多重の変遷と規格化の歴史;pdf

多重の変遷と規格化の歴史
解 説
木村武史
■
「多重」という言葉で,これまでさまざまな技術が表現されてきた。本稿では,アナログ
放送の時代からデジタル放送の現在まで,
「多重」の技術とその変遷をたどる。そして,
衛星・地上デジタル放送に関して,情報通信審議会,ARIB(Association of Radio Industries and Businesses:電波産業会)等における「多重」技術の規格化(標準化)の
歴史を振り返る。
1.まえがき
本特集号の表題は「8Kスーパーハイビジョン放送の多重技術」であるが,掲載された
解説や報告の中で,題名に「多重」という言葉が付いているのは本稿のみである。各記
事の題名を眺めてみると,代わりに「メディアトランスポート」
「MMT(MPEG Media
Transport)
」というキーワードに気付く。これは,伝統的に「多重」という言葉で表さ
れてきた役割が,今日では「トランスポート」という言葉で表されるレイヤー(階層)
の役割に変化してきたことを示唆している。
本稿では,本特集号の表題に示された「多重」という言葉で表される技術について,
その変遷を,わが国の放送が始まった時点から,アナログ放送の時代を経て,現在のデ
ジタル放送までたどってみる。また,特にデジタル放送方式とその多重方式について,
規格化の歴史を振り返る。そして,今般の「高度広帯域衛星デジタル放送」の規格化に
おいて,多重方式に大きな変化が訪れたことを述べる。
2.
「多重」の種類と変遷
「多重」という言葉の意味を調べてみると,
「いくつも重なること。また,いくつも重ね
ること。
(デジタル大辞泉)
」とある。では,放送ではどのようなことを「多重」という言
葉で表すのだろうか。まず,
「多重」と呼ばれる技術,
「多重放送」と呼ばれる放送が,
ど
のようなもので,
どのように変遷してきたか歴史をひもといてみる(1図)3)∼5)。
2.1 アナログ放送における多重(1)∼多重を行った放送∼
アナログ放送における多重は,従来の放送があって,その電波の枠の中で新たな価値
を「重ねて」放送しようとするものであった。アナログ放送での「多重」は,まず既存
のサービスの付加価値を高めるために行われた。テレビジョン放送のカラー化,FM放送
のステレオ化がその良い例である。
カラーテレビジョン放送(1960年∼2011年)は,輝度信号(白黒信号)のスペクトル
の山谷と,色差信号(カラー化用信号)のスペクトルの谷山が,ちょうどかみ合うよう
4
NHK技研 R&D/No.150/2015.3
1920
1930
1940
1950
1960
1970
1980
1925
1990
2000
2010
2020
1992
AM放送
AMステレオ
1969
FM放送
FMステレオ
アナログ
1994
FM多重
1953 1960
テレビジョン放送
カラー
1982 1985
2011
1996
音声多重 文字多重 データ多重
1989 1991
衛星テレビジョン放送
有料放送
アナログ映像
+
デジタル音声
1994
衛星ハイビジョン放送
(実用化試験放送)
2011
2007
1996
狭帯域CSデジタル放送
デジタル
2000 2002
BSデジタル放送
110°
CSデジタル
2003
地上デジタルテレビジョン放送
1図 放送と多重の歴史
映像キャリヤー
音声キャリヤー
カラーサブキャリヤー
拡大
輝度信号
色差信号
3.58MHz
周波数
4.5MHz
周波数
15.734kHz
帯域幅6MHz
2図 アナログ放送における多重の例(NTSCカラー方式)
に,周波数分割多重して行われた(2図)
。ここでは簡単に説明したが,詳細にはさまざ
まな工夫がされている。これが有名なNTSC(National Television Standards Committee)方式のカラーテレビジョンである。
FM(Frequency Modulation)ステレオ放送(1969年∼)は,L+R信号*1(モノラ
ル互換信号)の帯域の上方に,L­R信号(ステレオ化用信号)でAM(Amplitude
Modulation)変調したサブキャリヤーを周波数分割多重する(3図の②)
。この多重され
*1
左チャンネル用の音声信号と右
チャンネル用の音声信号を足し
合わせた信号。
た信号で主キャリヤーをFM変調したものがFMステレオ放送である。FM変調は,伝送
信号の帯域を広げて冗長性を持たせる操作であるため,ステレオ化用信号を多重できる
