開発途上国工業化の条件 −1960年代台湾造船公司における - R-Cube

第1
5号
『社会システム研究』
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7年9月
査読論文
開発途上国工業化の条件
−196
0年代台湾造船公司における技術移転の例 −
*
洪
紹洋**
!.研究の動機
第二次世界大戦後,中華民国政府が中国大陸から撤退して台湾へやってきたため,1950年以
降の台湾では中国大陸との政治・経済関係が途絶え,実質的な独立経済体になった.台湾は,
アメリカ合衆国,日本,国連などから資金や技術援助を受け,独立した工業化の道を進んで
行った。これらの援助はアメリカ合衆国とソ連との冷戦体制から構築された国際的な政治・経
済体制の下で行われた.しかしながら,日本が台湾に対して行う援助は,戦前の植民地の統治
関係から戦後の国際的な協調関係への転換という意味で,米援(アメリカ合衆国の台湾に対す
る経済援助)とは本質的が異なっていた.日本は1930年から台湾で工業化の初期段階に必要な
複数の有形及び無形の基礎的な建設を進めてきた.このため,台湾における戦後の技術移転で
は,部品の規格或いは操作上の特性などにおいて,日本の技術システムの方がアメリカのシス
テムよりも理解され易く,受け入れられ易かった.これは,1950∼1970年までに台湾政府が許
可した技術協力を見ても日本企業が4
19件,アメリカの企業が73件,その他の国の企業が3
9件
で,日本企業との協力件数が全体の66.4%強を占めることからも,前述の特徴が説明できる1).
よって,日本が台湾という戦後の新興国家の工業化においで,特に技術移転という点で重要な
役割を果したことは明確であると考えられる.
また,1945年に,第二次世界大戦が終了し,台湾は植民地から独立し,新興の開発途上国に
なった.台湾が直面した課題の1つは,過去の植民地経済から完全に独立した経済体に転換す
ることだった.戦後の開発途上国の経済発展では,複数の学者がそれぞれ異なる見解を示して
いる.
*
本研究を作成する過程において財団法人至友文教基金会2005年度研究奨励金を頂きましたことをここに深く
感謝致します.
**
連 絡 先:洪
紹洋
機関/役職:政治大学大学院経済学研究科博士課程.中央研究院人文社会研究中心東亜経貿発展研究計画博士
課程奨助計画
機関住所:台湾台北市南港区研究院路二段128号/中央研究院人文社会研究中心東亜経貿発展研究計画
E - m a i l:92258504@nccu.edu.tw.
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Paul Baranは,戦後,植民地から独立した新興国家には,植民地時代の不等な価格による交
換経済体制が残存し,余剰経済が貧しい国から富裕国へ移転して資本主義の発展,または発展
途上国の犠牲という代価になると主張した2).
A.G.Frank は Baran の中心=周辺依存理論を基礎として従属理論を主張した.それによる
と,第二次世界大戦後の国際経済・貿易関係の下,経済発展における主要な受益者は開発途上
国ではなく,先進国である.後者は先進的な技術を制御して,相次いで高レベルの技術を産み
出す.また,先進国には多国籍企業の本部が置かれるため,強大な経済的支配力を具える.よっ
て,開発途上国が工業化を進める場合,資金及び技術面で先進国に依存せざる得ない.その結
果,開発途上国は周辺の従属的な国にしかならず,先進国に余剰を搾取され続ける.Frank
によれば,第三世界の貧困とは,資本主義の伝統或いは制度から形成されるのではなく,資本
主義における世界体系の働きが形成したものである.周辺の従属的な立場にある第三世界は,
核心地域である先進国へ農産品などを輸出するとともに,先進国から製品を輸入し,依存性の
工業化の周縁に向けた構造になる.その結果,第三世界の経済余剰が先進国へ移転し,長期的
な経済成長を遂げることができない3).
戦後,資本主義の後進国として出発した台湾は,アメリカ合衆国,日本など資本主義の中心
地域にある先進国の援助を受けなければならなかったが,上述の従属理論の「予言」を乗り越
えて,経済発展を進めることに成功した.戦後の台湾の工業化の発展は明らかに従属理論に対
する大きな挑戦だったと言えよう.
また,工業化の発展開始時間の前後で区分すると,第二次世界大戦後の世界各国は先進国と,
後発国の2種類に分けられる.A.Gerschenkron は後発国はすでに開発された技術を採用する
ことにより速い速度で工業化を実現することができると主張した4).一般に,後発国は先進国
が開発した技術をモデルにして,躍進的な方法で先進国との距離を縮めることができる「キャッ
チアップ(catch up)方式」で工業化を進め,先進国が得た成果を利用して短期間に工業化を
進めることにより,一定レベルの経済成長を行うのである.
A.Amsden は,後発国が経済発展を推進する場合,政府は高度な協調性を具えた干渉政策を
採用するとともに,補助的な政策で産業の発展を推進する.しかしながら,後進国と先進国の
差はすでに大きく,Gerschenkron が提出した躍進方法で先進国との距離を縮めることができ
ず,学習する方法を通して成熟した,或いは中等の技術水準の産業を導入して外部の技術を吸
収するとともに,技術改良を行ってこそ,先進国との距離を縮めることができる5).事実,戦
後の台湾は後発国の立場から技術移転の方法で多くの研究開発コストを省略してきた.これは
「後発国がメリットを受けた」典型的な例の1つであると言える.
戦後の台湾の工業化,特に台湾と日本との貿易と同時に進行した技術移転を分析対象として
いる.戦後,台湾は日本の植民地ではなくなったが,技術面での日本との関係は継続された.
両国の関係は,戦前の植民地という従属関係から,戦後の貿易を発展させるための重要なパー
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トナーという関係に徐々に変化してきた.即ち,日本は台湾にとって最も重要な技術輸入国に
なったのである.
技術面での授権に重点を置き,企業の技術水準にもたらした変化を観察するために,この研
究では,台湾造船公司をとりあげる.選択の主な理由は,造船業が電気,機械,化学,鋼鉄な
どさまざまな産業を合わせた複合的な産業であって,戦後の台湾の工業化の推進に重要な役割
おを果たしたと考えるからである.
台湾の造船業の研究では,許毓良が「光復初期台灣的造船業(1945−1955)−以台船公司
例的討論」で,戦後初期の発展について検討している.この論文では当時の台湾造船公司の上
層部が中国大陸における造船の経験を具えていたため,江南造船所の管理制度を経営の基礎と
して採用したことを明きかにした.このため,いわゆる「中国大陸の経験」が継続して台湾で
も利用された.どちらか,戦後初期の台湾の造船業は船舶の修理を主な業務としており,造船
及び機械の製造は補助的な業務だった.このため,台湾造船公司は積極的に外国メーカーとの
技術協力を推進して造船と機械製造の技術品質を高めようとした.しかしながら,許の論文で
は技術の導入に関して,政策に重点を置いて検討しているため,技術移転の成果及び効果に関
する考察は行われていない6).
朝元照雄の「現代台湾経済分析―開発経済学からのアプローチ」では,大川一司と渡辺利夫
の「圧縮型発展」を援用し,さまざまな経済指標を利用して戦後の台湾経済の発展過程を論証
し,粗鉄,機械など多くの産業が日本に比べて短時間で工業化を達成していると述べている7).
この本では台湾の造船業は1960年代から拡張し続け,6年間で輸入代替段階(輸入代替期)か
ら輸出拡張期(輸出志向期)の段階へ転換し,短期間で造船業の輸入依存度が60%低下し,輸
出依頼度が50%上昇したと述べて,このような現象は過去の先進国の歴史経験ではめずらしい
ことだと評価している8).しかしながら,朝元は重化学工業の発展において鋼鉄及び石油化学
業に重点を置いて研究しており,造船業に対しては概略程度の記述しか行っていない.
