p001_020 ゴリラ[第2版]_1.indd

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第章
章
第
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ラリラ
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ピーナッツ(
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) ラリゴ
ンマウンテンゴリラ
テンウマ ( ツッナー
ピーナッツ
(マウンテンゴリラ)
ゴリラの魅力
一八六一年に、アメリカの探検家ポール・デュ・シャーユによって書かれた﹃赤道アフリカの探検と
冒険﹄は、当時の欧米人が人間をどのようにみなそうとしていたかを教えてくれる。そこには文明と未
確認しようとしたのである。
動物ともいえる。だからこそ、人間はゴリラのもっている特徴を否定することで、人間らしさを定義し
る、人間にはないものをもっているようにみえる。むしろ人間よりも、ある方向へ進みすぎてしまった
物﹂として片づけてしまえば、人間のことを知る材料にはなりえない。ところがゴリラは、人間を超え
でも、それだけではない。人間はつねに﹁人間とはなにか﹂ということを自問し続ける性質をもって
いる。ゴリラはその問いに答えるうえで絶好の対象なのである。サルたちは、
﹁人 間 に な れ な か っ た 動
動きに、畏敬の念を抱く傾向があるからである。
体軀を誇り、人間よりゆっくりした動作を好むせいでもある。われわれは巨大な生物やゆったりとした
人間には到達できない重厚な気品と迫力を秘めているようにみえる。それは、ゴリラが人間より大きな
しかし、ゴリラはちがう。ゴリラにはひょうきん、お調子者といった表現があてはまらない。寡黙で
気むずかしく、陰鬱な暗さを感じさせる。そして、なによりもゴリラは人間より劣っているのではなく、
昔からサルの仲間は、どことなく滑稽な姿で描写されてきた。人間に似ていながら、人間より劣った
知能をもち、狡猾だが浅はかでうっかり者というのが一般に流布したサルのイメージである。
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第
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章 ゴリラ
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フィールドへの旅立ち
図 1. 1 ゴリラ ― シルバーバック
ゴリラに学名がつけられ、その標本が初めて欧米社会に紹介されたのは一八四六年、最初に生きたゴ
リラがロンドンで公開されたのが一八五五年である。一八五九年に﹃種の起原﹄を著して進化論を提唱
力は、豊かな人間社会の発展のため寄与するためのひとつの手段と位置づけた。
たがっていた時代だった。人々は、ゴリラを暴力的で非人間的なものとみなすかわりに、人間が行う暴
すること、それを暴力によって強制することについて、だれもが疑いをもち、納得できる理由をみつけ
ジア、アフリカ、新大陸の植民地化をめざして各国が先陣争いを演じていた。人間がほかの人間を支配
大家族が解体して経済の単位は核家族となり、労働者階級が形成されて資本家による搾取が生まれ、ア
デュ・シャーユのゴリラは、一九世紀の欧米人が考えていた人間らしさのネガの部分に相当する。産
業革命以降、近代工業都市に変貌をとげた欧米各地で、人々は生産至上主義の嵐に翻弄されつつあった。
り続け、一九三〇年代に封切られた﹁キングコング﹂の典型的なイメージとなった。
人間の女を好んでさらうという性癖をもつことまでつけ加えたのである。これはそのまま人々の心に残
の﹂として描写し、その凶暴さと好戦性を誇張した。あろうことか、現地の人々の話として、ゴリラが
いた。デュ・シャーユは、アフリカで遭遇したゴリラの印象を﹁まるで悪夢のなかに出てくる生きも
な性質は生まれつきのもので、けっして変えることはできない。一九世紀の欧米の知識人はそう考えて
ら野蛮な文化でも、人間は教育によって変えることができる。だが、人間ではない類人猿の凶暴で邪悪
