日本におけるテクノロジー・エバンジェリストの実態

Student Essays of Osaka University Strategic Management Seminar (2016) 4, 133-157.
大阪大学経済学部中川功一ゼミ論文 (2016) 4, 133-157.
平成 27 年度
大阪大学経済学部
経済・経営学科
日本におけるテクノロジー・エバンジェリストの実態
前
指導教員
田
中
133
岳
川
功
一
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大阪大学経済学部中川功一ゼミ論文 (2016) 4, 133-157.
概要
1984 年、Macintosh の市場拡大を目的として、アップルによって設置されたテクノロジー・
エバンジェリストは、顧客となる消費者に難解な技術を分かりやすく伝えることでシェアの拡大
に貢献した。エバンジェリストは、その後米国系 IT 企業を中心に導入され、2000 年代半ばに
は日本マイクロソフトを先駆けとして外資系 IT 企業の日本法人にも取り入れられた。
クラウドの隆盛と共に先端の技術分野を組み合わせたシステム開発が増えた 2010 年前後を境
に、複雑で高度な技術が企業活動に対して及ぼす影響が大きくなったため、複数のテクノロジー
分野を包括的に理解している人材がさらに重要になり、エバンジェリストの活動領域もマーケテ
ィングや広報などの分野へと幅広く拡大してきた。
個人の視点と肉声によって、技術を使って何ができるのかを伝えることで、難解な技術の中核
となる考え方やメリット・デメリットを、顧客やエンジニアに実感をもって知ってもらうことが、
エバンジェリストの存在意義である。自社の製品やサービスを積極的に売り込むマーケティング
とは異なり、エバンジェリストは、技術に中立的な立場から中長期的な視座を持って書籍の執筆
や紙面への連載、プレゼンテーションなどを行うことが特徴である。
本稿では、このような IT 企業におけるテクノロジー・エバンジェリストの現状を、
「1. 自立
型」
「2. 兼任型」
「3. 体裁型」に分類して分析したうえで、エバンジェリストに必要とされる素
養やエンジニアの歩むキャリアの変化、これからの企業によるエンジニアに対する研修の在り方
について、インタビューなどを基に考察した。
筆者が行ったインタビューによると、エバンジェリストに必要な素質は、
「1. 好奇心」、
「2. 共
感力」、
「3. こだわりと自信」、
「4. 熱意」、
「5. 実用的技術」であるとされ、キャラクターとして
の人間性や主体性が評価されていた。第一線で活躍するエバンジェリストは、こうした素養をベ
ースとしながら、目的を持った部署移動や転職を通じて積極的にキャリアアップに取り組んだ結
果として、現在の地位を確立している。
今後、ますます重要となるであろう、包括的な製品やサービスを分かりやすく伝道していくエ
バンジェリスト人材を育成するため、企業は社員の主体的なキャリア形成を可能とするような教
育制度・人事制度を充足させる必要がある。また、エバンジェリストを志すエンジニアは、自ら
目的意識を持って積極的にキャリアを選び取っていくことが重要である。
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目次
第 1 章 序論 ...................................................................................................................... 136
1.1. 本研究の背景........................................................................................................... 136
1.2. 先行研究 .................................................................................................................. 137
1.3. 本研究の目的........................................................................................................... 138
1.4. 本研究の意義........................................................................................................... 139
1.5. これまでのマーケティング分野におけるエバンジェリズム.................................. 140
第 2 章 エバンジェリスト概論 ......................................................................................... 142
2.1. 米国におけるエバンジェリストの発足 .................................................................. 142
2.2. 日本におけるエバンジェリストの受容 .................................................................. 143
2.3. 日本におけるエバンジェリストの役割の拡大 ....................................................... 144
2.4.エバンジェリストの類型と具体的な活動................................................................. 145
2.4.1. タイプ 1 独立型 ............................................................................................... 145
2.4.2. タイプ 2 兼任型 ............................................................................................... 146
2.4.3. タイプ 3 体裁型 ............................................................................................... 147
2.5. エバンジェリストの存在意義と役割 ...................................................................... 147
第 3 章 エバンジェリストのキャリアと研修プログラム................................................. 150
3.1. エバンジェリストへのニーズの増大 ...................................................................... 150
3.2. インタビューを基にしたエバンジェリストに必要とされる素質 .......................... 150
3.2.1. 好奇心 ............................................................................................................... 151
3.2.2. 共感力 ............................................................................................................... 151
3.2.3. こだわりと自信 ................................................................................................ 152
3.2.4. 熱意 .................................................................................................................. 152
3.2.5. 実用的技術........................................................................................................ 152
3.3. エバンジェリストのキャリアと研修 ...................................................................... 153
3.4. エバンジェリストの教育(日本ヒューレット・パッカードの事例) ................... 153
3.4.1. エバンジェリスト・プログラム ....................................................................... 154
3.4.2. One HPE アーキテクト・プログラム ............................................................. 154
3.5. 日本ヒューレット・パッカードの事例に見るエンジニアのキャリア ................... 154
第 4 章 結論 ...................................................................................................................... 156
4.1 エバンジェリズムの進化と機能 .............................................................................. 156
4.2 エバンジェリストの素養と育成 .............................................................................. 156
