p138~p170

資 料 編
1. 八 乙 女 の由 来
八 乙 女 (や お と め) の地 名 ( 宮 城 県 泉 村 七 北 田 ) 陸 奥 街 道 に 沿 って 七 北 田 横 の
東 南 部 の部 落 を八 乙 女 と呼 んでいる。八 乙 女 の地 名 は国 分 氏 の支 流 で、さきに根
白 石 村 の実 沢 の八 乙 女 城 主 であった八 乙 女 淡 路 が、現 在 の七 北 田 にある八 乙
女 の地 に移 り、この地 に居 住 したので、この地 名 が生 まれたものとみられる。
八 乙 女 とは神 楽 の舞 姫 、すなわち
神 々に奉 仕 して神 楽 舞 などをした八 人
の少 女 、ま たはその一 人 をいったのであ
るから、こ の 神 楽 に関 係 のあった氏 族 で
あったと思 われる。
後 世 、仙 台 藩 主 重 村 の小 姓 ならびに
嗣 子 斉 村 の近 習 として仕 えた八 乙 女 盛
草 はその子 孫 である。また、その子 孫 に
八 乙 女 盛 次 というこの地 出 身 の官 吏 が
ある。宮 城 郡 などの各 郡 長 を歴 任 し、晩
年 伊 達 伯 爵 家 の家 令 として同 家 の家
八 乙 女 駅 ホーム
政 整 理 に当 った。
(昭 和 31 年 11 月 4 日 、毎 日 新 聞 、 宮 城 版 掲 載 )
地下鉄車両
仙台市営地下鉄八乙女駅
(参 考 )
昭 和 62 年 、仙 台 市 営 地 下 鉄 、仙 台 ・八 乙 女 間 開 通 。料 金 大 人 160 円 時 間 16 分
138
現 在 は泉 中 央 から八 乙 女 、仙 台 を経 て富 沢 まで 17 駅 開 通 。
2. 履 歴
1925 年 (大 正 14 年 )12 月 31 日
品 川 区 大 井 山 中 町 にて出 生
1932 年 (昭 和 7 年 )4 月
品川区立山中尋常小学校入学
1938 年 (昭 和 13 年 )4 月
第 二 東 京 市 立 中 学 校 入 学 (途 中 病 気 で 1 年 休 学 )
1944 年 (昭 和 19 年 )4 月
東京高等師範学校理科二部入学
1948 年 (昭 和 23 年 )4 月
同 校 研 究 科 (物 理 )入 学
1949 年 (昭 和 24 年 )3 月 同 科 修 了
1949 年 (昭 和 24 年 )5 月
東京都立第八新制高等学校就任
(後 、都 立 小 山 台 高 等 学 校 と改 称 )
1967 年 (昭 和 42 年 )4 月
東京都立明正高等学校就任
1976 年 (昭 和 51 年 )4 月
東京都立青山高等学校就任
1983 年 (昭 和 58 年 )3 月
同校退職
1983 年 (昭 和 58 年 )4 月
学校法人一橋学院就任
1996 年 (平 成 8 年 )3 月
同校退職
3. 住 所 歴
大 正 14 年 12 月 31 日 以 前
品 川 区 大 井 森 下 町 4090
昭 和 2 年 ∼昭 和 19 年 3 月 30 日
品 川 区 大 井 森 下 町 4094
139
(3 月 31 日 強 制 疎 開 で家 屋 撤 去 )
昭 和 19 年 3 月 31 日 ∼昭 和 26 年 Y 月
目 黒 区 中 根 町 2079
昭 和 26 年 Y 月 ∼昭 和 28 年 Z 月
目 黒 区 自 由 が丘
昭 和 28 年 Z 月 ∼昭 和 30 年 2 月
川崎市東涯田 3 丁目
(K.K.中 野 組 社 宅 、父 死 去 )
昭 和 30 年 2 月 ∼昭 和 30 年 9 月
目 黒 区 自 由 が丘
昭 和 30 年 10 月 ∼昭 和 32 年 6 月
世田谷区奥沢
昭 和 32 年 7 月 ∼昭 和 50 年 3 月
世 田 谷 区 弦 巻 町 3 丁 目 629(弦 巻 住 宅 115)
(昭 和 33 年 1 月 15 日 結 婚 )
昭 和 50 年 4 月 ∼昭 和 52 年 8 月
狛 江 市 和 泉 3436
(多 摩 川 住 宅 ニ、10−507)
昭 和 52 年 8 月 ∼現 在
世 田 谷 区 給 田 2−12−1−413
4. 小 ・中 学 校 恩 師 (敬 称 略 )
(*印 は平 成 8年 の時 点 で故 人 、右 記 は転 任 先 )
小 学 校 (品 川 区 立 山 中 尋 常 小 学 校 )
各 学 年 の担 任
1年
小杉*
2年
小杉*
3年
赤松
4年
石井
5年
金杉哲司*
6年
金杉哲司*
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中 学 校 (第 2東 京 市 立 中 学 校 )
学 校 長 高 藤 太 一 郎 * (修 身 )、清 水 岬
公民
松崎貞之
徳島大学教授
上野幸治郎*
渡辺茂*
国語
間 宮 靖 * (古 文 )
任 生 勤 * (現 代 文 )
武 井 勇 * (兼 書 道 )(2 年 時 担 任 )
岡 部 鎗 三 郎 * (漢 文 ) 退 職 、村 長
福 原 富 三 郎 * (文 法 )
数学
関文夫
福地喜雄
岩間昌稔*
松井巧*
竹内喜巳人
英語
日高不二雄
目黒郵便局長
長谷部晃
白戸一
江副善夫
理科
物理 川名佐二郎*
林武晴
鈴木英雄
浅田登
化学 阿部篤三*
東京市視学
藤村与市
柳 実
生 物 米 山 芳 成 * (4 年 時 担 任 )
関野武夫*
社会
国史 鎌田重雄
西洋史 荒井亮*
戦死
地理 浅香幸雄
教育大教授
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図工
図画 真木宣武
水船三洋*
工作 原稲生
東京学芸大学
(「日 曜 大 工 」という言 葉 の発 案 者 )
音楽
柏木俊夫*
東京学芸大学名誉教授
(途 中 休 職 中 村 田 護 郎 藤 原 歌 劇 団 )
体育
森 下 孝 三 郎 * (1 年 担 任 中 病 死 )
佐 々木 久 吉
中村基
国立競技場体育指導員
剣道
小沢丘
柔道
成瀬諭喜*
東京高師教授
真鍋修
教 練 (配 属 将 校 )
家 所 政 信 大 佐 (後 に東 部 軍 管 区 司 令 官 ・少 将 )
島田清吉少尉
荒木庄一少尉
栗山秀澄少尉
他 に配 属 将 校 2 名
142
5. 茗 渓 会 創 立 百 周 年 記 念 式 ‥‥‥本 会 百 年 の歩 み‥‥‥
本 会 は明 治 15 年 4 月 29 日 、神 田 明 神 の境 内 雪 月 楼 に、当 時 の東 京 師 範 学 校
同 窓 生 19 名 が会 合 し、「同 窓 ノ卒 誼 ヲ継 続 シ共 ニ教 育 ノ進 歩 ヲ謀 ル」目 的 をもっ
て創 立 され、ともに茗 渓 のほとりに蛍 雪 の功 を積 んだのにちなんで茗 渓 会 と名 づけ
た。今 年 より 100 年 以 前 のことである。同 年 12 月 の会 員 わずかに 123 名 、客 員 22
名 であった。
明 治 33 年 5 月 、法 人 組 織 とし、社 団 法 人 茗 渓 会 と称 した。同 36 年 6 月 、女 子
高 等 師 範 学 校 の創 設 に伴 い、女 子 会 員 551 名 は本 会 より分 離 して桜 蔭 会 を組 織
し、男 子 会 員 のみとなった。
母 校 の変 遷 に伴 い、会 員 は東 京 師 範 学 校 、高 等 師 範 学 校 (女 子 卒 業 生 を除 く)、
東 京 高 等 師 範 学 校 、第 一 臨 時 教 員 養 成 所 、東 京 文 理 科 大 学 、東 京 教 育 大 学 、
筑 波 大 学 の卒 業 生 が会 員 となり、その総 数 は 3 万 600 名 に達 する。
昭 和 34 年 、東 京 教 育 大 学 の母 体 となった東 京 文 理 科 大 学 、東 京 高 等 師 範 学
校 、東 京 農 業 教 育 専 門 学 校 、東 京 体 育 専 門 学 校 の卒 業 生 をもって組 織 せる茗
渓 会 、駒 場 会 、翔 陽 会 の3同 窓 会 が統 合 して東 京 教 育 大 学 の卒 業 生 を含 めた新
たな同 窓 会 を設 立 し、茗 渓 会 と名 乗 ることになった。
昭 和 48 年 10 月 、母 校 が筑 波 大 学 として発 足 したのに伴 い、本 会 も筑 波 大 学 の
同 窓 会 となり、昭 和 51 年 3 月 、筑 波 大 学 の卒 業 生 を初 めて会 員 に迎 えた。それ以
後 、毎 年 、卒 業 生 を会 員 に迎 え、今 日 に至 っている。
