当日資料 [PDFファイル/240KB]

◆「重森三玲」のこと:
◇略年譜:
明治 29 年(1896):8 月 20 日、岡山県上房郡賀陽町吉川で生まれる。
大正 04 年(1915):18 歳にて初の作品、天頼庵茶室を造る。三玲の建築設計第一作目。
大正 06 年(1917):日本美術学校入学
卒業までの間、日本美術全般に渡って勉強をして、庭園と建築の基礎固めをおこなう。
大正 09 年(1920):日本美術学校研究科卒業。豪渓を原始森林公園として登録できるようにを推し進める
(田村剛)。
大正 13 年(1924):天頼庵庭園作庭 (28 歳)。正確には大正 14 年 1 月 2 日に完成。重森三玲の庭園設計第一
作目。
昭和 04 年(1929):京都に移る。
昭和 07 年(1930):京都林泉協会設立
昭和 10 年(1935):
「新興いけ花宣言」を掲げて「新興いけ花協会」を作る (勅使河原蒼風・中山文甫・桑原
専慶などと)
“我々は一つの宣言をする。日本新興いけばなの発火と創造とを。
我々は新しいものを求める。
仮想された古い物ではない、真に生き生きとした現代の思想や感情や表現を要求する”
“雅号を捨て本名を用いること”
“一切の懐古的感情を斥けること”
“形式的固定をしりぞけること”
“花器の制限を斥けること”
昭和 11 年(1936):第一次全国古庭園実測調査開始(重森、鍋島、福井、早尻、下川、清水)
昭和 13 年(1938):第一次全国古庭園実測調査終了
昭和 23 年(1948):第一回京都文化院賞受賞
昭和 24 年(1949):いけばな研究グループ「白東社」創立
昭和 46 年(1971):第二回全国の庭園実測調査開始
昭和 50 年(1975):3 月 12 日没。 享年 79 歳。
◇主要庭園作品:
◇主要著書:
春日神社庭園
昭和 09 年(1934)(奈良県)
東福寺本坊
昭和 14 年(1939)(京都府)
東福寺光明院
昭和 14 年(1939)(京都府)
西南院庭園
昭和 27 年(1952)(和歌山県)
岸和田城庭園
昭和28 年(1953)(大阪府)
瑞応院庭園
昭和31 年(1956)(滋賀県)
瑞峰院庭園
昭和 36 年(1961)(京都府)
竜吟庵庭園
昭和39 年(1964)(京都府)
福泉寺庭園
昭和40 年(1965)(東京都)
北野美術館庭園 昭和40 年(1965)(長野県)
住吉神社庭園
昭和41 年(1966)(兵庫県)
常栄寺庭園
昭和 43 年(1968)(山口県)
松尾大社庭園
昭和50 年(1975)(京都府)
他 (総作庭数:約 200 弱、計画案:約 30)
昭和 08 年(1933)
昭和 09 年(1934)
昭和 11(1936)
~13 年(1938)
日本茶庭芸術 (臼井書店)
昭和24 年(1949)
茶室と庭(社会思想社)
昭和37 年(1962)
重森三玲作品集「庭」(平凡社)
昭和 39 年(1964)
日本庭園史大系全35 巻(社会思想社) 昭和46 年(1971)
実測図日本の名園(誠文堂新光社)
昭和46 年(1971)
茶室茶庭辞典(誠文堂新光社)
昭和48 年(1973)
日本庭園歴覧辞典(東京堂)
昭和49 年(1974)
京都美術大観・庭園篇(東方書院)
日本茶道史
(河原書院)
日本庭園史図鑑全 26 巻(有光社)
昭和24 年まで48 冊 (単独著書)
昭和 25 年~昭和 50(没年)まで 20 冊 (単独著書)
1
(資料作成:重森千靑)
◆岸和田城庭園:
作庭年代:昭和 28 年 10 月 13 日~12 月 20 日
様
式:平庭式枯山水庭園
指
定:国指定名勝庭園 平成 26 年(2014)10 月 06 日
◇沿革:
城郭内での作庭であることから、古い時代の城郭古図を丹念に研究し、各城郭外観の美しさにヒント得た
上での設計となっている。また作庭後に天守閣が復元されることや、これからの時代は空路の発達による上
空からの俯瞰も予見して、上方からのデザインも考慮された。作庭当初なかった天守閣も、作庭した翌年の
昭和 29 年 12 月に復元された。これによって、天守閣上部からの俯瞰も可能となった。
◇庭園意匠のこと:
地上は四方正面としてあらゆる角度から強さを引き出し、
上部や上空から見た際には城郭を感じさせるよ
うな意匠となっている。
このような考え方による日本庭園の設計方法は、
従来の古庭園にはなかった手法で、
デザインとしての斬新さが際立っている。またその中に配置された石組のデザインモチーフは、諸葛孔明の
八陣法をテーマとした構成となっている。この兵法は守りの型であり、日本の戦後における恒久的な平和を
も意図した上で採用された。
◇庭園構成:
全体の構成は古図による城郭を現代風にアレンジし、上、中、下、の三段構成とし、それらの仕切は板石
状の青石を延段風に貼り合わせて構成されている。その中に各八陣の兵法を表す石組が配置されている。最
上部の中心に「大将」石組を配置し、そこから八陣が配置されている。中段には「虎」
「風」
、下段に残りの
「天」
「地」
「雲」
「龍」
「鳥」
「蛇」が東西南北に配置されている。
「虎」は北部の九個の石組で勇ましく走る
姿、
「風」は南西の六個による石組で風の吹くさま、
「天」は東北部で天に昇る勢いを立石のみで表現、
「地」
は北西の三石で伏石によって地下に入り込む様、
「雲」は雲の行き来を三個の伏石で表現、
「龍」は南部に九
個の石で黒雲から天に昇る姿、
「鳥」は北西の八個の石組で大空を飛翔する朱雀。
「蛇」は東部に三石によっ
て表現されている。また、作庭当初は大将、虎、龍の北から南への直線上で結ばれるこれらの石組には苔の
紋様が施されていたが、現在では消失している。本庭で使用された石は、沖の島の緑泥片岩が使われている
が、三玲の記述には高知県と和歌山県の両県の沖の島が書かれており詳細は不明である。
本庭の設計上の特徴と
しては、枯山水という伝
統的な手法を用いながら、
古来からの日本庭園にお
ける中心的なテーマであ
る蓬莱神仙や自然風景観
の考え方から脱却した構
成としたことである。し
かしながら、その設計理
念は、決して伝統を忘れ
ることなく、そこにもう
一歩踏み込んだ斬新な考
え方を加える事によって、
まさに三玲の目指した永
遠のモダンを感じさせる、
新しい日本庭園が作られ
たのである。
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(資料作成:重森千靑)