9月支援活動報告 - Biglobe

9月支援活動報告
311 有志
齋藤 大介
13日(土)~15日(月)
13日(土)「1000人チェロ
in
仙台」(2015年5月本番)仙台で公式練習
朝、東京駅新丸ビル前集合。レンタマイクロバスに、我がマイカーが追走し、仙台の会場へ2時。来年
5月14日の「東日本大震災復興祈念」の「1000人チェロイン仙台」の仙台会場での練習。40人
強。指揮は、本番で振る田久保先生が「初回」なのでまずは音慣らし。12パート中6パートは、私と
福島からの「斎藤」さんの2人だけ。難しい曲もあり、本番まで半年以上。ガンバリマス。5時半終了。
「名掛丁」って変な名前の路地の居酒屋で、約半数参加の「乾杯」!私は運転で、酔えず。そして、私
は、岩手の一関へ泊まるこのグループからひとり別れ、東松島のビジネスホテルへ。11時前のチェッ
クイン。即、爆睡。「とってもはっぴいな夢」を見た。
14日(日)石巻市内で「和光3・11を忘れない」イベント打ち合わせ。
夜、石巻市民交響楽団第40回定期演奏会(11月本番)練習
岩手から茨城まで大方の海辺の町や村には行ったが、それでも、もちろん、抜け漏れが虫食いのように
ある。午後3時までの間、本当に珍しく「ひとり自由時間」だったので、せっかく東松島(矢本)に泊
まったのだ。これまで踏み入れていない「野蒜海岸」や「奥松島」
「宮戸島」
(月浜、大浜、室浜など)
「石
巻港」などへ。ついでに「縄文村交流館」や小高い山にも登り、快晴の松島の眺望、銭湯のごとし。そ
して、被災した海岸線はいまだ平原。
午後3時。石巻市文化協会、合唱連盟のトップや幹部5人、石巻市民交響楽団長、そして石巻「みなと
荘」館長と私の8人で2時間にわたり打ち合わせ。結論はこちらが望んだベスト!「和光3.11コン
サート」に石巻の実行委員会を組織し、合唱団を「送り出して頂ける」ことに。しかも、
「3・11以降、
3年間、石巻へ遠路、首都圏から応援に来てくれ続けたオケ・合唱の皆さんへのお礼」と、「多少の自己
負担は覚悟」での文化協会、合唱連盟、オケが連名で。
そして、夜、石巻市民交響楽団11月定演練習に参加、休憩時間に、こちらからは初めて「和光3・1
1」コンサートの説明と参加要請。その日にはどうしても仕事がはずせない外国人教授「ファゴット」
と土曜仕事の魚屋さん「第2ヴァイオリン」を除き、ほぼ参加?の様子。9時に練習終了後、団長以下、
有志の方が、マイカー運転で、みな飲めないのに、私の宿泊するホテル近くの居酒屋に移動、「乾杯」頂
いた。12時半を過ぎていた。
15日(月)「1000人チェロ有志キャラバン」に名取、山元町で合流
(閖上「ゆりあげ朝市メイプル館」)
(「名取「イオンモール名取」)
(山元町「中央公民館」)
岩手の3箇所で演奏してきた約20人のチェロと合流。11時から「閖上」、1時すぎから「名取」、3
時から「山元町」で、「チェロアンサンブル&合唱」イベント。各地で、来年5月24日「1000人チ
ェロ」の紹介。解散時には、私から参加者へ「和光3・11」参加のお願い。
そして、ひとり、今日開通したばまりの国道6号を通り、第1、第2原発前を通過。気休めだが、線量
が15以上というので、マスクし、窓を締め切り、エアコンかけず、の一時間、真っ暗闇。そして広野
から常磐道で夜10時帰宅。3日間の疲れで、そろそろ寝たい。今日は簡単な報告。ここまで。今回も
エピソード沢山、なので、それは明日のお楽しみ!お休み~。
《3日間のエピソード》
その1ー出会いと再会ー
①仙台の居酒屋ー久しぶり、またはほぼ初顔合わせの四国、広島などからのチェロ仲間に加え、マイ
クロバス運転役の方と懇親会で雑談してたら、共通の得意先の話から、私の損保時代の名物重役にお世
話になった、と。また、福島から参加の方、南相馬からの方だったので、ローカル話で打ち解けました。
②野蒜海岸ーかさ上げの続く海岸線。ひとり、青年がじっと、そしてずっと海を見ていた。どんな想
いなのだろう。
③奥松島、大浜ー楽しそうに水遊びの親子。もうすぐ5歳。で、お父さんは「自動車を運ぶトラック
ドライバー」。2011年に毎月昼食していた亘理町の「ドライブイン
サザエ」の話から、
「明日から、
国道6号線が全面開通になるから、せっかくなら帰りは山元町からなら、ぜひ行ったらいいね。」とアド
バイスを頂きました。はい。おかげ様で、そうしました。
④奥松島、室浜漁港ーひとり釣りしている年配者と雑談。宮城県作並の建設会社の社長さんという。
「3・11では、使っている職人の子供2人が津波で亡くしたり、で、可哀想で、また申し訳なくて、
ずっと釣りも自重していた。でも、そのうち、海辺で、釣りなんかしていいのか?と聞くと、皆、ぜひ
来てください、と、魚料理で歓迎までしてくれ、こうやって、また来るようになったんだ。で、これか
らはもっと来れる。なぜって、もう、仕事辞めようと思っているんだ。なにしろ職人が高賃金の相場で
都会にもっていかれ、集められない。すでに知り合いで倒産したのもいる。東京などへみんな持ってか
れ、これからオリンピックでますますだ。受注しても赤字。仕事はやってられない。ところで、妻は、
今日がピアノ発表会。ぜひ、来年5月の1000人チェロって夫婦で行ってみたい。」と。
⑤ホテルー石巻の定宿、グランドホテル系列、目の前のビジネスホテルチェックイン。受付で、「あ、
朝霞からですか。私、学生時代、(朝霞市内の)溝沼のアパートで暮らしていたんです。出身はこちらな
んですが。」と暫く朝霞談義。翌朝、また同じ「青木」さん。「出身がこちらって、どちら?」「はい、女
