マイノリティの自決権とその実現 - 東京外国語大学

平成 18 年度卒業論文
マイノリティの
マイノリティ の 自決権とその
自決権 とその実現
とその 実現
~ バスクにおける
バスク における分離独立運動
における 分離独立運動と
分離独立運動 と 自決権~
自決権 ~
東京外国語大学
欧米第二課程
地域・国際コース
外国語学部
スペイン語専攻
西立野園子国際法ゼミ
亀島聡子
-1-
目次
はじめに
はじめ に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
第1章
バスクの
バスク の 求 める自決権
める 自決権・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
自決権
第1節
スペインの歴史とバスクナショナリズムの誕生・・・・・・・・・・・2
第2節
「バスク祖国と自由」(ETA)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
第3節
バスクの求める自決権・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
第4節
スペインにおけるバスクの法的位置づけ・・・・・・・・・・・・・・8
第2章
第1節
マイノリティと
マイノリティ と 自決権・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
自決権
自決権の発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(1) 国際法における自決権の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(2) 内的自決と外的自決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
第2節 自決権の主体としてのマイノリティとバスク・・・・・・・・・・・10
第3節 自決と国家主権・領土保全との対立・・・・・・・・・・・・・・・12
第3章
自決権と
自決権 と 分離権・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
分離権
第1節 分離独立に対する国際社会の対応・・・・・・・・・・・・・・・・13
第2節 投票による独立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
(1) モンテネグロの独立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
(2) コミュニティの範囲と投票の行為主体・・・・・・・・・・・・・18
第4章
第1節
自治を
自治 を 通 じた自決
じた 自決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
自決
リヒテンシュタイン・イニシアティブ・・・・・・・・・・・・・・19
(1) 国際連合における対応・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
(2) 欧州審議会における議論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
第2節
条約草案・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
(1)草案の構造とセクションごとの概要・・・・・・・・・・・・・・・22
(2)「コミュニティ」の概念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23
(3)3段階の自治と選択条項・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
(4)国際的監視・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
第3節
ケーススタディ~自治の実例~・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
28
-2-
(1) コソボ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
(2) コソボにおける自治の評価・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
第5章
バスクにおける
バスク における自治
における 自治の
自治 の 考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
考察
第1節 スペイン憲法とバスク自治州条例・・・・・・・・・・・・・・・・・31
第2節 リヒテンシュタイン・イニシアティブ、条約草案とバスク・・・・・・33
第3節 住民投票とバスクの独立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
第4節 結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
おわりに
<参考文献・参考 URL 一覧>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
はじめに
本稿は題名の通り、スペインの自治州の一つであるバスクにおける分離独立運動を、
マイノリティの自決権というテーマのもと考察したものである。
自決権は現代でも国際法上、議論の絶えないテーマであり、最も難しい分野の一つ
である。また、その内容も広範・繊細で一くくりでは扱いにくいといえるだろう。こ
の権利はその概念の誕生から最近に至るまで絶えず発展し、現在においてもその発展
途上にある。一方で、われわれの実生活の中でも最も身近な国際法上の権利の一つで
もある。本稿の中で自決権という権利の内容を網羅するのは極めて困難であるため、
特にマイノリティの自決権とその実現という部分に焦点をあてて論じていきたいと思
う。
その具体的研究・考察対象として選んだのがバスクであるが、スペインは多言語・
多民族国家であり、各地域はそれぞれ独特の特徴を有している。その中でも特に際立
っているのが本稿でも扱うバスクである(詳しくは本稿の第1章を参照)。
私は幼少の 9 年間をスペイン北東部のカタルーニャ地方で過ごしたが、この地域も
また、バスクと並んでスペイン国内では力を持った自治州であるに加えて、更なる自
決を求める運動を何十年にもわたって行ってきた。勿論まさにその環境の真只中でそ
れを肌で感じた私にとって、このカタルーニャに対する関心は強く、こちらを、本稿
を論じていくうえでの対象としてもよかったのだが、カタルーニャにいながらもその
過激派の活動についてよく耳にし、カタルーニャ以上に独立への要求が高いバスクに
ついて、その詳細を国際法と照らし合わせながら考察してみたいと思ったのがこの地
域を選んだ理由である。
-3-
まずは第 1 章にて、スペインの歴史的な内容も交えながら、バスクにおける自決権
の要求、そして分離独立運動に至るまでの経緯を整理したうえでその要求・過激派テ
ロ組織 ETA・そしてバスクの法的位置づけについて検証する。その中で議論の対象と
なってくる自決権であるが、その発展について、更には領土保全との対立問題や自決
権とマイノリティとの関係について第 2 章にて述べたうえで、その究極的達成手段と
しての分離独立・分離権について、具体的事例をあげながら第 3 章にて考察していく。
第 4 章では、マイノリティの自決権、あるいは国家主権や領土保全などの、自決権を
実現するにあたって生じる様々な対立、問題を平和的に達成・解決する手段としての
新しいアプローチである「自治」について、その概念や国際社会における反応を比較
しながら、ケーススタディも通じて述べていく。そして第 5 章にてまずバスクの地方
自治州条例について概観した後、それまでに論じてきたものとバスクにおける状況と
を実際に比較しながら、バスクの主張の正当性やバスクにおける自決権の実現可能性、
そして問題の解決策を探っていき、最後に結論として私の意見をまとめたいと思う。
第1章
バスクの
バスク の 求 める自決権
める 自決権
バスクは、現在のスペインを形作る自治州の一つであるが、
「バスク地方」という単
位で考えると、スペインとフランスの国境沿いのピレネー山脈西方に位置しており、
行政区分ではスペインの統治下にある 4 県(アラバ、ギプスコア、ビスカヤ、ナバラ)
と、フランスの統治下にある 3 県(ラプルディ、スベロア、ナファロア、べエレア)
のことを指す。バスク人の祖先は古代ローマ以前にスペインにいた先住民族で、彼ら
の話すバスク語は、言語学的に周辺のインド・ヨーロッパ語族とは独立した、系統不
明な言語とされている。本稿で扱うバスクとは、主に上記のスペイン国内のナバラを
除く 3 県で構成される自治州としてのバスクを意味しているが、様々な要因からこの
地域は長い間自決を要求し、分離独立を唱えてきた。その要求がいかなるものである
かを明確にするために、まずはスペインとバスクの歴史的過程を整理しておく必要が
あるだろう。
第1節
スペインの歴史とバスクナショナリズムの誕生
スペインは、その地域性・民族性の多様さによって特徴付けられる一国家であるが、
そのために昔から完全な統一国家とは言えない、緩やかな統合状態を保ってきた。こ
のような状態は、15 世紀のカトリック両王期から見られるようになったとされている。
当時有力であったカスティリャ王国とアラゴン連合王国の「統一」からこの両王体制
-4-
期が始まるわけだが、すでにこの時点でカスティリャ王国に属するバスク地方 1は独立
の国家に等しい大きな地域特権(フエロス)を享受していた。バスクに限らず、今日
でも自治州として存在するカタルーニャやバレンシアなど、いくつかの地域が独自の
統治機関・議会・税制などを維持し続けていた。
18 世紀になると、フランス王家の血をひくフェリペ 5 世が国家統一制度の法的根拠
のため、フランス式と表現される中央集権化政策を推し進めた結果、アラゴン連合王
国の独自の法制度が次々と廃止されていく。また、同時期の王位継承戦争では、バス
ク地方は王位継承権を持つとされていた人物のうちの1人であるカルロスの拠点とな
っていたが、バスクはカルロスの勢力を支持し、このときから中央集権派と地方分権
を守ろうとする地方の対立が表面化し始めたとされている。
その後、ナポレオンの台頭への抵抗としての独立戦争や、自由主義の台頭、絶対王
政の復帰を経て、1873 年に第一共和制が成立するが、1878 年には再び王政復古とな
った。このとき、政治的安定実現のため、バスク、ナバラの地方特別法が廃止され、
商法・民法など行政・司法の諸制度の整備とともに中央集権体制の基盤が形成されて
いくのだが、地方主義の動きを完全に止めることはできなかった。その例としてはカ
タラニズモ(カタルーニャ主義)の出現があげられるが、これによってカタルーニャ
は政治的性格を持つに至ったとされている 2。そしてちょうどこの時期にスペインにお
いて著しい経済成長がもたらされるのだが、これに伴ってバスクは他の地域に比べて
豊かな工業地域となっていく。同時に、バスクへの労働移民が増加 3したことにより、
伝統的な生活が破壊され、バスク語は日常生活から遊離していった。そのため、次第
にバスク人の間にバスクのアイデンティティの消滅への危機感が芽生え始め、バスク
ナショナリズム運動の理論家たちはバスク工業地帯中心に社会主義運動を展開してい
くようになる。
20 世紀に入って、アルフォンソ 13 世の親政が始まると、地方主義運動が政党を結
成し、政治の場面に登場してくるようになるが、バスク地方では、サビノ・アラナ 4が
バスク・ナショナリスト党(PNV;Partido Nacionalista Vasco)を結成し、地方特
別法、バスク語・バスク文化、及びカトリックの擁護を掲げて運動を展開した。これ
を契機にバスクナショナリズムが誕生したと言われている。1923 年の立憲君主体制の
崩壊とともにプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権が誕生する。彼によって PNV
1
カスティリャに併合されるのは 14 世紀後半であるが、このときに現在のバスク北部地方から初
めてバスク民主主義の表明と独自の歴史上の権利奪回の動きが表面化したとする説もある。また、
それ以前のローマ支配期(B.C.100)やカール大帝期(8 世紀後半)においても、吸収されること
に対するバスク人の激しい闘争があったとされている。
2 立石博高・関哲行・中川功・中塚次郎編、
『スペインの歴史』(昭和堂、1998)p.189
3 1900 年代には住民の半数近くが移民だったとされている。
4 バスクナショナリズムのイデオロギー創始者。
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は非合法政党と定められ、警察当局に指導者が拷問にかけられるなど、激しい弾圧が
行なわれた。これに対してスペイン国内では反独裁体制が強まり、1931 年には第二共
和制が始まる。地方自治を認めた共和国憲法の制定により、カタルーニャ、ガリシア
など地方自治意識の強い地域では、ナショナリズム運動が高揚していく。バスクでも
1936 年に、バスク自治憲章が成立する 5。しかし、この年は内戦 6の始まった時期でも
あり、政局は極めて不安定だったと予想される。内戦に勝利したフランコはファラン
ヘを唯一の政党とする新しい国家作りに着手し、反乱軍陣営の占領下となった地域で
は、共和国政府が行なった改革が次々と廃止され、カタルーニャとともにバスクの自
治 7は停止されることになる。また、自治権の剥奪にとどまらず、バスクではバスク語
が禁止され、バスク的なものの使用も一切禁止された。このようにして、フランコは
スペイン国内にて独裁を制度化していく。このような体制に対して地域意識の強い国
民が黙っているはずもなく、1950 年代から 1960 年代にかけて反独裁体制運動が広が
りを見せていった。国連への加盟や経済成長がそれらの運動を後押ししたと言われて
いる。このような運動とともに、地域ナショナリズムが再び活性化していくのである
が、そんな中、1959 年に「バスク祖国と自由」
(ETA)8が結成される。これらの諸運
動によって、弱体化していく独裁体制の維持のため、フランコは自身の後継者を選出
するなど様々な手を打つが、政界における金融スキャンダルや事件が体制を動揺させ
ていく。
独裁者フランコの没後(1975)、新国王フアン・カルロス 1 世が即位し、再び立憲
君主制になるが、1977 年に 41 年ぶりに総選挙が実施され、新憲法を制定するにあた
っては、国会憲法起草委員会において、地方問題については自治州設置により段階的