「電波の隙間」があったということである。
平成になって実用化されたAMステレオ放送(1992年∼)においても,冗長性という
隙間を利用して多重が行われた。AM放送は音声信号でキャリヤーをAM変調したもので
あり,一般的なAM変調では両側波帯を持つ冗長性がある。AMステレオ放送では,この
冗長性を利用して,ステレオ化用信号を重ねることにより,ステレオ化が行われた。す
なわちL+R信号(モノラル互換信号)でキャリヤーをAM変調するのに加えて,L­R
信号(ステレオ化用信号)でキャリヤーの直交成分を抑圧搬送波AM変調*2することに
*2
搬送波を送らないAM変調方式。
より,ステレオ化が行われた。
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5
① FMモノラル
モノラル信号
0
周波数
② FMステレオ
パイロット信号
L+R信号
0
L−R信号
19kHz
38kHz
周波数
③ FM多重
パイロット信号
L−R信号
L+R信号
0
LMSK信号
19kHz
38kHz
76kHz
周波数
3図 アナログ放送における多重の例(FM放送)
2.2 アナログ放送における多重(2)∼「多重放送」と名乗った放送∼
次に,
「…多重放送」と,名称に「多重」を付けた放送が現れた。
「…多重放送」におい
ては,価値の追加といったサービスの改良だけでなく,新しいサービスの付加が行われ
た。純粋なアナログ放送としては,
「テレビジョン音声多重放送」がその例である。
「テレビジョン音声多重放送」
(1982年∼2011年)は,テレビの音声に新規の音声チャ
ンネルを多重し,新たに独立した音声サービスを付加したり,従来の音声チャンネル
(L+R信号)と新規の音声チャンネル(L­R信号)とでステレオ音声を提供したりするも
のである。技術的には,従来の音声チャンネルの帯域の上方に,新規の音声信号で狭帯
域FM変調したサブキャリヤーを周波数分割多重する。この多重された信号で音声キャリ
ヤーをFM変調したものが,
「テレビジョン音声多重放送」の伝送信号になる。
後述の,アナログ放送にデジタル信号を多重した放送の多くも,この「…多重放送」
の例である。
2.3 アナログ−デジタル放送 ∼アナログ放送にデジタル信号を多重∼
「テレビジョン文字多重放送」
(1985年∼2011年)は,アナログテレビの映像に文字情
報を多重し,テキストと簡単な図形を表示できる,今で言えばデータ放送のようなサー
ビスを提供するものである。技術的には,テレビ映像信号の垂直ブランキング期間の走
査線に,符号化した文字や図形を時分割多重する。アナログ放送への多重技術であるが,
多重する情報はデジタル信号である。
「テレビジョンデータ多重放送」
(1996年∼2011年)は,テレビジョン文字多重放送と
同様の方法でデータを多重したものである。
「FM多重放送」
(1994年∼)は,FMステレオ放送の音声に新たなデジタルチャンネル
を重ねて,データ放送サービスを提供するものである。技術的には,FMステレオ放送の
L+R信号とL­R信号のさらに上方の周波数帯に,LMSK(Level controlled Minimum
Shift Keying)という変調方式で変調したデータ信号を,周波数分割多重したものである
6
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① ストラクチャー多重
1ch L R 2ch L R
…
1ch L R 2ch L R
…
伝送フレーム(伝送の単位)
② 固定長パケット多重(TS等)
ヘッダー ペイロード(正味のデータ)
…
パケット(188バイト:TSの場合)
③ 可変長パケット多重(MMT,IP,TLV等)
ヘッダー
ペイロード
…
パケット(可変長)
パケット(可変長)
4図 デジタル多重方式の変遷
(3図の③)
。LMSKとは,音声信号のレベルに応じてMSK信号の振幅を変化させる方式
であり,FMステレオ放送信号とLMSK信号との間の干渉を相互に制御しながら,MSK
信号を伝送する技術である。
2.1∼2.3節で述べたように,アナログ放送への「多重」は,既存の放送に新たな付加価
値や新たなサービスをプラスするために,既存の放送の隙間を見つけて,そこに新たな
信号を重ねる「多重」であった。
2.4 初期のデジタル放送 ∼ストラクチャー多重方式∼
一般にデジタル放送は,その性能を極限まで使用するように設計する。アナログ放送
