田{想 ・ 良心の言語的意味の と課題

2
1
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勝
二・二-一)
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l'Ea''
紀
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集(二O
﹀
思想・良心の一一一一口語的意味の分析と課題
目次
はじめに
結ぴとして
1 思想と良心
2 比較文化の問題
l 聖書の良心と孟子の良心
3 ﹁内心の自由﹂
小 括 (l│3
4 課題
はじめに
(1)
笹
説
思想・良心の自由とは本稿では憲法一九条の﹁思想及び良心の自由﹂を指す。そして、思想・良心の言語的意味を
5
命
2
2
0
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
分析したい。 一つにはこれらの言語は私たちに身近で慣れ親しんでいるために私たちはわかったつもりでいる恐れが
無差にしも非ずだからである。もう一つには、思想・良心にかかわる裁判(君が代起立斉唱・伴奏事件)が燐烈を極
めているのでその分析に備えたい。たとえば、東京高裁はニO 一一年一二月一 O日判決で、卒業式で君が代起立斉唱伴
(2)
奏をしなかった都立高教職員に対する懲戒処分を取り消したが、校長の職務命令は憲法一九条に違反しないと判決し
た。そして、ニO 一一年五月三O日最高裁第二小法廷は、一元都立高教員の上告を棄却して、須藤裁判長は起立斉唱命
(3)
(4
﹀
令について﹁個人の思想・良心の自由を間接的に制約する可能性はあるが、特定の思想を強制するものではなく、合
理性、必要性も認められる﹂として合憲判断を示した。その後も合憲判決が出されている。
筆者は、最高裁の﹁強制﹂の説明を見て、戦前朝鮮総督府が朝鮮キリスト者に神社参拝を強制したときの富田満(日
(
5
)
本基督教会大会議長)の一一一酉一葉を想い起す。神社参拝は偶像崇拝であるとして不参拝運動をする朝鮮キリスト者を警察
は検挙し、そのために廃止された教会は二O O余り、逮捕されたキリスト者は二000余名、獄死者五O余名に及ん
だ。富田は朝鮮キリスト者にいった。﹁諸君の殉教精神は立派だが、何時、日本政府は基督教を棄て、神道に改宗せよ
と迫ったか、その実を示して貰ひたい。国家は国家の祭加を国民としての諸君に要求したに過ぎまい。:::基督教が
禁圧せられる時にのみわれらは殉教すべきであるよ富田は、神社は宗教にあらず(神社非宗教)を強調した。宗教で
ないものに顕を下げても宗教に背かない、 つまり、信じることを心の中に閉じ込め、他方で神社参拝という国家の儀
式への参加を外見上示す。そうすると、心の中では反対でもかまわない、国家の儀式が一糸乱れず整然と行われれば
それでよい。日本のキリスト者は富田のいう通りの行動をとったが、朝鮮キリスト者の相当数はそうはできなかった。
との故事を想い起すと、須藤裁判長は、まさに、君が代起立斉唱をできない元教員に、職務命令はあなたのできな
い理由を棄てろとはいっていない、心の中でそう思っていて構わない、心の中ではなく形だけ君が代起立斉唱の儀式
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
2
2
1
に参加すればいいと諭したのである。富田の時から七三年経って同じ面従腹背のすすめの発想が最高裁裁判官から出
てきた。これまでも同様の意見はあったから今回が初出ではない。しかし、思想・良心を﹁内面の自由﹂とするとと
がこの国の統治においてはなんと重要なことであろうか。
こうしてみると、判決の思想・良心のとらえ方にかんしていくつも疑問がある。この疑問を少しでも解くために、思
想・良心の一言葉の意味を明らかにする必要がある。そして、本稿で憲法一九条の特定の解釈論の枠の下にとらえられ
た良心論を紹介し、今後の研究課題としたい。
(6
﹀
なお、思想・良心の言語的意味の分析に先行研究はとぼしく思われるので、本稿は手掛かりとして著名な日本の辞
書のいくつかを利用する。
思想と良心
1・通俗的な理解でいえば、思想とはものの考え方であり、良心とは思想が特定の個人の中で倫理性をもっている
(7)
考え方である。そして、思想と良心の単語は後述するようにどちらも漢語に由来し西欧的な現解をもってそれらを捉
えることには慎重でありたい。というのは、明治以降西欧的な理解が強まり、伝統的な言葉も西欧的な理解で済むよ
うな意見を聞くことがあるからである。しかし若干探ってみると、ことはそれほど簡単ではない。そこで中国文化圏
(8)
の背景をもっ思想と良心の一言葉の意味から考えてみよう。
思想について諸橋を見ると次のように解説される。
①思想とは﹁かんがへ、意見﹂﹁おもひやる、おもひめぐらす﹂であり、それは一 O O四年に宋の道原が著した仏書
(
1
)
2
2
2
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
﹃景福鎮伝燈録﹄に由来する。
②思想とは、﹁物事を考へ、判断し、推理する心の作用、又、其の結果得た意識の内容﹂を意味する。
諸橋は②について出典を示していない。示していないことは、②の解説が漢語に基づくものではないことを表す。
(9
﹀
かかる違いを踏まえると、①の思想は、西欧的な②とは異なって、単純に考えや思いをめぐらすことをいい、日本の
中でも同様に受け止められてきた。
(叩)
では思想を単純に考えることは劣っているというべきか。素朴ではあるだろうがそうはいえないだろう。
筆者の理解を明確にするために新村﹃広辞苑﹄ の思想の解説を取り上げてみたい。すなわち、
﹁①考えられたこと、かんがえ。
②︹哲︺ (
F
o
a
zイギリス-cag宮ドイツ)
⑦判断以前の単なる直感の立場に止らず、このような直感内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。
思考内容。特に体系的にまとまったものをいう。
③社会・人生に対する全体的な思考の体系。社会的・政治的な性格をもっ場合が多い。﹂
そうすると、のは﹁単なる宜感﹂に基づく思想の理解に止まるが、ぞれから区別きれて哲学的な理解②⑦があるこ
とによって②@の理解に眼が聞かれる。つまり、①﹁単なる直感﹂に基づくもの、⑨の哲学的な体系性を踏まえたも
の、②@社会的政治的な性格を帯ぴた思考の体系をもつもの、こういう三種類がある。したがって、体系の存否が差