こうした研究の欠如を補うために,1960年代の台湾造船会社と石川島播磨株式会社との間で
進められた技術移転を実例として分析し,考察を進める.というのも台湾が正式に大規模な重
化学工業化を進めた1970年代に至る前に,台湾造船公司が技術を輸入する方法で重化学工業の
発展の基礎的学習を進めていたことかろである.
よって,戦後の台湾と日本の技術輸入の関係と変化を明きろかにするだけでなく,既述の
「キャッチ・アップ型」および「圧縮型」と呼ばれる工業化の初期段階を分析することで,発
展途上国における工業化の条件に関しても新たる要因を提示できると考える.
!.草創期(日本統治時代∼1961年)の台湾造船公司
台湾造船公司の前身は1919(大正8)年に設立された基隆船渠株式会社である.基隆船渠株
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式会社は,当時,台湾で鉱業を営む木村久太郎が台湾総督府の支持を受けて設立した.その主
な業務は,船舶の修理であった.1937(昭和12)年,日本の三菱重工株式会社,台湾銀行,台
湾電力,日本郵船,大阪商船,台湾の顔欽賢一族が共同で出資して台湾船渠株式会社を創立し,
基隆船梁株式会社を併合した9).
1945年,国民政府は台湾船渠株式会社を接収した.その後,1946年5月1日に国民党政府は
「台湾船渠株式会社」
,「株式会社台湾鉄工所」
,「東光工業株式会社」を合併して,台湾機械造
船公司を創立し,行政院資源委員会と台灣省政府が合資で経営する公営企業にした10).1948年
4月,台湾機械造船公司は高雄工場地区と基隆工場地区に分離され,それぞれ台湾機械公司と
台湾造船公司とを設立した.この研究では,分割されて基隆に設立された台湾造船公司を対象
にする11).
台湾造船公司は設立初期,日本統治時代の設備を引き継いだ以外に,中国の中央造船公司に
「日本賠償拆遷委員会」から分配された機械を台湾へ輸送した.これにより,工場の拡張を進
め,船舶の修理業務を開始した12).造船では,1950年から自らの設計で船舶を建造するととも
に,1952年初めに2艘の75ノット級のマグロ釣り漁船を建造した.1953∼1957年,台湾造船公
司は政府の経済政策に合せて,日本の石川島重播磨重工業株式会社と技術協力を進め,
100ノッ
ト級の底引き網漁船を建造するとともに,ディーゼル機の生産を開発した13).)
この期間,台湾造船公司は技術力不足の状況の下,外部のシステムの採用と基礎技術能力の
向上とによって,船舶の修理と造船技術を高めようとした.外部のシステムの採用では,台湾
造船公司は1949年春,アメリカ合衆国の船舶検査協会であるアメリカン・ビューロー・オブ・
シッピング(American Breau of Shipping)及びイギリスの船舶検査協会のロイドレジスター
オブシッピング(Lloyd’s Register of Shipping)からそれぞれ船舶の検査員を台湾に派遣して
もらい,台湾で船舶の修理を行って国際的な船舶修理の知識を吸収した.即ち,台湾造船公司
は国際的な船舶の品質検査システムにより,業務を拡張して,船舶の修理業務を国内市場から
国際的な市場へと展開させようとした14).また,台湾造船公司は自社で育成コースを開講
し,1953年から作業員の育成を開始して,電気溶接や,鉄工技術の育成を強化した15).
1957年9月,政府は台湾の造船業を現代的な造船メーカーに発展させるため,外国資本を導
入する方法で,大量の石油を輸送する能力を具えた船舶を建造する造船の新技術を吸収しよう
と試みた.よって,政府は台湾造船公司をアメリカのインガルス造船所(Ingalls Shipbuilding
Co.)に貸し出して,台湾造船公司の所在地に「インガルス台湾造船公司」
(以下殷台公司と称
す)を設立した.しかしながら,殷台公司は資金運用の面で失敗し,業績が赤字となり,1962
年,廃業,解散に追い込まれた.よって,政府は台湾造船公司の経営権を経済部から回収せざ
るを得なかった.殷台公司時代の造船実績としては,主に36,
000ノット級の,当時としては大
量の石油を輸送するといわれた超大型の信仰号,自由号を建造した.このため,台湾の造船業
は,殷台公司時代に大型船舶の建造と,多様化した船舶の建造に進み出したということができ
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る16).
!.台湾造船公司と石川島播磨重工業株式会社との技術移転政策の形成と締結
(1962∼1970年)
殷台公司が解散した後,アメリカ籍の技術者が台湾を離れたため,台湾造船業は技術面で,
外部の支援を失い,技術向上を図るための技術の輸入先を失った.このため,政府は日本の造
船業界に技術支援を求める方針へと転換し,技術協力による設計の協力,技術指導,重要機械
の購入や設置を行おうと試みた.政府は1950年代に台湾造船公司と技術協力を契約していた石
川島播磨重工業株式会社(以下石川島と称す)
,戦時中,台湾造船公司に関連する設備を建造
した三菱造船,新三菱重工業,三菱日本重工業株式会社などと主に接触し,その後,石川島と
三菱株式会社の2社から1社を選択して技術移転を進めることを決定した.
石川島が提出した造船計画にでは,12,
500ノット級の貨物船の建造を主軸とし,一年目
(1964年)に1艘,二年目(1965年)に2艘,三年目(1966年)からは毎年3艘を建造でき,50
万ノットの船舶を修理する能力を具えることができるようになっていた.また,1966年以後に
は台湾造船公司の造船能力は国際的な水準に達すると予測していた.石川島は台湾造船公司の
技術能力が一定の水準に達した後,台湾造船公司を基地としてヨーロッパ,アフリカ,中東,
東南アジア,南アメリカなどに副機,船舶用の艤装品及び陸上で使用する各種機械を輸出する
ことを約束した.石川島は日本国内及び世界各国が所有している直接及び間接的な組織網を利
用して石川島と台湾船造船公司との技術協力により製造した機械や器材を日本で販売するか,
世界各国へ販売することを計画した.また,石川島は世界各国に輸出している肥料,セメント
設備などの各種機械設備及び機械の更新,部品の補充を台湾造船公司に製造させることも計画
した.さらに,人材の育成では,石川島も技術者を台湾に派遣して協力することと,台湾造船
公司から技術者を日本へ派遣して訓練することを約束した.石川島は台湾造船公司が技術的に
進歩して海外に機械を輸出できるようになると説明した.しかしながら,設備の面では,石川
島は新しい機械設備を構築するつもりはなく,台湾造船公司が所有する設備で造船及び船舶の
修理業務を行って,必要な経費を比較的低く抑えようという計画だった17).
三菱造船が提出した計画では,業務の主軸は船舶の修理だった.その理由は,基隆の工場は
当初,戦前に三菱が工場や設備を建設しており,その設備が船舶の修理用に提供されたものだっ
たからである.収納できる船舶数には限りがあることに加えて,台湾造船公司が所有している
造船技術では造船業務を行うことはできないと判断したのである.よって,造船面では,5
00
トンの小型船舶を建造し,徐々に5,
000トン以上の大型船舶を建造できるようにすることを構
想していた18).三菱が提出した計画では,基本的には船舶の修理と造船業務に重点が置かれ,
先に船舶の修理業務を主に行ってから,小型船舶の建造に取り掛かり,その後,陸上で使用す
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る機械の生産へと移っていくようになっていた.また,三菱造船も技術者を台湾に派遣すると
ともに,台湾造船公司の技術者を日本で受け入れて訓練することを約束していた.三菱は毎年
40万トンの船舶修理業務を台湾造船公司に紹介することを約束していた19).しかしながら,台
湾造船公司の営業目的は現在の設備を運用するだけでなく,職員の技術訓練を強化し,技術水
準を高めて,生産コストを抑え,技術協力により大型貨物輸送船建造技術を学ぶことだった.