のように新たな情報を「重ねる」隙間はない。その代わり,デジタル放送は,最初から
信号が「重なった」ものとして作られた。
初期のデジタル放送における「多重」では,いくつかのメディアやサービスを重ねて
伝送するようになっていた。そして,メディアやサービスを重ねる場所は,あらかじめ
決められていた。このような多重の方法を,ストラクチャー多重方式と呼ぶ(4図の
①)
。デジタル放送では,方式があらかじめ備える,そうしたメディアやサービスを重ね
る仕組みを「多重」と呼んでいる。
「衛星ハイビジョン放送
「衛星テレビジョン放送」
(1989年∼2011年)の音声信号*3,
「PCM音声放送」
(MUSE放送)
」
(1994年∼2007年,実用化試験放送)の音声信号*4,
(1992年∼2011年)は,いずれも「ストラクチャー多重方式」であった。ただし,これら
の方式は,それぞれ独立したものであった。
2.5 現在のデジタル放送 ∼MPEG­2 Systems方式∼
現在のデジタル放送における「多重」では,いくつものメディアやサービスを重ねて
放送できるようになっている。メディアやサービスを重ねる方法は,一定の大きさのコ
ンテナ(固定長パケット)にデータを詰めて,必要な分だけ重ねる方法である。コンテ
*3
最終的な伝送信号は,
デジタル信
号でDQPSK(Differential Quadrature Phase Shift Keying)
変調
したデジタルサブキャリヤーを,
主信号(映像信号)に周波数分
割多重した後,主キャリヤーを
FM変調したものである。
*4
最終的な伝送信号は,デジタル
信号を主信号(映像信号)に時
分割多重した後,主キャリヤー
をFM変調したものである。
ナには各種メディアを柔軟に詰めることができる。また,メディアやサービスが重なっ
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ている状態を示す仕組みを備え,こうした多重関連情報も「多重」の仕組みの一部とし
て扱われている。
現在のデジタル放送においては,188バイトの固定長パケット(TSパケット:Transport Stream Packet)を用いるMPEG­2(Moving Picture Experts Group 2)Systems
方式を採用している(4図の②)
。
「狭帯域CSデジタル放送」
(1996年∼)
,
「BSデジタル
放送」
(2000年∼)
,
「110°CSデジタル放送」
(2002年∼)
,
「地上デジタルテレビジョン放
送」
(2003年∼)
,
「地上デジタル音声放送」
(2003年∼2011年,実用化試験放送)
,
「地上
デジタルマルチメディア放送」
(2012年∼)は,いずれも多重方式にMPEG­2 Systems
方式を用いている。
2.6 新しいデジタル放送 ∼MPEG­H MMT方式∼
次世代のデジタル放送における「多重」でも,いくつものメディアやサービスを重ね
て伝送するようになっている。メディアやサービスを重ねる方法は,大きさが変化する
コンテナ(可変長パケット)にデータを詰めて,必要な分だけ重ねる方法である(4図
の③)
。やはり,コンテナには各種メディアを柔軟に詰めることができて,メディアや
サービスが重なっている状態を示す仕組みも備える。
これに加えて,次世代の「多重」では,1つのメディアやサービスを複数の伝送路に
わたって重ねる仕組みを備える。つまり,1つの伝送路に重ねないで,複数の伝送路に
分担して重ねる多重が生まれたのである。
新たなデジタル放送においては,可変長パケットを用いるMPEG­H MMT方式を採用
している。
「8Kスーパーハイビジョン(以下,8K)衛星放送」
(2018年∼(予定)
)は,
この多重方式を用いて計画されている*5。また,この多重方式を用いた次世代のハイブ
*5
詳細は,本特集号の報告「8K
スーパーハイビジョン衛星放送
に向けたMPEGの新たなメディ
アトランスポート方式MMT」を
参照。
リッドキャストも検討されている。
3.デジタル放送の規格化の歴史
本章では,主なデジタル放送について,その伝送方式と多重方式の規格化の歴史を振
り返る(5図)
。なお,各放送の名称については,一般に広く用いられている名称を用い
る。
3.1 狭帯域CSデジタル放送
最初の本格的なデジタル放送として登場したのが,狭帯域CS(Communications
Satellite)デジタル放送である。1996年10月に,東経128°衛星を用いて,
「パーフェク
