前回の輪読会で提出された「何故ニーデルハウゼル博士はこのような複眼を 持ちえたのか」という質問への答えとして、以下のようなことを知るべきでし ょう。 ニーデルハウゼル先生は 1923 年にブラチスラヴァで生まれ、その姓からして ドイツ系です。ブラチスラヴァはかつてハンガリー王国の首都でもありました。 ハンガリー語ではポジョニといい、またドイツ人の影響が強いため、ドイツ語 名ではプレスブルクと呼ばれます。プレスブルクはハプスブルク時代のハンガ リー王国の首都であり、ハンガリー議会はこの街の旧市街に置かれ、議会が開 催されたときにはハンガリー全土から、あるいはウイーンから諸身分がこの街 に集まりました。1867 年の二重君主国の成立とともにハンガリーの首都は現在 のブダペシュトに遷りましたが、ポジョニはドイツ人の町として北部ハンガリ ーの中心地として発展しました。第一次世界大戦後、北部ハンガリーはチェコ スロヴァキアの一部として独立し、ブラチスラヴァと改称されました。支配民 族がドイツ人、ハンガリー人からチェコスロヴァキア人へと変遷した街に生ま れたニーデルハウゼル少年は、当然のこととしてドイツ語、ハンガリー語、ス ロヴァキア語で教育を受け、いずれも生活の言語でもありました。 しかしナチス・ドイツの台頭により、十代後半のニーデルハウゼル青年は、 夜に小舟で単身ドナウ川を渡ってハンガリーに亡命することを決意します。こ れは彼がユダヤ系だったことの傍証かもしれませんが、ハンガリーの学界では ユダヤ籍について公式に触れられることはなく、正確にはわかりません。 ハンガリーにたどり着いたニーデルハウゼル青年は、ここで生きて勉学を続 けるために、人気のないロシア語をギムナジウムで専攻ことを選びました。そ こから後にロシア東欧農奴解放史が結実します。またブルガリア研究にも携わ り、ハンガリーでは稀なハンガリー語、ドイツ語、スラヴ諸語、ラテン語を学 びすすめ、遂には 16 か国語を習得して、その成果がこの『総覧東欧ロシア学史』 に集大成しているといえるでしょう。 しかし、さらにニーデルハウゼル博士と交わした個人的な会話を思い出しま す。博士の生まれた 1923 年はチェコスロヴァキア第一共和国と呼ばれ、大統領 はT.G.マサリクでした。チェコスロヴァキア国はオーストリア・ハプスブ ルク領のボヘミア(モラヴィア、シレジア)とハンガリー王国領スロヴァキア を合体させた地理的、歴史的には不自然な人為的国家とみなされました。大統 領マサリクは、 「チェコスロヴァキア」という国家はチェコスロヴァキア人によ って形成されるものであり、この国家に参加する者は、少数民族を含めて、チ ェコスロヴァキア人という意識を持つことを掲げたわけです。 ニーデルハウゼル博士も、ドイツ系、ユダヤ系、ハンガリー系かどうかとい うことよりも、その少年期にチェコスロヴァキア国家のチェコスロヴァキア人 となることに積極的な意義を見出していました。これは他にもスーケ・ペーテ ル博士などから聞取りした例があり、 「本来はスロヴァキアに住むハンガリー系 住民であったが、意識的にチェコスロヴァキア国民となることに意義を見出し た」とスーケ氏は語りました。第一次世界大戦という未曽有の悲劇によって、 国境が変わり、支配・被支配の関係も変化した時代に、民主主義と民族自決、 そして諸民族の共生を掲げるマサリク大統領にはそれだけ吸引力があったと言 えるのでしょう。 「敗戦で、国土の三分の二が失われたハンガリー本国より、新生チェコスロ ヴァキアは確かに民主主義的で魅力があった。チェコスロヴァキア国民となる ことの意義は大きかった。しかしこの民主主義的な国家もナチスの台頭により 瓦解し、自分は亡命の道を選ばずにはいられなかったのだよ」これがニーデル ハウゼル博士から直接に伺ったことです。 ニーデルハウゼル・エミル略歴 NIEDERHAUSER Emil 1923 年にブラチスラヴァで生まれ、2010 年にブダペシュトで他界。 研究領域 ロシア東欧農奴解放・土地制度史 18-19 世紀の比較東欧史 近代東欧国民運動史 ハプスブルク史、 学位など 1945 年、ブダペシュトのパーズマーニュ・ペーテル大学(今のエトヴェシュ・ロラーンド 大学)入学。 科学アカデミー博士候補 「東ヨーロッパの農奴解放」(1957 年) 科学アカデミー博士号 「東ヨーロッパの農奴解放と民族問題」(1972 年) 科学アカデミー会員(1992 年) エトヴェシュ・ロラーンド大学名誉教授(1996 年) 職歴 1949 年 科学アカデミー歴史学研究所に入所。以後一貫して研究員。 1951 年から デブレツェン大学で教鞭 1984 年から エトヴェシュ・ロラーンド大学で教鞭 雑誌編集 『ハンガリー科学 Magyar Tudomány 』 『歴史学評論 Történelmi Szemle』 『諸世紀 Századok』 の編集委員 『クリオ Klió』の編集長などを歴任 主な受勲等 学術勲章 (1963 年, 1978 年) セーチェーニ勲章 (2003 年) ルカーチ・ジェルジ賞(2007 年) 主著 『ブルガリア史』(1959 年)Bulgária története. Budapest. 『東欧農奴解放史』(1962 年)A jobbágyfelszabadítás Kelet-Európában. Budapest. 