4.3 提言 .......................................................................................................................... 157
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第1章
序論
1.1. 本研究の背景
2012 年、ICT 産業の市場規模は全世界で 3.6 兆ドルであり、2018 年には 4.3 兆ドルとなる年
平均 3.4%の堅調な成長が見込まれている1。技術の発展・普及に伴って情報社会の飛躍的進歩に
よる経営の質的改革、通信・インターネットの融合による新たなビジネスモデルの創造や、グロ
ーバルな企業間競争に伴うシステムの再構築などの新潮流が見られる。
そのなかで、近年、日本の戦略的 IT 活用の遅れが指摘されている。経済産業省が行った「平
成 26 年情報処理実態調査2」によれば、製品・サービスの開発強化やビジネスモデル変革といっ
た「攻めの IT」への投資に対して取り組んでいる日本企業は、約 2 割であるという結果が出て
いる。この結果を受け、経済産業省は日本における戦略的 IT 活用の遅れを強調し、モデルとし
て「攻めの IT 経営銘柄」を公表するなどの推進活動を行っている。
また、アイ・ティ・アール(ITR)が実施した「国内 IT 投資動向調査 20153」によれば、
「ビ
ッグデータの分析・活用」
「IoT のビジネス活用」
「デジタルマーケティングの推進」といった戦
略的 IT 投資は、重要度指数/実施率共に中位以下のポジションにとどまっている。ITR のシニ
ア・アナリストである舘野真人氏は「技術が変革期を迎えているなかで、IT 部門には自らの役
割や立ち位置も含めた大胆な変革が求められている」と分析している。
企業経営におけるシステムの立ち位置も大きな変化を見せている。2012 年に発刊されたアジ
ャイル同人誌である「Ultimate Agile Stories 24」において、当時マイクロソフトに在籍してい
た長沢智治氏は、
「この 10 年間(筆者注:2000 年~2010 年)でビジネスと IT の関係は大きく
変化しました。IT は、ビジネスにとってただ便利なものから、不可欠なものにまで進化を遂げ
ています」と述べたうえで、ますます高速化するビジネスモデルに柔軟に対応する、新しいシス
テム開発の必要性を説いている。
このように、多くの企業にとって、IT の積極的活用はいまや経営課題の根幹として位置付け
られており、自社に最適な情報システムを構築できるか否かが企業の命運を分けるといっても過
言ではない。IT と経営の距離はますます縮まっていくことが予想され、IT 部門だけに任せてし
1
総務省ICTがもたらす世界規模でのパラダイムシフト
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h26/html/nc122110.html
2
経済産業省 平成 26 年情報処理実態調査
http://www.meti.go.jp/press/2015/06/20150604003/20150604003.pdf
3
ITR 国内IT投資動向調査報告書2015
https://www.itr.co.jp/report/itinvestment/S15000100.html
4
長沢 智治「次の10年に向けた開発環境との向き合い方」
http://re-workstyle.com/articles/ultimate-agile-stories-iteration-2/
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まうのではなく、企業は常に動向に応じてシステムを最適化するために、その時々に利用可能な
最新テクノロジーについて広く、深く精通していなければならない。
しかし、IT は加速度的に高度化・複雑化し、難解さの度合を増している5。様々な IT ベンダ
ーが、目的・用途に応じて無数の製品・サービスを開発し提供しているため、実際に個々のユー
ザーがそれらすべての内容を理解した上で、最適解を導き出すことは至難の業といえる。また、
情報システムにまつわる製品やサービスを提供するベンダーにとってみても、こうした状況は望
ましくない6。いくら優れた新製品を開発しても、IT エンジニアや経営層がその価値を正しく認
識していなければ、採用してもらえないためである。
IT ベンダーが訴求しなければならない顧客は、システム・インテグレータやソフトウェア開
発会社、エンドユーザー企業において全体の設計を行うアーキテクト、ソフトウェア開発を担当
する開発者、さらに情報システムの導入・運用を担当するシステム管理者やネットワーク設計者
など、非常に多岐にわたる。
このように困難を極める IT マーケティングの現場において、中立公正の立場から IT の価値
を”伝道”する、テクノロジー・エバンジェリスト(以下、特に断りのない限りエバンジェリスト
とする)という役職が注目されている。日本におけるエバンジェリストは、マイクロソフト、ア
ップル、アマゾン、アイ・ビー・エム、オラクル、ヒューレット・パッカードなど、外資系の
IT 企業を中心に導入されており、顧客の問題解決をサポートするために営業に同行したり、セ
ミナーで講演を行ったりして、自社の製品やサービス、ノウハウをわかりやすく説明し、理解を
促す役割を担っている。近頃、彼らの活動は IT 業界にとどまらず、プレゼンテーションのプロ
フェッショナル7として大学や企業の教育に参画したりと、多方面で活躍の場を広げている。
1.2. 先行研究
エバンジェリストに関する先行研究は極めて少ない。2005 年に Growth Resources 社がまと
めた Technology Evangelists: A Leadership Survey8では、マネジメントの文脈で組織にエバン
ジェリストを取り入れる方法が紹介されている。彼らはエバンジェリストというポジションにあ
る人物を分析し、そのリーダーシップやパーソナリティを定義している。
日本で出版されている書籍では、日本マイクロソフトの西脇資哲氏によって『エバンジェリス
5
Yahoo!JAPAN ニュースBusiness
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20150331-00010000-biz_jinji-nb
6
@IT 「難解技術を分かりやすく伝道する」マイクロソフトのエバンジェリスト
http://www.atmarkit.co.jp/ad/ms/evangelist0607/evangelist01.html
7【澤円×西脇資哲に学ぶ】プレゼンテーション&デモンストレーションの極意!
https://codeiq.jp/magazine/2015/01/20911/
8 Technology Evangelists: A Leadership Survey
http://www.growthresourcesinc.com/pub/res/pdf/TechEvangelist.pdf
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ト養成講座』
『エバンジェリストの仕事術』などが著されているが、個人的経験を紹介するもの
にとどまっており、その発祥や役割を客観的に考察しているものではない。ガイ・カワサキ氏に
よる『「革命家」の仕事術』
、橋本大也氏による『データサイエンティスト』においては、エバン
ジェリズムについて、ある程度の客観的視座をもって分析がなされているが、日本におけるエバ
ンジェリズムの本質的な考察がなされているわけではない。
また、主に B to C の市場において、口コミマーケティングの一種に分類される、消費者のオ
ピニオンリーダーを作って商品の販促を狙う手法をエバンジェリズム・マーケティングと名付け
ている書籍や記事910,も存在する。B to C 市場におけるエバンジェリストについては 1.5 節で詳
述する。インターネット上で散見される記事も、ITpro をはじめとした各誌の連載の中で、外資
系企業に所属するエバンジェリストが自らのエバンジェリスト観を紹介するものに留まってお
り、その歴史や実態、役割についてまとめた研究・文献は存在しないのが現状である。
1.3. 本研究の目的
前節で述べたように、エバンジェリストという職位が先行して取り入れられた米国では、多少
類似する議論は存在したかもしれないが、日本では皆無である。
しかし、IT 業界におけるビジネスサイクルの加速は留まることを知らない。既存の IT の概念
すら覆すような破壊的イノベーションが次々と起こり、商品やサービスを選ぶユーザー企業にと
って、新たな技術に対するフォローアップが極めて困難になってきている。複雑化する情報化社
会において、経営課題や IT ニーズに対する新たな解決法を伝道することで、マーケットの大幅
な開拓を進める必要性が高まっていることは間違いない。
現状、エバンジェリストを職位として導入しているのは主に外資系の IT 企業であるが、技術
のメリットを理解させてマーケットを拡大していくというプロセスが必要となる業界は、ますま
す複雑化する製品・サービスを勘案すれば、IT 業界にとどまらないであろう。難解な技術を分
かりやすく伝えることが必要とされるこれからの企業にとって、ニーズに即したエバンジェリス
トの育成は急務である。
エバンジェリストが行う活動の恩恵は、新技術の伝播に加えて、エバンジェリストが講演や執
筆を通じて個人として著名になることで、企業のブランディングに貢献するなどの付随的効果も
期待される。また、年齢を重ねた経験豊富なエンジニアにとってのキャリア選択肢のひとつとし
ても、包括的に他分野にわたる技術を伝道するエバンジェリストは有望である。
9
アートシステムコンサルティング 顧客エバンジェリストを開発する方法
http://www.artsystemconsulting.com/archives/6206
10
市場と生活者の変化で強い注目を集めるクチコミマーケティング | Web 2.0がクチコミ
を連れてきた! | Web担当者Forum
http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2006/12/06/478
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それゆえ、筆者はエバンジェリストの現状について、その本質と意義を考察する必要を感じて
いた。エバンジェリストのあるべき姿や担うべき役割と現実との乖離を認識することは、ベンダ
