報告者:中嶋 博 2000 年度西洋経済史講義(亀山教授)総括レポート――イギリス産業革命の根本原因 Ⅰ 基本フローチャート 労働力不足 市場拡大 資本形成(技術革新) 賃金(コスト)上昇 重商主義発展の結果 国外市場の縮小 動力不足+エネルギーコスト エネルギー危機 Ⅱ チャートの解説 1. エネルギー危機の前史 中世イングランドは木材輸出国として栄えた。16 世紀前半ヘンリーⅧ世の時代、大陸諸国との関係が険悪になったた め武器の自国生産、特に製鉄業を興すべく森林開発が盛んになる。消費の拡大はエリザベス女王の時代にも引き継がれ、 財政危機打開のための産業育成や建築ラッシュのため森林が切り開かれていった。17 世紀前半、ジェームズⅠ世の時代 になると宮廷の贅沢を賄うための伐採が続き、森林面積が国土の4分の1にまで縮小した。17 世紀中頃ピューリタン革 命の際、共和国軍の兵士の給料として木材が割り当てられ、さらに船舶を増産するため、また旧権力の象徴・異教崇拝の 的である森林地を根絶すべく、一層の伐採が行なわれた。 その結果、王政復古の時点では森林は内陸にしか残っておらず、安価な木材、特に燃料材は外国依存に転落した1。 2. 労働力不足と賃金上昇 工業化の始動を通説に従い 1780 年頃にすると、労働力不足 が説明できないように見える。1730∼1750 年の間に人口爆発 が起こっているからである。しかしこの時期のイングランドの 高賃金体質と余暇選好性から問題を説明できる2。 イングランドでは重商主義体制が完成し羊毛工業が栄えたが、 これは前貸問屋制をもとに農村の極めて安価な未熟練労働力を 大量投入して初めて成立するものであった。農村に安価な労働 力が蓄積されていた理由は、 (1)穀作地域の季節的失業と牧畜地域の慢性的不完全雇用によ 1 2 ジョン・パーリン『森と文明』第9章。 図の出典:林 達『経済史のパラダイム』108 ページ。 1 る仕事不足 (2)第一次(16 世紀)・第二次囲い込み(18 世紀)が原因の農民層分解による貧民層の広範な形成(労働力形成) しかし 18 世紀に入ると事情が変わってくる(イギリス重商主義の困難)。 (1)新農法の普及に裏付けられた穀物価格=物価水準の安定 (2)経済が拡大する一方で人口停滞局面に入り、労働の供給不足と実質賃金上昇が発生したこと (3)大陸諸国(特にフランス)が重商主義に転換して、イングランドよりも低賃金の労働力をもとに輸出競争に乗り出した こと イングランド重商主義の繁栄は低賃金経済に支えられていたので、賃金上昇は好ましくなかった。さらにこの時期、余 暇選好性(労働の後屈供給曲線)が強力に発現する。 当時は購買の対象が限られていたので、生活が安定すれば働くより休んでいた方が良い、という考えが蔓延していた。 しかも賃金を上げて労働供給を増やそうとすると、逆に賃金率が上がった分労働時間が短縮してしまうのである。家内工 業は労働集約型産業なので、労働時間の短縮は生産量の減少を意味する。 そのため賃金を飢餓水準まで抑制する政策が試みられたが、全体的な経済の趨勢に逆らうことはできなかった。 3. 賃金上昇と市場拡大 イングランドの羊毛工業は本来羊毛の質の圧倒的優位とその独占、低 賃金経済を比較優位の源泉としていたが、18 世紀に入ると明らかに行 き詰まっていた(例えばスペインのメリノー種の登場) そのため国内市 場の開拓と輸出品目の多様化が並行して行なわれた。 元々イングランドは 16 世紀以来安物工業が盛んで、17 世紀には石炭 を燃料にした各種軽工業が栄えていた(17 世紀初期産業革命) そのた めこうした製品を毛織物の替わりに輸出し始めたのである。また植民 地から集めてきた物産の再輸出も盛んに行なった。さらに輸出振興の結 果流入した資産は国内市場の拡大と有効需要の増大を可能にした。 