Title Author(s) Citation Issue Date URL G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判につい ての一考察 松下, 丈宏 人文学報. 教育学(49): 25-47 2014-03-30 http://hdl.handle.net/10748/6541 DOI Rights Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher http://www.tmu.ac.jp/ 首都大学東京 機関リポジトリ G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判に ついての一考察 松下 丈宏 On critique of Rawls' "difference principle" by G. A. Cohen TAKEHIRO MATSUSHITA 序 教育制度のあり方を考察する場合には、教育制度を包み込むより広い社会制 度の原理に積極的に関係づけて論究することが、教育制度論をいたずらに空想 的なものに終わらせないために必要なことである。そのような社会制度原理の 代表的な探求としてジョン・ロールズの『正義論』を挙げることができる 1)。 さて、ロールズの『正義論』が 1971 年に刊行されて以来、 『正義論』を巡っ ては、さまざまな論争が行われてきた。その中でも、最も注目を集めた論争の ひとつが、ロバート・ノージックとの論争であったということについては、大 方の賛同が得られるであろう 2)。1970 年代に行われたこの論争は、後に反平等 主義的なリバタリアニズムの代表的理論家とみなされることになるノージック によって、 ロールズの平等主義的リベラリズムに対する批判として展開された。 ロールズは、周知のように、不平等の自然的/社会的偶然性は「道徳的に言っ て、等しく恣意的である」3)とみなし、この二つの不平等を正義の原理によっ て規制することを自らの正義論の課題とし、この二つの不平等の規制原理とし て、有名な格差原理を提起したのであった。そして、ノージックとの論争では、 主に、この格差原理の正当性が争われた。格差原理の正当性を巡るこの論争に 現れているように、その後、反平等主義的リバタリアンとしてのノージックに 対して、平等主義的リベラリストとしてのロールズという評価が、定着したと 26 いえる。たとえば、ロールズ以上に「平等志向的」なリベラリストとみされる ことが多いロナルド・ドゥウォーキンも、 「ロールズの到達する結論は、その論 証過程には何ら関わりなく、心ある人々の直感に訴えかける底知れぬ力を秘め ています」4)と、ロールズの『正義論』の平等主義的性格に高い評価を与えて いた。 さらに、ロールズの『正義論』は、倫理学や法哲学の分野に止まらず、教育学 の分野にもまた強い影響を与えるものであった。1960 年代の半ばすぎに「結果 の平等」の概念を提唱してアメリカ合衆国の教育政策を転換させたジェーム ズ・コールマンは、新しい教育の機会均等概念の検討にあたって、ロールズの 格差原理に直接言及している 5) 。また、1970 年代にアメリカ教育哲学会誌 Philosophy of Education 上で展開された「教育の機会均等」論争 6)は、ロー ルズの『正義論』の解釈をめぐるものともいえた。つまり、ロールズの『正義 論』は、教育機会の実質的な平等を求める補償教育政策を正当化する理論とし てアメリカ合衆国の多くの教育学者の注目を集めるものでもあった。さらに、 ボールズとの共著『アメリカ資本主義と学校教育』でのアメリカ公教育批判で 知られるハーバート・ギンタス 7) やロナルド・ドーアの学歴社会批判 8) など、 現代教育制度論を代表する諸研究においても、ロールズの『正義論』は新しい 教育制度を構想する際の主要な参照文献として論及されている。こうしてロー ルズの『正義論』は教育学理論としても、その平等主義的性格に対して幅広い 関心を喚起したのである。 ロールズの『正義論』の意義については、わが国においては、教育哲学者・ 宮寺晃夫が「教育の分配」論をめぐって哲学的な観点から、他方で教育行政学 者・黒崎勲が能力主義教育理念に対する原理的な批判を教育制度論の観点から、 すでに検討を行っている 9)。しかし、宮寺も黒崎もまた、ロールズの『正義論』 をめぐっては、ノージックとの論争に代表されるように、その「平等主義的」 性格を前提とした従来の通説的枠組みを踏襲し、ロールズの格差原理のその平 等主義的性格に着目した、教育の分配論の検討、あるいは能力主義教育理念に 対する批判的な教育制度論的を行っている。 しかし、ロールズの「格差原理」については、それをア・プリオリに平等主 G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 27 義的な原理と解釈する従来の通説的な理解を疑問視する有力な批判が存在して いる。ロールズの格差原理は、1970 年代には、ノージックに代表される反平等 主義的な立場からの批判を招いたのだが、それに対して、1990 年代に G.A.コー エンによって展開されたロールズ批判は、平等主義の立場から格差原理の不徹 底性をつくものであった。本論文が研究の対象とするのは、この G.A.コーエン によるロールズ批判である 10)。 1.格差原理とインセンティブ論 (1) 「格差原理」とは何か ロールズは、功績や権原といった観念を、不平等の正当化の根拠として承認 することを明確に拒否している。なぜなら、ロールズによれば、功績や権原を 不平等の正当化の根拠とすることは、自然的能力および社会的環境という二つ の偶然性が社会的基本財の配分結果に直接反映することを正当化することにな るが、この二つの偶然性は、道徳的な観点から見た場合、等しく恣意的であり、 不平等を正当化する論理としては不適切だからである。そして、ロールズは、こ のような二つの道徳的恣意性を規制し、配分的正義を実現する原理とし「正義 の二原理」を提出したのであった。正義の二原理とは、周知のように次のような ものである。 「第一原理:各人は、他の人々の自由の図式と両立する平等な基本 的自由の最も広範な図式に対する平等な権利を持つべきである。第二原理: 社 会的経済的不平等は、 (a)それが最も恵まれない立場の人々の期待便益を最大化 し、(b)公正な機会均等という条件の下で、すべての人々に開かれている職務や 地位に付随するように取り決められるべきである。第一原理は、第二原理に、第 二原理の(b)は、(a)に優先する。」 [Rawls:1971:302-303] さて、 「能力主義」理念を批判すべき理念とみなす伝統をもつわが国の教育 学にとって、ロールズの「正義の二原理」の中で、特に興味深い原理は何とい っても第二原理の(a)、いわゆる「格差原理」であろう。なぜなら、第一原理及 び第二原理の(b)は、 概念的には今日の社会の基本原理として広く認められてい るものだからである。