『19 世紀のロシア文化』 (共著、1970 年)Az orosz kultúra a XIX. században. Budapest, (L. Sarginával) 『反乱の半島:19-20 世紀のバルカン』(1972 年)Forrongó félsziget. A Balkán a XIX-XX. században. Budapest, 1972. 『フリードリッヒ大王』(1976 年) 『東欧における民族の誕生』 (1976 年)Nemzetek születése Kelet-Európában. Kossuth Könyvkiadó. Budapest 『東欧における民族再生運動』(1977 年)A nemzeti megújulási mozgalmak Kelet-Európában. Budapest 『ハプスブルク家』(共著、1978 年)A Habsburgok. Egy európai jelenség. Pannonica Kiadó. Budapest, Gonda Imrével The Rise of Nationality in Eastern Europe. Budapest, 1982. 『ドイツ史』(1983 年) 『エリーザベト王妃暗殺』1985 年 Merénylet Erzsébet királyné ellen. Budapest. 1848 Sturm im Habsburgerreich. Budapest, 1990. Die Habsburger mit ungarischen Augen gesehen. Europäische Rundschau, 1995. 『東欧ロシア史学史』(1995 年)A történetírás története Kelet-Európában. História Könyvtár. Monográfiák 6. Budapest. 『ロシア史』(共著、1997 年)Oroszország története. Egyetemi tankönyv. Maecenas Kiadó. Budapest, (Font Mártával, Svák Gyulával és Krausz Tamással) 『東ヨーロッパ史』 (2001 年) Kelet-Európa története. Budapest. 『民族問題について』(2001 年) Nemzet és kisebbség (válogatott tanulmányok 『ロマノフ家』(共著)(2002 年) A Romanovok. Pannonica Kiadó. Budapest (Szvák Gyulával) A History of Eastern Europe since the Middle Ages (2003). 『ハンガリーとヨーロッパ』(2003 年) Magyarország és Európa. Válogatott tanulmányok. Lucidus. Budapest. 『マリア・テレージアの生涯と時代』(2004 年)Mária Terézia élete és kora. Pannonica Kiadó. Budapest 『タレイランとメッテルニッヒ』(2004 年)Talleyrand – Metternich. Pannonica Kiadó. Budapest など、その他の著作を合わせると 1500 編以上を世に出した。 ニーデルハウゼル著『総覧東欧ロシア史学史』について 『総覧東欧ロシア史学史』はハンガリーの歴史家ニーデルハウゼル・エミル 博士の著書 Niederhauser Emil, Történetirások története Keleteurópában (História・MTA Történettudományi Intézete, Budapest, 1995)の邦語訳である。 原著を逐語訳すれば、『東欧における歴史叙述の歴史』である。原語の「東欧」 を邦訳で「東欧ロシア」としたのは、原著者の「東欧」はロシアを含む広域的 な地域概念だからである。実際にも本書にはロシア史学史が含まれている。こ のような東欧理解は、日本では違和感があるかもしれない。しかし、欧州にお けるロシア東欧研究の中心であるドイツにおいて「東欧」は、旧ソ連地域を含 むのが普通である。欧米を中心とする世界的な旧ソ連東欧地域研究学会の正式 名称は「中・東欧学会 International Council for Central and East European Studies」である。 厳密に考えるなら、原著者の「東欧」を東欧ロシアと訳すことも正確ではな い。なぜなら、ロシアと(狭い意味での)東欧の間に位置するバルト諸国、ベ ラルーシ、ウクライナ、そしてカフカーズが抜け落ちてしまうからである。原 著者の、あるいは広域としての「東欧」には、帝政期のロシア領が含まれるの である。本書は直接にベラルーシやウクライナの史学史という項目を立ててい ないが、ロシア史学史やポーランド史学史の対象としてロシアと東欧の間に位 置する地域が含まれている。 いまから 20 年ほど前、「東欧」地域の社会主義体制が崩壊し、連邦制を採用 していたソ連、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアは構成共和国ごとに独 立した。社会主義という鏨が消滅したのだから、以後は個別の国ごとにとらえ、 それぞれについて研究すればよいという考え方はありうる。