ー企業にとってもエバンジェリストという職位の設置上、必要不可欠である。
そこで本研究は、エバンジェリズム活動に活発な外資系 IT 企業を中心として、エバンジェリ
ストの役割を包括的に分析することで、新技術とその概念を伝道するエバンジェリストの実態を
明らかにするとともに、企業によるエバンジェリスト育成のための研修の在り方について考察す
ることを主たる目的としている。
1.4. 本研究の意義
エバンジェリストとは元来、キリスト教における伝道者をさし、その発祥はドイツの神学者、
ルターであると言われている11。1980 年代における IT 革命の幕開けと共に、新技術を技術者・
消費者に伝播させていく職業を総称して(テクノロジー・)エバンジェリストと呼ぶようになっ
た12。IT 業界を中心にビジネスが複雑化・高速化する現代において、この傾向は先行する米国
のみならず、世界的潮流になりつつある。
今後、あらゆるビジネスの IT 化に従い、新技術・新概念のマーケティング活動において伝播・
拡大を目指すうえで、エバンジェリストは自らが発信する内容のみならず、その手法やメディア
の使い方などを、今以上に深く選び取っていく必要がある13。また、ある程度企業から独立しな
がら活動し、あらゆる IT 製品・サービスを総合的に取り扱うエバンジェリストに対しては、組
織内外の相互接続や標準化、報酬体系の整備も求められる。企業がエバンジェリストをどう扱う
かという課題も解決されなければならない。
ところが、1.3.で示したように、エバンジェリズムという概念の発祥や日本への輸入、そして
現状や課題を詳細に分析し、まとめた議論は未だない。エバンジェリストという言葉自体がバズ
ワードとして流通しているため、定義や役割が曖昧なまま、各企業が職位として導入しているケ
ースもあると考えられる。
本研究の意義は、情報社会におけるマーケティング活動に寄与する最適なエバンジェリストの
素養を明示することによって、これまでバズワードとして流通していた「エバンジェリスト」お
よび「エバンジェリズム」という概念を整理し、総括したことにある。現在活躍するエバンジェ
11
ウィキペディア エバンジェリスト
https://ja.wikipedia.org/wiki/エバンジェリスト
12
Technology Evangelists: A Leadership Survey
http://www.growthresourcesinc.com/pub/res/pdf/TechEvangelist.pdf
13
西脇資哲『エバンジェリストの仕事術』http://www.amazon.co.jp/dp/B00ZI4OIRY/
注:本稿の分析対象は企業が職位として設置するエバンジェリズム活動についてであるが、
ここでは単に「新技術のマーケット開拓」という広い枠組みで考察する。
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リストの経歴や活動を分析したことによって、新たな技術概念の普及を目指す企業の人材育成や、
ステップアップを目指す IT エンジニアのキャリア形成の一助となることを期待している。
1.5. これまでのマーケティング分野におけるエバンジェリズム
エバンジェリズムとは、広く言えば企業のマーケティング活動の一部である。企業が新たな技
術を開発し、それが市場に受け入れられていく過程では、莫大な費用を投じたマーケティング戦
略が展開される。
本稿で取り扱うテクノロジー・エバンジェリズムは、時代と共に加速化・複雑化するイノベー
ションの中でますます顕在化する、難解な技術を市場に普及させる困難を解決するため、企業が
編み出したマーケティング手法だと捉えることができる。新技術の普及を目的とした広義のエバ
ンジェリズム14について、これまで為されてきた議論を読み解いていきたい。
新技術の普及過程についての最も著名な議論に、E. ロジャーズによる『イノベーションの普
及(1962 年)』がある。ロジャースは革新性に基づき、アイデアが普及・拡散する過程の採用者
を標準的な 5 カテゴリに分け、これら採用者の数を時間軸にわたってプロットすると累積度数
分布の曲線が S カーブとなることを発見した15。
各カテゴリは採用順に「イノベーター(innovator)」
「初期少数採用者(early adopter)」
「早
期多数派(early majority)」「後期多数派(late majority)」「出遅れ者(laggard)
」と呼ばれて
いる。初期少数採用者は、周囲の人々に影響を及ぼす信頼される人物であり、購入する意味やベ
ネフィットを周囲の人々に伝えていく。イノベーターとは違って技術オタクではないため、具体
的なメリットやベネフィットを思い浮かべ、その価格や技術的な不確実性などのリスク要因も考
慮したうえで採用するとされる。
こうした特徴から、初期少数採用者は周囲の人々に大きな影響力を有する。初期少数採用者は、
口コミによって保守的な多数派に対して自分自身の体験に基づいた情報を提供し、新技術に対す
る態度を変化させる。つまり、企業にとってはオピニオンリーダーの支持を得られるか否かが、
新技術が広く一般に普及していくために決定的に重要だとされる16。
また、新技術を普及させる際に避けては通れない障害物の一つに、1991 年にジェフリー・ム
ーアが発見・提唱した「キャズム(chasm)」という概念がある。キャズムとは、プロダクトラ
イフサイクルの各ステージを、テクノロジーライフサイクル(technology lifecycle)として捉え
なおした際に、顧客類型間に存在する消費の非連続性を指す17。プロダクトライフサイクルの導
Wikipedia 普及学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E5%8F%8A%E5%AD%A6
15『イノベーションの普及』エベレット・ロジャーズ
http://www.amazon.co.jp/dp/4798113336/ref=cm_sw_r_tw_dp_PGcVwb0C6JG95
16『キャズム』ジェフリー・ムーア(1991)
http://www.amazon.co.jp/dp/4798101524/ref=cm_sw_r_tw_dp_ZjcVwb0QHJ75V
17『事業創成 -- イノベーション戦略の彼岸』小林 敏男
http://www.amazon.co.jp/dp/4641164371/ref=cm_sw_r_tw_dp_WkcVwb1C3CM89
14
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入期後期から成長期に移行する際の溝(=キャズム)は大きく、多くの破壊的技術はその溝に落
ち込み、製品としての成長期を迎えることができないとされる18。
そして、ロジャーズの新技術の普及過程やムーアによるキャズム理論などを統合して実践に用
い、いくつものベンチャー企業を成功に導いた S. ブランクは、『アントレプレナーの教科書』
において、スタートアップ企業が最初にフィードバックを受け、最初の顧客となってもらうべき
ユーザーを、エバンジェリスト・ユーザーと名付けている。
新しい技術に対して敏感ではあるものの、技術オタクのように新製品を無批判に受け入れるの
ではなく、公正公平な立場から消費者としての意見を述べるエバンジェリスト・ユーザーを顧客
とすることで、企業側はトライアル・アンド・エラーを繰り返し、真に顧客が必要とする製品開
発を進めることができる。同時に、エバンジェリスト・ユーザーが独自のコミュニティで行う口
コミによって、保守的な多数派の中でも市場を広げることが可能になるとされる19。
このようなかたちで議論されているエバンジェリストとは、自ら商品を愛好して意見を述べた
り、口コミを展開するオピニオンリーダーとなって宣伝を行ったりする消費者の一人であり、本
稿で述べるところの、テクノロジー・エバンジェリストとして企業が職位を任命するものとは大
きく異なることを指摘しておきたい。近年注目されているマーケティング手法であるアンバサダ
ーやアドボケーツ20も、ビジネス記事などではエバンジェリストと称される場合もあるが、本稿
で取り扱うテクノロジー・エバンジェリストとは明確に区別される必要がある。
ただ、インターネットの浸透や価値観の多様化、商品やサービスの複雑化によって従来の広告
手法が通用しなくなってきている。そうした社会情勢を背景として、市場を拡大する新たなかた
ちの手法として、アンバサダーやアドボケーツを媒介とした伝道・啓蒙活動を通じ、継続的な生
態系を作り上げていくという B to C 市場のマーケティングの変化は、B to B のテクノロジーを
生業とする企業にとっても、キャズムを超えるために意識的に職位としてテクノロジー・エバン
ジェリストを設置するという活動のインセンティブとなることは否定できない。
IT 企業が提供する製品・サービスが複雑化するに伴って、企業が乗り越えるべきキャズムは
ますます増加しているが、B to C 市場で期待される口コミマーケティングは、B to B 市場では
起こりにくいため、技術を提供する企業自体が、その普及を後押しするような仕組みを作ってい
く必要がある。職位としてのテクノロジー・エバンジェリズムが積極的に取り入れられている現
象の背景には、こうした事実があると考えられる。
18『アントレプレナーの教科書』
スティーブン・G・ブランク
http://www.amazon.co.jp/dp/4798117552/ref=cm_sw_r_tw_dp_cKcVwb0ZWKGDX
19『アンバサダー・マーケティング』 ロブ フュジェッタ
http://www.amazon.co.jp/dp/B00G3YOM3I/ref=cm_sw_r_tw_dp_eygVwb0W6TG05
主にソーシャルネットワークで製品やサービスを紹介する、商品や企業のファンのこと。
アンバサダーは企業から報酬を得て伝道・啓蒙活動をしている者を指すのに対して、アド
ボケーツは自らの興味関心から無償で伝道・啓蒙活動をしている者を指す。
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第2章
エバンジェリスト概論
2.1. 米国におけるエバンジェリストの発足
1970 年代以降、シリコンバレーを中心に始まった IT ベンチャーの隆盛において、創業者は
新たな事業を起こし、特に IT 分野における新たな概念を伝道していく役割を担うため、必然的
に事実上のエバンジェリストとなった21。現在ではプレゼンテーションのプロフェッショナルと
しても取り上げられることの多い、アップルのスティーブ・ジョブズ氏や、マイクロソフトのビ