異をもたらす大きな要因である。たしかに、専門的な哲学的体系をもっ②⑦と社会的政治的性格の体系をもっ②@は
自ずと区別される。しかし、思想の中で﹁単なる直感﹂に基づく素朴な①は消えてなくなることはない。そのために、
①すなわち単純に考えることは、 いわば一切のベ l スをなしていて、社会的政治的な性格をもっ体系のほころびや変
一一思想、・良心の言語的意味の分析と i
課題一一
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(日)
化をもたらす契機でもあろう。そうであれば、思想の自由をいう場合にはどれほど体系的であるか徹底しているかを
問うべきではない。
良心は新村﹃広辞苑﹂ では次のようにいわれる。すなわち、
(
ロ
)
次に、松村﹃大辞林﹄を見てみよう。
﹁①道徳的に正邪・善悪を判断する意識。
②︹倫︺善悪を判断して蓄を命じ悪を退ける知情立の統一的意思。﹂
これらの辞書は基本的に良心を善悪を判断する道徳意識と捉えている。
隠の心﹂(気の毒で見ていられない心あるいは深くあわれみ痛ましく思う心)、﹁差悪の心﹂(不義不正を恥じ憎む心)、
いう﹁固有の善心﹂とは人聞が本来もつ善なる心を表すから、孟子は性善説をいう。そして、かかる心を浅井は﹁側
いう意味ではとらない。そうすると、諸橋の解説する﹁人の本心﹂の﹁本﹂と﹁良﹂とは同じ意味を表すために、彼の
く﹃人間本来の﹄という意味である﹂という。それゆえに、良心の﹁良﹂が﹁善﹂とはかかわっているが、﹁良い﹂と
(お)
に、小林は訳注で﹁良心、本来の普なる心の意。すなわち仁義の心をいう。良の字は:::良知・良能などの良と同じ
見ている。そして、その注解である集注によって、﹁良心は本然の善心、すなわちいわゆる仁義の心なり﹂という。次
(M)
そこで諸橋の解説と引用の意味を検討してみよう。彼は良心の出典を童子(前三七三│一一八九)の著作﹁告子上﹄に
之於木也、旦旦而伐之、可以為美乎。︹集注︺良心者、本然之善心、即所謂仁義之心也。﹂
﹁人の本心。固有の善心。仁義の心。︹孟子、告子上︺難存乎人者、且一旦無仁義之心哉、其所以放其良心者、亦猶斧斤
ところが、諸橋﹃大漢和辞典﹄の良心の解説は新村﹃広辞苑﹄や松村﹃大辞林﹄とは明らかに異なる。すなわち、
(日)
gロ印口一82) 何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識﹂
︹良心︺﹁(
(
2
)
(
3
)
(凶}
吋静識の心﹂︿他人に譲る心)、﹁是非の心﹂の四つに分類する。そして、浅井は、西欧文化に由来し﹁倫理や道徳的善
日
悪の認識や判断﹂をする良心 (
n
B
R88) と、﹁仁義の心﹂であり﹁人聞が生まれながら持つぞいる善良的なもの﹂
である孟子の良心とを比較し、その聞の重なりを孟子の﹁是非の心﹂つまり﹁善をよいとし悪を悪いとする心。善悪
を弁別する本性﹂に見出している。そうすると、浅井は、西欧文化の﹁倫理や道徳的善悪の認識や判断﹂をする良心
(げ)
させないで済ますということは、自分の推論の正しさを確信している以上ほとんど不可能のことに属する。ソクラ
に、自分がその人たちと意見を異にしているという事実を沈黙とか不図した言葉とかその他全体の態度などで曝露
その人たちのもっている信仰を拒否したり、あるいはその人たちよりもっといい生活の仕方を見出したような場合
ということは極めてむずかしいことである。自分の周囲の人々の行動を規定している観念や習慣に疑惑をもったり、
無益であることは、わかりきったことだからである。それに、多少とも人の心を支配するような思想を秘しておく
きれないならばそれは思想家自身にとっては不本意、むしろ苦痛であり、またその思想が周囲の人々にとって全く
人の思想のこの自然的自由なるものは大して有難いものではない。なぜなら、自分の思想を他人に伝えることが許
はない。人間の心の働きを制約するものは、ただ、その人間の経験の幅と想像力の如何だけである。とはいえ、個
﹁思想は自由だと一般にいわれる。人聞は自分の考えていることを匿しでさえいれば何を考えようと邪魔されること
こには本稿の基本的方向と一致するものが出ている。多少長いが引用する。ゴシックは筆者による。
3. 思想と良心とはそれぞれ詩史として固有なものをもっている。今、ピュアリ吋思想の自由の歴史﹄を見ると、そ
良心論の広がりに言及していない。
判断を良心と捉える新村﹃広辞苑﹄や松村﹃大辞林﹄は、論理的には設子より狭く良心を解釈し、そのために孟子の
(
B
E
n
-自白骨)と孟子の良心論の四つの中の一つである﹁是非の心﹂との類似性を指摘している。したがって、善悪の
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
2
2
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テスのように、己れの思想・を匿さんよりはむしろ死に直商せんことを選んだ人たちもあった。今もなおあるであろ
ぅ。つまり、多少とも立派な意味での思想の自由には一E
Z嗣の自由が含まれているわけである。﹂
この引用には、自分の考えを匿しておける個人的な思想の﹁自然的自由﹂と他者に自分の考えを伝えないではおれ
(凶)
ない﹁言論の自由﹂との対比があらわれている。ピュアリは後に、この対比をJ ・S ・ミルの思想の自由と討論の自
由にさかのぼらせる。いずれにしろ、この対比は、すでに述べた、単純に考えることと社会的政治的な性格をもって
考えることとの対比に応じている。そして、思想の自由をまもる上では自然的自由があるだけでは有難くないといわ
れ、むしろ思想の自由には言論の自由が必然的にあるいは不可避的に含まれると主張されている。そのために、筆者
は、憲法一九条の﹁思想及、ひ良心の自由﹂を単に﹁思想の自由﹂でも﹁良心の自由﹂でもあらわせない、﹁思想の自由﹂
の保障を考えるときに表現の自由との結びつきをどのように理論化するかが課題であると思う。
そして、孟予には単純に考える思想よりも良心に深い思索の跡が見出せる。ここで確認しておきたいことであるが、
商欧文化の中国文化への浸透によっても、単純に考える思想が人間の考えるあり方の根底的普遍的な側面を捉えてい
ることに変わりはないだろう。他方良心は道徳意識すなわち倫理にかかわっている。それゆえに、思想と良心とは決
して同一ではなく、相互に代替的でもなく、機能する次元を異にしている。しかし単純に考えることが社会的政治的
な性格をもって考えることと結びついて他者にその考えを伝えないではおれない段階になると、間違いなくその考え