な分権化に合意がなされる 9。これに基づき、1978 年憲法が制定されるのだが、その
第 2 条にてスペインの国家としての統一性と国家を構成する地方の自治権を認めるこ
とを述べている。
憲法は、すべてのスペイン人の共通且つ不可分のスペイン国のゆるぎなき統一に
5
これ以前にバスク南部地方の全市町村長は、バスク 4 県をほぼ独立した国とする内容の自治憲章
案を作成しているが、国会にて廃案されている。法制的に自治州・単一のバスクとして(アラバ、
ギプスコア、ビスカヤが)一つにまとまったのは、1933 年のこと。
6 スペイン内戦 guerra civil (1936~1939)
:反乱軍のフランコがカナリヤ諸島で軍事放棄を宣言
したことにより始まる。
7 内戦が始まってから、フランコに反対してバスクの独自性を保つため一度バスク自治政府が設立
されたが、ゲルニカへの爆撃などを経て 1937 年には地方自治特権が全廃され、亡命政府となった。
8 詳しくは次節を参照。
9 具体的には、1977~1978 年に、カタルーニャとバスクに対し暫定的自治政府の設置を認めた。
また、新憲法において一つまたはいくつかの県がまとまって、自治憲章制定・国会承認などの手続
きを経た上で自治州を設置する権利が定められる。この際、「歴史的地方」と通称されるカタルー
ニャ、バスク、ガリシアは、特別に簡略な手続きで自治州を設置し、初期段階から広範囲の権限を
獲得する権利を与えられることになった。
-6-
基礎を置き、これを構成する民族及び地方の自治権並びにこれら全ての間の結束
を承認し、且つ保障する。 10
このような憲法規定に基づいて、1983 年初めまでには計 17 の自治州が成立した。
以上の歴史的過程から見ると、中央集権化への動きが顕著化した場合やもともと存
在していた地域的特権・自治などが独裁政権等により廃止・剥奪されたケースに地域
ナショナリズムが高揚しているのが分かる。また、目まぐるしく中央の体制が変わっ
ていったために、強固な国民国家形成の基盤を整えるのに失敗し、その意味で中央が
弱体化していった一方で、工業的・経済的発展を遂げた地域が国家のナショナリズム
の代替物として地域ナショナリズムを主張したのも事実である。勿論バスクもその中
に含まれ、特にその強い影響を最も受けてきた地域の一つといえるだろう。
現在バスクの民族主義運動はその自治政府を通じても展開されているが、その中に
は先に述べた ETA と関係を持った政党も存在する。次は、その ETA と過激派の活動
及び主張について見ていく。
第2節
「バスク祖国と自由」(ETA)
前節の通り、内戦後のスペインではフランコが実権を握っていたが、第二次世界大
戦後、亡命政府はその圧制・弾圧を国連やユネスコに訴えた。しかし、現状を打破す
ることはできず、1959 年、バスク地方の自由と解放を訴える PNV の身内である青年
部が「バスク祖国と自由」を結成した 11。これがいわゆる ETA(正式名称:Euskadi Ta
Askatasuna)である。彼らは全体主義に反対し、自治要求から独立要求へと発展した
バスク民族解放運動を目的として誕生した。その理由としては前述したような地域ナ
ショナリズムや移民の急増による民族意識への不安、そしてバスク労働運動の活発化
との関連から、1)バスク語の保護、2)自民族中心主義、3)反スペインイデオロギ
ー等 12とされているが、初期の ETA は専ら民族解放の革命主義運動を展開した。これ
に対して、「ETA 狩り」と言われる、不当逮捕・拷問などの警察の取り締まりが強化
されていく。そんな中 ETA の第一回総会が開かれ、採択されたのが「行動原則」で
10
スペイン憲法原文に関しては、スペイン国会下院議員 HP http://www.congreso.es/ 参照。
PNV は穏健派であったことに加えて、その幹部が高齢化していたことに対するもどかしさから、
青年部の不満が高まり、ETA 成立の要因の一つとなった。
Hurst Hannum, Autonomy, Sovereignty, and Self-Determination-The Accommodation of
Conflicting Rights , University of Pennsylvania Press, 1995, p.267
12 Katherine. A. Sawyer, “REJECTION OF WEIMARIAN POLITICS OR BETRAYAL OF
DEMOCRACY?: SPAIN’S ROSCRITION OF BATASUNA UNDER THE EUROPEAN
CONVENTION ON HUMAN RIGHTS”, American University Law Review , The American
University Law Review, August, 2003
11
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ある。この中で、人権の擁護、すなわち、表現の自由・結社の自由・労働組合の自由・
宗教行為の自由を主張し、バスク民族解放のために、武力闘争も含めたあらゆる手段
を用いて目的を達成するために結成された非宗教的組織であることを宣言したのであ
る。また、経済自由主義の廃止や、民主的経済制度の確立を目指す等、社会的経済分
野にまで言及した。そのうち ETA は武力闘争だけでなく暗殺テロを行うようになる
のだが、これと平行してフランコ政府は更に激しい弾圧を行っていく。これに抵抗し
た ETA は、1973 年、内戦後初めての首相であったカレロ・ブランコを暗殺する 13。
彼は、就任後の首相演説にて裁判抜きで「ETA を撲滅する」と宣言していた。これ以
降、ETA の武装路線が高まっていき、治安警察や軍人に対するテロが増え始め、1974
年の 9 月 13 日には最初の無差別テロであるローランド爆破事件も発生した。1977 年
にてバスク地方に暫定的自治政府の成立承認が当時のスアレス政権により行われ、
1978 年の新憲法成立に伴って 141979 年には自治政府が成立したことによってバスク
は再び自治州になった。この時、ETA の事実上の政治部門(「大衆連合 HB(Herri
Batasuna)」)が結成し、ETA は政治的にも影響を及ぼし始める。ここで一つ注目す
べきことは、HB が政府に承認させようとした KAS「互恵調停案」 15であるが、それ
は以下の内容から構成されている。第一に、スペイン及びフランスの刑務所に分散拘
置されている 500 人以上のバスク政治犯の全員釈放、第二に全ての政党の無条件の合
法化。第三には国家治安警備隊及び軍のバスク地方からの撤退、第四に労働者階級の
生活及び労働条件の改善、そして第五に自治憲章の制定を要求した。この自治憲章の
制定には南バスク(スペイン側)の 4 つの歴史的地域の統合や公的言語・独立言語と
してのバスク語の使用、バスク政府による独自の警察組織と軍組織の設立を含意して
おり、このため、スペイン政府はこれを認めなかった。
以上のように、ETA はその目的を達成しようと過激な活動を行ってきたが、ではバ
スクの住民や民族主義者は ETA をどのように見ていたのだろうか。ここには少なか
らず温度差が存在するように思われる。1991 年のバルト三国・スロベニア・クロアチ
13
この件に関して、ETA は犯行声明を出している:
「バスク民族解放社会主義組織『ETA』は、今
日、1973 年 12 月 20 日(木)、スペイン首相ルイス・カレロ・ブランコ氏を殺害した。バスクの民
族解放のために闘った 9 人の仲間に対するスペイン政府による投獄・拷問・暗殺などの弾圧は明ら
かにファシストの特徴を表明したものであり、憎しみを覚える。ETA は、9 人の仲間の死に対する
哀悼の意を表すためにスペインの寡頭政治勢力の指導者であるルイス・ブランコを処刑したのであ
る。」
大泉光一『バスク民族の抵抗』(新潮選書、1993)参照。
14 地方の自治を認める規定があるにも関わらず、この新憲法にバスク人の大部分(191 万人中 125
万人)が反対したと言われている。その理由は、前述の規定にもその内容が見られるが、新憲法が
唯一の国家「スペイン」の他を認めていないためである。
(スペイン国民の永続的統合を基盤とし、
全スペイン人共通の、そして分割不可能な祖国である、と規定)
15 KAS「互恵調停案」の下に ETA-HB が掲げている言葉:交渉・民族自決・KAS 調停案・平和
-8-
アの独立の影響を受けて HB の指導の下、約 25 万人(バスク有権者の 2 割)がバス
ク南部各地において、政府に対して完全な自治を求める大規模な決起集会やデモを行
った一方で、1989 年の「IPC・リサーチ」がバスク住民 1000 人を対象に実施したア
ンケート調査によると、
「 あなたはバスクの『独立』に対して国民投票で賛成しますか?
それとも反対しますか?」という問いに対して、純粋なバスク人、非バスク人合わせ
て賛成したのは意外にも 46%だった 16。ETA の過激なテロ活動に対しても、バスク住
民の 94%が否定的な立場をとっている。しかし、HB-ETA の支持住民層の中では、民
族自決に基づく独立運動が国民国家の形成に繋がるという見方をしている人が多い。
つまり住民は、あくまでも民主的な方法による分離・独立の実現を望んでいると言え
るだろう。
16
大泉、前掲書、p.20
-9-
第3節
バスクの求める自決権
バスク住民や民族主義者の ETA に対する評価と同様に、バスクでは現在、行政上バ
スクが求めている自決権に関して意見が分かれている。バスク内の行政上の議論は、
バスク民族・文化をスペインや国際社会に認められるための最善策、バスク住民がス
ペインに対してどれだけの力を持ちうるか、そしてバスク人であるとはどういうこと
か、の三つの事項に集約されているが、これら三つの事項に対する見解でバスクは大
きく三つのグループに分けられる 17 。まず一つ目のグループが急進派・過激派(the
Radical Nationalists)であり、ETA に最も近いとされる。彼らの主な主張は独立、
アンチ・グローバリゼーション、社会主義、バスク語の保持であるが、バスク地方を
現在スペイン政府に占領されている地域と捉えている。彼らにとっては、完全な独立
以外、文化的・言語的・民族的アイデンティティを満たす手段となりえない。二つ目
にあげられるのは、非暴力を以って更なる自治を求めており、究極的な形での独立も
視野にいれているグループ(the Moderate Nationalists)である。このグループを代
表しているのが長年にわたってバスク自治州を統治してきた PNV であるが、バスク
の自決を主張してはいるものの、ETA のようなやり方を受け入れてはいない。そして
最後に現状で特に疑問を抱いていないグループ(the Constitutionalists)であり、場
合によっては、自分たちがバスク自治州においてマイノリティであると感じている。
つまりは、独立を支持するのを当然としているナショナリストに包囲された地位にあ
ると自身を捉えているといえる。
以上のように、現在のバスクの求める自決権は様々であるが、バスクを統治してき
た PNV ら穏健派が考える自決権、つまりは非暴力で更なる自治を求め、最終的には
独立を求めていく、という立場がバスク内では最も多いため、これを一般的にバスク
が求める自決権であるとして本稿では扱っていくこととする。ダヴ・ローネンの言葉
を借りるとすれば、バスクの求める自決権は、一つのマイノリティとしてのエスニッ
クの自決 18であるとまとめることができるであろう。
17
Regina M. Buono, “Delimiting culture: Implications for individual Rights in the Basque
Country Today”, Texas International Law Journal , University of Texas at Austin School of Law
Publications Inc., Fall, 2003
18 エスニックの自決とは、
「国家そのものの枠組を組み変えることを目指し、別の国家として分離
されること、あるいは、少なくとも、国家内において自治の地位が与えられることを要求」するこ
と。
ダヴ・ローネン著『自決とは何か-ナショナリズムからエスニック紛争へ』、浦野起央・信夫隆司
訳(刀水書房、1988)、p.22
- 10 -
第4節
スペインにおけるバスクの法的位置づけ
フランコ独裁時のような経緯を踏まえてバスクナショナリズムが高まり、ETA の活
動が更に激しさを増していったが、独立を求めている今現在のバスクは、スペイン内
でどのように位置づけられているのだろうか。
1978 年憲法にて認められたときと同様、バスクは現在でもスペインを構成する一自
治州である。しかしすでに述べたように、憲法には自治の規定が設けられているが、
「不可分のスペイン国のゆるぎなき統一」という文言の通り、その領土の一部を分割
することや地域の独立を認めてはいない。
バスクは歴史的自治州と言われる州で、他の多くの州と違い、フランコによる独裁
政治の前までに効力があった「1931 年共和国憲法」下で、住民投票において「自治条
例」を承認したという経緯があり、経過規定第 2 号に基づき、暫定州議会の絶対多数
による合意及びその政府通告という迅速且つ簡単な手続きのみで直ちに自治州条例を
制定した。この自治州条例に、各自治州の権限等について細かく規定しているのだが、
バスクのものについては、詳しくは第5章にて見ていく。ここで確認しておくべきこ
とは、バスクが憲法及び自治州条例により、その自治州という地位を間違いなくスペ
イン国内にて認められていることである。
第2章
マイノリティと
マイノリティ と 自決権
バスクの主張する分離・独立を直ちに自決権と結びつけるのは賢明ではないが、バ
スク住民の多くが民族自決に基づく独立運動が国民国家形成に繋がるという考えを持
っている上、その運動の始まりが地域ナショナリズムだけでなく、弾圧や圧制からの
解放だったことからも、その要求は自決権の獲得といえるのではないだろうか。もっ
とも、自決権の概念が誕生したばかりの自決権の意味は限定されており、今現在まで、
概念が発展していくと共に、その意味も広がりを見せるようになってきている。この
章では、そのような自決権の発展を簡単に概観した後、自決権の主体、自決権と領土
保全との対立、そしてバスクが求めている自決権がどのように解釈されるべきかにつ
いて考察していく。
第1節
自決権の発展
(1)国際法における自決権の変遷
- 11 -
自決権の起源となる概念は、18 世紀の啓蒙期自然法思想から存在したとされている
19 が、戦後の民族意識の高揚や民主主義の高まり、そして人権規範の発展とともに、
自決権も発展してきた。国際法上その姿を現し始めたのは国連憲章である。その第 1
