永遠に生きておられる方 ヨハネの黙示録4章1節~11節 2015 年 9 月27日(日)礼拝説教 皆さん、お早うございます。 先週の水曜日は、秋分の日でした。その日を境にして、私は、半袖から、長袖に、切り替え、その上に、ベストを羽 織り、また、さらに、薄手のジャンパーを、着込むことに、なってしまいました。 これから、12月22日(火)の冬至に 向かって、どんどん、暗くなって行くことが、何となく、憂鬱に、感じられます。 秋分の日は、お彼岸でも、ありました ので、大勢の方々が、お墓詣りなどに、行かれたようです。 好間教会を創立された、小野芳枝先生に、以前、お世話になったと、仰っておられる方から、小野先生の、お墓詣り に、行きたい、という、ご希望の、お電話が、ありました。 私たちの教会では、この一年間、石井フクさま、酒井喜美子さま、小野芳枝さま、新妻幸雄さま、猪股ノブヨさま、田 中二郎さま、田中友子さんの、お義兄さま、と、7名の身近の方々が、天に、召されました。 天に召された後、一体、 私たちは、どうなるのでしょうか。聖書には、何ヶ所かに、そのことが、暗示されては、おりますが、余り、明確では、 ありません。その中で、一番、明確に、記されているのが、今日の、ヨハネの黙示録4章の、1節から11節までです。 今日は、そのことに、ついて、御言葉は、何を、私たちに、語っているのか、という、ことについて、ご一緒に、学んで まいりたいと、存じます。 最初に、ひとこと、お祈りさせていただきます。 父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。今朝、このようにして、私たちが、あなたに、礼拝を献げることが出 来ます幸いを、心から、感謝いたします。どうぞ、この礼拝、始めから最後まで、あなたさまが、導いて下 さい。感謝して、イエスさまの、尊い、御名前によって、お祈りいたします。 アーメン。 ヨハネの黙示録4章1節。 その後、私は見た。見よ。天に 一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるの が聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」 〝ラッパのような声″とは、栄光の、イエスさまの声のことです。〝必ず起こる事″とは、イエスさまの、ご計画・み こころは、必ず、遂行される、ということです。 ヨハネの黙示録4章2節。 たちまち私は御霊に感じた。 すると見よ。 天に一つの座があり、 この時、イエスさまの十二弟子のひとり、ヨハネは、ローマ帝国の官憲に、捕えられて、現在の、トルコの、エペソの 沖合、南西90 Km の、エーゲ海に浮かぶ、南北16 Km、東西9 Kmの、三日月形の、小さな島、パトモス島に、 流刑となって、おりました。そんなヨハネが、聖霊なる神さまに導かれて、見た幻は、天上の、ありさまでした。その 光景の、ど真ん中に、天に上げられて、父なる神さまの、右の座に着いておられる、イエスさまの御姿が、見えたの です。 ヨハネの黙示録4章3節。 その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには緑玉のように見える虹があった。 〝碧玉″というのは、ジャスパーのことで、石英の結晶です。マダガスカルを主産地とする、宝石です。 〝赤めのう″というのは、レッド・アゲートのことで、これも、石英の結晶で、イタリアのシチリア島で、最初に、採掘 されました。これは、家庭円満・子宝のお守りとして、現在では、インド産のものが、主に、用いられて、おります。〝 緑玉″とは、エメラルドのことです。イエスさまの、お姿は、ジャスパーや、レッド・アゲートのように見え、イエスさま が、座っておられる場所の周囲には、エメラルドのような、虹が、かかっていたと、ヨハネは、証言しているのです。 ヨハネの黙示録4章4節。 また、御座の回りに二十四の座があった。金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。 二十四人の長老とは、旧約の、十二人の族長と、新約の、十二人の使徒たちのことを、指しているのでしょうか。 〝白い衣″とは、私たちが、イエスさまからプレゼントされている永遠のいのちの道を、歩み続けている間に、少し ずつ、少しずつ、イエスさまの香りのする者へと、変えられて行く、聖化の歩みのことを、指しております。 〝金の冠″とは、私たちが、聖化の歩みを、歩み続けた終着点のことで、〝栄化″と呼ばれている、ゴールのこと です。 