川です。」「昨晩、飲んだ中に女川の歯医者、木村先生がいたんだけど。」「え~、父がずっと通っていい
て、私もそこでした。よく存じ上げています。」。
⑥山元町ーかつて「311 有志」合奏団とコラボした「この町で」のメインメンバー、伊藤さん家族
と吉田さんがわざわざ応援に会場設営やマイク調整までお手伝い頂いてしまいました。最後列、向かっ
て右側におられます。
その2ー石巻の9・11水害ー
ほんの数日前のこと。石巻の集中豪雨。石巻市民交響楽団団員、第2Vn魚屋の女将を心配で尋ね、聞
いてみた。
「3・11は、店の魚が全部泳いで行った。そしてその年の9月、台風で浸水。これで3回目。」
という水災。「ここまで来たのよ。」と指差す。「日和山から流れ落ちてくる水で、麓の店の一帯、足の膝
下まで一面川になった。」と写真報道の河北新報をくれた。そして、ガラス戸には11月定演ポスター。
そして、そのあと、そこから 100mもない、喫茶店「むぎ」。周辺に建物はない。そこでも、「3・11
では奇跡的に1階が水没し、廻りは無くなったのに、ウチだけ残ったので、今、直して営業しているの。
店のフロアは高くして水は入らなかったのに、カウンターの内側は少し掘ってあって低いところには、
どこからか水が湧いて、プール状態だったわ。」。
このほか、オケ第1Vnの小学校の先生も、車での通勤路が川状態で、車道と側溝、歩道の区別が分か
らず、歩行者に杖状の棒で突き刺してもらいながらの徐行運転だった、という。先月の朝霞・和光の集
中豪雨の悪夢再現だ。
その3-他にはないセブンイレブン3店ー
宮城県仙台市若林区荒浜地区のセブンは、いまだ仮設のプレハブ。周辺には、まだ津波で打ち抜かれた
住宅も点在。住民はいない。それでか、営業時間が、午前5時から夜9時までのレア。
(若林区荒浜の仮設セブン)
そして、第1原発から20kmの小高区のセブンの周辺は真っ暗。国道6号開通。一時間、第1、
第2原発の前を通過し、最初の灯りも楢葉町のセブン。やはり周囲の店は真っ暗。どちらも住民は
いないが、24時間営業。原発作業員中心の利用。高線量地区。働く人が心配だ。
(小高区のセブン)
(楢葉町のセブン)
その4-縄文人は津波に備えていた?-
今回、初めて訪れた宮戸島の「縄文村資料博物館」は、様々な示唆に富み、私には、大変充実した時間
が過ごせた。
「縄文時代前期(約 6800 年前)から弥生時代中期(2000 年前)にかけての集落跡で、保存状態の良
好な貝塚が広範囲に残存し、日本最大級の規模(東西約 640m、南北約 200m)を持ちます。」(資料
館HP)
4000年間(弥生人にとって変わられたのか?)安定した暮らしをしていた縄文人。このこと自体は、
各地の縄文遺跡でもほぼ同じで、循環経済の底力、戦争せず、自給自足、自立コミュニティの在り様は、
石油化学、原発など「文明の利器(力)」に頼って、「便利」「効率」「大量の廃棄物」「戦争」で暮
らす現代人の在り様がいかに「非文化」的な営みか、を実証している。なので、展示されている様々な
「狩猟」「農耕」「漁業」「食器」などの「道具」と、「デザイン力」「装飾品」「埋葬の仕方」など
にも生かされた「割る」「突く」「磨く」「塗る」「編む」「焼く」の技術にも感動した。
だが、もうひとつ、興味深く、しかし、何も展示されていない、「3・11との関わり」について、私
は、そこで想いを巡らしていた。まず、海辺の隆起など地形は比較的現在と変わらないという中で大型
魚などの本格的な漁業もし、潮干狩りで大量の貝を採る一方、狩猟や農業も営み、浜辺には貝塚や製塩
作業場はあったが、「標高 20~40m の丘陵上」(宮城県HP)に暮らしていた、という。それは、4000
年間、きっと 4 回ぐらいは、大津波も経験したかもしれない。ほかの縄文遺跡の多くも、やや海岸線か
ら離れたところにあるようだが、狩猟や農業のためなのか、または津波など天災から逃れるためだった
のか。ちなみに、今回の3・11での人的被害は、最小限にとどまった。それは、1000 年前からの「伝
承」があったことが大きい、という。
「両岸から大津波が押し寄せ、島の中央でぶつかった-。日本三景「松島」の東端にある宮城県東松島
市の宮戸島。平安時代の869年(貞観11年)に東北地方太平洋岸で起きた大地震「貞観地震」をめ
ぐり、島民の間にはこんな言い伝えが残されている。ぶつかったとされる場所(標高約10メートル)
には石碑が建っており、そこより下は危険とされていた。東日本大震災で約1000人の島民は石碑よ
り高台にある市立宮戸小学校などに一斉に避難。
津波は浜辺の集落の大半をのみこんだが、石碑の手前でとどまり、犠牲者は数人にとどまった。「先人
の言い伝えが命を救った」。近くに住む観音寺住職の渡辺照悟さん(80)はしみじみと語った。
複数の島民によると、貞観地震では津波で多くの人が命を落としたとみられ、言い伝えは島民の間に浸
透。大きな地震が起きると高台に逃げる習慣が身に付いていた。周辺の地名は「二ツ橋」とされており、
「二つの津波がぶつかる姿を橋に見立てたのでは」と指摘する声もある。」《時事通信》
その5-残念だったことー
今回、残念だったことはほとんど無かったが、ひとつだけ。時間が無くて、8 月末に「再オープン」し
た、という昔は駅前にあった地元名物「牧場ラーメン」へ寄れなかったこと。石巻在住、FBF千葉さ
ん家族が並んだ記事を見て、場所もひかえて行ったが、復興マルシェどまり。そこで「××」を食べた
が、さほどでなく、こっちへ行きたかった。今度こそ、は、11 月だ!