条 2 項にて、「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発
展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること」というよ
うに、国連の目的の一つの中で自決に言及している。当時の「自決」の概念に関して
は、まだ慣習法化していなかったとする意見の一致が学者の間では存在する 20 。そし
てアフリカの年として知られる 1960 年の国連総会による「植民地諸国、諸人民に対
する独立付与に関する宣言(以下、植民地独立付与宣言)」の採択 21によって、
「自決」
の概念は権利として成立したと言われている。しかしこの時点での自決権は、外国の
支配からの解放を目指す人のための権利と限定されていた 22 。また、植民地と関連し
て、国連憲章にも信託統治地域制度について規定されているが、国連の実践において
非植民地化の重要な根拠として機能した一方、自決に関する規定が抽象的である上に、
自決の達成のための具体的手続きを定めていないことから、やはり法的権利として自
決権を認めたものではないと考えるのが妥当だろう。1966 年になると、国際人権規約
「その政治的地位を自由
が採択 23されるが、その共通第 1 条によれば、全ての人民が、
に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追及する」権利が自決権
であり、その 3 項にて規定するように、「締約国は、国際連合憲章の規定に従い、自
決の権利が実現されることを促進し及び自決権利を尊重」しなければならない。国連
総会の第三委員会は、その起草過程である 1955 年に、規約の共通第 1 条に自決の権
利を入れることを決定したのだが、このことは自決権が国際法上の権利として認めら
れ始めたきっかけとして重要ではないだろうか。そして 1970 年には、
「国際連合憲章
に従った諸国間の友好関係と協力に関する国際法の諸原則についての宣言(以下、友
好関係宣言)」が採択 24され、すべての人民が政治的地位を自由に決定する権利を有し、
いずれの国もこの権利を尊重する義務を有することを規定したが、この宣言の審議過
程で西 側の 先進 国も こ の権利 が人 民の 法的 な 権利で ある とし て認 め るに至 った 25 。
1975 年に採択されたヘルシンキ宣言でも、人民の同権と自決権の項目にて、「すべて
19 その後のアメリカの独立宣言やフランスの諸憲法はこの影響を受けており、民族自決の思想は
19 世紀のヨーロッパにおける国民国家形成の指導理念としての役割を果たしたとされる。
20 Hannum, ibid., p.33
21 G. A. Res. 1514 (XV), UN Doc. A/4684
22 同宣言第 2 項にて、
「すべての人民は」という言及はあるが、その後に続く第 5 項にて、「信託
統治地域及び非自治地域又はまだ独立を達成していないほかの全ての地域」とあるように、一般人
民を普遍的には指していないと考えるのが一般的。
23 G. A. Res. 2200 (XXI)
24 G. A. Res. 2625 (XXV), UN Doc. A/5217
25 杉原高嶺・水上千之・臼杵知史・吉井淳・加藤信行・高田映著『現代国際法講義』
(有斐閣、2003)、
p.58
- 12 -
の人民は、常に、外部の干与を受けることなく、完全に自由にその欲するときまた欲
するようにその国内的及び対外的な政治的地位を決定」すると述べている。
以上まで国際法上明文化された形での自決権の発展を見てきたわけだが、一口に自
決権と言っても、その内容は年代・時期によって変化したり付け加えられたりしたこ
とで多様になってきている。次の項目ではその中でも、自決権を大きいくくりで分け
た、内的自決権と外的自決権について見ていく。
(2)内的自決と外的自決
自決権の見解は学者によって様々であり、自決権を外的自決権や内的自決権に限ら
ず、他にも集団的自決・政治的自決・反植民地的自決・分離的自決・個別的自決・経
済的自決・文化的自決など、様々な自決権の存在を主張している人もいれば、6 つの
カテゴリーからなるとしている人もいる。一方で、一般的に受け入れられている解釈
として、外的自決権は、人民が従属していた支配を離れて、独立その他の自らの国際
的地位を選択すること;内的自決権は、人民が自ら希望する国内体制・形態を選択す
ること、というものがあげられる 26。植民地独立付与宣言で想定されていた自決権は、
植民地人民の従属からの解放を達成するための方法としての外的自決権であった。こ
れがいかにして内的自決の意味も持つようになっていったのかは、自決権の主体と非
常に深く関係している。それについては以下、詳しく述べていく。
第2節
自決権の主体としてのマイノリティとバスク
前節で述べたような、植民地人民の従属からの解放を求めている時期における自決
権は外的自決権であり、その主体は当然植民地として「外国の支配」のもとにおかれ
ている人間集団であると考えられる。
その主体の対象として別の者が考えられるようになったのは、国際人権規約である。
具体的には、その草案の注解にて「人民」(peoples)の語は独立国、信託統治地域を
問わず、すべての国および地域における peoples を意味すると理解される、としてい
る 27 。内的自決を実現するための手続きや措置がとられたわけではない 28 ため、内的
自決権を認めるものとして国際法上完全なものとはいえないが、このときから自決権
26 家正治「内的自決に関する国際規則」
、神戸市外国語大学外国語研究所編『民族と自決権に関す
る研究』(1996)、p.41
27 同書、p.45
28 この理由は、人権委員会の議長がその一般的意見にて述べている:the right to
self-determination is “one of the most awkward to define, since the abuse of that right could
jeopardize international peace and security in giving states the impression that their
territorial integrity was threatened”. See UN. Doc. CCPR/C/SR.503
- 13 -
は外国の支配下にある植民地的立場の地域の人に限られない、とする概念が広まり始
め、内的自決権を認め始める傾向が出てくるようになる。同じく友好関係宣言も、国
際人権規約と似たような内容であるが、手続きや措置については述べられていない。
しかし、この宣言については反対解釈ができるとする学者も少なくない。その根拠と
なっているのが人民の同権と自決の原則の項目であるが、その最後の方に、
「上に規定
された人民の同権を自決の原則に従って行動し、それゆえ人種、信条又は皮膚の色に
よる差別なくその領域に属するすべての人民を代表する政府」という文言があり、こ
のような代表政府がない場合には、植民地下における植民地住民以外にも、外的自決
権を認めることができる、といった意見である 29 。このような論理が登場するととも
に、外国の支配下以外の「人民」が外的自決権を主張する前の段階としての内的自決
権が定着し始めたのではないかと私は考える。
上記のような反対解釈に基づいて、その後自身が一部をなす政治的実体の内部での
自決から転じて独立した実体として外部への自決を求めるケースがどんどん見られる
ようになり、ごく少数ではあるが 90 年代にはそれを根拠に独立を達成した国や、今
現在独立に向けて活動している国もある。そしてほとんどの場合、人種的・民族的マ
イノリティが主体となっている点に注目したい。つまり、新しい自決権の主体として
マイノリティ 30 が登場したのである。そのいくつかの例に関しては後々検証していく
が、国際法上マイノリティを主体とした自決権は明確には認められていないにも関わ
らず、結果として独立した後、国連などの国連機関も含めて承認をうけ、国家として
認められたケースが存在するのである。これを契機に、マイノリティが集団として自
決権を求める動きが活発化しているのである。私が本稿の対象としているバスクの要
求はスペインから分離し、一国家としてバスク民族の独立を達成することであるが、
その意味ではマイノリティとしての外的自決権(エスニックの自決)を求めていると
考えるのが適当であろう。そして、バスクがスペイン政府と対立しているのと同じよ
うに、このような分離独立運動が活発化しているような地域では、中央との対立が必
ず表面化しており、対立が激化しているような地域では、紛争が頻繁に起こっている。
次節では、この分離独立を求める場合の自決権と中央との対立、いわゆる国家主権や
領土保全との対立について見ていきたい。
29 内田久司「国家主権、自決と人権―冷戦期から冷戦後へ―」
、越路正巳編『21 世紀の主権、人権
および民族自決権』21 世紀の民族と国家第②巻(未来社、1998)、p.23
30 マイノリティの定義は、1977 年、マイノリティの差別防止と保護委員会(国連人権委員会下)
の特別報告者であるカポトルティ氏(Professor Capotorti)によって試験的になされた:「一国家
内において他の住民よりも数が少なく、非支配的な地位と、当該国家の国民であるが他の住民と異
なった民族的、宗教的または言語的特徴を有しており、絶対的でありさえすれば、その構成員の中
で連帯意識を持っており、これらの文化・伝統・宗教・言語等を保持しようと望んでいる集団」。
See UN Doc. E/CN4/Sub/2/384
- 14 -
第3節
自決と国家主権・領土保全との対立
すでに述べたことではあるが、ある地域が自決権を根拠に分離独立を求めていると
きは、必ずと言っていいほど、中央政府との対立が表面化する。それは、国家が領土
保全を主張できるためである。
このような領土保全の根拠は、国際法上、国連憲章 31 を始めとするいくつかの規定
にて保障されていることにある。例えば、反対解釈として援用されるものではあるが、
前述の友好関係宣言で引用した文言に続く言葉 32が、それを保障している:
上記の各項のいずれも、上に規定された人民の同権と自決の原則に従って行動
し、それゆえ人種、信条又は皮膚の色による差別なくその領域に属するすべて
の人民を代表する政府 を有する主権独立国の 領土保全又は政治的統 一を全部
又は一部分割し若しくは毀損するいかなる行動をも、承認し又は奨励するもの
と解釈されてはならない。
すべての国は、他のいずれかの国又は領域の民族的統一及び領土保全の一部又
は全部の分断を目的とするいかなる行為をも慎まなければならない。
自決の概念が表面的に現れ始めた契機としての植民地独立付与宣言にも、同じように、
第 6 項にて国家の領土保全について触れている:
国の国民的統一及び領土保全の一部又は全部の破壊をめざすいかなる企図も、
国際連合憲章の目的及び原則と両立しない。
このような保障は、自決権を乱用して独立を主張していくケースが増えることを防
ぐことを意図しているとともに、国際法の主体はあくまでも国家であり、それ以外の
何者でもないことを確認するために考えられたものだと私は考える。本来、国際法は
国家間のシステムを調整するために発展してきたはずであり、それゆえ主体はやはり
国家なのである。伝統的国際法の中でも、他国の領土保全を尊重することは国際的な
平和と安定を保つための基本的な方法であるという概念が存在する 33。しかしながら、
31
国連憲章内で領土保全に関する言及は、第 2 条の 4 項に見られる:
「すべての加盟国は、その国
...................
際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対
....
するもの も、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければなら
ない。」
32 友好関係宣言、人民の同権と自決の原則の部の最後二つの段落
33 Thomas D. Musgrave, Self-Determination and National Minorities , Clarendon Press, Oxford,
1997, .180
- 15 -
すでに見てきたように、戦後の人権規範の発展とともに、様々な権利が国家以外の主
体、例えば個人に認められるようになってきたのも事実である。そして新たに登場し
てきている主体としてのマイノリティも、稀ではあるが、結果的にその権利が認めら
れているのである。従って、国家主権をベースに考え、領土保全を主張していく中央
と、個人あるいは集団の権利としての自決を元に独立を要求していくマイノリティと
が対立するのは当然のことではないだろうか。
第3章
自決権と
自決権 と 分離権
前章にて、国家主権・領土保全と自決権を根拠とする独立との対立を見てきたわけ
だが、それでは独立派側が求めるこの分離権に対して、国際社会はこれまでどのよう
に対応してきたのであろうか。この章では、これについての考察と、実際に分離独立
を達成したケースを扱いながら、その手段として機能した「投票」について見ていく。
第1節
分離独立に対する国際社会の対応
すでに何度も見てきたように、1960 年の植民地独立付与宣言以降、自決権は国際法
上の権利として確立されていく。初期は植民地からの独立ばかりであったが、特に冷
戦後の分離独立組の国連への加盟が増大している 34 。分離独立が成功した稀なケース
(ほとんどのケースは失敗に終わっているため)は、シンガポール、旧ソ連各共和国、
チェコ・スロヴァキア、エリトリア、東パキスタン(バングラデシュ)、旧ユーゴスラ
ヴィア諸共和国等があげられるが、以上のような分離独立に対して国際社会はどのよ
うに対応してきたのであろうか。
一般的には、人民の自決の原則と多くの分離独立運動の両者が異なる原則化、ある
いは一物事の両面であるかは、法的には必ずしも定かではないとされている 35 。元国
連事務総長であるウ・タント氏は、ナイジェリア内戦末期のアフリカ訪問中の記者会
見における発言にて「国連はかつても、現在でも一度も分離独立運動を認めたことが
ない、自決権は決して国連加盟国内部の一部の人々の自決を意味しない」と述べてい
る。同じく元国連事務総長であったガリ氏も、1992 年 1 月 31 日の「安保理サミット」
での演説にて、
「冷戦後の世界各地の民主主義的動きは、国際社会の平和及び安全に対
する新しい挑戦」であると述べ、こういう状況への効果的対処のため、
「平和執行部隊」
34
孫占坤「自決権と分離権―民族問題についての「覚書」―」、神戸市外国語大学外国語研究所編
『民族と自決権に関する研究』(1996)、p.55
35 王志安『国際法における承認 その法的機能及び効果の再検討』
(東信堂、1999)、p114.
