本能と煩悩

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本能と煩悩 (全 12 回)
第 9 回 性的二型性
浦野明央(北海道大学名誉教授)
有性生殖をしている動物,すなわち雄と雌が生殖に携わる動物,のおそらく
ほとんどで,本能行動,とくに求愛行動や配偶行動といった生殖行動のパター
ンが,雄と雌によって異なっている.前々回の恋心でふれたカエルの合唱は,
主に雄で見られる行動であったが,解放バイブレーション(種によっては解放
コール)は雌の行動であった.前回のフェロモンでも,カイコガのボンビコー
ルは,雌が雄を誘惑するために用いている性フェロモンで,それを感知した雄
が雌を追尾する.一方,アカハライモリのソデフリンは,雄が雌を惹きつける
ために用いていた.カナリアやキンカチョウなどの小鳥のさえずりも,雄と雌
の行動パターンが異なることが,よく知られている例である.
生殖に関わる本能行動のパターンは,発生段階の特定の時期に,遺伝子プロ
グラムにしたがって形成された中枢神経系(脊椎動物なら脳と脊髄)内のニュ
ーロンネットワーク(神経回路)の働きによって発現すると考えられる(図
1A).なお,性的に成熟した成体では,このニューロンネットワークが,やは
り遺伝子プログラムにしたがって動機づけられ,活性化することによって,行
動が発現するとされている(図 1B).
したがって,無脊椎動物でも脊椎動物でも,雄と雌の間に生殖行動のパター
ンの違いが見られるのは,行動を担うニューロンネットワークに性的な違い,
いわゆる性的二型性(sexual dimorphism)があるために違いないと考え,多
くの研究者が,神経解剖学的な手法を用いて,形態上の,あるいは機能的な性
差を見つけるとともに,その原因を遺伝子レベルで解明しようとしてきた.今
回はその一端を紹介する.
哺乳類における中枢神経系の性的二型性
脊椎動物の多くで,雄と雌の間での中枢神経系の形態と機能,ひいては性行
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図 1 性行動のニューロンネットワークに対する性ステロイドホルモンの形成作用と活性化作用.
A,出生の前後(周生期)に性ステロイド(アンドロゲンでもエストロゲンでもよい)が脳に作用
すると,遺伝子の発現の調節,すなわち転写調節により(genomic action),雄型の脳が形成される.
B,やがて成長し成熟すると,性ステロイドは転写調節に加えて直接的にニューロンの活動を調節
すること(nongenomic action)により,ネットワークを活性化する.それにより行動が発現する.
なお,雄のネットワークの活性化には主としてアンドロゲン(脳内では,芳香化されてエストロゲ
ンになっている可能性がある)が,雌のネットワークの活性化にはエストロゲンが関わる.(原図)
動のパターンの違いを作り出している主な要因は,性ステロイドホルモン,す
なわち,それぞれアンドロゲン(雄性ホルモン),エストロゲン(雌性ホルモン)
あるいはプロゲスチン(黄体ホルモン)と総称されているホルモンで,コレス
テロールから図 2 に示した代謝経路によって合成・分泌される.それぞれのホ
ルモンが作用を及ぼす生体内の標的細胞内には,特異的な細胞内受容体が存在
し,ホルモンが結合すると転写調節因子として働くので,性的二型性に関わる
遺伝子の発現が見られる.
ラットの視床下部に見られる性差: 筆者の知る限りでは,ニューロンネット
ワークの性的二型性を最初に示したのは Raisman and Field(1971)による視
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図 2 コレステロールに始まるステロイドホルモンの代謝経路の概略.アンドロゲン(図中ではア
ンドロステンジオンとテストステロン)の芳香化によってエストロゲン(エストロンとエストラジ
オール)が生成される.(比較内分泌学会編・ホルモンハンドブックをもとに作図)
床下部の電子顕微鏡の仕事である.彼らは,視索前野と腹内側核(第 4 回 脊
椎動物の視床下部 参照)への投射様式を,これらの領域のニューロンの細胞体,
樹状突起および棘のシナプス数を計測することで明らかにしようとした.これ
らの領域が,下垂体からの生殖腺刺激ホルモンの分泌や性行動の制御に関わっ
ているためである.得られた結果,すなわち樹状突起の軸上のシナプス数と棘
上のシナプス数の比から,雌に較べて,雄の視索前野では,軸上のシナプスが
棘上のシナプスより多いことを示していた 1).