*6
Digital Video Broadcasting ­
Satellite:欧州で開発された衛
星デジタル放送の伝送方式の規
格。
*7
European Telecommunications
Standards Institute:欧 州 電 気
通信標準化機構。
TV!」の名称で放送を開始した。現在は,東経124°
/128°衛星を用いて,
「スカパー!プ
レミアムサービス」の名称で放送が行われている。
,多重方 式 に はMPEG­2 Systems
伝送方式にはDVB­S*6(ETSI*7EN 300 421)
,多重関連情報としてのSI(Service Information)については
(ISO/IEC*813818­1)
*8
International Organization for
Standardization / International
Electrotechnical Commission:
国際標準化機構/国際電気標準
会議。
*9
Digital Video Broadcasting ­
Service Information:欧州で開
発された多重関連情報の規格。
8
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DVB­SI*9(ETSI EN 300 468)が採用された。これらは,国際標準(MPEG,ISO/
IEC)および欧州の標準(DVB,ETSI)の導入であり,日本独自の規格としては,受信
1)
が1996年5月
機仕様(ARIB STD­1「CSデジタル放送用受信装置(望ましい仕様)
」
)
に定められた。
ここで用いられた,MPEG­2 Systemsの多重方式(188バイト固定長のTSパケットを
用いたパケット多重方式)や,多重関連情報方式は,その後の日本のデジタル放送にお
ける多重方式の標準規格をつくる上で,その基となった。
3.2 BSデジタル放送
BS(Broadcasting Satellite)デジタル放送は2000年12月に開始され,その後,広く
1994
諮問
94/6
・
・
・ 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018
STD-B10,20
98/7,11
98/2
答申
諮問
94/6
放送開始
00/12
BSデジタル放送
99/10
TR-B15
STD-B20,10 放送開始
00/11,01/3 02/3
110°CSデジタル放送
00/2 01/7
答申 TR-B15
諮問
94/6
STD-B10,31
01/5
99/11
答申
放送開始
03/12
ワンセグ開始
06/4
地上デジタルテレビジョン放送
02/1
TRB-14
諮問
06/9
STD-B10,44
09/7
08/7
答申
高度広帯域
STD-B60,44 試験放送開始 実用放送開始
14/7
(予定)
2016
(予定)2018
衛星デジタル放送
14/3 2015
(予定)
答申
運用規定
(年/月)
5図 デジタル放送の規格化の歴史
普及した。
BSデジタル放送の多重方式にはMPEG­2 Systemsが採用された。伝送方式の規格とし
1)
が1998年11月
ては,
「BSデジタル放送の送信・運用条件」*10(ARIB STD­B20 1.0版)
*10
現在の題名は,
「衛星デジタル放
送の伝送方式」
。
に策定された。また,多重関連情報方式の規格として,
「デジタル放送に使用する番組配
1)
が1998年7月に策定された。ARIB STD­B10は,
列情報」
(ARIB STD­B10 1.1版)
DVB­SIを基本にしながら,日本独自の要求に対応した規格である。さらに,運用規定と
2)
が1999年10月に発行された。
して,
「BSデジタル放送運用規定」
(ARIB TR­B15)
3.3 110°
CSデジタル放送
110°
CSデジタル放送は,2002年3月に開始された。BSと同じ東経110°に位置する衛
星を用いて,基本的にBSと共通の伝送方式により,BSとほぼ共通の環境で受信すること
を実現した。
110°
CSデジタル放送の多重方式には,BSデジタル放送と同じくMPEG­2 Systems
が採用された。伝送方式の規格としては,前述の「BSデジタル放送の送信・運用条
件」を改訂して,
「BS/広帯域CSデジタル放送の送信・運用条件」
(ARIB STD­B20 2.0
1)