けれどもいかに世界経済体制を築こうと、国内市場を開拓しようと、 本命の毛織物の輸出を伸ばすことはできなかったし、イングランド重商 主義の危機を抜本的に解決することもできなかった3。 4. 資本形成(技術革新) 18 世紀イングランドの経済問題は、高賃金体質による毛織物の輸出不振ばかりではない。インドの綿織物(キャリコ) 輸入による金銀の流出も大きかった。イングランドにはインドへ輸出する製品がなく、純綿織物を製造する技術もなく、 にもかかわらず綿織物に対する巨大な潜在需要が存在するため完全な片務貿易(輸入超過)となっていた。 これを解決する試みは、当初は細々と開始された。 18 世紀初頭、ヨーロッパにはキャリコを織れる国は1つもなかったが、代用品である綿麻織物(ファスチアン)は造る ことができた。これは強度が必要な経糸を麻、緯糸を綿で織ったものである。太くて弱い綿糸だが、技術の蓄積はあっ た。これを足掛かりに 18 世紀中頃から繊維工業の発明が相次ぐ。 1733 年 ケイの飛杼 →当初は毛織物の技術だったが、1750 年以降、 綿麻織物(ファスチアン)で有効性が実証される 1733 年 ワイアットとポールのローラー紡績機 ―――― 1764 年 ハーグリーヴズのジェニー紡績機 3 前史的技術革新 図の出典:角山 栄『図説経済学体系8 新版西洋経済史』53 ページ。 2 木綿紡績の三大発明 1768 年 アークライトの水力紡績機 1779 年 クロンプトンのミュール紡績機 →木綿工業の成立と産業革命の始動 ―――― 1785 年 カートライトの力織機 →高賃金体質の最終的解決(1820 年代)と羊毛工業の復活 1820 年頃まで改良が続き、完成に到った 5. エネルギー危機 発明は生産性の飛躍的向上を可能にし、多数の錘を備え幅広の布を織れる機械を登 場させた。ところが木製の機械は激しい衝撃と負荷に耐えられないので、材料を鉄へ 転換しなければならない。17 世紀の製鉄業は炭と薪に頼っており、しかも膨大な量 の木材が必要なので、コストを節約するには森林に近接した所に製鉄所を設けるか、 輸送費をかけて木材を取り寄せるしかない4 。イングランドは森林が内陸部にしか残 っていないので(「1.エネルギー危機の前史」)、木材を輸入した方が安上がりであっ た。 それでも輸入木材よりは国内に豊富な石炭の方が安いので、石炭を利用する試みが 続けられた。 当初石炭は露天掘りで採掘可能だったが、石炭消費量が増えるに従い炭鉱の規模は 拡大し深堀をしなければならなくなった。しかし地中深く掘れば地下水が出るので排 水が必要だし、かさばって重い石炭を地上まで運ばなければならない。当初は人や馬 が全ての作業を行なっていたがコストがかかりすぎる。そこで費用を圧縮するため省 力機械の開発が行なわれた。その先駆となったのはニューコメンの気圧機関(1712 年) であり、ワットの回転蒸気機関(1765 年頃)をもって完成する。 当初は石炭の質が悪かったので良質の鉄を造ることができなかったが、石炭を高温で蒸し焼きにする=コークスを使 う製銑法が開発された(1709 年) 硫黄分過剰の非常に脆い鉄しかできないので用途は限定されるが、エネルギー危機の 打開策が石炭にあることを決定的にした。これ以後の技術は全て石炭を基盤に構築される5。 ワットの蒸気機関はよくできていたので誰もが繊維工業への転用を考えたが、頑丈な機械、という課題が残っていた。 コークス製銑法では脆い鉄しか造れない。その困難を克服したのがパドル法である(1784 年) <パドル法とヘンリー・コート> 脆い鉄を鋼に変える方法は既に知られていた。反 射炉6 で再熔解した鉄に酸素を接触させ硫黄を吹き 飛ばし、鍛造して不純物を搾り出すのである(圧延) 可鍛鉄の大量生産と圧延技術を完成させたのがパ ドル法・圧延法の発明者ヘンリー・コート(1740∼ 1800)である。 