本 会 の目 的 は母 校 の変 遷 に伴 い、若 干 の変 化 はあったが、教 育 の研 究 と会 員 の
親 睦 は一 貫 して変 わらざる基 調 であった。
明 治 44 年 10 月 30 日 、母 校 創 立 40 周 年 記 念 式 には、明 治 天 皇 の御 名 代 とし
て皇 太 子 嘉 仁 親 王 の台 臨 を仰 ぎ、昭 和 6 年 10 月 30 日 、母 校 創 立 60 周 年 記 念
式 には今 上 陛 下 の行 幸 を仰 ぎ、「 健 全 ナル国 民 ノ養 成 ハーニ師 表 タルモノノ徳 化
ニ竣 ツ 事 ニ教 育 ニ従 フモノ 其 レ奮 励 努 力 セヨ」との優 渥 なる勅 語 を賜 ったことは
本 会 の最 も光 栄 とするところである。
昭 和 8 年 11 月 、会 員 の努 力 によって東 京 市 小 石 川 区 大 塚 町 56(現 在 文 京 区
大 塚 1−5−22)に地 下 1 階 、地 上 4 階 、の茗 渓 会 館 を建 設 した。この会 館 は本 会
の活 動 の本 拠 となるとともに地 方 会 員 が上 京 した際 の宿 泊 施 設 として広 く利 用 され
てきた。
昭 和 46 年 には、筑 波 大 学 の設 立 に先 立 ち、その後 援 を目 的 とする筑 波 学 都 資
金 財 団 を設 立 し、筑 波 地 区 に筑 波 研 修 センターを建 設 した。ついで、昭 和 54 年 に
は本 会 百 周 年 記 念 事 業 として筑 波 地 区 に中 学 部 、高 校 部 を持 つ学 校 法 人 茗 渓
143
学 園 を創 立 した。
以 上 の歩 みを経 て、今 日 、本 会 百 周 年 記 念 式 典 を挙 行 するに至 ったのである。
式 典 の部
‥‥‥‥‥‥‥‥司 会 理 事 葭 内 善 三 郎 理 事 堀 内 昭 三
11 時 開 式 (入 場 完 了 10:50)
式次第
序 曲 (ラッシュモアー)茗 渓 学 園 吹 奏 楽 部
開 式 の言 葉
式辞
理事 芳賀幸四郎
理事長代行 長浜 恵
11:00
11:02
来賓祝辞 文部大臣 小川平二殿
11:15
筑波大学学長 福田信之殿
祝電披露
11:30
功 労 者 氏 名 発 表 及 び感 謝 状 記 念 品 贈 呈
顧問
功労者謝辞
池岡直孝
11:31
元理事 小松直行
事務局永年勤続者表彰
11:36
11:38
校 歌 並 びに学 生 歌 筑 波 大 学 男 声 合 唱 団 11:40
閉 式 の言 葉
理事 土肥輝雄
11:58
茗 渓 学 園 吹 奏 楽 部 による祝 賀 行 進 曲 吹 奏
茗渓会功労者
顧 問 ・理 事
故柴田周吉 故小川英男 池岡直孝 池本義夫 大内脩二郎 小林善一 高橋
与平
高畑浅次郎 長浜恵 平田政雄 松本英三
諸橋轍次 山本佳男
支 部 長 ・代 議 員
大森久吉 楠原信一
義邦
雄
桑原嵯峨雄 幸野岩雄 小松直行 佐藤周吉
芝村
鈴木美雄 田村泰次郎 戸倉廣愛 花房寿美太 早勢弥一郎 福山富
目良湛一郎
事務局永年勤続者
高柳弥生 井上登志子
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6. 人 々に記 憶 された私
教 師 を長 年 続 けると、多 くの生 徒 達 に記 憶 されることになる。私 の肉 体 がこの世 か
ら消 えてもその人 々の記 憶 に残 ると思 うと、これはまことに有 難 いことである。以 下 皆
さんが私 について書 いてくださった文 を感 謝 の念 を込 めて紹 介 したい。
6.1 合 格 者 の言 葉
一 橋 学 院 OMNIBUS1985∼1990 より抜 粋
1985 年
筑 波 大 学 (第 1) 小 平 西
佐藤 克利
この一 年 間 、本 当 にありがとうございました。なんとか無 事 に筑 波 大 学 に合 格 でき、
うれしいかぎりです。でも、共 通 1 次 が悪 かったのによく合 格 できたと不 思 議 です。
学 院 では英 語 の久 能 先 生 、数 学 の宮 崎 先 生 ・岡 本 先 生 、物 理 の八 乙 女 先 生 の
授 業 がたいへんためになりました。大 学 でもこの 1 年 間 の努 力 を忘 れずに有 意 義 に
過 ごしたいと思 っています。
東 京 都 立 大 学 (工 ) 北 園
伊藤 哲也
共 通 1 次 の点 は良 かったが(829)、2 次 で失 敗 したので、絶 対 落 ちていると思 って
いただけに、自 分 の受 験 番 号 を見 つけた時 は非 常 にうれしかった。物 理 の苦 手 な
人 へ:物 理 の成 績 を上 げるのに、八 乙 女 先 生 のゼミで学 ぶか否 かが大 きなカギに
なると思 う。とにかく物 理 は八 乙 女 先 生 のゼミにもぐってでも受 講 し、かつ予 復 習 を
欠 かさないこと。夏 休 み、及 び受 験 前 にテキストを総 後 習 して完 璧 にしておけば、
大 きな力 になると思 う。
青 山 学 院 大 学 (理 工 ) 川 口 北 田 代 敏 雄
青 学 にも 合 格 し まし たが、 日 大 に入 学 する ことに しま し た。以 前 か ら希 望 して いた
航 空 工 学 科 に進 めて安 心 しています。学 院 で印 象 に残 っているのは物 理 の八 乙
女 先 生 の授 業 です。高 校 の時 は全 然 おもしろく思 えなかった物 理 が楽 しく思 えるよ
うになりました。
青 山 学 院 大 学 (理 工 ) (県 )富 士 川 口 達 也
予 備 校 の 合 格 判 定 を 全 く 無 視 し た受 験 で あったが 、 判 定 と は異 な った結 果 が 出
て幸 いであった。ほとんど最 後 の追 い込 みによる成 果 であったと思 うが、予 備 校 で 1
年 間 学 んだ下 地 があったからこそだと思 う。私 から物 理 に対 する抵 抗 感 を取 り除 い
145
てくれた八 乙 女 先 生 、本 当 にどうも有 り難 うございました。
成 蹊 大 学 (工 ) 蒲 田
加藤 範能
1 年 間 、学 習 に適 した環 境 で過 ごせ感 謝 しております。物 理 の八 乙 女 先 生 、数
学 の江 沢 先 生 には受 験 に対 する自 信 までもつけさせていただきました。短 い間 でし
たがお世 話 になりました。
東 京 理 科 大 学 (理 ) 麻 溝 台 岡 田 誠
一 生 懸 命 勉 強 したというより、一 生 懸 命 学 院 へ通 った 1 年 でした。第 1 志 望 に合
格 できて、本 当 に嬉 しいです。1 年 間 どうもありがとうございました。最 後 に僕 が受 け
た授 業 のうち、最 も印 象 深 かったものを挙 げておきます。武 市 先 生 の春 期 講 習 会 、
八 乙 女 先 生 の夏 期 講 習 、江 沢 ・桑 田 両 先 生 の直 前 ゼミ、以 上 。
日 本 大 学 (生 産 工 ) 武 蔵 工 大 附
原 憲雄
私 は、毎 日 、毎 日 学 院 に通 い続 けました。とても分 かりやすい授 業 を聞 くために、
雨 の日 も、風 の日 も、台 風 の日 も、病 気 の日 も通 い続 けました。特 に物 理 の八 乙 女
先 生 の 講 義 はためになりました。チ ユーター制 度 も非 常 に 役 立 ったと 思 います 。 接
着 剤 も思 わず驚 いてしまいそうな粘 り強 い精 神 力 と持 続 力 が、合 格 という結 果 にな
つたと思 います。
1986 年
東 京 理 科 大 学 (理 工 ) 上 野
澤田 正克
学 院 に入 ってから一 段 と英 語 が伸 びた。とくに N 先 生 の英 作 文 はすばらしかった。
何 たって『英 作 文 』という講 座 だが、英 作 文 だけではなく、英 語 全 般 にわたっての講
義 を受 けているようだった。次 に物 理 、Y 先 生 の物 理 は、 テキストにこ だわらず、 物
理 の知 識 、解 法 のテクニックを教 えてくださり、お陰 で何 とか合 格 できました。学 院
中 心 の勉 強 をすれば必 ず合 格 できると感 じました。
群 馬 大 学 (工 )
館林
渡辺 実
強 気 の一 発 勝 負 !見 事 に成 功 しました。この 1 年 間 の物 理 の伸 びは驚 異 的 でし
た。最 初 の週 間 テストでの偏 差 値 43 が、私 大 模 試 等 で上 位 者 に名 前 が載 るほどま
でに‥‥。 八 乙 女 先 生 、江 川 先 生 ありがとうございました。興 味 深 い授 業 をしてく