これに対して、第二原理の(a)は、 「能力主義」理念の定式 化ともいえる公正な機会均等原理をさらに越える内容を持つものであり、ここ 28 にロールズの正義論のオリジナリティと存在意義があると認められるからであ る 11) 。その場合、ロールズが能力主義の理念に批判的に対置する配分的正義の 原理の内容が、 「平等原理」ではなく、なぜ「格差原理」であるのかを問わなけ ればならない。ここでいう平等原理とは、 「すべての社会的価値―自由、機会、 所得や富、自尊心の社会的基盤は、・・・すべての人々に等しく分配されるべきで ある」 [Rawls:1971:62]という原理である。この平等原理は、能力主義理念に対 する完全なアンチ・テーゼであろう。しかし、ロールズは、このような平等原理 ではなく、格差原理を採用する理由について、 「すべての基本財の平等分配は、 特定の不平等を認めることによって、すべての人々の境遇をより改善するとい う可能性の観点から見れば、不合理である」 [Rawls:1971:546]と主張する。つ まり、ある不平等を認めることによって、いわゆる「パレート改善」が可能で ある場合、そのような不平等の存在を認めないことは、不合理であり、平等原 理に対して格差原理が優先されなければならないというのである。パレート改 善とは、他の誰かの効用を引き下げることなく、ある人物の効用を高めることが できるような状態を指すが、なぜそのようなパレート改善が可能となるのであ ろうか。ロールズは、次のように論じている。 「もし初期平等の基準点[社会的 基本財の平等分配-松下]と比較して、すべての人々の暮し向きが改善するよ うに機能する不平等が[基本-松下]構造の中に存在するのであれば、なぜそ うした不平等は許容されないのであろうか。より大きな平等によって許されう る当面の割増は、それが将来もたらすであろう利益の観点から見て、賢明な投 資である、とみなすことができる。たとえば、より一層の生産的努力をうまく誘 引する様々なインセンティブが引き起こされるのであれば、原初状態にいる 人々は、そういったインセンティブは、訓練費用をまかない、有効なパフォー マンスを鼓舞するために必要である、とみなすことができるであろう」 [Rawls:1971:151]。ロールズは、パレート改善が可能となるのは、社会的基本 財を人々に平等に分配するよりも不平等に分配した方が、人々の「生産的努力 をうまく誘引する」ことが可能となるからであるとする。すなわち、人々はより 高い報酬に動機づけられることで、より一層の努力を行うことが可能となり、 その結果としての社会的生産性の増大が、すべての人々の暮らし向きを改善す G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 29 る。逆に、そのような不平等な分配が認められない場合、社会的生産性の増大を もたらすインセンティブが生じないために、最も恵まれない人々の暮し向きも 改善されない。ロールズは、 このようなあらゆる人々の暮し向きの改善が可能で あるにもかかわらず、平等原理に固執することによってそうした改善を不可能 にすることは不合理であるとみなしているのであった。しかし、この場合、ロー ルズは社会的生産性の増大をもたらすあらゆる不平等分配が正当化されると考 えているわけではない。つまり、ある不平等が正当化されるのは、 「最も恵まれ ないグループの長期的期待を最大化する」 [Rawls:1971:151]ために、その不平 等が必要とされる場合に限定されている。これこそが、 格差原理の意義に他なら ない。換言すれば、正当とみなされる不平等とは、最も恵まれない人々が必要と する不平等であり、そのような不平等を正当化するのが格差原理なのである。 すなわち、社会システムは、 「最も恵まれない代表者の立場から眺められ、その 立場から見て」 [Rawls:1971:151]特定の不平等を認めることが、彼らの暮らし 向きの改善のために必要であるかどうかが判定されるのである。 さて、ここで不平等を引き起こす要因は、人々が要求するインセンティブで あるとみなされている。そして、そのようなインセンティブ、つまり人々に「生 産的な努力をうまく誘引する」 ような不平等な優遇措置が、 最も恵まれない人々 の利益になる限りで、格差原理によって、正当化される。この場合、優遇措置を 受けるのは、能力に恵まれた人々である。なぜなら、能力に恵まれた人々の優れ た能力の生産的な利用こそが、 社会的生産性の増大をもたらすからである。この ように能力に恵まれた人々に対する優遇措置としてのインセンティブを与える ような不平等を正当化する議論を以後「インセンティブ論」と呼ぶことにする。 渡辺幹雄は、 「 『われわれの社会は格差(インセンティブ)を必要とする』とい う事実に基づいてこそ、その格差をどう規制するべきか、を規定する格差原理の レゾン・デトルがある」と指摘している 12)。つまり、インセンティブ論の承認 .. は、従来、格差原理の核心とみなされてきた。 (2)インセンティブ論の保守性 上述のインセンティブ論を認める格差原理から理論的に導かれる分配結果は、 30 ロールズの正義論の中で理論的に整合する、 と通説的には理解されてきた。しか し、ここでは、そのようなインセンティブ論を認めるという点に注目するなら ば、ロールズの格差原理をア・プリオリに「平等主義」的な原理とみなすこれ までの通説的な解釈には、疑問が生じうるという点を明らかにする。 この点を解明するという目的に限って、フリードリッヒ・ハイエクの「不平等 正当化」論を検討することにしよう。周知のように、ハイエクは、リバタリアニ ズムの現代的隆盛と共に復活したリバタリアンの代表的理論家の一人とみなさ れ、「平等に対する自由の優位」を強力に主張する反平等主義者として知られて いる。 ハイエクは、なぜわれわれがこれほどの文明の進歩を成し遂げることができ たのかを問い、それは「個人が、その目標を追求する際に、自分自身で得たより も多くの知識を利用することができ、そして、自分では持っていない知識から 利益を得ることによって、その無知の境界を乗り越えること」[ハイエ ク:1997:38]13)を文明が可能にしてきたことにあるとする。さらに、ハイエク は、その社会制度原理の中心に市場を据える「自由な社会」の特徴を、「人間の目 標が開かれていること」[ハイエク:1997:56]に求めていた。自由な社会とは、 人間の目標が開かれているがゆえに、少数の人々の意識的な努力が生じ、また そのような意識的な努力を試みる自由が万人に許されているのである。つまり、 自由な社会とは、人々が創意工夫を自由に試みることを最大限に保障する社会 なのである。さらに、この社会は、「開かれた社会」であるがゆえに、「はじめは 少数の人々から起こってきた意識的努力の新しい目標であったものが、やがて は多くの人々の目標となる」[ハイエク:1997:56] ことを可能にし、 結果として、 少数の人々の創意工夫を、 すべての人々が享受することを可能にするのである。 ハイエクは、この少数の人々の成果の万人による享受こそ、文明の進歩に他な らないとみなしている。 さて、この少数の人々の成果が万人の成果となる自由な社会で生じる不平等 に対するハイエクの正当化の論理は、非常に興味深いものがある。