巻 だ よ り - 羽鳥書店

石巻だより
ともに
歩もう
佐藤愛梨
さ [ 歳]
ん
伝えたい。
過ぎ去った日々のあの笑顔を。
暗闇に立ちすくんだ時、
この記録が足元を照らす光となるように。
そしてまた明日の朝を迎えられるように。
朝日新聞社員がつづる。
寝起きにぐずることは
なく、この日もすぐ
に身支度した。
バス停で、母娘
は、いつものように
み ごっこ を し な が ら
両手をつないで、足踏
しそうにパクッとくわえた。
笑った。幼稚園のバス
が来た。母は「よろしくお願いし
待った。声 を 立てて
リカちゃん人形も、ウサギのぬい
ぐるみも姉妹で遊んだ。妹のため
「悲しい時は笑うんだよ」
夏の日。 歳の姉は、
出産を終えた母を病院に
見舞った。小さな妹を目
に姉が着せ替え「これ、じゅりちゃ
びだった。
スプレゼントは、リカちゃんの部屋。大喜
キロ先、高台の日和山に立つ
バスは約
日和幼稚園へ。
た。
の娘はいつものように澄まし顔で座ってい
ます」と娘を託し、手をふった。車中
朝、妹が目覚めれば、姉はすでに幼稚園
へ行った後。帰ってくれば、
「愛梨ぃ、おか
ん。これ、私」
。2010年のクリスマ
えりぃ」と出迎える。うしろをついて歩き、
当時、近所の人が撮影した映像を、のち
に母は手に入れて目を凝らした。地震発生
舞台で高校生が演
じる女性は、笑いな
がら恋人と別れた日
を 語 る。
「その日だ
け、サラダに私の大
好きなアボカドが入ってな
くて、それであたしすっご
い怒っちゃってさ。ほんと
バカよね」
。一瞬の間。
「悔
月の高
し い ー っ」。 彼 女 は 絶 叫 し
た ▽ 2013 年
校演劇コンクールの宮城県
中央大会に出場した県立石
巻高校演劇部「アボカドの
降る朝に」のクライマック
スだ▽観客席の私の脳裏に
は女川町で出会った人々が
走馬灯のように浮かぶ。
人が
月から取材を始めたこ
人に
てきます』を言わなかった
は「あの日に限って『行っ
ことを語ってくれた中学生
落とした▽行方不明の母の
東日本大震災の津波で命を
の町で、ほぼ
年
11
にして一言「だきたい」
。母は姉をベッドに
のせて、そのひざの上で妹をだかせた。
まねをしたがる。
「じゅりちゃん、まねしな
から約 分後の午後 時すぎ。バスに乗る
1
年生の佐藤そのみさんの
ド」の脚本を書き下ろした
んです」
。最後まで笑顔を
いで」と嫌がられてもやめず、
ついには「じゅ
11
経験にも重なる。金曜日の
あの朝「おはよう」と言う
妹のみずほさんに、いつも
のように朝は不機嫌な姉は
何も返さなかった▽妹は石
平成 26 年 9 月発行(毎月 1 回発行)
第 1 巻 1 号(通巻 1 号)
「じゅりちゃん」
。姉は呼んだ。まだ母の
おなかにいた時から呼んでいた名だ。
誕生前に女の子とわかり、両親は名前の
候補を並べ、どれがよいかと姉に尋ねた。
「じゅりちゃんがいい」
。即答だった。
それ以来、姉の愛梨さんは「じゅりちゃ
ん」とおなかの妹に話しかけ、誕生を待ち
7
10
崩 さ な か っ た ▽「 ア ボ カ
豆粒のような人影。 人目。真っ白なコー
りちゃん、
やめて」
と、
はたかれたことも。
「愛
母は叫びたくなる。
わびていた。生まれた妹に母がかかりきり
憶は、妹にはない。
人の園児が乗った。 人の自宅は海側
だが、愛梨さんを含む 人は内陸。 人は
5
ト姿。愛梨だ。乗っちゃだめよ。見るたび
ベビーベッドの前で「愛梨も」と言ったこ
「大丈夫。怖くないよ」
7
5
とがある。母は「壊れないかな」と少々心
配しつつ、愛梨さんを小さなベッドの上へ。
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明日の風
3
3
「私もバブコちゃん」
。赤ん坊になった気
本来、 人とは別のバスに乗るはずだった。
分で、妹の口からおしゃぶりをぬきとると、
年 月 日。愛梨さんは母に起こされ
映像の中、バスは海へ向かう。防災無線が
た。
「幼稚園行くの、行かないの」
「行くー」