その6-イベント真っ盛り。渋滞、そして宿一杯ー
①「定禅寺ジャズフェスティバル」―13、14 日、仙台市内で 76 万人!まともにぶつかり、仙台
市内での 1000 人チェロ練習に一時間遅れ、参加者たちは市内の宿が取れず、「懇親会」のあと、
一関まで移動。
②「ツール・ド・東北2014」―14 日、出場者 2800 人、それに全国からのボランティアや応
援などで、石巻専修大の集結。そこから、「気仙沼」(220km)「南三陸」(170km)「北
上」(100km)「女川・雄勝」(60km)の 4 コースに、ケネディ駐日大使や、道端カレン
など有名人も参加。これで、石巻市内の宿は満杯。私は、東松島でやっと取れたが、そこにも自転
車野郎が沢山。
③野外劇「星の王子様」-14 日、「復興マルシェ」で、専門学校生たちの野外劇「星の王子様」。
これで駐車場一杯。でも、周辺は空き地だらけで問題なし。これが結構面白く、20 分は立ち見。結
果、「牧場ラーメン」を食べに行く時間が無くなった。
④ETC がらすきー15 日、仙台に買い物や息抜きに出かけた福島県民が常磐自動車道の「山元町」
IC から帰ろうとする車が、「避難者無料」のチェックを受けるため、長蛇の車列。暫く、じっと我
がチェロメンバーたちの車も大人しく待っていたが、何台かが路肩を猛然と追い越してゆく。「な
んだやつらは!」。が、そのうちに「ETC は左の列、一般は右に」との表示。初めて、「待ってい
て馬鹿を見た。」。しかし、メインのマイクロやバンなどは ETC 無し。そこで、山元町中央公民館
にお待ちの観客の前で、ETC 付きで先行した数人と、「時間稼ぎ」30 分以上。
私がマイクで、あることないことで場内を笑わせ続け、そして、なにより助かったのは、第1パー
トの山形のお医者様が、ゆったりと、そして美しい音色でソロを弾いてくれたこと。やはり、私に
は無理な音色。ありがとうございました。
その7(ラスト、のはず)-食事の恨み?-
朝食に恵まれ、昼食には恵まれず、夕食抜きの飲みの 3 日間、でした。
①朝食ー満足
13 日早朝なので、コンビニでおにぎり二つ、は仕方ない。14 日東松島のビジネスホテルのバイキング、
15 日石巻のホテルでのバイキングは、「ねばねば」丼にして、満足。
②昼食ーがっくり
13 日東京からトイレ休憩の佐野 SA でソフトクリームをネズミ?にかじられ、歯型が付き、仙台への移
動が遅れ気味なので、国見 SA で昼食に、「牛タン肉まん」と、福島名物「凍天」を買って、車中食い。
14 日は、下記「牧場ラーメン」を食べることも出来ず、復興マルシェの某食堂で、浪江焼きそばからは
「エッ?」の石巻焼きそばにがっくりし、15 日は、名取イオンモールで、これも時間があと 10 分足ら
ず、なので、フードコートで一番早そうな「ドトール」で、ミラノサンドも時間がかかるので、出来合
いのシナモンパン 1 個を立ち食い。
③夕食ーいい気分。
13 日は仙台市内「居酒屋」、14 日は、石巻駅近くの「居酒屋」、15 日は、楢葉町のコンビニでおに
ぎり。
20日(土)21日(日)
福島「合唱&タンゴ演奏」キャラバン
19日(金)―前日準備
福島仮設3箇所への「手土産」作りで、玄関、茶の間は、ダンボール散乱。途中で、妻と長男に任せ、
明日の彼岸用の花や、会津のお寺や中山峠の行き付けの食事処への手土産、明日の晩の参加者用酒を買
い、帰宅すると、約120人分の手土産セットとフレーム写真出来上がっており、早速車へ積み込む。
20日(土)―会津へ
朝 2 時半に起きて、色々メール送信などして、4 時半出発。まだ暗い。
会津若松駅 9 時半すぎ集合スタッフ参加者は、あちこちで懐かしの再会。
午前は、鶴ヶ城見学、そして八重の墓詣で。
「会津若松市」-「八重の故郷」。人口13万。戊辰戦争で数千人の死者を出し、多くの元会津藩士は
青森県下北半島へ「流される」が、江戸時代「武士の中の武士」と言われた頑固ともいえる気風は、
未だ健在。廃藩置県後も、5年間は「若松県」だったが、中通りや浜通りを含めた「福島県」になっ
た現在も、「会津地方とそれ以外」意識は消えていない。会津若松市内にある仮設住宅は双葉町から
の避難者の1棟以外は、大熊町からの避難者。また、借り上げ賃貸住宅2150人の6割が大熊町民。
「大熊町」-人口1.1万人。今回の爆発事故を起こした福島第1原発 1 号機~4 号機があるため、
原発立地 4 町(5~6 号機の双葉町、第2原発の富岡町、楢葉町)の中でも最も放射性物資の汚染が
大きい地域。従って、
「帰宅困難区域」
(作業員以外の住民の立ち入り・一時帰宅禁止
全体の 96%)
と「居住制限区域」「避難指示準備解除区域」
(日中の時間帯のみ、町からの許可を得ることを前
提に立ち入り・一時帰宅できるが、宿泊不可
これらを合わせて全体の 4%)に再編されたまま。
現在は、
会津若松市内に臨時町役場が設置され、市内 12 か所の仮設住宅と借り上げ賃貸住宅 465
戸に 2200 人が半々で居住。
午後から、大熊町「河東学園仮設」。懐かしの歌謡曲、童謡、そしてタンゴ演奏や曲当てクイズで、笑い
と涙の 1 時間半。イベント終了後、残って頂いた自治会長ほか住民の方々から、一時間、
「3・11当日、
翌日、仮設入居、そして現在」を自由に語って頂いた。
全て終わり、猪苗代湖の夕日を感動しながら、見て、40 年間行き付け、中山峠「鞍手茶屋」で、全員腹
いっぱい、けんちんうどんや各種もちなど食べる。
その後、東山温泉のホテルに素泊まり。しこたまお酒、頂きました。
21日(日)―会津から本宮へ
午前は、会津若松駅近くの大熊町「扇町1号公園仮設」。ボリビア生まれ、育ちのノエミさんとバンドネ
オン斎藤さんのタンゴダンス、受ける!