ハイエクは、 少数の人々が万人に先んじて得ることになる成果に付随する不平等の性格を次 のように論じている。 「少数者によって享受され、 大衆に夢想すらされない贅沢、 G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 31 また浪費とさえ今日思われるかもしれないものは、最終的には多数の人々が利 用できる生活様式のための支払いである。・・・今日の貧しい者でさえ、自分たち の相対的な物質的幸福を過去の不平等な結果に負っているのである」 [ハイエ ク:1997:68]。つまり、ハイエクは、不平等の存在を、単純に肯定し、支持して いるのではない。ハイエクは、不平等が存在することが経済的進歩を可能にする ことで、貧しい者たちにとっても結果として利益となるという理由で、その不 平等は正当化されると主張しているのである。このようなハイエクの「不平等正 当化」論が興味深いのは、 それがロールズの格差原理と同一の論理構成を持って いるようにみえる点である。 なぜなら、 ロールズによる格差原理の定式化とは、 「『社会的経済的不平等は、それらが最も不利な立場にある人々の期待便益を最 大化するようなときに正当なものとみなされる』 という内容をもつにすぎない」 [黒崎:1995:112]と単純化されうるからである。ハイエクは、ロールズのい う「最も恵まれないグループの長期的期待」を文明の進歩がもたらす成果の享受 と同一視することによって、現代社会に存在するあらゆる不平等を正当化する のである。こうしてハイエクの不平等正当化論は、 いわばロールズの格差原理を 最も保守的に解釈するものとみなすことができるのである。したがって、 ハイエ クが、ロールズの『正義論』に言及して、 「われわれの間[ハイエクとロールズ] の相違は、実質上のものというよりは言葉の上のもにであるように思われる」 [ハイエク:1998:5]と論じたのは、決して偶然ではない 14)。ハイエクによる「文 明の進歩」を根拠にした現代社会に存在するあらゆる不平等の正当化論は、 ロー ルズの格差原理によっても正当化される可能性を持つのである。 こうして、格差原理それ自体が、ア・プリオリに「平等主義」的な原理である かどうかについては、 十分に疑うべき根拠があるということが明らかとなった。 ハイエクが主張するように、 能力に恵まれた人々が要求するインセンティブを、 最も恵まれない人々の利益となる「文明の進歩」による恩恵と同一視するのであ れば、 インセンティブ論一般を承認するとも解釈できるロールズの格差原理は、 非常に保守的に機能する可能性が存在するのである。ロールズの格差原理を ア・プリオリに「平等主義」的な原理とみなす通説的理解の前提を疑うべき理由 は、確かに存在するのである。 32 2.コーエンのロールズの「格差原理」批判 (1)格差原理の二つの解釈 ロールズの格差原理とは、能力に恵まれた人々が要求するインセンティブを 最も恵まれない人々の利益となる限りで正当化するというものであった。しか し、インセンティブ論一般を承認する格差原理は、ハイエクが主張するような 現に存在する社会的/経済的不平等のすべてを最も恵まれない人々の長期的期 待を最大化するために必要なインセンティブとして正当化するという論理的可 能性を排除することができないものであった。 さて、このようなインセンティブ論一般を承認する格差原理の解釈を批判し たのが、G.A.コーエンである。コーエンは、次のように論じている。「ロール ズ主義的正義がそれ自体で真であるならば、ロールズ主義的正義はそのような インセンティブを批判するし、逆に、その社会の構成員が格差原理に彼ら自身 で明示的にコミットしている社会は、能力に恵まれた生産者を動機づけるため の並外れたインセンティブを利用する必要はまったくない」 [Cohen:1992:310]。 つまり、コーエンは、ロールズの格差原理が、能力に恵まれた人々を「動機付け るための並外れたインセンティブ」を正当化するものと拡大解釈されうる点に ついて、 まさにロールズの格差原理の論理構成に沿って、内在的に批判しようと しているのである。 コーエンが、 インセンティブ論一般を承認する格差原理解釈を批判するのは、 ロールズが『正義論』において「正義の二原理」が適用される社会モデルを二つ に区別していた点と関係がある。つまり、 ロールズは、 正義論を「理想理論」と「非 理想理論」とに区別する。ロールズによれば、 正義についての「理想理論」と「非理 想理論」とは、 次のように区別されなければならない。 「直観的なアイディアは、 正義論を二つの部分に分けるべきであるということである。第一の部分、 つまり 理想理論は、厳密な受諾を仮定し、好都合な環境下の秩序ある社会を特徴づけ る原理を樹立する。それは、完全に正義に適う基本構造という構想を展開し、人 間生活の一定した制約下にある人間のそれに対応する義務と責務を展開する。 私の主要な関心は理論のこの部分である。非理想理論、つまり第二の部分は、正 義の理想的構想が選択された後に樹立される。その場合にのみ、 当事者はあまり G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 33 幸運ではない条件の下で、 どの原理を採択するのかを問う。理論をこのように分 割すると、・・・ひとつは、自然の制約や歴史的偶然性の調整を担う諸原理からな り、もうひとつは、不正義に対抗する諸原理からなる」[Rawls:1971:245-246]。 このようにロールズは、正義論を二つの理論に区別する。そして、この理論 的区別は、ロールズが、正義が仮定によって完璧に実現されている仮想的な「秩 序ある社会」と、 われわれが現に暮しているような「現実社会」とを区別している と考えることができるであろう。秩序ある社会では、 仮定によって正義の原理は 完璧に実現されている。したがって、正義の「理想理論」では、この完璧に実現 されるべき正義の原理が明らかにされる。そして、 それが「正義の二原理」に他な らない。一方、 「非理想理論」では、この実現されるべき正義の原理を現実社会 に適用する際に、 現実社会の状況との妥協としての原理が明らかにされる。つま り、非理想理論における原理は、 「現実社会」から「秩序ある社会」への移行期 間に存在する「不正義に対抗する諸原理」なのである。 さて、ロールズの正義論をこのように理解することができるとすれば、コー エンの主張は、ロールズが、正義の理想理論のレベルに存在する不平等を、つ まりこのレベルで能力に恵まれなかった人々の利益にもなる不平等な優遇措置 を、能力に恵まれた人々が要求するインセンティブ論一般に解消し、それを「格 差原理」による正当化と理解している点を批判するものである。 しかし、そうであれば逆に、コーエンにとっては、ロールズの提起する格差 原理がインセンティブ論一般とは区別された形で、どのように機能し得るのか を説明しなければならない。つまり、格差原理が「格差」原理である以上、平等原 理はあらかじめ排除されていたからである。