広島ジャーナリスト 第 12 号 2013 年 3 月 特集「核と人間」のいま 若松丈太郎「分断された地域、暮らし、家族」 「黒い雨」シンポ詳報 対談 S・リーパー:A・ビナード 日本ジャーナリスト会議広島支部 ≪1≫ シンポ「 『黒い雨』と低線量被曝」で発言するパネリスト。左から小笹、 大久保、本田、大瀧、高橋の各氏 (詳細は9~ 41 ㌻) 目次 輿論に基づく政治を 浅川 泰生 2 市民の安全脅かす米軍 編集部 107 「加害の廣島」を語る「つどい」 特集「核と人間」のいま 分断された地域、暮らし、家族 若松丈太郎 3 放影研交え「黒い雨」シンポ 9 対談 S・リーパー A・ビナード 42 110 アルジェリア人質事件の教訓 坂井 定雄 123 ムダな二葉山トンネル「ノー」澤田 良平 128 私の中沢啓治さん 渡部久仁子 133 「はだしのゲン」の父の原型 堀田 伸永 136 わが師リーパーさん 平尾 順平 53 アングル 小津と近代と戦争 真崎 哲 139 あれしきの被曝で何を騒ぐかと。 山田忠文さん追悼 澤野 重男 56 豊永恵三郎、内海隆男、吉野誠 140 事故は収束していない 佐藤 和良 58 忘れられぬ 2 年前 広島避難日記 メディアスクランブル 世論調査報道の「罪」 青木 達也 68 復興という坂を懸命に上る 高橋 寿久 73 THE BOOK 「 原 発 を つ く ら せ な い 人 々 ― 祝 島 原発は社会を分断する 木原 省治 79 から未来へ」 「キャパの十字架」 「台湾海峡 「脱原発」決断に至るドイツの長い歩み 一九四九」「言論の自由 拡大するメディアと縮 真崎 哲 143 田村 栄子 88 むジャーナリズム」 ロベルト ・ ユンクと日本 竹本真希子 96 風 訊 帖 「平和のぼっぱつ」がなぜいけない 147・148 沢田 正 149 あまりに危険なオスプレイ 頼 和太郎 102 広島ジャーナリスト よろず えて翻訳されたのはかなり早く、萬朝報の黒岩涙香が ああ 最初らしい。1862年に書かれた原作が1902~ 3年には「噫無情」として150回連載された。萬朝 報は、それまでの高踏的な新聞と違って相撲の記事や 昨年末の衆院選で、自民党は「熱狂なき」294議席を得た。この結 果に戸惑う声は多い。共同通信の柿﨑明二編集委員は「民主党『絶対的 デュマの「モンテ・クリスト伯」を「岩窟王」と題して1年3カ月連載 る。三好徹著「まむしの周六」を読むと、その前年にはアレキサンドル・ 将棋の棋譜を載せるという大衆路線の編集方針をとったことで知られ 大敗北』 」 「自民党『相対的大勝利』 」と形容した(「世界」2月号)。戦 したというから、かなりエネルギッシュな活動ぶりである。 たビクトル・ユーゴーに会い、 「自由主義思想をもったヨーロッパの小 う前から民主は忌避され、非自民勢力は分裂し、結果として無人の野を 説を新聞で紹介するのも、民権思想の普及に有力である」と助言された ところで、なぜ黒岩涙香はこうしたフランス文学を翻訳するに至った か。「まむしの周六」には1882年、板垣退助が当時 歳を超えてい いま、安倍晋三・自民党政権は着々と保守政治のレールを引きはじめ ている。原発政策では「2030年代ゼロ」見直しを言明し、沖縄基地 との記述がある。黒岩は当時、自由党機関紙の大衆版ともいえる「絵入 行く自民が公明と合わせ衆議院議席の3分の2以上を得た。 政策では普天間の辺野古移設を進める構えを見せている。歴史認識につ 自由新聞」の主筆だったので、当然板垣とも親交があっただろう。 [1] いう。いったいこれらは、どれだけ選挙で語られたか。 い て も、 村 山 談 話 を[踏 襲 と 言 い つ つ 新 た な 談 話 に 意 欲 を 見 せ て い る と よろん せろん て「世論」という言葉が使われている。この間の事情は佐藤卓己著「輿 パン一つを盗んだ罪で 年間服役したジャン・バルジャンの物語「レ・ 板垣はそのころ、民撰議院論の中心人物であり、輿論派とも呼ばれた。 み ミゼラブル」を観た。フランス革命、ナポレオン一世没落直後の時代を この「輿論」という言葉、戦前はよく使われたが戦後姿を消した。かわっ 80 うまくいかない。 (略)王族の時代錯誤が次の暴動を呼ぶ。(略)自民党 にとって、これほど教訓に満ちた史劇はあるまい」―。 そうか、共通のキーワードは「復古政治」なのである。 少し、歴史をさかのぼる。この「レ・ミゼラブル」は日本人好みと見 [1]村山談話 1995年8月 日、村山富市首相が閣議決定を経て発表した声明。「植民地 支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を を見ると、つくづくそう思う。(「広島ジャーナリスト」 編集長 浅川泰生) もういちど「輿論」と「世論」を分けて考えてみる必要がありはしな いか。原発や沖縄をめぐる「輿論」は一体どこにあるのか。最近の政治 報じられたのは、公論=オピニオンの動向ではなかったと思うのだ。 しまっている。先の衆院選でも、新聞各紙がさんざんやった世論調査で どうも、ここから様々な誤解が生じている気がしてならない。世論調 査は本来「輿論調査」であるべきだが、世間の空気を探る調査になって ( 略 ) フ ラ ン ス 革 命 に 疲 れ た 民 衆 は( 略 ) 王 政 復 古 に 安 定 を 求 め た が、 が入らなかったため、二つの言葉が「世論」と表記されることになった。 = 可 算 的 な 多 数 意 見 =、 後 者 は この映画を安倍首相が観たという。そのことに1月7日付毎日新聞の デルでいえば前者は pubulic opinion コラム「風知草」が触れた。 「無償の愛、報われざる徳行が(略)大震 = 類 似 的 な 全 体 の 気 分 = を 指 す。 輿 論 は「 公 論 」 popular sentiments 災後の日本人を揺さぶっている」 。なるほど。 「物語の背景は復古政治だ。 で世論は「気分」とも言える。ところが1946年の当用漢字表に「輿」 逃亡生活。 ドラマの要素は揃っているが今の時代とどうつながるのか―。 論と世論」に詳しい。もともと輿論と世論は別の言葉で、メディア論モ 背景に、民衆の暮らしと思いを描く。無償の愛とジャン・バルジャンの 19 15 与えた」事実を謙虚に受け止め「痛切な反省の意」を表すとした。 2013. 3.22 輿論に基づく政治を ≪2≫ 特集「核と人間」のいま で、原発災害への警鐘を鳴らした。日 本ペンクラブ会員、日本現代詩人会会 員。詩集に「海のほうへ 海のほうか ら」「いくつもの川があって」「越境す る霧」 「北緯 37 度 25 分の風とカナリア」 ほか。 年後になっても終熄していることはないだろ するのにふさわしいことばが必要だと考えてい 年 が 過 ぎ た の に、 そ こ で の 事 態 が ま だ 3・ 核災発生 後まだ2年だ。「まだ」 と言 う の に は、 1 9 8 6 年 の チ ェ ル ノ ブ イ リ 核 災 は「ゼロベースで見直す意向」だという。毎日 いを裏切るものであったのに、これを安倍内閣 民主党政権が掲げた「2030年代に原発の 稼働を0にする」という方針でさえ私たちの思 政権が交代し、核発電政策は核災以前に戻っ てしまった。 67 から 識せざるをえないからである。この事態を表現 を及ぼす〈核による構造的な人災〉であると認 踏み込み、空間的にも時間的にも広範囲に影響 故〉という概念を超えて、人の心や暮らしにも 11 たとき、中国では原発事故を〈核災〉と表記し 11 福島核災は始まったばかり う。まったく先が見えない災害なのだ。それな 地を見て発表した詩「神隠しされた街」 私 は、 で き る か ぎ り〈 原 発 〉 を〈 核 発 電 〉、 ルギーの誤用と言われている。そこで、原発を 〈原発事故〉を〈核災〉と表記することにして 核発電と表記することによって、〈核爆弾〉と 94 年にチェルノブイリ原発事故の現 のに、福島核災などはなかった、あるいは済ん 員。1955 年ごろから詩作をはじめる。 〈核発電〉とは同根のものであること、そして 馬市)の埴谷島尾文学館準備室の調査 いる。 93 年から 2002 年まで小高町(現南相 だことだとしたい空気が、新しい年になってか 業後、60 年から福島県の高校に勤務。 らはより強く感じられてならない。 1935 年岩手県奥州市生まれ。大学卒 その本質に内在する非人間性とを意識しようと わ か ま つ・ じ ょ う た ろ う 詩 人。 したのである。 若松 丈太郎 3・ 以後、私は原発事故という表現に疑問 を抱くようになった。進行している事態は〈事 《いのちの継承》 《精神のリレー》を 分断された地域、暮らし、家族 ≪3≫ 発事故を核災と言うことにしたのである。さら も終熄していることはないだろう。広島や長崎 島核災は始まったばかりであって、 年を経て ていることを知り、以後、私はできるかぎり原 〈終熄〉していない現実があるからである。福 ことである。 する者」が によれば、この安倍内閣の方針見直しを「支持 新聞の世論調査(2013年2月4日付掲載) %との に、核兵器・核爆弾は核エネルギーの悪用であ の核災がまだ終熄していないように、おそらく %、 「支持しない者」が り、核の軍事利用の副産物である原発は核エネ しゅうそく 26 56 37 26 広島ジャーナリスト ≪4≫ 福島の現状 ⑧ 居 住 制 限 区 域、 ⑨ 帰 還 困 難 区 域( 年 間 ㍉ シ ー ベ ル ト 超 ) へ と 再 編 が す す め ら れ て い る。 万人ほ さらに、右の指示対象区域外の会津地方を除 く福島県内 市町村は、⑩自主的避難等対象区 どはいまも帰還できないでいる。 万人で、そのうち ある。政府による避難等の指示対象人口は最大 しかし、一部に③④⑥が残されている自治体が 的に避難し、 日後の4月 日に避難先の福島 一昨年、核災が発生したとき、屋内退避指示 が出されるまえの3月 日に私たち夫婦は自主 3・4 号 機 の 再 稼 働 を 決 定 し た。 こ れ を 受 け、 会、新聞社の世論調査では「2030年までに %の人が 選んだのだった。それから半年しか経過してい 馬市の放射線量が低かったことと、自分の〈場〉 市から帰宅した。 ㌔㍍北西の福島市より南相 基準が不明瞭なため、子を持つ親が線量の多寡 この結果、福島県の人口は、2011年3月 と 年 月とを比較すると、6万人近くも減少 あまりが経過した現在である。 私が住む南相馬市は、今も⑥⑦⑧⑨⑩の5区 域に分断されている。学校など教育施設の除染 したのである。 す る 指 針 案 を 発 表 し た。 こ れ に よ る と、 ど手つかずで、 は行われたものの、そのほかの市域ではほとん 年度で終了する計画が1年先 福島第1や第2で新たな過酷事故が起き 延ばしになった。除染の効果そのものが疑問視 30 た場合には、私たちは強制退去を指示さ 10 れることになる。 されている。なぜなら、現在も福島第1からは 毎時1千万ベクレルの放射性セシウムが放出さ れ続けているからだ。わが家の放射線量(2月 、駐車 (いずれも 、雨樋下0・ 場0・ 、居間0・ 21 件から放射性セシウムが検出された。イノシ 、寝室0・ 示、②屋内退避指示、第二段階では③警 1時間あたりのマイクロシーベルト)である。 日)は、玄関前0・ 戒区域、④計画的避難区域、⑤緊急時避 この2月に、市内住民が自家消費用にしようと 68 して、分析検査を依頼した食品160件のうち 33 難準備区域、⑥特定避難勧奨地点、そし ㍉シーベルト未満)、 14 けて発せられた。初期段階では①避難指 政府による原発周辺地に対する避難等 の指示は、これまでにおよそ三段階に分 13 て現在は放射線量によって⑦避難指示解 除準備区域(年間 38 19 82 だが…。 日に解除され、また、野田首相が 昨秋 月3日、原子力規制委員会は防 災対策の重点区域を半径 ㌔㍍圏に拡大 「原発事故の収束」を宣言してから1年 若松丈太郎氏=左端(2012年8月6日、広島市の太田川河川敷) 12 9月 ないのに、世論は逆転してしまった。日本人の %から 15 に敏感になっているのは無理もないことであ 原発全廃」という選択肢を 18 域とされていて、低線量被曝に関する国の安全 32 見せた。政府による討論型世論調査、意見聴取 時で 市町村の約 2012年6月 日、当時の政府は「国民生 活 を 守 る た め 」 と い う 口 実 で、 関 西 電 力 大 飯 50 政府に対する批判と抗議は、毎週金曜日の官邸 私は東電福島第1の北 ㌔㍍の自宅で暮らし 前 デ モ を は じ め 全 国 に 広 が り、 国 論 的 様 相 を ている。 25 で生活したかったからである。その後に発せら 19 体制迎合体質はいまに始まったことではないの 36 14 12 30 る。 70 れた緊急時避難準備区域としての指定は、同年 75 50 15 20 2013. 3.22 16 ≪5≫ 1812、ユズ428、キンカン119が高い シ肉1㌔㌘あたり1871ベクレル、シイタケ 償紛争解決センター)に申し立てが行われた。 声が出たという。地域社会が複雑に分断された 設置を認めれば、米軍普天間基地のように固定 りさえできなくなったとADR(原子力損害賠 「最終処分施設を決めないまま中間貯蔵施設の ミュニティーが崩壊し、いさかいが起きて、祭 結果、多くの被曝町村がコミュニティーとして も 年早く到 % に 満 た な い と い う。 帰 ら な い 理 由 と し 人だけ げ、ことに若い世代が帰村していない。3・ まえに114人だった小学生がいまは 16 が 増 大 し た り、 扶 養 や 介 護 の 問 題 が 深 刻 化 し、 避難先での生活のなかで発生する問題もあ る。一家族が二重三重の世帯に別れ、経済負担 経済的 ・精神的負担の増大 、深刻化 ということだ。 11 ようという気持ちが強くなっている、などを挙 い物、通院、通学ができない、避難先で生活し い、 (周辺の町がまだ避難したままのため)買 て、 線 量 が 十 分 に 下 が っ て い な い、 仕 事 が な 40 30 広島ジャーナリスト だったのだろう。また、大熊町への説明会では それぞれの区域・地点によって損害賠償基準 福島県が2020年度に避難者を0にすると が異なり、賠償金に差をつけられているため、 いう目標を示したように、国、県など行政によ 数値だったという。 る帰還圧力とも言うべきものがある。その一方 の存続に支障をきたしかねない状況を抱えてい 来し、このままでは農林業の再開と地域再生は るのだ。ことに山村では、過疎化が 化し、沖縄の轍を踏むことになる」との不安の 住民のあいだに不公平感が生まれている。たと で、国は汚染土壌を 年間保管するための中間 ㌔㍍圏外の伊達市には年間 ㍉シーベ えば、 は特定避難勧奨地点に指定した。この指定は、 の設置については明確な答を示していない。井 成り立たないのではないかと憂慮されている。 %ほど 10 で、村外との二重生活をしている人をふくめて なった。しかし、完全に帰村した人は 再編を受けて、昨年1月に「帰村宣言」をおこ 人口3千人の川内村は警戒区域と緊急時避難 準備区域とに分断されたが、一部区域の解除と 戸川克隆前双葉町長が全町帰還目標を暫定 年 ( 福島県ホームページから ) 一集落全体ではなく、世帯単位で自主避難をう 貯蔵施設の候補地を公表しながら最終処分施設 30 後 と し た の は、 こ れ に 対 す る 抗 議 の 意 思 表 示 ルト超の恐れがあるホットスポットがあり、国 20 ながすものであったため、地域が分断され、コ 10 30 ≪6≫ 最悪の場合は家族崩壊に陥っている例もある。 意 向 は、「 住 み た い 」 6・7 %、「 具 体 案 が 出 た ら検討する」 ・5%、そして「住むつもりが するまでには、給電した期間とほぼ同じ 要すると言われている。 年を 廃炉に至るまでの 年(もっと長引くのでは ないか)のあいだにはどれほどの人員と経費が ・8%なので ある。「住むつもりがな い」と答えた人びとの理由は「仮の町がいつで ない」 求 め ら れ る の だ ろ う か。 老 朽 化 が さ ら に 進 ん 被災者たちは、帰れるのか、帰れなければど うなるのか、先が見えない将来への不安、長期 きるかわからない」「自宅を買う」「今の暮らし 40 避難生活による疲労によるストレスから、もう 45 帰れないと無気力になる人、不眠症から生活習 42 慣病を患っている人など、さまざまである。孤 に慣れた」に三分されている。飯舘村の場合も で、なにが起きてもおかしくないのである。大 立感情が強くなって、自死を選ぶ人もいて、い 「村外子育て拠点」への入居希望者は ・5%、 地震が再び襲うことも想定される。 40 18 南相馬市によれば、昨年 月 日現在の「災 害関連死者」は376人に及び、 「震災時の直 があった。 ずのことがあたりまえではなくなっているので しまって、私たちにとってあたりまえであるは し、私たちの暮らしを分断し、家族を分断して ルで異状が起きていないだろうか、崩落してい き、危険な状態にある東電福島第1の燃料プー 源とする地震だ。震度4の揺れが異様に長く続 いうことである。 が伝えられないまま長く放っておかれることに のときよりも強い よって不安は増大するという。まさにそのとお りで、今回の地震では3・ 災者帰れ」とスプレー書きされていたり、仮設 ㌔㍍という距離での情報不足は私たちに不安を し、あるいは、この2月6日に同じ3号機燃料 たとえば、昨年9月 日に3号機燃料プール いま、私たちがもっとも知りたい情報は、福 に約470㌔㌘の鉄骨が落下した事故があった 島第1と第2がどんな状態かということだ。 恐怖を感じたものである。 住宅の駐車場で車にペンキが掛けられたりガラ 感じさせている。 頻発する地震に恐怖 ることは必至だ。 て表現してきた。 スを割られたりする事件が起きた。さまざまな う事故を起こしている。これらは公表された事 現在も1時間あたり最大約1千万ベクレルの 放射性物質が放出されているとみられ、作業員 故の一部に過ぎないし、公表されていない事故 れ ば、 人 口 の % が 住 む 区 域 が「 帰 還 困 難 区 「仮のまち」 ( 町 外 コ ミ ュ ニ テ ィ ー) を つ く る 計 画 が あ る。 双 葉 町 は 避 難 区 域 が 再 編 さ れ だ。 分断で反目・対立・中傷・差別が起きているの 11 「逃げる 戻る」「不条 私はこうした現実を、 理な死が絶えない」 「知人たち」などの詩とし る の で は な い か と 不 安 で な ら な か っ た。 情 報 月7日夕方の三陸沖を震 11 ある。核災が周辺住民に与える精神的な負担の 14 深刻さは今後なおいっそう重く厳しいものにな 上に怖かったのが、 たましい。最近の出来事としては、東京都江東 「村内復興住宅」への入居希望者は ・2%だ。 このところ宮城県沖から茨城県沖を震源とす 区 に ひ と り 避 難 し て い た 郡 山 市 の 歳 の 男 性 核災は、私 たちが暮らしていた、 あるいは、 る地震が頻発している。昨年 月3日朝の震度 暮 ら し て い る 地 域 を さ ま ざ ま な か た ち で 分 断 4を観測した福島県沖地震は怖かった。それ以 が、死後約1カ月のちに発見されたという報道 49 接死者」636人と合わせ、1千人を超えたと 18 避難者と避難先住民の意識のずれも表面化し ている。ある避難先では、公共施設の壁に「被 12 22 汚染水の増加も廃炉作業の障害となっていて、 たとえば、1978年に福島第1の3号機で プール内の3千本以上の燃料棒を取り出して、 起きた臨界事故を 年後の2007年に東電が が 近 づ け な い 場 所 が あ り、 炉 心 冷 却 で 生 じ る が日常的に発生しているはずである。 プールに瓦礫1・5㌧を水没させてしまうとい 25 格納容器内の溶融燃料をすべて回収して廃炉に ようやく認めたことを題材に、 年に詩「みな 29 2013. 3.22 12 域」になる。しかし、仮の町についての町民の 08 96 ≪7≫ み風吹く日」を書いて私は東電の事故隠しとご データを独占して「事故」による健康被害はな 避難指示を受けた市町村の 歳以下の子ども いという結論を導くためだったのではないか、 たち3万8114人( 年度中実施)が受診し ま た、 県 内 に 帰 れ ば 検 査 を 受 け ら れ る と い う 18 うものであった。 故」による影響ではないとい め ら れ て い る。 し か し、 委 員 会 の 見 解 は「 事 疑いありと診断され、さらに、 %に嚢胞が認 のうほう た甲状腺検査の結果、3人ががん、7人がその 11 なお、 歳未満者は立ち入 りが禁止されている放射線管 万 理区域に相当する放射線量が 測定されている地域に、 人もの住民が核災発生から丸 2年に近い今も国による避難 指示がないまま暮らし続けて い る。 そ の な か に は 相 当 数 の 年少者が含まれていて、その 被曝線量が増えているが、検 査対象者には含まれていな 検討委員会に関しては、こ い。 れだけでなく、例えば、内部 被曝検査としてはホールボ ディーカウンターによる検査 より精度が高いとされる尿検 査の実施を国側が提案したと き、 福 島 県 側 が 拒 ん だ 経 緯 を による子ど 議 事 録 か ら 削 除 し た 事 実 や、 ストロンチウム もの内部被曝を調べるための 広島ジャーナリスト まかしの体質を告発した。この体質は核災後も 改まっていないのである。事実、2月7日付と 年9月から開始)し などとの批判がある。 日付の朝日新聞によれば、国会事故調から1 「帰還圧力」を掛けるためだったのではないか 号機の立ち入り調査を求められたとき、「内部 は暗い」と虚偽の返答をして調査を断念させ、 続して実施することとして、その調査結果を専 門家が公開の場で議論しあう検討委員会を発足 月のことだ。問題とは、検 させた。この検討委員会に関わる問題が明らか になったのは昨年 討委員会の本会合のまえに、委員の見解をすり 合 わ せ る 目 的 の「 準 備 会 」 を 秘 密 裏 に 8 回 も 行っていて、準備会の出席者にはその存在を外 部に漏らさぬよう口止めまでしたというので ある。たとえば、住民の不安をあおらないため に、 「がん発生と原発事故とに因果関係はない」 ことなどを共通認識として確認しておいて本会 議に臨むためだったと弁明している。 ら 開 始( 県 外 避 難 者 は 福島県は、核災発生当時に 歳以下の子ども を対象とした甲状腺検査を、2011年 月か 10 18 加えてその釈明内容も虚偽だったということで 30 福 島 県 は、 東 電 福 島 の 3・ 核 災( 原 発 事 故)を受けて「県民健康管理調査」を 年間継 11 18 80 ある。 放射線管理区 域 に 万 人 居 住 80 12 35 90 10 た。 県 外 で の 検 査 開 始 を 遅 ら せ た の は、 検 査 (2月 13 日福島県民健康管理調査の検討委員会が発表。検査対象は事故当時 18 歳以下の県民) 10 ≪8≫ 乳 歯 を 保 存 す る 提 案 を 受 け た 県 民 健 康 調 査 室 水道水を飲んでもいいの? 将来、子供が産めますか? は、それを拒否するための情報を検討委員から 私達が将来白血病、ガンなどになる確率は 収集しようとした事実があったことなどが明ら 何%ですか? かにされている。 被曝の有無、程度を確認する複数の検査方法 僕はいつまで楽しく生きられるでしょうか があるなら、それぞれの異なった検査記録を残 原発の状態は今度、津波や地震がきても大 しておき、将来的に被害が疑われたときの備え 丈夫なの? としておくことが科学的対処であろう。さもな 原発はもう爆発しませんか? いと、被害者を切り捨てる結果を招くことにな 東電と保安院がついたウソの数 る。福島県は県民の被害実態を把握しその万全 原発は本当に必要なのか? な救済を果たすべき責務を担っているはずだ。 これ以上、私たちを苦しめないで! チェルノブイリ事故後8年、私はキエフ小児 科・産婦人科研究所病院を訪ね、甲状腺がん治 ことに、子どもたちのいのちを守るための可能 なあらゆる手だてを講じておかねばならないは 正体」( い」 ( 年)の監督として知られる亀井文夫 年)は、南相馬市生まれである。 年)や「トリ・ムシ・サカナの子守歌」 考 え か ら、 映 画「 み ん な 生 き な け れ ば な ら な 晩年の亀井文夫は「生物みなトモダチ」という (1908~ 87 57 ( 年)を制作し、「いのちの継承」と、そして 84 なかで、おおよそ「私たちは『より深く考える でおこなった講演「精神のリレーについて」の 76 97 相馬市が本籍地だった。彼は、 年に京都大学 『死霊』を代表作とする作家埴谷雄高 (1909~ 年)の本名は般若豊といい、南 た。 「知恵の暴走には、英知のブレーキを」と訴え 87 歳前後の子どもたちも同 亀井文夫と埴谷雄高のことば 被曝量の問題に加えて、子どもたちの心のケ アにも力を注がねばならない。 ずなのに、なぜ被害を小さく評価したり、隠そ 療のため入院している子どもたちを見舞った。 こと』と記されているバトンを受け渡すリレー うとしているのか。県民健康管理調査の原資が 彼らのまなざしを今も忘れることができない。 の継走者にならざるを得ない」と語っている。 2000年に「埴谷島尾記念文学資料館」を南 国と東電が支出した基金であることと関係があ すがりつくような 相馬市小高区に開館するに際して、この施設の るのかと疑いたくなる。 訴えるような コンセプトを「《精神のリレー》の ためのバト 病気からの救出を期待しての ンタッチ・ゾーン」として作業をすすめた。 「将来、子供が 産 め ま す か 」 あのまなざしを向けるのだろうか 3・ 以後の世界をどうするのかと考えると 二〇一九年福島の子どもたちも と、核災後、 私は詩「子どもたちのま なざし」 き、南相馬市の先人のことば《いのちの継承》 福島に人が住んでいていいのか、子どもが暮 こんてい と《精神のリレー》は、もっとも根柢のところ らしていてはいけないのではないかという疑問 (部分)に書いた。 に据えるべき思想ではなかろうか。 を私は抱いている。 じ思いでいる。次に掲げるのは、昨年2月、南 相馬市での集会会場の〈想いのツリー〉に書か れた「いま、子どもたちが知りたいこと」の一 部である。 せつつ、核発電を早急に全廃することだ。もち 子どものいのちと未来とを守ることを第一義 とすること、そのために、廃炉を着実に進行さ 11 ろん、核兵器の廃絶も同時に達成しなければな らない。 2013. 3.22 10 ド キ ュ メ ン ト 映 画「 生 き て い て よ か っ た 」 ここに住んでいて本当に大じょうぶなの? (1956年)や「世界は恐怖する―死の灰の キロ以内に子どもがいていいの? 30 日、 広 島 市 の 平 和 記 念 資 料 館 メ モ 17 フロアディスカッションでは、「放影研は被爆者のための調査研究機関であってほしい」「デー ま す が、 原 爆 が 爆 発 し た 直 後 の 分ぐ 爆症と同じ症状、造血機能障害とか運動噐障害 は健康診断を無料で受けられる。健康診断で原 帳 を 出 し た。 そ の 手 帳 を 持 っ て い る 人 しては健康診断を無料にするという手 と 言 い ま す が、 そ の 地 域 の 人 た ち に 関 く 降 っ た 地 域、 広 島 の 場 合 は 大 雨 地 域 「健康診断特例区域」という、雨が激し と い う 声 が 出 て、 1 9 7 6 年 に 政 府 は う こ と で、 こ れ を な ん と か し て ほ し い これは原爆による被害ではないかとい と い わ れ た り す る よ う な 症 状 を 起 こ す。 疲 れ る、 無 気 力 に な る、「 ぶ ら ぶ ら 病 」 と い う 症 状 を 起 こ す。 あ る い は 非 常 に と 同 じ よ う な 症 状、 脱 毛 と か 下 痢 と か 30 広島ジャーナリスト らいから数時間あとにかけて広島でも 長崎でもにわか雨のような雨が降りま し た。 そ の 雨 は 原 爆 の 火 の 玉 が 上 昇 し た の と、 そ の 後 の 火 災 に よ る 上 昇 気 流 によって雲が広がって降りました。 そ の 雨 の 中 に は、 原 爆 の 燃 え カ ス の降った地域についてはいろいろ論議 が あ る ん で す が、 広 島 で い え ば 北 と 西 ロシマ・ナガサキ」などの著書がある広島市立大広島平和研究所講師の高橋博子さんとの間で、 の ㌔ぐらいまで降ったという証言が 約3時間半にわたって意見を交わした。会場には、約250人の市民らが訪れ、討論を見守った。 出 て い ま す。 そ の 雨 に あ っ た 人 た ち の 中 で 多 数 の 人 が、 原 爆 に 直 接 あ っ た 人 当した広島大原爆放射線医科学研究所教授の大瀧慈さん、アメリカ史が専門で「封印されたヒ を突き止めた長崎県保険医協会会長の本田孝也さん、黒い雨に関する広島市の調査で解析を担 放影研からは大久保利晃理事長、小笹晃太郎疫学部長がパネリストとして登壇。データの存在 12 タを開示し、外部の意見も取り入れながら研究を進めていってほしい」といった意見が相次い 小笹 本田 黒い雨についてはみなさんご存じだと思い としたかを話させていただきます。 だ。多くの取材陣が詰めかけ、シンポの様子はUstreamでも同時中継された。 沢 田( J C J ) JCJ広島支部が このようなシンポをどうしてやろう 比較集団適切でない 脱毛の分析なお必要 「山田・ジョーンズ報告」への評価 放影研交え「黒い雨」シンポ 30 1万3千人のデータを保管していたことが判明した放射線影響研究所(放影研)が昨年 月、 の核分裂物質と核分裂によって生じた データの公開や解析・研究について事実上の「打ち切り」を宣言したことを受けて企画した。 放射性物質が微粒子として大気中に放 出 さ れ た も の が と も に 降 り ま し た。 雨 リ ア ル ホ ー ル で シ ン ポ ジ ウ ム「『 黒 い 雨 』 と 低 線 量 被 曝 」 を 開 い た。 黒 い 雨 を 浴 び た と す る 日 本 ジ ャ ー ナ リ ス ト 会 議( J C J ) 広 島 支 部 は 2 月 2㌔以遠でも人体影響「起こり得る」 ≪9≫ ≪ 10 ≫ 受けることができる。被爆者援護法の適用を受 というような症状と診断されると被爆者手帳を という扱いで精神疾患や合併症に限って支援を て い な い 地 域 の 方 た ち が、 今、「 被 爆 体 験 者 」 ない地域と分かれていて、これもまた指定され 原爆のデータでこの問題に共通するのは黒い雨 内 部 被 曝 の 問 題 は 非 常 に 重 要 に な っ て い ま す。 福 島 原 発 事 故 が 起 き て 以 降、 低 線 量 被 曝 や 例えば旧湯来町とか佐伯町、豊平町、筒賀村と る本田孝也さんが旧ABCCの職員が米オーク そ う い う 中 で 一 昨 年 秋、 こ こ に い ら っ し ゃ て被爆者援護が行われてきたのですけれども、 同じような援護を受けたいということで裁判を 問題は雨にあった区域を線引きしたことです。 起こしておられる状況があります。 産 を な ん と か 活 か し て い か な け れ ば い け な い。 い。被爆者が残してくださった非常に貴重な財 味でこのデータをなんとか今後も役立ててほし です。 けることになるわけです。 受けています。そうではなくてほかの被爆者と かは目の前の川一本隔てて向こうは区域の指 さんは快く応じてくださいました。こういうふ いしてやったデータがそれだけある。このデー つずつ取り上げて話しあうという展開になりま 司会(JCJ難波) シンポジウムを始めます。 月8日付で示された放影研の三つの見解を一 い の立場ですけれども思っていた。 月 8 日 に 放 影 研 は、 解 析 す。最後の 受けて一昨年、厚労省で区域拡大の検討会が学 区域の拡大を国に要求してきています。それを 析はおしまいにするというような発表をされ ものではないということで、これでデータの解 した結果、このデータは有意な差があるという 国立研究所から出た山田・Jones(ジョー 資料を簡単に説明します。最初の方が放影研 の資料になります。順番に米国のオークリッジ いう感じでやりたいと思っています。 も発言をいただいてフロアディスカッションと 者を交えてできました。しかし、そこで1年以 た。事実上の幕引きだと受け止めました。それ ㌻)。それか ら黒い雨情報を 13 基にした放影研の解析結果(見解2、 ・ ㌻)。 見解(見解1、 上検討した結果、昨年の7月に拡大はしなくて めのマンハッタン計画で原爆材料のプルトニウム製造研究の 年に創設されたエネルギー省の下で、エ ために創設された。第2次大戦後は核利用研究の中心的役割 を果たしてきた。 解( 見 解 3、 ・ ㌻ )。 そ の あ と に、 共 同 研 いているわけですが、それに対する放影研の見 三つ目が残留放射線についていろんな議論が続 14 15 [1]米オークリッジ国立研究所 1943年、原爆開発のた ンズ)報告書(次㌻参照)についての放影研の 黒 い 雨 は 長 崎 で も 降 り ま し た が、 長 崎 で は ㌔の範 12 雨による地域の拡大という問題は起きていませ ん。ただ、長崎の場合は爆心から半径 ネルギー技術とエネルギー戦略に業務を拡大し、職員数4千 人以上、米国の科学技術を支える大研究機関。 13 70 は8月に拡大しないことを決めた。 はないよ、というのがこのシンポを考えた理由 そ れ が、 昨 年 の 分ぐらいはフロアのみなさんから タをなんとか活かしてほしいと、僕らメディア えていけたらと思っています。 やって活かしていくかということをこの場で考 と思います。黒い雨のデータについて今後どう こういうシンポをやりたいと言ったら、放影研 のデータだろうと僕は思うんです。そういう意 定を受けているのに川のこっちは指定を受けて リ ッ ジ 国 立 研 究 所 で[黒 い 雨 の 研 究 を や っ た リ ポートがあるということを公表された。公表に うに批判的な人が同席してやるシンポは珍しい そういった制度で雨にあった人たちに関し いないから、被爆者援護の手が届かないという いたるやりとりの中で、放影研に 万3千人の 黒い雨データがあるということがわかりまし [1] 状態に置かれた人が多数いるという状況があっ て、その人たちが区域の指定の拡大を求める動 1 きをずっとやってこられた。広島では黒い雨に た。さっき言った広島市や県の調査は原爆投下 ついては多数の被爆者の中での関心もあるし、 から 年近くたった後やっているわけです。と ころが、ABCC時代、原爆投下から5年ぐら 年に2回大規模なアンケート調査を 12 市民の間でも関心がある。当然メディアも関心 を持ってきたという状況があります。 ~ 30 行 政 も 広 島 市 と 広 島 県 が こ の 間、 2 0 0 4 年と 60 いいという結論が出ました。それを受けて政府 やっている。その結果を基に援護の対象となる 09 囲内で被爆者援護を受けられる地域とそうじゃ 12 2013. 3.22 12 08 ≪ 11 ≫ 究のフロー図があります。放影研が持っている 山田・Jones報告書 1972年、当 時のABCC(原爆傷害調査委員会、現在の 秘プロジェクトICHIBAN計画を企画実 員会の委員長を務めたカール・モーガン、極 線防護委員会(ICRP)委員で内部被曝委 放影研)調査課長だった山田広明氏と米オー まれている。山田広明氏は後にDS 1951 年愛媛県生まれ。広島大大学院理学研究科修了。 95 年から現職。2008 年、黒い雨に関する広島市の調 査で解析を担当。専門は応用統計学と計量生物学。 広島市立大広島平和研究所講師 の作成 ㌻に続く の方の急性症状の発症率 う 人 を 比 べ て、 あ っ た 人 う人とあわなかったとい して黒い雨にあったとい 内であったデータを使用 で利用可能であった範囲 当時オークリッジ研究所 書 か れ た わ け だ が、 そ の いた山田さんという方が にABCCから出張して オークリッジ国立研究所 1971年ごろに米国の 上 げ た い。 こ の 報 告 書 は 1969 年兵庫県生まれ。同志社大で博士号取得。2008 年から現職。専門はアメリカ史。著書に「封印された ヒロシマ・ナガサキ」 (凱風社)など。 がないので要約だけ申し だ く。 こ の 山 田・ ジ ョ ー ン ズ 報 告 書 が ど の よ 高橋博子(たかはし・ひろこ) 16 広島ジャーナリスト データを公開し公共の財産として使えるように してほしいという願いがあります。今のところ ジョーンズ氏が共同で作成したリポート。 に携わった厚生省原爆放射線量研究チームの 共同研究の形でそれが行われているそうです。 ではその共同研究はどういう手続きで行われて 冊製本し、ORNLの規定にのっとって配布 86 一員になっている。 86 82 年から 年まで国際放射 価DS を作成したジョージ・カーなどが含 いるのかというのがフロー図です。放影研の資 された。配布先には、ORNLの保健物理部 クリッジ国立研究所(ORNL)のT・D・ 行したジョン・オークシャー、原爆線量再評 料の最後は将来構想の要約があります。あとは 長( ~ 年)で オークリッジの山田論文、黒い雨データが放影 広島大原医研教授 笹晃太郎さんから説明をお願いします。 71 大瀧慈(おおたき・めぐ) なっています。 研にあるということを突き止められた長崎県保 50 1957 年長崎県生まれ。慶応大医学部卒。95 年から長 崎市で本田内科医院院長。2011 年秋、放影研の黒い 雨データを突き止める。12 年から現職。 険医協会会長、本田孝也さんの関連資料が5枚 72 長崎県保険医協会会長 13 44 本田孝也(ほんだ・こうや) 小 笹 こ れ に つ い て は 簡 単 に 説 明 さ せ て い た 1956 年京都市生まれ。京都府立医科大卒。京都府立 医科大准教授を経て、2008 年 11 月から現職。専門は 疫学。 それでは見解1( ㌻)について議論を始め たいと思います。資料の冒頭にあります山田・ 放影研疫学部長 あります。そのあとは広島大原医研教授、大瀧 小笹晃太郎(おざさ・こうたろう) うなものであったのかを説明していくと時間 1939 年東京都生まれ。慶応大医学部卒。産業医科大 教授、同学長などを経て、2005 年 4 月、放影研副理 事長。同年 7 月から現職。専門は環境医学。 ジョーンズ報告書について放影研疫学部長、小 放影研理事長 慈先生の資料が入っています。最後は広島市立 大久保利晃(おおくぼ・としてる) 大広島平和研究所講師、高橋博子さんの資料と <パネリスト=敬称略> ≪ 12 ≫ ≪ 13 ㌻から続く≫ 99 名からなる部隊について、広島大学や放影研 などが参加して被曝線量の推定計算を行いま し とおり、原爆投下後の経過時間別の線量地理分 た。その結果、大部分の被曝は「誘導放射線」に 布が分かっているので、 投下直後の行動に関し よるものであり、その推定被曝線量は、染色体異 ていろいろな事例を想定して、被曝線量のシミ 常の頻度やコンピューターによるシミュレーショ ュレーションが行われております。次の表は爆 ンで最大 100mSv、全隊員の平均値は 13mSv とい 心地付近に早期に入市した場合の曝露線量の試 う結果が得られています。また、昭和 20 年8月 算結果です。この表では 、 しかるべき被ばく線 から 42 年間にわたるこの 99 名の死亡率調査では、 量になるよう、爆心に極めて近い場所に数日以 全死因とがんに関して、いずれも全国平均と比べ 内にかなりの長時間滞在した条件を示しました。 て差は認められませんでした。 例えば原爆投下の翌日、爆心から 500m の所に (4)このほか、「残留放射線」被曝の調査事例と 12 時間滞在したとすると、広島での「誘導放射 して、寿命調査の一部である早期入市者の死因調 線」曝露量は約 15mSv、 長崎では 3mSv と計算さ 査もあります。これは、原爆投下後1カ月以内 れています。また、もし 1000 mの所に滞在した に、広島・長崎両市に入市した 4512 名について とすると被曝量は僅かとなります。 の 1950 年から 1978 年までの死因調査で、その結 果、死亡数(全死因およびがんによる)が増加し 広島・長崎における早期入市者の被曝線量推定値 ている証拠はありませんでした。原爆が投下され た当日は二次火災のため爆心地付近には近寄れな かった事実を考慮すると、上記の賀北部隊の被曝 量が最大レベルのものであったと考えられます。 (5)「内部被曝」 を考慮した調査としては、広 島 ・ 長崎を通じて放射性物質の降下量が最も多か った長崎市の西山地区の 1969 年、1970 年、1971 年に実施された長崎大学の岡島らとの共同研究結 果があります。これは、まずこの地区で最も被曝 線量が高かったと考えられる地域住民の面接調査 を行い、地元の野菜や飲料水の摂取があるなど、 A この表の被曝線量推定値は、それぞれの爆 「内部被曝」 が高かったと考えられる住民 50 名 心距離に午前6時 15 分から入り、その後 12 時 を対象にしたものです。ホールボディカウンター 間そこに滞在したと仮定した場合の計算値であ で「内部被曝」線量(セシウム 137;半減期 30 る。 年の長半減期の主要な同位元素)を測定した結果 B 2日目は被爆翌日、3日目はその次の日。 について、一部の人達の 1981 年の再測定から推 4日目以降の推定値は毎日ほぼ半減していく。 定した半減期 7.4 年を基に計算した 1945 年から (3)実際に「残留放射線」に被曝した集団を調 1985 年までの 40 年間の積算線量は、男性 100 μ 査した事例としては、NHKによる賀北部隊の調 Sv、女性が 80 μ Sv で、これはWHOが発表した 査報告例があります。これは東広島市の予備役兵 世界の自然放射線被曝量 40 年分の 1000 分の1程 約 250 名により編成された救援のための臨時部隊 度という低い値でした。(以下略) で、原爆翌日の8月7日から 13 日までの間、爆 第3章 「内部被曝」について (略) 心地付近で瓦礫の片付けなどの救援活動に従事し ました。この期間の行動記録が克明に残っていた 2013. 3.22 ≪ 13 ≫ 米国オークリッジ国立研究所の山田ー Jones 報告書の検証要旨=見解1 (要約は編集部) 「残留放射線」に関する放影研の 見解要旨=見解3 (要約は編集部) 2012 年 12 月8日 はじめに~「残留放射線」のデータは本当に考慮 公益財団法人放射線影響研究所 されていないのか?(略) 山田 -Jones 報告書は、1971 年9月から 1972 第1章 原爆放射線による被曝(略) 年 11 月に米国オークリッジ国立研究所(ORNL) 第2章 「残留放射線」による被曝量が原爆放射 で作成された。当該報告書では、原爆直後の放射 線のリスク評価に及ぼす影響 性降下物を含んでいた可能性のある雨への曝露の 放影研は、被爆者など 12 万人を対象とする「寿 有無によって被爆者を二群に分けた。雨に曝露さ 命調査」の結果として、これまで放射線被曝量と れた群に分類された被爆者は、その当時 O RNL がん発生(死亡)頻度の関係を表す放射線リスク で利用可能であった完成途上の遮蔽歴調査記録の を発表してきました。これらのデータは国際的に データセットを用いて、個人単位で同定された。 高く評価され、放射線防護の基礎データとして活 兩に曝露されなかった群の設定は、当時利用可能 用されてきました。このリスク計算には「初期放 であった別の線量評価用データセットを用いて行 射線」による被曝量のみが用いられております。 われた。すなわち、市の南東方向の四分の一の地 もし、 「残留放射線」の影響が無視できないほど 域で雨がなかったと見なし、その地域で被爆した 大きいものであれば、その程度に応じてこのリス 人を非曝露群と定義した。放射線に関連した急性 クデータの信頼性は下がることになりますが、放 症状の発生頻度が、線量評価用のデータセット 影研はこれまでに「残留放射線」の影響が無視で の記録に基づいて、雨曝露群および非曝露群間で きる程度に少なかったと考えられる証拠を以下の 比較された。当該報告書では、急性症状の発生頻 ように提示してきました。 度は雨 I 曝露群で 20 倍高いと結論した。しかし、 (1)広島・長崎に投下された原子爆弾による放 その評価は、(1)対象者の恣意的な選択、 (2) 射線量については、放影研をはじめ多くの研究 曝露の評価に関する異なった基準、 (3)データ 者によって解析されております。このうち、世 源での情報の欠如、および(4)記録の誤分類、 界各地で実施された後年の原爆実験より前の、 という手法上の欠陥によって意味を持たないと考 つまり地球全体が放射性降下物の影響を受ける えられる。 以前で、かつ、 「残留放射線」量の実測が可能で (1)対象者の恣意的な選択(略) あった原爆投下後数年以内に実施された研究結 ( 2)「 雨 」 曝 露 の 評 価 に 関 す る 異 な っ た 基 準 果については、線量評価体系 DS86 の第6章にそ (略) の総括が掲載されております。この大部分の測 (3)データ源での情報の欠損(略) 定は 1945 年8月から 11 月に実施され 、 その内 (4)記録の誤分類(略) 一部は広島地方を襲った台風以前に行なわれた ことは特筆に値します。その他を含めた研究結 果から、 「残留放射線」量は「初期放射線」量の 推定誤差の範囲内にあることが示されておりま す。 (2)この内、 「誘導放射線」に関しては前述の ≪ 12 ㌻に続く≫ 広島ジャーナリスト ≪ 14 ≫ 2013. 3.22 ≪ 15 ≫ 見解2 広島ジャーナリスト ≪ 16 ≫ ったということであれば、それはその通りなの くわからないわけだが、個人ごとに当時、原子 しては両方が同じ条件であってそのうえで黒い 当時(山田さんたちが)どういうふうに比較 雨にあった人の方がいろんな症状の発症が多か の適切性を考えてその集団を設定されたのか全 が非常に高かったということを書き記してあ だが、そこの基になる条件が全く違う集団を比 爆弾から放射された放射線がどういうふうに減 ㌻から 続 く る。しかし、黒い雨にあった人とあわなかった 較していたということが問題になる。 衰してその人が被曝したかを明らかにするた 人を比較する場合には、黒い雨以外のことに関 め に、 詳 し い 遮 蔽 歴、 ど こにいてどういう建物の 中 に い て と か、 ど う い う 建 物 の 陰 に な っ て と か、 そういうことを聴いた人 た ち の 集 団 が あ る。 そ れ は近距離の被爆の方が主 体。 そ う い う 人 に 雨 に あ っ た か、 あ わ な か っ た か を聴いていたのでその集 団の中から雨にあった人 を「 雨 に あ っ た 群 」 (曝 露 群 ) と し た。 一 方「 雨 に あ わ な か っ た 群 」( 非 曝露群)というのは広島 市の東南の方向で被爆し た 人 と し た。 こ ち ら は 先 ほど沢田さんから紹介の あった北西の方向の反対 だ か ら、 そ れ ほ ど 雨 が 降 らなかったと伝えられて いた地域だ。 だ か ら 全 体 を、 個 人 ご と に 雨 に あ っ た か、 あ わ 2013. 3.22 11 ≪ 17 ≫ なかったかを聴かずに比較している。あるいは 群」という形で比較している。そういう不適切 も近距離被爆者もまとめて「雨にあわなかった れども、東南方向で被爆した人は遠距離被爆者 田さんから質問の形で発言を。 が報道されて現在に至っているわけですが、本 1万3千件の黒い雨データがあると知り、それ 本 田 さ ん が、 こ の オ ー ク リ ッ ジ リ ポ ー ト を 偶 然 見 つ け、 放 影 研 と や り と り す る 中 で な比較が原因となって「雨にあった群」での急 本田 オークリッジの山田リポートに関しては 既に説明を受けていて脱毛の率で高いというの 司会 性症状の発生率が非常に高かったということが は集計上の誤りであると、実際 %以上はない 小笹 そうではない。 本田 必ずしも( そうではないと) 。だいたい このドーナツ形のところ? 小笹 ええ。だから対照群の、ここで遮蔽調査 があるというのがどうなっているのか具体的に よく分からないところがあるので。 も急性症状の発症率はあまり変わらなかった。 て比較すると、雨にあった人もあわなかった人 された方の中から遮蔽歴調査を受けた方に限っ それでは雨にあった、あわなかったで比較し たらどうなるかということで、東南方向で被爆 さんの「黒い雨群」として爆心地から1600 まず確認したいのは資料(前㌻・下図)にあ るドーナツ形になっているところ、これが山田 る。 いうことも説明を受けてその通りだと思ってい たためにコントロールの群が非常に低く出たと ール群(比較対照群)の採り方が適切でなかっ あったが、それはそれでよろしいかと。 群が8・7%。差は全然なかったという説明が があるかということを解析した表で、比べてみ と浴びなかった人の間で脱毛率にどれくらい差 のところに入っている広島の黒い雨を浴びた人 た だ い た 表( 前 ㌻・ 上 表 ) 。これはドーナツ形 本田 お聞きしたいのは、最初に山田さんのリ ポートを放影研に持って行って、その時に放影 この辺の比較に関しては近距離の人が主体に なるが、ここで検証しているのはこの報告書は ると黒い雨群が6・6%に対して浴びなかった 研の方からこういう結果でしたということでい 妥当なものかどうかに限っている。その段階で ㍍より離れていて、かつ遮蔽調査があると(い 小笹 ここに出ている数値自体は間違いないと 思う。 ということは私も了解している。またコントロ これは不適切であるという結論を得たと思って うことでいいですか)。遮蔽調査が2千㍍以内 でだいたい行われているということになると、 本 田 こ こ に 詳 し い 雨 の 情 報 が あ る わ け だ が、これは広島の5776人に対しての分析だ が、放影研にある被曝線量がはっきりしている 山田さんの黒い雨調査もドーナツ形の中に入っ ているという理解でよろしいか。 いデータが脱毛に関してあるのか。 8万6671人のすべてについてこういう細か 小笹 文章に書かれているということではそれ でいいと思う。 小笹 これはTD1003というデータベース [2] な の で、 そ の 当 時 の T D の[線 量 評 価 に 使 わ 良されT [2]T D 個人の被曝線量を推定するシステムは1957 年に発表された暫定的な推定方式T Dが最初で、 年に改 65 D と な っ た。 そ の 後、 2002年にそれを再評価してDS が 導 入 さ れ、 となった。 年にDS 65 本田 それに対して比較したのは南東の四角の エリアということでよろしいか。 小笹 そうだと思う。 本田 今回、放影研の急性症状(のデータ)を 再現されたのは(ドーナツ形と四角が重なった) この辺ぐらいになるかと思うが。 86 57 86 02 65 65 広島ジャーナリスト 遮蔽歴の調査をした人は近距離被爆者主体だけ 今回精査した結果、分かったということだ。 68 いる。 本田孝也さん ≪ 18 ≫ れたデータ。これの総数はたしか 万8千しか [3] が入っているファイルにしても、すべて線量評 SSというものがあるが、そのLSSの基にな 司会 要するに放影研がやっている、 万人の 世界でもここにしかない大変膨大な被爆者のL かれている通りに入っているのではなくて線量 った被爆者から聞きとられた時の調査票という 評価の解析のためにコーディング(コード化) 理解でよろしいですか。 言うのはTD1003にしてもほかの急性症状 価のための解析用のデータだ。だからここに書 てのLSSの人に対応するデータが入っている された形で入っている。 た場合にはそれを用いていることもある。 の数字ではないかと思うし、このデータですべ とは限らないと思う。ちょっとそこまで確認で 司会 MSQは日本語でいうと基本調査票と理 解していいのですか。 爆直後雨ニ逢イマシタカ?」というのが読みと 小笹 すべての人にこれがあるわけではなく、 それ以前にやっている調査で十分だと判断され きないが、たぶん前のデータだと。 司会 時期的に若干の違いがあるが基本的には こういうものを基にしていると。資料のMSQ 55 本田 それでは何万人分かは入っているという ことか。 後から 年ぐらいにかけて行っている。 1枚目の右下の方に英語で書いてその下に「原 12 小笹 そうだ。これは原爆被爆者の方に面接で 調査をしているが、1949年ごろから何回か 小笹 そうだ。おっしゃられるのは、すべてに ついてするかどうかということだが、それにつ いてはLSS全体の人のデータを探してやらな ければ仕方がない。 本田 脱毛データがMSQのデータ(下の図) でコンピューターに入力されているのか。 小笹 それはだいたい入っている。 本田 そうしたらMSQの2枚目に発熱から始 まって急性症状がずっと並んで最後は脱毛で終 わっているが、これらのデータも入力されてい るのか。 小笹 入っている。ただ、この通り入っている のかどうかというのが、なかなか難しくて、と [ 3] L S S Life Span Study の 略。 被 爆 者 ら を 対 象 に 原 爆 放 射 線 が も た ら す 健 康 影 響 を 把 握 す る た め の 疫 学 調 査。 1 9 5 0 年 の 国 勢 調 査 で 広 島・ 長 崎 に 住 ん で い た こ と が 確 万人の対象者を追跡調査 60 に分けて行っている。その集大成として 年前 ないと思う。それはLSS(寿命調査)の[人が 万人おられるが、拡大する前 (最終的には) 10 認された人の中から選ばれた約9万4千人の被爆者と約 2万7千人の非被爆者からなる約 12 している。規模と長期にわたることで世界的にも例のない疫 学調査とされる。 2013. 3.22 12 ≪ 19 ≫ nown」というのがあって、ここにイエスと れますでしょうか。 「Yes」 「No」 「Unk 小笹 そうだ。930人は、山田・ジョーンズ 報告書で使用されたと考えられるデータテープ ないということでよろしいか。 をされているということです。 る。その基になっている票についてのやりとり えた人がいてイエスと答えた人が1万3千人い る。ただし、そのうちの590人は「脱毛の程 で930分の646が ・5%ということにな 計が930人となる。うち軽度脱毛が646人 程度・発症日不明の人と脱毛情報なしの人の合 いう形で現在理解されていると思うので、この 射線の特異性が高いものは重度の脱毛であると がかなり下がると考えられている。いちばん放 吐とか非血性下痢等になると、放射線の特異性 ということが一番問題になるかと思う。特に嘔 で「『雨』非曝露群」で脱毛が軽度、中等度、重度、 小笹 どれだけ放射線に特異的な症状であるか %起きている。脱毛に関しては正確な数字 本 田 こ ち ら の 表( ㌻・ 上 表 ) で 広 島 の 5776人を集計すると、脱毛率が8・7%と なっている。放影研が出されている [いう数字に [6] プ レ ス ト ン 論[文 で、 遠 距 離 の 脱 毛 率 が 2 % ぐ らいと報告されている。それと比較すると8・ 7 % と い う の は 非 常 に 高 い と 思 う が、 脱 毛 が 330㍉シーベルトでは起きないはずなのだ が、これほど高い理由はどういうことだと? 小笹 この8・7%にはたぶん軽度の脱毛が入 っていると思う。そこの部分はあまり放射線特 異性がないと現在は考えられていると思う。 本田 特異性がないというより低いということ だろうと思うが。 D. L. Preston 広島ジャーナリスト 放射線特異性は重度脱毛 本田 先ほどMSQ2枚目の急性症状データの 入力についておっしゃったのは、ここにあるT 度0~5%」になっていて、このほとんどが実 答 え た 人、 ノ ー と 答 え た 人、 ア ン ノ ウ ン と 答 Dマスターテープというデータベースのテー 際には0、脱毛のなかった人であるということ あたりの症状がどれだけ放射線によるものであ デー ブルなのでこうなっている。現在はDS だ。 山田リポートの黒い雨群についても同じなのだ が、 1 6 0 0 ㍍ と い う と 広 島 の 場 合、 D S かかわらず発熱が %、それから非血性の下痢 が [5] がとれないということだが、こういった症状は るか。 16 小笹 まあ、そうだ。 本田 放射線によっても軽度の脱毛が起こり得 トを算出する。ここでは1グレイ=1シーベルトにしている。 [6] め、グレイに修正係数をかけて人体への影響の単位シーベル るかという判断はこの聞き取りだけからはなか タベースとなってちょっとこのテーブルが変わ でよろしいか。 で330㍉グレイぐらいだと思うが、それにも 69 エネルギーにより人体の組織・臓器に与える影響が異なるた [4]DS ・5%だから、実際 ・5%あったわけでは ・5%」とあるのは、集計上の誤りを含んだ 限定してみたところ、軽度脱毛のあったものは 「 ( 3) デ ー タ 源 で の 情 報 の 欠 損 」 の と こ ろ に 注3参照 ているということの理由はどのように考えてい 3 3 0 ㍉ グ レ イ、 3 3 0 ㍉ シ ー ベ ル ト で[は 起 きないということになっていると思うが、起き 86 [4] 小笹 急性症状のコードについては急性症状を 使ったのはT Dのころだけなので、それ以後 はコードは変わってない。ただ、対象者がこの 時点よりはLSSの方が増えていることにな る。 1・6㌔以遠でも脱毛、発熱、下痢 23 「 『雨』非曝露群を遮蔽歴調査のある930人に 86 [5]グレイとシーベルト 物質に放射線を照射したとき、そ の物質が吸収する放射線量の単位がグレイ。放射線の種類や 本田 山田リポートに関してはあと1点だけ質 問 さ せ て い た だ き た い。 (放影研の見解1の) 13 65 ついてもそれぞれのテーブルがあるという理解 っている、という説明を受けたが、他の情報に 69 本 田 こ の 9 3 0 人 の デ ー タ は 爆 心 か ら なか難しいのではないか。 1600㍍より離れた所の人のデータですね。 02 65 69 69 るということでよろしいか。 比較とか、そういう報告はあったと思う。 それで本田さんの方は、こういう脱毛のデー タはコンピューターに入力されているんですか ということをお聞きになっていましたが、コン ピューターに入力されていれば何かわかるとい 小笹 そこまではなかなか難しいと思う。最も 本田 山田リポートについての質問はこれくら 適切な指標は重度の脱毛であるということで、 いで。 う思いがあって聞いていらっしゃるのですか。 あとどの程度のものをその中に含めるかという 司会 専門的な話になるとわかりにくいかもし れませんが、私が要約すると、正確かどうかは ことでは、あまり今そういう形では言われてい で、重度がどれくらいかを分析されたことがあ 度がどれくらいの割合で、中程度がどれくらい 多いと思うが、この高いところの脱毛の中で軽 被爆線量が非常に高いところなので当然脱毛も ない、というのが大雑把に山田論文に対する放 山田論文は基本的に言っているところは意味が 形でデータが採られていない。であるからこの 較対象のグループがきちんと比較できるような 黒い雨を浴びた人と浴びていないと思われる比 たものが出てくるのではないかということでご 他の急性期症状と合わせて解析するとまた違っ だなされていないのではないかと思う。それと 含めるとどうなのか、そういう詳しい解析はま 度の脱毛がどれくらいあったのか、中程度まで 別として、オークリッジの国立研究所にあった 本田 先ほど小笹先生も書いておられたように ないと私は認識している。 本田 先ほどデータの方に入っているとおっし 山田論文について放影研が後追い調査をして調 放影研は今のところ高度の脱毛だけを放射線特 ゃったから、1600㍍より爆心地に近い所、 べたところ、要するにデータの統一性がない。 異性が高いということで分析されているが、軽 るか。 り被爆 年後までかかって順次、当時の調査員 票に記入されたもの。これは1962年、つま 今のやりとりでおわかりのように放影研に残 っているデータの基本はこのMSQという質問 く。 どう考えているのか、最初に説明させていただ 引き」という言葉を使われたが、放影研として 質問した。 過去、線量の妥当性という中で距離との 小笹 大瀧 影研の主張であります。 小笹 「黒い雨」情報解析への評価 雨による影響差はない 固形がん死長崎で違い が個別にお話をうかがって記入したものだ。そ ういうことが一つ問題点としてある。 もう一つは黒い雨にあったかどうかについ を全部再点検しようと試み、その時に初めて黒 2013. 3.22 いうのが一つある。もう一つは沢田さんが「幕 そんなふうに疑問をお持ちなのではないかなと 私が理解しているところではみなさんがたは、 ての情報がコンピューターに入力された経緯で 放影研はデータを持っていたのに隠していた、 あ る。 私 が 放 影 研 に 来 た あ と、 2 0 0 8 年 か ら、すべての入力済みのデータに関し、調査票 司会 それでは見解の2 ( ・ ㌻) に入ります。 性質について冒頭、沢田さんの方からも、本田 疫学部長の小笹さんから説明いただけますか。 さんからも触れられましたけれども、基本的に 大久保 その前に放影研の持っているデータの 「幕開け前にの ぞ か れ た 」 14 15 17 ≪ 20 ≫ ≪ 21 ≫ は検証していなかった。本田先生が放影研に来 について)正しいか正しくないか、まだ私ども ろだった。だからその時には( 「黒い雨」情報 作業がほぼ終わって内部的に集計を始めたとこ つけられたころに、本当に偶然にも、入力する 田・ジョーンズリポートが本田先生によって見 ターに入れる作業を始めたのである。そして山 い雨の情報を調査票から読み取ってコンピュー れるのは非常に私としては心外なので、この説 ちんとやっていくつもりで、隠していたと言わ なさま方にお伝えするということは今後ともき りだし、正確性の確認が終わった時にそれをみ 摯に継続的にこれからも全部研究していくつも 的な研究をする機関だ。あるものについては真 らお預かりしている大事なデータを使って科学 私どもは先ほど来ご指摘のように被爆者か たと答えられた方が広島で1万1667人、長 2万9270人、長崎で2万3678人、あっ 人。雨にあわなかったと答えられた方が広島で 訳 は 広 島 5 万 8 5 3 5 人、 長 崎 2 万 8 1 3 6 総 計 が 表 1 の 右 隅 に あ る 8 万 6 6 7 1 人。 内 めに線量がわかっている人に限ってやる。その していかないと雨の影響もわからない。そのた ことがわかっているから、それできちんと調整 線量が高ければがんになる危険性が高いという とれていない人、その二つを含めて質問してい あるいは覚えていないという人と本人の情報が は本人にお聞きしてわからない、たぶん忘れた、 崎で734 人。わからない(とい う人) 、これ 明だけは最初にさせていただいた。 それでは分かったことについてのデータの説 明を小笹の方からします。 られていろいろ質問された時に、うちの職員が その検証中のものをご覧にいれたわけだ。そし たらそのまま報道機関に出てしまったという経 緯があって、私どもとしてはちゃんと確かめて 小笹 引き続いて「基本調査票(MSQ)等の から発表するつもりでいたのが、そういうこと 『雨』情報を使用した解析」について説明させ きではなくて私どもとしては幕を開けたつもり で先に出た。言葉のあやかもしれないが、幕引 る死亡率、あるいはがんになる確率というのが るための疫学的な指標として死亡率、がんによ いろんな健康影響を評価するにあたり、いろ んな指標があるが、長期の健康の影響を評価す 高かったかというようなことを比較している。 がんになりやすかったか、がんで死ぬ危険性が ていただく。広島および長崎の寿命調査の対象 指標で、後ろに数字がたくさん並んでいるが、 亡する危険性が高まったのかということを示す の過剰相対リスクというのはどれだけがんで死 ( E R R ) と い う も の を 評 価 し て い る。 こ こ で それからわからないという人の過剰相対リスク 雨にあわなかった人に対するあったという人、 聞きした。 その結果、雨にあった 人がその後、 標として「No」に対する「Yes」、つまり、 者の方から雨にあったか、あわなかったかをお ゼロというのが危険性が上がらないことで、例 %危険性が高くなっ そ の う え で「 解 析 対 象 者 と 方 法 」 の 評 価 指 はないうちに幕の下をのぞかれたというのが実 最も重要なのでそれで評価をしている。どれだ えば0・1という数字は る。 情だ。 けの人数の方ということだが、広島、長崎合わ 大久保利晃さん せて直接被爆者の方、つまり被爆時に市内にお 険性が少なくなったということ。そういう形で たということを示す。逆にマイナスの数字は危 %危険性が増えた 0・1なら 50 そこでいろんな要素を考えないといけない。 と評価している。 %、0・5なら られた方が9万3741人おられる。その中で 10 放影研で評価している直接被爆による個人の放 射線被曝線量が分かっている方について評価を す る。 と い う の は、 当 然、 個 人 の 直 接 被 曝 の 10 広島ジャーナリスト ≪ 22 ≫ 直接の被曝線量は入れているし、被爆時の年齢 罹患、つまりがんになったかどうかの数。また、 イナス5%からプラス1%までとなり、これは る。 Y e s と 答 え た 人 が 0・ かを除いたすべてのがんを言うが、この場合は 総 固 形 が ん、 つ ま り 白 血 病 と か リ ン パ 腫 と それまでに本人に会えなくて「雨」に関する情 になっているから、 報が聞けないまま亡くなった方がいる。そうい 調査が 年までかかっているからだが、従って、 始まりが 年になっているのは、基本調査票の 表2と表3はそれぞれ1962~2003年、 有意な差ではない、ゼロと変わらない。増えて 歳の時、 とかも、若い人ほど影響が強いだろうというよ 歳の時、 表4は1962~2005年で区切っている。 も い な け れ ば 減 っ て も い な い と い う こ と に な 歳の時、 うなことも考えて入れている。長年にわたる追 跡なので、 歳の時、それぞれの年代でがんになったり死亡 したりする確率は変わる。そういったことを考 慮したうえで、雨による影響を評価しているわ う人はどうしても「不明」ということになって 増えもしなければ減りもしない。白血病につい その確からしさというのはマイナス %からプ %まで広がっているので、 %プラスの 32 けだ。 %増えたように見えるが、 ては0・ 、つまり 00 しまう。不明だったから亡くなってしまったと いうのではなく、早く亡くなってしまったので 不明という形で処理されてしまったというか、 ラス 13 沢田 素朴な質問だが、過剰相対リスクという のは有意な差として判断する基準はどれくらい 13 40 60 その範疇に入ってしまったわけで、そこの評価 方に振れているといってもそう確かなことでは 問的レベルではどうなのでしょうか。 小笹 それは、 いわゆる確からしさということ。 はできなくなる。それで、一応 年以降に限っ なかろうという判断になる。 同 じ よ う に 長 崎 の 方 を 見 る と、 総 死 亡 に 関 例えば0・1、つまり %多いという結果が出 て集計している。ただ、雨にあったと答えた人、 あわなかったと答えた人に関してはもちろん、 し て は 0・ 、 つ ま り %。 こ れ も 有 意 と は %とか、学 13 30 の数値なのか。例えば5%とか、 62 たとすると、その数値がどの程度確からしいか %かもしれない。そういう可能性 その答えは全期間有効というか、評価の対象に %増であり、 %信頼区間の下側 が0・ とプラス方向に振れている。これは4 、つまり 言えない。問題になるのは総固形がんで、0・ 全 期 間( 1 9 5 0 年 ~ 2 0 0 3 年 ) の 死 亡 なるので記載している。 11 %以上の確からしさということで、総固形がん 95 に関しても同じだろうから、 年以降の広島に 30 を考える。それは、ひょっとしたら9%かもし れないし、 があるわけなので、その範囲がどの程度まで広 %くらい。全体に起こり がるかということで確からしさを評価する。一 応その確からしさが %くらいの範囲を、デー 11 ついて言 えば、死亡全体の「No 」、あってい と言われるわけだ。次に白血病だが、700人 による死亡の危険性は増しているのではないか %ということだが、 %信頼区 広島に関しては総固形がんも白血病もYesと さ ら に 表 4 の が ん の 罹 患 に つ い て 見 る と、 判断できないということになる。 間の計算は不能となっている。数が少ないので 、すなわち に対して死亡数はゼロ、ERRはマイナス0・ ないというところのERRは0・ 。ここを基 準にするのでゼロ、つまりあわなかったという 人に対してあった人がどれだけ増えたかを考え ると、これが基準で即ちゼロになる。従って %信頼区間というのも表では横線を引いている ように、出 ていない(書かれてい ない)。これ 84 %の信頼区間という形で示す。そ 04 意ではない。それぞれ総固形がん死亡と白血病 、つまり 2%減っていること になる。 