殷台時代,台湾造船公司はすでに2隻の36,
000トンの石油輸送能力を具えた船舶を建造する
能力を具え,12,
500トンの貨物船を2隻建造していた.このため,政府は三菱造船船舶の修理
を経営の主体としている提案には同意することができなかった.即ち,三菱造船が提出した計
画では,台湾造船公司の工場設備は船舶の修理を主に行うためのものであって,造船のために
技術協力を行う場合,大規模な工場設備の建設を必要とするため,三菱造船が提出した資金計
画では必要な経費が石川島よりも高くなるというものだった20).
表1
石川島と三菱株式会
が提出した台湾
船公司との技術協力計画書の製造能力の比較
単位:年間生産量
石 川 島
新造船建造量
三
菱
1966年に12,
500トンの貨物輸送船を3隻建
1970年に船舶の建造ができるようにする
造する
A.
500トンの漁船1隻
B. 5,
000トンの貨物輸送船2隻
C.12,
500トンの貨物輸送船2隻
船 舶 修 理
500,
000トン
700,
000トン
機 械 製 造
5,
000トン
3,
000トン
資料:「日本石川島重工業株式会#與三菱"船公司擬與"船公司恢復
」
,案件番号:3
5−2
5−2
0 7
7,
台湾中央$究院!代 $究
案館 蔵経済部国営事業司 案.
2社が提出した計画は,重点が異なっていることが示されている.この差は2社の経営形態,
資本規模など様々な方面の違いから発生しているといえる.表1に示すように,新造船建造量
では,石川島の計画は比較的大規模な貨物輸送船を建造することができるが,三菱の計画では
小・中型の漁船,貨物輸送船を主に建造する.また,船舶の修理や機械製造では,石川島が提
出した条件はいずれも三菱に勝っている.当時,世界の造船市場では,日本企業の生産量が世
界一だった.日本国内では1950年代∼1960年,三菱の造船産業能力が1位だった.しかしなが
ら,1960年12月,石川島株式会社と播磨造船所が合併した石川島播磨重工業株式会社となった
ため,本文における石川島は,1
962年までの新造船建造量(進水量)が3
57,
900トとなり,三
菱 が306,
570ト ン で み っ た.ま た,新 造 船 の 産 業 能 力 は 石 川 島 が1,
608,
741ト ン,三 菱 が
1,
485,
000トンであった.このため,政府は石川島の生産能力の方が三菱よりも勝っていると
判断した21).
政策では,台湾造船公司の経営戦略は現在の設備に外国の技術を導入して,比較的少ない資
金で技術水準を高めることが目標だった.石川島の計画ではわずか1
6万ドル(USD)で目標
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を達成することができ,発展途上国である台湾のように外貨保有が乏しい国にとって,多くの
資金を抑えることができる方が好ましい選択だった.人事面では,石川島は5人だけを台湾造
船公司に顧問として派遣するとしたが,三菱の計画では20∼30人派遣することが必要だった.
このように,日本国籍の人材を起用するコストでも石川島の方が優勢を保っていた22).さら
に,1954年,すでに石川島は殷台公司以前の台湾造船公司と10年間の技術協力の契約を締結し
ていた23).よって,経営目標やコストの面における比較,分析の結果,政府は最終的に台湾造
船公司が石川島と技術協力を進めていくことを選択した.双方は1965年5月17日,技術協力の
契約を結んだ24).
さて,ここまでは台湾側から見た技術協力の必要性を見てきたが,技術を提供する日本側は,
どのような歴史的背景の下で台湾と技術協力を進めようとしたのだろうか.
戦後,日本政府は船舶を海外に販売して国内景気を回復させようと試みていた.1953年8月,
日本政府で造船コストを低下させる一時的な措置が通過され,日本の鋼材価格と国際的な平均
価格との差額を補填した.また,1954年1月には日本輸出入銀行が船舶の支払い延期融資制度
を開設した25).政府の造船政策の補助と支持の下,戦後の日本の造船業は発展し,1955年1月,
経済企画庁調査課が日本の重要な製品に対して行った国際的な競争力調査では,労働集約度の
比較的高い船舶業の価格競争力がイギリスに匹敵するものだと評価した26),その翌年には,進
水量と竣工量がイギリスを上回り,世界第一の造船国家になった27).
戦後,日本の造船業が回復するとともに,日本の造船メーカーは発展途上国に設備投資を行
うか,或いは技術提供の方法で世界の市場に拠点を広げようとした.その目的は,現地の比較
的安い労働力を利用して生産コストを抑えるだけでなく,現地のメーカーと協力する方法で高
度な技術がなくても生産できる部分を発展途上国で生産し,海外拠点を衛星的な工場として,
日本の生産量と品質を高めることであった.また,海外に拠点を拡大する戦略を通して国際市
場へと販路を拡大し,国内の市場規模が限られていることにより発生する価格競争で利益が抑
えられることを避ける目的もあった.
1960年代の石川島は上述の状況を考えて,積極的に海外への拠点拡張を進めた.石川島は1959
年,ブラジル政府とリオデジャネイロにブラジル造船工場を建設することに合意した.その後,
シンガポール政府と共同で造船工場を建設することに合意した.このように,石川島の台湾造
船公司への技術協力は台湾を国際的な加工基地の下請け層に組み入れて,技術移転が成功した
後,石川島に商品を提供する世界的なビジネスネートウークの1つにしようという試みだった
といえる28).
石川島は技術協力の契約案を主に4つの側面に分けて決定した.第一は,技術管理契約であっ
て,主には経営管理面における技術を提供して,台湾造船公司に最高の管理原則の下で,船舶
を建造できるよにするものである.その中には,設計技術,生産管理の方法,生産技術指導,
生産設備計画,資材の購買と管理などが含まれている.また,台湾造船公司職員の教育も重視
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しており,1960年代の台湾で,公営,民営事業に関わらず,職員に対する教育が十分に重視及
び実施されていなかった状況下では珍しい企業内部戦略を提示した.
第二は,造船機材の購買契約を整えるものであり,造船コストを下げるだけでなく,機材の
品質に対する要求も重視される項目の1つになっていた.石川島は台湾で製造できない,或い
は製造できても品質と価格が理想的でない機材は石川島が契約に基づいてできる限り最低の価
格で提供する条件でしで,造船機材を購買することを求めたのである.
第三は,石川島が台湾造船公司に新造船及び船舶修理業務の基本的な契約である.しかしな
がら,この契約は,台湾造船公司の新造船,船舶修理の両面における技術とコストが国際的な
水準であることを前提にする.この契約の効果は,台湾造船公司にもたらされる業務量が増加
して規模の経済に達し,台湾の外貨収入が増加することにより証明される.この契約を通して,
石川島のビジネスにおける知名度と日本と世界との間に設けられた経路や影響力をもとに,台
湾造船公司に十分な業務量と収益をもたらすと期待することができた.
第四は,石川島と台湾造船公司との機械,機器などの購買に関する総合的な契約である.石
川島は同社が必要としている付属機械,艤装品の設備,陸上で使用する各種機械,機器は,台
湾で製造し,且つ品質と価格が国際的な水準に達していれば,日本へ,或いは海外へ輸出でき
るとしている.この契約によれば,石川島は台湾の関連産業の技術を高め,品質や付加価値で
も向上させて,輸出能力を具えさせるだけでなく,台湾造船公司を石川島の下請け産業に組み
入れようとしていた29).
また,1960年代初期,殷台公司から経営権を回復時に台湾造船公司が所有していた資源と技
術が,石川島が技術を移転する前の生産の基盤となったが,その機械,機器設備のソースは主
に4種類に分けられる.1種類目は戦前に日本人が残した設備で,これが全体の4
5%を占め
る.2種類目は戦後日本の賠償として委員会が取り払い,移したもの,及び余剰物資から構成
された設備で,約30%を占め,3種類目が米援で購買した機具で,約15%を占めた,4種類目
は殷台公司が購入した設備で,約10%を占めていた.殷台公司が購入した機材は旧型であった
が,造船の設備で,エネルギーが大きいため,巨大船舶を建造することができた30).つまり,
石川島との契約時,台湾造船公司が所有する生産設備は様々な設備を寄せ集めて形成された生
産システムだった.
