Title Author(s) Citation Issue Date Type 近代以降のベギンホフ : 脱キリスト教化の過程とキリス トの花嫁たち 上條, 敏子 一橋研究, 17(4): 1-18 1993-01-31 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/5887 Right Hitotsubashi University Repository 1⊥ 近代以降のべギンホフ 近代以降のべギンホフ ー脱キリスト教化の過程とキリストの花嫁たち一 上 條 敏 子 はじめに ベルギー,オランダには今もベギンホフbegijnhofとよばれる独特の風景 が保存されている(% これは内部に礼拝堂,墓地,施療院を備え周囲を壁で囲った都市内集落であ り,中世にはベギンbegijnとよばれる女性が居住して独立教区をかたちづくっ ていた。ベギンは修道女に似ているが,正確には敬慶な女性mulieres religiosaeであり,その誓願に含まれるのは,共同体の長に対して従順である こと,純潔をまもること,簡素な生活を営む事だけである点が修道女と異なる。 また,誓願はべギンホフに居住する期間のみ拘束力をもつ。 俗人女性がこうした生活を選択する現象は西欧中世に広くみられたが,ほと んどの地域で,近代をむかえる以前に運動は衰退に向かい,今日,オランダ, ベルギーにのみベギンホフをみることができる。ことに,ベルギーのフラマン 語圏には,1230年から,1295年にかけて設立された70のうち,現在も30余り が保存されている。 一般にベルギーのべギンホフは,混乱の16世紀の後,17世紀に第二の繁栄 期を迎え,1700年頃を境として,次第に衰退していった。本稿では,レウヴェ ンのフロート=ベギンホフを例としてとりあげ,オイスラーヘルの『レウヴェ ンのフロート=ベギンホフ』によりながらこの過程を展望したい(2)。 ドイツでは,宗教改革を契機として解体されたベギンの共同体は,ベルギー ではどのようにして現在まで続いてきたのだろうか。宗教改革と市民革命とい う二つの転機に焦点をあてつつ考える。 2 一橋研究 第/7巻第4号 16,17世紀のべギンホフ レウヴェンのフロート=ベギンホフに関する幾つかの証拠は,16世紀のべギ ンホフが財政的な悶題をかかえていたことを示している。喜捨を乞うためフロー ト=ベギンホフのベギンは,1509年以降たびたび,アントワープに派遣され, ベギンホフの施療院は,最も良い農地を手放した。居住者も減少しホフ内の家 屋は,1527年には107館を数えたが,1597年までに,その三分の一が失われて いた。16世紀末のレウヴェンの歴史叙述者,ウイルレム=ボーネンは,当時ま だ65館が残っているが,うち,9館が空き家ないし廃屋であると述べている。 この時,90人いたベギンも/610年までに60人に減少した。この衰退は,時代 背景と照らしあわせて理解させなければならない(3) 16世紀のヨーロッパでは,宗教戦争が各地に政治的混乱をもたらしていた。 今日のベルギー,オランダにあたるネーデルラントではフランドル,ブラバン ト地方の都市にカルバン主義が広まっていた。しかしネーデルラントを継承し たハプスブルク家のカール三世とカールを引き継いだフェリペニ世はカトリッ ク擁護の姿勢を崩さず,伝統的な身分的特権,地域的特権を無視して新教弾圧 をはかった。このため,中小の貴族は不満を募らせて結束した。不穏な空気が 高まると1566年には,新教徒による偶像破壊運動が各地に波及し,アントワー プ,メッヘレン,ヴィルヴォールデ,ザウトレーウ,ヘーレンタルス,アール スヒョット,ハッセルト,アウデンアールデ,デンデルモンデではべギンホフ も略奪,破壊の対象となる④。事態に対応してハプスブルク家では翌67年,ス ペインの勇将アルバ公率いる約一万の軍隊をネーデルラントに投入し,騒憂の 鎮圧を試みる。レウヴェン市も,スペイン軍の制圧下にはいり「ゴイセンから 国土を解放し,防衛する」という大義名分を掲げた兵士が市民の生活を圧迫す ることになった⑤。 フロート=ベギンホフは駐留軍を受け入れることで,戦時下の混乱にまきこ まれてゆく。つぎに,スペイン兵の進駐による負担を訴えた嘆願書により,こ の間の事情をうかがうことにしたい。嘆願書は,1579年9月1日,フロート= ベギンホフのべギンホフ長からレウヴェン司直に提出されている(6)。 1578年2月始めの,聖母おきよめの祭日前夜から,スペイン軍の大尉が部下 と少なくとも,25頭,時によれば30頭以上の馬と,家族を率いて,およそ一ケ 3 近代以降のべギンホフ 月の間施療院に宿泊した。施療院は兵士のためにリネン,灯油,薪,蝋燭パ ン,ビール,チーズその他の食糧品を,干し草,麦藁,オート麦を馬のために 提供した。支払われた金額は,オート麦のおよそ半分であった。こう嘆願書に はあり,ベギンホフが兵靖面での協力を求められたことがわかる。その後も続 いて3月!日,伍長が,馬3頭と部下を率いて到着しおよそニケ月にわたって 滞在し,一行はすべての食糧を施療院から受け取った。それから,宿泊券bel 滋 etをもたない紳士が傭兵と馬12頭を率いて到着し,間もなく別の一人が,馬 8頭を率いてきた。彼らは施療院で食料を補給したが,その費用は,レウヴェ ン市が補償として支払った4ライン=ギルダーを別にすると施療院が負担した。 弥/〆 / / 口 11 ユら pt2 1!