れた 英 語 の 久 能 先 生 、 数 学 の 江 沢 先 生 、 予 備 校 教 師 には とても 見 えな い桑 田 先
146
生 、ありがとうございました。これから数 学 の小 島 先 生 と学 院 の仲 間 と打 ち上 げで
す。
東 京 理 科 大 学 (工 ) 朝 霞
山口 真澄
(前 略 ) 岡 本 先 生 、各 問 のポイントをつき、わかりやすい授 業 。難 問 も易 しく理 解
することができました。松 本 先 生 、直 前 ゼミでは、ものすごい迫 力 、もうそれだけで英
語 は完 璧 だと感 じさせてくれました。八 乙 女 先 生 、何 はともあれ物 理 の楽 しさを教 え
られました。例 えば、電 気 のときでは、ステレオのアンプは某 メーカーのものが非 常
に優 れているとか、新 宿 の露 天 で、永 久 独 楽 を売 っている兄 さんに、その仕 組 みを
教 えたりとか、体 験 をまじえて物 理 を理 解 させてくれました。(後 略 )
青 山 学 院 大 学 (理 工 ) 秀 明
山賀 晋
いつも、リラックスした状 態 で勉 強 できたと思 う。特 に、物 理 の八 乙 女 先 生 の授 業
は最 高 でした。一 橋 学 院 には、各 科 目 に素 晴 らしい先 生 が最 低 でも 1 人 ずついら
つしやる。先 生 にはめぐまれた予 備 校 だと思 う。
中 央 大 学 (理 工 ) 熊 谷
金子 佳之
浪 人 生 活 からやっと開 放 されて、ただただうれしくてたまりません。学 院 のおかげで
自 分 の納 得 のいく実 力 がついて本 当 に感 謝 しています。特 に桑 田 ・八 乙 女 両 先 生
どうもありがとうございました。本 当 に八 乙 女 先 生 は神 様 です。
東 京 慈 恵 会 医 大 学 (医 ) 久 留 米 大 附 設
吉田 一仁
東 京 慈 恵 会 医 大 、日 本 医 大 、慶 応 大 ( 理 工 ) 、上 智 大 ( 理 工 ) に合 格 しました が、
ひそかな本 命 であった慶 応 (医 ) に振 られて、うれしさ半 分 、悲 しさ半 分 といったとこ
ろです。
参 考 にな ればと思 い 、各 教 科 の 勉 強 法 を書 いてみます と、数 学 ‥ ‥‥学 院 の 教
材 をすべて予 習 をして出 席 する。特 に宮 崎 先 生 ・江 沢 先 生 の授 業 には必 ず出 席
すること。化 学 ……好 野 先 生 の授 業 で完 璧 。物 理 ‥‥‥江 川 先 生 ・八 乙 女 先 生
の授 業 は最 高 。英 語 ‥‥‥学 院 の星 、武 市 先 生 ・久 能 先 生 。これで合 格 まちがい
なし。
1987 年
埼 玉 大 学 (工 ) 都 立 大 附 戸 谷 恒 一 郎
147
この 1 年 間 を有 意 義 に過 ごせたのは幸 せでした。国 語 から社 会 から全 部 とって、
これで落 ちたらバカみたいだなどと思 っていましたが、やっていてよかったです。それ
から、成 績 はそれほど上 がったわけではありませんが、八 乙 女 先 生 の物 理 は実 にた
めになりました。これからも、ポリシーのある授 業 を続 けて下 さい。
東 北 大 学 (工 ) 豊 岡
相沢 則夫
(前 略 ) 共 通 1 次 点 でも東 北 大 に合 格 できたのは、1 年 間 勉 強 してきた意 地 と、先
生 方 のおかげです。特 に学 問 の奥 深 さを教 えてくれた中 内 先 生 や八 乙 女 先 生 、
数 学 を得 意 科 目 にしてくれた福 田 ・桑 田 ・江 沢 ・永 野 先 生 、そして一 橋 学 院 の皆 さ
ん、ありがとうございました。
山 梨 大 学 (工 ) 永 山
石井 啓介
とにもかくにも、物 理 は八 乙 女 先 生 についてやるだけです。これが必 要 十 分 条 件
の 1 番 。次 に予 習 ・復 習 をきちんとやる、これが 2 番 目 の条 件 。最 後 に、目 標 を早 く
から決 め傾 向 を知 る。これで決 まりです。
東 京 理 科 大 学 (工 ) (県 )富 士
川口 博司
物 理 の出 来 が合 格 をもたらした最 も大 きな勝 因 です。八 乙 女 先 生 の 授 業 に出 て、
はじめて物 理 という科 目 の面 白 さを知 りました。先 生 の影 響 って大 きいですね。教 え
てもらった先 生 によって勉 強 したいという気 持 ちになれるんですからね。試 験 中 も八
乙 女 先 生 の顔 がうかんできて、自 信 をもって、受 けられました。
1988 年
横 浜 国 立 大 学 (工 ) 山 崎
樋口 昭範
今 回 の結 果 は 5 勝 1 敗 と、自 分 でも信 じられないくらいで、特 に第 1 志 望 の横 国
大 は共 通 1 次 の失 敗 でかなりきついかと思 ったが、2 次 で楽 々逆 転 できた感 じだっ
た 。 今 思 え ば 、 予 習 ・ 復 習 を 毎 日 欠 か さ な か っ た こ と が 唯 一 の 勝 因 で あっ た と 思 い
ます。一 橋 学 院 の授 業 は素 晴 らしいもので、特 に英 語 の中 内 先 生 、物 理 の八 乙 女
先 生 、数 学 の桑 田 ・ 横 田 ・ 小 島 先 生 の授 業 はとてもためになりました。一 橋 学 院 は
とても雰 囲 気 が良 くて、友 達 もたくさんでき、本 当 にこの予 備 校 を選 んで良 かったと
思 っています。
東 京 農 工 大 学 (工 ) 豊 岡
山元 俊幸
夏 休 みまでが勝 負 だったと思 います。それは、初 めは大 学 に落 ちたショックからの
148
緊 張 感 があったが、夏 休 みを過 ぎたらそれが続 かなかったからです。しかし、八 乙
女 先 生 の授 業 を受 けて物 理 が得 意 になり、それで 1 年 間 続 けることができました。1
次 は非 常 に 悪 かったけ れど 、 あき ら めずに やっ たのが 良 か ったです 。 何 事 も最 後 ま
で望 みを持 ってやるのが大 切 であるということがわかりました。(おわり)
東 京 学 芸 大 学 (教 育 ) 北 多 摩
赤司 俊一
共 通 1 次 の思 いもよらない高 得 点 で、直 前 学 期 のテキストの質 の高 さに感 動 しま
した。このテキストをやっていなかったら、これだけの成 績 は残 せなかったと思 います。
(数 学 )福 田 先 生 のお陰 でとっつきにくい微 分 積 分 がよく分 かるようになった。(物
理 )八 乙 女 先 生 のお陰 で物 理 の考 え方 がしっかり身 について、ひねった問 題 も大
まかな筋 道 をつかめるようになった。( 英 語 ) 八 木 先 生 の添 削 のお陰 で英 文 に対 す
る違 和 感 がなくなり、長 文 アレルギーもなくなった。長 文 の内 容 判 断 の時 に大 いに
助 かったし 、 その 分 、 他 の科 目 に対 する 負 担 が 少 なく なっ て、 落 ち つ いて受 験 で き
た。(後 略 )
早 稲 田 大 学 (教 育 )
足柄
剣持 峰宏
(前 略 )そして横 田 師 匠 にはお守 りを書 いていただき試 験 場 では大 へん落 ち着 きま
した。師 匠 の授 業 はあの“べらんめえ”調 でとてもユニークでした。その他 数 学 の講
師 は 一 流 の人 ば か り だし 、 理 科 は物 理 の 八 乙 女 先 生 、 化 学 の 鳴 瀬 先 生 の 授 業 も
たいへんすばらしく、英 語 は直 前 しか出 られませんでしたが、筒 井 先 生 の授 業 に感
動 し、自 分 の価 値 観 が変 わったような気 がします。本 当 にありがとうございました。
東 京 理 科 大 学 (理 ) 井 草
長坂 暁
この 1 年 間 は学 力 が伸 びただけではなく、友 人 もたくさんできた大 変 有 意 義 な年
であったと思 う。これから一 橋 学 院 で学 ぶ後 輩 諸 君 には、共 に学 ぶ友 人 を作 ること
をぜひ勧 めたい。それから、化 学 の鳴 頼 先 生 、数 学 の横 田 先 生 、小 島 先 生 の授 業
は面 白 くてとてもためになりました。また、宮 崎 先 生 、八 乙 女 先 生 、大 東 先 生 にも大
変 お世 話 になりました。素 晴 らしい講 座 の中 からしいて No.1 をあげるなら冬 期 単
科 「数 学 答 案 作 成 演 習 」です。これは最 高 でした!
