運 動 実 践 信 奉 者集 会 に 参 加 し - TOK2.com

2014年
金光教 出石教会信徒会
6月
(第362号)
〒668-0214 Phone/Fax :0796-52-2885
兵庫県豊岡市出石町内町9番地
Email:[email protected]
URL:3w.to/izushi/
運動実践信奉者集会に参加し
日時
6月 日(日) 時~
会場
金光教気多教会
講演
信心はグー!
―お取次を願い頂き、神様
講師 松岡光一先生 (京都市・墨染教会)
ジオ番組作りでも活躍されている墨染教会の松岡
光一先生です。講演の後、兵北げんきバンドの活
動発表や、支援バザーなども行われます。どうぞ
ご都合を繰り合わせ、お互いに誘い合って多数ご
参加ください。お申し込みは9日までに教会へ。
また当日、出石教会信徒会もささやかなバザー
を行いますので、ご家庭に眠っているもの、ある
いは手作りの品など、無理のない範囲で出品のご
協力をお願いします。
教典抄
気多教会で開催するこ
とになりました。
講師は、金光教のラ
「天地は語る」
13
6月8日
(日) 時半 本部祭場
第177項
教団独立記念祭
33
みな、おかげを受けるために参って来ているはずであるが、中に
は、神が「おかげをやろうやろう」と言われるのに、「いや、結
構です」と言って帰る者もある。おかげをぜひいただかなければ
帰らないという気でいる者こそ、おかげがいただけるのである。
今月の御理解
15
金光教は明治 年、神道から独立し、独自の布教活動ができるように
なりました。この教団独立に生命をかけられた先人の志を受け継ぎ、
教団活動の展開を祈願する祭典です。教会の車で参拝。8時半出発、
時帰着の予定。交通費3千円。参拝ご希望の方はお申し出ください。
19
13
「神人あいよかけよの生活運動」は、御取次を
願い、頂くという信心の基本に立ち帰って、一人
ひとりの生活に神と人との関係を再構築していく
ことを目指しています。この運動を推進するため、
兵北教会連合会では毎年講演集会を行っています
が、今回も昨年同様、
昨年のバザー風景
親教会のご大祭に参拝
舞人の化粧も講習
教会では、先生方やご信者の皆さんが温
祝 布教 百三十年
かくお迎えくださり、厳かなご祭典で親
神様に御礼を申し上げるとともに、祭典
真砂教会初代教会長、福嶋儀兵衛先生 後のスライドで布教の歴史も学び、親教
のお広前が、明治十七年に公の認可を得、 会のありがたさをあらためて実感させて
頂きました。
公然と布教できるようになって以来、今
年で百三十年。真砂教会では、去る五月
九日、天地金乃神大祭に併せて布教百三
―
―出石教会で典楽練習会開催
5月 日に行
われた典楽練習
会では、吉備舞
のお化粧の講習
もありました。
男性の参加者も
興味津々で見つ
25
める中、香住教
会の荒垣慶子先
生が舞化粧を実
演。出石町内の
高校2年生、川岸由樹さん(写真左)と
武田光織さん(右)が、恥ずかしそうに、
でも嬉しそうにモデルを務めてくれまし
た。最後は舞衣を羽織ってスマホでお互
いを撮影。いっそ吉備舞もやってみる?