- 16 -
の創設を提唱する『平和への課題』という報告書を安全保障理事会に提出したのであ
る 36 。また、人によっては、国際実行において、独立の選択を内包する自決権は厳格
に植民地事情に限定されるとしている学者もいる。
一方で、分離独立への自決権適用の容認ないし、その仄めかしとしての意見がある
ことも否定できない。これには、主に二つの国際文書がよく引用されるのだが、一つ
はすでに本稿でも何度か述べている 1970 年に採択された友好関係宣言であり、その
反対解釈が自決権適用の基準となる。つまり、正当な「代表政府」がきちんと存在す
るか否かが重要であり、内的自決権が保障されない場合に外的自決権を援用する方法
だと言えるだろう。しかし、法律の適用上反対解釈を利用することは国際法上一般的
に認められたことであるかは明確ではないため、これを普遍的に利用できるかと言え
ば、疑問が残るのではないかと私は考える。二つ目の文書は、1991 年 12 月 16 日の、
欧州政治協力臨時閣僚会議による『東ヨーロッパとソビエト連邦における新国家の承
認に関するガイドライン』に関する宣言であるが、EC は、
「新国家の各々がどの程度
人権・自決権・民主主義を尊重しているのか、法の支配のシステムがとの程度確立し
ているのかを考慮しながらその承認を行う」としている 37 が、これの対象に分離独立
国が含まれるかについては疑問である。また、法律に基づいてはいないが、分離独立
の正当性を説く論理もある。
「矯正的正義」と「救済的正義」38がそれであるが、ます
最初の「矯正的正義」は、かつて違法または不当とされる領域取得を正すための分離
独立は認められるべきであるとする主張であり、その例としてはバルト三国があげら
れる。しかしこれには領域の歴史的被害を受けた側が、国際法上承認された国家の地
位を有していなければならなかったことと、時際法の性格、つまり当時存在した国際
法に違反していなければならないという制約がある。次の「救済的正義」とは、抑圧
の存在が確認されたときや差別の除去を目的に主張されるものである。
以上が国際社会の分離独立に対する一般的な対応であるが、それでも旧ユーゴスラ
ヴィア諸共和国等、前述のように分離独立を国際社会に認められたケースもいくつか
存在する。それらのケースの中で、よく使われる手段が国民投票若しくは住民投票で
ある。
第2節
投票による独立
独立に結びついた有効なきっかけとして国民投票・住民投票が行われることがある
ということはすでに述べたが、スロベニアやエリトリアなどはその例としてあげられ
36 孫、同稿、p.63
37
38
孫、前稿、p.65
王、前掲書、p.122-123
- 17 -
る。今回は、その中でも記憶に新しいモンテネグロについて見てみよう。
(1)モンテネグロの独立
モンテネグロは旧ユーゴスラヴィアを構成していた共和国であったが、2006 年 5
月 21 日に独立の賛否を問う国民投票が行われ、わずかな差で独立賛成票が上回り、
独立が達成された 39。この国民投票は、2003 年の、3年後に国民投票によって連合国
家のあり方を問うという憲法規定にのっとって行われたのであるが、なぜ人口 62 万
人の小国モンテネグロが執拗に独立を要求してきたのか、そしてどのようにして独立
が達成されるに至ったかを、まずは簡単に見ていきたい。
旧ユーゴスラヴィアの解体は、1991 年のスロベニアとクロアチアの独立宣言から始
まり、内戦とともに進んでいった。1992 年になるとマケドニア、ボスニア・ヘルツェ
ゴビナも独立宣言を出すが、残るセルビアとモンテネグロの二共和国は同年 2 月に旧
ユーゴスラヴィアの継承を主張して、新たな連邦を形成することで合意した。モンテ
ネグロはこの時点ですでに一度、セルビアと新たな連邦を形成するに際して、その賛
否を問う国民投票を実施した。アルバニア人やムスリム人が投票をボイコットしたた
め投票率は 66%だったが、96%がセルビアとの新たな連邦形成に賛成した 40。しかし
ながらこのユーゴスラヴィア連邦共和国(以下新ユーゴスラヴィア)はそれまでの内
戦過程のため、セルビア大統領ミロシェヴィチが国際社会から侵略者と見なされ、継
承国とは承認されず、事実上国連からも追放されてしまう。一方ミロシェヴィチも旧
ユーゴスラヴィアの継承国としての主張を変えることはなく、国際的な孤立政策を採
り続けた。そんな中、ミロシェヴィチ率いるセルビア社会党と関係の近かったモンテ
ネグロの与党社会主義民主党にて、ミロシェヴィチ政権と距離をとろうとする勢力が
急速に影響力を強め始めていった。そしてその中心人物としてジュカノヴィチ首相が
登場する。彼は経済的な利害関心から EU との関係を強化することを考えていた。そ
して 1997 年になると、彼はモンテネグロ共和国大統領選挙でセルビアとの統一を主
張していた前大統領のブラトヴィチに僅差で当選するが、このときから現在までモン
テネグロでは「自立(独立)派」と「統一派」の二分状態となっている。そして彼は
それ以降しばらく、独立を公に宣言するのではなく、様々な方法で実質的に連邦の権
限を徐々に崩し、セルビアの頭越しに市場化や民営化といった経済改革を進めていっ
た。そして 2000 年 12 月、すでにミロシェヴィチに代わってユーゴスラヴィア大統領
としてコシュトニツァが当選したことを踏まえて、ジュカノヴィチ政権は、防衛、外
39
外務省 HP http://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html 参照
柴宜弘「連合国家セルビア・モンテネグロの解体―モンテネグロの独立を EU―」、拓殖大学海
外事情研究所編『海外事情』、No.54(2006)、p.89
40
- 18 -
交、財務のみを共通とする対等な二主権国家の連合を目指す「新たな二国間関係に関
するモンテネグロ政府とセルビア政府との交渉のための綱領」を発表し、セルビアと
の交渉に臨んだ。そしてこの交渉の中で、モンテネグロ政府は交渉がうまくいかない
場合は独立にむけての国民投票実施も辞さないと、強硬な姿勢を示すようになる。こ
の交渉のための綱領を発表したのと同じ頃、アナン国連事務総長はセルビア・コソボ・
モンテネグロからなる国家連合を提案した 41 が、セルビア政府 42 からもモンテネグロ
政府からも強く反対された。
そんな中モンテネグロ政府は膠着状態を逃れるため、2002 年から夏にかけての国民
投票実施を、チェコとスロヴァキアの協議による分離の例 43 を持ち出しながら、公言
するようになる。同じ頃、EU はマケドニアでのアルバニア人勢力と政府間の武力衝
突を沈静化させていたのであるが、このモンテネグロの独立問題がマケドニアに悪影
響を及ぼしかねないとして、同問題に積極的に関与するようになってくる。そして
2002 年 1 月、ソラナ EU 共通外交・安全保障上級代表の強いイニシアティブのもと、
モンテネグロとセルビアの関係を再編するための交渉が始められた。そして 2 ヶ月後
の 3 月 14 日、「セルビアとモンテネグロの関係を再構築するための出発点」(ベオグ
ラード合意)が結ばれた。この中で特に注目しておくべきことは、3 年後に連合形態
の見直し、連合国家から離脱する権利が保障されたことだと考える。というのも、こ
れが後々モンテネグロの独立の実施に深く関係してくるからだ。この合意の成立以後、
選挙を控えた両国の影響のため、憲法草案作りはスムーズに進まなかったが、EU の
強い要請により 12 月に起草された。この憲法案は 2003 年 1 月にセルビアとモンテネ
グロ議会で、続いて 2 月 4 日にユーゴスラヴィア連邦議会でも採択され、67 条からな
る新憲法が公布されて連合国家セルビア・モンテネグロへの以降が完了した。新憲法
はベオグラード合意に基づき、その第 60 条にて、3 年後に連合形態を見直し、構成共
和国が国民投票により独立する権利を規定した 44。
そして 3 年後の 2006 年、ついにこの国民投票がモンテネグロにて実施されたので
ある。1 月から 2 月にかけて、スロヴァキアの外交官で、ソラナ上級代表であるライ
チャクのもと、
「独立派」と「統一派」との交渉が繰り返された。この交渉の中で特に
41 1999 年からの国連によるコソボの暫定統治が始まるに伴い、国連はコソボ問題への影響の可能
性への危惧から隣接するモンテネグロの独立問題に多大な関心を寄せ始めた。
42 「 とくにセルビア政府と連邦政府にとって、国連安保理決議一二四四に基づきユーゴスラヴィ
アの領土の一体性を維持することが最大の関心事であり、連邦が分裂して、この決議が意味を持た
なくなりかねない提案をうけいれることはできなかった。」
柴、前稿、p.93
43 首脳交渉による合意のもと、分離が認められた。
44 新憲法の内容は、”Constitutional Charter of the State Union of Serbia and Montenegro” セ
ルビア共和国外務省 HP:http://www.smip.sv.gov.yu/ から確認できる。
- 19 -
問題となったのは国民投票の成立要件 45 であったが、ライチャクの説得と圧力を受け
た両派はようやく合意に達し、3 月 1 日に「モンテネグロの国家および法的地位に関
する国民投票法」が議会で採択された。この法律に基づいて選挙が実施されたのは
2006 年の 5 月 21 日で、投票用紙には「モンテネグロが国際的にも法的にも十分な主
体性を持った独立国となることを望みますか」という質問事項が書かれた。そして 23
日の管理委員会の最終結果発表は、投票率 86.4%、賛成 23 万 711(55.5%)の小差
で独立が達成されたことを告げた。
これまでモンテネグロの国民投票による独立過程を見てきたが、注目すべきことは、
その実施を行う権利について独立前のセルビア・モンテネグロの憲法にて規定されて
いた 46こと、国民投票が EU という国際機関(正確にはライチャク特使および管理委
員会)の監視のもとで行われたことの二つであると私は考える。この二つの条件が揃
うことで、モンテネグロの独立の正当性は主張できるのだ。というのも、セルビアお
よびモンテネグロが共に合意した上で作成された憲法規定に基づいているためであり、
そのため国民投票によるモンテネグロの独立はセルビアの領土保全を侵すものではな
い。また、国際機関が国民投票を主導することによって、不正な投票あるいは選挙操
作を防ぐことができ、信頼性も高まる。モンテネグロの独立は極めて僅差で達成され
たものであるが、以上の二つの条件から、他国もモンテネグロを一独立国として国家
承認しやすく、国連も同年 6 月 28 日にその加盟を認めた 47。
これ以外にも国民投票を実施して独立を果たした国はいくつかある。モンテネグロ
の独立前の旧ユーゴスラヴィア諸共和国もそうであるが、彼らはまず独立宣言を出し
ていた。しかしながら、旧ユーゴスラヴィアの憲法には分離の規定がなかったため、
これら諸国は国際社会の承認を得るため、正当性の根拠として国民投票を実施して圧
倒的な賛成を得る手順を踏んだ。つまり、国民投票そのものを独立の正当性の根拠と
したのである。これらのケースでは、先に述べたような条件のもと行われた国民投票
ほど信頼できるものではないが、他国の承認を得ることで独立を達成してきた。それ
でもやはり、モンテネグロのような条件のもと行われた国民投票により達成された独
立の方が、根拠があり、正当性が認められるように思われる。
このように、独立の有効な手段として国民投票を捉えることはできるが、国民投票
を行ったからといって、全てのケースで独立が認められるわけではなく、これを理由
に分離権が国際法上一般的・慣習法的に認められたものであるとすることはできない
45
最終的な国民投票成立要件は投票率 50%以上であり、独立の承認要件は賛成票が 55%以上を締
めることとされた。
46 同憲法、第 60 条参照。
47 See A/RES/60/264, UN Doc. A/60/PV.91
- 20 -
だろう。これらはあくまで例外的なケースだということを強調しておかなければなら
ない。
また、モンテネグロの独立要求の原因が、これから考察しようとしているバスクの
ような民族問題ではなく政治的理由にあるということも、頭に入れておかなければな
らない。
(2)コミュニティの範囲と投票の行為主体
さて、国民投票が独立の有効的な手段の一つである一方、それを理由に分離独立を
国際法上普遍的に認められたものとすることはできないことはすでに述べたが、仮に
認められるようになっても、いくつかの問題点が残っていることを指摘したい。
一つ目は、投票が行われるコミュニティの範囲である。ほとんどの場合は、独立を
求めている地域において投票は実施されるが、その地域のみで行われた投票で独立を
認めてしまってよいのだろうか。モンテネグロのケースのように、予め憲法規定にて
構成共和国の投票の権利を認めている場合は別だが、それ以外のケースでは、国家の
領土保全の原則との対立の解決にはなっていないように思われる。このような場合、
