DWAL-TR-2 014-001 Nov.2 4 2 0 1 4 丸山 隆一* 田中 美里* * 山川宏* * * Ryuichi Maruyama*, Misato Tanaka** and Hiroshi Yamakawa*** * 全脳アーキテクチャ勉強会 若手の会(勤務先:森北出版株式会社) ** 同志社大学 理工学部 Faculty of Science and Engineering, Doshisha University *** 株式会 社ドワンゴ 人工知能研究所 DWANGO Co., ltd. Artificial Intelligence Laboratory 第 8 回全脳アーキテクチャ勉強会「時系列データ」報告書 丸山 隆一* 田中 美里** 山川宏*** * 全脳アーキテクチャ勉強会 若手の会(勤務先:森北出版株式会社) ** 同志社大学 理工学部 *** 株式会社ドワンゴ 人工知能研究所 第 8 回全脳アーキテクチャ勉強会のテーマは,『時系列データ』.脳はいかに時間を扱って いるのか,そして最新の人工知能研究は時間系列データをどう扱っているのかをテーマに,認 知神経科学・計算論的神経科学・認知ロボティクスの各分野から 3 名の講師が招かれ,講演が 行われた.200 名の定員がすぐに埋まってキャンセル待ちが出るほどの盛況ぶりで,当日の会 場は熱気に包まれた(図 1). 図 1: 勉強会の会場の様子 講演①:「脳における時間順序判断の確率論的最適化」(山口大学時間学研究所 宮崎真氏) 私たちは,時間の流れのなかに生きている.しかし,私たちに感じられる時間は,物理的な 時間と常に一致しているわけではなく,過去の経験によって伸び縮みすることが知られている. そのような主観的時間のずれは,脳のなかでどうつくり出され,ヒトが生きていく上でどのよ 1 うに役に立っているのだろうか.宮崎真氏 による最初の講演では,認知神経科学の立 場から,脳内で時間のずれが生じるメカニ ズムの一つとしての「ベイズ推定」に着目 した一連の研究が紹介された(図 2). 脳内でベイズ推定が働くとはどういうこ とだろうか.講演の冒頭では,その意義に ついて野球のバッティングの例を使って分 かりやすく説明された(宮崎氏はスポーツ 図 2: 会場からの質問に答える宮崎氏 からヒントを得て認知科学の研究を進めて おられるとのこと).脳が対処しなければならない不確実性には,入力のもつノイズ(野球の 例で言えば,ピッチャ―が投げるコースのバラつき)のほかに,神経活動がもつノイズ(知覚 したコースと実際のコースのずれ)がある.ベイズ推定を使えば,過去の事前分布(ピッチャ ーの投げたコース)から,次の試行(投球)の知覚を修正できる.実際にベイズ推定によって 神経系のもつノイズの影響を減らせることは数学的にも示せる. 次に,そのようなベイズ推定のメカニズムが時間順序判断において実際に働いていることを 示す証拠として,ヒトを対象とした心理物理実験が紹介された.この実験は,繰り返される二 つの刺激の主観的な順序が過去の刺激の履歴によってどのように変わるかを調べるもので,従 来から有力な仮説として知られていた「時差順応」とよばれるメカニズムと「ベイズ推定」の メカニズムのどちらが働くかによって真逆の結果が予想されるような実験パラダイムとなって いた.時差順応とは,音と光などの異種の感覚情報の時間的ずれを調整するために存在すると 考えられているメカニズムであり,二つの刺激の反復の時差を打ち消す効果をもつ.一方,ベ イズ推定が働くとすると,逆に二つの刺激の時間差に対して鋭敏に反応できることが予想され る.繰り返される二つの刺激として,二つとも触覚刺激を使った実験の結果では,音光刺激組 の場合と異なり「ベイズ推定モデル」が予測する結果が得られたのだという.これはまた,時 差順応が多感覚間の時間的統合のために機能している仮説を支持するものでもある.今回の講 演ではこのベイズ推定に焦点が当てられていたが,実際の脳内では両方のメカニズムが拮抗し ていると考えられるそうだ. 講演の後半では,そのベイズ推定が,脳内でどのような機構で実現されているのかを調べた 研究が披露された.ベイズ推定課題時に活動する部位が fMRI を用いた実験で特定され,さら 2 に脳波計測を用いることで,それらの部位が活動するタイミングについての手掛かりも得られ てきている.また,ある部位に経頭蓋磁気刺激(TMS)を与えて活動を阻害することで,脳のベ イズ推定が機能しなくなるという結果も得られているという.会場からは,「ベイズ推定のた めの事前知識は脳のどこに蓄えられているのか」という,全脳アーキテクチャらしい質問も投 げかけられた. 