また、 平等原理があらかじめ排除さ れるのは、ある格差を認めることによって、すべての人々の暮し向きが改善す るのであれば、 「全ての基本財の平等分配は、 …不合理である」 [Rawls:1971:546] からであった。 さて、このような理論的要請に対するコーエンの回答は、次のようなもので あった。すなわち、正義の理想理論では、能力に恵まれた人々が受け取る相対的 に高い報酬は、以下で説明するような「特別な労働負担」 [Cohen:1992:296;1995:173]に対する補償として正当化されるのであり、 インセ 34 ンティブ論一般によって正当化されるのではないというものである。格差原理 は、最も恵まれない人々の暮し向きを改善するために必要となる不平等を正当 化するが、コーエンは、「必要」という用語を二つの意味に区別し、 「格差原理」 についての二つの解釈を提出する。ひとつは、ある不平等が「人々の選択された 意図から離れて必要となる場合にのみ」[Cohen:1992:311]、 その不平等を正当化 するという「厳密な格差原理」解釈であり、もうひとつは、「ある人々の意図を与 件とする限りで、 必要とされるような不平等」[Cohen:1992:311]をも正当化する ことになる「弛緩した格差原理」解釈である。 この二つ格差原理解釈は、 次のような例によって説明することができる。二つ の賃金率 W1 と W2 があり、W2>W1 であると仮定する。この賃金率の差(格差) は、 「厳密な格差原理」解釈の下では、次のような理由により正当化される。W1 の労働と比較して、W2 の労働が、「特別な努力を必要として、ストレスがたま る」[Cohen:1995:173]ような場合で、「その差額を正当化するのに十分なほど、 そうである」[Cohen:1995:173]場合である。コーエンは、この種の労働に伴う負 担を「特別な労働負担」と呼んでいる。特別な労働負担に比例した賃金格差は、 そ の労働負担に対する補償としてあらゆる人々(能力に恵まれた人/恵まれなか った人) が必要であると考えるような格差なのである。したがって、 コーエンは、 ある労働が占める「特別な労働負担」に賃金格差が対応している場合、その「格 差」は「厳密な格差原理」解釈によって正当化されるとするのである。 さらに、賃金率 W3 を考えてみよう。それは、W1 よりも高い賃金率であり、W2 よりもさらに高い賃金率であるとする。すなわち、W3>W2>W1 である。この場 合にも、能力に恵まれた人々が従事している職業の「特別な労働負担」は、先程 と同様に W2 に対応するとする。しかし、能力に恵まれた人々が、ある職業の賃 金率を W2 で提案される場合、賃金率 W3 が提案されない限り、その職業に従事 しないことを「決意」しているとしよう。この場合、 能力に恵まれた人々のこの決 意を懐柔するために、 すなわち彼らがその職業に就くことを「可能にする以上に、 十分に魅力あるもの」にするために、 能力に恵まれた人々が要求するインセンテ ィブを考慮して、賃金率 W3 が支払われたとする。この賃金率 W3 には、能力に恵 まれた人々の意図(決意)が反映されている。コーエンは、このような能力に恵 G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 35 まれた人々の意図によって引き起こされるような不平等は、「弛緩した格差原 理」解釈によってのみ正当化されるとする。 格差原理の厳密解釈と弛緩解釈をこのように理解する場合、能力に恵まれた 人々が「特別な労働負担」に対する補償としての相対的に高い報酬よりも、さら に高い報酬をインセンティブとして要求する場合、そのような高い報酬を正当 化するのは、弛緩した格差原理解釈であり、厳密な格差原理解釈は、そのよう な報酬を正当化しないことになる。 こうして格差原理の厳密解釈と弛緩解釈は、次のように要約することができ る。報酬の平等分配を行うよりも不平等分配を行うことによって、 最も恵まれな い人々の暮し向きを改善することが可能となる場合に必要とされる不平等が、 「リーズナブルな平等主義者ならば補償されるべきだと考えなければならない ような特別な負担を能力に恵まれた人々が負っている」[Cohen:1995:173]とい う理由で必要とされるような不平等である場合、そのような格差を正当化する のが、「厳密な格差原理」解釈である。厳密な格差原理解釈によれば、「相対的に 大きな負担が、 相対的に高い補償的報酬を正当化する」[Cohen:1995:173]のであ る。一方、能力に恵まれた人々が、その相対的に大きな負担に対する補償とし ての報酬を越えるような報酬をインセンティブとして要求するような場合にも、 それが最も恵まれない人々の暮し向きを改善することになる限り、そうした不 平等も正当化するのが、 「弛緩した格差原理」解釈ということになる。このように 格差原理をその厳密解釈と弛緩解釈とに区別するとするならば、 「人々の選択か ら離れて」必要な格差を、特別な労働負担を担う能力に恵まれた人々に対する 補償としての「厳密なインセンティブ」とみなすことができ、と同時に特別な 労働負担に対する補償を超えるような格差を能力に恵まれた人々がインセンテ ィブとして要求する場合、その要求を「弛緩したインセンティブ」として区別す ることができるであろう。以後、 前者の意味での格差を「厳密なインセンティブ」、 後者の意味での格差を「弛緩したインセンティブ」として区別して論じることに する。 36 (2)「厳密な格差原理」と社会的エートス コーエンが主張するように、格差原理を「厳密な格差原理」と「弛緩した格差 原理」に区別することができるのであれば、ハイエクに代表されるような格差 原理の保守的な解釈を「弛緩した格差原理」解釈とみなし、ロールズの正義論に 本来固有の「格差原理」を「厳密な格差原理」解釈と限定することによって、ロ ールズの格差原理を一義的に「平等主義」的な原理と解釈することが可能となる。 このように考えるならば、コーエンによって展開されたロールズ批判は、正確 に言えば、ロールズが弛緩した格差原理を前提にしているというよりも、二つ の解釈の区別について自覚的ではなかったために、弛緩した格差原理を正義の 「理想理論」に持ち込む危険性を持つことへの批判だということになる。ロール ズは、この区別を受け入れ、格差原理を一義的に「平等主義」的な原理として主 張できるかもしれない。 しかし、コーエンによれば、ロールズにとって事態はそう楽観的ではない。 なぜなら、コーエンによれば、ロールズの格差原理に従う政府は、 「単独では厳 密な格差原理を実施することができない」 [Cohen:1992:312]からである。コーエ ンは、「秩序ある社会」で厳密な格差原理が機能するためには、この原理によっ て形成されたエートスが社会全体に存在することを必要とすると主張する。コ ............... ーエンは、「[ロールズによれば]格差原理は、この原理によってそれ自体は影響 ........... を受けないような諸選択の結果を緩和するために、政府によって施行されるだ ろうと考えられている」[Cohen:1992:312 強調は原文]とする。