康治 2(1143)年
ぶ ふ く じ
かくばん
根 来 豊 福 寺 山 内 に 神 宮 寺 ・ 円 明 寺 を 建 立 供 養 。 12 月 12 日 、 覚 鑁
えんみようじ
にゆうめつ
は 根 来 山 円 明 寺 にて 入 滅 。 年 49 歳 1) 。
きゆうあん
し ぶ た し よ う
久 安 2(1146)年 鳥 羽院 宣によ り志富 田荘 が立件 され高野 山大 伝法 院領となる 。
にんじ
仁治 3(1242)年
かくばん
こぎしんごんしゆう
し ん ぎ しんごんしゆう
高 野 山 では 覚 鑁 の 没 後 も古 義 真 言 宗 と新 義 真 言 宗 の 二派 に 分 かれ 争い が
ほ う き
だいでんぽういん
絶えず金剛峯寺の僧徒が蜂起して高野山大伝法院 に放火し堂塔や僧坊
が 一宇 も残ら ず焼 失す る。
じようあん
承 安 5(1175)年
高 野山 大伝法 院と金 剛峯 寺の 僧徒が 合戦 し、 大伝法 院が 焼かれ る。
じようえい
貞 永元(1232)年 高 野山 大伝法 院座 主、金 剛峯 寺検 校の席 次を 巡り 相論 。
にんじ
仁治 3(1242)年
高野山大伝法院と金剛峯寺の合戦により、再び大伝法院が焼き討ちされ
る。
ほ う じ
宝治 2(1248)年
高 野山 大伝法 院と金 剛峯 寺の 再合戦 、三度 大伝 法院 が焼 き討 ちされ る 。
ぶんえい
文 永 9(1272)年
らいゆ
中 性院 の頼瑜 が大 伝法 院を 再興 する 。
こうあん
孝安 4(1281)年
相賀荘の住人・坂上盛澄によって金剛峯寺を焼き討ち風聞が流布し両寺
の 対立 が激化する。
しようおう
らい ゆ
正応元(1288)年 中 性 院 の 頼 瑜 (1226-1304)が 大 伝 法 院 、 及 び 大 伝 法 院 方 の 諸 寺 籍 を 根 来
に 移籍 する 。
しようおう
正応 3(1290)年
かくまん
ぶ ふ く じ
僧 覺満 が根来 山豊 福寺 西南 院で「 大伝 法院 本願縁 起」を 著作 する 。
- 78 -
か げん
嘉元 2(1304)年
えんきよう
らいゆ
根 来寺 中興の 祖頼 瑜が 没す る。齢 七十 九歳。
えいげん
えんきようぼん
延 慶 2(1309)年 僧 榮厳 が根来 寺禅 定院 にて翌年 にかけて平 家物語 (延 慶本)を書 写す る。
おうちよう
応 長元(1311)年 僧 尊勝 が仏頂 尊像 を再 興の 勧進 知識文 (束 草集)。
けんむ
建武 3(1336)年
けんむ
足 利尊 氏が根 来衆 徒に 援軍 の派遣 を要 請す る (三宝 院文 書)。
いずみのくに しんだちしよう
建武 4(1137)年
和 泉国 信達荘 を大 伝法 院領 として寄 進す る(三宝 院文書 )。
かけい
こんごう さ つ た ぞ う
嘉慶元(1387)年 金 剛薩 埵像の 造立 を開 始す る (同胎 内墨書 銘)。
めい とく
明徳 2(1391)年
大 師堂 の弘法 大師 像の 開眼 (同胎 内墨書 銘)。
おうえい
応永 11(1404)年 大 伝法 堂の三 尊中 尊大 日如 来像を 開眼 (同 胎内墨 書銘 )。
おうえい
応永 12(1405)年 三 尊左 脇尊の 金剛 薩埵 像を 開眼 (同胎 内墨 書銘)。
おうえい