主な参考文献: ● Makoto Miyazaki, Shinya Yamamoto, Sunao Uchida & Shigeru Kitazawa. Bayesian calibration of simultaneity in tactile temporal order judgment. Nature Neuroscience 9, 875 - 877 (2006) ● Takeuchi S, Sekiguchi H, Miyazaki M. Effect of transcranial magnetic stimulation applied over the premotor cortices on Bayesian estimation in tactile temporal-order judgment. The 17th World Congress of Psychophysiology (IOP2014), Hiroshima, Japan, Sep. 2327, 2014. 講 演 ② : 「 順 序 と タ イ ミ ン グ の 神 経 回 路 モ デ ル 」 (電 気 通 信 大 学 山 崎 匡 氏 ) 脳が行う時間処理を神経回路モデルで模倣するためには,神経回路レベルでの情報処理の機 構を理解することが必要になるだろう.山崎匡氏による講演では,その具体例となる 2 種類の 計算論モデルが紹介された(図 3). 一つめは,大脳皮質における運動の順序の表現に関するモデル.大脳皮質の運動野では,一 次運動野→補足運動野→前補足運動野→前頭前野という階層構造がそのまま運動の情報表現の 階層構造に対応していることが知られている.それを鮮やかに示すのが,丹治順教授らによっ て行われた一連の実験である.この実験では,サルに「ものをつかむ,まわす,引っ張る」な どという順序のある運動を学習させておいて,運動野のニューロンの活動をみる.すると,一 次運動野のニューロンは,特定の行動時に発火するのに対し,より高次の運動野では「二つの 行動を交互に繰り返す」といった抽象度の高い「行動のパターン」が表現されるようになる. サルの脳ではこれらの階層的な表現を使って時間順序が学習されていると考えられ,その計算 モデルも紹介された.この運動学習の事例は,運動野の階層構造という「ディープ」な構造に, 時間処理が託されている例となっている. 3 一方で,ディープでない(「浅い」)脳 の構造も,時間を扱っている場合がある. そのような例として,山崎氏自身の小脳に 関する研究が紹介された.このモデルが説 明するのは「瞬目反射」と呼ばれる条件づ けの実験であり,これは音(条件刺激)を 鳴らしてから 500msec 後に眼に空気(無条 件刺激)を吹きかけると,実際に空気がこ なくても音を聞いただけで眼を閉じるよう 図 3: 小脳の計算モデルについて説明する山崎氏 になるというものだ.この条件づけが成立 するためには,脳のどこかで実時間がカウントされていなければならないが,それを担ってい るのが小脳である.小脳での学習において,特定の神経活動が繰り返されるとシナプスの情報 伝達効率が弱まる「長期減弱(LTD: Long Term Depression)」が起こることは知られていた. これは、小脳が特定の運動を覚える際に,無駄な情報を削減するために起こると考えられてい る.このような小脳の LTD を発生させているのが,顆粒細胞とプルキンエ細胞という 2 種類の 細胞が形成する 2 層パーセプトロン(無数の顆粒細胞が,一つのプルキンエ細胞に信号を送る 構成)であり,それらがどのような学習を行っているかを明らかにする必要がある. 先行研究として顆粒層の前の入力が数珠つなぎになっている,顆粒細胞が周期・位相の異な る信号を出力するなど,さまざまなモデルが考えられてきた中で,山崎氏らは,顆粒層が(ゴ ルジ細胞という別の抑制性細胞を介して)相互に結合していることに着目し,ランダムな時間 応答性をもつ顆粒細胞の信号を加算することによってタイミングが計られているとするモデル をつくった.のちにこのモデルは洗練され,小脳がレザボア(Reservoir)・コンピュテーション というニューラルネットの一種を実現しているとするモデルに発展している.レザボア・コン ピュテーションは,相互に結合した第 1 層の時空間ダイナミクスのなかに入力の情報を埋め込 むという方式のニューラルネットで, 入力が貯水池(レザボア)に入ると,波紋のように時系 列パターンとして広がっていくことからその名がつけられているそうだ.山崎氏らはこの小脳 の計算モデルを GPU に実装しており,講演のなかでは,ロボットが飛んでくるボールのタイ ミングを学習してバッティングができるようになる様子を映した動画が披露された.