ることは倫理となり、思想と良心とは深く結びついて来る。なぜなら、人は考えたところにしたがって生きようとす
る傾向をもっているからである(この傾向は、ある人には消極的選択に見え、また他の人には積極的選択に見える。し
かし、消極か積極かは重要ではない﹀。こうして見ると、両者を概念として分けることと両者が個人の意識の中で結び
つくこととはどちらも成り立つ。
2
2
6
比較文化の問題l 聖書の良心と景子の良心
ス手不イデ1シス
ヨンスキ兵ンチイア
2.85nぽ忌宮(ラテン語)、 gE己88(英語、フランス語)、の命説明国自(ドイツ語)は、語源的にはギリシャ語
も切り口はいろいろある。たとえば、前述したピュアリは合理主義に碁づいて思想の自由の根拠づけを図った。
(明日)
霞づけて概観し、その上でそれと章子の良心との比較をしてみたい。西欧文化の中における良心を概観するといって
た。そこで、比較してはじめて狭いと広いに気付くので、 いっそう立ち入って商欧文化の大きな流れの中に良心を位
1. 新村町広辞苑﹄や松村﹃大辞林﹄ の理解する良心よりも孟子の良心には広がりがあることが明らかになってき
2
ている。そして、明治期に英語の
はここでは省くが、ギリシャ語の白百冊目色色聞の元の流れから西欧語の良心
(85号宮叩)の歴史を検討することにも何
職、科学)に同じである。そのために、英語/フランス語のg
gagsはラテン語から作られる。ドイツ語ののgzmg
は英仏と文字の形が違うにすぎない。すなわち、接頭辞の中﹁jと共に﹂と邑
ag ﹁知る﹂ないし﹁知識﹂から作られ
(加)
ggagsとドイツ語ののgJZBは漢語の良心をもって訳された。その翻訳の経緯
口
一
ロ仲間曲、からなる。n
ある。このラテン語は 8 12Z
S
3 は﹁1と共に﹂であり、語幹のお広三宮は英語でいえば田口町田8(知
わせること﹂、それゆえに、﹁調和、合奏、音楽﹂であろう。次に、ギリシャ語研吉氏円宮町のラテン語化がgg白山骨三宮で
先頭文字によって者中の変わったものである。M
M
V
0
4は﹁音、声﹂を表す。それゆえに、aBB04は﹁音、声﹂を﹁合
山内同色聞は﹁何かを知っている﹂を表す。分かりゃすい例では、英語の名目℃
F
0
4の接頭辞国首中は続く語幹事。唱の
間
百 HO
見る)とかかわる。接頭辞の々ローは﹁1と共に﹂をあらす。語幹の﹁見る﹂は﹁知る﹂ともいわれる。ぞれゆえに、
スユン
m﹀に由来する。まずギリシャ語の間百命日門富山田は名調であるが、語源的には動詞尋問忠弘。(共に
q
e
s
s
a
s
n
(
m
q
H
H
O注g
明治大学法学部創立育三十周年記念論文集
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
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がしか意味があるにちがいない。
ギリシャ諸問百四日仏包∞の意味は﹁自己をみずから判断する能力、自己の過去を振り返る能力﹂である。この振り返
ることは、単純な事実の確認ではなく、﹁善悪の尺度にしたがって判断する﹂ことであるから、この言葉は、紀元前一
世紀から次第に道徳的意味をもち、自己の行為の是非を告発する判断機関すなわち良心 (
n
g田
) となった。そし
口
百5
て、その判断にしたがって﹁良き良心﹂と﹁悪しき良心﹂の区別が語られた。すなわち﹁良き良心﹂とは﹁心に安らぎ
を得た﹂ものであり、欺きのない道案内人たる﹁番人﹂の導きを受けて自然にしたがって生き倫理的進歩を遂げさせ
﹁良い﹂と判断させるものである。他方、﹁悪しき良心﹂とは﹁心に不安を抱えて人を駆り立てる﹂ことによって不快
(幻)
に気付かせ吋悪い﹂と判断させる。この区別のうち、古代ギリシャ語ではほとんどもっぱら﹁悪しき良心﹂が語られ
(幻)
た。たとえば、ヒトラーを批判するピラを配ってナチスに抵抗したために斬首刑に処されたミュンヘン大学の学生教
授たちの﹃白番破通信﹄の中に次のような一文がある。
﹁われわれは沈黙しない。われわれは諸君のやましき良心である。白蕃薮通信は諸君の安静を奪う!﹂
白
(勾)
g g の句呈一自由つまり﹁悪しき良心﹂である。それは、人びとに罪を想い起させ、人びと
﹁やましき良心﹂の原語は
から心の安らぎ(安静)を奪うのである。
(MA ﹀
次に、古典ギリシャ諸によって書かれた新約聖書ではどうか。良心が多く使われるのはパウロとパウロ後の牧会書
(お)
簡においてである。そこではギリシャ的な意味に加えて﹁神の前における責めのない良心﹂が強調されただけでなく、
(
g円)その行為を﹁中止・勧告﹂して道徳的に﹁良い﹂
V
) その行為を道徳
﹁信仰と生活の一致を承認する良き良心をもっ﹂ことも追及された。したがって、行為の後で官R
(お)
的に﹁悪い﹂と判断する﹁悪しき良心﹂の側面と、行為の前に
と気付かせ﹁愛の業の根源﹂ (0552E毘同島町四時尽円四角巴号。)として働く﹁良き良心﹂の側面とがあることが認識
2
2
8
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(幻)
されている。
(お)
そして、今日につながる不可侵の権利としての﹁良心の自由﹂は、宗教改革の時期に内戦合避けるなどの国家理性
(mm)
︿
ω
)
に基づく強制の禁止に由来する。また、その時期に現れた﹁良心の自由﹂ (n82
ぽ尽MggRgm) の言葉の意味は罪を
(お)
告発するものである。そして、カルヴアンは﹁良心の自由﹂は罪からの自由でありその自由は﹁神の前に恐れを抱く
︿
MM)(
お)
良心に平安を持たせるため﹂のものという。その意味は明らかに宗教的である。ところが、モナルコマキといわれる
カルヴアンの後継者ベザは良心を庄制への抵抗の根拠とした。この流れはアルトジウスに継承される。こうして見る
と、ベザにしろアルトジウスにしろ、良心は﹁良き良心﹂において捉えられていて、服従するかしないかの判断は良
(斜)
心の認識に基づく。かかる良心論は専制君主への抵抗を表わす。服従は、権力者が要求するから行われるわけでなく、
人の自らの判断において行われる。そして、この﹁良き良心﹂論はロックにも継承される。しかし、 一人世紀のヨ I
(お)
ロツパの啓蒙主義・理神論の時代には良心は私的と理解され、抵抗とは結びつかない。へ lゲルを想起したい。
(お)
ところで、日本では、宮沢は、﹁法律義務と道徳義務その他の非法律義務とが衝突した場合に、法律義務よりもむし