答えた人がマイナス4%とマイナス3%で、有 に対し「Yes」、あったと答えた人はマイナ 84 うる可能性のうちの 30 62 その %信頼区間はマイナス0・ 、つまりマ ス0・ 95 タの右側で の下側がゼロを超えない、またがない、つまり マイナスの値にならない場合に、その結果は確 ㌻)を見てください。 「雨」曝露の影響を示 そ こ で、 こ の 結 果 に つ い て は 表 の 2、3、4 からしいと判断していく。 ( しているもので、表2は広島、表3は長崎の死 亡数、そして表4は広島・長崎を合わせたがん 95 10 95 95 62 12 95 00 05 02 2013. 3.22 77 50 10 61 95 14 死亡と同じ結果になる。しかし、長崎に関して 悩むところではある。がんの罹患と死亡で、こ ェブでも公開している。それに、雨にあったか、 る。先生もご承知だと思うが、その表自体はウ 従って、ここをどう判断するかということで、 と の 観 察 人 年 と 発 生 率 の テ ー ブ ル を 作 っ て い れだけ結果が違うということはいろんな理由が %と減って いるが、これも有意でなく確かではないという と出しているが、そこでは直接被曝線量のカテ %の超過になっている。一方、が と こ ろ が、 長 崎 の 場 合 は 総 固 形 が ん で 死 亡 のリスクは %になる。片や雨にあわなかった人の 率が高くなる。あまり正確ではないかもしれな は大体 致死率は %。これもあまり正確でないかもし れないが、いわゆるχ自乗テストをやってみる 広島ジャーナリスト は、総固形がんの罹患はマイナス ことになる。白血病についても2例あるが、マ 年に小笹先生自身の論文にあるも 小笹 まったく同じ方法だ。 大瀧 それに関しては問題があると思っている が、後で吟味することにして、まずこの解析結 のをそのまま使っているということか。 それとか、 大瀧 ということは、 年にプレストンのLS S報告で紹介されているリスクがあるわけだ。 えてやっているわけだ。 じもので、そこに「雨」の因子というものを加 等で被曝線量を評価しているものとまったく同 ここで出している数字は今まで寿命調査報告書 考えられるが、それらをすべて勘案したうえで、 あわなかったかを加え解析している。だから、 本田 大久保 年間観察すれば1万人年に対して、どれだ 大瀧 今、考えなくてはいけない要因としては、 んは無視すればというか、それが仮に問題がな 到達年齢や被爆時年齢、性別、被曝線量、それ いとすれば超過リスクは特に認められなかった 果自体についていくつか指摘したい。広島の場 いうものを計算しているのではないか。 えずは初期被曝線量といったようなたくさんの んの罹患に関してはなかった。これを同時に考 けがんの罹患や死亡が発生するかという数字を 小笹 いや、大瀧先生の考えられるモデルで使 う言葉と疫学でのこういうことに対する考え方 要因を調整しながら計算していかないといけな 合は先ほどのERRの計算方法の妥当性うんぬ は根本的に違う。我々の疫学ではそういった期 い。しかし、そんな単純な計算方式では出てこ えてみると、長崎で雨にあった人というのは比 大瀧 だから、その発生率を計算する場合にど んな方式というか、モデルを使って計算された ゴリー、性・年齢別のカテゴリー、広島・長崎 というのはその通りだろう。 待数というのを先に計算するのではなくて、放 ないと思うが、いかがか。 に、ほかの線量もあるかもしれないが、とりあ 射線量に応じたカテゴリーごとに発生率を計算 小笹 これの実際のやり方については、LSS リポート、寿命調査の報告書を第 報、第 報 のかということがこの説明ではわからない。 別のカテゴリーなど非常に多くのカテゴリーご 14 小笹 それは基本的に観察人年、例えば1千人 93 13 30 61 し、その比較を行う。 いが、簡単に計算すると雨にあった人の致死率 分子に持ってくるという発生率の計算になる。 を イナス %ということなので、これも有意では ここではそういうリスクは高くなっているとは ない。 そういうかなり相反する結果が出ている。 判断できないだろうというのが我々の評価だ。 がん死亡率をどう見るか 司会 では、見解2について大瀧さんから発言 を。 07 18 大瀧 ERRというのを計算する時に期待死亡 数、あるいは死亡についての相対的な期待値と 10 12 25 長崎3割増どう説明 真実か判断悩ましい ≪ 23 ≫ ≪ 24 ≫ と1%有意だ。これは無視できない結果の差だ と思う。もし、このまま解釈すると、長崎の被 爆者で雨にあった人では治療効果が非常に低下 していたということになるのではないか。小笹 分布はほぼ一緒だったということだ。 は関係がないと考えられている普通のがんとが 線と関連の強い甲状腺がんと必ずしも放射線と 小笹 だから、この100人なり107人なり について、どういうがんだったかを見て、放射 ものまで掘り下げないといけないのでは。 ーではなく、どういう部位か、がん種かという 大瀧 たぶん、これをもっときちんと把握しよ うと思うと、総固形がんというようなカテゴリ しているので比較できるようになっている。 なる観察人年についても転出割合に応じて調整 断に悩んでいる。 のか、あるいは何か見かけ上のことなのか。判 いては、正直言って説明に困るわけだ。真実な 長崎のこの罹患と死亡の二つの結果の違いにつ はいつも検討しながら解析を進めている。 特に、 方法がどれくらい信頼できるもので、データが しかし、大事なのはデータそのものが、調査の にすると、すぐ有意差だ何だという話になる。 になっているだけだ。 かるように、回答は非常に単純なイエス・ノー だ け ど、 申 し 上 げ た よ う に 総 合 的 な 判 断 を どう作られたものであるかということを私ども それをいったん集計して数字をこういう表 大瀧 とにかく、雨にあったか、あわなかった でこれだけ傾向が違うのは何か理由があるはず なので、ぜひ続けて解析、検討をお願いしたい。 したときに、すぐにこれは雨の影響があるので なる。そこが疫学の専門家として難しいところ。 広げた立場からいろいろ検討するということに はないかという発想はしない。もう少し視野を 小笹 はい。700人という非常に少ない数な のでいろんな意味で偏った集団だ。だから、後 出て数字となって表ができてしまうと、今度は 考えながら調査研究している。いったん答えが の取り方をするのが一番いいのか、常にそれを ている人々を注意深く観察して、どういう情報 の専門家なので、その立場からいつも生活をし 大瀧先生は統計学の専門家だが、私どもは疫学 でいろんな要素による因子を加えているが、そ れで調整できない部分があるのではないかとは 先生はどうお考えか。 小笹 非常に難しいところだ。今、単純にこの 考えている。 数字だけを見るとそんなふうに感じられるが、 大久保 ちょっと付け加えさせてもらうと、大 瀧先生は、雨にあったとマルを付けた100人 がんの罹患に関しては広島、長崎ではそれぞれ 広島県、 長崎県と県内のみの追跡になっている。 について、そこまでは百パーセント信じて発言 従って、県外に出た人でがんになった場合は、 なさっているが、私どもが一番危惧していた点 ったのを見たのか。質問票を見てもらえればわ びて濡れたのか、あるいは家の中にいて雨が降 い。 ちとは少し違うということをご理解いただきた 実はよくわからない。実際に降ってきた雨を浴 それぞれの県ごとにがん登録事業をやっている はそれだ。要するに、当時のインタビュアーが 大瀧先生の世界になるわけで、どこでこの問題 ので把握できない。だから、 その差については、 一人ひとりに会ったときに、雨にあったという を判断していくかというのは大変難しい。 み な さ ん 方 が こ れ を お 聞 き に な っ て い て、 ここまで言ってよいかどうかわからないが「雨」 ことの定義をどういう聞き方でしているのか、 私どもと問題を感じている場所が、本田先生た にあった人の方が県外へ転出したケースが多い のでないか。そうすると当然、母数となる観察 人年が違ってくると思われるが、そこは母数と 2013. 3.22 大瀧慈さん ≪ 25 ≫ 人、 で、 年以降全期間を見通すと、死亡は103 %増ということで有意ではないというこ とになる。いろいろ区間を限って解析してみる つまり、長崎の黒い雨を受けた人からは総固形 と、さまざまにばらついた結果も出てくる。こ がんの死亡について影響がはっきり数字で出て いる。これをどう評価するか。それをめぐって ういうことも考慮の中に入っている。 場、見方の相違ということを言われたが、それ はまったく当たらない。我々も数字が出てくる 放影研の大久保、小笹両氏と大瀧先生との間で 大 瀧 大 久 保 理 事 長 は 疫 学 者 と 統 計 学 者 の 立 過程を重視しているので、その誤解は解いても 議論が交わされたということです。 うに、不明という人については亡くなるまでに 情報が得られなかったということによって、こ 大瀧 年スタートと 年スタートを比較する と、3例しか違わない。ほとんどが 年以降の 潜伏期間を考慮すべき らいたい。 司会 会場のみなさん、今のやりとりは資料の 小 笹 今、 年 ~ 2 0 0 3 年 だ け を 見 て も そ 表 3( ㌻ ) 「 雨 」 曝 露 の 影 響( 長 崎、 死 亡 ) う な る わ け だ が、 そ の 左 側 に 1 9 5 0 年 ~ 62 というところ。 その総固形がんのYesの項で、 2003年の数字が出ている。先ほど言ったよ とあ %信頼区間」はここだけマ ERR(過剰相対リスク)の数字が0・ る。その右側の「 こ れ は そ の 表 れ だ と 思 う。 年スタート と い う か、 結 構 長 い と 言 わ れ て い る が、 露 か ら 死 亡 に 至 る ま で の 期 間、 潜 伏 期 間 死亡。がんというのは、放射線被曝の場合、曝 62 年以降の結果の方が、 を導くものだと考える。 立てることはしない。それはむしろ誤り 出ないだろうとかいう形で観察モデルを じめそういうものを考慮して、その間は こういうリスク評価をするときにあらか 先 生 は 潜 伏 期 と い う こ と を 言 わ れ た が、 はある。甲状腺がんなんかがそう。大瀧 5年たってくるとやっぱり出てくるもの で も な か な か な ら な い と は 思 う が、 4、 小笹 もちろん放射線を浴びて1カ月や 2カ月でがんはできないし、1年や2年 確な期間ではないか。 がんと曝露との関連性を評価するのに的 ることだ。むしろ で有意な差がないというのは十分ありえ 50 30 イナスになっていない。 明らかに有意差がある。 の期間のリスクが高くなるというわけだ。そこ 62 62 95 広島ジャーナリスト 22 50 50 14 ≪ 26 ≫ ったように普通のがんでも出てくる可能性はあ 1 9 5 0 年 で 既 に 5 年 た っ て い る の で、 今 言 上がっていることは事実だ。だから、大瀧先生 を見てくると、かなり早期でも有意ではないが、 て診断される、あるいは治療を受ける。その段 だが、今から過去にさかのぼって期間別のもの 階での把握を確実なものにすることで、そこは 実際、私どもはそういう仮定抜きに被爆後、 っているとはいえなかっただろうと当然思う。 できないというのはその通りと思うが、通常、 る。 そ う い う も の も 含 め て、 大 瀧 先 生 が 先 ほ 補っている。 がん患者は大きな病院へ行って精密検査を受け ど我々のモデルは間違っていると言われたが、 が言われたこと、そういう考え方でもって解析 とでは、例えば5年間でどれだけ違うか、次の る。罹患率だが、これは死亡統計に基づくもの っとおかしいんだという説明は納得できかね はっきり出ているにもかかわらず、これはちょ まったく立てずにあるがまま観察する。 被爆後、 本田 私は長崎から来ているので言うが、長崎 の黒い雨データに関しては3割増という数値が 実なものになるが、このように相反する結果に があるので、両方の結果が一致すれば非常に確 て考え、がん死亡、罹患のどちらも長所、短所 田先生もご承知かと思うが、そうした点も含め 亡診断書の精度はそう高くない。このことは本 として言うのも何なんですが、日本における死 そ れ と、 最 後 の 死 亡 診 断 書 と が ん 登 録 の ど 5年間でどれだけ違うか、さらにまた5年間で ですね。県医師会とか市医師会とかから調査が なると判断は難しい。 ちらが精密かということだが、これは私も医師 どれだけ違うかということを比較していくわけ 来るもので、私のところにも来るが、忙しくて モデルを立てる方がむしろ誤りになると思う。 である。この間は発生しないはずだというよう なかなか書いて出せないのが実情。だから、死 我々は観察的な疫学においてはそういう仮定を なことはまったく考えない。結果として、後で 亡率のところは死亡届というか、戸籍から拾っ に関しては大瀧先生が言われたように、これで ない。しかし、この会場にいる人たちの4倍く れば700人というのは確かに少ないかもしれ そ れ で、 こ の 被 爆 者 で ど う い う 状 況 で が ん 放射能をたくさん浴びた人とそうでなかった人 発生したかということの観察はされる。 本田 数が少ないからあてにならないのではな いかという考え方も聞いたが、 万人から比べ は長崎で黒い雨を浴びた人はがんになったらほ らいの数だから、700人というのは通常、医 ているのでかなり正確だと思うけれど、罹患率 とんど死ぬということになっている。罹患率に 学部なんかでやる統計なんかと比べてそんなに が発生してきたかということについてだが、や 有意差がなかったからといって、死亡率の方の 少ない数ではないと思うが、いかがか。 年代でも高線量被曝者ではリスクは高く なっていると思われる。ただ、それは有意では 有意差をどうこうとは言えないと思うが…。 小笹 言われる通りだ、数からだけ見れば。た だ、その人個別、すなわち個人の被曝線量だが、 はり ない。その時点で、その結果だけを見て高くな 小笹 そのがん罹患の把握方法の精度をいかに 担保するかというのが、疫学調査でがん罹患の 広島、長崎の地域がん登録は 年に広島、 年 て調整してやっていく。さらに、そういう面が 被曝時の年齢はどうか。そういったものをすべ に長崎で始まった当時から、出張採録という形 いう系統的な偏りというものをここでは除外で んの症例の登録をさせてもらっている。あと、 いるかとかという問題も入ってくるので、そう それ以外の人たちと比べてどのように分布して 58 で医療機関のカルテを拝見させてもらって、が 57 診療所で患者さんを診ていてとてもがん登録は 2013. 3.22 12 把握の際に重要になってくる。そのためにも、 どれだけ直接の被曝線量があったか、それから 小笹晃太郎さん 50 ≪ 27 ≫ けだ。 きていないのではないかということも考えるわ 広島と同じだと思うが、400㍉シーベルトと きた途中で雨を浴びた人もいると思う。これは った集団の追跡結果がどうであったかというこ しているので。だから、先ほど来、この雨にあ 小笹 そのこと自体はかなり多い量だと思う。 実際、西山地区の被曝線量はかなり高い値を示 いう線量は無視しうるほどか、直接被爆の線量 と比べて。 ㌻ ) を 見 て ほ し い。 長 崎 の 放 本田 見解3の方にも関係してくるが、私から 長崎の3割増ということについて続けて質問し た い。 資 料( [7] の第6章からの引用になるが、長崎で ルトの被曝に起因するかしないかということと とをいっているわけで、それが400㍉シーベ の記者会見の資料の中から西山地区の近辺を拾 は、残念ながら議論としてつながらない。 ㌻の)上の表にあるように ~ ㌻・ 下 表 ) 。 そ れ で、 西 山 地 区 の 被 ってみると、大体地点がはっきりしている人の わ か る( 曝線量は( 42 年9月 日から 月6日まで長崎、 月3日から7日まで広 10 最終報告書は 年に機密解除となった。 島 市 内 に 入 り、 残 留 放 射 線 や 被 爆 者 の 健 康 状 態 を 調 査 し た。 10 [7]マンハッタン調査団 原爆製造に携わった科学者らでつ くる「マンハッタン管区原子爆弾調査団」のこと。1945 中には西山地区自体の住民もいれば、避難して 区を中心とした所に雨を浴びた人が多い。その と相当高い線量になのではないか。その西山地 と比べてみたとき、400㍉シーベルトという 識だったかもしれないが、今の福島の原発事故 昔は直爆と比べるとそんなに高くないという認 こ の 点 が 見 解 3 に も 関 係 し て く る こ と で、 る。 算すると約400㍉シーベルトということにな レントゲン、生涯被曝線量だ。シーベルトに換 25 25 95 度含んでいるかはわからないから、何とも言い ちだけなので、先生の言われた人たちをどの程 こちらで把握している寿命調査対象集団の人た ないのかなと思う。死亡なり、が ん罹患なり、 いない。ただ、そこにいた人全員にはなってい たと思うが、今私はおぼろげな記憶しか持って 小笹 LSSの中で、その西山地区の人たちだ けを特定しての調査というのは過去に何かあっ ない。 がん死亡率がどうかという統計調査はされてい う少し増えると思うが、そういう所の人たちの 約600人の住民がいた、近隣と合わせるとも ンター(WBC)で内部被曝が証明された時に も。西山地区に住んだ人のホールボディーカウ るということだから。水掛け論やっているより 雨を浴びた人の半数近くは西山地区で浴びてい ほぼ半数がこの地区の近くで浴びていることが 43 本田 言いたいのは、3割増というのはあって もおかしくないのではないかということ。黒い 黒い雨を浴びたという人の浴びた地点。一昨年 らDS 査結果から示したもの( 射 性 降 下 物 の 分 布 を マ ン ハ ッ タ ン 調 査 団 の[調 ㌻・中図 ) 、それか 25 25 86 10 広島ジャーナリスト ≪ 28 ≫ うことにはならない。 ようがない。 大瀧 これも先ほどの続きだが、観察期間をど 大久保 人は1回しか死ねないので、もし 年 う設定するかというのは非常に重要な問題で、 後にがんになるはずだった人が別の理由で ~ 年後に亡くなってしまうと、その症例は観察 聞かれないで放置されている人が相当いて、不 明ということで済ませている人もたくさんい しないといけないのかもしれないし、特殊な時 できない。だから、それもモデルに入れて計算 はず。一昨年の記者会見のときにも言ったが、 ったら、もっときちっとした聞き方をしていた ABCC・放影研が最初から研究するつもりだ もし黒い雨というものに対する健康影響を る。そういうデータだということだ。 それだけ時間的な構造が複雑になるので、やや 間帯だけを取り出してきて、そこで比較すると もちろん長ければ長いほどいいが、長くすると こしいモデルを使わざるをえない。極端な例を 、 年は計 年という期間を経過してやっと差が か、答えは明らかでないのではないか。それか ら考えると、原爆被爆者の場合はアスベストの 被曝ほど極端ではないにしても、それに近い背 景がありうるのではないでしょうか。 沢田 また一つ素朴な疑問ですが、長崎の ~ 2003年の総固形がんの過剰相対リスクが %とという結果が出ているのに、先ほど大久保 る姿勢ではなかったのではないか。従って、今 までコンピューターにも入っていなかったデー タだ。だが、いろいろ社会的関心が高いことも 年になって初めてコンピュ あり、放影研の持っているものはすべて入れた さんは「雨にあったかどうか」の質問が簡単で、 方がよいと考え、 に信頼性があるかどうか疑わしいと言っている をして出てきた数字なのに、そもそも質問自体 うようなことを言われた。これは放影研が解析 うことなのかと悩むことはよくある。そういう 有意なものが出てきたとき、これは一体どうい きているが、うっかり集計したあとでこういう 私 も た く さ ん、 い ろ ん な 分 野 の 研 究 を し て ーターに入れた。 ように聞こえる。そういう自己否定的な姿勢よ ことがないよう、放影研では研究のデザインを とても信用できるかどうか、わからない、とい りも、むしろこの解析結果についてどういうこ を決めてから、研究に着手するような優れた仕 立てて証明すべき研究の対象は何かということ とはできないのでしょうか。 組みを持っている。 となのか、さらに掘り下げて研究するというこ 大久保 お気持ちはわかる。私だってできるこ とはしたい。ただ、冒頭申し上げたように、ま うな「黒い雨」についての解析をすることを目 しれないが、 年、 年とその人が亡くなるま で全員について追跡すればわかることだ。従っ 放 影 研 と し て は、 本 日、 お 見 せ し て い る よ たこれまでの記者会見でも何度もお話してきた 的にしていたわけでなく、今後いろんな研究目 年だけでは出ないかも ことだが、この黒い雨の情報については、私ど 的で解析をしていくうえで参考資料にしようと 年、 もは当時調査した時の状況を詳しくは知らない 思ってコンピューターに入れていたのが突然、 30 60 明する。最初の て、この放影研の寿命調査もすべての人を最後 が、少なくとも「雨にあったかどうか」を全然 小笹 アスベストの場合は確かに曝露されてか ら非常に長い期間が要るが、曝露されてから亡 これはあくまで被曝線量をいろいろ推定する 考えてもらうとわかると思うが、例えばアスベ 、 30 まで追跡させてもらうということで進めてい 50 20 くなるまでの期間を観察すれば、それは必ず判 ん承知しています。 ときの傍証、参考資料とするために聞いたまで 、 、 年たって出て ストを被曝した場合、非常に長い時間を経て初 いうのは具合悪い。ただ、単純な方法ではなか めて出てくる。 中皮腫という非常に特殊な腫瘍。 なか難しい。それで、今、私が言ったこともそ 20 40 で、そもそも黒い雨について突っ込んで研究す 30 う簡単に解決できることではないことももちろ このアスベストは被曝して くるのが普通。そうすると、それまでの い。 群としなかった群を比較しても事実は出てこな 年間、いくら観察してもアスベストを被曝した 20 算に入れた方がいいのか入れるべきでないの 30 62 30 20 30 20 出てくる。となると、曝露直後の 50 る。その意味で、最初を省いた方がいいとかい 2013. 3.22 08 40 も困っているというのが実情。大瀧先生、本田 が、ありのままをお目にかけているわけで我々 何も言えないというのは申し訳ないとは思う 田さんが今言われたようにこんなものが出てき なかった人同様にかかってきているはずなの の影響、不具合というのは雨にあった人、あわ 単すぎるというか、稚拙な面があるにせよ、そ 研究であって、確かに黒い雨にあったかどうか で、やってみたわけだ。 だ か ら、 確 か に 有 意 な 差 が 出 て い る の に、 の聞き方が研究の土俵にのせるにはあまりに簡 て解析しない手はないでしょうと言われたの で、 そ れ ほ ど 気 に す る こ と は な い の で は な い 取っているものと言える。ある意味で前向きな に調査されているものなので、前もって情報を が一番気になる。 けに聞いてしまったという可能性がある。そこ まにしているということは、何人か偏った人だ だが、こんなにたくさんの不明の数を残したま 調査員がいろんな状況で訪ねていって聞くわけ 入っていない素直なデータだから、言われる通 大久保 それはその通りだと思う。結果が出る 前に聞いたものは思い込みというようなものは い雨にあったかどうかという情報は、 年以前 先生からも何かいい知恵があればうかがって次 か。つまり、雨にあったかどうかの違いは素直 司会 続いて三つ目の見解、 「『残留放射線』に 関する放影研の見解」 ( ・ ㌻)に移ります。 見解は第1章、第2章、第3章で構成してい る。第1章は「原爆放射線による被曝」 について、 も理解していただこうと考え、執筆したものだ。 がこの見解だ。研究論文ではなく、一般の方に 心配には及びません」ということでまとめたの い。誤解や疑義をはさまれてしまう。そこで「ご 研究成果の信頼性が損なわれてしまいかねな このままでは、放影研がこれまで発表してきた 大久保理事長に説明をお願いします。 13 確かに、私ども放影研のリスクデータは残留 放射線の被曝線量を考慮していない。このこと 考えいただきたい。 は大きいものなのか、それともある程度無視で 放射線は考慮されていないが、それによる誤差 射線のリスク評価に及ぼす影響」について説明 を記者発表した日に、この見解も同時に発表し を理由に「放影研のデータは福島原発事故では できない」と解説されるケースまで出ている。 放影研が今まで社会的に公表してきたリスク する。ここでは、放影研のリスクデータで残留 この見解を発表したのは、放影研のリスクデ ータには残留放射線の被曝線量が考慮されてい きるものなのか、ということを説明している。 たから。 ないことを理由にいろんな批判があるからだ。 使えない」とか「リスクデータそのものが信頼 リスクデータというのは、 「何㍉シーベルト被 広島ジャーナリスト 脚光を浴びてしまった。そして記者会見で、沢 のステップに行くつもりではあるが、はっきり に出ていると見る方がいいのではないかと私は り。その意味で価値はある。ただ、問題なのは 言って今は手立てがないというのが現実だ。 思う。 12 62 大久保 高橋 大瀧 また付け加えさせてもらうが、今回の黒 50 大久保 資料の日付が「 月8日」となってい 曝すると、がんが何%増える」といったように、 一般的に説明した。時間の関係で省略する。第 るのは、 「黒い雨」データの解析結果(見解2) 放射線の人体への影響を数値で示したものとお 2章の「『残留放射線』による被曝量が原爆放 12 「残留放射線」への見解 精緻なデータがない 年代研究打ち切り ≪ 29 ≫ ≪ 30 ≫ 計算した。その推定被曝線量は最大で100㍉ たい。 データは、あくまで集団としての平均値。同じ 彼らは爆心地付近でがれきの片付けなどに従事 ㍉ シ ー ベ ル ト だ っ た。 した人たちで、誘導放射線に被曝した人たちの ータを示してその平均が統計学的に有意かどう ている。平均するとこういうところ、というデ 集団を観察して、その集団の中での平均を出し 人、弱く出る人、さまざまだ。放影研はいつも もいる。ある環境要因に対して反応が強く出る 現れない人もいる。がんになる人もならない人 ということで被曝線量を計算した。このように を放射化してできるもの(誘導放射線)、おお され地面や建物にあたってそれを構成する原子 各地で泥を採取して、その中の降下物の線量を 資料の表( ㌻)を見てほしい。誘導放射線 次 は 降 下 物。 「黒い雨」やチリとして地上に に関して、投下何日目にどこに何時間いたか、 舞い降りてくる。いくつか早い時期に、実際に まかに2種類ある。 測定したケースがある。 なかった。 が、その被曝線量は、そんなに大きな数字では 中では最も被曝量の多い人たちと推定される シ ー ベ ル ト、 平 均 値 は 性降下物)、爆発直後に中性子線が大量に放出 100㍉シーベルトに被曝した人が千人いたと 残留放射線には、黒い雨を含めた放射性物質 しても、人間の体だから、症状が現れる人も、 が空中から時間をかけて降りてくるもの(放射 かを申しあげており、私たちのリスクデータは 分 例えば原発作業員の方の被曝線量を管理するに にどこに何時間滞在したのかが分かる行動記録 ている。一人ひとり量を計算するには、何日後 は、平均値で反応する人もいるのだから、 また、長崎市の西山地区では、被爆後 年余 りたってからの調査がある。西山地区では、当 あくまで平均値として使っていただいている。 誘導放射線についてはおおよそのものはわかっ 13 人、弱い人がいる。爆心から同じ距離でも、遮 る、といった指摘がされるが、脱毛にも、強い 記者会見などでは、直接放射線量が少ない爆 心から遠く離れたところでも脱毛した人がい ている。 いけば問題ないだろう。そのようにして決まっ けて、それで1㍉シーベルトを目標に管理して な生活パターンがあるのだから、安全係数をか クデータから計算して、強い人弱い人、いろん 場合、あくまでもそれは目標値。放影研のリス 福島で被曝線量の目標が1㍉シーベルトという たとえば、NHKの方々が見つけた「賀北部 隊」の調査報告がある。東広島で退役軍人を召 ていないので、使っていない。 ら同じように正確な位置情報を得ることができ 憶がはっきりしない人もおられ、すべての方か に火の中を逃げまどわれたことを考えると、記 記録を聞き出すことができていないから。必死 9万3千人について、均一な精度で直後の行動 では、なぜ(放影研は)その数値を使わない のか。放影研が持っている被爆者の方のデータ きる。 あれば誘導放射線の被曝線量については計算で いて、空気中を伝わってきた放射線が、土壁で 向いていたのかまでつかんでいる。それに基づ 私たちは、直接線量については非常に緻密に 計算している。位置に関しても、それぞれに被 た。 量の千分の1くらいの非常に低い数字になっ 機構)が発表している自然放射線による被爆線 セシウムだけで計算すると、WHO(世界保健 て い る の で ヨ ー ド は 測 定 で き な い の だ け れ ど、 残っている降下物からの体内取り込みを見る目 時から畑で野菜を栽培していて、自家消費して 蔽状況などから被曝線量が違うこともある。私 集し、原爆投下直後の広島へ救援に入った。う 原医研と放影研の研究者が加わって被曝線量を 99 目的の臓器に到達するまでにどれくらい減衰す どれくらい遮断され、体の中に入ってからも、 爆された方が、家の中で被爆の瞬間にどっちを 的でWBCによる調査をしている。時間がたっ 食べ続けた方が大勢いらっしゃった。そこで、 たちのデータはあくまで平均値。特異例を持っ 人の克明な行動記録が残っていた。広島大 ち の1に安全率をかけましょう、 といった具合に。 が必要。福島でもそれをやっているが、それが 20 12 てきて「あわないぞ」という議論は、そもそも かみ合わない議論であることをご理解いただき 2013. 3.22 10 ≪ 31 ≫ %くらいの誤差 ー量が最終的にどうなるのか。途中で遮蔽され ている。原爆のおおもとから出てくるエネルギ るか。非常に緻密にチェックした計算で推定し 部被曝も内部被曝も変わらない。それが、この る通り。でも、危険度は同じ線量であれば、外 放射線を中に取り込むと厄介なのは、おっしゃ である、ということだ。もちろん、内部被曝で 原爆投下1分後に発生する残留放射線の影 響、これは私たちが考える以上に大きいのでは 調べていくと、いろんなことが見えてきた。 ら過小評価してきた、ということ。そのことを 声明でことごとく否定してきた、政治的思惑か る効果を考えると、平均して のリスク効果を変えるだけのものではない、と えってノイズが多くなるだけだ。平均値として についての何らかの情報を加えたとしても、か る推定の仕事は続けている。直接被爆、内部被 れているが、そうではない。残留放射線に関す 線の研究を中止した、という極端なことが言わ 最 後 に。 一 部 の 報 道 で、 放 影 研 は 残 留 放 射 形 で 進 め ら れ て い る。 (放影研は)ABCC時 重視し、残留放射線については反映されにくい だ。放影研でやっている研究は、初期放射線を ないか、と考えられる。内部被曝の問題もそう 曝、残留放射線、すべて最終的に人が受けた被 年にかけてのことだ。 代に、残留放射線に関する調査研究を実施して なかった。意図的に(残留放射線)を削ったわ 曝線量は、生物学的な線量測定の方法、例えば、 いた。1952年から ただいている。 も、直接被曝線量は今も一つの確かな指標にな きちんとした相関はとれている。という点から るわけで、そうした調査は続けている。これら 染色体や歯は被曝した証拠がはっきり残ってい 同じ症状を訴えていた。そのことが徐々に明ら 多くの人が直接被爆していないのに、原爆症と うな症状があるのか、質問票を送って尋ねると、 被爆ではなく、後から入ってきて(放射線に) 残留放射線と言っても、原爆投下そのものでの と直接被曝線量との関係はチェックしている。 被曝した人たちの調査が行われていた。どのよ 最後の第3章は内部被曝の問題。放影研の研 究とは直接関係ない話だが、社会的に関心が高 ると信じている。 かになりつつあった。 その調査研究は打ち切られた。 ところが 年、 理由ははっきりしない。先ほど大久保理事長は、 しいぞ、ということ。生物学的な研究の立場で 表現が使われたりする。そこまで言うのはおか え方。週刊誌などでは「千倍危険だ」といった は、内部被曝は外部被曝より危険だ、という考 きたか、というようなことを研究している。そ 政府がそれらの情報をいかにコントロールして 射線の影響に関する研究について調べたり、米 私の専門は歴史学。米国の公文書をもとに、放 次にホールボディーカウンター(WBC)の 件。WBCはガンマ線しか測れない。WBCだ ろう。 けていたら、とても貴重なデータが得られただ った。もし、その手法で現在まで調査研究を続 高橋 残留放射線に関する放影研の見解に絞っ おっしゃったが「ME 」という番号まで付い て質問し、私なりのコメントをさせていただく。 た研究をABCCはやっていて、それを打ち切 残留放射線の研究はしていないのではない、と 結論から言うと、目的とする臓器、例えば肝臓 の中でわかってきたことは、原爆投下1分後か けでは内部被曝の調査はできない。内部被曝の 8月6日に入市者なしはなぜ に到達する放射線の線量が同じであれば、内部 ら発生する残留放射線について米政府は、公式 射するので怖い。内部被曝はできるだけしない いんだけど、体内に取り込むと、直接臓器を照 膚をほとんど通過しないので外からだと心配な 内部被曝は確かに体内に取り込んでしまうと 怖い。アルファ線にしてもベータ線にしても皮 まっているので付け加えた。 司会 高橋さん、お待たせしました。 53 被曝であろうが外部被曝であろうが効果は同じ ように、というのはその通りだ。ただ問題なの 53 したうえで、放影研のリスクデータを使ってい けではない。世界の学会はそういう条件を考慮 いうことで、残念ながら残留放射線を入れてこ がある。だからフォールアウト (放射性降下物) 第3章の趣旨だ。 30 81 広島ジャーナリスト ≪ 32 ≫ べた。そこで調査に携わった科学者は「原爆投 研究所で開発し、マーシャル諸島の人たちを調 に、WBCを開発したからだ。ブルックヘブン がマーシャル諸島の住民たちを調査するため わかっていた。米国原子力委員会の科学者たち ユニット検出された。子どもへの影響が大きい 骨からは(カナダでは)1・5ストロンチウム チウムユニット含まれていた。5歳以下の子の えば、日本のコメだと、 年に ~ ストロン 特殊な単位を使った報告だ。それによると、例 出ている。「ストロンチウムユニット」という 析している。その報告が 年、科学委員会から れに関与している。ニューヨーク作戦本部で分 界中から骨を集めている。当時のABCCもこ 「1956年1月の 最後です。 資料の中に、 日付のある『原爆部隊』収集資料を示す文書」 す。 れた可能性があるのではないか、ということで いたのにファレル准将の説明にのっとって作ら が入っていないのは、当然1日目にも入市者は 明している。放影研の資料に投下初日のデータ ファレル准将は、原爆投下の後に入って被曝 したのではなくもともとそこにいたんだ、と説 死傷者が出たということである」 た疎開要員が爆弾の爆発に巻き込まれ、多くの 下当時の事を計測するにはあまりに時間がたち ことは早くからわかっていた。成長が激しい時 と書いたものがあります。さらにその中に「T が歯や骨に蓄積しやすいことから、世 すぎている」と述べている。 期には放射線の影響は受けやすい、とわかって チウム 放影研の見解では、西山地区でWBCを使っ た調査で被曝線量の数値は低かったと述べられ いた。そこで私の疑問は、放影研のLSSは ー大佐はABCCの初代所長です。退任後は軍 手がかりを得ることはできるが、全体像を把握 ている。この調査がどのような経過でおこなわ 年代後半に始まった。なぜ、大人を対象にしか 年代に既に れたのか、検討する必要がある。携わった日本 も「平均値」を追求したのか。平均を追求すれ することはできない。そのことは 人の科学者でさえ、 「WBCで調査するだけで 人になっている。これと、やはり資料の中の黒 症例( ~ 年です。この2つは関連 年に行われています。テスマーの 巻) 」 と い う 記 述 が あ り ま す。 テ ス マ ESSMER(テスマー)大佐の放射性降下物 は実態を正確につかむことはできない」との危 ば、ある条件の人たちが放射線に弱いというよ 惧を示しているからだ。 い雨調査票との関係です。ABCCの黒い雨調 査は、 放射性降下物症例は ある。なぜ1日目が入っていないのか。私の類 クなどがオペレーション・サンシャインという というのは、 年から米原子力委員会を中心 に、ランドコーポレーションというシンクタン しているのではないか。 推だが、マンハッタン計画の副責任者だったト 研究を始めた。世界に広がる放射性降下物を具 「このほどアメリカで報道された話に、疎開 を応援するために市域に入った人が死傷したと ーブズ少将にあてた手紙でこう書いている。 だった。ABCCの黒い雨調査は、この研究計 められた。世界中から骨を集めたのもその一環 体的に計測しようという計画だった。 53 画に協力する形で始められたのではないか。 年から ーマス・ファレル准将が当時、レスリー・グロ 資料の「広島・長崎における早期入市者の被 曝線量推定値」( ㌻)を見てほしい。この表 にした手法がとられなかったのだろうか。 64 には、入市日が2日目以降のデータが記入して 56 56 25 55 50 36 58 いうのがある。真相は、爆発以前に発せられて 精力的に放射性降下物や内部被曝のデータが集 53 年代に米原子力委員会は、ストロン 高橋博子さん 56 いた疎開命令を実行するために広島に入ってい 2013. 3.22 12 50 90 うなことが見えにくくなる。なぜ子どもを対象 やはり 50 ≪ 33 ≫ 初日の残留放射線被曝計算は可能 ことを勧告した。この勧告事項は米国学士院学 「 ま る 1 日 作 業 し た と し て 」 と や る と、 火 事 で れた「DS 」と呼ばれる「原爆線量再評価」 外に出てくるのを測定するのは内部被曝の調査 からないと言われるが、体内に入ったものが体 ではないかと思う。WBCではガンマ線しかわ 味がない、ということをおっしゃりたかったの が短いものを一定期間が過ぎた後でやっても意 く、内部被曝を調査するものがWBC。半減期 そういうことがないわけじゃない。ありそうな 表の早期入市者の被曝線量推定値から1日目 が抜けているではないか、との指摘があった。 例を想定しておよその目安を計算しただけで他 曝リスク枠を発表している。 た集団を別に作って計算している。年齢別の被 代に子どもについては、子どものときに被爆し る、といった趣旨の発言があった。ABCC時 射線により敏感な子どものことが分からなくな LSSで私が「平均値」と言ったことについ て、子どもも大人も一緒にして平均したら、放 人おられた。直後に避難して生存された。爆心 爆心地にあるレストハウスの地下にいた人が1 れ ば 爆 心 地 に 入 る こ と が で き た か も し れ な い。 場所で被爆した人がその後、火事さえ避けられ 投下後1分たつと初期放射線は終わる。離れた 広島ジャーナリスト ウ素はもうほとんど検出できない。 爆心地に入れなかっただろうから、ということ ということで、WBCには一定の限界がある。 ではなぜ、放影研は西山地区で 年以上たって で2日目から、ということになる。今すぐとは 測定できない。 る。「原爆投下時に爆心地近くでの生存の可能 放射能の放射線量を論じた章でこう書いてい 術会議によって招集された特別会議において承 ただ、染色体には証拠が残るので生存してい 認され、 年から実際に動き始めた。このとき、 る人の被曝線量が推定できるが、残念なことに 精度は高くない。私たちは宇宙線など自然界の そのもの。光でも周波数が違うと色が違ってく 大 久 保 爆 心 地 付 近 に 生 存 者 は な い と い う の は、初期放射線を浴びた方では、という意味だ。 る。福島ではセシウム134と137から出る これは、この文書を作るときに計算したもので、 意はない。あまりこの問題を議論しても意味が 超える被曝でないと、染色体で測定できない。 エネルギーを測って、二つの放射線を出す核種 当然(やろうと思えば)、1日目も計算できる。 ない。 地を通ってどこかに行かれたはずだ。だから、 の内部被曝量を検査している。半減期の短いヨ 次に、WBCのことを言われたが、WBCは 内部被曝を調査するのに適していないのではな 放射線の研究をこれ以上続けてもデータがとれ 受けているものを差し引いて識別しなければい 恐らくその翌日以後にその地域に入った人々と ないということで、他のプロジェクトに重点を けないので、年齢が上がるほど精度が低くなる。 に向けられる」。二つの文書の似たような表現。 移した、 という可能性が高いと私は思っている。 おおざっぱに言うと、約200㍉シーベルトを この点はどうなんでしょうか。 究を続けるのがいいかということになり、残留 いろいろあるプロジェクトの中で、どの調査研 性 は、 無 い に 等 し い。 そ こ で、 我 々 の 関 心 は、 と題した本の中に同じような表現がある。残留 86 生涯にわたって追跡調査する固定集団をつくる フランシス委員会という第三者委員会が当時の たので、地面に残った(放射性物質)がかなり 沢田 1日目のことについて。放影研の見解は ABCCにおいてそれぞれの固定集団を用いて 取り込まれ、内部被曝がありうると考えて、水 「原爆が投下された当日は二次火災のため爆心 行っていた調査研究について、LSSという、 や野菜の摂取の頻度が高い人を絞り込んで調査 地付近には近寄れなかった事実を考慮すると」 した。もちろん、ここでも半減期の短いものは と書いてある。放影研のデータをもとにつくら (必要であれば)1日目につい 大久保 残留放射線については、いろんなプロ 測定したことをいうのか。西山地区ではその後、 いかないけど、 ジェクトでいろいろやっていた。 1955年に、 自家栽培の野菜をずっと食べてこられた人がい てすぐお返事する。 20 放射線からも影響を受けている。通常、自然に 58 放影研への注文 大瀧 高橋 ここに等高線を描いているが、やはり爆心に近 い方が高 い。初期線量を使った 場合。しかも、 爆心から2㌔のところのギャップがありそう だ。初期線量を使ったうえでのギャップがちゃ んと残っている。2㌔の所になると急にリスク が上がる。もちろん、爆心に近いところではさ らにリスクが上がるが1・2㌔から2㌔ぐらい ではほとんどフラットだ。リスクは変化してい 論文の図と矛盾する。広大原医研で同じような は出てきてなかったと言っておられる。これは はっきりと超過リスクが得られている。この間 クのかたちを仮定してモデルを作成してデータ ョンケーキみたいなものだが、そういったリス 1・2㌔のところだけ出っ張った、デコレーシ てみた。真ん中の初期線量と入れ替える形で、 と こ ろ が、 こ の 解 析 を 基 に も う 少 し 工 夫 し ない。 本田 ちょっとよろしいですか。大瀧先生準備 されているのに時間が押しているので。 こ と を や っ て み る と、 こ う い う グ ラ フ( 次 ㌻ 年たってから 大 瀧 で き る だ け 簡 単 に 紹 介 し た い。 先 ほ ど 来、放影研の理事長が初期放射線量に対して非 を当てはめると、こちらのモデルの方がずっと んとか大腸がん、これらは ~ 常に緻密に計算していると言われるが、固定が ㊥)になる。これは爆心から1500㍍東側で と い う こ と は ど う い う こ と か。 初 期 線 量 よ う有意な出っ張りが検出されている。 だが、ここには爆心からの距離上のリスクと違 んの罹患、死亡データは実はうまく説明できな 年~ 年でピークに達して、あと下がってい が1千㍍東、 歳の時がこのライン、被爆から 年ぐらいたっ らいたってからの状況を図に書かれていると思 RRの値、これは被爆後間もなく、大体5年ぐ 到達年齢が高齢者になると逆転することすらあ てやっとピークに達する。被爆時年齢が 歳に が、あまり役に立っていない。というか、ほと になる。せっかく放影研で苦労してつくられた かも、被爆時年齢が若い方が高いかというと、 っている。では初期線量とは何か、ということ なるといつまでたってもピークに達しない。し んど説明されてない。 歳で被爆すると 数年~ うが、最大となって以降、年とともに年齢が高 り得る。このグラフと、放影研が出している論 く。 くなるにつれて下がっていくといったモデルを 文の中で出している状況と異なる結果が得られ り、遮蔽効果も無視した、もっとも単純なデコ 使っている。ところがこれは実情に合ってない 見た地図。真ん中の点が爆心を意味している。 ている(次㌻㊦の下部)。デコレーションケー 東。固形がんのリスクのかたちはこんな形をし うど南から見たところ、こちらは西でこちらが こ れ は 上 か ら 見 た と こ ろ だ が 横 か ら、 ち ょ レーションケーキ型のリスクマップが実情に合 と思われる。実際1992年の「原爆放射線の る。どちらが真実か。 (過剰相対リスク) 、これは1グレイ被爆者のE ン先生とか小笹先生が既に論文で発表されてい い。いろんな疑問点があるが、これはプレスト 適合度がいい。しかも西側の己斐、高須あたり 20 歳の時に被爆した人がこの青いライン、水色 30 30 20 25 人体影響」という本、放影研の方々も深く関与 40 20 る図(次㌻㊤)で、横軸が年齢、縦軸がERR 10 10 15 された本だが、 その中で「悪性腫瘍の発生時期」 他にもある。これ(次㌻㊦の上部)は我々の チームで解析した結果で、広島の街を上空から というタイトルで、1945年から見ると、か なりたってから、固形がんでは胃がんとか肺が 2013. 3.22 実情に合わない解析 データ共有目指して ≪ 34 ≫ ≪ 35 ≫ キの西側をぴょこっと立てた形。これは直接被 いうこと。早期入市者の場合、明らかに初期放 大瀧 不確からしさはそれぞれあると思うが、 どこで被爆したからどうだというような特殊な 偏りは大きくないと思う。 広島ジャーナリスト 爆者ではないが、大谷敬子先生(広大原医研) 射線ではない。1分以上たっている。 先ほどのデコレーションケーキ型のリスク 地図は、初期放射線量では説明できない。 日以降 を1・0、 基準にしてそれ以前に入市された方々 中で作って、それで何点か合うところに合わせ が解析された早期入市者の結果。8月 がどのくらい固形がんになり死亡するリスクが 大久保 お話は分かるが、一体どんなデータを 使ってこんな計算をされたのか。あの混乱の中 て計算されておられるのではないか。ちょっと 大久保 実測データからこういう計算しようと すると、とても大変だ。統計モデルをまず頭の 高くなっているかということを解析した。男性 私たちがやってる方法と違う。比較にならない ~ で1日目、2日目、3日目にだれが入ってきて 日ぐらいまでは %ぐらいの超過 は8月 気がする。 大瀧 放影研は、現実に合いそうにないモデル を使って計算されている。プレストン先生とか だれが出て行ったというのを、どういうデータ 小笹先生の方法は、ちゃんと論文で読ませても 75 12 がある。ところが女性だと8月6日だけが 大瀧 これは1965年の、厚生省(当時)の 原爆被爆者実態調査票というレポートがある らいましたが。 ~ 11 を使ったのか。 が、そのデータを使っている。 被爆時年齢 歳の人が年齢 歳になった場合 に推定される固形癌ERRの被爆時所在地に 関する地理分布 大久保 年だと補償の問題が絡んでくる。そ ういう状態の時に何日目に入ったとかどこに来 たとか、どこまで信じておられるのか。 25 11 %の超過が得られた。男女の違いがあったと がん 縦軸が癌死亡ERR、横軸が到達年齢。図中の説明「1500 E_ 10」は「爆心地から 1500 ㍍東で被爆、当時 10 歳」、 以下数字は爆心地からの距離と被爆時の年齢 65 12 10 縦軸が固形癌の1グレイ当たりのERR、横軸が 到達年齢、グラフの数字は被爆時年齢 13 ≪ 36 ≫ てきたかという、その観察結果に基づいている 小笹 そこは、先も述べたように、実際にどれ だけの人を観察して、どれだけのがんの人が出 いったモデルを使わざるを得ないのでは。 で、こういう規則的なグラフになった。 一つのパラメータだけを求めて作図しているの を感じられる方もあると思うが、計算する時に、 グラフそれぞれにきちんと意味がある。 実 際 に 歳、 歳、 歳 の 年 齢 区 分 で 被 爆 いるんだという話とは全く違う。 さ ら に 皆 さ ん に 説 明 す る が、 下 の attained された方について具体的な点を求めていく、そ は到達年齢。これは、普通の人も年齢が の人たちが何歳になった時点でどうだったか具 age 上がるほどがんになる人は増える。それに対し 体的な点を示していくというグラフもできる。 ここでは若い人ほど影響が強い、あるいは年齢 こ の グ ラ フ は 規 則 的 な の で、 そ れ に 違 和 感 いる。 から、モデルがこうなっているからこうなって 小笹 あるがままの、観察した結果がこうなっ ていると言うことで、先生のご理解は間違って 大瀧 これを計算しないことには超過リスクは 出てこない。 小笹 ここで出しているのはERR、過剰相対 リスクだから、ベースラインに対してどれだけ 増えているかということ。 ベースラインに対して計算する時、こう がいくほど相対的な部分は小さくなるが絶対的 て、 ど れ だ け 放 射 線 に よ る が ん な部分は大きくなるということを一つのパラメ 大瀧先生のようにモデルを決めてやってい が増えるのかを相対的に表現し るわけではない。あくまで追跡した結果そのも て い る の で、 も と も と が ん に な 射線で上積みされるがんという のから発生率を計算し、それを放射線の量で比 ータで結果として表しているのでこのようにな のは少ないということを意味し に な る。 若 く し て 放 射 線 を 浴 び え て く る、 右 肩 上 が り の グ ラ フ れ は 当 然、 年 齢 が 上 が る ほ ど 増 う 絶 対 的 な 率 を 示 し て い る。 そ の人がどれだけ出てくるかとい たらその中に放射線によるがん て い る が、 そ れ は、 1 0 0 人 い 回、統計懇話会という集まりで意見交換されて ただいて、私どもの統計部の研究者とは毎月1 し、大瀧先生ご自身、放影研の顧問もやってい 学問的にはずっとご一緒させていただいてます 大久保 モデルの話をしたら、多分聞いている 人は分からないと思う。大瀧先生と私どもは、 くこちらの方が真実に近いと思う。 るかに(説明力が高い)ということだ。おそら 大瀧 当然我々は小笹先生流のモデルも試みて いる。そのモデルよりこちらのモデルの方がは 較して、その結果をグラフで表している。 た 人、 被 爆 年 齢 が 若 い 人 の ほ う いる。ぜひそういうところで、 ご指導願いたい。 が あ っ て、 絶 対 的 な 率 で 表 現 し が 手 前 に 来 る、 つ ま り 早 く 上 が これと対応するもう一つの表 ている。 る。 30 る人が増えてくる高齢者になる 20 と、 元 々 あ る が ん に 対 し て、 放 10 る と い う グ ラ フ に な る。 二 つ の 2013. 3.22 大瀧 本田さんが提示した、爆心地から2㌔の広島市舟入町で被爆した原爆症の症例 について発言するパネリスト ≪ 37 ≫ ては100㍉よりずっと低い。それでもこうい た少女(前㌻写真の右上)、初期放射線量とし 本田 2㌔でもこういうのがあるのでは、とい うことの一つだと思うが、舟入の2㌔で被爆し う。 見が必要なのか。それは今後の研究の方向だろ 大瀧 モデルが実情に合ってないんじゃないか 当然あるだろう。それを今までの学問的な知見 ということだ。 是非チェックしていただきたい。 によってどう説明するか。あるいは、新しい知 ね。 本田 それは残留放射線に関しても? 大久保 もちろん。残留放射線は高いわけです 性が)高いと想像できる。 の地区より己斐、高須の方が(人体影響の可能 いうことは分かっている事実だから、それは他 という設問に対し、加えてもあまり精度は上が 合、さらに精緻なリスク表現ができるかどうか の推定値に対して残留放射線の情報を加えた場 大久保 おっしゃるとおり。もちろん、ないと は思っていない。私たちが発表しているリスク されていると思う。一例をもって放影研の今の スが起こってくることはお分かりの上でお話し 互い医師だから、いろんな病気でいろんなケー そういうことは起こって不思議ではないし、お の初期放射線としては合わないが、それは長崎 ていて放射線によると考えられるが、被曝線量 2㌔で被爆して全部脱毛した被爆者が映画に出 これまでのデータと矛盾しないと思う。ここに、 説明があり得るけれども、推測にしかすぎない。 は高いが2㌔を過ぎると死亡率が減る。これは 線の効果があったのかもしれないし、いろんな であってもおかしくないと大久保先生はお考え があるかどうか。例えば西山地区は400㍉シ 本田 長崎では黒い雨はあまり降ってないが放 射性フォールアウトによって人体影響の可能性 本田 これは調先生が調べた、合同調査団と同 じデータだと思うが脱毛率。こちらが生存して 脱毛、こっちが発熱、こっちが下痢。何が言い 科大(現在の長崎大医学部)の教授だった。救護斑をつくり、 [8]しらべ・らいすけ 長崎に原爆が投下された時、長崎医 被爆者の救出や治療を先頭に立って指揮した。 広島ジャーナリスト があるから、他の場所より己斐、高須が高いと 本田 放影研の見解案でお聞きしたいが、残留 放射線の人体影響があるのかないのかが国民的 本田 これは2008年にNHKがアメリカの 公文書館から入手した資料の中にあった図で同 残留放射線の影響は国民的関心事 な関心事と思う。これまで2㌔、100㍉シー う症状が起きたということに対して、どういう [8] ベルトが一つの境で、2㌔を越えたら影響はな らないだろうと申し上げている。ないとは一切 体系が間違っているかいないかと言われてもち か。 じ 図 は 既 に 調 来 助 先[生 が 発 表 し て い る。 長 崎 いと放影研は言われてきたかのように思うが、 理由だとお考えか。 先ほどの話だと、そうでもない、ということか。 大久保 一言で言えば、やはり「分からない」。 大に確認したら、調先生が英訳してABCCに もちろんそこがホットスポットで高い残留放射 渡したのではといわれた資料だが、爆心地から 言ってない。 ょっとお答えできない。 表された時、その反論が放影研のホームページ いた人、こちらが亡くなった人の脱毛率のデー の距離と死亡率をみている。2㌔までは死亡率 本田 マンハッタン調査団の最終報告書につい て長崎大の朝長万左男教授(当時)がIPPN (HP)に出ている。要旨としては、2㌔より ーベルトあるから可能性があると言っていいと タ。2㌔のところでも脱毛率が高い。こっちが ト)ぐらい、これは可能性としては考えていい 大久保 もちろんそうだと思う。 遠いところで放射線障害が出ているというマン 思う。己斐、高須なんか から (㍉シーベル はないという反論だが、大久保先生は起こり得 のか。 W北アジア地域会議(1997年、長崎)で発 ハッタン調査団のデータに対して、そんなこと ると考えておられるのか。 大久保 これは確率分布だから、すごく高い可 能性からごくわずかな可能性までいろんな程度 30 大久保 それが放射線によるものと、因果関係 を言うか言わないかの問題。事実は事実として 10 ≪ 38 ≫ 一つ申し上げたいのは、全部距離でモノを言っ り離れたところでそういうことは起きる。もう 小笹 大瀧先生のいうのは大瀧先生のモデルに 基づく解析結果で、そのモデルに対して私たち を持っている。放影研のデータでもぜひ試して こういう症例はたまたまではなく、頻度として は疑義を持っている。 ないか。正規分布、確率分布で、一番多いとこ は少ないが、2㌔以上で放射線による障害で亡 ておられるが、放影研の線量評価システムをご 大瀧 放影研のモデルでやってもらっても結構 だ。 たいかというと、2㌔より離れたところで亡く くなった症例があると、そういう解釈がとれる 覧になるとお分かりのように、遮蔽効果が重要 みてほしい。 と思うが、その点いかがか。 ほとんど初期放射線量はゼロだ。地下でコンク 本田 これ(上の表)は放影研のHPにあるも ので、マンハッタン調査団の脱毛率に対して他 なった人に高率に急性症状が出ている。 だから、 ろで我々はモノを言っているが、一方で、かな 大久保 あくまで確率論だと思う。今2㌔より 遠いところでも高率にと言われたが、それはな リートの中で、ドアも閉まっているから。遮蔽 である。今ここ(シンポ会場)で被爆されたら い。だんだんに下がっていく。そういう条件下 でこうなってるんじゃないかということが解説 に入院している患者なんで、放射線以外の影響 の調査ではかい離がある、これは大村海軍病院 大瀧 我々の研究では初期線 量も使っているが、それより それで区別する方がずっと説 ットスポットみたいなところで被爆したとか、 亡くなった方は放射線感受性が強い方とか、ホ そういう人は急性症状の発症率が非常に高い。 大久保 それでは本当の生体 影響は分からない。遮蔽の効 ない。 こと。初期線量では説明でき 留放射線の人体影響が起こりうるということを 他は全部、生存者のデータだ。2㌔以遠でも残 出ていると記載されていた。ここの脱毛率だけ 人死亡していて153人に原爆症の急性症状が 大村海軍病院の当時の記録を見ていたら155 果を入れて、本当に体に入っ 確認させていただければ。 形がんの死亡リスクに関して が、広島、長崎で収集された被爆者の病理学的 た資料に基づいて研究した結果を書いている 高橋 今後の放影研のあり方について要望だ が、添付した資料で米軍病理学研究所で入手し 入院患者と死亡した人を含んでいるデータで、 た分だけしか評価してはいけ 大久保 起こり得るかという質問ならば、その 通りでは。 は先ほどの比較で行くと、そ 大瀧 遮蔽の影響は当然あり 得るとは思うが、ところが固 ないと思う。 大久保 遮蔽を入れないと。 大瀧 遮蔽が要らないという 明力が高い。 爆 心 か ら の 距 離、 円 形 領 域、 されているが、先ほどの調先生のデータをみて、 グラフの線の説明は上から長崎被爆者寿命調査(LSS)、広島 被爆者LSS、東京帝大調査、マンハッタン調査団報告書、日 米合同調査団長崎被爆者調査、同調査団広島被爆者調査 れより距離の方が高い説明力 2013. 3.22 のことを考慮しないと。 距離による脱毛率 で(2㌔以遠での急性症状)は当然あるのでは 縦軸:脱毛率、横軸:爆心地からの距離(㌔㍍) な資料はアメリカ国内の米軍病理学研究所に くないという気持ちで協力されてきた被爆者の そういうふうに狭く狭くしか認めてなかった。 あるいは2010年の広島市、県の調査でも、 ところが我々の、広範囲の被害の実態調査、 あれだけ広範囲に黒い雨が降り、放射性微粒子 気持ちを最大限尊重して、人間のための研究、 人々を被曝させないための研究、そのために放 が降下したという証言が寄せられた。貴重なデ 年代に継続的に送られ、広く人類 影研のデータをいろんな形で共有しやすい、共 1940~ のための医学研究に使用されたかというと、私 同研究しやすい形にしていただきたい。 た。本当に広島市にある放影研であり、税金も るようなデータの解析になっていないと痛感し 聞きするにやはりまだ実態をきちっと説明され れたのは残念に思う。いま専門家のご意見をお ータを持っている放影研がああいう結論を出さ はそうではなかったと言えると思う。今後の放 被害者 影研の方向性として2度とこんな目にあわせた 丁寧に解析して実態解明を 大久保 使って研究されているんであれば、協力した被 地の実態を解明するという気があるのなら、も 爆者に恩返しするという気があるのなら、被爆 広 島 県「 黒 い 雨 」 原 爆 被 害 者 の 会 連 絡 協 議 っと丁寧にデータを解析され、民間の学者のみ 〈フロアから〉 なさんにも、どうぞ研究してくださいという立 結論を出してきた。過去にも重松逸造放影研理 る。検討会もだが、政府は被爆の実態を見ずに れたシミュレーションで、政府が使っていた宇 わったと、原爆被害を過小評価するデータを入 いは原爆が落ちた後の市内の火災は昼過ぎに終 もいる。灰がたくさん降って川の中の魚は死ん なった人もいる。黒い雨にあって亡くなった人 灰とかいろんなものが飛んできて大変な病気に 取りをしてきた。 旧観音村にはフォールアウト、 爆心地から9㌔の五日市に住んでいるが、聞き 今回の政府の回答は非常に腑に落ちない。私は 佐伯区黒い雨の会事務局長の高東征二です。 きたい。 けた、被爆者の立場に立った解析をしていただ してはおかしいという気がする。市民に目を向 場でないと、今回の結論だけ見ると、私たちと 会事務局長の牧野一見と言います。放影研に要 月8日に放影研がこういう見解を発表したと の後も厚労省に要求を続けているが、同じ年の は私たちは到底受け入れ難い。ということでそ 検 討 会 で 説 明 さ れ た の も 拝 見 し た。 こ の 結 論 望 を 否 定 す る 結 論 を 出 し た。 大 久 保 理 事 長 も 雨地域すべてを被爆地に認めてほしいという要 年7月、私たちや県、3市5町の、黒い雨の降 望、意見を申し上げたい。厚労省の検討会が昨 牧野一見さん 年在職)が座長になって いうことを、私たちはマイナスに受け止めてい 12 判でも証言されて白黒はっきりしたと思うが、 部被曝の研究を途中でなおざりにしたのか。国 だ。放射性降下物がなかったとなぜ言えるのか。 事 長( 1 9 8 1 ~ そういう事実があるのに、なぜ遠距離被曝や内 一番ひどいのは原爆雲の高さは8千㍍と、ある 1991年、県市の専門家会議の結論を出した 田降雨図と同じ範囲にしか黒い雨の被害はなか が、 あの時も抗議文を持って理事長とも会った。 ったと結論を出した。その後の原爆症訴訟の公 97 広島ジャーナリスト 50 被爆者の立場で研究できぬ ≪ 39 ≫ ≪ 40 ≫ ータの信頼性の話が出たと思う。LSSのデー 廿 日 市 の 森 本 道 人 と い い ま す。 き ょ う は デ がああいう結論を出しているが事実は事実だ。 客観的に出す。賛成の人も反対の人も同じ土俵 い。できるだけ客観的に事を進めてリポートも 違うことを考えている方は受け入れてくれな た研究というのは、発表すると、当然反対側で 者の団体の研究者であればいい。それだと反対 がらそれはできない。それだったら結局は被爆 った研究をしなさいと言われるのなら、残念な そういう意味で最初から被爆者の立場に立 派の人は絶対に認めてくれないと思う。科学と ていただけるという原則は守っていく。 タ、生存者の寿命調査、その信頼性はあると考 に立って議論ができる。 行政、裁判というものとの区別はきちっとすべ 年までの、亡くなられ 例 え ば 裁 判 で 私 た ち の 研 究 が 使 わ れ る、 使 年から われないという話があるが、どちら側の人も使 きだ。 えているか。 査されていると思うが被爆者9万4千人、非被 える条件で発表するよう心がけている。政府の 放 影 研 の 残 留 放 射 線 研 究 の こ と だ が、 放 影 万人調 爆者2万7千人、この非被爆者は広島市内の人 黒い雨検討会も、私が出席したというのは放影 研は研究していないというのと、放影研のリス た方のデータは含まれてないと思う。 だと思う。その二つを比較して、そういったデ 研の研究内容を説明したのであって、黒い雨の クデータに残留放射線の情報は入っていないと 県 被 団 協( 金 子 一 士 理 事 長 ) 事 務 局 長 の 大 り立つ話。最初からどっちに入れるという人が 影研の研究とは別に、独立して議論するから成 くていいのか、入れる方法はないのか常に研究 されていない。それだけに問題なので、入れな 正しいのは後者だ。リスクデータの中には考慮 越和郎と言います。大久保理事長に聞きたい。 い。そういうことを決める任務を負った人が放 入って決めたのなら、必ず反対する人が出てき 月、放影研主催の市民講座がこの 場所で開かれ、大久保理事長は放影研は低線量 している。 2011年 被曝や内部被曝がないと世間は言っているがそ て結論は出ない。裁判の場合も、どちら側から の研究対象者のうち被曝線量の計算ができてい ~ る8万7千人の被曝の平均線量は200㍉シー 上げたいが、1㍉シーベルトの話をした時に、 ベルトぐらい。パーセンテージで言うと 研究と行政施策とは違うということも申し 低 線 量 の 研 究 の 件 だ が、 放 射 線 影 響 研 究 所 れは誤解だ、データが不足しているので、これ 月8日、ち とか悪いとかいう。 も公平に読めるからそれを使って皆さんがいい でこれから研究だといった。昨年 ょうど1年たって、内部被曝や低線量被曝につ %ぐらいは 100㍉シーベルト未満のいわゆる低線量被曝 %、正確ではないかもしれないが と思うが、被害がないと受け取れる報告書だ。 定のエリアをどうする、防護の基準をどう決め 当然、経済的な問題も絡む。事実として世の中 L S S の 信 頼 性 の 話、 ご 指 摘 の よ う に だ。お預かりしているデータを、さらにいろん に発表することと、行政とか裁判とかという社 1950年までの情報はまったく入っていな る、というのは、これはポリシーだ。ポリシー 会的な意思決定と一緒にするのはよくないとい 放影研は低線量被曝や内部被曝を認めないと見 るのか、答えていただきたい。 う立場でやってきているし、これからも放影研 るので、被爆当日から 年の 月1日までに亡 年の国勢調査がスタート時点になってい 究に他ならない。一番大事なこと。 大久保 被爆者に寄り添った研究をしなさいと いうご注文だが、もちろん精神的には理解して い。 の研究はそういう形でどなたにでも公平に使っ いる。言いたいのは、研究というのは中立的独 を担う人が科学的データを参考にして決める。 な解析を加えていくことこそ、低線量被曝の研 事実のリスクのレベルの話と、それを使って認 70 解を変えたのか。それとも今も研究を続けてい いて、また福島に言及して、福島は内部被曝だ 60 12 (典)さんも100㍉シーベルト以下は未解明 か ら 研 究 す る と 発 言 し た。 主 席 研 究 員 の 中 村 いうのと、いつもごちゃ混ぜにされてしまう。 地域をどうするかで意見を言ったわけではな 50 ータが信用できるとは思わない。 12 45 立的でないと信頼されない。どちら側かについ 50 10 50 2013. 3.22 80 12 ≪ 41 ≫ へ転居された方については対象になっていない くなられた方、あるいは広島、長崎両市から外 ると思う。ぜひその辺は試みていただきたい。 年以降の信頼性は極めて高 星正治さん ろんその通りだ。ただ、実際データを公開して、 個人の名前も入っているのを全部見ていいかと いうとそれはできない。ではそれを支障のない 形で、Aという研究者はこういうデータをくだ さい、Bという研究者はこういうデータを、と をご理解いただきたい。基本的なことはまった データを整えるだけで何もできなくなる。それ 言ったら、放影研は倉庫業者みたいになって、 大久保理事長が中立的でありたいという気持ち かったということだ。その後も放影研の場を使 た時にやはり検討をちゃんとしてほしい。DS 勘だが。例えば大瀧先生のような意見の方がい クにしても、共通しているのは放射線、これは ある、湾岸戦争の戦地にしてもセミパラチンス 曝線量が非常に低い、そういうところで何かが 大久保先生の言われたことも承知している。被 戦争の戦地とかいろんな所の話を聞いて、私は 教授)です。セミパラチンスクとか他の、湾岸 広 島 大 原 医 研 を 昨 年 退 職 し た 星 正 治( 名 誉 要ではないか。外で分かるような形にすること しながら計画のスキームをたてていくことが必 遠で、脱毛が確かに有意にあるわけだ。それが ないと、ちゃんと意見を聞いてほしい。2㌔以 ている。理由は分からないが何かあるかもしれ そうだが、統計なんて同じようなものだと思っ から、あんたは関係ないと(ここでは)言われ でも非常に興味を持って聞かれる。私は物理だ なく他分野の先生、例えば私なんかの言うこと 先生は一流の学者だと思う、一流の学者は例外 計と疫学は違うなんて議論をしているが、小笹 力をしてほしい。それから小笹先生に一言。統 影研は参加してもらわないと。信頼感を得る努 論だったら何もできない。こういうことには放 ができた。今みたいな、これはダメだという議 立的なスタンスで、本当の科学研究をしていっ していくという研究だ。だから人間に対して中 究、人間に何が起こるのか、人間の実態を解明 う。ただ、研究そのものは人間を対象にした研 的という言葉、私はある意味大事な言葉だと思 話してもらった。先ほど大久保理事長から中立 ほしいと、そういう思いがあったということを 足し直す放影研においては科学的な研究をして ば政治的な在り方にも大変批判的で、新たに発 子力委員会のルイス・ストローズ委員長のいわ ビューした。彼は1950年代のアメリカの原 員長、ウィスコンシン大名誉教授だが、インタ 開催されていて、当時のジェームズ・クロウ委 からDS が必要なのではないか。 