技術移転の資材の購入計画では,台湾側は石川島が台湾から購入する製品を増やし,外貨の
支出が減ることを期待していた.石川島も一,二隻目を建造後,次第に台湾からの購買比率を
増やすことを約束した.また,契約は特定資材を輸入禁止の範囲に限定し,台湾造船公司,台
湾機械公司,或いはその他工場で製造するか,或いは台湾で購入できる部品,及び石川島の技
術指導で製造可能なものは,台湾で購入しなければならなかった31).
しかしながら,船舶建造の過程で,台湾造船公司は国内で製造できる未加工部品が次第に増
加してきた.主なものは,機械や装置の補機,甲板機械,電源及び動力装置,電気機器,艤装
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器,などで造船部品において比較的周辺の中間材に属する.一方,主機,発電用原動機,無線
電気装置,航海用の計器などは生産できなかった32).即ち,台湾造船公司は石川島と技術協力
を進めても主な機械を独立生産できる能力は備わらなかったのである.また,当時の台湾は一
連の大型製鋼所がなっかたため,鋼材はほとんど輸入に頼るしかなかった.
次に,機械工場設備では,石川島との技術協力の後,さらに大きなトン数の船舶の建造と,
さらに高度な船舶の修理能力を得るために,台湾造船公司は1966年以前は,緊急の拡張計画を
進め,1966年以降は,石川島が提案した4年計画実施した33).その目的は,石川島の技術を導
入して,比較的大きなトン数の船舶建造能力と,船舶修理能力の拡張を確実にし,獲得した能
力をさらに一歩高めることだった.台湾造船公司における職員教育をみると,台湾造船は1965
年7月12日に開催した「台湾造船有限公司第六区,第十五回役員会議」で,職員を日本へ派遣
して短期訓練を受けさせることを確認し,職員の訓練によって生産効率が上昇し,コストが節
減できることを期待した34).同年9月13日開催された第六区第十六回役員会議では,実習生5
人が石川島へ実習にいくことが決定された35).1968年5月までに,台湾造船公司から石川島へ
965年,殷台公司時
実習に行った職員数はのべ1
00人近くに達する36).また,台湾造船公司は1
代に中断していた技術訓練コースを再開し,基礎の部分を支える技術者を引き続き養成して,
職員が技術導入による必要な労働と造船の基本能力に対応できるように努めた37).
新船舶の修理・建造では,台湾造船公司は,新造船業務を請け負い,約束に基づき石川島か
ら設計,研究を委託された38).
!.技術移転後の台湾造船公司の生産と経営実績における変化
ここでは,台湾造船公司が石川島と技術協力を行った後の生産面,財務面などの経営実績に
おける変化を検討し,台湾造船公司が技術導入により会社経営の構造を改善した実際の状況を
確認する.
表2に開示するように,造船では,1965年,石川島と技術協力の契約を締結した後,1966年
からは前年に比べていずれも大幅に成長している.特に,1967年からは急速な成長が見ら
れ,1970年に10万トンの石油輸送船,有巣号の竣工で造船指数が1737に上昇し,台湾が大型船
舶を建造する能力を具えたことを示している.これは,台湾が石川島からの技術移転後,自身
で大型石油輸送船を建造する能力を具え,当時世界で18番目の造船国家になったことを意味し
ている.また,船舶修理では,1966年,比較的大幅な成長が見られ,それ以後は安定した成長
水準を保っている.こうしたの船舶修理,船舶建造における成長から,1960年代の台湾造船が
短期間で急速な成長を遂げたことがわかるとともに,石川島の技術移転で台湾造船公司自身の
経営改革拡張が工場の規模を拡大して,さらに多くの業務処理できるようにしたことも,欠か
せない要因の一つである.
9
6
『社会システム研究』
(第15 号)
表2
台湾造船公司の1
9
6
2∼1
9
7
0年の生産実績
指数:1
9
6
2年を1
0
0とする
年 度
造船(総トン数)
船舶修理(総トン数)
造 船 指 数
船舶修理指数
1962
10,
250
536,
612
100
100
1963
11,
062
486,
907
108
91
1964
3,
829
695,
926
37
130
1965
2,
790
617,
394
27
115
1966
8,
866
860,
711
86
160
1967
43,
139
761,
471
421
142
1968
45,
011
780,
148
439
145
1969
80,
320
778,
598
784
145
1970
178,
087
908,
096
1737
169
1年至6
4年』
(台灣造船公司:1
9
7
1
資料:台湾造船公司,『台灣造船股 有限公司−中程發展計畫−自民國6
年7月1
5日)
,p.
7
4.造船及び修理船の生産指数はこの研究のために計算したものである.
表3の台湾造船公司の総収入および損益状況から見ると,総収入は,1965年から成長し,そ
の後急速に増加している.損益では,1960年代初期に赤字が発生しているが,これはイン台湾
公司が残した債 務 処 理 に よ る も の で あ り,1
965年以降次第に増加している.P/R(Profit
Margin)は,会社の最終的な収益力を示しており,その数値が高くなるほど,企業の収益力
が高いことを示す.表3によれば,1965年以降の台湾造船公司の収益力は従来に比べて明らか
に改善している.
表3 1
9
6
2∼1
9
7
0年の台湾造船公司の営業総収支及び損益
P / R
年 度
総収入(p)
1962
26
−0.
03
−0.
1
1963
82
−1.
2
−1.
5
1964
94
0.
7
0.
8
1965
126
3.
7
2.
9
1966
145
5.
2
3.
6
1967
432
13
3
1968
428
10.
6
2.
4
1969
612
12.
4
2
1970
978
18
1.
8
損
益(R)
単位:1
0
0万新台湾ドル
資料:経済部国営事業委員会,『経済部国営事業委員会 各事業五十八年年刊』
(国営事業委員会1
9
7
0年5
月)
,p.
1
4
8,経済部国営事業委員会,『経済部国営事業委員会 各事業五十九年年刊』
(国営事業
委員会,1
9
7
1年5月)
,p.
1
5
4.
表4は,台湾造船公司の投資面における起債の程度を示したものである.資本支出(C)は
投資金額を示し,企業が投資に必要な資金ソースは2種類に分けられている.一つ目は自社準
備資金,もう一つは借款である.造船業は比較的多額の資金を必要とし,利益獲得が比較的遅
9
7
開発途上国工業化の条件−1
9
6
0年代台湾造船公司における技術移転の例−(洪)
い生産事業に属する.このため,通常,外部に借款をして必要な資金を集めなければならない.
表4によれば,台湾造船公司は石川島と技術協力を開始した1965年から,大規模な造船と船舶
修理計画に合せて工場設備を緊急に拡張する4年計画を進めた.このため,1965年から∼1969
年の間,長期借款が資本支出の比較的高い比率(L/C)を占めている.長期借款の資金の出所
は,1965年に米援が終了した後,台湾政府が日本政府と締結した円借款を含んでいる39).台湾
政府は造船業など主導的な産業の発展のために,政府部門を通して日本政府に融資を依頼した.
しかしながら,円借款資金の運用は日本製の製品や設備の購入,日本人の技術顧問,技術者へ
の給料の支払いに限られていた40).よって,台湾造船と石川島の技術移転は,生産面で日本に
依頼するだけでなく,資金面でも政府の力を通して日本政府に融資提供を依頼していた.劉進
慶によれば米援の終了後の円借款の導入によって,台湾に対する日本の独占資本による旧植民
地的関係が強化され,これが戦後の輸出入貿易及び民間投資から公営事業体系にまで延伸し,
官公庁や民間企業さえも日本資本に依存する状況を作り上げったことになる41).つまり,公営
企業の台湾造船公司は日本に依存する経済体制にあった戦後の台湾にみられる企業の一例と見
なすことができる.
