21巻 4号 (1990年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

21巻
4号
平成 2年 3月
1;"*nr
表
の
紙
説
明
電 子 波 の「 導 波 管 」
半導体工学の微細加工技術を利用 した固体物理 の研究が盛 んにな りつつある。 メゾス
コピック系 の物 理 と呼ばれる分野 である。
化合物半導体 GaAsの 上 に A10.3 GaQ7 Asを 成長 させると,そ の界面 に電子が トラッ
プされ, 2次 元電子 ガスを形成する。 この 2次 元電子は極めて散乱 されに くく,絶 対温
度 lK程 度では,弾 性散乱長は10μ
mか ら 100 μmに 達す る。 また電子濃度が低 い ため
,
フェル ミ波長は5000A程 度 と長 い。 そこで, これ にサブ ミク ロン加工を施す と, これは
電子 に対 してあたか も導波管 のよ うに働き,固 体中の電子 の波動性 にか らむ現象が電気
伝導度 に現れる。 半導体表面 に金属 の シ ョッ トキー電極をつ けると,電 極 の下 は空乏層
となり電子がいなくなるので, この電極を微細加工 しておけitち ょうど写真のネガと
ポジの関係のように微細加工 した2次 元電子系ができる。
写真は, その一例である。 自 くみえてい るのが,電 子線 リソグラフィーで加工 した金
の電極で,従 って黒 く見えてい る形 に 2次 元電子系が加工されてい ることになる。下 の
写真は中央部分を拡大 したもので,写 真中央 の細長い薄 い部分が最 も単純 な形 の「電子
導波管」である。
物理学教室 勝本信 吾 ,小 林俊 一
目
次
表紙 の説明 ………………………………………… 2
露木孝 彦助教授 を送 る… ……………岩村
秀 …16
想 ………………………………服部晶夫 … 3
卒業 の春 ……… … … … … … …………上 田秀子 …17
服部品夫先生を送 る…………………松本幸夫 … 5
上 田秀子 さんを送 る…………… … …鈴木増雄 …18
退 官 の辞 ………………………………米田信夫 … 6
理 学部 を去 るに 当 って … ……………加辺章 夫 …19
米 田信夫先生を送 る…………………米澤明憲 … 6
加辺 さん とマ ツバ ギ ク科 とフイ ン…加藤雅啓 …19
理学部 の良 さ…………………………和田昭允 … 7
定年退職 に際 して … …………………小川
和田昭允先生 の御退官 に際 して……堀田凱樹 … 8
小川博 さんを送 る……………………岩槻邦 男 …21
12年 一昔 ……………………………… 田沢 仁 …10
小松 崎久 さんを送 る… …… … ………玉尾
田沢仁先生 の御退官 によせて………新免輝男 …12
西島和彦先生 が 日本学士 院会員 に
断
博 …20
孜 …22
ごまめの歯ぎ しり……………………阪 □ 豊 …13
選 ばれ た ことを祝 して………… …猪 木慶治 …23
阪口豊先生を送 る言葉 ………………米倉伸之 …14
″
実験用 `
植物 ………………………・露木孝彦 …15
理学部研究 ニ ュ ース …… …………………… … …24
学部 消息 ……… …………………………… …… … 28
-2-
断
想
服
退職 す る 3月 31日 が あ と一 月餘 りに迫 って い る
部
品
夫 (数 学教室 )
ら く,教 授会制度 の主 な意 味 あ い は,大 学 の 自治
とい うの に,雑 務 に追 われ忙 しい毎 日を送 ってい
を守 るとか,人 事 の 独立性 や厳正 を保 つ ための
る。 仕事 の 内容 は今年 の 夏 に予定 され て い る国 際
いわば歯止 め と しての役割 にあ る もの と考 え られ
数学者会議 の準備 と日本数学会 の行政面 に関す る
る。 しか しその よ うな役割 を真 に発揮す る状況 は
こととの二 つ で, どち らも誰かが 引き受 けなけれ
稀 に しか起 らな い のが現実で あ り,実 際 にはみ ん
ば成 り立 たな い とい う意 味 で はやむ を得 な い もの
なで相談 してみ んなで 決 め よ うとい ぅス ロー ガ ン
では あ るが, この期 に及 んで こち らに お鉢 が廻 っ
が幅を利か し,評 議 員会 を筆頭 に,教 授会 ,各 種
て くるのは い ささか害1が 合わな い とい うの が卒 直
委員会,懇 談会 とあ りとあ らゆ る場 所 で, あ りと
な感想で あ る。 さすが に最近で は教室 や学部 の雑
あ らゆ る時 に会議 が開 かれて い る感 が あ る。 た い
用か らは免除 され て い るが,一 年前 に は全学 の大
て いの場 合,会 議 を経 な くて も同 じよ うな結論 に
学 院学生委員会 の委員長 の 時 に前 の 天皇 の死去 と
な りそ うだが,会 議 を開 い た とい う名 日でみ んな
ぶつか りず いぶ ん神経 を使 うは め に な った。
が納得す る, あ る い は納 得 させ られ る仕組 であ る。
,
われわれ の世代 が若か った頃 に は科学者 で 随筆
東大で も,か つて,共 通一 次試験 へ の参 加や,入
を書 く人がか な り多か ったよ うに思 う。 寺 田寅 彦
試 の 分離分割実施 につ いてみ んなで 相談 した とき
や 中谷宇吉郎 の よ うに た いへ ん達 筆 の人 もい た一
には,お そ ら く反対意 見 の 方が は るか に強か った
方, それ程 の こと もな い人 も多か った。 いずれ に
と推察 す るが,結 論 は始 め か ら決 って い た よ うな
せ よ,最 近で は科学者 の 随筆 は とん と見受 けな い
もので,後 味 の悪 い こ とがおびただ しい。 これ な
よ うに な った。 お そ ら く昔 の人 は今 の われ われ よ
どは極端 な例で あ るが,会 議 で無駄 に費 され る エ
りは るか に暇 だ ったの だ ろ う。 少 くとも,精 神的
ネ ル ギ ーの量 は計 り知 れ な い もので あ る。 この よ
ゆ と りに お い ては格段 の差 が あ ったので はなか ろ
うな無駄 が起 るの は,み んなで 相談 してみ んなで
う力、 専 門 の細 分化 が進み,研 究 の進展 の ス ピー
決 め よ うとい ぅ姿勢 に根本 的 に無理 が あ るか らだ
ドも増 した現 代 の研 究者 に とって 不断 の切迫感 が
ろ う。 雑用 を減 らす ため に,委 員会 の数 を減 ら し
心のゆ と りを奪 って い る と思 われ る。 ま して, 日
た り,委 員数 を縮 小 しろ とい う意 見 は よ く聞 くが
本 で は様 々 な雑用が研究 まで おびやか して い る。
教授会制度 その もの に言及 した意見 はあま り聞 か
,
理学部で も, この数 年毎年 の よ うに,停 年教授
な い。 大学 に もタブーはあ るが,教 授会制度 もそ
の うち何人 かが最後 の挨 拶 で雑用 の 多 い ことを問
の一 つ なのだ ろ うか。 そのあた りを一度 洗 い直 し
題 に して い た と記憶す る。 雑用 の流す毒 につ い て
相 当思 い き った手 直 しを しな い と事態 は ます ます
は,殆 どす べ ての人が その苦 さを知 り悩 ま され続
悪化す るばか りだ ろ う。
,
けて い るのだ ろ うが,事 態が良 くな る兆 は見 えて
教授会制度 ととも に 日本 の大学 において根幹 と
こな い。 最近 つ くづ く思 うの だが, 日本 の 大学 に
な って い るのは学部制 度で あ ろ う。 外国 か らわれ
お け る教授会制度 が時代 の流 れ に乗 りきれず,次
われの ところ に くる郵便 は単 に Department Of
第 に形式的 な面,非 能率 な面 が露呈 し,時 に は障
M athematicsと か Mathematical lnstituteと い
碍 に さえな って きて い るので はなか ろ う力、 おそ
う所属 を明示 してあ るだ けだが, こち らか らはそ
-3-
の 次 に Faculty Of scienceと つ け る習慣 で あ る。
で 自分を動かす こ とはで きな いのだ ろ うか。 国会
また,国 内で も理学 部数学 教室 と書 く。 この こと
や役 所 と違 って, こち らは変革 に よ って 失 うと こ
は,外 国で は学部 よ りも学科が実質 的な運営 の 中
ろが 少 い筈 で はあ るのだ力も
心で あ り, しか も一 つの 大学 の 中 には一 専 F]は 一
停年退職教官 と して の恒 例 の 文章 を書 くよ うい
学科 に統一 され て い ることを示 して い る。 一 つの
われて, ど うせ下手 な随筆 の よ うな もの を書 くの
大学 の別の学 部 に属す る同一 専 門学科 同志 で仲 が
な ら,お 、だん感 じてなが らあま り話 した ことはな
悪 い と ころの噂 を き くこと もあ る。 合同すれ ば強
か った こ とを書 き とめてお くの も意味があ るだ ろ
力 な研究集 団 とな り得 るはず の ところを, ま こと
うと思 った。 共 鳴を得 られ る部 分 も案外 あ るので
に味気 な い ことで あ る。 自分 自身 につ い て いえ
はな いか とひそか に考え て い る。
`式
理学 部 内 の 他 の学科 の人事 よ り教養学部 の 数学教
理学 部数学教室 に籍 を置 いてか ら20数 年 が過 ぎ
室 の人事 に もつ 関心 の 方が は るか に大 きか った。
た。 毎年 の よ うに優 れ た研究者 が輩 出 し,清 新 な
両方 の教室が大学 院で はつ なが って い るとい う現
感覚 の彼等 と同 じ感覚 で対応 して 行 かな けれ ばな
実 の 下で は, それ は単 な る好寄心 以 上 の強 い 関心
らな い とい う意味で ま ことに厳 しい職場 で はあ っ
事 で あ ったので あ る。 この よ うな点 に も,学 部 別
たが, それ はそれ でや り甲斐 があ り愉快 で さえあ
に教授会 が ことを司 るとい う制度 の予盾 が潜 んで
った。 その点 につ い ては,悔 の残 る こと も多 い け
い ると常 日頃感 じて い る。
れ ど も,あ る爽 快感 を も って去 る こ とがで き る。
東大紛争以後20年 ,結 局東大で は何 も変 らなか
数学 教室 はい うに及ばず,理 学部全体 の 同僚 や
った とよ くい われ る。 国会 が議 員定数是正 を 自分
後輩 の方 たち, また事務関係 の方 たちに もたいへ
の手 で は断行 で きず,役 所 は 自分 の権 限を弱 め る
んお世 話 にな った。 筆 をお くに当 って心 か ら謝意
よ うな行 政改革 をや る気 はな い。 大学 も自分 の力
を表 した い。
●
)
東京大学 理 学部 19田 年 発表論 文 リス ト
和
田
昭
允
●
上記の業績 リス トを作 り,教 室全 員の方 にお見せ下
この リス トは,教 授会および教室主任・ 施設長会議
さい とい う手紙をつ けて各教室主任宛 にお届け してあ
で御相談 し,最 初だか らあまり固苦 しいフォーマ ット
りますので御覧下 さい。その理 由は,当 理学部のよう
を決めないでとにか く作 って見ようとい う大方の御意
な高度 の研究者集団は,そ こで行われて いる全研究の
見を入れて,各 教室の責任で作 られた リス トを私がま
一覧が出来 るようなメデ ィアを持つべ きだ し,ま た
とめたものです。記載 もれや誤植などありましたら
理学部の一体性か ら見て も,お 互 いの研究を知 るき っ
教室 ごとにまとめて私にお知 らせ下さい。正誤表を作
かけになればと考えたか らです。 さらに,有 馬総長が
るなどの措置を取 ります。
,
,
,
総長室 に各学部 の業績を評価 できるような有力なデ ー
今後, これが毎年の理学部の定期的な出版物となり
タを置 いておきたい と希望 されたことが, リス ト作成
このす ぐれた頭脳集団の活動を世の中によ り広 く知 っ
の強い動機 とな ぅています。
てもらうために役に立てばと切に希望する次第です。
―-4
,
-
服部晶 夫先生 を送 る
松
信濃 町 の慶応病院 に,服 部先生 のお見舞 に うか
が ったの は も う 7,
8年 も前 に な ります。 当時
本
幸
夫 (数 学教 室)
その後 ,先 生 は変換 群論 の本格 的 な研究 に向わ
れ, 日本 に変換群論 の 強力 な学派 を打 ち建 て られ
,
先生 は スキ ーをは じめ られ たばか りだ ったそ うで
,
ま した。 また,葉 層構造論 に向われ た田村 一 郎先
その最初 の練 習 日に骨折 され て しま った との こと
生 とともに,毎 週開かれ る「 トポ ロ ジー火曜 セ ミ
で した。 ベ ッ ドの先生 は少 し情 な さそ うで したが
ナ ー」で,我 々後 進の もの を御指導 下 さい ま した。
それで も意外 にお元気 で した。 は じめか ら骨折 の
学部 ,大 学 院 にお け る先生 のセ ミナーか らは,現
話で 申 しわ けあ りませ んが, この お怪我 は私 に と
在 トポ ロ ジーの最 先端で活曜中 の第一級 の研究者
って,印 象的で した。 そ して,全 くの運動音痴 の
が輩 出 しま した。
,
私 は何 か しらとて も励 まされ る もの を感 じま した。
先生 は現在 も活発 に研 究 を続 けて い らっ しゃい
米国か らお帰 りに な ったばか りの服部 先生 の講
ます。 日本数学会 理 事長 とい う要職 をは じめ多 く
義 に初 めて 出 させて い ただ い たの は,た しか1969
の公務 を こな しなが ら研究 を続 けて お られ るお姿
年 の春 で はなか ったか と思 い ます。 全 ての 弱概複
に, また励 まされ る もの を感 じます。 最近で は
素多様体 に対 して整 数値 を とる特性数 を決定 した
イ ンスタ ン トンのモ ジュライ空間 の位相幾何学的研
「服部 ス トングの定理 」 に よ って,す で に世界 的
究 を開始 され ま した し,更 に,変 換群 論 の分野で
に有名 にな ってお られ た服部 先生 は,我 々 の 目 に
も,多 様体 へ のSl作 用 と曲率 の正値性 の 間 に成立
いか に も発刺 と した若 き トポ ロ ジス トと映 りま し
す るで あろ う深 い関連 を予感 され, その方面 の 研
た。 第 一 印 象 は消 し難 い もので,今 で も服部 先生
究 を推進 してお られ ます。
,
,
に対 して は,「 先輩」 とい う感 じが抜 け切 れ ませ
常 にマ イペ ー スで,気 軽で, き さ くで , それで
ん。 この講義 で 先生 は, ベ ク トル束 を荷 った
い て,あ とか らお、り返 って見 る と驚 く程 の仕事 を
cobordism群 のお話を され ま した。 当時,私 の 関
して い らっ しゃるのが服 部先生 で あ るよ うな気 が
心 の あ った「 多様体 の手 術理 論」 に深 く関係す る
します。
話題 で したので, この講義 か ら多大 の刺激 を受 け
1973年 に東京で開 かれ た「 多様体 論国際会議 」
ま した。 先生 が cobordismを 「 コ ボル デ ィス ム」
の時 も,組 織 委員 と しての御 苦労 に は並 々 な らぬ
と発 音 され た声 が 不思議 に耳 に残 ってお ります。
ものが あ った と思 い ます o
しか し少 くと も端 目
ささい な エ ピソー ドを もうひ とつ挙 げ させ て い
に は, ご く気軽 に仕事 を こな して い ら っ しゃ った
ただ きます と,当 時,柴 田勝征 氏 (現 在埼 玉大学
印象 しか受 け ませ んで した。 服部 先生 は い ろ い ろ
教授 )が 中心 にな って, ソ連 の フィールズ賞受賞
の 御病気 を経験 され た とうかが って い ます が, あ
者 ノ ビコ フの Cobordism理 論 に関す る ロ シア語
るい は我 々 の 知 らな い所 で の 御無理 が重 な って し
の論文 を勉 強 しよ うとい う ことにな りま した。 そ
ま ったのか も知 れ ませ ん。
して読み進 む うち,「 服部 」 とい うお名前が ロ シ
ア語で は「 ガ ッ トリ」 に な って しま うとい う こ と
を発見 して面 白が ったの もな つ か しい思 い出で す。
今春 ,服 部先生 が理学部 を去 って行 かれ るの は
,
残 され る もの と してま ことに淋 しい限 りです。
これか らもど うぞお元気 で御 活躍下 さるよ うお
祈 り申 し上 げます。
-5-
退
官
の
辞
米
1976年 11月 か ら理学部教授会 に仲 間 入 りさせ て
頂 い たが,1930年 3月 生 れで今 3月 停年 とな る身
田
信
夫 (情 報科学教 室 )
な いが, これまで は内部施設 の使途変更 な どで ぎ
りぎ りに しの いで い る。
で あ る。 これ まで毎年 3月 の教授会 で退官教授 を
理学 部 7号 館 につ い ては個人 的 に も若千 の想 い
送 って来 たが,今 春 は和 田昭允学部 長 と共 に送 ら
出があ る。 就任 以来教 授会 で しば しば後藤英 一 教
れ る側 に回 る。 教授会で は,い つ も学 部長 に近 い
授 が建 屋を よ こせ と叫 んで お られ るの に共感 して
席 に座 って 時折文句 を い うの を楽 しみ に して来 た
私 自身 も折 にお、れて歴代学部 長 に要 求 して来 たが
が,そ の席 が な くな るのは寂 しい気 もす る。
文部省か ら数学 出身 の視学 が来 られ た際 につ いに
,
この 間 にはい ろ い ろの ことが あ った。 情報科学
勇気 を揮 って直訴 に及 び,視 学報 告 に情報科学 に
は初期 には情報科学研究施設 の延長 と して大型 計
新建屋 を与 え るべ しとの 旨を含 め て頂 い た。 この
算機 セ ンターの上の 4階 に部屋住 みの 時代 を過 し
ことが どの位 に響 い たか は知 る限 りで な いが, そ
次 に数学 教室 の 5号 館転 出や教育用計算機 セ ンタ
の 直後 か ら話 しが急進 した。 も っと も江戸時代 の
ーの拡張移転 に伴 って理学 部 1号 館 一 その昔私
遺構調 査 とい うことで 建設 はしば らく足樹 みした力ち
,
が数学科で過 した懐 か しい場所 で あ る ― に移 り
退官 の ご挨 拶 は も っとい ろ い ろ書 こ うと思 って
7号 館 を造 って頂 いて
い たが,最 近喘 息で体調 を崩 して い るので , 申 し
,
10年 余 に してゃ っと理 学部
そ こに入 った。 ここ も国 際交流 な ど教 室規模拡大
訳 けな くこの位 で お茶を濁 させて頂 く。
の気 運 か らは安定 した居所 とは い えな いか も知 れ
米 田信 夫 先 生 を 送 る
米
澤
明
憲 (情 報科学教室 )
米 田信夫先生 に初 めてお 目 にかか ったの は,19
ら したわ けですが,言 語仕様 の改訂 を繰 り返 しつ
70年 の夏,清 里村で はなか ったか と記憶 して居 り
つ最 終段階 に あ った言語 に対 して, まだ残 る不統
ます。 当時,東 大闘争が終 り大学 院 に入 ったばか
一 な部 分,設 計原則か らの 逸脱 を い たず らっ子 の
N言 語 の設 計 とその コ ン
よ うにつ ぎつ ぎ と指摘 されて い たのが印象 的 で し
りで あ った私 は,Algol
パ イ ラーを作成す るための 合宿 に何 もわか らず連
た。 しか し, それ に も増 して心 に残 ったの は,休
れ て こ られ て い ま した。 Algol Nと い うのは,19
憩 の 合 い間 に,食 堂 の ホ ールに ぁ った グ ラ ン ドピ
60年 頃 ヨー ロ ッパ の研究者 を中心 にアル ゴ リズ ム
アノに向 って,チ ャイ コ フスキーの ピアノ協奏 曲
の記述 の ため に,論 理 的体系性 を重視 し設計 され
の 冒頭 の部 分や シ ョパ ンの 小品 を恥 しそ うに弾 か
たプ ログ ラ ミング言語で あ る Aogo1 60の 後継者
れて い た光景で す。
と して 日本で提案 され た言 語です。 米 田先生 は
,
当時 この Algol Nの 設 計 の 中 心 人物 の一 人で い
-6-
米 田先生 といえば,す ぐ頭 に浮 ぶ の は,「 米 田
の 補題 」です。 私 自身,数 学 をあま り知 らな いの
で, この米 田先生 のお仕事 を深 く味 わ う ことがで
です。 プ リンス トンか ら戻 られ た米 田先生 は,弥
きず,常 々御一緒 させ て い ただ きなが ら,大 変残
永 昌吉先生 に,「 君 は, これか ら計算機 をや って
念 で 申 し訳 けな い ことだ と存 じて居 ります。 近年
,
は ど うか」 を示唆 され ,以 後 , 日本 の 計算機科学
プ ログ ラ ミング言語研 究 の基礎的部 分 で, カテ ゴ
の研 究者 に深 い影響 を与 えて こ られ ま した。 米 田
リー理 論 を用 い て理論 を展 開す る ことが盛 ん に行
先生 に接 して いつ も感 じるのは,具 体 的 な ものの
なわれ るよ うにな りま したが,米 田先生 を信奉 す
世界 に登場す る種 々 の メカ ニズ ムに大変 巾広 い興
る この 分野 の 内外 の研 究者 の 多 さ に常 に敬服 す る
味 と,鋭 い直観 を備 えて い らっ しゃる点 です。 弥
ばか りです。 中で も印象深 いの は,1978年 の夏
永先生 が米 田先生 の この資質 の よ り深 い部 分 を見
,
京都 で 開催 され た計算機科学 の 国際 シンポ ジウム
い 出 され, 日本 の計算科科学 を指導す るよ うに勧
での 出来事 です。 シンポ ジウムの途 中で ,参 加者
め られ たので はな いか と,浅 見 なが ら推察致 して
各 自が 自己紹介 をす る機会 が あ り,米 田先生が “
居 ります。 それ に して も,カ テ ゴ リー理 論 のよ う
“lⅦ y nameis Yoneda.Once l was a catego五 st."