浪江町―震災前人口約21,000人。太平洋岸から山合にかけて細長い区域。北に南相馬市、南に双
葉町。山合いには、日本テレビ「鉄腕DASH村」があったところです。名産品は、国の伝統工芸品「大
堀相馬焼」や、「B級グルメ」で「浪江焼きそば」があります。3月11日、大震災。津波(約16m)
による死者・行方不明者は、184 人。現在全町民避難地域は、47 都道府県ずべてに及び、福島県内に
は、7 割弱の14,554人。県内でも52市町村に分散し、帰還メドの指定も3分割されています。
午後は、本宮市白沢の浪江町「石神第一仮設」では、自治会長と踊り、これまた盛り上がる。イベント
終了後、1時間半、前日同様、「3・11直後の対応、避難、仮設入居、そして今」を語って頂いた。
17時
「本宮インター」から帰宅の途(都心まで160㎞2時間)
―2014 年 9 月 20 日午後 3 時~4 時―
会津若松市「扇町 1 号公園仮設住宅」での「聞き取り」
(大熊町からの被災・避難者、自治会長以下 13 名、首都圏からの参加者 14 名)
《始めに》
3・11前、約 1 万人の大熊町は、元々は海岸線が切り立った崖で、そこを崩し、第1原発が作ら
れたように、浜辺が少なく、結果、今回の3・11での津波被害は、他の地域に比べれば、軽微で
ある一方、原発から至近距離だったことから、全員退去し、現状では、約4割はいわき地区、2割
は会津地区、1 割は首都圏へ避難。以下の状況。
1.被害状況(平成 26 年 8 月 31 日現在)―大熊町公式サイトよりー
人的被害死者 117 人(直接死 11 人、関連死 106 人)、行方不明 1 人
家屋被害津波による全壊 48 棟(帰還困難区域につき詳細調査不能)
2.避難先等の状況
ア. 人口
11,505 人(平成 23 年 3 月 11 日現在)
10,883 人(平成 26 年 8 月 31 日現在)△622 人
イ.主な避難先(平成 26 年 8 月 31 日現在)
◆福島県内の主な避難先地域
いわき地域 4,182 人 会津地域 2,147 人 県中地域 1,111 人
◆福島県外の主な避難先都道府県
埼玉県 400 人 茨城県 401 人 東京都 313 人
住宅状況
1.仮設住宅(平成 26 年 8 月 31 日現在)
入居戸数 1,122 戸(会津若松市 552 戸、いわき市 570 戸)
2.民間借上げ住宅等(平成 26 年 8 月 31 日現在)
入居戸数 1,878 戸
1
3・11直後から仮設入居
11 日の酷い地震には驚いたが、その後は片付けなどして過ごしていた。翌日になって、急に理
由も告げられず、
「緊急避難するように」と、町からの呼びかけで、茨城から来た 50 台近くの
バスに分乗した。ともかく「西へ逃げろ」
。すぐに帰れると思うから、クレジットカードや免許
証なども置いてきて、着の身着のまま。運転手も、目的地がどこだか分からず、とりあえず田村
市、三春町方面などの体育館などへ着くが、そこからは、参加者はそれぞれ 7~8箇所の福島県
内や茨城、栃木、関東の親戚などを頼りに転々。7 月前後になって、町からの案内で、現在の仮
設住宅へ入居し、現在に至った。
2
会津の暮らし
この近辺は、大熊町の田園風景に似ていて違和感は一見無いが、
「なんで俺たちは会津で磐梯山
を毎日見なきゃならないんだ」という気持ち。たまにしか降らない浜通りから来たので、一晩で
80cmも積もって、雪深いのには驚いた。最初の頃の仮設住宅は、冬仕様になっておらず、そ
の都度、雪除けの玄関など要望しては追加工事で補強してもらってきた。そして、若い年代の夫
婦や子供などが、仕事と教育の関係でどんどん外へ出て行き、当初からすれば、半減した。
(2011
年 8 月 82 戸→2014 年 3 月 63 戸→現在 47 戸)たまに、自宅や墓参りに大熊町に入るが、
ネズミやハクビシン、猫などに荒らされるだけでなく、米蔵を破られたので、警察に届けたら、
現場の状況から「猪が突進して壁を突破し、食べていったようだ。」と言われた。ここにいる農
家の方々など、朝からの仕事ももう出来る見込みも無く、朝からやることもない。3・11前の
普通の日常が、現場で崩れてゆくのを見るにつけ、もうあの時、この場所に戻れない侘しさ。3.