ろ道徳義務その他の非法律義務に優位をみとめようというのが、抵抗権の立場である﹂といい、その発動を﹁良心﹂に
根拠付けるヨーロッパの抵抗権の厩史に言及する。そのうえで、その主観に流れる危険性があることを指摘し、完全
にはなくならないけれどもそのような義務の衝突の可能性をなくしていく予防策として、﹁政治的思想および表現の自
由の確立﹂や立法化を提案する。宮沢のように、良心と抵抗権のつながりを否定する意見は強い。
(
明
む
宮沢に対して良心と抵抗権のつながりを肯定する意見としてラlトブルフをあげることができる。かいつまんでい
えば、彼は法規範・習俗規範と道徳規範の区別を認めつつ﹁全く何の関係もない、と考えてはならない﹂という。そ
して、﹁法の効力は道徳に立脚する﹂として、法を道徳の可能性と定義し、﹁道徳的自己主張への闘争﹂としての﹁内
一一息;怨・良心の言語的意味の分析と課題一一
2
2
9
(犯)
面の道徳的自由の不可欠の前提条件をなす外面的自由への闘争﹂をいう。まさに道徳規範の実現のために法規範・習
俗規範の変革を探求する。
(ぬ)
したがって、宮沢とラIトブルフでは二つの規範の関係の理解は根本的に相違する。本稿ではこれ以上立ち入らな
いことにして、宮沢を批判してラ lトブルフの線を追求した小林﹃法・道徳・抵抗権﹄を掲明記しておこう。
3. 以上を踏まえて、簡単に西欧語の良心 (
ESS) と孟子の良心の比較をしてみたい。
8ロ
①西欧語の良心(口BEES) には﹁良き良心﹂と﹁悪しき良心﹂の区別があった。特に﹁良き良心﹂は、キリスト
教的には事前的・積極的な行為(表現)を産み出す。他方、たしかに、孟子の良心には﹁良き良心﹂や﹁悪しき良心﹂
のような区別はない。しかし、大きな思想的枠組みとして西欧的な﹁良き良心﹂と﹁悪しき良心﹂は、孟子の良心の
理解にも有益であるに違いない。
②実質的な内容でいえば、孟子の良心は他人にあわれみを示す﹁側隠の心﹂、他者を尊敬し譲る﹁辞譲の心﹂、自己
の不善を差じ他人の悪を憎み正義を求める﹁差悪の心﹂、善悪を判断する﹁是非の心﹂、これらの孟子の良心の内容は、
ほとんど西欧的な﹁良き良心﹂と﹁悪しき良心﹂に含まれるであろう。事後的・消梅雨な判断としての良心の問責は
過去に根本的に縛られているが、これからは繰り返さないということを含めて、これらの内容は未来志向的な行為を
生み出し、抵抗権をも根拠付けるであろう。それゆえに、良心と抵抗権のかかわりを否定することはかなり難しいで
あろう。
したがって、西欧語の良心(凸吉田口広ロ2
) と孟子の良心には重なるところがたくさんあると共に、その捉え方あるい
は表現には相違もある。しかし、その相違は、それぞれの文化的出旦尽に由来するであろう。また東西の文化的相違を
鵡えて、良心は未来中市的につまり事前的・積極的な行為(表現)を麗み出す性質を持っていることが明らかにされ
2
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0
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てきた。補足的にいえば、事後的な良心の阿責で捉えられる良心論は一面に過ぎない。
﹁内心の自由﹂
ても﹁行為﹂にかかわる自由は付け足しの議論にとどまるかもしれない。
述べたように﹁行為﹂にかかわる思想・良心・信仰の自由を議論することはそもそも本来的ではない。仮にあるとし
で内心を前提して﹁内心の自由﹂をいうならば、思想・良心・信仰も﹁心のうち、心中﹂の世界に属するから、すでに
属するといわれる場合、法概念と学問的用語との混在があるのではないか。そして、もし﹁心のうち、心中﹂の意味
る用語である。そうすると、憲法一九条の﹁思想及び良心の自由﹂と憲法一 O条の﹁信教の自由﹂が﹁内心の自由﹂に
ぃ。対比的にいえば、前者は憲法で保障された権利にかかわるまたは権利そのものであるが、後者は学説で用いられ
も﹁良心の自由﹂も実定法たる憲法に属するが、心は別として﹁内心﹂や﹁内心の自由﹂は実定法に基づく一吉口葉ではな
問題を明らかにするためにいえば、良心とか内心とかを言語的意味ではなく法的意味で取り上げてみると、﹁良心﹂
あるのか。筆者自身無意識に心や内心を用いてきたのではないか。検討されてしかるべきであろう。
提で使われている。 一体心はどこにあるのか。心は肉体の心臓を指すのか。﹁絶対的自由﹂が保障される場所はどこに
が憲法一九条の解釈ではたくさん用いられている。さらに、﹁内心の自由﹂(ときに﹁内面の自由﹂)という言葉は無前
リシャ語をはじめとして西欧語のS
Easn∞では﹁心﹂に相当する言葉は出てこなかった。ところが心や内心の言葉
れていた。そして、諸橋の良心の解説を振り返ると、心よりも﹁良﹂に関連する議論に眼が向けられていた。他方、ギ
1. これまで﹁心﹂について言及しないできた。孟子はいうまでもなく心の言葉を使う。心は当然のように用いら
3
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
2
3
1
(
ω
)
2. 諸橋﹃大漢和辞典﹄によると心も内心の言葉も漢語に由来する。心すなわち﹁こころ﹂について諸橋が最初に
掲げる定義は次のようである。
①﹁身意を統合して生活を持続する作用の本体﹂
出血(とされるものは戦国時代の思想家で性悪説を唱えた萄子(前三二ニ頃1二三八頃) の﹃解蔽﹄である。すなわ
(4)
ち、﹁心者、形之君、而神明之主也よこれを解説する橋本によると﹁心は形即ちカラダの神明なる君であり、命令し
てもされることは無く、自ら全ての行動を律する唯一の自律的存在﹂である。そうすると、たしかに諸橋の解説は橋
本の萄子の解釈によって捉えられる。しかし、典拠としての萄子の文言の意味内容と諸橋の解説とは必ずしも一致す
るとは考えにくい。むしろ、諸橋の独自なおそらく西欧的な表現の裏づけとして萄子が取り上げられているといえな
いであろうか。
(必)
さらに心は﹁②知識、ちゑ。③意思、こころざし、④感情、おもひ、⑤わけ、意味、道理、⑥道の本源、道理、⑦お
もむき、ゃうす﹂と解説される。
︿必)
こうしてみると、諸橋の解説で中心的なものは①である。心を﹁人間の精神作用のもとになるもの﹂という新村﹁広
辞+州民や﹁人聞の体の中にあって、広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの﹂という松村内大辞林﹄も
諸橋に同旨である。そうすると、心は精神話動のもとになるものであれば、用語として心を使う孟子の良心論と使わ