。 「ウ~」と大音量でサイレンを流し、
「大
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9
2
5
あの日、
帰らぬ旅に出た
子どもたちの記憶を刻みます
になっても、すねることはなかった。ただ、 梨っ」と姉が母に叱られた。はたかれた記
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子どもたち
よだれでベタベタなのを気にもせず、うれ
3
3
6
11
1
石巻だより 2014年(平成 26年)9月号
石巻だより 2014年(平成 26年)9月号
2
とあったが、園側は、園児が寒さに震えて
から触らないでね」と繰り返すだけ。ひつ
巻市の大川小学校
年生
だった。地震後、姉は自宅
津波警報、高台へ避難して下さい」と呼び
不安な顔を見せていたため、一刻も早く保
で待った。自分はカップ麺
無事だった園児の保護者が証言してくれ
た。車中で子どもたちが泣く中、愛梨さん
るかもしれないことは容易に予想される。
て」と言わなくなった。なぜ言わなくなっ
妹の目から、母が初めて見る大粒の涙が
ボロボロと落ちた。それ以降は「連れて来
葬儀の後、母は、妹の傍らに座って告げた。
「愛梨はね、お星様になったんだよ」
だっこして、見せてくれなかった」
「じゅりね、愛梨の最後
妹は覚えている。
のなにかを見たいって言ったけど、ママは、
も持った。途中で通行止め
帰って来ない。日曜日朝、
事にとっておいた▽だが
ぎを開ける時、母は妹を抱きあげて別室へ
かけていた。
護者の元へ返してあげたいと考えた、と主張。 連れて行った。
死に一生を得て幼稚園へ戻った。
は泣かずに「大丈夫。怖くないよ」と励ま
たのか。 歳の時に妹は語った。
で我慢。妹にあんパンを大
時頃。父が園へ迎えに行った。
「津
夕方
波にのみこまれたかもしれません」としか
していたことを。判決後、別の保護者も教
は、親たちに引き取られて無事だった。バ
の震源地等によっては巨大な津波に襲われ
の揺れが約 分間も続いていたから、地震
園側は仙台高裁へ控訴した。両親たちは
年 月から再び裁判所へ通う。
「お姉ちゃん」
妹が泣き出した時も、一生懸命に笑わせ
ようとする姉だった。
「先生、悲しいときは笑うんだよ」
スの運転手は津波で車外に押し出され、九
住む 人が犠牲になった。海側に住む 人
聞かされず、周辺の避難所を捜した。
えてくれた。車中の愛梨さんが、泣いてい
あの時、はっきり教えてくれたら。すぐ
近くにいたのに。助けられたのに。その無
念に、父は今も胸が張り裂けそうになる。
日後、両親は愛梨さんを見つけた。園
から約 200メートル先。バスの中で抱き
合うようにしていた子どもたち。腕に残っ
ていたコートの白いファーを確認した。
なぜ海へ向かわせたのか。標高約 メー
トルの園にとどまっていれば助かった命だっ
「なんでうちに帰って来ないんだって言い
たかった。でも、ちっちゃかったから、どう
言えばいいかわかんなかった」
年 月。母は、小学校のバザーへ妹を
連れて行った。帰り際、妹は母に尋ねた。
「 年生の教室はどこ」
。戸惑う母に「探し
に行こう」と妹は歩き出した。 年生の教
室が並んだ廊下で母が立ち止まると、妹は
「愛梨は何組」
。困惑する母をよそに教室を
見て回る。姉はいない。母が「帰ろっか」
と声をかけると、
「ん……」
。
入学前、妹は、自分のノートに覚えたて
の平仮名で書き留めている。
だ。誰かの声。
「みずほちゃ
ん、 あ が っ た よ 」
。道路に
しがみついて泣いた▽妹を
夢に見る。高校の保健室で
休んでいた時も。起きた直
後は現実を忘れ、妹に早く
コ下
会いたいと思った▽「弟妹
は」と聞かれると「
がいるよ」と答える。それ
以 上 は 話 さ な い。「 つ ら い
のは自分だけではないの
に、自分のことを話すのは
申し訳なくて」▽「アボカ
ド」は青春群像劇だ。震災
には触れていないが、主題
の「後悔しない生き方」に
あの日からの思いをこめて
いる。劇中、恋人を亡くし