武 蔵 工 業 大 学 (工 )
武蔵工大附
島田 大
(前 略 ) た だ、予 習 だ けはしっか り やった気 が する。 それ から 、物 理 の八 乙 女 先 生
には、わかるまで何 回 も質 問 した。そして 1 月 に校 内 模 試 とテキストの総 復 習 をした。
これが功 を奏 したのだろう。でも、こんな私 でも大 学 に受 からせてしまうのだから、 一
149
橋 学 院 を選 んで本 当 に良 かった。物 理 の八 乙 女 先 生 と英 語 の東 谷 先 生 は、日 本
でトップクラスの先 生 だ!
武 蔵 工 業 大 学 (工 ) 武 蔵 工 大 附
長山 泰久
まず初 めに感 じたことは、テキストの内 容 が良 いということです。特 に物 理 のテキス
トは素 晴 らしく、入 試 では 3∼4 題 も似 た問 題 が出 て驚 きました。又 、物 理 の八 乙 女
先 生 にはとても感 謝 しています。とてもわかりやすい授 業 で、特 に電 気 のところでは
キルヒホッフの法 則 を使 わず、高 校 の時 は全 くといっていいほどやらなかった電 位 の
図 を書 いて解 くということを教 えてもらい、本 当 に役 立 ちました。最 後 に後 輩 のみな
さん、一 橋 学 院 のテキストをやっていれば必 ず受 かります。
ガンバッ!
武 蔵 工 業 大 学 (工 ) 小 松 川
小山 次郎
八 乙 女 先 生 の物 理 の授 業 のおかげで、物 理 に興 味 をもつことができるようになり、
偏 差 値 も 50 から 60 にまでなりました。それから、直 前 ゼミで阿 久 津 先 生 の授 業 に
出 るために、2 時 間 も前 に一 橋 学 院 に行 ったことが印 象 に残 っています。
芝 浦 工 業 大 学 (工 ) (私 )城 北
加藤 晃宏
八 乙 女 先 生 、鳴 瀬 先 生 、なんとか合 格 することができました。冬 期 ・直 前 と毎 日 の
ように八 乙 女 先 生 に質 問 に行 ったおかげで、物 理 の偏 差 値 が 56 から 73 まで伸 び
ました。八 乙 女 先 生 は本 当 に救 世 主 でした。一 生 感 謝 致 します。また、鳴 瀬 先 生
には精 神 面 で支 えてもらいました。何 度 も励 ましていただいたおかげで、挫 折 せず
に頑 張 ることができました。それから、最 後 まで苦 労 した数 学 は、小 島 ・永 野 両 先 生
に大 変 お世 話 になりました。(後 略 )
東 京 電 機 大 学 (理 工 )
府中西
工藤 敬太
八 乙 女 先 生 に言 われた通 り、試 験 中 あきらめずに 1 点 でも多 く得 点 するようにした
のが 良 かっ たと思 いま す。 電 機 大 は去 年 か す りもし な かっ た所 な ので 、大 変 満 足 し
ています。1 年 間 、ありがとうございました。
1989 年
東 京 農 工 大 学 (工 ) 昭 和
藤森 大輔
1 年 間 本 当 にありがとうございました。物 理 で八 乙 女 先 生 に会 えてとても幸 運 だっ
150
た。共 通 1 次 2 ケ月 くらい前 から始 めた倫 理 政 経 も、短 期 集 中 追 い込 み授 業 でな
んとかなったし、合 格 を祝 ってちょーだい。それではさよならさん。乱 筆 乱 文 失 礼 。
大 輔 でした。
中 央 大 学 (理 工 ) 北 多 摩
大谷 仁美
去 年 は 1 つも合 格 できなかったのに、一 橋 学 院 で 1 年 間 学 んだことによって、今
年 は 4 つも合 格 できたのでとてもうれしいです。第 1 志 望 には落 ちてしまったけれど、
自 分 なりに精 一 杯 やってきたので、悔 いはありません。浪 人 をして、いろいろな事 が
学 べたので、本 当 に良 かったと思 っています。八 王 子 校 は校 舎 がとてもきれいで、と
ても勉 強 のしやすい所 でした。先 生 の講 義 もわかりやすく、特 に物 理 の八 乙 女 先 生
には感 謝 しています。
1990 年
日 本 大 学 (理 工 )
明治学院
鈴木 元
(前 略 ) 私 は物 理 の八 乙 女 先 生 のおかげでずいぶん励 まされました。物 理 という
のは本 を読 んでいるだけではなかなかイメージできなくて、理 解 しかねるところが
多 々 あ り ま すね 。 こう い うも のを プラ イベ ー トレ ッ ス ンに 持 っ て行 くと 八 乙 女 先 生 は そ
の質 問 の全 体 の基 礎 をわかり易 く説 明 してくれて、とても良 かったです。それに先 生
と仲 良 くなるとヤル気 は出 てくるものなのです。(後 略 )
6.2
「物 理 に魅 せられた私 の半 世 紀 」
(横 浜 市 立 大 学 大 学 院 総 合 理 学 研 究 科 )小 川 恵 一
横 浜 市 立 大 学 小 川 学 長 (小 山 台 高 校 7 回 生 )最 終 講 義 より抜 粋
§1 はじめに
私 は 1952 年 に東 京 都 立 小 山 台 高 等 学 校 に入 学 し、そこで初 めて物 理 という学
問 に触 れました。それからちょうど半 世 紀 が経 ったことになります。私 事 になりますが、
§2 から§4 までは年 代 順 に「私 の半 世 紀 」を語 ってみたいと思 います。「反 省 記 」の
思 いもこめてです。これは最 終 講 義 という性 格 上 お許 しいただけるものと思 います。
私 の半 世 紀 は私 の性 にあった学 問 である物 理 学 、優 れた恩 師 、いい職 場 と同 僚 、
それに 素 質 のある学 生 に恵 まれ 、 私 の人 生 を 豊 かにして くれました。 天 に深 く感 謝
したい気 持 ちで−杯 です。
§4 では私 の講 義 の一 端 をご紹 介 し、§5 では最 終 講 義 に参 加 してくれた若 い人
に向 け、日 頃 感 じていることをひとこと(正 確 には三 こと)述 べたく思 います。
151
§2 1952−1965
いい先 生 といい本 との出 会 い
こ の 期 間 は 私 が 高 校 、 大 学 、 大 学 院 、 ポ ス ト ド ク ト ラ ル とひ た す ら 勉 強 を し た 修 行
時 代 です。そのうち大 学 院 の博 士 課 程 は米 国 のペンシルバニア大 学 で、ポストドク
トラルは英 国 のケンブリッジ大 学 で過 ごしました。
私 が小 山 台 高 等 学 校 へ入 学 すると東 京 教 育 大 学 から赴 任 された若 い八 乙 女 盛
典 先 生 に出 会 いました。当 時 、八 乙 女 先 生 は朝 永 振 一 郎 教 授 のお弟 子 さんという
噂 でした。先 生 とは約 半 世 紀 振 りに同 窓 会 でお会 いしました。そのときの先 生 のお
話 によると小 山 台 高 校 の歴 史 上 後 にも先 にも、ただ私 達 の入 学 年 度 だけ高 1 の学
生 に物 理 学 を教 えたとのことでした。私 はその高 1 のときたまたま物 理 学 を選 択 しま
した。
八 乙 女 先 生 は力 学 の授 業 のとき、力 を直 角 座 標 のx成 分 、y 成 分 、z成 分 にひた
すら分 解 して運 動 方 程 式 をたてれば全 ての問 題 は解 けると言 い切 っておられました。
先 生 の教 えにしたがって練 習 問 題 を解 いてみると面 白 いように解 けました。暗 記 の
苦 手 な私 は一 挙 に力 学 の虜 になりました。そして、物 理 学 の魅 力 に取 りつかれるよ
うにな
つた次 第 です。
(後 略 )
152
付 録
1. 物 理 いろはかるた
重 要 なことを記 憶 するには、各 人 が自 分 なりに都 合 のよい方 法 を考 案 するのが普
通 であるが、万 人 向 き で古 来 より 広 く用 いられている方 法 は諺 や標 語 の類 であろう。