(必)
ない西欧の良心(
n
g 明8
白山 8
) 論の聞にもはや決定的な違いはない。精神活動のもとになるものをどのように表現する
かだけの違いがあるに過ぎない。
3. 諸橋﹃大漢和辞典﹄は内心を解説する際に、二つに分ける。すなわち、
①札記を出典とするもので、﹁心を内に用ひる﹂ものであり、おそらく﹁心を内に用ひる﹂は、方向性を一不すので、
心の中身を育てるあるいは形成するように働くだろう。
②説苑の傍文を出典とするもので、﹁心の内部、中心、内意、内情﹂である。
したがって、前者では﹁外﹂ではなく﹁内﹂への方向性が考慮されている。後者ではもはやこれ以上先がない場所
(必)(必)
(﹁内部﹂﹁中心﹂)が前提されて、その場所に何かが置かれている。置かれているものが内﹁意﹂、内﹁情﹂である(﹁中
情﹂もそうかもしれない)。こうしてみると、たしかに内心を単に場所として捉えるととはできない。その場所には心
(訂)(絹)
にとって重要な何かがある。それゆえに、場所と重要なものとは密接不可分な関係にあるだろう。
次に、新村﹃広辞苑﹄は﹁心のうち、心中﹂をいい、松村町大辞林﹄は﹁(表面には現れない)心の中。胸の拠﹂とい
うから、これらの辞書は、諸橋﹃大漢和辞典﹂ の示した方向性をあらわす内心ではなくもうひとつの場所に傾斜した
(必)
解説を指し示しているように見える。考えてみると、内心は心の中身のある場所を指し示すだけにとどまらない。実
(印)
際使い方をみると、﹁内心穏やかでない﹂(新村﹁広辞苑﹄)、﹁内心の動揺を隠しきれない﹂﹁内心穏やかでない﹂(松村
﹃大辞林﹄)、また、﹁内心変わらない﹂﹁内心信じない﹂﹁内心を釘ち明ける﹂﹁内心びくびくだった﹂などもある。そこ
でこれらを考えてみると、ある重要な何かがかかわっていることが暗示されている。それゆえに、新村吋・広辞苑﹂
も松村﹃大辞林﹂ でも内心を単純に場所に固定するわけには行かない。
しかし、この内心にかかわる何かが必ずしも思想や良心と一致するわけでない。思想や良心は﹁考え﹂などのように
一定の内容をもち、また良心は﹁良き良心﹂﹁悪しき良心﹂という一定の内容を持っている。もちろん思想や良心の内
容はその担い手によって具体的には千差万別であろう。その場合には、思想や良心という一定の内容を満たす器が内
心となろう。ここに内心の特徴がある。 つまり、内心のある何かが、事件、秘密、知識などにとどまり必ずしも思想
や良心と関係があるとは限らない。それゆえに、﹁内心の自由﹂の前提である内心は幅広い器や箱に相当する、だろう。
で
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3
2
明治大学法学部創立百三十周年記念日命文集
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
2
3
3
また、広く支持されている見方として憲法一九条の﹁思想及、ひ良心の自由﹂と憲法一一O条の﹁信教の自由﹂が﹁内心
の自由﹂に属するといわれる場合、個別具体的な前者の自由が内容のない抽象的一般的な後者の自由と同列に置きう
るかどうか、また、前者の自由が後者の自由の構成要素になりうるかも問われる。
(113)
もそも思想・良心はそのような匿しておける性質のものではない。
者との接点を持たないつまり匿しておけるレベルの自然的自由を否定したり排除する必要はない。しかしながら、そ
に、ピュアリがいうように、思想・良心の自由には表現の自由が含まれていると解されるべきである。この場合、他
第三に、思想や良心には、他者との交わりから事前的・積極的な行為(表現)を産み出す可能性がある。そのため
﹁良き良心﹂の区別は章子の良心の解釈に際してもほとんど応用されうる。
意識された。西欧的な背景にはギリシャ語の特徴が現れている。そして、キリスト教の影響によって﹁悪しき良心﹂と
明治初期にかけて西欧諸のg
an-88が良心に翻訳されてここに西欧文化と東洋文化の接点が生じて、両者の比較が
第二に、良心という用語の歴史的文化的背景は中国にある。特に章子に注目しなければならない。他方、幕末から
合はありうる。
第一に、思想と良心はそれぞれ固有な性質を有していて夜ちに代替はされない。しかし、前者が後者に変化する場
理とかかわることに注意してきた。その結果いくつかの要点を指摘できる。
これまでの作業は、実定法の用いる言葉の事実的な言語的意味を探ることにあった。そして、特に思想や良心が倫
括
第四に、内心の言語的意味の分析から、内心の自由と思想・良心の自由とは必ずしも完全に重なるものではない。
課
題
思想・良心の自由とは﹁内心の自由﹂である。
1. 宮沢は、憲法一九条の思想・良心の自由をどのように解釈するか。次のようにいう。
に理解されるべきか。諸般の事情から本稿では以下の課題を提示して論述は今後にゆだねたい。
以上のような理解を持ったとき、思想・良心の自由はどのように理解され、君が代起立斉唱・伴奏事件はどのよう
4
A
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日
﹀
思想・良心の自由の保障内容ないし効果は①﹁沈黙の自由﹂であり、②﹁思想表白を強制されない自由﹂であ
内心に即して憲法一九条の思想・良心の自由をとらえる理由はどこにあるか。その理由は憲法一九条の解釈のどこ
部に発表﹂しないことが﹁内心﹂の特徹になる。
心の自由と﹁外部に発表する自由﹂としての表現の自由・学問の自由・信教の自由とを対比させる。それゆえに、﹁外
そうすると、宮沢は、憲法一九条の思想・良心の自由を﹁内心の自由﹂にとらえて、﹁内心の自由﹂としての思想・良
る。なお、③﹃日本国憲法﹄(コンメンタール﹀では、踏絵によるような﹁推知﹂の禁止である。
内
内心におけるものの見方ないし考え方(世界観・人生観・主義・信条など)をいう。﹂
格を有する場合は、その自由は、むしろ信教の自由(憲法二O条)に属するであろう。﹂/﹁思想および良心とは、
の形をとる場合は、その自由は、学問の自由(憲法二三条)に含まれると見るべきであろう。また、それが宗教的性
﹁思想および良心を外部に発表する自由は、表現の自由(憲法一一一条﹀であり、思想および良心の内容が学問的体系
(
1
)
234
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
2
3
5
にも見出せない。あるのは、思想・良心を内心のものと断定するだけのように見える。そのために、筆者は、その理