このデモ は,GPU メーカーの NVIDIA 社のブログにも取り上げられたとのことだ. (リンク:http://blogs.nvidia.com/blog/2013/04/26/better-batting-with-cuda-how-gpu-based- 4 brain-research-helped-japanese-robot-swing-for-the-fences/). 会場からは,現実的なタスクでは,しばしばタイミングを図るための起点自体を見つけ出し, それを連鎖させる必要があるあるのではないかとの質問があったが,そうした機構が小脳とそ の他の脳器官とのどのような連携によって実現されるかについての解明のためには,さらなる 研究が必要となりそうである. 今回紹介された二つのモデルの例から,ディープなニューラルネット,ディープでないニュ ーラルネットのどちらも,時間の扱いに関与し得ることが分かる.講演中に「小脳は 2 層しか ないから全脳アーキテクチュア的には面白くないかも」とおっしゃる山崎氏に対し,質疑では 勉強会主催者の一人である一杉氏が「いや,小脳も重要だし,全脳のディープなネットワーク に組みこまれていると見ることも出来るのでは」と返す一幕もあった.昨年より新学術領域研 究「こころの時間学」が進行中であることや,山崎氏が前の週に講師を務めたオータムスクー ル(ASCONE)でも「時間」が主題になっていたとのことなどからも,「時間」がホットトピ ックになっていることがうかがえる. 主な参考文献: ! Keisetsu Shima , Masaki Isoda , Hajime Mushiake & Jun Tanji. Categorization of behavioural sequences in the prefrontal cortex. Nature 445, 315–318 (18 January 2007) ! Tadashi Yamazaki, Jun Igarashi. Realtime Cerebellum: A large-scale spiking network model of the cerebellum that runs in realtime using a graphics processing unit. Neural Networks, 47: 103-111, 2013. (Open Access) 講 演 ③ : 「 深 層 学 習 に よ る ロ ボ ッ ト の 感 覚 運 動 ダ イ ナ ミ ク ス の 学 習 」 (早 稲 田 大 学 尾 形 哲 也 氏 ) 自分の体を動かしてデータを集めて行動を決めなければならないロボットにとっては,時系 列データを扱うことは必須となる.最後の尾形哲也氏の講演では,ディープラーニングを時系 列の感覚処理に応用し,ロボットを搭載する研究が紹介された(図 4). 全脳アーキテクチャ勉強会の中心的話題でもあるディープラーニングだが,これまで注目を 集めてきた応用の多くは,テキストデータや静止画像といった静的なデータに対するものだっ た.そこで尾形氏らは,時系列を扱えるようにディープラーニングを拡張し,かつ音声・映 像・運動情報という多種の感覚情報を統合して扱うマルチモーダルな学習の手法を開発した. これは,ディープラーニングで脚光を浴びたオートエンコーダと呼ばれる圧縮手法を用いて多 次元の時系列データを圧縮し,時間幅のもつ多種感覚情報を丸ごと扱えるようにしたものだ. 5 単一モダリティの場合に比べて,より正確 な行動認識(ロボットが今何をしているの かを認識する)ができるだけでなく,ロボ ットが見ている映像から今の関節の動きを 推定したり,逆に関節の動きから見えてい るはずの映像を再構成したりといった, 「連想」が可能になるのが特徴だという. なお,ディープラーニングをロボットに応 用した事例はまだ少なく,尾形氏の論文は RAS(Robotics and Autonomous Systems) 図 4:深層学習のロボティクスへの応用について語 る尾形氏 誌の”most downloaded paper”に輝いている とのことだ. より広範囲の「過去=コンテキスト」を使うための手法として,再帰的ニューラルネットワ ーク(Recurrent Neural Network:RNN)を使った研究が紹介された.ニューロンの出力が自 分に戻ってくるというのが RNN の特徴だが,これはすなわち過去の情報が再び今の自分に影 響を与えることを意味する.そのため,RNN をロボットに搭載することで,ロボットが経験し た過去,すなわち「コンテキスト」を保持できると考えられる.