が差し込むような終幕だっ
震災直後、妹は「愛梨を連
「あいりがいればたのしいのに じゅりは
たのしくない あいりがかいてきてくれれ
ばたのしいのに あいりのことおもてるの
録です。タイトルの「明日
いるから」と、変わり果
てた姿の姉に最後まで会
わせなかった。帰宅した
小さなひつぎを妹が手で
人、また
に あいりにかいてきてほしい ねがいは
それだけ」
ました。明日は新しい風が
人と集う。雲間から、光
た女性のために
小学校入学後、妹は「お姉ちゃん」と口
にするようになった。
「私にもお姉ちゃん
たが、母は「違う場所に
たたき「これなあに」と聞
吹くから、だいじょうぶ。
れて来て」と何度も訴え
3
2
6
11
がいる」との訴えだと母はわかっている。
1
たのに。それを問うため、
愛梨さんたち園児 人の
害賠償を求める訴訟を仙台
地裁に提起した。
園のマニュアルには大地震
の時に「声掛けして、落ち着か
せて園児を見守る。園児は保護
1
13
7
23
母の車で学校へ。あんパン
時半頃に園へ戻り、
「バスと連絡は
夕方
とれましたか」と尋ねたが、園長は首を横
る子のために歌をうたっていたことを。
年 月、仙台地裁の判決は、遺族の訴
えを認め、こう説いた。――最大震度 弱
バスは園を出発して約 分後、引き返す
際に津波に襲われ、炎に包まれて、内陸に
6
にふるだけ。連絡がとれていないのだと思
9
い込んだ父は一晩中、避難所を捜し歩いた。
40
震災直前、卒園式の準備中に涙ぐんだ先
生へ愛梨さんはこう言ったそうだ。
6
いても、母は「大事なものだ
の風」にこんな願いをこめ
た▽この欄は被災地の見聞
1
4
遺族は 年 月、園側へ損
8
者のお迎えを待って引き渡す」
発行人:小野智美([email protected])
川端俊一([email protected])
発行所:ASA 石巻中央(電話 0225-22-3669)
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14
5
6
11
3
3
5
3
雄勝巡礼
日だまりにミカンの皮と緑茶の葉
「ここに小さな病院があったこ
とを忘れないでほしい」
石巻市雄勝町の港そばの
雄勝病院の話から始めよう。
診療所へ移った職員たちが、正
に刻み、空き缶のふたに広げて
2006年度、長く入院できる
石巻市と合併した時、町人口
は4694人に減っていた。翌
皮を集め、 センチほどの長さ
干していた。
病院になった。
療養型の病床 床を備えた市立
カラカラに乾いたら、ティー
バッグに詰める。看護師たちが
休日に100円ショップで買って
きたものだ。
休憩時間に緑茶を飲めば、そ
の 茶 葉 も 新 聞 に 広 げ て 干 し、
ティーバッグに詰めた。
患者の多くは、体の不自由な
お年寄りだった。退院が見込め
ない人もいた。ひとりひとりの
終幕を、職員たちは見守った。
市の補助金なしには経費を賄え
解 体 工 事 中、職 員 た ち は ト
ラック の 駐 車 場 脇 に 祭 壇 をつ
ず、できるだけ市へ負担をかけ
面玄関に祭壇をつくった。
た。元々は、1954(昭和 )
2005年に石巻市と合併す
るまで、
旧雄勝町の町立病院だっ
ないように、職員たちは節約を
階建て病院の外壁はすすけ
たように黒ずみ、ガラスのない
解体後、職員たちは、更地に
なった跡地で、正面玄関があっ
年に診療所として発足。翌 年
過疎地の自治体病院の多くが
そうであるように、雄勝病院も
用意。診療所への通勤途中に立
た位置に、ボランティアの手を
くった。花を絶やさなかった。
色を失ったような光景の中で
正面玄関は、赤や黄色、桃色の
ち寄り、世話をしていた。
窓の奥に院内の暗闇がのぞく。
花に彩られていた。
に、内科、外科、産婦人科の病
床 を 備 え た 病 院 に なっ
めでもあった。
ミカンの皮も、緑茶の葉も、
そのためであり、入院患者のた
心がけていた。
借りて慰霊碑を建てた。
き帰りに、水をやる。
た。
南向きの本館の窓から光がふ