ほかの文化に生きる人々を教化する目的で植民地支配を正当づけるためにつくられた用語である。いく
開、そして獣性を秘めた半人半獣の類人猿が登場する。未開という言葉は、欧米以外の文化を否定し、
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したチャールズ・ダーウィンは、一八七一年には﹃人間の由来﹄のなかで人類とアフリカの類人猿︵チ
ンパンジーとゴリラ︶が解剖学的によく似ていることを指摘し、人類誕生の地がアフリカであろうと予
測している。だが、ダーウィンは人類と類人猿を直接比較して論じることをしなかった。当時の学問環
境は、人間と動物を同等に扱うことを許さなかったし、なによりも類人猿の行動や社会生活に関する知
識が欠落していた。生態学や動物行動学はまだ世に出ていなかったのである。
そのため、人間の定義や由来は人間の行動、社会、文化を比較することによってのみ検討され、討論
された。一九世紀後半には、人間の人間たるゆえんを示すあらゆる特徴が取り上げられ、分析されたと
いっても過言ではない。バッファオーウェン、タイラー、モルガンといった人類学者は、原始乱婚から
氏族社会、拡大家族へという人類社会の進化過程を提唱し、ヘーゲル、マルクスなどの哲学者が、デカ
ルト、カントの思想を受け継いで人間の理性と社会との歴史的調和を構想した。心理学者のフロイトは、
無意識の世界に隠されている人間の欲望とその抑圧が、人間の精神と行動の理解に不可欠であることを
示した。しかし、これらの人間探求は、すべて人文科学の領域で行われていた。動物は人間を知るため
の比較対象とはみなされず、自然科学は人間以外の対象を扱う学問とされた。ゴリラは人間性のすぐ外
側で人間の負の部分を支えながら、人類学とは無縁の領域で人々の注目を集めていたのである。
その一方で、欧米の原野からは野生動物たちがつぎつぎに姿を消そうとしていた。オーロックス、ヨ
ーロッパバイソン、リョコウバトなどはそのよい例である。一九世紀末に出た﹃シートン動物記﹄は、
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章 ゴリラ
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フィールドへの旅立ち
家畜を襲うために人間に追い立てられていくオオカミやキツネなど野生動物たちの生活を克明に描き、
第
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う。
砲し、観察を断念せざるをえなくなった。こうして最初の類人猿調査は不成功のうちに幕を閉じてしま
生の類人猿に接触することは至難の業だった。ゴリラの突進を受けたビンガムは、恐怖のあまり銃を発
織してアフリカへ向かい、ゴリラ、チンパンジーの野外観察を試みた。しかし、人間に慣れていない野
になる。一九二九年と一九三〇年にビンガム、ニッセンという二人の心理学者が、それぞれ調査隊を組
が多様かつ複雑であることを知った心理学者たちは、やがて野生の暮らしぶりを観察したいと思うよう
リラは凶暴ではなく、おとなしく自己依存的な性格をしていることを強調している。類人猿の精神生活
ゴリラがよく喜んだり笑ったりすることから、﹁ゴリラの感情は驚くほど人間に似ている﹂と記し、ゴ
類人猿の性格が種によってそれぞれ異なっていることを指摘している。なかでもコンゴと名づけられた
類人猿と人類の連続性について最初に学術的な興味を抱いたのは心理学者だった。アメリカの心理学
者ヤーキス夫妻は、一九二〇年代にオランウータン、ゴリラ、チンパンジーの子どもを飼育下で観察し、
も当然のことのように描かれていたのである。
とは裏腹に、一般の人々が好んで読む動物文学の世界では、動物と人間の心が共通であることがあたか
った。動物愛護思想が市民権をもち始めたのもこのころである。動物を人間と峻別する当時の学問風潮
世界各国の言葉に翻訳され、ディズニーによって映画化されて、この傾向をいっきに助長することにな
動物が人間と同じような心や感情をもつように描かれるようになった。とくにザルテンの﹃バンビ﹄は