、ずっと参加してきた。私はDS 02 ていただきたい。 高橋 放影研が発足する前にクロウ委員会とい う、放影研を設立するにあたって諮問委員会が く異論はない。 その辺を出発点として考えると、データをでき ってずっと議論させてもらった。そしてDS はよく分かる。 ただしABCCの歴史から見て、 タが出てきてやはりおかしいんです、理由は分 るだけ公表する、意見交換を民間の学者と交換 必ずしも市民からは中立的に見られていない。 かりませんというと、そうか、と。要するに分 の時なぜ言わなかったかといわれ、後からデー 弁護士の先生のご指摘も、一般論としてはもち 大久保 今のようなお話は反論はもちろんあり ませんし、 是非そうしていかなくてはならない。 ので、その限りにおいては、放影研のデータか 年と らは何もモノが言えない。それは事実。ただし、 先ほどから大瀧先生と話しているように いと思っている。 白地帯を除けば、 とやっているので、被爆からの5年間という空 いう時点である条件を設定してその後はきちっ 50 東京から来た弁護士の内藤雅義と言います。 松理事長が「なぜか」と聞いてきて、検討作業 50 放射線かどうかはこれから進めていくことにな 02 が終わっておかしいと言いだしたが、当時重 86 86 広島ジャーナリスト ている人たちが手伝おうという雰囲気だった。 ビナード それはリーパーさんが広島の代表と して来たということがきっかけだった? リーパー 後ろに秋葉市長がいるからかな。そ 年4月、秋葉市長がジュネーブに行っ れから て核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備 委員会で演説した。その後みんな集まって、何 かやりましょう、という雰囲気になった。 月 キャンペーンを始めた。それが後で「2020 の長崎市民集会で、核兵器廃絶緊急行動という ビ ナ ー ド ま ず 平 和 文 化 セ ン タ ー の 理 事 長 に なったいきさつから。 行動だった。多くの活動家たちが手伝ってくれ ビジョン」キャンペーンになった。最初は緊急 リーパー 2001年にアメリカに帰らないと いけなかった。ずっと前からワイフの両親が 「HERO―SHIMA」築きたい 広島平和文化センターの理 事長を6年間務めたスティーブ ン・リーパーさんが3月末で退 法人で「被爆体験の継承を図る 料館の運営などをする公益財団 きるか調べてほしいと言ったんですね。それで 別会で、秋葉忠利市長(当時)が、国連に行って、 の再検討会議で[は、平和市長会議が開かれた。 どうやれば平和市長会議がもっと活発に活動で (市長会議の参加都市が)増え、 年4月、専 歳になったら帰ると約束していた。帰る前の送 任 に な っ た。 平 和 文 化 セ ン タ ー の 専 門 委 員 に 職する。同センターは、原爆資 とともに、国内外の平和研究機 なったんです。 [1] 関などと連携して世界平和の推 アトランタに住みながら定期的にニューヨーク て、平和市長会議が大きくなっていった。 年 進に寄与する」ことを目的にし そこへ行って広島、長崎のことを話すと、みん に行ってNGOコミュニティに入ろうとした。 編集部 年から なかった…。 並ぶ「被爆都市広島のもう一つ ている。その理事長は、市長と 80 05 年までは広島市の代表では 03 題で積極的に発言を続ける詩人 パーさんに、核兵器や脱原発問 ティングで秋葉市長が話すようにしなさい…。 このミーティングに行きなさい、こういうミー できないことを僕に頼んだわけです。彼は市長 た理由は、キャンペーンがうまくいって平和市 ら。 年、僕が平和文化センターの理事長になっ のアーサー・ビナードさんが会 い、6年間の思い出やこれから のことなどを聞いた。 リーパー そうです。何年も反核運動をしてき ビナード 国の代表じゃなくて、NGOの人た ちがリーパーさんに対してトレーニングを…。 その理事長職を退く前のリー の 顔 」 と 言 っ て も い い だ ろ う。 な興奮して「やりましょう」ということだった。 リーパー 代表じゃなかった。本格的に動き出 そうすると、トレーニングを受けるんですね。 したのは 年、2020ビジョンを発表してか 03 長会議が大きくなったので、秋葉市長が自分で 議は2005年5月2~ 日、ニューヨーク国連本部で開か [1]5年に1度の第7回NPT(核拡散防止条約)再検討会 た。 れたが核保有国と非核保有国が対立し成果がないまま閉幕し 27 対談 03 01 04 S・リーパー A・ビナード 政治の向こう側の勢力見ないとね 2013. 3.22 07 平和文化センターを去る 「核」で発言する詩人 11 今後も広島拠点に活動 ≪ 42 ≫ ≪ 43 ≫ トップだったら彼の思い通りか、あるいはそれ とはなかった。もう一つ大きかったのは全米に リーパー かなり変わった。まずスピーチをす るようになった。それまではスピーチをするこ て。 ビナード 広島に戻ってきてやらなきゃいけな い こ と が 見 え て 来 た わ け? そ の 原 爆 展 を 通 じ 本語での詩作、翻訳を始める。詩集「釣り上 年の 月まで、アメリカ 州の各2 07 Cで101。それを そ う い う と こ ろ に 問 題 が あ る と い う ふ う に、 ビナード その時点で核の振り分けの問題、つ まり核兵器は核兵器、核燃料は核燃料という、 カ月広島にいなかっ リーパーさんも見てました? 間では、福島(の事故が起きる)までは脱原発 リーパー 国連の周りで反核運動しているNG Oの人たちにとって対象は兵器だけだった。兵 NPTは原発推進条約 の力が見えるように 器は百パーセント、 コンセンサスになっている。 なる。どう話せばい を始めるとまた硬く る。僕が政治的な話 聞いてなごやかにな た人が被爆者の話を 冷たい顔で入ってき 管理)の人たちとかは脱原発を入れないんです ワシントンDCのアームズコントロール(軍備 い人はほとんどいなくなったんじゃないかな。 りみんなの意見が違ってきた。脱原発を言わな ていたんです。福島までは。福島以降は、かな それを達成して、次の問題は原発。僕もそう思っ にかくない方がいいからそれに集中して、まず が、ほとんどの活動家たちは核産業そのものを いか、というのが僕 衆 に 対 す る 影 響 力。 すべての国が「ない方がいい」と言ってる。と なったんですね。聴 ない。被爆者と回っ リーパー そう、あ いさつしないといけ リーパー 大変大きな問題でした。かなりテン ションの高い対立があった。反核活動家たちの ているから、被爆者 た。ほとんどアメリ 核兵器問題について積極的に発言している。 カを回っていた。 2011 年の3・11 以後、広島に移り住む。原発・ 月から広島女学院大の特任教授に就任する。 は少数派だったんです。 年4月から現職。13 年3月末で退任し、9 ビ ナ ー ド そ こ で あ いさつする。 ン・シャーンの第五福竜丸」で日本絵本賞。 の課題になった。 やってる間、延べ5 都市とワシントンD 50 り」で講談社エッセイ賞、「ここが家だ ベ 文化センター専門委員などを歴任し、2007 12 平和市長会議米国代表、米国滞在の広島平和 08 共同設立。モルテン海外渉外アドバイザー、 げては」で中原中也賞、「日本語ぽこりぽこ 広島ジャーナリスト だ か ら そ ん な に 時 間 は な い。 僕 が こ の 組 織 の に近い動き方はできると思ったんでしょう。そ おける「101の原爆展」という企画。それは、 リーパー アメリカの反戦運動の活動家たちは 核に関心はないし知識もない、ということが分 僕が入る前から秋葉市長が準備していた。 年 ゲート大英米文学部卒。90 年に来日し、日 に来日。広島 YMCA 講師、翻訳・通訳会社を かった。 れで4月から理事長になった。 米国ミシガン州生まれ。ニューヨーク州コル ウェストジョージア大学大学院修了。84 年 9月から Arthur Binard 詩 人、 随 筆 家。1967 年 事長。1947 年米国イリノイ州生まれ。米国・ ビナード 理事長になって変わりました?人生 は。 Steven Leeper 広島平和文化センター理 ≪ 44 ≫ スは、名前は言わないけど三つの核保有国に脅 ビナード 挑戦状をたたきつけてね。 リーパー 核保有国はそれに対してすごく怒っ ている。スイスが先頭に立ってるでしょ。スイ ありうる? リーパー 変わると思う。 ビナード だけど日本は絶望的じゃない? 日 本がアメリカの国防総省に逆らうということが [4] かされている。 ビナード 米英仏だよね。 リーパー その気持ちはよく分かるけど、でも 日 本 の 被 爆 者 の % は、 核 兵 器 は い ら な い と なくすべきだと思ってきている。 ビナード これからどうしたらいいかを考える まだ本気で反核運動に入ってない。日本が入れ ビナード それって行動につながりますか。 時、NPTがこれまでどう機能したか、考えな ば、明日にでも文書は作れる。170カ国はサ リーパー ウイーンで 年5月にあったNPT きゃいけない。これまでのNPTの功罪という インしてくれるでしょう。 [2] の 第 1 回 準 備 会 合 は[完 全 に 雰 囲 気 が 違 っ た。 か。核推進ビジネスがうまく使ってきたなとい ビナード 例えば日本が(反核グループに)入っ たとするでしょ。そうすると、イタリアぐらい それまで核兵器に関する会議は、兵器だけとい う印象を受けるんだよね。 う雰囲気だった。ウイーンでそれが変わった。 リーパー IAEAはそのためにつくられた。 は入る? たくさんのNGOの人たちが核兵器も原発も危 でも今、非核保有国が核兵器禁止条約をという リーパー 入る。絶対。ドイツもきっと入る。 [3] なすぎるという話をする。 そこから感じたのは、 方 向 で 動 い て い る。 オ ス ロ の 会 議 が[そ う だ。 ビナード そうすると、日本が入れば大きく流 れは変わるといえるんだよね。 これは核保有国に対する革命だ。 もう政治的には、核産業そのものを攻める時期 が来たんじゃないかと。原発を支持する国はま だあるし、NPTは原発を許していて、実は進 めるような条約になっているけど…。 ビナード そう、原発推進条約。 リーパー だから、NPTは使えないという話 は出ている。NPTは長くない。それと関係な く動きだすんじゃないかな。 になった。オスロの会議の後、さらに増えるん い。アメリカにも、核がない方がいいと思って 視できないような動きがあれば不可能ではな 言 っ て い る。[原 発 反 対 は 6 割 か ら 7 割 で し ょ う。だから日本人を動員できたら、外務省が無 じゃないか。非保有国は待つのはあきた、もう 北朝鮮…。他の国がつくれないような雰囲気を す、危なすぎる。ところが、日本は十分理解し 危なすぎるということ。核産業、原発もそうで ビナード キッシンジャーとか…。 いる人はいっぱいいる。 リーパー 米政府は核兵器廃絶のふりをして永 遠に持とうとしている。 つくるためにNPTがある。自分たちは核弾頭 010年5月のNPT再検討会議に合わせ米ニュー [3]オスロ会議 核兵器の人道的な影響に関する国際会議。 ノ ル ウ ェ ー 政 府 主 催 で 2 0 1 3 年 3 月 4、5 の 両 日、 オ ス ロ ねると「取り組んできたとは言えない」が ていることが分かった。政府の核廃絶に向けた取り組みを尋 %が不満を抱い で開かれ、各国政府や国際機関、非政府組織(NGO)など で、核廃絶に向けた日本政府の取り組みに ヨークを訪れた被爆者を対象にした共同通信のアンケート [ 4] てない。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマの国は はない。 ど、包括的に核をなくす交渉はしない。本気で を減らしてるという。軍縮してるという。だけ いる。退職してから言うつもりだけど、アメリ いる軍人はいっぱいいる。ペンタゴンの中にも カ帝国にとっても核はためにならないと思って リーパー きっとそうでしょう。なのに、核兵 器禁止条約に賛同する国は、 カ国から カ国 86 ビナード そういうことですね。 やめなさいと言っている。これは抑止論に対す リーパー NPTを使って、 (核兵器を)他 の る直撃です。保有国には全人類を殺す権利はな 国がつくれないようにしている。イランとか、 い。核は破滅的な人道上の問題、簡単に言えば ビナード 米政府は何を狙ってるんですかね。 35 12 015年のNPT再検討会議に向けた第1回準備会 2 り組んできたとは言えない」が % で「 あ ま り 取 86 %あった。 47 2013. 3.22 16 の代表が出席。核兵器廃絶への道筋を探った。 39 [ 2] 合。 2 ≪ 45 ≫ かった。日本の総選挙はちょっとはニュースに 「1円」の使い方で流れは変わる [5] の表現はうまいなと思った。「2030年まで あれはゼロベースで考える」と言う。安倍さん 安倍政権に代わったときに、安倍さんが「もう ビナード アメリカ政府の圧力もあって閣議決 定までいかなかった。閣議決定しなかったから からお金をおろすと言っておろす。これはオー 手紙を出そう。おまえたちは核に投資している らお金をおろしてしまおう、おろすだけでなく の銀行、金融機関をボイコットしよう、そこか きない。だからこの会社に投資している322 なったが、大きな注目度でいうと、福島の2カ で大きな影響が出る。 に原発ゼロ」という話をゼロベースで考えると ストラリアですごい影響があって、300通の I C A N( 核 兵 器 廃 絶 国 際 キ ャ ン ペ ー ン ) [ 社をボイコットし が、核兵器をつくっている いうのは、原発ゼロを廃棄処分するということ 手紙がある大きな銀行に届いたとたん、その銀 ビナード 米国で原子炉を造るというのは…。 リーパー もうできない。 ビナード 少なくとも発電機能を付けた炉は造 を出したらどうなるか。彼らは痛い目に遭いた を超える国々で活動が展開さ 広島ジャーナリスト リーパー ああいう帝国主義者が今反対してい る。 ようという報告書を出した。普通の人が買うよ リーパー そうですね。革命。そこで一つ考え られるのは経済で投票すること。1円の使い方 月後、3カ月後のイタリアの核発電の国民投票 ビナード 核はもうコントロールできない。 リ ー パ ー ア ル カ イ ダ で も シ カ ゴ を 絶 滅 で き の方が注目された。それも戦略的な感じがした。 る。そんなものはない方がいいでしょう、大き リーパー 不思議なことに日本も2030年ま でに核産業、原発をやめると言った。 な帝国にとって。 ビナード そうそう。だけど徹底してるよね。 ビナード 前の内閣、野田政権の時だ。 リーパー それはニュースにならなかった。ド 日本の世論の操り方、政界の動かし方って。 イツがそれを言ったらニュースになった。 だが、ゼロが重なるから、何も考えていない人 行の政策が変わった。もう核兵器に投資しませ ビナード さっき言ってた国民、有権者、市民 の思い、目指したい方向と、政府やそのバック くない、銀行はお客さんと闘いたくない。そう 井住友、三菱東京UFJ、みずほ。仮に数百万 にある核産業の目指した方向が正反対というこ すると、彼らの政策を変えることは不可能では にある。 れている。非政府組織(NGO)で、本部はオーストラリア ン。2007年に始まった。 始めるように促し、圧力をかけ、励ます国際的なキャンペー の人がこういう理由でお金をおろすという手紙 とだよね。 [5]核兵器禁止条約を実現するため、各国政府にその交渉を る。それは要するに革命だ。 リーパー そう。 ビナード でも日本国民が政府が無視できない ような大きな流れを作れば変わる可能性があ リーパー うまいね。それは。 うな製品は作っていないから直接ボイコットで れない。 はなんとなく「原発ゼロ、ゼロベース」みたい んと。日本では核兵器に投資している銀行は三 ない。 リ ー パ ー イ ン ド に 原 発 を 輸 出 し よ う と す る と、どうしても日本の参加が必要になる。全世 なイメージでごまかされる。 リーパー 日本は世界の核産業の中心です。経 済的にも技術的にも日本がなければ原発を造れ 20 界の核産業が日本を応援している。 ビナード 手を回してるというか…。逆に言う と、日本が核をやめる、イチ抜けすると。世界 の核産業は瓦解していく。支えきれない産業に なっていく。 リーパー もう消えるしかない。 ビナード そうすると、何が何でも日本が原発 を続ける、再稼働する流れをつくろうというこ とになる。 リーパー 全世界がそうしようとしている。 ビナード 日本国内では選挙で自民党が圧勝し た。海外のメディアはそれをあまり話題にしな 60 ≪ 46 ≫ 芝と関係している銀行、金融機関からお金をお な い。 ( 原 発 メ ー カ ー の ) 日 立、 三 菱 重 工、 東 リーパー 日本がバックにいると言わないとい けないから。 原発を売りたいから話した。 リーパー この構造は 世紀の構造だ。中心か らパワーを与えるという発想は古い。 世紀は いない。 ろそうというキャンペーンができれば影響は出 ると思う。その話が出るだけで投資している人 チェコのみなさんは福島のことを心配している いる。記者会見を開いてセールススピーチをし いう動きをつくれるかどうかが問題。 しているから彼らに対する投票が必要だ。そう ない。独裁的な会社、企業が僕らの社会を動か は完全にそうだ。だから経済的に投票するしか で政治が変わることがほとんどない。アメリカ 日 本 だ け で な く、 ア メ リ カ で も 選 挙 の 投 票 うかもしれない。でも、僕は別に東芝が嫌いと 言った。 「日本に行って政府中枢の人と会った。 2人は東芝、日立、三菱重工を嫌っていると思 た。 そ の 中 で た ぶ ん 言 っ ち ゃ い け な い こ と を いうわけではない。東芝は地熱発電をやってい すべきだと言うと、それを読んだ人は、僕たち ビナード そう。東芝、日立、三菱重工という 会社名を出して僕とリーパーさんがボイコット リーパー そうですね。ウエスチングハウスは アメリカでボイコットすべきだ。この理由で。 きがつくれるかどうか。 いうシナリオだ。それを狂わすだけの市民の動 を動かして年明けからは他もどんどん動かすと する。その後は再稼働の渦だ。年内に伊方原発 ジを強調する。そして自民党が参議院選で圧勝 発を止める。原発に厳しく対処しているイメー その時、定期検査より1カ月早く7月に大飯原 潮が出たり入ったりしている。太陽も風力もあ 波の力とか、瀬戸内海では4カ所ですごい力で 会を作ろうと思ったら、地熱はいくらでもある。 リ ー パ ー 日 本 は 案 外 恵 ま れ て い る。 中 央 パ ワーに従属している部分はあるが、分散型の社 ビナード 日本はやれるか。 ためには中央パワーは古い。 常に危ない。 オイルの値段はどんどん高くなる。 自給率を高めてオイルのない生活ができるよう 一人ひとりの自給率、あるいは家族、町、村の 高める必要がある。日本の自給率もそうだが、 リーパー いつかオイルはなくなる。その時の 準備としても地産地消が必要。みんな自給率を に戻らなければならない。 たちはみんなかなり怖くなる。 かもしれないが、心配いらない。日本は原発も る。地熱をやってほしい。日立という企業も原 の国は水で苦しんでいる。エネルギーは幾らで 来年からは順次動かす。核産業、原子力エネル 行った。ロシアと競争して原発を売ろうとして EO(最高経営責任者)が3週間前にプラハに ビ ナ ー ド ウ エ ス チ ン グ ハ ウ ス と[い う 会 社 が 東芝の傘下に入っている。そこのロデリックC [6] タートする。 年内にさらに2基の再稼働がある。 発をやらなきゃいい。核をやらなければいい。 核エネルギー政策も間もなくまた本格的にス リーパー 企業にとってもその方がよい。そん なに難しいことではないと僕は思う。 いう形で破綻するか、長期的なエネルギーの転 ビナード できるのにやってないね。方向転換 しようとすると米政府が怒るわけだ。 考えると、自由になったら地熱を簡単に使える。 かわからないけど、行き詰っていることは間違 換の中で遅れて破綻するか、どういう形になる もある。今、日本が地熱を使っていないのは核 る。何よりも日本は水の問題はない。たくさん だからオイルのない時代に戻る方が安全。その に準備をする、練習をする。それがなければ非 ギーは終わるのではなくて日本でさえこういう 産業の邪魔だったからだ。日本の技術とお金を ビナード そういうこと。政府には筋書きがあ 分散型でなければならない。 る。原子力規制委員会の新基準が7月に出る。 ビナード 技術を捨てるのではなく、回帰する。 昔、村々で食べ物もエネルギーも作っていたの 21 流れになっている」と。この話は参議院選挙ま ビナード 原発にしがみついていくと、電力会 では黙っていなければならない話だった。でも、 社も同じだと思うけど破綻する。人類の滅亡と [6]アメリカの総合的電機メーカー、現在は存在しない。原 子力部門は加圧水型原子炉のトップメーカーだったが、英国 核燃料会社を経て2006年東芝の子会社となった。 2013. 3.22 20 ≪ 47 ≫ らテロが日本に来る。アルジェリアのように日 う。テロ戦争の中でアメリカの仲間だとなった いる。僕が広島の王様だったらまず、南北は城 やす時にそれをエネルギーにするなど研究して 風力発電をどういうふうにできるか、ゴミを燃 セットにならなければ。ディズニーランドが電 ネームバリューのある人も動くという、それが と 必 死 の 覚 悟 で 闘 う 姿 勢 が あ っ て、 な お か つ 10 電した車だけ。ソーラーで充電は簡単にできる。 やがらせを受けるでしょう。あるいは米政府が 数億単位のお金を使って有名な人を雇ってス 味方です。脱原発は日本人の6割以上です。だ 業を廃絶するための動きでないといけない。 レディー・ガガとかシンディーローパーと[か。 あの2人は東北に行っている。そうして広島を 絶の話をするようにお金を出す。世界だったら リーパー ベリーグッド。 それを目指している。 ビナード リーパーさんのこれからのキャッチ フレーズは「ヒーローシマになろう」だ。ただ、 なくて「HERO(ヒーロー、英雄、 偉人)」に。 ポークスマンとして動いてもらう。日本だった ビナード リーパーさんはこれからヒロシマを らEXILEとかのレベルの人たちが核兵器廃 「ヒーローシマ」にしたいんだ。「HIRO」で 平和のメッカにする。毎年8月になると数万人 本気じゃないと観光のPRしてんだろうという [7] ではなくて数十万とか、百万人が平和式典に出 ことになる。 しているんですね。 思う。リーパーさんは森瀧さんを自分の足場に ビナード 広島が果たさなければならない役割 を一番わかりやすく語った人が森瀧市郎さんと リーパー それはわかっている。 るようにする。 人組のダンス&ボーカルユニット▽レ ビナード 有名人を雇ってPRするだけだった ら観光PRにすぎない。広島がディズニー・ア [ 7] E X I L E デ ィ ー・ ガ ガ ア メ リ カ の 世 界 的 な 人 気 女 性 音 楽 家 ▽ シ ン ディーローパー アメリカの歌手・女優 広島ジャーナリスト リーパー 怒る。アメリカは軍事大国だから、 輸出する都市になると言っている。すべての屋 トム・ランドになり下がる可能性もある。だか アメリカの後をついて行くと日本は痛い目に遭 根を使えばどれくらい太陽光で発電できるか、 ら核産業と、場合によっては米政府と日本政府 本人が巻き込まれる。まだ日本は世界で好かれ 通の広告でPRするようなことではいけない。 日本政府に対して、広島はなんとかなりません 南通りから2号線まで、東西は比治山から己斐 そんなに大きな電池は必要ない。新しいセット かと言ってくる。それでプレッシャーがかかっ ている。平和な国という評判はかなり残ってい ビナード 福島の原発事故があっても? リーパー イラクに兵を送った時にがっかりし た人たちがかなりいるが、でも多くの国と平和 さえあれば充電したセットと使うセットを取 てくる。でも闘える。日本人の被爆者の %は る。 的な関係を保っているから、友達がたくさんい り換えれば1日使える。そういうインフラが必 までガソリンを使う車は入れないようにする。 リーパー 闘う動きをみせたらまず日本政府か ら責められる。お金を取られるとか何らかのい る。今のところは。でもアメリカの味方として 要。経済よりも環境が大事だという意味だ。そ 電気自動車しか入れない。電気車も太陽光で充 テロに対する戦争をし続けると、攻められる対 86 象になると思う。で、日本を攻めようと思った んな都市になったら世界からもっと注目をあび からノーベル平和賞をもらえる都市になるかも ら簡単にできる。 日本人は自覚していないけど、 るでしょう。それを使って反核運動を強める。 しれない。もちろん核兵器廃絶、あるいは核産 日本はもう戦争できない国だ。こんな狭い国に もの原子炉がある。戦争したら真っ先に攻め られる。そして永遠に住めない国になる。 観光PRにはしない ビナード 広島はこれからどうしたらいい? リーパー 僕が広島の王様だったら、今言った イメージを一生懸命つくりたい。核兵器を廃絶 しようと思ったら、三菱東京UFJと三井住友 とみずほとは、取引しない。 ビナード 中国電力はどうする? リーパー ドイツのハノーバーは都市として電 力会社になろうとしている。 年計画で電力を 14 54 ≪ 48 ≫ ながる人だよね。 ジー以上に今、僕らが向き合っている問題とつ 生き物の非暴力について掘り下げた人だ。ガン ビ ナ ー ド ガ ン ジ ー は 核 の 時 代 を 語 っ て い な い。森瀧市郎は核分裂の連鎖反応にさらされた 生み出した。 決しないといけない。 リーパー はっきり出るのは事故が起きた時。 チェルノブイリとかスリーマイルとか、本当に ビナード 捨ての労働者は核産業に共通の問題だ。 道具として使われているのだから、どうでもい 原発の現場はどこでもそうだ。 危ないところでは誰かが犠牲になって問題を解 絶、反戦平和の運動を主導し「反核の父」と 40 も呼ばれる。根底にあるのは「核絶対否定」 45 論だが、当初からそう考えていたわけではな い。後に「恥ずかしい空想を抱いていた」 (渓 水社「核絶対否定への歩み」)と自ら述懐し ているように、56 年の日本被団協結成時の 宣言には原子力の平和利用に期待する旨の文 章を起草していた。初めて核絶対否定の理念 を明確にしたのはその 19 年後、75 年の原水 禁大会での基調演説。「核は軍事利用であれ 平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定 するものである。核と人類は共存できない」 と訴えた。福島原発事故を目の当たりにした 今、その理念の先覚性があらためて注目を集 ビナード どこで会った? リーパー (核実験に抗議する)慰霊碑前の座 り込みで何回か一緒に座ったことがある。でも いと思っている。そういう態度はひどい。使い リ ー パ ー 森 瀧 さ ん も ガ ン ジ ー の 話 を し て い た。彼の非暴力は核兵器から出た非暴力。核戦 この間、一貫して被爆者支援と核兵器の根 リーパー はい。彼は僕のヒーローです。 ビナード 森瀧さんに会った? 誘われてただ座っているだけで、それこそ本気 争を絶対に避けなければならない。じゃあ、そ ビナード 福島はまだ何も解決していない。 福島はまだ全体像が明らかになって リーパー いない。 ビナード 始まったばかりだ。 に 92 歳で没するまでその立場にあった。 リーパー 会ったことはあるが、その時に彼の 偉大さはわかってなかった。 ではなかった。 ビナード 理事長になる前のことですよね。 のためには戦争も避けなければならない。その リーパー ずーっと前。 広島に来てすぐのころ。 ためには暴力そのものがいけないと考えた。 娘さんの森瀧春子さんのことは全然知らなかっ ビナード 彼によると、ウラン鉱山からウラン 広島大文学部教授(倫理学)となる。自らの 被爆体験と哲学者としての文明論・平和思想 に根差し、原水禁運動の草創期から参画。55 年、広島市で開かれた第1回原水禁世界大会 の現地事務局長を務め、その後、日本原水協 代表委員、広島県被団協理事長、日本被団協 代表委員などを歴任。日本原水協の分裂後は、 65 年に発足した原水禁国民会議と県原水禁 の代表委員、日本被団協理事長などを務め、 91 年から原水禁国民会議議長となり、94 年 た。当然、市郎さんも。 リーパー 大阪で、東京に住むある女性と会っ 鉱石を掘りだして濃縮することも暴力だ。 リーパー 彼は愛の文明の話をよくする人だ。 た。 ~ 歳ぐらい。チェルノブイリのネック 力の文明から愛の文明へ。愛の文明は人々みん レス(甲状腺がんの手術痕)を持っていた。 広島文理大を経て 53 年、同大から移行した ビナード 春子さんに会って、そこから見えて きたということ? とともに被爆し、右目を失明した。戦後、旧 なに対する関心。ウラン鉱山では労働者への関 ビナード 甲状腺切ったんだ。 心はないか、足りない。彼らが病気になっても、 リ ー パ ー チ ェ ル ノ ブ イ リ 事 故 の 5 年 後 く ら 範学校教官となり、市内の造船所で動員学徒 リーパー そう、彼女に会って平和活動家にな ろうと思った。関心があるから情報が入るよう 森瀧市郎(もりたき・いちろう) 1901 年、 になった。 2013. 3.22 生かされてない森瀧思想 めている。 ビナード 森瀧市郎さんを生かしてないね、広 島は。全然生かしていないね。 リーパー そう。僕もそう思っている。理解し て い る 人 も い る に は い る が、 彼 の 本 当 の メ ッ セージは伝わっていない。 彼は自分なりの「非暴力」の思想を ビ ナ ー ド 彼 は ガ ン ジ ー と 肩 を 並 べ る 人 だ よ ね。 リーパー 広島市生まれ。京都帝大卒業後、広島高等師 ≪ 49 ≫ い。ちょうどピークの時なので彼女は絶対チェ いいと書いてあること。これはもうがまんでき 効果。もう一つは五つの国が核兵器を持っても 関係ある会社には絶対に投資しない。 ルウェーが既にやっている。国として核兵器に ているということですか。 編集部 リーパーさんは、 年の時点で核兵器 禁止条約ができてNPTにとって代わると考え し、アメリカは責められない。シーア派よりス 保有国に対する動きをつくろうとしている。核 は 静 岡 で[話 を 聞 い た。 壇 上 か ら だ け で な く、 個人的に聞いた話も考え合わせると、彼らは核 動いている。もう五つの国が核兵器を持っても だらけになる。それを恐れて今、ノルウェーが ㌦か損した話がある。だから、簡単に核保有国 リ ー パ ー あ る 意 味 で は 危 な い。 メ キ シ コ が ちょっと動いてアメリカから報復され、何十億 日から3日間、静岡で開かれた第 回 カ国・3国際機関の外交官、専門 広島ジャーナリスト ルノブイリの影響だと確信している。証拠はな いう時代はもう長くないでしょう。みんなはイ 2015年に核兵器禁止条約も ラン、イランと言っているが、国連で聞いた話 いんだけれど。 ない。特に中近東の国は1995年から段々そ ビナード チェルノブイリの「死の灰」は日本 う考えてきていて、とにかく中近東で非核宣言 にも降った。 病例が増えたというデータもある。 をする自治体をつくらないと我々は核を持つぞ リーパー 日本全体が汚染された。大阪のホウ レンソウにセシウムが入っていた。 では先にサウジアラビアが持つだろうという。 リ ー パ ー そ の 可 能 性 は あ る。 ス イ ス や ノ ル ウェー、デンマーク、ニュージーランドの動き ンニ派が先に持たなければならないと思ってい と言っている。ユダヤ人だけが核兵器を持つと ビナード 僕の知り合いの一人も、男性なんだ けど、若い時に甲状腺がんになって、時系列で な ぜ か と い う と、 サ ウ ジ は 金 を 持 っ て い る と思う。 る。スンニ派が先に核兵器を持つためにサウジ 兵器禁止条約をつくるとはまだ言っていない。 [8] 見ると同じようにチェルノブイリ事故の影響か リーパー ここで働いていた人で、あなたと一 緒に食事をしたポーランド人がいるだろう。 がまず持ち、たぶんアメリカはそれを許すだろ 根回しが必要だと言ってる。 統計に表れないが、そこが放射能の恐ろしいと いいという条約は受け入れられないというわけ 相 手 に 闘 う こ と は で き な い。 か な り 大 き な グ ビナード まだ、どういうタイミングで、どう いう動きが出てくるかは読めない。 ころだ。 で、NGOの人たちはもうNPTの会議には行 ◆編集部による補足質問 ループをつくらないと。 条約という話が出る。もちろん核保有国は反対 オ ス ロ 会 議 で は、 2 0 1 5 年 に 核 兵 器 禁 止 編集部 先ほどリーパーさんからNPTは長く ない、もう終わるという話があった。もう少し 編集部 オスロ会議というのがその一つの表れ ということでしょうか。 かないと言っている。 リーパー 彼女の住んでいた近所でたくさんの う。だけど、スンニが核を持つようになれば絶 人が甲状腺がんや他のがんで死んでいる。チェ 対にシーアも持つ。サウジとイランが核兵器を ルノブイリの影響だと思って日本に移住した。 持つようになればエジプトも持つ。中近東は核 ビナード ああ、はい。 15 リーパー そうだ。非保有国が核保有国に対し てもうやめなさいというメッセージを発してい 013年1月 24 する。でも、160とか170とかの国がサイ [8] 家たちが参加した。 国 連 軍 縮 会 議。 米 国 な ど 30 詳しく説明してください。 るよ、と。例えば銀行から金をおろすとか。ノ リーパー これは僕の意見というより、周りに ン す れ ば、 も う N P T は 関 係 な く な る。 そ し いるNGOの人たちがだんだんこういう考えに て、それを使って核保有国にプレッシャーをか なっている。NPTには悪い役割が二つある。 ける。核廃絶しなさい、でなければ制裁を加え 一つは、ビナードさんが言ったように原発推進 16 2 ≪ 50 ≫ 編集部 もう一つ聞きたい。選挙で政治は変わ らないという話。日本で昨年 月にあった選挙 を出した。 る。彼らは静岡ではっきりそういうメッセージ いいかということしか考えていない。 持っているのはお金だけ。利益をどう増やせば かもコントロールしている。その企業が関心を リ ー パ ー そ う、 円 で 闘 う こ と。 あ る 意 味 で、 政府はもう要らないと思う。ウェブサイトさえ ないといけないということですか。 いった行動でないと変わらないと。 いるような、銀行からお金を全部引きおろすと すよね。経済的な行動、今ノルウェーでやって わらない、とリーパーさんは思っているわけで 有権者が一票を行使するという形では政治は変 のことも含めてだが、こういう選挙制度の下で 人たちだ。 動かしている。想像できないほどの力を持った そして、そんな企業は、超金持ち層の人たちが かに捨てたいと考えたとき、法律を変えてそれ 彼 ら は 法 律 も 変 え て い る。 汚 い も の を ど こ けば、例えばある銀行からみんながお金をおろ んな会社も倒すことができる。一人ひとりが動 のいいように政治家をコントロールしている。 言う通りにすれば政府を倒すことができる。ど ができるようにしてもらう。自分にとって都合 してしまえば、その銀行はつぶれるし、ある店 イトというのが出てきて、みんなそのサイトの ブサイト。例えばアーサー・ビナードさんのサ あればコントロールできる。一つの大きなウェ じるような人は選ばれない。今の日本の選挙制 な企業がすべて操っている。庶民の意見を重ん うだ。しかし、国レベルになると、政治は大き 編集部 日本でもそうですか。 ないというのも方法。 思っている。あるいは、そういう企業では働か 使い方を通して闘うしかないんじゃないかと じで、円で闘うことが、ものすごく大事だと思 では思わない。けれど、僕もリーパーさんと同 ビナード もう投票に行かなくてもいいと誤解 されてはいけないので一言。選挙が無意味とま そ ん な 人 た ち と 対 等 に 闘 お う と 思 っ た ら、 をみんながボイコットすることができれば、そ リーパー 選挙は、まちの中では意味がある。 議会に誰が出ているか、小さいまちでは特にそ たくさんの人が協力して円とかドルなどお金の の店はつぶれる。政府は関係ない。 度はよくわからない。政党の名前すら覚えられ リーパー 民主党と自民党の違いはほとんどな い。日本のいいところとしては社民党とか共産 円、 はどこの傘下にあるか、どこの資本が支持して あるものを見抜いていないといけない。この店 100円のお金を使う時、表面ではなく、奥に うするかを考えて行動するということ。 う。それは、自分の生活に密着したところでど ない。誰がどういうことをしようとしているか いるか、どういう基本姿勢なのか…。例えば食 も。アメリカでは、民主党も共和党も金でしか 力があって、この人に投票しなさいと指示する 品関係だったら、原材料はどんなものか、モン 党とかいうチョイスもありえるのだが、会社は とも聞いている。結局、アメリカと同じだ。多 係ない。金融企業、 ゴールドマンサックスとか、 自分のところで働いている従業員にすごい影響 動かない。普通の人の意見なんか無視、全然関 くの党は自民党から分かれて出た派閥みたいな サントの遺伝子組み換え作物を使っているかな ビナード 政治家はああいう企業には逆らえな ああいう企業に反対できない。 い。 ど、いろいろ考えて選択する。 でも、政治だけ変えて世の中が変わると思って をつくっていけば、政治を変えることもできる。 めて行動し生活する人たちが増えて大きな流れ そういうふうに物事の奥にある問題を見極 もの。あまり変わりはない。結局はノーチョイ 編集部 そんな政治を変えるには闘い方を変え 毎日が選挙で投票なんだ ス。誰を選んでも結果は同じか、それに近い。 50 リーパー マケインもオバマも懲りて、みんな 金融界の言うとおりに動く。だから誰を選んで も変わらない。議員たちは誰もが大体どこかの 企 業 か ら た く さ ん の お 金 を も ら っ て い る。 も らっていなければ、その地位にいられない。だ から、その企業の言う通りにする。企業が何も 2013. 3.22 12 ≪ 51 ≫ 脱 原 発 を 訴 え、 デ モ の 先 頭 に 立 つ リ ー パ ー さ ん = 右 か ら 2 人 目。 日) 中央は森瀧春子さん (2012年3月 生活者が自分の望む世界をつくりだすためにど ユーロとウオンと元によって支配 まり財力=権力である円とドルと 人が動く。官邸に座り込みをしようと呼びかけ うと呼びかけると、100万人、200万人の 具体的にはウェブサイトをつくりたい。日本 の核産業を動かしている銀行をボイコットしよ くりたい。 ヨーロッパではよく知られている。このICA 広島ジャーナリスト は 投 票 で は 選 ば れ な い。 お 金、 つ し て い る。 政 治 の 向 こ う 側 に あ る 脱 原 発 の 運 動 に つ い て も 同 じ。 原 編集部 理事長をしていて「ヒロシマに欠けて いるもの」を感じませんでしたか。 本 当 の 勢 力 を 見 な い と い け な い。 たら何十万人も動く。そんなウェブサイトをつ 発 を や め よ う と 言 っ た っ て、 単 に そ れ だ け で は だ め で、 核 と つ な げ て考えて、初めて全体像がわかる。 リーパー 核兵器の破滅的人道上の問題。広島 ほどそれを教えてくれるところはない。広島は 核兵器廃絶に向けて中心的な役割を果たせる 原 発 は 核 の コ マ ー シ ャ ル、 核 ビ ジ ネスの一つの戦略にすぎない。 かわっているICANという運動は、日本では し、果たさなくてはいけない。しかし、私もか 編 集 部 そ の こ と を 学 ん だ り 教 え たりすることが必要になる。 市民運動の場が本当の学校になら Nを日本で大きくしたい。私のこれからの課題 ビ ナ ー ド こ れ は 学 校 で は や ら な ほとんど知られていない。オーストラリアとか いから、市民運動がやるしかない。 イタリア、アメリカの一部、ノルウェーなど北 なければいけない。 だ。日本は核産業を廃絶する可能性のある国で、 その使命を持つ国だ。核と闘うには日本が一番 ていなかったことを見えるようにしてくれた。 リーパー 少しの間離れ るけど、また来ます。 いい。ここで負けたら、人類の自滅。日本での その枠組みを今、話し合っている。この6年間 闘いが勝負だ。 たということで終わっちゃう。そうじゃない。 していた。そんな状態では、妻は彼女自身の社 母国の歴史を見るときにもいろんなことをあぶ ういう消費行動を取るかが大事。それには学習 会活動ができない。これからは、私が行ったり 編集部 ビナードさんはこの点どうですか。 来たりするようにする。妻は米国アトランタを り出してくれた。広島と一緒に歩んでいくのは は 私 が 広 島 に い て、 妻 は 両 親 の 介 護 も あ っ て 毎日が選挙であり、投票なんだ。 ベースに活動する。私は行ったり来たりするけ 当然のこと。ある意味、広島は師匠みたいなと 米国と日本を2、3カ月ごとに行ったり来たり 編 集 部 政 治 を 操 っ て い る 本 当 の 黒 幕 と い う か、実権を握っているものに目を向けよという ど、あくまで広島をベースにする。広島を「ヒー ころがある。 と教育が欠かせない。これを抜きに政治を変え ことですね。 ローシマ」にする、これは絶対にやりたい。 ようとしても、一つの選挙が終われば残念でし ビナード そう、彼らは選挙には出ない。彼ら ビナード 広島の人がわかっているかどうかは 別にして、広島での体験が、それまで僕に見え いたらだめ。政治は既に企業の飼い犬になって 編集部 リーパーさんは理事長をやめると、広 いる。それなら企業の勢力とどう向き合うか。 島を去るのですか。 11 ≪ 52 ≫ アメリカ人なのに、なぜ日本でこんなに活動 しているのか、広島の絵本をつくるのか、と聞 かれることがある。でも、それは不思議なこと リーパー 私もそう思っている。秋葉市長に「岩 国へ厚木から艦載機がやってくる。反対運動に もっと言うべきだ、という意見もあります。 私は時間がないと思っている。急いでいる。 経 済 崩 壊 は 明 日 に で も 起 こ る 可 能 性 が あ る。 いる。松井市長もそうだ。 民も被曝したし、米兵も被曝した。みんな一蓮 きで語れる問題じゃない。マーシャル諸島の島 を浴びたビキニ環礁の水爆だって、人種の線引 対立していては勝てない。第五福竜丸が死の灰 い。それらを廃絶するためには、人種なんかで 料も核分裂性物質も人種なんか気にしていな 問い合わせもしない。同じように核兵器も核燃 人かどうかを聞かないし、個人の思想について 本人か、と聞かない。プルトニウムもアメリカ セシウム137は国籍を問わない。あなたは日 菱、みずほと闘うのは危ないことでもある。で になる。それは簡単な闘いじゃない。住友や三 は、軍隊、基地の問題で、中央政府と闘うこと そんな企業に逆らうことは難しい。岩国の問題 かった。ICANならできる。理事長でなくな た。だから行動できなかった。運動に加われな しなさい。何でもかんでもはできないぞ」と言っ 上関原発でもそうだった。彼は「核兵器に集中 ろう。 われなくても、たくさんの原発が爆発されるだ めの戦争の中で核兵器が使われる。核兵器が使 混乱が起きてもおかしくない。急がないといけ 秋葉さんは言わなかったけど、よく考えると、 中国電力は広島でナンバー2か3の力がある。 ない。「平和文 化」をつくらない と、資源のた れば、活動家として存分に活動できる。 例えばイランとイスラエルの問題。戦争にな れば、イランは真っ先にイスラエルの核開発施 資源争奪の戦争は避けられない。いつ、大変な は、いずれ崩壊するしかない。今のやり方では、 は崩壊する。永遠の成長を前提にした経済制度 でもない状況だ。これが続くと、米国の大都市 国では5人に1人は十分に食べていない。とん じゃない。線引きに意味があるとは思えない。 私も参加したい」と話したら「ノー」と言われた。 ヨーロッパを見ればわかる。米国もそうだ。米 托生なんだ。僕は生き物として、やらなくちゃ も、その時が来た。今後 年か 年で人間は自 いけないことをやるだけ。僕がイノシシだった たら、魚なりにね。 ら、 イノシシなりにやろうとするだろう。魚だっ う、中央政府と闘う、米国と闘う必要がある。 滅するところまで来た。どうするか。中電と闘 ラエルは、イランと戦う前にディモナを止める 設ディモナを攻撃すると言っている。逆にイス らだ。 と言っている。必ず攻撃されると考えているか 時代から卒業する必要がある。 この問題で涙を流したのを見たことがある。被 アルカイダも米国に対し、「アメリカのヒロシ 同 じ よ う に、 日 本 が ど こ か と 戦 争 し よ う と 今の松井一実市長は悪い人じゃない。放射能 の問題は、自分の問題として受け止めている。 すれば、真っ先に大飯原発が狙われるだろう。 編集部 広島から県境を越えて山口県に入ると 米軍の岩国基地があります。その先には上関が マ」という名前の原発攻撃計画を持っていた。 だけど、彼は中央政府に長く勤めていた。政 府と闘いたくない。政府を信じている。外務省 という思いがあるんですか。 編 集 部 大 変 な 危 機 感 を 持 っ て い ら っ し ゃ る が、理事長をやめる理由に「もう時間がない」 原発は絶対に狙われる。 爆者と話していて流した。核兵器はない方がい の で し ょ う か。 平 和 文 化 セ ン タ ー の 理 事 長 と のやり方でいけばだんだん平和の意識が高ま リーパー そうです。時間がない。もっとフリー そして上関原発建設について発言しなくていい して、広島市長の役割をどのように見ていらっ り、結局、核兵器はなくなると外務省は思って 島市長は、米軍基地、艦載機移転、オスプレイ、 いと思っている。 あります。中国電力の原発建設予定地です。広 原発・基地とどう向き合う 日 本 に 米 軍 基 地 は い ら な い。 日 本 は 植 民 地 30 しゃいましたか。広島の市長は言うべきことを 2013. 3.22 20 今、米国ではジョージア州とアラバマ州、フ ロリダ州の間で、大変な水の問題に直面してい 編集部 今日は長時間の対談、ありがとうござ いました。 するということだ。 しない。理性に基づいた話し合いで物事を解決 でないと十分に動けない。理事長になって世界 争して決着させる考えはない。中央政府がその く る 必 要 が あ る 。 そ の た め に 、 平 和 文 化 の モ デ 中から寄せられる情報を見てきた。当初は核兵 ルをつくらなくてはいけない。 ようにコントロールしているからでもない。3 器をなくせればいい、と思っていた。急いでも 編集部 「平和文化」とはどんなものですか。 州は話し合いによって、水を分かち合い、平和 いなかった。でも今では、急いで「平和文化」 的に解決しようとしている。これが、私のいう リ ー パ ー 非 暴 力 の 文 化 と も 言 え る ん だ け ど 、 「 平 和 文 化 」 だ。 戦 争 に よ っ て も の ご と を 解 決 もっとわかりやすく説明しよう。 をつくりだすことが大切だと思っている。オイ かく、たくさんの人たちが自給自足の暮らしが る。かつて経験したことのない干ばつに見舞わ ルがなくなって戦争が起きれば終わりだ。とに できるようにする。競争しなくて生きることが れ、水がない。ところがすべての川は、ジョー 退職。2010 年 5 月、ひろしまジン大 できる人たちを増やしたい。 広島平和文化センターに2年間勤務し ジ ア 州 を 通 っ て か ら 他 の 2 州 に 流 れ て い る。 歳で帰郷。平和記念資料館を管理する ジ ョ ー ジ ア 州 は、 そ の 水 を 止 め て 使 う こ と も などの人材育成、教育案件を担当。30 【 編 集 部 注 】 対 談 は 2 月 に 行 わ れ た た め、 その後の動きを反映していない部分があり ます。 も含め、東南 編集部 若い人たちにも、メッセージがおあり ですか。 といえば、先日、原爆資料館の理事長がアメリ アジア、中央アジア、中米、アフリカ できる。水 不足は州民の死活問 題だ。しかし、 ◆出会い カの人になったって記事が出てたよ」と教えて 構)への出向 ジョージア、アラバマ、フロリダの3州は、戦 初 め て ス テ ィ ー ブ に 会 っ た の は、 2 0 0 7 くれました。「え っ?資料館のトッ プが原爆を に 入 る。JICA リーパー 彼らは大変大きな問題に直面してい る。平和な地球をつくる、持続可能な社会をつ 年5月の下旬。彼が平和文化センターの理事長 落とした国、当事者のアメリカ人?広島は何か 平尾 順平 に就任してからちょうど1カ月がたったころで おかしくなったか」と言ったのを覚えています。 した。 (国際協力機 定でした。帰郷後、 大学時代の友人たちと集い、 していたということ、心理学の勉強をしていた の廃絶だけとなっていないか。世界に発信すべ 私 は そ の こ ろ、 広 島 は 平 和 と 言 え ば 核 兵 器 いました。 人であり、広島にその必要性を説いていると思 協力センター き平和は、もっと広義で日常の中にもあるもの そ の 記 事 が 気 に な り、 帰 宅 後、 過 去 の 新 聞 法人日本国際 ということ、年齢は私の父親と同じということ 私 は 7 年 間 働 い た 東 京 で の 仕 事 を や め、 そ 学部卒。財団 飲みながら広島や平和に対する個人的な想いを やネットで調べました。名前はスティーブン・ 島市立大国際 から始まっており、広島はそのように広い意味 リーパー氏。理事長になる前は翻訳の仕事等を 県生まれ。広 などとともに、平和を広い意味でとらえている の年の4月にいったん広島に戻り、夏からイギ ひらお・じゅんぺい 1976 年広島 熱く語っている時でした。友人の一人が「平和 リスの大学院で公共政策を学ぶべく留学する予 学を立ち上げる。 わが師リーパーさん ≪ 53 ≫ 広島ジャーナリスト ≪ 54 ≫ ではないか、 と考えていたこともあり、 彼に会っ での平和を希求し、体現していく必要があるの このようなイベントに関わるのは初めてでし ボ ラ ン テ ィ ア と は い え、 広 島 に 帰 っ て か ら ◆財団勤務 そ の 後、 私 も 年4月~ 年3月まで平和 文化センターに勤務し、スティーブとは上司と た。予想した以上に参加者が少なく、なるほど 彼 と の 初 め て の 出 会 い は、 そ の 数 日 後 に 参 広島でこういうイベントを開催したら、大体こ てみたいと思いました。 部下(と言っても、名簿上は一番上と一番下で に快く応じてくれ、彼がこのポストに就いた理 が、それも環境問題の解決も平和の一部、とと もそもは地球温暖化に対する啓発イベントです 初 対 面 に も か か わ ら ず、 突 然 話 し か け た 私 なあということが分かりました。この企画、そ 活動」の手伝いをしていました。 なやり取りはほとんどなく、相変わらず「課外 したが)になりました。が、仕事上での直接的 またタイトルに現れていると言えばもう一 そ の 後、 さ ま ざ ま な 活 動 を 独 自 に 興 す こ と ◆活動 由やこれまでの経緯、そしてこれから広島でし 緒に広島を盛り上げよう、と言われ、その言葉 を始めました。 二人で「平和交流会」という月に1度の交流会 ちが定期的に集い、 語り合える場をつくろうと、 という思いから、まずは平和に興味のある人た ルで) 、「一緒になって」動いていく必要がある、 もっと大きなレベルで(ともに共感できるレベ も大切だけど、広島で平和活動をする人たちが らえて取り組むスティーブの姿勢が、タイトル に「留学は自分のタイミングで行けるけど、彼 した、ということもありますが、彼は平和に関 こ れ 以 降 も、 広 島 で 平 和 イ ベ ン ト を す る 際 い、と強く思っていたからだと思います。 人ぐらいの方が参加し、自分たちの活動を紹介 1、2年は年配の方から高校生まで毎回 3 年 目 か ら 参 加 者 は 減 り ま し た が、 最 初 の を見つけて合同開催にしようと言ったりしてい したり、NPTなどのイベントに向けて広島か には必ず長崎の動きを聞いたり、長崎に賛同者 ました。逆に長崎に何らかの動きがあれば広島 ~ そ の よ う な わ け で、 主 に 彼 の オ フ( 理 事 長 もやろう、とか、広島を訪れる観光客には長崎 ら何ができるか、と言ったことについて意見を ◆一緒に にも行ってもらおうという意気込みでした。彼 正しい判断だったと思っています。 結 果、 勢 い と 情 熱 だ け で 判 断 し ま し た が、 ま、高揚していたのかもしれません。 島 に 戻 っ て き て ま だ 右 も 左 を も 分 か ら な い ま する動きは常に長崎と一蓮托生で行っていきた ば!」と勝手に熱くなりました。今思えば、広 し か な い。 こ の 機 会 に い ろ い ろ と 進 め な け れ 彼がこのイベントに長崎のロックバンドを招待 が理事長としてこの組織にいる期間はこの機会 つ、 Hiroshima とともに Nagasaki (長崎)とい う言葉が入っているということ。これは単純に 逆 に 私 の 想 い も 話 す と、 グ レ イ ト、 ぜ ひ 一 にもよく表れていると思います。 ていきたいことなどを話してくれました。 加したイベントの場でした。 れぐらいの年齢層の人たち、人数が集まるんだ 10 30 40 現地で活動している方々と交流していました。 また彼はガンジーに対する敬愛の念も厚く、 Earthと一緒に活動していた頃は、当然毎年8月9日 出し合ったりしました。ここから生まれた活動 には広島の若者数名を引き連れて長崎に入り、 の一つが「Yes! キャンペーン」でした。 としての仕事以外)の活動など手伝うようにな り ま し た。 最 初 に 一 緒 に 行 っ た の は、 「 」というイベント。 Peace Hiroshima Nagasaki 年の7月7日に開催された世界規模の地球温 いました。 です(笑) 07 10 24 は資料館の職員の方々に夜中勤務を強いるとい 2013. 3.22 08 暖化防止イベント「 Live Earth 年の 月からガンジーの誕生日を祝う 時間 」の関連(応援) ちなみに、今でも彼が写真を撮る時の掛け声は、 企画として、平和記念資料館の地下を使って行 「 は い! チ ー ズ!」 で は な く、「 な が さ き ー!」 の断食イベントを平和公園で始めました。時に 07 ≪ 55 ≫ 普段は平和についての硬いイベントは開催され 味を持ってこなかった人たちが参加してくれま 果、多くの若者や平和にはこれまでそれほど興 であり、その「何かを貫き通すには痛みを伴う という強い覚悟とメッセージを、私はスティー した。 流川のバーで若者たちに授業するリーパーさん ブ本人の姿勢からも受け取っていたように思い こ と が あ る が、 そ れ で も 動 か ね ば な ら な い 」、 ないような流川のバーで開催しました。その結 ます。 屈 託 の な い 彼 の 笑 顔 と、 ユ ー モ ア を 含 ん だ の場に限らず大変多く、彼の周りには年配の方 彼のまじめな話に引き込まれる若者はこの授業 ◆ひろしまジン大学 そ の 後、 私 は、 生 涯 学 習 と 街 づ く り を 主 な はもちろんですが、若い人たちがいつも取り囲 た活動で、学びと同時に、人と人、人と地域の「繋 を知り、学ぶ必要があるとの考えから立ち上げ 身が暮らし、関わっているこの街、地域のこと なかでも「若者や、これまで自分は平和に関す し遂げたことはたくさんありますが、私はその ス テ ィ ー ブ と 知 り 合 っ て か ら 6 年、 彼 が 成 ◆スティーブから得たもの んでいたように思います。 活動とした特定非営利活動法人ひろしまジン大 学を立ち上げました。これは、広島のこと、平 がり」づくり、また主体的に地域に関わる住民 ることから遠いと思っていた人たちを、少なか 和のことを考えるには、まず何よりも、いま自 自治の仕組みづくりも、活動の目的としていま 平和活動や環境に関する活動等は一部の人たち イメージで発信し続けることで、その輪は勢い キッカケをつくった)」こと、「平和をプラスの す。広く多くの方に関わってもらわなければ、 らず平和というテーマに近づけた(考えてみる の特別な活動として、ある意味で閉じたままで を増して広がっていく」ということの体現。そ して何より、「平和を希求して行動すると同時 終わってしまいかねないと考えたからです。 代での働いている に、まずはその人自身が平和的で在ること」を ~ 自身の在り方(生き方)で示していること、の 参加者の多くは 人 た ち で、 現 在 で は 広 島 市 内 か ら を 中 心 に 約 せてほしいと加わってこられました。 や訪問客の方が一緒に祈らせてほしい、参加さ ンジーのメッセージに共感する世界中の観光客 し、実際に私たち市民にできることを考える授 で何が議論されているのかを分かりやすく解説 こ の 活 動 の な か で、 ス テ ィ ー ブ に は N P T 鉢(心)に種を植え付けられるようにすること かりと芽を出し、花を開き、実をつけて、次の 彼 が 私 た ち の 心 に 植 え て く れ た 種 が、 し っ にある避けられない犠牲なども含んだ「覚悟」 つもとは異なる参加者に来てほしかったため、 取り組んでいくべきことの一つだと思います。 非 暴 力 を 説 く ガ ン ジ ー の「 覚 悟 」 は そ の 先 が、私たちの世代の役割であり、覚悟を持って 開催する授業の「場」に参加いただいています。 三つが強く残っています。 1700人の登録があり、実際に月に5回程度 30 広島ジャーナリスト (2010年6月) 年まで5年 うご無理をお願いしながらも、彼自身が出張で 広島におらずに開催できなかった 間継続して開催しました。 20 業(座談会)の「先生」を担当してもらい、い 昼間に開催していると、 「非暴力」というガ 12 ≪ 56 ≫ えぬ「違和感」を覚えた。 永田選 際教育研究会事務局次長。広島高 平 和・ 国 校生平和ゼミナール世話人。世界 の子どもの平和像(せこへい)ヒ ロシマ事務局長。著書に「世界史 「ヒロシマ 希望の未来」(平和文 をつくる子どもたち」 (平和文化)、 化)、 「観光コースでない広島」(高 評価していることが分かる。広島と福島を差別 ( 年7月 日) し、分断しているともいえ、 しかも実際そう思っ この歌を、最初に「朝日歌壇」 で選んだ時、永田氏は次のような評を書いてい ても「言ってはならぬ」のである。 核時代を生き抜く知恵はあるか。「言ってはな か。「ヒロシマを繰り返すな」の願いはあるか。 る。 〈選者評 〉大竹さん、重い歌だ。 原発事故に よる被曝量を聞いて、被爆者としては「あれし う時、そこに被爆者としての深い悲しみはある き」と言いたくなることも。何ごとにせよ、つ い「私に比べたら」と言いたくなるものだが、 ら ぬ 」、 人 類 が 生 存 か 死 滅 か の 岐 路 に あ る 時、 としてある時、思考停止してよいか。 被爆者は沈黙してよいか。核被害が現実のもの は深い」とかいうような言葉=評はどうか。そ 「言ってはならぬ」という厳しさは全てに通じ る。 れは、この歌を、さらに罪深く、胡散臭いもの 〈評〉 「私に比べたら」と言いたくなるのが人 さて、「あれ しきの被曝」という のは、東電 福島第1原発事故による被曝のことである。そ ば批判されるから、言わぬのか。 にしているのではないか。 そ ん な 時 に「 『言ってはならぬ』という厳し さは全てに通じる」とか「原発への視線に葛藤 して、選者 が「『私に比べたら』と 言いたくな 作者は「あれしきの」と思うのだが、被爆者 としてはそう言うことが許されない、そう言え の性。原発への視線に葛藤は深い。 被 爆 体 験 を「 ア メ リ カ へ ヒ ロ シ マ か ら 」 と るのが人の性」とか「何ごとにせよ、つい『私 し て 出 版( 2 0 1 1 年 に は 英 語 版「 Masako's と比べたら』と言いたくなるものだが」とか書 いているのを見ると、「あれしきの被曝で何を 作者は、大竹幾久子氏。アメリカ在住の被爆 者。5歳の時に広島で被爆。2003年に母の 騒ぐか」と考えているのは、「被爆者」である うか。短歌は渡米後に始めました。 いますが、在米四十余年の被爆者だからでしょ (アメリカ)大竹幾久子 「言ってはならぬ」、その理由は「我は被爆者」 だからということだが「あれしきの被曝」とい 文研、共著)など。 あれしきの被曝で何を騒ぐかと。 ある受賞短歌に覚えた「違和感」 高校教諭。 作者自身で、その作者が広島での自分の被爆と 洋史)。元 人、細胞生物学者、京都産業大教授、京都大名 程修了(東 新年1月7日の朝日新聞で、第 回「朝日歌 壇賞」の発表があった。2012年の入選歌か 院修士課 比べて福島の被曝を「あれしきの被曝」と過小 島大大学 誉教授。短歌結社「塔」主宰。宮中歌会初の選 72 年 に 広 者でもある。 市生まれ。 ら4選者が各1首を選ぶ 「歌壇賞」 。 そのうち「永 さわの・しげお 1947 年京都 田選」の受賞作と選者評を読んで、なんとも言 選者は、永田和宏氏。現代日本を代表する歌 澤野 重男 30 我ながら随分はっきりと歌ったものだと思 あれ しきの被曝で何を騒ぐかと言っては ならぬ我は被爆者 12 」も出版) 。被爆証言活動にも活発に取り Story 組んでいる。 2013. 3.22 29 ≪ 57 ≫ だし、将来に生かさねばさならないと思うので す」という立場を、私は支持する。それが若松 口にも出せない」。そんなことを、彼女は言った。 氏を「フク シマの『語り部』」にし ているのだ ところで、稲塚秀孝氏(「フクシマ2011」 から。 歌人・大竹幾久子氏にも、広島・長崎と福島 と の 共 通 性 を 発 見 し て も ら い た い。 「放射能は 射線を出し続けて 内臓を壊していくのだとい う」 (「 Masako's Story 」 ㌻ )。 大 竹 氏 は、 自 らの放射線被曝を、このようにうたう。Ntb こにある。 テ レ ビ の イ ン タ ビ ュ ー で は、 「核兵器は使って は い け な い 」「 非 人 道 的 だ 」 と も 話 し て い る。 大竹氏の短歌は「あれしきの」限界をこえて、 いう印象を持った。チェルノブィリの原発事故 かいうのを聞いて、 「低線量で騒ぎすぎる」と 故 に つ い て、 放 射 線 量 が 何 と か シ ー ベ ル ト と その番組によると、大竹氏は、福島の原発事 ぼす『核による構造的な人災』との認識から『核 空間的にも時間的にも広範囲に被害の影響を及 は原発を『核発電』と表記します。原発事故は と原発は本質的に同じだと意識するために、私 核兵器は核エネルギーの『悪用』であり、原 発は確信犯的な『誤用』だと思います。核兵器 かぎり、未来への希望はない。希望の未来とし 列」にとらえ、核被害のない世界を目指さない ら福島が分かるわけではない。広島が福島を 「同 と空間をつくっているのではないか。広島だか 【 追 記 】 じ つ は「 あ れ し き の 」 と い う 意 識 は 広島市民の間にも広くある。それが広島の時間 たい。 の時のように、小さい子の健康診断を将来にわ て の 広 島 の 課 題 は、 福 島 か ら 学 ぶ こ と で あ る。 人類が「生きるために」 。 う 思 想 」( 松 元 寛 ) の 創 造 へ の 期 待 で も あ る。 大竹氏の歌の再生への期待は、「ヒロシマとい 災』と表現しています」 だったか。傷の手当てもなかった。放射能のこ 同列に語り、扱うことに、意味があると考えま 詩人・若松丈太郎氏の「広島・長崎と福島を と思う。 「優遇されている」と思う。これらの す。同列に考えることで共有可能なものを見い とも知らなかった。今は「まあ、手厚いこと」 気持ちから短歌を詠んだが、 「なんとまあ言い 広島ジャーナリスト 「言ってはならぬ」ことを「厳しさ」 にくいことをズケズケと言ったものだ」「アメ 選者は、 というのだが、ほんとうにそうか。それが「全 リカにいるから言えたと思う」「日本にいれば てに通じる」というのは、単なる身過ぎ世過ぎ の方便ではないか。 原発への視線に葛藤はいかに深くとも、「そ の映画監督・プロデューサー)が、彼のブログ の葛藤は深い」というより、むしろ「その葛藤 ( 年8月 日)で、詩人の若松丈太郎氏が「福 「米国在住の被爆者の女性が、複雑な思いを 短歌に託し、新聞に寄せていました。 骨髄に取り付いて 私の寿命よりも長い間 放 思うに、福島の被曝への過小評価。そして広 島と福島を分断する視点。そのような評価と視 その思いを、大竹氏自身の体験に重ねて、広島 島民報」に寄稿した文章を紹介している。 点を表明して、しかも「言ってはならぬ」こと 『あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはな らぬ我は被爆者 大竹幾久子』 …福島の被曝を『あれしき』と思う人がいて と福島を「同列」に語り、扱えるようになる時、 とする思考停止。私の「違和感」の原因は、こ 当然です。しかし、私は広島・長崎と福島を同 新しい歌として再生するのではないか。期待し だし、将来に生かされなければならないと思う 1月 日、米国在留邦人向けのNtbテレビ 列 に 語 り、 扱 う こ と に、 意 味 が あ る と 考 え ま が、大竹幾久子氏のインタビューを放送した。 す。同列に考えることで共有可能なものを見い は不快」だ。そこからは、核被害のない世界へ 15 た っ て す る と い う が、 私 が 被 爆 し た 時 は ど う 後日、ユーチューブで確認した。 89 の展望をひらくことはできない。 12 いを語ってもらった」 という紹介があったので、 のです。 「今回の受賞短歌に込められた、大竹さんの思 26 被曝対策、早期発見・治療を 福島県いわき市で市民による放射能測定や原発事故の刑事責任を問う原発告訴団などに取り 組んできたいわき市議の佐藤和良さんが1月 日、広島市中区の原爆資料館会議室で「福島の 佐藤 和良 れ。88 年脱原発福島ネットワー クの結成にかかわり、世話人とし 毎月、東京電力交渉に参加、同ネ ットワークのニュース「アサツユ」 を毎月発行してきた。2004 年9 月無所属市民派でいわき市議当 選、 3 期 目。 3・11 後、 県 民 が 食べ物や身の回りの土壌などを持 ち込んで放射能を測定できるよう に「いわき放射能市民測定室たら ちね」を立ち上げ、理事を務める。 事故時の東電幹部や政府、医学者 の刑事責任を問う福島原発告訴団 ーシのアトムテックス社製の140万円の食品 お願いしたら、広島市民の皆さんから、ベラル がいしたときに、「是非ご支援を賜りたい」と や県に要請すると同時に、いわき市も独自にそ いうことで、私も当初から議会で質問して、国 検査をきちんとやっていかなければならないと ですから、いわきに住む私たちとしては甲状腺 わきから茨城にかけての汚染がひどいのです。 ういう態勢を作っていかなければならないとい う提案をしています。しかし、いわき市当局は か早期発見、早期治療という形でやっていきた ようやく昨年の 月 日、 い わ き 市 の な か たいとずっと言っています。 今、 必 要 に な っ て い る の は 原 発 事 故 の 初 期 どの程度体が汚染されているのかをきちんと測 りながらやっていくしかないということで、お ㌔圏内の川前地区、久之浜大久 17 検討委員会の委員長はあの山下俊一さんで、調 健康管理調査」を実施しています。その調査の エコー検査をやりました。ところが、いわきで 地区、末続地区の小中学生343人の甲状腺の でも原発から 12 す。私たちとしては甲状腺がんの発生をなんと 県の県民健康管理調査でやるから、それに任せ ざいました。 測定噐1台を頂戴いたしました。現在、立派に が、実はヨウ素131については南東方向、い セシウム汚染が非常にきついとみられています 飯舘村とか、川俣町とか、原発から北西方向の 福 島 と い う と、 浪 江 町 津 島 の 赤 宇 木 と か、 きちんと早期発見、早期治療が必要です。 に初期被曝しています。不安の解消ではなく、 の解消のためにやっております。われわれは現 査の目的は早期発見、早期治療ではなく、不安 さとう・かずよし 福島県いわき 役目を果たしております。本当にありがとうご 人が参加した。以下、講演の要旨。 て3・11 福島第1原発事故まで 30 ニタリングをして、どのくらいのものが私たち 市議。1953 年福島県楢葉町生ま の口に入るのか、 口に入って内部被曝した結果、 被曝、放射性ヨウ素による子どもの被曝対策で って生きていくためには、きちんと放射線のモ らざるを得ない人もいっぱいおります。とどま 難が結構進んでいますが、実際に福島にとどま 福島では子どもたちとお母さんや妊婦の避 でうかがいました。 今 日 は 皆 さ ん に お 礼 と ご 報 告、 と い う こ と さんを囲む会実行委員会」が主催、市民 り、今の福島には憲法の健康で文化的生活は保障されていないと現状を報告した。「佐藤和良 は汚染地域に県民を留置し、国は「除染して復興」を叫んで高汚染地域への帰還を強制してお 早期治療をなんとしてもやりたいと訴えた。原発安全神話が今は「放射能安全論」になり、県 事故は収束していないと強調。