これらは日 本 語 の特 徴 としての七 五 調 で事 柄 を表 現 したものが多 く、この七 五 調 は
日 本 人 に最 も適 した文 節 である。これが俳 句 (発 句 )、和 歌 の基 本 ともなっているこ
とはよく知 られている通 りである。
これらを記 憶 として一 層 強 く定 着 させるにはかるたというものがある。その代 表 が
「いろはかるた」であろう。現 在 では「いろは順 」は流 行 らないので、「あいうえかるた」
というほうがよいのかも知 れないが。しかもこれらは現 在 の小 学 生 でもこの中 のいくつ
かは知 っている程 記 憶 され易 いものである。
昭 和 10 年 頃 には、ある子 供 の学 習 雑 誌 の付 録 として「学 習 かるた」がついていた。
私 の兄 弟 は冬 休 みの夜 などには炬 燵 に入 ってこのかるたで遊 んだものであった。今
でもその中 のいくつかはなつかしく思 い出 される。
この かるた は、社 会 、 理 科 、国 語 に関 す る重 要 な事 柄 を 諺 の 形 式 ( 主 とし て七 五
調 )にして表 した読 み札 と、それにふさわしい子 供 向 きの絵 を描 いた取 り札 でできて
いた。
今 でも覚 えているものをいくつかあげてみる。
〔ぬ〕ぬれ手 で電 灯 、さわるは危 険
〔ひ〕人 の平 熱 37 度
〔ふ〕仏 教 伝 来 1212(いっちに、いっちに)、
(紀 元 1212 年 )
〔の〕のみのすくねは角 力 の元 祖
また、私 は子 供 の頃 より標 語 などを作 ることが好 きであった。例 えば小 学 校 6 年 生
の時 、衆 議 院 議 員 選 挙 で違 反 、棄 権 防 止 のための標 語 募 集 が行 われ、私 の作 っ
た「清 く正 しく明 るい選 挙 」が入 賞 し、朝 会 で校 長 を通 して選 挙 管 理 委 員 会 から賞
状 と銀 メダルが授 与 された。
このような 趣 向 で、物 理 で扱 う重 要 な自 然 現 象 や法 則 な どを記 憶 させる方 法 と し
て「物 理 いろはかるた」を作 成 して、冬 休 みなどの遊 びとして行 わせることは学 習 効
果 を上 げる上 で有 効 ではないかと考 え、次 のようなものを作 ってみた。
153
一 つの語 にいくつかの句 をあげたものがある。普 通 のかるたでは一 語 一 句 となって
いるが、一 語 一 句 ということは全 体 の数 として 48 句 に限 定 されてしまう。物 理 の全
範 囲 を 48 句 でカバーすることは不 可 能 であり、下 記 にあげたものでも分 野 により偏
りが大 きい。高 校 レベルのかるたとしては、一 語 に二 句 以 上 あるのもよいのではない
かと考 えた。
一 語 に二 句 以 上 あるものについては、物 理 の内 容 を知 っていれば取 り札 の絵 に
よって区 別 して取 ることができるので、かえって一 語 一 句 のものよりも学 習 としての意
味 が大 きい のではない かと 考 えら れる。こ の よ うな意 味 で 一 語 に 二 句 以 上 並 べた も
のも沢 山 ある。
また、ここに記 したものが必 ずしも適 切 とは限 らず、適 当 なものが作 れずに無 理 に
作 ったものもあるので、読 まれた方 でもっとよい句 ができれば是 非 ご教 示 いただきた
い。
(注 )同 一 内 容 の句 は先 に挙 げた方 が優 先 候 補 。( )内 は条 件 また は内 容 を示 す。
〔あ〕雨 の粒 は等 速 落 下 (空 中 で 1∼10m/s)
アースしたなら電 位 は 0
温 まり易 いものは冷 め易 い(水 の比 熱 )
〔い〕いそがば曲 れ(フェルマーの定 理 )
〔う〕うなりの数 はヘルツの差
動 く向 きと力 の向 きは同 じと限 らず
運 動 量 、外 力 0 なら保 存 する
〔え〕円 運 動 に向 心 力
エネルギーは仕 事 のできる能 力 示 す
〔お〕音 は縦 波 光 は横 波
音 の高 さは振 動 数 (大 きさと高 さの区 別 )
〔か〕加 速 度 あれば力 あり
〔き〕気 体 の比 熱 は 2 通 り(定 積 と定 圧 )
近 視 の目 がねは凹 レンズ
〔く〕屈 折 すれば速 さは変 わる(屈 折 の法 則 )
クーロン力 距 離 の 2 乗 に反 比 例 (電 気 ・磁 気 共 )
〔け〕原 子 の世 界 は不 連 続
〔こ〕コイルの磁 界 は右 ねじの規 則
コンデンサー交 流 通 すが直 流 通 さず
154
抗 力 あれば面 から離 れず
〔さ〕作 用 あれば反 作 用 あり
〔し〕磁 界 変 れば電 界 生 ず
仕 事 は力 と変 位 のスカラー積
磁 束 を切 ると電 気 がおきる
〔す〕すき間 で波 は回 折 す
水 銀 の重 さは水 の 13.8 倍
図 による思 考 が問 題 解 決 の第 一 歩
〔せ〕全 反 射 密 から疎 のとき起 りうる
絶 対 0 度 はせっ氏 で−273 度
〔そ〕速 度 変 れば加 速 度 あり
〔た〕太 陽 の熱 の源 核 融 合
〔ち〕力 と加 速 度 比 例 する
力 働 き加 速 度 生 ず
地 球 の半 径 6370 キロ
〔つ〕月 の重 力 地 球 の 6 分 の 1
〔て〕天 びんは 重 さでなくて質 量 測 る
天 びんは物 の質 量 はかるもの
電 流 あれば磁 界 あり
〔と〕所 変 れば重 さも変 る
とがったところに電 気 は集 る(静 電 気 )
〔な〕波 の特 性 干 渉 ・回 折
〔に〕虹 の七 色 光 の分 散
ニュートンは古 典 力 学 のパイオニア
ニュートンあらわすプリンキピア
ニュートンリングは光 の干 渉
ニュートンは力 の MKS 絶 対 単 位
〔ぬ〕ぬれ手 で電 気 さわると危 険
〔ね〕熱 がからむと不 可 逆 変 化 (力 学 的 エネルギー非 保 存 )
音 色 をきめる倍 音 の種 類
熱 とは内 部 エネルギーとみつけたり
155
熱 の伝 わり 3 種 類 (伝 導 ・対 流 ・放 射 )
〔の〕ノーベルはダイナマイトの発 明 者
〔は〕波 源 動 けば波 長 が変 る(ドップラー効 果 )
速 く動 くと質 量 増 加 (相 対 性 理 論 )
〔ひ〕光 の秒 速 3 億 メートル
光 の速 さは一 番 速 い(真 空 中 )
〔ふ〕浮 力 によって気 球 は昇 る
振 り子 の周 期 は長 さで決 まる(単 振 り子 )
〔へ〕偏 光 で知 る 光 は横 波
べ−ター線 は電 子 の流 れ
偏 光 使 って立 体 映 画
〔ほ〕ホイへンス 反 射 ・屈 折 うまく説 く
ホドグラフ 速 度 変 化 を見 るに便
放 射 線 に 3 種 あり(α、β、γ)
〔ま〕マグナス効 果 でボールは曲 る
摩 擦 がなければ歩 けない
〔み〕水 は方 円 の器 に従 う
ミリカンみつける電 気 素 量
〔む〕虫 めがね f小 さいと大 きく見 える
〔め〕明 視 の距 離 は 25 センチ
めがねの度 数 は焦 点 距 離 (インチ数 )
〔も〕モーター動 かす電 磁 力
モーメント 腕 の長 さと力 の積
〔や〕ヤングの実 験 光 の回 折
〔ゆ〕夕 焼 け朝 焼 け 光 の回 折
〔よ〕横 波 山 谷 (やまたに) 縦 波 疎 密
〔ら〕ラウエ見 付 ける結 晶 構 造
ライマン系 列 水 素 の光
ラマン効 果 光 の散 乱
〔り〕流 体 は ずれの弾 性 生 じない
理 論 と実 験 車 の両 輪
〔る〕ルクスは 面 の照 度 の単 位
〔れ〕レンツ見 つけた電 磁 誘 導
156
レントゲン X 線 の発 見 者
〔ろ〕論 より証 拠 (〔り〕と対 )
ローレンツ力 は evB
〔わ〕惑 星 の運 動 表 す3法 則 (ケプラーの法 則 )
157
2. 思 い出 の歌
2.1 東 京 市 歌 高 田 耕 甫 作 歌 山 田 耕 筰 作 曲