ル・ゲイツ氏らは、創業当初から公の場で様々なデモンストレーションを含んだプレゼンテーシ
ョンを行い、熱狂的なファン(=広義のエバンジェリスト)を獲得することで、市場に自社が掲
げた新たな概念を普及させていった。
企業における職位としてのエバンジェリストは、1984 年に発売された Macintosh に対応する
サードパーティー用ソフト外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得するため、アップル
が設置した職種が発祥であるとされている2223。初めてアップルのエバンジェリストとなったの
はマイク・ボイチ氏や、ガイ・カワサキ氏らであり、彼らは主に外部のソフトウェア会社に対し
て Macintosh の優位性を説いて回り、シェア拡大のための土台づくりに尽力したと言われてい
る24。
ガイ・カワサキ氏は『革命家の仕事術』のなかで、本稿 1.5 章で述べた消費者のなかのオピニ
オンリーダーとしてのエバンジェリストも紹介している。エバンジェリストを「
(マッキントッ
シュの)熱狂的で手の付けられない巨大恐竜」と呼び、「彼らはあなたの(会社の)手が回らな
い時間や場所で、あなたの(製品の)旗を掲げてくれる。商品に弱いところがあれば、補強して
完成させる。競争相手がわいろと劣悪な商品で誘惑してきたときは、対抗してくれる(※括弧内
は筆者注)
」というメリットが紹介されている25。
ここで述べられているのは、本稿 1.5.におけるアンバサダー、アドボケーツを中心とした伝
道・啓蒙活動であるから、エバンジェリストが発足した当初から明確な定義が与えられていたわ
けではないことが伺える。黎明期において、エバンジェリストとは広い意味で「新たな概念を持
つ商品やサービスの伝道・啓蒙活動を行って、それを市場に浸透させていく役割を持つもの」と
21
Technology Evangelists: A Leadership Survey
http://www.growthresourcesinc.com/pub/res/pdf/TechEvangelist.pdf
※もっとも、彼らが当時からエバンジェリスト(伝道者)と呼ばれていたわけではない。
22 解説:日本 IBM が新たに選出した「ソフトウェア・エバンジェリスト」の役割
http://japan.cnet.com/news/commentary/20419613/
23 Technology Evangelists: A Leadership Survey
http://www.growthresourcesinc.com/pub/res/pdf/TechEvangelist.pdf
24 Wikipedia ガイ・カワサキ https://ja.wikipedia.org/wiki/ガイ・カワサキ
25『
「革命家」の仕事術』ガイ・カワサキ
http://www.amazon.co.jp/dp/4903212378/ref=cm_sw_r_tw_dp_tJbWwb15NJTN0
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定義されていたとしても差し支えないであろう。
アップルの事例では、ソフトウェア会社などに伝道することで Macintosh を中心としたプラ
ットフォームを確立する職位としてのエバンジェリストと、一般消費者に向けて商品を伝道する
広義のエバンジェリスト活動(現在ではアンバサダーやアドボケーツと呼ばれる)の相乗効果が、
Macintosh の市場拡大に大きな貢献をしたと考えられる。
2.2. 日本におけるエバンジェリストの受容
日本においては、ソフトバンクの孫正義氏らがインターネット黎明期に将来におけるインター
ネットの展望やビジネスビジョンについて説いて回り、自らのマーケットを開拓するという、事
実上のエバンジェリズム活動を実践していた26。
アップルのガイ・カワサキ氏と同じように、職位として確立された地位をもってエバンジェリ
ストとして活動を行ったのは、マイクロソフトの西脇資哲氏である。地元の IT 企業でエンジニ
アとしての技能を身に着けたのち、日本オラクルのプリセールス・エンジニアとして勤務した西
脇氏は、さらに日本マイクロソフトに転職するにあたって、自ら望んでどの部署にも所属するこ
となく、独立してマイクロソフト製品の伝播を行う役割を担うことになり、当時の米国本社の副
社長が用いていたエバンジェリストという職種を借用したと述べている27。
日本マイクロソフトにおけるエバンジェリストは、2005 年時点でその数は 5 名28にまでのぼ
っている。近年では西脇氏をはじめとして、同じく日本マイクロソフトの澤円氏29らがプレゼン
テーションのプロフェッショナルとして注目され始め、ビジネス、アカデミックなど分野を問わ
ず様々な場でメディア露出が増えている30。
こうした形で、企業が職位として導入する形態のエバンジェリストは年々増加し、日本アイ・
ビー・エムは 24 名(2010 年 9 月時点)31のエバンジェリストを、日本ヒューレット・パッカー
ドは 9 名(2016 年 1 月時点)32のエバンジェリストを擁している。他にもアマゾン、アップル
26『志高く
孫正義正伝 新版』井上 篤夫
http://www.amazon.co.jp/dp/4408552151/ref=cm_sw_r_tw_dp_LO-Vwb071DYSG
27『エバンジェリストの仕事術』 西脇資哲
http://www.amazon.co.jp/dp/B00ZI4OIRY/ref=cm_sw_r_tw_dp_n9-Vwb06RRKPP
28「難解技術を分かりやすく伝道する」マイクロソフトのエバンジェリスト
http://www.atmarkit.co.jp/ad/ms/evangelist0607/evangelist02.html
29
マイクロソフト 澤円さんに見る”未来を描くプレゼンテーション”
http://www.strategic-presentation.com/sawa-madoka-presentation/
30【澤円×西脇資哲に学ぶ】プレゼンテーション&デモンストレーションの極意!by
Windows 女子部|CodeIQ MAGAZINE https://codeiq.jp/magazine/2015/01/20911/
31 解説:日本 IBM が新たに選出した「ソフトウェア・エバンジェリスト」の役割
http://japan.cnet.com/news/commentary/20419613/
32 日本ヒューレット・パッカード
エバンジェリスト
143
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大阪大学経済学部中川功一ゼミ論文 (2016) 4, 133-157.
をはじめとした多くの外資系企業の日本法人や、ソフトバンク33など一部の日系 IT 企業がエバ
ンジェリストを雇用し、製品やサービスの普及を競っている。
2.3. 日本におけるエバンジェリストの役割の拡大
外資系 IT 企業を中心として導入されたエバンジェリストの役割は、2010 年を境にますます
拡大した。従来は担当製品ごとに擁立されていたエバンジェリストが、クラウド、セキュリティ、
ソフトウェアなどの「分野」という切り口から、より広い視点で伝道・啓蒙活動を行うように変
遷している34。こうした現象の背後には、従来の製品ごとのエバンジェリスト制度では、製品の
マーケティングマネージャーとの差がわかりにくくなっていたことや、ますます複雑化するテク
ノロジーとその応用分野の拡大を前に、多岐にわたる IT 分野を包括的に統合して説明する必要
性が増してきたことという変化がある35。
このように、一人ひとりのエバンジェリストの対応分野が拡大するにつれて、企業が発表する
新製品の技術的な紹介を、広報に代わってエバンジェリストが担うケースが見られるようになっ
た36。エバンジェリストが行う広報活動の特徴は、単に自社製品の強みを売り込むだけではなく、
これまでの技術の概況や歴史、他社製品との比較検討、今後の市場展望などの包括的な視点が盛
り込まれていることが特徴である。
こうした客観的、中立的な観点から新技術の良さを紹介することで、複雑な IT 体系における
製品やサービスの位置づけが、消費者やサードパーティーに対して具体的に伝わり、より広範な
カスタマーへの普及に繋がると考えられている37。
エバンジェリストの活動は、メディア向けの自社製品の広報活動だけではなく、各社のエバン
ジェリストが IT ビジネスの今後の展望について誌面上で対談を行ったり38、外資系企業から見
た日系企業の IT 活用における問題点について連載を行ったりと39、ますます拡大してきている。
http://www8.hp.com/h41271/404D.aspx?cc=jp&ll=ja&url=http://hp-information.www8.h
p.com/jp/ja/hp-information/evangelist/
33
【特別対談】合格倍率 5 倍!!ソフトバンク内の「エバンジェリスト養成」システムとは? 国
内トッププレゼンター2 人が明かすプレゼンの極意(後編)|プレゼンは「目線」で決まる
― No.1 プレゼン講師の 人を動かす全技術|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/78325
34 解説:日本 IBM が新たに選出した「ソフトウェア・エバンジェリスト」の役割
http://japan.cnet.com/news/commentary/20419613/
35 筆者インタビューによる
36 HP エバンジェリストに聞く、オリンピックに向けて IT ができること:オープンソース
ソフトウェアに注目せよ! ビッグデータ解析最前線 - ITmedia エンタープライズ
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1410/23/news002.html
37 筆者インタビューによる
38 クラウドエバンジェリスト 4 者対談:
「エンタープライズクラウド」は、どこへ向かうの
か? http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1411/18/news011.html
39「小川大地の「ここが変だよ!? 日本の IT インフラ」
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日本マイクロソフトの西脇氏や澤氏は、自らの名前で書籍の執筆やプレゼン講座などの活動を行
っているうえに、個人としてのメディア露出も非常に多いため、日本マイクロソフトの「お抱え
タレント」としての看板的存在を確立している40。