今最も必要なのは子どもの被曝対策で、甲状腺がんの早期発見、 現状と課題」と題して講演した。佐藤さんは、原発事故の非常事態宣言は撤回されておらず、 18 ととしの7月から「いわき放射能市民測定室」 い。福島県が国から補助金をもらい「福島県民 を立ち上げようと準備しました。 お と と し の 8 月 5 日、 6 日 と 広 島 に お う か 2013. 3.22 30 の副団長。 事故は収束していない ≪ 58 ≫ ≪ 59 ≫ ました。午後から夜にかけて北西側に流れ、飯 側に流れて静岡まで行き、静岡のお茶を汚染し 3月 日 以 降、 放 射 能 汚 染 が 広 が っ て い く していた中で事故が起きたのです。 中で、私た ちが最初に感じたの は、「捨てられ は、放射性セシウムが1平方㍍当たり6万ベク 舘村や浪江町津島など原発の北西側が汚染され る」、「棄民」ということです。SPEEDI(緊 レル以上土壌に沈着しているところが、北茨城 ぐらいまでずっと続いています。おととしの3 急時迅速放射能影響予測ネットワークシステ ム)の情報を隠し、メルトダウンしているにも ました。いわきは放射性ヨウ素による初期被曝 実際に山下さんがやっている県民健康管理 かかわらず、東電と国はそれを隠しました。メ がひどいのです。 調査でいわき市全体の甲状腺検査をやるのは平 年度に入ってから、つまり4月以降です。 ルトダウンを公式に認めたのは半年経ってから 甲状腺のエコー測定噐を置こうという動きがあ うことで、いわき放射能市民測定室になんとか できました。行政だけに頼っていられないとい ちらかに置くことで検討する、というところま いわきの市立総合磐城共立病院か労災病院のど 私どもが何度もしつこく言うから、検査機関を ば風向きと違った方向に逃げることができたわ ましたが、SPEEDIの情報が伝わっていれ えば浪江町の人たちは風向きと同じ方向に逃げ が避難できず、大量被曝させられました。たと EDIの情報を隠した結果、それによって住民 いきましたが、住民を避難させるよりもSPE 続けて、2㌔、3㌔、 です。 「直ちに影響はないです」と政府は言い 成 り、3月ごろから、最低でも月2回、エコーの ㌔と避難区域を広げて 検査の日を設けて、実施していきたいと話し合 けで、これは犯罪的な行為だと告訴の中でも言 原 発 震 災 は、 地 震、 津 波 そ し て 原 発 事 故 と いう複合的な災害です。それから津波に対する 備えをしなくてはいけないことがわかっていな っています。SPEEDIの情報は3月 日に 10 し3月 日から 日にかけて飯舘村と川俣町と 実は国の原子力災害現地対策本部がおとと す。県も犯罪に手を染めているのです。 で、この情報隠しについては県の責任もありま は県に届いていたが公表しなかったということ 12 ことについての万全の対策・態勢が完全に欠落 の責任は免れません。原子炉冷却材が喪失する う不作為の結果の人災ですから、東京電力と国 それを保安院はじめ監督官庁が許してきたとい いうのを国はその時点からわかっていたので もやる必要がありました。初期被曝はそこだと EDIで把握していたからその3地点をぜひと たかというと、放射能がどう流れたか、SPE にもかかわらず、やらなかったということと、 甲状腺の簡易測定をやっています。なぜ、やっ いわき市の三つの自治体で子ども1149人の 30 最初から棄民政策 っています。 25 がら、東京電力の内部でもそういう話があった 24 広島ジャーナリスト 11 日、放射能の雲(プルーム)は最初、南東 月 15 「いわき放射能市民測定室たらちね」の測定室。壁際に並ぶ4台のうち左から2番目が広島から贈 られた食品測定器(2011 年 12 月 27 日。今は各測定器の周りに水を置いて周辺からの影響を遮蔽 している) ≪ 60 ≫ そ し て「 避 難 な き 除 染 」 を や っ て い ま す。 ムラ」といわれる、一つの流れが依然として断 県民健康管理調査は先ほど述べましたように、 ち切られていません。多くの人が断ち切られる 民政策を採った、というのがこの国の根幹のあ 護とはほど遠い実態です。つまりは最初から棄 ということを全然やっておりません。放射線防 です。住民を救命する、放射線の被曝から救う す。そういう意味でも犯罪的な行為であったの と思ったし、福島県民もそう思って福島第1原 うに進めようとしています。この国の「原子力 る。3・ 福島原発事故が全くなかったかのよ の再処理もやる、核燃料サイクルはずっと続け しています。原発輸出も、新増設も、六ケ所村 て、全く反省なく原発推進路線をまたやろうと 昨年の総選挙でもう一度自民党政権になっ さんが日本の作り変えをやっていかないと、結 身が私たちの社会を作り変えていく、全国の皆 としてあるのです。そういう意味では私たち自 同じように、分断して一つの差別構造の中に原 発、過疎地に原発、あるいは沖縄の米軍基地と 言 っ て い る の に 絶 対 脱 原 発 に 行 か な い と い う、 んな世論調査をやっても大多数が「脱原発」と 命を優先しなければならないと、国民的にはど ラ」の力は衰えていません。むしろかさにかか B C C か[ら の 歴 史 と い う か、 市 民、 住 民 は モ 発、第2原発、全 基の廃炉をずっと県知事も ルモット化され救われないという、全く同じこ 県議会も言い続けています。けれども東京電力 とが今もって繰り返されていると思うのです。 も国も、第1原発の1号機から4号機までは廃 り方ではないかと思います。 炉と言っていますが、あとは未だに廃炉と言っ 局は脱原発にもいかない。そして福島原発事故 [1] 3・ から1年 カ 月、 福 島 原 発 事 4号機のプール倒壊の恐れ うのです。 がどんどん風化させられてしまうと思 許していく、受け入れていくという状況が依然 発やら沖縄やらが置かれてきたことを国民的に とても転倒した状況になっています。福島に原 多 く の 人 が 経 済 優 先 で は な く て 命 が 大 事、 って巻き返しを図っているのです。 そのようなことが原発震災によって引き起こさ ていません。再稼動の意思あり、ということは 治療せずに調査だけです。これこそこちらのA れてきたことだと思います。 未だに変わっておらず、依然として「原子力ム 原子力ムラの 巻 き 返 し な ぜ 福 島 原 発 震 災 が 起 き た の か、 戦 前、 戦 争のために国家総動員体制を作っていったのと 全く同じように戦後、産業政策、国策として原 発推進という国家総動員体制が作られてきまし による福島原発事故非常事態宣言は今 故 は ど う な っ て い る か と い う と、 政 府 10 日 に 野 田 佳 彦 首 相 が「 原 子 炉 は 冷 も 撤 回 さ れ て い ま せ ん。 お と と し の 月 12 た。政府も政党も学者もマスコミも文化人もあ 15 10 11 を 宣 言 し ま し た が、 法 的 に は 非 常 事 態 事態なのです。 国 立 環 境 研 究 所 が シ ュ ミ レ ー シ ョ ン し た 3 月 日 午 後 5 時 の 宣 言 が 撤 回 さ れ て い な い の で、 ま だ 非 常 地上近くの放射性ヨウ素濃度(環境研究所ホームページから) 2013. 3.22 11 温停止状態に達した」として事故収束 16 らゆるものがそこに動員されてきた結果、福島 原発震災が発生したのだと思います。 [1] 原爆傷害調査委員会。アメリカが原爆の人体影響を調査・ 研究するため1947年に広島、翌年に長崎に設置。調査す 年に日米両政府が出資する財団法人・放射線影響研 れども治療せず、被爆者をモルモット扱いしていると批判さ れた。 究所に改組された。 75 ≪ 61 ≫ 続できるという状況を指します。しかし、燃料 以下の状態で停止している、それが持続的に継 が運転されているところで原子炉が100度 「冷温停止」という言葉は、正常にプラント されています。毎日2億4千万ベクレルの放射 レルのダスト濃度の放射性物質が環境中に放出 東 京 電 力 の 発 表 で も、 今 も 毎 時 1 千 万 ベ ク 発事故は終わった」収束したと思っています。 建物を4号機に建設しています。東電は、 月 作業をするのですが、今、クレーンを設置する げてキャスクに入れて共用プールに運ぶという す。4号機の燃料プールからクレーンで吊り上 海に入っていくところを見ると、海に入ったと イのキラウエア火山の溶岩がドロドロに流れて て、その表面だけのことを言っています。ハワ が溶けてどこにあるかわからないのに水をかけ ますし、専用港を通じて太平洋にも出ており、 が現実です。環境中というのは大気にも出てい れませんが、実際のところはよくわからないの 性物質が環境中に出ています。それ以上かもし を取り出したいと言っています。 移し替えて運び、2年くらいかけて1533体 までにクレーン建屋を完成させて、キャスクに 機はそれと同じ状態にあり、 「冷温停止」とい が来ると「4号機は大丈夫か」とすぐに心配し 地震が多いので、みんな、ちょっと大きな地震 ではないかと心配されています。現地では最近 現 在 も、 4 号 機 の 燃 料 プ ー ル が 倒 壊 す る の ています。 のことが今、焦眉の急ということで東電も進め た。空だき状態になったらたまりませんのでこ 4号機の燃料プールを一番、問題にしていまし に運び出したい。一昨年の3月にアメリカ側が 地震が頻発しているので何とか倒壊する前 ころの表面は真っ黒ですが、中は真っ赤に焼け う言葉で状況を取り繕うのは、 「まやかし」、だ 馬の近傍の ㌔しか断層の延長がないと言い続 葉断層があります。東京電力は仙台に近い南相 それから第1原発と第2原発の近傍には双 ましのテクニックです。福島県内で原発事故が いるのです。 収束したと思っている人はあまりいませんが、 ています。依然として気分が悪い状況が続いて ひとたび福島を離れると、大方の人は「福島原 昨年の7月に第1原発の中をバスで 共用プールの方に移そうとしていま ど第2原発の直下ぐらいになり、そういう意味 日本を滅ぼす行為ではないかと思います。 る1533体を取り出して共用プール て述べましたが、福島県は県民を留置する政策 先ほど震災のあとの政府の棄民政策につい 横行する「放射能安全論」 に移し替える作業をやろうとしていま 体を運んで、4号機の燃料プールにあ しています。そこに共用プールの3千 リートの貯蔵施設を付近の高台に建設 という金属製の容器を収納するコンク 使用済み燃料を入れる専用のキャスク 体が6千体入っています。その半分の では依然として時限爆弾の上に乗っている状態 3千体を抜き出して、乾式貯蔵にする。 です。日本国中の活断層のことを考えると、日 本で原子炉をこれ以上稼働していくのは本当に す。共用プールには、現在、燃料集合 70 ています。今でさえ第1原発の1号機から3号 地下水にも入っていきます。 11 ずっと見てきましたが、4号機の燃料 け て き ま し た。 国 も そ れ を 認 め て き た の で す プ ー ル か ら 燃 料 集 合 体 を 取 り 出 し て、 が、実際はそこからいわき市まで延長 ㌔くら いの断層があります。この断層が動くとほとん 17 広島ジャーナリスト ≪ 62 ≫ を採っています。留置というのは結局 「留置所」 1㍃シーベルトの放射線量です。中通りの福島 市からは山形県に1万人弱の人たちが避難しま の講演でした。なぜいわきだったのかというと 初に仕事をしたのが、いわき市内での3月 ドバイザーに任命され、アドバイザーとして最 した。子どもは山形に住み、親は仕事で山形か 日 ら福島市に通うという人がおります。 [2] で す。 中 通 り を[新 幹 線 が 通 っ て い ま す。 仙 台 に行く大動脈なので新幹線を止めるわけにはい ヨウ素131です。あの人は甲状腺学会の理事 年通っていた人です。 その人が、いわきに来て最初に「100㍉シー 長で、チェルノブイリに はほとんど検出できないので、いわきの放射線 ベルトまで大丈夫ですよ」と言いました。 ヨウ素131は半減期が8日と短いから今 きません。事故後、中通りの郡山市や二本松市 ト以上あるのが普通でしたから、通常の「放射 量は今は下がっていますが、長期の低線量被曝 [2]福島県は、 南北に連なる阿武隈高地と奥羽山脈によって、 海側から浜通り・中通り・会津・の三つの地方に分けられる。 新幹線や東北自動車道は中通りを通る。 という感じです。山下俊一さんが一昨年の3月 ているわけです。国や県は、除染して復興だと 期の低線量被曝は安全だという世界に入ってき 体調も回復します。私は昨年ウクライナを視察 身も心もリフレッシュする。そうするとだいぶ の少ない食べ物を食べ、きれいな空気を吸って す。保養では、放射線レベルの低い所で、汚染 ットワークの方でも「保養」に力を入れていま かなか避難と言いにくい状況です。ですからネ お世話になっていますが、当時と比べて今はな ワーク」を立ち上げて、広島でも避難した方が の5月に「放射能から子どもを守る福島ネット を持つ若いお父さん、お母さんたちが震災の後 のに避難するなんてとんでもない」と。子ども ます。「復興のために頑張らなければいけない 「避難する」という言葉は言いにくくなってい 居住を奨励しています。ですから、今は県内で に、知事から福島県の放射線健康リスク管理ア 山 下 さ ん は い わ き か ら「 1 0 0 ㍉ シ ー ベ ル 地検に告訴しましたが、福島地検の周りは毎時 は「安全だ」という考え方があります。以前は 「原発安全神話」でしたが、今は「放射能安全論」 ト安全論」の行脚を始めました。それ以降、長 線管理区域」みたいなものです。告訴団が福島 や福島市内の放射線量は毎時0・6 ㍃シーベル 20 日のリフレ しましたが、チェルノブイリの場合は保養が法 的に保障されていて、今でも年間 40 日 本 に は そ う い う 保 養 制 度 は あ り ま せ ん。 ッシュ休暇があります。 2013. 3.22 20 ≪ 63 ≫ 県外に行くと、まるで戦前の「非国民」のよう す。 や戻る気なんか全くないよ」と答えました。そ 私 は 第 2 原 発 の 立 地 町 の 楢 葉 町 出 身 で す。 んな全く戻れないような状況なのに、なんとし まいます。1カ月避難した人でも戻った人は結 うすると、 「なんで避難するんだ」となってし りますが、それ以外は自主避難の扱いです。そ 戒区域、双葉8町村の人だと強制的な避難にな 親子の縁を切って避難する人までいました。警 いにくくなってきています。一昨年の時点でも げる気か」と。ですからなかなか避難すると言 時0・8㍃シーベルトにしかなりませんでした。 2㍃シーベルトあった集会所を2回除染して毎 会所や近くのお宅の除染をやりましたが、毎時 家の中は毎時0・7㍃シーベルトあります。集 年ぶりに親の墓参りをしましたが、墓の周辺は 日中訪問することは可能です。8月のお盆に2 というのであれば、除染の意味も効果もありま 校庭などを毎時0・ 区域」です。親の実家の跡取りに話を聞くと、 なところで、子どもの遊び場とか通学路とか、 毎時0・6㍃シーベルトで完全に「放射線管理 す。 で今すべきでない。 す。今、除染をやるのは無駄遣いの最たるもの ㌔圏内でやっていることは意味がないことで が解除されましたが、泊ることはできません。 も ㌔圏外のいわき市のよう 30 ㍃シーベルト以下にする 原発由来否定で口裏合わせ 所でも簡単なマスクだけで作業をさせられてい に作業をしている人は、毎時2㍃シーベルトの ピンはね構造によって成り立っています。実際 ね、企業による労働者のピンはねなど重層的な 同じく元請け企業による下請け企業のピンは 除 染 作 業 も 被 曝 労 働 で す。 そ れ は、 原 発 と にしましょう」と口裏を合わせてから、正式な が、秘密会で「原発由来じゃないと、いうこと で甲状腺がんが1人見つかったと発表しました 事故発生当時 ずっとやってきました。検討委員会は昨年9月、 が、検討委員会の会議を開く前に「秘密会」を 委員会の座長です。毎日新聞で報道されました 副学長をやっていて、県民健康管理調査の検討 先ほど述べた山下さんは福島県立医科大の あと一つは 「帰還」 です。 「除染して復興」、「除 ます。つまり、きちんと放射線防護をして除染 除染して帰還 を 強 制 染して帰還」ということで国が強制的に住民を 作業をしている状況ではありません。 5千人強の町では「警戒区域」が解除されて役 という方針です。いわき市の隣の広野町という 解除準備区域」ということで「除染して帰還」 用制度で雇用され、軽ワゴン車で防犯パトロー 仮設住宅に入っている住民の人たちで、緊急雇 犯パトロール隊に会いました。彼らは避難して 先日、「避難指示解除準備区域」で地域の防 時代で情報公開していませんでした。4年後に チ ェ ル ノ ブ イ リ 事 故 の 発 生 時 は、 ソ 連 邦 の きたのは4年後だからである」と発表しました。 ェルノブイリで甲状腺がんの有意な変化が出て 会議で「それは原発由来ではない。なぜならチ ㍉シーベルトまでの所は「避難指示 歳以下を対象とした甲状腺検査 帰還させようとしています。国は放射線の年間 場と小学校が再開しました。小学校は昨年の夏 ルを実施していました。その方たちに「みなさ 積算線量 以降再開しましたが、子どもたちはいわきから 40 広島ジャーナリスト に扱われるようになってきています。 「復興し 日に「警戒区域」 ても除染して帰還させようとしています。除染 構多いのです。半年も1年も避難したままでい 私の親の実家は昨年の8月 ると、離婚する人も結構増えています。お母さ 除染は結局、原子力ムラの一員であるゼネコン ないでどこへ行くのだ」 「ふるさとを捨てて逃 んは子どもを連れていったん出たら、戻るとい を延命させているだけです。今、国は除染産業 年後だと効果はあると思いますが、今、 う選択はしたくない。そうすると、離婚せざる に約1兆円の税金を投入しています。 30 23 30 ようやくチェルノブイリ法ができ、4年後から 18 ます。 を得ないような状況に追い込まれる現実があり 10 んこの状態で戻ってくるの?」と聞いたら、「い 20 ㌔の距離をスクールバスで通っていま ㌔、 30 ≪ 64 ≫ 本格的な健康管理に入り本格的な調査を行った なくて、がんやその他の疾病を未然に防止する、 心が折れそうになっています。少なくとも国が ㍉シーベルト以上の所は戻れ あるいは早期発見、早期治療ということに目的 れた甲状腺がんの例が、原発由来でないと断定 あがったのです。ですから、昨年9月に発表さ 調査の検討委員会を改組しろと県に求めていま んは責任を取ってやめるべきだ、県民健康管理 ないという意思統一をしたりする座長の山下さ てこういう「秘密会」をやったり、事故被害で を変えるべきだと県に申し入れています。そし ん。阪神大震災のときに、長期にわたる仮設暮 通しがなく、行き詰まって自殺者も出かねませ なければなりません。このままでは、ずっと見 の賠償をして新しい人生に踏み出せるようにし ているのはおかしな話なのです。きちんと財物 ない。戻れない所に「除染して帰還だ」と言っ 言っている年間 ことから、4年後に甲状腺がんの発症率が一桁 できるはずはないのです。 す。 に原発由来ではないということだけを口裏を合 なければならないということで弁護士会と医師 こ の 事 件 の 後、 県 は も っ と 透 明 性 を 確 保 し [3] そ の 人 の 預 託 線 量 が[ど の く ら い に な る か を 含めて、きちんと調査し、併せて治療していく 歳の女性も見つかっています。これ わせてやっています。その後も甲状腺がんの疑 周辺地域ということで川俣、飯舘などの原発か までの検査は警戒区域だった立地町およびその 分らが「イチジクの葉」になってしまうという が全然責任を取っていないのに、今入ったら自 ましたが、医師会も弁護士会も、そういう人ら 書を送ってよこす。それは156㌻もある説明 す。加害者が請求書を出してくださいと、請求 はだめと言っているのは最初からおかしな話で 引かせています。加害者側があれはだめ、これ 国や東京電力は損害賠償の問題を非常に長 が福島でも起こってきています。 万人近くを対象に実施され ら北西側の人たち ことで拒否しています。 [5] %の人に5㍉以下の結 てきました。その中で な罰を受けてもらいたいと思いますが、今後、 ってなかなか賠償に応じようとしないのです。 節というしこり状態と 胞のようなものが見つかっています。[ い わ き で も、 県 の 検 査 を 待 た ず に 県 外 に 行 償に早目に手当てをしないと本当に犠牲者が出 ません。1兆円の除染マネーを使うのなら、賠 補償、賠償をやっていかないと一歩も前に進み 家に帰れない、ふるさとに戻れないという人 が新しい人生に踏み出す場合にはきちんと財物 知事はじめ県の責任もきちんと追及していきた 大副学長に任命され、福島県内で講演した。 様、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーと福島県立医 [5]広島大原爆放射線医科学研究所所長・教授。山下氏と同 てしまいます。 今、福島県民の間には疲労感が広がり、人々 は疲弊しています。仮設住宅で2回冬を越し、 今、約 万人の福島県民がふるさとを追われ、 約190万人が汚染地域で暮らしています。第 夏を越すというのはかなりしんどい。みんなの 賠償を長引かせる東電や国 って子どもの甲状腺検査を受けたら嚢胞が五つ が現実です。ですからいわきでも早くきちんと した検査体制をつくってくださいという話をし 年間(子どもの場合 ています。私たちは、不安の解消という目的で [3]放射性物質を体内に取り込んだ後 は 歳になるまで)の累計被曝量。 日、福島県立医大は県民健康管理調 50 査で新たに2人が甲状腺がんと確定したほか7人に甲状腺が 袋検査をやりましたが、なかなか売れないのが 際は「実害」です。風評の面もあってコメの全 一次産業が「風評被害」と言っていますが、実 16 た。原発由来と思われる状況が出てきているの いと考えています。 [4] のうほう ㍉以下の嚢胞という水 私 た ち は 山 下 さ ん と 広 島 の 神 谷 研 二 さ ん も[ 書を読まないと出せないようになっており、出 含めて告訴しています。これはきちんと刑事的 したら出したで、あれはだめ、これはだめと言 いのある 会に検討委員会に入ってくれませんかと要請し らしで亡くなった方もいました。そういう問題 ということにしなければなりません。それなの 20 も見つかったというお母さんのお話を聞きまし 20 43 10 13 んの疑いがあると発表した。 2013. 3.22 18 [4]この講演後の2月 70 ≪ 65 ≫ 雅子さんという少子化大臣が、風評被害を打破 こ れ に 対 し て、 い わ き 出 身 の 参 院 議 員 で 森 も結局だめでした。 やって100ベクレル以下ということになって われて出荷ができなくなりました。全袋検査を さんは、 「東京では福島の米はいらない」と言 いますが、事故前から東京に出荷していた米屋 と思うのは福島県沖は漁業が禁止されています は検出されないとも言われています。おかしい いのですが、イカやタコは血がないから放射線 にいる魚より海底近くの魚の方が放射線量は高 の出る魚はセシウムが高いのが多い。海の表層 海の汚染も深刻です。セシウムは水溶性なの で魚の血液に入ります。モニタリングすると血 避難者は1人月 の中に、ベルリンの壁のようなものがあって、 るなどの事件が7件起きています。仮設にいる が、茨城県沖は禁止されていないことです。海 4人だったら合計 また、仮設住宅で車のフロントガラスが割られ は帰れ」 という落書きが書かれてしまいました。 うとういわき市の本庁舎にスプレーで「被災者 り、歓楽街の問題もいろいろ起きてきます。と また一つの市で2万4千人も人口が増えると いうことはゴミの問題や道路の渋滞も起きた 年の8カ 月分)ですから、格差、 差別、分 するために新法を作って福島県産のものを扱え そこから海流が流れていないというのなら別で ( ば税制を優遇するということを考えたいと言っ 現状です。私には米屋さんの知り合いが何人も たそうですが、そういう新法を作って福島県産 すが。このあいだNHKスペシャルで放送され 断が生まれて、ねたみが起きています。 万円支給されますので、家族 万円支給されます。おじい ちゃんおばあちゃんがいてお父さん、 お母さん、 万円になります。車を新しく 営業の自由に反するのではないかという声もあ 場からプルトニウムなどの放射性物質がアイリ す。イギリスでは、セラフィールドの再処理工 そういう車が被害にあいました。これはとても し た り 高 級 車 に 買 い 替 え た り す る 場 合 も あ り、 子ども2人なら ります。 今、 福 島 県 内 は 二 重 行 政 に な っ て い ま す。 例えば楢葉町や富岡町や浪江町の役場出張所が いわき市にもあります。いわき市に避難してい る人たちはその町の管轄下にあるのです。とこ ろ が、 病 院 も 教 育 も ゴ ミ も 下 水 も す べ て い わ には双葉郡の8町村から2万4千人が避難して 抱いて暮らしています。県内でも特にいわき市 現在、われわれは悔しさもあり、不安もあり 不満もあり、そういうものをずーっと腹の底に で本当に間に合うのかということもあります して措置されたのは約3億円でした。その程度 2万4千人の人口が増えて、初年度に交付税と ら 交 付 税 で 措 置 さ れ る こ と に な っ て い ま す が、 き 市 が 負 担 し て い ま す。 こ れ は 年 度 末 に 国 か おり、精神的損害賠償は双葉から避難している それから「仮の町」構想というのがあります。 ま二重行政でいいのかという問題なのです。 し、インフラの問題もあります。本当にこのま 分断・混乱と二重行政 ら、漁業は深刻な状況です。 汚染が長年続いたということがあるわけですか 残念なことです。 品を出荷したところで需要が広がるとは思えま ましたが、原発のある双葉沖から沿岸流が銚子 せん。法律で縛って売ることを強制するのは、 沖まで放射能が濃いままでずーっと流れていま 10 40 60 人は1人 万円毎月支払われています。同じよ が最初に8万円(2011年分)、次に4万円 うに被曝していても、いわき市の人には賠償金 10 広島ジャーナリスト 12 ッシュ海に流れ、アイリッシュ海の広範な漁場 2011・2012 年のキノコ測定結果。高濃度のセシウ ムが検出された。採取地はいわき市や周辺町村 (資料提供:いわき放射能市民測定室たらちね) ≪ 66 ≫ あるいは「町外コミュニティー」をつくるとい ないのです。もう少しで原発事故から2年が経 できるためには、早期に賠償をしなければなら 基本方針を作って 康診断や避難者の支援といった具体的な問題は 年度予算に要求するという う構想もあります。双葉8町村から来ている方 ちますが3年経ったらどうなるのか。自分で起 段取りでしたが、政権交代で進捗が遅れていま 業したいとか、なにかやりたいという人はよい す。この支援法については、「仏作って魂入れず」 ですが、みんな泣いています。何もしたくない。 では困りますので、「魂を入れよう」と今頑張 に災害公営住宅を県営として造るか、その付近 方自治法を変えない限り、一つの市の中に別の それで自死することにつながりかねない状況に の2月に「原発事故の刑事責任をただす」告訴 原 発 事 故 の 刑 事 的 責 任 を め ぐ っ て は、 昨 年 っているところです。 町はつくることはできませんが、ゴルフ場の跡 なる恐れがあるのです。 福島原発告訴団を結成しました。まず福島県民 団の準備会をいわきで立ち上げて、3月 自 民 党 政 権 に な っ て ま た 政 府 は、 除 染、 帰 地に360億円ぐらいかけて双葉の町をつくっ 還と声高に言っていますから、ますます袋小路 日に 島はこのように分断状況と混乱状況の中にある に陥っていくという状況にあるのです。 になっています。各プラントメーカーがいわき さ ら に、 い わ き は 原 発 事 故 収 束 の 前 進 基 地 していますが、地裁では負けて今、仙台高裁で ちを集団で疎開させろと市に求める裁判を起こ 現 在、 郡 山 市 の 住 民 が 小 中 学 生 の 子 ど も た 全国各地方 月に全国に告訴人を呼びかけようということで て、8月1日に受理されました。その直前の7 っきり言ってどう考えても 年は戻れないでし 11 11 カ所に各地の事務局を作り、 10 日に1万3262人で第2次告訴をしまし のですが、頑張っています。 私は、おととしの8月に広島に来て、広島、 た。 長崎の被爆者運動に学んで、「原発事故被曝者 月にいわき市議会で初めて「原発事 援護法」をつくろうという運動を始めました。 一昨年の 故にも被曝者援護法を作れ」という意見書を満 場一致で採択して国と県に送りました。一昨年 帰還とか除染といういい加減なことを言ってい を出してもらいました。そうこうしているうち いうのはこの2年間を通じて国民の中にだいぶ 発の問題はエネルギーの問題でなく命の問題と 浸 透 し て い ま す が、 産 業 界 を 中 心 に し て、 「エ ました。けれども、これは理念法であり、プロ 福島から言わせればこれ以上原発に頼る社会で ない」という考えが根強くあります。しかし、 ネルギー問題だから原発は推進しなくてはなら グラム法です。復興庁の管轄になっていて、健 法案」がそれぞれ出てきて、昨年の6月 日に ということです。 そ う で は な く て、 い わ き に み ん な で 住 む と 「原発事故・子ども被災者支援法」が制定され に国会の方でも与野党から「子ども被災者支援 ました。大地動乱の時代、地震列島にあって原 することです。政権交代して原発推進に転換し と、まず原発を即時・無条件で停止して廃炉に 私 た ち が 今、 求 め て い る こ と を 整 理 し ま す まず原発の停止、廃炉を 15 か、あるいはいわきでなくても別の場所に行っ 21 るということは、政治の責任を果たしていない さんあります。けれども、高齢者は 年後に生 のお盆明けに当時日弁連の事務総長であった海 きている人は少ないでしょう。 そういう状況で、 渡雄一弁護士に相談して、日弁連からも意見書 年経っても戻れない場所が本当にたく 月 に拠点を置いており、原発作業者もいわき市周 日に第1次告訴をし 16 審理されています。この裁判もなかなか難しい 1324名が昨年の6月 のです。 たらよいのではという構想もあります。今の福 に新しい町をつくる構想があります。本当は地 25 辺に約3千人が住んで、そこから第1原発へと ㍉シーベ 万人ぐらいに実 通っています。いわき市は事故前は、人口減で 万人ぐらいでしたが、今は 人口が増えています。 実 際 に は、 国 の 認 め て い る 毎 時 36 ルト以上のとこへは戻ることはできません。は 20 30 ょう。 30 て住もうとか、新しくやり直そうというように 2013. 3.22 30 12 33 ≪ 67 ≫ 管理がこれから数十年の大きな課題になってい 検察庁が被告訴人を起訴するか、 政の方も、市民の測定室ができたあとに整備は だと思います。 続と甲状腺検査体制確立の問題もあります。行 に出ました。それは地検側からの情報のリーク そ れ か ら 各 地 に あ る 放 射 能 市 民 測 定 室 の 継 いては、状況はかなり厳しいという記事が一斉 たのか、ということで起訴できるかどうかにつ の施設が少しずつですが、できているので、さ に当たるのかどうか、津波の被害を想定してい ます。憲法で保障された健康で文化的な生活と されましたが、行政はなかなか信用されないと 不起訴にするか、今年度内に結論を出すと報じ らに拡大していくことも必要なのです。 いうことから考えると、今の福島には憲法の人 次に被曝をより少なく抑えて命を守る健康 権は保障されていないのが実態です。そういう いう状況もあって、引き続き市民測定室の動き られています。もし仮に不起訴になったら、検 日、1クラスごとに新潟県のある市の学校に行 形で制度的に始まっています。それは、2泊3 は最近では、伊達市などで「移動教室」という トまではいいということで放射線を浴びさせら の具体的な施策を求めていくのと併せて、被災 は、おととしは年間被曝線量250㍉シーベル 問題は、今のところ「子ども・被災者 支援法」 のです。今回の事故処理作業に当たった労働者 ダートル」とよばれる方たちの力は大きかった 視野に入れて、取り組みを行っています。 イリの事故処理でも被曝して作業した「リクビ 察審査会にかけて、強制起訴に持ち込むことも 被 曝 労 働 者 の 問 題 も あ り ま す。 チ ェ ル ノ ブ で、小沢一郎さんが強制起訴されたように、検 き、そこには空き教室が結構あるから、そちら れてきました。事故当初の7月ぐらいまでは放 者支援法が援護法的中身と似て非なるものにな どれだけ生活を破壊され、ふるさとをなくし、 ございました。 訴団の運動は、私たちがこの原発事故によって た。告訴団の運動にも協力いただきありがとう 広島ジャーナリスト あってはならないと思うのです。 意味で生存権を守る活動であると思っていま も支えていただければと思っています。 察審査会に2回は申し立てることができますの す。自主避難を含む避難者の支援を継続し、避 を利用して子どもたちを保養させるという取り 射線管理手帳、青手帳が間に合わないという人 っている現状もあることから、もう少し検討し 難できない人の保養の制度化が必要です。これ 組みが、すでに始まっています。チェルノブイ がいましたが、発行しないでどんどん働かせて ていかなければなりません。広島の被爆者のみ 原 発 事 故 の「 被 曝 者 援 護 法 」 の 制 定 と い う 日の保養休暇制度をつくっているわけ リでは ですから、是非ともこの国においても保養の制 いました。ですから東電や国がいう被曝数値以 なさんの活動をもっともっと勉強させていただ う意味でも被曝労働者の被曝管理、健康管理は とができればと思っています。 上の方がたくさんおられると思います。そうい いて今後の活動や法制定の運動にも役立てるこ 施設の整備を進めていきたいと思います。福島 私たちも一緒になって取り組んでいく必要があ ばないので、体重が増えてきたり、足腰が弱く 心と体を傷つけられたかを検察庁側に打ち出し 原 発 事 故 の 刑 事 責 任 を 追 及 す る 福 島 原 発 告 た放射能市民測定室にも手厚く支援を賜りまし これまでにも避難者を受け入れていただき、ま 最 後 に な り ま し た が、 広 島 の み な さ ん に は に残っている子どもたちの体と精神のバランス るのです。 なってきていることがすでに数字に表れていま て い こ う と、 現 在、 厳 正 な 捜 査 と 起 訴 を 求 め 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 年経って、どのようになっ る署名を呼び掛けています。昨年暮れに朝日新 年 ていくのかが大きな問題になっていくと思いま 20 聞、産経新聞、毎日新聞に、放射線被曝が傷害 10 す。そういう意味でも、県内に屋内運動のため ます。今後、 す。心のバランスもそれによって崩れてしまい ば、肥満児が増えており、子どもたちが外で遊 が崩れていることが指摘されています。たとえ そのほかに非汚染食品の供給や屋内運動場 度化をやっていきたいと思います。 40 の茶の間に戻り、固定電話でかけようとしたが 停電で使えない。仕方なく揺れが続く中、2階 の自分の部屋に戻り携帯電話を持ってなんとか 車に乗り込んだ。 携帯で妻に電話したがまったくつながらな い。何度掛けてもダメだった。そうこうしてい ると小学5年生の長女を学校に迎えに行ってい こえ出した。飛び起きたが揺れで立ち上がれな りあえず会社に行かなければならない。会社と 震のわりに被害はなかったのではと思った。と 通に走れ、あまり変化がないという。大きな地 た祖母が、長女を連れて帰ってきた。道路は普 い。つけっ放しだったテレビが激しく揺れ、突 いた携帯電話と車の鍵をポケットに入れ、揺れ とりあえず外に出ようとテーブルに置いて た。会社に着くと入り口の守衛さんの所に人が 母の話と違い、けっこう被害が出ていると思っ 家が崩れるかもしれないと考えた。 が落下し床にたたきつけられた。家がきしむ音 も連絡が取れず、仕事になるかどうか分からな というか、聞いたことのない音が聞こえ始め、 いが会社に向かった。途中、ブロック塀の崩れ ている所や屋根瓦の落ちている家があった。祖 然画面が消えた。棚に置いていたラジコンヘリ 余震…橋が落ちる ◆震災の記憶再び 《2013年1月》東日本 大 震 災 か ら、 も う す ぐ 2 年 に の勤務だった。真夜中に眠くならないように昼 の工場に勤めており、夜勤の週で夕方5時から 「 2 0 1 1 年 3 月 日 午 後 2 時 分 金 曜 日」 。自宅2階の自分の部屋で寝ていた。隣町 も忘れられない。 れることが多いが、あの時体験した地震のこと 車に乗った。揺れが収まったと思っても、また た。あわてて何とか1階に下り駐車場に行って た。それを眺めていたら、また激しく揺れ出し ャンデリア風のライトが激しく左右に揺れてい き抜けになっているが、そこにつるしてあるシ りている途中、揺れが止まった。階段の所は吹 階段は揺れの弱い時を狙い一段ずつ下りた。下 とが心配になり、すぐ家に戻った。 がをした人はいないらしい。その後、家族のこ は出なかったのかと聞いたりした。幸い、大け 言う。溶けた鉄を扱う鋳物工場なので、けが人 業者全員を安全な場所に集めているところだと 工場内はどうなったかと聞くと工場内にいる作 うなっている」。自分もよく分からないと答え、 輩社員が駆 け寄ってくる。「青木、 飯舘村はど 帰ろうとしたら同じく飯舘村から通っている先 な る。 原 発 事 故 に つ い て 聞 か から3時ぐらいまで寝て、会社へ行っていた。 すぐに激しく揺れる。車に乗ったら家族のこと 寝をしていた。夜勤の週は昼食を取って1時半 が心配になった。妻に電話しようとしたら、携 の最中歩き出した。廊下は壁に手をついてなん 集 ま り、 あ わ て て い る よ う す だ っ た。 車 の 窓 とか歩いたが、どうしても中腰になってしまう。 を開けどうなっているのかと聞くと、危ないの で今日は入れませんと言われた。それじゃあと 物音で目を覚まし、周りを見ると部屋中すべて 帯電話だと思って握り締めていたのはテレビの 既に妻が保育所から1歳半の次女を連れて リモコンだった。早く電話をしなければと1階 福島県飯舘村から 青木達也 の物が激しく揺れていた。すぐ収まるだろうと 広島避難日記 思ったが、まったく収まらず家がきしむ音が聞 2013. 3.22 忘れられぬ2年前 ≪ 68 ≫ 11 46 ≪ 69 ≫ 帰っていた。 農協に勤めていた妻は地震発生後、 の揺れで恐怖を感じた。本震、余震とかなりの は言っても懐中電灯はいつ電池が切れるか分か た。妻が「ガソリンを入れたら」と言ったが一 停電にならなかったようで明かりがついてい そうだ。 保育所では村がスクールバスを手配し、 やっと橋を抜け出して、しばらく進むとガソ リンスタンドが普通に営業していた。福島市は きな余震があり、あまり眠れなかった。 と大きな余震が来て目を覚ました。朝方にも大 く、することもないので早く寝たが零時、1時 したばかりだったので困らなかった。電気もな え式のボトルサーバーがあり、替えの水も補給 数の地震を体験したが、この時が一番怖かった。 らない。ろうそくで明かりを取り、ガスボンベ 娘は、はだしのまま先生に抱えられてバスに乗 刻も早く家に帰りたかった。燃料ゲージに半分 ようになっていたに違いない。橋が落ちるかと が路面に当たりそうに見えた。自分の車も同じ きた。橋が上下し前の車が激しく揺れ、車の底 の上で動けなくなっている時に大きな揺れが起 て、まったく進まない。長くて大きい渡利大橋 な道路に出ると今度は車がびっしり混んでい 学 校 を 出 た の は 午 後 7 時 す ぎ だ っ た。 大 き が全部割れ、もったいないと言っていた。 事で、理科実験室のビーカーなどガラス製の物 集められ保護者の迎えを待っていた。長男も無 した。中学校に入ると、1階ロビーに全生徒が が、いつもよりすいている感じですんなり到着 帰宅すると停電で、真っ暗でさみしい感じだ った。車の中でテレビ放送の音声を聞きながら 算していたような記憶がある。 からレジを済ませた。この時、店員は電卓で計 も商品を持ったまま外へ出て、揺れが収まって 繰り返した。店内の全員が外に出た。自分たち 員が大きな声で「皆さん外に出てください」と に並んでいると、また大きな揺れが起きた。店 残っていた。残っていたお菓子を買おうとレジ った。ようかんだけが、売れないのかポツンと ほとんどない。食べ物、飲み物はまったくなか た。客でいっぱいだった。店内を見ると商品が の新地町におじさんが住んでいる。そのおじさ 驚いた。それも隣接地域で起きている。海沿い が直り、テレビをつけた時だった。ちょうど津 とを知ったのは、地震から2日か3日後に停電 大きいとは思わなかった。巨大な津波が来たこ と津波を伝えていたが、津波の被害があれほど た。とても薄く紙2、3枚だった と思う。地震 新聞は出ないだろうと思っていたが出てい れ、そこへみんな取りにいくようになっていた。 配達はないため決まった家にまとめて届けら 害はなか った。集会後、新聞を取 りに行った。 掃除した。二枚橋地区では地震による大きな被 広島ジャーナリスト 上司からすぐ保育所へ迎えに行くよう言われた り込むところだった。先生は泣いていたと聞い ぐらいあったため、大丈夫だと言ってスタンド のコンロで炊事し、夕食を食べた。水は詰め替 た。余震は時間を空けず何度も何度も続く。祖 子どもたちを避難させている最中だった。私の 母、私、妻、長女、次女と家にそろったが、福 朝 7 時 か ら 集 会 所 で 集 ま り が あ っ た。 自 分 って普通に給油できたかは定かでないが後日、 の所は二枚橋という行政区で区長が緊急に集会 島市内の中学に通う長男とは連絡がつかない。 には寄らなかった。がらがらにすいており、寄 バス通学していたが、バスが通常通り動くか分 を開いた。地震による被害をそれぞれ報告し被 状の額がすべて落ち、ガラスだらけになってい 入れておけばよかったと大変後悔することにな た。100枚以上も壁に掛けてあり、そのすべ 害を確認するものであった。集会所に入ると賞 途中から道のすいていそうな月舘町経由に てが落下したため、すごい光景だった。全員で る。 進路を変え、セブンイレブンが普通に営業して からないので迎えに行くことにした。祖母を残 ないので連れて行った。通常、中学まで車でお いたので子どもたちに何か買おうと立ち寄っ し、妻子を連れて出た。家にいても電気もつか 分かかる。地震で混んでいると予想した 一瞬思った。妻が窓を開けるように言った。橋 帰ってきたが、ニュースでろうそくは火事の危 んとは約1カ月も連絡が取れず、無事なのかど よそ が落ちたら窓から脱出するつもりだったのだろ 険があるので使うなと何度も言っていた。そう 波の映像を放送していて、その被害の大きさに う。本当に落ちてもおかしくないと思うぐらい 50 ガソリンで、底をついたこともある。原発事故 とは言い切れないように思う。一番困ったのは どうか分からないが、大きな地震が発生しない 数十㍍規模の津波が押し寄せる可能性があるか 東日本大震災から2年になるが、地震直後の 数日の事はいまだに鮮明に覚えている。広島で 数の人が亡くなった。 の1階部分は津波で水没した。その近所でも多 たが、海から1㌔の場所にあった2階建ての家 うか分からなかった。おじさんたちは無事だっ く分からないままに過ごしていたと思う。 目先のことに振り回され何が起きているのかよ 真っただ中にいたが、情報はほとんど入らず、 る。後日振り返れば、自分は地震や原発事故の 店しないスタンドに長い行列ができたこともあ 少量しか手に入らなかった。誤報も出回り、開 と思う。それまではスタンドに朝から並び、1 るようになったのは震災2カ月後ぐらいだった 難した。ガソリンをまともに入れることができ 軽トラからガソリンを抜き、乗用車に移して避 時間待って ㍑、あるいは1500円分などと が起き、親戚の家に一時避難したが、その時は 効果ない作業 延々と マレーシア住民虐殺の地を訪ねる 橋本和正 尖閣は棚上げ合意へ回帰を 浅井基文 広島・長崎データ 科学的議論を 湯浅正恵 豊かな海を毒壺にするな 湯浅一郎 インドの反原発運動と日本 福永正明 「1994」繰り返すまい 小森陽一 申し込みはファクス 082-231-3005 かメー ル [email protected] ▽紀伊国屋書 店広島店、フタバ図書などでも好評発売中 流した汚染水を基準に反して回収せず、そのま り上げられている。家屋や地面の放射能を洗い ◆手抜き除染 《2月》新聞やテレビで手抜き除染問題が取 組まれ、税金がつぎ込まれている。しかも簡単 る。簡単な掃除程度の内容に数千億円の予算が 高圧洗浄機で洗い流す。これが除染の内容であ にコンクリートやアスファルトが敷いてあれば 当初から除染が利権の温床になるのではと考 えていた。飯舘村で言えば、村民の話をまった 話は一切聞かない。 村に関しては安全になった、元に戻ったという 住民を無視するやり方はとても強引で不自然だ ま側溝などに流しているという。証拠の映像と いる。 った。何かあるのだろうと村民が思っても巨大 っている除染作業はまったく効果がない。村民 していいものであった。村に対して現在国が行 いない。村の面積のうち宅地は1割、残りは山 としては効果がないことを延々と続けられても 伯区の人口は 万7千人。飯舘村は6千人しか な利権の前には、たった6千人の意見など無視 く聞かず、まず除染ありきで物事が進んできた。 ようすが流されたが、その郵便局は私の父が 数年働いていた。どうして基準通りの作業をし ないのか。国は責任を持って行うと言っている 林と農地である。山林や農地の除染は一切され たが、水圧で雨漏りする家があるため、紙タオ 困る。村に帰りたいと言う人や帰らないで避難 が、内容は簡単な掃除でしかない。屋根の除染 飯舘村の面積は230・ 平方㌔。広島市内 では佐伯区が224・ 平方㌔と最も近い。佐 な掃除程度の内容もこなせないで問題になって 意味がない。山から流れてくる」と聞く。飯舘 数週間で放射線量が元に戻る。山をやらないと に戻らないほうがいいと話す。「除染をしても 除染作業にかかわっている村民までが、私たち くが、これまでの体験から意味がないという。 味があるのか。除染と効果については村民の多 特集「沖縄・岩国 オスプレイ」 沖縄は「無法地帯」なのか 松元剛 日米安保から脱却を 伊波洋一 オスプレイ配備の意味 岩国から 久米慶典 して、郵便局で作業をして汚染水を流している 家の周り ㍍範囲の草刈り、落ち葉の除去。庭 広島ジャーナリスト第 11 号 先で本格的に生活を再建したいと考える人。い は当初、高圧洗浄機で洗い流すというものだっ 36 ない。やっと森林伐採の話も出ているが、いつ 20 2013. 3.22 10 20 ルでふくだけになった。屋根が古くて作業員が 20 乗れない家は、 除染しませんと言われたそうだ。 になるか分からない。宅地周辺 ㍍の除染に意 13 13 ≪ 70 ≫ ≪ 71 ≫ 除染で大手ゼネコンはどこも経営を立て直し ている。予算の半分を大手ゼネコンがまず取っ ことを伝える報道は見たことがない。 るように伝えられることが多いが、効果がない 通しが立たない。報道では除染作業に効果があ ろいろな考えの村民がいるが、誰にとっても見 意見を伝える場所はどこにもない。 討中です」と、やり過ごすだけである。村民の 開きにして、たまに質問に対して立ち上がり「検 で、説明会などが行われる数時間彼らは目を半 とは無い。村民の意見などはどうだっていいの ない。どんな質問に対しても答えが得られるこ ない。早く責任を取ってもらいたい。手抜き除 の事故に対して、いまだだれも責任を取ってい 政府は「責任は取る。安全です」と言う。福島 本的な対策ができないのに原発を再稼働させ、 な対策をするには、そこまでやるしかない。根 うかもしれないが、放射能汚染に対する根本的 利権としか考えていない者には除染の効果な どどうでもいい話で、長引けば長引くほど新た 何をしているんだろう」と考えるそうだ。 たやる。また元に戻る。何度も繰り返し、一体 だ。現場の作業者は「除染しても元に戻る。ま 使い切るといったことが前提にされているよう かわっている私の知り合いの話だ。まず予算を これは除染をしている建設会社長や作業にか にやればよかった。飯舘村すべての地面をさら ので、いつまでもなくならない。雪が降るまで のサイクルとともに放射能もサイクルし続ける 根が吸い、やがて落ち葉になり土に戻る。自然 放射能とともに雪解け水が浸透し、それを木の れた放射能が減ったかもしれない。雪が降れば ての住宅を壊して建て直せば、少しはばらまか 事故が起きた後、雪が降る前に村すべての山 の木を切り山の土をはぎ取り、川をさらいすべ きないのだと思う。 能はしっかりと山に染み込み川を流れていく。 月まで除染作業は中断されるが、その間も放射 る現状が悔しくはないのかと思う。雪のため4 が一つ残らず村民以外のためだけに使われてい 程度の除染も手抜きされてすべての政策、予算 そんな余力もないことは分かるが、簡単な掃除 との答え。言うだけでなく訴えればいい。村に の か と 聞 い た と こ ろ「 村 で も 強 く 言 っ て い る 」 罪に問われるのが当然ではないか。手抜き除染 を得ているのであれば、横領罪などなんらかの 染に関しても、誰も責任を取らないが除染の予 算は税金だ。そこで手抜きがあり、不当に利益 て、残りを期間内に使い切るため下請けを雇い 飯舘村に対しては、現在の除染方法ではまっ たく効果がないのが明らかでも、その作業に割 に予算が組まれるので構わないのだろう。予算 地にする。そんなことは現実には不可能だと思 上からは予算を使い切れとしか言われない。 り当てられた予算なので途中で見直すことはで 作業させるが、作業員が集まらない。 を使い切らないと次のもらい手に支障が出るの に関して飯舘村はどういう対応を取るつもりな で、そればかり気にしているのではないかと感 じた。村長はテレビの取材に対して「どんな形 押し付けている。国が送り込んでくるそういっ 目指して」とある。少しびっくりした。その後 届 い て い る。 1 ㌻ 目 に「 健 康 長 寿 県 日 本 一 を ◆福島県民健康管理ファイル み、村長を通じて国の都合を押し付けてきた。 《3月》福島県から県民健康管理ファイルが のことや自然放射線のこと、食物に含まれる放 について」と題し、県民に対しての甲状腺検査 いうページ。「放射線の正しい理解と健康管理 る。その次は「知っておきたい放射線の事」と 放射線量を計測した数値を書き込むページがあ 笑って暮らせとは であれ除染を進めるしかない。長期的にやって いくしかない」と語っていた。原発事故直後か ら村には経産省から役人が送り込まれて泊り込 た役人たちに一貫して言えるのは対話が成り立 には健康診断の記録を書き込むページや自分で 今は除染担当の環境省が自分たちの都合だけを たないことである。村民の意見に答えることは 広島ジャーナリスト ≪ 72 ≫ 放射線や食品に含まれる放射能。そんなものを 射能に対する理解で間に合うのだろうか。自然 われるが福島第1原発事故以来、それまでの放 ましだ。放射能に対して正しい理解をとよく言 んなものを送りつけるのなら何もしないほうが る。よく「福島県は何もしない」と話すが、こ のかまったく分からない奇妙な感じの内容であ る。結局、何が言いたいのか、何の意味がある る放射線を減らしたほうがいいとも書いてあ くないという趣旨かと思ったが、なるべく浴び 射能のことについて記述している。放射能は怖 たこともない人間が無責任にこんなものを送り せだ、ふざけるなと思う。仮設での暮らしを見 住宅の中で笑って暮らせるか。何が笑って暮ら までたっても配管むき出しで薄暗く、狭い仮設 奪われて、どうやって笑って暮らすのか。いつ 健康のために笑うことと書いてある。何もかも 律で定められた基準値を飯舘村民に教えること 丈夫、笑っていれば大丈夫と、専門家なのに法 思っている。笑って暮らすには程遠い現状であ 者が「安全だ」と言うから自分は大変危険だと 議員、福島県、飯舘村や、それらが用意した学 がまったく信頼していないこの国の政府、国会 っているし安全とは程遠いと考えている。自分 ものを送りつけてくる。ファイルの内容の中で、 で2年たつ。自分は福島の事故は継続中だと思 はなかった。そういった連中が、今回はこんな る。 福島の事故は原発が4基も連鎖爆発し、何の 対策も打てずそのままの状態、野ざらしのまま まった。 作っていることだけは間違いない。事故当初か もないが、自分なりの理解としてチェルノブイ なことは「笑う」「趣味」… ㊤福島県が県民健康管理ファイルを送ってきた㊥県 民健康管理ファイル表紙㊦健康にくらすために大事 つけてくる。原発事故を理解していない人間が (あおき・たつや 2011 年6月、福島県飯 舘村から広島市安佐北区に避難) 持ち出して、今回の事故で被曝したわれわれに 事故後、飯舘村には何人もの学者が来た。レ ントゲン技師や原発作業員の基準値の数十倍の リ原発事故は4号炉1基が爆発し、決死隊が命 何を理解させようと言うのか。 訳が分からない。 ら一貫して被害者の感情は置き去りにされてき 被曝を安全だと言い、乳児すら助けようとする がけで石棺作業をしたことで放射能の放出は収 た。自分は放射能や原発事故の専門家でも何で ことはなかった。100㍉シーベルトまでは大 2013. 3.22 たかはし・としひさ 山元町企画財政課長。1970 年福島県会津若松市生まれ。東北大法学部卒、 年宮城 県 庁 入 庁。 自 治 省・ 総 務 省 出 向、 宮 城 県 総 務 部 財 政 課、 企 画部情報産業振興室情産業振 興班長などを経て2012年 か ら 現 職。 財 政 担 当 と し て 町 の震災復興計画の実現などに ています。また、百万都市、仙台からもJR常 特に人的被害は大きいものではありませんでし 当たっている。 み な さ ん、 宮 城 県 の 山 元 町 を ご 存 じ で し ょ た。しかし、地震発生から約1時間後、海岸線 ている問題などをお話ししながら、震災から2 震災時の様子や復興に向けた現在の状況、抱え な産業は、農業、漁業であり、特にイチゴ、ホ クセスにも非常に恵まれていると言えます。主 し、仙台空港へも車で 分程度であり、交通ア ですから、いかに想定を超える大津波が押し寄 県沖地震が発生した場合の津波高最大2・5㍍ いました。それまで想定されていたのは、宮城 ㍍もの大津波が山元町を襲 年が経過した東北の被災地の実情をお伝えした ッキ貝が有名で、イチゴは「仙台いちご」とし 武隈山地を 洋、 西 に 阿 東 に 太 平 バー世代が徐々に増えつつあった矢先、東日本 引かれ、山元町に移ってくる子育て世代やシル な温暖な気候や仙台への交通アクセスの良さに にかけての海鮮料理として大変有名です。そん 誇り、ホッキ貝を使ったホッキ飯は、冬から春 山元町は、宮城県の南部、福島県境に位置し、 てお隣の亘理町と合わせると東北一の生産量を しかし、そんな言い伝えや経験則を完全に無視 には、大きな津波は来ないといわれていました。 な海と平坦な海岸線の続く山元町を含む県南部 るリアス式海岸が多い宮城県北部であり、遠浅 の際、津波が襲来するのは、切り立った崖のあ せたかが分かります。また、古来、大きな地震 死者・不明634人 人に上りました。また、家屋の被害は全壊 2217棟(うち流出1013棟)、大規模半 方 った方633人、行方不明の方1人、負傷した 山 元 町 の 大 津 波 に よ る 人 的 被 害 は、 亡 く な す。 し、信じられない程の大津波が襲ってきたので 抱えていま 気候は温暖 で も あ り、 で、 穏 や か 日午後2時 平方㌔) した建物はほとんどなく、地震の直接的被害、 が浸水し、町内にある二つの駅、JR常磐線山 24 方を中心にマグニチュード9・0の大地震が発 2011年3月 町面積の4割が浸水 な遠浅の海 とも呼ばれ 壊534棟、半壊551棟、一部損壊1138 があること 90 か ら、「 東 46 棟 に も 上 り、 町 の 全 面 積 の 約 4 割 ( 11 北 の 湘 南 」 生しました。幸いにも山元町では、地震で倒壊 分、 東 北 地 す。 東 北 南 12 大震災が発生しました。 30 部の海沿い での計測では、約 いと思います。 40 広島ジャーナリスト 94 磐線で 分程度の距離で、常磐自動車道も開通 高橋 寿久 うか。今回は、私が勤務する山元町の東日本大 津波被災の宮城県山元町から 復興という坂を懸命に上る ≪ 73 ≫ ≪ 74 ≫ 下駅、坂元駅は、ともに流されました。農地面 れますが、東日本大震災の津波被災地というと、 いました。震災後、町内の電気、電話回線 携 ( 帯電話含む す ) べてが使用不能となったのに加 え、命綱である防災行政無線も役場屋上に設置 %が浸水し、町の基幹産業であるイ どうしても、宮城県北部の石巻市や気仙沼市が チゴ農家は、129戸のうちのほとんどである クローズアップされますが、市町村規模等への していた通信アンテナが倒壊したことにより使 積では約 1 2 5 戸 が 被 災 し、 ま さ に 壊 滅 的 な 損 害 を 被 相対的な被害程度で考えると、山元町の被害は 用不能となり、県の災害対策本部への被災状況 は、山元町の大変な状況はどこにも伝わらず、 日でした。つまり、少なくとも震災後の2日間 報告が可能となったのは、震災翌々日の3月 っ た の で す。 あ ま り 知 ら れ て い な い こ と で す 本当に甚大なものでした。 が、人口に占める亡くなった方の割合 人 ( 口約 住民の2割が今も仮設暮らし 日間、自衛隊配備の 年が経過する現在でも、山元町内には カ所の かもしれません。実際のところ、震災から約2 の震災直後の情報途絶状態が尾を引いているの 城県北部が取り上げられることが多いのは、こ が、現在でも、津波被災地の報道というと、宮 まったとも考えられます。先ほども触れました が滞り、被災された方々の不安を増大させてし ては、民間支援物資供給や外部からの情報提供 り 上 げ た 被 災 報 道 の 少 な さ に つ な が り、 ひ い まならず、それがマスコミ等による山元町を取 ことから、国・県に対する被災状況の報告もま でした。このような情報途絶状態が長く続いた 頭・書面による情報伝達をせざるを得ない状況 衛星電話を借用した対応や、車両を使用した口 回線が復旧するまでの約 記憶しています。その後も、山元町では、電話 は、他の市町村よりもだいぶ遅い時期だったと ておりましたが、山元町の被害状況を知ったの 私は、宮城県庁の災害対策本部で業務に携わっ ま た、 こ れ も あ ま り 知 ら れ て い ま せ ん が、 孤立無援だったということになります。当時、 ーストクラスの被害程度になります。後ほど触 震災直後の山元町は、周囲から完全に孤立して 1万7千人のうち633人 約4% や ) 町の面 積に対する浸水面積の割合 約 ( 4割 で ) いうと、 山元町は、被災した宮城県内の市町村の中でワ 13 仮設住宅があり、925世帯2386人の方が 11 2013. 3.22 10 60 ≪ 75 ≫ %近くの方 住んでいらっしゃいます。現在の町の人口が約 側に海に沿って南北に走る県道をかさ上げして を植栽した防災緑地を整備したうえ、さらに内 に広範囲の防潮堤を復旧し、その内側に防潮林 落を新しいJR常磐線の駅を中心とした新市街 いうことです。これは、町内に分散していた集 は、「コンパクトシティーの実現」を目指すと 次 に、 山 元 町 の 震 災 復 興 計 画 の 一 番 の 特 徴 し、 併 せ て 公 共施設や商業 施設が集中し た利便性が高 いまちづくり を 行 い、 町 内 への定住を図 ることを目的 と し た の が、 コンパクトシ ティーの実現 な の で す。 山 元 町 で は、 J R新山下駅周 辺 地 区、 J R 新坂元駅周辺 地 区、 国 立 病 広島ジャーナリスト 1万4千人ですから、実に町民の が仮設住宅で今も不自由な暮らしを続けている 地 に 集 約 し た う え、 震 災 に よ る 人 口 減 少 や 急 増する高齢者の孤立化を抑制し、行政コストの 実質的な防波堤とする形です。また、津波浸水 を行うことを義務付けることにより、民間レベ 節減も可能なコンパクトで利便性の高いまちづ 区域での住宅建築の際は、基礎のかさ上げ工事 ルでの多重防御体制の整備も行っています。こ くりを行うものです。分かりやすくいうと、今 という現実を、是非ともみなさんに知っていた だきたいのです。 安全・安心な ま ち 目 指 し て の防潮堤や防災緑地の整備等は莫大な費用と労 る 可 能 性 が あ る こ と か ら、 集 落 の 高 台 移 転 は 回津波が浸水した区域は、今後も津波に襲われ 年頃と見込まれていますが、一日でも早い「安 不 可 欠 で す。 し た が っ て、 そ の 移 転 先 は 津 波 力を要することから、すべてが完成するのは 全・安心な山元町」を実現できるよう事業を進 こ の よ う に 甚 大 な 人 的・ 物 的 被 害 か ら 立 ち 直るため、山元町では、現在、復興・再生に向 めているところです。 (復興計画の土地利用計画) 浸水の恐れの少ない新駅を中心とした区域と けたさまざまな事業を進めていますが、このベ ための方策です。具体的には、最も海側の区域 避難する方たちが高台まで移動する時間を稼ぐ より、内陸への浸水を最小限にとどめ、かつ、 御手段を多重化し、津波の威力を弱めることに 波を完全に防ぐのは不可能と考え、津波への防 な事業を挙げています。これは、想定外の大津 の中では、「多重防御による減災」を念頭に様々 つ が、 「 安 全・ 安 心 な ま ち づ く り 」 で す。 計 画 ま ず、 震 災 復 興 計 画 の 中 で の ポ イ ン ト の 一 部分を抜粋してお話ししたいと思います。 っています。ここでは、震災復興計画の重要な り」 、 「つながりを大切にするまちづくり」とな くり」 、 「だれもが住みたくなるようなまちづく は「災害に強く、安全・安心に暮らせるまちづ 2 0 1 8 年 度 ま で の 8 年 間 で あ り、 基 本 理 念 復 旧 期、 再 生 期、 発 展 期 で 構 成 さ れ、 期 間 は、 定した「山元町震災復興計画」です。計画は、 ースとなっているのが震災から約9カ月後に策 16 20 ≪ 76 ≫ し、被災された方々に集団移転していただくと 移設したうえ、その周辺に新しい市街地を形成 を受けるとはいえ、新しい駅と線路を内陸側に 設を建設する事業を進めています。JRの協力 え、集団移転を行い、商業施設の誘致や公共施 の3地区に災害公営住宅や住宅団地を建設のう 院機構宮城病院周辺地区を移転先に設定し、こ ができるようになります。計画では、 年度ま 設備投資を行わず、イチゴの栽培を始めること これにより、イチゴ農家の方々は負担の大きい う「いちご団地化整備事業」を進めています。 備や資材等を準備し、農家の方に貸し出すとい 栽培ハウスを建設したうえで、栽培に必要な設 す。 そ こ で、 山 元 町 で は、 町 が 土 地 を 造 成 し、 いうようなゼロからのまちづくりを行う事業 8㌶の土地で 戸の農家がイチゴ栽培できるよ でに、町内に4カ所のイチゴ団地を設け、約1・ あり、町民の方々のさまざまな声に耳を傾けな 地域を離れるのは誰にとっても忍び難いことで ます。利便性が高まるといっても、住み慣れた は、恐らくほとんど先例のない大事業かと思い 14 うな環境づくりを進めています。 南海日日新聞の軌跡㊦ 「歴史」と「公民」教科書は今 高嶋伸欣 福山・鞆問題に思う 枡田勲 申し込みはファクス 082-231-3005 かメー ル [email protected] ▽紀伊国屋書 店広島店、フタバ図書などでも好評発売中 は5・ % 県 ( 内3位の低さ で ) したから、人 口減少は大きな課題ではあったのですが、震災 被爆者の闘いから学ぶこと 直野章子 後加速度的に減少が進んでいることになりま 年 進んでいる山元町の復興の切り札になるものと ンパクトシティーは、過疎化、高齢化が著しく たが、やはり、すべてが順調というわけではな 明るい兆しが見えつつある旨をお話してきまし 復興事業を進め、震災直後の時期と比較すれば 立ち直り、震災復興計画に基づき少しずつ復旧・ さ て、 こ こ ま で は 山 元 町 が 壊 滅 的 被 害 か ら 町は仙台圏に通勤する方のベッドタウン的な役 まうということが挙げられます。もともと山元 のアパート等に移り住み、そのまま転出してし 宅を失った方が町内の仮設住宅ではなく、町外 こ の 原 因 の 第 一 は、 や は り、 震 災 に よ り 自 す。 年春に予定されているJ 年度までには、新市街地整備や住民の く、さまざまな問題と課題を抱えているのも事 15 産業である「いちご」の再生に向けた取り組み 人 口 減 少 で す。 山 元 町 の 人 口 は 被 災 前 の 時 点 % についても計画しています。先ほども触れまし たが、津波により山元町のイチゴ農家の約 チゴ栽培を行ってきたこともあり、津波による 急激なスピードで人口減少が進んでいると言わ 県 ( 内5位の高さ 、)出生率 損害を受けた状態で、新たに栽培に必要な設備 ・6% ざるを得ません。震災前の段階でも山元町の高 けました。イチゴ農家はほとんどが小規模でイ が栽培ハウスを流されるなど壊滅的な打撃を受 97 齢化率は 山元町のメリットであった仙台圏へのアクセス バスが運行されていますが、運行本数も限られ、 わずか2年間で人口の約2割が減少しているこ 常磐線の不通状態です。先ほども触れましたが、 の状況は、震災で亡くなった方を考慮しても、 町内のJR常磐線山下駅、坂元駅は津波により 線路ごと流され、現在はお隣の亘理駅まで代行 で 約 1 万 7 千 人 で し た が、 現 時 点 の 人 口 は、 裏目に出ているともいえるかもしれません。さ 1万4千人を切り、1万3700人程度です。 らにこの町外転出に拍車をかけているのがJR さ ら に、 山 元 町 の 震 災 復 興 計 画 で は、 基 幹 方々の移転を進め、 度から 信じています。現時点での計画としては、 R常磐線の新ルート開通に合わせて、コンパク 震災後2年で人口2割減 広島ジャーナリスト第 10 号 トシティーの実現を見る予定となっています。 がら、現在少しずつ歩みを進めていますが、コ 特集「 『戦争と平和』の時代に問う」 「世紀のスクープ」と汚名 そして 67 年後の 正義 繁沢敦子 被爆体験はいまを見るレンズ A・ビナード 広島・長崎からの報告 座談会「 『8月報道』を振り返る」 06 52 割も持っていましたので、震災を契機に仙台圏 実です。 ま ず、 大 き な 問 題 と し て 挙 げ ら れ る の が、 により近い市町村へ転出する方が増えたと考え られ、この場合、仙台圏へのアクセスの良さが 17 や資材を自己調達するのは大変困難でもありま 31 2013. 3.22 16 ≪ 77 ≫ の不通は、特に仙台圏に通学している子どもを が十分に機能していない状況です。この常磐線 超える濃密さがあります。各行政区では区長さ 係は、都市部にお住まいの方の想像をはるかに 体ですので、各地域コミュニティーでの人間関 あります。山元町はいわば、農村、漁村の集合 明 る い 話 題 と 言 え ば、 山 元 町 が 宮 城 県 と 共 最近の明るい話題をお話ししたいと思います。 の都合もありますので、割愛させていただき、 棟分の建設が 持つ家庭にとっては、大きな負担であり、毎朝 住される方に補助金を交付したり、JR代行バ 町では、人口減少を防ぐ観点からも、町内に定 を構える方が増えることも予想されます。山元 て町外に転出し、仙台圏により近いところに居 続することを考えると、子どもの通学を考慮し ということですから、あと4年はこの状態が継 年春 もを送っている親御さんも多くいらっしゃると なることを不安に考えている方も多く、町とし り、全く顔も名前も知らない方々がお隣さんに のコミュニティーがいわばガラガラポンとな でいますが、新市街地へ集団移転する際、以前 住宅や町外のみなし仮設の民間アパートに住ん くの方が以前のコミュニティーから離れ、仮設 きなダメージを受けました。今、被災された多 ういった濃密なコミュニティーも震災により大 顔見知りといった関係を築いていましたが、そ んがこまめに各世帯のお世話をし、ほとんどが 増えてくるものと期待しています。 はありますが、通常の暮らしに戻られる方々が 205戸が整備される予定ですので、徐々にで す。 山 元 町 内 の 災 害 公 営 住 宅 は、 るということは大変意義のあることだと思いま の生活から解放される方が少しでもいらっしゃ わずかな数ではありますが、不自由な仮設住宅 早い災害公営住宅への入居となり、 居が可能となります。これは、宮城県内で最も この3月中で終わり、4月から公営住宅への入 同で実施している災害公営住宅 5時前に起きて、車で最寄りの亘理駅まで子ど スの補完として町営の代行バスを走らせる等の ても新市街地でのコミュニティー維持・形成は 戸 年度中に ま た、 イ チ ゴ 団 地 の 整 備 に つ い て も 、 市型災害であった阪神淡路大震災との大きな違 響を与えているという点が、東日本大震災と都 らに顕在化し、震災後の復興事業にも大きな影 ていた過疎化、高齢化等の問題が震災によりさ 通の問題であると考えられます。