・t. ’s O 忽(、 30 ⊇ 鍾響ご lg 1 ]1 21 ]7 ・婚、 11 ーー亀 、ーー﹁一陸 38 ]s @55a弱弱こ 5 ・“ “ tio q s4 ∼ム 45 11 69 7・771・ e − N ソt S5 85 88 s7 s1!X 9t 94 92 69 95 リユ VN Pandepvt V. 71 73 齔n︻矧 11 Mth 脳 ie i 571 66 車門 大門 _スヒ甲ツペンストラート笥 〔フロート=ベギンホフ全図〕 典拠:Tepe, W, Begijnen in de Lage London.1987, P.88 1旺 r, ilso11, sl 幡 .… ヒ・・。し )1 燥dマ7X、メ導、で×7“一7 X. 診−一 嘱 ls τ・∼ 1頴(1臥 ズワルト 財iズステル 4 一橋研究 第17巻第4号 この調子で翌年秋まで,施療院はひっきりなく到来する兵士たちを養うこと になる。なかには6月!拍にやってきたドイツ人のように書面には数日とあ るが,実際には一ケ月滞在する者もあった。 問題をおこしてベギンホフ長を悩ませる者もあった。またやはり6月17日に 到着した中尉の部下は,施療院に薪を引いてゆく用意を整えた小作人と車両運 搬人,馬を止めて施療院の森から薪をとると,市で売り払ってしまう。その結 果,施療院では,薪不足のため,ビール醸造ができず,ビールを高い値段で買 わなければならなかった。兵士たちは,自分達のための薪がないとなると,製 材された角材や馬具を片端から切り刻んで燃した。さらに,バター,チーズ, 肉,パン,ビール,かいばを与えるようベギンホフの長たちに迫り,拒もうも のなら,扉を打ち破り,貯蔵庫の鍵を壊し,屋根越しに屋内に侵入するという 暴挙に出る。 9月28日に着いた砲兵隊長は宿泊券をもっていたが,妻,傭兵,奉公女,そ れに,10ないし!2頭の雌牛,3頭の羊まで率いており,膨大な量のパン,ビー ル,肉と馬のかいばを消費した。この砲兵隊長は,妻がペストで死ぬと施療院 からベッドニ台と毛布二枚の他の必要品,それにビールとパンを調達して退散 する。 10月29日,2月にも滞在した大尉と,宿泊券をもった二人の貴族とその部下, それに宿泊券をもたないもう一人の貴族もきて,無理やり宿泊した。彼らは, 「現在も,施療院にいる」と嘆願書は述べており,滞在は,少なくとも11ケ月に わたったことになる。 度重なる兵士の駐留がベギンホフにとって大きな負担となったことは間違い ない。累積する負担による施療院の窮乏は,嘆願書の一節にもよみとれる。 「1月15日,前述の二人の貴族の大尉が,宿泊券をもって施療院にやってきた が,多くの老いて貧しい人々の悲惨と,施療院の貧困を見て去った。」 被害を及ぼしたのは施療院の食客となった兵士ばかりではなかった。外部か らの侵入者についても記述がある。 ベギンホフの外からやってきた兵士によって,施療院の二軒の家屋と車 回が壊され,持ち去られた。このとき物言いした施療院長は兵士に打たれ, その傷が長い聞残った。施療院の樹木,ベギンホフの樹木も,切り倒され 近代以降のべギンホフ 5 た。彼らは,夜と昼とを問わず,家畜小屋を破り,家畜を駆り出し,豚16 頭,牛11頭を盗み,そのうちの何頭かをベギンホフの敷地内で屠殺した。 あるベギンの家はすっかり壊され,鶏48羽が殺された。貯蔵所と納屋も 破られ,彼らが必要とするものすべてが持ち去られた。かいばは足りなく なり,兵士たちが飼っておくっもりであった馬さえ餓死した。囲われた菜 園は押し入られ,柵は壊された。果実や野菜が盗まれ,苗が台なしにされ た。兵士は,夕暮れから夜にかけて橋をつくり川を渡ると,一度に7人,1 0人,11人,あるいは12人の多勢でベギンホフに侵入し,ベギンの家々に 押し入り,家具を持ちだし,窓,ドアの他,仕切り,屋根など,およそ木 でできたものすべてを取り壊し,持ち去った。彼らは,また白丁堂々と時 を問わずベギンホフに侵入して,ベギンホフの真ん中で家々に押し入り, 望むものがすぐに与えられないと,皿でも何でもかまわず床に投げつけた。 これは,16世紀のべギンホフの設備をよく伝える描写であるが,今はそれを 論じる時ではない。 困乱は,ベギンホフが自衛のために兵士と市民を雇うほどであった。 「司祭館,パン焼き小屋そのほかの家屋が破壊され,薪にされ,屋内は住め ないほど損傷をうけた。」「大規模な修復が必要であり,修復費用は,被害総 額とあわせて3000ギルダー以上である」とあるのも誇張ではないだろう(?)。 ・四年後の1583年,ベギンホフの施療院と聖霊ターフェルは経済的困窮を理由に ブンデルヘルトboendergeldの免除をレウヴェン市に求めているし,施療院で も貧しいベギンホフの援助のための助成3200グルデンをブラバント議会に申請 している⑧Q そうこうする間に議会軍とスペイン軍の攻防は新しい局面を迎えっっあった。 79年に北部7州とフランドル,ブラバントの諸都市はユトレヒト同盟を結成す る。一方スペイン勢力は南部の貴族を味方にっけることに成功し,85年にアン トワープを陥落したのである。これを、もって,南部全域つまり今日のベルギー のスペイン帰属が確定した。 そして以後,戦局は北部の独立いかんに焦点をうつす。こうして南部を掌握 したスペイン勢力はカトリック教会を擁護していたため,南部では,勝敗のみ えはじめた80年代から反宗教改革が本格化した。改革の一環として,第二代 6 一橋研究 第17巻第4号 メッヘレン司教ヨハンネス(1583−1589)は司教区のべギンホフに新しい規約 を起草し,規律の回復をはかっている⑨。 この結果1620年代,30年代から志願者は再び増加に転じた。フロート=ベ ギンホフでは1697年にベギン298人見習い8人を数え,16,17世紀について 知られる最高を記録した。当時のベギンには,レウヴェン大学の教授の娘など, 有力者層も多い。