2016年2月14日礼拝説教

 ペテロの信仰告白
マルコの福音書8章27節~30節
2016年2月14日(日)礼拝説教
皆さん、お早うございます。
先週に引き続いて、今週も、マルコの福音書の連続講解説教を
通して、みことばに、耳を傾けて、まいりたいと、存じます。
イエスさまと、弟子たちは、ガリラヤ湖の周辺で、病人の癒しや、
苦しんでいる方々を救うという、奉仕活動に励んで来られました
が、ここで、そのような活動には、一応、終止符を打たれ、
イエスさまは、弟子たちとの、親密な関わりを、持とうとして、
おられました。
それで、ガリラヤ湖畔を離れ、イスラエルの北方、ピリポ・カイザ
リヤ地方へと、北に向かって、歩いて、旅に、行かれました。
ガリラヤでの宣教期が終わり、これより、十字架準備期へと、
移行して、行かれたのです。
ここが、マルコの福音書の、転換点と、なって、おります。
そこに、この、信仰告白が、記されて、いるのです。
最初に、ひとこと、お祈りさせていただきます。
父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。
私たちを、このように、礼拝に招いてくださったことを、感謝いた
します。今日は、イエスさまは、私にとって、どなたであるのか、
という、信仰告白を、みことばを紐解きながら学んでまいります。
どうぞ、あなたが、解り易く、教えてください。
感謝して、イエスさまの、尊い、御名前によって、お祈りいたし
ます。 アーメン。
マルコの福音書8章27節。
それから、イエスは 弟子たちと
ピリポ・カイザリヤの 村々へ
出かけられた。その途中、
イエスは 弟子たちに 尋ねて
言われた。 「人々は わたしを
だれだと 言って いますか。」
ヨルダン川は、イスラエルの最北端にある、ヘルモン山の南の
山麓から、発している湧き水が、集まって、美しい渓流となって
一旦、ガリラヤ湖に、流れ込んで、おります。
その渓流は、今でも、とても美しく、イエスさまの時代には、その
地方は、‶ピリポ・カイザリヤ地方″と、呼ばれておりました。
その、美しい渓流を見ながら、イエスさまと弟子たちは、上流へ、
上流へと、向かって、歩みを、進めておられました。
その途中で、イエスさまは、弟子たちに、極めて重要な、質問を
いたしました。
その質問は、‶わたしが だれ だと″という、質問でした。
‶イエスさまが、だれで、あるか″これは、福音の真髄の質問で
す。イエスさまは、‶人々は″というかたちで質問しておられます
が、この質問は、本当は、‶弟子たちは″、‶あなたがたは″、
さらに、‶あなたは″という、質問なのです。
イエスさまは、‶人々は″という、かたちで、質問されることに
よって、弟子たちが、その質問を、自分で自分に問うて、自分が
そのことを、自覚することを、待って、おられたのです。
そのことは、私たち、ひとり、ひとり、についても、同じです。
イエスさまは、私たち、ひとり、ひとりに、‶あなたは、わたしを、
だれだと、言うのですか″と、質問して、おられるのです。
マルコの福音書8章28節。
彼らは 答えて 言った。
「バプテスマの ヨハネだ と言って います。
エリヤだと 言う人も、
また 預言者の ひとりだと
言う人も います。」
イエスさまは、すでに、人々が、イエスさまのことについて、どう、
考え、何を、言っているのかを、ご存知で、あられました。
しかし、あえて、弟子たちに、尋ねられたのは、弟子たちの、
信仰告白を、引き出そうと、して、おられたのです。
これに対して、弟子たちは、イエスさまに、他人の意見を列挙し、
個人的な、信仰告白を、避けようと、いたしました。
その第一は、‶バプテスマのヨハネだ″という、意見でした。
ヘロデによって、首をはねられた、バプテスマのヨハネが、生き
返って来たのだと、イエスさまを見る、という意見でした。
二番目は、‶エリヤだ″という、意見でした。
当時のユダヤ人は、エリヤが、世の終わりに、もう一度、やって
来る、と考えておりました。
最後の審判に備える存在としての、エリヤが、来ると。
すなわち、生ける、真の、唯一の、神さまの究極的な、みわざの
準備、道備えとして、エリヤが、もう一度、やって来ると、考えて
いたのです。
しかし、イエスさまは、バプテスマのヨハネこそが、その、エリヤ
なのだと、仰っておられることが、この後、マルコの福音書9章
13節に、記されております。
三番目は、旧約聖書に登場して来る、数々の預言者の中の、
ひとりに、過ぎないのだ、という意見でした。
人々は、イエスさまが、生ける、真の、唯一の、神さまから遣わ
された、聖なる存在であろうと、見ては、おりました。
しかし、それは、先駆けのひとりであろう、という見方であって、
イエスさまが、決定的な、究極の、救い主であられるとは、
解って、いなかったのです。
マルコの福音書8章29節。
すると イエスは、
彼らに 尋ねられた。
「では、あなたがたは、わたしを
だれだと 言いますか。」
ペテロが 答えて イエスに言った。
「 あなたは キリスト です。 」
イエスさまの、最初の質問は、‶人々は、わたしを、だれだと、
言っていますか″というものでした。
イエスさまの、次の質問は、‶では、あなたがたは、わたしを
だれだと 言いますか″と、なって、おります。
‶人々は″では、なくて、‶あなたがたは″、すなわち、‶あなた
がた自身は″、さらに、‶あなた自身は、イエスさまを、だれだと