2010 年以降のエバンジェリスト概念の普及、活動の多様化とともに、エバンジェリストは、
製品・サービスを提供するベンダー企業にとってますます重要な広告塔になるとともに、消費者
や IT ユーザー企業にとっても公平で有用な情報源としての役割を持ちつつある。このように、
エバンジェリストの役割は現在大きく拡大していると言える。
2.4.エバンジェリストの類型と具体的な活動
一般的なエバンジェリストの具体的な活動は、講演や記事執筆、インタビュー対応、コミュニ
ティ活動などを行うことである41。2.3.で述べたように、エバンジェリストの役割がますます拡
大している今、企業によってエバンジェリストの位置づけは様々ではあるが、本稿では企業から
の自立性という観点から、その活動を 1. 独立型、2. 兼任型、3. 体裁型の三段階に分けて分析
する。なお、本項での類型は、筆者がエバンジェリストのメディア露出を調査した結果と、現役
で活動しているエバンジェリストへのインタビューによる。
2.4.1. タイプ 1 独立型
特定の企業にいながら、実質上は特定の部署に所属することなく、独立して活動しているエバ
ンジェリスト。本稿では独立型と呼ぶ。
スケジュールなども自己裁量で決めている場合があり、たとえば、日本マイクロソフトの西脇
氏は、スケジュールは講演依頼などを基に自ら決定している42。このようなケースには、他には
アトラシアンの長沢智治氏などが挙げられる。独立型エバンジェリストはメディア露出が非常に
多く、最も目立つタイプであるが、完全に独立して活動している独立型の数自体は多くない。こ
れは、前職で業界に名前が売れてヘッドハントされたり、自らを企業に売り込んで転職したりし
た、ベテランのエバンジェリストが独立型という特殊な雇用形態を取るためである。
独立型エバンジェリストは連載や執筆活動よりも、プレゼンテーションのプロフェッショナル
として、新製品のデモンストレーションやメディア発表を主に担当する。マイクロソフトの
TechNet など、IT 技術者のコミュニティで講演することもある。
独立型エバンジェリストの一つの特徴として、SNS を使った不特定多数への発信を自ら活発
に行う傾向があり、Facebook や Twitter を有効活用してユーザーの声を掬い上げたり、プレゼ
http://www.itmedia.co.jp/keywords/kokohenit.html
40 西脇資哲『エバンジェリストの仕事術』http://www.amazon.co.jp/dp/B00ZI4OIRY/
41 解説:日本 IBM が新たに選出した「ソフトウェア・エバンジェリスト」の役割
http://japan.cnet.com/news/commentary/20419613/
42 西脇資哲『エバンジェリストの仕事術』http://www.amazon.co.jp/dp/B00ZI4OIRY/
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ンテーションのアポイントを取ったりする。SNS では訪れた場所や趣味、所感などの日常的な
内容を積極的に発信しており、ユーザーとの距離の近さもアドバンテージになっている。
近年ではプレゼンテーションのプロフェッショナルとして、ネットや書籍などを通じて業界を
問わず広く活躍をするエバンジェリストもいるが、そのようなタイプのエバンジェリストは基本
的に独立型である。
2.4.2. タイプ 2 兼任型
自ら現場で勤務しながら、執筆や講演も担当しているエバンジェリスト。本稿では兼任型と呼
ぶ。日本ヒューレット・パッカードの小川大地氏など、日本における外資系 IT 企業でエバンジ
ェリストと名の付く職種の最も多くが、このタイプに分類される。
兼任型エバンジェリストは現役で設計を行っているため、現場の実情に明るいという強みはあ
るものの、必然的にエバンジェリストとしての活動は制約を受ける。時間的な制約から兼任型エ
バンジェリストの活動はネットへの連載や執筆活動が中心である43。また、企業独自の講演会、
製品発表会などの場でプレゼンターを務める場合も多い44。兼任型エバンジェリストが SNS で
個人的な発信をしているケースは稀である。
兼任型のエバンジェリストの職位を持つ社員は、プリセールス・エンジニア、プリセールス・
コンサルタント、ソリューション・エンジニア(以下三職種をまとめてプリセールスと呼ぶ)を
兼務していることが多いが45、これはコミュニケーション能力・プレゼンテーション能力に長け
ていながら、最新技術や事例に詳しく技術を実際のビジネスに適用するというプリセールスの職
務が、エバンジェリストに求められる能力と酷似しているからである。
プリセールスとは、ある程度方向性の決まったシステムについて最適な製品やソリューション
などのノウハウ提供を行ったり、提案依頼に対して、ユーザーが採用するためのシステム設計や
提案、プレゼンを行うのが主な職務である46。
外資系 IT 企業では、発注前後で担当を分けて分業することで、SE が構築段階に年単位で掛
かりきりになって新しい製品や技術、方法論を学ぶ時間が取れなくなるリスクを回避し、常に最
新技術を用いた提案ができるようになっている。こうした役割分担の結果、構築プロジェクトに
参加しない分、非常に多くの設計・提案を経験するプリセールスは、先進技術を用いた設計・提
小川大地(日本 HP) - ITmedia 著者別インデックス
http://www.itmedia.co.jp/author/209662/
44 大人気のコンパクト統合基盤!「HP CS200 Hyper-Converged」
43
~他社とどう違う?どうしてこんなに安い?~
http://h50146.www5.hp.com/events/seminars/info/techpower2015.html
45
ITMedia“レアキャラ”? 一見謎の人「プリセールス」
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1501/29/news011.html
46 プリセールス・セールスエンジニアの仕事内容とは。| 職種図鑑 |転職@type
http://type.jp/s/dictionary/software/sales_e.html
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案のプロフェッショナルとなる。
外資系 IT 企業では、こうした部分最適化の結果として、最新技術動向に明るく、顧客目線で
システム設計・提案やプレゼンテーションができる人材が育つ土壌があるため、エバンジェリス
トの登用に繋がっていったのだと考えることができる。
2.4.3. タイプ 3 体裁型
体裁としてエバンジェリストの名を持っているものの、事実上の広報担当者がエバンジェリス
トを自称しているケースが、主に日系 IT 企業に見られる。本稿では体裁型と呼ぶ。
体裁型エバンジェリストは、自社製品の紹介や技術動向などを連載記事の形で紹介することが
多いが、独立型や兼任型のように、中立的立場から他社の動向を紹介したり、技術の歴史的背景、
ビジネスへの応用可能性を述べるには至らず、単なる自社製品の紹介にとどまっている。企業側
に明確な目的のないまま、競合他社が導入しているからという理由で職位のみを導入したことが
原因だと思われる。
また、講演活動、SNS、技術コミュニティでの活動など、積極的な情報発信は見受けられな
かったため、こうした体裁型エバンジェリストは、本稿で意味するところのエバンジェリストと
呼ぶべきではないと思われる。ただし、こうしたバス・ワードとしてのエバンジェリストの使わ
れ方を比較検討するうえで有意義だと判断したため、独立型、兼任型と並べて紹介した次第であ
る。エバンジェリストの具体的な存在意義については、2.5.に譲る。
2.4. で述べた、エバンジェリストの類型を表にまとめると、以下のようになる。
自立度
連載・執筆
インタビュー
講演
SNS
コミュニティ
キャリアの
長さ
1. 独立型
◎
○
◎
◎
◎
◎
2. 兼任型
△
◎
○
△
○
○
3. 体裁型
×
○
×
×
×
△
凡例:◎…程度や頻度が極めて高い/○…それほど高くない/△…低い/×…ない
2.5. エバンジェリストの存在意義と役割
1.5 で述べたように口コミマーケティングの手法としてのアンバサダー、アドボケーツを広義
ではエバンジェリストと呼ぶこともあるが、本稿では 2.1.から 2.4.にかけて述べてきた、企業が
自社の製品・サービスの伝道・啓蒙活動を目的として設置した、職位としてのエバンジェリスト
を取り扱う。便宜上、前者を含めたものを「広義のエバンジェリスト」と呼ぶこととし、特に断
りのない場合、これ以降の「エバンジェリスト」とは、後者の企業が職位として設置したものを
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指すこととする。
これまで、三類型に分けて現役で活動しているエバンジェリストを紹介してきたが、エバンジ
ェリストという言葉自体がバズ・ワードとして様々な意味合いをもって使われているため、各々
の定義がひとつのものに収束するとは考えにくい。そのため、エバンジェリストが自ら定義した
ものを見ていったうえで、それらを包括した本稿での存在意義と役割をまとめる。
日本の人事部では、
「IT 業界で注目されている新しい職種、あるいはその役割を担う専門人材
のことで、高度化・複雑化が進む IT 環境のトレンドや最新テクノロジーをユーザーに向けて分
かりやすく解説し、啓蒙を図るのが主な任務47」とされている。さらに、「単なる営業や宣伝と
一線を画すのは、公益性や中立性を意識して、専門的な視点からより正確に情報を伝えるスタン
ス。自社の技術や製品でも短所があれば開示し、他社の技術でも利点があれば、それとの比較を
踏まえて説明します48」と述べられている。
エバンジェリストによる自らの定義を見てみると、日本マイクロソフトの西脇氏は、エバンジ
ェリストは「顧客やパートナーさまに必要とされる最新のテクノロジーを分かりやすく具体的に
説明する仕事49」であるとしている。アトラシアンの長沢氏は「エバンジェリストという職業は
(中略)セオリー通りに行う一般的なマーケティング活動と異なり、先を見て市場を作っていっ
たり、あるべき世界に向けて情報を発信したりしなければならない。それを『人』が起点となっ
て行う50」と述べている。
他にも、様々なエバンジェリストが自分なりのエバンジェリスト観を語っているが、これらを
総括したところから見えてくるのは、エバンジェリストがエバンジェリストたる所以は「製品や
サービスそのものを売り込むだけではなく、該当業界や分野を取り巻く動向などの背景知識まで
....