彼女たちが中心になってホフでは,寄宿回数百人目周辺住居 に,宗教のほか読み書き,工芸を教える学校を開設した。生徒の年齢は5歳か ら16歳が中心であり,初等中等教育を担ったことになる(12)。 潤沢な寄進をうけて,施設も充実する。土壁の家が煉瓦造りにかわり,敷地 もゲイル川の北側に拡張された。1624年から1697年にかけて80館以上が増改 築された〔13)。 ベギンホフの物質的基盤,担い手の社会的背景,活動内容に13世紀の設立以 来変化がなかったわけではない。しかし,修道女と俗人の中間的位置にある単 身女性を主体とする点で中世以来伝統は続いている。この連続性も根底で支え ていたのはカトリックの価値体系である。このことは,ルター派に転じた同年 代のドイツ都市と比較することで理解されよう。例えば,シュトラスブルク市 では,宗教改革期にベギン共同体が解体された(14)。この時,施設は学校,病院 などに転用されている。このことから女性による社会的活動は意義を認められ ていたがそれをヴァールをつけた女性にゆだねるか否か,つまり,宗教的禁欲 の評価が問題になったと考えられる。ルターは,ひとの救いは行いによるもの ではなく,十字架のキリストにおける罪の騰いを信じることのみによると考え た。そして修道院制度の根拠は聖書にもないとしたためルター派に転じた地域 では修道院が廃止された。これに対して,中世以来カトリック教会は,修道士, 修道女をキリスト教徒としてあるべき理想的生活を実践する者と位置づけてい たから,カトリックにとどまった地域では,宗教改革以後も修道院制度が維持 された(15)。ベギンは厳密には修道女ではなかったが,キリストの花嫁として ヴェールをつけていたからその,ホフも修道院と同じ運命をたどった。今日, ベギンホフの分布が,ほぼ南ネーデルラントのべギンホフに限られているのは, 宗教改革期の政治的事情が,この地域をカトリック勢力の支配下に残したため といえそうである。混乱した状況の中で,入々は信仰再生の望みを教育に託し ており,ベギンホフは,(i)人口密集地への立地(ti)中性以来の教育活動 71 近代以降のべギンホフ の伝統を生かして,初等・中等教育活動に力を入れることで時流をつかみ,再 生を果たしたといえるだろう。 18世紀から現代まで ベギンの減少と,ベギンホフにおける新築ラッシュの収束から,1700年頃を 頂点としてベギンホフの成長期が終わりをつげていたことがわかる⑯。 18世紀に入ってからの増改築をみると5館にすぎず,成員数は,最大規模に 達した17世紀末から796年までの40年たらずのうちに40人以上減少しており, 入居者のない家屋を寡婦,老夫婦などに賃貸することもはじまっていた。 近年,アナール学派などを中心に,世俗化はフランス革命によって強制され るというより旧体制化ですでに進行していた,という議論がある。ベギンの減 少も,この革命以前の「脱キリスト教化」論と矛盾しない⑰。だが,フランス 革命防衛軍が南ネーデルラントを占領し,共和国の施策が南ネーデルラントに 及んだことの影響はやはり大きかった。 共和国政府は,共和暦4年ブリュクチド」ル15日(1796年9月1日)修道院 制度廃止と修道院財産の国有化を宣言。ベギンホフもあやうく国有財産になり かかかる。しかし,共和暦5年ヴァンデミール16日(1796年10月7日)の救済 院関連法,共和暦8年ブリュクチドール16日のべギンホフの資産と収入の管 理に関する条例など,一連の立法は,ホフの慈善的役割を認め修道院と区別し た。このためホフは国有化をまぬがれ,フロートニベギンホフの資産は,Les Hospices Civilsこと「市民救済院連合」に移管され,レウヴェン市内のその 他の慈善施設と統合されることになった(18)。ベギンホフは,敷地内に礼拝堂, 墓地,施療院,90館あまりの居住用家屋を擁し,近郊村落には,森林農地など からならう広大な所領を所有していた。ほかに,レウヴェン市の内外に点在す る土地,家屋に対するレニラ徴収権などももっており,これらの資産管理や, 志願者の受け入れ,そのほか重要事項は,それまで古参のベギンから選出され る四人のべギンホフ長とべギンホフ付き司祭による週に一度の運営委員会で協 議されてきたが,そうした自立的運営は非居住者による管理にかわられた。 新体制下にベギンホフの世俗化が断行される。レウヴェンではベギンは従来 の家屋に居住をゆるされたものの,ベギンの装束をまとうことと,ベギンホフ 教会でのミサは禁止された。家屋は高齢者用として市民に解放されることにな 8 一橋研究 第17巻第4号 る。朝夕に開閉されて市内との往来を遮断していた正門も,閉じた世界の象徴 として撤去された。 世俗化2年目の1798年に,ゲイル区行政官は,壁と門とによってベギンホ フがいまだ閉じられた共同体を形成していることをあげつらっているが,その 言葉には,自由・平等・博愛を理想とした革命思想の影響が読みとれる。 これまで,怠惰と閑暇の住むところであったこの場所は,徐々にあらゆる 職業の人々の手に取り戻され,商業により活性化されるであろう。このよう にして我々は,依然としてかのベギンに重くのしかかる修道士のくびきを断 ち切るのである。隷属から抜け出る時をひた待ちにしていたこれらの不幸な 娘の自由を我々は支持する… 正門の取り壊しは,同年8月にはじまった⑳。かたや,ユ978年7月29日に, 市民ロビンスなる人物は,市の行政機構に対して,つぎのような書簡をしたた めていた。 国有地の受領者ロビンから,レウヴェン市の行政機関の閣下へ。本日2時 よりフロート=ベギンホフにおいて開催される国有家具の競売立ち会い人と して委員を指名されたい。 レウヴェン市の歴史を記録したペルクマンスのおかげで,ここで売却された 「家具」が何であったかが知られる。