動物文学のブームをつくった。ロンドンやザルテンなどの動物文学者がつぎつぎに世に出て、しだいに
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ゴリラがふたたび脚光を浴びたのは、一九五〇年代も終わりになってからのことだ。この背景には、
二つの異なった学問領域で研究する学者たちのアフリカでの出会いが大きく貢献している。ルイス・リ
ーキーやレイモンド・ダートを中心として人類の祖先の化石を発掘していた先史人類学者たちと、今西
錦司、伊谷純一郎を中心として人間以外の霊長類社会を研究していた日本の霊長類学者たちだった。そ
れぞれの学問領域から送り出された研究者たちは、期せずしてゴリラのいるヴィルンガ火山群、チンパ
ンジーのいるタンガニーカ湖畔で出会うことになったのである。
一九二四年に南アフリカで最古の人類化石を発見したダートは、一九五〇年代になってから、このア
ウストラロピテクス・アフリカヌスが武器で仲間を殺す習慣をもっていたのではないかという考えを発
表していた。アフリカで類人猿との共通祖先から分かれた人類は、武器を発明して巧みに狩猟を行うよ
うになるとともに、仲間どうしの闘いにも武器を用いる、キラー・エイプとしての道を歩み始めたと考
えたのである。ダートがこういう考えに行きついた背景には、二つの世界大戦が色濃く影を落としてい
る。大規模な破壊兵器を用いて未曾有の大殺戮をもたらしたこの大戦は、世界の人々をどうしようもな
い不安に突き落とした。それは人間と人間の殺し合いは止めることのできない宿命なのか、という不安
であり、一九世紀の人々が抱えた不安よりさらに深刻なものだった。ダートは人類が初期の時代から仲
間どうしで殺し合う習性をもっていた証拠を示すことによって、人間の攻撃性は動物から受け継いだ本
能を道具によって増幅した結果であるとみなそうとした。つまり、戦争は人類の本能から発するゆえに、
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章 ゴリラ
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フィールドへの旅立ち
完全に消し去ることはできないが、武器の発達を妨げればそれを抑止できることを示唆しようとしたの
第
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づけし、サルたちの日常生活をつぶさに
るターゲットを類人猿と定めて、アフリカへと旅立ったのである。第一の目標はゴリラだった。それは
ルの群れ生活にかかわる重要な特徴をつぎつぎに発見していく。さらに、五〇年代の終わりにはつぎな
観察した。そして、優劣順位、母系的血縁関係、音声コミュニケーション、文化的行動など、ニホンザ
〇年代初頭に宮崎県の幸島や大分県の高崎山でニホンザルを
独特な社会性があると予測している。京都大学霊長類研究グループの伊谷純一郎や河合雅雄は、一九五
乳類までの集団生活を概観し、共同的な群れ生活と元来排他的な家族生活を両立させたところに人間の
人間の社会性の進化に興味をもっていた今西は、一九五一年に﹃人間以前の社会﹄を著して昆虫から哺
たが、やがてもっとも複雑で高度な社会をもつと考えられるニホンザルが研究の中心となった。すでに
を認めうると考え、戦後すぐに動物社会の研究に着手した。ウサギ、シカ、ウマなどの研究が試みられ
西錦司は一九四一年に﹃生物の世界﹄を著して、同じ生活形を共有する生物には種社会というまとまり
一方、日本の霊長類学者たちは類人猿ではなく、ニホンザルの野外研究から出発した。野生霊長類が
生息していない欧米と異なり、日本には沖縄と北海道を除く列島全土にニホンザルが生息していた。今
類につながる研究対象として意識されようとしていた。
提供して、類人猿の生息地へと研究者を送り込んだのである。化石人類を経由して、ゴリラが初めて人
には人間にもっとも近縁な類人猿を観察するのが近道である。こう考えたダートやリーキーは、資金を
る人間行動の由来をたずねるには、化石ではなく生きた個体の行動を直接観察する必要があった。それ
である。その考えは当時の時代の要請にぴったりと合致するものだった。しかし、攻撃性をはじめとす