....
....
を含めて、それらを中立的に、かつ効果的に、自ら積極的に開示することで、ユーザーやサード
パーティー、エンジニアの認識と行動を変えさせる」ことにある、ということである。
エバンジェリストは、製品・サービスのスペックの紹介に終始することなく、新たなテクノロ
ジーを顧客に正しく位置づけてもらうため、中長期的な技術トレンドも踏まえながら、技術者や
ユーザー企業を啓蒙していくという役割を担う。彼らの最終的な目的は、より正確な情報提供を
行うことで、他社製品・サービスとの比較の上で、IT エンジニアに技術が採用され、その結果
を満足してもらうことである。そのため、エバンジェリストは中立を意識し、自社技術や自社製
品でも欠点や弱点があればこれを伝え、他社技術でも利点があればその利点と比較しながら伝え
47
日本の人事部 TOP 人事辞典 エバンジェリスト http://jinjibu.jp/keyword/detl/706/
48「エバンジェリスト」とは?~ITに精通する開発者から“伝道者”へ
プレゼン極意は顧客視点と製品への愛着~
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20150331-00010000-biz_jinji-nb
49
第1回『エバンジェリストに必要なもの、それは』
http://enterprisezine.jp/iti/detail/2625
50 オピニオン:長沢智治: エバンジェリストの頭の中 ― ロジカル思考 基本編 - Build
Insider http://www.buildinsider.net/column/nagasawa-tomoharu/004
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ることが重要だと考えている51。
また、最新の IT 動向やプレゼンテーションに対する知識のみならず、個人のキャラクターが
重要なファクターになっていることも指摘しておきたい。テクノロジーが複雑かつ高度になり、
技術をよりユーザーに近い目線で紹介するニーズから設置された職種であるからこそ、エバンジ
ェリストは自ら使命感をもって情報を発信するという積極性によって、ユーザーからより親しみ
を持たれる人柄が必要とされるのである。このようなエバンジェリストのソフト面での素質につ
いては、3.2.で議論される。
51
筆者インタビューによる
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第3章
エバンジェリストのキャリアと研修プログラム
3.1. エバンジェリストへのニーズの増大
第 2 章において、アメリカにおいてエバンジェリストが発祥した理由と、2010 年以降、エバ
ンジェリストに求められる役割が極めて大きなものになっていることを考察した。
これまで述べてきた、技術の複雑化・高度化と、技術が社会に及ぼす影響の増大によって、中
立な立場から技術を伝道するエバンジェリストへのニーズはますます増加しており、システムエ
ンジニア(SE)がキャリアアップを考える際にも、プログラマー、システムエンジニア、プロ
ジェクトマネージャーという従来型だけではなく多様化が認められる現在52、プリセールスやエ
バンジェリストというキャリアもエンジニアの選択肢に上がるようになってきている。
また、2.4.で述べたように、プリセールスにもエバンジェリストとしての役割が求められるよ
うになり、エバンジェリストの育成プログラムが始めた企業もある53。IoT(Internet of Things)
の普及に尽力する企業や、複雑化する技術を広めたい日系大手 SIer などが持つ、エバンジェリ
ストに対するニーズや、外資系企業より出遅れていることに危機感は非常に大きいようである54。
このような現状を踏まえたうえでに、本稿では現在の問題点などを含めて、エバンジェリスト
へとキャリアアップする際に必要とされる素質や、包括的な広報活動を担うエバンジェリストを
育成するために必要な人事制度、教育制度の在り方について考察する。
3.2. インタビューを基にしたエバンジェリストに必要とされる素質
2.6.で述べたように、広範囲の技術的な知識を持ち、中立的な観点から製品を紹介することが
エバンジェリストの特徴であるが、それさえできれば誰でも優れたエバンジェリストになれると
いうわけではない。エバンジェリストに必要とされる人格的特徴は、エンジニアがエバンジェリ
ストを目指す際、また企業がエバンジェリストを育成する際に、エバンジェリストとしての適性
を見極める際に有用であると考えられる。
アメリカにおける先行研究55で指摘されているように、エバンジェリストに適性があるとされ
るリーダーシップやパーソナリティの類型が存在する。エバンジェリストは人を先導する起業家
SE の未来を開く、フルスクラッチ開発術(最終回):「PG→SE→PM」という出世魚的
キャリアパスを捨てよ - @IT
http://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/1207/30/news121.html
53 日本ヒューレット・パッカード
エバンジェリストプログラム
52
http://h50146.www5.hp.com/info/hr/hpe/graduates/company/hr_development/evangelist
54
.html
筆者インタビューによる
55
Technology Evangelists: A Leadership Survey
http://www.growthresourcesinc.com/pub/res/pdf/TechEvangelist.pdf
150
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的な性質を持っており、論理と情熱を兼ね備えていなければならないとされている。
さらに、大規模な企業のエバンジェリストには、イベントなどで数百名のオーディエンスの前
で講演をするという機会も存在するため、人を魅了して、行動を促すような、ライブ会場で観客
を魅了するアーティストに近い特殊な才能が必要になると言われている56。
エバンジェリストに必要とされるソフト的な素養として、日本マイクロソフトの西脇氏は「心
から技術を愛しており、その発展・適用によって来るであろう未来に子供のようなワクワク感を
誰より本人がもっていること57」と述べている。かつてアップルのエバンジェリストであったガ
イ・カワサキ氏は、
「会社の利益ではなく、人々の利益を第一に考えている」「(製品やサービス
に対して)自らが進んで貢献したくなる自分のものという感覚を抱いている」58という、ソフト
面の要素を指摘している。
これらの先行研究や書籍に加えて、筆者が行ったインタビューから、エバンジェリストに必要
な素質を考察すると、それらは「1. 技術に対する子供のように純粋な好奇心(以下、好奇心)」
「2. オーディエンスやカスタマーへの共感力(以下、共感力)」
「3. プレゼンテーションに対す
る圧倒的なこだわりと自信(以下、こだわりと自信)」「4. 技術を用いて社会を変えたいという
熱意(以下、熱意)
」
「5. 広範囲にわたる実用的な技術ノウハウ(以下、実用的技術)
」に集約さ