ヨハネの黙示録4章5節。 御座から、いなずまと声と雷鳴が起こった。 七つのともしびが御座の前で燃えていた。 神の七つの御霊で ある。 四十年前、私が、銀行の人事部で採用担当をさせていただいていた頃、福島県や、栃木県にある高等学校を、巡回 していた時、会津田島町から、奥日光に向かう途中の道路の脇の樹に、雷が落ちて、樹が、炎上して、しまったこと が、ありました。圧倒的な、大自然のパワーには、とても、人間などの力では、及びもつかないものであるということ を、まざまざと、実感いたしました。 〝七つのともしび。七つの霊。″これは、聖霊なる神さまのことです。衝撃的な稲妻と、雷鳴とが、イエスさまの御座 から発している時、同時に、イエスさまの御座の前には、聖霊なる神さまのともしびが、明々と、燃えて、おりました。 大自然の恐ろしさを、つくづく、実感して、自分の無力さを覚える私たちの前には、聖霊なる神さまの、ともしびが、 明々と、燃え上がり、私たちを、招いてくださって、おられることを、私たちは、知るのです。 聖霊なる神さまは、私たちを、イエスさまへと、導いて、くださる、御方なのです。 ヨハネの黙示録4章6節。 御座の前は水晶に似たガラスの海のようであった。 御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四 つの生き物がいた。 ガラスの発祥は、紀元前15世紀の、エジプト文明に、遡ります。〝海″は、ガリラヤ湖を指す言葉が、使われてお ります。水晶に似た、ガラスのガリラヤ湖のようであった。″ガリラヤ湖は、朝日を反映して、キラキラと、静かに、 水晶のように、輝いておりました。その、幻想的な光景は、私たちを、霊の世界へと、導いて行ってくれます。 その、霊の世界に、四つの生き物が、登場して、まいります。その、四つの生き物は、すべてを見、彼らの目は、神 さまと、その被造物とに、注がれて、いるのです。 ヨハネの黙示録4章7節。 第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持 ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。 獅子は、ライオンで、野生動物の、長です。雄牛は、家畜の、長です。人間は、被造物全体の、長です。鷲は、鳥類 の、長です。これらは、生物界における、最も、崇高なもの、最も、賢いもの、を、指して、おります。その中で、最も 強いのは、人間なのです。 ヨハネの黙示録4章8節。 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。 彼らは、昼も夜も絶 え間なく叫び続けた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 神であられる主、万物の支配者、昔いまし、 今いまし、後に来られる方。」 この四つの生き物は、イエスさまの御座の、東西南北の、四つの方向に、配置されて、おりました。六つの翼が、四 つの生き物にあった、ということは、合計、24の翼が、あったことになり、その数は、24人の長老の数と、符号して おります。四つの生き物の、回りも、内側も、目で、満ちておりましたので、この四つの生き物は、全てのものを、見 ることが、出来ました。そして、24時間、絶え間なく、イエスさまに、賛美を、献げ続けていたのです。その賛美は、 何よりも、‶聖さ″が、先に、まいります。 イエスさまは、聖なる御方です。この、‶聖″という言葉は、元来、‶分離″を意味し、この分離は、完全な純粋さを示 しております。パトモス島に、流刑になっていたヨハネを、支配していたのは、ローマ帝国であったかのように、見え ましたが、本物の、万物の支配者は、イエスさまで、あったのだと、ヨハネは、ここで、あかしして、いるのです。 柴の中の火の炎の中から、モーセに現れた、真の、唯一の神さまは、モーセに対して、‶わたしは、ある、という者で ある″と、仰ったことが、旧約聖書・出エジプト記3章14節に、記されて、おります。 全く同じ、表現で、イエスさまは、‶わたしは、門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。″と、仰って おられることが、新約聖書の、ヨハネの福音書10章9節に、記されております。その、‶わたしは、ある″の、過去 のかたちが、‶昔いまし″という表現です。 現在の、かたちが、‶今いまし″、そして、将来、‶再臨″という、かたちで、もう一度、やって来てくださる、という、表 現が、‶後に来られる″なのです。 