このコーエンの 格差原理の実行プロセスについての理解は、ロールズが政府の活動部門を四つ に分割し、格差原理の実施を分配部門に割り当て、この分配部門の役割によっ て、ロールズの正義論は「福祉国家」を正当化した議論であるとみなす通説的な ロールズ理解と適合的である 15)。そして、この通説的理解によれば、政府によ って実施される累進課税制度が、ロールズの考える「格差原理」の実現であると 見なすことになる。したがって、 諸個人は政府によって施行されている累進課税 率を与件として、市場で「効用の最大化」を目指して合理的な選択を行うとされ る。その結果、諸個人の可処分所得は、弛緩した格差原理によって正当化され ることになる。なぜなら、一般に、労働の市場価格は、コーエンのいう「特別な G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 37 労働負担」に比例した報酬を提供しているという保証は存在しないし、さらに、 ロールズの格差原理解釈は、コーエンのように格差原理解釈を二つに区別する ものではないので、政府が実施する累進課税率が、特別な労働負担に対応した 税率設定となっている保証は存在しないからである。さらに、能力に恵まれた 人々が、特別な労働負担に比例した報酬では満足しないような選好を有してい る場合には、その選好に適合的な報酬が提供されなければ、社会的生産性は大 幅に減退するかもしれない。つまり、 高い生産性を有する能力に恵まれた人々が、 非常に高い報酬(弛緩したインセンティブ)を提供されない限り、その能力を発 揮することを拒否するというような「決意」している場合には、 「人々の選択され た意図を与件とみなす」[Cohen:1992:311]政府の定める累進税率は、 非常に低い レベルに止まる可能性がある。このような事態を逆に積極的に評価することが、 まさに反平等主義者ハイエクをしてロールズに賛同する表明を可能にしたので ある。弛緩した格差原理解釈の最大のアポリアは、 能力に恵まれた人々が有する 「選択された意図を与件とみなす」点にこそ存在するのであった。 さて、コーエンが擁護する「厳密な格差原理」解釈は、能力に恵まれた人々が 現に有する選好を与件とはみなさず、その「労働負担度」に比例した報酬を提供 することを必要とする。したがって、 能力に恵まれた人々が従事するその労働負 担に対する補償としての相対的に高い報酬をさらに越えるような極めて高い報 酬を期待するような選好を有している場合に、その労働負担度に比例した報酬 をあくまでも提示しつづけるならば、社会的生産性が大幅に減退し、能力に恵 まれた人々にその労働負担度を越えるような報酬(弛緩したインセンティブ)を 過剰補償する場合よりも、最も恵まれない人々の暮し向きが悪化するかもしれ ない。このような事態を予測して、コーエンは、次のように論じている。「格差 原理によって具体化された正義の文化の中では、能力に恵まれた人々は、その 報酬レベルが自分たちの高い需要を反映している(その職業の特別な必要や負 担とは対立するような)高い報酬を(一般的にそうした高い報酬を獲得する能 力を持つにもかかわらず)期待しないであろう」[Cohen:1992:317]。つまり、 コーエンのいう「秩序ある社会」の能力に恵まれた住人は、「弛緩したインセン ティブ」を要求することで、 その労働負担度を超えるような報酬を獲得すること 38 ができると知っているとしても、そのような要求を行わないというような平等 主義的エートスを内面化している必要があるのである。すなわち、 コーエン流の ロールズの「秩序ある社会」では、「厳密なインセンティブ」が保障されている限 り、能力に恵まれた人々は、それ以上の要求を行わないというような平等主義 的な節度を有するのである。 3. 「特別な労働負担」論論争 (1) 「特別な労働負担」論の規範的意味 このようにコーエンの主張する二つの格差原理解釈の下で正当化されるイ ンセンティブ論を「厳密なインセンティブ」論と「弛緩したインセンティブ」論と に区別することができるのであれば、能力に恵まれた人々が「平等原理」=「画 一的平等賃金」論を受け入れるというような「不合理な」想定を行うことなく、 ロールズの「格差原理」を一義的に「平等主義的な原理」と解釈することが可能と なる。つまり、ハイエクに代表されるようなインセンティブ論一般を承認する 格差原理解釈を「弛緩したインセンティブ」論も認める保守的な格差原理解釈と みなし、ロールズの正義論に本来固有の「格差原理」解釈を、「厳密なインセンテ ィブ」論のみを正当化するものに限定することで、 ハイエク流の格差原理解釈か らロールズに固有な格差原理を理論的に区別することが可能となる。 さて、コーエンの「特別な労働負担」論が、概念的に成立するものであるかど うかは、「厳密なインセンティブ」論と「弛緩したインセンティブ」論の区別可能 性にとって、決定的に重要である。なぜなら、この概念の成立を前提として、 初めて、能力に恵まれた人々が要求するインセンティブを、「厳密なインセンテ ィブ」論に基づくものであるか、 「弛緩したインセンティブ」論に基づくものに過 ぎないのかを判定することが可能となるからである。 従来の先行研究においても、コーエンの「特別な労働負担」論の成立可能性に ついては、幾つかの疑問がよせられている。例えば、フィリップ・ヴァン・パレ ースは、「コーエンは、相対的に高い報酬が機能することを容認する『特別な労 働負担』という考え方について、ほとんど明らかにしていない」 [Parijs:1995:50]、と指摘している 16)。さらに、アンドリュー・ウィリアムズは、 G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 39 特別な労働負担の測定基準を「効用」とみなす場合に、功利主義の難点とされ る「個人間比較の不可能性」問題をコーエンの議論が抱え込むことになると指摘 し、「特別な労働負担」論の成立可能性そのものに対して疑義を提示している 17)。 ヴァン・パレースが批判するように、確かにコーエンは「特別な労働負担」概 念について必ずしも明晰にしているとは言い難い。しかし、コーエンが、ロー ルズの格差原理を弛緩したインセンティブ論も容認する可能性をもつとみなし、 それを批判したのは、インセンティブ論一般の「政治的利用」に対する批判を も意図していたからである。つまり、現在すでに豊かな報酬を受け取っている 人々が、弛緩したインセンティブ論を持ち出すことで、さらに高い報酬を要求 することへの批判である。そして、この点は単なる危惧ではない。今や時代の潮 流となったという感がある新自由主義の先駆けであったと評価される豊かな階 層の人々に対する大幅減税を実施したイギリスのサッチャー政権が自らの減税 政策を正当化するために用いたレトリックも、こうした弛緩したインセンティ ブ論であった 18)。したがって、少なくとも現在の報酬格差に対して批判的意識 ....... をもつ限り、コーエンの主張は直感的な説得力を有している。 