何年かして,視索前野には,光学顕微鏡でも確認できる大きな性差があるこ
とが発見された(Gorski et al, 1978).雄の視索前野の内側部には,ニューロ
ンが密に集まった雌の数倍大きい部位があったのである(図 3).視索前野の
性的二型核と名付けられたこの神経核の大きさやニューロンの密度は,血中の
アンドロゲン濃度が激減する精巣の除去(去勢)では変わらなかった.しかし,
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図 3 ラットの視索前野の性的二型核.A は視交叉レベルの脳の横断面で,黄色い枠内が視索前野
である.B はその部分の拡大で,左が雄,右が雌である.赤のアステリスクでマークした部位が,
性的二型核で,雌より大きい.(Koenig and Klippel, 1963 および新井康允 , 2000 をもとに作図)
表 1 哺乳類における脳の性分化の臨界期.
種
妊娠期間(日数)
臨界期(妊娠後の日数)
ハムスター
16
16-21
ラット
21-22
18-28
マウス
18-22
20
モルモット
68
30-35
ヒト
270
84-126
Norris and Carr (2013) を改変
雄の新生仔の去勢では,成長した時の性的二型核が,正常な雄のそれよりも小
さかった.また,雌の新生仔にアンドロゲンを投与すると,成長した個体の性
的二型核が雄と同じくらい大きくなっていたという.同じような性的二型性は,
モルモット,アレチネズミ,イタチ,サル,ヒトで知られているが,マウスで
は認められていない(Norris and Car, 2013 参照).
性的二型核の発見に続く多くの研究から,哺乳類の中枢神経系では,1)臨
界期とよばれる出生前後の特定の時期(表 1)に性ステロイドホルモン(アン
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ドロゲンおよびエストロゲン)に対して高い感受性をもつ,2)雄,雌とも臨
界期に性ステロイドホルモンの作用がないと雌型の脳になるが,アンドロゲン,
エストロゲンのいずれかに曝されると不可逆的に雄型の脳になる,3)思春期
以降の成熟個体では,雄型の脳にアンドロゲンが作用すると雄特有の行動,ま
た雌型の脳にエストロゲンが作用すると雌特有の行動が誘発される(図 1B),
といったことが分かってきた(Delcomyn, 1998 参照).
脊髄・腰髄部の球海綿体神経核とアンドロゲン: 雄ラットの脊髄の腰髄部分
にある球海綿体神経核(以下,SNB)は,生殖器に軸索を送っている性的二
型核で,大型の運動ニューロンが分布している.この運動ニューロンは,雄の
方が雌より大きいだけでなく,ギャップ結合(細胞社会のコミュニケーション
第 3 回 コミュニケーションの方法 参照)を持っていて,互いに同期した電
気活動を示す.また成熟した雄の個体でもアンドロゲン感受性をもち,去勢に
よって SNB ニューロンの細胞体が小さくなるが,去勢個体にアンドロゲンを
投与すれば細胞体の縮小は防げる.細胞体に見られるこのような形態レベルの
変化に対応して,ニューロンの形態や細胞内の輸送に関わるアクチンおよびチ
ュブリンという細胞骨格タンパク質の遺伝子の発現も,去勢により低下し,ア
ンドロゲンの投与により正常個体と同じレベルに保たれる(Matsumoto et al,
1994).SNB ニューロンの機能にとって重要なギャップ結合を構成するタン
パク質,コネキシン,の遺伝子の発現も,同じような変動を示した(Matsumoto
et al, 1995).