(一)
紫 にほいし武 蔵 の野 邊 に 日 本 の文 化 の華 さきみだれ
月 影 いるべき山 の端 もなき むかしの廣 野 のおもかげいずこ
(二 )
高 樓 はるかにつらなりそびえ 都 のどよみはうづまきひびく
御 座 のもとなる大 東 京 の のびゆく力 の強 きを見 よや
(三 )
大 東 京 こそわがすむところ 千 代 田 の宮 居 はわれらがほこり
ちからをあわせていざわが友 よ われらの都 にかがやきそへむ
(注 )この歌 は毎 年 、東 京 市 制 記 念 日 (現 在 の都 民 の日 )に小 学 校 での挙 式 の際 歌 い、紅 白
の菓 子 が配 布 された。
2.2 山 中 尋 常 小 学 校 校 歌 (星 の光 )
(一)
星 の影 輝 けリ 強 く長 へに 栄 えある千 代 田 の 宮 居 を仰 ぎて
勉 めやはげめや吾 學 び舎 の友
光 に至 誠 の魂 を宿 して
(二 )
芙 蓉 の雪 清 く わが窓 を照 じ 鹿 島 の宮 柱 萬 世 に守 れり
讃 へよ歌 へよ吾 學 び舎 の名 を み空 のはてまで轟 くほどに
2.3 第 二 東 京 市 立 中 学 校 校 歌
藤村作作詞 田村虎蔵作曲
(一)
過 ぎし時 代 に殉 へつつ 新 しき世 に捧 げたる
尊 き至 誠 の香 に匂 ふ 昔 江 戸 の鎮 護 の地
東 叡 山 の丘 の上 そそりて立 つは我 が母 校
(二 )
屋 上 高 く登 り行 き 霊 峰 富 士 に対 ひつつ
三 千 年 の源 遠 き 国 の生 命 と国 民 の
雄 々しき明 き潔 き 日 本 精 神 をたたふかな
(三 )
158
学 海 風 は荒 べども 人 生 谷 は深 けれど
人 を頼 まぬ雄 心 に 力 協 せて捧 げ持 ち
仁 愛 正 義 赤 白 の 旗 影 遠 く靡 かせん
2.4 同 校 体 育 園 の歌
松 林 常 治 作 詞 (旧 8期 ) 柏 木 俊 夫 作 曲
(一)
踏 めよ 大 地 を 愉 快 に強 く
仰 げ青 空 輝 く太 陽 光 光 光 光 光
行 けよ 我 らの体 育 園
(二 )
吸 えよ 大 気 を 存 分 深 く
揺 らぐ青 葉 に 心 は躍 る 緑 緑 緑 緑 緑
行 けよ 我 らの体 育 園
(三 )
跳 べよ 溌 刺 自 由 に高 く
我 らが五 体 に 血 潮 は高 鳴 る
力力力力力
行 けよ 我 らの体 育 園
159
2.5 東 京 校 歌 祭 開 催 の趣 意
平 成 7年 11 月 18日 、日 比 谷 公 会 堂 で開 催 された第 3回 プログラムより抜 粋
会長 神津 康雄
東 京 府 立 旧 制 中 学 校 の中 で、最 も古 い学 校 は、明 治 11年 9月 創 立 の東 京 府 立
第 一 中 学 校 (現 日 比 谷 高 等 学 校 )であり、また私 立 では、明 治 4年 共 立 学 校 として
開 校 した現 在 の開 成 中 学 校 でありますが、爾 来 今 日 迄 、多 くの伝 統 校 が各 校
夫 々の教 育 方 針 に従 い、人 間 形 成 を根 幹 とする中 等 教 育 によって優 秀 な卒 業 生
を輩 出 し、今 日 迄 首 都 及 び日 本 の各 界 、各 分 野 に於 ける人 材 育 成 の源 泉 として、
日 本 の社 会 に大 きな貢 献 を果 たしてきました。
その教 育 の中 で、各 校 が夫 々目 標 とする理 念 や理 想 を、学 校 創 設 に携 わった校
長 先 生 や指 導 的 な教 育 者 が情 熱 を篭 めて歌 詞 に謳 い込 んだ「校 歌 」は、長 く生 徒
達 に歌 い継 がれて夫 々の学 校 の校 風 と伝 統 を形 作 り、幼 い
少 年 の心 を鼓 舞 すると共 に、全 ての卒 業 生 にとつても夫 々
人 間 形 成 の原 点 を顧 み、懐 かしむよすがとなってきました。
私 達 は今 でも、あの当 時 、機 会 ある毎 に感 激 をもつて校 歌
を高 唱 して過 ごしたあの素 晴 らしい青 春 の日 々を忘 れること
が出 来 ません。そして私 達 は、この心 を平 成 の若 い後 輩 の
人 達 にも伝 えて行 きたいと思 います。
この校 歌 祭 は、その意 味 に於 いて、先 輩 も後 輩 も、男 性 も
女 性 も、渾 然 一 体 となって共 に放 歌 高 吟 し、夫 々の校 風 、
伝 統 を鼓 吹 する場 であると共 に、各 校 歌 の精 神 を通 して、
多 くの若 い人 達 の魂 が鼓 舞 、激 励 される催 しとなってゆくも
のであることを信 じて疑 いません。
以 下 茗 渓 會 出 版 部 編 「茗 渓 歌 集 」(昭 和 32 年 不 味 堂 )より
2.6 東 京 高 等 師 範 学 校 ・東 京 文 理 科 大 学 校 歌
北原白秋作詞 山田耕筰作曲
(一)
あか
おこ
青 雲 の空 に高 く 桐 の葉 と照 り 明 るもの 故 あり 大 塚 我 等 興 れり
羽 ばたく更 正 自 治 よ自 由 文 教 新 たに時 代 を指 示 せん
160
こぞ
いつ
挙 れよ 若 人 栄 あれ この岡 愛 なり 道 なり 使 命 は 一 なり
(二 )
あさかげ
きおいつよく
あが
朝 光 の 勢 剛 く 桐 の葉 と照 り明 るもの 学 府 よ 大 塚 志 気 は 揚 れり
せいさい
り
り
東 の精 神 西 の科 学 生 采 離 々た
ひと
り 斉 しく取 るべし
まつ
つち
俟 あれ 人 生 輝 け この 地
愛 なり 道 なり 起 つべき今 なり
(三 )
みやい
大 君 の宮居 近 く 桐 の葉 と照 り明
るもの
いらか
母校よ 大塚
ぎ
ぎ
甍 魏 々たり
教 化 の国 本 真 の知 徳
培 え 育 てよ 理 想 に生 きつつ
与 えよ 総 てを 没 せよ 己 を
愛 なり 道 なり 至 上 の善 なり
161
2.7 同 校 宣 揚 歌
大和資雄作詞 作曲不明
(一)
桐 の葉 は 木 に朽 ちんより
秋 来 なば 先 駆 け散 らん
名 のみなる 廃 墟 を捨 てて
さ
おのこ
醒 めて立 て 男 子 ぞ我 等
(二 )
日 の本 の 教 の庭 に
まなびや
いと高 き 学 舎 ありと
人 も知 る 茗 渓 の水
か
にご
よし 涸 れよ 濁 さんよりは
(三 )(作 詞 大 山 信 郎 )
時 を経 て 百 年 過 ぎぬ
か
もと
今 ここに 水 は 涸 るとも 新 泉 は 筑 波 の 麓 に いざ立 たん 若 人 我 等
162
2.8 同 校 桐 花 寮 寮 歌
今井宇三郎作詞
(一)
ひんがし
雲 東 の天 を染 め 紫 匂 ふ桐 の花
は
霧 霽 れわたる大 塚 の 占 春 園 のあさぼ
らけ
希 望 の光 輝 きて 万 象 生 命 新 たなり
(二 )
今 警 鐘 の鳴 りいでて 暁 の夢 醒 めて起
つ
ほうすう
鳳 雛 こゝに六 百 の 桐 花 の寮 の健 男 子
あした
革 新 の歩 歩 堂 々と 興 亜 の 朝 響 くなり
(三 )
濤 暗 雲 の空 に湧 き 暴 風 猛 り 荒 ぶとも
しちじふ
春 秋 ここに 七 十 の 桐 花 の寮 の健 児 等 が
教 学 の旗 燦 然 と 翳 せる腕 力 あり
(四 )
鳴 呼 桐 の花 日 の本 の 教 の泉 ここに湧 く 茜 に暮 れし学 舎 の 桐 花 の寮 の健 男 児
報 国 の火 に赤 々と 六 寮 の窓 光 あり
2.9 寮 歌 井 上 武 士 作 詞
(一)
占 春 園 の朝 ぼらけ 映 ゆる桜 の紅 に
芙 蓉 の雪 の白 妙 や 坂 東 太 郎 の気 を受 けて
世 に清 新 の虹 を吐 く 尚 武 の健 児 名 は高 し
(二 )
彩 雲 匂 ふ初 夏 の
白 日 に舞 ふ鳳 凰 の
羽 衣 の曲 を見 よや君
朱 冠 輝 き翼 照 り
163
青 雲 高 き夏 空 に 銀 光 強 く放 つなり
(三 )
星 はさやかに月 淡 く 銀 漢 高 く冴 ゆる宵
濃 きぬばたまの空 仰 ぎ