れる。それぞれファクターが、エバンジェリズム活動においてどのように作用するのか、筆者が
現役のエバンジェリストに対して行ったインタビューをもとにして述べる。
3.2.1. 好奇心
最も大きな原動力が技術に対する好奇心ではない者は、エバンジェリストとして大成すること
はないと言われている。飽くなき探求心とこだわりが常に最新技術へのキャッチアップを可能に
するうえ、純粋な興味から湧き出す、エバンジェリストがデモンストレーションを行う際の、ま
るで子供が遊んでいるようなワクワク感が、何よりオーディエンスを惹きつけるのである。
余談ではあるが、優れたエバンジェリストは技術だけではなく、性格的に好奇心とこだわりが
強い。独立型エバンジェリストの SNS などを通じても、アイドルやアニメなどのコアなファン
が散見される。
3.2.2. 共感力
相手の立場に立って中立の観点から技術の伝道を行うのがエバンジェリストの使命であるか
マイクロソフトの最新技術を語るエバンジェリストを 2 名募集:Azure の鼓動:オルタ
ナティブ・ブログ http://blogs.itmedia.co.jp/isago/2015/10/2.html
57『エバンジェリストの仕事術』 西脇資哲
http://www.amazon.co.jp/dp/B00ZI4OIRY/ref=cm_sw_r_tw_dp_ODiWwb0PXH117
58『
「革命家」の仕事術』ガイ・カワサキ
http://www.amazon.co.jp/dp/4903212378/ref=cm_sw_r_tw_dp_vHiWwb00VY6QW
56
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ら、オーディエンスや顧客の求めているものを察知する能力は必要不可欠である。自らが技術者
であるからといって、テクノロジーに関して全くの素人が相手であっても、プレゼンテーション
ができなければ意味がない。
原稿を書いたりプレゼンの準備をする段階の、悩み込んで裏の裏を読むような共感力も重要で
はあるが、プレゼンテーションの場において瞬間の空気を読み、オーディエンスの雰囲気を掴む
という瞬間風速的な共感力が最も大切であり、身に着けるのが難しい。
3.2.3. こだわりと自信
プレゼンテーションは準備で 9 割が決まると言われるが、エバンジェリストはプレゼンテー
ションにこだわり抜き、何度もリハーサルを重ねて圧倒的な自信をもって本番に臨む。寸分の狂
いもなく設計されたプレゼンテーションは観客を魅了し、エバンジェリストが意図するメッセー
ジを正確に伝えることになる。
エバンジェリストにとってのプレゼンテーションとは、壇上に立って話すことだけではなく、
メディア露出における写真や、掲載される記事の言葉づかいなど、自分が不特定多数に「見られ
る」行為のすべてを指す。そのため、身だしなみや姿勢をはじめとして、話し方に気を遣うなど、
自らの魅せ方を工夫しているエバンジェリストも多い。
3.2.4. 熱意
エバンジェリストは単なる技術オタクではなく、
「技術を用いて何ができるか」ということに
関心がなければならない。社会に対して感度の強いアンテナと問題意識を持ち、技術を用いた問
題の解決法を考え抜いて、それを伝道していくことで、オーディエンスの認識を変え、行動を変
えさせることができる。エバンジェリストの根底には強い正義感と人類愛がある。本心から出た
問題意識ほど人の心に響くものはない。
3.2.5. 実用的技術
エバンジェリストは特定分野に偏ったものではなく、多分野にわたる包括的な知識を持ってい
なければならない。また、その技術の成り立ちや世間にどう受け入れられているか、競合製品の
メリット・デメリットも共に認識している必要がある。必要があれば自社製品に対しても批判的
にならなければならないし、否定的な意見も真摯に受け入れる。
エバンジェリストはマーケッターやコピーライターではなく、あくまでエンジニアを出発点と
しているがゆえに、技術に対して絶対的なプライドを持っていなければならない。ただし、技術
オタクでいてはいけないのが難しいところで、このバランスが上手に撮れるのが優れたエバンジ
ェリストである。
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以上の、「1. 好奇心」、「2. 共感力」、「3. こだわりと自信」、「4. 熱意」、「5. 実用的技術」が
エバンジェリストに必要とされるスキルであるとされる59。非常にソフト面が重視されているこ
とが分かるが、エバンジェリストとはあくまで人が資本であり、そのキャラクター自体が広告塔
となるため、人を惹きつけるような魅力があることが第一条件となるが故のことである。
3.3. エバンジェリストのキャリアと研修
3.1.で述べたように、ますます増大するエバンジェリストのニーズから、IT ベンダーは新技術
を伝道するエバンジェリストをとして活動するまでのキャリアについて考える。
独立型のエバンジェリストはプリセールスや IT コンサルタントで確かな実績を上げたのちに
転職して、独自の職位を与えられることが多いため、兼任型を経て独立型になるというキャリア
が通常である。
すなわち、企業がエバンジェリストを必要としている場合は、プリセールスやコンサルタント
の職位にある者に対してプレゼンテーションなどの研修を施し、社外に向けた講演や執筆などの
仕事を与えることが必要となる。また、エンジニアがエバンジェリストを志す場合は、兼任型エ
バンジェリストへのキャリアアップの一環として、ます設計や構築を専門とするプリセールスや
コンサルタントに就き、広範囲にわたる包括的な技術トレンドと顧客目線に立った中立的な営業
スキルを身に着けるというステップが考えられる。
特にプリセールスは企業が新技術を開発すると、それをいち早く習得し、顧客に対してプレゼ
ンテーションを行って、採用に結びつけるという役割を担うため、その意味では強くエバンジェ
リスト的な素質が求められていると言えよう。現在、プリセールスやコンサルタントに求められ
る技術的ノウハウはますます高度化し、さらに広範囲の技術を組み合わせて設計を行う必要があ
るため、恒常的な研修プログラムは必要不可欠になる。
そのうえ、エバンジェリストになるためには 3.2.において述べられたような素養のもと、自ら
をブランディングし、テクノロジーを効果的に魅せるプレゼンテーションやネゴシエーションの
スキルを身につけることも必要である。
今や企業にとっても重要視されるようになってきたエバンジェリストの、理想的な育成の在り
方とはどのようなものなのだろうか。次項では、先進的に取り組んでいる日本ヒューレット・パ
ッカードの事例をもとに分析する。
3.4. エバンジェリストの教育(日本ヒューレット・パッカードの事例)
日本ヒューレット・パッカードは、技術の顔となって顧客に様々な最先端テクノロジーを伝道
するためのエバンジェリストを育成する「エバンジェリスト・プログラム」および、特定の製品・
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筆者インタビューによる
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大阪大学経済学部中川功一ゼミ論文 (2016) 4, 133-157.