表4 1
9
6
2∼1
9
7
0年の台湾造船公司の資本支出と資金先
単位:1
0
0万新台湾ドル
年 度
資本支出(C)
1962
1
1
0
0
1963
36
36
0
0
1964
8
8
0
0
1965
25
7
17
74.
0
1966
41
17
24
57.
4
1967
63
36
27
42.
3
1968
226
116
110
48.
5
1969
179
100
79
44.
3
1970
133
115
18
13.
5
自社準備資金
長期借款(L)
L / C
(国営事業委員会1
9
7
0年5
資料:経済部国営事業委員会,『経済部国営事業委員会 各事業五十八年年刊』
月)
,p.
1
4
9、経済部国営事業委員会,『経済部国営事業委員会 各事業五十九年年刊』
(国営事業
委員会,1
9
7
1年5月)
,p.
1
5
5.
表5は,台湾造船公司の経営状況を示したものである.表5によれば,台湾造船公司は1966
年以降の黒字と営業総収入の比率がいずれも1966年以前に比べて高くなっている.これは,台
湾造船公司の利益状況が改善したことを示している.黒字と減価償却後の価格の比率は株主の
報酬率を示しており,1965年以降,いずれも安定した利益を上げている.即ち,台湾造船公司
は石川島と技術移転を進めた後,利益獲得能力が改善した.
表6は,台湾造船公司が石川島から技術を導入した後,1966年から製品が海外販売能力を具
え,外貨収入が増加した状況を示している.劉進慶が述べているように,台湾の工業は外国の
資本と技術,及び資源の移転を通して製品の国際的な競争力を上昇させて,輸出入市場を完成
9
8
『社会システム研究』
(第15 号)
表5台湾造船公司の経営分析比率
年 度
黒
字
状
況
の
分
析
黒字と営業総収入の比率
黒字と減価償却後の価格の比率
1962
−0.
1
−0.
1
1963
−1.
5
−3.
9
1964
0.
8
1.
9
1965
2.
9
9.
6
1966
3.
6
4.
4
1967
3.
0
5.
4
1968
2.
3
3.
5
1969
2.
0
3.
2
1970
1.
8
4.
6
(国営事業委員会,1
9
7
0年
資料:経済部国営事業委員会,『経済部国営事業委員会 各事業五十八年年刊』
5月)
,p.
1
5
2、経済部国営事業委員会,『経済部国営事業委員会 各事業五十九年年刊』
(国営事
業委員会,1
9
7
1年5月)
,p.
1
5
8.
させた42).そして,確かに朝元照雄が提出した圧縮型の命題は,1960年代に石川島から技術を
導入した後の数年間で,製品の能力を国内市場に供給する方向から次第に上昇させて海外販売
能力を具えるようになっていった.しかしながら,年間輸出量が輸入量を上回ったのは,1972
年になってからだった43).
表6
単位:USD1,
0
0
0
台湾造船公司の外貨収入
年 度
海外販売製品
労務及びその他
合
計
1960
0
0
0
1961
0
0
0
1962
0
10
10
1963
17
4
21
1964
0
119
119
1965
0
155
155
1966
522
154
676
1967
685
366
1,
051
1968
2,
246
3,
080
5,
326
1969
2,
202
1,
094
3,
296
1970
6,
219
2,
487
8,
706
(国営事業委員会1
9
7
0年5
資料:経済部国営事業委員会,『経済部国営事業委員会 各事業五十八年年刊』
月)
,p.
1
5
4,経済部国営事業委員会,『経済部国営事業委員会 各事業五十九年年刊』
(国営事業
委員会,1
9
7
1年5月)
,p.
1
6
0.
上述の状況を分析すると,台湾造船公司は1965年,石川島から技術を導入後,造船,船舶修
理などの生産面だけでなく,財務構造と経営実績も明らかに改善し,収益状況が増加した44).
台湾造船公司は石川島との技術移転契約締結後,1970年5月7日の期間満了時に再度,5年間
開発途上国工業化の条件−1
9
6
0年代台湾造船公司における技術移転の例−(洪)
9
9
の契約を結んでいる45).契約が延長されたことは,台湾造船公司と石川島との技術協力が双方
にとって肯定的なものであったことを示すとともに,台湾造船公司の発展が常に石川島の技術
に支えられていたことを示している.また,技術協力の過程において,台湾造船公司は船舶を
生産の鍵となる機械器具などが十分に備わっていたとはいえいなかったが,石川島と協力して
船舶を建造する中で,大型船舶を建造する方法を学習し,技術面での基礎を固めたと言える46).
!.結論
戦後の台湾造船業の発展は日本統治時代の船舶修理業務を起点として,戦後にアメリカ合衆
国の技術を吸収した後,日本の技術最終的には石川島の技術を導入して発展に成功し,1970年
からは10万トン以上の大型船舶の建造能力を有するようになった.
また,台湾造船業の例は,技術移転の過程で製造技術を導入する以外に,企業自身の経営環
境も改善し,業務を拡張し,職員の技術能力を高めることも必要な条件であることを示してい
る.即ち,技術導入の過程で,受け入れ国は消極的,受動的な受け入れ態勢ではなく,積極的
に協力していく必要があるということである.経営実績においても,台湾造船公司は1965年,
石川島と技術協力の契約を協議した後,生産面と財務経営の収益状況が明らかに改善した.
戦後の開発途上国の経済発展の観点から説明すると,台湾造船公司は,1960年代の発展は第
三世界が植民地統治から独立した後,先進国の技術移転により工業化を進めるとともに,海外
へ販売する能力をも具えた一例と言うことができる.これは,Paul Baran が主張する非社会
主義革命は工業化できないという推論に対する明らかな反証である.しかしながら,主要な主
機,発動機,鋼材などは輸入に依頼しなければならず,資本主義の後進国が先進国の技術に依
存する従属関係は変わることなく存在している.確かに,A.G.Frank の従属理論から戦後の
台湾の造船業を見ると,台湾造船公司の例は発展途上国の依存的工業構造から抜け出すことは
できず,石川島と進めた技術移転は,台湾造船公司の技術面での依存関係を構築したことは事
実である.しかしながら,台湾造船公司の技術移転は Amsden の後進国が先進国の技術を学
習する形式を実証し,台湾造船公司が戦後,アメリカの技術を学習した後,日本の技術を学習
するという形式で,大型船舶の建造能力を具えていったことは事実であった.
台湾造船公司は1970年代前,台湾造船業の一人者としての役割を演じ,1970年代以降は台湾
の大規模な重工業技術移転の先駆けとなった.十大建設中の中国造船公司は初期の工場建設と
生産規模拡大の研究計画を1973年に石川島に委託するとともに,同社に高雄の本部の設計を依
頼した47).石川島に代表される日本の技術は,中国造船公司の初期の工場設備,生産管理から
技術面に至るまで台湾の造船業は石川島に依存する体制を構築した.その後,中国造船公司が
独立した工業体として発展したのか,或いは引き続き石川島の技術に依存した国際加工基地の
一つになってしまったのかについては,今後の研究課題としたい48).また,1970年代以降の二
1
0
0
『社会システム研究』
(第15 号)
度の石油危機は中国造船公司の工場建設コストの増加と注文の減少を招いた.このため,中国
造船公司は,工場建設時に予期していた利益が減少して,経営困難な状況になった.このよう
な状況下でも,後発国の台湾は1960年代に成功したように,先進国の技術を利用する後発地域
としての利益により造船業を少なかろず発展させた.いずれにせよ,1960年代にまだ重工業化
の時代に入っておらず,多くの主要な設備,原料が以前として輸入に依存しなければならない
条件の下,台湾の造船業は,同時代の発展途上国に比べて成功した例と言える.