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野生のゴリラが一夫多妻のような構成をもつ小集団で暮らしており、人間家族の原型に近いと思われた
からである。ゴリラの社会をくわしく検討することによって、人類の社会が進化してきた歴史をたどる
ことができるとだれもが思っていた。
二つのゴリラ像
私がゴリラという類人猿の社会に大きな興味を抱いたのは、一九七五年の七月に犬山市にある京都大
学霊長類研究所で開かれた﹁ホミニゼーション研究会﹂で聞いた討論がきっかけだった。ホミニゼーシ
ョンという言葉は当時新しくつくりだされた用語で、﹁サルからヒトへの進化の道筋﹂といったような
意味をもっている。この分野の研究は化石霊長類の研究と現生霊長類の形態・生理・行動・社会の研究
などを合わせて霊長類学となり、人類学の一部として、そのころ欧米の学問分野でも市民権を得るよう
になっていた。今西錦司を中心とする日本の霊長類学者は、欧米に先がけてホミニゼーションを動物社
会学の主要テーマに掲げ、毎年この研究会を開催し、さまざまな分野の研究者を招いてこの問題解明に
取り組んでいた。七五年の研究会は五回目にあたり、﹁霊長類の社会進化﹂を共通テーマにして行われ
た。京都大学の大学院に入ったばかりだった私は、胸を躍らせながら第一線の研究者たちの新しい発見
とそれをめぐる激しい討論に耳を傾けていた。
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フィールドへの旅立ち
私が驚きを覚えたのは、私の恩師で当時の指導教官だった伊谷純一郎の発表だった。伊谷は﹁ゴリラ
とチンパンジー﹂と題する講演を行い、ゴリラとチンパンジーの対照的な社会構造を、ヒトに近縁な類
第
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子どもたちが遊ぶ光景も観察されている。オスもメスも集団を出入りするが、メスはオスのようにヒト
が出会ってもオスが胸をたたき合うだけで激しい衝突はない。二つの集団が混じり合い、異なる集団の
しない。テリトリー︵なわばり︶はなく、となり合う集団の遊動域は大幅に重複しており、集団どうし
しが対等な関係を保って共存している。メスどうしのいざこざもまれで、たがいの優劣関係ははっきり
されている。しかし、成熟したオスを複数含む集団もまれではなく、そのような複雄群では、オスどう
らは平均一六頭ほどの集団をつくり、多くは成熟したオス一頭と複数のメス、その子どもたちから構成
一九五九∼六〇年にコンゴ、ルワンダ、ウガンダ三国の国境にそびえるヴィルンガ火山群で調査を行
ったシャラーは、マウンテンゴリラがおだやかで平和な社会生活を営んでいることを報告している。彼
告はまったく異なるゴリラの社会を描き出していた。
施した、この二人のアメリカ人研究者が報告したものに限られていたのである。しかも、その二つの報
査対象を移すことになった。伊谷が依拠するゴリラの資料は、その内戦の前後にヴィルンガで調査を実
六〇年に勃発したコンゴ動乱によって中止を余儀なくされ、その後日本の研究者はチンパンジーへと調
報告にもとづいていた。一九五〇年代の終わりに伊谷が中心となって挑んだゴリラの野外調査は、一九
のジョージ・シャラー、リーキーに派遣された動物学者のダイアン・フォッシーという二人の研究者の
結集されていた。しかし、ゴリラについてはヴィルンガ火山群で別々の時期に調査を行ったシカゴ大学
査隊の指揮をとり、京都大学の西田利貞らとタンザニアのマハレ山塊で推進してきた野外研究の成果が
人猿の進化史の上にみごとに位置づけてみせた。チンパンジーについては、一九六〇年代にみずから調
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リゴリラになって単独生活を送ることはなく、頻繁に集団間を移籍する。
ところが、コンゴ動乱終結後の一九六七年に、同じくヴィルンガで調査を開始したフォッシーは、そ
の後数年におよぶゴリラの調査をもとに、オスどうしがメスをめぐる激しい敵対関係にあると報告した。
一九七四年にウェンナーグレン財団の主催で行われたシンポジウムでフォッシーの発表を聞いた伊谷は、