分野にこだわらず顧客のビジネス動向、関連市場の IT トレンド、各種製品やサービスを把握す
る「One HPE アーキテクト・プログラム」を他社に先駆けて導入している。
3.4.1. エバンジェリスト・プログラム
日本ヒューレット・パッカードが導入しているエバンジェリスト・プログラムは、エバンジェ
リストを志すエンジニアやコンサルタント向けに一年間の研修を施すものである。技術の複雑化
と応用分野の広がりによって、プレゼンテーションや執筆活動などを通じて、自ら効果的な情報
を発信していくというニーズが生まれてきたことが導入のきっかけである。
当プログラムでは、日本マイクロソフトのエバンジェリスト西脇氏がプレゼンテーションを指
導する60ほか、最も自分を輝かせて魅せるカラークチュール・レッスンや、プレゼン資料に印象
深い単語を載せるキャッチコピートレーニング、顧客と課題を発見して解決するまでのスキルを
身につけるヘルピング・クライアンツ・サクシード研修などが行われる61。
研修の目的はプレゼンテーションを効果的に魅せることであり、技術の習得などは本人に任せ
られる。研修内容をエバンジェリストにとって最も重要な伝えることにフォーカスしているため、
エバンジェリスト育成において効果的なプログラムであると言うことができる。
3.4.2. One HPE アーキテクト・プログラム
日本ヒューレット・パッカードが導入している一年間の「One HPE アーキテクト・プログラ
ム」は、特定の製品・分野にこだわらず顧客のビジネス動向、関連市場の IT トレンド、各種製
品やサービスを把握することを目的としている。プロジェクトを統括する立場になると、一製品
や一分野の知識ではなく、広範囲にわたる技術に精通している必要がある。
座学と OJT を組み合わせた当プログラムでは、ソリューションアーキテクチャだけではなく、
システム予算や会計の仕組み、マーケティング、ビジネス戦略、コミュニケーションスキル、ミ
ーティング手法など、顧客に最適な提案をするために必要なシステムスキルからビジネススキル
を学ぶことができる。
3.5. 日本ヒューレット・パッカードの事例に見るエンジニアのキャリア
3.4.で述べた日本ヒューレット・パッカードの研修事例から、企業が兼任型エバンジェリスト
を育成する場合は、広い意味でのプレゼンテーションスキルと、包括的な技術ノウハウの研修が
60
スゴ腕プレゼンテーターはこうして生まれる。HP 社の研修現場に潜入
http://bizzine.jp/article/detail/914
61 日本ヒューレット・パッカード
エバンジェリスト・プログラム
http://h50146.www5.hp.com/info/hr/hpe/graduates/company/hr_development/evangelist
.html
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必要となるが、それらを分けてプログラムとすることで、各々のエンジニアに必要とするスキル
を効率的に習得させることができると考えられる。
序論で指摘したように、IT と経営の距離は今後ますます縮まっていくと言われている。そう
した流れの中で、エンジニアは自らが担当する分野の専門知識だけはなく、会計やビジネス戦略
などの広い知識が必要とされる場面が増えてくると考えられる。マーケティングや広報といった
部門も、より高度な技術的情報を取り扱うようになれば、専門的な知見を持ったエバンジェリス
トに類する人材の関与度が増していくと予測される。
こうした時代背景のもとで、IT 企業において知識を持ったエンジニアが活躍できる範囲はま
すます広がっていくと思われる。企業はそれに合わせた研修プログラムや人事制度を充実させる
必要があるとともに、エンジニアは中長期的な目的意識を持つことで幅広い経験を積み、人材と
しての価値を高めることが求められる。
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第4章
結論
4.1 エバンジェリズムの進化と機能
Macintosh の市場拡大を目的として、アップルによって設置されたテクノロジー・エバンジ
ェリストは、その後米国系 IT 企業を中心に導入され、2000 年代半ばには外資系 IT 企業の日本
法人にも適用された。日本においては 2010 年を境にエバンジェリストが扱う分野が広くなると
ともに活動の場所も広範囲に拡大しており、IT の変化に伴いエバンジェリストの役割はますま
す重要になりつつある。本稿ではエバンジェリストを企業からの自立度合いによって独立型、兼
任型、体裁型の三類型に分類したが、独立型と兼任型のエバンジェリストはプリセールスを経由
してエバンジェリストへとキャリアアップする傾向にある。
技術が複雑、高度になり、技術が影響を及ぼす範囲も広がったため、一人の人間では技術の隅々
まで熟知できなくなった時代だからこそ、エバンジェリストという個人の視点と肉声により、技
術で何ができるのかを「伝える」ことの重要性が高まっている62。このような時代背景のもと、
技術的に中立な立場から、中長期的な視座をもって、顧客目線で求められていることを伝えるこ
とが、エバンジェリストの使命であるといえる。
4.2 エバンジェリストの素養と育成
筆者のインタビューによると、エバンジェリストには「1. 好奇心」、
「2. 共感力」
、
「3. こだわ
りと自信」、
「4. 熱意」、
「5. 実用的技術」が必要とされ、キャラクターとしての人間性や意志が
重要であることがわかる。第一線で活躍するエバンジェリストは、このような素養をベースとし
ながら、目的意識を持った部署移動や転職を通じてキャリアアップに積極的に取り組んだ結果と
して、今の地位を確立していることが伺い知れる。
IT が社会において持つ影響力が大きくなるにつれて、システムエンジニアのキャリアプラン
も多様化が進み、従来のプロジェクトマネージャーだけではなく、プリセールスやコンサルタン
ト、エバンジェリストという進路も選択肢に上がるようになってきている。それに加えて、技術
の複雑化とイノベーションサイクルの高速化に伴い、新技術を顧客やエンジニアに伝道するとい
うエバンジェリストとしての役割が、エンジニアにも日常的に求められている。
このようなエンジニアの主体的なキャリア形成を補助する仕組みとして、日本ヒューレット・
パッカードは「エバンジェリスト・プログラム」および「One HPE アーキテクト・プログラム」
を研修プログラムとして先駆的に取り入れ、複雑な技術を包括的な視野から顧客に広く伝えられ
る人材の育成に取り組んでいる。
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エバンジェリスト 西脇資哲が語るエンジニアに伝えたいこと|三年予測|IT・Web業
界の転職ならDODAエンジニア IT http://doda.jp/engineer/guide/yosoku/16_1.html
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4.3 提言
現在のエンタープライズ IT を取り巻く環境において、多岐にわたる分野の技術を組み合わせ
ることで可能となるソリューションの数は無限大であり、最適な製品やサービスを選び取ること
は非常に困難である。しかし、今や企業経営に取って IT はなくてはならないものとなり、最先
端の技術を用いたシステムは企業の生産性を向上させるのみならず、新たなビジネスを生み、競
争力の源泉ともなりうると言われている。このように経営環境が激変するなか、難解な技術を中
立的な観点から効果的に伝えるエバンジェリストという概念が普及し始めているのは、「分かり
にくいものを分かりやすく伝える」というニーズが増してきているためであると考えられる。
IT 企業が提供する製品・サービスが複雑化するに従い、乗り越えなければならないキャズム
はますます増加しているが、1.5.で述べたような B to C 市場ならば消費者の興味・関心から自
然発生的に起こっていく口コミマーケティング(広義のエバンジェリズム)は、IT インフラの
構築をはじめとした B to B 市場では起こりにくいため、技術を提供する企業自体が、その普及
を後押しするような仕組みを作っていく必要が、少しずつ認識され始めているのであろう。
これまでエバンジェリストを積極的に登用してこなかった日系企業も、 IoT(Internet of
Things)の普及に尽力するメーカーや、最新技術を用いた市場を広げたい SIer を中心として、
エバンジェリストに対するニーズが出てきている。外資系企業から出遅れていることに対する危
機感は大きいものの、育成するための方法論や、具体的な活動内容が明確化されていないため、
実際にエバンジェリストを育成したり登用したりするところまで踏み切れないでいるという。
筆者はこうした課題に対して、短期的には、エンジニアリングの業務に従事している有志社員
に対して、プレゼンテーションやネゴシエーション、コピーライティングなどの研修を施したう
えで、兼任型エバンジェリストへと育成することを提言する。Web メディアへの連載や講演活
動などを通じて、現場で起こっている IT によるパラダイムシフトを外部に積極的に発信してい
くことで、その有用性やビジョンを広く一般に伝えていく役割を担うことができる。
より長期的には、主体的なキャリア形成を補助する教育制度・人事制度を充足させることを提
言する。技術者が営業などの様々な部署を移動することで、自社の技術を包括的な観点から理解
し、技術トレンドを俯瞰の目で見ることができるようになる。こうした経験を積むことで、中立
的な観点から顧客の立場に立ったエバンジェリズム活動が可能になるであろう。
また、3.2.で述べたように、聴衆を惹きつけるプレゼンテーションの根本的なファクターは、
何よりもプレゼンター本人の興味や熱意にあるため、社員が自ら目的意識を持ってキャリアを作
っていくことが、結果的には聴衆を魅了するプレゼンテーションに繋がると考えられる。
エバンジェリストによる啓蒙活動がより大々的に展開されることによって、IT による企業経
営のパラダイムシフトが加速し、長年指摘されている日本の戦略的 IT 活用の遅れが解消され、
生産的かつ効率的な企業経営が達成されることを願ってやまない。
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