3日
(5月)
誠先生、八鹿教会大祭に出仕。早
起子先生、覚山徳太郎さん参拝。
4日 誠先生、高砂教会大祭に出講。
誠先生、兵北げんきバンド練習集
5日 誠先生、朝来教会大祭に出仕。
6日
生神金光
会に参加(竹野教会)。
7日
大神月例祭奉
修。夜、信徒
会役員会開催。
9日 誠先生、真
砂教会布教百
三十年記念大
祭に出仕。早
起子先生他6
誠 先生 、
名参拝。
日
和田山教会大
祭に出仕。
誠先生、河原町教会大祭に出仕。
早起子先生参拝。
日
白熱の風船バレー
(6日、竹野教会で)
十年の記念祭をお仕えになりました。
当日、出石教会からは、祭員の御用に
立たれる誠先生のほか、早起子先生、覚
山徳太郎さん、服部隆一さん、竹内萬寿
美さん、田原一さん、黒岩誠さん、松岡
章代さんも参
拝されました。
写真はその道
中、丹波市柏
原町にある年
輪の里公園で
の昼食風景。
心地よい新緑
の風景を楽し
みながら参拝
させていただ
きました。親
11
12
2
しんゆう
しんゆう
3
真砂教会と初代福嶋先生
5
④
正月中旬、儀兵衛は、野口安次郎、平
おおもとやしろ
井米吉たちを伴い、大本社に参拝した。
金光四神さまが御奉仕なさっていた。
高津を去って、大阪の北、絹笠町に御
広前を移し、御用に専念させて頂くよう
になったことを、御届け御礼申した。
金光様には、
「これから先も、どのようなことが起き
てこんとも限らぬ。しかし、案ずること
はない。親様が生き通して、いつも後ろ
神として立って、御取次くだされている。
人間心を離れ、人情に流れず、真一心に
御用なされい」
と言われ、喜んでくださった。
帰路、風雪が強く、舟路が危まれたが、
舟足速く、一同無事、留守居の者らに迎
えられ、新たなお引き立てを喜び合った。
その後、正栄講社集会所移転の手続き
も滑らかに渉り、六月二日付をもって、
教会講社、大阪神道事務分局曽根崎村派
出説教所として開所の認許があった。儀
兵衛も神道本局より教導職に補任され、
教師として公然、布教活動ができるよう
になった。
たまたまその頃、近所に憲兵屯所が設
置された。民衆の言論、集会その他につ
いての取締りは、相変わらず厳しかった。
同所の高山特務曹長が、着任早々、儀兵
衛方を検問した。教義や布教活動につき、
執拗に尋ね、容易に立ち去ろうともしな
い。儀兵衛は、やむなく大阪神道事務分
局に出向いて、正すよう勧めた。
一両日して再訪して来たが、打って変
いんぎん
わって慇懃な態度で、さらに、お道のこ
とをあれこれ尋ね、聴き取って帰った。
感ずるところがあったのであろう。その
後もしばしば訪れ、やがて信徒に加盟し、
同僚を導くようになった。高山は、書に
堪能であった。自ら正栄講社並びに派出
説教所の看板をしたためて献納し、爾後、
よく広前の御用に奉仕するようになった。
(二)教勢の伸長
1
『金儀の広前』での取次は、何として
誠先生、西近畿典楽発表会会場下
日 千枝子先生、本部広前月参拝。
日
誠先生、
見(但馬長寿の郷)。
日
城 崎 教会 大 祭
誠先生、
に出仕。
日
兵 北 教師 会 に
出 席 (気 多 教
天地 金 乃
会)。
日
神月例祭奉修。
誠先生、兵北げんきバンド練習集
誠先生と千枝子先生、兵北典楽練
米澤悠介さん、兵北青年会交流集
会に参加(豊岡教会)。
日
日 霊神月例祭奉修。
仕。
んと川岸由樹さん、舞化粧のモデル奉
習会に参加(出石教会)。武田光織さ
日
会に参加(朝来教会)。
日
練習会に参加(出石教会)。
日 誠先生、兵北げんきバンドリーダー
祭典後、信心共励会開催。
但馬長寿の郷
16 13
17
19
21
23
24
25
31 26
4
しんゆう
も、家業のかたわらのことであった。今
は、家業をやめての取次専念の日々であ
る。家族たちの生活も、家業に立脚して
の生活であったものから、お広前の浄財
による、神からのおあてがいに任せる生
活に一転した。
当初は、廃業にあたり整理し残された
わずかな資財を、儀助が時折り夜店など
に売りに出して、日々の糧の足しにした。
しかし、「人を当てにせぬ」「金や物を
頼りにしない」「欲を放して」「神様任
せ」の生活、その生き方が、日増しに厳
しく求められていった。
