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修士論文概要(3819 字)
表現と謎
— — ベルクソンとライプニッツにおける世界と概念との脱本性的な個体化に関する一考察— —
平井靖史
事実が真実でないことがあり得るとは、いかなることか。そして、それに個体的な概念が充分な理由を
与えるとすれば、それは、一体何を意味するのか。本論考を導くことになるこの根源的な問いは、まず「
導入」において、ライプニッツの有名な「充分な理由の原理」から抽き出される。本論考は、この同じ問
いをその哲学の深い地点において共有するもう一人の哲学者(ベルクソン)と共に、世界の中で個体が個体と
出逢うことの意味を、概念と事実との間で生じる<表現>の出来事として捉え返すことを目指す。
この探求を支える操作的諸概念は、本論考第一部第一章において、置換=展開=表現の論理として、ベ
ルクソンの様々なテクストから構造的に取り出される。異質的多様体は等質的多様体へと容易に展開され
るが、両多様体の間の「本性の差異」は、単なる対立ではなく・この<展開>の差異化の働きそのものの
うちで・把握されなければならない。ベルクソンにおいて、事実とはこの<展開>に他ならないが、展開
に付きまとう根源的な両義性をわれわれは慎重に腑分けし・混同を避けつつ・議論を進める必要があった
。ベルクソンは、展開された本性の差異を<置換>として批判し、展開されつつある本性の差異を<表現
>として尊重した。問題は事実の置換ではなく・置換の事実をいかに捉えるかにかかっているのである(経
験的置換と哲学的置換)。
第一部第二章では、ベルクソンにおける充分な理由の原理から、「導入」で見たライプニッツと同型の
問いが取り出されることが確認される。そして、これが、事実を充分なものたらしめるために・個体を個
体として真に把握するために・不可欠な、真摯なる概念形成の努力として、具体的な解明を見る。われわ
れが事実で満足するとき・事実を無批判に真実として許容するとき、潜在的な差異に対する恣意的な捨象
=置換を行っていることをベルクソンは指摘したが、他方で適確な概念によって差異を再び掘り起こすこ
とができるのも、この置換への注意によってのみであることもまた、見逃されてはならない点である。事
実は無限小ではあれ変化であり、現在はほとんど弛緩してはいても持続であるとされるのは、持続の表現
(自由)が事実を置換してはならないことの間接的な表明であると解される。知覚の事実は、純粋な差異の開
示によって乗り越えられるのではなく、それ自身が潜在的な部分として含んでいた内包性と共にむしろ蘇
生されるが、重要なのは、その際、純粋な差異が自ら脱本性化しつつあるその展開の作用の中でこそ、二
つの多様体が真に差異化されるという点である。なるほど、二つの多様体の本性の差異はア・プリオリに
..
呈示されるかに見える。しかしそれは、呈示されるや、不可避的に本性の対立として現れる。したがって
ベルクソンの仕事は、むしろこの対立=「差異」を、真に<差異>へともたらすことにこそ存する。それ
には逆説的にも、二つの多様体の同一性を解明することが必要だったのである。最も忌避されなければな
らないのは、この二つの多様体の対立によってベルクソンの企画を汲み尽くそうとする態度である。
このベルクソン的解明から、翻ってわれわれは第二部において、ライプニッツへと戻りその理説を再検
討する。その際、諸術語はことごとく再定義を強いられ、結果的に多くの論点を巻き込むこととなった。
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モナドの理説の中心的な諸定義に、可能な限り具体的なモデルを与え・その内包を躊躇なく展開しつつ、
われわれは、<知覚>と<表現>というモナドの本性的な展開作用が果たす二重の役割について、モナド
の(ライプニッツによって莫大な概念的要請を負荷された)権利上の個体性と・そのような強い意味での個
体同士の<出逢い>がいかにして可能であるかとの観点から、解明を行った。
モナドは世界を分析的に展開(知覚)し、概念を表現的に展開(自由)するが、その形而上学的な一性は、こ
の二重の展開作用の総合的な同一性に起因する(第二部第一章)。だが事実上のモナドの知覚においては、世
界は散逸的に分節されており、身体の質料性もまた、その因果的な存在性格によってモナドに全宇宙の知
覚を可能にするにしても、世界の表象化・「外部」化を伴うことを不可避とする(第二部第二章)。したがっ
て高次化へ向かうモナドの努力もまた、概念の世界化・世界の概念化という相即的な差異化の運動によっ
て、事実として立ち現れる一見上の「差異」を本性的に多重化し・<差異>へともたらすことに存する(第
二部第三章)。
この概念的差異化の努力は、モナドが他のモナドに出会う場面を考察することで、具体的に了解される
。それは、表現が表現に出逢うことである。この<出逢い>は、ライプニッツ的意味における個体間の真
の差異を実現するために、逆説的にも、表現される諸世界に対しては同一性を要請するが、それが要請に
..