﹁シャラーの報告は大きく修正を迫られることになった﹂と感じたのである。フォッシーがみた集団の
平均サイズは一〇頭前後と小さく、それぞれの集団はたがいに遊動域を重複させているとはいえ、反発
的・敵対的な関係にあった。複数のオスを含む集団もあったが、それは一頭の核オスとまだ若い息子た
ちで、息子はやがて集団を出ていくと考えられた。集団内ではこの核オスがメスとの交尾を独占してお
り、他集団の核オスやヒトリゴリラのオスと、メスをめぐって強い競合関係をもっていた。とくに、メ
スが移籍しようとすると、オスどうしは激しく衝突し、頭、肩、わき腹に大きな傷を負い、それがもと
で死亡することさえあった。また、ヴィルンガで集められた骨格標本から、オスの頭骨の大半に傷がみ
つかり、犬歯が折れたり欠失していることが判明した。それはオスたちがいかに激しく闘っているかを
物語っ て い た 。
フォッシーの報告でもっとも衝撃的だったのは、生まれたばかりの新生児が頻繁にオスによって殺害
されていることだった。下手人はヒトリゴリラか他集団のオスで、赤ん坊を殺されると母親は数ヶ月以
内にその集団を離脱してしまう。あろうことか、自分の赤ん坊を殺したオスのもとへ移籍したと思われ
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フィールドへの旅立ち
るケースもあった。このことから、フォッシーはゴリラのオスの子殺しが、メスの発情を早めて自分の
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図 1. 2 オスゴリラの傷
子孫を産ませるための繁殖戦略であると結論づけた。
ゴリラのメスはまれにしか交尾をしないし、繁殖には
時間がかかる。約一ヶ月の月経周期のうち、排卵日に
あたる二日間しかオスを受け入れない。長い妊娠期間
︵二五八日︶を経て出産すると、その後約三年間の授
乳期間は発情しない。母乳の産生を促すプロラクチン
とよばれるホルモンが、発情ホルモンのエストロゲン
を抑制する働きをもつせいである。赤ん坊をもってい
るメスは当分のあいだ、オスにとって繁殖のパートナ
ーとなれる相手ではなくなる。そこで、オスは乳児を
殺してプロラクチンの分泌を止め、メスの発情を促し
て交尾の可能性を高め、自分の子どもを出産させよう
としていると考えたのである。
この考えは性選択理論といって、さまざまな哺乳類
でみつかったオスによる子殺し行動にもとづいてつく
られた仮説である。一九六五年、インドのダルワール
で京都大学の杉山幸丸らが観察したハヌマンラングー
ルの子殺しが最初の発見だった。このサルはゴリラと同じように、主として一頭のオスと複数のメスか
らなる単雄複雌群をつくる。ただし、メスは生涯自分の生まれ育った集団を離れない。ニホンザルと同
じような母系の社会である。多くのオスはメスのいる集団に加われずに、オスばかりの集団をつくって
暮らしているが、あるときいっせいに近くの単雄複雌群を攻撃し始める。そして、その集団の核オスを
追い出してしまった後、オスのなかで勝ち残った一頭がメスたちと新しい単雄複雌群をつくる。子殺し
が起こるのはこのときである。新しい核オスはメスたちが抱いている乳児を襲って殺してしまい、やが
て発情を再開したメスたちとつぎつぎに交尾をする。この一連の現象から、子殺しはオスが自分の子孫
を効率よく残そうとする繁殖戦略だと結論づけられたのである。
ゴリラの子殺しを、伊谷はオスの繁殖戦略としてではなく、インセスト︵近親間の性的な交渉︶の回
避機構がメスの移籍を促進する働きのひとつであるとして解釈した。メスが集団間を移籍するゴリラの
社会で、もしメスが生まれ育った集団を移籍せずに子どもを産むとすれば、それは父親とのあいだでイ
ンセストを犯した結果である可能性が高い。その赤ん坊が淘汰され、その結果メスが離脱するのであれ
ば、オスの子殺しはインセストを回避するような方向に働いていることになり、種にとって不利益とは
ならない。伊谷は、ゴリラの新群形成がオスによるメスの強奪によって行われる点を重視した。父系社
会ではメスよりもオスが生まれ育った集団に残る傾向があるから、メスが移籍しなくなればインセスト
の起こる確率が高くなる。それを防ぐために、オスによるメスの強奪や子殺しが発現しているのではな