応永 26(1419)年 十 輪 院 ・ 妙 薬 院 ・ 修 学 院 で 翌 年 に か け て 延 慶 年 間 に 書 写 し た 平 家 物 語 を
再 書写 。
はるゆき
応永 29(1422)年 津田春行没 野田原にて絶命、五輪塔の銘(法号「大忠一結泉)。
ちようろく
長 禄 4(1460)年
はたけやまよしなり
根 来衆 と紀伊国 守護 ・畠山 義就が 用水 相論 する (碧 山日録 )。
めいおう
明応 5(1496)年
根 来寺 大塔の 心柱 を建 立(同 心柱 銘文 )。
めいおう
明応 8(1499)年
ぶんき
文亀 2(1502)年
え ん か い ぼう
ひ ね の し よ う
根 来寺 閼伽井 坊を 九条 家領 日根 野荘代 官に 補す (九条 家文 書)。
ひ ね の し よ う
日 根野 荘入山 田村 は根来 衆の 駐留を 拒 否する (政 基公 旅引 付)。
えいしよう
永 正元(1504)年 和 泉国 の守護 細川 氏と根 来寺 が和解 する (政 基公 旅引 付)。
えいしよう
永 正 8(1511)年 根 来寺 大塔の 上層 木組 みを 施行 (同塔 内墨 書)。
永正 10(1513)年 根 来寺 大塔の 相輪 を鋳 造す る (同相 輪銘)。
永正 11(1514)年 根 来衆 、織田 信長 に味方 し三 好三 人衆 と戦う (信長 公記 )
たいえい
大永 2(1522)年
三 条実 隆が根 来寺 を参 詣す る (雪玉 集)。
てんもん
天文 3(1534)年
根 来山 内の常 住方 と客方 両能 化が対 立す る (能化 相論 之状)。
てんもん
すぎ のぼう
めいざん
たね が し ま と き たか
天文 12(1543)年 根 来 寺 杉 坊 院 主 明 算 が 種 子 島 領 主 の 種 子 島 時 尭 に ポ ル ト ガ ル 伝 来 の 鉄
けんもつ かずなが
砲 割 愛 を 要 請 し 津 田 監 物 算 長 が 使 者 と な っ て 種 子 島 か ら 銃 を 伝 え る (鉄 炮
めいさん
ひ ら の だんじよう さ え も ん
記 ・ 鉄 炮 由 緒 書 )。明 算 房 は 荒 川 荘 の 平 野 弾 正 左 衛 門 の 弟 で 根 來 寺 杉 坊
住 職で津 田自由 齋流 の鉄 砲職 15) 。
てんもん
かずなが
しばつじ か
じ かたなば
しばつじ し ん え も ん みようさい
天文 13(1544)年 算 長 は 根 来 寺 門 前 町 西 坂 本 の 芝 辻 鍛 冶 刀 場 の 芝 辻 清 右 衛 門 妙 西 に 伝 来
銃 を模 倣させ国 産化 に成 功、津 田流を 開 いた 。
てんもん
天文 16(1547)年 根 来寺 大塔が 竣工 する 。大 塔心 柱の立 柱から 51 年め 。
えいろく
永禄元(1558)年 12 月 5 日、 明算(根来 寺総門 主杉 之坊 )寂す 。
けんもつ かずなが
永禄 10(1567)年 12 月 22 日 、津 田 監 物 算 長 、小 倉 に て卒 す 。 光 善 院 久 室宗 長 禅 門居 士 。
行 年 69 歳(1498-1567 年) 。
てんしよう
天 正 5(1577)年 根 来衆 は織田 信長に 味方 し雑 賀攻 め に参加 する (信 長公 記)。