な極度 に抽 象的 な世界 で大 きな仕事 を され た先生
と言 われ た途端,招 待参 加者 の 1人 」oscph Gc
の 御資質 と,先 生 の もう一方 の御資質 は, いか に
gtlen(現 Oxford大 学 計算機科学科教 授 )が
結 びつ いて い るので あ りま しょうか?
,
Oh,¶ ηt Yoneda"と 叫 んで,一 瞬床 に片膝 をつ
“
いて,手 を合せ たのです。
さて,米 田先生 は この 3月 に御還歴 を迎 え られ
退官 され るわ けです。 教室 内 の談話会 や研 究発 表
「米 田の 補題 」 は先生 が プ リンス トンの 高等研
で の,米 田先生 の 明晰 に して深 い洞 察 の こ もった
究所 にお られ た時代の お仕事 と うかが って居 りま
質 問や コ メ ン トを, これか らは身近 に拝聴 で きな
す。 その お仕事 の結果 につ いて,パ リを発 と うと
くな るのは,私 のみ な らず 教 室全体 の大 きな傷手
して い る So Mac Laue教 授 に,北 駅 の ベ ンチで
です。 この よ うな愚痴 を い って いて は,米 田先生
の短 い面接 時間 に話 され,そ れ によ って 同教授 の
にお叱 りを受 けそ うですが ……。
教科書 に Yoneda's
Lemmaと して登場 したそ う
理 学 部 の 良 さ
― ― 若 い 研 究 者 と学生 の 皆 さん ヘ ーー
和
田
昭
允 (物 理学 教室 )
40年 も理学部 に居 て,い ま さ らなが ら理学 部 の
技術全体 を見渡す広 い視野 ,学 問 の長期 的発展 を
良 さが つ くづ く判 って来 ま した。 それ を皆 さん に
見通せ る先見性 ,一 見異 な る分野間 の背後 にあ る
お伝 え した い と思 い ます。
重要 な関連性 を感 じ取 る思 考 の柔軟性 ,正 しい と
それ は,数 学 ,情 報科学 ,物 理学,天 文学,地
信 じた ことを正 面切 って言 う ことが 出来 る自由な
球物 理 学 ,化 学,生 物化学,動 物学 ,植 物学 ,人
雰 囲気 な ど,真 理探 求 の必要条件 が混然一体 とな
類学 ,地 質学,鉱 物学,地 理 学 と,教 室名 に代 表
って, 自然 の解 明 と新 しい ものへ の創造 的追求が
され る 自然科学 の全 分野 を覆 う自由闊達 な頭脳 集
行 われ て い るか らです。
団で あ るとい う ことで す。 そ こで は, ひ とつの も
のを掘 り下 げ て い って本質 を見抜 く見識,科 学・
-7-
自分 の ことを言 って恐縮 ですが, ひ とつの例 と
して,そ の発 足か ら現在 まで の発展 を私が生 々 し
く体験 して来 た生物物理 を とって見 ます。「 それ
るとい う ことで しょう。
は本教室 (あ るい は研 究室)で す るべ き ことで な
これ は,理 学部 の よ うな広域 の学 問を行 え る研
いか らして は い けな いJと い うよ うな ことを言 わ
究機 関 に よ って は じめて育 つ ことの 出来 る精神 で
れて い た ら, この新 しい学 問 は決 して育 たなか っ
す。 森野先生,小 谷先生 は じめ,理 学部 の多 くの
たで しょう。 私 の 化学教 室での恩 師 の森野先生
先生方 は,教 室や研究室 の 目先 の業績 を犠牲 に し
,
物 理 教 室で の先生 で あ る小谷先生 は,私 の我が ま
て まで,若 造 の暗中模索 を許 して下 さった と思 い
ま と,今 か ら考 えれ ば冷汗 の 出 るよ うな生 意気 な
ます。 私 の よ うな鈍 い人 間 には,そ れがや っと今
言動 を随分 と許 して下 さ い ま した。 また,物 理 教
に な って痛 い程 に判 ります。 理 学部 の永年 の伝統
室 は驚 くべ き寛大 さを も って, この新 しい境界領
が, この よ うな 自由な学 問 の雰 囲気 を培か って来
域 を育 て て下 さい ま した。 これを監督 が ル ーズだ
たのです。 今後,当 理学 部 をは じめ とす るわが国
な ど と間違 えな いで 下 さい。 私 が,東 大や ハ ーバ
の理 学研究者群が,先 進国 の中 で も トップ に立 つ
ー ド,MIT等 の一 流大学での研 究生 活 を経験 し
知 的集団 の一 員 と して世界 中か ら尊敬 されて生 き
また上記 の先生 方や朝永,湯 川,Debye,Kendrew
つづ け るため に は,わ れわれが寄 って立 つ この基
先生 な ど自然科 学 の 巨人 と接す る機会 が あ って判
盤 を忘れて はな らな い と思 い ます。
,
った ことは,物 事 の本質 を見 る ことので きるす ぐ
最近,世 の中 で よ くい われ て い るよ うな 日本 人
れ た本物 の科学者 は, 自然科学 を一体 と して見 て
に独創 性 が あるか な いか な どとい う結果 を云 々す
お られ る とい う こ とです。 そ して研究者 は好寄心
る前 に, もっと基本 に立 って考 え る ことが必 要 で
の お もむ くまま に,そ の新 しい局面 に果敢 に挑 戦
す。 それは科学者 の 探求 的精神 が育 つ 土壌 は いか
して行 くものだ とい う ことをよ く知 ってお られ た
に あるべ きか とい うことを考え,整 備 す る ことで
とい う ことで す。 しか し,各 教室 には それぞれの
す。 理学 部 こそが その よ うな 自由で広 い学 問 のプ
歴 史 と研 究 の大 きな流れが あ るので す か ら一応 の
レー グ ラウ ン ドなのです。 皆 さんの前 に は 自然探
秩序 を守 る こと も大切 です。 要 は,理 学 の研究 と
求・ 原理発掘 の無 限 の可能性 を持 った広 い研究 の
は,す で に築かれ た基盤 の上 に立 ちなが らも広 い
沃 野が広 が って い ます。 勇気 を も って果敢 に そ し
視 野 を もって,新 しい局面 に果敢 に挑 戦 して いか
て野心 的 に未知 の もの に挑 戦 して下 さい。
な ければな らず,そ こに頭 の はた らかせが いが あ
和 田 昭 允 先 生 の 御 退 官 に 際 して
堀
早 い もので まだお若 い と思 って い た和 田先生 を
田 凱
樹
(物 理学教室)
ん力ち
停年 で東 京大学 か らお送 りす る時期 とな って しま
和田先生は物理学教室 における生物物理の リー
い ま した。 学 問的 に もまた学部 長 と して もその 仕
ダー として,ま た日本生物物理学会 の中心 として
事 の最 中 に退官 され るのは た いへ ん に残 念 な こと
その発展 に大いに貢献 されま した。 その名の示す
で あ ります。 もっと も,先 生 に してみれ ば,学 部
ように生物物理学は学際的な学問で,そ の草創期
長 の 激職 を早 く離れ て新 しい活動 の ための新天地
か ら物理学者
に移 るの は 早 い方 が よ い と言 われ るか もしれ ませ
理学者
-8-
(く
(く
ずれ)と 化学者
(く
ずれ)と 生
ずれ)と が重要な貢献を してきま した。
しか しその成 功 に は生 物 的 に意 味 の あ る現象 を的
面 で も大 い に貢献 を され ま した。 また最後 の 1年
確 にえ ぐりだす独特 な感性 が必 要 とされ, また生
間 は理 学部 長 と して,理 学部 の発展 に もつ くされ
体高分子 の理 解 に は物 理化学 のセ ンス も必須 です。
ま した。 御本人 は「 おれ に はむ いて い な い」 とい
先生 は本学化学科 出身 で,有 機 分子 の化学 的な研
ってお られ ますが, はたか ら見 るとなか なか の名
究か ら生体 高分子 の研究 にすす まれ ま した。 した
理学部 長 ぶ りで した。 これ は先生が政治 的手 腕が
が ってその研究 スタ イル は物 理 化学的で, アル フ
あ るとい う ことで はあ りませ ん。 先生 のお家柄 か
ァヘ リック スの双極 子的性質 の解析 ,核 酸・ 蛋 白
らその よ うに思 われが ちですが, む しろ和 田先生
質 の精密 な物 理化学 的計 測法 の確 立, さ らにはそ
はわれわれが は らは らす るよ うな失言 も決 して少
れ の延長線 上 に あ る生物 の ゲ ノ ム解析 の ための 計
な くな い非 政治的 な方です。 そ して 同僚 や仲 間 に
測機器 へ と研 究 の 巾をひろげて来 られ ま した。
対 して もフェアな態度 で 接 しられ る とい うのが 私
先生 のお仕事 を拝見 して い て感心 させ られ る こ
が常 日頃か ら感 じて い る ことで す。 これが現在 の
とが い くつ もあ ります。 その第一 は実験 を多次元
理 学部 の運 営 に も生 か されて い ます。 ただ
的か つ 精密 に行 う こ とです。 DNAや 蛋 自 分 子 の
にお忙 しそ うで「 上野 や御 徒町 まで歩 い て昼 食 に
構造変化 を,光 学・ 熱学・ 酵 素学 的方 法 な どを組
い くと何 キ ロ も痩 せ られ ます よ」 と皮 肉 た っぷ り
合せ て同時計 測 し総 合的 に解釈 す る研究 は, 巨大
に私 に忠 告 して下 さった健康法 も実行 で きな い の
な生 体 高分子 の各部 分 の構造変 化 を分離 してみ る
で は と心配です。
大変
ことを可能 に してわれ われを驚 かせ ま した。 この
御退官後 は研究 に あ るい は科学行 政 に と大 いに
研 究 の ため には計測装置を 自作 し,そ の デ ータ処
ご活躍 い ただ きた い と思 い ます。 と くに東京 大学
理 に も通 じて い る必 要 が あ ります。 先生 の物 理化
理学部 お よび生物 物 理学 の発展 のため に,研 究環
学 の 素養 と,物 理学教室 とい う地 の 利人 の利 とが
境 の充 実,研 究体制 の 改善 ,省 庁間 に分断 され た
むす び つい た成果 とい えま しょう。 第 二 の 点 は
科学 政策 の統一 に先生 のお 力をお借 りで きれ ば と
こ う して得 られ たデ ー タを生物 的 に重要 な意 味 づ
思 い ます。 停年 だか らとい って悠 々 自適 しよ うな
けを されて い く点です。 生物 は「偶然 と必然 」 の
ど とは間違 って もお考 え に な らず に頑 張 って い た
弁証 法 の結果 と して進化 して きて い るので,物 理
だ きた い もので す。
,
的 デ ータを意 味 づ けす る ことは必 ず しも容 易で は
あ りませ ん。 しか し,微 分融解 曲線 か ら得 られ た
DNAの 局所的 な GC含 量 の 不均一性 は,遺 伝子
の イ ン トロ ンとエ キ ソ ン, あ るい は制御領 域等 の
微細地図 と対応 す る重 要 な意味づ けが得 られ ま し
た。 また異 な った温度 に適応 した生 物 が 同 じ蛋 白
を作 りなが ら, その遺伝 子 DNAの 「融 点 」 を環
境 にあわせ て変化 させ る仕組 な どの発見 もされ ま
した。 生物 が一 見偶 然 に支配 され て い て も,い か
に物理 法則 に制約 されて い るかを示 され た点 が重
要 と思 い ます。 これ らの 多 くの 御研究 に よ り, 日
本化学会進歩 賞・ 松永賞・ 島津賞 な ど多 くの受賞
を され た こ とは皆様 よ く御存知 の通 りで あ ります。
先生 は学 内ばか りで な く,文 部 省・ 科学技 術庁
0日 本学術 振興会 な ど にお ける 日本 の
科学政策 の
-9-
土日
12
年
田
沢
仁
(植 物学教室)
館 の 4階 の数学棟 に室 を借 りて,狭 い なが らも
1977年 11月 に阪大か ら赴任 した のはつ い この前
,
の ことのよ うで もあ る し, また遠 い遠 い昔 の こと
当時助手 の新免輝 男氏 と阪大か ら博士 コースに入
の よ うで もあ る。 11月 1日 京都駅 を早朝 発 って富
学 した河村岡1太 君 と 3人 で実 験 を続 け る こ とがで
士川 の鉄橋 を渡 って富士 の 自嶺 に接 し得 た ときは
きたのは幸 いで あ った。 よ く屋上 に上 り上野 の森
これか らの12年 余 の予想 され る東大生 活 には幸 先
を眺 め たの も懐 か しい思 い 出で あ る。 2号 館 と 1
よ い ス タ ー トの よ うに思 えた。 さて理学 部 二 号館
号館 の間 を頻繁 に行 き来す るため 自転車 の必 要 が
につ き,佐 伯敏郎教室主任 にお会 い し, 田丸謙 二
生 じ,著 荷谷 の 自転車屋 で 中古 を一 台購入 した。
学部 長 に も一 号館 に行 って着任 の挨拶 を した。 植
この赤色 の 自転 車 には随分 とお世話 に な り,評 議
物生 理学研 究室 に行 き, ち ゃん と した教 授室が あ
員であ った この一 年間 は,再 び一 号館 へ行 く用事
るか と思 った ら,丁 度 二 号館 は改築 の最 中で,私
が増 え,最 後 の 御奉公 を して も らって い る。
,
の部屋 は現在 の生物学科共通 図書室 を入 って直 ぐ
私 の よ うに昭和 24年 に新設 され た伝統 の少 な い
右側 に相 当す るところ にあ った一 単位 の何 も入 っ
阪 大 の生物学 科か ら, 100年 の伝統 を もつ老舗 の
て い な い空 の部屋 で あ った。 当時助手 で あ った坂
植物学教 室 に きた もの には,最 初 戸惑 った り,驚
野 勝啓 さんをは じめ,大 学 院生 の諸君が,急 いで
