Nancy en japonais

フランス・ナンシー滞在記
堀 口 良 一(近畿大学法学部)
在外研究のため、昨年9月に日本を発って4か月になる。フランス東北部に位置し、ベルギー、ルクセ
ンブルクおよびドイツと国境を接するロレーヌ地域圏の都市ナンシーの暮らしにも慣れ、道路を渡る
ときに、フランスは車は右側通行なので当初は戸惑っていたが、左を先に確かめたあとに右を確かめ
る癖も身体で覚えるようになった。また、会話についても、毎日話していると不思議と慣れるもの
で、女性店員に間違って「こんにちは、おじさん!」と挨拶して気を悪くさせることもなくなった。
ナンシーの気候は大阪より穏やかで、しかも台風や地震もない。また、ナンシーの人は、大阪人のよ
うに愛想よく人懐っこい。したがって、ナンシーは文化遺産にも恵まれ、フランスで最も魅力のある
最も暮らしやすいところに入るだろう。左下の写真はナンシーの街並みを映しているが、中央に見え
るクラフ門は、中世の城壁都市ナンシーを防護するために建てられた城門の一つで、現存する最古の
ものである。
ナンシーは、1766年にフランスに併合されるまでは、人口2万5千を誇るロレーヌ公国の首都であ
り、現在、ロレーヌ地域圏ではメスに次ぐ人口10万人を擁する第2の都市(近隣自治体を含めたナン
シー都市圏の人口は約40万人)に成長している。とはいえ、ナンシーは地方都市の一つに過ぎず、ロ
レーヌ地域圏も、政治・経済・文化面で、一見して月並な一地方にしか見えない。だが、ロレーヌ地
域圏は、これまで数多くの傑出した人物を輩出してきた。社会学の創始者エミール・デュルケームや
数学者のアンリ・ポワンカレ、さらにはフランツ1世(マリア・テレジアの夫)など、数え切れない。
ここではロレーヌ公スタニスワフ・レシチニスキ(フランス語ではスタニスラス、以下「スタニスラ
ス」と呼ぶ、生没年1677-1766)とフランスの政治家ロベール・シューマン(ドイツの音楽家シューマ
ンではない、生没年1886-1963)の2人を取り上げて、ナンシーとロレーヌ地域圏の魅力の一端を素
描してみよう。
スタニスラスはロレーヌ公(バール公も兼ねた、在位1737-1766)として、ロレーヌ公国の慈善事業に
尽力するとともに、文化・学術の発展に寄与した。公自身、フルートを奏で、また第一級の知識人を
自らの居城であるリュネヴィル(ナンシー近郊にある)に招いた。1766年に亡くなるとともに、公国は
フランスに併合されるが、その文化遺産は現在まで受け継がれている。ユネスコの世界遺産に登録さ
れ、またナンシーで最も華やかな場所でもあるスタニスラス広場(写真、上右)には、スタニスラスの
銅像が建てられ(当初建立されたルイ15世の像はフランス革命時に撤去された)、「スタニスラスの善
行にロレーヌは感謝す。1831年」と刻まれている。
ところで、あまり知られていない話であるが、スタニスラスはヨーロッパの平和を構想した先駆者の
一人であり、また、ヨーロッパ諸国の君主に呼びかけて、七年戦争 (1756-1763)に終止符を打つべ
く画策した。とくに注目したいのは、1752年に、『あるヨーロッパ人のデュモカラ王国の島民との
会見記』を公けにして、そのなかで「わが国が軍隊を維持しているのは、自衛のためであるよりも、
平和をもたらすためなのです」と、彼の恒久平和の理想を島民の口を借りて語っている点である。こ
れは、よく知られているカントの『永遠平和のために』(1795年)に約半世紀先立つ。
しかしながら、ヨーロッパに安定した平和が訪れるまで、それから2世紀を待たねばならない。その
間、おぞましい戦禍に絶えず見舞われ、凄惨な歴史的経験を甘受しなければならなかった。ナンシー
の東約40キロメートルに位置するデューズにある国立戦没者墓地(写真、上)は二度の大戦の犠牲者を
追悼する施設の一つであるが、そこには数多くの兵士が葬られている。スタニスラスの理想が実現す
るには、ロレーヌが産み出したもう一人の人物の活躍を必要とした。1960年に欧州議会が「ヨー
ロッパの父」という称号を贈ったロベール・シューマンである。彼のヨーロッパ諸国の平和的共存の
構想は、1950年5月9日に現実のものとなる(「シューマン宣言」として知られている)。ヨーロッパ
の歴史に平和の扉が開かれた瞬間である。これは、今日の欧州共同体(EU)への第一歩をなすものであ
り、死後に出版された彼の著書『ヨーロッパのために』(1963年)で、次のように述べられている。
「わたしたちが、かつての敵と和解するのは、単に許すためだけでなく、これからのヨーロッパを皆
で築くためである。」
ナンシーの市庁舎に、欧州連合、フランス、そしてロレーヌの3つの旗が並んで靡いている風景は(写
真、前ページ下)、今日、ヨーロッパ諸国が平和的な相互依存関係のなかにあることを象徴してい
る。
最後に、シューマンのもう一つの横顔を紹介して、この一文を閉じよう。彼の家系はルクセンブルク
との国境に近い村に由来し、彼自身も「ロレーヌ気質」に
れ、メス(ロレーヌ地域圏の首府)近郊の
シ・シャゼルに居を構えていた。ロレーヌが産んだこの大物政治家は、ある人物のために、二度にわ
たってイタリア・ローマにあるサン・ピエトロ大聖堂を訪ねている。最初は1909年でカトリックの
一信者として、そして二回目は1920年に政治家として、それぞれ列福式と列聖式に臨んでいる。それ
は、フランスの国民的英雄であるジャンヌ・ダルク(生没年1412-1431) の式典であった。彼女の生
家(写真、下)は、ナンシーから車で1時間ほどの寒村ドンレミにあり、彼女もロレーヌが産んだ魅力
ある人物である。シューマンは、ジャンヌ・ダルクに何を見ていたのだろうか。
謝辞 この小文を書くにあたり、ナンシーにいる多くの友人から力添えを得た。とりわけ、デューズに連れて行っ
てくれたマリー=アンドレ・ビッシュ、歴史的観点からアドバイスを与えてくれたジャン=クロード・リュイリ
エ、文献資料を貸し与えてくれたディディエ・ランス、そして、ドンレミを案内してくれたピエール・ヴィトーズ
の名を記して感謝申し上げます。