ひ ら の だんじよう さ え も ん と しみ つ
ぎようぶ と し あ き
おだのぶながこう
荒川荘平野弾 正左衛門俊光の弟刑部俊明は天正五年、織田信長公が紀
さいかのかつせん
州 雜 賀 合 戦 の 時 、 忠 節 に 働 い た 為 、 恩 賞 とし て 津 田 姓を 賜っ た
15)
(平 野 か
ら 津田 に改 姓)。
天正 8(1580)年
本 願寺 門主顕 如光 佐が 根来 寺に参 詣(宇 野主 水日 記)
天正 12(1584)年 根 来衆 、雑賀 衆とともに 岸和田 城を 攻略 する も敗退 する 。
お う ご
天正 13(1585)年 3 月 上 旬 、 羽 柴 秀 吉 の 使 者 と し て 高 野 山 僧 の 應 其 が 根 来 寺 を 訪 れ 和 睦 を
- 79 -
斡旋。しかし行人方のなかには斡旋案に反対し夜中に應其の宿所を鉄砲
で 襲 っ た 者 が い た 。 應 其 は 急 い で 京 都 に 向 か っ た (根 来 寺 破 滅 因 縁 : 寛 永
13 年 、長谷 寺蔵)。
それを聞いた秀吉は怒り、 3 月 23 日 、根来 寺を 焼き 討ち。大 伝法 院の 一画及
び 山門 を残 して焼 失。
天正 15(1587)年 秀 吉が 根来寺 山門 を大 和郡 山城 に移築 する (多 門院 日記 )。
けいちよう
慶 長 5(1600)年 徳 川家 康が根 来寺 再興 を許 可す る(義演准 后日 記)。
慶長 7(1602)年
根 来寺 に学侶 ・行人 僧の 帰山が 相次 ぐ(根 来寺 院血 脈)。
慶長 9(1604)年
智 積 院 の 日 誉 ・ 長 谷 寺 の 秀 算 が 根 来 寺 大 伝 法 院 の 再 興 を 願 い 出 る (真 言
諸 寺院 記)
慶長 15(1610)年 紀 州(和 歌山 )藩主 浅野 幸長 が大伝 法堂 の丈 六三尊 像を 返還 する 。
げん な
元和元(1615)年 根 来 寺 の 復 興 院 坊 五 十 九 坊 (学 侶 坊 八 、 行 人 坊 五 十 一 )と な る (浅 野 家 文
書 )。
かんえい
寛永 10(1633)年 根 来寺 の復興 院坊 七十 八坊 (定条 々之 事)。
寛永 13(1636)年 智 積院 の日誉 が「根 来破 滅因縁 」 を著 述す る。
えんぽ う
延宝 5(1677)年
根 来寺 行人方 の十 二坊 を追 放す る(伝法院 絵図 )。
てん な
天和 3(1683)年
げんろ く
元禄 3(1690)年
錐 鑽不 動尊を 開帳 する (伝 法院 絵図 )。
12 月 26 日 、覚鑁 上人に 「 興教 大師 」の 尊号 を追 贈。
ほ うえい
宝永 4(1707)年
護 持院 の隆光 、根来 復興 の勧 進を 願い 出る 。この 頃八 十六坊 が復 興す る。
宝永 7(1710)年
護 持院 の隆光 、根来 復興 の勧 進願 い出 が許 可される (隆 光僧 正日 記)。
げんぶん
元 文 4(1739)年
根 来寺 の復興 勧化 許可 を願 い 出る (桃 井家文 書)。
ほうれき
宝暦元(1751)年 紀 州 藩 主 徳 川 宗 直 が 行 人 方 を 追 放 し 、 両 学 頭 制 を 復 活 す る 。 不 動 堂 の 四
