“お地蔵様めぐり”由来マップ(H24作成)[PDFファイル/1918KB] - 村上市

お宝
地域の
見!
再発
越 後村 上
三面川
三面川中州公園
赴く死者が地獄で会う苦しみを救ってくれるものとして、平安時代に盛んになり、鎌倉時代以降は民
間信仰などと結びついて多様な形で広まっていきました。
村上市
消防本部
鮭公園
市内の各町内や集落には、あちこちに地蔵尊が存在します。火防地蔵・延命地蔵・振袖地蔵など
泉町
❻
❸
村上警察署
延宝8年(1680)に著された『難波鑑』には、
「けふは地蔵の御えん日にて町々の辻に、わらべども
南町
村上城跡
❶
羽黒神社
ムサシ
長楽寺
ウオロク
龍皐院
ひらせい
山居町
7
コンビニ
山居山
牛沢
村上特別
支援学校
供物、灯明をかかげてまつる也」とあり、江戸時代の地蔵様祭りの様子が記されています。
イオン
村上東店
光徳寺
コンビニ
至 新潟
なにわかがみ
お城山児童公園
常福寺
❹
当で、以前はどの町内も三面川や山辺里川へ地蔵尊を運び、洗い浄めていました。
❷
羽黒町
伝えられ、歴代藩主の崇敬も厚く、地蔵様祭りの日には藩からの代参がありました。
村上の地蔵様祭りの特徴は、子どもたちが中心となって行われることです。準備も子どもたちの担
村上体育館
藤基神社
東林寺
村上南小学校
コンビニ
村上市役所
村上税務署
の本尊である地蔵菩薩は、その昔、大火を消し止めたことから火消し地蔵と呼ばれるようになったと
村上歴史文化館
若林家住宅
おしゃぎり会館
(村上市郷土資料館)
❺ 浄国寺
〶
村上郵便局
羽越本線
村上高等学校
江戸時代の元治元年 (1864)に刊行された越後の案内書『越後土産初編』では、越後四十八ヶ所
の地蔵が紹介されていて、その第 1 番目に「村上 十輪寺 火防地蔵」の記述がみられます。十輪寺
村上桜ヶ丘高校
駅前観光案内所
上片町
細工町
コンビニ
新潟県
村上地域振興局
地蔵様祭りは、関西と同様に今も盛大に行われています。
コンビニ
ろ上方との交流も盛んに行われました。村上でも、内藤家のつながりによるものなのか、7月23日の
大町
大工町
村上総合病院
村上駅
として盛んに行われています。江戸時代後期、村上藩主内藤信敦が京都所司代に任命され、このこ
片町
十輪寺
城下町情報館
教育情報
センター
❾
まいづる公園
武家屋敷
村上
商工会議所
村上
小学校
浄念寺
寺町
3
観音寺
くさん奉納されています。
地蔵様の祭りは各地にあり、京都や関西方面では地蔵盆と呼ばれ、子どもたちを中心とした行事
❽ 庄内町
法音寺 〶
小町
村上第一中学校
肴町
して可愛らしい地蔵尊を奉納したりしています。そのため、地蔵尊の周りには小さな石の地蔵尊がた
❼
塩町
コンビニ
は安産や子どもの成長を願って地蔵尊をお参りし、無事に誕生したり病気が治ったりすると、お礼と
〶
加賀町
コンビニ
イヨボヤ会館
さまざまな名前があり、由来が伝わっている地蔵尊もあります。人々の信仰を表すように、それぞれ
の地蔵尊にはいつも花や供物が供えられています。地蔵尊には子どもを守るものが多く、地域の人
久保多町
3
至 瀬波温泉
“ お地蔵様めぐり”
N
地蔵菩薩は、民衆を守る慈悲深い存在として、古くから親しまれてきました。地蔵信仰は、冥土に
至 笹川流れ
涼風の
“お地蔵様めぐり”マップ
村上の地蔵様の祭り
印は今回紹介したほかに、地蔵堂や地蔵様が設置されている箇所
わかさのくにこみなとりょうふうぞくといじょうこたえ
また、文化 12 年(1815)の『若狭国小湊領風俗問状答』には、
「七月廿四日地蔵祭り、辻々の石地
蔵迄(中略)いろいろの供物、子供うち集まり頻りに鉦をならし南無地蔵大菩薩と唱ふ」とあり、現
№
町名
設置場所
名称(愛称)
設置年代
❶
羽黒町
常福寺
延命地蔵尊
江戸前期
❷
羽黒町
東林寺
水子地蔵
昭和 51 年(1976)
❸
羽黒町
長楽寺
地蔵様
江戸後期
❹
羽黒町
龍皐院
地蔵菩薩立像
享保 2 年(1717)
❺
長井町
浄国寺
地蔵様
江戸中期