「聖壇,説教台,オルガン」つまり,教会 が教会として機能するために必須の付属品であった。 しかし,と安堵のいろをこめてペルクマンスは続けている。「価値のあるも のはすべて,教会長によってそうするように指示された人々によって購入され た。」これに続いて,1799年には,ベギンホフ教会そのものが競られたが,ベ ギンらしき寡婦フィリピンヌ;ハンブルクが,7!0,000フランス=ポンドで落 札している⑳。元ベギンホフによる落札は,強制された「解放」に対する無 言の抵抗であったのだろう。 住民二二を無視した急進的な改革は長くは続かなかった。やがて南ネーデル ラントの支配がネーデルラント連合国(1815−1830)にうつると,ベギンは再 近代以降のべギンホフ 9 び伝統的な衣装をまとうことをゆるされた。1825年までに26院が復活し1844年 から1862年にわたる資産返還訴訟に勝利さえする。しかし,黄金時代は戻らな い。革命まえのフm一ト=ベギンホフには,198入のベギンがいたが,1802年 に教会の再開を懇願したベギンは124人に減っており,1825年:97人,1837年: 70人,1856年:42人,1937年:12人と構成員は減少の一途をたどった〔20)。 衰退は全体的傾向であり,ベギンはベルギー全体でも1825年:1879人,184 0年:1480人,,1896年:1230人と確実に減少しつつあった。 志願者減少に平行して老齢化も進行していた。こうして共同体も死滅にむか う。1896年にベギンが住むベギンホフはベルギーに15あったが1931年には,そ の数はベルギー11,オランダ2にかかわっておりヘント以外ではどこも存続を 危ぶまれていた。 1973年には,ベギンの住む10都市アントワープ,ブレダ,トゥルンハウト, ヘーレントハルス,メッヘレン,コルトレイク,ホーヒストラーテン,デンデ ルモンデ,レウヴェン,ヘントのうちホーヒストラーテン,デンデルモンデ, レウヴェンでは既に一人しかベギンがいなかった(21)。 その後も,レウヴェンでフロート=ベギンホフ最後のベギンが1988年に逝 去するなど,ベギンの姿は各地で失われ続けている〔22)。 以上,18世紀にはじまる衰退を概観すると,ベギンの減少はフランス革命期 にはじまったものではないが,革命後,衰退は一貫した傾向として確定したこ とがわかる。 フランス革命は禁欲と修道生活に新しい意味づけをおこなうパラダイム転換 をもたらした点,ルター派の改革と同様の効果をもった。修道生活は悪魔の創 造によるものとするルター派勢力は,16世紀南ネーデルランドでは斥けられ, 未婚者の禁欲が一層重視されて17世紀の黄金時代へとつながってゆく。他方, 修道生活を「くびき」とよび,自由の対立概念とした革命政府の概念装置は, 侵略者の施策として表現されたために同時代においては地域住民の抵抗にあい つつも,次世代に浸透し,19世紀以降のベギン志願者の減少を促したと考える ことができよう。 おわりに 筆者は,1987年から1988年にベルギーに留学する機会を得て,二十箇所あま 10 一橋研究 第17巻第4号 りのべギンホフを訪れることができた。その際印象的であったのは,ベギンホ フがベルギー固有の制度として地域住民から深い愛着をもたれていることであっ た。滞在中にレウヴェン最後のベギンが高齢のためなくなったことは偶然であっ たが,彼女の死はフラマン語の地元紙ヘット;フォルクHet Volk「レウヴェ ン最後のベギン逝く」の見出しで旧きぐ報道されていた。このことにしてもベ ギンホフの動静に関心がもたれていることを示している。 ただ,自分の問題となると,誰もベギンとして禁欲的な生活をおくるという キャリアプランをたてようとしない。最後までフロート=ベギンホフに住んで いたベギン,ユリァJuliaでさえ,生前のインタビューで,もう一度生まれ変 わったとしてもベギンになるかと問われて「いいえ」と答えている。現代の女 性がこのように答えることは,理解しやすく納得できる。しかし,なにが存続 を支えてきたか,という関心にもどるなら,ユリアが,誓願式を懐かしみベギ ンホフにまつわる一番美しい思いでは「ベギンであることそれ自体」,ベギン として生きることは「美しいこと」と述べていることをが,さらに重要である ように思う。単身女性が,信仰の生活を選ぶことは,単純な人口動態上の問題 として片付けられやすいが,ユリアの言葉は,ヴェールをつけた生活が,単身 生活の中でもさらに限られた「狭き門」の選択であったことを思い出させてく れる。修道生活が世俗の生活とはっきり区別されたものである以上,修道院な らびにベギンホフ設置の問題は,行動様式の問題としてとらえられるべき文化 現象であることを改めて確認しておきたいく25>。 社会経済的条件が大きく変化するなかで今世紀までベギンホフが存続してき た事情は,ヴェールをつけて生きることが女性の誇りとなるという全体的構図 の中で理解しやすくなる。ベギンの居住しなくなったべギンホフをベルギーの 風物として保存しようとする運動があるのもベギンとしての生活を信仰の表現 として肯定的に評価,尊重する住民意識を示していると思われる(26)。 ベギンの決定的な減少が進むなかで,現在ベルギーでは,ホフの修復と再利 用が今日的課題となっている。ベギンの住まなくなったべギンホフの活用は, 地域にゆだねられており,再利用のありかたは多様である(2‘)。 ブルージュのべギンホフは,ベネディクト修道女たちに買い取られ,今でも 彼女たちが,!5世紀来のベギンの衣装を着て住んでいる。 