参考文献
インタビュー
李後鑛氏へのインタビュー記 ,2
0
0
6年1
1月6日.
アーカイブ
『台船與日本新潟廠技術合作巻』
,番号:3
5−2
5−2
0
7
9,中央研究院近代史研究所アーカイブ館経済
部国営事業司 案に所蔵.
』
,番号:3
5−2
5−2
0−0
0
1,中央研究院近代史研究所
『造船公司第四区董監事聯席会議記 (一)
案館経済部国営事業司 案に所蔵.
『台船與日本石川公司合作案』
,番号:3
5−2
5−2
0
7
6,中央研究院近代史研究所
案館経済部国営事
業司 案に所蔵.
『日本石川島重工業株式会社與三菱造船公司擬與造船公司恢復舊約』
,番号:3
5−2
5−2
0
7
7,中央研
究院近代史研究所 案館経済部国営事業司 案に所蔵.
『台船與日本三菱公司合作案』
,番号:3
5−2
5−2
0
7
8,中央研究院近代史研究所
案館経済部国営事
業司 案に所蔵.
『日本石川島重工業株式会社與三菱造船公司擬與造船公司恢復舊約』
,番号:3
5−2
5−2
0
7
7,中央研
究院近代史研究所 案館経済部国営事業司 案に所蔵.
』
,番号:3
5−2
5−0
1a−
『台湾造船公司有限公司:資料総目 (組織,管理,財物,業務,其他等)
0
9
4−0
0
1,中央研究院近代史研究所 案館経済部国営事業司 案に所蔵.
(経済部国営事業司 案,番号:3
5−2
5−2
0−0
0
3)中研院近
『台船公司五十四年董監聯席会議記 』
代史研究所 案館に所蔵.
『日圓貸款総巻』
(行政院国際経済合作発展委員会
案,番号:3
6−0
8−0
2
7−0
0
1)中研院近代史研
究所 案館に所蔵.
』
(国史館:1
9
9
6年)
薛月順編『台湾省政府 案史料彙編−台湾省行政長官公署時期(一)
』
(国史館:1
9
9
3年)
薛月順編,
『資源委員会 案史料彙編−光復初期台湾経済建設(中)
開発途上国工業化の条件−1
9
6
0年代台湾造船公司における技術移転の例−(洪)
1
0
1
政府出版物
中華民国機械工業訪問団,
『中華民国機械工業訪問団考察日本機械工業報告』
(出版不詳,1
9
6
8年)
1年至6
4年』
(台湾造船公司,1
9
7
2年)
台湾造船公司,
『台湾造船股 有限公司−中程発展計画−自民国6
行政院経済建設委員会,
『十項重要建設評估』
(行政院経済建設委員会,1
9
7
9年)
経済部,
『経済部四十六年度業務検討報告』
(経済部,1
9
6
8年)
経済部,
「台湾之造船工業」
,
『経済参考資料』
(経済部,1
9
7
3年第五期)
経済部,
『中華民国歴年核准華僑及外国人投資技術合作対外投資対外技術合作統計年報』
(経済部投
資審議委員会編)
経済部,
『二十五年来之経済部所属国営事業』
(経済部国営事業委員會,1
9
7
1年)
(国営事業委員会,1
9
7
0年)
経済部国営事業委員会,
『経済部国営事業委員会 各事業五十八年年刊』
(国営事業委員會,1
9
7
1年)
経済部国営事業委員会,
『経済部国営事業委員会 各事業五十九年年刊』
外務省経済協力局,
『対中華民国経済協力調査報告書』
(外務省経済協力局,1
9
7
0年)
ジャーナル,論文
Alice H. Amsden , “ Diffusion of Development : The Late-Industrializing Model and Greater East
Asia , ” American Economic Review May1
9
9
1,pp2
8
2∼2
8
6.
許毓良,
「光復初期台湾的造船業(1
9
4
5−1
9
5
5)−以台船公司為例的討論」
『台湾文献』第5
7巻第二
期,p.
1
9
1∼2
2
3,2
0
0
6年6月.
(国
廖鴻綺,
『貿易與政治:台日間的貿易外交(1
9
5
0−1
9
6
5)−以台湾所蔵外交部 案為中心之探討』
立師範大学歴史研究所碩士論文,2
0
0
0年)
専門書
Frank, Andre Gunder. Latin America : Underdevelopment or Revolution.(New York : Month
Review Press,1
9
7
0)
.
Fransman, M.,1
9
8
6. Technology and Economic Development, London : Macmillan
Gerschenkron, A.,1
9
6
2. Economic Backwardness in Historical Perspective. Cambridge : Harvard
University Press.
Paul A. Baran, The Political Economy of Growth.(Monthly Review Press,1
9
5
7)
.
Schumpeter, Joseph Alois. 1
9
3
4. The theory of economic development : an inequry ino profits,
capital, credit, interest, and the business cycle. New York : Oxford University Press.
,
(日本経済評論社,2
0
0
2年)
三和良一,
『日本 領の経済政策史』
王先登,
『五十二年的歴程−献身於我国防及造船工業』
(未出版の回顧録,1
9
9
4年)
日本機械工業連合会編,経建会総合計画處訳,
『日本戦後機械工業発展史(補篇)
』
,
(行政院経済建
設委員会総合計画處,1
9
8
7年)
1
0
2
『社会システム研究』
(第15 号)
安場保吉,猪木武"編,
『高速成長』
(岩波書店,1
9
9
1年)
交通銀行,
『台湾的造船工業』
(交通銀行,1
9
7
5年)
李國鼎の口述,劉素芬編『李國鼎:我的台湾経験』
(遠流出版社:2
0
0
5年)
9
9
9年)
伊丹敬之編,陳星偉訳,
『創新才会贏』
,
(遠流出版事業股 有限公司,1
朝元照雄,
『現代台湾経済分析−開発経済学からのアプローチ』
(勁草書房,1
9
9
6年)
劉進慶,
『台湾戦後経済分析』
(東京大学出版会,1
9
7
5年)
『台湾の経済−典型 NIES の光と影』
(東京大学出版会,1
9
9
2年)
劉進慶, 照 ,隅谷三喜男,
陳政宏,
『造船風雲8
8年』
(行政院文化建設委員会,2
0
0
5年)
溝田誠吾,
『造船業界』
(教育社株式会社,1
9
8
3年)
台湾造船公司編,
『中国造船史』
(台湾造船公司,1
9
7
2年)
註
1)経済部,
『中華民国歴年核准華僑及外国人投資技術合作対外投資対外技術合作統計年報』
(経済部
投資審議委員会編)
,この研究のため,前記資料を統計年報の年度順に整理ししたもの.
2)Paul A. Baran, The Political Economy of Growth.( Monthly Review Press,1
9
5
7)
.
3)Frank, Andre Gunder. Latin America : Underdevelopment or Revolution .(New York : Month
Review Press,1
9
7
0)
.
4)Alexander Gerschenkron, “Economic Backwardness in Historical Perspective” on his Economic
Backwardness in Historical Perspective(Cambridge, Mass : Harvard University Press,1
9
6
2)
,
ch1.
5)Alice H. Amsden, “ Diffusion of Development : The Late-Industrializing Model and Greater
East Asia, ” American Economic Review May1
9
9
1, pp.2
8
2−2
8
6.
6)許毓良,
「光復初期台湾的造船業(1
9
4
5−1
9
5
5)−以台船公司為例的討論」
,
『台灣文獻』第5
7卷
第二期,p.1
9
1∼2
2
3.2
0
0
6年6月.
7)朝元照雄,
『現代台湾経済分析−開発経済学からのアプローチ』
(頸草書房,1
9
9
6年)
,p.2
4.