実際に国別の研究 の深化により、旧ソ連東欧地域の研究はこの 20 年間ほどの間に大きな進歩を遂 げた。しかしこの地域の歴史を考えるとき、国境はあまりに頻繁に引き直され、 国家という枠組みは分析に耐えないのが現実である。現在の国境をもとにして、 社会主義時代の歴史すら語ることができないし、それに先立つ長い歴史を考え るなら、なおさら 20 年前に生まれたばかりの国境を基に歴史叙述の歴史を理解 することはできない。 もっとも本書の目次を一瞥した読者は、原著者も現在の国別に史学史を整理 しているではないか、と疑義を呈するかもしれない。確かに章立ては現在の国 境に基づく国民史仕立てになっているが、それは原著者も説明しているように、 技術的にほかの方法がとれないからであり、国民史の集合として「東欧史」を 理解するからではない。国民史を超えた地域史という観点は原著者が歴史学の 道に入ってから一貫して主張し続けてきたことである。ニーデルハウゼル氏の 博士論文(正式には科学アカデミー博士候補論文)は「東欧における農奴解放」 であり、ここでは 19 世紀の「東欧」地域における領主制と農奴解放のありかた を、西欧との対比で包括的にとらえる見方が示されている。また、原著者の 1970-1980 年代における著作を特徴づけるハプスブルク研究や東欧における国 民再生運動の研究も、一民族や一国民の枠を超えて歴史を理解することの重要 性を唱えている。本書はこうした原著者の長年にわたる東欧ロシア史研究の金 字塔である。さらに本書の執筆を終える 1990 年代前半以降においても、原著者 は「東欧」諸国における歴史研究の動向に大きな関心を寄せ、編集委員長を務 めた書評雑誌上で 15 年ほどの間に極めて多くの書評を発表している。そもそも 本書執筆の動機が、 「語学能力の面で東欧諸国民の史学史に不案内なハンガリー の歴史家」 (本書日本語版への序文)に対して、東欧ロシア史学史を提供するこ とにあった。つまり、ハンガリー国民史を語るに際しても、最低限として隣国 の歴史叙述を踏まえておくことが必須であるという強い問題意識に支えられて いたのである。この執筆趣旨は、日本の東欧・ロシア研究者にとって、ハンガ リーの研究者以上の意味を持つ。日本の若い歴史研究者は当初からとても狭い 研究テーマを設定しがちである。もちろんこれは歴史学の発展という意味では 当然のことである。ただしその際に広い視野から見た包括的な研究で狭い個別 研究を補うことが必須である。しかしそうした研究は日本における東欧ロシア 史の先人が残した通史のようなものに限定され、研究史の整理ではない。この 意味で今回の訳業が長い間待ち望まれていた。 2012 年に東京で西洋史学会の年次大会が開催され、今回の翻訳チームの若手 が中心になって、分科会を組織した。本訳業の学問的意義を問うことが目的だ った。この分科会では多くの意見が表明されたが、その中に、ニーデルハウゼ ル氏の仕事により日本の東欧ロシア史のみならず、広くヨーロッパ史全体の研 究が、新しい時代を迎える手助けとなるだろうという評価があった。何故なら、 東欧ロシアに関して千年に及ぶ史学史はこれまで日本にも、世界のどこにも存 在しなかったからだというのである。確かにこれからの歴史家は幅広い、そし て相互に関連づけられた東欧ロシア史学史の知識を基礎として、つまり、これ までとは異なる広い地平に立って東欧ロシア史や西洋史の仕事に取り組むこと ができるようになる。これは世界的に見ても、日本の歴史家が享受できる特別 な地平といえる。この点に関して逸話がある。訳者の一人、家田がイギリスの 著名なハプスブルク研究者と面談した折、ニーデルハウゼル氏の史学史研究と その日本語訳についても話が及んだが、そのとき、その歴史家は、この本の重 要性をすぐに察知したうえで、英国にはそのような翻訳をする人的資源が不足 していると残念がったのである。 この翻訳を通してニーデルハウゼル氏から日本の東欧ロシア史研究者、そし て日本の歴史研究者全体に遺訓として残された仕事は、国民史を踏まえつつ、 そこを超えた広域的な地域史という広い地平に立ち、世界に向けて新しい歴史 像を啓蒙してゆくことである。 本訳書の成り立ちについては、少し説明が必要である。本訳書は原著書の全 訳であるが、原文には記載されていない文献情報を補っている。また邦訳に際 して、著者より、日本語版への序文、ハンガリー史学史(第 4 章)、20 世紀後半 の史学史(第 11 章)を寄稿していただき、合わせて訳出した。 著者のニーデルハウゼル・エミル氏は、チェコスロヴァキア第一共和国時代 のブラチスラヴァで 1923 年に生まれた。ドイツ系ハンガリー人の家系であり、 若いうちから両言語に加えてスロヴァキア語を習得し、さらに多くの言語を学 び、後には 16 の言語を操ることができたという。その語学力を基礎に、主に東 欧ロシア地域を対象にして、幅広い視点から歴史を論じてきた。本書の他にも、 『東欧の農奴解放』(1962 年)、『東欧における諸国民の誕生』(1976 年)、『ハ プスブルク家』 (共著、1978 年)、 『東欧史』 (2001 年)など多くの著作があり、 英語やドイツ語やスロヴァキア語など多くの言語に翻訳されている。2010 年に、 本訳書の見本版を手にした翌日、静かに他界された。
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