震災前に抱え が解決していかなければならない大きな課題に ー維持という観点の比較衡量を行いながら、町 ー実現という観点と、従来からのコミュニティ いう要望もあり、こちらも、コンパクトシティ をそのまま維持したまちづくりをしてほしいと 大きな問題と捉えています。また、町が指定し す。 余 談 に な り ま す が、 こ の 人 口 減 少 問 題 は、 た移転先ではなく、コミュニティー独自で移転 先を指定したうえで、震災前のコミュニティー しかしたら、みなさんが今年のクリスマスに口 られ、市場に出回ることになると思います。も 赤な「仙台いちご」が様々なケーキの上に乗せ ンには、山元町のイチゴ団地で栽培された真っ 整うことになります。今年のクリスマスシーズ 栽培に専念できる環境が部分的ではありますが なり、イチゴ農家の方が震災前のようにイチゴ 36 題や所得減少問題など数多くありますが、紙面 による風評被害、被災された方の二重ローン問 震 災 か ら 2 年。 様 々 な 困 難 を 乗 り 越 え、 多 全児童救った校長の判断 この他にも、今、山元町が抱えている問題・ された記念のイチゴかもしれません。 課題は、ほとんどを国の補助金に頼っている復 もう一つ住民が抱えている問題を挙げます 興事業の財源問題や東京電力福島第1原発事故 と、町内の地域コミュニティーの維持の問題が コミュニティ ー 維 持 が 課 題 いだと思います。 にするイチゴは、山元町のイチゴ団地から出荷 中 戸が今年の夏までに工事が終了することと 52 聞いています。JR常磐線の開通見込は 対策を取っていますが、今後も続くと見込まれ 棟という る人口減少は、本当に切実な問題となっていま 26 なっています。 山元町のみならず、被災した沿岸部市町村の共 26 14 17 広島ジャーナリスト ≪ 78 ≫ くの問題を抱えつつも山元町は復興という坂を 最後にご紹介して本稿を終わりにしたいと思い 山元町に中浜小学校という小学校がありま ます。 りきった後、復興を成し遂げた後なのかもしれ す。中浜小学校は、児童数約 人、校舎は海岸 上り続けています。本当に大切なのは、坂を上 ませんが、今は、被災された方たちが震災前の はすべて流され、小学校だけがポツンと残って いたそうです。子どもたちの命を救ったのは、 校長先生の冷静な判断と中浜小学校の構造にあ っていくしかありません。千年に一度の災害と 生まれ変わることを目指して、ひたすら坂を上 警報が発令された場合、中浜小学校では徒歩で 中浜小学校にも大津波が押し寄せました。津波 線からわずか200㍍しか離れておらず、まさ し、2㍍もの高さの基礎を備え、通常なら海に に海とともにある小学校でした。あの3月 日、 面して校舎を配置するところを、津波を受け流 りました。中浜小学校は津波が来ることを想定 言われる東日本大震災ですが、それを乗り越え 1・5㌔ほど内陸にある坂元中学校に避難する 暮らしを取り戻し、山元町がにぎわいある町に る作業は、まさに千年に一度の大仕事だと思い 小学生の足では避難所まで間に合わないと判断 した校長先生は、子どもたち を屋上倉庫の屋根裏部屋に避 難させ、津波をやり過ごす決 断をしたのです。それから数 十分後、校舎2階まで届く大 津波が2度も押し寄せ、水し ぶきが屋上まで上がってきた そうですが、なんとか子ども たちには届かず、校舎も流さ れることなく、翌日全員が救 助されました。津波が引いた 後、中浜小学校の周辺の建物 ㊤山元町の中浜小学校 ㊦山元町中浜方面。中央部分に 唯一見える建物が中浜小学校 (いずれも2011年3月 日 撮影。町ホームページから) れば幸いです。 を懸命に上っている山元町の姿をご覧いただけ 町にお越しいただき、その目で、復興という坂 れた方がいらっしゃいましたら、是非とも山元 少しでも被災地の現状を理解され、興味を持た 最後になりますが、本稿をご覧いただいて、 ものではないでしょうか。 予想される大災害への備えとしても欠かせない に一度の大災害からの復興、そして今後発生が と想定した緻密な防災対策、これこそが、千年 静な判断、そして、災害が発生するはずのもの る前例やルールにとらわれない臨機応変かつ冷 る構造になっていたのです。 を多くするなどして津波の衝撃を最小限に抑え すように海に向かって縦長に建設し、窓の面積 ます。その千年に一度の大仕事をこなすための 60 ことが防災マニュアルで定められていました。 この中浜小学校の教訓から学ぶべきことは しかし、津波到達は約 分後という情報が入り、 たくさんあるように思います。緊急事態におけ 教訓、そして、今後の大災害への防災対策の教 訓として、震災時に山元町で起こった出来事を 11 16 2013. 3.22 10 ≪ 79 ≫ 原発は社会を分断する 間違った宣伝に惑わされないで 中 電 上 関 原 発 建 設 計 画 な ど で 反 対 運 動 を 続 け る「 原 発 は ご め ん だ ヒ ロ シ マ 市 民 の 会 」 (1978年結成、会員約100人)の木原省治代表が1月 日、広島市中区大手町の平和ビ 木原 省治 い」と、あるところで書いたが、これがいま大 しかし、まず電力会社の社員の給料は高すぎ る。現在、年間800万円ぐらいをもらってい のコストが増大していると言っている。 広島ジャーナリスト 事な問題だと思うので、この話をしたい。この ことを三つの項目に分けて考える。一つは電気 料金値上げの問題。もう一つは産業が空洞化す る、原発がなくなると原発技術者の仕事がなく なる、という攻撃。もう一つは再生可能エネル ギーでは不安定だし料金が高すぎるという攻 撃。これに対してどう思っていけばいいか。 ご存知のように、電力各社はみな電気料金の 値上げを言っている。東京電力は値上げをした し、関西電力、九州電力は値上げ申請している。 九州電力、四国電力、東北電力も申請している。 原発誘致に関して1983年、当時敦賀市長 だった高木孝一という人が次のような趣旨のこ る。次に燃料のコスト。いま原発を止めている。 理由として、原発が止まっているから火力発電 とを言った。「3人や4人の奇形児が生まれて したがって液化天然ガス(LNG)火力や、石油、 人が耳を傾けた。以下、講演の要旨。 も、原発は有り余るぐらいのおカネがもらえま 石炭が主力になるが、この購入価格が高い。電 力会社はそれぞれにLNGを購入しているが、 [1] すよ」。石川県の羽咋市での講演だ。[この考え 方は今も続いていると思う。 ループ企業の中で調達する。だから非常に高値 サルタント、工事なら中国電気工事。すべてグ もう一つは、電線の鉄塔工事でも、関連企業 に全部下ろす。環境影響調査なら中電技術コン 下がるはずだ。売り手の言い値で買っている。 肉を言っていた。衆院選が終わって自民党の安 http://trust.watsystems.net/ma- 年後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわ おやりになった方がよいのではなかろうか…。こういうふう で発注する。 ( 内 橋 克 人 著、 2 0 1 1 年 ) も こ の 発 言 を 取 り 上 げ、 講 演 内 容が問題化した後、高木氏が「町のためにカネとってきて何 が悪い!」と語ったとしている。 電力自由化によって日本には電力会社が実は 数社ある。しかし、地域電力会社は沖縄電力 に思っております」。また「日本の原発、どこで間違えたのか」 か り ま せ ん よ。 わ か り ま せ ん け ど、 今 の 段 階 で は( 原 発 を ) ら、 )によると、高木孝一市長の発言は次の通り。 tuo/matuo3.html 「 え ー、 そ の か わ り に 1 0 0 年 た っ て 片 輪 が 生 ま れ て く る や [ 1]「 原 発 と 地 域 振 興 」( 共同購入や競争入札制度を導入すれば、もっと の放射線治療をするような所には、必ず放射能 マークがある。放射線管理区域を指している。 ドイツはナチス時代の経験を踏まえて政府は放 ㌔にある福島県双葉町 送に介入しないから、こういうことができる。 福島第1原発から約 には「原子力 正しい理解で豊かな暮らし」と いう看板が今でもかかっている。 50 の赤い丸の中に核のマークが入っている。病院 倍 晋 三 政 権 に な っ た 時 の 伝 え 方 だ。 「 日 の 丸 」 「間違った原発宣伝に惑わされないでくださ A R D と い う ド イ ツ の 公 共 放 送 が あ る。 ニュースで「日本の国旗が変わりました」と皮 電力値上げは 本 当 に 必 要 か 「非核の政府を求める広島の会」が主催し、約 ルで「 『平和利用』の実態 脱原発への展望」と題して講演し「『原子力は必要』という宣伝によっ て社会は分断され、 人間関係は破壊される」 「間違った原発宣伝に惑わされないで」と強調した。 19 40 50 10 ≪ 80 ≫ 政 府 に 請 求 で き る も の で あ る。 だ か ら、 原 発 場合は再生可能エネルギー買い取り価格を上乗 イツは安いとか、一概には言えない。ドイツの 社。それともう一つ、日本原子力発 を持っている各電力会社も東京電力の救済に を加えて 電という会社がある。この日本原電は敦賀原発 援 助 す べ き だ と い う こ と に な る。 電 力 億円払うとされているが、確定した金額は不 力をもらおうがもらうまいが、日本原電に契約 購入している東京電力、東北電力、これらは電 電力、中部電力、北陸電力、東海第2原発から なぜか。敦賀原発から電力を購入している関西 中国電力の場合、松江市などが受け取る。最初 原発がある自治体は核燃料税を受け取れる。燃 いる」とする答えが増えていたが、分析すると けているが、発電していなければもらわない。 ケートをとったら、やはり「仕事がなくなって 料の単価に対して何パーセントという基準を設 飲食店や宿泊業者の人たちが数として多く上 年払っている。中国電力は払ってないが日本原 力213億円、東北電力116億円。これを毎 関電340億円、中部電力307億円、北陸電 費などの固定費がかかる。それと使用済み燃料 場合は、運転していてもいなくても、運転管理 本音から言えば島根原発再稼働だ。また原発の 食店や宿泊業が数として多く上がっていた。 と柏崎は製造業の街だ。そういうところで、飲 用が減ったということになっているが、もとも ていないからもらえない。松江市や島根県は、 がっている。そのため原発再稼働しないから雇 電株を約 沸騰水型と加圧水型がある。東京電力は沸騰水 自由化が進む前は、日本が世界で一番高かった。 も廃炉にできないと思っている。日本の原発は 枝野幸男前経産相は、日本の電気料金は安す ぎると発言した。安すぎはしない。日本の電力 型で、今回事故を起こしたのも沸騰水型。ター それは、1事業者1工場で1200億円という ものだ。福島原発事故の賠償は当然1200億 円で終わる訳がない。東京電力にとっては、あ 安いとか高いとかいう前に、産業用と家庭用の め比較的廃炉は楽だが、沸騰水型でメルトダウ 電力のほか、日本原子力発電と電源開発。 思う。 1原発は、100年たっても廃炉にできないと ンを起こし、燃料が底に落ちてしまった福島第 沖縄の [2]北海道、東北、東京、北陸、中部、関西、中国、四国、九州、 料金体系の違いがある。イタリアは高いとかド た時の電力事業者の賠償限度額を決めている。 日本はイタリアより安くなったと言われるが、 は放射能を含んだ水は理論的に流れていないた 自由化の流れはストップした。一部自由化で、 ていくので廃炉が難しい。加圧水型は2次系に な時に米国カリフォルニア州で大停電が起き、 ビンを回す2次系に放射能を含んだ液体が流れ 廃炉には技術者がいる。福島は100年たって すべきだ。曖昧にするから雇用の不安が出る。 福島原発事故によって、東京電力を救済する ための原子力損害賠償支援機構ができた。この しかし、大口電力部門を中心に自由化の流れが ている。 だから209億円の黒字が計上できた。 の最終処分の問題や廃炉の問題がある。 機構に対し、原発を持つ電力会社が、原発の比 起こった。しかし電力各社は猛反対した。そん 年は最低でも続くと思っている。 30 原 子 力 損 害 賠 償 補 償 法 第 7 条 は、 損 害 が 出 年から 拠出金の支払いは何年続くだろうか。私は、 率に応じて資金を拠出することになった。この 原 発 の 廃 炉 を、 国 が き ち ん と 方 針 と し て 出 万株持つ。こうして日本原電を助け 13 原発がなくなると仕事がなくなる。これはよ く言われる。新潟県柏崎市で商工会議所がアン 料を払っている。例えば東京電力464億円、 は7%ぐらいだったが、現在 %。今は発電し 廃炉には「人」が要る 社 で[ せしており、電気料金に税金を掛けているので 1200億円払う。中国電力は今年度( 年度) 高くなっている。 [2] と 東 海 第 2 原 発 を 運 転 し て い る。 卸 電 力 会 社 と い い、 東 京 電 力 や 関 西 電 力 な ど に 電 力 を 売 る。これが、昨年から今年にかけてまったく発 12 12 13 明である。その前年は 億円だった。 年度は 24 209億円という過去最高の黒字を計上した。 いくら払 うか分からない。それ と、核燃料税。 電 し て い な い。 に も か か わ ら ず 中 間 決 算 で は 69 10 15 る意味1200億円を超える損害金は、堂々と 10 2013. 3.22 40 ≪ 81 ≫ 発輸出の最先端にいる会社だ。電力会社は原発 いう状況になっている。 今、(中国、ロ シアを除いて)世界 の資本主義 井県)は える原発が増える。関西電力美浜原発1号機 (福 かウエスチングハウス社という原発を造ってい 発から後退した。ゼネラルエレクトリック社と いう。福島第1原発では、 廃炉は簡単ではない。 アメリカはスリーマイル島原発事故によって原 射能を浴びるようなことを許していた。限度以 故後、最初は250㍉シーベルトとか莫大な放 力の福島原発で作業員不足がいわれている。事 放射能に汚染される作業員である。今、東京電 基の原 国新聞に出ていたけれども外国人労働者を使 う。そういう状況になろうとしている。 次 に 再 生 可 能 エ ネ ル ギ ー の 問 題 を み る と、 わずか3カ月で原発1基分 きっちりとした原発技術を持って 昨年7月1日から再生可能エネルギーの固定 円、 中 規 模 水 力 ・ ・2 ・ 7 円、 バ イ オ マ ス 広島ジャーナリスト ロ事件のニュースになった「日揮」という会社、 らわなければならない。そのためアメリカとし 廃炉にするため何をするか。まず燃料を取り 出す。 1979年のスリーマイル島原発事故は、 ホームページ(HP)を開けてみてほしい。原 ては日本の原発が廃炉になるのはとても困ると 数年かかった。比較的 の必要性をあまり宣伝しなくなったが、日揮の 燃料を取り出すだけで 簡単だと言った加圧水型でもそうだ。福島原発 ド イ ツ は 現 在、 原 発 の 廃 炉 を 決 め て い る。 の燃料を取り出すというのは大変だ。原子炉を るか。それができたとして、次に原発の莫大な 国で原発技術を持っているのは日本ぐらいだ。 年になる。中国電力の島根原発1号 数の配管の放射能をすべて洗う。その後、分別 年と る会社があるが、加圧水型原発を造っているウ 廃炉には多くの原発技術者や作業員が必要 で、彼らの仕事がなくなることはない。廃炉を 決めてないから仕事がない。 はもう放射能を浴びる作業はできない。ほかの 以降に ト ナ ム や ラ ト ビ ア、 リ ト ア ニ ア な お い て も ら わ な い と 困 る。 そ う で ~ ・ 価 格 買 い 取 り 制 度 が 施 行 さ れ た。 太 陽 光 1 ㌔ ・ ・ 1 円、 小 型 風 力 ないとロシアなどの国の原発が輸 30 27 42 ・3~ 円、 風 力 出 さ れ て し ま う。 世 界 中 の 原 発 市 円、 地 熱 円、小水力 25 23 35 42 57 13 場を確保していくために日本の原 発技術はしっかり持っておいても 45 75 ㍗時あたり どに原発を輸出するために日本に 上の放射能を浴びた人が多く、そういう人たち 原発輸出の問題。茂木敏允経産相は、 エスチングハウスは東芝ウエスチングハウスと それと、 原発輸出は続けると言った。アルジェリアのテ いう東芝の子会社になった。沸騰水型原発のゼ 原発を再稼働して点検しようとしても労働者が 委 員 会 ) は 3・ 20 発 建 設 を 許 可 し て い る。 こ れ は ベ 11 ア メ リ カ の N R C( 原 子 力 規 制 ネラルエレクトリック社は日立と 40 42 集まらなくなっている。だから2、3日前に中 40 東芝の連携企業になっている。 も、日本の計画では廃炉に要する期間は し て 整 地 す る。 事 故 を 起 こ し て い な い 原 発 で 40 最 初 に 言 っ た よ う に、 ア メ リ カ の 技 術 に 基 機は来年 年になる。こういった状況の中で廃 づいて日本は原発の研究開発を進めてきたが、 炉はどうしても必要だ。そして作業員も必要。 水棺、つまり水で覆う。福島原発でそれができ HPを見ると、原発は地球温暖化防止のため必 廃炉というと後ろ向きに聞こえるが、ドイツの 要と書いている。なぜ日本が原発輸出をするか。 廃炉産業は非常に前向きだ。日本でも 年を迎 20 ≪ 82 ≫ 137万3千㌔㍗だから上関原発1基分以上の %、178万㌔㍗に達した。上関原発が ルギーによる電力は1年間の目標の250万㌔ る。9月までのたった3カ月間で再生可能エネ る。羽根の角度も変わる。最先端技術で再生可 御しているから風の向きによって自動的に変わ が、今の風力発電の風車はコンピューターで制 の向きによってどうかと思われるかもしれない 界中に風力発電を輸出している。風力発電は風 どんどん造り、原発が必要ですと言いながら世 円として固定価格買い取り法が施行された。 ターを使って太陽光とタイアップする新しいエ ネルギー分野の開拓をしている。三菱は原発を の中に熱いガスを入れると気化熱が出てエアコ 房できるのかと思われるだろうが、真空の状態 暖房はそれで賄っている。燃やしてどうして冷 てバイオマス発電をしている。真庭市役所の冷 真庭市では木質チップや木質ペレットを燃やし てきた。9町村が合併してできた林業の町だ。 エネルギーが必要だ。先日、岡山県真庭市に行っ それぞれの地域の特性を生かした再生可能 している。 電力が再生可能エネルギーによって生み出され 能エネルギーの分野は発達している。 位か3位、1番はインドネシアだが、それに匹 地熱エネルギーについても日本は世界第2 中で真庭市は 業の林業従事者が全国的にどんどん減っていく ンに使える。市の担当者が言うには、第1次産 日本の再生可能エネルギーは太陽光が主だ。 敵するくらいの地熱大国だ。中国地方は残念な 人増えた。それも若い人、若く 太陽光は昼間に電力をつくるが夜はつくらない 日にエネルギー・環境会議で決まったのに ㌔圏内をEPZ ㌔圏内に拡大してUPZ(緊急時防護措 地改良区などがやっている。鳥取県は小水力の した。そして放射性ヨウ素の対策区域を 置準備区域)という原子力災害対策重点区域に のを 里と呼ばれている。広島県でも湯来町(広島市 ㌔圏 及すれば少し下げてもいい。下げることによっ 内にした。中電島根原発から ㌔といえば庄原 50 Aのメンバーに年間何十万円かのお金をもたら している。原価償却してしまって、改良区やJ がいわゆる安全協定の締結対象だったが、出雲 市の一部が入る。今までは松江市と島根県だけ 50 日立は原発を造りながらもスマートシ も大事だ。 佐伯区)でJAなどが川の流れを利用して発電 は小水力発電。川の流れを利用してJAとか土 中 国 地 方 で 一 番 有 名 な 再 生 可 能 エ ネ ル ギ ー (緊急時計画区域)という避難地域にしていた そ ん な 中 で 昨 年、 今 ま で になってしまった。 もかかわらず閣議決定されず、実質的に骨抜き 月 ていたのが「2030年代」になったうえ、9 原発ゼロを実現する時期を「2030年」とし 昨 年 は エ ネ ル ギ ー・ 環 境 会 議 が「 革 新 的 エ している。木質ペレットを作る会社もある。 て子どもを連れた夫婦が帰ってきて林業に従事 万人の雇用を生み出している。今、若い人は 分野の雇用者は 万人といわれていたが、今や 年の段階で再生可能エネルギー が発達しているから、昼間充電して直流電力を 年には %が再生可 %、 %を再生可能エネ 16 ドイツは ネルギー・環境戦略」を決定した。これは当初、 40 交流に変換する装置を使えば夜も使える。そう 採り出す穴を掘るのは国立公園法によって規制 いうことを一切言わずに「昼しか発電しない」 がかかっていたけれども、今は斜め掘りも許す ようになったから、地熱発電も増えると思う。 年に 20 04 「単価が高すぎる」という宣伝をしている。 %、 年は ド イ ツ の 場 合、 2 0 1 1 年 で 年に 能エネルギーになった。 %、 38 20 25 とか、税金をたくさんかけているとか言ってド イツを攻撃している。 14 12 80 ルギーでやっていく方針を出している。そした 仕事がないと言われるが、若い人たちが希望と ら、 日本の経産省は「ドイツは電気料金が高い」 夢 を 持 っ て 仕 事 に 就 け る の は 再 生 可 能 エ ネ ル ギーの分野ではないか。 50 円という太陽光発電の買い取り価格は普 10 50 て消費者の電気料金の負担を減らしていくこと 30 30 がら地熱はないが、九州や東北は多い。地熱を と原発推進派から言われるが、今や蓄電池技術 ほぼ達成した。 た。 ㍗の この買い取り価格は電気料金に反映されてい 月末の段階で年間目標の250万㌔㍗を 65 35 ティーとか、 スマートグリッドとか、 コンピュー 2013. 3.22 70 12 42 ≪ 83 ≫ んなで渡れば怖くない」という体質が極めて強 やめることはできない。電力会社は「赤信号み 付金で賄われた。また「光・熊毛地区栽培漁業 い。だからきっちりと私たちが言っていく必要 市や雲南市、鳥取県米子市、境港市も含めて安 全協定を締結しなければならなくなった。しか センター」は環境影響調査同意を条件にして中 うち8億4600万円、ほぼ %が電源三法交 ㌔圏内の安全協定では、例えば運 し、今まで これまで決められなかった多くの問題があ がある。 る。まず、原子力防災対策。今出ている防災対 された。そして上関小学校は温水プールがあり、 山口県にこれほどいい小学校はない。子どもた 策の問題点を言えば、中央集権的であること。 ロールしていて、自治体に任せずに中央の指示 避難指示にしても中央がすべての情報をコント ちに温水プールで泳ぐかと聞いたら、海が近い 以降に上関町で原発推進派が立てた に基づいてやる。まず5㌔圏内の人が避難する 3・ から海で泳ぐといっていた。 看 板 に な ん と 書 い て あ る か。「 原 電( 注・ 原 までは ㌔圏内は避難するなという形で非常に 発)を妨害する人は上関町に来ないで!」とあ 発立地地域への金のばらまきをあげたい。電源 あるが、その一つとして電源立地対策による原 電力事業を悪くした要因には多くのことが 兄弟はもちろん親子でもそう。夫婦は聞いたこ を争点にされると思ったのだろう。私が 年間 終わった後だった。選挙の前に出すと原発問題 る。浮上したのは1982年の町会議員選挙の 私は原発は即時ゼロという方針を出すべきだと ば「推進」か「反対」の見方しかしないことだ。 の7月に最終的に決定する。 かかわって一番思うのは、上関町では人をみれ 思う。即時ゼロ方針を出し、廃炉にして早く廃 題、活断層の問題、再稼働、運転に関する条件、 がだいたいまとまると言われている。地震の問 そ し て 安 全 指 針。 3 月 に は 安 全 指 針 の 骨 子 中央統制的な防災指針を出そうとしている。 三法による原発立地地域への交付金・補助金を とがないが、おじさん、おばさんに至っては腐 る。上関は原発問題が浮上して今年で 年にな 説 明 し た「 電 源 立 地 政 策 の 概 要 」 と い う 経 済 るほどある。原発問題はけっしてエネルギー問 炉産業を育てるべきだ。廃炉産業をどんどん育 が建たなくても立地地域には電源三法による きてやめた。だが、中国電力は自ら上関原発を 立て問題を進めようとしていたが、3・ が起 する取り組みが必要だ。デモをやることも必要 世論は脱原発を求めているということを可視化 争点にされなかった。今年の課題としてはまず、 のに変えることができる。 てていけば、後ろ向きな廃炉産業を前向きなも 次 に 原 発 を い つ ゼ ロ に す る か と い う こ と。 そういったものすべてについて安全指針が今年 産業省資源エネルギー庁発行の冊子がある。私 題ではない。社会を分断し、人間関係を破壊す 中 国 電 力 は 3・ るのが原発だと思う。 たちは電気料金の中から1㌔㍗あたり の電源開発促進税を払わせられている。一般的 年間に約 やめるとは絶対に言わないと思う。言えるよう 月にオープンした上関町の温浴施 449億円出る。建たなくてもだ。 2011年 設「鳩子の湯」の総事業費9億5300万円の このたびの衆院選では原発問題は意図的に まだ原発が建っていない上関の例でいうと、 な体質を持っていない。「自分の口では言えな だし、集会をやることも必要。もちろん国に対 交 付 金・ 補 助 金 が 運 転 開 始 ま で の い」と、中電の幹部も言っている。誰かから「や してものを言うことも大事である。 11 31 以 前、 非 常 に 強 引 に 埋 め な 家 庭 で 1 カ 月 2 0 0 円 ぐ ら い に な る。 原 発 37 めます」と言われればやめるが、自分の責任で 10 11 広島ジャーナリスト 90 国電力から払われた約7億円の運営基金で建設 ㌔圏内については承諾ではな 転を再開する時に承諾を得ることになっていた が、中国電力は く報告と、とてもトーンダウンした。 ㌔圏 広島市に一番近い原発は四国電力の伊方原 発で、距離は約100㌔。伊方原発から 内にはなんと上関町が入る。上関町の八島とい う島に放射線の測定機を設置すると山口県は決 めている。 30 30 ・5銭 31 30 人を見れば「推進か」「反対か」 11 10 12 ≪ 84 ≫ 次に原発についてこのまま安倍政権に任せ 事連としての広告費は約869億円と言われ 事 業 連 合 会( 電 事 連 ) を 作 っ て い る。 こ の 電 りやめた。それで、広テレの営業関係の人から 新 番 組 に つ い て も、 入 る 予 定 だ っ た の を 取 130億円上回る広告費を電事連は使ったこと か200万円かの賞金をもらって喜んでいる 制作関係の人に対して「あんたらは100万円 という事態になった。 ておけば大変なことになるということを世の中 位のパナソニック733億円を約 という経済界のグループがある。東京電力の副 になる。地域独占企業で、いわゆる公益事業者 に知らせること。安倍さんを囲む「さくら会」 て い る。 社長や日立製作所社長がメンバーだ。安倍さん が、こちらは何千万円もの損害が出たんだよ」 ことで社内でいろんな問題が生じた。あれから というようなことを言ったそうだが、そういう の電力会社が、これほどの広告費を使う必要は 以 はたぶん7月までは原発再稼働を明確に打ち出 例 え ば、 関 西 電 力 に つ い て 言 え ば 3・ さないと思う。人に言わせると思う。だから、 ない。 安倍政権に対して脱原発をきちんと言うことが 以降に週刊現 代が「このことがもとで当時の番組プロデュー 年以上にもなるが、3・ サーが飛ばされた」ということを書いて、再び もう 一の出るコマーシャルをテレビで毎日流してい 前のことではあるが、プロ野球で有名な星野仙 3番目に脱原発を主張する勢力はもっと信 た。こういう 宣伝。「地球温暖化防止 に原発推 必要だ。 頼を得て、魅力ある、安心感を得て次の選挙で けないという宣伝によって電気料金の値上げを というけれど、原発が止まっているとやってい た。そのほか、岡江久美子、中畑清、ビートた といった調子。中部電力は勝間和代を使ってい が一時放送を見合わせるということが起きた。 ばならないことになっていた。しかし、NHK くなっては困る。だから原子力発電。星野仙一」 HK教育テレビ、今ならEテレで放送しなけれ 実 は 当 時、 「地方の時代賞」に選ばれるとN 言ってくると思う。そういった宣伝に惑わされ NHKの言い分としては「プルトニウムを取り たが、それが新聞で大きな記事になった。議論 扱った番組は既に作ったので」ということだっ 自 慢 す る よ う な 話 に な っ て 恐 縮 だ が、 何 年 の末に結局は放送されたのだが、こういうのが けし、幸田真音、堺屋太一など、多くの有名タ か前に私の活動を扱った番組がテレビで放映さ やメディアとかに対して圧力をかける一例だ。 レントや知識人を使ってCMをやってきた。 地域独占なの に 莫 大 な 宣 伝 料 れた。「プルト ニウム元年 ヒロシマか ら」と いうタイトルのNNNドキュメント。NNNだ も う 一 つ、 有 名 な 話 を 紹 介 し よ う。 ア ン ト ずに脱原発の可視化など今言ったようなことを 東 京 電 力 に 限 ら ず、 日 本 の 電 力 会 社 は 猛 烈 か ら 制 作 し た 主 体 は 広 島 テ レ ビ で、 そ の 年 の ニオ猪木はご存じだろう。単純そうなおっさん 際経験したことでしか言えないので申し訳ない に な っ て い て、 猪 木 は 最 初、 核 燃 凍 結 派 か ら あ る。 当 時 は 核 燃 料 サ イ ク ル 基 地 建 設 が 問 題 電力会社がお金を使って文化人とか記者クラブ な宣伝料を使う。日本で一番広告費が高い企業 だが、彼が青森県知事選の応援に行ったことが 位は が、この番組について中国電力から広テレに対 位はトヨタ自動 車となっている。この年度の東京電力としての 150万円払うからと言って応援を頼まれた。 広告費は269億円で 位に位置していた。し 位は花王、 社という資料によると、 円か200万円かの賞金が出たはず。自分が実 独広告費上位 はどこかご存じだろうか。2010年度の、単 「地方の時代賞」の大賞をもらった。100万 今年の焦点にしていただけたらと思う。 中 国 電 力 は 電 力 料 金 を 今 の と こ ろ 上 げ な い 「おれも熱く燃える男だが、地球がこれ以上熱 進を」とアピールするために、星野に語らせる。 明るみに出たのはご承知の通り。 11 支持を伸ばすような取り組みが必要だ。 10 11 反対派ではなく凍結派。凍結、反対、推進と三 社 は、 任 意 団 体 と し て 電 気 2013. 3.22 1 し「偏向している」と抗議があり、中電は広テ パナソニック、 1 レに出していたCMのスポンサーを全部降りる か し、 電 力 会 社 10 3 10 2 10 ≪ 85 ≫ 提示された。それで猪木はころっと変わって、 し引くと残りは1桁になる。 連を通じて推進派からも依頼が来て、1億円が と重症の被害を受けた1人も含まれるので、差 派あった中の凍結派だったが、猪木には、電事 (1999年)の被曝によって亡くなった2人 会系の暴力団組長の妻がトンネル会社をつくっ なった。九州の工藤会というやくざ、その工藤 暴力団と福島原発の派遣労働者の関係が問題に なぜ、こんなに労災認定がなされないのか。 て労働者を派遣したということで、職業安定法 まずは医師の問題。原発で働く者は、風邪をひ 違反、派遣法違反で摘発された。こういうのが 推進派候補の応援に行った。当時、猪木の秘書 だった佐藤久美子という人が「議員秘書、捨身 そ れ か ら 経 済 産 業 省、 資 源 エ ネ ル ギ ー 庁、 労災認定に絡む電力会社と労基署や病院との結 びつきの実態だ。 い、元請企業が全部負担するので、自分は払わ [3] こうが腹痛を起こそうが、すべて同じ病院にい の告白」とい [ う本でそのことを書いている。 これで佐藤さんは告訴されたりしていない。 く。そこで診察してもらうと治療費がかからな 名誉毀損とか損害賠償とかの訴えはされたこと 当然ながら役員になったり、顧問になったりと そして保安院、これはもうなくなっているが、 皮膚炎、火傷のような症状が出ても、自分が自 いう天下りでのつながりがある。さらに経団連、 なくてよいというわけだ。従って、例えば突然 に1日か2日か行ったようだが、お金が本人の 由に選んだ病院には行けない。きちんと診断し 大企業は、原発がなくなると仕事がなくなって はない。結局、アントニオ猪木は推進派の応援 懐に入ったかどうかはよく分からない。もう亡 てくれそうな病院に行こうとすると、医師の方 電力会社の言い分では「地域対策で必要。例え くなった人なのでよく分からないが、最終的に か労災補償をしてくれるということにはならな ば 電 力 料 金 を 払 わ な い 人 の 徴 収 に 行 く 時 な ど、 くるということで結託する。警察とはどうか。 い。それと、認定する労働基準監督署の方の対 そういうことで経験のある警察OBに来ても は三塚博氏のところへ渡ったという話もある。 にもいろいろ圧力がかかっているから、なかな 応もある。例えば、管内に多くの原発を抱える らっていると助かるので」となるが、天下りの 自民党の大物政治家だった人だ。 福井の労基署で言えば、労災の審査官が栄転し 受け入れ先の一つとして応じることで協力関係 シーベルト被曝したよというのを記録してお らう。どこそこの職場で何㍉シーベルト、何㍃ い。原発で働く人は原子力放射線管理手帳をも つ、原発労働者の労災認定にかかわる話をした こ れ も 自 分 自 身 の 経 験 で し か 語 れ な い が、 一 体に横のつながりがないのも問題と思う。原爆 こ う い う こ と は「 原 発 ス キ ャ ン ダ ル 」 の[中 に書いている。事実に基づいて。原発労働者自 うことにならないのでは…。 これでは、なかなか働く人たちの側に立つとい 払う、いわゆる大口電力の料金には転嫁されて に も 全 部 省 庁 が 絡 ん で い る。 そ し て、 企 業 の ギーに取って代わるということがあるが、これ めて高い。そのうえ、電源開発促進税も払うと 業が多額の餞別を渡すのが慣例になっている。 を築いているのだろう。 労災認定はな ぜ 少 な い か 電力会社が役人とかをどう利用しているか。 て中央に帰るとなると電力会社や原発関連の企 万人以 の被爆者であれば被団協その他いろんな組織が [4]七つ森書館、2010年、2000円(税別)。 の代金は一般消費者に転嫁することになってい て、再生可能エネルギーとして買い取ったもの いうか払わされている。今後、再生可能エネル 先 ほ ど の 話 に 戻 る が、 日 本 の 電 気 料 金 は 極 上いると言われているが、その中で実際に原発 ある。原発労働者にはそれがなく、みんな一人、 いない。これはぜひ覚えておいてほしい。再生 40 [4] に関係する作業をしていて労災認定された人は 孤独だ。ある とすれば親分子分の関 係。最近、 可能エネルギー買取法が昨年7月から施行され く。この放管手帳を持っている人は今 数人しかいない。これにはJCOの臨界事故 [3]講談社、1993年、1165円(税別) 10 広島ジャーナリスト ≪ 86 ≫ 家庭用とを同じ体系にしているからだ。もう一 アの電気料金がなぜ高いかというと、産業用と ろには転嫁されない。ドイツもそうだ。イタリ る。大企業、つまり大口電力を使っているとこ 本日の話のテーマである「原発は社会を分断す 羽咋市の講演での発言。これに象徴されるのが きても、原発ほど金になるものはない」という 敦賀市の高木市長の「3人、4人の奇形児がで 当に弱いというのは事実だろう。最初に話した 機も造ってしまう。 方も同じだ。1号機、2号機で十分なのに3号 ても、次は3号機、4号機を造ろうとなる。伊 いる。 こうだから、島根のように2号機まで造っ マ ス コ ミ に 対 す る 働 き か け も 続 い て い る。 度言うが、日本の電気料金は決して安くない。 原 発 視 察 旅 行 に 行 っ た と 思 う? 多 い 人 は 7 回 るかならないかで行動する。上関の住民が何度 はなく、原発推進か反対か、何かあれば金にな いうことが起こったか。人を見れば男か女かで 来てニュースの中で言っていたが、町はどっぷ わらなかった。TBSの金平茂紀さんが取材に の秋に上関町長選が行われたが、選挙結果は変 れほど大変なことか。福島原発事故が起った年 そういう中で原発に反対するというのはど の時、くだんの担当ディレクターは大阪に異動 についてチェックしているからだ。広テレ問題 といった具合に追及してくる。原稿の一つ一つ 電 力 会 社 は た ち ま ち「 ど こ の 国 が そ う な の か 」 は脱原発に向かう」 というような言葉を使うと、 例えば、各テレビ局とも年末になると「今年1 もだ。たいてい敦賀原発へ行く。美浜へ行った り原発マネーに汚染されている。現町長の町政 させられ、7年間ぐらい単身赴任していた。広 こ れ も 繰 り 返 し に な る が、 上 関 で 一 体 ど う りもする。敦賀に一泊、京都に一泊して帰ると テレでは通常、大阪勤務は3年ぐらいなのに彼 会場との質疑 られてしまう。福島原発も、直下の活断層が動 なことが起きる。 (きはら・しょうじ) の場合は〝最長不倒〟だった。結果としてそん 年の歩み」的な番組をつくる。その中で「世界 いう行程。だいたい原発のあるところの近くに における実績は原発絡みしかない。途中でやめ る」ということだ。 は温泉がある。伊方原発には道後温泉、島根原 たのは昨年4月から始まって本年度限りだった ではいまだに原発マネーが大きな割合を占めて 発には玉造だったり松江温泉だったり。原発を 地域振興券だけ。1人あたり2万円分、町内で ちょろっと見学し、PR館で映画見たりして、 買い物に使えるという券を配った。後の町財政 夜は温泉旅館で飲ませ食わせ。そういった具合 で原発推進の側に取り込む。それに電源開発特 別会計とかで、 いろんなお金が出る。 旅行に誘っ た個人にも1人あたり何千円、何万円を出す。 下世話なことだが、男は酒と女に弱い。じゃ Q 原発直下の活断層の議論があるが、どう みたらいいか。 分だが、 時 分 い た わ け で は な い。 福 島 第 1 原 発 の 1 号 機 は、 時 津波ではなく地震によって破断した。 に地震が発生、津波到着は 時 15 46 あ、女は何に弱いのか。上関の人に聞いたこと 木原 日本の安全基準では、原子炉の真下に 活断層があるかないかが問題。原発施設は原子 14 に書いているが、いまだにクレームというか訴 ない。発電装置が配管破断しても、原子炉はや に活断層があるかどうか、ということにはなら に問い直す必要があるのでは。 Q そもそも安全とは何か。生きているもの にとって原発そのものが安全かどうか、根源的 2013. 3.22 がある。女性は弁当に弱いんだそうだ。運動会 とか花の会とか、地域のサークルの集まりとか 37 祭りとか、イベントには弁当がつきもの。その 炉、タービン建屋、冷却装置でできている。ター 分に全交流電源破断になっている。直下でな 弁当の下に最初のころは3万円が入っていたと ビン建屋は原子炉ほど安全基準が厳しくない。 ければいいという問題ではない。 いう。そんなことも私は「原発スキャンダル」 冷却装置はもっと落ちる。だから、原子炉直下 15 訟なんか起こされていない。だから、女性は弁 35 ≪ 87 ≫ 事が政治判断で中止した。中部電力は関係漁協 へカネを払っていて、請求書は送ったが、その [6] 説 明 の 問 い 合 わ せ が 行 わ れ た。[こ れ は 引 き 延 ばしだ。新聞は報道しない。これは行政手続き 木原 3・ 以降、若い人たちを中心に今ま での生き方について問い直しがされた。小泉構 後は何もしていない。上関の場合もたぶん返さ ないだろう。 造改革によって強者と弱者ができてしまった。 の問題ではない。政治判断として、ただちに失 それでいいのか。そういった意味で、原発は単 をした。その時、自民党県議と面談したが、原 山口県田布施町にある祖父・岸信介氏の墓参り の破壊にもつながるのでは。 月 そういう面で若い人たちが希望を持てる状況に 発に関して発言は曖昧だ。山口2区で当選した 安倍晋三氏は首相になる直前の 効させるべきだ。そうしないと公約違反だ。 なっているか。上関原発への反対運動が続く祝 木原 電力会社は住民の心を向けさせるため に多額のカネを使う。 上関町の議員が 年 月、 にエネルギー問題ではない。 人間の生き方とか、 日、 Q 原発立地地域の人たちはカネに対する執 着心が違うと聞いたことがある。原発は人間性 島に全国の若い人たちが来る。朝からヒジキを 実弟の岸信夫衆院議員は柏原重海・上関町長に 22 とったりして意気揚々と仕事をしている。自分 12 10 力すると発言した。上関原発は止まると思うが のアイデンティティやプライドを発揮できる、 会い、原発は建てない方向だが地域活性化に協 たと聞く。 のことしか頭にないと言ってひんしゅくを買っ 視察した。その時に推進派議員が、我々はカネ 再生可能エネルギーの町である高知県梼原町を は 安倍首相と岸議員の意見の違いは若干ある。 東 電 は 昨 年 7 月、 国 に 1 兆 円 の 援 助 要 請 を をそうしたきっかけにしないと3・ 忘れ去られる。 Q 3・ 以降、上関原発に賛成してきた人 は居心地が悪い。その人たちは多額のカネをも 3・ Q 安倍政権で原子力規制委員会の委員人事 はどうなるか。 は、今や3兆円を超している。原子力損害賠償 断を先送りする方針を表明した。 を1年程度とする5回目の補足説明を求め、許可不許可の判 さらに3月4日、山本繁太郎知事は県議会で中電に回答期限 [6]山口県は1月末、中国電力に4回目の補足説明を要求。 三 重 県 の 芦 浜 原 発 計 画 は[、 当 時 の 北 川 正 恭 知 [7] 中部電力も同意した。 年に計画 万人の反対署名 だ。 らこそ廃炉の方向性を定めてやっていくべき た自治体は原発なしではやっていけない。だか て使うべきだ。しかし、原発にどっぷりつかっ 再生可能エネルギー普及など本来の目的に沿っ 電源開発特別会計を有効に使うべきだ。いま だ に 地 域 に 対 す る ば ら ま き に 使 わ れ て い る が、 まで100兆円はかかるだろうと思っている。 立てに対する迷惑料。しかし返さないだろう。 のは当然だという意識がある。私は、廃炉完了 限度額が決まっている。それを越えたら政府が 補償法によって電力会社は1200億円の補償 した。その時は新聞も書いた。公的資金の注入 木原 原子力規制委員会の人事については、 らっていると思う。埋め立て計画がなくなった いわゆる原子力ムラの人が入っているというこ としたら、カネは返さないといけないのか。 出す。東電にしてみれば、それ以上は国が出す ゆすはら 11 とで国会の承認を得ていないが、私はこのメン 木原 漁師さんは一人あたりいくらぐらい補 [5] バ ー で 国 会 承 認 を 得 る と 思 う。[規 制 委 員 会 は 償 金 を も ら っ て い る と 思 う か。 多 い 人 で 1 人 非常に市民団体を嫌い、 進め方がとても強引だ。 5千万円だ。漁業権喪失の代償ではなく、埋め 質問しても一切答えない。こういうことは新聞 でまったく報道されない。 Q 上 関 原 発 建 設 予 定 地 の 埋 め 立 て 認 可 な ど、今後の展開をどう予測するか。 木原 山口県の二井関成前知事は埋め立て免 許を失効させると言った。山本繁太郎知事に昨 年には北川正恭知事に を原発建設候補地に決定したが反対運動が激化。 [7]芦浜原発計画 中部電力が1964年、三重県芦浜地区 が棚上げされた。 67 が 提 出 さ れ、 2 0 0 0 年 に 知 事 が「 計 画 白 紙 撤 回 」 を 表 明。 86 年 8 月 に 代 わ っ て、 私 は 失 効 と す る だ ろ う と 思っていたが、山口県から中電へ3回目の補足 [5]原子力規制委員会の田中俊一委員長ら5人の人事は2月 11 11 広島ジャーナリスト 11 日の参院で承認された。 15 96 11 日の衆院、 14 学生運動の思想の社会史』、共編著 佐賀大学文化 教育学部教 「 九 条 の 会・ イ ツ 現 代 史。 牛田」共同代 マの会」運営委員。著書に『若き教 ら原発ヒロシ 養市民層とナチズム ドイツ青年・ で『ヴァイマル共和国の光芒』、共 著『身体と医療の教育社会史』『女 性と高等教育』『ヨーロッパ文化と < 日本 >』『臨床知と徴候知』など。 が肯定的に論じたほか、 年9月 日、新宿駅 た。にもかかわらず原発推進の自民党が圧勝し についての民意は「廃止」へと大きく傾いてい 以上の人がデモに参加していた。あらゆる階層、 柄谷行人氏は「安保闘争は、全国で100万人 デモをする社会』に変わる」と発言した評論家・ れに感銘をうけた丸山眞男や久野収といった人 がありました。…その結果、デモが一般に衰退 を、進歩主義、近代主義として馬鹿にする風潮 いうことを書いていました。…そういう考え方 が、「金曜デモ」などとして定着しているといっ %に及んでいる。ここか %であるにもかかわらず、小選挙区だけで みると議席占有率は ら自民党の圧勝の要因は小選挙区比例代表並立 万人デモに対して、野田首相(当時)が言っ 考察が説得力を持つ。 た「大きな音だね」という言葉は、政府と民意 制という選挙制度にあるのではないか、という 彼は「3・ 以降の日本各地でのデモの隆盛と で論じるのは政治学者・五野井郁夫氏である。 モ(直接民主主義)を議会制民主主義との関連 てよかろう。昨年6月 日の大飯原発再稼働正 してしまったのです」 『 (政治と思想1960 式決定直後にあった 日の「緊急!官邸前抗議」 ―2011』平凡社ライブラリー)という。デ ・ 6 %、 小 選 挙 区( 定 数 3 0 0) 実施され「公共」メディアはほとんど報じない 3・ から首都圏や各地で反原発デモが頻繁に 反原発の民意は「デモ」においても示された。 たちは、やっと日本に市民社会が成立した、と 摘だけしておく。 グループの人たちが参加していたのです。…そ る、なぜならデモをすることで、日本が『人が 前集会で「デモによって社会は確実に変えられ 11 ドイツの長い歩み 市生まれ。元 小熊英二氏( 『社会を変える』講談社現代新書) たむら・えいこ 1942 年東大阪 たのである。その背景として「公共」メディア %で、原発 田村 栄子 で選挙の争点からの原発外しが生じたことを指 %、「徐々に減ら してやめる」 対抗潮流、市民運動、政党、選挙制度 ―はじめに― ▽総選挙結果と「社会を変える」反原発デモ %)を得て「圧 2012年 月 日の総選挙の投票率は ・ %(小選挙区)で戦後最低であり、自民党は ・ 66 授。専門はド 11 16 で 18 の隔絶を示して余りある。 25 この前後から「原発デモは社会を変えるか」 は、日本における『社会運動の社会』の遅れば の調査では、原子力発電は今後、 「早くやめる」 が論壇の一つのテーマになった。歴史社会学者・ せの到来というよりも 年安保時に寸断されか 24 29 1 8 0) で 勝 」 し た。 自 民 党 の 得 票 率 は 比 例 代 表( 定 数 294議席(議席占有率 59 選挙前に、争点の一つとして「脱原発」問題 があった。選挙直前の 月 ― 日付朝日新聞 11 20 32 表。「 さ よ な 60 2013. 3.22 25 12 27 11 61 16 79 43 11 「脱原発」決断に至る ≪ 88 ≫ ≪ 89 ≫ した。 「つまり院外と院内のずれをなくしてい た反原発デモに連続して、3月 日にバーデン・ ナティヴ)が極めて強いことである。 れるものではない。それまでに繰り返されてい その際重要なことは、日本とは異なりドイツ 末の原発全廃が決定された。 では、ナチスの時代と戦後1968年までの西 保守系のメルケルの 年3月 日の発言は、 彼女個人の資質や倫理的・政治的信条に帰せら ドイツを除いて、その都度の経済・社会・政治・ か っ た『 院 外 』 の 政 治 の 継 続 な の だ 」 と 述 べ かなければ議会政治は健全にならない。国会の て、安保闘争時の丸山眞男の以下の言葉を引用 中と外の風通しをよくしろということなんです ヴュルテンベルク州のネッカーヴェストハイム 文化の支配的潮流に対して対抗潮流(オルター ( 『 」 デモとは何か』NHKブックス) 原発を「人間の鎖」で包囲することが予定され ( 一 ) ド イ ツ 帝 国 に お け る 対 抗 潮 流 = 長期的に見て「院外」の政治=デモが「社会 を変え」て、選挙を通じて「院内」=「議会」 ていたが、これが3・ を受けて6万人に膨れ 社会民主党の大躍進と「近代批判」の 運動 た。小選挙区制という選挙制度の問題が大きい 挙は、残念ながらそれとはほど遠い結果であっ れる、という立場に私は立つが、昨年末の総選 する、という相互作用により民主主義が強化さ に反映され、 「院内」がまた「院外」を活性化 という面もなきにしもあらずだが、議会制の下 メルケルの発言・行動はまた、こうした直近 のデモやその後の3州での州議会選を意識した 2)。 上がった(ドイツの人口は、日本のほぼ3分の 帝国は、基本権条項を欠き統治機構のみを定め フランスとの戦争に勝利して1871年(明 治4年)に成立したドイツの統一国家=ドイツ ドイツ近現代において培われた対抗潮流と市民 を持つのは連邦参議院である。それは 帝が宰相の任命権を持ち、法案の承認・拒否権 の邦国 運動、「院内 」に関わる政党と選 挙制度の、民 て初めての全原発停止期日決定に至ったのは、 たドイツ帝国憲法を持つ立憲国家であった。皇 ▽帝国の統治構造とドイツ社会民主党 が、 社会的意識を政治的意識にどうつなげるか、 で持続可能な未来を展望した、先進工業国とし という問題も考えなければならないであろう。 ▽ドイツの「脱原発」決断と民主主義 年以降連邦議会 日本と対照的なのがドイツである。3・ 直 後、ドイツのアンゲラ メ ・ ルケル首相(旧東ド イツ出身の物理学者、2000年以降キリスト 教民主同盟〈保守系〉党首、 %)を持つが、プロイセ の代表で構成され、最大の邦国プロイセンが総 票( 数 票のうち 主主義強化へのたゆみない努力が結実したもの ン邦議会選挙は制限選挙だった。 い。 基本的に君主制である統治機構に帝国議会が 以下では、 「脱原発」決定を念頭におきつつ、 設置され、帝国憲法第 条は、 歳以上男子の ホロコーストもあったことを看過してはならな と考える。その途中には未曾有の大犯罪である 25 世紀末からのドイツの民主主義強化と挫折、 普通・直接・秘密選挙により選ばれた議員によ 25 本ほど技術水準が高い国でも、原子力のリスク たドイツの歴史的背景が理解してもらえるだろ しのきかない脱原発決定を招来することになっ 再出発の歩みを追う。そうすることで、揺り戻 の議決が必要である。選挙制度は小選挙区制。 議決権を有するが、法案の成立には連邦参議院 り構成される、と規定した。これは法案の発案・ 強かったが、 年代の国家主導の急激な工業化、 を完全に制御することはできないということを 初めてであろう。 大土地所有者、大工業、大銀行などの利益を代 年 う。ドイツの脱原発を論じたものはいくつかあ べるが、ドイツでは7月8日に最終的に、 理解。福島事故は、私の原子力に対する態度を 年3月 30 表するプロテスタント系の保守政党が圧倒的に 行動は「歴史的」といってよかろう。 〈日本の国会に当たる〉首相)の素早い決断と 17 90 日にメルケルは、 以下のように発言した。「日 58 広島ジャーナリスト 14 12 11 11 るが、このように長期的スパンで考察するのは 11 20 05 変えた」と。その後の行動については末尾で述 19 11 22 14 ≪ 90 ≫ 都市化の進展の中で、 「帝国の敵」とされ抑圧 されていたカトリックの中央党と、労働組合と 年発足、 年にドイツ社会民主党と 連携しマルクス主義を掲げるドイツ社会主義労 ▽「近代批判」=高度工業化批判、自然・身 のはスイスとドイツだけであることも理解でき る。 こうした自然・身体重視=「近代批判」の思 体重視の諸運動 3・ 後、緑の党はドイツ南西部バーデン・ 想・運動は、資本主義の高度工業化批判を共有 ビュルテンベルク州議会選で議席を倍増させ、 しつつ、もう一つの強力な対抗潮流である社会 働者党( 改称、今日まで存続するドイツ最古の政党)が 2011年5月 日にドイツ初の州首相を誕生 とりわけ社会民主党は中央・地方において に上る定期刊行物を発行、世論形成に大きな影 響を及ぼし、多彩な文化・スポーツ団体の活動 年/大正元年)の帝国議会選で110 を展開して、帝国最後の選挙となる1912年 (明治 ・8%、この時の投票率は させた。同党の州代表クリス・キューンが朝日 新聞記者に同党の躍進の理由の冒頭に「ドイツ 世紀転換期のドイツでは国 と、反対意識の強いものとに分かれる。 第 1 次 世 界 大 戦 に 敗 北 し た ド イ ツ は、 1917年 月のロシア社会主義革命と、大戦 的考察」)と考え行動する市民が、英仏などに ている」(フ リードリッヒ・ニー チェ「反時代 触を奪い、「内容の充実した緑なす『生』を奪っ れた」「科学的人間」をつくり、「自然」との接 化方向を示すものとしての社会主義=労働者 多数派により否定されたものの、民主主義の深 は、「革命」としての社会主義は新出発を期す の影響を最も強く受けた国である。前者の影響 後世界一強大な資本主義国家となったアメリカ 家主導の急激な高度工業化が「機械的に分割さ ▽「世界一民主的な」ワイマール憲法 は技術立国でありながら技術一辺倒への不信感 ( 二 ) ワ イ マ ー ル 共 和 国 で の 民 主 主 義 進展と対抗潮流=ナチス が強い。ロマン派以来の自然重視の系譜もある。 日付同紙)ことに示されて 大戦を経て国家権威を疑う意識も根付いた」と 言った( 年7月 ・5%)を獲得、帝国議会第1党に進出した。 いるように、 / 政治的影響力とともに、消費協同組合活動をも 含む多種多様な社会、文化、スポーツ団体の活 動は労働者層を越えて広がり民衆の知的、実際 的生活を豊かにした。カトリックも文化運動に 比べひときわ多く登場した。 例 え ば ギ ム ナ ジ ウ ム 生 徒( エ リ ー ト 中 高 校 の 権 利、 平 等、 社 会 的 公 正 の 内 容 は 受 容 さ れ 生)、大学生らのワンダーフォーゲル運動、禁 「ワイマール憲法」 ( 年7月 日、国民議会で 酒・禁煙・菜食主義・家庭菜園(クラインガル 267対 で採択 に ) 生かされた。 ワイマール憲法は第1条で共和国宣言をし、 労働組合、政党が民主主義の重要な構成要因で あることを定着させ、そうした言葉に対する親 しての選挙法については第 条で、 議員は普通、 医学批判の自然治癒医療運動などである(文末 で大学教育を受けずに患者の治療を認めている 歳以 歳以上の男女によって選 22 上の女性が男性と同等に選挙権を持ったのがイ 出されると規定した。小選挙区の英仏で の諸原則に従い、満 平等、直接および秘密の選挙において比例代表 75 の田村栄子の文献参照)。自然治癒医療につい 万8千人の会員を擁した。今日のヨーロッパ 近感を抱かせる土壌となったといえる。 一方で、 て み れ ば、 1 9 1 3 年 に 8 8 5 の 地 方 組 織 に 社会主義と労働組合に対しては、他方では強烈 14 20 させもしたが、 帝政期における社会民主党の「院 テン)運動・田園都市建設などの生活改革運動、 31 とどまらず、労働組合運動も展開した。このこ 19 主権在民をうたい、その精神の実質的具体化と 19 とが後世に及ぼす影響は大きい。 反戦を掲げていた社会民主党が第1次世界大 戦開始直後の 年8月4日、帝国議会で戦費予 主義思想・運動に対しては、親近感を持つもの 急成長して対抗潮流となる。 41 内」 「院外」の諸活動は、 国民の意識に社会主義、 自然保護運動、身体重視の改革教育運動、西洋 算に賛成したことで社会主義の「名誉」を失墜 20 12 75 議席(議席占有率 12 11 11 90 34 45 な敵がい心を抱く社会層をも生みだしていく。 21 2013. 3.22 14 10 84 ≪ 91 ≫ 年だったことに比べる 女子学生はワイマール末期に全学生の2割を占 せると ・3%でナチ党より多かった。 めた。これらほんの数例をみても民主主義の進 を持っていた伝統的エリート(大資本家、大地 年、フランス と、ワイマール・ドイツが主権在民の精神の現 展に驚かされる。 にとっては重大な危機的状況であった。彼らは、 ギリス 実化にいかに真摯に対応したかが分かる。法学 ユダヤ人、労働者、女性の進出に真っ向から 対決したのが、1920年2月に発足した、ア 年に国民の直接選挙で大統領に選出され こそがドイツに根をおろしている「社会主義」 謀総長)に、憲法第 正式名称は国民社会主義ドイツ労働者党。われ 年 日、ヒトラー政 条に基づきヒトラーを首 年1月 権が誕生した。反ナチス陣営の社会民主党・共 相にするよう要請、 に社会的差別が存在する。平等観の進展の下で 「労働者」の守り手であると疑似僭称した。ヒ 33 53 他方、第1次大戦開戦時に軍事予算に賛成した 回復」を「民族の全体性」に求めてナチスヘ向 民主主義の政党・階級対立を批判し「全体性の 月にアメリカに端を発した世界恐慌 イツ共産党も支持を拡大する。 年 は、米国資本への依存度を強めていたドイツを チス陣営へと向かった。シュタイナー学校はナ チスにより閉鎖させられた。 年 9 月 の 国 会 選 挙 で「 流 星 の 如 く 」 台 熟していなければ、民主主義の基盤はもろくな 民主的平等的な政治・政党を支持する方向に成 映する民主的なものだったが、民意の多数派が 選挙制度は比例代表制という民意を直接反 ・3%の票を得て企業からの献金も増え 直撃した。膨大な失業者があふれる中で、ナチ 党は 頭、 年7月 日の選挙で ・3%を得て第1 党になるが、これは激減していく伝統的保守2 いう選挙システムにより、帝政から急に民主主 る。とはいえ、長期的にみれば、比例代表制と ・3%で合わせて ・9%であり、ナチ党 時、反ナチスの社会民主党は ・6%、共産党 は に近接している。3カ月後の 月6日の選挙で 市に建設され(ベルリンのブルーノ タ ・ ウト設 はナチ党は得票を減らして ・1%、共産党は 計の住宅は2008年に世界遺産登録された)、 増やして ・9%。社会民主党と共産党を合わ 栄子の文献参照)。 になったことに止目しておきたい(文末の田村 う民主主義サイクルの体験が貴重な歴史的遺産 働組合運動(院外)→政党・議会(院内)とい 義になった共和国における民意→市民運動・労 党の票を奪ったもので、投票率 ・1%のこの る。 かった。一方、社会主義と結合したものは反ナ 社会民主党を批判して、 年1月に発足したド 母性としての女性を訴えて、支持を拡大する。 動や自然治癒運動などの多数派は、ワイマール 破棄、ユダヤ人排除、社会民主党・共産党排除、 先述の「近代批判」運動に言及すれば、青年運 ナチス支持層などについては割愛するが、 約(戦勝連合国と敗戦国ドイツとの講和条約) 産党、 トラーは、ドイツに負担を強いるベルサイユ条 30 は、国民の意思が機械的に平等に反映される比 例代表制の実現が重要だ、と。 さらに市民的政治的自由権、日本国憲法第 条の生存権の手本とされた第151条「人たる に値する生存を保障する」経済秩序の創出、労 働者の権利の保障(8時間労働、労働者の団結 権・争議権、経営への参加権)などが規定され ている。加えて憲法には、急に民主主義体制に 歳以上男女 首相任免権。これら 29 なったので、議会制がうまく機能しなくなった 時のために、大統領(任期7年、 条 の直接選挙)の特別権限の規定もあった。第 条 緊急命令権、第 は末期に重大な影響力を持つことになる。 ▽ナチスの政権掌握 %はユダヤ人であった。労働組 84 21 25 48 民主主義が国是となってユダヤ人も活躍し た。 例 え ば 1 9 2 5 年 に ベ ル リ ン 在 住 の 医 師 6017人の 合と建築家、地方自治体の協働の下に「光と風 19 37 33 11 35 20 32 3月に再選されたヒンデンブルク(帝政期の参 25 主、 将 校、 高 級 官 僚、 司 法 関 係、 大 学 教 授 ら ) 者ゲルハルト ラ ・ イプホルツは、以下のように 主張する。近代の小選挙区制のような人物を選 ドルフ・ヒトラーを党首とするナチ党である。 こうした事態は、強大な政治的社会的影響力 37 ぶ民主制の下では、選ぶ者と選ばれる者との間 28 と太陽」を合言葉とする労働者集合住宅も数都 31 53 広島ジャーナリスト 45 : 10 16 40 32 18 30 14 : とされた。その後の改正で 年には選挙権は 度は連邦選挙法で定められた。間接民主主義に 歳、 年には被選挙権も 歳とされた。選挙制 18 重点を置き、ワイマール憲法の国民投票制は廃 するため、「 超過議席問題」が生 じた。 年選 年選挙では が出たことに対して連邦憲法裁 判所は 年に違憲判決を出した。 挙で超過議席 05 持して、 「州別の議席配分と残余票の連邦レベ 党に有利な小選挙区制を主張し、社会民主党は、 与野党間に意見対立はあったが「併用制」は維 月2日、 改正法が公布された。 国民各層の意見がより正確に反映される比例代 審議を経て ▽ドイツ連邦共和国基本法下の小選挙区比例 代表併用制と「社会的市場経済」 ルでの集計」ということで決着した(山口和人 12 月3日の東西ドイツ統一までは通称西ド 及 び 立 法 考 査 局 レ フ ァ レ ン ス 2 0 1 2 6』 平成 年6月) 。 党の憲法的地位」では、政党の内部秩序は民主 条「政 ている。 「人間の尊厳」は、個人倫理の問題で で集計され、それに基づき全598議席が各党 各政党に投票する。第2票は全国(連邦)単位 制、定数299)の候補者に投票し、第2票を これは、有権者は第1票を各選挙区(小選挙区 と資本の一体化への反省、キリスト教社会主義 台頭に資本が協力したことやナチス時代の国家 (ラ 西ドイツ資本主義は「社会的市場経済」 イン資本主義)といわれる。これは、ナチスの 21 の全体主義に対して「闘う民主主義」といわれ ことを目指すものは違憲である、とした。左右 またはドイツ連邦共和国の存立を危うくする によって充当される(佐藤令「諸外国の選挙制 選者を差し引いた数の議席が各党候補者リスト によって各州( 州)に再配分され、選挙区当 議席は得票に応じ、サンラグ・シェーパース式 るチャンスを与えるための必要条件でしかな の生活を向上させ、国民にその能力を発揮でき の自由な展開に信頼をおくが、経済目標は国民 の国家干渉を否定し、経済市場での需要と供給 年8月 14 年、連邦憲法裁判所に「違憲」とされ 度」『国立国会図書館 調査と情報』第721号、 く、これらの目標実現のためには社会的公正、 社会保障の整備が必要であり、 2011・8・ )。非民主的側面として、小党 即ち公正な収入、 分立を防ぐとして、比例配分で5%または小選 そのための国家責任は解除されない、というも た。また同年、議会で「一般兵役義務法」が可 アデナウアーが、連邦議会で社会民主党候補と 歳 普通、直接、自由、平等および秘密選挙によっ 38 歳、被選挙権は 25 わずか1票差で初代首相に選出されたことから のである。キリスト教民主同盟のコンラート・ 決された 2 挙区で3議席獲得できない政党には議席配分さ ( 011年6月廃止 。 ) 連 邦 議 会 選 に 関 し て は 第 条 で、 議 員 は、 れない。 推察されるように、帝政期の対抗潮流であった 党」は 議会選で5・7%を獲得していた「ドイツ共産 49 さらに、小選挙区当選者数が比例配分割当議 席数を超えた場合、その超過分を定数に上乗せ 56 10 25 る。この条項により 日の最初の連邦 由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、 に比例配分される。原則的に比例代表制である。 や社会民主主義の歴史的伝統をふまえ、経済へ はなく 「政治的に最重要事」 とされた。 第 制の諸原則に合致していなければならない、自 制(人物を加味した比例代表制)」が採択された。 ▽初代首相アデナウアー時代 た、との合意のもとに「小選挙区比例代表併用 し、政権の安定を欠き、政党連合協議が難航し 議論があり、完全比例代表制の下で小党が分立 『国立国会図書館調査 年5月8日、 ドイツ連邦共和国(首都ボン、 ル共和国崩壊と選挙制度の関連について激烈な 「ドイツの選挙制度改革」 イツ)が発足した。 年 で 表制を主張した。委員会の討議では、ワイマー 年 の超過議席が出て、公聴会をもふまえた議会 09 70 18 止された。保守系のキリスト教民主同盟は大政 24 74 第2次世界大戦に敗北したドイツでは、英米 仏露4国による分割統治を経て、西側占領地域 68 基本法(憲法に相当)は、ナチスへの反省か ら第1条で人間の尊厳は不可侵であるとうたっ 24 10 49 90 て選出される。選挙権は 21 2013. 3.22 08 16 11 (三)第2次大戦後西ドイツの出発と 対抗潮流= 年 学 生 運 動 ≪ 92 ≫ ≪ 93 ≫ 正」の理念は、国民的に共有されるものとなっ 義路線をとるようになっていたが、 「社会的公 社会民主党はマルクス主義ではなく社会民主主 ていたの」。エスタブリッシュメントへの抗議 い大人世代批判=「お父さん、あのとき何をし ジェンダー構造批判、ナチスの過去を反省しな 国内での「過 去への反省」、社会 や大学・教 育における民主化と増設、教育内容の問い返し 両ドイツ条約を調印した。 月の連邦議 11 ・1%の高率を記録、ブラン 年 は、大規模デモとして公衆に可視化された。新 も進んだ。国民の審判を問う 会選の投票率は 72 年春のイースター行進(3万人の学生、徒弟、 この世代を軸に、成長の限界をふまえてエコ 生 徒、 大 人 )、 非 常 事 態 法 反 対 ボ ン 行 進 に は、 ロジー、底辺民主主義の観点から基本的政策を 会外反対派」が形成され、労組員も加わった。 ト政権は2期目に入った。 たに結成された社会主義学生同盟を中心に「議 ていた。 年、平均7・ 東西冷戦下で西ドイツは「西側陣営の反共防 波堤の最前線」の役割を担いつつ、 、廃墟の中 から高い経済成長(1952― 年)、共 7% を遂げ、 年代には完全雇用を達成、労 ) 働時間短縮も実現した。 「上からの」 「過去への 反省」として、対イスラエル補償( 1万5千人の学生、労組員も加わって6~8万 げる「緑の党」 が 提示し、環境保護、ジェンダー問題を前面に掲 年に発足した。初期には、 人が参加した。 「196 8」は、国際的な同時代 性を帯びて カ国のナチス犠牲者への補償も果たした。 いたが、この後「院外」が「院内」に影響を与 産主義者を除く国内の犠牲者およびフランスな 91 年3月の連邦議会選では5・6% 自然保護を重視する保守系も結集したが、去る 者 も 出 た。 という教科書が受け入れられ、 世論調査では「ナ 物質的価値観」が広がり、ライフスタイルやジェ 起こし、若者を中心に「対抗文化」が噴出し、「脱 政治参加を促した。 しい社会運動」が拡大し、住民とりわけ若者の 政界の世代交替が飛躍的に進み、「院外」では「新 を獲得して、議 会進出を果たし た。「院外」対 %を超え ンダー関係での民主化も広がった。 環境保護政策が推進された。 年学生運動と政権交代、 「緑の党」発足 ていた。 チス時代が良かった」というものが 年9月の連邦議会選を受けて政権交代が起 き、社会民主党と自由民主党の連立によるヴィ の防止処理規制法」、 年「包装材廃棄物政令」、 ▽ こうした空気を一変させたのは「 年学生運 動」である。直接のきっかけは、 年 月から 士であったブラント(社会民主党)は「より多 年)など。 年「廃棄物発生 年「廃棄物リサイクル法(実施は 「異議申し立て」 の要求を実現するには、政治・ く の 民 主 主 義 を 」 を ス ロ ー ガ ン に「 院 外 」 の 86 各州での「脱車社会」まちづくりも重要である。 96 91 69 のキリスト教民主同盟/社会同盟と社会民主党 12 の2大政党連立による、野党不在の「大連合」 「異議申し立て」を正面から受け止めた。「 年」 94 50 68 66 「 院 内 」 で は、「 持 続 可 能 な 社 会 」 に 向 け て、 リー・ブラント政権が誕生した。反ナチスの闘 しかし国民の間では総じて「過去への反省」感 ど 68 える政権交代に至ったのは西ドイツだけであ 80 60 抗潮流は自ら「院内」に足場を築いたのである。 83 52 60 は乏しく「ヒトラーにもいいところがあった」 る。デモは価値観、政治文化転換を広範に引き 12 68 判、 大学の封建的組織構造や設備の不十分、「生」 ポーランドとの関係正常化(ワルシャワ条約) する政府への批判、アメリカのベトナム戦争批 学生は、直接民主主義=「院外」の「異議申 し立て」を展開。ベトナムの腐敗政権に肩入れ 政権が非常事態法案を提出したことにある。 膝まずいた姿はナチス犯罪謝罪の象徴となり、 ゲットー跡地に建つユダヤ人犠牲者追悼碑前で んだ。ブラント首相が 年 月、ワルシャワの の若者の多くが社会民主党の青年組織に流れ込 ▽市民運動と原発への統御政策 いったといえよう。 