くこと も多か った。 た とえばパ ー トで お手伝 いに
廊 下 か ら机 ,椅 子 な どを運 び込 んで くれ て,一 応
きて い る人 たちを出入許 可 と呼 んで い たが,私 に
居室 の体 をな した。 その頃隣の分類 の部 屋 には
は何 か御用聞 きのよ うで おか しか った。 現在 で は
原寛名誉教授 もよ く来 られ,先 生 のお元気 な声 と
補佐 員 とい う名前 にな って い る。 それか ら教授会
黒沢幸 子 さんの笑 い声が よ く聞 こえて きた。
が理学部 も教 室 も講 師以上 で運営 されて い るの に
,
当時 の教授会 は田丸謙 二 学部 長 の発 案 で,教 授
驚 い た。 阪大で は教授会 は教授 だ けで, そのせ い
会前30分 ほど誰 かが研 究 上 の話題提供 をす る こと
か講 師,助 教授 の責任 は軽 くいわ ゆ る雑用 と呼 ば
にな って い た。 私 は佐伯主任 か ら依頼 されて,「 シ
れ る ものは少 なか ったよ うに思 う。 また教室主任
ャ ジクモの原形質流動 」 につ い て,12月 の教授会
の任期が 1年 で な く 2年 な の もち ょっ と しん どい
で 映画 をみせ なが ら話 を した。 これ を引き受 け た
感 じだ った。
ときは,新 任 の教授 はみ んな 自己紹介 を兼 ねて講
さて こち らに きて感 じたのはや は り歴 史 の重 み
演 をす るもの と思 い,や や義 務的 に引き受 けた の
だ った。 植物学教室 に は植物学教 室 と しての歴 史
だが, そ の後 そんな ことはな い。 聞 くと ころ によ
が あ り,動 物学教室 とは違 う。 小石川 や 日光 の植
る と,皆 さんの集 ま りも余 りよ くな い ので, いつ
物 園 は 三崎 の 臨海実験所 とは確 か に違 う。 しか し
の 間 にか立 ち消 え とな ったよ うで あ る。
人類学教 室 も含 めて生物学科 をつ くって い る こと
1978年 の 4月 か ら,私 は改築 の責任者 と もい う
だ し,特 殊性 を維持 しつつ も,生 命 の一 般性 を も
べ き二 号館建物委 員会委員長 にされ て しまい,坂
追求 す るのだか ら,生 物学科 と してま とま って い
野勝啓 ,井 上康則両 氏 に助 け られ なが ら,施 設部
くことがで きな い ものだ ろ うか とひそか に思 って
との折衝 や,各 教 室間 の調整 な ど,慣 れ な い 身で
い た。 物 理学科 は膨 大 な物質科学 をかか えて い る
大役 を何 とか こなす ことがで きた。 改築 中 は一 号
●
―- 10-―
学科 と してはあ くまで一 つ でや って い る。 生
物学科 も本来 そ うあ るべ きだ ろ う。 生物 学 を一 本
や技官 とも折衝 され, 4月 に上 申で き るよ うな東
に しよ うとす る気 運 は,細 胞生物学,分 子遺伝学
京大学 理学 部技術部組織 規程 な る もの を完成 され
の進歩 もあ って,気 分 と して個 々 の研 究者 にはあ
た。 ところが他 部 局の組織化 へ の取 り組 みが遅 れ
つた と思 う。 それ に拍車 をか けたのは理 学 院構想
て お り,理 学部 は上 申を待 たされ た状 態 にあ った。
で あ っ た。 1988年 理 学院構想 をま とめ るため
,一
本部 か らの 5月 上 申 予定 の再度 見送 られ,最 終的
つ は基 幹理学 院小委 員会 (委 員長
上村洸教授 ),
に 6月 1日 を め ど に,他 部 局 はだめで も理学部 な
田隅 三生 教授 )が
理 学 院計 画委員会 の下 に設 け られ た。 それ よ り前
ど組織 案がで きて い ると ころか らは じめ るとい う
に生 物学 科 三教室 は合同で 三つの講 座を概 算要求
学 の足並 みが揃 わな い ため有 馬朗 人総長 は 6月 上
して い た (分 子系統進化学 ,細 胞 生物学 ,分 子情
申は しない ことに決 断 され た。 6月 16日 の委 員会
報生 物学 )。
で は委 員全 員が憤 りと深 い失望感 を表明 され, こ
広域 理学 院小委 員会 (委 員 長
ことで あ った。 しか し結局,東 職 の強 い反 対,全
上村委 員会 は,理 学 院化 に ともな い学 問 の流動
の際全委 員辞任す べ きであ るとの結論 に達 した。
性 に対応す る組織 と して,生 物科学 大専 攻,地 球
私 も皆 さんの心 情 に 同調 し,委 員各位 か ら私宛 辞
科学 大専攻 を設 け る こ とを切 り札 と して提 案 した。
任 を希望す る手紙 を理 由を付 して書 い て い ただ き
,
WOrhng GrOupが ,生 物科学 ,地 球
それ を もとに 6月 21日 付 けの文書 で委 員長 の私 か
科学 関連教室 の委員 か ら出 て,二 つ作 られ た。 生
ら上 の委員会 で ある企画委 員長 の久城育夫評議 員
物 関係 は石川統教 授 (動 物 ),黒 岩常祥教授 (植
に辞任 を 申 し出た。 しか し企 画委 員会 と しては
物 ),遠 藤 萬里教授 (人 類 ),室 伏 披教授 (生 化),
理学 部 の組織 規程 が 否定 され たわけで もな く, ま
堀 田凱樹教授 (生 物物 理 )か らな る生 物科学専攻
た辞任 を安 易 に認 め る とほかの委 員会 に も波 及す
構想 ヮ ーキ ンググル ー プが つ くられ た。 この グル
るおそれが あ るとい う理 由で,辞 任 は結 局認 め ら
ー プの活動 は生 物学 関連 4教 室 の 連絡 を密 に した
れ なか った。
その ための
,
よ うに思 う。 また臨時増 に よ る教 員増 1名 が生 物
この技小委 や もう一 つの 田沢小委 で もそ うだ っ
学科 に割 り当 て られ, その人事 を生 物学科 三教室
たが,委 員 の方 は大 変 自由 に どんどん発言 され 楽
合同で行 った こと も,理 学部 内 にお け る生物学 関
しい雰 囲気 の うち に作業が進 め られ た。 それ に 加
連教 室 の存在 を浮か び上が らせ るの に役 立 った。
えて技 小委 では,野 島博事 務長,木 村 登事務 長補
現在 ,生 命科学 の重味が学 問的 に も社会 的 に も大
佐 ,橋 本 勝 員人事 掛長が, 田沢小委で は野 島事務
いに強調 され て い るが,東 大 理 学部 もよ うや くそ
長,木 村事務長補佐 ,北 川嘉一事務長補佐 ,小 谷
れ に応 え る体制 がで きて きたよ うに思われ,私 と
昭庶務掛長 が委 員会 の お世 話 を して下 さ り,委 員
して も心 おきな く退職 で き る気持 で い る。
の 足 らな い と ころを適切 に助言 して下 さった こと
最後 に この一 年間計 らず も評議 員 に選 ばれ,技
官問題検討 小委員会 (委 員 :岩 村
も大 いに有難か った。 おか げで 曲 りな りに も技 小
秀 ,岩 槻 邦男
委 と しては企画 委か ら諮 問 されて い た理学部 技 術
熊沢 峰夫,山 本祐靖 の各教授 )の 委員長, それ に
研 修専 門委員会 内規 を答 申す ることがで き, また
理学 院計画委員会 の中 の事務・ 技官組織 検討 小委
田沢小委 と しては理学 院 に於 け る事務機 構 につ い
田沢 小委員会 ,委 員 :安 楽泰宏 ,熊
ての素案 を纏 め説 明会 を開 くと ころまで漕 ぎつ け
健 ,山 本祐靖 の各教 授,吉 村宏 和
る ことがで きた。 委員 な らび に事務 官 の 方 々 に心
員会 (通 称
沢峰夫,富 永
,
助教授 )の 委員長 を勤 め た。 技小委 の方 で何 と云
か らお礼 を申 し述 べ た い。
って も忘れ られ な い のは委 員総 辞職事件で あ る。
私 の もう一 つの役 割 は理学 部 の 国際交流委員長
技術職員 の 組織 化 につ いては前 理学 部 長藤 田宏 先
で あ った。 理学 部 に は現在 120名 以上 もの外国人
前委 員長小 日高先生 らが大変努力 され,組 合
学生 (修 ± 26名 ,博 ±66名 ,研 究生32名 )が 在籍
名
―- 11 -―
して い るの に, これ まで留学生 の世話 をす る留学
この部 屋 の英 語名 については,物 理 の 山本教授 か
生担 当教官 (平 成 元年 11月 末 まで は守 隆夫講 師
ら InternatiOnal Liaison Officeと い う しゃれ た
,
現在 高橋孝行講 師 )が 面接 な どに利用で き る部 屋
名前 を つ け て戴 い た。 時 の和,人 の 和が あ ったの
が なか ったので あ る。 和 田昭允学部 長 ,小 林俊 一
だ とひ そか に思 って い る。
建 物 小委 員会委 員長,野 島事務長 らの 暖 か い理 解
私 の よ うに酒好 きの 我侭人 間を12年 間 も置 い て
と努 力 に よ り,つ いに この四 月か らは一号館一 階
下 さった理 学部特 に生物学 関連 の諸教 室 の 皆様 に
会議室横 に国際交流室が設 け られ る ことに な った。
心 か ら感謝 して去 ります。
田沢仁 先 生 の御 退 官 によせ て
新
免
輝
男 (植 物学教 室)
田沢先生 は植物膜 にお け る輸送現象 を主 と した
きる この方法 の 開発 は植 物細胞 の膜 生理学 および
研 究 を続 け て こ られ たが,そ れ以外 に も植物生理
原形質 流動 の研究 に画期的 な貢献 を した。 東 大 の
学 の 大変広 い範 囲 に深 い造詣 を持 ってお られ る。
田沢研 究室 にお け る研究 の 多 くが,細 胞 内灌 流法
その大 き い理 由の一 つはお若 い頃 の ご経 験 に あ る
を中心 と して進 んで きた。
よ うに思われ る。 先生 は学生 時代 を含 め て東 大 に
田沢先生 は昭和 52年 に東京大学理学部 植物学教
移 られ るまで の ほ とん どの期間 を大阪大学理学部
室 に教授 して赴任 され た。 その頃 は理学 部 二 号館
の神谷宣郎 (現 学士 院会 員)教 授 の研 究室で過 ご
は改修 の最中であ ったが,先 生 は赴任 され て 直 ぐ
され,水 や イオ ンの輸送 な ど に関す る研究 を続 け
に改修 の責任者 に な られ た。 赴任 直後 で よ く状況
られ た。 神谷研 究室 の主 要 テ ーマで あ った原形質
が解 らな い こ ともあ り随分苦労 され た ことと思 う
流動 に関 して も素晴 らしい業績 を残 してお られ る。
が,無 事 に役 目を果 た され た。 常 に何事 に も臆す
その 間 に西 ドイツに留学 され,生 物 の 内生 リズ ム
る ことな く取 り組 まれ るお姿 には本当 に脱 帽 して
の提 唱者 であるBtinning教 授 の研究 室 および,植
しま う。 このよ うに タフな田沢先 生 も一時 は吐血
物組織 培養か らの 不定胚形成 に関 して第一人者 で
されて好 きな お酒 もめ しあがれな い よ うな危機的
あ る Reinert教 授 の研究室 を経験 されて い る。 ま
な状態 が あ った。 第 一 の原 因 は ご心 労 で あ り,酒
た, あ る時 期 には名古 屋大学理学部 の大沢文夫研
が これ を加速 したので はな いか と思 って い る。 そ
究室 に内地留学 され,奏 野節 司 (現 )教 授 と真性
の危機 的状 態か らの 回復 も驚 くほ ど早か った。 昭
粘菌 の変形体 か らの アク トミオ シ ンの単離 とい う
和 64年 度で教室主任 の任 期 を終 え られ る こ とにな
生化学 的な研 究 も経 験 され てお られ る。 この よ う
って い たので, ご退 官前 の一 年 は少 しゆ っ くりさ
に,多 分野 にわた る研究 で培 われ た ご経験 は今 も
れて,実 験 も始 め られ るのではな いか と期待 して
先生 の中 に生 き続 けてお り,セ ミナーや学会 な ど
い たが,幸 か不幸か評議員 に選 ばれて しま った。
で しば しば ご造詣 の深 さに驚か され る。 東大 にお
これで弟子達 の 期待 は完全 に打 ち崩 されて しま っ
ける この十数年 間 の 田沢研究室 の研究 の方 向性 を
た。 毎 日が会議 の 連続で,教 授室で ゆ っ くりと椅
決定的 に したの は,車 軸藻類 の細胞 を用 い た細 胞
子 に座 ってお られ るのは ほ とん ど見 た ことがない。
内灌 流法 の開発 で あ った と思 われ る。 細胞 本来 の
相変 らず の タ フさで 多 くの 問題 に取 り組 んで お ら
機能 を損 な う ことな く細胞 内の化学 組成 を制御 で
れ た。 特 に,技 官 問題 に は多 くの時間 を費や して
―- 12-―
●
0
お られ,会 議 や団体 との交渉 のみ な らず,お 忙 し
理学会 の会 長 と して 日本 の植物生 理学 の ため に働
い時間 を さい て技 官 の有志 との話 し合 い を続 けて
らいてお られ る。 恐 らく,田 沢先生 は ご退 官後 も
お られ た。 技 官問題 の解決 は今 直 ぐとい う訳 には
暇 に な られ る と い う こ とは な い と思 うが , ス ト
い きそ うにな いが, 田沢先生 は技 官 の 自立 とい う
レス解消用 で な く,楽 しみ と しての酒 をお飲み に
ことを心か ら期待 されて い るよ うで あ る。
な りなが ら, これ まで忙 しくて諦 めてお られ た実
ドイッに留学 され た こ ともあ って,先 生 は大 の