が2000年11月に策定された。また,多重関連情報方式の規格として,
「デジタル放送
版)
1)
が2001年3月に策定された。ARIB
に使用する番組配列情報」
(ARIB STD­B10 2.0版)
STD­B10 2.0版は,110°
CSデジタル放送に対応するように,それまでのARIB STD­
B10を追加規定したものである。さらに,運用規定として,
「BS/広帯域CSデジタル放送
2)
が2001年7月に発行された。
運用規定」
(ARIB TR­B15 2.0版)
3.4 地上デジタルテレビジョン放送
地上デジタルテレビジョン放送は,基幹放送である地上アナログテレビジョン放送の
置き換えとして,2003年12月に東京・大阪・名古屋の3大都市圏で開始され,2006年12
月までに全都道府県で開始された。また,2006年4月には,携帯端末向けの「ワンセグ」
サービスも開始された。
地上デジタルテレビジョン放送も,多重方式にはMPEG­2 Systemsを採用している。
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9
伝送方式の規格としては,
「地上デジタルテレビジョン放送の伝送方式」
(ARIB STD­
1)
が2001年5月に策定された。また,多重関連情報方式の規格として,
「デジ
B31 1.0版)
1)
が2001年5月に策定され
タル放送に使用する番組配列情報」
(ARIB STD­B10 3.0版)
た。ARIB STD­B10 3.0版は,地上デジタル放送に対応するように,それまでのARIB
STD­B10を追加規定したものである。このARIB STD­B31 1.0版およびARIB STD­B
10 3.0版は,
「ワンセグ」も想定した規格である。さらに,運用規定として,
「地上デジタ
2)
が2002年1月に発行された。
ルテレビジョン放送運用規定」
(ARIB TR­B14 1.0版)
3.5 高度BSデジタル放送(1)
衛星放送において,新たに使えることとなった周波数や,アナログ放送の終了で空く
周波数で実施するBSデジタル放送用として,
「高度BSデジタル放送」の方式が準備され
た。この方式は,従来と同じ伝送条件で約1.3倍のビットレートの伝送を可能とし,高能
率の映像符号化方式であるH.264 /MPEG­4 AVC(Advanced Video Coding)を用いる
ことにより,1つの衛星中継器で4チャンネル以上のハイビジョン放送を可能とするも
のである。また,変調方式にAPSK(Amplitude Phase Shift Keying)を用いて8K放
送が可能であることも,実験で示された。
この高度BSデジタル放送の技術方式について,2006年9月に情報通信審議会に諮問さ
れ(諮問2023号)
,2008年7月に答申された。伝送方式には,従来より小さなロールオフ
*11
帯域幅とノイズにより定まる通
信路容量の限界。
率(0.1)を採用するとともに,シャノン限界*11に迫る誤り訂正能力を持つLDPC(Low
Density Parity Check)符号を採用した。多重方式には,BSデジタル放送と同じMPEG­2
Systemsとともに,新たにIP(Internet Protocol)等の伝送に適したTLV(Type Length
*12
IPパケット等の可変長パケット
を多重化するための枠組み。
Value)*12方式を採用した。
伝送方式の規格としては,
「高度広帯域衛星デジタル放送の伝送方式」
(ARIB STD­
1)
が2009年7月に策定された。また,多重関連情報方式の規格としては,
「デ
B44 1.0版)
1)
が2009年7月に策定さ
ジタル放送に使用する番組配列情報」
(ARIB STD­B10 4.7版)
れた。ARIB STD­B10 4.7版は,高度BSデジタル放送に対応するように,それまでの
ARIB STD­B10を追加規定したものである。
結果的に,新規の衛星放送チャンネルで本方式を選択する事業者はなかったため,こ
こで規格化された技術は直ちに使われることはなかった。
3.6 高度BSデジタル放送(2)
8K放送を実現するために,高度BSデジタル放送の技術方式に再び注目が集まり,
2013年5月に情報通信審議会で技術方式の検討が始まり,2014年3月に答申された。伝
送方式には,さらに小さなロールオフ率(0.03)を採用するとともに,新たな誤り訂正符
号化率7/9を追加した。多重方式は,MPEG­2 TSまたはMMT/TLVとされた。そして,