❻
大町
十輪寺
火伏地蔵
永禄∼天正(1540 ∼ 1595)
❼
小町
法音寺
地蔵様
明治初期
❽
庄内町
庄内町公会堂
地蔵様
不明
❾
久保多町
久保多町地蔵堂
延命地蔵菩薩
江戸前期
片町
門前川堤防内
(俗に)首切り地蔵
寛政 6 年(1794)
●問い合わせ
上片町
上片町集会所
延命地蔵大菩薩
元和 4 年(1618)
村上地域まちづくり協議会事務局
村上市役所 自治振興課内
加賀町
地蔵堂公民館
地蔵様
不明
泉町
下渡大橋泉町側付近
延命地蔵尊
不明
塩町
稲荷神社前
地蔵様
明治中期
寺町
浄念寺
安産子育て地蔵尊
安政 4 年(1857)
大工町
集会所(庵寺)
地蔵様
不明
細工町
細工町集会所
延命地蔵尊
宝暦 8 年(1758)
肴町
観音寺
振袖地蔵
不明
山居町二丁目
町内個人宅前
首ナシ地蔵
不明
在の村上の地蔵様祭りとほぼ同じ内容が記されています。村上のように、地蔵様祭りが江戸時代と
同様の形で伝承されている地域は珍しいといえます。
※参考資料 「村上の地蔵様」(新潟県教育委員会ビデオテープ、平成 6 年 )
「歳時記」(村上商工会議所ニュース、平成 8 年 )
作成に寄せて
村上地域まちづくり協議会・地域活性部会では、
「越後村上 涼風の“ お地蔵
村上市
様めぐり”」由 来 マップを作成し、村上地域の全戸と関係機関に配布しました。
この由来マップは、村上地域の各町内に伝承された地蔵様の由来について紹
介したものです。地域の生活風景にもなっている地蔵様について理解を深め、
後世に引き継いでいくとともに、市の観光振興にもつなげることができればと
作成したものです。
作成にあたっては、地蔵様のある町内区長さんに原稿や写真の提供を頂きま
した。また、編集にご協力いただきました皆さんに厚くお礼申し上げます。
なお、今回掲載の記事についてのご意見や掲載以外の地蔵様について、資料
提供願えれば幸いです。よろしくお願いします。
平成24年7月作成(初版)
村上地域まちづくり協議会
地域活性部会
発行
村上地域まちづくり協議会・地域活性部会
新潟県村上市三之町1番1号
電 話 0 2 5 4−53−2111(代表)
F A X 0 2 5 4−53−3840
E-mail [email protected]
越後村上
じ ぞう ぼ
羽黒町
じょうふく じ
享保二丁酉歴
飯野龍皐幻住山印海助一千餘人衆力慎鐫立
お地蔵様の由来や特長について
盂蘭盆●●●︵磨滅判読不明︶
“ お地蔵様めぐり”
えんめい じ ぞうそん
りゅうこういん
④地蔵菩薩立像(龍皐院)
涼後風の
越
村上
①延命地蔵尊(常福寺)
さつ
羽黒町
ほうおん じ
⑦小町の地蔵様(法音寺)
はいぶつきしゃく
享保2年(1717)像立。
六尺あまりの立像石仏
背面に左記の刻彫があ
りますが、詳細は不明で
す。7 月 23 日 の 地 蔵 様
祭りは町内 PTA と小学
⑩首切り地蔵(門前川堤防内)
片 町
じょうこく じ
⑤長井町の地蔵様(浄国寺)
しんごん
十万遍の真言を唱え、座像弐尺
地蔵堂のあった場所は、塩町の中央交差点で三面川へ行く通路の角地に、
地蔵堂はいつ頃から存在したのか不
一般の家並みと同じ南向きに立っており、間口は一間半・奥行き二間半の
明ですが、現在地の向かい側に小さな
高さ 40 ㎝ほどの木像仏で、衣には表が金箔、
亡者を救うために祀ったものです。処刑場はこの場所ではなく門前川の河
堂宇で、奥三尺の床は五寸程度高く、石像の地蔵様を安置していました。石
地蔵が祀られていたものが移設された
内には紅と紫の塗りが施され、制作当時はさ
原でした。
の台座の間には石像の小さい地蔵様が5∼6体置かれ、右上の板壁に木彫
という説もあります。
ぞかし立派な立像であったろうと思われます。
7 月 23 日の地蔵様の日は、片町子供会と PTA で、地蔵様を河原まで運び、
り地蔵尊の立像が安置されていました。この地蔵堂か建立されたときは、堂
現在の延命地蔵尊は、江戸時代の村
7 月 23 日の地蔵様祭りは町内の小学生と