由を良心に基づく抵抗権の危険性を排除しようとしたことによるのではないかと想像する。おそらく、宮沢は、抵抗
権の危険性を排除するために憲法一九条を﹁内心の自由﹂に限局しないではおれなかったのだろう。しかし、もしそ
うならこの危険性の排除は憲法一九条の解釈から出てくるものではない。そうであれば、宮沢の憲法一九条の解釈論
は再検討に値する。判決はそのような影響を受けているに違いない。
宮沢の背景にある近代立憲主義の憲法思憩をここで若干述べて、宮沢の個人的な傾向に問題を媛小化しないように
(臼)
したい。彼の思想はホップズの主張に近いように見える。すなわち、
(日)
ホッブズは、良心を自然法に基づく意識として定義し、この自然法を義務づける良心を﹁内面の法廷﹂ (FEBEgggg)、
(M)
そして自然法に基づく行為を判断するものを﹁外面の法廷﹂(向。E自民芯自民自)と呼ぶ。この自然法は善悪にかか
吋山OH)
の思考は、命令に服従するものではなく・::神のはたらきにのみ服従するものである﹂。
(防)
わる道徳哲学である。主権者は﹁臣民の平和と防衛に必要なことがらの判定者﹂であるが、﹁人びとの信仰や内面
(日
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H
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ホップズは良心を内面(内心)に位置づけ、行為にわたるものを外面に位置づけている。たしかに、主権者は個人
の内面には立ち入ることはできなく、それゆえに限界を持つ。そうする友、良心にはもはや能動的に専制支配に戦い
(日)
を挑むものではない。その良心部嗣はモナルコマ年からの決別を一京す。しかし、﹁人は、かれの生命を奪おうとして暴力
(貯)
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で襲いかかってくる人びとに対して、抵抗する権利玄関
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) を放棄することはできない。﹂。﹁だれでも、自
分を死や傷害や投獄から免れさせる自分の権利を、譲渡または放棄することはできない﹂。それゆえに、抵抗権として
は消極的な不服従の余地だけが残っている。そうすると、ホップズの内面(内心)は、不服従はありうるから行為の
世界と全く遮断されてはいない、と理解しなければならない。宮沢が、それゆえに、行為から切り離された﹁内面の
2
3
6
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
自由﹂に良心を位置づけた理由をさらに問わなければならない。
2. 実定法の言葉は、法概念に属するが人間界で使う言語に他ならない。それなら、両者は麗結しないとしてもまっ
たく別物ではない。そして、事実の世界に属する言語が法の世界でもちいられるとき、何が法の世界では用いられ用
いられないかを意識する必要がある。というのは、仮に二つの世界で共通な言語が用いられでもそれぞれの場によっ
(四四﹀
て共通な言語の意味に相違が生まれるはずだからである。たとえば、法は一般人、普通人、平均人、通常人を前提とし
て制定され適用される。その意味は、﹁法的責任、例えば過失や期待可能性などの判断の規準﹂となるところにある。
(
ω
)
それでは平均人の前提は憲法一九条の﹁思想及び良心の自由﹂に適用されるものか。聖者や制限能力者に憲法一九
条の保障は及ばないというべきか。そういうことはない。憲法一九条は、すでに思想・良心の一一言語的意味の検討で明
らかであったように千差万別の内容を前提するので、画一化すること自体不可能であり、すべての人の思想・良心の
自由を保障する。それゆえに、その例外を作るわけにいかない。それでは制限はどこに出てくるか。思想・良心の表
現を前提とするならそこに出てくる他者とのかかわりにおける制限はどのように判断されるべきであろうか。思想・
良心の自由にも公共の福祉による制限がありうるのか。また表現の自由の制約と同等に論じられるのだろうか。
3. 国家は一定の政策やイデオロギーを国民に伝えるあるいはそれらを支持させようとして教育や情報の操作をす
る、マスコミや映像文化が視聴者の潜在意識に働きかけて、あたかも自分が主体的に選択したかのような錯覚を持た
せて、視聴者に特定の行動をとらせる。たとえば、偏狭な愛国心を育てる、特定の国に対して敵意をあおる、政治的
敵対者の失墜を画策する、物資不足や危険の不安を増大させる、新商品の販売を促進する。しかし、そういう情報操
作が﹁精神活動のもとになるもの﹂としての﹁心﹂に影響を与えて思想や良心を一定方向に誘導するときに思想や良
心の自由の侵害が問題になるだろう。思想・良心の形成の自由が侵害されると考えられる余地がある。宮沢が掲げた
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
237
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思想・良心の自由の三つの保障内容ではこの侵害は救済されない。
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(1)
本稿は、旧稿(﹁良心の自由の原理的事例的研究﹂﹃法律論議﹄第七九巻第一一・三合併号、二 O O七年二二七頁以下)を解釈論
へ展開する準備である。
のために、﹁内心の自由﹂は特異な思想・良心の自由の展開であることが認識されるべきだろ、っ。
別なものの展開が始まる。そう言えるなら、かかる特性に即して思想・良心の自由を保障することが課題である。そ
と交わる表現の域をつないでいるものを技術的にあるいは人為的に分断するとそれはもはや思想・良心そのものとは
の域(いわば終点)に遼するところに思想・良心の連続的動態的展開の特性がある。それゆえに、思考の根本と他者
して表現のレベルで他者と交わる。したがって、人間の思考の根本(いわば起点)に根差しながら他者と交わる表現
にはできない。そのうえで、人は思想・良心をもって生きようとするから、何らかの仕方で思想・良心を表現するそ
たしかに思想・良心は人間の思考の根本にある精神的現象である。そのために、思想・良心の自由の保障を揺るがせ
結びとして
の仕方に影響を与えるものかどうか、こういう疑問も検討されるべきであろう。
アメリカでは日本国憲法一九条のような憲法条文がないので、そのような差異は何か思想・良心の自由の事件の解決