遠 き想 ひを馳 するかな
遊 子 思 郷 の悲 しみの 心 に湧 きて限 りなし
(四 )
秋 茗 渓 に回 りては 泉 の水 もいと清 し
峯 の嵐 をよそに見 て
紅 葉 の錦 桐 一 葉
高 き薫 を身 にしみつ 注 ぐ怒 濤 のわだの原
(五 )
鳴 呼 鳳 凰 の宿 るてふ 其 の名 も床 し桐 花 寮
文 を尚 び武 を磨 く 臥 竜 の健 児 意 気 を見 よ
千 仭 翔 くる鳳 の影 弦 月 吼 ゆる猛 虎 の威
2.10 寮 歌 駒 柵 実 作 作 詞
(一)
占 春 園 に春 たけて
池 畔 の梧 葉
かをる時
その名 も清 き茗 渓 の 泉 に集 ふ俊
秀が
御 民 の儀 表 夢 みつゝ 師 魂 培 う桐
花寮
(二 )
朝 霧 こむる尾 久 河 畔 春 風 そよぐ
保 谷 の庭
青 空 高 き北 条 に 鍛 へ鍛 へし寮 友
が
悠 々和 楽 相 共 に 師 魂 に生 くる桐
花寮
(三 )
厳 冬 きさらぎ霜 白 き 未 明 の空 にこだまする
こせい一 事 もろともに 錬 武 に励 む若 武 者 の
164
英 気 凛 冽 天 をつき 師 魂 を鍛 ふ桐 花 寮
(四 )
星 はうつろひ代 は変 り 世 俗 のあらしたけれども
伝 統 ほこる自 治 寮 の 高 き使 命 に目 覚 めたる
五 百 の健 児 ひたすらに 師 魂 を磨 く桐 花 寮
2.11 寮 歌 和 歌 山 春 吉 作 詞
(一)
匂 もふかきむらさきの 桐 の花 蔭 雫 して 地 に湛 へては名 も清 く
いさお
誉 は高 き茗 渓 や 星 霜 とみに移 れども 功 績 はつきぬ此 の流 れ
(二 )
こうげい
空 を彩 る 紅 霓 の 一 時 の栄 は染 めざれど 不 変 の操 色 に出 で
おもひ
銀 光 冴 ゆる黎 明 の かの明 星 の影 やどす 底 には深 き 理 想 あり
(三 )
ず
ね
こ
闇 をどよもす松 籟 の 一 夜 の曲 は 誦 せざれど 不 断 の響 音 に 罩 めて
範 の清 水 は潺 湲 と 湧 きて流 れて末 遠 く 行 くてに崇 き光 明 あり
(四 )
ふ え
ねじろ
と
は
不 壊 の巌 を 根 城 にて 永 久 に曇 らぬ姿 こそ
かがみ
人 の 亀 鑑 と仰 がるれ 時 運 の雲 の迷 ふ時
精 気 凝 りては玉 となり 錬 りては秋 の水 となる
(五 )
しこくさ
ほふ
見 よ此 の水 の行 くところ 醜 草 の根 を 屠 りつつ
はて
桐 の花 香 を移 しては 東 亜 をめぐり 涯 知 れぬ
うみ
をしへ
西 の 洋 なる荒 磯 にも 咲 くや 教 花 の浪 の華
165
(六 )
ゆかり
栄 の歴 史 を囁 きの 由 緒 も深 き小 石 川
みなもと
若 木 の桐 に培 ひて 源 泉 さらに涵 はん
つとめ
本 務 はいよよ大 塚 や 地 は秀 麗 の寄 宿
寮
(七 )
ず
りょう
ああ六 百 の自 治 の友 高 誦 せんかな 領
の歌
れい
朝 残 月 の影 ふみて 霊 の泉 を掬 ぶ時
ゆふべ
いりひ
へ
せい
をしへ
夕 落 陽 の丘 の 上 に 聖 の 教 訓 偲 ぶ時
2.12 寮 歌
葛 原 しげる作 詞
(一 )
野 山 の霞 後 にして 都 大 路 の花 吹 雪
分 けては集 ふ大 塚 の 占 春 園 の朝 ばらけ
さわやかに ほがらかに
若 き日 の 希 望 にをどる胸 よ 友 よ
(二 )
燦 爛 として昇 る旭 に 映 えて輝 くあかね雲
と
は
どよもすばかり高 鳴 るや 生 命 は 永 久 の自 治 の鐘
はれやかに ほこりかに
若 人 に 起 てよと響 く自 治 の 鐘 よ
166
(三 )
を
野 山 の草 木 生 ほすべく 桐 の葉 かげに湧 き出 づる
久 遠 の泉 共 に汲 む 桐 花 の寮 の夕 まぐれ
床 しくも 豊 けくも 若 き日 の 思 ひは遠 き歌 よ 友 よ
(四 )
煌 々として永 劫 の 自 治 の鏡 と澄 むか月
ほこ
仰 ぎて磨 き茗 渓 に 古 きを 矜 る我 が歴 史
新 しく進 みゆく 若 人 の 行 手 を照 らす自 治 の 鐘 よ
2.13 桐 の華 (七 寮 節 )
大塚音楽会作曲
A
(1)
月 の七 日 はお薬 師 参 詣 り ヨイヨイ
お薬 師 参 りにそなたを見 初 め
エートエート あらや こらやとせ
(2)
見 初 めたばかりぢゃ相 済 みならぬヨ
イヨイ
相 済 みならなきゃ文 やらしゃんせ
エートエート あらや こらやとせ
(3)
文 は玉 章 文 箱 に入 れてヨイヨイ
送 るそなたは白 装 束 よ
エートエート あらや こらやとせ
B
わたしゃ好 きだよ七 寮 の書 生 さん ヨイヨイ
稽 古 帰 りのあの乱 れ髪 エートエート あらや こらやとせ
C
那 須 与 一 は扇 の的 よ ヨイヨイ
要 射 られて骨 ばらばらと エートエート あらや こらやとせ
167
D
西 郷 隆 盛 や話 せる男 ヨイヨイ
国 の為 なら死 ねと云 ふたよ エートエート あらや こらやとせ
E
咲 いた桜 になぜ駒 繋 ぐヨイヨイ
駒 が勇 めば花 が散 る エートエート あらや こらやとせ
2.14 寮 歌 祭 記 事
同 窓 会 誌 「 茗 渓 」893 号 ( 昭 和 43 年 11 月 )より抜 粋
去 る昭 和 43 年 10 月 27 日 の第 八 回 日 本 寮 歌 祭 にわが東 京 高 師 が初 登 場 した。
秋 晴 れのこの日 、日 本 武 道 館 に参 集 した高 師 勢 は、山 高 帽 モーニング姿 の津 野
団 長 をはじめ、剣 道 佐 藤 卯 吉 、柔 道 工 藤 一 三 両 大 先 輩 をはじめ、東 京 、神 奈 川 、
千 葉 、埼 玉 を中 心 とした 120 名 近 い勢 力 であった。
今 回 の寮 歌 祭 は旧 制 高 校 、旧 制 大 学 予 科 、旧 制 専 門 校 を合 せて 55 校 であった
ため、一 校 の持 ち時 間 は入 退 場 をも含 めて6分 という制 限 をうけた。高 師 は第 1部 7
番 目 に登 場 したが、指 揮 は葭 内 善 三 郎 が執 り、太 鼓 は大 阪 から馳 せ参 じた小 林
繁 が受 け持 ち、「宣 揚 歌 」と「桐 の華 」を唄 いあげた。葭 内 指 揮 者 の学 校 紹 介 の
朗 々たる第 一 声 から調 子 はよく、若 き日 の蛮 声 が場 内 に響 き堂 々たる唄 い振 りであ
った。
11 時 開 始 から実 に6時 問 にわたる熱 気 に充 ちた歌 祭 りの後 、17 時 から武 道 館 前
広 場 でファイヤストームがくりひろげられたがここでも小 林 繁 は太 鼓 を叩 きまくった。
18 時 から武 道 館 内 で合 同 懇 親 会 が開 かれたが、高 師 は一 食 卓 を独 占 し、津 野
団 長 のモーニングを囲 んで新 旧 同 窓 が飲 み、食 い、語 り哄 笑 爆 笑 に時 の移 るのを
忘 れ、20 時 ごろ再 会 を約 して袂 を分 った。
寮 歌 祭 の好 きは、老 若 の同 窓 が壇 上 で思 い出 の歌 を唄 い合 うだけでなく、今 まで
顔 も 名 も 知 ら な か った先 輩 後 輩 が一 堂 に 打 ちと け て 話 しあえ る 機 会 を 得 る とこ ろに
ある。散 会 後 筆 者 は更 に高 師 最 終 年 度 卒 のA 君 と、新 制 大 卒 のB君 という遥 かに
年 代 の隔 たった二 人 と新 宿 で飲 みあい語 りあうという大 収 穫 を得 て 28 日 朝 退 京 西
下 した。
来 年 度 は一 層 演 出 に工 夫 を加 え(例 えば佐 藤 卯 吉 先 輩 の剣 道 着 、工 藤 一 三 先
輩 の柔 道 着 など)、母 校 の教 授 連 も狩 り出 し、大 茗 渓 の情 熱 を展 開 したいものであ
る。
(昭 8 体 甲 ・四 天 王 寺 女 子 大 教 授 小 林 繁 )