験 を楽 しんで い ただ きた い と弟子 と して望 むばか
親独派で あ り,西 ドイツとの 植物学 の 交流 に努 力
りで あ る。
してお られ る。 また, この一 月か らは 日本植物生
ご ま め の歯 ぎ し り
○
阪
豊 (地 理学教室)
古来 ,学 問 の母 といわれ る地理学 を教育・ 研 究
生 が い た。 う っか りす るとこち らが食 われ て しま
す る小 さな教 室で,人 生 の ほぼ半ばを過 す ことが
い そ うに思 われ, ま ことにお気 の毒 だ ったが, ご
で きた ことは幸 せで あ った。 多岐 にわ た る地理学
まめの 力及 ば ざ ると ころ とい ってお断わ り した。
の教育 を少数 の ス タ ッ フで カバ ーす るため に, 自
あの学生 は今 ど う して い るだ ろ うか。 先端化・ 細
分 の専攻以外 の 分野 の授業 も持 たねばな らなか っ
分化す る大学組織 の 中 で行 き場 に迷 った学生が受
た。 幸 い その ための準 備 は私 に とってむ しろ楽 し
け入れ られ るよ うなおお らか な学科 が東 京 大学 に
い ものだ った。 この義 務が どれ ほど私 の研究 に役
もっとあ って もよ い と思 うのだ力ヽ
立 ったか計 り知 れな い。 皮 肉な ことだ が 2講 座 の
○
□
次 に,異 国 の 土地 で野 外調査 の楽 しさを満喫す
小教室で あ る ことに先ず感謝 しなけれ ばな るま い。
る機会 を与 えて下 さ った隣接 分野 の 同僚 の方 々 に
私 の本 当 の先生 は馨 咳 に接 した恩 師で はな く地理
感謝 したい。 ごまめ とい え ど も,砂 漠 の 夜 の 人工
学教室で あ るのか も知 れな い。
衛 星の飛 びか う天空 の 美 しさに見 とれ なが ら森羅
次 に,仕 事 の 面で大学 院 の 諸君 に感謝 した い。
万象 の 不可思議 に思 い をはせ る こと もあ る。 ごま
学生諸君 との お付 き合 いが どれ ほど私の視野 を広
めは ごまめ な りの 仕事 がで きた ことを幸せ に思 う。
げ深 めて くれ た ことか。 院生 の 多彩 な研究 を少数
昨今 の世 の 中 は世智 辛 くな り,速 効性 の 見込み
の スタ ッフで指 導 す るのは容易 な ことで はな い。
の あ る分野 に は金 を 出すが,い つ どの よ うに役 立
私が学生 時代 に陸水 に興 味 を持 ったばか りに, ゴ
つ か も分 らな い分野 には金 が廻 って こな い風潮 が
カイの 分類 か ら湖 の生 態系 の研究 に進 んだ学 生 を
あ る。 ソ十 万 円の機 器 を何程 か購 入で き, フ ィー
指導す るはめ にな った。 学生 の研 究 内容 を理解 し
ル ドに設置で きれ ば,確 実 に良 い成果 が得 られ る
適切 な ア ドバ イ スを与 え るた め に私 も勉 強 しな け
こ とが 分 って い て も, ン億 円の機器 よ りも購 入 し
ればな らな い。 しか し, さすが に私 ことごまめは
に くい とい うのはお か しな話で はあ るま いか。
ゴカイの 分類 まで勉 強す る気 に はなれ なか った。
地球環境 の変化 が問題 に な って い る。 自然環境
体 長精 々 5 cm程 度 の ごまめで は30cmに も及ぶ もの
の保護 に欠 かす ことので きな いの は, 自然環境 の
が あ る とい うゴカイ様 に は歯 が たたな い。 あ る時
正 しい姿 の認識 とその変化 の実態 を総合 的 に把 握
お魚 の生物 地理学 的研 究 が した い と相談 に来 た学
,
す る ことで あ ろ う。 その ための 教育・ 研究組織 を
13-―
完備す べ きで あ る。 そ して, その一 端 は フィー ル
な る言 葉が聞かれ るよ うにな った。 年 を取 ってす
ドか ら学 ぶ こ との大切 さを体 得 し, フ ィール ドワ
っか り寒 むが りに な ったごまめに とって一 入つ ら
ー クを心 か ら楽 しい と思 って い る自然 史的研 究 を
い気持 に させ られ る一 言 で あ る。
目ざす研 究者 0学 生 によ って担 われ るべ きで あ る。
ごまめ は 田畑 の 肥料 にな った り,豊 作 や健康 を
東京 大学 の将来計 画 に この点 が充 分 に配慮 され て
意 とす るめで た い食 品で あ るそ うだが,は た して
い るだ ろ うか。
わが教 室発展 の た めの肥 しに なれ たか ど う力、 甚
近 頃,
`
学 科 の ス ク ラップ・ ア ン ド・ ビル ド″
だ恒泥 た る もの が あ る。
阪 口豊 先 生 を 送 る 言 葉
米
倉
伸
之 (地 理学 教 室 )
私 が本郷 に進学 して きたの は昭和35年 (1960年 )
した。 また冬 の寒 さの厳 しい時 も,夜 遅 くまで研
4月 の ことで したか ら, もう30年 も昔 の ことで す。
究室で外国 の厚 い書籍 を読 んで お られ た姿 な どを
当時 の地理 学教 室 は一 講座で,多 田文男教授 ,佐
よ く拝見 い た しま した。
藤久助教授 ,吉 川虎雄助教授,小 堀巌講 師,岩 塚
阪 口先生 は私達 が研究 テ ーマ や フィール ドを決
守公助手 ,阪 口豊 助手 とい う方 々 が教 官 で した。
め る時や,研 究 の 進 め方を模索 して い る時 に,あ
阪 口先生 は最 も若 い教官 と して,濃 刺 と して研 究
あ しな さい, こ うしな さい, とは決 してお っ しゃ
に取 り組 み,学 生実習 を担 当 され て い た ことを
い ませ んで した。 「 自分 で よ く考 えな さい 」 の一
つ い昨 日の ことの よ うによ く覚 えて い ます。 学部
言 で した。 これ は地理学教 室 のよ き伝 統 で もあ り
3年 生 の時 に進級 論文 の フ ィール ドと してえ らば
ますが, 自由 に研 究 で き る ことの大切 さと研 究 の
れ た大磯 丘陵 か ら酒匂 川平野 へ ,私 達 を連 れて い
厳 しさを同時 に私 たち と教 えて くだ さい ま した。
って くれ たの も阪 □先生で した。 それか ら30年 と
私達 は阪 □先生 の毎年 の よ うに重要 な テ ーマにつ
い う歳 月が瞬 く間 にす ぎて しま い,私 が進学 して
い て次 々 と論文や著書 を書 かれて い る姿 をみて き
い た当時 の先生 方 は次 々 と定年 を迎 え られ て教 室
ま した。 阪 口先生 が学問 を楽 しまれ て い る姿 をみ
を去 られ,当 時最 も若か った阪 口先生 をお送 りす
て, 自分 たちの 不勉 強 を反省 す る毎 日で した。
,
る年 にな って しま い ま した。
阪 □先生 は博士論文で「 北 日本 にお ける泥炭地
私 が地理学教室 に進学 した当時か ら,阪 口先生
の古地理学 的研究 」 (英 文,1961)を 書 かれ て以
は年令 が最 も若 か ったためで しょ うか,学 問 に対
来,花 粉分析 を主 な研 究 方 法 とされて,最 終氷期
す る厳 しさで は並 み居 る先生方 の なかで 誰 に も敗
か ら後氷 期 にか けて の 日本列 島の古地 理・ 古 植生
けな い もの を学生 に感 じさせ てお られ ま した。 外
・ 古気 候 の復元 を研究 の中心 に据 えて こ られ, こ
国 か らの新着 雑誌 に は,教 室で一 番最初 に眼を通
の 分野 にお ける第 T人 者で あ ります。 さ らに泥 炭
され てお られ ま した。 教室 のゼ ミナールで私 た ち
地 に秘 め られた環境変化 を いか に絡 くか とい う こ
に質 問や コメ ン トを され る時 には,正 確 な知識 と
とを主題 に して , 日本 お よび世 界 各地 の 泥 炭地 の
勉強 に対す る真面 目な態度 を厳 しく求 め てお られ
研 究 を「泥炭地 のの地学― 環境 の変化 を探 る― 」
ま した。 準備が不十 分 で手抜 きを した学生 には時
(1974,東 京大学 出版会 )と してま とめ られ ま し
と して大声 も出 され て,私 たちの姿勢 を正 され ま
た。 また尾 瀬 ケ原 は先生 の 長年 にわ た る研 究 の 中
―-14-―
心 的 な フィール ドで ,尾 瀬 ケ原 の共 同調査 の世話
然」 (1980,岩 波書店 )や 「氷河時代 」 (1982,
役 もされ, その研 究 の成果 は「尾瀬 ケ原 の 自然 史」
小林国夫 さん との共著 ,岩 波書 店 )の 編 著者 で も
(1989,中 公新書 )と して最近刊 行 され ま した。
あ り,地 理学 界 のみ な らず,周 辺 の学界 で も有数
さ らに北海道 は泥 炭地 の宝庫 であ ると同時 に
の博学 ぶ りです。 理学部地理学教室で は「 自然地
先生 の好 きな フィ ール ドで もあ り,サ ロベ ツ原 野
域学 」「陸水学 」 を,人 類学教 室 では「 第四紀学 J
の 泥 炭地 の研 究 だ けで な く,北 海道 の大地形・ 海
を,文 学部 で は「地 学概 論 」を長年 にわ た り講義
岸段丘・ 地殻変動 についての総 括 的な研 究 は,北
され,そ の 博識 と熱弁 ぶ りは卒業生 の 語 り種 に な
海道 の 地形 を語 る時 に忘れ る こ との 出来 な い重要
ってお ります。
,
な仕事 です。 大学 院生 時代 の1956年 には イ ラク・
正 に研究 と教育 の両面 に わた り,決 して手 を抜
イ ラ ン遺 跡調査 団 に参 加 され,そ の後 も西 ア ジア
かず に全 力 を注 がれ て こ られ ま した。 不勉強 な私
洪積 世人類 遺跡調査 団 に同行す るな ど,合 わせ て
ど も後輩 を尻 目 に, いつ も学 問 の 最前線 を走 り続
3回 にわ た り西 アジア各 地を広 く歩かれ,乾 燥 地域
けて こ られ ま した。 その姿 こそ,研 究者 と して教
にお ける自然地理 と地形発達 につ いて研究 され ま
育者 と して,私 たちの 良 き お手 本 であ ります。 昨
した。 また1968年 ∼69年 にかけて は,文 部 省在外
年 の初 夏 に は大学 院 の学生 と一 緒 に尾瀬 ケ原 に出
研 究員 と して ウイー ン (オ ース トリア)に 滞在 さ
掛 け られ,残 雪 の 山 に登 られ るほどの若 さです。
れ, その時 の研 究成果 は「 ウイー ンと東 アル プ ス」
これか らもお元気 で,学 問 の道 を 自由 に楽 しまれ
(1973,古 今書 院 )や
ヨー ロ ッパ・ アル プ スの 地
,
いつ まで も私 たちの前 を歩 き続 けて下 さるよ うに
形論文 と して発 表 され て い ます。 また「 日本 の 自
お願 い して,先 生 を送 る言葉 とい た します。
実 験 用 `植 物 ″
露
天 然物有機 化学 とい う講座で仕事 を した関係上
,
木
孝
彦 (化 学教 室 )
分酷 い ことを した ものだ。
研 究対象 と して多 くの生物 を取扱 った。 就 中,植
運 よ くその研究成果が纏 ま り,論 文 と して発表
物 との付合 い は長 く,そ の数 は30年 で約40種 に達
で きた場合 には,論 文 の謝辞 の 中 に,採 集 でお世
した。 その うち,市 販品 と して入手 で きる試料 は
話 にな った方 々の名前 と共 に,植 物 名 と採集 場 所
普通 の薬 品を使 うよ うな気持 で実験 す る ことがで
0日 時を記載 した。 然 し根 は地 中 か ら掘 り出 され
きた。 然 し全体 と しては生 きて い る植物 を採集 し
た ものの,不 幸 に して論文 にで きず, 日の 目 も見
なけれ ばな らな い場 合 の方 が圧倒 的 に多か った。
な いで闇 に葬 られ て しま った 一 その よ うな非道
枝 ,葉 な どが必 要 な場 合 には必 要量 だ け採集 す
い仕打 ちを受 けた植物 も沢 山あ る。 研 究室 を去 る
れ ばよ く,植 物体 の一 部 を傷 つ け る ものの, その
生命 まで奪 って しま う訳 で はな いので,余 り罪 の
に 当 り: お世 話 にな った全 植物 名 を以下 に記 して
`
″
後 ればせ なが ら感謝 の気持 を表 し,実 験用 植物
意識 を感 じなか った。 ところが化学 的 に興 味が あ
の魂 の安 かれ と祈 る もので あ る。
,
る植物 の二 次代謝産 物 の多 くの ものは根 に蓄積 さ
れ て い るので, それ らを調 べ る とな る と,当 然根
イ,オ タカ ラ コ ウ,オ ニ ノヤ ガ ラ,カ イ タカ ラ
こそぎ引 き抜 か なけれ ばな らな い。 思 い返す と随
コ ウ, カ ク レ ミノ, カ ニ コ ウモ リ, ガ ンコ ウ ラ ン
―- 15
,
キ 鳴 キ ョウチ ク トウ, キ ラ ンソウ キ ンセ ンカ
,
ゴマ ナ, コル クガ シ, サル ビア (セ ー ジ
シォ
ュ, ハ ンカ イ ソウ, ヒョ ドリバ ナ, フキ, フジバ
カマ,マ ルバ ダケ ブキ,メ タカ ラコ ウ,モ ミジガ
ン, シ ラカバ, シ ラヤ マ ギ ク, シンジュ ジ ンチ
,
ョウ鍼 タイ ミンガサ, ッヮブキ, トゥゲ ブキ
サ,ヤ ブ レガサ,ヤ マ シ ロギ ク,ヤ マ タバ コ, ヨ
ニ ガ キ, ノ コ ンギ ク ノ ブキ ハ ス
,
,
,ハ リエ ンジ
αυαπjCα ,7θ ″
れじ
れαJjα
ブ
,
),
,
ツバ ヒヨ ドリバ ナ,リ クチ ュ ウヤ マ タバ コ,3協 θθ
α
arJ“ ん
α
.