11での直接死こそ少なかったが、その後の関連死と認定されただけで倍以上。心身とも辛い。
3
今後の見通し
もう(ここに暮らす人は)故郷には戻れない。福島県の用意する復興住宅に入るといっても、会
津より郡山、いわきのほうへ移る希望者が多いので、せっかくこの仮設で知り合い、仲良くなっ
た皆さんが、また離れ離れになるのも、また辛く、暗い気持でいる。
もう(ここに暮らす人は)故郷には戻れない。福島県の用意する復興住宅に入るといっても、会
津より郡山、いわきのほうへ移る希望者が多いので、せっかくこの仮設で知り合い、仲良くなっ
た皆さんが、また離れ離れになるのも、また辛く、暗い気持でいる。
《参考》
大熊町公式サイトより
町の状況
原子力発電所事故により、町役場の主要機能は約 100km 西に位置する会津若松市に移
転を余儀なくされ、町民約 11,000 人も、会津若松市やいわき市をはじめ、全国各地に避
難をしています。事故から 3 年以上経過した現在においても、諸課題に対して明確な時間
軸の設定がなされず、具体的な復興への取り組みが出来ない状況です。そのような状況の
中、町は平成 24 年 12 月に、町民の約 96%が居住していた地域が「帰還困難区域」に再
編され、町としても「5 年間は帰町しない」判断を行ったところです。町は、賠償、住宅
の確保、風評被害といった短期的喫緊の課題から、町政機能(学校含む、いわゆる「町外
コミュニティ」)、除染、中間貯蔵施設、廃炉処理といった中長期に渡る事項まで多様な
課題に直面しています。
課題の多くは近隣市町村や、県、国の政策と緊密な調整が必要な事項となるため、今後
とも関係機関と検討・調整を行い課題解決に努めていきます。
※現在の町の状況(写真)は、「大熊町写真館」に掲載されております。
大熊町内図
町の直面する課題
復興の取り組みを進めていく中で、町の直面する主な課題は以下のとおりです。
時間軸の明確化
町では、策定した第一次大熊町復興計画のなかで、今後の町の方向性等を記載するととも
に、具体的な帰町時期を示し町民の皆さまの将来設計の判断材料としていただきたいと考
えていました。しかし、策定した復興計画では本来設定すべき帰町までの目安となる時間
軸ついて、以下のような事項が明確になっていないため、設定が出来ない状況にあります。
不確定な除染効果
町内の避難指示解除準備区域(中屋敷)と居住制限区域(大川原地区)では除染が完了
しましたが、宅地と森林等の違いにより、除染効果にバラツキがある状況にあります。ま
た、町民の約 96%が居住していた地域が高線量地域(帰還困難区域)となっており、現時点
では除染の計画がない状況にあります。
線量の明確な基準
今回の原発事故による生活環境、健康、食品等に係る追加被ばく線量について、現段階で
は明確な世界的基準がない状況にあります。町民の健康被害や風評被害を避けるためにも、
客観的、科学的な追加被ばく線量基準の根拠が必要となります。
原子力発電所事故の収束、廃炉の明確化
町民が安心した生活を過ごせるためには、東京電力福島第一原子力発電所 1~4 号機に
ついて、事故の完全な収束と安全で着実な廃炉工程表を早期に策定し、廃炉工程について
の明確化が必要となります。
中間貯蔵施設
現在、国より町に対して中間貯蔵施設の整備受け入れ要請がされております。
当該施設については、福島県全体、また町の除染を進めるためにも必要なものと理解し
ておりますが、町内に整備されることは住民の帰町の妨げとなることや、施設の安全性、
用地補償等が明確でないといった課題があります。
上記の課題解決には具体的な期限等を示す必要があり、町では国に対して『いつまで
に、どのような状況になるのか』という時間軸を早急に示すよう強く要望をしており、
今後、適時見直しをしていく復興計画に反映をさせ町民の皆さまにお示しをしていきます。
生活再建の遅れ
住宅の確保
原子力発電所事故に伴う避難により、元々一緒に生活していた家族が、職場や子供の学
校の変更等の様々な事情によりバラバラに生活しなければならない状況を強いられていま
す。現在、そうした状況を改善するための施策の一つとして、町外コミュニティの形成を
検討していますが、復興公営住宅については、建設が協議が遅れている状況にあります。
町では町民が少しでも落ち着いた生活が過ごせるように、今後も様々な施策を国及び県と
協議を行うとともに、町外コミュニティの形成については国及び県に対してリーダーシッ
プを持った対応をするよう求めています。また、県外へ避難をしている方に対する住宅の
確保についても、特別な対策を検討するよう求めていきます。
雇用の確保
現在、町の全域が避難指示区域に指定されており、一次産業に従事していた方や町内に工
場が立地していた企業等は、事業再開が出来ない状況にあります。国による具体的な雇用
政策が必要となります。
賠償問題
町では国に対して、長期避難を余儀なくされる町民が今後の生活再建が見通せるよう、
東京電力が町民に対して実態に応じた損害賠償を迅速かつ確実に行うよう国の責任におい
て指導するよう求めております。さらに、東京電力では住居確保損害の賠償を開始しまし
たが、内容については複雑であり、町民に対して丁寧な説明を求めると共に、適正な賠償
がなされるよう、また、未だ請求が開始されていない賠償項目についても早急に開始され
るよう求めている状況です。
多様なニーズへの対応
現在、仮設・借り上げ住宅に住んでいる町民に対する今後の住環境、教育・子育てに係
る問題、避難先での精神的ストレスや風評被害など、避難の長期化に伴って課題が多様化