8)朝元照雄,
『現代台湾経済分析−開発経済学からのアプローチ』
(頸草書房,1
9
9
6年)
,p.5
3.
9)経済部,
「台船二十五年篇」
,
『二十五年来之経済部所属国営事業』
(経済部国営事業委員会,1
9
7
1
年5月)
,船,p.1∼2.
1
0)「経済部呈送行行政院国省合!工礦企業!法」京企字第3
7
3
8号,1
9
4
6年6月6日.薛月順編『台
』
(国史館,1
9
9
6年)
,pp.1
8
1.
湾省政府 案史料彙編−台湾省行政長官公署時期(一)
1
1)交通銀行,
『台湾的造船工業』
(交通銀行,1
9
7
5年9月)
,pp.1
5.
1
2)台湾造船公司編,
『中国造船史』
(台湾造船公司,1
9
7
2年)
,pp.1
7
0.
1
3)経済部,
「台船二十五年篇」
,
『二十五年来之経済部所属国営事業』
(経済部国営事業委員会,1
9
7
1
年)
,船のページ p.2.
開発途上国工業化の条件−1
9
6
0年代台湾造船公司における技術移転の例−(洪)
1
0
3
1
4)薛月順編,
『資源委員会 案史料彙編−光復初期台湾経済建設(中)』
(国史館,1
9
9
3年)
,p.2
6
3.
1
5)「台湾造船有限公司業務報告」
(1
9
4
8年7月∼1
9
5
4年1
2月)
『造船公司第四区董監事聯席会議記
(一)
』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0−0
0
1,中央研究院近代史研究所
案館所藏経済部国営事
業司 案.
1
6)李國鼎氏の口述を記録したものによれば,当時,アメリカのインガルス造船所が台湾に派遣し
た職員は人事費用が非常に高かった.このため,台湾造船公司が負担しきれず,赤字を生み出
した.また,アメリカの職員は台湾の業務を理解することができず,台湾がもともと有してい
た経験のある技術者を重用しなかったが,造船においては主な部分は台湾の技術者により完成
された.この点に関しては,李國鼎の口述を記録した劉素芬編著,
《李國鼎:我的台灣經驗》
(遠
流出版社:2
0
0
5年)p.
5
2,を参考にしている.
,
(石川島播磨重工業株式会社:1
9
6
3年3月2
7
1
7)「関於台湾造船股 有限公司自立発展計画報告書」
日)
,p.
8∼1
0,
『台船與日本石川公司合作案』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0
7
6,中央研究院
近代史研究所 案館所蔵経済部国営事業司 案.
1
8)「日本三菱考察団来部商談與台船公司合作計画談話記録」
,
(1
9
6
3年5月7日)
,
『日本石川島重工
業株式会社與三菱造船公司擬與造船公司恢復舊約』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0
7
7,中央研究
院近代史研究所 案館所蔵経済部国営事業司 案.
,1
9
6
3
1
9)「函送三菱合作計畫提案等請研究簽註意見函附件一:三菱清水団長致副總統函抄本一 」
年5月2
9日,
『日本石川島重工業株式会社與三菱造船公司擬與造船公司恢復舊約』
,アーカイブ
番号:3
5−2
5−2
0
7
7,中央研究院近代史研究所 案館所蔵経済部国営事業司 案.
2
0)「台湾造船公司與三菱合作之提案」
(三菱日本重工業株式会社,新三菱重工業株式会社,三菱造
船株式会社,1
9
6
3年4月)
,
『台船與日本三菱公司合作案』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0
7
8,中
央研究院近代史研究所 案館所蔵経済部国営事業司 案.
2
1)中華民国機械工業訪問団,
『中華民国機械工業訪問団考察日本機械工業報告』
(出版不詳,1
9
6
8
年)
,p.
6
4∼6
6によれば,1
9
6
4年以降,名古屋造船所と名古屋重工業株式会社が合併し,1
9
6
7
年に芝浦共同工業株式会社を合併した.1
9
6
6年からは世界の造船記録が1
4,
3
0
0,
0
0
0トンで,そ
の内,日本が4
6.
7%,計6
8
0,
0
0
0トンを占めた.その内,石川島造船が1,
3
0
0,
0
0
0トンで,世
界一位になり,世界第二位のシーダの1,
1
8
0,
0
0
0トンを比べてはるかに上回っていた.
2
2)「為関於日本石川島及三菱両株式会社対台湾造船公司所提発展及合作計画同研擬謹将原計畫連同
台船公司分析意見及預算表等一併報請 鑒核示遵由」
(1
9
6
3年7月9日)
『日本石川島重工業株
式会社與三菱造船公司擬與造船公司恢復舊約』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0
7
7,中央研究院近
代史研究所 案館所蔵経済部国営事業司 案.
2
3)経済部,
『経済部四十六年度業務検討報告』
(経済部,1
9
6
8年3月)
,p.
7
4.
2
4)「為関於日本石川島及三菱両株式会社対台湾造船公司所提発展及合作計画同研擬謹将原計畫連同
台船公司分析意見及預算表等一併報請 鑒核示遵由」
(1
9
6
3年7月9日)
『日本石川島重工業株
1
0
4
『社会システム研究』
(第15 号)
式会社與三菱造船公司擬與造船公司恢復舊約』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0
7
7,中央研究院近
代史研究所 案館所蔵経済部国営事業司
案.当時,台湾造船公司の総経理がその後中国造船
公司の董事長を歴任した王先登だった,未出版の回顧録である『五十二年的歴程−献身於我国
防及造船工業』
(1
9
9
4)p.
4
5,この本では技術移転に関する選択において,当時,経済部長で
あった李國に権利が任されていたことが記載されている.王は本の中で,
「三菱重工の規模は大
きく,市場も広く,台湾造船公司の技術協力の対象としては幾分差がありすぎることが懸念さ
れる.一方,石川島播磨重工は造船,機械製造を主としており,わが社の経営や業務も類似す
る点が多く,地位的にも対等で技術協力に適している」と述べている.
2
5)藤井弘章著,経建会総合計画處譯,
「造船」
,
『日本戦後機械工業発展史(補篇)
』
,
(行政院経済
建設委員会総合計画處,1
9
8
7年)
,p.
1
9
8.
2
6)橋本壽朗,
「1
9
5
5年」
,安場保吉,猪木武!,
『高速成長』
(岩波書店,1
9
9
1年)
,p.
6
3.
2
7)澤井実著,陳星偉訳,
「戦後日本的技術創新−Case1造船」
,
『創新才会贏』
,
(遠流出版事業股
有限公司,1
9
9
9年)
,p.
5.
2
8)溝田誠吾『造船業界』
(教育社株式会社,1
9
8
3年)p.
1
9
1.また,
『中華民国機械工業訪問団考
察日本機械工業報告』
(出版不詳,1
9
6
8年)
,p.
6
4,によれば,1
9
6
6年に至るまで石川島の海外
事務所は2
0箇所に達し,台北事務所もその一つだった.石川島は毎年約1,
0
0
0人を海外に派遣
して業務を拡張した.
,
(石川島播磨重工業株式会社:1
9
6
3年3月2
7
2
9)「関於台湾造船股 有限公司自立発展計画報告書」
日)
,p.
7∼8,
『台船與日本石川公司合作案』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0
7
6,中央研究院
近代史研究所 案館所蔵経済部国営事業司 案.
3
0)「第四部分−業務」
,
『台湾造船公司有限公司:資料総目録』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−0
1a−0
9
4−
0
0
1,中央研究院近代史研究所 案館所蔵経済部国営事業司 案.
3
1)中華民国機械工業訪問団,
『中華民国機械工業訪問団考察日本機械工業報告』
(出版不詳,1
9
6
8
年)の記載によれば,台湾造船と石川島は技術協力を進めた後の1
9
6
5年から,台湾は補償金と
して2
0%を支払い,残りの8
0%は7年に分けて支払いを行った.