大 明王 像を 造仏(同 像の 台座 銘文)。
宝暦 2(1752)年
不 動 堂 の 五 大 明 王 像 、 和 歌 山 栗 林 八 幡 宮 出 開 帳 (誘 仏 会 見 聞 録 )。 紀 州 領
新 義派 寺院を 根来 寺の末 寺とし て再編 する (条 々制 定)。
宝暦 4(1754)年
江 戸円 福寺が 根来 寺復 興勧 化(勧 化遵 行帳)。
宝暦 5(1755)年
大 坂の 森幸安 画が 根来 山絵 図を 描く(国立 公文書 館所 蔵)。
かんせい
寛政元(1789)年 根 来山 内の有 住寺 院が 三十 一か寺 。無住 寺六 十二か 寺。
寛政 9(1797)年
根 来 寺 の 学 頭 ・ 法 住 が 藩 主 治 宝 に 根 来 寺 大 伝 法 院 の 再 建 を 願 い 出 る (再
建 意趣 )。
寛政 10(1798)年 根 来 寺 の 学 頭 ・ 法 住 が 不 動 堂 の 梵 鐘 を 鋳 造 。 高 野 山 奥 の 院 に 興 教 大 師 御
廟 を造 立。
寛政 11(1799)年 清 信院 (紀州 藩主 ・重 倫の 生母 )奉納 厨子 を大 塔に納 入す る 。
寛政 12(1800)年 清 信院 の旧居 ・ 吹上 御殿 を本 坊とし て移築す る 。
ぶん か
文化元(1804)年 本 坊に 常光明 真言 殿が 落慶 供養(清信院 の御 願)。
文化 5(1808)年
ぶんせい
文政 4(1821)年
聖 天堂 を蓮 華院か ら光 明殿 の西 の池畔 に移 築す る(同堂 の棟札 銘)。
ほうじよ
法 恕が 大伝法 堂の 再建 普請 に着工 する (縁 起略 記)。
文政 10(1827)年 大 伝 法 堂 が 再 建 さ れ 落 慶 供 養 、 丈 六 三 尊 像 の 修 理 完 成 、 開 眼 供 養 (墨 書
銘 ・ 榮性)。清信院 の奉 納厨 子を 大日如 来像 の胎 内に 安置す る 。
- 80 -
文政 11(1828)年 大 塔に 安置し た四 仏四 菩薩 の開 眼供養 「 大伝 法堂 像立金 総入 方」
文政 13(1830)年 加 納諸 平が根 来寺 紀行 文「 山菅 雑記 」を著 す。
てんぽ う
天保 6(1835)年
根来山大門の再建に着手する。
天保 12(1841)年 信海が「根来寺山門の建立勧化序」を著す。
か えい
嘉永 5(1852)年
根来寺大門の落慶供養が行われる(同門棟札)。
めい じ
明治 5(1872)年
根来寺は豊山・智山の両本山(新義真言宗)に所属する。
明治 19(1886)年 根嶺座主職の称号を復活する。
昭和 20(1945)年 根来寺は単立寺院として独立する。
昭和 28(1953)年 根来寺が新義真言宗を設立する。
昭和 37(1962)年 本坊の吹上御殿が火災で焼失する。
昭和 47(1972)年 根来寺が新義真言宗の総本山となる。
昭和 55(1980)年 大伝法堂の丈六三尊像の調査。大型農道の建設計画により根来寺坊院跡の本格
的な発掘調査が開始される。その結果、往時の根来寺の規模が 400 万平方メート
と う じ き
しつき
ル(40 ㌶)余りと壮大であったことが判明。また陶磁器、漆器、仏具、武器などのおび
ただしい遺品が出土した。
昭和 60(1985)年 根来寺大門の修理落慶供養を実施する。