1 年のほこりを洗い流して供養行事を行っています。
の入口には戸が立っていたといわれていますが、ある時地蔵様は「自分は子
上藩主内藤家の菩提寺光徳寺(羽黒口)
どもが好きであるから、入口の戸を払いのけ、子どもたちが入りやすいよう
の 最 誉 善 理 和 尚 が、藩 祖 内 藤 信 成 の
昔は寺の
にしてくれ」とお告げがあり、戸を払いのけたと伝えられています。
150 年忌に九品仏建立を発願し、石材を府屋の大崎山に求めました。その石
参道には押
文久元年(1861)の軒割り図には、地蔵堂の位置は「定番所」となってい
質を調べるため、地蔵菩薩像三体を試刻し、その一体を細工町に、他の二体
絵ぼんぼりを飾り、お参りの方々をにぎ
ますが、明治となりこの「定番所」が不要となり、その跡地に地蔵堂を建て
を関川村蛇喰の弘長寺大門と石段の登り詰め
やかにお迎えし、2 体ある小さい石の地
たものと思われます。昭和 40 年
左側に祀りました。宝暦 8 年(1758)3 月最誉
蔵様は当日になると三面川まで行って、
ごろ地蔵堂の位置は道路の一部
善理と刻銘されています。7 月 23 日の地蔵様祭
洗い清めていたそうです。
となるため、現在の位置に移転
りは、町内を挙げての行事であり、地蔵堂前に
しました。
幟を立てて、町内十字路に提灯の門飾りを立ま
当町内は 7 月 23 日に地蔵様祭
す。各戸前通りには、ぼんぼりに火を灯し、小
りを行い、地蔵様に供える意味
学生を中心とした子どもたちが数日前から準
元和 4 年(1618)、堀丹後守直竒が藩主として移封され城下を形成するに
で押し絵ぼんぼりを飾り、夜は
備した桜の花を下げ、各家でも祭り提灯を掲げ
際し、城山下(新町辺りか)の茅倉にあったものを現在地に堂を建立して移
ぼんぼりに明かりを灯します。
て盛大に開催しています。当日の夜になると、
ざいほうえいいつ
わせ五尺四寸、等身大の地蔵を
⑪延命地蔵大菩薩(上片町集会所)
長井町
地蔵の十福、女人泰産、身根具足、除衆
六寸五分、後光背及び台座を合
⑧庄内町の地蔵様(公会堂)
病疾、寿命長遠、聡明智慧、財宝盈溢、衆
毎年、専念寺(庄内町)から地蔵様を三体借り
しょうだいぼだい
人愛敬、穀物成熟、神明加護、証大菩提の
受け、町内公会堂に組み立て式の祭壇を設置し
宕の山に安置し、時の領主榊原式部大輔が大檀越となり、毎年米 15 俵を寄
十の願を叶えるということから寺の門前
地蔵様祭りをしています。7 月 23 日の地蔵様祭
進。以来代々の領主も帰依してきました。明治維新後は外護者なくきわめ
に祀られたものです。
りの運営は庄内町の小学生と PTA が行ってい
て衰微しましたので、宝光寺門前に移しましたが、その後再び衰微しまし
世俗間では、地蔵尊は青年像であるこ
ます。
た。そこで常福寺 28 世の住職が大正 2 年講中の協力を得て、浄財を集めて
とから、夭折した子どもの霊の供養のた
彫刻しました。行者はこれを愛
だんおつ
まつ
ようせつ
めに祀るという信仰があります。祀った
現在地に堂宇を建てて像を移したものです。
僧の名や正確な像立年月は不明です。
とうりん じ
②水子地蔵(東林寺)
住職の発願で村上市内を托鉢して回り、多くの方々の浄財で昭和51年に
建立したものです。それまでは、水子の供養はあまり行われていなかった
ようです。
様祭りの運営は町内の
小学生と親が行ってい
ま す。古 い 地 蔵 様 が、
水子地蔵のとなりに 5
体ほどありますが、年
代は不明です。 ちょうらく じ
③地蔵様(長楽寺)
ひぶせ
大 町
じゅうりん じ
⑥火伏地蔵(十輪寺)
羽黒町
江戸時代後期に造立された 33 観音像
とともに建立されたものと思われます。
少子化の影響により、小学生と親が行っ
ていた 7 月 23 日の地蔵様祭りの運営は、
現在では行われていないようです。
上片町
いくせいそう
ました。
縁日は7月23日とされ、当日は禅宗の和尚十数人を招き、大般若経六百巻
の転読大法要を行い、町内の安全招福を祈願し、併せて先の大戦における戦