国際法の原則では領土保全が守られるべきものである以上、国民投票の結果をもって
して独立を望むのならば、分離独立を望む地域のみで投票を実施するのではなく、分
離前の領域全体にて実施するべきであると私は考える。
次に二つ目の点であるが、投票を行うとき、その行為主体をどのように決定するか
である。これは先に述べた投票が行われるコミュニティの範囲と関係してくるが、こ
の問題は独立が達成された後の住民がどこに属するかを左右するのではないかと私は
考える。もちろん領土保全の問題や統一を望む集団の声を無視して投票を実施して独
立を達成することは国家システムの崩壊に繋がるため、最低でも独立を要求している
地域内に存在する反独立派は投票に参加するべきである。ではもし多くのケースのよ
うに、投票が実施される地域範囲が独立を望む地域内だけで行われる場合、分離前の、
それ以外の領土に住む独立賛成派について考えてみよう。民族問題を理由に分離独立
を掲げている場合が特に問題となってくるのであるが、仮にその地域で投票により独
立が達成された場合、地域的にはおそらく投票が行われた範囲が新たな独立国家とし
ての領域となると予想される。このとき、その地域外に住んでいた独立賛成派の国籍
はおそらく元のままであり、望んでも独立を達成した新たな国家の国民となることは
できないであろう。
以上のようなことを防ぐためにも、投票が実施されるときは、分離前の領土全体で、
領土を構成する地域の住民全員が主体となって投票が実施された上で独立は達成され
るべきであろう。
- 21 -
第4章
自治を
自治 を 通 じた自決
じた 自決
これまで見てきたように、国際社会の分離独立への対応は民族自決権を理由にした
ものに限らず、全く認められたケースがないわけではないが、否定的であった。しか
しすでに述べたように、民族自決権を背景とした分離独立運動は増える一方である。
このような状態を打開するために、今新しく提唱されているのが、自治を通じた自決、
「自治アプローチ」である。
第1節
リヒテンシュタイン・イニシアティブ
この自治を通じた自決の代表的なものが、リヒテンシュタイン・イニシアティブで
ある。これは名前の通り、小国リヒテンシュタインが提唱しているものであり、民族・
地域紛争への対応としての自治を理論的に突破しようと試みたものである。その主な
主張は、紛争要因は特定のコミュニティでの適切な自己表現の機会が欠如しているこ
とであるが、各々のコミュニティに充分な自治を保障することで、自決権の要求をク
リアし、かつ国家の主権・領土保全を保つことができる、というものである。
ここでリヒテンシュタイン・イニシアティブについて考察していく前に、まず国際
法における自治の概念について確認しておきたい。まずこの自治概念の定義であるが、
はっきりとした具体的定義づけは未だ存在していないと言ってよいだろう。だが、自
治を研究する国際法学者 48 に共通する自治概念要素として、次のようなものがあげら
れる。まず一つ目に、自治は国家とその内部のある地域または人的集団ないし自国に
属さないある地域との関係を示す概念である。二つ目に、この概念は基本的にそのよ
うな両者間における権限と権力の分有を意味すること。そして三つ目に、自治を付与
される地域または集団は国家・中央政府との関係において比較的に独立した地位を持
ち、かかる国家内のほかの地域・集団に比べてより多くの権限を持つ。 49 以上の三つ
を国際法上一般的とされる自治の概念と考えるのが妥当だろう。
このような自治は、戦前は専ら国内管轄事項であったが、第一次世界大戦後から徐々
に国際紛争を解決する手段として国家間で使われるようになる。フィンランド、スウ
ェーデンにおけるオーランド諸島における自治はその初期の例としてあげられるが、
この頃の自治は国際法内の確固とした概念・制度というよりは、偶発的に起こったも
のであると考えられた。そして、冷戦後のかつてない地域・民族紛争の多発により自
48
ソン、ハンニュム、リッリチ、ラピドス、ステファン、ヒンテゼら。
孫占坤「国際法における自治の概念とその機能」、名古屋大学『名古屋大学法政論集』、No.202、
(2004)、p.45
49
- 22 -
治制度は次第に重視されるようになってきている 50 。その具体的事例は後々見ていく
が、このような地域・民族紛争を解決する方法として「自治アプローチ」を、具体的
に形にして提唱したものがリヒテンシュタイン・イニシアティブである。では、この
自治を通じた自決の主張は国際社会でどのように捉えられ、議論されているかを見て
いこう。
(1)国際連合における対応
リヒテンシュタインはまずこの主張を国連に対して行った。1991 年から 1992 年に
かけて、リヒテンシュタインは国連総会にて冷戦後における民族・地域紛争解決の一
方法として自治を強調し、国連総会において同問題を議論するよう提案したことが一
連の流れの始まりである。続いて 1993 年に同国は国連事務総長に対して「自治を通
じての自決権の効果的実現」という文書を提出するのだが、これをきっかけに同問題
が人権問題を扱う総会第 3 委員会にて議論されることになる 51。しかしながらこのと
きこの主張に対して理解若しくは支持の意を表明したのはスロベニア、ハンガリー代
表ら少数にとどまり、多くの国は慎重及び警戒の姿勢を示した。その理由としては、
一つ目に、後ほど詳しく述べるが、イニシアティブの中で提唱されている自治の段階
的移行がどのように行われるのかという、自治そして自決権実現に当たっての技術的
レベルの問題が指摘された。そして二つ目に、国内におけるコミュニティの自治の保
障が自決権の適用でもあると強調することは、かえって国内諸地域、諸グループへの
例えば独立などの従来の意味での自決権適用につながりかねない、というものだった
52 。リヒテンシュタインは次年度も同問題の第三委員会での継続審議を強く希望して
いたが、以上のような経緯から審議延期となり、国連での同問題の議論はこの時点で
終了することになる。このように、自治を通じた自決に関する国連での議論は幕を閉
じてしまうが、数年後、国連は自治という方法によりコソボの紛争の解決を目指すこ
ととなる。この事例については第 3 節にて見ていく。
(2)欧州審議会における議論
50 Crawford など、自治は国内法の問題と主張する学者もいるが、Hannum らのように、自治を最
高とまではいかないが、自決権を満たすものである(less-than-sovereign self-determination)と
する意見も存在する。
Thomas D. Musgrave, Self-Determination and National Minorities , Clarendon Press, Oxford,
1997, p.208
51 Agenda item 72.
52 孫、前稿(
「国際法における「自治」の概念とその機能」)、p.67
- 23 -
欧州審議会は長い間民主主義と人権問題に力を入れてきた 53 が、冷戦後の審議会へ
の加盟国の拡大に伴って、地域・民族紛争を解決する一般的なコンセプトについて高
い関心を持つようになった。そしてこれを形にする直接的きっかけとなったのが、
1999 年 5 月 28 日に提出された動議「欧州審議会加盟国におけるエスニック紛争の解
決」である。同動議は、地域紛争が実際に起こっている地域に具体的に言及しながら、
これら分離主義問題を解決するため、新しいイニシアティブを考えるべきであるとし
た 54。この動議の提出によって、審議会の政治委員会が自治を検討する作業に着手し、
その後提出された二つの報告書 55を経て、2003 年 6 月 24 日に「紛争解決の手段とし
ての欧州自治地域の積極的経験」と題する決議 1334 と勧告 1609 が採択された 56。
決議 1334 では、特に自治地域の設立における中央政府・自治地域間の合意、柔軟
性、自治制度の法律的制度化、国家の意思決定における自治エンティティの参加保障、
自治エンティティに対する特別権限の保障、紛争解決における中央政府と自治エンテ
ィティ間のメカニズム構築と国際的関与の受け入れ、自治エンティティ内にいる少数
者の保護等の諸原則を尊重するよう加盟国に呼びかけた。そして勧告 1609 では平等、
差別禁止を基本原則とする欧州人権条約を尊重しつつ、加盟国の経験等を活かし、地
域または文化的自治を可能にするための欧州自治条約を準備するよう官僚理事会に求
めた。決議及び勧告のタイトルの中にも入っている加盟国の積極的「経験」について
は、これらが採択される前の報告書 57 の中で言及されている。この報告書の中で見ら
れる審議会の主張によると、国家は異なる文化を持つ複数の人民またはコミュニティ
から構成されており、すべてのコミュニティがそれぞれ自身の国家を形成することが
できないため、既存国家という枠組みで文化的違い、多様性の表現を保障する柔軟な
システムを導入することは、国家の統一、領土保全と地域・民族集団の権利保障との
対立を乗り越える唯一の道である、としている。欧州加盟国のいくつかの地域、例え
ばオーランド諸島、イギリス、イタリア、スイス、デンマーク等はこれまで自治地域
の設立、連邦制、地方分権等を実施してきたが、報告書はとりわけ自治制度が地域・
民族紛争を解決する原点になりうるものであると評価し、この制度の実施を積極的に
提案している。ここで一つ注目したいことは、この報告書が様々な制度を実施してい
る欧州諸国の例の一つとして、スペインをあげていることである 58 。つまりは、スペ
53
孫、同稿、p.69
See “Resolution of Ethnic Conflicts in Council of Europe Member States”, Council of Europe,
Parliamentary Assembly, Doc.8425, May 28, 1999.
55 See “Positive Experiences of Autonomous Regions as a Source of Inspiration for Conflict
Resolution in Europe”, Council of Europe, Parliamentary Assembly, Doc. 9824 and Doc. 9837.
56 See ”Positive Experiences of Autonomous Regions as a Source of Inspiration for Conflict
Resolution in Europe”, Council of Europe, Parliamentary Assembly, Resolution 1334;
Recommendation 1609, June 24, 2003.
57 Supra note 55.
58 孫、前稿(
「国際法における「自治」の概念とその機能」)、p.70
54
- 24 -
インが憲法内でも保障している自治の権利が少なくとも欧州一般では評価されている
結果ととることができると私は考える。このことについてはまた後ほど第 5 章にても
う少し考察していくが、報告書の内容に話を戻すと、報告書が、自治を成功させるた
め、憲法、他の国内法または国際条約、協定等を通して、自治を安定した法制度にす
べきであると主張していることと、そうした制度の中で自治エンティティと中央政府
の権限をなるべく明確にすべきであるとしていることも、注目に値する点であると考
える。
以上をまとめると、リヒテンシュタイン・イニシアティブそのものに対しての対応
ではないが、欧州審議会では自治に対する姿勢は肯定的且つ積極的であるとすること
ができるだろう。それでもやはり東ヨーロッパやトルコの議員からは、自治の導入が
かえって国家内の民族・地域対立を永続させ、国家の分裂を招くとの懸念が出ており、
この制度を広く一般的に受け入れられるものにするためには、まだ多くの障壁が残さ
れている。
第2節
条約草案
国連におけるリヒテンシュタインの提案に基づいた自治に対する議論は、審議延期
になったことによってピリオドが打たれたことはすでに述べたが、同国はその後、
「自
治を通じての自決条約草案」 59(Draft Convention on Self-determination through
Self-administration;以下、条約草案)を公表した。この条約草案では国連総会と第
三委員会にて主張・表明されたものよりも、同国の考え方がより明確に記されている
とされている。
この草案で特に注目すべきポイントは、「コミュニティ」の概念・三段階の自治と
選択条項・国際的監視の三つであると私は考える。では、これらについて述べる前に、
まずは草案がどのように構成されているかと各セクションの内容について少し見てお
きたい。
(1)草案の構造とセクションごとの概要
草案は 23 カ条からなっており、序文に続く五つのセクションで構成されている。
序文には拘束力はないため条項とは区別されるべきだが、ワッツによると、条約の
目的と目標を指し示しうるものとして草案に盛り込まれた。この序文では自決権の一
Supra note 55.