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フィールドへの旅立ち
いか、と考えたのである。シャラーはメスの自由意志による移籍を示唆したが、伊谷はフォッシーの報
第
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小豆島ではサルたちがなかよくかたまって大きな休息集団をつくる。オスが特定の幼児を母親のように
がみられない。宮崎県の幸島ではサルどうしがたがいに接触を避けて暮らしているのに対し、香川県の
ような行動をする。しかし、石川県の白山ではどのオスが最優位かわからないほど優位を誇示する行動
はオス間に明確な優劣順位があり、最優位のオスはみるからに強そうで、あたかもリーダーと思わせる
によってサルの行動や社会にさまざまなちがいがあることがわかってきたのである。大分県の高崎山で
当時、日本の霊長類学者たちは、社会の多様性がどうやってつくられるかについてさかんに議論して
いた。一九五〇年代に日本の各地でニホンザルが づけされ、野外観察が行われるようになると、地域
がいない、と私は予感した。
味するものとはいったいなんなのか。それはきっと、ゴリラの進化史を解くうえで重要な鍵になるにち
年のあいだに入れ替わるように現れている。なにがその引き金となったのか。そして、そのちがいが意
の二つの側面をあわせもっている。しかも、この異なる二つの社会は同じヴィルンガの地で、わずか数
容で平和を好む社会と、子どもを殺すオスのあいだをメスが行き来する闘いに満ちた社会。ゴリラはこ
を感じた。シャラーとフォッシーが見たちがいはいったいなんだったのだろう。子どもにやさしく、寛
いをもたらしているのか容易に想像することができなかったからである。私はそこに強く魅かれるもの
この二つのまるで対照的な社会の姿を前にして、明らかに伊谷は困惑していた。いずれかが誤ってい
るということではなく、両者はどこかでつながっているのだろうと思いつつ、いかなる要因がこのちが
告をもとに、たがいに張り合うオスたちの強制によって、メスが移籍していくと想定したのである。
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世話する父性行動は、ある群れには頻繁にみられるがほかの群れではまったくみられない。こういった
ちがいは、地域によって異なる文化や伝統といいうるようなものなのか、それとも寒暖や植生のちがい
に由来する環境条件によってもたらされるものなのか、さまざまな説が飛び交っていた。
しかし、ニホンザルの行動や社会のちがいは地域差だった。ゴリラのちがいは同じ地域で短期間のう
ちに現れている。それは、ゴリラが環境や社会の変化に敏感に反応して行動様式をドラスティックに変
えられる、という能力をもつことを示しているのかもしれない、と私は考えた。環境の変化に適応する
ように長い時間をかけて変わっていくのではなく、ゴリラはいくつかの行動レパートリーをもっていて、
それを周囲の変化に応じて切り替えていくような可塑性を、行動や社会にもっているのではないか、と
思われたのである。それはまさにわれわれ人間の社会でみられることに近い。そこに人類の社会進化を
解く鍵が隠されているかもしれない。私は、そのゴリラの能力や社会の可塑性を暴き出してやろうと思
った。だが、そのためにはひとつの地域でゴリラを長期間観察し続けると同時に、いくつかの地域での
ゴリラの行動や社会のちがいを明らかにする必要があった。
ホミニゼーション研究会のちょうど三年後、私は一九七八年の七月に初めてアフリカの地を踏んだ。
ヴィルンガから約二〇〇キロメートル離れたカフジ山で、ヒガシローランドゴリラの野外調査を始めた
のである。伊谷はヴィルンガとは異なる地域でゴリラの社会を調べてみる必要性を痛感し、私にカフジ
で調査することを強く勧めたからである。私はここで九ヶ月の調査をした後、一九八〇年から八二年に
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フィールドへの旅立ち
かけてヴィルンガを訪れ、フォッシーのもとでマウンテンゴリラの調査に従事した。そして一九八七年