レーヴェンでは,公共福祉委員会がベギンホフを維持し修復してゆくことは 近代以降のベギンホフ ll 困難との判断から,フロート=ベギンホフは修復を条件として,1962年にレウ ヴェン=カトリック大学に譲渡された。翌年から前面的な改修事業がはじまり, 1988年現在,ほぼ修復を終えている。施療院が,レストランとして改修された ほか,一般家屋は,大学関係者と学生のための住宅として改築され,500人内外 を収容する。 もっともレウヴェンのような大規模な修復例はむしろ幸運な例外で,アント ワープの例のように,老朽化が進んだために住むのが危険になった家屋が資金 難のため修復のめどがっかずに放置されている場合もある。 比較的目立っのが高齢者用住宅とされた事例である。これには,単身女性高 齢者の住むコルトレイクのべギンホフ,女性専用の憩の場,研究棟をおくディ クスマイデの例がある。アウデンアールデ,アンダーレヒト,アールスヒョッ トのホフも高齢者用住宅となっている。 早い時期に囲壁や水路,門がとりこわされ,周辺の市街地にとりこまれたホ フには,地名にのみ跡をたどることができるもの,家並みに若千の面影をとど めるものがある。トンゲーレンでは,ベギンホフ跡は周辺市街地に全く溶け込 んでおり,居住者も一般世帯であるし,施療院跡には屠殺場がたっ。ティーネ ンのべギンホフも,火災と爆撃によって荒廃したうえ,区画整理されており, かってホフ内を走っていた通りをたどることができるにすぎない。 附 各地のべギンホフの現況は,つぎに示す通りである(27)。 西フランドル地方 《ブルージュBrugge》 かっては,1000人を数えるベギンが住んだ。教会 と,白樺の木立の美しい中庭を縁どるようにコの字型に並んだ家並みの部分の みが保存されている。ベギンホフ周辺は,ベルギー随一の観光都市ブルージュ でも特にロマンチックな場所として,観光のハイライトとなっている。個々の 家は見学できないが,門を入ってすぐ左わきの建物が,一般に公開されている。 ベギンの生活をしのばせる暖炉,食器棚,ベッド,ストーヴ,プレス器,糸巻 き機,レース編み用具,台所用品,などが台所,食堂,居間,寝室に配置されて 12 一橋研究 第17巻第4号 いる。時折,ヴェールをつけた女性が中庭を横切って教会に行く姿がみられる がベネディクト派修道女である。 《コルトレイク(クルトレ)Kortrijk》 小規模ながら,最も古いベギンホ フの一つである。現在,配偶者のない女性,主に高齢の女性が居住している。 《ディクスマイデDiksmuide》 デイクスマイデ周辺は,第一次大戦の激 戦地であったため,ベギンホフも完全に破壊されたがその後礼拝堂を含め,再 建された。かってのグランダームの家は,集会所,研究室として再利用され, ほかは女性のための休憩室,研究棟とされている。利用者の年齢,信条,国籍 は問われない。 東フランドル地方 《ヘントGent》a) スィント=エリザベート:=ホフSint Elisabethhof in Gentフランス革命時に,ホフを囲む堀が埋められ, F Jが撤去された。その ため現在は市街地に溶け込んでいるが,ベギンホフの面影は,教会や教会前広 場,また家並みに残されており,静寂な雰囲気がただよう。b)オンゼ=リー ベ=フラウ=テル=ホーイ=ベギンホフOnze Lieve Vrouw ter HQoie現在も ベギンホフが若干住んでいる。 [1988年現在] 《デンデルモンデDendermonde》 ベギンは住んでいない。1971年に歴史 的建造物に指定された。 《アゥデンァールデAudenaarde》. 19世紀に繁栄したが,1960年に最後の ベギンを失い,高齢者用住宅になっている。1972年に修復作業が始まり1988年 現在も続いている。 ブラバント地方 《アンデルレヒトAnderlecht》 高齢の女性を収容している。記念建造物 に指定され,1973年に修復作業がはじまった。 《レウヴェンLerven》a)フロート=ベギンホフGroot Begijnhof ten Hoveベルギーで最も古く規模からいっても最大のべギンホフの一つであるが, 修復に際して国の援助を受けられる記念建造物に指定されなかったため,1962 年,全面的修復を条件としてレウヴェン市の公共福祉委員会C.O.0.からレウ ヴェン=カトリック大学に譲渡された。研究者の住居として再生したが,間取 近代以降のベギンホフ 13 りも修正が加えられ,単身者よりむしろ既婚者用の宿舎となっている。最後の ベギンは,1988年8月に死亡した。教会は,大学教区の教会として,利用され ている。b)クレイン==ベギンホフKlein Begijnhof in Leuven 13世紀に起 源をもつが教区として独立するのは,1631年頃。1636年に建設されたべギンホ フ教会は,1862年に破壊され現存しない632家屋のうち現在27が残っている。 病棟跡は,1954年に破壊され現存しない。32家屋のうち現在27が残っている。 病棟跡は,1954年にステラ=アルトワ社に売却された。 《ティーネンTienen》 15世紀に,260人のベギンを数えたが16世紀に急激 に衰退し,世紀末までに100人内外まで減少し,1843年に,6人のベギンを残し て,ドミニコ会に売却された。1944年の爆撃で損傷をうけ,さらに区画整理に あった。ベギンホフ教会は,1976年の火災により荒廃したままである。 《アールスヒョットAarschot》 1259年に設立され,最後のベギンを1927 年に失う。1944年の空爆により,デーメル河沿いの部分が破壊され,今日まで 再建されていない。爆撃をまぬがれた残りの半分は,改修され,高齢者用住宅 として活用されている。 《ディーストDiest》 正門を含め全体の景観をよく保存している。