▲ 根来寺本坊
江戸時代の建築
- 81 -
根来寺関係寺院と末寺
寺院名
大伝法院
伝法堂
大 塔
大師堂
不動堂
虚空蔵院
円明寺
律乗院
蓮華院
愛染院
明王院
菩提院
薬師寺
万福寺
毘沙門寺
薬師寺
安祥寺
正楽寺
毘沙門寺
多聞寺
国分寺
地蔵寺
毘沙門寺
阿弥陀寺
毘沙門寺
阿弥陀寺
正楽寺
栄福寺
円満寺
泉福寺
安楽寺
薬師寺
西明寺
安養寺
地福寺
正覺寺
無量寿寺
閼伽井寺
(大正 12 年編 那賀郡誌下より)
所 在 地
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村西坂本 根来山
根来村 西坂本
根来村 押川
根来村 森
根来村 堀口
根来村 奥安上谷
根来村 川尻
根来村 今中
池田村 今畑
池田村 東国分
池田村 東国分
山崎村 金池
山崎村 原
山崎村 波分
山崎村 畑毛
山崎村 金屋
山崎村 湯窪
山崎村 中野黒木
山崎村 中野黒木
山崎村 山村
山崎村 境谷
山崎村 相谷
岩出町 岡田
岩出町 溝川
岩出町 高瀬
岩出町 大町
岩出町 清水
宗 派
新義真言宗大本山
新義真言宗大本山
新義真言宗大本山
新義真言宗大本山
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
- 82 -
境内坪数
3,796(坪)
2,463
566
556
852
802
459
306
382
265
62
112
114
138
75
95
55
1,239
215
115
103
80
214
149
255
225
185
174
98
114
153
169
369
113
641
寺院名
観音寺
寿福寺
毘沙門寺
西方寺
地蔵寺
神明寺
大日寺
遍昭寺
長泉寺
観音寺
観音寺
光明寺
阿弥陀寺
安養寺
地蔵寺
所 在 地
宗 派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗智山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
新義真言宗豊山派
新義真言宗智山派
岩出町 宮
岩出町 西野
岩出町 高瀬
川原村 上丹生谷
小倉村 上三毛
上岩出村 西国分
上岩出村 水栖
上岩出村 北大池
上岩出村 南大池
上岩出村 東坂本
上岩出村 新田広芝
上岩出村 中迫
上岩出村 野上野
東野上村 柴目
粉河町 猪垣
- 83 -
境内坪数
488
210
57
258
172
162
196
168
105
128
56
172
94
271
127
引用文献・
参考史料
順(不同 )
.著者・編者.書名.発行年.発行所
54
.竹内理三編.角川日本地名大辞典 和(歌山県 .角
) 川書店
.日野西真定編.新挍高野春秋編年輯録.享保四 ( 年).懐英著 復(刻
.かつらぎ町史編集委員会編.かつらぎ町史・古代中世史料編
.総本山金剛峯寺編.金剛峯寺文書 一(~七 .昭
) 和 年.歴史図書社
48
.那賀郡役所編.那賀郡誌 上(・下 .大
) 正
( 年).那賀郡役所
.和歌山県史編纂委員会編.和歌山県史中世史料一.和歌山県
12
1923
.田辺市史編纂委員会編.田辺市史第4巻・
史料編一.田辺市
( .私
) 費出版
( 年).小学館.