留まる限りにおいてなお、その諸世界を表現する諸個体の同一性を帰結することはない。むしろ、諸世界
の(通常の意味での)区別こそが、不可識別者を導入することによる反復的置換に起因するものであることを
、見逃してはならない。「差異」と<差異>との場合と同様に、不可識別性と同一性を区別しなければな
らないのである。モナドは経験的には、一般的な分節による事実の置換から出発せざるを得ないにしても
、しかしこの置換の働きそのものへの注意によって、そこへさらなる非連続性を穿ち続け・特異な個体性
を概念することができるのだろうか。概念が真理の充分な理由となることは、こうした努力の要請を物語
るのだろうか(第二部第四章)。
しかし、有限な被造モナドによる概念形成の努力によって、充全な意味での個体的完足概念に至ること
は— — それが無限の内包を持つ以上— — 不可能であるし、不可能であるからこそ、そもそもライプニッツ
は形而上学的な点からア・プリオリに始める途を採ったのではなかったか。われわれが解明の末に至った
この疑問は、再びベルクソンを召還する。ベルクソンにおいてもまた、概念の<適確さ>がいかにして経
験的に可能であるのかは、やはり謎に留まるのではないか、と。
われわれは第一部第三章へと至り、再検討を行うことになるが、その際、今度は、ライプニッツにおい
て身体性が持っていた本質的な(二重の)二義性を、導きの糸とすることになった。すなわち、身体は、その
受動性の観点から見れば、モナドの知覚の脱作用化しつつある外延性と・不可識別者の概念的な置換とを
もたらすものであるが、しかし他方で、その現実存在の観点から見れば、世界の全面的な肯定(微小知覚)
と・概念の外延化としての表現の可能性とを拓くものであった。
ベルクソンのテクストから、彼による身体の諸規定を再構成していくうちにわれわれは、世界の知覚と
持続の潜在性との間に、「最後の引き延ばし」として介在する身体の二重の境界性を、再認識するに至っ
たが、ベルクソンにおいて身体がもたらす役割はしかし、これにつきるものではなかった。われわれがこ
こまで、適確な概念や充分な完足的概念の形成について語る際に、それを一般的概念(重合的記憶)による置
換から選り分けるようにしてきたものの、その積極的な・それ自体における理解は、ここへ来て「身体の
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論理」の導入によって初めてなされることになる。
第一部第四章では、ベルクソンにおける<出逢い>の理解を、芸術作品の真理性をモデルとして解明す
ることを試みたが、ここにおいて議論は決定的な転回を蒙ることになった。われわれの側の概念形成によ
って<出逢い>は獲得されるのではなく、<出逢い>こそが概念形成を可能にする。ここでベルクソンは
、事実的な知覚の一般的な記憶(想像力)による置換はもちろんのこと、純粋な差異の純粋な知覚(創造性)も
また、それ自体では無意味であることを明確に語る。<出逢い>は、純粋知覚と純粋記憶との本性の差異
のただ中でしか、発生しない。本性の差異は、したがって、存在するとすれば直接的な所与でしかない。
それが直接的に与えられることの条件とは、<出逢い>が無意味であり・かつその意味の意味において過
剰である、という二点である。前者は、知覚と記憶との通常の相互嵌め込みが不可能であること・および
....
他者が現実的に無限であることから来る。しかし後者が、純粋知覚と純粋記憶との異常な合致によっても
たらされる時、それは、われわれの現実存在する限りにおける身体の二重性に深く関わる。しかもわれわ
れは、この本性の差異化そのものとしての・しかしながらその内実がまったく空虚な意味の懸隔そのもの
である・この<出逢い>を、ともかくも<謎>として受け容れるにしても、これを完足的に理解するには
、愚直な理性としての身体を俟たなければならないのである。ベルクソンにおいて通常の意味においてで
はなく目的因が語られる場所があるとすれば、それはこの<謎>に対する根源的な受動性の場面をおいて
他にないだろう。ベルクソンはこれを哲学の課題そのものとして引き受けたのである。
ベルクソンがライプニッツの高次の目的因に意味を与えたとすれば、ライプニッツは本性の差異そのも
のとしての実体概念をわれわれに提供してくれているのではないか。そのとき探求されるべき問題は、二
人の哲学者のア・プリオリな区別にも・類似にもあるのではなく、両者の世界の同一性・表現の差異性に
ある。
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