これを上手く実装するための 工夫として,早い時間スケール・遅い時間スケールのコンテキストを表現するためのモジュー ルを分けて用意することや,自分の「推定のよさ」に応じて戦略を変えるとよいことなどが説 明された. 本講演では,ロボットに記憶を持たせるためのいくつかの試みが紹介され,特にループ構造 をもつリカレントネットワークをディープラーニングに組み合わせていく方向性が示された. また,RNN を記憶装置として使うためのノウハウや知見がすでに集まっている様子が紹介され, 参加者の興味を惹きつけていた.この RNN を用いた記憶の研究は Google なども乗り出してお り,今後ますます注目されていくことが予想される. 主な参考文献: ● Kuniaki Noda, Hiroaki Arie, Yuki Suga, Tetsuya Ogata Multimodal integration learning of robot behavior using deep neural networks. Robotics and Autonomous Systems Volume 62, Issue 6, June 2014, Pages 721–736 6 ● Y. Yamashita and J. Tani: "Emergence of functional hierarchy in a multiple timescale neural network model: a humanoid robot experiment", PLoS Computational Biology, Vol.4, Issue.11, e1000220, 2008. ● J. Namikawa, R. Nishimoto, J. Tani: "A neurodynamic account of spontaneous behaviour", PLoS Computational Biology, Vol.7, Issue.10, e1002221, 2011. ● Wataru HINOSHITA, Horiaki ARIE, Jun TANI, Hiroshi G. OKUNO, Tetsuya OGATA: Emergence of Hierarchical Structure mirroring Linguistic Composition in a Recurrent Neural Network, Neural Networks, Vol.24, No.4, pp.311-320, Jan. 12. 2011. (doi:10.1016/j.neunet.2010.12.006) おわりに 時間の経過のなかに生きる私たちは,そのつど外界から情報を受け取り,判断をし,行動を 選ばなければならない.その意味で,たとえ大量のテキストデータや画像データをから正確に 何かを識別するアルゴリズムがつくれたとしても,その学習が時間的コンテキストのなかで行 われるのでなければ,それは知能の一断面としての近似にしかならないだろう.脳は時系列デ ータ(つまり「過去」)をどのように貯めこみ,どう使っているのだろうか.当然,そのメカ ニズムは一つではないはずだ.時間スケールの違い(0.1 秒前の情報を使うのか,1 年前の記憶 を使うのか)もあるし,目的の違い(素振りどおりのスウィングがしたいのか,昨日出会った 人の名前を思い出したいのか)によっても変わってくるだろう.ある種の過去は「事前確率」 として脳に保持されているかもしれないし,また別種の時間は(小脳の顆粒細胞における時間 表現のように)思いもよらない複雑な様式で扱われているかもしれない.そうしたメカニズム のすべてを,人工知能に搭載できるまでに解明するというのは,簡単ではなさそうだ. とはいえ,今回の三つの講演からは,その目標に少しずつでも着実に近づいていることが分 かった.認知神経科学からは,「ベイズ推定」という一種の「過去の使い方」が明らかにされ, それを担う脳部位が特定されはじめている.もう一方では,小脳の構造を模したモデルで時間 順序の学習が可能になったり,ディープラーニングの拡張的手法がマルチモーダルな情報統合 や,時系列データの扱いに応用されたりしてきている.更に時間を扱う神経回路モデルとして も,従来主流であったリカレントニューラルネットワークだけでなく,Reservoir Computing や,さらに Long short term memory などの活用も見直され,その新たな可能性が検討され始め ている.こうしたことから,時間を扱うことのできる汎用人工知能の実現に向けた,確かな前 進を感じることができた. 7
© Copyright 2024 ExpyDoc