政党の役割が重要なことを、国民各層が学んで 68 ①原子力政策の展開 年 月、連邦と州(ドイツは州の権限が強 と 架 橋 し な い「 客 観 的 」 学 問 批 判、 抑 圧 的 な 10 12 や歴史教科書対話を進め、東ドイツと 年 月 55 70 72 12 広島ジャーナリスト ≪ 94 ≫ い) 、民間企業の関係を調整する機関として連 邦原子力問題省が設置され、第2次原子力計画 年から建設中のヴュルガッセン原 義に敵対的である、と警告を発した。 他 方、 計 ( 画年次 ― 年 で ) は、政府主導の重点開 発に転換するが、ドイツの「国策民営」の「民 裁判所判決は、 年制定のドイツ原子力法第1 員が提携して建設中止を提訴。 年の連邦行政 発反対運動で、自然療法士と社会民主党国会議 営」は日本と比べ、前述の社会的市場経済思想 リ原発事故で原発の安全性への信頼が揺らぎ、 年以降は原発建設が停止した。 は 年代に3割)内では、右派は労使協調路線 戦 後 の 単 一 の 労 働 組 合 総 同 盟( 労 組 組 織 率 =原子力推進だが、左派の最大単産である金属 産業労組(原子力産業の中核)や第2の公務運 ショックへの対応として、まず原子力と天然ガ 発の建設には優遇措置をとった。 年のオイル・ に際して、石油への燃料転換を遅らせ、石炭火 対運動に参加したりする姿を映し出した。 会民主党員であることを公言したり、核武装反 語」(片桐直樹監督)は、ドイツの裁判官が社 半から本格化する。 年の映画「日独裁判官物 の前処理、中間貯蔵と再処理に責任を持たせ、 力法」を改正して原発事業者に使用済み核燃料 年8月、社会民主党シュミット政権は「原子 社会民主党内では反原発運動の強いバーデ ン・ヴュルテンベルク州では原発批判が強い。 いているが安全性を優先させるべきだ、とした。 輸交通労組の中では原子力批判派が台頭した。 72 89 70 68 省エネ政策。社会民主党は、このころ原発推進 路線をとるが、原子力政策の透明化と民主化を 基本にすえる。 人権擁護、国際連帯、権威的関係の問い直しと 連携した「本質は知的プロセス、知的営為」(ラー 年には ン宣言」を発表、反核武装や「平和的な」核エ ベルク州ヴィールでの反対運動のころから「原 トカウ)となり、 年のバーデン・ヴュルテン 各地で原子力平和利用展が開かれたりしたが、 子力システム全体への反対」運動となる。 年6月、社会民主党執行委員会は、新規原発 の認可を認める上で、高レベル核廃棄物の最終 ▽「院内」の脱原発決定 ①社会民主党・ 年連合/緑の党連合政権の 脱原発決定 東ドイツ民衆の反権力運動により 年 月9 日「ベルリンの壁」崩壊、 年 月3日、東ド 11 年のロベルト ユ ・ ンク( 年に広島訪問)の は、国論を二分する大きな国政上の課題」(本 ( 州)誕生。 年に発足し、 年に政界入り 『原子力帝国』 社 ( 会思想社・教養文庫、 年)は、 田宏)となり、原発の発注は、 年以降滞り始 した緑の党は、 年の「ドイツ統一」後、旧東 原子力産業は管理国家化、中央集権化を必然的 めた。 年の緑の党発足、 年の国政進出はこ ドイツの「 年連合/緑の党」と合体して「 40 89 ― 76 イツが西ドイツに「吸収」されて「統一ドイツ」 10 ネルギー振興をアピールしたり、 年のローマクラブ「成長の限界―ローマクラ 30 年 月 日、ボンで 万人規模の反核平和 デモ、翌年は 万人デモなど、反核、反原発デ 10 モは頻度と規模を拡大する。こうして「原子力 10 ブ『人類の危機』レポート」により、広範な市 90 55 77 ③「国論を二分する大きな国政上の課題」へ 貯蔵や中間貯蔵の確保、最終処分場の候補地認 可を条件とした。 年代から「郷土を守れ」と反原発運動が始 まるが「 年学生運動」を受けて、反原発は平和、 このように反原発運動、批判的判決などを受 けて原発への統御政策も強まる。 68 73 54 民に「成長への危機」意識が高まった。さらに 81 90 18 ②原子力政策批判と司法判断 年 4 月、 人 の 科 学 者 が「 ゲ ッ テ ィ ン ゲ 50 スの利用促進、第二に石炭生産の維持、第三に 99 80 性を重視する。 68 条は核技術の推進と安全性の保証とを同等に置 67 から、より市場を意識し国家からの独立と採算 63 これは後の原子力政策に影響を与える。ドイツ 日本のような電源3法はなく、電力体制は多 数の事業者で構成され、 ― 年の「石炭危機」 司法でも「過去の克服」は進められ、 年代後 57 59 75 57 57 89 に伴い、原子力は放射線の脅威とともに民主主 80 86 83 76 うした傾向に拍車をかけ、 年のチェルノブイ 16 90 90 80 83 年連合/緑の党」と改称した(以下では「緑の 90 2013. 3.22 70 77 ≪ 95 ≫ 党」と略記 。 )緑の党の中でエコ社会主義傾向 の強いものは「左翼党」 後 (述 に ) 移行する。 名簿に基づいている。8・7%を得票、8・1% の緑の党を追い抜いた。この時キリスト教民主 書の草案を5月 日に発表した。 ここでいう「倫 理」を個人の道徳と理解してはいけない。既述 同盟/社会同盟 ・2%、社会民主党 ・2%、 のように連邦基本法は第1条で「人間の尊厳の に突入した。この選挙結果を受け、キリスト教 自由民主党9・8%でドイツの政治は5党体制 の保護」も追加された。原発のリスク問題を軸 不可侵」をうたい、 年には「自然的生命基盤 年世代」で 年9月に発足した社会民主党・緑の党連合 政権の首相シュレーダー(社会民主党)、外相 に、持続可能な社会を市民参加というデモクラ フ ィ ッ シ ャ ー( 緑 の 党 ) ら は「 民主同盟/社会同盟と社会民主党の大連立によ 州にも影響力を発揮、 年9月国政選挙で緑の 月3日、 の州の首相らと原発撤退について協 日連 日全廃で合意した。6 議、各原発の廃止年を明確化して段階的に原子 月 31 夏)。 連 合 政 権( 首 相 メ ル ケ ル は キ リ ス ト 教 民 主 同 号、 再生可能エネルギー法を制定、発電設備所有者 』 の総経費が売電収入で賄えるようにした(以後 年6月の連邦原 の 道 を 歩 み 始 め た の で あ る。 再 生 可 能 エ ネ ル 冒 頭 に 記 し た よ う に、 メ ル ケ ル 首 相・ 政 府 消費者の、電気料金負担増の問題や高圧電の送 化の反面、「固定価格買い取り制度」に基づく 」直後の3月 22 も改正) 。脱原発については (平均 年)延長に合意した。脱・脱原発である。 ギーの「現場」では、雇用創出、農山村の活性 連邦政府と電力会社は原発稼働年数の8~ 年 11 日に、この脱・ 年「3・ 11 子力法改正で法的根拠づけをした。 は 12 年9月、連邦議会選で新しく登場したのは 「統一名簿」議員団である。旧東ドイツ政権党 他方で「より安全なエネルギー供給のための倫 と同時に電力業界・労働組合の代表も含む 時 発回帰」は望んでいないようである。 ドイツで「脱原発」への素早い転換はなぜで 理委員会 を 」 設置した。これは宗教界、産業界、 労組、学界、政界の代表 人で構成、協議する ―おわりに― 党を脱党した同党左派「労働と社会的公正のた 間の公開討論を公共放送で全国中継。最終報告 の後継である「民主社会主義党」が、社会民主 めの選挙オルタナティヴ」と合同して提出した 15 の 電網の開発の遅れなど解決すべき問題も山積し シュレーダー政権で緑の党は連立与党として 脱 原 発 政 策 転 換 の た め に、 原 子 炉 安 全 委 員 会 確固たる地位を占めたが、シュレーダー退陣後 (1958年設置)に技術的側面の検討を委託、 ているが、国民の多くは、にもかかわらず「原 11 02 ②フクシマ後の、メルケル政権(キリスト教 民主同盟/社会同盟)の脱原発決定 14 盟)は産業の競争力や電力の安定供給を理由に こうしてドイツは、後戻りのできない脱原発 1998年合意を凍結、2010年9月6日、 への道、先進工業国で最初に持続可能な社会へ 戸衛一『季論 邦議会で可決、7月8日連邦参議院で可決(木 年 炉を撤廃し、 ・ 9 % を 獲 得。 原 発即時全廃と社会的公正の一層の推進を掲げ 月6日原子力法改正案を閣議決定、6月 11 て「 院 内 」 に 影 響 を 与 え る。 こ の 後 発 足 し た ・ 7 %) を 上 回 る 2000年に、諸州での反原発運動・政策提言 07 党( 年とする 年に原発全廃)をし同時に、送 レーダー政権は、原発の平均寿命を 脱原発宣言( 10 16 08 の経験を積んだ緑の党がリードする形で、シュ 09 。 に小売りまで含めた電力市場の全面自由化を推 「 統 一 名 簿 」 議 員 団 は 年 6 月 に「 左 翼 党 」 2012・1) 2委員会の答申を受けてメルケル首相は6 進した。ドイツは強い分権制の連邦国家だが、 と改称した。 年秋以降の州議会選で旧西側7 ネルギー事業法を改正して、発送電分離をテコ 68 94 12 13 32 電法やエネルギー事業法を全面的に改正して、 「キリスト教民主同盟/社会同盟・自由民主党 30 22 21 21 12 広島ジャーナリスト 11 あ る。 男 女 平 等 政 策、 社 会 的 公 正、 「ナチスの 34 過去」の反省などに積極的に取り組んだが、エ 35 るアンゲラ メ ・ ルケル(キリスト教民主同盟) シーの精神の下でいかにつくり出すか、という 政治的「倫理」 なのである(三島憲 一『世界』 政権が誕生した。 98 05 きたかを長期的にみて、 一言でいえば 「政治」「政 考える。 党」が生きている、と私は考える。市民が「異 議申し立て」を行動で示し( 「院外」 ) 、その実 ひるがえって 日本では、「普通」 とは「異議 の「対抗潮流」=「脱物質的価値観」の継承と 吉 田 書 店 / 熊 谷 徹 (2012) 『脱原発を決めたド しての「脱原発の政治的」決定がなされた、と イ ツ の 挑 戦 』 角 川 S S C 新 書 / 塩 津 徹 (2003) 「現代ドイツ憲法史』成文堂/若尾祐司・本田 現のためには「政治」 「政党」 ( 「院内」 )が重要 機とドイツ」 『季論 』 『 1968 年』 :2008) けだろう か。「脱原発」を敵視 する勢力が「経 会 / 同 ・ 星 乃 治 彦 編 『 ヴ ァ イ マ ル共和 (2007) 済成長」を旗頭に改憲を進めようとしている。 国 の 光 芒 』 昭 和 堂 / 平 島 健 司 (2012) 「欧州危 号/フライ、ノルベ 宏編( 2012 ) 『反核から脱原発へ―ドイツとヨー だ、 と 考 え る。 選 挙 制 度 も、 「民意の反映」を 申し立て」 「政党」 「政治」とは無縁であること、 ロ ッ パ 諸 国 の 選 択 』 昭 和 堂 / 田 村 栄 子 (1996) という市民感覚が極めて強い、と思うのは私だ 『若き教養市民層とナチズム』名古屋大学出版 大切に考えられ、 「比例代表制を原則」として 世紀末帝政期の対抗潮流とし いるので、対抗潮流=「異議申し立て」が政治 に反映される。 、原著 (2012 18 ら逃げたからと言って、政治は私たちを逃がし み す ず 書 房 / 脇 阪 紀 行 (2012) 『欧州のエネル は し な い 」( 杉 田 敦『 政 治 的 思 考 』 岩 波 新 書、 ギーシフト』岩波新書/ラートカウ、ヨアヒム、 ルト、下村由一訳 21 世紀末からの自然重視、1968年学生運動 今もあせぬ問題意識 すからである。その影響はずっとのちの世代が はたんなる一時的な災害以上のものを引き起こ 力発電所における事故や災害は、事情によって れというのも、化学工場や生物学実験所、原子 ロベルト・ユンクと日本 れたものであった。負わされた傷は年を経るに つれ癒えたものであった。しかしこれは、もっ 年、 ㌻) 子力帝国』山口祐弘訳、社会思想社、1989 に深刻なものである」(ロベル ト・ユンク『原 恐怖もまた、以前考えられていたよりもはるか き起こされたこの種の災害がかきたてる不安や 壊するのである。したがって、人間によって引 災害は現在を破壊するだけでなく、未来をも破 年)という言葉は、ますます重い。 海老根剛・森田直子訳 原著 『自 申し立て」 「政治」 「政党」といったことに対す (2012, :2000) 然と権力』みすず書房/同 著 『ド る親近感をつくり出してきた。 その土壌の上で、 【最小限の文献〈文中表記は省く〉】 ( も訳も、 2012) 小 野 一( 2012) 『 現 代 ド イ ツ 政 党 政 治 の 変 容 』 イツ反原発運動小史』みすず書房。 「対抗」政党=緑の党・左翼党の活躍が、「異議 暗黒のナチスへの「反省」 、 「対抗」市民運動と ての労働組合・社会民主党の活躍、多党制と対 この時「脱原発」を欲するなら「政治」から逃 立のワイマール民主主義、 戦後に繰り返される、 げることができるだろうか。「私たちが政治か 19 「昔は『神の業』とみなされていた歴史的に 有名な大きな不幸のすべては、やがて忘れ去ら 13 こうむらねばならないことになろう。こうした 年ベルリンに生まれ、のちにド これは1977年に出版されたロベルト・ユ ン ク の『 原 子 力 帝 国 』 の 翻 訳 か ら の 引 用 で あ る。ユンクは イツ、オーストリアで活躍したジャーナリスト で あ る。 ユ ダ ヤ 系 の 出 自 ゆ え に ナ チ 政 権 下 で 2013. 3.22 66 19 とも新しい人間の行為には当てはまらない。そ 13 竹本 真希子 ≪ 96 ≫ ≪ 97 ≫ て、 広 島 平 和 記 念 資 料 館 と ユ ン ク 科 研 グ ル ー 祐司・本田宏編著『反核から脱原発へ』 反原発運動のバイブルとなり、 「3・ 」後の 行った関係者のインタビューを英訳してユンク のであった。 に送り続けた。その資料は750㌻を超えるも ユ ン ク が 広 島 で の 取 材 と、 小 倉 か ら 送 ら れ た 資 料 を も と に 出 版 し た の が『 灰 墟 の 光 』 ( 1957年―初来日と広島取材 現在、広島平和記念資料館では「ロベルト・ ユンク生誕100周年記念資料展『ヒロシマを 年)である。同書には、浜井信三市長、初代原 56 59 ま で )。 ユ 28 て ― ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ と ヒ ロ シ マ の 記 憶 』( 研 究 代 表 者 = 竹 研究課題『グローバル・ヒストリーとしての平和研究にむけ 本 真 希 子〈 広 島 市 立 大 講 師 〉、 研 究 分 担 者 = 木 戸 衛 一〈 大 阪 ンク展および本稿は同研究課題の成果の一部である。 尾 祐 司〈 名 古 屋 大 名 誉 教 授 〉・ 小 倉 桂 子 ) の 略 称 で あ る。 ユ 大准教授〉・北村陽子〈愛知工業大准教授〉、研究協力者=若 ベ ル ト・ ユ (ユンク図 究図書館 ンク未来研 ンク展はロ [1]「ユンク科研グループ」は科学研究費補助金基盤研究(B) 倉が英語に翻訳して送った河本からのユンクあ 郎との交流が生まれる。ユンク図書館には、小 の会」の活動を通して平和運動を行った河本一 ら、『灰墟の光』の中心人物の一人、「広島折鶴 な人々にインタビューを行った。そしてここか も、被爆者や市の職員、日雇い人などさまざま れ て い る 島をこの眼で見たいという気持ちに駆られた」 爆資料館館長の長岡省吾、医師の重籐文夫と蜂 ( 2 0 1 3 ( 邦 訳『 千 の 太 陽 よ り も 明 る く 』 菊 森 英 夫 訳、 谷道彦、作家の大田洋子ら、復興期の広島を代 年 3 月 日 平凡社、2 000年、8㌻)。そし て1957 表する人々が登場する。こうした著名人以外に が開催さ 協力者の 取材を終えると、「『惨禍 』」 の都市広 R・ユンク(ユンク図書館提供) 世 界 に 伝 え る 核 の 被 害 な き 未 来 の た め に 』」 年の『千の太陽よりも明るく』でマンハッ ( ユ ン ク 展 ) タン計画を取り上げたユンクは、原爆開発者と いま、再び読まれるようになっている。 11 広島ジャーナリスト 亡命を余儀なくされ、青年期をパリ、プラハ、 書館)とNPO日独平和フォーラムの協力を得 [1] 昭和堂、2012 年) チューリヒなどで過ごした。反ナチ抵抗運動に も関わっている。のちにアメリカでの取材をも 島との関わりの一端を、1980年の来日を中 プ の[共 催 企 画 と し て 開 催 さ れ た。 本 稿 で は こ れを機に、ユンクの活動と彼の日本、とくに広 マンハッタン計画をテーマとした『千の太陽よ 心として当時の日本の新聞・雑誌記事から振り とに執筆した著書『未来はすでに始まった』や りも明るく』でジャーナリストとして国際的に 返り、紹介する。ユンクに関しては、彼が活躍 したドイツ語圏においてもこれまで十分研究さ 年以降 年まで5回に 著名になった。そして れているとはいえない。日本での本格的な研究 に「1980 年代初頭の反核運動」(若尾 年5月、初めて広島を訪れる。そこで知り合っ よび平和運動・平和思想史。主要論文 たのが小倉馨であった。英語が堪能であった小 月から現職。専門は近現代ドイツ史お は、ユンク科研グループのメンバーでもある若 広島平和研究所助手(助教)、08 年7 の原水爆禁止運動、 平和運動、 反原発運動のリー キー大)で博 倉は、ユンクの通訳と被爆者へのインタビュー 士号取得(政治学)。2005 年7月から 尾祐司の2本の論文(参考文献を参照)に限ら ン・ オ シ エ ツ れていると言ってよいであろう。本稿で扱えな デンブルグ大 ダーとして活躍する。原子力の危険性と原子力 (カール・フォ のコーディネートを行い、ユンクが帰国した後 ドイツのオル いユンクの生涯と著作については、若尾論文を 茨城県生まれ。 を有することが全体主義国家を生みだし民主主 講 師。1971 年 義を破壊すると指摘した著書『原子力帝国』は 島平和研究所 2年半もの間、ほぼ毎週中国新聞の記事や自ら たけもと・まきこ 広島市立大広 参照していただきたい。 わたって広島を訪れ、 「ヒロシマ」を世界に伝 80 えながら、ドイツ語圏を中心としたヨーロッパ 57 ≪ 98 ≫ ての手紙が残されていたほか、広島平和記念資 料館には河本にあてたユンクのサイン入り著書 や、河本が撮影したユンクの写真があり、両者 の交流がうかがわれる。河本とユンクの出会い 原発の運動の指導者となり、各地で「広島を忘 れるな」と訴え続けることとなる。 1960年―テレビドキュメン はさらに、佐々木禎子と折り鶴の話が国際的に タリー「灰墟の光」撮影 広まるきっかけを作った。ユンクが河本から聞 によりユンクは原爆投下から 年を経てもなお 広島に残る原爆の傷跡を描いたのであった。こ 年1月 日)。テ の映像は 年末に西ドイツで放送され、好評を 得 た と い う( 中 国 新 聞 夕 刊 レビドキュメンタリー撮影期間中の 年6月9 日、ユンクは広島で日本原水協の沖縄―東京間 を読んだウィーン在住の作家カール・ブルック 受けて、同名のテレビドキュメンタリーを撮影 ユンクの2度目の来日は 年5月 日のこと であった。 その目的は、『灰墟の光 』の成功を 水爆禁止運動がある政治的な方向を持ってい して反対もあったが、ユンクは「たとえ今の原 は「一方的な政治陣営に与することになる」と ギーの政治的陣営の独占に帰するべきものでは くみ ナーが『サダコは生きたい』というタイトルで することであった。広島訪問に先立ち、ユンク る に し て も、 原 水 爆 禁 止 運 動 は あ る イ デ オ ロ の平和大行進に参加している。ユンクの参加に 本を出版したことで、サダコ物語が普及するこ 日に東京・帝国ホテルでパール・バックと 対談し、ヨーロッパやアメリカの核武装、そし ことを指摘している(朝日新聞 年5月 日)。 この行進に参加したのであった(朝日新聞 年 制度を損なう危険性を持つものであるという 核兵器が機密保持というような形で国内の民主 も、安保反対、アイク訪日反対などを主張する ガンにすべて同意するものではないとしながら て平和について語っている。ここでユンクは、 ない」と述べて、必ずしも行進の掲げるスロー 島を訪れた際にRCCのインタビューに対して ユンクはその後、 日にドイツのバイエルン放 年に広 次のように述べている。 「ヒロシマとの邂逅は 送のプロデューサーやカメラマンとともに広島 かいごう 私の人生に、全く大きな印象を与えました。実 入りする。ユンクは広島を描くことで「広島が 日)。 際私の人生を変えてしまったのです。私が前回 60 て、 私は極めて能動的に、 政治的に能動的になっ に私が出合った生き残りの人々の印象によっ 後にした時、私がこの地で見たものの印象、特 私は全くの受け手であったのです。私が広島を 被爆者ゆえに子どもを持つことをためらう若い 費的・歓楽的になった広島の街が描かれる一方、 学会議」に参加した際に、小倉一家に会うため テレビドキュメンタリーでは、本と同様に河 本が取り上げられているほか、復興を遂げて消 日新聞 2度目は「ヒロシマ会議」に参加するために 広島を訪れた。ヒロシマ会議は 月 日から 次にユンクが来日したのは 年のことであっ た。この年、彼は4月と 月に2度広島を訪れ たのです」 (RCC―TV『広島との対話 原 周年記念・テレビ特別番組の記録』中国放 男女、原爆病院、ABCC(現・放射性影響研 送、 爆 年) 。この言葉の通りユンクは、これ以 月2日にかけて開催され、主催者である「ヒロ 1970年―2度の来日 「国際未来学会議」と「ヒロシマ会議」 6月9日および6月 広島にやって来た時は、私は自分の見たものに たどった運命はいまのヨーロッパにとっても無 26 究所)、原爆スラムなどが映されている。これ 60 30 11 70 ている。4月には京都で開催された「国際未来 仕事もなく街をふらふらと歩く被爆者の青年、 に広島に立ち寄った。 12 年5月 日)。 27 60 ら私は多かれ少なかれ受け身であったのです。 関係ではないという点を訴えたい」と述べた(朝 29 70 25 ついて報告する、ただの報告者でした。ですか ど、衝撃的なものであった。ユンクは 広島の人々との出会いはユンクに「ヒロシマ で、本当に生まれ変わったのだ」と言わせるほ は いたサダコの話を『灰墟の光』で紹介し、これ 61 60 とになった。 24 60 13 29 2013. 3.22 60 15 11 25 降ヨーロッパ各地の反核兵器、そして後には反 70 ≪ 99 ≫ 広島大学長・飯島宗一、広島女学院大教授・庄 ロシマとは何か―被爆体験の継承・思想家・平 その解決―被爆者の差別を手がかりとして」「ヒ ぐる諸問題と市民の連帯」「人間差別の根源と 広島市長が、代表委員として医師・原田東岷や、 課題」をテーマとした本会議と「原爆被災をめ 時代と人間」「紛争の解決と防止」「平和研究の のセクションで講演を行っている(「世界」編 た。ユンクもそのひとりで、 「平和研究の課題」 レイノルズらが本会議の講演者として参加し している。湯川秀樹、朝永振一郎、バーバラ・ 和研究の課題」をテーマとする市民会議を開催 ユンクの5度目の来日は、 年1月のことで あ っ た。 1 月 日 か ら 2 月 日 ま で の 約 3 週 年ぶりの日本で精力的に活動す 15 80 1月 日にルフトハンザ機で成田に到着した ユンクは、 空港内でインタビュ ーに答え、「人 る(別表参照)。 間、ユンクは 10 23 日)。 症患者のひと言だった」と語った(東京新聞 年 月 80 換したきっかけは広島でインタビューした原爆 環境問題に関心を持ち、それまでの生き方を転 壊は最終的に人類の破滅になるからだ」 「私が 間は環境の破壊者であってはならない。環境破 23 24 翌 日には、まず日本記者クラブで「二十一 世紀の環境問題」と題した講演を行う。原子力 1 代替エネルギー分野での遅れを指摘したうえ ずに生き延びることが可能であるとし、日本の 替エネルギーによって現在の生活水準を落とさ 摘したユンクは、原子力を段階的に止めても代 発電の廃棄物が貯蔵施設から漏れる危険性を指 24 広島ジャーナリスト シマ会議委員会」 には名誉会長として山田節男・ 野直美らが名を連ねている。被爆から四半世紀 年)。 70 1980年―都市、エネルギー、 反原発 集部編『現代における平和への条件』 を機に、「現代の平和への条件」 を主題として「核 1980 年来日時のユンクの行動 ≪ 100 ≫ 殖炉はまだ安全性が確保されておらず、敦賀市 の建設が計画されていたことについて「高速増 対派と会合を行った。当時敦賀市で高速増殖炉 見交換を行ったユンクは「伊方での原発闘争は そして 日に訪れたのが、愛媛県西宇和郡伊 方町だった。伊方原発反対派住民ら約 人と意 を拒否するために」『現代の眼』 (東京新聞および朝日新聞 年1月 日)。続け 年4月号) 。 に建設されることは危険」であり、建設に反対 伊方だけのものでなく、世界の闘いを支えるも で、日本の企業が環境・資源問題を軽視し、依 てユンクは、東京新聞とドイツ文化センターの だと述べた(福井新聞 年2月3日)。続く3・ 然として大型技術志向であることを批判した 共催による日独シンポジウム「都市と人間」に のだ」と反対派住民を励ましている。八幡浜市 日に伊方原発サイト 4日は石川県に滞在し、能登原発予定地(現在 日) 。 参加し、冒頭で「都市の危機とその対応」と題 年2月 で一泊したユンクは、翌 新聞 の志賀原発)を訪問して金沢市の「漁業公害に 年2月5日)。 さらにユンクは5日午後には新潟県柏崎市に 移動し、東京電力柏崎刈羽原発の建設地を視察 なされるべきであること、そしてそもそも都市 を大きなものに発展させる必要はなく、人間の 広島に着いたのは、 日夜のことである。宇 品港では小倉馨の妻・桂子や原田東岷夫妻、河 日には平和公園 本一郎らの出迎えを受ける。 した。新潟日報によれば、ユンクは参加者との 者に対する祈りにとどまらず、原子力産業に従 質疑応答のなかで「原子力発電をやめた場合、 事し、放射能の犠牲になった人々も含めためい 日まで、東京でい 射 医 学 研 究 所 を 訪 問 す る( 瀬 谷 肇「 ロ ベ ル ト・ ギーなどの開発は原発以上に労働集約型。代替 原爆養護ホーム、原爆病院、広島大平和科学研 エネルギーのプランで十分吸収できるだろう」 究センター、放射線影響研究所、広島大原爆放 日) 。そしておそらくは 年2月 くつもの雑誌の対談を行うのである。 福と核への怒りの祈りだ」(中国新聞 と答えている。そして核兵器と核エネルギーは 多くの失業者が出ると思うが、同じ労働者とし 日) と述べて黙とうした。さらに中国新聞社、 された財団法人協同組合経営研究所の研究総会 不可分の存在であり、原子力の平和利用はあり ・ 日に東京で開催 では、「これからの社会と協同組合」を基本テー 年2月 ユ ン ク 広 島、 魂 の 旅 』 『朝日ジャーナル』 年2月6・7 日号増大号)。この日ユンクは、日本 の新方向」『月刊 総評』 年4月号)、8日に ロシマこそが原発の恐ろしさに目を向けるべき は自治労会館で「原発モラトリアムを求める会」 だとし、ヨーロッパでは反原発の運動が高まっ 各地で「原子力の夢」が強調されすぎていると 述べ、原発と原爆を結びつけたヒロシマの使命 年2 日夜に京都市内で若者と 原発に関する議論を行った後(京都新聞 月2日) 、1日には大阪市内で「原発モラトリ 主催の「原子力帝国を拒否する国民大討論会」 て い る 半 面 、 反 原 爆 の 運動が弱いと述べた(中 に出席した(ロベルト・ユンク「『原子力帝国』 国新聞 年2月 日) 。 13 アムの会・関西」が主催する「ロベルト・ユン ク講演会」で講演、2日には福井で敦賀原発反 80 31 80 80 の討論を開始する。 組合経営研究所『協同組合経営』 No.319 、 年)。 日)。その後再び東京に戻り、7日に国民文化 そして関西に移動すると、原発の視察と市民と 会議と総評の招きで「反原発を考える集い」で 月 80 がいまこそ求められていると語ったという。ヒ ギー問題であった。 てやめろと言えるか」と質問され「太陽エネル 12 11 得ないと述べている(新潟日報 13 講演を行い(ロベルト・ユンク「労働組合運動 31 都市と人間のあり方とともに、 年の来日時 のユンクの講演のテーマとなったのがエネル 80 マとした研究会で、 「エネルギーをめぐる諸問 80 題」と題する講演を行っている(財団法人協同 80 30 30 重要であることを主張した(東京新聞 するとともに、柏崎地区労、守る会連合などが てではなく「主体」となった都市計画や運営が した特別講演を行った。ここでは都市計画への 20 80 街、人間の住める環境の街をつくり出すことが 11 を訪れ、慰霊碑の前で「私の祈りは原爆の犠牲 13 主催する原発反対の活動家らとの交流会に参加 80 年1月 80 を見学した後、松山から宇品港に向かう(愛媛 25 関する研修会」で講演を行っている(北国新聞 80 市民参加の重要性を述べ、市民が「対象」とし 80 10 29 80 2013. 3.22 80 1 25 ≪ 101 ≫ 翌 日には、平和記念館で市民と原発を考え る討論会を開催。原水禁団体のメンバーや研究 し、当時の日本の議論は原子力に肯定的であり、 文中敬称略。 で生き延びることができると述べるユンクに対 と共存できないものである、人間は原子力なし は今後より広く読まれることになるであろう= 限らず、ユンクの著作や彼の残したメッセージ くみ 者、学生などが集まった。この会の中でユンク 世紀の原水禁運動を 授・市川定夫と長野大教授・前野良と鼎談を行っ が掲載されている)。さらにユンクは埼玉大教 核廃絶のたたかい』(七つ森書館、 2002 年) ▽ 若 尾 祐 司『 世 界 に 広 が る 記 憶「 広 島 」 ― 考える会(編)『開かれた「パンド ラの箱」と 日朝日新聞「論壇時評」(上)でまとめ として、 「今こそヒロシマを原点にした反原発 ており、その内容は「原発と人類の運命」と題 ▽原水爆禁止国民会議・ ユンクの意見と与するものではなかった( 年 【主要参考文献】 (本文中に挙げたもの以外) の力を結集し、世界に訴えねばならない」と主 3月 は、原発の増加が核兵器の増加と表裏一体であ 張した。さらに日本の電力会社が子供や学生に 和田光弘編著『記憶の場―史跡・記念碑・記憶』 り、日本とドイツも核保有国になる恐れがある 対して行っている原発の安全性の宣伝は、批判 し て『 潮 』 に 掲 載 さ れ た(「 て い 談 原 発 と 人 類の運命」『潮』 年4月号)。ユンクは約3週 日にユンクは、森瀧市郎、小 の自らを強く意識してきたユンクは、同寺にア 日も再度ここを訪れ ウシュヴィッツの犠牲者の遺骨が納められてい るのを知って感激し、翌 子力帝国の危険性、そして代替エネルギーの必 ユンクの 歩み』(若尾祐司・本田 宏編著『反核 ミネルヴァ書房、 2010 年) ▽若尾祐司『反核の論理と運動――ロベルト・ 以上、 年の日本での新聞・雑誌記事を中心 に、ユンクの日本での活動を振り返った。一部 日程が不明な点もあり、またユンクに関する当 80 日にオーストリアへと帰国する。 年) 2012 ◇ 追記 ユンク展のパンフレット(日本語版・ 英語版)をご希望の方は、メールで筆者にご連 読みの方で、実際にユンクにお会いした方がい どを垣間見ることはできたであろう。本誌をお 識やジャーナリストとしての活動範囲の広さな 連絡ください。 ます。ご存じの方も右記のメールアドレスにご ) 。可能な限りお分けいた hiroshima-cu.ac.jp します。また来日時のユンクの情報を求めてい takemoto@peace. 上記のような忙しい日程の中での原発の視察 や市民討論以外にも、日付は不明であるがこの 絡 く だ さ い( メ ー ル ア ド レ ス 間 ユ ン ク は い く つ も の 対 談 を 行 い、 ま た 新 聞 年2月 29 日〉など) 。プルトニウムや「原子 ル』 年2月 〈 21 80 力国家」の危険性を訴え、原子力が決して人類 年に合わせての資料展開催であったが、今年に なものである。今回は100周年という記念の 上での朝日新聞論説主幹の岸田純之助との対 ユンクが5回の来日で提示した反原爆、未来 談〈 「原子力時代 二つの立場」 『朝日ジャーナ 学、反原発、エコロジー、代替エネルギーといっ 日号増大号〉や朝日新聞「論壇」 たテーマは、今日でもなお非常にアクチュアル れば、ぜひ情報をお寄せいただきたい。 けではないが、上記のものだけでも彼の問題意 た (瀬谷同上) 。そして同日午後、 大阪に向かい、 時の記事をすべて掲載、あるいは把握できたわ 14 ヨーロッパ諸国の選択』昭和堂、 要性を訴えた。またコンクリートであふれた広 一九五〇年代のドイツ語圏から―』(若尾祐司・ 力をもたない子供にとって有害であると批判し 日) 。 80 島 や 東 京 の 街 を 批 判 し、「 市 民 が 市 民 ら し く 」 から脱原発へ 80 倉桂子、河本一郎とともに西区にある三滝寺を 13 生きられる街や社会を考えていた。 年2月 つなごう」と呼びかけたのだった(中国新聞 間の滞在で日本各地を回り、核兵器や原発、原 21 80 ている。ユンクは「日本と欧州の反原発運動を 27 広島ジャーナリスト 13 訪問する。 「ホロコーストの生き残り」として 14 への寄稿を行っている( 『朝日ジャーナル』誌 15 80 空域の安全確保 政府の義務 基地のある自治体の議員らで運営するサイト「追跡!在日米軍 」の頼和太郎編集 rimpeace 長が1月 日、廿日市市内で講演し、オスプレイの危険性や米軍機による低空飛行の実態と目 頼 和太郎 人余りが聴 60 告書を読むと、オスプレイは輸送機だから、あ るキャンプから演習地までピストンで何回も兵 隊を運ぶ。その時に事故を起こしている。最初 の輸送はリーダーパイロット、上手な人が操縦 していて、 風向きを考えて飛び上がり、前にキャ ンプがあるので後ろから風を受ける形で飛び出 した。3回目に新米パイロットが同じように飛 んだ。ローターを真上から真横にする時、揚力 は翼でしか発生しないが、それに必要なスピー ドが出ていなかった。普通の飛行機ならそんな ことはないが、オスプレイは非常に微妙なとこ ろでテクニックを要する。だから、ほとんど同 じような状況で同じような飛び方をしても、後 ろからの風が強いと揚力が小さく落ちてしまっ で あ る、 そ う い っ た 観 点 か ら 保 守・ 革 新 と い 沖縄に配備するのか、これは沖縄に対する差別 と分かった上で絶対反対と言っているのになぜ 題意識は強いものがある。 ている。沖縄の人たちのオスプレイに対する問 走ってもらうが急ブレーキ、急ハンドル、急加 と言ったのを聞いて驚いた。沖縄では、オート 例えば、丸坊主のタイヤで雪道を走る必要が ローテーションという言葉まで子どもに浸透し 出て来た。管理者は、これこれの理由で雪道を イってオートローテーションできないんだぞ」 ではない、パイロットミスだと発表した。 てぶつかった。原因は何か。おまえはルールを 事情があって、急ブレーキをかけてスリップし と、そういって運転させた。ところが予期せぬ 速はいけない、これがこの車の運転のルールだ う 枠 を 越 え て、 全 県 的 な 運 動 を 繰 り 広 げ て い 22 くい飛行機であることを如実に示した。事故報 同じ事故を繰り返す可能性がある。 モ ロ ッ コ の 事 故 は、 オ ス プ レ イ が 操 縦 し に こと。それが根本的な解決だ。そうしなければ、 う。まず溝のちゃんとしたタイヤに取り換える 昨年、2件のオスプレイ墜落事故が続いた。 守らず急ブレーキをかけたからいけないんだ、 4月にモロッコで海軍型のMV 、6月にフロ そ れ が 今 回 の 事 故 報 告 書 の 結 論 だ。 実 際 は 違 リダで空軍型のCV 。 22 と言っていた。嘉数の高台という、普天間基地 12 が望める場所がある。その下で男の子2人とす http://www.rimpeace.or.jp/ 二つの事故から見えるもの る。沖縄では、子どもでもオスプレイは危ない れ違った際、ローターの音がしてオスプレイか た。もともと飛行機は後ろからの風に弱い。ど オスプレイはなぜ危険か。沖縄の運動では、 そういうことをとっくに乗り越えている。危険 な、と一人が言ったら、もう一人が「オスプレ こでも起きるような話だが、米軍は機体の問題 き入った。以下、講演の要旨。 強調した。 「岩国基地の拡張・強化に反対する広島県西部住民の会」が主催し、 的について語った。そのうえで頼氏は「日本の空域を安全に運用するのは日本政府の義務」と 26 」 在日米軍の 「追跡!在日米軍 rimpeace 情報開示を目的として1996年 月に開 設、アクセスは400万を超えている。田村 順玄岩国市議ら、基地のある5市の議員・元 議員で運営している。 2013. 3.22 あまりに危険なオスプレイ ≪ 102 ≫ ≪ 103 ≫ 気は外側では動かないが、内側では引きずられ て動く。動いたところに空気が入っていく。つ 調べた。 固 定 翼 機 の 後 方 乱 気 流 の 渦 に 入 っ た 時、 ど ういう影響を受けるか。時系列で、左が固定翼 機、右がヘリコプターの動きを示している=図 3。研究機構のコンピューターでシミュレート 広島ジャーナリスト モロッコの事故は、オスプレイは危ない飛行 機だということをよく示している。 まり渦が発生する。これが連続的に発生してい 次 に フ ロ リ ダ の 事 故。 2 機 編 隊 で 低 空 飛 行 を し て い た = 図 1。 後 方 の M A( Mishap くのが後方乱気流。どんな飛行機でも起きる。 [1] に与える影響に関する研究」という冊子を出し Mishap Leader J A X A と[い う 飛 行 機 関 係 の 権 威 あ る 機 関 の研究員が「大型航空機の後方乱気流が小型機 =事故機と編隊を組んだ隊長機)に Aircraft 従おうとして、コースをMLAに合わせようと た。オスプレイの危険性を証明するためではな 図3 後方乱気流遭遇時の機体位置・姿勢と主翼およびメーンローター上の 上下風速分布の例=先行機との間隔1分のケース ( 「大型航空機の後方乱気流が小型機に与える影響に関する研究」から) =事故機)がMLA( Aircraft した。図1で、実線が2本引いてある。この線 内にMAの点線が重なった時に事故が起きた。 く、飛行場の効率的な運用を目指して離発着の 後 方 乱 気 流( wake turbulence ) と い っ て 翼 も 間隔を少なくしたいが、後方乱気流が怖い。で しくはローターの先から渦が発生する= 図2。 はどのへんまでなら大丈夫か。そういうことを この図は上と横から見たのだが、渦が下にさが ヘリコプター 固定翼機 りながら広がっていく。後方乱気流の特徴だ。 [1]JAXA 独立行政法人宇宙航空研究開発機構( Japan )。 2 0 0 3 年 に 日 本 の 航 空 Aerospace eXploration Agency 宇宙3機関を統合して発足した。 図2 (PILOTFRIENDのサイトから) なぜ渦は発生するか。飛行機の翼の端では、空 ( 「フロリダ事故の米空軍航空機事故調 査委員会報告書から) 図1 ≪ 104 ≫ した。固定翼機は胴体に翼が固定されているか の方が影響が大きい。 [2] オスプレイはヘリでもあるが固定翼機でもある ダの事故のように低空で近接した訓練はなるべ 文書の中で、あまり注目されてないが、フロリ メントしている。[ 「オスプレイの普天間配備について」という のまま左の方にずれていく。 ヘリはヒンジ(ちょ ので固定翼に渦が影響し、フロリダのような事 くしないようにしようと書いてある。本当にそ こ れ を オ ス プ レ イ で 考 え る と ど う な る か。 うつがい)で動力の軸と回転翼を止めているか 故を起こす。あれがヘリだったら、ああいう事 ら、渦の影響をもろに受ける。傾いたりしてそ ら、そこで渦の力を吸収し、影響を受けにくい だろう」と指摘している。 写真2 リの)ブラックホークなら、こうした事故は起こらなかった ほ ん の わ ず か な ミ ス で も 墜 落 に つ な が る。( 米 軍 の 多 目 的 ヘ 米 国 防 次 官 補 が「 操 縦 ミ ス の『 許 容 範 囲 』 が 非 常 に 小 さ く、 [2]2012年9月2日付朝日新聞でローレンス・コーブ元 向けてヘリモードで下りている。こういう形で 機編隊のオスプレイ=写真1。ローターを上に 嘉 手 納 基 地 か ら 見 た、 普 天 間 に 着 陸 す る 2 んなことができるのか。 ) 図4 故にはならなかっただろうと米軍の専門家がコ 「(オスプレイ環境レビュー」から 2013. 3.22 構造になっていて左右の偏差がない。固定翼機 写真1 ≪ 105 ≫ 質問だ。防衛省の答えは、後方乱気流 だ さ い 」。 こ れ が 沖 縄 県 と 宜 野 湾 市 の 回転翼機と比較するなどしてお示しく いことが分かる。 ない。エネルギーは4倍になる。危険極まりな ピードはおそらく倍になる。それ以上かもしれ オ ス プ レ イ だ と ど ん な こ と に な る か。 落 下 ス 明というのが航空機にはある。車でいう車検の ないヘリは、飛んではいけないヘリだ。耐空証 法 律 的 に も、 オ ー ト ロ ー テ ー シ ョ ン が で き とはこういうものだ、としか言ってい だから、わざとこういう答えにした。 ようなもの。 日本でも米国でも、オートローテー な い。 つ ま り こ れ は 回 答 が で き な い。 ヘリが落 普天間基地のすぐ横にある沖縄国際 大に2004年8月、CH ションがきかないと耐空証明はとれない。では 普天間基地に着陸する。環境レビューに出てい 返す。ディプロイメントは期限を切られていて、 ならない。そうなると訓練しながら整備を繰り しては完璧な状態で中東に持っていかなければ なぜオスプレイは飛んでいるか。軍隊だから耐 た、代表的なオスプレイの普天間基地への着陸 整備兵にしわ寄せがくる。事故報告書の中に、 を示唆している。エセックスという揚 ルートがこれ=図4(前㌻) 。2機編隊でやる 整備兵は体力的に参ってしまう、手が震えてね 空証明がなくても飛べる。だから民間では飛べ とどうなるか。ちょっと間違えると後方乱気流 じ止めができない、そういう記述が出てくる。 危ないから。ではなぜこんな危険な飛び方をす ない。ということは、民間機にまで需要を広げ の中に後ろの飛行機が入ってしまう。下はフロ 陸艦が佐世保にいて、普天間のヘリを リダの事故のように訓練場ではない。人がびっ 形でも電波は地面に乱反射するから、レーダー 積み込んで中東に向かうディプロイメ しりと住んでいる宜野湾市の住宅街だ。落ちた そ ん な 中 で、 コ ッ タ ー ピ ン を[入 れ 忘 れ た。 ご く小さなミスだが、それが外れてローターがず を操作する側からすると低空を飛ぶと非常に見 てコストを下げることはできない。 らどんな怖いことになるか。これは、嘉数の高 れ、ヘリの尾部を切断した。そのためヘリが飛 にくくなる。そこに突っ込んで爆撃する。例え かんのうら るか。敵のレーダーを避けるためだ。平らな地 飛行機を好きこのんで低く飛ばす人はいない。 そ も そ も 低 空 飛 行 訓 練 は 何 の た め に や る か。 イラン人質事件がルーツ 台から撮った=写真2(前㌻) 。滑走路の真上 べなくなった。CH にはオートローテーショ ば高知県東洋町 甲 浦 変電所の上でポップアッ プした後、斜めに下りて爆撃する。そうした模 ななかった。オートローテーションができない [3]コッターピン ナットをボルトから緩まないようにする 割りピン。 年1月) 。他に低空飛行に絡む爆撃行動はいっ 国から飛んだホーネットが土佐湾で落ちた( やっている。そういうルートを通るつもりで岩 擬 爆 撃 を す る。 そ れ を も う 一 つ 加 茂 発 電 所 で ン機能はあったし、使っている。事故報告書に [3] に来てローターを上にして下りていく。2機編 ント、任務航海の直前だった。米軍と ちた。この時、事故調査委員会が原因 53 る。CH にこの機能があったから乗組員は死 隊の時、夜間の時、どういうことになるか。 53 沖 縄 に オ ス プ レ イ を 配 備 す る と い う 時 に、 無線のやり取りが載っており、明確に書いてあ 県も宜野湾市も防衛省に厳しい質問を寄せてい る。それに対して防衛省が答えたつもりになっ ている一つの文言がある。 「後方乱気流の特性 及び乱気流から受ける影響を、他の固定翼機や 99 53 広島ジャーナリスト ≪ 106 ≫ ぱいある。三沢基地のF は、今は対レーダー 数年前は爆撃を主任務に 軍内部でも信頼性を得ていない。 日米地位協定に抵触 最 後 に、 米 軍 低 空 飛 行 訓 練 の 予 定 を 開 示 し [4] いる。[ いちいち許可をとるのは米軍のメンツに関 わるというか、米軍は訓練を自分たちの都合に 合わせてやりたいから、通告するようなことは しない。それをさせるには大変な努力がいるが、 てくれないと危なくて仕方がないというのが、 これは日本政府の義務だ。日本の空域を安全に 飛行をする必要があるか。それはオスプレイの オ ス プ レ イ は も と も と 輸 送 機 だ。 な ぜ 低 空 飛 ん で い く。 オ ス プ レ イ だ っ て 固 定 翼 モ ー ド だが、そこを時速400~500㌔の戦闘機が などがよく飛ぶ。ヘリだと時速100㌔ぐらい 150㍍以上の空域はドクターヘリ、防災ヘリ 定の中にも「公共の安全に反する飛び方をしな せないのか。危険だとなぜ言わないか。地位協 ている。それに対してなんで日本政府はやめさ で低空飛行ルートが明らかになり、みんな知っ [5] れを感じている。 (らい・わたろう 1948年生まれ、広島 県出身) 日 付 毎 日 新 聞「 ク ロ ー ズ ア ッ プ 得られていない上、訓練計画の十分な説明がなく、不安が払 2012 オスプレイ訓練 自治体、不信の目」によると(オ スプレイは) 「「安全性について沖縄県など地域住民の理解が 月 見られる。そのルートを通って訓練する時は、 [ 4] 2 0 1 2 年 2時間前には通知する。そういう規定ができて 払って行わなければならない」 施 設 及 び 区 域 に お け る 作 業 は、 公 共 の 安 全 に 妥 当 な 考 慮 を [5]日米地位協定第3条3項 「合衆国軍隊が使用している 拭(ふっしょく)されていない」。 る。毎日新聞の取材でもそうしたことを言って 山形県知事が全国知事会などでよく発言してい トが心配していることについて、吉村美栄子・ 飛行に対する基本的な疑問だ。民間のパイロッ 見えるのか、避けられるのかということは低空 自分たちのことを実際に見ているのだろうか。 ではなく当たり前の話だ。米軍のパイロットは いる。ダブルスタンダードとか、そういう問題 い本になっている。民間パイロットはいつでも トは図にしてあり、緯度経度、高度も示して厚 米国ではこれをやっている。少なくともルー だ。 できないのか。それが現場のパイロットの見方 を飛ばし、 適用されない。だったら予定だけでも明らかに 年 オ ス プ レ イ の 低 空 飛 行 の 問 題 が 出 て、 各 地 月、テヘランの米国大使館をイランの学生たち だ っ た ら 5 0 0 ㌔ 近 い ス ピ ー ド で 飛 ぶ。 普 通 運用するのは日本政府の義務だ。 が 占 拠 し て 大 使 館 員 や 家 族 を 人 質 に し た。 こ 複雑怪奇な作戦で、空母からCH 12 空軍がC130とC141というプロペラと ジェットの輸送機を飛ばして砂漠の一点でドッ キングして特殊部隊がヘリに乗り換えて大使館 まで行き、また飛行機を飛ばすところまで帰っ て脱出という作戦だった。飛行機だけで3種類 使って失敗に終わったが、その時の総括は、作 戦は単純でないといけない、だったら1機で全 部こなせる飛行機があればいいというものだっ 年、 た。高速で水平飛行でき、ヘリのように降りら れる。つまりそれがオスプレイだ。 低空飛行をやらざるを得ない。しかし、ビンラ ういうところで使うことを目的にしているから 掛けて結局失敗作しかできなかったが、本来そ 30 25 53 20 11 開発の原点、ルーツが関係する。1979年 れに対して米軍が翌年4月、救出作戦をした。 だったら航空法で粗暴操縦になるが、米軍には い」と[ある。そこに明確に抵触する。日本政府 は言うべきだし、いま各地の自治体の首長もそ 低空を飛ぶだけでなく、 攻撃が必ず入ってくる。 現 場 の ヘ リ の パ イ ロ ッ ト か ら 出 て い た。 高 度 出て、爆撃をして帰ってくる。低空飛行訓練は 一つは釜石付近で尾根筋を飛んで太平洋沿岸に 湾施設を爆撃するといった図が出ている。もう していた。三沢から北海道に飛んで小学校や港 攻撃が主任務だが、 16 というヘリを使った。つまりオスプレイは 2013. 3.22 10 ディン殺害のためパキスタンに侵攻した時はM H 60 《久米慶典さん》 できるというのが基本だが、オスプレイについ の市福祉会館で第6回総会を開いた。 「岩国基 危険性が高まっている。オスプレイの配備と全 地被害とオスプレイ・艦載機―ひろげよう基地 国での訓練飛行はその一つの特徴だ。昨年9月 おなが たけし 強化反対のネットワーク―」をテーマに、設立 のオスプレイ配備の直前、那覇市の翁長雄志市 5周年記念シンポジウムもあり、 約 人が参加。 長が「岩国市で受け入れてほしい。日本全体で ータを追認しただけ。専門家による他のさまざ て日本政府が分析、評価しているが、米軍のデ と専門家も言っている。これまでの事故につい 認したと言うのはまったくの欺瞞だ。日米合同 り、さまざまな事故が起こりうる危険性がある 委員会の合意事項についても、基地外でのヘリ 日米安保条約の下では米軍は何でも自由に こういう状況で今、オスプレイは沖縄に居続 広島ジャーナリスト てもそうだ。環境レビューの中でアフターダー クという言葉が出てくるが、これは暗くなって 時から翌朝7時まで。岩国基地に からの訓練を指す。夜間訓練はナイトと表現し ていて、夜 ついてはアフターダーク、つまり暗闇飛行をす る。これまでやっていたのと同じエリア、同じ オスプレイというのはまったく新しい型の っては特に重要で、絶対に見逃せないことだ。 れ報告し、基地強化の危険性などについて議論 時間帯での飛行訓練をオスプレイもやるという した。各パネリストの発言(要旨)は次の通り。 ことを米軍ははっきり宣言している。岩国にと 「瀬戸内環境ネット」で実態報告 米 海 兵 隊 岩 国 基 地 の 拡 大、 強 化 に 反 対 す る 山口、広島両県の団体や住民らでつくる「瀬戸 内海の静かな環境を守るネットワーク」(河井 弘志・森岡義則共同代表)が2月2日、岩国市 基地を負担する第一歩にしてほしい」と発言し まな報告を見る限りオスプレイの危険性は隠せ 航空機。運用の実績も性能に関するデータなど 「私たちは、沖縄や神奈川など基地を抱える全 たことが伝えられた。沖縄県民の心情としては 沖縄の負担軽減を口実に、本土を沖縄化する 国の地域、米軍機の飛行による被害を受けてい ない。にもかかわらず、日本政府が安全性を確 も少ない分、何が起こるかわからない不安があ る各地の住民とつながり、空母艦載機移駐やM 分からないではないが、といって岩国にオスプ オスプレイの陸揚げ場所がなぜ岩国だった モードや人口密集地上空の飛行など、岩国でも オスプレイの配備など岩国基地の強化、そ か。滑走路沖合移設によって岩国基地はさまざ して米軍再編そのものに反対していく」とする シンポジウムでは、元山口県議・岩国平和委 沖縄でも破られているのは明らかで、この合意 アピールを採択した。 まな面で機能強化された。空母艦載機移転の受 い 米兵の犯罪などによる住民被害の実態をそれぞ 化に反対する広島県西部住民の会共同代表の菊 ようになった。これがオスプレイ陸揚げのきっ けている。そして、普天間基地に関しては県外 間みどりさんの4人がパネリストとなり、岩国 かけだったのではないか。沖縄の反対が強いと 移設か、海外移転か、それともやっぱり県内移 基地をめぐる最近の動き、米軍機の低空飛行、 いうからだけではなく、必然だったとも言える。 設かと言われるが、こういう選択肢の立て方自 体が間違っている。県外移設にしても県内移設 活かす岩国市民の会代表の大川清さん、島根県 割も基地司令官が言っているようにリンチピン 浜田市議の三浦一雄さん、岩国基地の拡張・強 (死活的に重要な基地)として位置づけられる は既に破綻していると言わざるを得ない。 け皿となっただけでなく、補給基地としての役 22 員会副会長の久米慶典さん、住民投票の成果を V レイを押し付けられたのではたまらない。 60 10 市民の安全脅かす米軍 ≪ 107 ≫ ≪ 108 ≫ 国に帰せと主張すること。それが沖縄と全国の べき基本的スタンスは米軍施設や米軍自体を本 てしまう。どう考えればよいのか。住民のとる いては基地は沖縄にUターンということになっ にしても結局のところ、地域の分断を招き、ひ に押し込められ強姦されたあげく裸で崖から突 くあった。例えば、帰宅途中の女性が米兵に車 戦争のとき、米兵による犯罪、特に性暴力が多 いつまでまかり通るのか。朝鮮戦争やベトナム ほどおぞましい話が山ほどある。こんなことが 威なんだ。米兵の犯罪が尽きない。聞けば聞く ちは決してだまされない。 徹底という言葉を何度聞かされてきたか。私た るし、なくなることはない。綱紀粛正や教育の が、それでも米兵による犯罪や事故が起きてい 防止のために外出規制や飲酒規制がされている めるケースが少なくない。今また、米兵の犯罪 年に、私たちの仲 基地問題を抱える地域の人たちが連帯してやれ 一方、岩国基地への艦載機移駐は3年延びる 飲食、器物損壊、果ては暴力団への銃や覚せい き落とされた事件。ほかにも殺人や強盗、無銭 ったが、ぜひ活用してほしい。 間が「米軍犯罪対策マニュアル」というのを作 る運動ではないか。 剤の横流しなど米兵の引き起こすさまざまな事 基地の存在と米兵の犯罪は切り離せない。彼 ということになったが、一番大事なのは基地の らは戦争、人殺しのための訓練をしている。戦 っていない。今しきりに言われているのは海上 ておらず、最終的にどうなるかがはっきりわか 殺気立って兇悪事件を起こしてきた。2001 争のときもベトナム戦争のときも、米兵たちは が起きると基地のまちは影響を受ける。朝鮮戦 住民投票の結果だと思う。世界のどこかで戦争 の住むところを低空で飛ぶ。私たちにとって脅 あるいは戦闘の最前線に行く。だから、私たち レーダーをかいくぐって米兵の救助に向かう、 を想定した訓練で飛行しているわけだ。当然、 闘機だって安全に飛ぶためではなく、戦闘状態 自衛隊の残留。そうなると、新たに艦載機もや 威以外の何物でもない。そうした危険にさらさ こうしたことへの怒りが7年前の岩国市の 件で市民は犠牲を払ってきた。 って来て岩国基地にいる航空機は160機ぐら の時もアフガン、イラク戦争の時も 私たちは裁判を傍聴してきたが、判決は無罪放 の願いだ。みんなで声を上げ続け、岩国からも よって強姦致傷事件に遭った。被害者が告訴し、 なく、安心して暮らせるまちにするのが私たち 年の3・ 飛べないような状況になりかねない。岩国市も 沖縄からも基地がなくなるようにしていこう。 い増える。離着陸の問題から訓練空域の問題ま れることなく、米兵の犯罪にも脅かされること 山口県もお金さえもらえればOKという姿勢に 免に等しい執行猶予付きだった。これでは加害 そうだ。 見えるが、私たちは平和で静かなまちを取り戻 者の米兵が本国へ帰ってしまえば何の拘束力も かけになったのは、自殺した浜田市職員の公務 私が米軍機の低空飛行問題にかかわるきっ 《三浦一雄さん》 持たない。日米地位協定によって米兵は守られ、 被害者は泣き寝入りすることが続いてきた。 争をしている人たちとの会合で横浜市に滞在し 災害認定訴訟に関し、全国で同じような裁判闘 ていた 年の 岩国市の死亡交通事故にせよ、日本の検察は米 かってきた一本の電話だった。浜田市旭町のま 年の広島市での集団レイプ事件や 兵や軍属を不起訴にした。日本人同士の交通事 ったく知らない住民からの「米軍機問題をどう 基地があるおかげで私たちは守られている とばかなことを言う人たちがいるが、そうでは 故なら当然誠実に対応する警察が米兵絡みにな 考えているのか。行政は何一つ対策を取ってい 日、自宅から転送で携帯にか なくて基地があるために私たちの生活がどれほ るといい加減になる。裁判に訴えるにしても非 年4月 ど脅かされてきたことか。鳩山由紀夫首相がや 常に複雑な手続きが必要になって結局はあきら 10 《大川清さん》 したい、少なくとも今より基地機能は強化させ で、どれほど周辺に影響を及ぼすか。民間機は 年8月、 歳の女性が米海兵隊員に いことだ。米軍再編の最終報告はまだ発表され これからの姿がまだ私たちの前に示されていな 10 ないという声を上げていくことが大切だ。 23 めるとき、米軍が抑止力と分かったと言ってい 2013. 3.22 03 11 たが、実は米軍そのものが私たちにとっては脅 07 11 28 ≪ 109 ≫ の土蔵崩壊はひどいし、もっと危険で悲惨だっ ろうと岩国市まで出向き、基地問題に取り組ん てくる。頭にきた私は、米軍機の飛行実態を知 できるが、何も打つ手がないという答えが返っ 実情を聴いた。ところが、言われることは理解 いていたある日、弥山に登るロープウエイの終 事をするため 年前に来た。宮島の森の中で働 になったか。実は私は江戸っ子で、広島へは仕 のような一市民がなぜ基地問題にかかわるよう 私は広島県西部、廿日市市の住民の一人。私 にキリモミ状に下降してくる。明らかに訓練と く。どこに行くのかと思っていると、今度は逆 ったとたん、真上にものすごい勢いで昇ってい あっ、落ちる」 。周りにいた人みんながそう思 住 宅 街 の 真 上 で ぐ る ぐ る と 回 っ て い た。 「うわ き、ものすごい音がして見上げると、米軍機が から子どもと一緒に帰ってきて駐車場にいると 思えるほど間近で遭遇した。それまで広島と言 し、そこで出会った人にこのことを訴えずには 所前であったイラク戦争反対の座り込みに参加 同日設立され、米軍機の訓練中止に向けた取り 立った米軍機が自分たちの暮らすまちの上を通 った。そのノートを見たとき、岩国基地を飛び 益田、江津市と川本、邑南町の5市町の首長で たことがある。そこは旧君田村で、米軍機の低 構成する「米軍機騒音等対策協議会」として、 空飛行を毎日観察し、記録をつけている方に会 なでつながってがんばっていくしかない。 かもしれないが、あきらめたらおしまい。みん かないと。出してもすぐには状況は変わらない る。黙っていてはだめ。みんなが声を出してい ときに声をかけてもらってこういう立場にい 16 広島ジャーナリスト るで無関係の存在というか、全然気にしていな ないではないか」という市に対する不信、憤り 音はわかるので記録を取るようになった。 の声。私も元市職員なので、市職員を批判され ならないという思いを一層強くしている。 私はこれ以上米軍機飛行の被害を放置させては たのは随分前になるが、高知県早明浦ダムへの かったり、なれっこになっていたりした米軍機 米軍機墜落事故。こういうことを知るにつけ、 が気になってしようがなくなった。それで、私 も遅ればせながら家にいるときは米軍機の飛ぶ それで、翌日帰宅して早速調査に入った。浜 るのは正直面白くないというか、腹が立った。 田市はもとより隣接の江津市や周辺各町、県境 日、 買 い 物 でいる田村順玄市議らと話をする中で、これは 点の獅子岩駅近くにいたときにものすごい爆音 してアクロバット飛行をやっていた。あのとき 年4月 避けて通れない問題だと痛感。私は市議になっ がとどろいた。驚いて目を向けると、弥山のピ の落ちてくるのではという恐怖感と、真下にい そ し て、 思 い 返 す と 年になるが、それまでは環境問題を中心に ークと獅子岩との間を米軍のヘリコプターが8 る私たちをあざけるような飛行のやり方に対す 《菊間みどりさん》 取り組んできた。その年の9月議会で、初めて の字を描きながら低空飛行で通過。今でもはっ を越えて広島県北広島町も訪ね、担当職員らに 米軍機飛行問題を取り上げ、まず実態を把握す きり覚えているが、パイロットの顔が見えるほ て るために市として騒音測定器設置を求めた。結 る屈辱感。思い出しても震えが来るほどだ。 さ ら に、 そ の 後 も 対 策 を 強 化 す る よ う 要 求 うと平和の象徴とされるところと思っていたの 果、 し続け、特にエリア567に関係する市町で騒 に、こんな近くに戦争の道具が飛んできていい いられなかった。さらに2年余り後、岩国基地 を考えるシンポジウムがあったときに、この米 日付中国 過してここまで来る。これがエリア567であ た。そういう縁で、西部住民の会を立ち上げる 新聞) 。私は過去の米軍機被害の実態について り、ブラウンルートであると知り、それまでま 組みを強化することになった=2月 もいろいろ調べたが、昨年あった岡山県津山市 月 音被害などの対策を検討する場としてあった事 当 時 は イ ラ ク 戦 争 の 真 っ 只 中。 廿 日 市 市 役 どの近さ、石を投げたら当たるんじゃないかと 29 月に市旭支所屋上への設置が実現した。 03 軍の無謀な飛行の目撃者として話す機会を得 25 務レベルの会合を各市町のトップレベルの協議 のか、広島は本当に平和なのか、と思った。 会へ引き上げるよう要請していたのが、今年2 その後、結婚して子どもができ、子どもがま 日に設置が決まった (※島根県西部の浜田、 だ小さかったころに友人の誘いで三次市へ行っ 12 14 15 「加害の廣島」を語る マレーシア住民虐殺を追って、広島で「つどい」 [1] た日だという書き方に終わっている。コタバル からときちんと書いたのは愛媛新聞のコラム [ 私 は 高 校 社 会 科 の 教 師 を し て い る 時、 こ の だけだった。これはネットで教えてもらった。 事実を生徒に説明しながら、なぜ日本軍は中国 大陸と同じように、マレー半島にいる中国系の 人たちを虫けらのように殺したのか考えてもら いたい、と言った。当時の日本社会はアジアの で殺された人たちの証言を現地で聞くと、命令 人々に優越感を持っていた。だから家族を目前 に従って私たちの家族を殺した日本兵も、家に 太平洋戦争中に日本軍がアジアで何をしたかを問い直す「マレーシアと広島をむすぶつどい ―廣島の加害をみつめて―」が 月9日、広島市南区西荒神町の広島市留学生会館で開かれ、 マレーシアでの住民虐殺の調査を続ける高嶋伸欣・琉球大名誉教授、戦犯として刑死した叔父 アジアで被害にあった人たちの声に耳を傾け、応えていく責任があると強調した。林さんは事 とされるスンガイルイ村での事件の全容と当時の日本軍の行動を明らかにした。橋本さんは、 して事件の記憶を語り続ける林金發さんが発言した。高嶋さんは、橋本さんの叔父が関与した たちはこれに答えは見つかるかい?と問いかけ せたんでしょう、と疑問を投げかけられた。君 なのになぜ、私たちの家族を虫けらのように殺 帰ればよき夫、よき父、優しい兄だった。それ リム・キムファト 件当日、偶然村外にいたため殺害されなかったという緊迫の体験を涙しながら語った。教科書 らだと私は 年来言い続けている。ようやく中 学・高校の歴史教科書が、陸軍はマレー半島に 上陸し海軍は真珠湾攻撃をしたと、ほぼ正確な イギリス軍と戦闘を開始した。アジア太平洋戦 洋戦争にまったく触れていないか、触れていて 年前、真珠湾を攻撃して米国と戦争を始め カ所ぐらいある。 年前のきょう。陸軍もマレー半島に上陸し、 太 平 洋 戦 争 に 突 入 し た 」 撃したのが バ ー ハ ワ イ の オ ア フ 島 に あ る 真 珠 湾。 停 泊 し て い た 米 国 海 軍 の 太 平 洋 艦 隊 を、 日 本 海 軍 機 動 部 隊 の 艦 載 機 が 攻 [1]1面コラム「地軸」に以下の記述がある。「パ ー ル ハ ー に書き込んだが、現時点で た。私たちは事件があった場所の追悼碑を地図 殺事件を繰り返し起こしていることが分かっ 調 べ て い て、 実 は 日 本 軍 は マ レ ー 半 島 で 虐 公式記録に残る虐殺 残っているのではないか、と授業を組み立てた。 る こ と を 通 し て、 優 越 感 は 実 は 今 の 日 本 に も 人が聴き入った。 高嶋伸欣さん 民間人を機関銃で掃射 くる実行委主催。約 問題を考える市民ネットワークひろしま、九条の会はつかいち、第九条の会ヒロシマなどでつ を持ち広島第 連隊の加害の歴史の継承にかかわる橋本和正さん、虐殺があった村の元村長と 12 日本軍は1941年 月8日、真珠湾攻撃の 記 述 に な っ て き た。 と こ ろ が 残 念 な が ら 昨 日 1時間前にマレー半島東岸コタバルに上陸して (2012年 月8日)の新聞を見ても、太平 30 12 70 90 12 も 71 2013. 3.22 11 争は真珠湾から始まったのではなくコタバルか 71 ≪ 110 ≫ ≪ 111 ≫ 当時の天長節を目標にしたが、早々と2月 日 には占領した。当時、イギリス軍を追いかける とだから、見つけ次第皆殺しにしろという命令 だった。 マレーシアのゴム園は家族経営で、一定の面 積 の ゴ ム 採 取 を 一 家 で し て い る ケ ー ス が 多 く、 ゴム園の中にポツンポツンと家が建っている状 連隊第7中隊が回っ 態は当たり前だった。だからネグリセンビラン 州では、そういう所を第 ていく中で、ゴム園の住民を見つけては殺すと いうことをやらざるを得なかった。実際に陣中 日 誌 の 3 月 4 日 に は「 本 日 不 貞 分 子 刺 殺 五 五 名」とある。日本軍は相手が銃をほとんど持っ ていないということを知っており、弾がもった いないから、膝まづいて座らせ後ろから銃剣で 突き刺して殺害した。だから刺殺だ。3月 日 も「一五六ヲ刺殺」と具体的に書いてある。 東学院大講師= 年当時)も、補佐していた私 も、個々の兵士の責任を追及する考えはない。 マレーシアの人が言うように、普通の家庭に戻 ればよき父、よき夫である善良な日本人がなぜ こんなことをしなければならなかったか、させ られてしまったか。当時の時代状況はどうだっ たか。そういうことを明らかにして、それと似 広島ジャーナリスト 調査の過程でスンガイルイが注目された。そ れに広島が関係している。1987年 月8日 地では数万人が殺されたと言っている。それを やる。非常に強引なやり方で粛清を行った。現 付の新聞、共同通信の記事だが、中国新聞も大 ことを最優先させたため、マレー半島中にいる [2] き く 扱 っ た。[広 島 の 部 隊 が 東 南 ア ジ ア で 住 民 抗日運動勢力が手付かずになった。イギリス軍 虐殺をやっていたことが、公式記録である「陣 もゲリラの中に潜伏している。それに対応する 中日誌」=写真=にきちんと記述されており、 ため、シンガポールで敵性華僑狩り(粛清)を その原本が防衛庁(現・防衛省)の防衛研究所 にあったということが研究者によって明らかに されたと伝えた。 2月中にやった。 イギリス兵が町中にどっと出 て 来 て 驚 い た と い う。 日 本 軍 の情報収集はそのくらい不十 分 だ っ た。 幹 線 道 路 の 橋 や 鉄 道爆破は敵性華僑がやったと 思 い こ み、 討 伐 命 令 を 組 織 的 に出した。500㍍以上奥まっ た所にいるということは人目 伝え聞いた。この資料を見つけた林博史さん(関 に 潜 伏 し て い た こ と を 知 ら な た と は 言 わ な か っ た。 我 々 だ っ て 命 令 だ か ら か っ た。 終 戦 に な っ た と た ん、 やったということを分かってもらいたいという 発言もあるということを、記事が出て間もなく 命 じ た。 幹 線 道 路 や 鉄 道 線 路 は イ ギ リ ス 軍 ゲ 軍 の 公 式 記 録 で こ こ ま で き ち ん と 書 い て あ リラが破壊していた。しかし当時の日本軍は、 る。記事が出た時点で、広島で戦後戦友会を組 イ ギ リ ス 軍 ゲ リ ラ 部 隊 が 山 中 織した元兵士の方たちも、そんなことはなかっ ス」とある。皆殺しにしろ、見つけ次第殺せと 人及英国人ハ老若男女ヲ問ハズ徹底的ニ掃討 陣中日誌は1カ月単位でとじ込みになって そ し て 3 月 1 日 か ら 1 カ 月 間、 英 領 マ レ ー おり、記事は3月分を引用している。日本軍は を第5師団の各部隊に地域を分担させて敵性華 コタバル上陸後、シンガポールのイギリス軍根 僑狩りを命じた。その時の命令書の一つが第一 拠地を占領することに必死で、 当初は4月 日、 大隊命令で「鉄道線路ノ両側五百米以外ノ支那 第 五 師 団 歩 兵 第 七 中 隊 住 民 大 量 虐 殺 の 陣 中 日 誌 を 発 見 [2]中 国 新 聞 の 見 出 し は 「 日 本 軍 の マ レ ー 侵 攻 広 島 の 16 12 防 衛 研 究 所 で 高 校 教 師 ら 治 安 粛 清 名 目 に 3 週 間 で 584人」 11 15 につかない所にいるというこ 87 29 ≪ 112 ≫ に集めて、昨日の事件について何か情報はない んな「知らない」と答えたら日本軍が男性を広 う思うか、という質問をぶつけた。それが放送 た状況が今の日本に残っていないか、あるいは 子供は家に閉じ込め石油をまいて火をつけて焼 かと聞いたが、巻き込まれるのはいやだからみ み方を考えていなかった。 き殺した。それがスンガイルイ事件だ。この犠 再 現 さ れ て い な い か を 考 え る 手 が か り に し た され、私たちはびっくりした。そういう取り組 い。