「特別な労働負担」論に対する批判は、ウィリアムズの批判に典型的に見られ るように、 「報酬格差は労働負担に対する補償であるべきである」とする補償的 正義論の労働負担評価基準の主観性に向けられてきた。しかし、 補償的正義論の 代表的理論家の一人であるジェームス・ディックは、労働負担度の測定に関す る「主観性」を巡る論争は不毛であるとして、次のように主張した。 「正しい尺度 とは、専門的で取締役にふさわしい能力の望まれている供給を発揮させるため に必要となる報酬額である。…そして、その報酬額とは、規範的な観点から判 断した場合、引き受けられている職業の性質に対する補償額とだいたい等しい であろう」[Dick:1975:266]19)。ディックが、労働負担度の測定を巡る「主観性」 論争は不毛であると主張し、正しい尺度に基づく報酬額は、 「規範的な観点」か ら見た場合、引き受けられている職業の性質に対する補償額と等しいと主張し ている点は、非常に興味深いものがある。つまり、ここには、労働負担度の測 定に関する「客観的」な基準が示唆されている。さらに、ディックは、経済学 者が使用する「経済的レント」という概念を援用することで、「望まれている供 40 給」を発揮させるために必要となる報酬額を、 実際に提供される労働の市場価格 から区別している。ディックは、その区別を次のように論じている。 「労働者の 移転所得-ある労働者を別の職業に転職させないために必要な報酬額-、そし て、その労働者の報酬における経済的レントという要素-その労働者が実際に 受け取る報酬額と転職を防止するために十分であるような報酬額との間の差額」 [Dick:1975:268]。 この場合、ディックの主張する移転所得をコーエンの「特別な労働負担」に対 する補償としての報酬=「厳密なインセンティブ」とみなし、市場で受け取る 実際の報酬額との差額分、 つまりディックの主張する経済的レントを「弛緩した インセンティブ」に基づく報酬額とみなすことができないであろうか。一般に、 経済学では、経済的レントとは、「供給が非弾力的」20)であることによって、獲 得可能となる報酬であると説明されている。つまり、それは、「供給増加努力を 呼び起こすのに必要な量を遥かに超える需要量だけから決定される」[スティグ リッツ:1995:283]報酬なのである。したがって、経済的レントとは、供給増加 努力を行うことなく獲得できる報酬という意味で、労働主体にとっては、いか なる意味でも「労働負担」ではないので、「弛緩したインセンティブ」に基づく報 酬の典型とみなすことができる。 このように一般に経済学でいわれる「経済的レ ント」とは、能力に恵まれた人々のその「能力が希少である」という偶然的な社 会的事実に基づいて、能力に恵まれた人々が獲得することができる報酬額であ り、その労働の負担度とは全く関わりを持たないのである。そして、ディック は、すべての職業の報酬が、移転所得と経済的レントから構成されると主張し、 そこから経済的レントを排除することが、補償的正義論の実現であると主張す ると同時に、それは労働に対する誘引を減少させるものではないだろうと主張 している。 すなわち、 「すべての人々の所得における経済的レントという要素を、 その出所で課税し、抑制することが可能であるに違いない。しかし、依然とし て強く望まれている類の職業をリーズナブルな程度には誘引できるに違いない」 [Dick:1975:270]。 ここで、ディックが推測するようにリーズナブルな程度には、諸個人を求め られている職業に配置することを誘引できるであろうという想定は、 「厳密な格 G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 41 差原理」を内面化しているコーエンの正義論の世界では可能であろう。 なぜなら、 すでに述べたように、コーエンの主張する「秩序ある社会」では、 「格差原理によ って具体化された正義の文化の中では、能力に恵まれた人々は、その報酬レベ ルが自分たちの能力に対する高い需要を反映している(その職業の特別な必要 や負担とは対立するような)高額な報酬を(一般にそうした高額な報酬を獲得す る能力を持つにもかかわらず)期待しない」[Cohen:1992:317]からである。 ディックは、すべての職業において、移転所得と経済的レントを区別するこ とで、 現実の市場の分配結果を批判しようとする規範意識を持ち合わせていた。 そして、この規範意識は、ロールズの正義論においても、また共有されている のである。ロールズは、「貢献に応じて各人へ」という分配基準を批判して、次 のように論じている。 「分配の限界生産力理論を受け入れるならば、生産の各要 素は、それがどれだけ産出量に付け加えられたかに応じて所得を受け取る。こ の意味で、労働者は、彼の労働の結果だけ支払われるのであり、それ以上でも、 それ以下でもない。われわれは、これを公正と感じる。…だが、これが真実で ないことは容易に見て取ることができる。労働の限界生産力は、需要と供給に 依存する。…それゆえ、底流をなす市場諸力とそこに反映する機会の利用可能 性とが適切に規制されているのでなければ、分配の準則が正義に適う結果を導 くということには何の根拠もない」[Rawls:1971:308]。 ここには、ディックと共通するロールズの問題意識を見て取ることができる。 ロールズは、市場による分配が、そのままでは需要と供給に依存するため、ア・ プリオリに正義を実現するものではないと指摘する。つまり、能力に恵まれた 人々が実際に市場で受け取る報酬は、その生来の才能の「希少性」に起因する 経済的レントを含む、とロールズによっても認識されているのである。ここに はディックによって主張された移転所得論と共通する観点が、ロールズの正義 論の中に登場している。さらに、このロールズの主張は、ある職業に能力に恵 まれた人々を誘引するために必要となる最低限度の報酬が支払われているとい うことを意味する。なぜなら、ロールズの正義論においては、それ以上の報酬を 能力に恵まれた人々に提供する正当な理由を見出すことができないからである。 つまり、 ロールズの正義論においては、社会的分業を機能させるために必要な最 42 低限度の報酬以上の報酬を能力に恵まれた人々に提供する必要性は、格差原理 によって論理的に排除されるのである。なぜなら、そのような報酬に厳格に課 税することは、最も恵まれない人々に暮らし向きの改善に確実に資するからで ある。ロールズによって、主張されている正義に適う賃金論とは、ディックに よって主張された移転所得論そのものであった。 この場合、ロールズは、移転所得論を実現するために、政府に大きな役割を 与えている。ロールズは、政府の分配部門の役割について、次のように論じて いる。「分配部門の役割は、租税と財産権の必要な調整という手段によって、分 配上の取り分の近似的な正義を保持することにある」[Rawls:1971:277]。「租税 の負担は、正義に適うように分配されるべきであり、分配部門は正義を樹立す ることを目的としているから、この問題は、そこに属す」[Rawls:1971:278]と。 