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
東京高等裁判所判決平成二一-一年一一一月一 O目、平成二一年(行コ)第一人一号、懲戒処分等請求事件
思想︺諸橋轍次﹃大漢和辞典﹂第四巻、大修館出版、一九七六/一九五七年 (H諸橋﹃大漢和辞典﹄)、九九七頁。諸橋によ
ると思想の出典は﹁景徳鎮伝燈録﹂である。なお、﹁景徳鎮伝燈録﹂について﹃広辞苑﹄第五版、新村出編、岩波書底、一九九
人/一九五五年T 新村﹃広輩出ぽ)、八二三頁参照。なお︹景徳鎮伝燈録︺﹃デジタル大辞泉/逆引き大辞泉﹄小学館参照。デ
︹思想︺﹃日本閤語大辞典﹄第六巻、小学館、二O O一/一九七二年、七二七頁は﹁心に思い浮かべること。思いをめぐらす
ジタル版では編集者、発行年は不記載である。書籍版は﹃大辞林﹄と同一の松村明編である。本稿は﹃大辞林﹄を使、っ。
こと。また、その考え﹂という。
(国)︹良心︺諸橋﹃大漢和辞典﹄第九巻、五O五頁。﹁難存乎人者、量無仁義之心哉、其所以放其良心者、亦猶斧斤之於木也、瓦
。
(ロ)︹良心︺松村吋大辞林﹄、二六人O頁
(日)︹良心︺新村吋広辞苑﹄、二八一 O頁
。
考えること。考えつくこと。﹂この説明は新村﹁広辞苑﹄と説明の順序が異なるだけである。
もつものをいう。②︹哲︺(岳
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) 単なる夜感の内容に論理的な反省を施して得られた、まとまった体系的な思考内容。@
二 O一一一頁。すなわち、﹁①人がもっ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格を
(叩)︹思想︺新村﹃広辞苑﹄、一一七六頁。同旨に︹思想︺﹃大辞林﹄第一ニ版、松村明編、三省堂、二O O六年 (H松村﹃大辞林﹄)、
(9)
(8){
態、稔﹂・などが挙げられているが、まだ思想の文字は見当たらない。
(7) 思想が日本でいっ英語の笹口民間一宮の訳語として用いられたかは今後の研究をまたなければならない。たしかに、羅布存徳原
若井上哲次郎訂増吋増訂英華字典﹂一八八三年の笹口同 hH仲
F!の項目では、京岬一旗、意思、想頭、意、心頭、心思、神思、心曲、意
ロプシヤイト
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zroggEEFF¥Fgwog己EUHO-- 同)。
・ 古¥
(3) 読売新聞二O 二年五月三一日朝刊第一一問。
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(4) 強制の様子を報じる文献として次のものを紹介しておきたい。安利淑著﹃たといそうでなくても﹄待度社、一九七二年。
チ胃l スオク
越寿 14H証言、渡辺信夫 H聞き手﹃神社参拝を拒否したキリスト者付録平壌地方法院予審終結決定書﹄新教出版社、二0
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(5)
﹃福音新報﹄第一一二一一号一九三人年七月一一一目。笹川、前掲、二五五頁参照。
(6) 笹川、前掲、二四O頁以下は良心に絞って諸辞典を分析している。
2
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
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3
9
(U)
且而伐之、可以為葵乎﹂は読み下すと次のようになる。﹁人に存するものと難も、貴仁義の心無けんや。其其の良心を放っ所以
﹃震予、巻第U、告子章句上8﹄下、小林勝人訳注、岩波文庫、一九六八年、読下し二四四買以下。解説書によって引用箇所
は、亦猶斧斤の木におけるがごとし。旦旦にして之を伐る、以て美しと為す可けんや。﹂
の前後を含めて﹃告子上﹄を見てみよう。すなわち、牛山はもと樹木が多く茂って美しい山であったが、大都会の郊外にあるた
めに、皆が斧や斤でつぎつぎに切り倒したのでそうでなくなった。今の人はあのツルツルの禿げ山を見て、品目からそうであっ
たと思、つだろうがそうではない。﹁人間とてもそれと同じこと。生来持って生まれた本生の中に、どうして仁義の心(良心)が
ないはずがあろうか。ただ、人がそういう本来の良心を放失してしまうわけは、やはりまた、斧や斤で木を伐るのと同じなの
だ。毎日毎日、牛山の木を伐るように、物欲という一斧斤が良心という木を伐り去ったなら、どうして、心が美しい︹良心のある
人だ︺ということができよ、っか﹂夜昼となく養われて、清らかな﹁明るい心(良心)の芽生えが出てくるが、ぞれにもかかわ
らず心から善を好み悪を憎むという人間らしい良心の持主がごくごく稀にしかいないのは、その人の昼間の行為が折角のこの
気(良心の芽)を撹乱(かきみだ﹀して消滅させてしまうからである。﹂﹁この撹乱を繰り返しておれば、良心をよびおこすこと
もできなくなる﹂。
。同同庁需品
OB02gaz-H由民噌司・
F 翻訳の引用文で﹁人間の心の働き﹂とか﹁人の心を支配する﹂の﹁心﹂は原文では目宮仏
(日)吋震予﹄小林の訳注9香二四三頁。
(国)浅井茂紀﹁孟子の良心哲学論│良知良能と関連して│﹂千葉商大紀要第四一巻第三号(二O O一一一年一二月)二八、三O、
一
一
一
て一一一二、三六頁。なお、浅井茂紀﹃孟子の性警説と仁義同高文堂出版社、一九八O年参照。
(
口) J - B・ピュアリ藩森島恒雄訳町思想の自由の歴皐岩波新舎六一、一九六九/一九五一年、一ーーニ真。﹄・回・切口
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である。
(国)ピュアリ、前掲、ニ二四頁。
(四﹀清水英夫﹃思想・良心および言論の自由﹄一粒社、一九六一年、入l九頁は、﹁生まれようとする市民社会のイデオロlグた
る﹁カの神、イデアの神等﹂を区別し、ルタlの﹁神の言葉によって、がんじがらめに縛られた﹂﹁被縛性の良心﹂が﹁敬度主
ち﹂の﹁人聞の道徳的感覚﹂に応える理神論や理性宗教としての﹁近代ヒューマニズム﹂と﹁専制社会、封建社会の投影﹂であ
義をとおしてカントに流れこみ﹂変貌して﹁良心みずからの絶対性に近づいた﹂という。
(却)中国伝道のために、漢訳聖書諒制約全書﹄は上海において一八六一年に出版された。そして﹃新約金書﹄蘇松上海美華書館、
240
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