59 Sir A. Watts, “The Liechtenstein Draft Convention on Self-determination through
Self-administration”, W. Danspeckgruber and A. Watts, eds., Self-Determination through
Self-Administration: A Sourcebook , Lynne Rienner Publishers, 1997, p.36-45
- 25 -
般原則について述べた後に、この自決権が植民地等の地域に限定されないことと、独
立は自決権行使の可能な結果であるが、唯一の選択肢ではないということに注意して
いる。
序 文 の 後 に 続 く 五 つ の セ ク シ ョ ン で あ る が 、 第 1 セ ク シ ョ ン 60 ( Preliminary
provisions、予備条項)では、
「コミュニティ」の概念の定義、説明と自決について再
度述べている。第 2 セクション 61(Self-Administration、自治条項)では草案の核の
部分となる自治について述べており、自治を希望する当事者の義務を列挙している。
第 3 セクション 62(Institutional Provisions、制度上の条項)では裁判所や総裁、委
員 会 な ど の 制 度 上 の 規 定 が な さ れ て お り 、 第 4 セ ク シ ョ ン 63 ( Settlement of
Differences、意見の相違の緩和・解決のための条項)ではコミュニティと国家、若し
くは 2 カ国間以上の間で生じた意見の相違・緩和のために規定されている。そして第
5 セクション 64(Final Clauses、最終条項)では、他の一般的な条約と同様、留保や
発効、改正などについて規定されている。
草案は以上のように構成されているが、「コミュニティ」の概念については第 1 セ
クション、三段階の自治と選択条項については第 2 セクション、そして国際的監視に
ついては第 3・4 セクションにて述べられている。以下、それぞれについて詳しく見
ていく。
(2)「コミュニティ」の概念
条約草案の中では、自決権の一つの形である自治を享受できる主体を「コミュニテ
ィ」としている。国連憲章など、これまでの国際法上の規範では、自決権を享受する
主体は「人民」
(peoples)であった。この主体を表す言葉を従来の「人民」ではなく、
「コミュニティ」とした意図は何であろうか。ワッツ(Sir A. Watts)は、草案はわ
ざと国際法上、具体的・普遍的意味が明確に存在しないこの「コミュニティ」という
語を使用したと指摘している 65 。というのも、自治を享受する主体として何が適切な
社会政治的範囲であるべきか、という視点を取り入れるためだという。
「 マイノリティ」
や「先住民」などの具体的な言葉では、その主体が限定されてしまう。一方、国連憲
章や国際人権規約の中で使われている「人民」だと、その対象範囲が曖昧になってし
まう。なぜなら、国連憲章そのものが「人民」を定義しておらず、かといって国連が
60
61
62
63
64
65
条約草案、第 1~3 条
条約草案、第 4~8 条
同草案、第 9~14 条
同草案、第 15・16 条
同草案、第 17~23 条
Sir A. Watts, ibid., p.24
- 26 -
その定義を明確にする決議をだしたわけでもなく、それに加えて、国際人権規約でも
自決という権利を明確にした一方で、その享受体については何も定めていないからで
ある。この「コミュニティ」という概念は、上記のどの概念とも部分的に一致するも
のとして採用されたのだ。
草案は、その第 1 条にて「コミュニティ」を定義している。その定義を分析すると、
三つの要素に分けることができるが、まず一つ目は、独特な集団(distinct group)に
属しており、二つ目に、一国家の一定地域内に住んでいる(inhabit a limited area
within a State)こと。そして三つ目として、そのエンティティは草案の諸条項を効
果的に適用できる十分なレベルの組織を有している(possesses a sufficient degree of
organization as such a group for the effective application of the relevant provisions
of this Convention)ことを要求される。
「独特な集団」という語は、エンティティの他とは違う要素を決める基準を特に設
定していないように思われる。なぜあるエンティティを特定するために、違いを表す
言葉としてより明確な言葉、例えば言語的・文化的・宗教的違いという語を使用しな
かったのだろうか。ワッツは、確かにこれらの言葉は違いを明確化しやすく、そのエ
ンティティを特定しやすいが、このようにはっきりと区切りをつけることがある状況
下では事態の悪化を招くと説明している。多くのエンティティは、ある特徴から区切
られた境界線よりも、それぞれの根付いた基準や起源からその一体性を感じている、
というのがその主張である。
二つ目の要素である、「一国家の一定地域内に住んでいること」については、自治
そのものを考えるときに必要になってくる部分であろう。自治を実施する場合、当然
のことだが、その自治は一国家の一地域内で行われるものであるからだ。そのため、
地域は限定されるべきであり、また国家の大きさと比較したとき、それに釣り合った
範囲内でなければならないことを暗示している。また、この要素の内容を充分に考察
すると、草案は、その構成員が一国家内に散らばって存在しており、ある特定の地域
に居住していないエンティティには適用されず、二カ国以上にまたがったエリアにつ
いても同様のことが言えると推察できる。しかしながら、だからといってこのような
エンティティに自決権が保障されないというわけではなく、第 2 条がその部分を補う
形になっている。
そして最後に三つ目の要素、「草案の諸条項を効果的に適用できる充分なレベルの
組織を有していること」に関しては、条項に規定された様々なレベルの自治が効果的
に適用されるには、充分整合的に組織されることが必要であることから取り入れられ
た文言であるとワッツは説明している 66。
66
Sir A. Watts, ibid., p.25
- 27 -
以上の三つの要素で構成されているものが「コミュニティ」であり、この草案上、
自治を享受できる主体となる。これまでの「人民」に比べて、その対象がかなりしぼ
られており、この言葉を使用した理由の一つである、何が社会政治的単位であるべき
かの視点が反映された結果であろう。しかしながら、特に「独特の集団」そのものが
そうであるが、まだこの「コミュニティ」が示す範囲・概念に曖昧さが残ると思われ
る。柔軟性を求めていることは理解できるが、もっと明確な基準を設定するべきだと
する意見は多く存在する。一方で、扱うもの(自治・自決)の性質上、はっきりとし
た基準を設定して境界線で区切ることが果たして必要なのか、という主張も存在する。
これらの議論からは、国家主権・領土保全と自決権との対立を垣間見ることができる
ように思われる。
(3)3 段階の自治と選択条項
第 2 セクションにて、この草案の核の部分となる自治について述べられていること
はすでに述べたが、この草案で注目すべきポイントである段階的自治と選択条項につ
いてもこの中で規定されている。
草案内では三段階の自治が想定されているが、第一段階については第 4 条にて述べ
られている。第一段階の権利保障は国家にとって義務的なものであり、締約国全てが
履行しなければならず、国家はコミュニティまたはその構成員に対して諸権利の保障
または防止義務の履行を行う。例えば、宗教活動と言語使用をはじめとする独自の文
化の保持と発展の権利、国政や選挙をはじめとする様々な政治、そして公務参加の権
利、コミュニティの権利擁護を旨とするコミュニティ自らの自由な組織形成と運営の
権利、国家によるコミュニティ利益擁護のための重層的組織を形成する権利、コミュ
ニティのための国家基金等の決定過程にコミュニティの代表が参加する権利、独自性
に基づいた差別の禁止等である。この段階で想定されているコミュニティの組織とは、
ただ単に「組織」という言葉を使用していることからも予測されるように、自治政府
のような大きなものよりもむしろ、政党や政治団体として若しくは中央政府の一部門
として扱われていると考えられる。そしてワッツによれば、これらの義務的権利は網
羅的ではなく、
「コミュニティ」の概念と同様柔軟性を求められるものであり、また国
とコミュニティ間での取り決めが充分あり得る。
これに対して、第二、三段階の権利保障は国家にとって選択的である。そしてこれ
ら自治の内容は、第 8 条に基づいて宣言(declaration)をすることによって実施でき
るようになる。この選択条項である第 8 条についてはまた後ほど言及するが、まずは、
第二段階の自治について見てみよう。第二段階では、国家とコミュニティは協定を結
び、憲法と法律の範囲内で、合意に従って諸権利を国家からコミュニティへ委譲する。
- 28 -
これら諸権利は、例えばコミュニティのための国家基金を自己管理する権利、自らの
警察を保持する権利、コミュニティ地域内に存在する裁判所の裁判官の指名及びコミ
ュニティの利益を直接影響する事柄への関与の権利、児童学校を自己管理する権利等
である。これらの権利はコミュニティそれぞれの異なる表現手段を探すためには非常
に重要であるが、同時により高いレベルの自治を与えているため、国にとっても非常
に繊細なものであるとワッツは言う。これは、第 5 条の第 3 段落にてこれらの自治が
国の構造内に留まるとカバーしていることや、国とコミュニティ間の合意の必要性が
あると注意を引いていることからも分かる。
そして第三段階になると、更なる諸権利、例えばコミュニティ自らの立法組織を確
立する権利、コミュニティ内またはコミュニティに関係する事項への立法の権利、コ
ミュニティの支出を賄うためのコミュニティ政府による構成員への徴税や、防衛・外
交を除いたコミュニティ内にある全ての国家機能への代替管理等の権利を国家からコ
ミュニティへ委譲することになる。この段階の自治を与えられた地域は準国家的な性
格を帯びることになるであろう。
第二・三段階のような自治にステップアップするためには、先に述べたように、第
8 条にて定められている宣言をする必要がある。この宣言は、まずこの条約にて定め
られる委員会の総裁になされ、それから各締約国へと伝えられる。そしてこの宣言は、
自治の安定を図るため、一度なされたら取り消すことができないと規定されている。
しかしながら、宣言のために必要な状況の根本的な変化があった場合は、例外として
取り消すことができるとされている。この宣言のための必要な状況とは、つまり次の
段階に進むための必要条件のことであるが、具体的にはその段階の自治に相当する条
項に先立つ条項を、合理的な期間(reasonable period)実施し、その役割をまっとう
するのに充分な経験を満たしている(acquired a satisfactory experience in fulfilling
its role under the preceding article of this Convention)コミュニティであることを
指す。以上のような経緯から、この第 8 条は手続き条項且つ選択条項であるとされる。
このように、自治を段階的に分け、且つ次の段階の自治に進む前に、
「 合理的な期間」、
「充分な経験」や宣言などの条件を設けていることは、非常に評価できる点だと私は
考える。というのも、こうすることによって、自治という形の自決権の乱用を防ぐこ
とになり、且つ安定的に各コミュニティの自治を実施及び把握できるからである。し
かしながら、第 5・6 条にて規定するレベルの自治に進む前の必要条件である「合理
的期間」、「充分な経験」をそのコミュニティが満たしているかどうかは、誰若しくは
何が評価するのか、国が判断するとしたらその中でも誰若しくは何が判断するのか;
また、その条件が満たされたと評価できたとして、その後の宣言がなされた場合、自
動的に受け入れられるのかなど、宣言がなされる前後のステップについてはまだ不透
明さが残るように思われる。他にも、更に多くの段階を想定した方がよいとする意見
- 29 -
なども存在するが、それでもやはり自治を段階的に分けたことは充分に評価すべきこ
とであり、その中でも柔軟性を求めていくとすると、国とコミュニティ間の協定・合
意も考慮されるため、3 段階に留まるのが適当なようにも思われる。
(4)国際的監視
草案の中で、もう一つ注目すべきなのは、国際的監視という制度上の規定である。
国際的監視はそのまま草案上にて使用された表現ではないが、この草案はその第 3・4
セクションにてその制度上の規定を記している。
まず第 3 セクションの条項であるが、これらは本当の効果を得るためのメカニズム
としての条項であり、以下の組織が設立されなければならないとしている。すなわち、
委員会(board)により運営される基金(a foundation)、総裁(a secretary)、法廷
(a court)であり、そして委員会が必要と判断した場合は勧告審議会(an advisory
council)も含まれる。まず基金については第 10 条にて述べられているが、締約国や
(一部義務的)私人による出資により設立されるものである 67 。基金は条約に必要な
資金を準備するが、条約の目的に直接関わるものに限定される。また、基金は法的性
格と持つとされている。この基金を運営するのが委員会であり、各締約国の代表で構
成される。基金の設立に出資した私人がその構成員なり得るかについての条項は特に
存在していない。総裁については第 12 条にて規定され、委員会によって指名される
こととなっており、その任期は 4 年である。総裁は委員会と勧告審議会でその務めを
果たすが、その役割は主に基金の管理、委員会への年間予算と年間報告書の提出であ
り、自治と自決に関して国際的リサーチ・アドバイスセンターとして機能すること(act
as an International Research and Advisory Center on Self-Administration and
Self- Determination)を要求される。法廷については第 13・14 条にて述べられ、条
約の解釈の適用についてのあらゆるケースの管轄権を有するが、自治条項についてコ
ミュニティと国家、もしくは二カ国以上の間で意見の相違が生じたときは、この法廷
よりも先にまず総裁がその仲介役となって問題の解決がはかられる 68 こととなってい
る。
このように制度としての組織がそれぞれ規定され、(総裁や締約国に対する宣言な
ど)あるコミュニティの自治がその属する国家だけでなく、全ての締約国(各締約国
67
私的な関心事が、締約国及び基金そのものの関心事と矛盾、あるいは否定的な立場をとり得る
として、この私人による出資を危険だと指摘する学者もいる。
See Emilio J. Cardenas and Maria Fernanda Canyas, “The Limits of Self-Determination”,
Wolfang Danspeckgruber eds., The self-determination of peoples: community, nation, and state
in an interdependent world , Lynne Rienner Publishers, 2002, p.117
68 第 4 セクション、第 15・16 条の内容。
- 30 -
の代表で構成させる委員会)の監視下にあることによって、コミュニティは間接的に、
その自決権を国際的に認められることになり、また国家側からすれば、コミュニティ
の勝手な行動(独立を含む)を防ぎ、その領土保全を保障されるというメリットが期
待できる。
以上見てきたような草案のポイントを全て考慮すると、曖昧な点や疑問が多少残る
ものの、コミュニティの確実な自治のみならず、国家の領土保全も保障しており、自
決権と領土保全の両者の対立を和らげるその機能を実際に発揮することができる可能
性を有しており 69 、充分に評価できる内容のように思われる。尚、今まで述べた内容
のほかに、草案は独立についても述べており、それが自決権の実現の唯一の方法では
ないことを明確に条文として記している点にも注目すべきであろう。また、独立が実
際になされた場合に関して四つの覚書的性格の事柄を記している 70 が、これについて
は義務的ではなく、あくまで「価値のあるかもしれないこと」としており、これに関
しては明確に義務にしないと新たな紛争が起こる可能性があるとして批判を受けてい
る。しかしながら、これを義務ではなく覚書的性格にとどめるのは、この条約草案が
あくまで「自治を通じての自決」を定めたものであり、独立に関する事柄を規定する
ことを目的に作成されたものではないので、当然のことかもしれない。
第3節
ケーススタディ~自治の実例~
今まで述べてきたことはあくまで草案の内容であるので、実際にこれに基づいた自
治の例は今のところまだ見当たらない。しかしながら、自治制度を取り入れたことに
よって効果的に民族的・地域的紛争を解決した、あるいは解決に向かっているケース
は存在する。今回はその中でも特にコソボについて見てみよう。
(1)コソボ
セルビア共和国内のコソボにおける紛争は、旧ユーゴスラヴィア政府の激しい弾圧
69
Falk も、自決権の拡張を自治内での適用で認めている一方で、国家破壊的内容を避けながら柔
軟性も併せ持つリヒテンシュタイン・イニシアティブを評価している。一方で、自決権からその内
容を抜き取った、無意味な象徴的ジェスチャー、そして逆に、その適用の信頼できる保障・安定を
提供しないまま、拡張した自決権の出口を開放したままにしてしまうものになる危険性があること
も指摘している。
See Richard Falk, “Self-Determination Under International Law: The Coherence of Doctrine