つまり、現実の市場は、需要と供給関係によって、人々の報酬を提供するため に、経済的レントを必然的に含むことになるが、この経済的レントに課税し、 「正義を樹立すること」 を政府の分配部門の役割として要請していたのである。 したがって、ロールズにおいても、市場で提供される所得を、移転所得と経済 的レントとに区別する意識は、ディックと共に共有されており、政府の分配部 門に経済的レントを排除する役割を与えているのであった。 こうしてロールズも、コーエンやディックほどに意識的ではないにしろ、正 義に適う報酬は、分業体制が機能するために必要な最低限度の報酬格差の保障 が意図されていたということが明らかとなった。くしくもコーエンは、次のよ うに指摘していた。「インセンティブによる不平等から、もっとも恵まれない 人々が利益を受けるのは、不平等を生じさせるインセンティブを撤回した場合 ........... に、恵まれた者たちが実際にストライキを行うというような特殊な場合に限ら れる」[Cohen:1992:269]、と。逆に言えば、厳密なインセンティブの提供までも 撤回された場合、能力に恵まれた人々は、実際にストライキを起こす正当な理 由を有するだろうし、厳密なインセンティブが補償されている限り、実際には ストライキなど起こさないのである。弛緩したインセンティブ論の説得力は、 「ストライキを起こすぞ」という脅迫によって、確保されているに過ぎない。 G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 43 (2)現実の市場における経済的レント しかし、ディックによって明らかにされたような移転所得と経済的レントと の区別が可能であるかどうかについては、ジョセフ・カレンズによる有力な批 判がある 21)。カレンズは、移転所得と経済的レントを、確実にかつ体系的に区 別可能にするようなメカニズムは、 実際には存在しないと主張する。 なぜなら、 移転所得と経済的レントを区別するには、移転所得としてどれほどの報酬が必 要とされているのかが確定可能でなければならないからである。しかし、カレ ンズは、移転所得額を決定するのは誰なのを問う。そして、カレンズは、移転 所得の確定のために市場を利用する場合、その決定主体は、一般には個々の企 業であると主張する。つまり、個々の企業が、何が「望まれている供給」なの かを決定し、その「望まれている供給」を行う労働者を誘引することができる 報酬額を決定する。しかし、この場合、移転所得と経済的レントの区別が、理 論的には不可能になる。なぜなら、現実の市場では、移転所得を「ある労働者 を特定の職業に止めておくために必要な費用だけでなく、ある特定の企業に止 めておくために必要な費用を含む」 [Carens:1985:51]と定義せざる得なくなり、 「実質的には、労働市場から経済的レントという概念を排除するに等しい」 [Carens:1985:51]からである。つまり、少なくとも、理論的には、その企業が 必要とする類の労働力を誘引し、転職の防止のために必要であるとその企業が 判断するよりも高い報酬を支払う企業は存在しないからである。したがって、 カレンズは、ある特定の企業によって支払われる報酬のすべてが、実際には、 移転所得となり、「移転所得」概念をすべての職業に関して成立させることは不 可能であると結論している。 この場合、カレンズは、ある職業の移転所得と個別企業が支払う実際の所得 とを同一視することになり、現実の市場の分配結果をそのまま認めることにな る。と同時に、現実の市場の分配結果に対する批判意識そのものが失われてし まう。しかし、コーエンによる「特別な労働負担」論、或いはディックによる「移 転所得」論は、ロールズによっても共有されており、ディックによって明らかに されたように、経済学の諸概念によっても説明することが可能な精緻な議論な のである 22)。つまり、カレンズの指摘とは、市場を規範的な観点から見た場合 44 の移転所得論の成立可能性そのものを疑問視するものであるというよりも、そ れを現実の市場の中で制度化することの困難性を指摘したものと理解するべき なのであった。 4.結論 教育制度のあり方を考察する場合、それは、より広い社会制度原理に積極的 に関連づけて論じられなければ、 いたずらに空想的な議論に終わることになり、 教育制度のあり方を教育行政学=制度論の立場から独自に問うことにはならな いというのが、本論文の課題意識であった。かつて、窪田眞二は、「価値多元化 社会」における「教育における公正の問題」を考察する場合には、「『公正』が富め る者とそうでない者との存在を正当化するいかなる根拠となりうるのか」を問 う必要があり、「改めて、競争主義を乗りこえた公正概念の構築が議論されなけ ればならない」と教育行政学者の立場から問題提起すると同時に、 そのような課 題意識からハイエクとロールズの社会構想論に直接言及していた 23) 。本論文が、 コーエンによるロールズ批判を検討の対象としたのは、こうした教育行政学= 制度論の課題設定に応えようとしたからである。 このような教育行政学=制度論的な課題意識からコーエンによるロールズ 批判を検討してきた結果、コーエンのロールズ批判は、ロールズの格差原理の綿 密な分析を通して、ロールズの平等主義的な社会構想論を徹底化させるものと して展開されていた。さらに、コーエンによる「厳密な格差原理」と「弛緩した格 差原理」解釈を区別する試みは、ディックによって示されたように、経済学の諸 概念によっても理論的に説明可能な精緻な議論でもあった。こうして、われわ れは、ハイエクに代表される格差原理の保守的な解釈に対して、格差原理を一 義的に平等主義的に解釈するための理論的概念を手にすると同時に、 「規制なき 市場」論に席巻された感のある新自由主義の時代に対抗する、ある明確な正義 に適う社会イメージを持つことができた。そして、そのような正義に適う社会 の現実的な制度化の可能性に関しては、カレンズによる有力な批判が存在する にもかかわらず、ロールズは政府の分配部門の制度改革によって、その方向性を 示唆していた。われわれに残された次なる課題は、 ロールズによって示唆された G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 45 方向に沿った制度化問題の精緻化であると同時に、教育行政学=制度論の立場 からの現実的な対応である。 (註) 1) John Rawls A Theory of Justice ,Harvard University Press ,1971. ロールズ(矢島釣次監訳) 『正義論』紀伊国屋書店、1979 年。 ロールズ の『正義論』の便利な入門書として、川本隆史『ロールズ』講談社、1997 年。 2) Robert Nozick Anarchy, State and Utopia ,Basic Books,1974.ノージ ックとの論争以降、大きな注目を集めた論争は、コミュニタリアニズムと の論争とアマルティア・センによって提起され、その後、大きな論争に発 展した「何の平等か」という平等の評価尺度の精緻化をめぐる論争であろ う。