言いますか″と、質問の的を、絞って、おられるのです。
イエスさまは、弟子たちに、主体性を、求められました。
ヨソ
答えは、他人さまが、何と言うか、にでは、なく、自分自身が、
どう、確信するか、にあるのです。
信仰は、私たちの心の、深みに、しっかり、立て上げる、私たち
の、個人的な、確信に、他ならないのです。
そこで、ペテロが、弟子一同を代表して、告白しました。
これは、同じ告白を、イエスさまにささげる人たちの、総代と、
して、告白したのです。
決して、ペテロだけが、素晴らしかったわけでは、ありません。
ペテロは、後になって、8章33節で、イエスさまから、手厳しく、
叱られておりますし、この告白の後の、数々の、ペテロの失敗
から、私たちには、そのことが、知らされているからです。
ペテロが代表して行った信仰告白は、‶あなたは、キリストです″
でした。この、信仰告白は、一体、どういう、意味なのでしょうか。
それは、‶イエスさまこそが、私の救い主です″という意味です。
‶キリスト″とは、‶救い主″という、意味なのです。
この信仰告白には、救い主であられるイエスさまに、自分の、
すべてを献げます、ということと、自分は、たとえ、どんなことが
あっても、イエスさまに、従い続けます、ということの、両方が、
含まれて、おります。
このことは、丁度、先週の、目の見えなかった人のように、私た
ちには、最初は、はっきりとは、解らないのですが、少しずつ、
少しずつ、はっきりと、解って行くのです。
イエスさまが、私の救い主であられると、信仰告白をして、イエス
さまに、私たちの全てを、お任せして、イエスさまの後に、従って
歩いて行く、途中で、私たちは、ひとり、ひとり、様々な、体験を
いたします。
その、様々な体験を通して、私たちには、イエスさまが、救い主
であられる、ということが、だんだん、はっきりと、見えて来るの
です。
それは、私たち自身が、解っているかどうかの、いかんに関わ
らず、イエスさまが、キリスト、救い主であられる、ということ、
そのものに、それだけの力が、あるから、なのです。
信仰告白には、それだけの、力が、あるのです。
マルコの福音書8章30節。
すると イエスは、
自分の ことを
だれにも 言わない ようにと、
彼らを 戒められた。
イエスさまは、ペテロが皆を代表して行った、信仰告白に対して、
ご自身が、救い主であられる、ということを、否定も、肯定も、
しておられません。
その上で、‶自分のことを だれにも言わないように″という、
沈黙命令を、与えておられる、ということは、イエスさまが、
救い主であられる、ということを、正しいと、認めておられること
を、意味して、おります。
どうして、イエスさまは、‶自分のことを だれにも 言わない
ように″と、仰ったのでしょうか。
それは、その時は、まだ、その時期ではなく、神の国の奥義、
すなわち、イエスさまが、キリスト、救い主で、あられるという
ことは、まだ、隠されていたから、なのです。
イエスさまの十字架と復活が、まだで、あったから、なのです。
しかし、現代に生きている私たちの時代には、イエスさまが、
救い主であられる、ということを、声を大にして、声だけでは
なくて、全身全霊をもって、あかしすべき時代が、到来いたして
おります。
私たちの、全存在をかけた、信仰告白によって、イエスさまの
体である、教会を建て上げるべき、時なのです。
イエスさまが、私たち、ひとり、ひとりの、救い主であられる、
ということが、私たち、ひとり、ひとりに、少しずつ、少しずつ、
解らせられてまいります。
イエスさまが、救い主であられる、ということが、最初は、或る
程度、解る。でも、はっきりとは、解らないかも、しれません。
私たち、それぞれに与えられる体験を通して、イエスさまが受け
た苦しみが、見えて来る。そして、イエスさまの十字架が、見え
て来る。十字架を背負っていらっしゃるイエスさまが、私たちに
とって、本当の救い主であられることが、見えて、まいります。
十字架の上で、イエスさまが、私たちの罪を、始末してくださり、
私たちを、罪から、救ってくださったことが、見えてまいります。
そして、さらに、そのイエスさまに、私たちは、自分自身の、
十字架を背負って、従って行くのだ、ということが、見えて、
くるのです。
その、全行程のスタートラインにあるのが、イエスさまは、私の
主、また、救い主であられる、という、信仰告白なのです。
お祈りさせて、いただきます。
父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。
みことばを、ありがとうございました。
あなたの、ご栄光を、賛美いたします。
今日は、イエスさまが、私の救い主であられる、という信仰告白
を学ぶことが出来まして、感謝いたします。
イエスさまが、私の主、私の救い主であると、信仰告白すること
が、私の信仰生活の、スタートラインです。
それから、私たちは、イエスさまに在って、永遠のいのちの道を
歩み続けます。その歩み続けている、途中での、様々な体験を
通して、私たちには、イエスさまが、私の救い主であられる、
ということが、さらに、はっきりと、見えてまいります。
どうぞ、私たちが、足を踏み外すことがないように、弱い、私たち
ひとり、ひとりの、歩みを、イエスさまが、守り、強めて、ください。
感謝して、イエスさまの、尊い、御名前によって、お祈りいたし
ます。 アーメン。