以前は子どもも多く、町内を上(かみ)、下(し
に伴い公会堂 1 個所にまとめました。なお、他の
た まち
⑨延命地蔵菩薩(久保多町地蔵堂)
久保多町
延命地蔵菩薩は、左手に宝珠を持
す。特に子どもの健康安全を祈願するよ
ローソクを灯し鉦をたたいて「南無地蔵大菩
に天然痘が流行し、幼児が大勢
うです。
薩」と唱えて参詣者に地蔵尊像の札を差し上
死亡しました。この事を愁いた
小さな地蔵仏も多く「帽子・前垂れ」な
げています。地蔵様の姿は僧衣をつけ右手に
浄念寺住職 28 世俊誉上人は弟
ど数多く寄進され、以前は絵馬なども寄
錫杖をついています。錫杖は石を深く刻み込
子の定本と村上在住の女衆の
進され現在も飾られています。
んで浮き出た様に巧みに作られており、お顔
地蔵講中と協力し、村上町及び
も慈愛に満ちた表情がよく表れています。
近在から浄財を募り、子どもが
しゅんよ
丈夫に育つようにと念願を込
加賀町
かんのん じ
め て、安 政 4 年(1857)8 月 浄
⑱振袖地蔵(観音寺)
念寺境内に地蔵堂を建立し、幼児を抱いた石地蔵の座像を本尊として、周囲
病気のために亡くなった若い娘が、両
に小さい千体地蔵を祀りました。以来難病は少しずつ減少したといわれて
親の非道な振る舞いが原因で、冥土で火
います。赤子を抱いた地蔵尊は村上地方では珍しいものです。
の車に乗せられているということを知っ
7 月 23 日は寺と寺町子供会、PTA で地蔵会を行っています。願い掛けと
た親戚一同が、ふびんな娘の供養のため
して、清めのお水を掛けていただいています。
に建立したものといわれています。
ち、右手に錫杖をついてどこにでも
清信士(男の在俗信者)が蒲萄の山中よ
行き、庶民の苦しみを救い幸福をも
り尊像を背負い里本庄に祀り、その後現
加賀町の地蔵菩薩がいつ、どのような経
たらす仏として、多くの人たちに親
在の地に堂を建立し鎮座しました。
緯で祀られたかは、不明です。明治初期に、
しまれ信仰されています。像は村上
本庄氏の時代は、このあたりは小泉の
長井町の村井与一郎という人が書いた「明
が開ける以前からあったものといわ
庄、村上郷といわれており、野原の堂の
治元年辰ノ八月村上城下の図」には、地蔵
れ、元 和 4 年(1618)に 堀 丹 後 守 直
故に野中の地蔵尊とも呼ばれていまし
堂が現在の地と思われるところに描かれて
竒が長岡から移ってきた後、当地に
た。慶長 3 年(1598)村上周防守頼勝が
足軽屋敷や馬場を造りました。また、
この地の領主となり城下の街並みを計画
この辺りは、城などの屋根に用いる茅を収納する倉が置かれた所から萱場
しましたとき、地蔵尊が邪魔であると、はずれのかみなり屋敷という所に
を中央にして、左右に三体ずつ小さな地蔵様を安置しています。
設置年代不明。子どもたちの健
と称しました。この頃、信者により堂が建てられ、萱場地蔵尊として多くの
移し、跡地を町家(町民の家)としてしまいました。ところがほどなくその
7 月 23 日には、小学生と PTA で地蔵様祭りを運営しています。
康や安全を守る地蔵様です。お堂
人々に崇敬されてきました。
町家が火事になり焼失し、その後三回もありました。頼勝らは驚異を感じ
その後、宝永年間(1709)領主の国替により足軽町は廃止、馬場のみとなり、
て神楽を奏して巫女の言を聞きましたところ、地蔵尊を元の所に帰さなけ
町内により再建の後、数回にわたり建て替えが行われてきました。両脇に不
ればこの災厄は幾度も重なるとの託宣がありました。
動明王像、弘法大師像が祀られており、旧馬場入口が参道になっています。
領主は早速、家臣に命じて尊像をこの場所へ移させることとし、十輪寺
町内地蔵講中が、毎月 1 日、15 日に地蔵堂に集まり供養しています。また、
中興の僧養海上人が堂宇を造営することとなり、頼勝は良材寄進し、さら
7 月 23 日の地蔵様の縁日には、町内の小学生が、脇に祀られている「小さな
に供養米三石を奉納されました。この後、歴代の藩主も帰依が厚く、7 月