施療院 児が文化センターとなっているほか,ベギンホフの路上では毎日曜日古本市が 開かれ,にぎわう。80館あまりの家屋は,ほとんどがユ7世紀のもの。ユ862年に なお,80人が居住したが,1926年に最後のベギンを失う。現在,芸術家のアト リエ,展示の場としてベギンホフを活性化することが課題となっている。5月 の第二日曜日にベギンホフ祭りが催される。 アントワープ地方 《アントワープAntwerpen》 v一デ=ストラートに面して建つホフは 1240年設立の当時市門外に位置していたベルヒ=ヴァン=シオン=ベギンホフ にかえて16世紀に移築されたもの。1987年現在ベギン一名をのこす。家屋は16 世紀後半のものであり文化史的価値は高いが,修復して病気の聖職者,老齢者 のたあの住居とする計画は資金難のため難航している。 《リールLier》 修復のための助成をうけられる国の記念建造物に指定さ れており,保存状態はよい。2ヘクタールに及ぶ広大な領域に,街路が縦横に はしり,162館の家屋がたちならぶ。!700年目は300人のベギンを数えたがフ 14 一橋研究 第17巻第4号 ランス革命以後衰退した。第二次大戦当時からベギンは住んでいない。かわっ て,高名な芸術家が創作にはげみ余生をおくっていることで知られている。 《ヘーレントハルスHerenthals》 戦略的理由により1578年に破壊された 最初のべギンホフにかえて1599年に設置された。17,8世紀に繁栄するが,18 世紀末から衰退し1980年には二人のみベギンをのこす。ホフ外の司祭館跡は学 校になっている。 《トゥルンハウトTurnhout》 1340年頃までにオラーニュ家の城館に隣接 して設立された。1665年の図版には,教会が二つ描かれているが小さい方の, 14世紀に建てられた正門の後ろの教会は現存しない。新しい方の教会はベギン 増加に対応して1666年に建てられたものである。1825年にはまだ61人のベギ ンが住んでいた。56番の家が美術館になっている。 《ホーヒストラーテンHoogstranten》 1953年に,ベギンホフ教会が,19 71年には全体が記念建造物に指定された。最後のベギンを1972年に失う。現在 は,既婚,未婚を問わず市民が居住している。1番,2番は美術館として利用 されている。かつて,ホーヒストラーテンのベギンが教育に貢献した記念に, 例年,「遅くなるとべギンホフが閉まる」という童謡にちなんだ子供の祭りが 催される。1380年に起源をもち1415年頃に拡張された。 《メッヘレン(マリーヌ)Mechelen Klein Begijnhof》 1286年に教区と して独立し,1577年頃には1400人規模の小都市を市回外に形成していたと伝え られる。宗教戦争のさなかに,都市防衛上の必要から市壁よりの半分を撤去さ れ,残り半分も,「ブラッセルとアントワープの怒れる人々」によって略奪, 放火された。市壁内のノンネンストラート付近に移築されたホフも,18世紀の はじめに1700人を超す程の規模だったがその後衰退著しく世紀半ばまでに480 人に減少した。フランス革命時に門が壊されている。ベギンホフ教会の北側脇 の建物が民族資料館になっており,昔の薬局,旅亭,小さな店舗などを再現し ている。 リンブルク地方 《トンゲーレンTongeren》 周囲の市街地に統合され,家族用の住居とし て売却された。施療三跡は屠殺場となっている。 《ハッセルトHasselt》 13世紀に起源をもつ最初のホフは市回外にあって, 近代以降のべギンホフ 15 カルバン主義者により1567年に破壊された。1571年に市壁内に再建されたホ フが一部現存し,公営の図書館などを置いている。ベギンホフ教会は1944年の 空爆で破壊されたまま再建されていない。 《スィント;トライデンSint Truiden》 ベギンホフ跡は,通りの名称に わずかにそのなごりをとどめている。教会は修復された。 註 (1) 中世のベギン運動については,Mens, A., Oorsprong en betekenis van de Nederlandse BegiJ’nen−en Begardenbewegung. McDonnell, E.W., The beguipes and beghards in rnedieval culture with spe− ciaZ emphasis in the Belgian scene. Grundmann, H., Zur Geschite der Beginen im 13. Jahrhundert. Archief ftz r Kulturgeshichte 21(1931) pp. 296−320. ld., Religi 6 se Bewegungen im Mittelater, 1935. Peters, 」., Norddeutsches Begardentum im Mittelalter. Niedersache. cJahrbuch41/42(1969/70). pp.50−118, Neumann,E.G., Rheintsches Beginenund Beghαrden一ωesen.1960.拙稿「中世のべギ ンー一一一度な女たちの軌跡一一一」(『一橋研究』第15巻第3号,1990 11月)など。ベギンホフについては古いが.,Philippen, M., De Beg− iJ’nhoven. Oorsprong, Geschiendenis, lnrichting, 1918. (2) フロート;ベギンホフについては01yslager, W.A.,Het Groot Be8− i]’nhof van Leuven. 