しています。町民の様々な思いに応えるために、家族構成等のパターン別の支援内容を検
討し作成した復興計画をもとに、今後も町民のニーズに一つひとつ細かく対応をしていく
必要があります。
町民の皆さまが「大熊町出身」であることに誇りを持ち続けることが
出来るよう、今後も強い意志を持って復興に向けて取り組んでいきます。
―2014 年 9 月 21日午後 3 時半~5時―
本宮市「石神第 1 仮設住宅」での「聞き取り」
(浪江町からの被災・避難者、自治会長以下6名、首都圏からの参加者 14 名)
《始めに》
3・11前、約2.1万人の浪江町は、現在、約 7 割の1.5 万人は福島県内各地(福島市約 3500
人、いわき市 2600 人、二本松市 2300 人、郡山市 1700 人、南相馬市 1200 人、そして本宮
市 700 人など各地)
。残る 6 千人は、和歌山県を除く46都道府県(茨城県約 950 人、東京都約
900 人、埼玉県約 750 人、宮城県約 650 人、千葉県約 550 人、新潟県約 500 人、神奈川県約
450 人、栃木県約 450 人など)へ分散避難中。
また、今年 4 月より、いわき市海岸から山側までの奥深い地域。津波で壊滅した請戸地区と低線量
の町中、高濃度の放射能汚染に汚された山側などで、帰宅困難か否かの 3 分類に地区分けされ、住
民同士の確執もささやかれ始めています。以下浪江町HPより。
町内について
〇
平成 23 年 3 月 11 日の東京電力福島第一原子力発電事故により、町内は全域が避難指示区域
となっています。居住はできません。
〇
空間放射線量が低い順に、A)避難指示解除準備区域・B)居住制限区域・C)帰還困難区域
が指定されています。A区域・B区域は、日中の立入りは可能です。
〇福島第一原子力発電所から浪江町(A区域)までの距離は、最も近いところで約 4Km です。
〇A区域にある浪江町役場の付近の空間放射線量は、およそ 0.1 マイクロシーベルト毎時です。
〇沿岸部のA区域は津波被災地を含みます。被災前人口の約 4 割を占めるこのA区域を町の復興拠点と
して作業を進めています。
〇A・B区域の避難指示は、平成 29 年 3 月に解除されることを想定しています。
〇現在A区域(およびB区域の一部)では…
・本格的な除染を進めています。
・沿岸部では災害廃棄物(がれき)の選別・撤去、被災した船舶や車両の処分を行っています。
・漁港、道路、上下水道などのインフラの復旧工事を進めています。
・営業を再開している事業者の数が、少しずつ増えています。
・町役場の一部の機能が、元の役場本庁舎に戻っています。(その他は二本松市内の仮庁舎)
・水稲や花卉類の試験栽培が始まっています。
浪江町民について
〇東日本大震災当時の人口は、約 21,000 人でした。
〇避難先は、福島県内が約 7 割、県外(現在、和歌山県を除く全都道府県)が約 3 割です。
〇福島県内約 30 か所にある仮設住宅には、現在も約 4,000 人が居住しています。
〇「浪江町復興支援員」を全国 10 拠点に配置し、知らない土地での避難生活をサポートしていま
す。
〇避難指示解除後の住民の帰還意向は、「戻りたいと考えている」が約 2 割、「まだ判断がつかな
い」「戻らないと決めている」が約 4 割ずつとなっています(平成 25 年 8 月調査)。
〇避難指示が解除された直後の町内の人口は、2,500 世帯 5,000 人と想定しています(町外と行
き来しながら二地域居住する世帯を含む)。
1
3・11直後から仮設入居
11 日の地震は、これまでに経験したことがない、という町中、海寄りの人と、山奥で多少、子供の
勉強机が倒れたぐらいで大したこともない、と感じた人がいた。その後、テレビを見ていたが、「仙
台空港に津波が到来している」というのを最後に停電。まさか、この町の海岸線に津波が押し寄せ
ているなどと想像もしなかった。
また、海寄りにいた人は、請戸海岸上空の空の色が茶色くなってきたのでなんだろう、と思ったら
それが津波が家々を壊しながら国道 6 号線までも押し寄せてきたところだったんだ、と体験。翌 12
日早朝、菅首相が記者会見で「避難指示」発表したが、町には何の連絡もなく、ともかく「逃げろ」。
取るものも取り合えず、普段なら車で 40 分程度の「津島」地区へマイカーや自衛隊の車で 4 時間
かかって逃げたが、その自衛官や警官の格好が、防護服を着ていて、「こりゃ、おかしい」と感じ
た。そして避難先で高線量の放射性物質で被爆する、なんて思いもせず、数日を過ごした。そこか
ら新潟や栃木など何箇所かの伝を転々とし、金も食べ物もその宿泊させてもらった先々で「恵んで」
もらう羽目になった。その後、ここの仮設に夏ごろに入居した。
2
本宮の暮らし
ここは、浪江に比べると、山の上にあることもあり、寒暖差が大きく、雪も深い。
そして、ともかく(山の上の運動場施設にあることもあり)、やることが無い。男性は、テレビか、
パチンコか酒飲むほか時間が潰せない。
とかく男性、とくに長男は、先祖伝来の土地で家屋敷も引継ぎ、「変化を求めない」気風なので、
3・11以降の急激な環境変化に対応できず、「やることが無い」となる。
3
今後の見通し
町では、まず比較的放射線量の低い「避難指示解除準備地域」でのコンパクトシティ構想を検討す
る、というが、インフラ整備程度で、実際はいつになったらという感じ。
また、すでに帰還可能となった川内村や都路、広野などを見ても、実際に帰宅したのは、高齢者ば