Versus the Incoherence of Experience”, Wolfang Danspeckgruber eds., ibid., p. 38
70 条約草案の第 7 条に記載:(a)コミュニティ内の住民全員による住民投票の実施 (b)独立国家と
なる国家の民主的基準 (c)独立国家となる国家の人権条約への加盟に関する取り決め (d)国家の分
離独立のときに通常問題となる事柄(国の財政・資産や債務等の分配など)についての取り決め
- 31 -
をうけて、同地域に住むアルバニア系住民の反発が表面化したことから始まった。コ
ソボはもともと 1974 年憲法のもと、大幅な権利を認められた自治州であり、準国家
的な性格を有していた地域である 71。
旧ユーゴスラヴィアの崩壊に伴って、同地域での問題も浮上してくるのだが、コソ
ボにおける紛争の原因は、まず同地域の民族構成にある。コソボでは、人口の 8 割以
上をアルバニア系住民が占めており、オスマン・トルコの支配により、イスラム化が
推進された地域である。一方で、イスラム勢力が台頭する以前はセルビア人が同地区
を支配していた。イスラムの支配の間、ほとんどのセルビア民族はコソボを離れ、も
ともと自分達の治めていた地域を「聖地」
・
「故郷」と捉えるようになった。そんな中、
第一次バルカン戦争(1912~1913)後、イスラム勢力の敗北により、コソボは再びセ
ルビアの支配下におかれることとなった。このような歴史的背景により、コソボは憲
法により自治を付与されてきたわけだが、先述のような準国家的性格を帯びるように
なった同地域に対して、セルビア人は危機意識を抱くようになった。そして、セルビ
アの大統領であったミロシェヴィチは、セルビア人主導の連邦政府の権限が強化され
るべきだとして、コソボにあまりにも大きな権限を与えないよう、憲法修正案を提出
したり、コソボに不利になるような様々な立法措置をとったりと、強硬手段を講じる
ようになった。このような動きに対してアルバニア系住民が大きく反発・抵抗したの
である。そして 1991 年、コソボ議会は同地域を独立かつ平等な実体として独自に「コ
ソボ憲法」を採択し、住民投票を行うなどの措置を実施し、主権独立国家としての地
位を主張し始めた。このときのコソボの独立を主張する根拠は、まさに分離権を含む
自決権であった。旧ユーゴスラヴィア憲法にて保障されている自決権や、EC 仲裁委
員会がその「意見」の中で旧ユーゴスラヴィア共和国を自決権行使の主体として認め
ていることが特に中心となった主張であった。
一向に収まらない両者の対立を危惧して、国際社会は同問題に関心をよせるように
なった。しかしながら、国連の総会や経済社会理事会によって採択された「コソボに
おける人権状況」の諸決議をはじめとする国際社会の見解では、同問題は「自決権問
題」ではなく、もっぱら「重要な人権問題」として位置づけられた。そのため、コソ
ボをマイノリティの権利の保護や人権レベルでの対応を試みたが、直接的な解決策に
なることはなく、コソボにおける事態は悪化をたどるばかりであった。更にはアルバ
ニア系過激組織(KLA)によるテロ行為や、同組織と旧ユーゴスラヴィア連邦との武
力衝突が起こるようにもなった。このような事態をうけて、国際社会は少しずつその
ア プ ロ ー チ を 変 え て い っ た 。 国 連 安 保 理 決 議 1160 72 ・ ラ ン ブ イ エ 和 平 案 73 の 失 敗
71
同憲法の第 1・2 条によれば、同地域はユーゴスラヴィア連邦の「構成部分」として、6 つの共
和国と同列に位置づけられていた。
72 See S/RES/1160.
- 32 -
(Rambouillet Accords)
・NATO 空爆等を経て、1999 年 6 月 10 日、国連は安保理決
議 1244 74を採択した。同決議では、より国際的な関与体制の構築(「文民及び安全プ
レゼンス」international civil and security presences)を事務総長に授権し、同地域
の国際統治と、ランブイエ和平案失敗の原因である、旧ユーゴスラヴィアが最も抵抗
した NATO の軍事的介入を明文化した。これに基づいて、コソボ国連暫定統治機構
(UNMIK、The United Nations Interim Administration Mission in Kosovo)が設
置されることとなるのだが、この UNMIK の役割は、一つ目に、実質的自治の確立の
促進、選挙を通じた民主的暫定自治機構の設立と監視、二つ目に、臨時政府としての
役割、そして三つ目に、暫定機構から最終的政治解決の下で設立される機構への権限
移 行 の 監 視 と さ れ た 75 。 UNMIK の 下 、 2001 年 5 月 15 日 に は 「 憲 政 枠 組 」
(Constitutional Framework for Provisional Self-Government in Kosovo)が交付さ
れ、2002 年 3 月にようやく暫定機構が誕生した。「憲政枠組」の下でのコソボの法的
地位は、国際的暫定統治下のエンティティと定められ、不可分な領域とされたが、ユ
ーゴスラヴィアの主権については言及されていない。また、通常中央政府の議会等に
帰属する権利、例えば国際協定の締結をはじめとする外交に関する諸権限、予算・通
貨政策の決定等の諸権利が、決議 1224 の履行確保のために任命された特別代表に保
留されており、このことは、コソボが自身の機構ではなく、現段階では特別代表によ
る「国際的統治」下にあることを明確に示している。
以上のような体制のもと、コソボは現在自治を獲得するまさにその過程にあり、そ
の実現に向けて動いている。
(2)コソボにおける自治の評価
まだその実現達成への過程に留まってはいるが、このコソボにおける自治というも
のを考えると、条約草案でも見られたような国際的監視が大きな特徴として挙げられ
る。この場合、コミットメントというよりは、もうほとんど「国際的統治」と言った
方がよいであろう。また、草案のものとは若干基準がずれてくるが、段階的な自治制
度の移行というのも見てとれないわけではない。もともと独立を主張していた地域を
国連憲章の下で、コソボにおける「実質的により高度な自律と意味のある自治」
(a substantially
greater degree of autonomy and meaningful self-administration)の実施をユーゴスラヴィア政
府に求めた。
73 原文は英国の国防省と外務省によって創設された HP http://www.kosovo.mod.uk/index.htm 参
照。コソボの法的地位・自治の実体・自治を保障する国際的コミットメントについて規定。
74 See S/RES/1244.
同決議におけるコソボの法的地位については、ユーゴスラヴィア主権下の一部と明確に言及しな
がら、ユーゴスラヴィアの主権行使を「凍結」した。
75 孫、前稿(
「国際法における「自治」の概念とその機能」)、p.62
- 33 -
このように「自治」という形の中に収めたことは、自決権と領土保全との対立を考え
た際に、非常に評価できることであると考える。その基準となったのが UNMIK を定
めた決議 1244 であるが、これについてはいくつか指摘しておきたい点がある。まず
は、UNMIK の期間が、暫定機構から最終的政治解決の下で設立される機構への権限
移行が完了するまでとされているが、具体的ではなく、曖昧なことである。ほぼ「国
際的統治」下におかれている今のコソボの状態が続けば、もはやそれは「自治」では
なくなってしまう。また、自治制度の構築について、ユーゴスラヴィア政府とアルバ
ニア系住民を代表とするコソボ地域との間に合意が行われていなかった 76 ことは、さ
らにコソボを本来の「自治」から遠ざけてしまう原因になりうる。このような事態を
防ぐためにも、早く権限委譲を済ませ、コソボ自身が自治を行う体制を築かなければ
ならないだろう。
以上のような問題点が指摘できるものの、やはり「自治」が紛争解決の手段として
機能したことは事実であり、地域・民族問題を解決する効果的な方法としての可能性
は否定できない。従ってリヒテンシュタイン・イニシアティブに基づいた条約草案も、
段階的自治の移行の過程をもっと明確化し、国際的監視についても関与のバランス等
に留意すれば、十分に活用できるものになるのではと私は考える。
第5章
バスクにおける
バスク における自治
における 自治の
自治 の 考察
第1節
スペイン憲法とバスク自治州条例
これまで自治による自決権要求の達成や、民族・地域紛争の解決について考察して
きたが、第1章にて述べたように、バスクはすでにその自治をスペイン憲法下で保障
されている。それではバスクは一体どのようなレベルまでの自治を認められているの
だろうか。
基本的な国家としてのスペインと各自治州の権力分有は、スペイン憲法にて確認す
ることができる。その第 149 条の第1項にて、国の専管事項が列挙されているのだが、
これに対する自治州の権限の言及はないが、国の専官であるということは、自治州が
これらの事項を行うことができないとするのが妥当であろう。国の専管事項の例とし
ては、人権の行使、憲法条項の義務の履行において全スペイン人の平等を保障する基
本的条件に関する法規定、国際関係・外交、防衛・軍、国籍・移民・外国人・亡命、
司法行政、商法、刑法、民事・刑事訴訟法、労働立法、税関・海外取引、貨幣制度、
76
孫、同稿、p.66
- 34 -
経済活動の全般的な促進と調整、複数の州にわたる鉄道、陸上全般的なコミュニケー
ション、郵便・電信、国の目的に資する統計、住民投票実施の承認、国の文化遺産の
流出・略奪の保護、国の文化施設の管理、検疫・全般的な保健機構、薬剤に関する立
法、治安等が挙げられる 77 。ただし、以上のような国の専管事項であっても、性質上
委任が適していると判断されたものなどは、自治州に移管することも可能となってい
る。例えば、教育に関する権限の移管や、最後にあげた二つの事項(医療・保健と治
安)については、カタルーニャやバスク自治州においては自治州の管轄とされている。
しかしながら、権限の移管の状況は各自治州によって異なり、ある自治州で移管され
ている権限が別の自治州では移管されていないといったこともある。また、憲法の第
149 条の第 1 項にて列挙されていない事項であっても、自治州が自治州条例に挙げて
いない権限は国の権限になると憲法は定めている(第 149 条 3 項にて)。
一方、自治州の権限についての内容とその詳細は、各自治州の自治州条例に規定さ
れている。勿論バスクの権限については、バスク自治州条例に定められている。では、
具体的にバスクはどのような自治及び権利を認められているのであろうか。バスク自
治州条例 78 にて、これら諸権利を確認することができる。すなわち、州政府の機構に
ついて(§10-2)、州内の選挙法(§10-3)、環境資源の利用等(§10-8)、社会扶助(§10-12)、
科学的・技術的調査や研究(§10-16)、文化の奨励(§10-17)、州の文化遺産(§10-19)、
国営でない史料館・図書館・美術館等の施設(§10-20)、国の一般的に経済政策に沿
った州内での経済活動とその発展の促進(§10-25)、州内の鉄道・道路・これらによ
る輸送(§10-32)、環境・エコロジー・漁業に関する法律(§11)、刑務所法(§12)、
軍事的管轄を除く国の認可の司法(§13)、州内警察(§17)などの権限があげられる。
特に繊細な分野である警察に関しては、警察の全ての権限を州内警察に移管するので
はなく、条件つきで認められたものとなっている。州内警察は自治州域内の住民の安
全の保護や公的平穏を保つため、基本的な務めを果たすが、港・航空・海岸・国境の
監視などの国外との関係がある地域・場所での業務や、入国・出国等の事項に関して
は、国の警察が権限を持つ。また、自治州内で国の安全を脅かす事態が起きるなど、
緊急事態が発生した場合は、国の警察が自治州内の権限に入り込むこともあり得ると
規定されている(§17-6)。
このような権限の規定の他にも、バスク自治州条例では、自治州の正確な名称、州
旗、自治州議会について、また州内の司法についてなどにも触れており、6 条におい
ては、バスク語の使用と、バスク語を自治州内において、スペインの公用語であるス
ペイン語(カスティリャ語)と同等の公用語として使用することを保障している。ま
た、もう一つ注目したいことは、この条例を承認するとして、国王の署名がなされて
77
78
他の専管事項についてはスペイン国会下院議員 HP http://www.congreso.es/にて確認できる。
原文は、バスク議会 HP http://parlamento.euskadi.net/ 参照。
- 35 -
いることがあげられる。
このように、国全体に関わる法律や外交・防衛等は国の専管事項とされているもの
の、他ではあまり認められていない州内警察が認められているなど、バスクでは多く
の権限が自治州の管轄として認められていることが確認できる。
第2節
リヒテンシュタイン・イニシアティブ、条約草案とバスク
第4章にて、リヒテンシュタイン・イニシアティブとその条約草案について検証し
たが、先に指摘したような問題点が全て改善された上でこの条約草案が正式に条約と
して成立した場合、前節にて述べた諸権限を有する現在のバスクの状況はどのように
捉えられるだろうか。
まずは「コミュニティ」の概念にバスクが当てはまるかどうかであるが、その一つ
目の要素である「独特な集団」という条件は、その歴史的背景や言語的特性、彼ら自
身の独自のアイデンティティの認識などから、満たしていると言えるであろう。次に
「一国家の一定地域内に住んでいること」でるが、これについては少し検討しなけれ
ばならないであろう。もし、バスク人がその自決権を現在の自治州の地域内のみで主