1978. ld., The Groot Begi]’nhof of Leuven. s. d., Lemaire, N.R., Genicot, L. Fr,, Van Thielen, R., Matthys, A., L’infirmerie du Grand Beguinage de Louvain, Bulletin de la commision roblale des monuments et des sites 16 (1965−1966). (3)Olyslager, W,A., The Groot Be8加ん(ゾ()f Leuven, s. d. p,16 (4) ld. op. cit. ibid. (5) Olyslager, W. A., Het Groot BegiJ’nhof van Leuven, 1978, p. 16. OZblsZager, W. A., The Groot BegiJ’nhof of Leuven. s.d.pp.18−19, (6) Olyslager, W.A., ffet Groot Begijnhof van Leuven, .1978, pp. 198−201. 01yslager, W.A., The Groot Begij’nhof of Leuven, pp. 119−122.(7) Id., Het Groot Beg義ノnof vαn leuv〔∼n,1978, P.201. (8) Olyslager, W.A., Het Groot Bθg加(ゾvan Leuven,1978, p.203. (9) ld.op.cit., pp.16−17, Philippen, L.J.M., De Begij’nhoven. 1918, pp. 40−166 (10) Olyssager, W.A., Het Grbot Begijnhof van Leuven, 1978, pp, 16−17 (11) ld. op,cit,, pp.209−211. 16 一橋研究 第17巻第4号 (12)Id. op.cit., p.26, pp.205−206, pp.207−209.646年の調査では100 館中,60館が寄宿生を置いており,寄宿生は全体で272人にのぼった。多 いベギンで,10人,12人,平均で,3人から5人預かったようである。 宗教改革期の女子教育についてはKing, M.L, Women(’f the Renα issance, 1991, pp.164−172 (13) Olyslager, W.A., The Groot Be8ijnhof of Leuven, s.d., pユ7, (13)Id., The Groot Beg加ん(ゾof Leuven, p.17.現在フロート=ベギン ホフには,施療院と精霊ターフェル,教会を別にして72館の建築物がある。 このうち,50番,51番68番,71番,72番が16世紀の建築で,ほかはほとん ど17世紀,とりわけ1620年から1700年にかけてのべギンホフ黄金時代の建 築である。18世紀の建築は,20番と,59番と,74番,75番の切り妻屋根で ある。19世紀からの建築は,38番と55番である。現存しないものとしては, 19世紀,20世紀に老朽化のために消えた17館,1944年に,退却中のドイツ 兵により爆破されたゲイル河(ホフを貫通する河川)沿いの6館がある。 59番は,1973年に市内のパレイスストラートから移築された。Id., The Groot BegiJ’nhof in Leuven. p.49. 51. (14) Schmidt, C., Die Strassburger Begincenhauser im Mittelalter. Alsatia. Beitrage 2ur elsassischen Geshichte, Sage, Sitte, und Sprache. hrsg, von August Stober, M u lhausen−Basel 1861, p. 22 8.また,Schmitt, C.一Cl., Mort d’une hilresie∫1’Eglise et les cler cs face aux bbguines et aux bbghards du Rhin supbrieur du XIVe au XVe sieecle, Paris 1978, pp.139−151は,ライン中上流域都 市におけるベギン館衰退現象を検討しているが,財政危機仮説を退け,ベ ギンをも含めた社会全体のベギン共同体に対する姿勢attitudeの変化の 影響を示唆している。 (15) Brugge, J,, Virginitas; An Essay in the History of Medieval Idea. 1975. King, M.L., op.cit., pp. 135−138. (16) Olyslager, W.A,, Het Groot Begijnhof van Letcven. p. 18f. (17)脱キリスト教化についての最近の議論については,大津真作訳,ピーター・ パーク『フランス歴史学革命アナール学派1929−89年」1992年岩波書店 (Burke, P., The French Historicαl Revolution,1990)139−144頁。 ミシェル・ヴォヴェル「フランス革命と教会」(谷川稔,田中正人,天野 知恵子,平野千果異趣)1992年,人文書院(Vovelle, M., Lαrevoluti on contre J’eglise, Paris 1988.)。