りそそぐ。本館の外階段の日だ
冬の晴れた日。
何を発表したらよいか。悩む看
石巻地域の自治体病院の研究
会で発表の順番が回ってきた。
きっかけは今から 年前。
ある。言葉を発することもでき
上階が病棟だ。新館には 部屋
L
病 院は本 館 と新 館 が 字 形
に立つ。どちらも 階建て。最
読経が始まると、ゆっく
りと雪が舞い降りてきた。
まりには細く刻んだミカンの皮
切れ、青い空がのぞく。やわら
見つけた。それを試すことに。
CDも100円ショップで買っ
の懐メロも。波の音、虫の声の
流すのは、民謡、童謡、演歌
に軍歌。クラシック音楽や昭和
看護師、事務長、臨床検査技
師が自宅から持参したものだ。
D
その 新 館 の 各 部 屋 に C プ
レーヤーが置かれた。
ない重症の患者が多かった。
5
3
県の広報紙で老人福祉施設が
取り組んでいた「音楽療法」を
85
病院前に立ち並んだ子ども
たちが天をあおいだ。白い雲が
最先端医療を手がけるわけで
はない。入院患者の平均年齢は
「身近なことでいいから」
除に使うのかしら)
歳。ほとんどの人が、脳疾患
の後遺症で体を動かせない。
(あら。なにかしら。香りがよ
いので、床に散らして、はき掃
護師に、看護部長は告げた。
BGMに民謡や童謡、
演歌も流す
万1214 人を数えた。
た。当時の国勢調査で町人口は
床計
2013年 月 日朝。病院
の解体工事を前に、職員たちは
55 29
花を手向ける人々のため、花
瓶代わりのバケツを置き、水も
40
1
碑には、入院患者を筆頭に、
人の名前と享年を記した。周
50
入院中の義母を見舞いに来た
年前、そう思いながら目に留
看護師たちが、職員たちから
れない。
めた光景を、裕子さんは今も忘
7
かな光が一帯をつつみこむ。
気温は零下。あの日の夜も、
その寒さだった。
「お別れ会」の後、鈴木孝壽
副院長(当時 )の妻、裕子さ
目を潤ませて言った。
※「石巻だより」のバックナンバーは羽鳥書店 HP(www.hatorishoten.co.jp)で閲覧できます。
3
被災後、病院は閉鎖になり、
高台で診療所として再開した。
「お別れ会」を開いた。母のた
ために、家族があつまった。
職員みんなで大事にしていた
小さな病院だった。
りに花も植えた。診療所への行
あの日。入院患者 人全
員と職員 人が犠牲になっ
め、父のため、夫のため、妻の
64
が干してあった。
40
んは、笑みを浮かべながらも、
58
10
2
24
1
24
3
石巻だより 2014年(平成 26年)9月号
石巻だより 2014年(平成 26年)9月号
4
でもある。
ミカンの皮と緑茶の葉は、次
の発表にむけて考えついたもの
てきた。見舞いに来た家族から
ると、それも用意した。
「あの曲が好きだった」と教わ
ひふを傷めることもある。
脇の下にも、はさませた。
に、にぎらせた。しめたままの
入浴介助は重労働だ。患者は
椅子からずり落ちたり、浴槽で
りでスロープを仕上げた。
護師や看護助手たちは明るい声
看護師がインター
何かないか。
ネットで調べて、緑茶の成分「カ
失敗談もある。寝間着の中に
ティーバッグを残して、家族に
を出し、裸をさらす患者の心中
ければならない。それでも、看
沈んだりするので、支えていな
を知った。水虫の予防にもなり
渡してしまった。
「 洗 濯 機 がお
を優しい笑いにくるんだ。
ミカンの季節が過ぎると、茶
葉を使った。
体が不自由な患者の足を洗う
のに、たらいの湯でせっけんを
そうだ。
茶っ葉だらけになった!」
。驚い
テキン」に殺菌効果があること
使った。
茶葉を詰めたティーバッグを
たらいの湯に入れた。洗い落と
「たまにはおばちゃんがお世話
するのもいいでしょ」
「若い子の
江の奥にあり、水深は深い。
ばまち)と大熊町(おおくままち)に接す
る。
到着後、まずは女川町のバスと請戸(う
家々。打ち上げられた何隻もの船。震災
半年後の女川町の光景だ。
ドより 5 円高い。
と、1 リットル 171 円。石巻市のスタン
3