露 木孝 彦 助 教 授 を送 る
岩
村
秀 (化 学教室)
露木助教授は,昭 和 4年 11月 9日 のお生 まれで
ル付加反応機構の研究″ に始 ります。 まだ我が国
本年 3月 限 りで本学 の停年を迎え られます。先生
では殆 ど使われて いなか った早 い時期 に,放 射性
は昭和29年 3月 本学部化学科を御卒業 にな り, 引
同位体 14cを 含む標識化学物 を合成 し,反 応 に用
き続 き大学院化学系研究科化学専門課程 に進まれ
い,そ の所在を分析する手法を使 い,極 めて明確
昭和34年 理学 博士の学位を取得 されま した。 同年
な結論を得てお られます。 勿論,第 五福龍丸事件
より,教 養学部化学教室の助手 とな られ, 4
年後 に講師 として理学部化学教室 に戻 って こられ
の余韻覚 めゃ らぬ頃で,大 学 の RI総 合 セ ンター
昭和43年 に助教授 に昇任 され,今 日まで化学教室
位体使用 のマ ー クの付 いた RI実 験室は,当 時な
で研 究 と教育 に携わ ってこ られま した。 この間昭
ぜか ゴ ジラ部屋 と呼ばれ, そこに出入 りので きる
和 45年 か ら翌年 にか けて約 1年 間,米 国 ブランダ
先生,大 学院生 はち ょっと偉 く見えたもので した。
,
;
12月
,
イス大学 に Senior Research ttsociateと
も RI研 究室もなか ったころの話です。放射性同
して 出
大学院修了後 は,有 機反応化学か ら天然物化学
張 されてお ります。
に漸次研究テーマを シフ トされ,教 養学部ではカ
露木先生 の御研究は, 島村修先生 (本 学名誉教
授)の 研究室で の学位論文のお仕事 `
異常 マ イケ
メ ムシの臭気成分の研究を行われましたが, これ
もフェ ロモ ンの研究が今 日ほど流行 し始 め るだい
愕
≒
露木先生がお画きにな ったニガキのスケ ッチ
ーー 16-―
ぶ前 の ことで した。
真 と見紛 うほどですが, これ は露 木先生 御 自身 の
理学 部 に戻 って来 られ てか らは,新 設 の天然物
お画 きに な った もので あ ると伺 い ま した。 その道
有機化学講 座 の高橋武 美教授 を助 け, トリテル ベ
の専 門的 スケ ッチや デ ッサ ンをおや りにな ります。
ンの骨格転位反 応 の研 究, フ リーデ リンの光化学
ヴ ァイオ リン もた しなまれ ますが,つ い ぞ聞 かせ
反応 を手掛 け られ,ニ ガキ科植物 の苦 味成分 の単
て頂 く機会 を得 ませ んで した。
離,構 造 決定 と言 うライ フワータを完成 され ま し
`
ニ ガキ科植物 の苦 味成 分 の
た。 このお仕事 は,
″ い
研究 と う著書 とな り修学館 よ り出版 されてお
実務 を伴 う役 日で,私 共 は大変 お世話 に な りま し
ります (155ペ ー ジ,1989年 12月 )。 拝読 します
して御活躍 に な って お ります。
理学 部 および化学教室で は, 入試 関係 の委 員等
た。 日本化学会 で は,理 事 お よび各誌編集委員 と
と,有 機化学 の原 点で あ る天然物 有機化学 を こよ
4月 1日 付 けで埼 玉大学教育学部教授 に と言 う
割愛願 いが来 てお ります。 新 しい任 地で の御活躍
な く愛 してお られ た ことが分か ります。
この本 で は,表 紙 の カバ ーや各章 の は じめ に色
御発展 をお祈 り致 します とともに,還 暦 を迎 え ら
れ た ことをお忘れ な く,何 卒御 自愛下 さい。
刷 りの見事 な植物 の絵 が載 って い ます。 カ ラー写
卒
業
の
春
上
l●
田
秀
子 (物 理学教 室 )
この春 は,大 学 を去 る側 に な りま した。 今 まで
の当時久保研 の助手で い らっしゃったお方が現教 室
送 る側 にいて羨 む思 い もあ りま したので, 自分 の
主任 の鈴木 増雄先生 で, ひ とめ ぐり したな と思 い
番 にな ってよ い気 分 です と言 い た い と ころですが
ます。 数 え ま した ら教室主任 と して 9人 ,専 攻 主
実際 は分刻 みの 多忙 の毎 日な ので 余 りよ い気 分 で
任 と して17人 の先生方 で した。 特 に専攻 主任 は私
はな くな りま した。 もう少 しの辛抱 だ と 自分 に言
の願 い も叶わず一 時期 を除 いて毎年替 わ られ ま し
い聞 かせて最 後 の追 い込 み を して お りま した と こ
た。
学生 さん につ い てですが,な に しろ学生数 が多
ろ一 週 間後 まで に何 か を書 くよ うに言 われ ま した。
初 めて この仕事 につ い た時 (紛 争 1年 前 )物 理
いですか ら同 じよ うな注意 を繰 返 え し言 わ な くて
学 教室主任が久保亮 五先生 で,大 学 院 の専攻主任
はな らな い悩 みが あ ります。 ま して博士課程 の学
が西 島和彦先生 で い らっ しゃ い ま した。 主任秘 書
生 さんにはそれ な りの対 応 を と思 うので すが つ い
も兼 ね ます ので 連絡事項 も様 々 な ことが あ った と
『世話 がや け ます ね』 ぐらい は言 った り しま した。
思 い ます。 お偉 い先生方 に どの よ うにお話 した ら
その方達 が教育 者 ,研 究者 に な って再会 した折 に
よ いか と一応 は考 え, ものの言 い方 に注意 を払 っ
在学 当時私 か ら注意 を受 けた ことを懐 か しそ うに
て と思 い なが らも本当 の ことだ か ら仕様 がな い と
話 された ときのバ ツの悪 さ, そ して笑顔 で親 し く
つ い は っき りと (失 言 に近 い言 い方 )言 って しま
挨拶 され ると人 間 の 大 きさは彼 達 の方が上で あ っ
う私 に,両 先生 は に こに こと別 に相手 に しな い と
た ことを思 い知 らされ るので した。
い う風 で もな くや んわ りと的確 なお返事 を くだ さ
指導 を受 け る側 の学生 さんは いつ しか学問以 外
い ま した。 今 考 えて も冷汗が 出 るよ うな場面 が数
の こと も受 け継 いで い て,紳 士 的態度 や話 し方 か
々 あ りますが,あ の ご様子 が忘れ られ ませ ん。 そ
ら事務 的 な ことの無 関 心 さまで それ は い ろい ろで
17-―
すが師 の影響 は大 き い ことが わか ります。 影響 力
け に終 わ りま した。
と言 えば私 も科学者 集 団 それ も トップ ク ラス とそ
れ に続 く人 々の中 で仕 事 を させ て い ただ い たので
以上反 省 の 弁 で感 謝 の言葉 に代 え させ て い ただ
きます。
す か ら私 な りに刺激 と影響 を受 けま した。 せ め て
恥ずか しくな い程度 に 自分 も成長 しなけれ ば と思
皆様 い ろ い ろお世話 にな りま した。 心か ら御礼
申 し上 げます。
って い たのですが, どう も素材 の悪 さゆえ志 しだ
上 田 秀 子 さ ん を 送 る
鈴
増
雄 (物 理学 教室 )
学生 に とって も,上 田 さんはな くては な らな い
上 田秀子 さんは,東 京女子高等 師範学校 (現 お
茶 の 水 女子大学 )理 科 (数 学 選修 )を 卒業 され た後
木
も っと も有難 い存在 だ ったので はな いで しょ うか。
,
母校 の千葉県立安房第 二 高等学校 の教諭 を約 6年
卒 業間際 の学生 で 単位 の 足 りな い者 が い な いか ど
間 され て い た こと もあ り,教 育 経 験 も深 く,そ
うか と気 を配 り,あ れ ば一人一人 連絡 を とった り
の後編集 関係 の仕事 を され て い た時期 も経 て,昭
親 身 に な って学生 の面倒 をみ て こ られ ま した。 上
和 42年 9月 1日 よ り,東 大理学 部物 理 教室 に現在
田 さんのお蔭で卒 業で きる ことにな った学 生 は少
まで勤務 され ま した。 最初 の一 年 間 は,事 務補佐
な くな いで しょう。 そ うして卒業 して い った学生
員 の 身分 で あ ったが,当 時,物 理教 室主任で あ ら
も今で は社会 で立 派 に活躍 して い る者 も多 く,教
れ た久保 先生 の ご尽 力 によ り,昭 和 43年 10月 1日
育 は厳 しさだ けで はな く温か い思 いや りも必要で
よ り,文 部教 官教育 職助手 の身分 にな られ,物 理
あ ると痛 感 して い る次第です。 この よ うな教育 的
教室 の教務 ,物 理 専 攻教務 の一 切 を担 当 され ま し
な配慮 に も上 田 さんの高等学校 で の教諭 と しての
た。
経 験 が大 い に役立 って い る もの と推察 され ます。
,
特 に,大 学 院関係 の仕事 は,膨 大 な もので あ り
また会議 の 資料作 りや報 告書等 の文書作 製 の手 際
院生数約 280名 ,教 官数約 130名 部 局数 12,助 手
の良 さは,か つて編集関係 の仕事 に携 わ って お ら
約 105名 に関す る事務量 は想像 に余 りあ ります。
れ た経験 が見事 に生 か され たためか と も思 われ ま
学生 の成績 ,論 文 (修 士,博 士 ),教 材 , そ の他
す。 これ ら長年 の功績 に対 して,昭 和63年 4月 12
もろ もろの世 話。 教 官 に対 して は,講 義 ,入 試
日には,東 京大学 職員 と して表彰 され ま した。 こ
,
,
会議 ,教 官人 事等 の事務。 … … あげれ ばき りが な
のよ うに22年 以上 もの 長 い 問,物 理教 室 および物
い程 です。
理 専攻 の ため に骨身 を惜 しまず 尽 して頂 き本 当 に
これ らの仕事 をて きぱ き とこな して こ られ た上
田 さんには本 当 に頭 が さが る思 いです。 しか も責
あ りが とうござ い ま した。 教 室 を代表 して心 よ り
お礼 申 しあげます。
任感 が強 く,一 年 間 の計画 を立 てて 自発 的 に仕事
東大 を去 られ た後 もど うか くれ ぐれ も健 康 に気
を され て こ られ たので,歴 代 の主任が研 究 も続 け
をつ けて,今 後 ます ます お元気 で 充実 した新 たな
なが ら主任業 を務 め られ たので はな いか と思 いま
人生 を楽 しまれ るよ う心か らお祈 り申 しあげます。
す。 少 な くとも私 の場 合 には その思 いが強 く,感
謝 の気持 で い っぱ いです。
―- 18-―
理 学部 を去 る に当 って
加
大学 に残 って仕事 をす る夢が破 れて,東 大 の植
物 園 な ら出来 るだ ろ うとの安 易 な考えか ら勤 め始
め たのが,真 夏 の盛 りの昭和 28年 8月 10日 で した。
辺
章
夫 (植 物 園 )
御努力 で人 も増 え,設 備等 も充実 し現在 の様 にな
って来 ま した。
また,研 究室 は,植 物 分類系 の前川研 で,旧 制
当時 の 園長 は,植 物形 態学 の 小倉謙 先生 で 花 井
の大学 院生 と,新 制 の マ スターコースの方 々 が一
学 を少 しか じった程度 の私 に は大 き過 ぎ る存在 で
緒 に研 究 して お られ,埼 玉大 の学長 の竹 内先生 が
した。
当時助手 を務 め られ て 居 り,若 い我 々 は色 々 とお
まだ戦後 の残 って い た時代で,植 物学 教室で総
長 と呼 ばれ て い た高野 さんの御一家 な ど 4世 帯 が
世話 にな りま した。 また,院 生 の方 々 か らも刺激
と,分 類学 の勉 強 を させ て頂 きま した。
前 園長 のお蔭で,岩 槻研 の スタ ッ フに加 えて頂
住 んで お られ ま した。
当時 は園芸部 と呼 ばれてお り, 8名 で他 に草刈
りを主 と した臨時 の人 が 4名 程 で手作業 で したか
ら能率 も上が らず草 ぼ うぼ うの 時代で,当 園 の看
板 の分類 花壇 も形 が 出来 て来 た ところで,温 室 も
き,念 願 の 仕事 が 出来 ,形 にな った事 は 多 くの方
々の お蔭 と感 謝 して い ます。
理学部 を無事 に去 るに 当 り,皆 様 の 御健勝 と御
発展 をお祈 り します。
現在 の 半分程度 で したが,歴 代 の園長,先 生方 の
加 辺 さん と マ ツバ ギ ク科 とワイ ン
加
藤
雅
啓 (植 物 園 )
r●
加辺 さんは東 京農業大学 を卒業 され た後 ,昭 和
ろ い ろ御助言 を い ただ きま した。 加辺 さんのま じ
29年 に奉職 され て以来ず っと植物 園 のため に尽 し
めな性格 は業務以外 の い ろ い ろな面 で もあ らわれ
て こ られま した。 植物園 の戦後 史 とと もに歩 んで
ま した。 コ ンパ の時 で も, それ ほどお酒 を た しな
こ られ た ことにな ります。 長 い間教務職 員 と して
む とい うので はな いのですが,遅 くまで一緒 につ
務 めて こ られ ま したが,長 年 の 地道 な研 究活動 が
きあ って下 さい ま した。 御 自宅 の あ る栃木県 まで
認 め られ て 昨年 9月 助手 に昇任 され ま した。 同 じ
いつ も最終便 か その前 の便 に飛 びの って帰 られ ま
職場 で働 ら く者 と して大変嬉 しく思 った もので す。
したが,翌 朝 は いつ も通 りに出勤 され ま した。
加辺 さんはそれ はきま じめ な方 で した。 不 ま じ
加辺 さんは主 と して南 ア フ リカの半砂 漠 に はえ
めな私 が明 らか に それ とわか る冗談 を い って も
るマ ツバ ギ ク科 を研 究 して こ られ ま した。 この 植
いつ も本気 に な さるほ どで した。 加辺 さんは研 究
物 は乾燥 適応 の形 態 を示 し,stone plants(石 こ
部 の植物育 成 を担 当 して こ られ た ので す が,大 学
ろ草 )と 呼 ばれ る ものが あ るよ うに愛嬌 の あ る植
院生 の研 究用植物 に まで こ ころを配 られ,私 もい
物 です。 御 自宅 に専用温室 を つ くられ るほど, こ
,
-19-
の植物を愛 されています。 そ ういえば,加 辺 さん
し入れ て卓 上を賑 して下 さい ま した。 時 々 冷蔵庫
のお顔 もど ことな くその植物 に似 てい る感 じが し
の中 に置 い ておか れ るのです が, よ く一寸失敬 し
ます。最近加辺 さんはこの植物 の花粉形態 の研究
た もので す。 きっ とわか ってお られた と思 うので
をず っとして こ られました。極度 に近視の加辺 さ
す が,慈 悲深 い加辺 さんは決 して怒 るよ うな こと
んには酷 とも思えるよ うな細か い電顕 レベルのお
は されず , しば ら くして また 1瓶 黙 って補充 され
仕事をされま した。 しか し加辺さんはそれをむ し
るので した。
ろ楽 しんでお られるようで した。育成業務 の傍 ら
加辺 さん, この 3月 に退職 され るわ けです が
この研究を続けられたのですが, さぞか しい ろい
長 い間御苦 労様で した。 しか し, 4月 以後 も しば
ろ御苦労があったことで しょう。
らくは御研 究 の整理 の ため に植物 園 に顔 を出 され
マ ツバ ギク科植物がとりもつ縁だと思 いますが
,
加辺 さんは南 アフリカ産 のワインを定期的 に購 入
,
るとの こと,本 当 のお別れ はその後 とい う ことに
な ります。
されています。 コンパ の時などはいつ もそれを差
●
定 年 退 職 に 際 して
小
終戦後,身 体 を こわ して遊 んで い た処 ,知 人 に
鹿 児島県 内之浦 での飛翔実験初期 の頃 も, この
様 な賃金支給 形 態が続 い た。
図書館 ,理 学部 附属植物 園 と東 京大学 の構成 員 と
して44年 過 ご して しま い ま した。
博 (植 物 園)
た為 ,大 変苦労 した。
誘 われ,西 千 葉 に所在 した第二工学 部 に就職 ,生
産 技術研究所,経 理 部,環 境安全 セ ンター,附 属
川
学 内共 同教育研 究施設 で あ る,環 境安 全 セ ンタ
ーに勤務 中 は,稲 本 直樹 先生 ,奈 良坂紘一 先生 お
顧 み ます と,種 々思 い 出 もあ りますが ,秋 田県
よび中 田賢 次 さん に種 々 ご指導 い ただ い た。 特 に
道川海 岸 に おけ る観 測用 ロケ ッ ト飛翔 実験 に出張
中 田技官 には実 験廃 棄物 の管理 ,廃 蛍光灯 等・ 含
した時 の こ と,当 時 は,実 験 主任 を始 め,多 くの
水銀廃棄物 回収 の取 ま とめ な ど,学 部 内 の環境保
研 究者・ 技術者 (ロ ケ ッ ト班 ,計 測班等 )は 秋 田
全 ,総 てに亘 って ご協力 を頂 きま した。 セ ンター
市 内 に宿泊 し,少 数 の総 務担 当が現地泊で した。
ロケ ッ トが雲 の彼 方 に消 え,実 験 が 終了す る と
,
000Bと
して, この誌 上 を お借 りして改 めてお
礼 申 しあ げます。
研 究者等 は,持 参 した観測器具 を コ ンテナ ー など
附属 図書 館で の 4年 次 に亘 る館 内改修 に際 して
に収納 し,帰 京 の準備 に取 りかか るが,総 務班 の
は,床・ 壁・ 天丼・ 外壁等 ,改 修 が総 て にわ た っ
業務 は,数 十名 の アル バ イ ト学生・ 地 元青年 団員
たため,施 工 業者 の工程 表 に基 づ き,工 事 個所 が
等 に「賃金 」 を支払 わなけれ は
帰 る事 が許 され
管理部門であれは 業務に支障の無い様に,机・
ず,実 験班 員が傭 上 げたバ ス等で,夕 刻 ,秋 田市
ロ ッカ ーの移動・ 内線電 話 の移設 な ど, また,閲
内へ 出発 したあ と, 出勤表 を点検 し,徹 夜で給 与
覧室等共 用部 分 で あれ ば,臨 時閲覧場 所 の設定
計算 ,翌 日,眠 い 目を擦 りなが ら秋 田市 内 の銀行
閲覧机・ 書 架・ 蔵 書 の移動等 ,そ の都度,担 当課
で現金 化,午 後 に は実験 補助者 に支払 う, と云 う
長 (総 務・ 整理・ 閲覧 )な ど と協議 し,閲 覧 サ ー
現在 の様 な給 与 の 回座振 込制度 の無 い時代で あ っ
ビスに支 障 の無 い様 に努 め,改 修個 所 に よ っては
,
,
20-―
●
3カ 月程 閉室 す る事 もあ ったが,幸 に利用者 か ら