この答申を反映した省令・告示が,2014年6月に公布された。
伝送方式の規格としては,2009年に策定されていた1.0版を改訂して,
「高度広帯域衛星
1)
が2014年7月に策定された。また,
デジタル放送の伝送方式」
(ARIB STD­B44 2.0版)
多重方式の規格として,MPEG­H MMT(ISO/IEC 23008­1)を採用した「デジタル放
1)
が,同
送におけるMMTによるメディアトランスポート方式」
(ARIB STD­B60 1.0版)
じく2014年7月に策定された。
このように,高度BSデジタル放送の多重方式としてはMPEG­H MMTを選択するこ
ととなり,長く続いたMPEG­2 Systemsの時代から,MPEG­H MMTの時代へと大き
な変革が起こった。
2015年3月現在,高度BSデジタル放送の運用規定の検討が行われており,2016年には
10
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試験放送,2018年には実用放送が計画されている。
4.まとめ
日本の放送とその技術方式の変遷を振り返ると,
「多重」という言葉は実に多様な意味
に用いられてきた。ここでもう一度,
「多重」の変遷を振り返り,本稿を締めくくる。
アナログ時代の多重技術は,既存の放送に付加価値を加えるものだった。そしてその
方法は,周波数や時間などさまざまな次元において,隙間を見つけてはそこに新たな信
号を送ろうとするものであった。その中で,新たなサービスを多重するものは,
「…多重
放送」という名称で呼ばれた。
デジタル時代になると,デジタル信号の伝送方式は限界まで最適化され,隙間のない
状態になった。その代わり,最初からさまざまな信号やサービスを重ねて伝送する仕組
みが組み込まれた。デジタル放送では「多重」が当たり前になり,デジタル放送の名称
からは「多重」という言葉は消えた。そして,地上デジタル放送,BSデジタル放送をは
じめ,現在のほとんどのデジタル放送では,MPEG­2 Systems多重方式が使われるよう
になった。
そこへ,新たなデジタル放送の多重方式が現れた。MPEG­H MMTである。従来
は,1つの伝送路に重ねることが「多重」であったが,MMTでは「複数の伝送路に重ね
る多重」という新たな概念が生まれた。これにより,
「放送と通信」や「BSとCS」のよ
うに,複数の伝送路を使ってサービスを提供することが可能になった。この多重技術を
用いて,現在,
「8K衛星放送」や「次世代ハイブリッドキャスト」が計画されている。
1964年10月の東京オリンピックは,アナログ多重技術を駆使した最初の多重放送とも
言えるカラーテレビジョンで放送された。そして2020年7月から開催される東京オリン
ピック・パラリンピックでは,最新のデジタル多重技術MMTを採用した8K衛星放送に
よる放送が計画されている。オリンピックを契機として,放送,多重は,新たな時代へ
と入っていく。
参考文献
1)電波産業会:
“放送規格(放送分野)一覧表”および規格文書,
http://www.arib.or.jp/tyosakenkyu/kikaku_hoso/hoso_kikaku_number.html
2)電波産業会:
“技術資料(放送分野)一覧表”および資料文書,
http://www.arib.or.jp/tyosakenkyu/kikaku_hoso/hoso_gijutsu_number.html
3)日本放送協会:
“NHK年鑑2013,
”
http://www.nhk.or.jp/bunken/book/regular/nenkan/nenkan_2013.html
4)衛星放送協会:
“衛星放送の歴史,
”
http://www.eiseihoso.org/history/
5)スカパーJSAT:
“衛星放送クロニクル,
”
http://www.sptvjsat.com/sp_world/worldtop/history/chronicle/index.html
きむらたけし
木村武史
1980年入局。大阪放送局を経
て,1983年から放送技術研究
所において,衛星テレビジョン
有料放送,BSデジタル放送,
地上デジタル放送,
高度BSデ
ジタル放送などの研究に従事。
1997年から2000年まで
(株)
次世代情報放送システム研究
所に出向。現在,放送技術研
究所伝送システム研究部上級
研究員。
NHK技研 R&D/No.150/2015.3
11