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参 加 校 55 校
吟 爾 浜 ・東 船 ・大 同 ・山 口 商 ・神 船 ・京 府 医 高 師 ・陸 士 ・拓 大 ・満 医 大 ・東 亜 同
文 ・長 崎 商 ・海 兵 ・北 大 ・山 形 ・弘 前 ・高 知 ・二 高 ・水 戸 ・学 習 院 ・成 蹊 ・武 蔵 ・成
城 ・浪 速 ・姫 路 ・甲 南 ・三 高 ・大 高 ・富 山 ・松 本 ・八 高 ・四 高 ・新 潟 ・大 商 大 ・神 高
大 ・東 商 大 ・旅 順 ・城 大 ・台 大 ・台 北 ・旅 順 工 大 ・静 岡 ・浦 和 ・府 立 ・東 京 ・一 高 ・広
島 ・松 江 ・松 山 ・山 口 ・六 高 ・福 岡 ・佐 賀 ・五 高 ・七 高
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編集後記
平 成 8 年 (96 年 )3 月 、八 乙 女 先 生 は一 橋 学 院 を最 後 に昭 和 24 年 以 来 47 年
間 に亘 る教 員 生 活 を終 えられた。先 生 はその際 贈 られた慰 労 金 により自 叙 伝 「私
の歩 んだ道 」を B5 判 で 118 部 自 費 出 版 されたが、本 書 はその増 補 改 訂 版 である。
私 が先 生 と出 会 ったのは昭 和 28 年 、高 校 2 年 で物 理 を選 択 した年 であった。
「物 理 を分 からせてやるぞ」という熱 意 が伝 わってくるような授 業 で、どちらかといえ
ば文 系 に向 いていた私 が理 系 の道 へ進 んだのも、このときの影 響 が大 きい。
卒 業 後 も折 に触 れ先 生 とお話 する機 会 が多 かったが、実 社 会 に出 てからは2回
の海 外 生 活 を経 て、いつしかお目 に掛 かること も稀 になってしまった。ところが二 三
年 前 、高 校 時 代 の親 しい同 級 生 から「高 校 の同 期 会 に出 たら、八 乙 女 先 生 が君 を
探 しておられたよ」とメールが届 き、「これは申 し訳 ない」と慌 てて先 生 のお宅 に電 話
し、とあるレストランでご一 緒 に食 事 をした。
その際 、先 生 が「君 のことも書 いてあるよ」と見 せてくださったのが、平 成 8 年 5 月
に 作 ら れ た本 書 の オ リジ ナ ル 版 であ っ た 。 「 この 本 に は 直 し た い 個 所 も ある し 、 付 け
加 えたい話 もある」とのお言 葉 に「パソコンでできる範 囲 ならばお手 伝 いしましょう」と
申 し出 たのが、今 回 の改 訂 版 誕 生 のきっかけである。
本 の出 版 には多 額 の費 用 が掛 かるので、今 回 は手 軽 に製 作 できる PDF 版 とした。
私 は組 版 の知 識 が乏 し いので、将 来 どなたかがもっと読 みやすい体 裁 に仕 上 げて
くださることを期 待 し、PDF の他 に Word97 の形 で文 書 ファイルを手 元 に保 存 してい
る。有 志 の 方 が 居 ら れ たら無 料 で 差 し上 げる のでご連 絡 いただきた い。なお 、 本 書
は八 乙 女 先 生 のご意 向 により著 作 権 ・版 権 フリーとなっている。ファイルのコピーは
もちろんのこと、収 録 された画 像 も含 めご自 由 に利 用 いただきたい。また、読 者 の皆
様 から先 生 にまつわるエピソード、思 い出 などをお寄 せくだされば、将 来 それらも追
加 し、本 書 をより充 実 した内 容 にできればと考 えている。
「袖 振 り合 うも他 生 の縁 」とか。人 は一 生 の間 に大 勢 の人 々と出 会 うが、時 を越 え
場 所 を変 え、何 度 も出 会 う人 の数 は意 外 に少 ない。このたび先 生 のお手 伝 いがで
きたのは、目 に見 えない運 命 の糸 が交 差 しているのであろう。まことに有 難 き仕 合 せ
と感 じる。
2004 年 3 月 20 日
小 山 台 高 校 7 回 生 佐 鳥 聡 夫 ( さとりとしお)
[email protected]
TEL/FAX 03-3721-5631
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追 記
本 書 は 2004 年 3 月 に完 成 したが、その後 八 乙 女 先 生 のご希 望 により内 容 をさら
に小 修 正 し た。また 本 書 を読 ま れ た方 々 との 交 流 なども あり、 ここ に その 後 のエ ピソ
ードを追 記 する。
2004 年 11 月 20 日 佐 鳥 聡 夫
後 日 談 その 1:3回 生 沼 田 耕 作 さんから 7 回 生 小 川 恵 一 さんへの E メール
(お二 人 の了 承 を得 て転 載 )
小川恵一様
今日は数十年前の物理学徒の時代に帰り、ご専門の大家に大変失礼を申
しましたことを何卒お許し下さい。
また、早速八乙女先生の自分史をご送付頂き誠に有難うございました。
早 速 目 次 に 目 を 通 し 66 頁 の 量 子 力 学 ゼ ミ ナ ー ル の「 昭 和 29 年 に 卒 業 し た
中の数名の大学生(東大、東工大、早大)が集まって―――」の早大生と
は 私 の こ と と 思 い ま す 。「 テ キ ス ト は 朝 永 先 生 の 量 子 力 学 と シ ッ フ の 量 子
力 学 ― 」と あ り ま す が シ ッ フ は 既 に 3 年 の 量 子 力 学 の 講 義 が シ ッ フ で し た
ので、私は朝永先生のⅠ巻とⅡ巻の初めのほうまでに一年間毎回出席しま
した。
このゼミナールの終わり頃、先生がご結婚されることになり、世田谷区
弦巻町のアパートに有志3人でお祝いを持参して、先生のお母上に逆にご
馳走になりました。このときのゼミの仲間の名前も見つけられると思いま
す。
先ずは興奮気味で御礼申し上げます。今後とも宜しくお願い致します。
沼田耕作
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後 日 談 その 2: 3 回 生 との再 会 (2004/10/30 佐 鳥 記 )
小 川 さんと沼 田 さんの出 会 いがきっかけとなり、66 頁 に登 場 する 3 回 生 と先 生 と
の半 世 紀 ぶりの懇 談 会 が、10 月 17 日 東 京 ・代 々木 の代 々木 倶 楽 部 で開 かれた。
当 日 集 まったのは南 雲 さん、岸 田 さん、酒 井 さん、それに 7 回 生 の小 川 さんと私 が
加 わり計 6 人 。先 輩 達 との同 席 はいささか緊 張 を覚 えたが、当 時 の話 が始 るとその
面 白 さにすっかり引 き込 まれた。八 乙 女 先 生 が「いやー君 達 には本 当 に驚 いたよ。
僕 が間 違 えやしないかと期 待 して熱 心 に聞 いているのだから」と言 うと、「あの頃 は
僕 等 も新 任 の教 師 をからかってやれという気 があったから」との答 え。流 石 幻 の秀 才
グループだけあると、授 業 について行 くのが精 一 杯 だったこちらは感 嘆 した。
3回 生 は都 立 八 中 に入 学 し、在 学 中 に学 制 改 革 で生 まれた小 山 台 高 校 を卒 業
された 由 。 何 と 昨 今 話 題 の 公 立 校 に よる 中 高 一 貫 教 育 が 、す でに 図 らずも 実 現 し
ていたのである。この世 代 の人 達 はその前 にも後 にもない体 験 をされたことになる。
私 にとってこの集 まりは小 山 台 高 校 の昔 を知 るよい機 会 であった。
左 から小 川 さん、八 乙 女 先 生 、岸 田 さん、酒 井 さん、南 雲 さん
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