張している場合は特に問題はないだろうが、歴史的にバスク地方とされる地域全体で
その自決権を主張した場合、現在はバスク自治州の中に組み込まれていないスペイン
国内の地域や、さらにはフランスの一部までもが「コミュニティ」の範囲となりかね
ない。国内だけであれば、自治州以外も特定の地域になりうる 79 のだが、草案は二カ
国以上にまたがったエリアに関しては想定していない。つまりは、フランス側のバス
ク地方に関しては、フランス内の別個の「コミュニティ」としては成立し得るものの、
スペイン国内のバスクと結びついて一つの「コミュニティ」を構成することはできな
いと考えられる。三つ目の要素、
「草案の諸条項を効果的に適用できる充分なレベルの
組織を有していること」に関しては、想定する地域が現在のバスク自治州にあたるも
のならば、すでに自治州政府という組織が存在しているので、特に問題はないであろ
う。
次に、草案が規定している三段階の自治であるが、前節にて確認したように、バス
クではすでに高レベルの自治が保障されており、草案上で想定されている第二段階の
自治を教授するのではないかと考えられる。草案の権利は網羅的ではないとされてい
るため、
「バスクコミュニティ」とスペインの間での取り決めによって、その内容は少
79
草案は、構成員が一国家内に散らばっている場合は「コミュニティ」として成立し得ないとし
ているため、例えばナバラ自治州の一部など、バスク自治州に隣接していて、その集団としての意
見を主張することは考えられる。しかしながら、現在スペインではすでに自治州が区切られたもの
として存在するため、国内であっても、国が認めない限りはナバラを「コミュニティ」の一部にす
ることは困難であると考えられる。
- 36 -
し変化する可能性はあるが、独立を主張してきたバスクは、おそらく第三段階の自治
を求めて手続きとしての宣言をすることが予想される。そしてこの宣言が認められ、
第三段階の自治を認められた場合、
「バスクコミュニティ」は外交・防衛を除いたあら
ゆる分野で今以上の権限を持つことになり、スペイン国内で準国家の性格を帯びるこ
とになるだろう。もともとの主張が独立であるため、独立そのものが達成されるまで
バスクとスペインの闘争が続く可能性はあるが、もともと自治州で、独立を求めて運
動を展開した後に今暫定的自治で落ち着いているコソボのように、このような第三段
階の自治を付与することで問題が解決される可能性も、高くはないが期待できると考
える。
最後に「国際的監視」であるが、上記の第三段階の自治をスペイン以外の締約国も
認めた場合、自決権が他国から保障されていると受けとることができる。このことに
よって、たとえ独立が達成されなくとも、自決権を他国家から保障されたものとして、
自決権の要求をクリアできる可能性がある。
以上のように、条約草案が自治条約として成立した場合、これに基づいてバスクの
自決権をめぐる独立問題は解決できる可能性はある。しかしながら、先に述べた「コ
ミュニティ」の範囲、具体的な「コミュニティ」の管轄についてなどの部分でまだ困
難な点が残っている。それに加えて、草案は独立の可能性を否定していない上に留保
を認めていないため、そもそもスペインがこの条約に加入するかどうかが疑問となっ
てくる。また、国内を自治州で区切っているスペインの構成上、一つの自治州の大幅
な自治を認めた場合、他の自治州も同様の要求をすることによって、草案でも領土保
全については保障してはいるが、国家の立場から分離独立の動きの多発を危惧するこ
とは当然のことのように思われる。従って、更なる自治によってバスクの自決権要求
をクリアするためには、更なる議論が必要となってくるであろう。
第3節
住民投票とバスクの独立
では、仮にバスクの独立要求が正当なものであるとして、モンテネグロのように、
住民投票によって独立を達成する可能性について考察してみよう。モンテネグロの例
から考えれば、住民投票はバスク内に住む住民に対して行われると予想される。しか
しながら、セルビア・モンテネグロの憲法規定(第 60 条)のように、スペインの憲
法の中には、ある特定の地域が国民投票、住民投票によって独立の権利を付与するこ
とを規定しておらず、むしろその第2条にて、スペインを不可分であると規定してい
ることから、仮に住民投票を実施してその結果が独立賛成多数であっても、スペイン
中央政府は一方的な独立宣言として、バスクを新国家として認めるとは考え難い。他
- 37 -
国の国家承認を通して独立を認めるケースも存在するが、これまでのこのようなケー
スにはほとんど他国の利益が関係しているか、もしくはある集団が植民地的な支配下
におかれた状況にあることが多く、バスクにおいてこのような国家承認は期待できな
いと考えるのが妥当であろう。更には、国家承認が行われるには、前提として国家成
立の要件 80 を満たしていなければならない。これらの要件とは、a)永続的住民、b)確
定した領域、c)政府、d)他の国と関係を取り結ぶ能力の四つであるが、バスクがこれ
ら全てを満たしているかについては疑問である。仮に、永続的住民としてバスク人あ
るいはバスク自治州域の住民、確定した領域として自治州域、そして政府として自治
政府が当てはまるとしても(この仮定すら正当性があるかは疑問であるが)、現在のバ
スクは外交の権限を与えられてはおらず、このような能力を実際に有しているかは判
断しかねる事項である。モンテネグロの場合は、a)~c)の要件を満たしているのに加
えて、共和国として外交の権限を与えられていないわけではなかった。以上のような
理由から、住民の意思を問う意味では住民投票の結果は評価できるが、独立に結びつ
くものとしては機能しないであろう。
第4節
結論
2006 年 3 月、ETA が「永続的な戦闘中止」と恒久停戦を宣言した。このときの HB
の幹部、ゴイリセライア弁護士の話から、バスク人の要求を垣間見ることができる:
「HB は ETA とは別の組織だが、バスクを統一し、独立の社会主義国家を目指す点で
共通する。今でもバスク人の意志に関係なく税収が軍や王室予算に使われている。ま
ず民族自決権を得ることが重要だ。バスクの政党、労組、市民団体が参加し、独立の
是非や政治の枠組みを話し合う機運が見えてきたことが、ETA に停戦を決断させたの
だろう。」81この中でもまさに自決権という言葉が使われている。フランコ政権下での
抑圧に対して自決権を主張したことは妥当のように思われる。そしてその結果として、
今日のスペインの自治州制度が確立されたのであり、その歴史的背景より、バスクに
は先ほど検証したような警察権や、更には他州より税収の用途を独自に決められるな
ど、大幅な自治が認められている。もちろんバスクアイデンティティを保持したいと
いう要求を認めたものとして、独自の言語であるバスク語についても、憲法及び自治
州条例は十分に保障している 82。中世における国民国家形成の過程の不十分さにより、
「 国の権利及び義務に関する条約(モンテビデオ条約)」第1条参照。
2006 年 5 月 18 日、朝日新聞掲載
82 Hannum も、このような現在のスペインの統治体系(自治制度)に関して、
「革新的で、マイノ
リティの要求に広く答えているものとして認められるに値する(it already reserves to be
recognized as innovative and generally responsive to minority demands)」と評価している。
Hannum, ibid., p.279
80
81
- 38 -
弱体化した中央と代わって、自分たちの強い国家を求めていくという主張も、現在の
スペインの状況を考えると、もはや正当化できないであろう。
2006 年 12 月 30 日、首都マドリードのバラハス国際空港の駐車場で、ETA が爆弾
テロを行った 83。これを受けて、ETA の停戦宣言から和平交渉を試みていたスペイン
政府は、その対話を中断する方針を表明することになる。ETA がこのテロを行った理
由は、バスク地方の将来の政治形態や政治犯釈放について、政府側から十分な譲歩を
得られなかったことへの不満からであるという。バスク地方の将来の政治形態につい
ては、当然独立を求める内容だと考えられるが、政治犯釈放については自決権と結び
つけて考えることは適当ではないと私は考える。
以上を考察すると、バスクでは自決権を掲げて独立を要求しているものの、その自
決権が内的自決権の意味合いで、憲法及び自治州条例で保障されているため、独立の
根拠が実質的に消失してしまっているということができる。そのため、内的自決権が
認められないがために外的自決権を主張する、という理論は、フランコ政権下であれ
ばその状況は変わっていたであろうが、現在のバスクの場合はもはや成立し得ないの
である。民族的マイノリティであるという理由だけでは、国際慣習法上独立は認めら
れない。バスクはスペインの植民地ではないため、こちらからのアプローチで自決権
を理由とした独立を要求することも不可能なのは明白である。
以上のことを踏まえると、自決権を理由にしたバスクの独立は、現行の国際法上認
められるものではないと言える。しかしながら、バスクにおける独立への声は後を絶
たない。このような事態を打開する方法として、リヒテンシュタイン・イニシアティ
ブのような条約草案にて規定されている「自治アプローチ」は有効なものとなりえる
と私は考える。特に「国際的監視」のもとに置くことによって、バスクにおける自決
権が保障されていることを、より強く提示できることにもなる。しかしながらすでに
述べたように、
「コミュニティ」の範囲など、この形態の自治についてはまだ問題点が
多く残されており、段階的自治の内容についても、十分に考慮されなければならない
だろう。またバスクでは、国内におけるその経済的豊かさのために州外出身者も多数
増えており、バスク人をマイノリティとするならば、自治という枠組みの中でも彼ら
が新たなマイノリティとなってしまうような事態も十分に考えられる上に、そのこと
が「コミュニティ」として成立できない原因にもなりうる。すでに述べたように、現
在のバスクの中でも自身をマイノリティと感じている集団(the Constitutionalists)
は存在しており、更なる自治を認めた場合にも、新しい集団同士の違いを作り上げて
しまうことの可能性を危惧している。そのような自体を避けるためにも、もし条約草
案のような条約のもとでこのような段階的自治が行われるのならば、やはり「国際的
83
2007 年 1 月 1 日、読売新聞掲載
- 39 -
監視」等の制度的枠組みを更に明確化した上で、監視・管理の体制を築いていかなけ
ればならないだろう。
おわりに
これまで「マイノリティの自決権とその実現」と題してバスクにおける分離独立運
動とその自決権に関して論を進めてきたが、改めて自決権というものは、国際法の中
でも最も繊細で難しい分野の一つであると強く感じた。何を以って自決権が保障され
ているとするかの視点が様々である上に、それが集団(マイノリティ)として求める
ものであれば、更に問題は複雑化してくる。
バスクはそのような中でも特に特異な実態であると言える。歴史的背景ももちろん
そうだが、バスク地方とされている地域が自治州以外にも広がっており、国境をまた
いでフランスまで達する。今回は、バスク地方全体で独立国家としての地位を求めて
いるのは特に急進的なバスク自治州の一角であり、そのためフランス側バスクやナバ
「コミュ
ラ自治州の相当する地域の住民は同要求を必ずしも受け入れていない 84ため、
ニティ」に関する議論もフランス側・スペイン側と分けて論じることができたが、も
しフランス側バスク自治州と同様、一つの独立国家としての地位を強く求めていたと
したら、条約草案が掲げるような「コミュニティ」を創設して、自治を付与すること
は非常に困難であっただろう。もちろん条約草案が二カ国以上にまたがる「コミュニ
ティ」を想定していないことがその理由の一つであるが、更にバスク地方の自決権要
求が国内問題に留まらず、フランスとの関係についても考慮しなければならなくなる
ためだ。
国際法が一般に考える自決権の保障と、バスクが求めている自決権にズレが生じて
いることは、最後の結論の部分で述べた通りであるが、長い間続いているスペインの
中央とバスクとのこのような繊細なズレは、やはり修正する必要があり、そのための
方策として私が本稿で論じたものが更なる自治であるのだから、やはり自決権が繊細
なものだとは考えずにいられないのである。
それでも、このような形でマイノリティの自決権を保障することができれば、バス
クに限らず、今現在私が把握していない多くの民族・地域紛争までをも解決できる可
能性は十分にあると考える。第4章で述べたように、欧州審議会においては、勧告 1609
によって欧州自治条約を準備するよう官僚理事会に要請している。しかしながら、こ
の「自治アプローチ」による解決は、制度上確立できるほどまだ確かなものではない。
84 ナバラの北部にはバスク(Euskadi)に対して友好的な地域もあるが、南部はむしろ自身のアイ
デンティティを、ナバラ-スペイン的なものとらえており、バスク的な要素を必ずしも要求してい
ない。
Hannum, ibid., p.268
- 40 -
このアプローチが適用できるかどうかはケース・バイ・ケースであり、また分離独立
運動を減らすことはできても、なくすことは不可能であろう。このような事態には、
辛抱強い対話・交渉、中央と自決権を要求するエンティティ間の武力の行使の回避と、
基本的人権の遵守が最も効果的なアプローチとなるであろう。いずれにせよ、それぞ
れのケースに適した方法で、今後より多くの民族・地域紛争が早く解決されることを
願うばかりである。
- 41 -
<参考文献・参考 URL 一覧>
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