石の地蔵さん」を山辺里川で洗い、参道脇の小屋に祀り、竹をたて提灯を飾っ
23 日の地蔵様祭りには代参もあったものです。現在は町内の小学生 5、6
て「南無地蔵大菩薩」と唱えて鉦をたたいています。
み こ
年生が運営し、毎月23、24 日に
ご ま た
は護摩焚き祈祷を十輪寺で行っ
ています。
重な存在です。普段から、信仰している
人々も多く、毎日参拝する方も大勢いま
(1540∼1595)のころに、賀門と称する
いることから、江戸時代後期には祀られていたと思われます。さまざまな
かやば
を開催します。現在では当町内以外行われている町内はないようであり、貴
安政 3 年(1856)は村上地方
⑫加賀町の地蔵様(地蔵堂公民館)
しゃくじょう
⑮安産・子育て地蔵尊(浄念寺)
寺 町
没者の供養経をあげています。子どもたちは小さな祠の前にござを敷き、
とも
も)に分けて 2 個所で行っていましたが、少子化
ぼ
参拝の人々で大賑わいします。
厳寒の小正月(陰暦正月)1 月 14 日∼16 日のうち 1 日は、冬の地蔵様祭り
の守護尊として町内はもとより近郊の大勢の人々に信仰され崇敬されてき
ほこら
く
じゃばみ
転安置したと伝えられています。以来今日まで幾星霜、延命招福、水火疾病
ほうしゅ
本庄越前守繁長が領主の永禄∼天正
毎年 7 月 23 日の地蔵
庄内町
1 個所は民家の軒先を借りて行っていました。
羽黒町
細工町
6 年(1794)3 月。その後、地蔵尊の慈悲と霊力によって、六道の辻に迷う
愛宕の別当、元如阿闍利と称す
刻するという誓願をたて弐百八
⑰延命地蔵尊(細工町集会所)
寺町の経王寺の僧日照が処刑人の供養のため供養碑を建立したのが寛政
がんにあじゃり
る有徳の行者が地蔵の尊像を彫
塩 町
山の寺より持ち込まれたと伝えられています。
PTA が運営しています。
生が運営しています。
い な り じんじゃ
⑭塩町の地蔵様(稲荷神社前)
明治初年の廃仏毀釈のおり、山形の出羽三
今を去る 300 有余年前、当地
あたご
小 町
苦難を地蔵の十福に救いを求めたのでしょう。本尊(身の丈90㎝台座18㎝)
え
娘が、青森の恐山に参拝した六部(僧侶)
⑯大工町の地蔵様(集会所(庵寺))
あ んで ら
大工町
を通じて、親の改心と自分の供養をお願いしたものと伝えられています。六
部は、娘から証拠にと切り取った振袖を持って話をしたことから、振袖地蔵
といわれています。
7 月 23 日の地蔵様祭りは町内の小学生高学年と親が運営しています。
に長井町の古いシャギリの一部が
ちょうちん
かね
⑬延命地蔵尊(下渡大橋泉町側付近)
泉 町
用いられています。
7 月 23 日は小中学生と親が地蔵
⑲首ナシ地蔵(町内個人宅前)
たら、あまりに泣くので振り返って見たら、田ん
ぼに赤ん坊の首が落ちていたという言い伝えが
いかだば
に材木を流して運搬する筏場があった場所に
あります。
なります。筏場の左側に木工所がありました。
地蔵様を祀り、赤ん坊や子どものことを守って
運搬作業の安全祈願と水難事故犠牲者の供養
もらうために祈願したものです。7 月 23 日の地
のために祀った地蔵様だといわれています。当
蔵様祭りは町内の小学生と PTA が運営していま
時、木工所前には小さな地蔵堂がありました。
す。設 置 年 代 は 不
水害によって堤防の改修に伴い、昭和 26 年村
て泉町区で建て替えしたものです。その前までは、木工所で祀っていたよう
です。その後、平成 15 年に村上木工所が閉鎖され、土地を処分したときに、
泉町区で土地を購入し、地蔵堂を新しく建て替えたものです。
7 月 23 日の地蔵様祭りの運営は、泉町の小学生とその親が行っています。
山居町二丁目
赤ん坊を背負って田んぼに入り仕事をしてい
様祭りを行っています。
いつ誰が祀ったかは不明ですが、三面川流域
上木工所が移転したため、木工所の土地を借り
肴 町
明です。
お堂は昭和 50 年代に建立されました。近
くに住む方が日頃、水や花などを上げて世話
をされています。