そのために関係者に会いたかったが、記事 でもきっかけは林さんと私が調べたこの資料 だから、戦友会の方に会おうとすると、話すこ 牲者の数が、墓にも書かれているが400人弱 場の中央に集め、機関銃でなぎ倒した。女性と が出た後、あるテレビ局が戦友会の方に直接イ と は な い と、 ぴ し ゃ っ と 電 話 を 切 ら れ ンタビューして、あなた個人としてこの責任ど る と い う 状 況 が 生 ま れ て し ま っ た。 な [3] 92 虐殺事件があったスンガイルイは 小 さ な 村 だ。 そ こ で 起 き た 事 件 の 日 引退しているが、ハジ・ムヒディンさん(事件 年8月 30 16 まって殺されたらしいということで捜 いたマレー人の密偵が抗日ゲリラに捕 別 だ っ た。 日 本 軍 が 情 報 集 め に 使 っ て で作業する人たちを虐殺した事件とは 狩りをやれと言われて組織的にゴム園 3 月 い っ ぱ い、 マ レ ー 半 島 で 敵 性 華 僑 が植民地支配で導入した中国系、華僑が[いた。 中国人ばかりでスズ鉱山やゴム園の安い労働力 か、スズ鉱山、ゴム園の労働者としてイギリス 日 本 軍 は マ レ ー 人 の 密 偵 を 使 っ て い た。 マ レーシアは多民族社会だ。先住のマレー系のほ めたら、非常に正確だと言ってくれた。 ンさんに記事内容を逐語訳で知らせて確認を求 斉討伐ヲ企圖ス」とあり、 「巡察将校橋 本少尉」となっている。 中国系に異常な敵愾心 8月 日、スンガイルイ村に行って、 て使い分ける必要がある」 ている。現在は使ってくれるな、と言っている。時代によっ てない海外での中国人ということで彼ら自身が意識して使っ に 語 っ て い る。「 戦 前 は 華 僑 と 言 っ て 構 わ な い。 国 難 を 忘 れ 叫 び 4 0 0 人 の 庶 民 が 犠 牲 に 」 [4]「華僑」の表現について、高嶋氏は講演の中で次のよう 島 虐 殺 五 十 年 マ レ ー 人 村 長 の 証 言 炎 の 中 か ら 華 人 の [3]信 濃 毎 日 新 聞 の 見 出 し は 「 戦 争 へ の 問 い マ レ ー 半 る側としては都合が悪いから、別の民族として [4] しに行くから協力してほしいというこ を賄ってしまうと、一致団結しやすい。支配す 29 し て あ る。 さ ら に「 依 テ 明 日 ヲ 期 シ 一 と が、 日 誌 の 8 月 日のところに記述 た「陣中日誌」の日付とは離れている。 者が記事にした。私たちはあらためてムヒディ 付( 当時 歳)にインタビューして、信濃毎日の記 日付)で紹 [ 介されている。広場に居合わせた マレー系の村長の息子、後に村長になって今は 30 日 ) は、 先 ほ ど 引 用 し ない。 だった。事件の詳細が信濃毎日新聞( 年6月 日のスンガイルイ村での日 42 30 たまたまそこにいた村人を駅前の広場 2013. 3.22 かなか広島の関係者の方とお話ができ 陣中日誌にある1942年8月 本軍の行動記録 30 ≪ 113 ≫ いうことで多民族社会になった。 あっせんの形でマレー半島に移り住んだ。そう 仕事をもらえるならと、強制連行ではなく就職 入れた。半失業状態だったので、安い賃金でも インドからカースト制の最下層にいた人たちを の人たちを迫害した。特に募金活動をする組織 というくらいの敵愾心を持って日本軍は中国系 ジアで華僑として稼いだ資金を送っていたから 見れば日本軍に味方しているわけだから、抗日 レー半島にいる中国系は、資源開発に必要な人 ところがここで、日本側についていればいい 間は残すが、それ以外は根絶やしにしてもいい、 目にあえるよとしていた人たちは、中国側から 日 本 は 中 国 で 泥 沼 に 引 き 込 ま れ た、 だ か ら マ ゲリラが拉致するということになった。マレー れた。 3月の敵性華僑狩りでは狙い撃ちで幹部が殺さ 日本兵約100人が1942年8月 日、 列車でスンガイルイに来て華人たちに駅前の 広場に集まるよう命令した。男性は横に何列 にも並ばされ、後方に子どもたちが集められ た。女性はすべて店の中に入るよう命じられ た。マレー人は列から ~ ㍍離れたところ に立たせられた。 日本兵は華人に「抗日ゲリラはどこにいる か」と尋ねたが、集められた人は「知らない」 と答えた。すると日本兵はいきなり機関銃を 列に向けて撃ち始めた。生き残った子どもが いると、放り投げて銃剣で刺し殺した。店に 火をつけ て女性を焼き殺した。「 助けて」と 泣き叫ぶ声が聞こえて、 涙が止まらなかった。 当時のスンガイルイは約470世帯で華人 が400世帯、マレー人約 世帯、インド人 はわずかだった。 30 50 30 イギリスは植民地支配の中で民族分断策を 系の人たちはいやいややったかというと必ずし ◆ 年6月 日付信濃 毎日新聞「『戦争』へ の問い」に掲載されたハジ・ムヒディンさん の証言要旨。 然そうした組織の名簿を手に入れていたから、 もそうではない。商店やその他のビジネスは、 とっていた。それを日本が占領後、継承した。 はつぶせという方針を持っていた。ペナンで偶 一、不良分子 八十名 一、大型拳銃 一挺 同弾薬 六發 一、焼却家屋 一五軒 テ「バハウ」ニ到リ汽車便ニ依リテ十一時 三十分「スンガイルイ」驛ニ到着ス 軍隊 ヲ先頭トシ警察官ヲ之ニ續行セシメ村落ヲ 左右ヨリ前進ス 二名ノ支那人西方ニ向ヒ 遁走セントスルヲ發見シ直ニ攻撃態勢ヲ整 ヘ前進ヲ續ク 警察官ヲシテ部落民ヲ一地 ニ集合セシメル様命ズ 此ノ時西南方台地 ヨリ射撃ヲ受ケタリ 續キテ前進中西方八軒家屋ニ在ル支那人約 五〇名ハ俄ニ抵抗シ来レバ全部銃殺シ台地 上ノ敵ニ向ヒ一挙ニ突進シ捕捉殲滅ス 反轉シ家屋内ノ掃蕩ヲ実施セルモ兵器弾薬 ハ發見スルヲ得ズ 家屋内ハ諸設備ヲナシ アリテ不良分子ト連絡シアリタルガ如シ 時ニ十五時三十分ナリ 十七時三十分全員 異常ナク歸隊ス 二、本日討伐ノ戦果左ノ如シ 92 中国系は中国戦線での抗日運動のために東南ア ◆日本軍の公式記録「陣中日誌」(第5師 団 歩兵第 連隊第7中隊)に記述されたスンガ イルイ事件の経過 八月二十九日 土曜日 晴 於クアラピラー 五、十 八時頃馬来人密偵及自警団長来リ本日 馬来人自警団員一名五時頃「バハウ」北方 約二十哩「スンガイルイ」鉄道沿線ヲ巡廻 中塩ヲ「バハン」州方面に持出サントセル 支那人一名ヲ発見検挙セントセル處附近ニ 居レル拳銃ヲ所持スル二名ノ支那人ノ為拉 致セラレ「スンガイルイ」西方山中ニ於テ 銃殺セラレタル旨報告ス 依テ明日ヲ期シ 一斉討伐ヲ企圖ス 勤務 六、本日の勤務員左ノ如シ 巡察将校 橋本少尉 日直下士官 山本兵長 八月三十日 日曜日 晴 於クアラピラー 一、九 時三十分中隊長以下二十九名「クアラ ピラー」警察署長以下八名ヲ合セ「スンガ イルイ」方面討伐ノ為出發先ヅ自動車行ニ 60 70 11 広島ジャーナリスト ≪ 114 ≫ にあったかと飛んで行った。幹線道路からわず 人たちも生活に追われ、手が回らないまま周囲 中 国 系 の 人 た ち が 日 本 軍 に 殺 害 さ れ れ ば、 代 関係者から聞いたりして大騒ぎになった。 そ こ で 新 た な 緊 張 関 係 が 生 ま れ た。 墓 が あ 木を切りはらって大勢押しかけ、事件のことを か100㍍だった。地元の中国系の人が周りの わってマレー系がその仕事に就ける。中国系が はジャングルに覆われ、墓の存在は忘れ去られ 財産を失えば、 それをマレー系が横取りできる。 た。 年、たまたま釣り好きな人が近くに来た が思うように釣れず、他にも水たまりの大きい のがあると教えられてジャングルに分け入り、 る場所は実は、州政府からマレー系農民のため ナチスがユダヤ人迫害をした時、キリスト教徒 は黙って見ていた。半失業状態のキリスト教徒 墓を偶然見つけた。地元の人に話したら、そこ そういう中で 年、ムヒディ ンさんと、きょう来てもらった ずっと続いた。 マレー系と中国系の緊張状態は た ら そ ん な 気 配 は な か っ た が、 と 言 わ れ た。 し ば ら く し て 行 っ 行けばなおさら石を投げられる ちも行きたかったが、日本人が よりさんが教えてくれた。私た ンガポール特派員だった松井や る状況まで進んだと朝日新聞シ の た め、 警 察 が 臨 時 の 交 番 を 作 投げる状態になったそうだ。そ 思 っ て、 遠 く か ら 取 り 囲 み 石 を 地を減らされるのではないかと すのではないか、自分たちの農 は中国系の土地にしろと言いだ の 人 た ち に す れ ば、 墓 の あ る 所 付けるはずだったが、マレー系 た。開発が進んで間もなく手を に農地として払い下げられてい がユダヤ人の商店や仕事や財産を横取りできる ということで、普段は隣近所で仲良く生活して いたユダヤ人だが、気の毒と思いながらも、自 分たちがおこぼれにあずかれるから黙認した。 同じことがマレー系の人たちにも当てはまる。 私 た ち が 調 査 を し て い る 時、 マ レ ー 系 の 人 はどちらかというと冷たい反応で、知っていて も情報を教えてくれない。そういう体験を何度 もした。そういう中でムヒディンさんは、目の 前で赤ん坊を空中に放り投げて、落ちてくるの を銃剣で突き刺す、あんな残酷なことはありま [5] せんでしたと涙ながらに証言した。その様子は 映 画 に[も 収 録 さ れ て い る。 そ う い う マ レ ー 系 の方が言うのだから、新聞記事に書かれたこと は信ぴょう性がある。 マレー人の密偵が捕まったことがきっかけ で、スンガイルイの人が殺害された。事件後、 遺体をそのままにしておくというのは問題なの で、おそるおそる他の集落の人が日本軍の許可 マレーシアの地図を広げて、日本軍の侵略行為の説明をする高嶋さん 間の緊張をこんなことで高める 中国系村長の林金發さんが民族 リム・キムファト 92 を得て、大きな穴を掘って、氏名も確認しない まま仮の埋葬をした。戦後、近隣の人たちが遺 骨を掘りだし墓を建てた。ところが墓を建てた [5] 「教えられなかった戦争・マレー編」 (高岩仁制作、映像 文化協会。1991年撮影) 2013. 3.22 84 ≪ 115 ≫ 墓地収得を州政府に請願する際に添えたので、 前向きに取り組むと言っていただいた。その報 ということで結構ですという書類を、林さんが の部分は切り離して中国系の人たちが管理する のではないかと、マレー系住民を説得した。墓 大なので、1㌈分を中国系の人に譲ってもいい は大事だ、マレー系に払い下げられた土地は膨 合った。ムヒディンさんが、宗教は違っても墓 のはよくない、平和的に解決できないかと話し く、日本とも、いつまでもこだわるのではなく レー系と中国系の二つの民族の和解だけでな を 広 げ ま し ょ う と い う 言 葉 を い た だ い た。 マ うな立場の人にどんどん来てほしい、交流の輪 本さんと現地へうかがったら、日本から同じよ いという。そこ で今年(2012年 8月)、橋 う。地元に伝えたところ、是非来ていただきた シアの人たちは、生まれることができなかった いたから死なないですんだ。同じ世代のマレー た。私は当時、東京で生まれ、そのまま住んで 日本軍の占領下にいた世代はそういう体験をし 牲になるのは乳幼児と妊産婦といわれる。当時、 食糧を奪い飢餓も進んだ。そうなると最初に犠 シアでは虐殺されてそれが途絶えた。日本軍が たからだ。 だから血筋がつながっている。マレー 皆さんの両親、祖父母が殺される側ではなかっ かもしれない。若いみなさんが今ここにいると いうこととの関係はどうなるのか、考えてほし い。 救いだったという記述になっている。日本の植 侵略と原爆 埋まらぬ溝 して、きょうの集会になった。 告集会を広島でやれないでしょうか、とお願い 州政府からの許可も下りた。私からすると、マ レー系の人たちの中に中国系の墓があるとは信 じられない。マレーシアに中国系の墓はたくさ んあり、亡くなった方の顔写真がはめ込んであ る が、 石 で 割 ら れ る の が 非 常 に 多 い。 マ レ ー 広島は原爆投下によって大きな被害を受けた が、同時に広島の部隊がアジアを侵略した。ス 民地支配を受けた地域のほぼ共通した原爆観 シンガポールで使っている歴史学習の教科書 では、原爆投下で戦争は終わった、原爆は神の 連隊 系の人たちに多いイスラム教は偶像崇拝を禁止 している。写真をはった墓はトラブルのもとに ンガイルイ事件を起こしたのは広島の 日本軍の民族分断政策によって民族間の軋轢 を増幅させる中で起きた悲劇がスンガイルイ事 る。その点で問題提起しているのが朝日新聞の いいのか、議論をしていただけたらと思ってい が、広島の方たちにもあの碑の在り方はあれで 本的には変わっていない。私たちの世代は、ア あの原爆で戦争は終わったという位置づけは基 えてきたし、マレーシアで原爆展もやったが、 いうことをもっと分かってほしいと私たちも訴 だ。これは今も基本的には変わらない。被爆と なっている。そういうところで、ムヒディンさ だ。あす広島城址近くの 連隊の碑を見に行く 件。その墓が見つかったことで、戦後のマレー 日 年8月 松 井 や よ り さ ん の 書 い た 記 事( ジアの人たちとこの議論の決着をつけ切れてい シアの緊張が高まることになったら悔しいと [6] ない。ぜひこれは次の世代の方に受け止めてい ただきながら、相互理解の共通点をどこに見つ 証 言 「 侵 略 の 犠 牲 知 っ て ほ し い 」 ム ラ は 燃 え 上 が り 血 の ています。 会が、その一つの契機となることを心から願っ している。 ガイルイ事件の責任を負って処刑された橋本忠 少尉の甥で、その事実を正面から受け止めてい 海になった 泣き叫ぶ弟を日本兵は刺した 一族 人が殺さ れ自分も刀傷 旧軍の日誌にも記録/元兵士から手紙も」 26 る。そのことをマレーシアの人に伝えてどう思 われるか確かめたいという。勇気がいったと思 [6]朝日新聞の見出しは「マレーシア虐殺の生存者が来日し 介したいと思っていたら、橋本和正さんが私た 21 けられるかという話をしてほしい。きょうの集 88 ちのツアーに参加したいと言ってくれた。スン 実現させてくれた。これを日本のみなさんに紹 思っていたら、それを二人が乗り越えて和解を んが中国系の人たちと親しく話をしている。 11 付)。[初めてマレーシアから証言者5人を招い て広島の 連隊跡を案内した時のもようを紹介 11 皆さんがいま若者として広島にいられるのは 11 広島ジャーナリスト う戦争に巻き込まれて住民虐殺をするような事 そういった単語が私の頭の中に残るという状況 があった。しかし実際に叔父がどのような形で 戦犯に問われたのか、いきさつはほとんど知る ことができなかったのが現実だ。 ことできません」と言えたかどうか、というこ 度がとれただろうか、本当に「いや私はそんな たところ、関東学院大の林博史先生の「裁かれ トで「BC級戦犯」をキーワードに検索をかけ 2004年の年末ぐらいですが、インターネッ 今 か ら 考 え て み る と 相 当 遅 く な っ た 時 期、 事実知り愕然 とを含めて長く考えてきた。そういった中身を 態に遭遇したときに、自分だったらどういう態 廿 日 市 に 住 ん で い る 橋 本 和 正 で す。 今 年 少しお話ししたい。 橋本和正さん 日までマレー 日から 18 叔父は戦後、マレーシアのクアラルンプール 想などを含めながら、私の叔父のことについて 傷跡を訪ねるツアーに参加した。今日はその感 とあるごとにその話が出てきた。1月2日が祥 もまだ家にいたから、家族の集まりの中で、こ ろからおじやおばが集まった時や、祖父や祖母 叔父が戦犯で処刑されたというのは子供のこ 1942年の8月 取 り 寄 せ た。 橋 本 少 尉 と い う 名 前 が 出 て き て、 り、叔父の詳しい事情でもわかるかなと思って 内容紹介に、イギリスの対日戦犯裁判の本とあ た戦争犯罪」という岩波書店の本が検索できた。 歳という若さだった。数え 判で死刑を宣告され、1948年1月2日に死 ていた。どうしてそんなことをやるのかな、と じやおばたちが手を合わせるということになっ 時よりもきちんとした形で仏壇に向かって、お 上るっていうか、もう、愕然としたことを覚え ていうか、心臓の鼓動が急に早まって頭に血が 録が載っていた。その事実を知ったとき、なん 368名の華人たちが虐殺された事件の裁判記 年だから満年齢でいえば 刑が執行された。 歳。私の息子たちの 思ったりもしていた。 30 話をさせていただきたい。 月命日ということで、正月に集まれば、お盆の 日ごろ、スンガイルイ村で でイギリスによる対日戦犯裁判、BC級戦犯裁 シアで、高嶋伸欣先生のガイドで日本の戦争の (2012年)の8月 11 ないかぐらいの年ごろにマレー半島に上陸し てからの経過から言えば、大学を卒業するかし 方々の慰霊碑が建立されて、毎年新緑のころに 滝寺の境内に戦争で刑死された広島県出身の 小学生ぐらいのころ、広島市西区三滝山の三 級戦犯というシリーズで橋本忠さんの名前が実 と、メール を送ったら、 「以前中国新聞でBC 少尉というのは私の叔父・橋本忠だと思います」 青年たちが引き起こした事件というふうに、ま おじやおばたちの話の中で「クアラルンプー 名入りで報道されているので、本の中でも実名 ル 」 と か「 セ レ ン バ ン 」 と か、「 ク ア ラ ピ ラ 」 を掲げて記載させていただきました。裁判記録 歳とか 間際のころ、どんなことをしていたかを考える のコピーを持っているので、よかったらお貸し それから「パリッティンギ」っていう地名なの 29 か、何なのかその当時はわかりませんでしたが、 します」と言われた。先生から裁判記録のコピ た自分たちが 歳、あるいは大学卒業 早速、林先生に「この本の中に出ている橋本 ている。 て、住民虐殺などの事件を起こす。そして終戦 れられて、そういう慰霊祭にも参加していた。 を迎え、戦後復員してきたが、逮捕されていく。 慰霊祭が盛大に行われていた。祖父や祖母に連 年齢に重なるような青年たちが、戦争に参加し 28 29 と、若い人たちにぜひ考えていただきたい。私 28 は自分の青年期と重ね合わせて、実際にこうい 2013. 3.22 アジアの訴えに応える責任 ≪ 116 ≫ ≪ 117 ≫ ーを送っていただいて、 御用納めが終わった後、 が入れただろうなと思う「橋本忠」という署名 がところどころにあった。 子供のころいろいろ話を聞いた中にスンガ で村や集落を襲っては中国系の人たちを虐殺す る事件が起こされていく。 この〝作戦〟として集団的に中国系の方々を らもお話があったが、もう一度、私が知りえた 私の叔父の事件については先ほど高嶋先生か ルイ村の付近で、いわゆる抗日分子の活動が非 広島ジャーナリスト それをコピーしてすぐ送り返した。 裁判記録はすべて英文。しかも、叔父の証言 という横断幕のようなものが作られていた。イ リッティンギでは670何人とか、そしてスン されていることを是非知っていただきたい。 それぞれの部隊に配置命令などが出されて、ネ 女性や子供を家ごと焼殺 グリセンビラン州とマラッカ州については歩兵 日 ご ろ。 中身で裁判記録などを基に話させていただく 年の8月 連隊の司令部にスンガイ から移動してきて、私の叔父がいた第7中隊は 常に活発になっているという情報が頻繁に寄せ 1カ月前ぐらいから と、事件が起こったのは 連隊が担当区域ということになる。2月の終 わりくらいにはネグリセンビラン州の大都市で 30 クアラピラという町に警備本部を置く、という あるセレンバンに 連隊の本部がシンガポール 42 ら れ る と い う 状 況 が あ り、 「華僑虐殺」という 11 形で3月、集中的にネグリセンビラン州の各地 11 記録っていうか、陳述書、調書というのは筆記 日にネグリセンビラ ン州全体の合同慰霊祭があって、そこに各地の 今 度 の ツ ア ー で、 8 月 いの方々が犠牲になっている。 ネグリセンビラン州では4千~4千数百人くら イルイ村というのは出てきていなかったから、 虐殺する事件はほとんど3月に集中している。 体で書かれてる。たぶん通訳を通して書き取っ 「あ、これが叔父がBC級戦犯として捕らえら た証言部分が私には全然読めなかった。 だけど、 れた本当の事件だった」とわかった。 その後、ネグリセンビラン州の中華大会堂と ど高嶋先生から紹介のあった広島の郷土部隊で ロンロンという町では1474人だったか、パ ガイルイ村では368名という虐殺があって合 同慰霊祭が行われた。ネグリセンビラン州でそ れだけのたくさんの人たち、それから同じく 連隊が担当したといわれるマラッカ州では千数 11 日の直後ぐらいから、 百名、やっぱり同じような形で虐殺事件が起こ 日付で「敵性分子を粛清しろ」ということで、 粛清」が行われる。一方でマレー半島では2月 て 集 め て、 い わ ゆ る「 検 証 」 と い う か、「 集 団 シンガポールで中国系の人たちを敵性分子とし が陥落、占領した2月 月8日にマレー半島に上陸してシンガポール で調べていく中でわかったのは、日本軍が 年 41 スンガイルイ村の事件などをいろいろな文献 て事実関係を追っかけられた「華僑虐殺」とい ある歩兵 連隊の陣中日誌を詳細につき合わせ されているが、林先生がそういう証言と、先ほ 「 こ こ で は こ ん な た く さ ん の 人 が 亡 く な っ た 」 いう中国系の方々の集まりの組織が証言集めを 12 う本が既に出ていることがわかった。 11 証言した中身を通訳さんに翻訳されて、きちん と間違いないかという確認を受けたときに本人 「 裁 か れ た 戦 争 犯 罪 」 を 手 に、 叔 父 の 行 動 を 知 っ た 時 の心境を語る橋本さん 15 12 24 11 ≪ 118 ≫ いう事実もあったようだ。 それだけで何もなくいったん本部へ帰った、と って調査したのか、物資を調達したのか、ただ 日ごろ、叔父「橋本」もスンガイルイ村に行 本にも、林先生の調べられた記録の中で、8月 自分が責任を取る、ということを発言して、集 い」と言い始 めた。インド系の 警察官は、「い 思うんですが、「こいつらを処分してしまいた ラやビルマの戦線に移動する中で、第5師団と りますよ」と忠告したそうだ。だけど部隊長は、 一緒に上陸したその他の部隊もそれぞれスマト やいや容疑者はきちんと裁判にかける必要があ 傘下の歩兵 りには帰還命令はいったん中止。マレー半島に ができなくなるという状態の中で、8月の終わ いわゆる米軍の反撃が始まって広島へ帰ること 連隊などが最後までマレー半島に めた村人を、男性は5人 人と縄で縛って数珠 日に、手下として使ってた自警団のマ たみたいだという情報がクアラピラの第7中隊 ヒ デ ィ ン さ ん の[話 で 初 め て 名 前 を 知 っ た の だ が、ザッカリーという男が誘拐されて殺害され レー系の男、この前のマレーシアのツアーでム し込めて、機関銃で外から撃ったり、当時ほと えやすいニッパ椰子のような小屋の家の中に押 て行って殺害した。女性や子供については、燃 同じような形で、少し離れたゴム園などに連れ 繋ぎにし、ネグリセンビラン州の各地の殺害と て、オーストラリアより北の方にいた第5師団 ニューギニアの東の側を一気に反撃していっ だ け ど、 ア メ リ カ は フ ィ リ ピ ン を 目 指 し て、 の島々に転進して、待ち構えていた。 月にオーストラリアの北の方とかインドネシア が反撃してくるだろうからということで 残っていて、結局オーストラリアを拠点に米軍 8月 場の捜査に向かうので護衛を頼むという形で、 んど手に入らない石油なども持参していて、そ の本部に警察を通じて連絡が入った。警察が現 れに火をつけて家ごと焼いて殺害したと、いう 年 日本軍に要請があって、橋本少尉は中隊長の許 の主力は終戦まで相手がいない、遊んだ状態に スンガイルイ村に出向いていったと認めている 裁判記録では、叔父は、確かにその日現場の ないまま、その方面にいたが、8月3日になっ なってしまった。終戦間際の8月まで相手は来 になっていて、病院船ごと拿捕されてしまう。 ガイルイ村に捜査のため出向いていったという り、爆薬のようなものが爆発したと証言してい 私の叔父もニセのカルテとニセの名前を持って て偽装病院船を仕立ててシンガポールへ戻って たぶんこの日誌は後になって書かれたんじゃな る。しかし、一緒に出向いたインド系の警察官 が、現地では抗日分子と戦闘になって、そのう いか、と思うが、そういう形で行った。 年ぐらいに日本に返還されて、 年ぐらいに林 連隊の第7中隊などの陣中日誌だ。それが カ軍に押収されたのが先ほどから出てくる歩兵 拿捕されて捕虜になる。拿捕されたときアメリ で、 中 国 系 の 人 た ち を 集 め て、 「昨日こうい う男が殺害されたんだけども、見た者はいない か、知ってる者はいないか」と演説した。だけ 広島には伝わっていない れた歩兵 連隊が対イギリス戦争というか太平 この戦争の大きな問題として、広島で編成さ 先生たちが見つけた。 83 ではないかという、部隊内部での噂もあったそ 連隊は8月ぐらいで日本に帰還するの 11 洋戦争の初期にネグリセンビラン州をはじめと 歩兵 86 れが事件の概要だ。 などの証言が決め手となって死刑になった、こ ことだが、実際はもう「明日を期して中国系の 12 いく作戦を立てた。これがアメリカ軍に筒抜け 42 人たちを粛清しろ」という命令だったわけだ。 ち流れ弾というか、その戦闘の中で家に火が入 バハウに向かい、バハウから鉄道を使ってスン [1] 可を得て、部隊を率いて翌日、クアラピラから 11 ことが裁判記録では証言されている。 10 うだ。しかし、ミッドウェー海戦が敗北に終わ 11 ど全然答える者もいなかった。という形で捜査 は終わろうとしたが、バハウにもどる列車の時 16 り、ガダルカナルの上陸作戦も失敗に終わる、 した地域で大量の無辜の中国系の人たちを虐殺 11 間が近づいてきたこともあって、部隊を率いて 歳、虐殺を目撃した。 いた日本兵の部隊長が、たぶんこれが叔父だと 112㌻参照。 [1]当時、マレー系の村長の息子で 2013. 3.22 25 23 閉ざしてしまって、後世の者にそれが伝えられ い。広島に戻ってきた兵士たちがまったく口を であったということを是非知っていただきた した。そういう事件を起こしたのが広島の部隊 責任があるのではないか、と思う。 ている。その事実に対して私たちは応えていく 犠牲にあったんだ、ということを発言し、訴え 人たちが、自分たちは第2次世界大戦で大変な ビラン州の州都セレンバンと広島市が友好都市 てネグリセンビラン州と広島県が、ネグリセン 市縁組とか。是非、マレーシアと日本が、そし えばハワイのホノルル州や中国の重慶と友好都 いう事実を知ったときに私たちはどう考えれば 件の責任は取っただろうと思うが、では、そう いく、ということを公約に掲げる政党などが現 を確立して憲法まで変えて戦争できる国にして 総選挙で、日本も軍備を強め、集団的自衛権 な国づくりを私たち自身が進めていかなければ 返さない、そういう政策を打ち出しながら平和 縁組などを結べるような形で、再び戦争を繰り ていないと私は思う。叔父は死刑という形で事 いいのだろうか。 ならないと考えている。 今カタカナのヒロシマもあると、いうことをお な住民虐殺を起こした、そういう責任を負って 広島から出て行った私たちの郷土部隊が大き れている。そういうときに私たちが戦争をきち いうことを一番求められていると、私は感じて 考えいただけたらな、と思います。 んと受け止めて、これから戦争を起こさないと いる。8月にマレーシアにお邪魔して、最後に 責任というのは英語で う そ う だ。 語 源 は response と い う 言 葉 で、 反 応するとか、応答するとか、という意味合いが 感じたのは、広島市は国際平和都市としてさま と言 responsibility あると聞いた。マレーシアの中国系の人たちを ざまな都市と国際交流の場を持っている。たと みなさんにすごくよくもてなしていただいて感 にもう一度会うために来た。日本に来てからは んの家を訪れたかは覚えていないが、とにかく るクアラビラへ行っていた。何のためにおじさ 私たち家族を連れて2番目のおじさんの家のあ 喜んでクアラビラへ行った。 翌日、大至急の連絡が入った。「もうスンガ している。まず横浜の集会で話をしたが、主に 記者との会見に始まり、いろんな集会に出たり 日本に来てからの日程は詰まっていて新聞 し、あまり答えなかったのでそれ以上調べもせ 詳しい情報によると、日本軍が来て住民に尋問 うに」という知らせだった。父親が得たもっと な事件が起き、大変危ないので絶対戻らないよ イルイには戻らないで。今、日本軍が来て大き 第2次世界大戦中のこと。当時、私は6歳くら 「スンガイルイに戻らないで」 謝しています。 おじさんはほかの村にいた。その日は、父親が スンガイルイ村に住んでいた。2番目の兄弟の 番目の兄弟の(私にとって)おじさんと一緒に からなかったのだが、父親の兄弟は3人いて3 いで、ほんの子どもだったのでまだ何もよくわ はじめとする東南アジアの人たち、また中国の リムキムファト ちろん喜んでという気持ちではないが、お互い 来ることができた。まず横浜、そして広島。も て断った。やっと今年、時間をつくって日本に と誘われたのだが、そのころはちょうど忙しく 年前に高嶋(伸欣)先生から「日本に来ないか」 るスンガイルイ村から来た林金發です。実は3 私は、マレーシアのネグリセンビラン州にあ 林金發さん 偶然、他村で虐殺免れる ≪ 119 ≫ 広島ジャーナリスト ≪ 120 ≫ ループ、女性と子どもはまた別のグループに分 もなく、白黒を全然区別せずに男性は一つのグ な事件だったようだ。とにかく理由を聞くこと ず、みんな束縛して殺してしまったという異様 し、店の中に閉じ込められ火を放たれて殺され 空中に放り投げて銃剣で刺し殺す場面も見た 1カ所に集めて虐殺の様子を見せた。赤ん坊を ある人が話していたことだが、日本兵は人々を の住む村は別々になっていた。その華人の中の 焼かれてしまったのですっかりなくなった。 くったその場所だ。その時に私たちの家も全部 墓前をねぐら、移動の日々 けて殺してしまったというのだ。 の家に閉じ込めて火をつけ、そのまま焼き殺し 人々を銃殺したり、銃剣で刺し殺したり、一つ つからずじまいだった。その時は余裕がなかっ ちだが、 当時のスンガイルイ村は小さな集落で、 つかった。ただ、彼らの4人の子どもたちは見 たりもしたそうだ。これは特に女性や子どもた たので簡単な片付けで終わってしまい、死体は んの行方を一生懸命捜したが、結局、死体で見 スンガイルイ村へ行った。自分の弟とその奥さ その2、3日後、父親はもうたまらくなって 難していた。食べるものもほとんどなく、せい はあまり人が来ないので安全と思ってそこに避 う、家からちょっと離れた場所のお墓のあたり いうと、日本軍が来ても簡単に見つからないよ ちゃんとした家のベッドの上で寝なかったかと たかというとお墓の前にある台の上。どうして る所があまりなかったので、どこをねぐらにし 私はそのままクアラビラにいたが、寝泊りす その中にあった商店(簡単なヤシの葉や板で造 ぜい芋、といっても山にある芋で、昔は豚の餌 た女性や子どももいたという。 られていた)の中にみんな押し込んで焼き殺し 全部1カ所にまとめて集団のお墓にしたとのこ そ の 様 子 を も っ と 詳 し く 言 う と、 日 本 兵 は たということで、この虐殺については何人も証 に す る も の だ っ た。 そ れ で も ふ だ ん は と。そこは、後になって私が就屠の記念碑をつ ちゃんと湯を沸かしてゆでて食べるよ う に し て い た が、 そ の 時 は 何 も な い の で、 た だ 火 を つ け て 焼 い た だ け で 食 べ て い た。 マ レ ー 人 の 村 で は 大 体 バ ナ ナ の 畑 が 作 っ て あ り、 ま だ 熟 し て い な い う ち に 取 っ て、 渋 い け れ ど、 お 腹 が す い て い る の で 仕 方 な く、 こ れ も 簡 単 に 焼いて食べたりもしていた。 こ う い う ふ う に し な が ら、 あ ち こ ち 移 動 し て 生 き 延 び て い る う ち に、 ジ ャ ン グ ル の 木 を 切 り 倒 し、 田 ん ぼ を つ く る よ う に し た。 も ち ろ ん 立 派 な 水 田 と は い か な い の で、 お か ぼ( 陸 稲 ) の ようなあまり水の要らないものを作っ 2013. 3.22 言者がいる。当時は、マレー系と中国系で人々 時に涙ぐみながら、日本軍の行動を話す林さん ≪ 121 ≫ 初めは同じ貧しい生活の家庭の中でも段々 年。ところが、昔は普通の田舎だった所を政府 度郷里のスンガイルイ村へ戻ったのは1962 として生産に汗を流した。そのうちゴム作りの で空腹に耐えて過ごした。どれほどそうやって 裕福になっていく家庭もあったが、同じ人間な なら何でもいいと思い、雇われたら一生懸命働 いただろうか、待ちに待った便りがやっと届い のに私はどうしてこんなひどい目に遭うのか。 が全部確保してゴム園にしていたので、もう自 た。といっても、お腹いっぱい食べられる日は た。 「平和」という言葉を聞いたとき、もちろ そう思う一方で、一生懸命やればいつかは出世 技術も身につけた。そうしてようやく、もう一 んうれしかったが、これで毎日食べ物も十分取 できるだろうと信じてがんばった。基本的に私 いた。 らずに移動し続けなくてもすむという思いのほ が就いた仕事の分野は農業で、田んぼや畑で働 全然なくて、毎日腹半分か腹四分。それくらい うが強かった。そのころ、大人の間で話すこと いた。ゴム園でも働いた。天然ゴムはマレーシ 過ちを繰り返さないこと 分の住む場所はなくなっていた。 がちょこちょこ聞こえてきて「広島」とか「爆 さんとの出会いについて触れ ここでいったん話を中断し、先に橋本(和正) のでなんのことかあまり理解できなかった。今 ておきたい。彼とは今年、初 アの大事な第1次産業で、私も1人のスタッフ 日、広島へ来ることができ、ようやく原爆のこ めて会った。当時、村の人々 弾」という単語が耳に入ったが、まだ若かった ともしっかりわかった。 出て何でもいいから仕事があればやってという というので進学はあきらめた。若くても社会に せるのは難しかったから、親も学校はもういい 時、生活は苦しく、子どもに腹いっぱい食べさ で、私はわずか2年間で学校生活を終えた。当 た。当時の政府は歳によって学校に行かせるの 生活も少し落ち着いてきて私は学校に通い始め びはしたが、もう一つの思い ろ ん、 目 の 前 の 橋 本 さ ん を 見 てしまったのか、とか。もち も聞かずに人々をみんな殺し ぜ、 あ な た の 親 戚 は 全 然 理 由 質 問 し た い こ と は あ っ た。 な 紹介されたのだが、いろいろ 時、 高 嶋 先 生 か ら 橋 本 さ ん を 親戚が目の前に現れたその を虐殺した責任者の橋本忠の 構えだった。最初は、一番親しい友達が働いて も頭に浮かんだ。間違ったこ 戦争が終わり、平和がこの国に戻ってきた。 い た と こ ろ で、 賃 金 は わ ず か 2 リ ン ギ ッ ト く[ らい。 ちょうど1日の食料が賄える金額だった。 とをしたとわかって自分は二 に生き出世もできるようにな 度とそうしないようにしてい て昔の司令官の姿が思い浮か 何とか自分一人は食べることができる。そのこ [1] ろはとにかく腹いっぱい食べさせてくれる仕事 れ ば、 同 じ よ う に 社 会 で 立 派 つどいを終えて握手する橋本さん(中央)と林さん。左端は高嶋さん [1] マレーシア・ドルともいう。マレーシア国立銀行の現 在 の レ ー ト に よ る と 日 本 の 1 0 0 円 が 3・5 リ ン ギ ッ ト 弱 に 相当する。 広島ジャーナリスト ≪ 122 ≫ 村をつくろうと決意した。州政府、日本では県 があるが、その傍らの土地にもう一度中国人の のにどうすればいいのか。隣にマレー人の土地 るということ。もうだいぶ時間も過ぎたが、大 話 を 戻 し て 先 ほ ど の 続 き だ が、 ス ン ガ イ ル 事なのは過去の誤りを反省して繰り返さないこ イ村へ戻ってみると、かつての中国人の村もマ とだ。もう一言、 特に若い人に言っておきたい。 レー人の村になっていた。私のルーツはそこな 懸命がんばってくれたおかげでこの碑をつく リンギットぐらい集めてくれた。みんなが一生 間の方々と一緒にマレーシアのお金で9700 じ「われわれも協力する」と言ってくれた。仲 いした。こちらの計画を言うと先生はすぐに応 る。高嶋先生と仲間の方何人かが来られてお会 の最大の被害者は双方の国の一般人だというこ た。その日のことは、まだはっきりと覚えてい 土を掘り出しトラックに載せて持ってきた。約 り、1万リンギット出してくれた。全体の経費 の力添えで県からも援助してもらえるようにな からもう一度ルーツのことを思い その後、生活が落ち着いてきて いけないという思いだった。おじさんのことを るなら何としてもきれいなお墓をつくらないと の3番目のおじさんと家族のお墓だから。でき 私たちが出し合った。どうしてかというと、私 10 連隊跡に立ち、「マレー作戦に参加し (略)各々 12 となのだ。 特に高嶋先生とその仲間の人たちには助けられ になるのだろうが、当局に申請し り、お墓をきれいにすることができたと感謝し 入れられ、何とか着手できた。開 1500台分。当時、トラック1台分の運搬に 実はこのあたりは沼地だった。周りの山から ている。 拓しようした場所は平地ではな 要する人件費は リンギットだった。議員さん く、山がいっぱいある所。全部人 力で、華人のほか、インドネシア 出した。そこで、お墓をつくり直 思い出すと今も心が痛んでならない。 は6万リンギットを超えたが、足りない部分は してきれいにしようと考えた。こ 「マレーシアと広島をむすぶつどい」に参加 した林金發さんは翌日の 月 日、広島城址の ◇ 大本営跡や護国神社を訪れた後、近くの歩兵第 人や議員とか、あの虐殺事件当時 の目撃者のお兄さんで、その時は 力が借りられたからだ。県当局の れができたのは、たくさんの人の り開いた。 の労働者も使って徐々に徐々に切 75 ちょうどスンガイルイ村の村長さ んになっていた人もいていろいろ よ 11 戦争というのはどういうものか。あくまで戦争 %は県に ば、切り開いた土地の %はマレー人の財 15 産にするというような提案が受け 回し、残りの 85 協力してもらった。マレーシア国 克く健闘した」と刻まれた碑を見つめた。文言 内の人のほか、海外の日本人にも。 について林さんは特に感想を漏らさなかった。 2013. 3.22 て土地の開発計画を出した。例え 広島城址近くにある「歩兵第十一聯隊」の碑を訪れ「マレー作戦に参加し(略)各々克く 健闘した」の文言を見つめる林さん㊧ 16 10 人、アルジェリア うちアルジェリア人が約650人、外国人は カ国約140人で、外国人 率いてはいるが、実態はアルジェはじめサハラ ルは世界第5位のウラン産出国で、フランス最 ア ル ジ ェ リ ア、 マ リ 両 国 に 接 す る ニ ジ ェ ー 人で、うち 人が死亡、3人が逮捕 ルウエー人5人、アメリカ人3人など。襲撃グ ループは こ の 事 件 は、 資 源 を 求 め て 欧 米 そ し て 日 本 もフランス政府も拒否し続ける一方、軍事的な 強硬解放作戦を避けたため、武装勢力は人質4 人とともに脱出し、マリ北部に逃れた。別の事 年、反政府勢力を支援した英・仏・米の攻撃に 力にある。「血判団」を名乗るこのグループは、 最大の責任は、襲撃した過激なイスラム武装勢 存しているという。 い う ま で も な く、 こ れ だ け の 犠 牲 者 が 出 た 件で他にフランス人3人が人質になったまま生 よ っ て 崩 壊 し、 リ ビ ア 軍 の 武 器 が 拡 散、 南 隣 北アフリカに拡がる、イスラム武装勢力「イス 事業に、英国、フランス以下の米欧諸国の企業 スラム聖戦思想の影響を受けたベルモフタルが いる。事件が起こった天然ガスプラントは英国 の分派。アフガニスタンで故ビンラディンのイ 国人が増えている。日本企業の進出も急増して ラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」 の進出が拡大し、そこに働く欧米と他地域の外 アフリカでの資源開発とその恩恵を受けた の マ リ で は、 イ ス ラ ム 武 装 勢 力 が 国 土 の 北 半 分を支配し、旧宗主国のフランスが大規模に軍 事介入して掃討作戦を展開している最中に起こ った。中東・アフリカに拡がる新たな変化に対 広島ジャーナリスト 砂漠周辺諸国を活動範囲とする犯罪集団だ。主 に欧米人を人質にして身代金を取ることと、麻 薬やタバコなどの砂漠越えの密輸が本業だ。今 回の事件も、人質解放の条件としてマリからの フランス軍の撤退を要求したが、もっと以前か って実行した、身代金目的の襲撃だった。アル ら周到に計画され、プラント内部に協力者を作 応して、日本は政策を見直し、厳しい条件下で ジェリア政府と交渉し、まとまれば、襲撃して ればならないと思う。政府がやるべきことはま う。 ず、相手国の民主化と経済発展、治安の改善を 大の原子力企業アレバが経営するウラン鉱山が 人、フィリピン人8人、英国人6人、ノ 支援しつつ、日本人と企業の保護、情報提供の ある。フランスの重要な国家的事業だ。同鉱山 本人 改善を求めていくことであり、自衛隊が外国の を3年前にイスラム武装勢力が襲撃、フランス 29 か、襲撃グループに殺害された人もいた。 32 も進出を拡大するアフリカ大陸北部で、アルジ 人を人質にして身代金を要求したが、アレバ社 された。犠牲者は、総攻撃したアルジェリア軍 10 ェリアの隣国リビアではカダフィ政権が一昨 過激派が狙う米欧の資源開発 陸上でも救援作戦を行えるよう、自衛法を改定 に、大使館も企業も個人も努力を新たにしなけ 当に願っている友人だと思ってもらえるよう ンが支配するマリ北部に逃れる計画だったろ をこえ、別のAQIM分派のアンサル・ディー きた車列に人質とともに脱出、通い慣れた砂漠 働く日本人の安全対策も改善しなければならな 坂井 定雄 することなどではない。 人1人が死亡した。外国人の死亡者の内訳は日 48 と襲撃グループの交戦の巻き添えになったほ 26 なった。広大なサハラ砂漠の中にあるこの天然 い。そしてなにより、相手国の人々に、日本と ガスプラントで働いていたのは、約790人、 日本人が、相手国の発展と人々の生活改善を本 1月 日、アルジェリアで発生した凄惨な人 質事件では、 人の日本人も犠牲となって亡く アルジェリア人質事件の教訓 人々との交流が安全の要 ≪ 123 ≫ ≪ 124 ≫ のBP、ノルウエーのスタトイル、アルジェリ いた。アルジェリア軍はこのプラントの警備の あるいは人命の犠牲を最小限にする武力行使を ため、周辺に800人の部隊を配置していたと 探す努力をしないで、全面攻撃を急いだのか。 た。そのアルジェリア軍の体質はよく知られて 交渉を拒否し、武力行使なしに解決する方策、 わ た し は、 年 代 の 内 戦 の 中 で 培 わ れ た ア いう。なぜ、 人の武装勢力の攻撃を防げなか ったのか。しかも、アルジェリアの有力紙ワタ ルジェリア軍の残虐、非人道的な体質を指摘し、 アのソナトラック3社の共同事業で、日揮はそ ニ ュ ー ス に な っ て は い な い が、 こ れ ら の 企 の下請けだった。 業を狙った、身代金目当ての人質事件はかなり あり、密かに身代金を払って解決するケースも 少なくないようだ。フランス軍攻撃から逃れた マリ北部でのアンサル・ディーンの幹部の自宅 には、多額のドル紙幣が散乱していたと報道さ れているが、その証拠といえよう。 の常識。 世 界 の メ デ ィ ア の な か で、 中 東 か ら 最 も 優 ジア、ニジェールの軍当局と協議を重ねていた という。内部に協力者がいることなど、この地 れた報道を続けている、朝日新聞の川上泰徳氏 は、1月 日付朝日中東マガジンの「アルジェ ンの報道によると、同国政府は2カ月前から武 政府と軍に抗議する。しかし、それは、アルジ 装勢力の動きを警戒し、隣国のリビアやチュニ ェリアだけのこととは言えない。 90 の背景を物語っている。 アルジェリア 政 府 と 軍 の 責 任 多 数 の 犠 牲 者 を 出 し た 責 任 の 2 番 目 は、 ア ルジェリア政府と軍にある。襲撃グループとの 交渉を拒否し、人質多数、特に外国人が犠牲に なる危険を十分認識しながら、全面攻撃を行っ た。 入、弱小な政府軍に代わって大規模な奪回作戦 を進めていたのだ。 スラム過激派も、その過激派を制圧しようとす 『対テ サ ハ ラ 砂 漠 の 中 に 孤 立 し て い る イ ナ メ ナ ス る 政 府 や 軍・ 治 安 部 隊 も、 同 様 で あ る。 の重要な天然ガスプラントが、マリのイスラム ロ戦争』の名の下にこのような非道が許されて 外務省・大使館の責任と検証課題 武装勢力とも協力関係にある武装勢力に攻撃さ いても、テロを拡散するだけで、なんら解決に れる危険が、かつてなく高まっていることを、 ならない」 アルジェリア政府と軍が認識していなかったは ずはない。それなのになぜ、武装勢力にプラン 万人の人命が失 ト攻撃を許し、占拠させてしまったのか。なぜ、 万~ 12 われたイスラム武装勢力との内戦を戦い、勝利 年 代 の 8 年 間、 拡げ、昨年後半には全域を支配するに至ってい パレスチナ自治区ガザ攻撃など、延々と続いて た。これに対して、昨年 月、フランス軍が介 いる。 人 間 の 命 を 尊 重 し な い と い う 意 味 で は、 イ 建支援を約束したことなど、すべて今回の事件 (イスラム教徒)の独立運動が活発化、それを は、アルジェリアの特殊性ではなく、米軍がイ アンサル・ディーンが乗っとる形で支配地域を ラク戦争後のイラクで行い、イスラエルによる と表明。続いてリビアを訪問し、リビア軍の再 「アルジェリア軍の強硬突入は、世界で続く の独立(1962年)以来初めて英首相として ナイジェリアに流出した。北アフリカに拡がる 同国を訪問し、 「テロとの戦いに全力を尽くす」 イ ス ラ ム 武 装 勢 力 A Q I M な ど の 手 に も 渡 っ 『対テロ戦争』の“闇”をみせている。過激派 た。隣国マリ北部では、主な住民のトアレグ族 を制圧するために、人命を犠牲にする軍事作戦 英国のキャメロン首相が1月末、アルジェリア ま し て、 崩 壊 し た リ ビ ア 軍 の 豊 富 な 兵 器 が リア人質事件で見えた『対テロ戦争』の闇」を マリでは米空軍がフランス軍の輸送を支援。 近隣のアルジェリア、マリ、ニジェールそして 次のように書き出しているが、まったく同感だ。 19 一 方、 日 本 大 使 館 と 外 務 省 も 、 こ の よ う な 2013. 3.22 32 占拠されてしまった後に、武装勢力が要求した 20 したアルジェリア軍は、その残党の武装勢力と 15 の今回の戦いでも、人道的な配慮などしなかっ 90 ≪ 125 ≫ いるという情報は得てはいなかったかもしれな アルジェリア政府、軍から、危険度が高まって 危険な情勢にあることを認識していたはずだ。 ん大使館は知っていただろう。在住日本人に、 イスラム武装勢力に制圧されたことを、もちろ ビア崩壊後、兵器が拡散し、隣国マリの北部が か、きちんと検証し、その内容を公開すること 本省と大使館はそれをどのように扱っていたの 館が得ていたのか、外務省に送っていたのか、 もしなかったのか、それはなぜだったのか。そ が必要だ。たとえば、特別の警戒情報を出した よほど食い込んでいなければ重要情報を伝えて 英 国、 フ ラ ン ス を は じ め 米 欧 の 大 使 館 は、 の解明ができれば、現在の外務省のシステムの のか、一般的な情報や指示だけだったか、なに くれない。まして軍は、反政府勢力の動向は機 アルジェリア在住の自国民や企業に、密かに情 欠陥も明らかになり、世界に展開する大使館の な対応策を、呼び掛けることができたはずだ。 密情報だろう。しかし、政府・軍関係者やメデ 報を流し、強い警戒を指示していたのではない い。 大使館がアルジェリア政府に頼っていても、 厳しい情勢の説明をして、最大限の警戒と可能 ィアの優秀な記者などに情報源を築くのは大使 活動での、改善すべき重要課題が明らかになる 欧州や米国の犠 策 を 考 え て い た。 て、 可 能 な 対 応 範囲を慎重にし れ た の で、 行 動 これらの大使館で治安情報、政治情報の収集・ 分析を担当するのは、政務担当の参事官や書記 源と信頼関係を築かねばならない。 当に必要な「情報」を集めるには、幅広い情報 し相手側の公式情報は、まず役に立たない。本 軍(防衛駐在官がいる場合)それに新聞。しか 途上国や比較的小さな国の大使館の場合、主 要な情報源はまず、相手国の外務省、国防省や 外務省の「情報」収集と死蔵 だろう。 だろうか。私の5年前までのカイロでの経験で は、治安情勢・危険情報を欧州の2つの国の大 館の重要な任務だ。新聞、テレビはじめ公開情 報を綿密にウオッチし、分析するだけでも、リ 使館員の友人か そ の 夫 人 が、 必 要と思われると 牲者が比較的少 官。他の大使館員の多くは“関係ない”顔をし きに知らせてく ない理由の一つ ている。大使館全体で情報収集に当たるという 仕組みはない。政務担当の中でも、公式情報や はそれかもしれ 政府は今回の 新聞情報だけでなく、本当に役立つ情報を集め ない。 事件の検証委員 るのは、アラビア語やペルシャ語など現地語、 いまは採用方式が表向き変わったが、外交官試 ている言語の専門官だ。大使館を構成するのは、 さらにはフランス語など旧植民地で広く使われ 会を立ち上げた アルジェリアの人質事件でイギリスの公共放送BBCニュース電子版は1月 日、「日 が、 ど の よ う な 本人死者さらに2人確認」の見出しで、日本人死者が2人増えて外国人最多の9人とな 「 情 報 」 を、 ア ル り、いぜん1人の安否が不明と伝えた。写真は、襲撃されたイナメナスの天然ガスプラ ジェの日本大使 ント㊤と、犯行声明を出した「血判団」を率いるモフタル・べルモフタル指導者 23 広島ジャーナリスト ≪ 126 ≫ 担当官など。 「キャリア」は2年ぐらいで他の 採用された「ノンキャリ」そして事務官・通信 験で採用された「キャリア」と専門言語などで るいはそのまま本省に報告される。現地で在留 は、一応大使や次席が目を通し、まとめて、あ と も か く、 こ う し て 大 使 館 が 収 集 し た 情 報 しない平和国家で、欧米とは違うと見られてい 略したことも植民地にした罪状もなく、戦争を 誰もが知っている。日本は中東・アフリカを侵 年代にかけて、 た。わたし 自身、 くから、途上国勤務などはまずは無事に過ごす 報告書の大部分が死蔵される。その後ほとんど ば、担当課員が目を通すぐらいで、その膨大な とんどない。本省では、よほどのことでなけれ 機から救われた経験が何度もある。 も、日本人として好意で遇され、助けられ、危 中東の戦争と内戦の戦場で、また大都市の中で 年代から 日本人や企業に伝えられ、役立てる仕組みはほ ことが第一で、その国や担当地域の情報収集に 大使館や本省に移動してステップを上がってい 情熱を持つ人は少ない。専門言語が達者な「ノ 年の との公式な接触、 新聞などの情報をまとめるが、 数人の友人 によると、「なかなか 面白 い、役に つ防衛駐在官や警察庁などの派遣官は、相手側 な書記官も少なくない。一方、大使館に席を持 立ちそうな具体的情報がけっこうある」とは言 が目を通すだけだ。外務省の依頼で目を通した 退官した官僚や外務省の信用を得ている研究者 2003年、イラク戦争に日本も自衛隊を派遣 拠出して、米国の要求に過分に応じた。そして なかったが、代わりに130億㌦も戦争費用を 湾岸戦争からだった。日本は自衛隊を参戦させ に対する感情と差がなくなり、親日的とはいえ の対日感情が、明らかに変わったと思う。欧米 してから、アラブ・イスラム諸国の多くの人々 顔は出身省庁を向き、大使館内での情報の共有 っているが、防衛駐在官などを増やしても、現 地の日本人や企業の安全には、何の役にも立た わ た し の 限 ら れ た 経 験 で は、 か つ て ア フ ガ ったが、日本人が特に狙われたわけではないと 今 回 の 事 件 で、 日 本 人 の 犠 牲 者 が 一 番 多 か ―のイメージを回復するために、努力しなけれ 好的な平和国家日本、信頼できる友人の日本人 いは期待できなくなった。いまあらためて、友 なくなった。かつてのように、友好的な特別扱 ニスタンの大使館で、現地語が達者な政務担当 思う。襲撃犯が「日本人はどこだ」と探してい ばならないと思う。 ないだろう。 官が、毎朝バザールに行って、バザール商人や たという証言があったが、目立つ日本人をまだ 最も印象に残っている。レバノンやシリアの大 もらえることはなくなったと、今回の事件であ 日本人が特別に好意を持たれる、親切に扱って め、 分析している内容にすごく感心したことが、 捕まえていなかったからだろう。だが同時に、 使館のアラビア語専門官の分析もかなり鋭く正 らためて思った。 事件直後、政府・自民党がまず示した対策は、 日本は親アラブ政策をとり、アラブ・イスラム 破幹事長が、自衛隊法改正について発言し、 「必 1973年の中東戦争とオイルショック後、 自衛隊法の改定だった。 確だった。しかし2000年代のカイロ大使館 大使館であったが、2011年に起こったムバ 諸国の人々から好意を抱かれていた。おなじ「オ 要最小限の武器の使用は、憲法が禁じている武 日 の N H K の「 日 曜 討 論 」 で 石 ラク打倒エジプト革命を予測した、あるいは不 リエント」(東洋人)とされて、親近感をもっ 力行使に当たらない」と述べた。そして政府・ まず1月 安を強く抱いていた館員は一人もいなかったの て接してくれる人も多く、広島・長崎のことは は、中東・アフリカでたぶん最も大規模な日本 自衛隊の陸上輸送が「改正」の柱 地方から集まってくる牧民や農民から情報を集 日本は特別な国ではなくなった うのだが。 91 は少ない。今後の対策として政府・自民党が言 そ れ が は っ き り 変 わ り 始 め た の は、 の報告書は、一定年月( 年?)が過ぎた後に、 80 ンキャリ」政務担当の中には、情報収集に熱心 70 ではないかと思う。 2013. 3.22 20 27 ≪ 127 ≫ では認められていない陸上輸送を可能にするこ 確認された場合に限られる条件を緩和し、現行 や輸送のために、現行法では「輸送の安全」が にした。自衛隊法改正の柱は、在外邦人の避難 議」の設置、防衛駐在官の増員の方針を明らか 自民党は、自衛隊法の改正、 「国家安全保障会 を購入して、事件現場での救援作戦をしようと 定する必要はない。それとも巨額のオスプレイ 政府専用機を使ってもできるし、自衛隊法を改 ように中東に基地を築いて、あるいは米軍基地 使館がやるべきこと、やれることが、まだ多く も多く、あまり頼りにされてないようだが、大 本人を現地国から脱出させるためなら、民間機、 どの重要性を指摘する。大使館が現地にない国 に、部隊と輸送機を配置しておくのか。在留日 あると思う。 してパニックにならず、冷静に行動する訓練な 備に民間のセキュリティ会社の利用、危険に面 し か し、 な に よ り 大 切 な こ と は、 大 使 館 も でも妄想しているのか。 民間も、現地国の人々と出来るだけ交流し、話 を交わし、付き合い、友達をつくることだと思 変えることが必要だが、それは容易ではなさそ に、外務省・大使館の姿勢と仕組みを抜本的に 海外での日本人と企業の安全を高めるため れていた日本人の顔をターバンでぐるぐる巻き ることに努めていたという。それが、室内に隠 も、日揮のメンバーは、現地従業員と仲良くす らえる。800人も働いていたあのプラントで 得られ、危機を避け、危機にあっては助けても 民間との協力の仕組みが必要 とだ。武力行使について、必要と判断すれば武 器を使用できるように緩和するという。要する に、邦人保護のために、外国の陸上にも自衛隊 だが、現実に今回の事件では、現地事情に十 分通じ、開発プロジェクトの主体で多数の人質 うだ。しかし、すぐにでも出来ることは多くあ にして、アルジェリア人が連れ出してくれたこ う。それを進めることで、安全上役立つ情報が がいた英国も旧宗主国のフランスも、軍事的な ると思う。一つは、大使館が集め、分析した情 とにつながった。他国でも、そういう努力をす が出動し、武器を使用する作戦行動を行えるよ が、受け入れることは絶対になかったからだ。 報を、本省に送るだけでなく、大使権限で現地 救出行動は論外だった。アルジェリア政府と軍 の日本人社会に出来るだけ多く、頻繁に公開す る日本人が増えているという。それこそ、今回 うにする自衛隊法改正なのだ。 事実、アルジェリアのサイード情報相は朝日新 ること。 の事件の大切な教訓だ。 信記者) が、情報交流、安全対策のための現地官民会合 一部ではすでに行われているかもしれない にやることだ。 共有し、情報の交流、可能な対策の検討を頻繁 機関も、得ている情報を、できるだけ公開して (さかい・さ だお 龍谷大名誉 教授、元共同通 も う 一 つ は、 企 業 や J I C A は じ め 政 府 系 聞記者とのインタビュー(2月5日付)で「外 国の軍隊が一歩たりとも足を踏み込むことはあ り得ない」と断言している。 い っ た い、 ど こ の 国 が 自 衛 隊 の 陸 上 作 戦 を 許す、あるいは支援を求めると想像しているの げてもらいたい。 か。そんな国が現実に想定できるなら、ぜひ挙 旧日本軍が侵略し、残虐行為を働いた東アジ ア、東南アジアの国ではあり得ない。仮に中東 入れたとしたら、日本からどんな規模と装備の やアフリカのどこかの国が、自衛隊派遣を受け を頻繁に、定期的に開催することは効果を上げ 【編集部注】ロイター通信などの報道による るに違いない。そこで出た要望を現地国政府に とアフリカのチャド軍は3月2日、マリ北部の 伝えるのはもちろん大使館の役割だ。 山岳地帯で同日、アルジェリア人質事件の首謀 今 回 の 事 件 で、 海 外 事 業 の 経 験 が 多 い 友 人 者とされるべルモフタル指導者を殺害したと国 たちは、企業としての安全対策、情報収集と警 営テレビで発表した。 自衛隊を、どのように迅速に運ぶのか。米国の 広島ジャーナリスト ≪ 128 ≫ ムダな二葉山トンネル「ノー」 業費は当初の たのである。 億円から168億円へと倍増し これこそ、公共事業はいったん工事を開始す れば「いくら住民の反対があろうが、いくら工 費が増加しようが、絶対に工事を中止したり計 画を撤回したりしない」ということを痛感させ られる現実であった。 ル」周辺では、2001年5月の着工直後から 道広島東IC間の延伸区間となる「福木トンネ 救 い 難 い 」 被 害 が 住 民 を 襲 っ た。 こ れ ら は ト や外壁の亀裂、道路や擁壁の亀裂など「深刻で は、宅地の不同沈下・住宅の傾斜・家屋の歪み 建設反対運動の軌跡 2001年秋、広島市議会決算特別委員会で 地盤沈下が発生。 年にはトンネル近傍の住宅 トンネル工事によって馬木8丁目の団地で 村上あつ子議員が「広島高速5号線(1999 で最大沈下量が ㌢にも達した。公社は、トン ネル直上に位置する中国電力広島変電所に被害 こうした状況のなかで、 年5月には被害住 害賠償」を求める運動を始めた。住民の訴えを 会」を結成し、公社に対し「原状復帰」と「損 07 150戸に被害を与えるに至っている。 広島市にとってはムダな公共工事。即刻中止す が及ぶとして掘削工事を中断したものの、被害 民らが「福木トンネル地盤沈下被害者対策協議 年にはトンネル周辺の水田で水量が不足 償」など何らの対策も講じなかった。 を受けた周辺住民には「経過説明」や「被害補 高速1号線(温品バイパス)の間所インターチ 広島高速5号線とは広島市東区を走る広島 べき」と追及した。これが、その後長く続く私 ン ネ ル 完 成 後 も 収 束 せ ず、 最 終 的 に は お よ そ 年3月都市計画決定)は、わずか4㌔の道路に 澤田 良平 たちの闘いの発端だった。 1千億円もの出費で、巨額の財政赤字を抱える 02 15 路公社によると「広島駅新幹線口と間所ICを に至る全長4㌔の有料道路である。広島高速道 対面通行)で抜け、同区の二葉の里・新幹線口 二葉山を1・8㌔のトンネル(上下各1車線の 抜けた田んぼに散水車で「給水」するという醜 「トンネルに並行する左右 本的な対策を施すことなく、一時しのぎで水の が発生したためである。これに対し、公社は根 によって地下水位が低下、近隣の水田で水漏れ トンネル工事による地盤沈下と地下水脈の分断 などを全国ネットの特番で報道した。 部屋のドアや冷蔵庫の扉が閉まらなくなる様子 ルフボールが勢いよく廊下や畳の上を転がり、 度の範囲」で被害 こ れ に 対 し 公 社 は、 自 ら が 一 方 的 に 決 め た 約4分で結び、広島空港へのアクセス改善と中 ェンジ(IC)から中山方面に分岐し、 尾長山・ し、稲作への影響が深刻化する事態も生じた。 受け、NHKや民放テレビ各局も、ビー玉やゴ 04 電所施設への悪影響を避ける」として 年には との因果関係を認めず、被害を受けた住民に対 を認めたものの、それ以外についてはトンネル 45 山・温品周辺の渋滞解消に寄与する重要な道路」 態まで演じたのである。この間も、公社は「変 という。 闘いの前史「 福 木 ト ン ネ ル 」 と こ ろ で、 同 1 号 線 馬 木 I C ~ 山 陽 自 動 車 掘削工法を変更し、掘削部(切羽)の土壌を硬 るなど住民敵視、情報隠蔽、責任回避の姿勢に しては「文句があるなら裁判で争え」と開き直 年9月に馬木IC~広島東IC間の延伸工事 結果、今日( 年2月現在)に至っても損害賠 終始。住民の怒りを増幅させることとなった。 化させる「薬液注入」で工事を再開。そうして 05 が完成し、1号線は全線開通した。しかし、事 2013. 3.22 88 13 06 ≪ 129 ≫ 償をめぐって当事者間の交渉が難航している。 県議会では「民主県政会」 人、「日本共産党」 ル」地盤災害の再来になるとして、何の関係も た。 1人(他に同党参院議員1人)が現地を視察し 月。「二葉山 トンネル」の建設は「 福木トンネ なかったトンネル周辺の住民・市民が「福木で 団結しよう」と反対運動に立ち上がったのであ て県議会では蒲原敏博議員(東区選出、当協議 環境省)への要請行動にも取り組んだ。連動し さらに、 年6月には中央省庁(国土交通省・ 一方、広島高速5号線「二葉山トンネル」を る。これには牛田東1丁目町内会・牛田東4丁 市民連絡協の 闘 い 始 ま る 年6 考える市民連絡協議会が結成されたのは 会顧問)が、市議会では前述の村上議員(東区 設は自然環境破壊・土砂災害発生・住民不在・ 選出、当協議会顧問)らが現地視察で得た知見 安全無視の無謀な計画だ。費用対効果も水増し 目町内会・牛田東3丁目・中山西2丁目の住民 同年7月には、運動の手始めとして市議会・ の『作文』であり絶対に認められない」と厳し 組織、広島高速5号線を考える会、二葉山の自 県議会などに対する「二葉山トンネル建設反対 人余りの住民が議会を傍 にした。講師陣は、越智秀二比治山女子学園中 題の「市民公開講座」を企画し、開催するよう 内会が「土石流・危険渓流ハザードマップ検証 とのあった牛田東地区で 雨による泥流にのみこまれて女性が死亡するこ 地元でも住民が動いた。1963年に集中豪 を新たにすることになった。 聴し、不誠実な答弁を繰り返す行政側への怒り く追及。このときは 署名」 万筆の集約に取り組み、短期間に目標 を達成して両議会議長に提出した。 こ れ を 契 機 に、 広 く 市 民、 県 民 に 運 動 を 広 学高校教諭、中根周歩広島大大学院教授、坂巻 年5月、同四丁目町 幸雄元通産省工業技術院地質研究所主任、奥西 げ理解と共感を得るため、私たちはトンネル問 60 10 住民らの問題に対する理解を手助けし、運動を をテーマに問題点の解明や指摘を受けたことは 災害・地下水低下・自然環境・景観破壊」など 柴崎直明福島大教授ら。「トンネル工事と地盤 の状況と地質を示し「この滑り台が示すように、 り台=なめら」となっている。越智さんは地山 け入った。谷間には花こう岩の岩盤が巨大な「滑 材するなか、住民 の一人、越智さんが同行し、マスコミ各社も取 人は団地上流部の水路に分 励ますものにもなった。 一夫京都大名誉教授、富井利安広島大名誉教授、 ハイキング」を主催。説明役として前述の講師 08 また、市議会・県議会への働き掛けも重視し 土砂崩れを起こし、いつ土石流が発生しても不 ここでゲリラ的集中豪雨が襲えば周辺の地盤が 「政和クラブ」 (当時)1人が現地視察に訪れた。 工事の危険性を指摘した。参加した住民は二葉 合」7人、 「日本共産党」5人、 「公明党」7人、 思議ではない」と自然災害を助長するトンネル て取り組んだ。その結果、市議会では「市民連 30 広島ジャーナリスト 15 や住民の不安や心配を取り上げ、「トンネル建 の経験に学び『トンネル建設反対』の一致点で 08 然を守る会などが参加した。 07 牛 田 東 1 丁 目( 左 上 奥 )と 同 3 丁 目( 手 前 ) の 団 地 の 地 下 ~ ㍍( 左 上 二 葉 山 か ら 画 面 右 下 ま で斜め に)をトンネルが掘られる 20 30 ≪ 130 ≫ 全検討委員会」の設置を公表。記者の質問に答 は、トンネル反対運動に勇気を与えるものにな まで5号線建設工事を凍結する」と約束したの 山トンネルがもたらす結果に不安を募らせると 日、 秋 え「 住 民 推 薦 委 員 を 含 む 委 員 会 の 結 論 が 出 る 年7月 ともに、この運動の正当性に確信を深めた。 こうした取り組みを経て 年9月、第1回「トンネル安 「トンネル安全検討委員会」発足 これを受けて 全検討委員会」が開催された。同委員会は 年 12 22 葉忠利広島市長(当時)が定例記者会見で住民 った。 2013. 3.22 09 08 要求に応える形で「広島高速5号線トンネル安 二葉山トンネル計画をめぐる動き ≪ 131 ≫ 8月まで9回にわたり開催された。 の進め方に警鐘と抗議を重ねてきた横山信二委 答申を提出した。 日には松井市長がトンネル沿線住民 ル推進を画策する行政の意を受け就任した吉国 実からも推し量れるように行政推薦委員全員は 責任が果たせない」と委員を辞任した。この事 にとどまっていては推薦をいただいた住民への 長は「私はトンネル着工を選挙公約にして当選 成させよ」との翼賛意見を述べさせた。松井市 地区の連合町内会代表らに「早くトンネルを完 これまでは声も出したことがない尾長・中山両 との話し合い に応じた。しかし、 その席には、 月 洋委員長と、その事務局を「牛耳る」広島高速 完全に行政に迎合し、ただ肩書きに箔をつけよ した。公約実現は市民への責任である」と公言 員(広島大法学部教授)は「このような委員会 道路公社は、この間の委員会のすべてでさまざ うとする卑しい御用学者ばかり。会議のたびに しかし、秋葉市長の思いとは裏腹に、トンネ ま口実を設けて民主的審議を阻害し、住民推薦 その本性を垣間見ることとなった。 例 え ば、 毎 回 の 委 員 会 開 催 時 に 事 務 局 が 準 線住民の多くは「この決定は認められない」と GO」を決定し、工事再開を発表。しかし、沿 この間、私たちの協議会は一貫して同委員会 公正中立・科学的学際的立場からその目的を達 して、 備する「検討資料」などは各委員に事前送付す うとはしなかった。 成するよう」求め続けた。しかし、回を重ねる 取って「トンネル着工差し止め」訴訟を広島地 が沿線住民の要求によって設置された本旨に基 京、京都から列車や航空機に乗った後であった に従い同委員会の目的は「トンネル安全検討委 る必要があるが、県外在住の住民推薦委員の手 月3日、広島県・広島市は「トンネル掘削 りした。抗議する委員に対し事務局は「事前に 員会」から「トンネル掘削検討委員会」へと変 づき「主権在民・住民生活の安全安心の確保・ 送付はしている」と開き直るが、本音は「うる 方裁判所に提起した。工事再開決定と差し止め 年2月末には広島高速道路公社を相手 さい住民推薦委員には事前に検討資料に目を通 質していった。 年 4 月、 自 民・ 公 明 党 を は じ め と す る 保 市長は就任早々「秋葉市政のすべてを消し去る」 提訴という新たな局面を迎え、私の住む牛田東 地区でも今、それにふさわしい運動の展開が求 との立場を鮮明にし、「トンネル安全検討委員 められている。 の「御用学者」集団であった。彼らは住民推薦 会」に「住民の安全を検証する」としたその役 守勢力は「二葉山トンネル推進」を公約に掲げ 委員の抗議に対し「先生のように優れたお方な 割を完全に放棄させた。 員から「パラパラと見て、その内容も精査せず 擁護する発言を行う始末だったが、住民推薦委 しなければならない」と主張、抗議したにもか 植生調査など課題が山積しており、審理は継続 る福木トンネル地盤沈下の検証、土石流災害・ 申し込みはファクス 082-231-3005 かメー ル [email protected] ▽紀伊国屋書 店広島店、フタバ図書などでも好評発売中 る松井一実氏を選挙で市長の座に据えた。松井 ら、例え事前送付が間に合わなくても、この会 会議に出席するのでは住民への責任が果たせな かわらず、吉国委員長らは行政が書いた筋書き 激増する米軍低空飛行 岡本幸信 人 か ら な る 行 政 推 薦 委 員 は、 文 字 ど お り 場で資料をパラパラとめくれば、おおよその内 年8月、住民推薦委員全員が「住民が求め い」と反論されると、後は何も言えなかった。 