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のため、日本の霊長類学者はニホンザルという種に特異的な社会の特徴、とくに集団構造とそれを支え
数種の霊長類が生息していなかったため、同位社会の分析やすみわけ理論の検証には不向きだった。そ
るために、わずかな資金で野外調査を企画し実行することができた。しかし、残念なことに日本には複
のニホンザルが列島各地に生息していた。自然のなかで霊長類がどのような社会をつくっているかを知
らの同位社会はすみわけによって相補的に平衡を保っているとみなした。幸いなことに、日本には野生
唱した。そして、同じ環境を要求し、生活力において釣り合う複数の種社会を同位社会と名づけ、これ
形、あるいは生活力とよび、同じ生活形を共有し進化する単位を種において種社会という概念として提
日本の研究者は関係を働きとしてみる構造主義的視点から出発した。生物と環境の関係、集団を構成
する個体どうしの関係のありようが社会の性格を決めていく、と考えたのである。今西は、これを生活
ところで、日本の霊長類学者たちが注目した種内の社会変異を、欧米の研究者はどうみていたのだろ
う。じつはここに、社会の定義と見方に関する日本と欧米の霊長類学の根本的なちがいがある。
社会学と生態学
が必要 だ っ た 。
の資料をやっと手にすることができた、と思い始めたのはつい最近のことだ。それまでに三〇年の月日
ボンのムカラバ保護区でニシローランドゴリラの調査も実施してきた。最初に立てた疑問に答えるだけ
にふたたびカフジにもどり、現在にいたるまで調査を継続している。また、二一世紀に入ってからはガ
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第
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図 1. 3 ニホンザル α オス
る社会関係︵テリトリー制、リーダー制、順位制、
血縁制など︶を描き出すことに専念した。今西の考
えを引き継いだ伊谷にとって、社会とは種に特異的
なものであり、個体の生死や移動を介して維持され
る集団構造は、それぞれの種が長い進化の過程でつ
くりあげてきた適応的で安定した特徴だった。だか
らこそ、マウンテンゴリラが短期間で顕著に異なる
社会関係を示したことに、大きな驚きを覚えたので
ある。ニホンザルが示した社会変異は、進化によっ
てつくられた社会構造の基本的な特徴を変化させる
ことなく、個体の行動や個体間関係に現れた変異で
あり、地域差や歴史的なちがいをもたらす現象とみ
な さ れ た。幸 島 で 始 ま っ た﹁イ モ 洗 い 行 動﹂
、高 崎
山でよく観察された父性行動などがそれにあたる。
相手に毛づくろいしてもらう際に発声する音声も、
幸島と京都の嵐山では少し異なっていた。日本の霊
フィールドへの旅立ち
長類学者は、このような地域差のある行動を個体の
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章 ゴリラ
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社会生物学は、アリやシロアリなどのきわめて組織化されたコロニーをつくる社会性昆虫の研究から
出発した学問だったが、欧米の霊長類学者たちもこの新しいパラダイムに無関心ではいられなかった。
いっけん利他的にみえる行動もすべて利己的な動機を実現させる手段にすぎないというのである。
と協調したり他者を欺く能力は、遺伝子が生き延びるうえで進化的に安定な戦略をとった結果であり、
は遺伝子が自己増殖する目的でつくるプログラムと環境との相互作用によって決定されるとした。他者
この考えをさらに発展させたリチャード・ドーキンスは、生物を遺伝子の乗りものとみなし、自然淘汰
する利己的な動機によってつくられており、それはそもそも遺伝子が利己的であるからだと主張した。
著したエドワード・ウィルソンである。彼は、動物と人間の社会はともに個体の繁殖上の成功を目的と
DNAの配列に変化が起こることが進化の出発点であり、新しい形質を発現させる遺伝子頻度が種内