経過 し,鉄 骨 も部 分的 に腐蝕 が 目立 ち,硝 子 は劣
は,埃・ 騒音・ 閲覧席 の狭随等 に関 しての苦情 は
化 してお り,風 の強 い 日には一 部落下 し,破 片 が
少 なか った。
周 囲 に飛散 した事 もあ り,入 園者 に被害 を及ぼ さ
利用者 に対 す る,掲 示 な どに よ る事前 の周知徹
底 も一 因だが,施 設部担 当者 の工 期 短縮 な ど,利
用者 サ ー ビスに ご理 解 い ただ い た結果が 大 い に作
なか ったか ら良 か ったが,部 分的 に補修 を して何
とか維持 して い ます。
園 内整備 につ い ては,理 学部 0経 理 部・ 施設部
の関係 の方 々 の ご理 解 を頂 いてお ります が,従 来
用 した と,感 謝 して い る。
最後 にな りま したが,附 属 植物 園 は 2年 間 とい
う短 い期間 で したが,16ヘ ク タール余 とい う敷 地
に も増 して ご援助 を賜 ります様,去 り行 く者 か ら
改 め てお願 い 申 しあ げます。
を有 し,都 心 には珍 らしい静 かな環境 の 中で,毎
残 す処, 2カ 月で東京大学 と もお号1れ す るので
日緑 を眺 めて勤務 す る こ とが出来 たの は,大 変 な
すが,振 り返 って 見 ます と,只 ,馬 齢 を重 ね ただ
仕合 わせで した。
けで,今 日あ るは, それぞれ の部 局で お世 話 に な
ただ,残 念 な ことには,植 物 の育成・ 管 理 に当
る技官 が定年 な ど によ り,年 々減 って お り,樹 木
の剪定・ 下草刈 な ど園 内 の手 入れ も充 分 とは言 え
な いの が現状 で す。
った 多 くの先輩・ 同僚 の方 々の 暖か い ご指導・ ご
支援 の賜 と,心 か ら御礼 申 しあげます。
最 後 に,理 学部・ 植物 園 の皆様 の ご健 勝 と一 層
の ご発展 をお祈 り申 しあげます。
また,大 温室 も昭和39年 に改築 してか ら25年 を
小 川 博 さ ん を 送 る
岩
植物 園事務主任 の小川博 さんが定年退官 され る。
図書館 か ら転 じて来 られ て 2年 , は じめ か ら分か
って い た ことで はあ る ものの,終 ってみれ ば ア ッ
槻
邦
男 (植 物 園)
客 も多 く, その度 に主任が対応を求 め られる こと
になる。
小川 さん も,学 内のい ろい ろな部局 に在任 され
たあとで植物園 に着任 されたのであるが,東 京大
とい う間 の ことだ ったよ うな気 もす る。
植物園 の主任 をや って下 さる方 は,本 部 に居 ら
学で最後 の職場 としては,予 想外 に多様な仕事 の
れ た ことが あ って何 か の形 で植物 園 の ことに関与
内容 に吃驚 されたことだろう。 しか し,私 共 の前
され た ことが あ るよ うで あ る。 しか し,実 際主任
では愚痴め ぃたことは何 も仰言 らず に,む しろ楽
と して着任 され ると,事 前 に話 を聞 い てお られ て
し気 に一 つ一 つの難問を解決 してい って下 さった。
も,当 惑 され る ことばか りの よ うであ る。 恵 まれ
危険な個所ができた ら, その度 ごとに営繕の費用
た場 所 にあ り,世 の中 に も知 られ た一般公 開 の施
も獲得 して来て下 さり,お かげで,入 園者 に事故
設 で あ るとい うの に,研 究教育 や系統保存 な どの
が生 じることはなか った。
事業 に は積極 的 で成 果 は上が って い るとは い うも
ノ
lЧ IIさ んと一緒 に仕事をさせていただいて い る
のの,社 会 教育 に関 わ る部 分 は,小 石川植物園後
と,何 とな く平静心を与え られて しまう。私 など
援会 の よ うな事務主任 の権限外 の団体 の援助 に頼
欲張 りなせ いか,焦
らい らす ることが始終である
るだ け とい う状況で あ る。 一方 また,国 内外 の来
が,小 川 さんと話 してい るうちに,何 とな く納得
-21-
,
して,や れ る範囲でで きるだ けの ことを してみ よ
庭 の ことがわか り,良 い親 父 さんの雰 囲気 が伝 わ
うとい う気 にな って しま う。 それで い て,小 川 さ
って くる。 植物 園 の 2年 の間 には,人 のや り くり
んは い ろんな問題 を片付 けて下 さる, とい う次第
が つ か な くて門 の業務 の ため に 日曜出勤 され た こ
で あ る。 ア ッとい う間 と形 容 した 2年 間 に,懸 案
とも度 々 だ った。 なか には,無 理 な 日もあ っただ
とな って い た幾 つ か の難 問を,小 川 さんは片付 け
ろ うと思 うが,い つで も `い いです よ,私 が 出て
て下 さった。 それで いて,何 で もなか ったよ うな
来 ますか ら ', と引き受 けて下 さった。
表情 で,定 年 の 日を迎え よ うと してお られ る。
定年 とい って も,今 の 日本人 と してはまだ まだ
勤務 を離れての小川 さんはまた人 間味豊かな方
若 い年 令で あ る し,実 際小川 さんは健康 に も恵 ま
であ る。 酒 を愛 し,飲 む ほどに愉快 に話が弾 んで
れ てお られ る。 今後 もお元気 で 御活躍 され る こと
くる。 また, たまたま帰 り途で一 緒 に な った時 な
を祈念 し,植 物 園 の た めに大 きな貢 献 を して下 さ
ど,御 家族 の こ とな ど話 され る度 に,温 か い御家
った こ とにお礼 を 申 し上 げた い。
0,
小 松 崎 久 さ ん を送 る
玉
地球物理研 究施設 で は,此 の度柿 岡観測所勤務
尾
孜 (地 球物理研究施設)
接 し好感 を持 たれ た ことで しょう。 最 近で は,施
の小松崎久技 官が定年退職 され る こ とに な りま し
設研 究者 が主導 す る海 外 多点地上観測 の度 毎 に
た。 小松 崎 さんは,
観 測機器 の部品整備 や梱包 等 の事前準 備 も分担 さ
5年 間 の非常 勤職 員 と しての
期間を含 め ます と昭和40年 以来25年 間 にわ た り45
,
れ てきま した。
万平方米 に及 ぶ柿 岡観測所 の環境保 守 の任務 を担
当 され て来 ま した。 そ の構 内は,富 士 山
じや
(お 、
定員削減事情 の厳 しい状態で は更 に続 けてお仕
152mの 丘陵 の頂
事 をお願 いす ること も不可能で あ り, 4月 以降は
柿 岡 に出か けて も小松崎 さんか ら地元 のお話 をお
上か ら煩 の生 息 す る湿地 も含 む広大 な 自然環境 を
聞 きす る機会 もな くなる と思 うと残 念 でな りませ
形成 してお ります。 同観測所 で は,施 設研究者 に
ん。 今 に な ります と,兎 は勿論,豚 コ レラの流行
よ る地磁気 ,大 気環 境 モ ニ ター観 測や 自然電波・
以前 は野生 の猪 までが観 測所構 内 に出没 した時期
大気 光 の研 究観 源1と 共 に,学 内外研 究者 に よ る重
もあ った ことを同 ったの も懐 か しい思 い 出 とな り
力・ 地電流測定 ,機 器 の検定等が実施 され て きま
ます。柿 岡 の周 辺 も自然環境破壊 が進み始 め,当
した。 此 の間,小 松 崎 さん は建 物 内 の整 理 を始 め
観 測所 と隣接 の気 象庁地磁気観測所が孤 塁 を守 る
宿泊 して観測 す る人 々の便宜 を図 るお世話 も担 当
感 とな りつつ あ る現状です が, これ まで の ご苦労
され ま した。 観測所 を使用 され た方 々 は,研 究施
に 改めて御礼 申 し上 げ ると共 に今後 も時 々 はお立
設 内外 を問わず小松 崎 さんの温厚朴訥 のお人柄 に
ち寄 り頂 け る ことを期待 してお ります。
ま と読み ます )と 呼 ばれ る海抜
,
一-22-―
西島和彦先生が 日本学士院会員に選ばれたことを祝 して
猪
木
慶
治 (物 理学教室 )
って いてその和 が強 い相互作 用や電磁相互作用 で
は保 存 され る とい う考 えを提 唱 され ま した。 これ
は現在 で は西 島―
Gell―
M ann ruleと 呼 ばれて い
て,続 々 と発 見 され た数 多 くの 素粒子 の 分類 に大
きな役 目を果 た したのみ で な く
SU(3)対 称性
,
クオ ー ク模 型へ の発展 の基礎 をつ くられ,学 士院
賞 をは じめ 多 くの賞 を受 け られ てお ります。 また
Lee―
Yangに よ ってパ リティ非保 存 が発 見 され た
頃,Konopinski_M
ahmoudに よ る もの とLee―
理 学部 名誉教授 の西 島和彦先生 が この度 , 日本
Yangに よるもの との二 種類 の レプ トン数保存則が
学士 院会 員 に選 ばれ ま した。 素 粒子 理 論 の分野 で
知 られ て い て, どち らが正 しいの かが問題 とな っ
は,湯 川 ,朝 永両 博士以来久方 ぶ りの ことで理 学
て い ま したが先生 は両方 とも正 しい とす る とど う
部 に とって も大変 喜ば し く心か らお祝 い 中上げ ま
い う結果 に な るか調 べ られ,二 種類 の ニ ュー トリ
す。
ノが 存在 す る とい う仮定 の もとに,電 子 族 数 の保
西 島先生 は昭和 23年東 京大学 理学 部物 理 学科 を
存 則 とμ中間子族数 の保 存 則 とい う二 世 代 に関す
御卒業 にな り,そ の後,大 阪市 立大学助教授,米 国
る別 々 の保存 則 に書 き換 え られ る ことを導 かれ ま
イ リノ イ大学教授 を経 て,昭 和 41年 ,本 学理学部
した。 また先生 は,場 の理 論 に特 有な発 散がで て
物 理学 教 室 の教 授 に就 任 され,理 学部 長,総 長特
こな い よ うな理論形式 を分散理論 を つ か って定 式
別補佐 な ど も務 め られ,昭 和 61年 4月 か らは京都
化す るとい う大 きな試 み を20年 以上 にわ た って精
大学基礎物理学研究所所長 と して専念 され ま した。
力的 に続 け られ ま した。 またクオ ー クの閉 じ込 め
先生 は素 粒子論 ,場 の理 論 の分野で先駆 的i独
が起 こるための条件 を決定 し, この条件 が満 た さ
創 的 な御研 究を数 多 く行 な って こ られ ま したが
,
れ るか ど うか現在 な お熱意 を もや して お られ ます。
中 で もス トレンジネスの導 入のお仕事 は特 に有 名
京都 に移 られ てか らは京都 大学 基礎物理学研 究
です。 1947年 に宇宙線 の 実験 で V字 形 の飛跡 を も
所 と広 島大学 理 論物 理 学研究所 の 合併 とい う難事
つ V粒 子が見 つ け られ 1953年 に は ブル ックヘ ブ ン
業 を見事 にぉ果 た しに な り平成 二年 度予算成立 の
の新 しい 加速器 コスモ トロ ンで も確認 され ま した。
日か ら新研 究所発 足 の運 び とな ってお ります。
この V粒 子 は, きわ めて 短 い時間 につ くられ,い
ったん 出来 て しま うと平均寿命 が大変長 い とい う
先生 が これか らも健康 に留意 され,一 層 ご活躍
な さることをお祈 り致 します。
奇妙 な性 質 を も って い ま した。 これ らを説明す る
ため に中野博士 の協力 を得 て,全 ての素 粒子 は電
荷 とバ イォ リ ン数 の他 に もう一 つの新 しい量子数
(同 氏 は ηチ ャー ジと名付 け,独 立 に仕 事 を した
Gell―
Mamは
ス トレン ジネ ス と名付 けた)を も
―-23-―
理 学 部 研 究 ニ ュー ス
謬 日本植物学 会奨励 賞受賞
―サ ー法 を駆 使 した不均一触媒反 応機 構 の研 究 の
附属植物 園 の 邑田仁助手 の「 テ ンナ ンシ ョウ属
結果 ,酸 化物 に担持 したⅧ族金属 微粒子 の界面 に
(サ トイモ科 )の 分類学 的研究 」 に対 して, 日本
アル カ リ金属 イオ ンを隣接 させた表 面構造が オ レ
植物学会奨 励賞 が授与 され た。 テ ンナ ンシ ョウ属
フィンの ヒ ドロホル ミル化反応 の 活性や選択性 の
は個 体 の 大 きさ に よ って性 が 可逆 的 に変化 し,性
向上 に非常 に有効 な事 が見 い出 され た。
転換 に ともな って形 態 も変化す る。 邑田助手 は分
式・ 12月 4日 (分 光 セ ンター)
類形 質 の変異 を性 と関係づ けて正確 に把握 し,従
来混乱 して い た本属 の種 の 分類 を整理 した。 また
これ まで十 分 な観 察 が行 なわれて こなか った地 下
茎 の形 態等 につ い て広範 な比較研 究 を行 な い, テ
ンナ ンシ ョウ属 を11節 に分類す る新 しい分類 系 を
提 唱 した。
蒻
9月
(植 物園)
内藤周
艤 不規則 多 電子 系 の物 理
半導体 の金属・ 非金属 転移 は,電 子相 関 と不規
貝1性 が絡 み合 う典型 的 な現 象 の一 つ と して注 目さ
れ て い るが,我 々 は長年 ,金 属・ 非金属転 移 直前
の 低濃度側 (ア ンダ ー ソ ン局在領 域 )に おいて不
規 則電 子状 態 へ の電 子間相互作用 の効果 を取 り入
れ る一 つ の理 論 的方法論 を発展 させ て きた。 この
HH天 体 の新 しい理 論
藤堂 (院 生 )は 内田の指導 の もとに星形成領域
の正体 不明 の 天体,HH天 体 (地 球 の数百倍程 の質
量で 内部 に熱 源 を持 たな い の に発 光 しつつ数百 km
/秒 と い う高速度 で星 か ら飛 び去 りつつ あ る コ ン
パ ク トなガ ス雲 )に 新 しい解釈 を与 えた こ に
。 れ
よ る と,HH天 体 とは,形 成 中 の星か らの光学 的 ジ
ェ ッ トが (途 中 は膨 張等 によ り見えて い な いが )
星の形成過程 で 東 ね られ た星間磁 場 によ リガイ ド
され,衝 撃波 によ り星間雲 を掃 き集 め, それ を加
速, 加熱 して い る もので あ る。 この磁場 に導 かれ
た ジェットのモ デル の証拠 として,曲 が りくね った
フ ィ ラメ ン ト状 HH天 体 (H H12等 )が ,新 生 星
の 回転 によ り集積 した磁 場 の捻 れか光学 的 ジェ ッ
トの入射 に よ る電磁 流体 不安定 に よって ヘ リカル
研 究 に関 して1985年 1月 に英国 オ ック ス フ ォー ド
大学 出版社 よ り International Series of Monogr―
aphs on Physicsの 一 巻 と して 出版 したい 旨の執
筆依頼 があ り,量 子 ホール効 果 に代表 され る 2次
元不規 則電子系 も含 めて,大 学院生 ,研 究者 向け
の教科書 と して執筆 してきたが, この程 この シ リ
ーズの第76冊 目 と して出版 された。 なお この シ リ
ーズ には M
Ott―
M assayの 原子衝突理論,Tolman
の宇宙論,Heiuerの 輻射 場 の理 論,Diracの 量子
力学 ,Peierisの 団体 の量 子論,MOtt_Davisの 非
品質物 質 中 の電子過程 等 の よ く知 られ た教科書が
あ る。
上村洸 ,青 木秀 夫,1989年 12月 (中 間子
,
物理)
レ 原始 太陽系星雲 の超微粒 子 と凝集 体
形状 に変形 した もの と して説 明出来 る ことを 3次
アイエ ンデ 炭素質隕 石 の最小 の結晶粒子 とその
元電磁 流体 シ ミュ レー シ ョ ンと観測 との比較 に よ
凝集体 を超 高分解能電子顕微鏡 を用 い てサ ー ベ イ
り示 した。 これ は星 形成 にお い て磁場 が重 要 な役
割 を果 た して い るとい う内田達 の説 に もうひ とつ
5 nmを ピー クとす る対数正規型 の粒径 分布
か ら10nm∼ 10umに か け てのべ き分布が 明 らか
の証拠 を与 え る。
にされ た。 超微粒子 はわ ずか に焼結 した凝 集体 を
11月
(天 文 )
し,
作 り,原 始太陽系星雲 の DLA型 の 凝集体 の存在
艤 高選 択触媒 の表面構造 の解 明
を示 して い る (Earth Planet.Sci.Lett.,92,265
当 セ ンターにおけ る種 々 の分光法や同位体 トレ
(1989))
―- 24-一
鳥海光弘 (地 質 )。
鮨
拶 地 球磁気圏 内 の不安定磁気流体 波 の研究
蒻 第 6回 井上学術賞受賞
地球 半径 の数倍以遠 の地球 を取 り囲む磁化 プ ラ
この たび第 6回 井上学 術賞 を永嶺謙 忠教授 が授
ズマ領 域 (外 部磁気 圏や磁 気圏尾 と称 され る)で
賞 した。 永嶺 教授 は,高 エ ネル ギ ー研 究所 の加速
は,エ ネル ギ ーが 数 10 bv程 度 の高 エネル ギ ー粒
器 で得 られ るパ ル ス状 ミュオ ンを用 い た ミュオ ン
子が卓越 し,人 工衛星 によ る直接 測定で種 々の興
科学 の研究 を世界 に先駆 けて行 い, ミュオ ン・ ス
味 あ る粒子 フ ラック スや磁場 の変動が観測 され て
ピン緩和及 び共 鳴,熱 エ ネル ギ ー・ ミュオ ニ ウム
い る。 此 の様 な高 ベ ーター プ ラズ マ領域 内で ,両
ミュオ ン触媒核 融合 の研究で大 きな成果 を挙 げ て
,
者 が反位相 を示す反磁性波動 の励起機構 に関 して
きた。 今回 の授賞 は その業績 が高 く評価 され た も
磁気 流体 波 の結 合不安定 や バ ル ー ニ ング不安定 の
ので あ る。
,
2月
2日 (中 間子 )
固有値解析 と数値 モデ リングを行 い, そ の結果赤
道面付近 に局在化 して発生 す る反磁性 ドリフ ト波
レ 非常識 な惑 星 リング粒 子
が有力候補 で あ る ことを示 した。
CII
常識 的 な推論 を立 てなが ら研 究 を進 め る ことは
,
Planetary and Space Science,vol.37,567-77,
1989., Planetary and Space Science,vol。
研究 の常套 で あ る。 自然 が常識 の裏 をか くことは
しば しばあ り,裏 をかかれ ることは研究 の醍醐 味
37,
579-88, 1989., 」ournal of Geophysical Rese―
arch, v01。
94, 15, 231--242, 1989.