ある日、幼い正治にせがまれ、可愛さ
あ い
あまって、阿以は三文の銭を与え、餅菓
子を買うことを許した。正治は久々のこ
と、大喜びで買い求め、帰って来た途端、
門口の敷石に蹴つまづき、せっかくの菓
子を下水に落してしまい、膝頭をしたた
か打って怪我をした。
家族は儀兵衛の日頃の言葉を思い出し、
神様のお戒めとして深く詑びたが、さら
に傷が化膿し、意外に治癒が長引いた。
阿以はいよいよ申し訳なく、あらためて
人情に溺れた自分を見返り、お断りした
のであった。
阿以は後年、当時のことを偲び、娘マ
ス(押木領七妻)に
「一番つらく思うたことは、米がなくな
り、買おうとしたら、おあてがいがある
まで待つよう言われ、一合の米を一升の
水で粥にして、日を送るようなことが続
いた時である。それでも、みんな達者で
過ごさせてもらった」
と話した。
阿以が所帯のやりくりに心を砕いてい
る姿を見かねた儀助は、ひそかに、手に
覚えのある金箔作りや、鼻緒作りをして、
これを扶けたこともあった。
広前の御用が何とか障りなく進められ
るようになった明治十七年夏、儀助は、
儀兵衛の許しを求め、神戸に出た。西欧
の文明に接し、できれば外地に渡って、
新たな知識を身につけたく思ってのこと
であった。
のち、勧める人があって東京に移り、
しばらく印刷局に勤めながら学識を深め
ることに努力した。
2
明治十八(一八八五)年、絹笠町に移っ
て満一年、おかげを受ける者日に増し、
広前はいつも参拝者で満ち、次第に手狭
を感じるようになった。
春、真砂町(現在地の西道路向かい側)
に、より広い家屋を借り受けることがで
き、移転した。
同年六月、集中豪雨による淀川の大出
水があり、大阪市内は大きな被害を受け
た。広前は幸いに、床下わずかな浸水に
とどまり、信者たちもそれぞれ小難にお
かげを受けた。その後、疫病の流行など
あり、求信者をはじめ、参拝者は増し、
広前は活気に充ちていた。
大林文藏夫妻、田中金次郎ら、進んで
広前の諸用に奉仕して、信者たちの誘導
に尽力するようになった。
○
おおもとやしろ
明治二十(一八八七)年、大本社にあっ
ては、金光教会としての組織ができ、そ
の設立が公認された。そして改めて、各
地の本教信奉者の総結集が企てられ、出
社の全国的統一が進められた。
そうした動きを受けて、真砂広前も、
あらためて教会所設置の手続きをとり、
しんゆう
5
同年九月二十四日、大阪府知事より、神
秋、十月九日、阿以は、
道金光教会真砂支教会所として認許を得 「明日は大本社の金光大神祭り、私は金
た。
光様のお許へ参らせていただく」
と言い、
3
「有り誰うございます」
あ い
その年、春以来、阿以(四十六歳)は との一言を最後にお国替えした。
体調すぐれず、静養する日が多くなった。 葬後、儀兵衛は大本社に参り、ひ弱な
儀兵衛は九月、儀助に教会所認許の報 阿以が五人の子女の母となり、お広前の
を伝え、母の希望もあり、帰阪して広前 内裏の御用にお執り立て頂いてきたこと
の御用に当たるよう促した。その後、阿 を御礼申し、霊のお道立てを願った。
金光四神様には、御祈念後、
以は、儀助が広前に立ち帰り、日々御用
に従う姿を見て安堵したのか、快方に向 「家内が亡うなって、早々とお礼参りが
できたのは、そなたが初めてじゃ」
かった。
明治二十一(一八八八)年正月、儀兵 と言われ、
衛(五十八歳)は、元旦の朝、御祈念の 「手足まといがのうなって、楽になった
時、生神金光大神様がご出仕になり、御 のう」
扉を開いて、御取次ご祈念くださる御姿 とも言われた。儀兵衛は、
「これからは、専心、神様の御用ができ
を拝した。
「この方が後ろに控えておる」とのお言 ます。有り難いことです」
葉そのままの御姿を目の当たりにして、 とお答えした。すると、
自分の座っているこの広前が、他ならぬ 「いよいよ、末広がりのおかげが頂かれ
「金光大神の御広前」であり、日々お出 ますわい」
ましあって御取次くだされてあることを、 と仰有った。
伴をして参拝していた押水マスは、そ
あらためて思い知らされ、日々の御用へ
の話し合われる二人の姿に、胸の熱くな
の覚悟を新たにした。
るのを覚えた。はじめ「金光様はひどい