コートは 35 歳までロンドンで富裕な海軍代理商 を営んでおり、イギリス鉄の劣悪性をよく知ってい た。当時政府調達品とは言えば、最上級はスウェー デン鉄、廉価品はロシア鉄、イギリス棒鉄は全ての政府調達から排除されるほど使い物にならなかった。さらにイギリス の技術的劣位を確信しきっていたロシアは、1770 年鉄価格を 10%釣り上げた。コートが工場主へ転身したのはこうした 現状を打開するためである。 コートの発明は圧延法(1783 年)とパドル法(1784 年)の2段階に分かれている。パドリングは熔けた鉄(湯)を攪拌棒で 4 5 6 製鉄所1ヶ所につき、2000k㎡の森林が必要。 図の出典:コールブルックデール(アイアンブリッジ渓谷)の博物館に展示されている高炉。ほとんど全木製。 炉底でコークスを焚くと同時に熔融鉄からの放射熱を炉の天井に蓄積、再放射させるので熱を反射しているように見え る。日本では韮山の反射炉が有名。図は Bonnard のパドル炉(19 世紀初頭)。 3 ゆっくり掻き回すだけである(しかしコート以前誰も行なわなかった) これにより鍛造可能な小鉄屑を造り、次にそれを 板状に寄せ集め再加熱(溶着)する。こうしてできた半製品(ブルーム、スラブ)をロールで圧延すると「普通の製造法では 内部に残ってしまうような不純物と混入物をも、除去することができる」7 パドル法の勝利は時人によく認識されていた。シェフィールド卿は 1786 年、コークスとパドル法と蒸気機関が北米の 東部 13 州より大きな利益を持つこと、航海を有利にし鉄の貿易の完全支配を可能にすることを指摘している。またパド ル法と精密鋳造はキャロン製鉄所の新型艦船砲「スマッシャー」を生み出し、キャロネードの愛称で対仏戦に猛威を振る った8。 ところが 1784 年以後、コートは辛酸を嘗めることになる。コートは当時最大の鉄材調達者であった海軍省向けに事業 を行なうつもりだったが資金不足なので、海軍の上級会計官アダム・ジェリコとその息子サミュエルから資本を調達した。 コート・アンド・ジェリコ商会は海軍省の受注を独占するが、アダム・ジェリコの急死で事態が一転する。ジェリコの資 金は国庫からの横領金だったのである。海軍省は債権整理と称してコートの全事業を差し押さえ、コート・アンド・ジェ リコ商会に譲渡されていた特許権を 100 ポンド程度で国庫に没収した。政府を動かしたのは海軍省と製鉄工業家の利欲で ある。工業家は特許使用料を払わずにパドル法を利用し続けた9 。 コートは特許権を守るため運動を続けるが、海軍省、海軍委員会から嘲弄され続け困窮のうちに死んだ。コートの死後、 政府は未亡人の申請で年金を与えたが、額はわずか 100 ポンドだった10。 以上の全要素が揃うことによりイギリス産業革命は全面開花し、大英帝国の覇権が確立した(1800∼1820 年) 本年度はテキストに角山 栄『図説経済学体系8 新版西洋経済史』学文社(1980 年)を使用した。 7 1784 年特許 Nr.1420 から抜粋。 厳密に言うとキャロネードは 1779 年開発なので、パドリングというより反射炉への空気吹き込みというべきだが、キ ャロン製鉄所はいち早くパドル法を導入している。 9 特許使用料が正当に払われていた場合の金額は、£15,000(1789 年)→£25,000(1791 年) 10 「祖国のために大きな善事をなし、かえってそれが身の破滅となったこの気の毒な発明家に対するこのような仕打ち は、イギリスの名誉の楯についた黒いしみであって、いつまでも消えないであろう。 」 コートとパドル法について、 ルードウィヒ・ベック『鉄の歴史』第3巻第2分冊参照。 8 4
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