発現に性差のある遺伝子: 上に述べたような視索前核の性的二型核ニューロ
ンあるいは SNB ニューロンの形態や機能に直接関わる遺伝子の発現は,アン
ドロゲン受容体による多くの遺伝子の転写調節を介して,複雑な経路で制御さ
れていると考えられる.雌に特有のネットワークの形成や活性化についても,
エストロゲン受容体の活性化に始まる調節機構はそれほど単純ではない.マウ
スの視床下部では,発現に性差があり,行動の性差にも関わる可能性のある遺
伝子が,16 種見つかっている 2)が,それらの翻訳産物の働きや,いわゆる転
写調節のネットワークまでは明らかになっていない(Xu et al, 2012).
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図 4 鳴禽類の歌制御回路の概略.説明は本文.POA, 視索前野.(小西正一,1994 を参考に作図)
鳴禽類(鳴鳥)の脳内の歌制御系
多くの小鳥では,繁殖期になると,雄が歌をうたう(囀る).歌をうたう小
鳥は,分類学的にはスズメ目に属する鳴禽類で,歌には種と個体の特徴のアピ
ール,縄張り宣言,繁殖の用意ができていること伝える,といった役割がある
という(小西正一,1994).種によっては,雄も雌も歌をうたうが,雄だけが
歌をうたうというキンカチョウやカナリアでは,さえずり行動を調節する脳内
のニューロンネットワーク,すなわち歌制御系,を構成する神経核の体積に,
雄の方が雌より大きいという二型性が見られる.
歌制御系の性的二型性: 脳内のネットワークの雌雄差が行動の性差をもたら
すことが最初に示されたのは,哺乳類の脳ではなく,鳴禽類のキンカチョウと
カナリアの脳の歌制御系についての研究であった(Nottebohm and Arnold,
1976).図 4 は情報の流れも含めた歌制御系の概略であるが,雄の方が雌より
顕著に大きく複雑な神経核は,腹側高線条体尾側部(以下 HVC),原線条体大
細胞性群(以下 RA),舌下神経核(鳴管の筋肉を支配する運動核),および X
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野の 4 箇所である.とりわけ X 野の雌雄差は大きく,雌のキンカチョウでは
その存在すら確認できないほどであるという.なお,詳細は省くが,小鳥,と
くに鳴禽類の歌のパターンは,若い時の学習によって形成される.この学習に
は HVC の働きが重要である(小西正一,1994).
脳の性分化と性ステロイドホルモン: 雌のキンカチョウの脳内では,歌制御
系がほとんどない,というほどに退化しているという.なお,雌のカナリアで
は,アンドロゲンを投与すると数日後にはうたいだすが,キンカチョウではそ
のような現象は起こらない.
キンカチョウの脳では,孵化の 30 日ほど後には,HVC の雄化が目立ってく
る.同じ時期に,雌の RA の細胞の多くは,アポトーシス 3)を起こし死んでい
くが,雄の細胞は大きくなっていく.なぜかエストロゲンは,雌の脳内で起き
ているアポトーシスを防止し,脳を雄化して,歌制御系の形成を促進している
が,この働きがみられるのは孵化後 45 日目くらいまでである.雄の脳でも雌
の脳でも,エストロゲンにより脳の雄化が起きるのは,図 2 に示した代謝経路
中にあるテストステロン(アンドロゲン)をエストラジオール(エストロゲン)
に変換する酵素が,脳内にあるためである(Chao et al, 2014 参照).
歌制御系の季節変動: 小鳥のさえずりは,春から初夏にかけて,血中のアン
ドロゲン濃度が上昇する繁殖期に見られる行動であるが,その季節的な行動の
制御に HVC におけるニューロンの新生が関わっている.HVC は繁殖期にな
ると大きくなるが,それには樹上突起の伸長やシナプス数の増加だけでなく,
ニューロンの新生が関わっているのである.脊椎動物の成熟個体の脳内でニュ
ーロンが新生されているという鳴禽類での発見は,その後,哺乳類の脳におけ
る損傷部位の再生の研究を促した(Delcomyn, 1998 参照).