常磐線の鉄路は、草に覆われて緑のじゅ
うたんを敷き詰めたようだ。町の人口は
約 2 万人。JR 石巻駅界隈に似た街並み。
窓辺に干された洗濯物が見える。すべて
黄ばんでいる。この 3 年そのままなのだ
ろう。別の家の窓から室内いっぱいに枝
葉を広げた雑木が見える。国道沿いでは
「帰還困難区域」の立て看板をいくたび
も目にした。
時 1 マイクロシーベルト。女川町の約 20
約 30 キロ内陸で空間の放射線量は毎
倍。のちに浪江町役場で聞かされた。——
震災時、人々はそこへ避難した。高線量
地帯とは知らされずに。近隣では約 330
院で働き始めた看護師は「私が
除染作業車のために営業中だ。給油する
引き受けた。段差を採寸し、
余っ
30
82
め、道順を尋ねにガソリンスタンドへ。
マイクロシーベルトの記録も出た。
2004年春から半年間、
人の患者の症状を見守った。
せっけんを洗い落とすのに、
たらいの湯を入れ替える。これ
た家族から一報が入った。
ほうがいいよねえ」
四季を通じて穏やかな水面に
赤、黒、黄色の養殖用の浮き樽
せる。おしりは毎日洗う。
車椅子に座れる患者は、週
回、浴室へ連れて行った。
や浮き球が無数に並んでいた。
本館の南側に県道が通り、そ
の先に海がある。雄勝湾の入り
浴室入り口には段差があった。
本館は1972年建築。新館
建築は 年。両館の 階病棟の
側は、福島第一原発がある双葉町(ふた
勤める前の話ですよ」と語る。
本松市にある浪江町役場へ先回りするた
副院長が思いついた。コット
ン製の軍手を 週間ほど試した
が、断念。毎日、軍手を交換し
1
1
ても、むれた。
平洋沿いの双葉郡の北端にある。町の南
ている板きれを集め、数日がか
の浪江駅そばで私はバスを見失った。二
2
2
夏の日。仕事の後に、看護師
たちは海で泳いだ。 年前に病
福島第一原発事故の被災地を視察する女
最高齢の 歳の患者は、口か
ら食事ができず、胃に直接、栄
養を送りこんでいた。看護師が
す必要はない。
その日の朝、私はマイカーで東松島市
週 回、患者の手足を洗う。
週 回は全身をふいて着替えさ
は手間だった。
次に中心街へ向かった。が、JR 常磐線
声をかけても、
「うん」
「うんだ
を出て、3 時間後に浪江町に到着した。
あ」としか返さない。
鮎川港間に等しく、牡鹿半島から人が消
次に、薬剤部長が提案した。
「かんきつ系がいい」
川町議会の同行取材だった。浪江町は太
ミカンにたどりついた。ティー
バッグに詰めた皮を、患者の手
けど)漁港へ向かった。津波をかぶった
せっけんの洗い残しがあれば
えたような違和感だ。
本館は外注したが、新館の大
工仕事は病院のボイラー技師が
浴室の段差解消の大工仕事も自ら
で封鎖されている。走行距離は石巻港-
音楽を流し、童謡「むすんで
ひらいて」を一緒に歌った。
こない。
その後、茶葉の活躍の場は広
がっていく。
りに突き当たった。目の前の道路は鉄扉
カ月後。スプーンを手に食事を
と声を張り上げても、物音ひとつ返って
患者がにぎりしめたままの手
は、むれて、ひふがむけ、におっ
てきたが、途中で道を間違え、行き止ま
口に運ぶ。看護師はその回数に
根の家並み。しかし、
「ごめんください」
た。せっけんで洗ってイソジン
約 30 キロ内陸にいた。さらに約 20 キロ
目を凝らし、
「 口食べることが
る。その奥の木立には赤や黒、茶色の屋
をつけるが、経費がかさむ。患
内陸の二本松市へ行くために国道を走っ
できた」と書き留めた。
に無数の白い小花をつけた夏草が生い茂
者の負担にもなる。
島県浪江町(なみえまち)の中心街から
発表を終えた後も、新館では
BGM を流しつづけた。
車で走ること 1 時間あまり。国道沿い
「軍手をはめたら」
協力:ASA 石巻中央、がんも大二、羽鳥書店、フロッグキングスタジオ
5
5
2014 年 7 月 3 日、休暇中の私は、福
95
4
「音楽を聴きながら仕事する
のはリラックスできていい」
小花と鉄扉と
放射線
職員たちにも好評だった。
女川町議会 福島を視察