かりで、3 割程度。若い世代は、仕事も、買い物も、教育も不安な新しい町に戻ってくるだろうか。
《参考》
《福島民放HPより》
【浪江町の津島避難】
線量情報なく町民孤立
国と県、予測伝えず
安全信じ...空白の4日間
浪江町津島地区を目指す避難者の車列=3月12日(浪江町提供)
東日本大震災から11日で9カ月を迎える。震災と東京電力福島第一原発事故により、今も多くの県
民が県内外で避難生活を送る。原発から北西に約25キロ離れた浪江町津島地区。事故後の3月12日
から4日間にわたり、多くの町民が避難生活を送った。国は12日、津島地区がある原発から北西方向
への放射性物質拡散を予測し、13日には地区の10キロほど東側で高い線量を計測していた。しかし、
国、県からは何も伝えられず、町は線量を把握できずにいた。
■避難者あふれる
「津島に行こう。支所があるし学校を避難所として使える」。国の避難指示が原発から10キロ圏に拡
大した3月12日、浪江町災害対策本部会議で幹部職員の意見が一致した。町内の津島地区は誰もが安
全だと信じていた。原発から29キロほどの距離にある町津島支所。固定電話は一切使用できず、無線
もない。通信手段は時折つながる携帯電話だけだった。根岸弘正町総務課長(58)は放射性物質の飛
散を心配していた。12日午後には国の指示は20キロ圏内の避難に拡大された。「まだ、それよりは
10キロほど離れている」。不安を打ち消した。人口1400人ほどの津島地区は約8000人の町民
であふれた。津島小、津島中の体育館では避難住民が肩を寄せ合う。馬場績町議(67)の自宅にも2
2人が寝泊まりした。見知らぬ顔もあった。避難者は井戸水や沢の水を飲み、しのいだ。避難者の多く
は津島地区で避難生活を続けた。車のガソリンが底を突くケースもあった。馬場町議は「町の災害対策
本部がとどまっていたため、避難住民は安全だと思っていた」と振り返った。14日夜、津島地区の南
に隣接する葛尾村で「全村避難する」との防災無線が流れた。静かな山あいにある津島地区にもその声
が届いた。「ここにいて本当に大丈夫なのか」。避難住民に動揺と不安が一気に広がった。
■伏せられたデータ
原子力安全技術センター(東京)は震災直後から一時間ごとの「緊急時迅速放射能影響予測ネットワー
クシステム(SPEEDI)」の試算を開始した。12日には津島地区への放射性物質飛散を示すデー
タもあった。根岸課長は後に公表されたSPEEDIを見て目を疑った。住民が避難した津島地区は茶
褐色の線に囲まれ、高線量を示していた。「(線量の)情報さえあれば...」国は試算が不正確で誤解を招
くとして公表を見送った。しかし、早い段階で公表していれば避難の参考になったと国の対応を非難す
る声もある。県は13日にSPEEDIの試算結果をファクスで32枚、国から受け取っていたが、公
表しなかった。その理由について「予測の前提となる放射性物質の放出量が現実と懸け離れていると考
えられた」と説明する。
12日の県の調査で町中心部の酒井、高瀬地区は高い線量が計測されていた。津島地区から10キロ
ほど原発寄りの町内室原地区は13日に国の調査が行われ、線量計は毎時30マイクロシーベルトを振
り切った。しかし、国や県から放射線の情報が町に伝えられることはなかった。14日正午ごろ、根岸
課長は3号機の爆発を伝えるニュースに言葉を失った。これまで漠然と抱いていた不安が一気に強まっ
た。町は線量計2台を保有していた。12日、町は線量計が必要になると想定せず、町役場に線量計を
置いたまま移動していた。「数日後には役場に戻れると思った。事態がどんどん悪化するとは...」。町の
関係者は今も悔やむ。
町民被ばくどれほど
不安、悔恨、憤り... 浪江町の津島避難
浪江町の避難は3月14日午前11時1分、東京電力福島第一原発3号機の爆発で急展開する。津島
地区に滞在していた住民には不安が渦巻いていた。
【写真】浪江町津島地区の避難所に身を寄せた町民=3月14日(浪江町提供)
■苦情相次ぐ
浪江町は3月14日午後から断続的に対策本部会議を開き、再避難するかどうかを協議した。「一刻も
早く避難すべきだ」。周辺の放射線量の情報は全くなかった。それでも避難の必要性を訴える意見が相
次ぎ、移転先は二本松市に決まった。15日朝、馬場有町長が二本松市に受け入れを要請した。同日午
前10時、町は津島地区の区長を集め、住民らに避難を呼び掛けるよう求めた。町の移転とともに、住
民の避難がせきを切ったように始まった。町のバスで二本松市に向かう避難者もいれば、会津地方や県
外に車を走らせる町民もいた。ただ、家畜の世話などを理由にとどまる住民がおり、町は支所に職員数
人を残し、避難の説得に当たった。 津島地区は16日の測定で毎時58.5マイクロシーベルトの放射
線量が計測され、4月22日に計画的避難区域に設定された。局地的に放射線量が高い場所も見つかっ
た。7月26日時点で、赤宇木は最大毎時26.3マイクロシーベルト、南津島は同40.1マイクロ
シーベルト。避難の目安となる年間積算線量「20ミリシーベルト」を短期間で上回る線量が計測され
た。津島地区で過ごした住民は再避難後も被ばくの恐怖におびえる。「なぜ危ない津島地区に避難した
んだ」。町には春から夏ごろにかけ、このような苦情が多数寄せられた。「町職員の誰1人、津島地区
の放射線量を把握していなかった」。苦情の対応に当たった担当者は、放射線量の情報が全くない当時
の状況を繰り返すしかなかった。
■子どもの将来は
「子どもの将来は大丈夫なのか」。県北地方の仮設住宅で暮らす40代女性は不安に駆られる。8月に