ことを言われる」と思ったことも、有り
難く頂けてきた。
4
阿以が逝って後、真砂広前は、女手が
なくなってしまった。儀兵衛の他は、儀
助、松之助、正治の三人であった。
儀兵衛は、金光様に申し上げたとおり、
御取次一筋に、昼夜の別なく広前に座っ
ていた。内裏のことはまったく息子たち
に任せきりであった。
こん
娘の押木マスや金スエが心配して時々
訪ねて来て、父や兄弟たちの身の回りの
世話を焼いた。やがて、そうした御広前
内裏の様子に気付いた信者たちが、しだ
いに身辺の諸用をするようになった。し
かもそのことをとおして、人の肋かりを
願って余念のない儀兵衛の質素な生活ぶ
りに触れ、各自の信心のあり方を学ぶよ
うにもなっていった。
やがてそこに、信者同士の共励の場が
よ
生まれ、相依り相扶けて、お広前の表裏
にわたって諸用に奉仕するようになった。
翌、明治二十二(一八八九)年夏以来、
6
しんゆう
儀兵衛は疲労気味で、気分のすぐれぬ日
が続いていた。十一月初め、風邪をひき
添え、日々熱気に悩まされていた。それ
でも、広前の御用は変わらなかった。
九日、教祖大祭を奉仕した、その夜、
高熱に侵され、呼吸困難に陥り、意識も
朦朧となり、ついに息が途絶えた。正治
が御祈念中の儀助に伝えると、
「神酒を頂かせい。一口でもおさまれば、
おかげ」
との御神伝があった。
お伝えのように、神酒が口におさまる
につれて、息が通い、意識が戻り、熱も
次第に下がっていった。広前に参集し、
徹夜の御祈念に打ち込んでいた世話係、
信者たちは、愁眉を開いてさらに勢祈念
を続けた。
十日の朝、儀兵衛は、
「今日は、金光大神様のお祭り日、おか
げ日」
と言って、床の上に起き上がり、御祈念
を捧げた。それを境に、全快のおかげを
受けた。信者一同、広前をあげての喜び
であった。
その後、儀兵衛は、九死一生、起死回
ひそかに儀助をその地に赴かせて下見を
させたり、布教後、その立行きを案じて
手助けに出向かわせたりして、事の成就
を祈ってやまなかった。
け合う姿に触れて、その喜びを神前に述
べるのであった。
なお儀兵衛は、彼らの旅立つ以前に、
生の大みかげを受けたと、大本社に御礼 信者たちの心に深く刻まれ、進んで儀兵
さんぼう
参拝し、その喜びのしるしとして三方を 衛の後を追う者が現われてきた。
大林文藏は郷里の人を助けたいとて但
お供えした。
馬に、平尾恒次郎は難渋する人を見かね、
金光様は、その裏面に、
家を忘れて祖業の地、玉造に、宮下為太
郎は平野郷に、河方鎌三郎は病身を押し
福嶋儀平
卯五十九才
て大和高田に、尾崎力松は桜井にと、各
大病全快
御礼申上
自、儀兵衛の願いを受けて布教に出た。
明治二十二年旧十一月三日
明治二十一、二、三年にかけてのことで
と記して、久しく大本社御神前の用に使 ある。
世話係の加藤与兵衛、大久保勝三郎ら
われ、その全快を喜んでくださった。な
かみしも
お、その節、儀兵衛に 裃 一流れを下され は、野村正治郎とともに、布教に旅立つ
信友の影身に添って、あるいはその布教
た。
「これは、親様が正月三ケ日に召されて、 地に出向いて広前開設に協力し、あるい
御祈念を仕えられた裃である。これから はその家族らのたじろぐ姿を見て、これ
は、これをつけて、正月三ケ日お仕えな を励まし力づけた。
儀兵衛は、信者たちが家業の忙しさを
され」
忘れて、お道広めのため励まし合い、扶
と言ってくださった。
5
妻を見送り、起死回生のみかげを受け、
ひたすら取次に専念する儀兵衛の姿に、
信者たちは教祖金光大神の面影を見、儀
兵衛を「生神様」と呼ぶようになった。
「信心して神になれい」との御教が、
しんゆう
7
〇
儀兵衛は、布教に出向く人たちに、
「人に頼るな。人情に流されるな。人心
を出しては、人は助からん。どこまでも、
金光様と一心でさせて頂くのだ」
「わが力で人を助けるのではない。神様
が助けなさるのだ」
「衣食住に心を煩わされるようでは、御
用は務まらん。どんなに喰うに困っても、
信者に無心は言うな。八足の下で死ねば
本望だと、腹を据えて務めさせてもらい
心生活のよき先達として慕うようになっ
た。
やがて婦人信徒らは、登加を婦人会の
会長に迎えて会を改組し、『真愛婦人会』