イエスさまが、今、私たち全員に、もれなく、プレゼントしていて、くださる、‶永遠のいのち″の、‶永遠″とは、‶初 めの特定もなく、終わりの特定もない″、太古の昔から、大昔、過去、現在、将来さらに、ずっと、ずっと、先の、先に 至るまで、変わることのない、いのち、のことを、指して、いるのです。 ヨハネの黙示録4章9節。 また、これらの生き物が永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、 初めの特定もない、永遠(アイオーン)から、終りの特定もない、永遠(アイオーン)へと、向かって、生き続けておら れる、イエスさま、という意味が、‶永遠に生きておられる″という表現の意味となって、おります。 天上では、今、イエスさまは、父なる神さまの、右の座、すなわち、同格の座に、着いて、おられるのです。その、イ エスさまに向かって、被造物のすべてが、礼拝を通して栄光と、誉れと、感謝とを、献げて、いるのです。 ヨハネの黙示録4章10節。 二十四人の長老は御座に着いておられる方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、 自分の冠を御座の前に投げ出して言った。 初めの特定もない、永遠から、終りの特定もない、永遠へと、向かって、生き続けておられる、イエスさまへの礼拝 に、24人の長老たちも、加わります。長老たちは、イエスさまの御前に、ひれ伏して、礼拝を献げ、自分たちの冠を、 イエスさまの御座に、投げ出して、います。イエスさまに、最高の地位が、与えられて、いるのです。 自分たちは、最も低い位置に、へりくだって、座しているのです。‶自分の冠″とは、私たち、ひとり、ひとり、にとって は、具体的に、一体、何なのでしょうか。或る方にとっては、自分のプライドで、あるのかも、しれません。 別の方にとっては、自分の社会的地位であるのかもしれません。他の方々にとっては、もしかすると、お金で、ある のかも、しれません。いずれにしても、人さまには言えない、自分だけの、密かな、アイドル。それが、自分にとって の、偶像に、なり得るのです。 ヨハネの黙示録4章11節。 「主よ。 われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。 あなたは万物を創造し、 あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 9節の、‶感謝″は、ここでは、‶力″に、置き換えられております。イエスさまの、天地創造の、御業は、力の業で、 あるからです。現実に、私たちの、目に見える世の中は、悪が支配しているかのように、見えるかも、しれません。 でも、イエスさまは、私たちの住む、この世の中を、見捨てることは、なさいません。 この世の中は、イエスさまの、ご支配の中にある、世の中で、あるから、です。 イエスさまは、万物を創造され、それらを、ご自身の目的のために、再創造、されるのです。 悪の支配は、現実なのかも、しれませんが、イエスさまのご目的は、変わらないのです。 私たちが、この地上での歩みを、歩み通して、天に召される時。その、‶時″は、いつ、やって来るのでしょうか。 ずっと、ずっと、遠い、遠い、先のことなのでしょうか。その時、私たちは、イエスさまの御座の前に、跪いて、イエス さまに、礼拝を献げる者と、させられて、いるのでしょうか。先に、天に上げられて、イエスさまに、礼拝を献げている、 私たちの、先輩の方々と並んで、イエスさまの前に、胸を張って、立つことの出来る者と、させて、いただきたいと、 心から、願います。 お祈りさせて、いただきます。 父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。御言葉を、ありがとうございました。あなたの、ご栄光を、賛美いた します。この一年間で、7名もの、私たちの親しい方々が、天に召され、今、私たちは、寂しい気持ちの中に、立たさ れております。でも、あなたは、そんな、私たちの、寂しい気持ちを、よく、解っていて、くださいますから、感謝いた します。新しく、あなたが、私たち、ひとり、ひとりに、与えて下さった、週を、あなたの、 みこころに、ふさわしく、過 ごして行くことが、出来ますように、弱い、私たち、ひとり、ひとりを、守り、導いて下さい。 イエスさまの、尊い、御名前によって、お祈りいたします。 アーメン。
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