茨城県東海村で受けた内部被ばく検査で、高校生の子どもから微量の放射性物質が検出された。女性の
家族は町の避難指示に従って3月12~15日まで津島地区の避難所で過ごした。水はミネラルウオー
ターを飲んだが、野菜などの食材は沢の水で洗っていた。検査の担当者から「体に影響はない」と説明
されたが、結果を知った子どもは食事を取らずにふさぎ込んだ。子どもを励ます言葉は見つからなかっ
た。「何を根拠に津島にとどまらせたのか。線量が計測できていれば、安全か、危険かの判断はついた
はずだ」。国、県、町の対応に憤る。自身を責める母親もいる。津島地区に一家4人で避難した女性(4
0)は「一生、子どもに謝り続けなければならない」と表情をこわばらせる。夫(41)、中学2年の
長女(13)、次女(3つ)の4人で15日まで津島地区の親戚宅に滞在した。
退屈する次女を外で遊ばせていた。次女は内部被ばく検査の対象年齢に達していないため、検査を受
けることはできない。「ごめんなさい。遊んだあの場所の線量が高かったかもしれないの」
※内部被ばく検査 警戒区域と緊急時避難準備区域、計画的避難区域、特定避難勧奨地点の住民のう
ち4歳以上を対象に6月から始まった。3歳以下の乳幼児は、行動を共にしていた保護者が対象。10
月31日現在、6608人が検査を受け、浪江町では2618人が受けた。また、甲状腺検査は10月
から始まり、3月11日時点で18歳以下だった全県民を対象にしている。
(2011/12/11 )
《2日間のエピソード》
エピソード1:NHK テレビクルーに遭遇
20日午前、「八重の墓」がある、白虎隊、飯盛山隣の「大龍寺」へ。すると、墓地に、カメラマン、音
声などの数人がおり、私が花を手に歩いていると、一人から声をかけられる。「八重さんへのお参りです
か?」。お彼岸だもの。単なる「観光」とは言いづらい。そして、事実、お寺の住職夫妻に今回のキャラ
バン参加者への「3・11話」をお願いしてあり、かつ、私の祖先の墓が10m 先にあり、そこへのお
参りも、のついで。すると、NHK の震災関連番組プロデューサーという彼、
「ここ3日間の会津祭りに、
綾瀬はるかが明日来て、シリーズの福島応援番組を制作中なんです。ぜひ、皆さんで八重さんのお墓に
詣でるところを撮影したい」。当初は、頑固爺が多いわがメンバー、拒否られるかと思いきや、すっかり
上機嫌で、全員、その気に。「テレビに出るなんて、これで冥土の土産が。」。住職夫人の名調子で、墓に
まつわる歴史話を聴き、時間オーバー。ホントは、3・11直後や現在のお寺の被災者・避難者支援の
話をして頂く予定だった。(2011年7月に訪問、大熊町からの避難家族らをお寺で3ヶ月寝泊り、な
どのお話を聴き、以後、私の支援活動の原点となった)。でも、ま、いいか。
エピソード2:歌謡「ふるさと浪江」が火種?
2012年秋に、今回訪問の「石神第1仮設」で教えてもらった「帰りたい。帰れない」悲しい名歌を、
その後訪問した宮城県も含む、浪江町以外の被災者・避難者へも、全ての仮設で披露してきた。そして、
今回、初めて、大熊町の2箇所で、自治会長より注文が相次いだ。まず、「河東学園仮設」では、「浪江
は、よその地域で、もう一歩、ピンとこない。大熊町にちなんだ地名や川、そして最後に「浪江」でな
く、「大熊」と歌詞を変えられないか?という。まあ、一回きり、なら、と正調のあと、「大熊ヴァージ
ョン」で歌う。いくつかで字余り。
そして、次の「扇町1号公園仮設」では、イベント開始前に、会長から、「この歌は悲しすぎるので、や
めてほしい。」。ほかの参加者からは、「故郷」も、泣けるので、歌から外して欲しい。そこで、集まった
参加者へ、「というわけで、この2曲は歌わない、ということで良いでしょうか?」。すると、何人かは、
「歌いたい」「聴きたい」。結果、演奏。すると、案の定、会長はじめ涙する方々。でも、終わってから、
「スミマセン。演奏して。」というと、会長は、
「大熊町の地名などの替え歌に反対したんだ。余りに生々
しい。でも浪江の歌、私も泣けたが、いいね。」。ホッとし、また、2012年秋、「ぜひ、全国47都道
府県に点在避難している浪江の皆さんに故郷の想いでつながりたい。ぜひ手伝って欲しい」という要望
を頂いたが、「これほど悲しい歌を浪江の皆さんに届けていいのだろうか?」と葛藤し、一度だけ試し、
その反応で今後の対応を決めよう、としたことも蘇った。そして、改めて、傷の深さを思い知った。最
後に訪問した発祥の地「石神第一」では、すでに歌い慣れ、「ふるさと浪江
踊り隊」の皆さんに大熊町
での話は、しなかった。
エピソード3:カッコイイ「新人」参加者
温泉宿で、早朝一時間半、露天風呂で雑談した数人の中で、唯一、今回初参加のスリムな「オジサン」。
風呂でのスリムな体形も、外見も、「カッコイイ」。聞けば、音楽業界で長く仕事をしてきた社長さん。
とても、70歳とは思えない。帰路、佐野 SA で晩飯を食べながら、聞いた。
「初の体験、如何でしたか?」。
すると、「音楽をビジネスとし、計算ずくの演奏などを心がけて来ました。でも、この2日間の観客へ与
えた感動や双方向のコミュニケーションなど、これこそが音楽の原点、と思い知らされました。とても、
素晴らしい企画。多分、また参加することになるでしょう。」。このような感想は、別な参加者 Noemi
Inoue さんも、「So amazing experience sharing with great people from Fukushika.^」と。