どおり「トンネルは安全に掘れる」との一方的 容はおわかりになるはずでは」などと事務局を 年 3 月、 あ ま り に も ひ ど い 委 員 会 の 審 議 特集「 『再稼働』と『瓦礫』を考える」 原発ゼロでも電力は大丈夫 滝史郎 脱原発へ決め手は「コスト」 木原省治 的に間に合わないようギリギリに送付していた させない」ことにあったようで、そのため意図 元に届くのは委員が広島に向かうため福島や東 し、トンネルに反対する市民の声に理解を示そ 委員の発言の機会を妨げ、排除し続けた。 30 13 特集「被爆地の思想は変わったか」 平和利用容認、自己批判が不足 平岡敬 求められる市民の結集 森瀧春子 原発含む核廃絶へ転換を 高橋博子 「原子力平和利用」と核兵器製造能力維持政 策 田中利幸 としか思えない。 11 12 広島ジャーナリスト 10 12 広島ジャーナリスト第 9 号 10 12 ≪ 132 ≫ 運動を通じて 得 た 教 訓 と 課 題 最後に、筆者なりにこの闘いを通じて知った 市民運動を進めるうえでの教訓や今後の課題と 思える点を列記し、同じような闘いを続けるみ なさんの参考に供したい。 員参加の住民運動」を構築することは困難とな 立・自主性・独自性を確保することなしに「全 以上の2点から分るように、運動体の政治的中 の結集を阻害する要因ともなっている。 が重要である。 係を大切にし、適宜必要な情報を提供すること 在であることを意識し、常に現場の記者との関 ためには、テレビや新聞の報道は大変有益な存 る。 ●「工事差し止め」訴訟の費用は提訴費用・ ●住民(市民)運動に加わるべき経験豊かな 弁護費用などで総額300万円が必要と聞いて 活動家(労働組合・民主団体などの活動経験者) いる。地裁で勝訴してもその費用は還らない。 もし、被告(行政)が控訴すれば原告は新たな などと使い古された醜い手法で口汚く個人攻撃 巻き込み、さまざまな場面で「協議会や住民推 裂させることで利益を得たい勢力は一部住民を られる。また、状況をきちんと分析するなどし 動を党勢拡大のキャンペーンに利用している」 家集団であり彼らと対等に交渉する能力が求め 薦委員は共産党員やそのシンパであり、反対運 て運動体の方針を立て、それを文書化し、信頼 場合が多い。これらの相手は、その分野の専門 地方公共団体や社会的影響力のある組織である のではなく、原告自らが立ち上がり、争点を学 かった経験から「裁判闘争は弁護団任せにする の「公金不当支出返還訴訟」で最高裁までたた これは私見だが、かつて所属した中国放送労 組での刑事弾圧裁判闘争や市民オンブズマンで られる。なぜなら、住民運動の相手方の多くは、 なる費用負担が原告に求められる。 負担が発生する。そして最高裁に上告すれば更 を繰り返し、いわれなき誹謗・中傷を流布する 習し、地域と全国にその運動を広げるという自 が不足している。特に、自然科学・人文科学・ ●住民(市民)運動は、もともと「超 党派」 の運動である。ところが、この運動を妨害し分 社会科学に立脚した理論と経験の持ち主が求め ビラの全戸配布までしたのである。最近では、 を培い人々を結集する能力も求められる。 ●共通する課題で運動を展開している全国各 地の住民(市民)団体との連携や経験交流を通 裁判は絶対に勝てない」ということを忘れては と。そして「 法廷内だけに目が向 いていては、 覚的・組織的力量が厳しく問われる」というこ 上「トンネルに反対する住民は気狂い集団」と じ、運動を発展させることを視野に入れて進め 地元選出の間所了県議が県議会建設委員会の席 発言(不適切として2日後に取り消し、議事録 ならない、と思っている。 る。例えば、当協議会は 年 月、加盟する道 には不記載となった)し、議会内はもとより地 路住民運動全国連絡会(道路全国連)と協力し、 (さわだ・ りょうへい 広島高速 5号線「二葉 場を組織に押し付け、私物化を図っている。本 正しい情報を届け、お互いに共通認識を持つよ ●運動をリードする機関紙などによる広報活 動を充実させ、運動体を構成する一人ひとりに で、運動の意義を広く一般市民に知ってもらう CJ会員) 山トンネル」を考える市民連絡協議会代表、J 広島市において第 回「全国交流集会INヒロ 来、そうしたことは「住民自治・近隣親善・相 う心掛け る。同時に、「情報化」時 代にあって シマ」を開催した。 互扶助の精神で団結する」という町内会・自治 ●多くの町内会・自治会では地元選出議員を 顧問や相談役としている。彼らはその政治的立 域住民からも厳しい批判の声を浴びるといった 11 ことも起きている。 12 会組織のあり方を打ち崩すものである。 加えて、 も私たち住民自身はマスメディアを持たないの 組織自体の非民主的運営が若者や良心的な住民 2013. 3.22 38 なった。中学を卒業して市内の看 れたばかりの妹も飢餓の中で亡く は自宅の下敷きになり死亡、生ま 感をよび、ロングセラーとなった。 姿は子どもから大人まで幅広い共 負けずに前を向いて生きるゲンの き上げた。原爆後の悲惨な状況に して上京。原爆とは無縁の漫画を 界で読まれている。2012年度 仏語など十数カ国語に翻訳され世 英 語 や ロ シ ア 語、 韓 国・ 朝 鮮 語、 年 スイベントだった。 じたそのままをビュジュアルに語った。泣きな から、こんな話をうかがった。「最近、主人と、 の場の雰囲気は一変した。中沢さんは、見て感 20 広島ジャーナリスト 「はだしのゲン」で「原爆」告発 板屋で働いた後、 年漫画家を志 描いていたが、母の死の際、火葬 中沢啓治さん死去 後に粉々になった骨を見て「死ん 日午後2時 から広島市の平和教育の教材に使 月 分、肺がんのため広島市民病院で でからも骨まで奪うピカ」への怒 われている。 2012年 歳。自宅は広島市 りから原爆を描こうと決意。 年 亡くなった。 日近親者で 中区三川町。葬儀は 晩年は白内障による視力の低 「黒い雨にうたれて」を皮切りに 漫画家引退を表明した。代わって た。 被爆体験を基に戦争反対を訴える 下で執筆活動から遠ざかり、 営まれた。 発表した。 を経ながらコミック本で 巻を描 んだねという話になってね、そしたら(主人は) にとっては、人生を大きく変えた出会いだった 『時間じゃないんだよ』って言ってたのよ」。私 し、とても中身の濃い4年だった。 証言で雰囲気一変 初 め て 中 沢 啓 治 さ ん の 話 を 聞 い た の は、 ますよ」と話したばかりだった。突然の死は衝 どを占めていた。中沢さんの証言が始まるとそ 代を中心に若者がほとん 撃だった。お悔やみの席で奥さんのミサヨさん 年8月6日にクラブ「ムゲン」で行われたピー なられる数日前、入院先の病室で、届いたばか 久仁ちゃんたちと出会って4年しか経ってない 載開始から 年になるからますます忙しくなり 09 りの最新刊「はだしのゲン わたしの遺書」を 手に「2013年6月で『はだしのゲン』が連 歳。肺がんだった。亡く 日、漫画家・中沢啓治さん 40 10 73 原爆をテーマにした漫画を次々に 1939年、現在の広島市中区 舟入本町で生まれた。神崎国民学 講演や証言活動に力を入れてい 校門付近で被爆。門塀の陰になり 校(現市立神崎小学校)1年の時、 年、週刊少年ジャンプに「は だしのゲン」の連載を開始。中断 る 少 年 を 描 い た 漫 画「 は だ し の 奇跡的に助かったが、父と姉、弟 なかざわ けいじ 61 渡部 久仁子 広島原爆の被爆体験を基に、原 爆投下後の広島でたくましく生き 10 人生を大きく変えた出会い 月 68 19 ゲ ン 」 の 作 者、 中 沢 啓 治 さ ん が 2012年 12 が亡くなった。享年 19 73 07 21 12 73 私の中沢啓治さん ≪ 133 ≫ ≪ 134 ≫ がら聞いている人も少なくなかった。 の方々の証言が漫画の絵や登場人物と重なり、 に観てもらおうと思ったら、ただ(無料)であ れた。その場にいた全員がその言葉に共感し、 ば、ちゃんとした形で後世に残るしね」と言わ る方が真剣に観るし、大事にする。作品にすれ げないほうがいい。映画にしてお金を払って観 よりリアルに感じられた。 自らを被写体に 今 で も そ の 講 演 が 忘 れ ら れ な い。 あ ん な に 生々しく熱い戦争の記憶を聞いたことがなかっ た。そして、あんなに堂々と怒っている被爆者 に会ったことがなかった。 今までいかに戦争を、 で中沢啓治さんの被爆体験の記録を 動くことになった。私がプロデューサーとなり、 Hiroshima 撮るという話を聞いた時、すぐにかかわらせて 同世代の撮影スタッフだった石田優子さんが初 ほしいと頼んだ。ふだんの中沢さんは、「ゲン」 監督を務めることになった。当初の予定よりも ANT- その日からドキュメンタリー映画にするために 多くのシーンを撮影することが決まった。中沢 年 に、 母 が 代 表 を 務 め る N P O 法 人 月6日の惨状だけでなく、戦後の焼け野原の広 がそのまま大きくなった感じで、飾らずとても さんは、後日追加で撮影したいと申し出たとき すぐに「はだしのゲン」を再読し、小学生の ヒロシマを知らなかったかを実感させられた。 島で全てを失いながらも必死に生きる人々が丁 和やかな印象だった。中沢さんはそのころ、白 とき以来読んでいなかったことを後悔した。8 寧に描かれている。中沢さんの講演の後に「は も、原画を使いたいと言ったときも快諾してく 6歳の記憶 ださった。 内障と緑内障の併発に神経痛も重なり、「はだ しのゲン」2部3部の構想はあるも のの断筆を余儀なくされた時期だっ た。 中 沢 さ ん は 漫 画 を 描 く 代 わ り に 自らが被写体となって自分の想いを 友子さんを荼毘に付した川岸に立った中沢さん だび 忘 れ ら れ な い の が、 江 波 で の 撮 影 だ。 妹 の 被 爆 当 時 の 話 に な る と、 顔 つ き も 厳 伝えようと撮影に臨んでくださった。 し く な り、 堰 を 切 っ た よ う に 話 さ れ 月の寒い日に、妹の友子を火葬しようと け 哀 し い 体 験 を し、 も が き 苦 し み な ど だ っ た。 聞 け ば 聞 く ほ ど、 ど れ だ 活。 そ の 勢 い に 圧 倒 さ れ て し ま う ほ れる被爆の惨状とその後の厳しい生 しょうがね」「死体があちこちに沈んでいてね、 らね、孫もいておばあちゃんになっているんで ないものかと思いました。…友子も生きていた から木を拾ってきては組んでね。こんなに燃え してね。なかなか燃えないんですよ。あちこち 「 は、哀歓漂う表情だった。 がら漫画作品が生み出されたのかを その中に手を突っ込むんですよ。でっかいアサ た。 昨 日 の こ と の よ う に 克 明 に 話 さ 思 い 知 ら さ れ た。 そ し て、 次 世 代 に 中沢さんがとめどなく話してくださるので ているんでしょうね。もう、共食いですよ」 リが採れてね。人間の死骸を食べて大きくなっ 12 託す想いの深さに胸が熱くなった。 撮 影 初 日 の 打 ち 上 げ で、 麦 焼 酎 を 飲 み な が ら 中 沢 さ ん が「 世 界 中 の 人 2013. 3.22 09 だしのゲン」を読むと、今まで出会った被爆者 トークイベントで語る中沢さん。右は筆者 (2012 年5月、横川シネマ) ≪ 135 ≫ さんは6歳だったのだ。そのことに今更ながら それまで意識していなかったのだが、当時中沢 た後も、治療を続けながら映画を普及させる活 映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」が完成し 昨年5月の横川シネマでの映画上映後のトー クイベントでの発言を紹介する。 記者の方に渡してくださった。公開と同時に販 も聞くこともしゃべることも出来ず、がんじが 「言論の自由はありがたい。戦前は見ること 中沢さん語録 売を開始したDVDにいたっては、中沢さん自 気 付 い て、 そ こ で は ま と も に 声 が か け ら れ な 動に惜しみない協力をいただいた。試写会や舞 か っ た。 そ し て、 こ の 日 の 撮 影 終 了 後、 私 は、 台挨拶だけでなく、ご自宅の必ず目に留まる場 所に映画ポスターを貼り、取材の度にチラシを 「僕は次の世代が、平和がいかに大切かとい 中沢さんに肺がんが見つかったと知った。 うことさえ分かってくれれば、自分の役割は果 ことか、しっかり身につけてほしい」「しっか いく。 『こういうことがあったんだ、 これはやっ いる。漫画は読みやすい。だから素直に入って れには漫画がひとつの役目を果たせると思って ていく世代を育てていかなくちゃいけない。そ くらいの核が既にあるんだから、それを無くし 雨にうたれて』と『はだしのゲン』を読んでは 貴一主演で作りたいということだった。「『黒い たのは「黒い雨にうたれて」の実写映画を中井 は、もっぱら映画と漫画だった。いつも話され ご自宅に行くたびに夕飯をごちそうになるよ うになったのもこのころからだ。食事中の話題 くださった。 いを後世に伝えていかなくてはいけない。それ だけ悲惨な想いをしたか、それらの人たちの思 に、今の広島がある。戦争に駆り出されてどれ 気概を持ってほしい」「たくさんの犠牲のうえ に戻す)動きに対して噛み付いていくぐらいの い。若者もそれに気付いてほしい。そういう (昔 り日本国憲法を守って、二度とああいう昔の世 は自由にものが言える。それがどんなに大事な らめにされて、戦争に突入した。今の若者たち たせたと思う。戦争は絶対にいけない。核兵器 ら講演先に販売をかけあって、私も奥様のミサ は特にそうだ。今あれを一発使われたら、広島、 ヨさんとともに同行させていただいた。講演後 には、必ずその場でサインして販売に協力して ぱりなくさなきゃいけない』 。そういう気持ち じめて言いたいことが伝わる」「漫画を読んで は、あなたたち若い世代の責任になる」 「戦争 長崎の破壊力じゃないからね。地球が滅亡する が子どもたちの心に根付いてくれたら作者みょ さえもらえれば伝わる。伝われば分かる。そう も 原 爆 も 人 災。 広 島・ 長 崎 の 教 訓 を 生 か す な 界に戻さない若者を僕らは育てないといけな うりに尽きる」 いうふうに描いたんだから」が口癖だった。そ して、「ありのままの久仁ちゃんが一番いいん ら、放射能影響を実証していかなくてはいけな だから。思ったことを思いっきりやったらいい」 い」「チェルノブイリにも行った。放射能は消 この言葉で映画の撮影は締めくくられた。 映画の完成後 も と必ず励ましてくださった。 いっきりやってみなさい」 。そう私たちに託さ 椅子に酸素ボンベを付けた状態で講演に出向い になる原子炉を無くしていくという努力を続け 沙汰。無くさなくちゃいけない。核兵器のもと 最後の最後まで精力的に講演活動をされた。 う考えに突き当たった。地震大国の日本列島で 昨年の9月まで、奥さんのミサヨさんが押す車 これだけ原発がいっぱいあるというのは狂気の えない。原子炉は人間の手で制御出来ないとい 「これは僕の遺言だから。言いたいことはす れて中沢さんは治療に入った。一時厳しい時期 ておられた。対象が、次世代の若者や子どもた べ て 言 っ た。 あ と は 若 い 世 代 が 思 う ま ま に 思 もあったが、奇跡的に回復された。ご自身の体 て い な い。 若 い 世 代 が 海 外 に 出 向 い て い っ て 、 てほしい」「戦争と原爆の実態というのは伝わっ 調がすぐれないにもかかわらず、映画製作をす ち、それを教える先生たちの場合は、聴衆の規 る私たちを励まし続けてくださった。そして、 模を問わずに出かけた。 広島ジャーナリスト ドキュメンタリーとして、映画「はだしのゲン 周年になる。中沢さんは、今年の6月に広島で 伝えていく役目を果たしてほしい」 らと願っている。 知ってほしい。 中沢さんの想いを伝えることが、 沢さんの実体験を基に描かれていることを広く 映 画 を 通 じ て、 漫 画「 は だ し の ゲ ン 」 が 中 が見たヒロシマ」が存在し続けることが出来た 熱い口調で語った。若者たちから「 『はだし 記念講演をする計画だった。「僕の代わりにゲ のゲン』 が中沢さんの体験を基に描かれていて、 ンが世界中を飛び回っているからね」とご本人 が言われるように「はだしのゲン」は現在 カ 国語に翻訳され、新たに中国語などの翻訳・出 本当のことだったと分かった」 「戦争や原爆が 版が進められている。戦争と原爆の恐ろしさを と信じている。そして「はだしのゲン」のよう 二度と起こらない平和な世界にしたい」「ちゃ に、寒い冬に踏まれても踏まれても大地にしっ 戦争と原爆を再び繰り返さない種をまくことだ いった感想が寄せられた。中沢さんは「体調さ 伝え、同時に、生きる勇気を与える作品として え良ければいつでも話しにいくんだけどね」と、 今後も世界中で読み継がれるだろう。被爆者の んと勉強して、周りの人に伝えていきたい」と 方々が高齢化するにつれ、今まで以上にこれか かり根をはり、まっすぐのびる麦のように強い 13 ら「はだしのゲン」が果たす役割が大きくなる 病床にあっても、講演に意欲的だった。 13 が完結した「はだしのゲン」は、今年で生誕 「はだしのゲン」の父の原型 堀田 伸永 と感じている。 意志を育てる一助になりたいと思っている。 今年はゲン生誕 年 今 年 6 月 に は 広 島 で「 は だ し の ゲ ン 」 周 私は、中沢さんが人生をかけて描いた「はだ しのゲン」をはじめとする漫画作品を広くみん 年記念イベントを計画している。 1 9 7 3 年 6 月 4 日「 週 刊 少 年 ジ ャ ン プ 号」から連載が開始され、 年をかけて「1部」 なに読んでいただきたい。読んだことがある人 (わたなべ・くにこ 株式会社トモコーポレー にも繰り返し再読してもらうきっかけを与える ション代表取締役) 25 40 95 手 が か り と な る の は、 広 島 県 内 の 社 会 運 動 消費組合運動の先駆者のひとり を拾い読むことができる。 ると、中沢氏が語っていた晴海像とは違う経歴 ろが、晴海について記述した数少ない文献を辿 40 の研究者として知られた山木茂の遺著「広島県 2013. 3.22 40 中沢晴海の足跡を追う 28 啓治氏が繰り返し語っていたこと た。 中 沢 氏 は、 最 初 の 自 伝「『 ヒ ロ シ マ 』 の 空 解放のいしずえ」 ( 年)や「広島県社会運動史」 生前の中は沢 るみ に、父・晴海のことがある。晴海は、中沢氏の 白 中沢家始末記 」( 年8月、日本図 書セン ( 年、労働旬報社)のみだ。戦前の活動家や 代表作「はだしのゲン」の主人公「中岡元」の ター、 年に教育史料出版会から「はだしのゲ 関係者、文献から個人の経歴をおこした「広島 父「中岡大吉」のモデルとされている。晴海は、 ン自伝」として再刊)などでも、晴海のことを 県解放のいしずえ」によると、晴海の社会運動 まきえ 日の生まれで、蒔絵職人だっ 日本画家、新劇の俳優などと語っていた。とこ での経歴には、「広島消費組合には準備会時代 1901年7月 87 70 73 ≪ 136 ≫ ≪ 137 ≫ から関係、創立から理事となり」という記述が あざ 八重村 旧 ( ・千代田町、現・北広島町 字 ) 寺尾 出身。旧制広島高等学校内の社会科学研究会を イ タ ー。 ヒ バ ク 史 情 報 電 子 雑 誌 ほ っ た・ の ぶ な が 1 9 5 6 年 生 ま れ。 現 代 史 調 査 ラ 「 ニ ュ ー ク ス ト リ ア 」 編 集 者。 著 年) 、 作 に「 文 化 運 動 に お け る 統 一 戦 線 へ の 歴 史 的 模 索 」( 「戦後放射線影響調査の光と影」 (2011年)など。 傘下の組織であったことから、晴海もやがて日 したというのも珍しいことではなかった。 いた。晴海が日本画家でありながら新劇に関与 でありながら演出・戯曲執筆も行うという人も 名と という。 「はだしのゲン」のなかでゲン一家を とされている。朝鮮人もわずかに含まれていた ア作家同盟の広島での組織もつくられて、日本 の日本プロレタリア演劇同盟、日本プロレタリ 加盟する全日本無産者芸術連盟(ナップ)関連 キャプションには、「父が演劇活動していた劇 と い う 晴 海 も 写 っ た 集 合 写 真 が 載 っ て い る。 啓 治 氏 の 最 初 の 自 伝「 『ヒロシマ』の空白 中 沢 家 始 末 記 」 の 巻 頭 口 絵 に は「 劇 団 員 写 真 」 うした相互扶助のつきあいのある朝鮮人のひと 助ける朝鮮人の隣人・朴が描かれているが、そ プロレタリア映画同盟の上映会も行われるな 団員と。演技指導に講師として来られた若き日 ねるナップ広島協議会議長としても活動。画家 中野療養所で死去)で、各ジャンルの組織を束 とになる。啓治氏の自伝には、晴海も新協劇団 あり、新協劇団の団員が指導に訪れたというこ こ の 記 述 を 解 釈 す れ ば、 広 島 に 市 民 劇 団 が 当時、新協劇団の団員だった。 ど、 芸 術 ジ ャ ン ル を 超 え た 運 動 が 展 開 さ れ て 月 日に東京 の丸木位里もいた広島プロレタリア劇場が日本 の 劇 団 員 で あ っ た よ う な 記 述 が あ り、 キ ャ プ 虐待による肺病が悪化し、 年 プロレタリア演劇同盟支部に発展するなど晴海 ションの記述とは矛盾する。晴海も俳優であっ 25 の周辺には演劇の関係者も少なくなかったよう 11 りがモデルとなっているのかもしれない。 日、 山 県 郡 26 35 の宇野重吉氏」 「滝沢修氏」 「小沢栄太郎氏」 (引 広 島 で は、 日 本 プ ロ レ タ リ ア 美 術 家 同 盟 も を連ねる。 リア美術家同盟広島支部が結成され、晴海も名 31 用者注=「小沢栄」 ) 「の各氏」とある。3人は、 海軍内の反戦活動指導部と繋がり 晴海らとともに広島消費組合の設立に尽力 した京大生の名は、 「寺尾一幹」 。海軍内の反戦 活動など広島県の戦前の社会運動史に関心のあ 月 る方なら記憶にある名前のはずだ。 寺 尾 一 幹 は、 1 9 0 8 年 10 広島ジャーナリスト ある。 再建し、京都帝大経済学部に入学。その後非合 ト」の配布を指導した共産党の中国地方の指導 だ。 演 劇 は ポ ス タ ー や チ ラ シ な ど の 宣 伝 美 術、 がっていたのだ。広島消費組合は、日本共産党 本共産党の影響下にある文化運動に関与してい 舞台美術とも関係があることから美術関係者が 生の広島市舟入町の自宅に晴海らが出入りして の影響下にある「日本無産者消費組合聯合会」 数多く関与していた。村山知義のように美術家 消費組合の中心的活動家で日本共産党員で くことになった。 年2月には、日本プロレタ あった玖島三一の 年の分裂と弾圧の後は組合員はわずかに 34 いった。日本プロレタリア美術家同盟広島支部 小さかったが、晴海は消費組合を受け継いだ人 36 の支部長は、美術学校出身の万田稔(獄内での 地方劇団の俳優として 年7月の出獄歓迎会を兼ね たものだ。 いるうちに、この京大生の提案により設立され 晴海は軍隊内の反戦グループと間接的に繋 83 「生活必需品の購入、生産、利用、販売」な 年2月の京都学生共産 ど を 事 業 と す る 広 島 消 費 組 合 の 設 立 は、 年 法の日本共産党に入党。軍艦内で反戦と水兵の そび 7月。 「広島県社会運動史」の「広島消費組合」 人権擁護、待遇改善を訴えた新聞「聳ゆるマス の関連項目によると、 31 党事件 二 ( 月事件)で検挙され、停学と な り、 部のひとりだ。 病気のため執行停止となって帰省していた京大 30 た理事会の記述に晴海の名前が載っている。 33 ≪ 138 ≫ たとすれば、広島の市民劇団に所属して活動す ただろう。 づくりを急ぐ当局には望ましいことではなかっ 宇野重吉、滝沢修、小沢栄太郎を含む演劇関係 年 8 月、 晴 海 と 一 緒 に 写 真 に 写 っ て い た 「新劇事件」と 移動演劇「桜隊」殉難まで る傍ら、新協劇団の地方公演でもエキストラと して舞台に立つことが許されていた可能性も少 なくない。晴海が所属していた広島の劇団につ いて当時活動していた「劇団十一人座」ではな いかとする説もあるが、確定する根拠を得てい ない。 新協劇団には観客による後援会組織が広島 「 新 築 地 劇 団 」 は、 されている。 年までは、新協劇団の 母体である劇団「左翼劇場」とともに日本プロ レタリア演劇同盟加盟の劇団として活動し、日 本プロレタリア演劇同盟解散後も同じ名称を 守って日本の新劇の一翼を担っていた。 新 協 劇 団・ 新 築 地 劇 団 は、 共 通 す る 新 劇 の フ ァ ン に 支 持 さ れ な が ら、 互 い に 競 合 し つ つ 入していたと推察される。新協劇団広島後援会 擁していた。晴海も新協劇団広島後援会にも加 置所」に「未決囚として投獄」されていたとい ら開戦直前の 年 れたことが書かれている。晴海は、 年8月か 啓治氏の自伝には、この事件に晴海が巻き込ま のと考えられる。晴海が新協劇団だけでなく新 らの公演にも駆けつけるという状況があったも をサポートしたりするなどいくらかの人的交流 たり、演出などでスタッフの人員が一方の劇団 者が一斉に検挙された「新劇事件」が起こる。 も、主要メンバーは、築地小劇場を共同管理し の活動内容について、 「広島県社会運動史」に う。法政大学大原社会問題研究所編「日本労働 40 月まで「県庁内にあった拘 11 年9月の新協劇団俳優らを招いた催しの際 新劇」には「新協劇団広島後援会の九名」の 検挙があったことが記述されている。一方、新 築地劇団の関係者と交流していた可能性も否定 できない。 「新劇事件」で逮捕された新築地劇団の関係 者のリストの中に「八田元夫」 「池田生二」の の公演に客演していた仲みどりも陸軍の戦地慰 者も移動演劇へと移行していった。新築地劇団 事件で検挙された人々も含む新築地劇団の関係 団の強制的な再編が行われ、八田や池田ら新劇 事件」の後、日本移動演劇連盟への劇団・芸能 散る」を見た人は見覚えがあるだろう。「新劇 劇事件について、山木の「広島県社会運動史」 名前も見える。新藤兼人監督の映画「さくら隊 にも「新協劇団後援会事件」として項目が設け られているが、後援会世話人の大藤軍一が8月 日検挙され、「起訴」「実刑を科せられた」と 新劇事件での地方の劇団後援会関係者の逮 あるのみで、晴海の名前はない。 捕は、「新築 地劇団」の後援会に も及んだ。大 年に結成さ れたものであり、村山知義、久保栄らの演出に 問団への参加を経て、八田や池田とともに、丸 年8月6日、移動演劇「桜隊」は、 晴海一家と同じように人類史上初めての原爆の そして 築地劇団大阪後援会の4人が逮捕されている。 山定夫らの移動演劇「桜隊」に参加していく。 阪では、新協劇団関西後援会の4人に加えて新 く 年だけで、約7万人の より、劇団が活動した6年間の公演延べ日数は 劇大同団結の提唱」にもとづいて 盟の劇団 「左翼劇場」 を母体とし、 村山知義の「新 新 協 劇 団 は、 日 本 プ ロ レ タ リ ア 演 劇 同 盟 加 に撮られた可能性もある。 て いる。 「 『ヒロシマ』の空白 中沢家始末記」の 巻頭口絵の「劇団員写真」は、服装から推察し 広島医師会館などで数回ひらいた」と書かれて 公会堂で滝沢修、小沢栄、松本克平など出席し 年鑑 特集版 太平洋戦 争下の労働運動」( て 講 演 会、 ま た、 『 ド ン 底 』 な ど の 朗 読 会 を、 年、 労 働 旬 報 社 )「 第 五 章 芸 術 運 動、 第 一 節 41 静岡でも新協劇団・新築地劇団後援会の8人、 369日。解散前年の 65 もあった。また、地方の観客は、両劇団のどち は「 一 九 三 九( 昭 和 一 四 ) 年 」 「 九 月 八 日、 宇 もつくられ、約1200人を 34 野重吉を中心とした座談会、九月一三日、広島 を含めて全国に 40 京都でも両劇団後援会関係の3人の検挙が列記 39 が影響力を維持し続けることは戦争遂行の態勢 2013. 3.22 21 観客を動員していた。左翼系の流れを汲む劇団 45 34 20 39 ≪ 139 ≫ 小津安二郎監督の「東京物語」 (1953 年)を モチーフにつくられた。 そんなことを聞けば、 下世話な話だが「どこが似てどこが違う」と か、やっぱり小津にはかなわないとか、つい 見比べてしまう。いったいなぜ山田監督はこ アングル 最近公開の山田洋次監督「東京家族」は故 は、戦後 10 年もたたない時代と現在とを比 べれば無理からぬことであろう。ちなみに山 田作品では、二人の出会いの後景に東日本大 震災を置いた。 「帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史」 (与那覇潤著、2011 年)によると、日中戦争 初期に兵士であった小津は決して戦場シーン んな損な役回りを引き受けたのだろう。 を撮らなかった。これは、生涯家庭を持たな 督 358 人が選ぶ最も優れた映画に 「東京物語」 かった小津がホームドラマを一貫して撮り続 が選ばれたというニュースが流れた。英国映 けたのと、逆の現象ともいえる。ただ「東京 画協会発行誌の評価は「家族と時間と喪失に 物語」の紀子の存在でも分かるように、小津 関する普遍的な作品」というものだった。平 作品には必ずと言っていいほど「戦争」の影 たく言えば都市と地方の構図の中で進む家族 の崩壊と、それを凝視する諦観もしくはニヒ リズム―といったところか。この点「東京家 族」は味付けが薄く、小津が骨太の水墨画と したら山田は水彩画のようでもある。 かどうか知る由もないが、都市と地方、ある いは中央と辺境の構図の中で近代化を凝視す る視線は似ていなくもない。 さて、小津作品と山田作品のストーリー上 小津と近代と戦争 れ」とうたった。谷川が「東京物語」を見た 「東京物語」公開の翌年に谷川雁が詩集「大 地の商人」で「東京へゆくな ふるさとを創 銀幕の向こう側 で、その比較である。昨年夏、世界の監 がちらつく。しかしなぜか、小津作品では「戦 争」の影の濃さと世間の評価が反比例する。 小津にはもう一本、題名に「東京」をかぶ せた作品がある。「東京暮色」(1957 年)で ある。周吉(笠智衆)が戦時中ソウルに赴任 中、妻の喜久子(山田五十鈴)が不倫、出奔 する。戦後に事実を知った次女(有馬稲子) は事故死(事実上の自殺)をとげる。直接的 ではないが、かなり「戦争」の色が濃い。そ の分、やはり?世間の評価は低く、その年の キネマ旬報の 10 位内にも入らなかった。 ともあれ、小津作品の中に「戦争」の影を 4 の最大の違いは、戦争で死んだ次男・昌二の 見ていくと、ホームドラマ一辺倒に思えた作 妻紀子(原節子)が、舞台美術に情熱を燃や 品群が時代性を持って立ち上がってくる。実 4 す次男・昌次(妻夫木聡)と恋人紀子(蒼井 はそのあたりの輪郭の濃さも、山田洋次作品 優)―という設定に変わっている点だ。これ とはやや違っている。 (真崎哲) 晴 海 は、 広 島 市 中 区 小 網 町 の 平 和 大 通 り 緑 広島ジャーナリスト 惨禍にみまわれる。 地帯にある「解放運動無名戦士の碑」に合祀さ れている。そのことは、啓治氏の自伝にも取り 上げられ、「 漫画『はだしのゲン』 を歩く」と 題するウェブページにも原爆ドームなどととも に紹介されている。一方、原爆により亡くなっ た「桜隊」の人々は、中区小町の平和大通り緑 地帯の「移動演劇さくら隊殉難碑」に名を刻ま れている。 晴海と啓治氏の二世代にわたる偉業を振り 申し込みはファクス 082-231-3005 かメー ル [email protected] ▽紀伊国屋書 店広島店、フタバ図書などでも好評発売中 返り、晴海氏と同じ戦前の新劇の抵抗期をとも 「庄野直美」私論 宇吹暁 連載「南海日日新聞の軌跡」㊥ 「防衛」が漂流する 真崎哲 発掘調査問題の置き去り憂う 後藤研一 にした演劇人たちの慰霊のためにも、ふたつの 特集「放影研『黒い雨』データ公開を」 「碑」に数多くの新劇ファンや「はだしのゲン」 特集「震災・原発 1 年」 福島復興 農業が鍵 齋藤紀 大事なのは人間の復興 丹波史紀 流さなくてもいい余計な涙 青木達也 脱原発世界会議に参加して 青木克明 の愛読者が訪れることを期待する。 広島ジャーナリスト第 8 号 山田忠文さん死去 やまだ ただふみ 広島アジア友好学院理事長の山田忠文さん 月4日、広島 判支援、在外被爆者支援、朝鮮人強制連行の 記録発掘などに力を注いだ。東北アジア情報 センター運営委員。 メンバーである「広島の強制連行を調査す る会」が昨年、広島県内での朝鮮人移住・強 制連行に関する新聞記事データベースを完成 が 市内の病院で胃が 中庭から平和公園に移植された被爆アオギリ 年から、旧広島逓信局(広島市中区東白島町) させた際、本誌第8号に寄稿した。1991 歳。広島県 んのため亡くなっ た。 甲田町(現・安芸 ずさわった。 ワークピア広島で開かれた。 そのころ彼は「胃のバイパス手術で少し食べら 委員長をしていたというので頭が固いのかと 思ったら、ざっくばらんで話しやすい人でした。 当時私が所属していた「韓国の原爆被害者を救 援する市民の会」での最大の課題は韓国・平沢 に多数居住していた元三菱徴用工被爆者の問題 でした。交渉してもらちが明かず裁判の準備を していました。共同代表は深川宗俊さん、石田 明さんにお願いしました。会の要の事務局長に 月 に「 三 菱 広 島・ 元 徴 用 工 被 は、三菱広島の元委員長であった山田さんにお 1995年 願いしました。 爆者を支援する会」を設立し広島地裁に提訴し ました。山田さんは「私が被告の三菱の労働組 合で活動していたこともあって会の重責を担わ されたが、国家の政治を左右する極めて大きな 課題を下級審で決着させるのはしょせん不可能 であることは最初から覚悟の提訴であった」と、 人の元徴用工被爆者が①労働し 元気いっぱいでした。 裁判では ました。 年3月に全面敗訴、ただちに控訴し ていた時の賃金や貯金を返してほしい②日本に 帯で了承をとり、病院に行ってもらいました。 いる被爆者と同等の援護をしてほしい―と訴え 豊永恵三郎 12 高 田 市 ) 生 ま れ。 の種を発芽させた苗を全国に配る運動にもた 三菱重工広島精機製作所で労働運動と取り組 しの み、全造船広島精機分会委員長。退職後は被 「山田忠 文さんを 偲ぶ広島の 集い」が、3 月 日午後1時半から広島市南区金屋町の 爆者の沼田鈴子さんを支え広島アジア友好学 山 田 忠 文 さ ん を 語 る の は 大 変 難 し い。 多 方 アボジたちと見守って 院を設立。三菱広島韓国人元徴用工被爆者裁 16 です。 昨年 月 末、 彼 の 入 院 を 知 っ て な ん と か 会 東北アジア情報センターによる小冊子発行など アオギリを広める運動、故沼田鈴子さんとの広 れるようになった。 月初旬には家に帰りたい」 2005年1月広島高裁で一部勝訴しました。 島アジア友好学園設立、 モンゴルの留学生支援、 と言っていました。 月4日に是非会いたいと ①のいわゆる戦後補償は敗訴、②はほぼ勝訴で 思い連絡しましたが、返信はありませんでした。 した。判決は「国は1974年に402号通達 面で活躍されていたからです。組合運動、被爆 46 12 いたいという連絡が何人かから入りました。看 もう他界していたのを後で知りました。彼には 手帳を無効とし、すべての援護を打ち切るとし を発出し、在外被爆者が居住国に帰ったら原爆 のこ 万円は弁護士費用)の賠 いままになったことを悔やみます。 り120万円(うち 言い遺したことが多々あったはずです。聴けな 年 以 上 に な り ま す。 組 合 の たのは国家賠償に当たる」とし、原告1人あた 彼との交流は 20 2013. 3.22 99 71 病の娘さんと連絡をとり、本人にもメールや携 30 11 12 12 ≪ 140 ≫ ≪ 141 ≫ 償を命じました。 年7月には最高裁でも勝訴 ぎ ま し た。 深 川 さ ん、 石 田 さ ん、「 市 民 の 会 」 徴用工被爆者5人が釜山にあった三菱を相手に 提訴し1審、2審敗訴から逆転勝訴したのです。 今年1月末に弁護団と平沢に行き、徴用工だっ の松井義子さんです。続いて山田さんです。 多数の人が亡くなった在韓被爆者にも明る た人の息子さんたち(被爆2世) 人ぐらいと 裁判所は「原爆被害者の賠償請求権を実現する 闘っていくと述べていました。おおいに期待し 会いました。自分たちで会を再編成し、三菱と 内海隆男 広島でどんな調査報告ができるのかなど 宇 品 の 水 族 館 が あ っ た 場 所 で は、 山 田 さ ん と正木さんと私の3人が行った。掘られた洞窟 広島ジャーナリスト しました。これはすべての在外被爆者に該当す るもので、以後の和解交渉で約3千人以上に支 い光が射してきました。 年8月、韓国の憲法 年 間 に わ た る「 三 菱 裁 判 」 は 過 酷 な も の ことによって歴史的正義を立て直し、侵害され 払われました。 人の原告で最高裁の判決を聞 人だけでした。支援者の他界も相次 盧泰愚韓国大統領が1990年に来日した 時、戦時中に強制連行された朝鮮人の名簿提出 まったく考えないまま、よく開催を引き受けた 要請があった。その前後から各地の市民レベル と思う。その時の広島からの世話人の一人が山 でも強制連行調査の機運が高まった。そしてそ 田さんで、もう一人は正木峯夫さんだった。 んも立ち上げの際の有力メンバーだった。 催することになった。 て気分も高揚したこともあって次回は広島で開 ルドワークとして西宮の甲陽園の地下壕に入っ 田さんの姿があった。 2回集会に参加した。兵庫県で行われ、フィー われる地でフィールドワークをした。いつも山 「調査す る会」は翌年に「朝鮮 人・中国人強 西 宮 か ら 帰 っ た 後、 広 島 で も 本 格 調 査 が 始 制連行・強制労働を考える全国交流集会」の第 まった。日曜日や祝日には朝鮮人労働現場と思 代表世話人として参加した。 の年の 月8日「広島の強制連行を調査する会」 そ れ 以 降、 集 会 は 奈 良、 長 野、 大 阪、 岐 阜、 (以下「調査する会」)が発足した。山田忠文さ 島根、石川、福岡と開かれ、山田さんも広島の 12 でした。最初の いたのは 賠償責任がある」としました。これは韓国の元 働)、未払い賃金、原爆投下後の放置に対する 本の最高裁にあたる)が「三菱の強制連行(労 12 懐かしいフィールドワーク (とよなが・けいさぶろう 韓国の原爆被害者 を救援する市民の会広島支部長) 府に求めました。 年5月には韓国大法院(日 (お父さん)たちとしっかり見守ってください。 たいと思っています。山田さん、彼らのアボジ 10 た人間の尊厳と価値を回復すること」を韓国政 11 07 29 沼 田 鈴 子 さ ん の 半 生 記「 青 桐 の 下 で 」( 広 岩 近 弘 著 ) の中国語版出版を記念して訪れた内モンゴル自治区フ フホト市で、歓迎会に臨みあいさつする山田忠文さん。 座っているのは沼田さん (2001年8月 日、戸村良人さん撮影) 15 46 12 がドシャッと崩壊して3人とも行方不明にな い状態ではなく、 「ここで地震が起きたら土砂 ボートに乗って中に入った。地下壕の土質は固 の 入 り 口 に は 水 が た ま っ て お り、 丈 夫 な ゴ ム ベースのD VDが完成。ここで も企 画、渉外、 る。天国の山田さん、東アジアから東南アジア 集した約5千件近い新聞記事の資料集データ 月には「調査する会」が県内の図書館などで収 んだ。休業状態の時もあったが、2011年3 フィールドワークの実施など、精力的に取り組 かわるマレーシアの旅が企画され実行されてい 残念至極である。最近、広島では第五師団にか た。その夢を果たせずいってしまわれたことは る平和の旅の企画をベッドの上で熱く語ってい ら見守っていてください。 まで広がる平和の旅の実現をにっこり笑いなが る」 「帰還する自信はない」と寒いダジャレを は、日本と大連、青島を結んで東アジアをめぐ い る 映 像 は 思 わ ず 目 を そ む け た く な る。 ア ウ ◇ ◇ ◇ あ の 累 々 と 山 積 み さ れ た 死 体 の 写 真、 ブ ル ドーザーで、瓦礫を運ぶように死体を処理して 会代表) 昨 年 容 態 が 悪 く な っ て お 見 舞 い に 行 っ た 時 (うつみ・たかお 広島の強制連行を調査する 宣伝、資金調達、作業員確保などで山田さんの 言い合ったのも懐かしい思い出である。 その後、 「地下壕に埋もれた朝鮮人強制労働」 優れた能力が発揮された。 (明石書店)の出版や、調査の記録写真を月ご とに入れたカレンダーの作成、広島県内の公開 シュヴィッツで起きた人間の人間による蛮行は であろう。白昼、堂々と殺人が肯定される戦争 うと思います。でも愚痴は言わず、いつも笑顔 果となったことをどのように理解するのか。 山田さんの住まいは旧広島市内からかなり遠 があったとしても、なんの武器も持たなかった い安佐北区飯室で、深夜の帰宅は大変だったろ 老人や子供たちを含め数百万人も殺害される結 びました。 みました。展示会へ向けた話し合いは深夜に及 人間の歴史から永久に消し去ることはできない 取り組んだ「アウシュビッツ」 吉野誠 「まだ若いのに、 山田忠文さんの訃報を聞いて まさか」と思い、その時からやり切れない悲し い思いに駆られています。 それがいまだに続いています。それぐらい、 私と山田さんは心が通じ合っていたのかもしれ 出会いは1989年5月、広島県民文化セン ター地下展示室で「心に刻むアウシュヴィッツ は な ん と 入 場 者 数 1 万 5 千 人 と い う 成 果 で し シュヴィッツ展の重要な点であった。 り、8日間の「心に刻むアウシュヴィッツ展」 は こ の こ と を 考 え て み る の が、 広 島 で の ア ウ ません。 展」をやった時でした。お互い実行委員として 2013. 3.22 で頑張っていた姿を今でもはっきり思い出しま 二度とこのようなことを、現代を生きる私た す。こうして、広島県民のみなさんの協力もあ ちが繰り返さないためには何をなすべきか。実 頑張りました。この時のことは今も記憶に刻み 込まれています。 た。私は山田さんと手を握り合って喜びました。 最 初 は 一 人 の 殺 害 か ら 始 ま っ た。 そ し て 数 感想文集の編集発行は山田さんが中心になっ 百万人の死に至る過程でそのようなことが行わ て作業を進めました。表紙絵と中のカット 枚 れ、何が行われなかったのかということを私た 山田さん 歳、私が 歳。若かった?ころで す。沼田鈴子さんもいました。実行委結成から は、私が描きました。この文集に、山田さんが ちは学ばなければならない。 (中略) アウシュヴィッツの悲惨な出来事を嘆くだけ 次のような文章を載せています。 展示会、感想文集発行。2年間、懸命に取り組 90 ≪ 142 ≫ 47 56 ではいっこうに前に進まない。アウシュヴィッ ヴィッツ平和博物館」が栃木県塩谷 町に貸与されたが構想がとん挫した ツを通して今、私たちが立っている位置で何が 年に返還するというト ラブルがあったが、巡回展とは直接 展。遺品を ため遺品は放置され、国際問題に発 「心に刻むアウシュヴィッツ展」 グリーンピース出版会(青木進々代 年春に福島県白河市に の支援を受けながら1988年から シフィエンチム博物館の分館建設構 友好都市協定を結んだのを契機にオ 1973年、オシフィエンチム市と は、ドイツ語名でアウシュビッツ。 年開館)がある。オシフィエンチム 市御幸町にホロコースト記念館( 殺の史実を伝えるものとして、福山 年に い「傀儡」との批判が絶えず、自民党は「政治 とカネ」で改革を迫られた。 ここで自民党内の議論は、問題の所在は中選 挙区制度にあるとする流れになった。同士討ち が避けられず、カネがかかり派閥の弊害を生む。 そして選択されたのが小選挙区制度である。た だし単独では少数党の理解が得られないため比 僚、 企 業 経 営 者 に 広 く 及 一つの選挙区で1人しか当選しない小選挙区 制は大量の「死に票」を生む。 月 日投開票 日の姿である。 例代表を「並立」という形でつけた。これが今 んだ。有力政治家が軒並 の衆院選でも、比例復活も含めた死に票は実に 広島ジャーナリスト 町にオープンした。初代館長は青木 表 = 2 0 0 2 年 死 去、 現 在 休 眠 中 ) 氏。同館は がポーランド国立オシフィエンチム 関係がない。 年間で全国110カ所を巡回、約 想を打ち出し、強制収容所の遺品が 受 け て 2 0 0 0 年 春 に「 ア ウ シ ュ 「もうすぐ ですよ」 (よしの・ まこと 画家、19 76年と アウシュビッツ訪問) 山田さんのご冥福を心よりお祈り申し上げま す。 れているのです。 万 人 が 訪 れ た。 巡 回 展 の 成 果 を ナチス・ドイツによるユダヤ人虐 博物館からアウシュビッツ強制収容 こ れ に 先 立 っ て 広 島 県 黒 瀬 町 しゅうそう 所の遺品を借り受け、ボランティア (現・東広島市)の花房 脩 宗 町長が 移転、再オープンした。 進行し、何が起きようとしているのかを見通す 精神的努力が問われているのです。 ◇ ◇ ◇ (編集部注・仮名遣いを一部修正) アウシュヴィッツの遺品は等しく私たち日本 人にそう問い続けている。 あらためて読み返してみると、現代をどう生 きるべきかを教えられるような気がします。 絵を描いてみせてね」 「うわー、そんな年には見えんよ。若ぶりじゃ ね。いつまでも元気で、命を守るすばらしい油 山田さんが元気だったころ、広島市内を歩い ていると突然後ろから肩をたたかれ こんな温かい言葉に支えられて、私は生かさ 95 氏に引き継がれたが、党内に支持基盤を持たな 80 み「 ク ロ 」「 灰 色 」 と さ 16 日付産経 )。このこと 12 ◇ 89 れたため、政権は非力な 月 18 80 「吉野さん何歳?」 真崎 哲 ・暴走する小選挙区制 る。そのロジックはこうである。 (現リクルートホールディングス) 関連会社の未公開株を渡すという手口で巨額 リクルート の創業者江副浩正氏が2月8日、亡くなった。 の利益を提供した贈収賄事件が1988年発覚 「風が吹けば―」式に言えば、今日評判のよく した。リクルート事件である。疑惑は当時の竹 ない衆院選挙制度の生みの親は江副氏とも言え 下 政 権 周 辺 だ け で な く 自 民 党 内 各 派 領 袖、 官 メディアスクランブル ・4%だ った( 12 03 宇野宗佑、海部俊樹の両 40 90 12 世論調査報道の「罪」 ≪ 143 ≫ ≪ 144 ≫ 現象を分析した柿﨑明二・共同通信編集委員の が選挙結果に「バイアス」を発生させる。この めた。 対有権者数3割強の得票で7割以上の議席を占 前の情勢報道で「判官びいき」ではなく「勝ち 上「定数1」の選挙である自治体首長選は、事 ・消えた「判官びいき」 ある。記事もこのことに触れたが、それを結論 とが、経験 上知られていた。「判官 びいき」が 馬に乗る=バンドワゴン効果」のみが現れるこ 対的大勝利』 」 ( 「世界」2月号=タイトルが絶 にすればさんざん世論調査報道を展開した新聞 「民主党『絶対的大敗北』に反射する自民党『相 衆院選の約1週間前、 月8日付中国に、世 論調査報道による新聞のアナウンス効果を取 起きるのは中選挙区に限ってのことだったので 妙だ)によると、小選挙区に限定した場合、対 り上げた「『勝ち 馬』か『判官びい き』か」と %の議席 にとって自縄自縛になると思ったのか、結末は 有権者数4分の1弱の得票で自民は を占めたことになる。むろん、これは今回だけ い う 記 事 が 載 っ た。 実 は こ れ ま で に も、 事 実 12 の特徴ではなく、前回の民主、前々回の自民も 「情勢報道に振り回されるこ と な く( 略 ) 投 票 先 を 決 め る こと」とどっちつかずになっ ていた。 実 は、 こ の 記 事 は 重 大 な 問 題 の 所 在 を 暗 示 し て い る。 衆 院選直前から各紙は競って世 論調査結果を掲載したが=別 表 参 照、 こ こ ま で 頻 繁 に 報 道 す る 意 味 が あ る の だ ろ う か。 振 り 返 っ て み る と、 こ れ は 世 論誘導以外の何物でもないと いう気がする。必要以上の 「世 論調査報道」と「情勢報道」は、 当選の得票ラインが低い中選 挙区制や死に票が理論上ゼロ である比例代表制に比べ選挙 結果が比較的見えやすい小選 挙 区 制 で は、 死 に 票 に な る こ とを選ぶより「勝ち馬に乗る」 か、 投 票 を 棄 権 す る、 と い う 2013. 3.22 79 ≪ 145 ≫ 優位と経済における平等」と定義される。この 一 方、 現 行 制 度 を 肯 定 的 に と ら え る 見 方 も むろん存在する。例えば北岡伸一・国際大学長 年体制が事実上終わった年である。以降の だ。その一つは1993年。宮沢内閣が下野し、 くく、そのことも改革の行方を悲観させる要因 問われるだろう。 になる。 も う 一 つ 視 点 を 提 供 す る と す れ ば、 二 つ の むしろ重要なのは非自民の結集軸、自民との 「年」を起点に歴史をとらえなおしてみること 対抗軸をどう考えるかであろう。この点、新聞 人に対する国家の優位と経済における強者中心 年間の政治的実験をどうとらえるか。ここでの 月 日付中 ポイントは、絶滅の危機にひんしている社会民 VS と 飯 尾 潤・ 政 策 研 究 大 学 院 大 教 授 の 対 談 で は 日 付 産 経、 井 上 寿 一 学 習 院 大 教 授「 支 持 基 31 つか来た道」を再びたどらないために、である。 15 ロンドン五輪出場者を含む国内トップクラス の女子柔道 選手が昨年末、JOCに対して、 スポーツだけの問題か 「安定政権ができたのは喜ばしいこと」 (飯尾) とされている(中央公論3月号) 。この文脈で、 保守系メディアと目される読売、 産経の2紙が、 大阪市立桜宮高の男子バスケットボール部主 将が昨年 月、自宅で自殺した。部顧問あての 年が明けて大阪市教委が事実関係を公表した。 連)もこの事実を確認し、1月 日に園田隆二 手紙は「体罰がつらい」との趣旨だったという。 があったことを訴えた。全日本柔道連盟(全柔 監督やコーチによる暴力やパワーハラスメント 15 1月1日付社説でそれぞれ「政治の安定で国力 ・組織的対応の鈍さ を取り戻せ」 、 「長期安定政権で国難打破を」と した。 12 30 こ う し た こ と を 考 え る と、 こ の 数 年 で 新 た な選挙制度が実現する可能性はかなり低い。第 12 広島ジャーナリスト の発想」であり、左とは「国家に対する個人の 有権者の行動を誘発しやすいといえよう。事実、 一、小選挙区制はその時々の「勝者に下駄をは 小選挙区制に移行してからの衆院選投票率は、 かせる」選挙制度である。したがって勝者即ち あたりへの関与の仕方が、今後のメディアには 年)を除いて、いずれも戦後最低ライン 年)と政権交代が実現した前 政権与党が選挙制度改革を言いだすとは考えに 小泉郵政選挙( 回( だ。こうしたことを考え合わせると、選挙での 世論調査報道は一考を要する段階に来ている。 紙 上 で は 衆 院 選 直 後 の 湯 浅 誠・ 反 貧 困 ネ ッ ト ・対抗軸をどう築く ワ ー ク 事 務 局 長 が「 リ ベ ラ ル が 複 数 の 政 党 に 街場の議論としては、小選挙区制に代わる新 たな選挙制度を―というのは成り立つだろう。 埋没して軸が立っていない」( 月 日付朝日 主主義をどう考えるかであろう( 月 日付朝日「小さな政府 国「政考政 読「細川氏が予見した 多党制」 、 的な言及は「世界」別冊「政治を立て直す」の 軸になる気配見えず」など)。 対立 山口二郎・北海道大法学部教授「政党政治再建 佐インタビューでは、中選挙区連記制に言及し あと一つは1931年。戦前の2大政党制が 崩壊し、戦時体制へと向かった年である( 月 12 ム」のイラストが興味深い。右から維新、自民、 大きな政府 ている。一つの選挙区で2人以上の候補者名を の 道 筋 は ど こ に あ る か 」 あ た り で、 こ の 中 の 書ければ「同士討ち」は避けられる。ただ、前 「2012年 月 日以降の日本の政党システ 度と名称は似ているが、基本は比例代表制であ ドイツ式小選挙区比例代表併用制は、日本の制 「終章 熱狂なき294」)と指摘したのが目立 つ程度だ。雑誌で見ると、このテーマでの本格 18 者には超過議席の問題があり、後者はやはり死 11 日付中国の田中秀征・元首相特別補 11 12 に票が多いというデメリットを抱える。 16 る。2月 20 12 12 05 公明が位置し、そこから社民、共産までは「無 盤広げ『二大政党』支えよ」、 月 日付日経 人の野」であるという。同氏によれば、右とは「個 「1931年からの警鐘」など)。もちろん「い 12 20 55 09 ≪ 146 ≫ 監督ら6人の戒告処分を発表したが、監督は翌 JCJと「広島ジャーナリスト」 日本ジャーナリスト会議(JCJ)は敗戦 から 年後に、新聞、放送、出版などジャー ナリズムの現場から「ふたたび戦争のために ペン、カメラ、マイクをとらない」を合言葉 に発足した。広島支部は広島を拠点に活動す る報道各社の記者らが1967年に結成。所 属企業の枠を越えた共通の表現の場として 「 広 島 ジ ャ ー ナ リ ス ト 」 を 発 刊 し た が、 活 動 の停滞によって1980年代に刊行が途絶え ていた。 年近い休止期間を経て、自由な言 論の場の再生をという声が高まり、2010 年7月に季刊誌として復刊した。 真実に迫り、 信頼されるメディアを目指す。 毎日)と指摘していることもあげておきたい。 30 日、辞意を表明した。 「スポーツと暴力」をめぐる二つのニュース に触れて、共通して感じるのは、それぞれの組 織の対応の鈍さである。桜宮高では「顧問が体 罰をしている」との情報が1年以上も前から寄 せられていたが、学校は教師の側からのみ聞き 取り調査をし「体罰はなかった」と市教委に報 (1月 日付朝日)。 10 告している(1月 日付朝日など) 。女子柔道 こうした「暴力的指導」が日本の精神風土に でも昨年9月には全柔連に「監督が暴力行為」 根ざしているとすれば、問題は「スポーツ指導」 ・橋下市長の「番外編」 28 7日付朝日「 人の告発」など)は問題の所在 との情報が寄せられたが、連盟は監督、選手か の範疇にとどまらない。先に上げた桑田氏や山 ら聞き取り調査をしたものの、始末書と謝罪で 口香・筑波大大学院准教授の一連の発言(2月 予算執行を停止すると発言した。「教育行政の 桜宮高の「体罰」事件では、橋下徹・大阪市 長が入試中止を市教委に要請。応じない場合は ない危険性をはらむ」 (1月 政治的中立性を揺るがす『前例』にもなりかね 日付産経)事態 をわかりやすく指摘しているが、さらに射程の があると、桑田氏は指摘している。こうした精 まで」と期限を切ることで合理的反論を遮り押 神風土があるとすれば、そこから修正していか しつけられる速成プログラムのことである。ま 日付中国「識者評論」)と 号の渡田正弘さんの寄稿 年3月」とあるのは 「上関原発で中電が『恫喝』訴訟」 「松元剛 沖縄リポート」と「シ リ ー ズ・ 戦 争 体 験 を 語 る 」 は 休 年2月」の誤りでした。訂正します。 ㌻中段最後の行「 訂正 になる。 で 「 第 いう指摘のほか、目立つ意見がなかったのが気 仕方である」(1月 る政治介入』と呼ばれてもおかしくない関与の だ が、 広 田 照 幸・ 日 本 大 教 授 の「『 教 育 に 対 す 18 いったん幕引きをしている。 ・ 「体罰容認」の土壌 長い評論が必要と思われる。 なぜ、これほど「暴力」に甘いのか。元プロ その意味では政治学者・片山杜秀氏の「体罰 野球投手の桑田真澄氏がインタビューの中で驚 近代日本の遺物 『持たざる国』補う軍隊の くべきデータを披露している。2009年、プ 精神論」が、体罰は日露戦争後の軍隊教育で一 ロ野球選手と東京6大学野球部員にアンケート 般化した、と指摘して興味深い(2月 日付朝 し た と こ ろ「 体 罰 は 必 要 」 「 と き と し て 必 要 」 日)。この記事に関連して、評論家の内田樹氏 日 が「近代日本の組織的愚行の多くは『待ったな %に上ったというのだ(1月 15 付朝日) 。 「体罰を受ける側」にも「あの指導の し主義』によっている」とした(2月 日付朝日、 おかげで成功した」との思いから受忍する土壌 自身のブログでもこの問題に言及)。「次の○○ との回答が 12 なければ「スポーツと暴力」は解決しないだろ た、 文 芸 評 論 家・ 斎 藤 美 奈 子 氏 が、「 甘 い 社 会 う。脳科学者の林成之氏は「体罰を受けて自分 が見過ごす暴力」として「究極の暴力の否定で お断り みました。 2013. 3.22 10 は強くなれたと、肯定的に考える選手もいる。 ある戦争放棄に異議を唱える人たちに、暴力を これは原理的には『洗脳』に近い」と指摘する 一掃することができるだろうか」(2月 日付 13 26 26 11 19 15 13 87 83 ≪ 147 ≫ THE BOOK 「原発をつくらせない人びと-祝島から未来へ」 (山秋真著) 「キャパの十字架」 (沢木耕太郎著) 魅惑的な旅の記録「深夜特急」を持つ著者は、 著者はノンフィクションライター。石川県珠洲 基本的に「オン・ザ・ロード」のノンフィクショ 市の原発をつくらせなかった住民たちと長年接 ン作家である。だから彼が1枚の写真を手に「ぼ し、裁判の傍聴に通って「ためされた地方自治- んやりとした違和感」の先にあるものを突き止め 原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の ようとする行為もまた、時空を越えた旅である。 13 年」を出している。今は、山口県上関町で原 スペイン内戦の最中に撮られた「崩れ落ちる兵 発反対を訴え続けている祝島の人々に寄り添う。 士」はキャパの、というより戦争写真の傑作とし 著者は本書の展開を急がない。 まず祝島の歴史、 て記憶されている。しかし、これほど鮮やかに死 風土を紹介する。万葉集にも詠まれている海上交 の瞬間を切り取れるものだろうか。著者はまず、 かんまい 通の要衝、伝統の神 舞。 撮影日と同行した1人の 江戸時代には「富の程度 女性ゲルダ・タローの存 が平均し、生活は平和で 在を知る。そこから、撮 息災で安楽」との文書も 影者はキャパかゲルダ 残る。周囲の海は一本釣 か、ミステリーの糸をほ りの好漁場で、多様な希 ぐすように思索を凝ら 少生物の宝庫である。 す。山の稜線、雲の位置。 その静穏さが一転。波 ネガフィルムの密着焼き 立つ海上での島人たちの を眺めては、兵士の動き 非暴力に徹した抗議、工 を推理する。 事阻止活動を活写する。 使われた2台のカメラ 抗議の漁船に乗り込み中国電力、海上保安庁の動 ―ライカとローライフレックス―のフィルムサイ きを目撃してきた。保安庁の船が接近して、漁業 ズの違いからある結論にたどりつくのだが、ここ 用の刃物であっても「危ない」と浜に持ち帰るよ でその経過を明かしても意味はない。ただ、実証 うに強要する。押し問答が続いた末、島人はこれ 作業の積み重ねの後に、著者は「キャパへの道」 でどうじゃと金具で刃渡りを打ち壊した。機転と という章を設けている。そこでは、1枚の写真で たくましさを備えた人たちだ。 若くして「伝説」となった写真家が、生身の自分 祝島が全国的に知られるようになったのは との同一化を図る道のりが描かれる。ここで一転 1982 年から始まった島内での月曜デモ。もちろ 著者はキャパの内面へと踏み込む。 ん「 (原発)スイシン」の人たちも暮らす。その これもまた伝説の1枚である、ノルマンディー 亀裂は、冠婚葬祭にまで及ぶ。 「 (以前は)親戚や 上陸作戦での「波の中の兵士」。ここには、まぎ 親子でもいかん、っていうのがあった。まして他 れもない「戦場」がある。この1枚でキャパは「呪 人の葬式に行くわけない。……いまでもそう。冠 縛、つまりキャパの十字架」から解き放たれる―。 婚葬祭いっさい行かん」 。非情な覚悟にも触れる。 あとがきで著者はこう書いている。 著者は思う。原発計画がなくなっても、生きる 「これもまた、長い旅だったように思う」 ということはしんどい。それでも「 『原発あり』 著者は旅を終えたのだろうか。読み終えて「深 で生きるか、『原発なし』で生きるかは、まるで 夜特急」の、デリーからロンドンまで乗合バスで 違う」 「祝島や珠洲の人びとは、そのしんどさを、 たどり着いたシーンの最後の 1 行を思いだした。 安易に解決しようとはしなかったのだろう」=浜 ≪ワレ到着セズ≫ 風子。 (岩波新書、760 円=税別) =北透。(文藝春秋、1500 円=税別) 広島ジャーナリスト ≪ 148 ≫ THE BOOK 「台湾海峡一九四九」 (龍應台著) 1952 年生まれの著者・龍應台の「台」は台湾 に由来する。この「痛み」を彼女はこう表現する。 「言論の自由 拡大するメディアと縮むジャーナ リズム」 (山田健太著) 日本的パブリックジャーナリズムの成立を、著 「誰かと名刺交換すれば、それだけで(略) 『よ 者は「お布施ジャーナリズム」と呼ぶ。「読んで そ者』であることがわかってしまう。なぜなら地 も読まなくても新聞代を払い、見ても見なくても 元の人間にとって、この地に代々暮らしているこ NHK受信料を払うことで、日本の新聞や放送は となど当たり前すぎるほど当たり前なわけで、わ 一定の水準を維持した取材・報道を実現してきた」 ざわざ名前をそこに刻みこみ、 『はるばる来たぜ』 のであり、そのことで「権力監視も含め社会正義 と喧伝する必要などないのだ」 が実現してきた」という。 1949 年。中国大陸と台湾が海峡を隔てて決別 しかし近年、インターネットやソーシャルメ した年だ。そこに至る抗日戦争と内戦の間、人々 ディアの拡張は著しいが、ジャーナリズムの劣化 は戦火をくぐって長い が激しい。ではどうす 放浪を経験した。大い ればジャーナリズム なる決断の結果ではな の再生は図れるか。 い。ささやかな個人的 ま ず、 ジ ャ ー ナ リ 決意が、果てしない旅 ズムの担い手として へと駆り立てた。無数 の「プレス」の再定義 のそうした旅と膨大な を行う。その入り口と 数の屍の記録を書きと して、著者は二つの問 めたのが、この書であ 題を提示する。 る。歴史の大河ではな い。あるのは、ささい 一 つ は 再 販 制 度。 ここで「言論活動には な日常の集積である。だから著者はこう書く。 税をかけない」という欧米の思想を紹介するが、 「本書は文学であって、歴史書ではない。( 略 ) これは無条件での再販維持ではない。再販制が崩 文学だけが、花や果物、線香やろうそくと同じよ れれば部数維持ができないという新聞業界の本音 うに痛みに苦しむ魂に触れることができる」 。む と、国民の知る権利、表現の自由を守るためとい ろん「文学」とは手法のことではない。無数のお う建前の論理とのかい離を埋めること、すなわち ぞましい体験に寄り添う「覚悟」のことである。 ジャーナリズム、文化、憲法の観点から、報道機 ―冬の城塞都市に入った兵士は、疑問を抱く。 関の必要性を再定義するという命題を示す。 この城には堀がない。どうなった? 石をはがす もう一つは記者クラブ。ここでは「クラブ」自 と凍った腕が一本。堀は死体で埋まっていた。 体の問題と「記者室開放」のそれを分離して考え ―やっとありついた豚肉汁。ヒュンと砲弾が一 る。記者室は原則完全オープンにするが、クラブ つ。鍋の上で爆発した。戦友の肉体がばらばらに は形を変えて存続させる。親睦ではなく①権力監 なって、汁に混じっていた。 視②協働③双方向―の三つの機能をもつ団体への この書を、著者はこう結んでいる。 改組である。このことで横並びやなれ合いを排除 「勝者だろうが敗者だろうが(略)私には関係 しジャーナリズムの再生を展望する。著者はまた、 がない。すべての、時代に踏みにじられ、汚され、 クラブの閉鎖性はマスコミ企業の〝病理〟に端を 傷つけられた人たちを、私の兄弟、姉妹と呼ぶこ 発しており、企業本体の体質改善をも求める。メ とは、何一つ間違ってないんじゃないかしら?」 ディアとジャーナリズムを考えるベーシックな一 =真崎哲。 (白水社、2800 円=税別) 冊=真崎哲。(ミネルヴァ書房、2800 円 = 税別) 2013. 3.22 3月1日から広島市こども図書館で「ハ ロー・ディア・エネミー!」と題した絵本 職人が教えます!平和の語り方」に変更し 承のもとに、いったんタイトルを「言葉の タイトル変更を提案し、ビナードさんの了 のうえで、ごく一部の者の利益のために起 日突然勃発した戦争はないと指摘した。そ 事 故 か ら 2 年。「 ま だ 」 と 答 え る と き、 頭 の だ」であろう。東日本大震災と福島第1原発 「もう」 か「まだ」かといえば、まぎれもなく 「ま また〈核災〉は始まったばかりだと本誌に寄 せた▼「黒い雨」シンポの議論が、我々門外 漢にも深く重い錘を下ろしてくるのは、科学 とは何か、何のために科学はあるのかという 抜き差しならない課題を突き付けるからであ ㌻余りをさいた▼ある新聞に掲 ろう。議論の向こうに見えるものを伝えたい と、本誌の 載された一つの短歌への「違和感」が、ヒロ ㌻ ~) も ま た 貴 重 で あ る。 か く し て、 シマの断層を浮き彫りにする。澤野さんの論 考( 今号の特集タイトルは「 『核と人間』のいま」。 年前、閃光とともに始まった時代は、今も 人間を分断し続けている。 (真崎) 広島ジャーナリスト ることを指摘された。企画を手伝う仲間が 展が開かれている。題は「こんにちは!敵 て図書館の後援を得た。しかし、図書館側 こされる戦争のペテンを人々が見抜き、平 年という数 字がよぎっている。詩人の若松丈太郎さんも 生産の金属資源不足を補うため、金属類回 戦4カ月前の1941年8月、政府は武器 日本にとって「キンコンカンせ んそう」 は絵本の世界の話ではない。太平洋戦争開 作者が込めた意味を語った。 中にはセシウム137の半減期 申し込みはファクス 082-231-3005 かメー ル [email protected] ▽紀伊国屋書 店広島店、フタバ図書などでも好評発売中 和の方向に向かえば「平和のボッパツ」が 編集後記 マレーシア住民虐殺の地を訪ねる 橋本和正 実現する、と「キンコンカンせんそう」に が周到に用意して起こすものであり、ある 業で利益を得る軍人や政治家、企業家たち 演でビナードさんは、近代の戦争は戦争産 3 月 4 日、 最 初 の タ イ ト ル に 戻 し た 講 え直して後援依頼を取り下げた。 九条そのものが今回の絵本展の精神」と考 の対応に納得のいかない上野さんは「憲法 作品を展示し 「平和のぼっぱつ」がなぜいけない さん」の意で、 「平和、自由、寛容―反戦」 をテーマにした世界の絵本 ている。 その中にイタリアの作家ジャンニ・ ロダーリ作でアーサー・ビナードさんが邦 訳した「キンコンカンせんそう」という絵 本がある。戦争しあう国で武器を造る金属 が不足したため両国の軍部は国中の時計台 や教会、学校の鐘を集めて巨大な大砲を造 尖閣は棚上げ合意へ回帰を 浅井基文 広島・長崎データ 科学的議論を 湯浅正恵 豊かな海を毒壺にするな 湯浅一郎 インドの反原発運動と日本 福永正明 「1994」繰り返すまい 小森陽一 30 る。戦場でこの大砲を撃ちあうと弾が出る かわりに「キンコンカン」と明るい楽しげ な鐘の音が鳴り響き、 双方の兵士たちは 「平 和ぼっぱつのお祭りさ!」と武器を捨てて 踊り出し、戦争が終わるという話だ。 この絵本展にあわせた講演会をめぐっ て「広島の平和」の現状を示すような動き があった。絵本展にかかわった翻訳家の上 収 令 を 制 定。 回 収 は 寺 の 釣 鐘 や 銅 像 か ら、 一般家庭の門柱や門扉にまで及んだ。 月 8日米英と開戦、同月 日言論・出版・集 会・結社等臨時取締法が公布され、社会全 体が戦争に突き進んで行った。改憲による 国防軍創設が語られる今、子どもの絵本を じっくり読んでみたい。 (沢田正) 30 野陽子さんがビナードさんらの講演会を企 画、 こ ど も 図 書 館 に 名 義 後 援 を 依 頼 し た。 ところが、図書館側から、主張が前面に出 ている趣旨なので後援は難しいとの考えを 示されたうえ、ビナードさんの講演タイト ル「平和ボッパツのお祭りさ!」が3年前 特集「沖縄・岩国 オスプレイ」 沖縄は「無法地帯」なのか 松元剛 日米安保から脱却を 伊波洋一 オスプレイ配備の意味 岩国から 久米慶典 56 12 80 に東京の「九条の会」での講演と同じであ 広島ジャーナリスト第 11 号 67 19 風訊帖 ≪ 149 ≫ 広島ジャーナリスト第 12 号 ▽ 2013 年 3 月 22 日発行 ▽発行所 日本ジャーナリスト会議広島支部 〒 730 ー 0805 広島市中区十日市町 1-5-5 坪池ビル2階 電話・ファクス 082-231-3005 e-mail [email protected] 定価 500 円(本体 476 円) メール・ファクスであなたのご意見をお寄せください。 「広 島ジャーナリスト」に掲載させていただきます。匿名、実名 いずれも可です。 定期購読 ( 年間4号分、送料込み 2500 円 ) は郵便振り込 み(口座番号 01380-3-44641、口座名 日本ジャーナリスト 会議広島支部)をご利用ください。 「広島ジャーナリスト」は紀伊国屋書店広島店(中区基町)、 フタバ図書各店、MARUZEN &ジュンク堂、啓文社廿日市店で 好評発売中です。 バックナンバーの目次は次のホームページで見ることが できます。 日本ジャーナリスト会議広島支部 http://www.jcj.gr.jp/hirosima/index.html
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