で増加することによって進化は進む。この概念を社会に適用したのが、一九七五年に﹃社会生物学﹄を
かになったからである。
つ形質はDNAによって翻訳され、世代を超えて継承されていく。人間もその例外ではないことが明ら
動物学者たちはいやでも動物と人間の連続性に関心を向けずにはいられなくなった。すべての生物のも
行動が研究の対象となった。また、二〇世紀の中盤に遺伝子の本体がDNAであることが判明すると、
一方、欧米の動物学者たちは進化の単位を個体とし、動物の行動に与える環境の影響を重視した。観
察された行動はその種の適応上の有利さによって説明されることが多く、社会ではなく、種に特異的な
パーソナリティに影響を与える行動とみなし、カルチュアと名づけた。
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第
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図 1. 4 サバンナヒヒ
日本から約一〇年遅れて東アフリカのサバンナや乾
燥林で始められたヒヒやチンパンジーの野外研究は、
初期には人類へつながる肉食や道具使用などの行動
研究が主流だった。これは前述したように、ダート
やリーキーら先史人類学者たちの期待を反映してい
た。しかし、七〇年代になると、動物の行動と生態
に興味をもつ研究者が続々と霊長類の野外研究に参
加し、個体の繁殖成功を導く進化的に安定な戦略と
はなにかという問いが研究の中心課題となった。
類人猿の調査も、こうした社会生態学の観点から
実施されることが多くなった。日本に先がけて一九
六〇年にタンザニアのゴンベでチンパンジーの野外
研究を始めたジェーン・グドールは、フォッシーと
同じくリーキーによって送り込まれた研究者である。
彼女たちの調査は人類学的な興味を色濃く反映して
いた。しかし、その後ヴィルンガやゴンベで長期の
フィールドへの旅立ち
記録をもとに学術的な論文をつぎつぎに出していっ
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章 ゴリラ
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ていき た い と 思 う 。
なのである。その面白さと興奮を、これまでに報告されたゴリラの野外研究の成果を概観しながら伝え
まるような接触を繰り返し、仲間とその体験を語り合うことが、まさに研究の最前線にいるということ
可能かという、野外研究の実践的な経験でもあった。われわれにとって、調査の現場で研究対象と息詰
場で多くの討論をする機会に恵まれた。それは、自分がみたり採集したデータをもとにいかなる解釈が
いったのである。私自身、さまざまなゴリラの生息地で欧米の研究者とフィールド調査をともにし、現
実際に観察した現象や行動を材料に、さまざまな考えを述べ合うことで、類人猿への理解は深められて
観察可能な集団がそこにあったのである。それが日本と欧米の考え方の溝を徐々に埋める働きをした。
の霊長類の集団だった。複数の個体が集まり、ともに遊動し、ともに外からの敵に対して立ち向かう、
日本と欧米では、このように社会の定義が異なっており、野外研究によって明らかにしようとする内
容にも大きなずれがあった。しかし、実際に調査の対象になったのは、目にみえるまとまりをもつ個々
を条件とするポピュレーション︵個体群︶よりもむしろ狭い空間的広がりを意味していた。
協調的な相互コミュニケーションのあることが必須の条件とされた。これは、遺伝的な交流があること
さまざまな調査を行った。社会の定義は、﹁協調的に組織されている同種個体の集まり﹂に限定され、
係︶は、生態学的条件︵食物の量、分布様式、捕食者の有無︶によって決定されるという仮説のもとに、
だ っ た。彼 ら は、社 会 の 基 本 的 要 素︵集 団 の 大 き さ、性 ・ 年 齢 構 成、個 体 間 の 協 調 的 関 係、集 団 間 関
たのは、アレクサンダー・ハルコット、リチャード・ランガムというケンブリッジ大学の動物学者たち
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