58. Anrufverstehen und Schuld 段落:11 Zu diesem Zwecke muß die

58. Anrufverstehen und Schuld
段落:11
Zu diesem Zwecke muß die Idee von >>schuldige<< soweit formalisiert werden, daß die auf
das besorgende Mitsein mit Anderen bezogenen vulgären Schuldphänomene ausfallen. Die Idee
der Schuld muß nicht nur über den Bezirk des verrechnenden Besorgens hinausgehoben, sondern
auch abgelöst werden von dem Bezug auf ein Sollen und Gesetz, wogegen sich verfehlend
jemand Schuld auf sich lädt. Denn auch hier wird die Schuld notwendig noch als Mangel
bestimmt,als Fehlen von etwas, was sein soll und kann. Fehlen besagt aber Nichtvorhandensein.
Mangel als Nichtvorhandensein eines Gesollten ist eine Seinsbestimmung des Vorhandenen. In
diesem Sinne kann an der Existenz wesenhaft nichts mangeln, nicht weil sie vollkommen wäre,
sondern weil ihr Seinscharakter von aller Vorhandenheit unterschieden bleibt.
58. Understanding the Appeal, and Guilt
段落:11
If this is our goal, the idea of 'Guilty!' must be sufficiently fomalized so that those ordinary
phenomena of "guilt" which are related to our concernful Being with Others, will drop out. The idea
of guilt must not only be raised above the domain of that concern in which we reckon things up, but
it must also be detached from relationship to any law or "ought" such that by failing to comply with
it one loads himself with guilt. For here too "guilt" is still necessarily defined as a lack when
something which ought to be and which can be is missing. To be missing, however, means notBeing-present-at-hand. A lack, as the not-Being-present-at-hand of something which ought to be,
is a definite sort of Being which goes with the present-at-hand.In this sense it is essential that in
perfect, but because its caharacter of Being remains distinct from any presence-at-hand.
第五十八節
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呼びかけという了解の働きと責め
(岩波)
段落:11
この目的のために「責めある」という観念が、他人との配慮的な共同存在に関する通俗的な
責めの現象が脱落してしまうほど広く、形式化されねばなりません。責めの観念は、計算の意味
の配慮の領域を越えて高められるばかりでなく、それに違反するものはだれでも、罪を背負いこ
むところの、当為や法則への関与から解き放されています。なぜならば、ここでも責めは、必然
になお欠陥として、すなわちあるべきものや、あり得るものの欠けていることとして、規定され
ているからです。しかし欠けていることは、目のまえにないことを意味します。あるべきものが
目のまえにないこととしての欠陥は、目のまえのものの存在規定です。この意味では、実存にお
いては、本質的に何ものも欠けていることはできません。つまり、実存が完全であるからでなく
、実存の存在性格は、すべての〈目のまえにあること〉から区別されているからなのです。
第五十八節
呼びかけの了解と責め
(中公)
段落:11
この目的のためには、他者たちと共なる配慮的に気遣いつつある共存在に関連づけられている通
俗的な責めの諸現象が脱落するにいたるまで、「責めあり」という理念が形式化されなければな
らない。責めという理念は、決済といった配慮的な気遣いの圏域を越えて高められなければなら
ないばかりではなく、それを犯したために誰かが責めをわが身に背負いこむ当為や法律との関連
からも、解き放たれなければならないのである。なぜなら、この場合にも責めが、必然的 に、欠
如として、つまり、存在すべきであり、また存在しうる何ものかの欠損として規定されているこ
とに、変わりはないからである。しかし欠損しているとは、事物的に存在していないということ
に、変わりないからである。しかし、欠損しているとは、事物的に存在していないということに
ほかならない。当然あるべきものが事物的に存在していないという意味での欠如は、事物的存在
者の一つの存在規定なのである。このような意味では実存には、何ひとつとして欠如しているこ
とは本質上ありえないのだが、それは、実存が完全無欠だからではなく、実存の存在性格がすべ
ての事物的存在性とはあくまで区別されているからなのである。
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第五十八節
呼びかけの了解と負い目
(ちくま)
段落:11
このためには、ほかの人びととの配慮的共同存在にかかわる通俗的な負い目の諸現象
が脱落する程度にまで、《負い目あり》の理念を形式化しなくてはならない。われわれは、負い
目の現象を、清算的配慮の境域以上のところへ引きあげなくてはならないだけでなく、さらにそ
れを、だれかが当為や法則にそむいて負い目を招くといわれるその当為や法則との連関からも解
き離さなくてはならない。なぜなら、これらの場合にも、負い目は必然的にやはり欠け目という
性格をもっている。それは、存在すべきであり存在することができるものが欠けている状態とし
て規定されているのである。ところが、欠けているということは、客体的な非存在を意味する。
あるべきものが目前に実在していないという意味での欠け目は、客体的存在者の存在規定のひと
つである。しかし、この意味での欠け目は、実存には本質上ありえない、それは、実存が完全な
ものだからというわけではなく、実存の存在性格がいかなる客体的存在に対しても本質的な差異
をもっているからなのである。
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