で あ る。 土星 の 見事 な リングを つ くって い る もの
は,実 は氷や岩 石 か らな る粒子 で あ るが, これ ら
三浦・ 大谷・ 玉尾 (地 物研 )
の粒 子 は互 い に衝突す ると当然非弾性衝突 にな る。
非弾性衝突 をお こす と常識 で は ランダ ム速度 は減
レ 日震学,星 震学の王子セミナー
0
少す る。 しか しこの常識 は リング粒子 には当て は
昨年 12月 11日 ∼ 14日 ,「 振動 を使 った太陽及 び
ま らな い: リング粒子 は非弾性衝突 で ラ ンダム速
恒 星 の 内部構造 の研究 」 とい うテ ーマで,箱 根 プ
度 を大 き くす る ことがで き る。 勿論,粒 子 自体 に
リンス ホテル において王子 セ ミナ ーを開催 した。
仕掛 けがあ る訳 で はな い。 この ことは私 の研 究 グ
王子 セ ミナ ーは 日本学 術振興会 及び藤原科学財 団
ル ー プの大学 院生 大規圭 史君が博士論 文で明 らか
の後援 に よる国 際 セ ミナー。 今 回 の参 加者 は 日本
に した ことで あ る。 同様 な例 が他 に もあ る。 よ く
を含 めて 16カ 国,国 外44名 ,国 内 16名 と文字 通 り
知 られ て い る こ とだが, お星 様 は外界 に エ ネル ギ
の国際会 議 とな った。 日震学 ,星 震学 は太 陽や恒
ー を放 出す ればす る程 内部 の温度 が上が る。
星 の固有振動 を観測 して,太 陽及 び恒 星 の 内部 を
川義 次・ 2月 6日 (地 球物 理 )
中
探 る研究で あ る。 現在,太 陽で は周 期 5分 近傍 に
何千,何 万個 の 固有振動 が観 測 されてお り, これ
レ 第 6回 TRON ProleCt lnternation Symposium
1989年 12月 5日 , 6日 の両 日,TRON協 会主催
を使 って 太陽 の 内部 構造 の詳細 を調 べ る ことが可
能 に な って い る。
4日 間 にわ た るセ ミナーで は,総 合講演 9件
によ る第 6回 TRON ProieCt lnternational Sym―
,
posiumが キ ャ ピタル東急 ホテ ルに お い て開催 さ
一般講演50件 , ポ ス ター発 表 6件 と活況 を呈 し
れ た。 今 回 の シ ンポ ジウムに は国 内外 か ら約 520
参 加者 の ほ とん ど全 員が各 自の発 表 を行 い,お 互
名 の参 加者 が あ り,論 文発 表,チ ュー トリアル
いの研 究 につ い て理 解 を深 め る ことがで きた。 成
機器 の展 示 な ど に よ って,最 新 の TRON ProieCt
果 の今後 へ の期待 も大 き い。 主催者尾 崎洋二・ 柴
の成果 が報告 され た。
橋博 資 。 1月 5日 (天 文 )
月 7日 (情 報科学 )
,
,
―-25-―
坂村
健 。高 田広 章
2
勒 演算子 法 の新 しい基礎 づ け
蒻 メダ カの組 織適 合性
これ まで,魚 類 MHC(主 要 組織 適合遺伝子複
前世紀末 ヘ ヴィサ イ ドの導 入 した演算子法 は
,
今 日 も微分方程式 の簡便 な解 法 と して工学 者等 に
″
愛 用 され て い る。 ヘ ヴィサ イ ド自身 の `
証明 は
合体 )に つ い ては ほとんど分 って い なか ったが
納得 し難 い もので あ ったが, その後 多 くの数学者
の 移植片急性拒絶 に関わ る遺伝 子座 は比 較 的少数
の努 力 によ リラプ ラス変換 を用 い る最初 の正 当化
で あ り, その うち 1つ の 遺伝 子座 は特 に急速 な拒
が な され た。 この方 法 にはデ ータ とな る関数が指
絶
数型 の評価 を満 さな けれ ばな らな い とい う制約が
次 に,近 交系特異 的 な単 ク ロー ン抗体 を作製 した
あ り, これを不満 と して1950年 ミク シ ンスキー は
ところ,抗 体 の結合性 と RARの 出現 が連動 した。
全 く異 な る新 しい基礎 づ けを与 えた。 しか し,代
また, この抗体 の認識す る抗原 は哺乳類 の MHC
償 と して演算子 の意 味 は判 りに くくな った。 最 近
)
,
メダカ近交系を用 い た遺伝 学的解析 か ら,メ ダカ
(RAR)を 支 配 して い るもの と推定 され た。
ク ラス Ⅱ抗原 とよ く似 た分布 を示 した ことか ら
,
われわれ は ラプ ラス変換 の定義 を佐藤超 関数 に ま
メダカの MHCク
で 拡張す る ことによ り, どち らの欠点 ももたな い
尚,研 究 の一部 は ImmunOgenetics誌 (1989)に
第 二の正 当化 を与 え る ことに成功 した。 即 ち,勝
公表 した。
ラス Ⅱ抗原で あ る可能性 が高 い。
松崎貴・ 嶋昭紘
2月
(動 物 )
手 な増 大度 を もつ 関数 も,指 数型正則関数 の境界
値 と して表 わす ことはで き, この正 則関数 を用 い
勒 初期宇 宙 を実験 室で作 る一高 エ ネルギ ー重 イ オ
て ラプ ラス変換 が 自然 に定義 で き る。 この方法 は
ン衝突型加速器 RHIC
バ ナ ッハ 空 間 の線型作 用素 を係数 とす る微 分方程
か ねて米 国 ブル ックヘ ブ ン国立研究所 に建設 が
式 を解 くに も有用で あ る。
計画 されて い た高 エ ネル ギ ー重 イオ ン衝 突型加速
小松彦 三郎・ 2月
(数 学)
器
RHICが 予算化 され,1997年 の完成 を目指 して
計 画が動 きだす見通 しとな った。
蒻 rasの 活性化因子
R HICは 24 TeVに 加速 した ウラン原子核 ど う し
真核 微生物 の酵母 に も rasが ん遺伝 子 が存在 す
を正面衝突 させ る加速器 で , ビッグバ ン直後 に近
る。 サ ッカ ロ ミセ ス酵母 にお け る ras研 究 の一 端
を植物 。東 江教授 が本広報21巻 3号 に紹介 され た
い高 温状態 (核 子 内 の ク ォー クとグル ーオ ンが融
が, この酵母 と,我 々が 材料 とす る分裂酵母 は
こ とを 目指 して い る。
,
け出 してプ ラズ マ状 にな った状態)を 地上 で作 る
一 見類似 の微生物で あ りなが ら,進 化 の上で は驚
現在 , 早野研究室 を中心 に RHICに 参 加す る 日
くほ ど隔 って い る。 rasの 機能 はサ ッカ ロ ミセ ス
本 チ ー ムの組織 ,及 び実験 計 画 の立案 が進め られ
酵母 で は綱胞 の増殖 に必須で あ り,分 裂酵母で は
て い る。
早野龍 五 (物 理 )
有性生殖 の制 御 に関 わ って い る。 我 々 は最近 分裂
酵母で rasを 活性化す る因子 の遺伝子 を同定 した
が,見 か け上 の rasの 生理機能 の 差異 に も拘 らず
勒 海 水中 の希土類 元素 の迅速精密分 析
海 水中 には一 兆分 の 1程 度 の希 土類元素 が含 ま
,
その産 物 はサ ッカ ロ ミセ ス酵母 の 活性 化因子 と C
れ て い る。 希土類元 素 グル ープ に属す る これ らの
端側 ν3で よ く似 た タ ンパ ク質で あ った。 二 つの
元素 を個 別 に定量 して得 られ る情 報 は,海 洋 の 中
酵母 に共通 な遺伝 子 は動物細胞 に も保存 されて い
で の物質循 環や酸化状 態 を知 る上で 重要で あ る。
るのが通例で あ り, ヒ トにお け る同一 活性化 因子
私 の研究室 では,ICP質 量分析計 と有 機溶 媒 に よ
の探 索が次 の研究 目標 とな って い る。 この研究 の
る自動抽 出法を巧 み に組 合 せて,上 記 の 目的 を達
詳細 は近 々 Nature誌 に公表 され る。
成 す る ことに成 功 した。 しか も, その定量 に要す
・ 2月 (生 化)
山本 正幸
る海水 の量 は,僅 か 100 mlで あ る。この成 功 の基
―-26 -―
礎 には,当 研究室で育 まれ確立 され た,表 面電離
統 (鉱 物)
型質量分析 計を用 い る安 定 同位体希釈 法 に よ る定
勒 オ マ ー ンにてオ フ ィオ ライ トシ ンポ ジウム (1
量法 の長年 にわ たる経 験 の蓄積が あ る。 両定量法
は, それ ぞれ に特長 が あ るが,単 核種 元素 も測定
/7∼ 1/18)開 催 され る
で き る点 が新 しい方法 の強 みで あ る。 両者 の併 用
世界最大 の海洋底 断面 (オ フィオ ライ ト)が 地
には,今 の所,特 に問題 はな い よ うに思 われ るが
更 に検討 を進 め た い。
,
表 に露 出 して い るオ マ ー ンで, 8日 間 の 野外巡 検
,
と 4日 間 の主 にォ マ ー ンオ フィオ ライ トに関す る
増 田彰正 (化 学 )
シ ンポ ジウムが行 われ た。 総延長 500 kmの 上部 マ
ン トルおよび下部地殻 の海 洋地殻形 成 に関 わ る流
レ 日本海 での深海 掘 削
日本海 は典型 的 な背弧 海盆 とされ て い るが, そ
動 パ ター ンが明確 にな りつつ あ る こ とが最大 の話
の形成,進 化 の歴 史 につ い ては十 分 に明 らか には
題で あ った。 小沢 は,島 弧 上部 マ ン トルで の 大規
な って い な い。 国際深海掘 削計画 の第 127次 ,128
模 なメ ル ト分離 の実態 を紹介 した。
次航海 で は, この 日本海 の起源 を探 る ことを主要
小沢 一仁
(地 質 )
な 目的 と して,1989年 6月 か ら10月 の期間 に, 6
地点で深海掘 削 を行 い, 日本海 において初 めて音
レ ブータンヒマラヤの植生を規定する気候・地形
響基 盤 に達す るまで の岩 石が採集 され た。 採集試
(海 外学術調査 )
料 は掘削 船 (ジ ョイデ ス リブル ー シ ョ ン号 )上 で
東 ∼南 ア ジアの植生構造 を考 え る上で, ブー タ
150m程 度
ンヒマ ラヤは非 常 に重要 な位 置 を 占めて い る。 今
各種 の測 定が行 なわれ たが,特 に上部
の長 さの ピス トンコア試料 の解析 は,最 近 100万
回 (1989年 9∼ 12月
)こ の地域 にお け る植生構造
年程度 の期間 の海水面 ,温 度 ,磁 場 変動等 の環境
・ 動態 を規定 して い る環境要因 を明 らか にす るた
変化 につ い て,精 度 が高 く,均 一 なデ ー タを提供
め,気 候 (担 当・ 江 □)と 地形 (担 当・ 高 田 )の
す る もので あ る。 また,掘 削孔 を利用 して, 日本
調査 を行 った。 湿 った東部 ヒマ ラヤ に属 す るブー
海下 の地震 波速度構造 ,電 磁気構造 を調 べ るため
タ ンの中流部 には,谷 底 に乾性植生 の 出現す る乾
の新 しい地球物理的 な実験 を行 な う ことに成功 し
燥 谷が特徴 的 に分布す る。 この 乾燥谷 の成因 と し
た。
浜野洋 三 (地 球物 理 )
て は, ただ単 に降水量 が少 な い だけで はな く,冬
季 の 強風 (谷 風)が 重要 な役 割 を果 た して い る こ
南鉱物標本
1920∼ 1960年 にか けて 収集 され,殆 ど外 国産
岩 類 の 分布す る地域 で は,層 理 面す べ りを主 とす
・ 美晶 の 4,423点 に及 ぶ鉱物 標本 で,研 究・ 教育
る地す べ りが卓越 し, これが谷壁斜面 の傾斜 の違
に資す る目的で調査・ 整理 ,標 本 リス トの作成 を
い を生 み 出 し,植 物 分布 の違 い に も影響 して い る
一応 完 了 した。 この 中 に は現在 で は収集 のむづか
場 合が あ る 準 とがわか つたo(千 葉 大学 大沢雅彦
しい硫塩鉱物 がか な り含 まれてお り,調 査・ 整理
助教授 (研 究代表者 )ほ か 3名 との共 同調査 )江
と同時 に これ ら鉱物 に特徴 的 に見 られ る変調構造
口
レR
iester―
とが明 らか にな った。 また,弱 変成 を受 けた堆 積
卓・ 高 田将志 (地 理 )
の研 究 を行 な って い る。 変調 の タ イプの変化が化
学組成 の変動 と敏 感 に関係す る場 合が多 い こ とは
この種 の鉱物 の場 合 に も当 て はま り,現 在 , この
種 の鉱物 の微小部 分化学 組成決定上 の 問題点 を解
決 すべ く努力 して い る。
田
小澤
徹 (鉱 物 )・ 歌
実 (資 料館 )・ 清水正 明 (資 料館 )・ 立川
「理学部研 究 ニ ュース」欄 に掲載 の それぞれ の
ニ ュー スの詳細 につ いて は,年 次報 告等 に紹介 さ
れ てお ります ので,該 当 の教室・ 施設 (ニ ュー ス
末尾 の
―-27-―
( )内 )に 連絡 して下 さい。
TIIIIII
≪ 学部消息≫
教
授
2年
(水 )定 例 教 授 会
元 年 12月 20日
2月 21日 (水 )定 例 教 授 会
理 学部 4号 館 1320号 室
議題
(D
理 学部 化 学 本館
(21
人事異動等報告
(3)奨
学寄附金 の受入れ について
14)学 部学生 の転学部 (転 入 0転 出)に ついて
平成 2年 度公立大学研修 員の受入れ につい
o
奨学寄附金 の受入れについて
ほ)平 成 2年 度 内地研究員の受入れ について
15)人 事委 員会幸田告
G)教 務委 員会報告
て
17)教
ついて
事委員会報告
ヽ フ
16)人
(7)東 京大学理学部規則「別表」の一部改正 に
務委 員会報告
格)会 計委 員会報 告
18)企 画委 員会報告
(9
191 理学 院計画委 員会報告
aO
5階 講堂
議題 に)前 回議事録承認
前回議事録承認
12)人 事異動等報告
0
モ
メ
会
企画委 員会報告
lo
その他
理学院計 画委 員会 報告
〔〕 評議員の選 出について
2年 1月 17日
Ca
lo分
lo
t,
(水 )定 例 教 授 会
理 学 部 化 学 本 館 5階 講 堂
議題
(D
前回議事録承認
12)人 事異動等報告
臨海実験所長の選 出について
光化学 セ ンター長 の選出について
地殻化学実験施設長 の選 出について
企画委員会委 員の選出について
G)奨 学寄附金 の受入れ について
は
o 人事委 員会及 び会計委員会委員の半数改選
(4)人 事委 員会報告
D
について
uつ
企画委 員会報告
その他
(61 理学院計画委員会報告
17)理 学部長候補者 の選出について
18)そ の他
Ol
人 事 異 動 報 告
所
属
官
職
氏
名
発令年 月日
異動内容
元。 12
備
(講 師 以上 )
数
学
教
″
動
授
″
配 置 換
京都大教授へ
隆
併
任
平.2.3.31ま で
守
隆 夫
″
昇
任
講師よ り
高 橋
孝 行
〃
伊 原
康
康
隆
物
助
教 授
生物 化学
講
師
化
助
教 授
濱
口 宏
夫
″
松
本
良
学
地
質
物
理
講
師
1
″
伊 原
清
水
清
孝
〃
元 .1231辞
2.116昇
2.2 1
-28-―
助手より
(留 学生担当教官)
職
任
″
講自
雨より
助手よ り
考
所 属
官
職
氏
発令年 月日
異動内容
元 .12.