と呼称して、信心の共励や御用奉仕に、
一段 と 力を 注ぐ よ うに
儀兵衛も、儀助も、その行き届いた御用
ぶりを心から喜び、その骨折りを有り難
く思った。広前で修行に勤しむ人や信者
たちも、その御用ぶりに励まされて、信
金光四神様には、かねてから儀兵衛の 嫁ぐことを不安に感じていた。しかし、
心労の容易なさを案じくだされていた。 お広前の御用を慕う心にほだされ、その
還暦を迎えようとする儀兵衛、それを扶 願いを許した。
けて年をいとわぬ儀助、ともに扶け合っ
登加は嫁いで来て、男世帯の簡素さに
て、人の助かりに専念するさまに、その 驚いた。都会の生活に戸惑うこともあっ
願いのよりよき成就を御祈念くだされて た。しかし「知らぬ、できぬ」というこ
いた。
とを口にする暇で、進んで見聞きして学
明治二十三年秋、金光様から、安部三 び、工夫し、やってみることを心がけた。
と か
平の娘、登加を、儀助の嫁にもらわんか、 家族や信者たちのいたわりや励ましを
得て、やがて広前の内外の御用も、落ち
度なく仕えることができるようになった。
とのお話があった。
あ い
阿以も死に際まで願っていたことであ
登加は百姓の末娘で、まったく無筆で
あった。安部三平夫婦は、初め、大阪に
(つづく)
るさまを見て、早くから、姉のように神 なった。
様の御用に使って頂きたいと思っていた。
なされ。どうにもやりきれん時には、遠 る。神様のことを何ものよりも大事に思
慮はいらん。いつなりとも、この方へ戻っ う人ならば、ということで、安部方との
て来るがよい。一椀の飯でも、ある限り 話し合いも進み、登加を嫁に迎えること
頒け合って生かしてもらおう」
になった。
などと言い、自分が御取次の御用にお取
明治二十四年春、近藤藤守夫妻が仲人
おおもとやしろ
り立て頂いた当初、教祖様が、
となって、大 本社膝もとの藤井恒次郎方
「この方が後ろに控えている」
で、結婚の式が挙げられた。儀助は三十
と仰有ったことを語って、力づけていた。 一歳、登加は十九歳であった。
登加は、姉の喜代が金光宅吉(四神様)
に嫁ぎ、教祖様のもとで御用に仕えてい
6
明治二十四(一八九一)年春、男世帯
の真砂広前に、またとない内助の女人が
迎えられた。厚き神様のお計らいであっ
た。
8
1 日
20 金
2 月 教区教師研修会(県民会館)
3 火
21 土 天地金乃神月例祭(14:00)
信心共励会(祭典後)
22 日
4 水
23 月
5 木
24 火
6 金
25 水
7 土 兵北げんきバンド集会
26 木 霊神月例祭(14:00)
(八鹿教会 13:30)
8 日 教団独立記念祭(本部 13:30)
27 金
28 土
9 月 生神金光大神月例祭(14:00)
兵北信徒会委員会(気多教会13:30)
10 火
29 日
30 月 上半期感謝祭(14:00)
11 水
12 木
(気多教会 13:00)
ラジオ番組企画会議
16 月
4 金 夏季信行期間開始(8月3日まで)
(放送センター)
13 金
1 火
14 土
2 水
15 日 運動実践信奉者集会
3 木
17 火
5 土 典楽会地方指導員研修会(本部)
18 水
6 日 兵北げんきバンド集会
(清滝教会 13:30)
7 月
19 木
毎年大粒の甘い実をつけるグミの木が
あるが、今年は一粒も口に入りそうにな
い。ヒヨドリが虎視眈々と狙っていて、
ちょっとでも色づくと片っ端から食べて
いくのだ。黄色い実なんぞ、酸っぱくて
抱の点で、私は
敗したわけだ。
渋くて不味いだろうに、人間や他の鳥に
先を越されまいとヒヨドリも必死なのだ
ろう。生きるためには少々の不味さを厭
わないその辛
ヒヨドリに完
▼すぐそばに
はハチクがおい
しいタケノコを芽吹き、こちらは採って
も採っても食べきれない量だ。年によっ
てなぜこれほどに違うのか、自然のなせ
る業は不可思議だ。今年は山の果実が異
常に少なくて、鳥も苦労しているのかも
しれない。▼茹でたハチクを冷凍庫に保
存し、食べ物に困らない身を感謝しなが
ら、グミはヒヨドリに譲ることにする。
日(月)午後2時
上半期感謝祭
6月
添付のお届け用紙に、ご家族やお願
いしたい方のことをご記入の上、当
日までに教会へお届けください。
30