コミュニタリアニズムについては、マイケル・サンデル(菊池理夫訳) 『リベラリズムと正義の限界』勁草書房、2009 年、平等の評価尺度の精 緻化については、アマルティア・セン(川本隆史、大庭健訳) 『合理的な 愚か者』勁草書房、1989 年を参照のこと。 3) John Rawls A Theory of Justice ,Harvard University Press ,1971, p.75. 以下、二回目以降の引用については、 [著者名:出版年:頁]の順で記す。 4) ロナルド・ドウォーキン「政治と哲学」 B・マギー編『哲学の現在』河 出書房新社 1983 年、284 頁 5) James S. Coleman “Inequality, Sociology, and Moral Philosophy” American Journal of sociology Vol.80,No3.1974. pp.739-764. 6) 「教育の機会均等」論争については、黒崎勲『教育と不平等』新曜社、1989 年を参照のこと。 7) ボールズとギンタス(宇沢弘文訳) 『アメリカ学校教育と資本主義』岩波 現代選書、1987 年。B.Clark & H.Gintis "Rawlsian Justice and Economic Systems" Philosophy and Public Affairs Vol.7,No.4,1978. 8) ロナルド・ドーア(松居弘道訳) 『学歴社会-新しい文明病』岩波現代選 書、1978 年。 46 9) 宮寺晃夫『教育の分配論』勁草書房、2006 年。黒崎勲『教育と不平等』 新曜社、1989 年、 『現代日本の教育と能力主義』岩波書店、1995 年。 10) G.A.Cohen “Incentives,Inequality and Community” The Tanner Lectures on Human Values Vol.13,1992.pp.263-329."The Pareto Argument for Inequality" Social Philosophy and Policy Foundation Vol.12.1995.pp.160-185.”Where the Action is: On the site of Distributive Justice”, Philosophy and Public Affairs, Vol. 26, No. 1, pp. 3-30. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての先行研 究は、藤岡大助「リベラルな分配的正義構想に対する G.A.コーエンの問 題提起について」 『法哲学会年報』日本法哲学会、2007 年、161-170 頁を 参照のこと。コーエンのロールズ批判については、教育学において宮寺 (2006:5)も言及しているが、それはロールズの「基本財」の平等論に 対する平等の評価尺度の精緻化をめぐる論争であり、コーエンの格差原理 批判ではない。コーエンによるロールズの「基本財」の平等論に対する批 判については、以下を参照のこと。”On the Currency of Egalitarian Justice”, Ethics, Vol. 99, 1989, pp. 906-944. 11) 能力主義理念に対する原理的批判としての「格差原理」解釈の意義 については、黒崎勲『教育と不平等』新曜社、1989 年、 『現代日本の教育 と能力主義』岩波書店、1995 年を参照のこと。 12) 渡辺幹雄『ロールズ正義論の行方』春秋社、1998 年、217 頁。 13) F.A.ハイエク(気賀健三/古賀勝次郎訳) 『ハイエク全集 5 自由の価 値』春秋社、1997 年。本論文が検討する G.A.コーエンもハイエクの本書 の第 3 章への参照を求めている。 14) F.A.ハイエク(篠塚慎吾訳) 『ハイエク全集 9 社会正義の幻想』春秋 社、1998 年。黒崎もハイエクとロールズの共通性を指摘しているが、筆 者とはその問題意識を異にしている。黒崎勲『教育の政治経済学 増補版』 同時代社、2006 年を参照のこと。 15) ロールズ自身は、1999 年の『正義論』の改訂版において、いわゆる 「福祉国家」の正当化と理解されたことに不満を述べている。John Rawls, G. A. コーエンのロールズの「格差原理」批判についての一考察 47 A Theory of Justice, Revised ed. Harvard University Press, 1999, p. ⅺⅴ.しかし、ここではコーエンの問題意識を明らかにするという目的か ら通説的理解に従うことにする。ただし、ロールズの「財産所有制民主主 義」の意義については、渡辺幹夫『ロールズ正義論とその周辺』春秋社、 2007 年を参照のこと。 16) Philip van Parijs "Social Justice and Individual Ethics" Ratio Juris 17) Vol.8,No1,1995.pp.40-63. Andrew Williams "Incentives, Inequality, and Publicity" Philosophy & Public Affairs Vol.27,No3,1998.pp.225-247. 18) コーエン(1992)は、イギリスのサッチャー政権によるローソン減 税の正当化のレトリックとして導入されたインセンティブ論に関して、詳 細な分析を試みている。 19) James Dick "How to Justify a Distribution of Earnings" Philosophy & Public Affairs Vol.4,1975.pp.248-272. 20) J・E・スティグリッツ(藪下史郎他訳)『ミクロ経済学』東洋経済新報 社、1995 年。 21) Joseph Carenz "Compensatory Justice and Social Institutions" Economics and Philosophy Vol.1,1985.pp.39-67. 22) いわゆる「福祉国家」とは区別されたロールズの「財産所有制民主 主義」論の意義とは、このような点にあるように思う。ロールズの「財産 所有制民主主義」と「福祉国家」の区別の意義については、渡辺幹夫『ロ ールズ正義論とその周辺』春秋社、2007 年を参照のこと。本稿において は「どのような教育の理想や思想(規範-松下)も、教育の制度とならな ければ実際に力をもつものとはならない」という教育制度(事実)論の観 点から、コーエンによるロールズの格差原理批判を検討するという課題意 識に限定して問題を検討してきた。黒崎勲『教育行政学』岩波書店、1999 年を参照のこと。 23) 窪田眞二 「価値多元化社会と教育における公正の問題」『教育学研 究』第 64 巻第 3 号、1997 年、 278 頁。
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