名
備
考
手)
(助
物
植
助
手
津
田 雅
孝
1
昇
任
山口大講師ヘ
〃
転
任
熊本大助手より
学
″
日 高
洋
中 間 子
″
門 野
良 典
元 .12.14
復
職
地 球 物理
″
栗
田
敬
元 .12.16
昇
任
中 間 子
〃
門 野
良 典
元 .12.31
辞
職
類
〃
石
転
任
化
人
田 貴
2.1.1
文
筑波大助教授ヘ
京都大助手 より
員)
(職
化
学
用 務
分
光
事
地
質
員
務 官
技
官
元 .12.31辞
岡 本
賓
津
子
2.2.1
隆
〃
代 章
酒 井
職
用
採
〃
外 国 人 客 員 研 究 員 報 告
所 属
受入れ教官
国 籍
氏
物 理 学科
小林助教授
中 華 人民
共 和 国
CHENGず
″
成
陣
″
″
〃
酵 髪」
CHEN,Xiao Lin
″
大塚助教授
名
現
職
研究 員期間
藉雲繊霜麟先堺樋
研究 員
2 2.1∼
北京大学講師
2 331
暁 林
LttDa H契
備考
∼
夕 よ」
221∼
2.331
AMAUN,Herbert チュー リッヒ大学正 2.2 2∼
ヒ京大学研 究 員
海
数
学
科
俣野助教授
ドイツ連邦
共 和 国
小林助教授
アメ リカ
合 衆 国
大塚助教授
イ 連
呉 る 奮
地 球物理
研 究施設
國分 教授
日
地 学‐ 科
島崎 教授
物理学科
″
本
マ ダガスカル
教授
HAlょ E,Sco悦
Dav
ツツエ
再英季島裏義
チ ュー ビンゲ ン・ 工
バ ーハ ー ト
・ カール
ズ大学助手
)ns」 ohann
l暑 :HMANN,
渡 辺
富
&夕 ::∼
2.3 1∼
3 1 10
ブ リテ ィシュ・ コロ 2.314∼
ンビア大学教授
21231
也
RAKOTONDRAT_マ
SIMA,Charles
2 413
ダガスカル大学講
師
2.4 1∼
2
9 30
理 学博 士 の学位 取得 者
〔
平 成 元 年 ‖ 月 27日 付
(3名 )〕
情報科学
建 石 由 佳
文章の表面情報による日本文の評価
物 理 学
太 田
洋
光誘起吸収によるアモ ルファスシリコンおよびアモルファスシ リコン系超格子
の研究
論文博士
柳 澤 道 夫
伸縮計および歪ゲージによる地殻の研究 一 多測定点石英管伸縮計 と歪ゲージ
歪計の開発および鋸山地殻変動観測所における観測 一
―- 29-―
〔
調成元年1崩
植 物 苧
由 典
論文 博 士
平 弩 丈 未
(3名 )]
カラマツとシラベα比較生理生醸学的研究│
‐ 刷翻 摯け る1抑 師数溝轟その観磨一
浩
坤養下におけるプット小職ブッキ,ン ェ綱胞の旗議位依存産業がシナプ不性イオ
│ン
論文 博 士
13日 付
蒟
轍
調
鐘ラマシ
4ゲ た
含
湧
懸
C)イ ヒ
学輔
凝 瀬 工 表
‐
仰城:2年 1月 29日 付 (T名 )〕
ヽ
‐
地孵
中 綱
物1準 学
―
1論 1文 博
大 蔵
常
行
論:文 博 土
石
橋
論 文博 士
名
l‖
論 1文 博 士
簑 藤
論 文 壽士
福
L・
オ‐百ヨ電子ビ‐去と沿彎げ麹麟封蒻
敷‐ C02■ ‐ザ
嘉 司
第一療職蠅朦曙驚馘売期肇洗 分子動力戦 に.よ るシ‐
,昴 多彩研 究
皇
}'鐵 麺 絣 爾 子に業懺ふ鯉 癬 詩 と審 憾 動 す
Ⅱ皇贔詣議暮
トリアプニ蟻
べ│り 鷲澳ナ7グ レ
・ン0構 造と反磨性
吉 信
哲 哉
いで‐
高菫元射影多様議の申の雄影
屋
│
田 洋 ‐
海
外
官職
末‐文
助 義
柴 橋 博 資
物劇
助 手
村 上 哲 明
1欄
民
名
デ 夕酬
-1つ
渡
(3月 姓
所属
‐
よ動
人工衛曇海聘
航
訓 聞
■ i.2
∼lal■ 15
アメ,ふ 栓漏離封
量警
智監
30-
精密決定
者
)
遼 魏 先
アメリカ合蒙画
オ 71ン ダ
ー
ベ ル ギ ー
‐
いた局所重枷
1膨 沐吻麒
叢
ζ
ODl
理 学 部 長 と理 職 と の 交 渉
11月 20日
しい 旨要望があ った。田沢委 員長か ら,次 のよ うな構
,12月 25日 , 1月 22日 に理学部長 と理学部
職員組合 (理 職)と の定例 の交渉が行なわれた。 また
想が説明された。理学院事務部 に現在の教室事務 ,秘
1月 24日 には,理 学部長か ら理職技術系職 員部会 に対
書,図 書業務を中心 と した「学術協力課」 (仮 称)を
して総長室 に設 け られた「技術職員問題 に関す る検討
設け,現 在 の中央事務 と効率よ く結ばれる専攻事務掛
会」 における検討結果等 について報告が行われた。そ
等を置 く。教室事務 の仕事 の うち中央事務 で処理でき
の主な内容は以下 の とお りである。
るもの は中央に移 し,専 攻事務 (現 在 の教室事務 に対
,
応す る)は そこに特有な事務 に専念できるようにす る。
1
また,「 学術調整室」 や「国際協力室」 とい ったスタ
理学院計画 について
の交渉で,理 職か ら,理 学院計画は事務組織を
ッフ制的な事務部 とは別 に,学 術研究に関す る計画 の
は じめとしてまだ内容が不明確な部分が多 いが,概 算
立案,推 進や国際交流 の総合的企画等を扱 う部署を設
要求を して実現性があるのか との質問があ った。学部
けるとい う案 も出てい る。 また,理 職か ら,教 室の負
長は,今 回大学院問題懇談会 に理学院原案 と して提出
担軽減 のためには事務職員の増 員が必要である旨要望
す るもので,い わば,た たき台と しての もので あると
があ って,学 部長は,定 員増を含む事務 の充実強化は
答えた。 12月 の交渉で理職か ら,そ のたたき台 として
理学院計画 の中で重視 して い ると述べ た。
11月
の原案の 内容 について質問があ った。学部長は,第 3
3
次素案 とほぼ同 じだが,学 生定 員などについては,具
体的な数が書き込まれると答えた。
理学院 にお ける助手および若手研究者 について
12月
の交渉で理職か ら,助 手は位置づ けとしては
,
12月 の交渉で理職か ら,理 学院問題で 1, 2月 中に
「 教授・ 助教授 の職務を助ける」 もので あ り「学士」
懇談会を開 くよう要請があ った。学部長は説明会を開
の有資格 とす るもの とな って い るの に対 し,実 際は研
くつ もりであ ると答えた。1月 の交渉で,理 職か ら
究活動 の主体 とな ってお り,大 学院生の指導 も担当 し
学部長は理学院計画をどのよ うな日程で進 めているか
てお り,博 士号を もつ 人が多いとい う,制 度 と実態 と
,
について質問があ った。学部長は,第 3次 素案を修正
の くい違いがあることについて指摘があって,理 学院計
した「計画原案」を 2月 の教授会 に提案 し3月 の教授
画の中に実態 に即 した助手等 の制度 改善を含 めないの
かとの質問があ った。学部長は,教 官の職名や比率を
会で承認を求 めるつ もりであると答えた。
変え ることは理学院 には盛 り込まない,全 国的な問題
なので動かすのが難 しい,理 学院化は待遇改善が主 目
2.理 学院 における事務組織 について
11月
的ではない, と答えた。
の交渉で,理 職か ら,理 学院計画委員会の事務・
技官組織検討小委 員会で各教室,研究施設・ センターに
12月
の交渉で,理 職か らPDF(ポ ス トドク トラル
対 して実施 した教室事務 に関す るア ンケー トの結果 に
フェロー)に ついて質 問があ った。学部長は, これは
ついて質問があ った。田沢委 員長は, このア ンケー ト
「武者修行」 とい う性格を もつ もので,任 期付 きとす
の結果をお、
まえて小委 員会で素案を作 り, この素案 に
ると答えた。 また,11月 の交渉で理職か らRA(リ サ
ついて各教室主任を通 じて各教室・研究施設・ セ ンター
事務職 員の意見を聴取 して い きたい,ま た理職に も周
ーチアシスタ ン ト)・
知す る旨答えた。 12月 の交渉 で理職か ら小委 員会での
人へ の教育効果を重視 して考えて い ると答えた。 これ
議論 の公開をするよう要請が あ った。田沢委 員長か ら
教室事務 ,秘 書,図 書業務 について再編成 を検討 して
に対 して理職か ら,継 続性 のないTAが 導入 されると
かえ って常勤の助手が忙 しくなるのではないか とい う
い ることが述べ られた。学部長は,制 度を問答無用で
発言があり,学 部長は,そ のよ うな ことは しない, と
変え るようなことは しない と述べ た。
述べ た。 さらに,12月 の交渉で理職か らRA・
,
TA(テ ィーチ ングア シスタ ン
ト)に ついて質問があ った。学部長は, これ らは,本
TAの
1月 の交渉で理職か ら,現 場の事務官が どのよ うな
選任 の方法 につ いて どのよ うに考 えて いるか質問があ
変化が起 こるのか予測できず不安であることを訴えて
った。学部長は,大 学院生全員に 自動的にや らせ るも
い るので,小 委員会 での検討内容 について説明 して欲
ので もな く,講 座 あた りに定員を割 り振 るもので もな
-31-
い と答えた。
の検討結果 にっいて質問があ った。学部長は次のよう
に回答 した。 4月 1日 組織化実施をめ ざ し,総 長補佐
4
広域理学院等 について
11月
が責任者 となって理念構築 とタイムテーブルを作成する
ことにな った。検討 されてい る組織案 は職制 に専門職
の交渉で理職か ら,理 学院化 の原案 の 中で「広
域理学院」をどうす るのか について質問があ った。学
を加えた もので ある。そこでは「技術官」 とい う名称
部長は,柏 キ ャンパ スを前提 としないで実現可能な
が考慮 されてい る。
「広域理学専攻」を理学系研究科 と してまず発足 させ
6.技 術職員 の研修等 について
るつ もりである,教 官は ほとんど併任で実数 はお、
えな
いが,事 務官 。技官 の定 員増 は要求す ると答えた。
11月
1月 の交渉で理職か ら柏キ ャ ンパ ス問題 について質
の交渉で,理 職か ら,教 室所属の技官が一 般設
備費を申請するわ くを設定 してほ しい 旨要請があ った。
問があ った。学部長は,柏 に施設を作 るな らば事務官
学部長は,現 制彦 の もとでは,一 般設備費 の要求は各
・ 技官 の増 員が絶対に必要なので,広 域理学院と柏キ
教室・ 施設か ら出すようにな ってい るので,教 室内の
ャ ンパ ス とは連動 して考えて い ると答えた。 また,柏
担当者を通 じて出 してほ しい と答えた。
キ ャンパ スを要求す ることを工学部 と話 し合 って本部
12月
の交渉で理職か ら,技 官が学会等へ 出席す るた
に進言 したこと,キ ャンパ ス問題は他 の場所 の問題 も
めの旅費および手続きに関 して改善要望があ った。学
か らんでお り,特 に タイム リミットがあるとは考えて
部長は,委 任経理金で,必 要があればその経理責任者
いない ことを述べ た。
が使 ってよい と判断すれば出張できる。 また,研 修等
による出張につ いては企画委 員会を中心 に積極的 に検
5
技術職員の組織 について
討 してい ると述べ た。
の交渉で,理 職か ら,「 技術官」 とい う職名を認
めるかど うか について質問があ った。学部長は,理 学
に関す る小委 員会 の検討状況 について質問があ り,田
部 の技術職 員が望むな らば認 めると答えた。
沢委員長か ら説明があ った。
11月
12月
1月 の交渉で,理 職か ら企画委 員会 内の技官 の研修
の交渉で,理 職か ら,総 長室 に設け られた「技
術職 員問題 に関する検討会」 における検討状況につ い
7.昇 級・ 昇格篭
て質 問があ った。学部長 に代わ って検討会 に出席 した
田沢評議 員か ら,理 念問題の議論が され具体的な案 は
11月 の交渉で,理 職か ら,技 官 の 6級 昇格 について
2名 が 4月 に さかのぼ って認め られたことについて
出されなか った 旨回答があ った。また,理 職か ら技官
感謝の意の表明があ った。事務長か ら, この昇格が理
組織を スタッフ制 とす るよう強い要請があ った。学部
学部か らの要望順位 どお りでなか ったことに関 して
長は,本 部案 についてけん制す ることよりも,理 学部
文部省が判断されたと思われ る基準 についての説明が
の案に引き寄せて読み変え ることを考え る,ス タ ッフ
あ った。
制 にするとは っきりとは言えないと答えた。
12月 , 1月 の交渉で,理 職か ら,事 務官 の 4級 昇格
の資格該 当者を掛主任任用の候補者 と して上申す るよ
待遇改善 について
,
,
,
1月 の交渉で,理 職か ら技術官を給与表の 6級 まで
含む位置づ けにす るよう要請があ った。 また,人 事院
う要請があ った。事務長は,該 当者 は全員推薦 して い
が スタ ッフ制でいけない ことはない と言 って いると し
ると答えた。また,理 職か ら事務主任 ポス ト増の要望
て,ス タ ッフ制 にす ることを重ねて要請があ った。学
があ った。事務長は本部 に対 して強 く要望 して い ると
部長 は,人 事院がよい と言 うな らスタッフ制 には検討
答えた。
の余地があるが,理 学部だけ突出す ることはできない
東 大 全体 あ る い は文部省全体 の整合性 も考 えなけれ
12月 の交渉で理職か ら, 4級 の事務主任 の 5級 昇格
の早 い実現 に向けて努力す るよう要望があ った。事務
ばな らない と答えた。 さらに理職か ら「技術官」 の国
長は来年 もぜひや らなければな らない,適 任者が いれ
の予算書上の位置づけがどうなるかについて質問があ
ばどんどん推薦 したい と答えた。
った。事務長は,現 状通 り「技術職員」であると答え
12月 の交渉で理職か ら,図 書職 員の,特 に定年が近
い人について, 5級 昇格 の早期実現かた要請があ った。
,
た。
1月 24日 には,理 職技系部会か ら学部長 に対 し前 日
事務長は努力す ると答えた。
に行なわれた総長室に設け られた技術職 員問題検討会
―-32-―
11月
,12月 , 1月 の交渉で理職か ら,懸 案の行 (二 )
技能職 員の 4級 昇格の見通 しについて質 問があ った。
道はあると述べ た。 さらに,理 職か ら,教 務職員問題
事務長は努力 して い ると答えた。 (そ の後 2月 2日 に
の 担当 とな って い る伊理総長特男1補 佐 に対 して学部長
4月 1日 に さかのぼ って昇格 した。)
は どのよ うな意見を述べたか たずねた。学部長は,学
,
12月
の交渉で理職か ら,行 (二 )技 能職 員で定員化
部 長会議の折 りに,給 与制度 に問題があることと,あ
以後約 5年 間実質的 に事務 の仕事を して いる人の行
らか じめ将来助手にな り得 る者を採用すべ きであるこ
(一 )へ の振替をす るよ う要請があ った。事務長は
とを述べ た, と答えた。
,
承知 してお り,努 力す ると答えた。
9そ
8
教務職員 の待遇 について
11月
の 他
の交渉で理職か ら,寄 付講座 について理学部で
の交渉で理職か ら,教 務職員制度の廃止 に向けて
取 り組むよう要望があ った。学部長は,助 手へ の振替
はどのよ うな規則を作 って設置す るのか との質問があ
で概算要求 して い ると答えた。 これに対 して理職か ら
えた。 また,理 職か ら,数 学科 に寄付講座が設け られ
現在 の制度 の もとで も高位号俸者の頭打ちの救済を急
ぐよう重ねて要望があ った。学部長は,助 手 ポス トは
るとい う計画 について質 問があ った。学部長は, 5月
の教授会で設置の方向が了承 され,現 在,企 業 との間
業績集団 にふ さわ しい人を採用すべ きであり,教 務職
で具体的な接渉段階 にあ り,最 終決定ではない と述べ
員対策 に使 うのは半年 に限 られると答えた。ただ し
た。
12月
った。学部長は,全 学 の規則 に準ず る方針であると答
,
,
各教室 の判断で教室 の助手 ポス トを使 ってふ りかえる
編
集
後
記
平成元年度 の最後 の広 報 をお届 け します。 この号 は理学部 長和 田昭允 先生 をは
じめ, この春定年退官 され る方 々 のお別れ の言 葉 と,親 しい方か らの送 る言葉 の
″
`
特集 号 です。 長年 に わた る研究教育,大 学 の事務運営 に対す る御尽 力 に感謝 し
,
ご健 勝 と益 々の ご活躍 を祈念 申 し上 げます。
理 学部広報 を読 み やす く親 しみ やす い もの にす るとい う ことは,歴 代編集 委員
長 の大 きな課題で , これ まで に も多 くの試 み が行 われ てきま した。 昨今,多 くの
国 立研究所か らは カ ラー印刷 の 大変立派 な広 報誌 が発行 され てお ります が,我 が
理学 部広報 も何 とか表紙 くらい は も っと魅 力的 にな らな いか とい う ことで ,実 現
しま したのが本年度第 1号 (平 成元年 6月 発行 )か らお 届 け して い る 2色 印刷 の
表紙 の広 報 で あ るわ けです。 三鈴印刷 の ご協力 もあ り, 1部 当 りの 価格 を ほぼ据
え置 い たまま,や や紫 がか った青色 と黒 の 2色 印刷 のモ ダ ンな表紙 が実現 しま し
た。 さ らに表紙 の写真 もで きるだ け大 き くし, 日次 は裏表紙 に も って きま した。
また本 文 につ きま して も執筆者 の皆様 の ご協 力 によ り,か な り写真や図版 を多 く
入れて い ただ き,読 みや す くな ったので はなか ろ うか と存 じます。 しか し理学部
研究 ニ ュースを多 くの方 に書 い て い ただ け るには ど うすれ ばよ いか とれ
問題 は
た くさん残 され てお ります。
最後 に中央事務小谷昭 氏 の編集 協力 に深 く感謝 し,次 期編集 長,横 山先生 (生
化 )に バ トンタ ッチ した い とぞん じます。
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―-33-―
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