,
(石川島播磨重工業株式会社:1
9
6
3年3月2
7
3
2)「関於台湾造船股 有限公司自立発展計画報告書」
日)
,p.
2
1,
『台船與日本石川公司合作案』
,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0
7
6,中央研究院近代
史研究所 案館所蔵経済部国営事業司 案.
3
3)経済部,
「台湾之造船工業」
,
『経済参考資料』1
9
7
3年第五期(経済部,
1
9
7
3年1
0月2
8日)
,p.
8∼9.
,1
9
6
5年7月,
『台船公司五十四年董監聯
3
4)「台湾造船有限公司第六区第十五次董監聯席会議記 」
(経済部国営事業司
席会議記 』
案,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0−0
0
3〉中研院近代史研究
所 案館に所蔵.
(1
9
6
5年7月)
,
『台船公司五十四年董監
3
5)「台湾造船有限公司第六区第十五次董監聯席会議記 」
(経済部国営事業司
聯席会議記 』
案,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0−0
0
3)中研院近代史研
開発途上国工業化の条件−1
9
6
0年代台湾造船公司における技術移転の例−(洪)
究所
1
0
5
案館に所蔵.筆者は2
0
0
6年1
1月6日,台湾造船船体工場の職員として勤務した後,財団
法人中国験船センターの総検査技師である李後鑛氏を訪問した,李氏によれば,当時中国石油
公司が台湾造船に1
0万トンの石油輸送船を4隻委託したが,台湾造船公司内部で工場の拡張計
画を進めたため,船の納期に間に合わない危れがあった.このため,一隻目の伏羲号と二隻目
の軒轅号は日本の石川島の相生工場で建造された.当時台湾造船の船舶チームは上層部から下
層部まで全て日本へ造船の研修に赴いていた.毎回の研修期間は1ヶ月程度であった.ローテー
ションを組んで日本へ実習に行くことを繰り返して,多くの技術者は日本で実際の技術を習得
し,造船技術を確実にした,と述べていた.
3
6)中華民国機械工業訪問団,
『中華民国機械工業訪問団考察日本機械工業報告』
(出版不詳,1
9
6
8
年)
,p.
6
7.この訪問団は1
9
6
8年3月,経済部と行政院国際経済合作発展委員会が派遣した団
体である.日本機械工業の現状,生産技術,管理技術を理解するために日本機械工業を訪問し
た.当時の団長は周茂柏だった.周氏は台船公司董事長を歴任し,当時は経済部顧問兼機械工
業発展委員会の責任者,中国験船協会理事長などに就いていた.該団体の訪問先には石川島も
含まれ,訪問中には台湾造船公司との技術協力関係も議題に上った.
3
7)「台湾造船有限公司第六区第十六回董監聯席会議記
(経済部国営事業司
席会議記 』
」
,1
9
6
5年9月,
『台船公司五十四年董監聯
案,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0−0
0
3)中研院近代史研究
所 案館所蔵.
,1
9
6
5年9月,
『台船公司五十四年董監聯
3
8)「台湾造船有限公司第六区第十六次董監聯席会議記 」
(経済部国営事業司
席会議記 』
案,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0−0
0
3)中研院近代史研究
所 案館所蔵.
3
9)外務省経済協力局,
『対中華民国経済協力調
報告書』
(外務省経済協力局,1
9
7
0年)
,p.
9
9∼
1
0
1.『中華民国6
0年行政院国際経済合作発展委員会』
(国際経済合作発展委員会,1
9
7
1年)
,p.
8
1
によると,台湾造船公司が1
9
6
6年及び1
9
7
7年に運用した円借款額は合計1,
1
4
4百万円.
4
0)「日圓貸款!法參考資料」
『日圓貸款総巻』
(行政院国際経済合作経済委員会 案,アーカイブ番
号:3
6−0
8−0
2
7−0
0
1)中研院近代史研究所 案館所蔵.
4
1)劉進慶,
『台湾戦後経済分析』
(東京大学出版会,1
9
7
5年)
,p.
3
9
2∼3
9
5.
『台湾の経済−典型 NIES の光と影』
(東京大学出版会,1
9
9
2年)
,
4
2)劉進慶, 照 ,隅谷三喜男,
p.
1
1
9.
4
3)朝元照雄,
『現代台湾経済分析−開発経済学からのアプローチ』
(頸草書房,1
9
9
6年)p.
5
4.
4
4)「台湾造船公司有限公司第六区第十六回董監聯席会議記録」
,1
9
6
5年9月,
『台船公司五十四年董
監聯席会議記録』
(経済部国営事業司
案,アーカイブ番号:3
5−2
5−2
0−0
0
3)中央研究院近
代史研究所 案館に収蔵.
4
5)経済部国営事業委員会,
『経済部国営事業委員会各事業五十九年年刊』
(国営事業委員会,1
9
7
1
年)
1
0
6
『社会システム研究』
(第15 号)
4
6)交通銀行,
『台湾造船工業』
(交通銀行:1
9
7
5年)
,p.
1
8.
4
7)行政院経済建設委員会,
『十項重要建設評估』
(行政院経済建設委員会,1
9
7
9年)
,p.
4
3
7.
4
8)中国造船公司が設立した十大建設のための大型の造船工場の計画項目は,成立後,大型船舶の
建造を業務とするためのものだった.1
9
7
8年1月1日,台湾造船公司と中国造船公司が合併し,
台湾造船公司から中国造船公司基隆総工場に名称を変更した.
開発途上国工業化の条件−1
9
6
0年代台湾造船公司における技術移転の例−(洪)
1
0
7
Conditions for Industrialization of Developing Country
−Technology Transfer of Taiwan Shipbuilding Corporation in 60s as Example−
Sao-Yang Hong*
Abstract
After the WWII, Taiwan break it’s political and economic ties with Main land China in
1950,and became independent economic entity. Taiwan industrialization process with
financial and technological aids from US, Japan, and United Nations. Especially, Japan
started the construction of tangible and non-tangible infrastructures necessary for the
initial stage of industrialization. Therefore, Taiwan are more familiar with Japanese
standard of component parts and machine manipulations than with US standard.
The paper study the case of government owned Taiwan Shipbuilding Corporation. It
was Taiwan Dockyard Company during Japanese colonization era , it’s primary business
was repair ships. After WWII, Taiwan Shipbuilding Corporation was rented to US Ingalls
Shipbuilding Co., and US system and technology was imported to build36,
000ton oil tanker.
However due to the misuse of fund, loses were made by the corporation, and company was
suspended and dissolved in 1962.Ministry of Economic Affairs was force to takeover the
management of the corporation
After that, Taiwan Shipbuilding Corporation turn to Japan for technological support.
By1965,technology transfer between Taiwan Shipbuilding Corporation and IshikawajimaHarima Heavy Industries Co.(IHI)take place through Package Deal, Ishikawajima- Harima
supplied raw material, instruction of consultant and training of personnel. Thus, Taiwan
Shipbuilding Company successfully build 100,
000ton of large oil tanker in the1970.After
receiving technological transfer from Ishikawajima-Harima, the Taiwan Shipbuilding
Corporation shows significant improvements on production, finance, and management side.
Overall, Before Taiwan started heavy industry on large scale, Taiwan Shipbuilding
Corporation was able to use technology transfer to learn about developing heavy industry,
* Correspondence to : Sao-Yang Hong
128 Sec2, Academia Road, nankang, Taipei 115, Taiwan.
Academia Sinica, Research Center for Humanities and Social Science, Program for Economic Development
and Trade in East Asia.
E-mail : [email protected].
1
0
8
『社会システム研究』
(第15 号)
and successfully utilize latecomer’s advantage to develop shipping industry.
Key word
Taiwan Shipbuilding Corporation Ingalls Shipbuilding Co. Technology Transfer Package
Deal Ishikawajima-Harima Heavy Industries Co.(IHI)