( 年).小学館
.松田文夫編.訳注紀州根来寺史料.平成十
.金田一春彦・
他編.国語大辞典.昭和
.尚学図書編集.故事ことわざの辞典.昭和
)
.仁井田好古編.紀伊続風土記第一~五輯.天保十 ( 年) 復(刻版 .臨
) 川書店
.東京大学史料編纂所.大日本古文書.高野山文書 一(~八 .昭
) 和 年 復(刻 .東
) 京大学出版会
1839
1719
.東京大学史料 京(都醍醐寺三宝院所蔵写本 上(・
中・下 .根
) 来要書上
.和歌山市史編纂委員会編.和歌山市史第四巻・古代中世史料
30
61
61 1986
1998
1986
- 84 -
1 No
2
3
4
5
6
7
8
9
14 13 12 11 10
.高野山文書刊行会編.奮高野領内文書三.昭和 年.高野山文書刊行会
.岩出町誌編集委員会編.岩出町誌.昭和
( 年).岩出町
.根来寺展示実行委員会.根来寺展資料.昭和 年.根来寺
( 年).歴史図書社
1983
14
63
.総本山金剛峯寺編.高野山文書第七巻 津(田流鐵砲薬由緒書 .昭
) 和
31
.鉄炮と紀州の傭兵集団. http://www.m-network.com/sengoku/kisyu/teppou.html
.伊川健二.鉄砲伝来の史料と論点 上( .『
) 銃砲史研究』三六一、二〇〇八年
.伊川健二.鉄砲伝来の史料と論点 下( .『
) 銃砲史研究』三六二、二〇〇九年
.中西 晃.野田原ものがたり.平成十三年三月.近藤印刷 自(費出版 )
月.近藤出版社
.近藤安太郎.系図研究の基礎知識.全四冊. 年
.岩出市立民俗資料館展示資料
2
.山下重良.邪馬台国の建国から女王卑弥呼の時代・
株式会社高木プリント.平成
1990
年 月.私費出版
9
( 年)正月.和歌山帯屋伊兵衛出版 復(刻
.池田一朗.歴史地理・
地名便覧. http://www.ikedakai.com/chimei/chimei-kinai.html
.高市志友編.紀伊国名所図会六之巻下 那(賀郡 .文
) 化九
.松田文夫.紀州・戦国時代.平成七年七月.私費出版
22
)
.下中邦彦編集.日本歴史地名大系第 巻 和(歌山県の地名.安藤精一・五來重監修 .) 年.株式会社平凡社
.根来寺文化研究所.根来寺の歴史と文化財.平成二十一 ( 年)一月.根来寺文化研究所
2009
1812
- 85 -
48
1973
51
1976
.フリー百科事典『ウィキペディア( Wikipedia
)』
32 31 30 29 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15
年 私(費出版 )
- 86 -
.松原正勝.南蛮人・
津田自由斎.平成
1988
.松原正勝編.津田家系譜. 年
34 33
10
著者略歴
著者
山 下 重 良 ( や ま し た し げ よ し ) 京 都 大 学 博 士 (農 学 )
農 学 及 び 歴 史 研 究 家 1935 年 紀 の 川 市 生 ま れ
・和歌山県果樹園芸試験場長・全国園芸試験場長会長を歴任
・元 研究法人青果物選別包装技術研究組合理事長・日本農業新聞記者
・現在 紀の川市桃山町歴史の会々長
農学分野著作
・果樹園土壌管理と施肥技術.博友社・果実の成熟と貯蔵.養賢堂
・ 昭 和 農 業 技 術 発 達 史 第 5 巻 共 著 . 農 林 水 産 技 術 情 報 協 会 等 ・ 他 10 数 著 書
主要論文
・ハッサクの低温貯蔵に関する研究.園芸学会誌
・温州ミカン選果荷造工程における損傷要因と損傷防止に関する研究.園芸学会誌
・ Factore Causing Deterioration in the Quality of Satsuma Mandarins During Sorting and Packing Processes,
with Some Suggestions to Improve the Processes . Proc.Int.Citric : 1981.Vol.2,No.2.
・カンキツ園のスプリンクラ防除に関する研究.農業土木学会論文集
・カンキツ園のスプリンクラ防除と潅漑法に関する実証的研究.和歌山果樹試験場
特別研究報告 2 号
・ 蛇 紋 岩 地 帯 ナ シ の ク ロ ロ シ ス に 関 す る 研 究 . 農 林 省 園 芸 試 験 場 報 告 A7
・ 他 、 数 10 編 (略 )。 雑 誌 記 事 等 多 数 。
歴史関係著作
・ 調 月 の 地 名 起 原 と 歴 史 . (株 )高 木 プ リ ン ト 社
・ 邪 馬 台 国 の 建 国 か ら 女 王 卑 弥 呼 の 時 代 (株 )高 木 プ リ ン ト 社
・ 和 国 大 和 国 の 古 代 史 ・ ふ る 里 の 歴 史 /伝 承 等 、 7編
http://www.syamashita.net/history/
- 87 -
- 88 -