エピローグ:残された課題

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エピローグ:残された課題
または新たなニッチへの途
これまでの本稿の文脈は次のように辿れる。
(1)記号学の創始者である C.S.パースの分析によれば、言語は記号とそれが
参照する対象との対応を定める記号体系であり、対応にはアイコン言語、
インデクス言語、そしてシンボル言語の3レベルが考えられる。
(2)ヒト以外の生物種はアイコン言語からインデクス言語へと進化させたが
そこに留まった。それに対して、ヒトはそれを超えてインデクス言語を基
底とする隠語としてインデクス言語からシンボル言語へと進化させた。
(3)シンボル言語では記号と参照対象の対応を約束により定めるので、実在
しない対象を参照する記号を定めることができる。これによりヒトは実在
しない世界を言語で構築でき、将来を予測し計画を立て実現することがで
きる。これによりヒトは人になり文明を創ることができた。
(4)実在しない世界は自然による拘束を受けないので、シンボル言語世界は
矛盾を含む。シンボル言語を用いて思考する人の思考結果がそのまま実在
社会に表出されると、社会に矛盾が生まれ対立抗争に繋がる。この問題は
現在の人の社会が抱える最大の解決困難な問題である。
以上の文脈において、
(2)以外は論理的必然性があり、若干の飛躍はあるに
しても、合理性を首肯できる考察である。しかし(2)の言語のレベルが進化
により上がるとすれば、ヒト以外の生物種がインデクス言語からシンボル言語
への進化を現在に至るも実現できていない理由を説明する必要がある。これが
本文に記した考察において残された課題である。
進化の袋小路
進化が停まる原因には「揺らぎと相互作用」における「揺らぎ」または「相互
作用」あるいはその両方が存在しないことがある。このうち「揺らぎ」が存在し
ない状況として「進化の袋小路」があることは、日本のガラケイ(ガラパゴス
携帯)、米国の乗用車の大型化に見られるところである。
とすれば、ヒトに到達した霊長類の系列においてヒト族チンパンジー亜族の
チンパンジーとボノボがどのような袋小路に陥ったのかを考える必要がある。
彼らが陥った袋小路は明白である。森林の環境に適合し過ぎたことである。
マレーシアの森林研究所を訪ねたときに、私は熱帯林の樹冠に上ったことがあ
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る。そこは陽光が降り注ぎ、木の葉が茂り隠れる場所があり、果実は実る、何
とも快適な環境であった。なぜヒトはこの快適な環境を捨てたのか?
調べると、ヒトが森林を捨てたのではなく、原因はアフリカ東部における地
殻変動が森を失わせ草原と化したことにある。そこにいたチンパンジー亜族は
森を捨てたのではなく、森を失い草原に出ざるを得なかったという。
草原に出て 2 足歩行に移行したヒトは、直立した背骨の上に頭が乗ることで
重い頭を支えることが可能になり、頭脳の拡大進化のための新たな余裕を獲得
した。これは森林の中に生き続け、水平に伸びる背骨の端に頭があったチンパ
ンジー亜族にはない、重い頭を支えられる余裕をもたらした。
その後にチンパンジー亜族も草原に出ることを試みたに相違ない。しかし、
そこはすでにヒトが占拠しており、チンパンジー亜族が進出できるニッチでは
なかった。チンパージ−亜族にシンボル言語へと脳を拡大進化させる途はふさ
がれていた。これが、チンパンジー亜族がインデクス言語に留まりシンボル言
語を獲得できなかった理由である。
新たなニッチはどこにあるか
ヒトは人になり文明社会を作りかつてない繁栄を謳歌している。しかし人が
棲むニッチはもはやニッチではなく狭隘な空間となりつつある。新たなニッチ
を求めて、人が居住可能な惑星を他に求める動きもあるが、輸送に膨大なエネ
ルギーを要する自然法則の下で、これを大人口について実現することは難しい。
できることは少数の人を送り込んで、その子孫の生き残りを望むだけである。
地球上の生物はヒトをもって終焉を迎えるのであろうか。私はそうは思わな
い。生物は頑強な存在である。ウイルスや単細胞をはじめとする簡単な構造を
もつ生命体は生き残る。そして彼らは進化を続ける。彼らの進化で生まれる新
たな生物種のために、ヒトがニッチを空け渡す番である。
6,550 万年前に空前の繁栄の中にあった恐竜が絶滅して哺乳類にニッチを明
け渡したように、今度はヒトが絶滅して新たな生物種に新たなニッチを提供し
て、生物は生き続けるであろう。