柳原邦光「革命暦第二年の非キリス ト教化運動とカトリック聖職者」(「史学研究」180号 1988年)柳原邦光 「「ペール・デュシェーヌ」における聖職者批判と非キリスト教化の問題」 (「史学研究」184号 1989年)など。 (18)南ネーデルランドが1714年にオーストリア領に編入されると,皇帝ヨゼ フニ世時代(1741−1790年)は,修道院廃止令を敷いたが,ζの法令はべ 近代以降のべギンホフ 17 ギンホフを対象に含めなかった。ベギンホフ制度までを含めた修道院廃止 令は,フランス共和国政府によるものが最初である。Olyslager, W.A., The Groot Begijnhof of Leuven, p,19ff. Olyslager, W.A,, Het Groot Begijnhof van Leuven, 1978, p.80. Philippen, L.J.M., Overzicht van de Geschiedenis der Nederlandsche Beginen, in: Leurs, S., Van Mierlo, S.J:, Philippen, L.J.M,, Stefens, A., De Begij’nhoven.1931, p.18. De Kerc, H., Lagislation et culte de la bienfaisance en Belgique, 1852, pp.128−130. Van Buyten, L., Beg ijnen en Begijnhoven. Sρiegel Historiα18(1973), P.540.南ネーデ ルランドは,1794年7月24日,革命防衛軍の侵略をうけ,翌1975年,共和 国に併合された。 (19) Olyslager, W.A., op.cit., passim. (20)17世紀の規定は,フロートーベギンホフの大門は「夏には夕刻8時頃, 冬には6時に」閉められなければならない,としている。また門番は,「兵 士,異邦人を」を,教会とべギンホフに入れてはならず,門限に遅れたべ ギンをチェックしなければならなかった。定刻後のベギンの外出は禁止さ れていた。Olyslager, W.A_Het Groot Begijnhof vαn Leuven, 1978, p. 56, (21)Id., The Groot Beg珈ん。/of Leuven, p.59−63,金策は容易ではな かったらしく,競売から2年後に,支払いが滞れば教会は再び競売に付さ れる旨の通達があった。教会での宗教的儀式が再び許可されるのは1803年。 (22) Olyslager, W.A. The Groot BegiJ’nhof ofLeuven, p. 22. 01yslag er, W.A., Het Groot BegiJ’nhof van Leuven. 1978, p. 20. (23) Philippen, L.」.M., Overzicht van de Geschiedenis der Neder− landsche Beginen. in: Leurs, S., Van Mierlo, S,J., Philippen, L.J.M., Stefens, A,, De’B,egij’nhoven. !931, p.19. Van Buyten, L., Begijnen en Begijnhoveh. Sptegel−Historiα18(1973), P.540.老齢化 については,Werken enんerken:750 jααrわegijnh()fleven te gent, 1984,pp.34−40.ことにp.35の人ロピラミッドが指標になるだろう。18, 19世紀のベルギーにおける聖職者,修道士,修道女,ベギンの推移は,Tih on, A,, Les religieuses en Belgique du XVIIIe au XXe siecle. Approche statistique, BeZgisch tiidschrift voor nieuLvste geschiedenis 7 (1976), pp, 1−54 (24) Tepe., W., Begijnen in de Lagelanden, 1987. pp,47−146. (25) Laatste Leuvense begitje overleden. Het Voth 1988.8ユ9この記 事について教えてくれたSimone HagHebaertに感謝する。 Interview: Het Begijntje. ’t Hofken; maandeliJ’ks blad van het universiteit centr“rr} Groot Begij’hof Leuven, jaargang 1, nummer 1(1987), pp,4−7,インタビューと死亡記事の全訳は,!988年1月15日に一橋大学社 18 一橋研究 第17巻第4号 会学研究科に提出された筆者の修士論文『ベギン運動とべギンホフ」の形 成から巻末に付してある。本稿も修士論文(第三部「近代以降のべギンホ フの歴史から」が本稿の原形をなしている)もベルギー留学なくしては成 立しなかった。1987−88年年度給費留学生として留学のチャンヌを与えて くれたベルギー政府に感謝する。 (25) ベルギーは現在も住民の90%をカトリック教徒が占めるが,行動規範 としてのカトリック教義は,影響力を弱めっっあり,それが,志願者減少の中 での施設保存運動となってあらわれている。 (26) Tepe, W., op. cit. ibid. (筆者の住所 〒186 国立市西2 1 16 203)
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