脊椎動物の視索前野(図 4 の POA)は,雄の性行動の引き金中枢だとされ
ているが,鳴禽類でも,この部位が,さえずり行動を司る歌制御系の動機づけ
に携わっていることが明らかになってきた(Riters, 2012).さえずり行動の動
機づけには,中脳の腹側部から視索前野に投射しているドーパミン系が関わっ
ているが,この部位におけるドーパミンの合成やターンオーバーの調節に,ア
ンドロゲンもエストロゲンも関わっている可能性がある.
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性行動は,雄と雌でパターンが異なる.その違いをもたらしているのが,雄
と雌のニューロンネットワークの違い,いわゆる性的二型性にあることを,ラ
ットと鳴鳥で見てきたが,脳の性的二型性は魚類や両生類(浦野明央 , 1994),
さらにはヒトにも見られる(新井康允,2000 参照).一方,ショウジョウバエ
では,それが,個々の細胞内で起きている遺伝子発現のレベルで説明されてい
る(山本大輔,2012).
脊椎動物の脳では,性ステロイドホルモンによって性的二型性が形成される
が,ホルモンが転写調節因子である受容体に結合した後の分子レベルの現象が
解明されているわけではない.それが解明された時に,神経発生で明らかにな
ったような無脊椎動物と脊椎動物の共通性が,おそらくは有性生殖をする動物
に共通に見られるであろう神経系の性的二型性にも見られるのか,今後の研究
の進展が楽しみである.
註
1) ニューロンは,細胞体,樹状突起軸および棘で,他のニューロンからの信号を受け取るた
めのシナプスを作っているが,シナプスの位置によって,活動電位を生じる効率が異なる(図
註 1).
2) 発 現 に 性 差 が 見 ら れ た 主 要 な 16 種 の 遺 伝 子 が コ ー ド し て い る の は, 神 経 ペ プ チ ド
(CART),7 回膜貫通型受容体(Cckar, Brs3, Gpr165),伝達物質依存性イオンチャンネル
(Gabrg1, Glra3),細胞内情報伝達系のタンパク質(Dgkk, Irs4, Pak3, Rps6ka6, Sytl4),
転写調節因子(ERα, エストロゲン受容体の 1 つ),タンパク質分解酵素(Ecel1),機能不
明なタンパク質(Chodl, Greb1, Nnat)であるが,神経系における役割がそれほどはっきり
しているわけではない(Xu et al, 2012).
3) アポトーシスは,遺伝的にプログラムされた能動的な細胞死.神経系では,発生の初期に
増殖したニューロンのうち,ネットワークの形成に加われなかったものがアポトーシスに
よって消えていく.
参考文献
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図 註 1 軸索―軸シナプスと軸索―棘シナプス.棘(スパイン)は軸索から突き出した小突起で,
ニューロンが情報を受け取る部位を殖やしているという.(原図)
新井康允:脳とニューロンの科学. 裳華房(2000)
浦野明央:脳の性差―行動の雌雄差をもたらすもの.北海道大学放送教育委員会【編】性と生
―生きものにみる男と女.北海道大学(1994)
小西正一:小鳥はなぜ歌うのか.岩波新書 338.(1994)
日本比較内分泌学会【編】:ホルモンハンドブック 新訂 eBook 版.南江堂(2007)
山本大輔:遺伝子と性行動,性差の生物学.裳華房(2012)
Delcomyn F., 小倉明彦・冨永恵子【訳】:ニューロンの生物学.トッパン(原著 1998)
Chao A., Paon A., Pemage-Healey L.: Dynamic variation in forebrain estradiol levels during
song learning. Dev Neurobiol DOI 10.1002/dneu.22228(2014)
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Gorski R.A., Gordon J.H., Shryne J.E., Southam A.M.: Evidence for a morphological sex
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Riters L.V.: The role of motivation and reward neural systems in vocal communication in
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Xu X., Coats J.K., Yang C.F. et al.: Molecular genetic control of sexually dimorphic behaviors.
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