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一八六六年には良心という中国語が使われている。かかる漢訳聖書が後に日本語の聖書翻訳に影響を与えた。他方ドイツ人の
宣教師F
DZ岳包仏(ロプシヤイト﹀は辞書を編纂した。それが者F
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﹃増訂英華字典﹄一八人三年の影響が大きい。こうして英語8EaBBが日本では漢詩を介して良心となった。詳しくは笹川、
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を良心と訳した。そして、この辞書が明治期の日本に広く用いられた。とくに、日本語版である羅布存徳原著井上哲次郎官槽
の言葉はない。
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前掲、二四一頁以下参照。なお、幕末に洋書調所が一八六二年に作成した日本最初の英和辞書﹃英和対訳袖珍辞書﹄には良心
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(幻)のぬ自国盟国二回日目
(泊)インゲ・シヨル著内垣啓一訳吋白蕃殺は散らず│ドイツの良心シヨル兄妹﹄未来社、一九六ニ/一九六O年、一三人頁。ま
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た、クラウス・フィ1ルハ Iパ1他編中井晶夫・佐藤健生訳吋梅田力と良心│ヴィリl ・グラlフと'回パラ﹄未来社、一九七三年
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(泊)同開問。
﹁良心﹄ル 1テル文書協会、一九五七年、七│入頁は、﹁良心が事前に働く場合
(斜)︹良心︺﹃新約聖書神学事典﹄東京神学大学新約聖書神学事典編集委員会編、教文館、一九九一年、五五七頁。
(笥)﹀・斜。﹂∞・目印 φ
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加 )kr-mw-。
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は、私たちが意図する行動の遂行を励ますか、思いとどまるように忠告するか、どちらかです﹂といい、﹁良心の声が一番強く
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同旨に、ォ l ・ハレスピI
L山・日叶・
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のほどをあらわす﹂場合を﹁普い良心﹂といい、﹁︹その行為)を非難し、心に不安と憂慮の念を湧き立たせる﹂場合を﹁悪い良
ひぴく﹂のは﹁行動の後﹂においてであるとして、行動の前後で違いがあるとい、っ。そして、﹁その行為を、善と認めて、満足
心﹂と呼んでいる。
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242
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
(HU)
橋本敬司﹁萄子の﹃身体﹄│性悪説と化性説の戦略│﹂吋哲学﹄広島哲学会、第五二号、二O O一年、人三頁。
(制)︹心︺諸橋﹃大漢和辞典﹄、九一一一人頁。
(姐)︹心︺松村﹃大辞林﹄、人九人頁。
。
(必)︹心︺新村﹃広辞苑﹄、九五O頁
(叫)︹内心︺諸橋﹃大漢和辞典﹄、一 O五二頁。
o=貝。﹁まごこころ﹂が意味される。
(必)︹中情︺諸橋司大漢和辞典﹄第一巻、三
正される。
(組問)笹川、前出、二四人頁は﹁内心﹂を﹁器﹂﹁箱﹂と強調してその中に取り込んでいる実質とのかかわりを捉えなかった点は訂
(灯)︹内心︺新村﹃広辞+丘、-九六五頁。︹内心︺﹃日本国語大辞典﹄第一 O巻、小学館、ニ000年、二人頁。
(必)︹内心︺松村﹃大辞林﹄、一八六二頁。
(川崎)︹内心︺新村吋広辞苑﹄、前出。
(印)︹内心︺松村吋大辞林﹄、前出。
部信義補訂﹃金釘日本国憲法﹄日本評論社、一九七八年、二一一一七頁。
(民)宮沢俊義﹃法律学体系コンメンタlル篇l 日本国憲法同日本評論新社、一九六二/一九五五年、二三七頁。宮沢俊義著芦
(臼)ホップズ﹃リヴアイアサン(国家論)﹄﹃世界の大思想9﹄水田洋・田中静訳、河出書房新社、一九七四年 (Hホップズ)、四七頁。
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(出)ホップズ、一八九頁。出
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(閃)ホップズ、一 O六頁。問。
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(出)ホップズ、一 O七頁。国
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(関)ホップズ、八九、九四九五頁。図。σ
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(肝)ホップズ、九四頁。国C
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(回)﹃新法学辞典﹄創始末川博、編集代・
表杉村敏正・天野和夫、日本評論社、一九九一年、九六四買。
(印)どんな人にもこの保障は及ぶ。筆者は皇位継承にかかわって天皇・皇族にも及ぶと考えるがこれは本稿の課題ではないので
一一思想・良心の言語的意味の分析と課題一一
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論じない。参考になるのはイギリスの王位継承法である。その第二項は、継承者としてはカトリック教徒を排除する。すなわ
ち﹁ロ l マ教皇庁またはロ l マ教会と融和し、もしくは窓的交渉を有する者、カトリック教の信仰を表明する者、またはカト
リック教徒を配偶者とする者は、一人残らず全部﹂権利章典の規定するところの﹁剥奪をうける﹂(高木八束・末延三次・宮沢
俊義編﹃人権宣言集﹄岩波文庫、一九六七/一九五七年、九一一一│九四頁﹀。
行委員会編、敬文堂、ニO O七年、一七五│一七六買。
(印)笹川﹁良心の自由の解釈│パ 1ネット事件最高裁判決を参考として│﹂吋憲法諸相と改憲'論﹄吉田善明先生古稀記念論文集刊